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[3495] タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』
日時: 2022/05/15 06:33
名前: スメラ尊 ID:QhNEiVps

タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』

動画(英語字幕)
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%98%D0%B2%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%BE+%D0%B4%D0%B5%D1%82%D1%81%D1%82%D0%B2%D0%BE&sp=mAEB


監督 アンドレイ・タルコフスキー
原作 ウラジミール・ボゴモーロフ
脚本 ウラジミール・ボゴモーロフ ミハイル・パパーワ
音楽 ヴァチェスラフ・オフチンニコフ
撮影 ワジーム・ユーソフ
公開 1962年4月6日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%95%E3%81%AE%E6%9D%91%E3%81%AF%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F

キャスト

Ivan コーリヤ・ブルリヤーエフ
Kholin V・ズブコフ
Galystev E・ジャリコフ
Katasonov S・クルイロフ
Gryaznov N. Grinyko
Maska V. Maryavina
Ivan's Mother I. Tarkovskaya
The Oldman D. Milyucheko


映画のストーリー

イワン(コーリヤ・ブルリヤーエフ)がいまも夢にみた美しい故郷の村は戦火に踏みにじられ、母親は行方不明、国境警備隊員だった父親も戦死してしまった。

一人とり残された十二歳のイワンが、危険を冒して敵陣に潜入し少年斥候として友軍に協力しているのも、自分の肉親を奪ったナチ・ドイツ軍への憎悪からであった。

司令部のグリヤズノフ中佐、ホーリン大尉、古参兵のカタソーノフの三人が、イワンのいわば親代りだ。グリヤズノフ達はイワンをこれ以上危険な仕事に就かせておくことはできない……これが、少年を愛する大人たちの結論だった。しかし、イワンはそれを聞くと頑として幼年学校行きを拒否した。憎い敵を撃滅して戦いに勝たねば……やむなくイワンをガリツェフ(E・ジャリコフ)の隊におくことにした。

ドイツ軍に対する総攻撃は準備されていたがそのためには、対岸の情勢を探ることが絶対必要であった。出発の日、カタソーノフはざん壕から身をのり出し敵弾に倒れてしまった。執拗に彼の不在の理由をきくイワンにはその死は固く秘されホーリン、ガリツェフの三人は小舟で闇の中を対岸へ。

二人が少年と別れる時がきた。再会を約して少年は死の危険地帯の中に勇躍、進んで行く。その小さな後姿がイワンの最後だった。終戦。ソビエトは勝った。が、そのためには何と大きな犠牲を払われねばならなかったか……。

かつてのナチの司令部。見るかげもなく破壊された建物の中に、ソビエト軍捕虜の処刑記録が残っていた。その記録を一枚一枚調べるガリツェフ。あった。イワンの写真が貼りつけられた記録カードが。戦争さえなかったらイワンには平和な村の毎日だった筈なのに……。
https://movie.walkerplus.com/mv13198/

 
▲△▽▼

僕の村は戦場だった

噂には聞いていましたが、これほどまでの傑作とは思いませんでした。すばらしい映画でした。

タルコフスキーならではの詩的な映像と、独ソ戦争の悲劇を現実的にとらえた対照的な映像が見事にコラボレートして、一歩間違うとおとぎ話のような陶酔感の中で迎える衝撃的なラストにうなってしまいました。


一人の半裸の少年が森にたたずんでいます。

蝶が舞い、その蝶を視線が追いかけるとカメラが蝶の視線のごとくふわっと舞い上がります。

ショットは変わって少年の前に一人の母親らしき女性。

うれしそうに駆け寄る少年。

次の瞬間、ぼろ小屋で飛び起きる少年。

実はこの少年はソ連側からドイツに潜入して情報を探るゲリラ兵なのです。ショッキングなオープニングに一気に引き込まれます。


湿地の中を必死で駆け抜けてソ連領に舞い戻ったところから本編が始まります。


戦場の場面がリアルに生々しく語られる現実と、少年が夢見るときにみる平和な頃の詩情あふれる映像の対比が実に効果的で、本当に美しい。

湿地の中を進む場面で水面に映る照明弾の光の動きの中で船をこいでいくショット、

少年が夢の中でみる母親が井戸の外で倒れたところに降りかかる井戸水のショット、

あるいは少年が愛らしい少女とリンゴを積んだトラックに乗っていく中で、リンゴが道にこぼれだし、馬が拾い食いするショット

などタルコフスキーならではのファンタジックな映像もふんだんに盛り込まれています。


すでに両親の行方もわからない少年イワンの親代わりは戦場の3人の兵士たちだった。そして、冒頭のゲリラ斥候を終えたイワンにその兵士は幼年学校へ行くように勧める。

しかし、それに反対し、再度斥候にでる。無事ソ連領に送り届けた兵士たち、しかしまもなく戦争は終結。

ドイツの収容所を制圧した兵士たちがそこでみたのはドイツ軍が捕まえたソ連からの斥候たちの処刑のリストファイルだった、そしてそこにはイワンの名が・・・・


処刑される寸前に見たであろうイワンの幻想は愛くるしい少女と一緒に浜辺を駆け抜ける場面でした。

タルコフスキーならではの映像美の世界とサスペンス色あふれるストーリー展開、そして悲劇的なラストに見せる切ない現実への警告。完成度の高い見事な作品でした。
http://d.hatena.ne.jp/kurawan/20100510


▲△▽▼

19 :無名画座@リバイバル上映中:2006/02/25(土) 18:52:48 ID:nrY8uN4r

原作は「イワンの少年時代」というタイトルですよね。

でも何だか皮肉な題だなあ。少年時代を少年のまま過ごすことも叶わず、
戦争によって踏みにじられ、大人にならざるをえなかったイワン。

回想シーンがあどけない笑顔を浮かべてたのに、現実のシーンでは微笑を忘れた
一切感情を押し殺した表情をしてたのが余計に哀しい。


25 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 10:25:13 ID:za8+WElc
もし、記憶違いなら悪いけど少年のお母さんが腋毛生やしてたような・・・


26 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 14:54:33 ID:pWzQBXUM
おっ、いいところに目をつけましたね。なかなか目ざといですな。
あのお母さんはどうも色っぽすぎていかんです、ハイ。

28 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 21:33:09 ID:BSZv+BGP
いや、ほんとに。
少年の回想シーンとは思えないほど肉感的ですね。


『鏡』を観ててもそう思うんですが、

どうもタルコフスキーにとって母親というのは
そういう肉感的な存在としてイメージされるみたいです。


29 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/10(金) 21:02:41 ID:G7Eo1+60

母親役はイリーナ・タルコフスカヤ。


30 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/11(土) 13:38:57 ID:UEITlvEh

おそらくイリーナ・タルコフスカヤさんは監督の最初の奥さんではないかと。
(同姓同名でなければ、イリーナという奥さんがいたはず)


38 :無名画座@リバイバル上映中:2006/05/12(金) 17:13:15 ID:9534X0Wy
浜辺で母が手を振って立ち去ろうとするところ恐いぐらい。


48 :無名画座@リバイバル上映中:2006/09/03(日) 23:38:29 ID:VbWH5bGO
ラストの水はすごかった
http://mimizun.com/log/2ch/kinema/1139048950/


▲△▽▼


アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。

父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。


『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html
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アンドレイ・ タルコフスキー(1932年4月4日 - 1986年12月29日) ( No.8 )
日時: 2022/05/18 13:48
名前: スメラ尊 ID:HreHUpPo

アンドレイ・ タルコフスキー(1932年4月4日 - 1986年12月29日)

アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。

父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。


『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。

ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html

@僕の村は戦場だった

ttp://www.youtube.com/watch?v=OkzTfa6_9nQ
ttp://www.youtube.com/watch?v=RBhA5vkxW4k&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=raeSygQ6Gvw&feature=related

ttp://www.youtube.com/watch?v=BJ80Mh-G5is&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=FER7x80Vz9A&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=kFwsh6YJJdA&feature=related

ttp://www.youtube.com/watch?v=qarrhSAWXq8&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=-nGkfGYTxMk&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=dTamjSg8qUI&feature=related

ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/B000ECY5LO/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=B00005G0YV&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=0J9MPDJD7EKD9T6K8SX6

噂には聞いていましたが、これほどまでの傑作とは思いませんでした。すばらしい映画でした。

タルコフスキーならではの詩的な映像と、独ソ戦争の悲劇を現実的にとらえた対照的な映像が見事にコラボレートして、一歩間違うとおとぎ話のような陶酔感の中で迎える衝撃的なラストにうなってしまいました。


