[3495] タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』
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- 日時: 2022/05/15 06:33
- 名前: スメラ尊
ID:QhNEiVps
- タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』
動画(英語字幕) https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%98%D0%B2%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%BE+%D0%B4%D0%B5%D1%82%D1%81%D1%82%D0%B2%D0%BE&sp=mAEB
監督 アンドレイ・タルコフスキー 原作 ウラジミール・ボゴモーロフ 脚本 ウラジミール・ボゴモーロフ ミハイル・パパーワ 音楽 ヴァチェスラフ・オフチンニコフ 撮影 ワジーム・ユーソフ 公開 1962年4月6日 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%95%E3%81%AE%E6%9D%91%E3%81%AF%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F
キャスト
Ivan コーリヤ・ブルリヤーエフ Kholin V・ズブコフ Galystev E・ジャリコフ Katasonov S・クルイロフ Gryaznov N. Grinyko Maska V. Maryavina Ivan's Mother I. Tarkovskaya The Oldman D. Milyucheko
映画のストーリー
イワン(コーリヤ・ブルリヤーエフ)がいまも夢にみた美しい故郷の村は戦火に踏みにじられ、母親は行方不明、国境警備隊員だった父親も戦死してしまった。
一人とり残された十二歳のイワンが、危険を冒して敵陣に潜入し少年斥候として友軍に協力しているのも、自分の肉親を奪ったナチ・ドイツ軍への憎悪からであった。
司令部のグリヤズノフ中佐、ホーリン大尉、古参兵のカタソーノフの三人が、イワンのいわば親代りだ。グリヤズノフ達はイワンをこれ以上危険な仕事に就かせておくことはできない……これが、少年を愛する大人たちの結論だった。しかし、イワンはそれを聞くと頑として幼年学校行きを拒否した。憎い敵を撃滅して戦いに勝たねば……やむなくイワンをガリツェフ(E・ジャリコフ)の隊におくことにした。
ドイツ軍に対する総攻撃は準備されていたがそのためには、対岸の情勢を探ることが絶対必要であった。出発の日、カタソーノフはざん壕から身をのり出し敵弾に倒れてしまった。執拗に彼の不在の理由をきくイワンにはその死は固く秘されホーリン、ガリツェフの三人は小舟で闇の中を対岸へ。
二人が少年と別れる時がきた。再会を約して少年は死の危険地帯の中に勇躍、進んで行く。その小さな後姿がイワンの最後だった。終戦。ソビエトは勝った。が、そのためには何と大きな犠牲を払われねばならなかったか……。
かつてのナチの司令部。見るかげもなく破壊された建物の中に、ソビエト軍捕虜の処刑記録が残っていた。その記録を一枚一枚調べるガリツェフ。あった。イワンの写真が貼りつけられた記録カードが。戦争さえなかったらイワンには平和な村の毎日だった筈なのに……。 https://movie.walkerplus.com/mv13198/
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僕の村は戦場だった
噂には聞いていましたが、これほどまでの傑作とは思いませんでした。すばらしい映画でした。
タルコフスキーならではの詩的な映像と、独ソ戦争の悲劇を現実的にとらえた対照的な映像が見事にコラボレートして、一歩間違うとおとぎ話のような陶酔感の中で迎える衝撃的なラストにうなってしまいました。
一人の半裸の少年が森にたたずんでいます。
蝶が舞い、その蝶を視線が追いかけるとカメラが蝶の視線のごとくふわっと舞い上がります。
ショットは変わって少年の前に一人の母親らしき女性。
うれしそうに駆け寄る少年。
次の瞬間、ぼろ小屋で飛び起きる少年。
実はこの少年はソ連側からドイツに潜入して情報を探るゲリラ兵なのです。ショッキングなオープニングに一気に引き込まれます。
湿地の中を必死で駆け抜けてソ連領に舞い戻ったところから本編が始まります。
戦場の場面がリアルに生々しく語られる現実と、少年が夢見るときにみる平和な頃の詩情あふれる映像の対比が実に効果的で、本当に美しい。
湿地の中を進む場面で水面に映る照明弾の光の動きの中で船をこいでいくショット、
少年が夢の中でみる母親が井戸の外で倒れたところに降りかかる井戸水のショット、
あるいは少年が愛らしい少女とリンゴを積んだトラックに乗っていく中で、リンゴが道にこぼれだし、馬が拾い食いするショット
などタルコフスキーならではのファンタジックな映像もふんだんに盛り込まれています。
すでに両親の行方もわからない少年イワンの親代わりは戦場の3人の兵士たちだった。そして、冒頭のゲリラ斥候を終えたイワンにその兵士は幼年学校へ行くように勧める。
しかし、それに反対し、再度斥候にでる。無事ソ連領に送り届けた兵士たち、しかしまもなく戦争は終結。
ドイツの収容所を制圧した兵士たちがそこでみたのはドイツ軍が捕まえたソ連からの斥候たちの処刑のリストファイルだった、そしてそこにはイワンの名が・・・・
処刑される寸前に見たであろうイワンの幻想は愛くるしい少女と一緒に浜辺を駆け抜ける場面でした。
タルコフスキーならではの映像美の世界とサスペンス色あふれるストーリー展開、そして悲劇的なラストに見せる切ない現実への警告。完成度の高い見事な作品でした。 http://d.hatena.ne.jp/kurawan/20100510
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19 :無名画座@リバイバル上映中:2006/02/25(土) 18:52:48 ID:nrY8uN4r
原作は「イワンの少年時代」というタイトルですよね。
でも何だか皮肉な題だなあ。少年時代を少年のまま過ごすことも叶わず、 戦争によって踏みにじられ、大人にならざるをえなかったイワン。
回想シーンがあどけない笑顔を浮かべてたのに、現実のシーンでは微笑を忘れた 一切感情を押し殺した表情をしてたのが余計に哀しい。
25 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 10:25:13 ID:za8+WElc もし、記憶違いなら悪いけど少年のお母さんが腋毛生やしてたような・・・
26 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 14:54:33 ID:pWzQBXUM おっ、いいところに目をつけましたね。なかなか目ざといですな。 あのお母さんはどうも色っぽすぎていかんです、ハイ。
28 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 21:33:09 ID:BSZv+BGP いや、ほんとに。 少年の回想シーンとは思えないほど肉感的ですね。
『鏡』を観ててもそう思うんですが、
どうもタルコフスキーにとって母親というのは そういう肉感的な存在としてイメージされるみたいです。
29 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/10(金) 21:02:41 ID:G7Eo1+60
母親役はイリーナ・タルコフスカヤ。
30 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/11(土) 13:38:57 ID:UEITlvEh
おそらくイリーナ・タルコフスカヤさんは監督の最初の奥さんではないかと。 (同姓同名でなければ、イリーナという奥さんがいたはず)
38 :無名画座@リバイバル上映中:2006/05/12(金) 17:13:15 ID:9534X0Wy 浜辺で母が手を振って立ち去ろうとするところ恐いぐらい。
48 :無名画座@リバイバル上映中:2006/09/03(日) 23:38:29 ID:VbWH5bGO ラストの水はすごかった http://mimizun.com/log/2ch/kinema/1139048950/
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アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。
父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。
両親はモスクワの文学大学に学ぶ。
タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。
ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。
しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。
一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。
アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。
1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。
戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。
一家は、1943年にモスクワに戻った。
そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。
戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。
死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか?
しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。
息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。
芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。
音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。
1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。
これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。
1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。
タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。
この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。
後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。
こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。
彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。
大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。
タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。
映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。
『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。
伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。
それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。
しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。 ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html

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