チェルノブイリの例 1/3 ( No.12 ) |
- 日時: 2014/05/13 09:04
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XMRmhfHI
- チェルノブイリ原発周辺住民の急性放射線障害に関する記録
ウラジーミル・ルパンディン
ロシア科学アカデミー・社会学研究所(ロシア)
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Lupan-j.html
1992年の3月と6月にわれわれは,1986年4月26日に事故を起こしたチェルノブイリ原発にほど近いベラルーシ共和国ゴメリ州ホイニキ地区の地区中央病院において,事故当時に作成された医療記録の調査を行なった.その結果,事故から数週間の間に記録された82件の放射線被曝例を発見したことは以前に報告した1.そのうち8件は急性放射線症と認められるものであった.われわれの報告は,ベラルーシ,米国,日本において関心を惹き起こした2,3.
しかしながら,それら1986年5月から6月にかけての医療記録を詳しく分析することは,事故直後のホイニキ地区における放射線状況や被曝量に関する情報がなかったり(また歪曲されたり)していたため困難であった.事故の規模を検討する上で最も基本的な情報である,事故直後の放射線状況に関するすべてのデータは,当時の慣例に従って,ソ連水理気象委員会によって秘密にされていた.ホイニキ地区のデータは(すべてのデータはミンスクの共和国記録局へ送られていた),ベラルーシの水理気象委員会によって秘密にされた.
1996年にわれわれは,ホイニキ地区の事故直後の放射線状況に関して信頼できる情報を得ることができた.ホイニキ地区の民間防衛隊の班長が個人的なメモとして保管していたデータである.その民間防衛隊のデータを,ホイニキ地区の衛生管理センターに別途保管されていたデータと照らし合わせてみると,よく一致することが判明した.
個人や地方レベルで得られたデータを否定するため,それらの測定は,よく訓練されていない人が信頼性の不確かな測定器を用いたものである,という指摘がしばしば行なわれる.しかし,今回われわれが得たデータにこのことは当てはまらない.
ホイニキ地区民間防衛隊の班長であるアレクサンドル・カユーダは,1983年まで原子力潜水艦に技師として勤務していた.彼の任務は,原子炉の保守に加えて,原子炉区画の放射線を測ることであった.1983年から彼は,ホイニキ地区民間防衛隊の班長をつとめていた.チェルノブイリ事故以前にも彼は,原発から10〜20q地域の放射線量の測定をDP-5(訳注・ガイガーカウンター式放射線測定器)で行なっていた.1985年6月には,ラージン村の近くで240〜250マイクロレントゲン/時という値を測定している(同じ測定器による潜水艦の原子炉区画の測定は40マイクロレントゲン/時程度であった).ラージン村の放射線量上昇の原因は,チェルノブイリ原発からの放射能洩れ以外に考えられない.
民間防衛隊のデータに基づくと,1986年4月26日と27日の段階ではホイニキ地区において,組織的な放射線測定は,軍隊も含め行なわれていない.民間防衛隊本部による最初の放射線測定が行なわれたのは4月28日午前8時であった.そのときの各居住区の放射線量は以下のようであった.
•ホイニキ市:8ミリレントゲン/時 •ストレリチェボ村:14ミリレントゲン/時 •ドゥロニキ村:30ミリレントゲン/時 •オレビチ村:89ミリレントゲン/時 •ボルシチェフカ村:120ミリレントゲン/時 •ラージン村:160ミリレントゲン/時 •ウラーシ村:300ミリレントゲン/時 •チェムコフ村:330ミリレントゲン/時 •マサニ村:500ミリレントゲン/時
4月28日夕方に開かれた地区の評議会で地区民間防衛隊は,住民の多くが数100レムにも及ぶ全身被曝をうける恐れがあるので,当時の住民に対する放射線防護の指針に照らして,地区住民の大部分を速やかに避難させるべきである,と報告した.ゴメリ州民間防衛隊本部長のジューコフスキー(エネルギー工学の技師)と,オブニンスク原発から駆けつけてきていた核物理学者たちが,地区民間防衛隊の意見を支持した.しかし,地区の行政責任者は,地区や州の民間防衛隊の要請を却下したのであった.
5月1日になって,周辺30q圏内の子供と妊婦の避難が開始され,5月5日には残りの住民の避難が始まった.結局,地区では5200人の住民が避難した.すべての避難住民は,地区中央病院で検査をうけたが,病院は5月5日から野戦病院として軍組織に組み込まれた.つまり,その日から地区中央病院では,セベロモルスク,セベロドゥビンスク,極東などからやってきた軍医や専門家たちが活動をはじめた.