一人の半裸の少年が森にたたずんでいます。

蝶が舞い、その蝶を視線が追いかけるとカメラが蝶の視線のごとくふわっと舞い上がります。

ショットは変わって少年の前に一人の母親らしき女性。

うれしそうに駆け寄る少年。

次の瞬間、ぼろ小屋で飛び起きる少年。

実はこの少年はソ連側からドイツに潜入して情報を探るゲリラ兵なのです。ショッキングなオープニングに一気に引き込まれます。


湿地の中を必死で駆け抜けてソ連領に舞い戻ったところから本編が始まります。


戦場の場面がリアルに生々しく語られる現実と、少年が夢見るときにみる平和な頃の詩情あふれる映像の対比が実に効果的で、本当に美しい。

湿地の中を進む場面で水面に映る照明弾の光の動きの中で船をこいでいくショット、

少年が夢の中でみる母親が井戸の外で倒れたところに降りかかる井戸水のショット、

あるいは少年が愛らしい少女とリンゴを積んだトラックに乗っていく中で、リンゴが道にこぼれだし、馬が拾い食いするショット

などタルコフスキーならではのファンタジックな映像もふんだんに盛り込まれています。

すでに両親の行方もわからない少年イワンの親代わりは戦場の3人の兵士たちだった。そして、冒頭のゲリラ斥候を終えたイワンにその兵士は幼年学校へ行くように勧める。

しかし、それに反対し、再度斥候にでる。無事ソ連領に送り届けた兵士たち、しかしまもなく戦争は終結。

ドイツの収容所を制圧した兵士たちがそこでみたのはドイツ軍が捕まえたソ連からの斥候たちの処刑のリストファイルだった、そしてそこにはイワンの名が・・・・


処刑される寸前に見たであろうイワンの幻想は愛くるしい少女と一緒に浜辺を駆け抜ける場面でした。

タルコフスキーならではの映像美の世界とサスペンス色あふれるストーリー展開、そして悲劇的なラストに見せる切ない現実への警告。完成度の高い見事な作品でした。
ttp://d.hatena.ne.jp/kurawan/20100510


19 :無名画座@リバイバル上映中:2006/02/25(土) 18:52:48 ID:nrY8uN4r

原作は「イワンの少年時代」というタイトルですよね。

でも何だか皮肉な題だなあ。少年時代を少年のまま過ごすことも叶わず、
戦争によって踏みにじられ、大人にならざるをえなかったイワン。

回想シーンがあどけない笑顔を浮かべてたのに、現実のシーンでは微笑を忘れた
一切感情を押し殺した表情をしてたのが余計に哀しい。

25 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 10:25:13 ID:za8+WElc
もし、記憶違いなら悪いけど少年のお母さんが腋毛生やしてたような・・・

26 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 14:54:33 ID:pWzQBXUM
おっ、いいところに目をつけましたね。なかなか目ざといですな。
あのお母さんはどうも色っぽすぎていかんです、ハイ。



28 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 21:33:09 ID:BSZv+BGP
いや、ほんとに。
少年の回想シーンとは思えないほど肉感的ですね。


『鏡』を観ててもそう思うんですが、

どうもタルコフスキーにとって母親というのは
そういう肉感的な存在としてイメージされるみたいです。

29 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/10(金) 21:02:41 ID:G7Eo1+60

母親役はイリーナ・タルコフスカヤ。

30 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/11(土) 13:38:57 ID:UEITlvEh

おそらくイリーナ・タルコフスカヤさんは監督の最初の奥さんではないかと。
(同姓同名でなければ、イリーナという奥さんがいたはず)

38 :無名画座@リバイバル上映中:2006/05/12(金) 17:13:15 ID:9534X0Wy
浜辺で母が手を振って立ち去ろうとするところ恐いぐらい。

48 :無名画座@リバイバル上映中:2006/09/03(日) 23:38:29 ID:VbWH5bGO
ラストの水はすごかった
ttp://mimizun.com/log/2ch/kinema/1139048950/

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A アンドレイ・タルコフスキー 鏡 (ЗЕРКАЛО) 制作 75年 ソ連

ttp://www.youtube.com/watch?v=Ka6hX8OJrEs&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=Ox10yhzcfAI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=s380-CKcsgs&feature=related

ttp://www.youtube.com/watch?v=QW2XI4qhDDU&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=_bw19Bh_fRw&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=0EEbDorbPDE&feature=related

ttp://www.youtube.com/watch?v=bLBIPnkeo84&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=S_o289djWXI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=iv_OyCfGLqQ&feature=related

ttp://www.youtube.com/watch?v=ONX7TeIUQHE&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=--6OR08C3Ek&feature=related


ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/B0002B575A/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=B00005G0Z2&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=1S6BEJVRJMZZGGXRREH0


「魂の映像詩人〜タルコフスキー」

「僕のみる夢は、いつも同じだ。

僕が40数年前に生れた祖父の家、それが必ず再現される。懐かしい場所だ。

そして白いテーブル・クロスの食卓がある。

家に入ろうとして入れない・・・、そんな夢を何度か見た。

薄汚れた丸太の壁やよく閉まらない扉などを見て、夢だなと思うことがある。

そういう時には妙に物悲しく、目覚めたくないと思ったりする。

時に何事か起きて、あの家も、周囲の林も夢に見なくなる

夢に現れないと、僕は淋しくなる。夢を待ち焦がれるようになる。

夢の中で僕は子供にかえり、幸せを感じるのだ。まだ若いからだろうか?」


『鏡』は、タルコフスキーの作品のなかで最も難解な作品かもしれない。

なぜなら、この作品に貫かれているのは監督の内省的な自伝的要素の強い作品になっているからだ。自分の内面を見つめることさえ難しいのに、人の内面に入るのは困難なことである。

物語は父と別れた母への思いと、同じように妻と子供たちと別れてしまった『私』の回想と夢で綴られる。

母が印刷工場で誤植かもしれないと大騒ぎした日に、同僚のエリザヴェータから身勝手だと責められる。

そして、主人公も妻から「あなたは自信過剰よ。自分が存在するだけで、家族は幸せになると思っている」と母に似たような非難をされる。

自己の存在があっての世界。自己の存在があっての他者。

そうした人と人の繋がりの感情の襞が、この作品では鏡を通して語られる。

作品の冒頭近く、風に揺らぐ草原の中を通りすがりの医者が母に語りかける。

「・・・ごらんなさい。自然も素晴らしい。草も木も感じたり、認識したり、理解するのです。・・・

われわれは走り回り、くだらんおしゃべりをする。自分の中にある自然を信じないからですよ。

世俗のことばかり忙しくて・・・」と。

内なる自然、それは『神』と同義語ではなかろうか。

人間としての良心。善悪や恥に対する認識。

『惑星ソラリス』でもそれらは同じように語られる。そして、スナウトに「人間に必要なのは鏡だ」と語らせている。

自己を見つめるための『鏡』、
自己の内面を時間と空間を飛び越えて映し出す『鏡』。

鏡に映った自己は虚像ではあっても、その内面の多くを物語ってくれる。そして、それは実像なのである。


スターリン政権下、誤植は命とりだったのである。

そのため奔走した母。それを攻める同僚。
観ているものには理不尽さを感じないではいられない。

それは、時代のゆがみの現れ、タルコフスキーのソ連政権に対する不信感の現われだったにちがいない。


ともあれ、この作品は言葉で表し難い。それは冒頭述べたとおりである。

しかし、タルコフスキー特有の映像。この映像を見ているだけで至福のひと時を感じてしまう。

また、感情の奥襞を言葉のやり取りでさらけ出していく手法はベルイマンを、夢のシーン、特に母がベッドから浮き上がるシーンや家の壁が崩れ落ちるシーンにはブニュエルの影響が認められる。


