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[2222] 続・当代世間騙し装置
日時: 2015/02/14 08:24
名前: 満天下有人 ID:QNV3UuGE

毎日変なノートンのマークが画面に出て、ウイルス恐怖を煽られる。ノートンの指示に従って掃除したら、ここ掲示板で新規スレッドを立てた時に入れたPWが消えてしまって、投稿文の訂正が出来なくなってしまった。

そこでPWを入れる為に、再度スレッドを立てて見ます。投稿記事は全て今日までの重複投稿ですのであしからず。

2月9日投稿分:生存本能の為に生き残ろうとするテクニックは、生物によって様々だ。

好きな番組であるNHKのダーウインが来た、を見るにつけ、何時もそう思う。

どのような生態系であっても、原理は太陽エネルギーと水によって生態系が構成されている大原則がある。そしてその土台の上にあって、その生態系はそれぞれに生存を維持する為に、エネルギーが不足して来ると他の生態系が有するエネルギーを奪う本能的な細胞を有している。

そしてその行為が各種生態系の生存のバランスを保つ効果を有している。大蟻の過剰発生を抑えてくれるのが、蟻喰いの存在であるとか、そのような相互天敵の存在が自然生存のバランスを保つという合理性で地球は成り立っている。別の生態系が過剰になると別の生態系が、それを潰しにかかる、という具合にだ。

中には潰されないように擬態を発揮する生態系もあれば、先に生存エネルギーを得る為に擬態で相手を待ち構えている生態系もある。枯葉と見分けがつかない虫や、サンゴかと見間違うタツノオトシゴなどが、前者の例だ。後者の代表例にはカマキリが居る。

何を言いたいのかと言うなれば、既に真意は見抜かれている(笑)、そう、人間社会における、特に政治経済における擬態は日常茶飯事である、ということだ。言い換えると人間社会における擬態とは、世間の騙し装置であるということだ。

この生態系が巣食っている領域が永田町であり、霞が関であり、より広い範囲での擬態は、抽象的概念としての自由、民主主義である。擬態に騙される側は、自らも殺されずに、そこそこに生かされて来たものだから、天敵が定かに見えず、だが、どうも昨今のおかしな状況は、天敵が少しのさばり過ぎてはいないか、との、何だか天敵が明確には見えないのだが、どうもおかしいと感付き始めた。

しかし、イスラム過激は悪だ、との風潮、それは一部イスラムとしても、このままではキリスト教圏天敵が、お互い天敵でも、バランスが取れる範囲を超えて来た以上、防御的攻撃を仕掛けねばならなくなった、そのようにも見える。むしろキリスト教圏天敵は、擬態で錯覚を起こさせ、イスラム圏生存のエネルギーを狙っていた、騙していたとつまりキリスト教圏はカマキリだと・・・・

攻撃的擬態どもには勝てない。一つはそれらを我々が保存し、ある意味、保護しているからだ。こちらは守備的擬態になれない。少々色を変えて擬態騙しをやっても、最初から見抜かれてしまっているから、どうしようもない。永田町や和美が関に仕掛けられて来る擬態、消費税増税に還付制度を設けるとか、日銀超金融緩和でトリクルダウンによって民衆も潤うとか、イスラムテロは許せないと言う擬態には、アメリカ従属という本色、その先に憲法改悪が隠されている。

擬態と言う騙し装置が強化されて来ている。いよいよ生存をかけた最終闘争が迫って来た。この生存競争は生態系が別の生態に対して為されるのではない。同じ人間なる生態系においてである。しかも同じ国の中においてである。擬態にはしょっちゅう騙されるのが生物の宿命ではあるが、しかしトンマな騙され方は良くない。弱い証拠だ。




メンテ

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閑話休題 ( No.195 )
日時: 2015/04/29 19:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:VLcrUn9Y

>須津彦神社の由来は不詳とありますが

どこかに書いてあるのでしょうが、由来を示す古文書もあり、私が、それをまとめたものの一部を紹介します。
スレッドの趣旨とは異なりますが、春の夜に悠久の昔を忍び、一時のくつろぎの為に掲載します。


須津彦神社由来記

現在の須津彦神社の正式の名称は下記になります。
延喜式内 阿(あ)知(ち)江(え)磯部(いそべ)神社
  須津彦大明神
  須津姫大明神
祭神  去来(いざ)穂別(ほわけ)天皇(履中(りちゅう)天皇)→須津彦大明神
久呂比売(くろひめの)命(みこと)(履中天皇の皇后)→須津姫大明神

平安時代(927年)に書かれた延喜式神名帳に丹後国の神社として大社7小社58の計65社が記載され、そのうちの与謝郡の小社として阿知江磯部神社の名が挙がっていて、それが須津彦神社と言われています(吾(われ)野(の)神社とも考えられています)
ですが、最近の宮津市・与謝郡神社要覧では、登録されている神社の数は169社ありますが、そこには須津彦神社は延喜式による小社としては挙げられていません。