野戦病院に入院させる基準は以下のとおりであった. •甲状腺からのガンマ線量が1000マイクロレントゲン/時以上, •上着,靴,皮膚および下着の汚染が100マイクロレントゲン/時以上, •ガンマ線に基づく体内の汚染(甲状腺,肝臓,腎臓,生殖器)が800〜1000m Ci.
これらの基準に従い,約1万2000人のホイニキ地区住民が野戦病院で入院検査をうけた(事故当時の地区の人口は3万2000人).
ホイニキ地区中央病院の記録保管室から(約1万2000件の)入院カルテが盗まれたのは,1990年の11月のことであった.盗難の後,記録保管室の整理はされず,われわれの調査によって,残されていたカルテが隣接建屋の屋根裏から見つかった.すでに述べたように,それらの中から,1986年5月1日から6月中旬にかけて放射能汚染地域から地区中央病院にやってきた,82件の放射線被曝例が見つかった.この82件という数字は,正体不明の犯人によるカルテ盗難の後に残されていた数であり,全体のごく一部分にすぎないであろう.そのうち22例は,隣のブラーギン地区住民であり,ここでの検討からは除外する.
軍野戦病院
病院から見つかった60例のカルテを検討する.カルテの記述はすべて,きわめて簡単である.このことは,当時の仕事量の膨大さと検閲への配慮をうかがわせる.とりわけ検閲が厳しかったことをうかがわせるのは,退院時に記入されている診断名である.放射線障害に関連する診断をわれわれは1件も見つけることができなかった.
しかしながら,放射能汚染地域から病院へやってきた理由を記した入院指令票の記述は検閲をうかがわせず,われわれの興味を惹くのは,カルテの中に残っていたその指令票の内容である.
入院指令票に記されていた入院理由は,たとえばつぎの通りである. 1.第2度急性放射線障害 2.甲状腺からの放射線レベル−10〜16ミリレントゲン/時 3.全身の衰弱,頭痛,腹痛,吐き気,おう吐,下肢のむくみ 4.汚染地域の幼児 5.放射線量上昇地域の滞在と血液検査値の変化(白血球数2500)のための検査入院 6.吐き気,おう吐,唾液分泌の増大,甲状腺からのガンマ線3000マイクロレントゲン/時以上 7.放射能汚染,甲状腺3000マイクロレントゲン/時以上 8.白血球減少:白血球数2300,頭痛 9.放射能汚染との結論で救護所から転送.甲状腺3ミリレントゲン/時以上,白血球数2900 10.事故時にチェルノブイリ原発から300mの地点に滞在,白血球数2900 11.放射能汚染,肝臓5〜10ミリレントゲン/時,甲状腺1.5ミリレントゲン/時 12.顔,手首の放射線火傷 13.放射線障害,鼻血
野戦病院へ送られてきた理由の記述とともに,患者の自覚症状についての記述も注目される.頭痛,急な衰弱,吐き気をともなう複合症状がもっとも多く,全体の患者の30%以上に達している.これは,自律神経失調症と呼ばれる症状である.つぎに多い複合症状は,おう吐,腹痛,めまい,食欲不振,心臓部の痛み,口内の乾きや苦みといった症状で,10%程度である.さらに,神経・循環系失調(自律神経失調+心臓部の痛み)といった症状が認められる(13%).
カルテに記されている患者の訴えを一覧にまとめると, •頭痛(30例),急な衰弱(29),おう吐(20),めまい(10),心臓部の痛み(8),吐き気(7),食欲不振(7),口の渇き・苦み(7),唾液分泌増加(3),関節痛(3),喉のがらがら(3),眠気(2),下痢(2),睡眠障害(2),右の肋骨下部(肝臓)の痛み(2).1例ずつ記録されているのはつぎの症状:高熱,便秘と排尿困難,行動の遅鈍,鼻血,出血,耳鳴,皮膚痒症,発汗,から咳.
患者たちが送られてきた居住区は以下の通りである.ホイニキ市,プリピャチ市,ボルシチェフカ村,オレビチ村,ウラーシ村・ポゴンノエ村,モロチキ村,カジュシキ村,ドゥロニキ村,フボシチェフカ村,チェムコフ村,ベリーキーボル村,ビソーカヤ村,ブドーブニク村,ノボセルキ村,ロマチ村,マレシェフ村,ノボパクロフカ村,クリビ村,アメリコフシチナ村,エラポフ村,プダコフ村,トゥリゴボチ村,ベレチン村,チェヒ村,ドゥボリシチェ村,ルドノエ村.
カルテの分析の結果,60例をつぎの3グループに分類した.
1.急性放射線症:8例
2.放射線被曝症状:20例
3.明瞭な臨床症状のない甲状腺からの高ガンマ線量例:32例
以下,急性放射線症と放射線被曝症状の個々の症例について紹介する.
(続く)
 |
|