そして、作品の随所に現れる『水』と『火』のイメージは、次作 『ストーカー』を経て『ノスタルジア』で頂点に達する。

≪父の詩≫

「私は予感を信じない 

前兆を認めない 

中傷も毒も恐れない 

この世に死は存在しないのだ 

すべては不死だ 

すべては不滅で17歳でも70歳でも死を恐れる必要はない 

ただ現実と光あるのみ 

この世に闇もなく、死もない 

我々はみな海辺に出る 

不滅の海の広がり
 
我々は力をあわせて綱を引く
 
家というものも永遠だ 

私は好きなときに呼び戻し 

その時代に生き 家を建てる・・・

それゆえに今 我々は妻や子と祖父や孫と一つテーブルにいる 

もし私が手を挙げれば 未来もここに現れる 

光も永久に残るだろう
 
過ぎ去った日々を私は肩に積み重ねて 深い時の森を抜けてきた 

私は自らこの世紀を選ぶ・・・」


鏡《ストーリー》


私の夢に現われる母・マリア。

それは、40数年前に私が生まれた祖父の家。

うっそうと茂る立木に囲まれた家の前で、母・マリア(マルガリータ・テレホワ)はいつものようにもの思いに耽つていた。

一面の草原にたたずむ彼女に行きずりの医者が声をかけるが、彼女は相手にしない。


母は、たらいに水を入れ髪を洗っている。
鏡に映った、水にしたたる母の長い髪が揺れている。


息子≪私の少年時代≫・イグナートが家の中にいると、外では干し草置場が火事だと母が知らせに来た。

1935年のことだった。その年、父は家を出ていった。

私は突然の母からの電話で夢から覚め、エリザヴェータが死んだ事を知らされた。
彼女は、母がセルポフカ印刷所で働いていた頃の同僚だった。

私は母に、母の夢をみていたことを知らせる。

両親と同様、私も妻ナタリアと別れた。

妻は、私が自信過剰で人と折り合いが悪いと非難し、息子イグナートも渡さないと頑張っている。

妻のもとにいるイグナートのことは、同じような境遇にあった自らの幼い日を思い出させる。

赤毛の、唇がいつも乾いて荒れていた初恋の女の子のこと。

同級生達と受けた軍事教練のこと。それは戦争と、そして戦後の苦難の時代でもあった。

そして、哀れだった母のこと。

大戦中、疎開先のユリヴェツにいた時、母に連れられて遠方の祖父の知人を訪ねて、宝石を売りに行き、肩身のせまい想いをした時のことなど、彼にとって脳裏に鮮かに焼きついている幼い頃のことが思い出される。


母の負担になったかもしれない自分の少年の日々のことを思うと、私の胸は疾く。

イグナートが同じ境遇をたどっているのかも知れないと思うと、さらに私を苦しめる…


そして、夕暮時、母が遠くで見守るなか、広い草原を子供たちが年老いた母につれられて歩いて行く。
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アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー


―1985年3月、ストックホルム― 『鏡』に関して


Q. 『鏡』であなたはご自身の生い立ちを提示されました。どのような鏡をあなたは使われたのですか。


その鏡は、スタンダールの鏡のように、道中をたどる鏡ですか。それとも、その中に自分自身を発見し、それまで知らなかった自分自身について何かを学ぶことになった鏡ですか。

言い換えますと、この作品はリアリスティックな作品ですか、それとも、主観的な自動創造なのですか。あるいはもしかすると、壊れた鏡の破片を集めて、映画的なイメージの枠内に収めて、完全な総体を構成する試みなのでしょうか。


映画というものは、部分を集めて一個の総体にする可能性をいつも創造してくれます。

映画は結局、モザイクのように、切り離されたショットから構成されています。

色彩とテクスチャーの異なる個々の断片で構成されています。

ですから、断片の一つ一つはそれ自体では、無意味かもしれません。またそう見えることでしょう。

しかしその総体の中に収まると、断片が絶対に必要なエレメントになるのです。

個々の断片はその総体の枠内でしか存在しません。だから映画は、私にとって最終的な結果を見る目で考えぬかれていない、いかなる断片もフィルムに存在しない、存在し得ないという意味で、重要なのです。

個々の断片のひとつひとつは、まったき総体によって共通の意味にいわば彩色されているのです。

言い換えると、断片は自立した象徴として機能せず、ある独自の、唯一無二の世界の一部としてだけ存在するのです。

そういうわけで、『鏡』はある意味で私の理論的な映画観に最も近いものです。


ご質問は、どのような種類の鏡なのか、でしたね。

ええ、まず第一に、この映画は創作されたエピソードをまったく含まない私自身の脚本に基づいています。

エピソードのすべてが実際に私の家族の歴史のものです。そのすべてです。例外はありません。

唯一創作されたエピソードは、ナレーター、作者の病気です。

作者はスクリーンに映りません。


ところで、この非常に興味深いエピソードは、作者の精神的な危機、彼の魂の状態を伝えるために、必要だったのです。


ひょっとすると、彼は命に関わる病気なのです。

ひょっとするとそれが映画を作り上げるさまざまな回想を生み出す理由なのです。
死ぬ間際に人生の最も重要な瞬間の数々を思い出す人のようにです。

ですから、これは作者が自分の記憶に加えた単純な暴力ではありませんー私は私が欲するものだけを覚えているのですーそんなものではありません、これらは臨終の時の男の回想なのです。

自分の思い出すエピソードを良心の秤にかけているのです。

このように、唯一創作されたエピソードは、他の完全に真実である回想に必要な先行条件になったのです。


この種の創造、このように自分自身の世界を創造することがこの真実かどうか、そうお訊ねなのですね。

ええ、もちろん真実ですが、私の記憶に反射したものとしての真実です。

例えば、撮影に使われた私の子ども時代の家を考えてみましょう。

映画であなたが目にする家です。あれはセットです。

つまり、あの家は昔、私の家が建っていた全く同じ場所にもう一度建てられたのです。

あそこに残っていたものは、基礎すらなかった、かつてそこにあった穴ひとつでした。

まさにその場所に家がもう一度建てられたのです。写真から再建したのです。

これは私にはきわめて大切なことでした。

私が何らかの自然主義者になりたかったからではありません。

そうではなく、映画の内実に対する私の個人的な姿勢の総体がそれにかかっていたからです。

もし家が別物に見えたなら、それは私にとって個人的なドラマになったことでしょう。

もちろんこの場所で樹木はずいぶん生い茂りました。すべてが生え放題で、ずいぶん切り倒さねばなりませんでした。

しかし、私がママをあそこに連れて行くと、ママはいくつかのシークェンスに出ていますから、彼女はあの風景にひどく心を動かされたので、私は正しい印象が創造されたのだとすぐに分かりました。


こう思うでしょうね。なぜまた、過去を念入りに再構築することが必要だったのか、と。

それもまた、ただの過去でなく、私が覚えていること、そしてそれを私がどのように覚えているか、それを再現することが必要だったのか。

私は、いわば、内的で主観的な記憶のために特定の形式を探求しようとしたのではありません。

私は昔のままにすべてを復元しようと努めました。

つまり、私の記憶に固定されたものを文字どおり繰り返そうと努めました。
その結果は非常に不思議なものでした。私には何とも奇妙な経験でした。

観客の興味を引くために、関心を引きつけるために、観客に何かを説明するために、構成されたり創作されたエピソードは何ひとつない映画を私は作りました。


エピソードのすべてが、まさしく私の家族に関する、私の生い立ちの、私の人生の回想だったのです。

そして、それが実は非常にプライベートな物語であるという事実にもかかわらずーもしかすると、まさにそのためにー私は後でたくさんの手紙を受け取りました。

映画を見た人たちは「どうやってあなたは私の人生で起きたことが分かったのか」と訊いてきたのです。

これは非常に重要です、ある内的な意味で、非常に重要です。

これはどういう意味なのでしょう。

これは、道徳的で精神的な意味で非常に重要な事実であると私は言いたいのです。

なぜなら誰かが自分の真実の感情を芸術作品で表出するなら、それは他者にとって秘密のままであることはありえないからです。

もし監督や作家が嘘をついているなら、ものごとを人工的に作り上げているなら、彼の作品は完全に-

Q. 「洗練の極み」


そう。イタリアでは、cervellotico, troppo cervellotico と言う。

「人工的に、よく工夫されている」という意味です。

そんな仕事は誰の心も動かさない。

だから、作家と聴衆の間の相互理解は、それがなければ芸術作品は存在しないのですが、創造する者が誠実であるときにのみ可能なのです。

しかし誠実な作家が自動的に傑出した作品を生むという意味ではないですよ。

能力と才能が基本的な予備条件なのは確かです。

ただし、芸術家の誠実さが欠けていたら、真の芸術的創造は不可能です。

本当のことを言えば、何らかの内的な真実を言えば、必ず理解が得られると私は信じています。

お分かりになりますか。提示された問題がきわめて複雑でも、イメージのシークェンスが、作品の形式構造がきわめて複雑でも、創造者にとって根本的な問題はいつも誠実さなのです。

構造の点で、『鏡』は私の映画で全般的にもっとも複雑なものです?構造としてです。

個々に考えられた断片としてではなく、まさしく一つの構造としてです。
そのドラマツルギーはなみはずれて複雑で、内転したものです。


Q. 夢や追憶の構造に似ていますね。結局これは普通の省察ではありませんね。


ええ、これは普通の省察ではありません。そこには、そういう込み入ったものがたくさんあります。

自分でもよく理解できないものもあります。

例えば、母に出演してもらうというのが私にはとても重要でした

映画にイグナーツ少年が座っているエピソードがあります-イグナーツじゃない-何て名前だったけ?