ですが、別添の資料の丹後国式内社には延喜式神名帳の神社の阿(あ)知(ち)江(え)磯部(いそべ)神社ないし吾(われ)野(の)神社の論社として須津彦神社の名前が記載されています。
論社と言うのは、延喜式で規定した神社と同一のものとする複数の候補社がある場合に連記して記載されるものと言う事です。要するに後世、延喜式神名帳にある阿(あ)知(ち)江(え)磯部(いそべ)神社はこちらであると言う神社が現れたと言う事です。
その宮津市・与謝郡神社要覧によると、半分くらいは創建時が不詳となっていますが、創建時が推定されている神社の中では、古い物から5番目くらいに入っています。

後世書かれた須津彦神社の由来に関する資料では、その名称として常に須津彦神社と言う言葉が出てきますが、これは後世の人間が、便宜上言っている事で、創建時から須津と言う地名がついていたとは限りません。

阿知江とか及び吾野と言う名前は、同じものが各地にあり、土地を示すものではなく、神社の形式を言う様です。その名前の付け方が後世に於いて当該神社の名称の変更などもあり、対象神社との因果関係を曖昧なものにして行ったと思います。
延喜式神名帳に記載されていると言うことは、900年以前に創建されている事が条件であり、須津彦神社の創建は450年頃とされていて、須津彦神社以前に創建された神社の数が5社もないところから、また、他社に比べて、須津彦神社の創建に関する由来が比較的整っていることからも、それが確かであれば、延喜式神名帳に載っている小社は須津彦神社と考える事が出来るでしょう。

また、創建時の記述の中に、真鈴の宮と言う言葉は出てきますので、これから見ても、スズと言う発音は当時からあったのでしょう。
資料において須津村と言う言葉が出てくるのは、和銅6年(714年)であり、次の様に記されています。


(語り継がれている神社の由来)

当社は人皇21代穴(あな)穂(ほ)天皇(安康(あんこう)天皇の事 在位453〜456年)の御宇(ぎょう)、億計(おけのすめら)の命(みこと)(仁(にん)賢(けん)天皇 在位485〜487年)、弘計(をけのすめら)の命(みこと)(顕宗(けんぞう)天皇 在位488〜498年)、御兄弟、当国に於いて難を避け給い加佐郡大内山より与謝郡なる此里に移り給う

字東谷の傍ら小高き丘(東谷、のち御所の内と変名)に假宮を御造営あり、是を真鈴の宮と名づけ給いて、両命実に座ませし時、去来(いざ)穂別(ほわけ)天皇(履中(りちゅう)天皇 在位400〜405年)と久呂比売(くろひめの)命(みこと)(履中(りちゅう)天皇の皇后)と枯れ木の浦、王谷(その後、宮の谷と言う)の地に鎮め祭り給い、倉椅山、王下の地には速(はや)総(ふさ)別(わけの)王(おう)、女(め)鳥(とりの)王(おう)の祭祀置かれ給いしを、

後、大同2年(西暦807年)、是を吉里の地に遷して須津彦、須津姫と崇め奉るもの也と、嘉祥(かじょう)二年(849年)八月社殿再建の棟札に記しありしと伝う
尋くも皇帝皇子の御霊社にして延喜延長のころ(927年)式内、阿(あ)知(ち)江(え)磯部(いそべ)の神社となり恐れ多くも御軀は

古代より女神、男神の御木造にして年歴詳かならず 
是を仰けば愈々、其の御神徳猶高き事恰も泰山の如し正応(1288〜1299年)・嘉吉(1441〜1443年)の大洪水、大洪波と云え共 此の後神殿においては聊も変動なしと古人言い伝えうるを以って其の由来を略し慎んで之を記し中

元文ニ年丁巳八月日(西暦1737年)    藤原武斉槿書 

(註)
御宇(ぎょう)→時世の意味
阿知江磯部の磯は、正式には。山辺に石と書きます(文字転換不能)

(速(はや)総(ふさ)別(わけの)王(おう)、女(め)鳥(とりの)王(おう)の話し)

次には、現代風に柔らかに経緯を書いてみました。

仁徳天皇(在位313〜399年)には、四人の妻がいました。事件は五人目の妻になるようにと、女鳥王(天皇の異母妹)に求婚したことが発端でした。女鳥王は、大后の石之日売命(いわのひめのみこと)のせいで、妻となった姉・八田若郎女(やたのわかいらつめ)が不遇を強いられていることを知っていたので、きっぱり断るつもりでした。ところが、求婚のため仁徳天皇の使者としてやってきた速(はや)総(ふさ)別(わけの)王(おう)(仁徳天皇と共に応(おう)神(じん)天皇の皇子で仁徳天皇の異母弟)に、逆にプロポーズをしてしまったのです。このあと、仁徳天皇が直接、女鳥王の家まで来ますが、それに対し、女鳥王は「今織っているのは速総別王の衣です」と強気に断りました。それどころか、速総別王と仁徳天皇(大雀命(おおささぎのみこと))とを鳥にたとえて、「ハヤブサだったら、スズメなど捕まえなさいませ」などと、謀反をけしかけるような歌を詠みました。