 作者の息子、彼がだれもいない父親の部屋で座っている。これは現在です、今現在です。

この少年は語り手の息子です。その少年は作者の息子と、少年時代の作者自身の両方を演じています。

で、彼がそこにいるとき、ドアベルが鳴ります。

彼がドアを開けると、女の人が入って来て、「あら、家を間違えたようね」と言います。

家を間違えたのです。これが私の母です。

で、彼女はドアを開けるこの少年の祖母です。

しかしなぜ彼女は彼が孫だと分からないのでしょう。なぜ孫は祖母が分からないのでしょう。


さっぱり分かりません。つまり?

第一にこれはプロットで、台本で説明されていません。

第二に、私にもこれは明確でないのです。

Q. 人生のすべてが理解出来るわけでも、明確なわけでもありません。


そうですね、私にとって、それは?どう言えばいいのかな?

さまざまな感情の絆と折り合いをつけることなのです。

私にとって、母の顔を見ることがきわめて大切なことでした。

この映画は結局彼女についての物語なのです。

彼女は玄関を不安げに、何かおずおずと、入って来ます。

ドストエフスキーの流儀で、マルメラードフの流儀でね。
それから彼女は孫に言う。

「家を間違えたようね」

あなたはこの心理状態を想像出来ますか。

私にとって、このような状況に落ちた母を目にすることが大切だったのです。

混乱した時の、気後れした時の、恥ずかしがっている母の顔を見ることが重要だったのです。

しかしちゃんとしたサブプロットを作るには遅すぎると私は分かっていました。

なぜ孫を認知できないのか、明らかにしてくれるように脚本を書くにはすでに手後れでした。

目が悪かったからとか何とか、ね。それを説明するのは非常に簡単なことだったでしょう。

しかし私は自分に言い聞かせました。

何もでっちあげないぞ。


母にドアを開けさせて、家に入り、息子[原文のママ]を認知できないようにしよう。

少年は彼女がだれか分からない。

この状態で彼女は外に出てドアを閉めることになります。

それは、私にとりわけ身近な人間の魂の状態です。

何か不如意の状態。精神的に縛られた状態です。

これを目にすることが私には大切だったのです。

一種、辱められた状態の人間の肖像です。

おとしめられたという感じです。


これを、彼女の若き日のシーンと並べてみると、そうすると、このエピソードは私に別のエピソードを想起させます。

つまり、若いころにイヤリングを売りにあの医者のところに行きます。

彼女は雨の中で立っています。何か説明しています、何かについて話しています、なぜ雨の中でなのでしょう。何のためなのでしょう。

もしかすると、このような謎が何もなければずっと良いのでしょうね。

しかし全く説明のない、理解不可能なこのようなエピソードがいくつかあります。
で、私たちにはその意味を探る手がかりがないのです。


例えば、人々はこう言うでしょう。

「向こうに座っていて、少年にプーシキンがチャーダーエフにあてた書簡を読むように言うこの年配の女性はだれなのか?」

この女性はだれなのでしょう? アフマートワか??

だれもがそう言います。彼女は実際アフマートワに少し似ています。

横顔が同じなので、彼女を思い出させるのです。

あの女性を演じたのは、タマーラ・オゴロードゥニコワです。私たちの製作マネージャーです。

実際すでに『ルブリョフ』の製作マネージャーでもありました。

彼女は私たちの大の友だちで、彼女の姿は私の映画のほぼすべてに映っています。
彼女は私にとって護符のようなものでした。

この女性がアフマートワだと私は思いませんでした。

私にとって、彼女はある種の文化的な伝統の継続を表象する「彼方」からの人物でした。

彼女はこの少年を何としても、そうした文化的な伝統と結び付けようと努力しています。

文化的な伝統を、まだ若く、今この時代に生きている人間と結び付けようと努力しています。

これはとても大切なことです。

簡潔に言うと?それは、ある種の傾向、ある種の文化的な根っこなのです。

ここに家があります。

ここには、そこに住んでいる男がいます。作者です。

そしてここには、この雰囲気に、こうした文化的な根っこに影響を受ける彼の息子がいます。

結局、この女性がだれであるのかは、明確に指示されてはいません。

なぜアフマートワなのでしょう? 

ちょっと衒いすぎです。この女性はアフマートワではありません。

簡単に言うと、この女性はまさしく、時の、切れた糸を繕うのです。

シェークスピアの『ハムレット』の場合と同じです。

彼女はそれを文化的、精神的な意味で回復させるのです。

それというのは、近代と過去の時代との絆です。プーシキンの時代と、です。

もしかするともっと後の時代と、かもしれませんーそれは重要ではありません。

私がこの映画で獲得した非常に重要な、きわめて重要な経験は、私にとって同様に観客にとってもこの映画が重要であると判明したことでした。

私たちの家族だけの物語であって、それ以外ではありえないということはどうでもいいことです。

この経験のおかげで私は多くのことが見えるようになり理解したのでした。

この映画は、監督としての、こういってもいいなら芸術家としての私と、私の仕事が奉仕する人々との間に絆があるということを証したのでした。

そのためにこの映画は私にとってとても重要だと分かったのです。

なぜなら、私がそれを理解したとき、私が大衆のために映画を作っていないと誰も私に不服をならすことができないからです。

まあ後になってもいろいろな人がぐずぐず言いましたがね。

しかしそれ以来、私はそういう不服を自分に申し立てることができなくなりました。

芸術と実人生ーロシアの伝統


Q. あなたとご家族の人生はリアリズムが典型的に必要とするものに従って形成されていません。
あまり典型的な家族とは言えません。
おっしゃったように、観客は自分の人生が反映された映像をそこに見いだしたのですが。
あなたのご家族、あなたの家、最も身近な家族はあなたに何を与えてきたのでしょうか。
そして後になって、何があなたの芸術的で文化的な霊感の源になったのでしょうか。
この質問をするのは、ポーランドの観客はロシアの芸術家の生い立ちや背景を何も知らないからです。これは大きな特徴です。一方、西側の芸術家はしばしば生い立ちしか知らされていません。


それは正確ですが、不正確でもあります。ある意味で、正しいと言えば正しいし、正しくないと言えば正しくないですね。

生い立ちを何も知らないという意味で、ロシアの芸術家に関するあなたのご意見は正しくありません。もちろん、現代の芸術家と比較するなら、もしかすると正しいのでしょう。

しかし、私は自分自身と現在の芸術家との比較を考えたことは一度もありません。

私はいつも、19世紀の芸術家と自分が結びついていると感じてきました。

例えば、トルストイ、ドストエフスキー、この流れの作家たち、チェーホフ、ツルゲーネフ、レールモントフ、やブーニンを挙げるなら、彼らの生がどれほど唯一無二のものであり、彼らの作品が人生と、彼らの運命とどれほど密接に結びついていたかがお分かりになるでしょう。

もちろん、私が述べたことは、私が自分をソ連の60年、70年、80年代の、いわば、文化の流れから完全に除外しているという意味ではありません。そうではありません。

しかし私は革命後に突然巨大なギャップが出来たという意見には、原則的に反対です。

この深い溝は、ロシア文化の発達に新段階をもたらすために、意図的に創造されたものです。

しかし私は文化が真空状態で発達できるとは信じません。

貴重な植物を移植しようと努力することは出来ます。

その根を掘り起こして植え替えるのです。

しかし、枯れてしまうでしょう。何も生長しないでしょう。

だから、転換期の作家は自分の運命を非常に悲劇的に経験したのです。

革命前に作家活動をはじめて、その後も仕事を続けた作家たちです。

アレクセイ・トルストイ、ゴーリキー、マヤコフスキー、ブローク。
文字どおりのドラマでした。ブーニンも-。

これは何もかもがもう恐ろしいドラマです。アフマートワも-。他にどんな人がいたか、神のみぞ知るです。悲劇です。ツヴェターエワ-。何も得るものはなかった。

移植は不可能だった。移植はすべきではなかったのです。

文化にこんな恐ろしい実験をするのを許すべきではなかったのです。

こういう生体解剖は、精神を幽閉してしまうので、人体に暴行を加えるよりもさらに酷いことなのです。


プラトーノフを例に取りましょう。

彼は、言うなれば、ロシアにおけるソ連期の発達時代に完全に帰属しています。
また彼は典型的なロシアの作家です。

彼の人生もまた典型的なもので、彼の作品にくっきりと反映しています。
だからあなたのご意見は全面的に正しいと言うことは出来ません。

このような文脈で私のことを言うならば、古典ロシア文化と私との絆は私にとって非常に大切です。

この文化は当然連綿と続いて、今日に至っています。古典ロシア文化が死んだと私は思いません。

私は、人生と作品を通じてーもしかすると無意識のうちにーロシアの過去と未来の間をつなぐこの絆を現実化しようと試みる芸術家のひとりでした。

この絆をなくすことは私にとって致命的でしょう。それなしに私は生き続けることは出来ないでしょう。

過去を未来と結びつけるのはいつも芸術家なのです。

芸術家は或る瞬間に生きているだけではありません。

芸術家は媒体なのです、いわば、過去から未来への渡し守なのです。


ここで私の家族について何が言えるでしょうか。

父は詩人です。

彼は革命が起きたときまだ小さな子どもでした。

革命前に彼が大人であったと言うことは実際出来ません。それは全く正確ではありません。

彼はソ連時代に成長しました。1906年生まれですから、1917年の革命時には11歳でした。

まだ未熟な子どもです。しかし彼は文化的伝統をよく知っていました、教養がありました。

ブリューソフ文学研究所を卒業し、多くの、主導的ロシア詩人のほぼ全員を知っていました。

言うまでもなく、彼をロシアの詩の伝統から切り離して想像することは出来ません。

ブローク、アフマートワ、マンデリシュターム、パステルナーク、ザボロツキーの系譜から切り離して想像することは出来ません。

これは私にとってとても重要な事でした。或る意味で私はこのすべてを父から受け継いだのです。


私を育てたのは、私の両親、特に母です。

なぜなら父は私が3歳の時に母の元を去ったからです。

そういうわけで、私は実は母に育てられたのです。

詩人として父が私にどのように影響したのか、はっきりとしたことを言うのは難しいでしょう。

もっと生物学的な意味で、無意識のレベルで、私に影響しました。

もっとも私はフロイトの信奉者ではありませんが。フロイトにはちっとも感心しません。

ユングも又私の趣味ではありません。

フロイトは俗悪な唯物論者です。切り口が違うだけで、パブロフと同じです。

彼の理論は人間の心理を説明するひとつの可能な唯物論的異稿にすぎません。


父は私に何ら影響しなかった、内的な影響力を持たなかったと思います。

何もかもが概ね母のおかげによっています。

私が自分自身を見いだすのを助けてくれたのは母です。

映画でも私たちの生活状態がとても厳しかった、とても困難であったことがはっきりと分かります。

そういう時代でもありました。

まさにその時に、母は独り残されたのです。

私は3歳、妹は1歳半、母は私たちをずっと育ててくれました。

再婚もせず、いつも私たちと一緒にいました。

母は2度と結婚しなかった。

彼女は夫を、私の父を、一生愛していました。

彼女は並外れた女性でした。実際聖女でした。

最初母は生活に対して全く準備が出来ていなかった、全くです。

そして、この無防備な女性をとりまく全世界が崩壊したのです。

つまり、まず第一に2人の子連れだというのに手に職が何もなかったのです。

私の両親はブリューソフ文学研究所で勉強をしていましたが、そのとき母は妹を妊娠しました。

それで母は免状を何も持っていないのです。

教育を受けた女性として準備する時間が全くなかった。

彼女は文学で自分の才能を試しました。

私は彼女の文章をいくつか見たことがあります。

彼女を襲ったあのカタストロフィが起きなければ、母は全然違った形で自己実現が出来たでしょうね。

だから本当に家に資産がまったくなかったのです。

母は印刷所の校正の仕事をしました。そこで最後まで働いていました。

つまり、戦後も、ずっとです、退職するまでです。

どうやって母がやりくりできたのか、どうやってがんばり抜いたのか、どうやって身体がもったのか、私にはまったく理解できません-分かりません。

どうやって私たちに教育を受けさせることができたのでしょうか。

私はモスクワの美術造形学校を出ましたが、そのためには金がかかる。
どこからその金を捻出したのでしょうか。

私は音楽学校も出ましたし、先生からレッスンも受けましたが、それも母が払ってくれました。

Q. それは戦前ですね?

戦前と戦中と戦後です。

誰もが音楽家になるものだと思っていましたが、私はなりたくなかった。

とにかく、どうしてこんなことが可能だったのか、私には理解できません。

まあ、こう言う人もいるでしょう、何か財産があったんだ、教育のある一家の子どもだから、当たり前でしょう。

ーしかし、ここには当たり前のことは何もなかった。

私たちは文字どおり裸足で歩いていましたからね。

夏には全然靴を履かなかった。靴がなかったんです。

冬になると私はフェルトのブーツを履きました。

それで、母が外出しなければならないときには-私たちは-貧乏なんてもんじゃなかった。

赤貧でもまだ言い表せない。

まったく分かりません、母は-分かりません。

母がいなければ、私はこんなふうにはならなかったでしょう、言うまでもないことですが。

私が今あるのはすべて、母のお陰なのです。


そのために、母は私に非常に強い影響を及ぼしましたー影響という言葉でも足りないー世界のすべてが私にとって母と結びついているのです。

ただし、私は、母が生きているときには、そのことに本当には気づかなかった。

母が死んでから、母の死後に、私は突然そのことに気づいたのです。

それに、あの映画を作っているときでも、もちろん当時母はまだ生きていましたー私は映画のテーマを十分には理解していなかった。

私は自分自身を語る映画を作っていると思っていました。

自分の幼年時代、少年時代、青年時代を書いたオデッサ時代のトルストイのように。

映画を撮り終えたとき、この映画が私ではなく、母についての映画だと分かりました。

これはー私の見方から言うとー本来の理念よりもこのようにして相当高貴な精神のものになりました。この理念をかくも完璧に高貴なものにした変化は、映画の製作中に生じました。

つまり、映画は私と共に始まりました。

私があれらの回想の、いわば、眼なのですから。

しかしそれから、まったく異なることが生じました。

この映画に携わる期間が長くなるほど、この映画が何をテーマとするのか、私にははっきりしてきたのです。

Q. 映画館を出たとき、私はこの映画が一編の詩として作られたのだと思いました。
つまり、映画では不可能なものに思えたのですー親密な抒情的な独白であると。

そうかもしれません、私には分かりません。

私は当時形式について何も考えていませんでした。特別なものを考案するつもりはなかったのです。

私が追求していたのは、記憶における復活です。

いや正確に言うと、記憶ではなく、スクリーンに私にとって重要であるものたちが復活することでした。

一般に、最も重要なことはこの道をたどるということで、例えば、自分の想い出を構築するアラン・レネの道をたどることではなかった。

あるいは、現代文学から例を引くなら、ロブーグリエの道を採ることでなかった。
ロシアの芸術家にとって芸術創造の非常に重要な側面は、必ずしも、より美しいものを創造することではなく、道徳的な責任感であったのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html


オルガ・スルコワ:タルコフスキー・インタビュー


映画を撮るとき、私は俳優と出来るだけ話をしないようにする。

俳優自身が自分の個々のシーンを全体との流れでやろうとするのに、私は強く抵抗します。

時には、直前のシーン、あるいはその直後のシーンとの関連でも、ダメです。

例を挙げましょう。

『鏡』の最初のシーンで、主演女優がフェンスに腰を下ろして夫を待ちながら煙草を吸うシーンでも、主役を演じたマルガリータ・テレホワが脚本の細部を知らないことを私は望みました。

つまり、夫が最後のシーンで帰ってくるのか、永久に去ってしまったのか、彼女は知らなかったのです。

彼女が演じている女性がかつて、人生の未来の出来事を何も知らずに、存在していたのと同じ様態で、彼女にもその瞬間に存在していてほしいという思惑があって、なされたのでした。