これに怒った仁徳天皇は、軍隊を出動させます。二人がまず逃げたのは、倉椅山(くらはしやま、現在の桜井市音羽山)でした。速総別王は、女鳥王の手を取って危ない岩場を登るなど、女鳥王を守りながら逃げました。
二人は、音羽山(おとわやま)を越えて宇陀に入り、曽爾へと進みました。宇陀から伊勢へと抜けようとしたのですが、「宇陀之蘇邇(そに)」で追いつかれて、ついには殺されてしまいました。しかも、女鳥王に仕えていた山部大楯(やまべのおおたて)という人物の手によって殺されてしまいました。

室生田口には、速総別王が女鳥王を岩陰に隠して仁徳天皇の追手から逃れたという伝説があります。女鳥王が隠れたという岩は、姫隠し岩と呼ばれています。
また曽爾村今井には、横穴式石室墳で構成される楯岡山古墳群があります。1号墳が速総別王の墓、3号墳が女鳥王の墓とする伝承があります。古墳の年代と二人の生年とは少々、異なりますが、いつの頃か不遇な二人を偲んでこのような伝承が生まれるようになったのでしょう。
逃亡する途中、倉梯山で下記の歌を読んでいます。
梯立(はしたて)の 倉梯(くらはし)山を 嶮(さが)しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも

※ 時代は350年前後の事なのですが、億計・弘計の両皇子が、100年も後に、何故、速総別、女鳥を須津の倉梯山に祀ったのでしょうか。おそらく、後には天皇になったが、両皇子の当時の境遇と速総別、女鳥の話しを重ね合わせたのではないでしょうか。
また、歌に出てくる「梯立」と「倉梯山」の言葉ですが、この言葉は関連の歌にも良く出てきまして、由来に出てくる地方が須津の地を示すことを証明する要素となっているのではないかと思います。
尚、奈良の倉梯山と須津の倉梯山との関係ですが、須津の地の倉梯山を本来のものと解釈する記述も資料の中にあります。

※ ところで、この由来(語り継がれている神社の由来)自体が、さらに検証を必要とするものであることを、これから述べます。

(中略)

いずれにしても、この土地(丹後地方)が古くから朝廷とも結びついて発展していたことを物語っています。
その土地柄についても少し触れて置きましょう。
「あまのはしだて」の内海に流れ注ぐ野田川が遠い昔には想像以上に大きい歴史的役割をはたしていまして、流域には670余りの古墳があるとされています。このうちの霧が鼻古墳群と言うのは現在の宮津市字大谷に位置し、先に言いました須津彦神社の発祥の地、王谷と同じ発音をします。
この霧が鼻古墳は、弥生時代の遺物の出土もあり、弥生時代から古墳時代(紀元前300年から西暦600年)まで長期に渡る複合遺跡である事が判明しています。
遺跡と言いますと倉椅山についても触れねばなりません。
億計・弘計が丹波与佐の倉梯山にのがれてきたという、倉椅山は枯木浦の西にあり、ここにも多くの古墳があります。
また万葉集には、倉梯山を読んだ歌が残されています。
       五月雨くらはし山の杜鵑
           おほつかなくも鳴渡るなり
       白雲のたな引いたる倉椅の
          山の松とも君はしらすや      貫之
       霧はれぬくらはし山の秋風の
         音にや月を鳴き渡るらん       慈鎮
       倉椅の山のかひより春霞
          としをみつゝやなり渡るらん    朝忠
続古今集 
橋立の倉椅川にかる螢
          永き日くらし涼む頃かな      後鳥羽院
     
飛螢もへこそ渡れ橋立の
倉椅川のくらき波間に       頓阿法師

万葉集の成立年代は7世紀後半から8世紀後半なので、履中天皇の歿後、200年、奈良の都人が当地に思いを寄せた歌もかなりある様です。ここに出てくる倉椅川とは、野田川の事を言います。
この様な地理的背景、歴史的背景の中で須津彦神社が西暦456年から500年にかけて創建された事が推測できます。
創建時の須津彦神社の遺跡調査の記述は見当たりませんが、真鈴の宮については、次の様な記録があります。
慶長3年(1598年)、御幸山を刈木せし時、岩穴ありしを掘り見るに一の壷あり、中に玉石あり、此れを以って村社々内に納む。
と言う記録があり、宝物と伝えられている玉石は、此れではないかと思います。
これで、冒頭に掲げた、元文ニ年丁巳八月日(西暦1737年)の藤原武斉による由来記の検証を終わる事にします。
メンテ

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