もし女優が主役の亭主が二度と帰ってこないと知っていたら、状況の絶望ぶりを演技で前もって表出させていたことは間違いありません。

あるレヴェルで、たとえ潜在意識でなしたとはいえ、私たちはそれを察知したことでしょう。

これから起きることを自分が知っていることを、それに対する自分の態度を露わにしたことでしょう。

そういう細部の知識は大きなスクリーンでは確かに隠しようがないからです。

この場面では、そういう細部を未熟なかたちでばらさないことが絶対に肝要でした。

だから、実生活で経験するのとまさに同じやり方でこの瞬間を経験することがテレホワには必要だったのです。

彼女はこのように、希望をいだき、不信に陥り、また希望を取り戻すのです。

「解決のマニュアル」に触れることはありません。


与えられた状況という枠組みの中でーこの場合、枠組みは夫の帰りを待つことにあるのですがー彼女は自分自身の個人的な生の何か秘密の一片によって生きざるをえなくなった。

幸運なことに私はそれについて何も知りませんがね。


映画芸術で最も重要なことは、俳優がその俳優に完璧に自然なやり方である状況を表出することです。

つまり、その俳優の肉体的な、心理的な、情緒的なそして知的な性格に照応した様態で、ある状況を表出することです。俳優がどのようにその状況を表出するかは、私とはまるっきり無関係です。

別の言い方をしましょう、私には俳優に何か特定のかたちを強制する権利はありません。結局、私たちは皆、自分の完全に独自のやり方で同じ状況を経験しているのです。この例外的な表出力こそ、比類ないものであり、映画俳優の最も重要な側面なのです。


俳優を正しい状態に置くために、監督は自分の内面でこの状態を明確に感知できなければなりません。このようにしてのみ、当面のシーンの正確な調子を見つけだすことが出来るのです。

例えば、よく知らない家に入って、前もってリハーサルしておいたシーンを撮影するのは不可能です。知らない人たちの住居になっている馴染みのない家は、私のキャストに何も意思疎通することが出来ないのは、言うまでもありません。

人間の経験可能で正確な状態こそ、映画の個々の特定のシーンで目指すべき核心的でかつ完全に具体的な目標なのです…テイクの雰囲気を決定する魂の状態、監督が俳優に伝えたいと思う主なイントネーション、これこそ大切なのです。

俳優はもちろん、自分自身の方法を持っていなければいけません。

例えば、すでに触れたように、マルガリータ・テレホワは脚本の全体像を知らなかった。

彼女は自分自身の断片化された部分を演じただけでした。

出来事の帰結や自分自身の役のコンテクストを私が明かすつもりがないと探り当てたとき、彼女はひどく困惑しました…

まさしく、このようにして彼女が直観的に演じられた部分のモザイクを生み出し、それを後に私が全体像にまとめ上げたのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/surkowa.html

アンドレイ・タルコフスキー 鏡

使われた音楽 バッハ「ヨハネ受難曲」
使われた意図 語ることによる受難


さて、今回取り上げる作品は前回に引き続きソ連の映画作家アンドレイ・タルコフスキー監督作品。

今回は「鏡」です。何でもタルコフスキー監督の中で一番「難解」な作品なんだそう。ただでさえ、「難解」と定評のある監督さんなのに・・・その中でも一番難解って・・・

この「鏡」という作品の最後のシーンで、バッハの「ヨハネ受難曲」が使われています。

実はマタイ受難曲も使われています。

タルコフスキー監督がマタイ受難曲を使った作品としては、彼にとっての最後の作品である「サクリファイス」や「ストーカー」もあり、これらについては以前に取り上げております。彼にとっても、色々と思い入れがあるんでしょうね。

しかし、この「鏡」では、マタイではなく、ヨハネ受難曲の方が目立つ使い方。だって最後のシーンでヨハネ受難曲が使われるわけですので、否応なしに注目することになる。

では何故に、この「鏡」ではタルコフスキー監督は、作品の最後という重要なシーンにおいて、お気に入りの「マタイ」ではなく、「ヨハネ」を使ったのでしょうか?


ちなみに、ここでこの「鏡」という作品のあらすじを・・・
と、行きたいところですが、ストーリーも何もあったものではありません。ダテに「タルコフスキーの中で一番に難解。」というレッテルを貼られているわけではないんですね。

タルコフスキーの記憶の中から様々なシーンが浮かび上がってくる・・・そのような構成です。


映画の中の様々なシーンの中で、作品の最後のシーンは、キリストの受難のイメージが特に顕著ですよね?

ご丁寧に十字架までかかっている。

おまけに主人公の母親(ご丁寧にマリーアという名前)が、2人の子供の手をつないで歩く。

映画での2人の子供は主人公とその妹のようです。


しかし、このとき観客はマリアとキリストとパプテスマのヨハネの組み合わせを連想します。

パプテスマのヨハネとイエス・キリストは親戚にあたります。

ヨハネのお母さんのエリザベツはイエスのお母さんのマリアと親戚で、お互いの妊娠中も一緒に暮らしていた間柄。よくいう言い方ですと、「生まれる前からの友達」ってヤツです。

だからマリアさんにしてみても、「親戚のヨハネちゃん」くらいの感じなんでしょう。

このマリアとキリストとパプテスマのヨハネの関係は、作品中ではレオナルド・ダ・ヴィンチの聖母子の絵で予告されています。

将来において、わが子に降りかかる受難をわかっているマリアが、赤子のキリストを抱きしめようとするシーンを描いた有名な絵です。

そこにはパプテスマのヨハネも描かれています。絵画を使うことによってラストシーンを予告し説明しているわけです。


あるいは、雪の中で主人公の少年に小鳥がとまるシーン。

このようなシーンは、キリストがヨハネから洗礼を受けた際に、鳩がキリストにとまったエピソードを思い出しますよね?

タルコフスキー監督の映画「鏡」において、母親マリアが自分の子供の手をつないで歩くラストシーンは、まさに「キリストとマリア」の「鏡」になっているわけです。


この「鏡」という作品は、実に多くの「鏡」となっている。

作品中では、主人公とその父親の間の共通性を強調しています。

主人公とその父親は「鏡」を挟んで向かい合っている状態。

似た容姿の妻。

本人は同じように芸術家。

同じように妻とは不和。

あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチだって、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士という「鏡」をはさんだ状態。いわば、同族意識ですね。

また、ダ・ヴィンチとタルコフスキーも母親の愛への渇望を共通して持っているといえるのでは?

そして、「始めに言葉ありき」の福音書のヨハネに対する同族意識もあるようです。

芸術家として「語る」こと。

そして「受難」。


「語ること」からの受難は、何も、ソ連の問題だけではありません。
いかなる政治体制でも起こっていることです。
だって本当の問題は為政者ではなく大衆なんですから。

それこそ、旧約聖書の時代から、「語った」人は、受難になったでしょ?

にもかかわらず芸術家は「語らないといけない。」存在である。つまり受難は不可避なんですね。


「語る」ことの難しさで、政治に関わることは、最初の方のシーンで出てきます。
主人公の母親が、「検閲に引っかかりそうな言葉を削除しそこなったかも?」と大慌てするシーンですね。


しかし、誰でもわかるシーンは映画の冒頭。

催眠術によって治った吃音者が「私は話すことができます!!」と喜ぶ冒頭。

そのシーンからは、「困難の中」から話すことの喜び・・・つまり芸術家として表現することの喜びが感じられますよね。


しかし、冒頭は「表現する喜び」ですが、ラストは受難のシーン。

「初めに言葉ありき。」のヨハネであり、芸術家肌のヨハネ。

この福音書のヨハネも、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士の同族と言えるわけです。


ヨハネ受難曲の流れる中、十字架を背景にマリアに手を引かれ進んでいく。
2000年前のキリストの受難も、タルコフスキーの受難の鏡といえそうです。

この「鏡」という作品。タルコフスキー監督の様々な自画像が展開されている作品といえそうです。

つまり様々な「鏡」に彩られているわけですね。タルコフスキー監督個人の「鏡」であるとともに、芸術家全般の「鏡」となっているわけです。


「語る」芸術家は「受難」は避けることができない。

神の意思は本人とは無関係にやってくる。


映画の中で数多く登場する草原の草が揺れるシーン・・・これは神がやってくる意味でしょう。


映画における主人公の父親は、神を意味している。

父親に抱かれること、それは神に召し上げられること。

これこそが芸術家誕生の瞬間であり、受難の始まりとなる。


小屋の炎上、原子爆弾、文化大革命、そしてマタイ受難曲の「そのとき大地が割れて・・・」というフレーズ・・・現在の世俗的安定の崩壊のイメージが顕著です。


だからこそ世界には芸術家の聖なるものが必要であり、芸術家は「語らなければならない」。


しかし、それは芸術家の受難につながっていくわけです。

「初めに言葉ありき」のヨハネで終了するこの映画、そのラストのシーンは「言葉ありき」ということで、最初のシーンの「私は話すことができます!」のシーンに回帰して行く・・・

芸術家の受難はかくも終わりなきものと言えそうです。
ttp://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/04-06/04-06-29.htm



05. 2010年8月05日 22:02:26: MiKEdq2F3Q

Bアンドレイ・ルブリョフ 1967年/モスフィルム製作

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アンドレイ・ルブリョフはキリスト教のあり方に疑問を持ちます。

先輩画家からは、愚かな人間たちなどどうでもいいじゃないか、画は神のために描くものだと諭されます。

先輩画家は、愚かな人間たちの上にはもうすぐ最後の審判が下るぞと言います。

しかし、アンドレイ・ルブリョフは先輩画家の言葉に納得ができないのです。

アンドレイ・ルブリョフはモスクワ大公から依頼された修道院の壁画「最後の審判」を描くことができません。


そんなある晩、アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りに迷い込みます。


すでにキリスト教化していたロシアでは、アニミズム信仰を持つ人びとが異教徒と呼ばれて、教化の対象になっていました。

森の奥から響くざわめきを聞きつけたアンドレイ・ルブリョフは好奇心に勝てずにひとりで奥へ奥へと進んでいきます。

裸の女たちが松明を持って川に飛び込んでいました。

アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りを垣間見ます。

小屋の中では、ひとりの女がはしごをのぼっては飛び降りてを繰り返しています。

女が飛ぶごとに着物がはだけて女の裸体がちらつきます。

アンドレイ・ルブリョフがそんな光景に見とれていると、男たちに「黒い悪魔がいたぞ」とつかまって小屋の中にひきずりこまれて縛られてしまいます。


アンドレイ・ルブリョフは、

「何をする、やめてくれ、お前たちは、最後の審判が恐ろしくないのか」

などと口にします。

小屋の中にはアンドレイ・ルブリョフと女が残りました。

翌朝、アンドレイ・ルブリョフはうしろめたそうな顔をして村をあとにしました。
全裸の女がうるんだ瞳でアンドレイ・ルブリョフのうしろ姿を見送ります。

異教の女マルファとの会話

マルファ
なぜあなたは頭を下にしたいの?
気分がもっと悪くなるのに。
なぜあなたは天の火でわたしたちを脅すの? (ルブリョフが「最後の審判」を口にしたことへの反感)


ルブリョフ
裸になって君たちがしようとしていることは罪なのだ。


マルファ
何の罪ですって?
今夜は愛しあうための夜なの。
愛しあうのは罪なの?

ルブリョフ
こんなふうに人を縛り上げるのは愛なのか?


マルファ
あなたが他の修道士をよぶかもしれないからよ。
あなたの忠実さをわたしたちが受け入れることを強制しようとする人たちよ。
あなたは恐怖の中で生きることが容易なことだと思っているの?


ルブリョフ
君は恐怖のなかで生きている、なぜなら君が知っているのは愛ではなくて獣欲なのだ。
魂のない肉欲、しかし愛は兄弟愛のようであるべきだ。

マルファ
すべての愛は同じではないの?
ただの愛なのよ。


マルファはルブリョフに近づきキスをする。
 
ttp://foonenbo.asablo.jp/blog/2010/03/21/4962351


アンドレイ・ルブリョフの代表作とされるばかりでなく、ゾートフによれば 「中世ロシア・ルネサンス美術の最高傑作である」 とされるイコン画、『三位一体 (トローイツア)』 を見ると、そこには 輝くような平和な光と、透明感あふれる 慈愛の気分が満ちている。

それは 彼よりも 1世紀前のイタリアの画家・ジョットーが パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂や アッシジのサン・フランチェスコ聖堂に描いた、心を洗うような清澄な壁画を髣髴とさせよう。

それなのに、映画の中のルブリョフは、なぜこんなに暗いのだろうか。

 「フェオファン 1405年」 で描かれるエピソードは、ノヴゴロドのスパース・プロブラジェーニエ聖堂の フレスコ画を描いた画家、フェオファン・グレーク (1350頃-1410頃) の助手を ルブリョフが勤めた、という史実にもとづいている。

フェオファンとは 名前が示すように もともとギリシア人 (グレーク) であり、本来はテオファネスという。 ジョットーにとっての師・チマブエにも相当するフェオファンは、コンスタンチノープル (現在のイスタンブール) からロシアにやって来て、ビザンチン絵画の技法をロシアに伝えた。

ルブリョフは 彼の壁画制作に協力しながら、写実的であるよりは象徴的な その方法を身につけ、さらに それをロシア化する。

 その天上の世界のような 清らかで純粋な感覚表現によって、ルブリョフは中世ロシア最高の画家と讃えられるようになるのであるが、映画の このエピソードは まだルブリョフがフェオファンの助手となる前を描いている。


 ルブリョフの競争相手でもあった修道士 キリールが フェオファンのアトリエを訪ねる場面がある。

彼が モスクワの街を歩いていくと、その背後で 「おれは無実だ!」 と叫ぶ男が 無理やり断頭台に かけられようとしている。

その騒ぎを家の中で聞いたフェオファンは、

「やめなさい、一体いつまでその男をいじめるつもりだ。
あんたたちも 彼に劣らず罪人なのに、裁くとは恥知らずだ」 

と、窓から叫ぶ。

映画全体のストーリーとは関係のない、こうした場面を挿入するというのが、この映画全体の手法であって、この場面ひとつでも 当時のソ連支配層 (スターリニストたち) の禁忌にふれただろうことは 容易に想像できる。

 さて、フェオファンは職業的な画家であったから 宗教に対して自由であったが、ルブリョフは修道士としての画家であったから、画家である以前に 宗教的な倫理に従わねばならない。 タルコフスキーは そこに 屈折した魂の軌跡を想像して、そうした彼の苦悩を この映画の根幹にすえた。


 次のエピソード 「アンドレイの苦悩 1406年」 において、民衆とは いかなるものかについて、ルブリョフとフェオファンに議論をさせるのである。

フェオファンは、「人間は忘れっぽい動物だ。 過去の失敗を忘れて悪行をくり返している。 進歩なんてものは全然ない。 イエスが再臨しても、また磔 (はりつけ) にするだろう」 と言う。

 ルブリョフの脳裏をよぎるのは、十字架を背負い 押しつぶされそうになりながら ゴルゴタの丘を登っていく イエスのイメージである。

ユダヤの民衆にも 弟子にも裏切られて、雪のロシアで磔刑につくイエスの映像は、ルブリョフの晴朗な 『三位一体』 のイコン画と比べて、いかにも沈鬱である。

民衆は 「みんな同じ愚かな仲間なんだ。 悪は至る所にある。 わずかな金で裏切る人間もいる。 大衆は災難続きだ。 それでも彼らは黙々と働いている。 不平も言わず、十字架を背負って歩いているんだ。 イエスは死を選んだ。 それは人の世の残酷と不正を教えるためだ」 とルブリョフは言う。

 そして映画は 「襲来 1408年」 のエピソードで、モスクワ大公兄弟の争いに乗じて攻め込んだタタール軍による、ウラジーミルの襲撃と殺戮を描く。

後にゲルツェンの流刑地となる ウラジーミルの町である。

"タタール" とは、中国では韃靼人と呼ばれた モンゴル系の遊牧民で、彼らは 14、15世紀にたびたびロシアを攻撃し 支配した。 このタタール族に蹂躙された時代を、ロシア史では "タタールのくびき" と呼ぶ。

ウラジーミルの町は焼かれ、大公と市民が たてこもるウスペンスキー大聖堂も破壊されて、暴行と殺戮が行われる。

 その時、犯されそうになった白痴の娘を助けるために、ルブリョフは斧で一人の兵士を殺めてしまう。
しかも その兵士はタタールではなく、タタールと結んだ大公の弟軍のロシア人同胞、キリスト教徒だった。



 戦のあと、廃墟のようになったウスペンスキー聖堂で、亡霊として現れたフェオファンに ルブリョフは言う。

「私は決心した、私は絵を捨てる」 と。

なぜ、との問いに、人を、ロシア人を殺めたからだ と答える。

フェオファンは

「悪は 人間の形でこの世に現れる。
だから 悪を倒すための人殺しもあるさ。
神は許して下さるだろう。
だが 己を許すな。 罰しながら生きるのだ。
すべきことは、聖書にあるとおりだ。

"善をなすことを覚えよ、真実を探せ。
悩むものを救え、孤児にやさしくせよ。

そうすれば、お前の罪は軽くなるだろう。
罪に汚れたその身も、雪のように潔白となろう" と書いてある」

と言って、自分に厳しくなりすぎないよう 求める。

しかしルブリョフは きかず、「許しを乞うために、無言の行に入る。 これからは 一切口をきかない」 と答える。 その無言の行の実践を描くのが、映画の次のエピソード 「沈黙 1412年」 である。

 この寓意は何だろうか?

私には、戦争中の林達夫 (1893-1984) の "沈黙" が思い出されるのである。

国家が 太平洋戦争の総力戦へと突き進むにつれて、かつての社会主義者はおろか、自由主義者でさえも大政翼賛会に身をゆだねて、"神国日本" が "鬼畜米英" を倒すのだと 戦争を謳歌するとき、正気のある人間だったら、沈黙するほかはない。

当時、林達夫がマイナーな雑誌の片隅にわずかに書き残した文章は、こう語っている。


 こうして私は、時代に対して 完全に真正面からの関心を喪失してしまった。

私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ 空語、空語、空語! としてしか感受出来ないのである。

私は たいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。

余りに見え透いているのだ。 私は、そんなものこそ有害無益な "造言蜚語" だと、心の底では確信している。 救いは絶対に そんな美辞麗句からは来ないと断言してよい。  (「歴史の暮方」)


 友人だとばかり思っていた学者や知識人が、軍国主義になだれ込んでいく。
数年後に戦争に負ければ、たちまち手のひらを返して "平和主義者" になる連中なのだが。

 私は あまりにペシミスティックなことばかり 語ったかもしれない。 だが、正直のところ、哲学者ならば、プラトンのように ユートピアを書くか、ボエティウスのように 『哲学の慰め』 を書くかする外には手がないような時代のさ中にあって、威勢のよいお祭りに、山車の片棒かつぎなどに乗り出す気などは 一向に起こらぬ。 絶壁の上の死の舞踊に参加する暇があったなら、私ならば エピクロスの小さな園を せっせと耕すことに努めるであろう。 これは現実逃避ではなくして 生活権確保への 行動第一歩なのである。  (「新スコラ時代」)


 戦争中、彼は庭造りに精をだしたが、言論人としては 全く沈黙した。
それが本当の 知識人の良心というものだ。
戦争中の日本の建築家たちが どのような発言をし、どのような図面を書いたかは、今度の藤森照信の 『丹下健三』 に詳しく書かれている。

文化人たちが 良心を裏切って権力に迎合する そうした状況は、帝政ロシアの時代にもあった。
そして、革命後のスターリン・ロシアの時代には一層、そうであった。
タルコフスキーは、それを中世におけるイコン画家の行為によせて、シンボリックに描いたのである。

この映画には、中世の時代に見せかけながら、ソ連の窒息しそうな社会体制に対する批判が 至るところに込められている。
そう、これこそ ゲルツェンの仲間の歴史家・グラノフスキーの方法だったである。


 ルブリョフはフェオファンに問う、

「こんな時代が 一体いつまで続くんだ?」 と。

フェオファンは、「分からん、永遠にだろう」 と答える。

ロシアの暗黒の中世も、近世の帝政時代も、そして近代のソ連邦の時代も、さらにまた 我々が生きる現代も、歴史は永遠に繰り返し続ける。

歴史家グラノフスキーは モスクワ大学公開講座で、暗い中世を論じながら、それを 19世紀の帝政ロシアと重ね合わせて、黙示的にツァーリズムを批判した。

タルコフスキーは 『アンドレイ・ルブリョフ』 において、中世ロシアと帝政ロシアと、さらに 20世紀のソヴィエト・ロシアとを重ね合わせて描いたのである。


 この映画が ソ連で上映禁止になり、5年もの長きにわたって お蔵入りしたのは 当然のことであったと言える。 言論を抑圧する側を 最も刺激したのは、おそらく冒頭の 「プロローグ」 であったろう。

これもまた 本編の筋とは何の脈絡もなく挿入されている 幻想的なエピソードである。


 川に面した とある古い聖堂に、追手の追撃を逃れてきた男が着くと、すでに用意されていた熱気球に乗って、聖堂の屋上から 空中に飛翔するのである。

驚愕した人々が見守る中で、何者とも知れぬ "飛ぶ男" は、「俺は飛んだ、俺は飛んでいるぞ」 と歓喜の叫び声をあげる。

しかしそれも束の間、まもなく気球は破れ、男は地面に墜落して崩れ去るのである。


 人は 抑圧の現実世界を脱して、自由の世界へ飛翔しようと夢見る。

しかし 現実の絆や権力による束縛は強く、自由は容易に得られない。

たちまちのうちに 包囲網にからめとられ、沈黙させられてしまう。

事実 タルコフスキーは、この映画をつくったことによって、その後の 5年間を沈黙させられたのである。

ソ連では 映画はすべて官製であったから、当局の許可がなければ映画を撮ることはできない。

フルシチョフによるスターリン批判 (1956年) があっても、強固な体制は簡単には変わらない。 "飛ぶ男" のシーンは、タルコフスキーによる "内面の叫び" のような 体制批判だったろう。


ロシアは デカブリストの乱以来、絶えず改革運動がつぶされて 抑圧の重みに押しつぶされてきたから、ロシアの文学、芸術には 常に悲劇性がつきまとう。

ロシア文学に登場する人物たちには、というより ロシアの芸術家たちには、しばしば 人類の苦悩を一身に背負っているような趣がある。

トルストイもそうであったし、ドストエフスキーも、画家のイワーノフもそうであり、そしてタルコフスキーもまた その最後の作品となった 『サクリファイス』 において、そうであったように見える。


 ところで、『アンドレイ・ルブリョフ』 の飛翔シーンの舞台となった聖堂は、落合東朗の 『タルコフスキーとルブリョフ』 (1994年、論創社刊) にも書いてないのだが、ウラジーミル郊外の ボゴリューボヴォにある、「ネルリ河畔のポクロフ聖堂」 (1165年) である。

初期ロシア建築の傑作と うたわれている珠玉の聖堂だが、さらにまた不思議なことには、『ロシア建築案内』 にも この聖堂は紹介されていない。

 このネルリ河は雨季に増水して、聖堂の敷地は小さな島のようになる。
水面に姿を映す白亜の聖堂は、小規模ながら凛とした気品をたたえている。
きっとタルコフスキーは、ロシアの古典建築の中でも、とりわけこの聖堂が好きだったのだろう。
映画では "飛ぶ男" から見た、聖堂の高い位置の壁面彫刻も写されている。

 しかしながら、この映画で誰もが一番感動するのは、最後のエピソードであろう。 そのタイトルは 「鐘 (コロコル)」 という! 

あの日、映画を見ていて、このタイトルが出てきた時、私は思わず ゲルツェンの 「鐘 (コロコル)」 誌 を連想したのである。

 モスクワ大公は 新しい聖堂のために、鐘造りの職人を さがさせた。
ところが 疫病によって職人の親方たちは 皆死んでしまっていた。
しかし 鋳物師の息子だった少年・ボリースカは、自分は父親から 鐘造りの秘密を教わっている、と嘘をついて、鐘造りの責任者の地位を獲得する。

嘘がばれたら どうしよう という恐怖心と戦いながら、彼は必死で鋳型に使う 特上質の粘土を探し、大勢の職人たちに采配を振るって鋳型を造り、十分な量の銅と銀を用意させ、ついに火をいれて流し込む。

 奇妙なことに、このエピソードでは 少年・ボリースカが主人公であって、ルブリョフは脇に退いてしまう。 無言の行を続けているルブリョフは、時々傍らから 気遣わしげに ボリースの悪戦苦闘を見守っているだけだ。

 ようやく 鐘は ひび割れもせずに できあがり、鋳型をはずすと、大公や外国の使節たちが訪れ、その衆目の前で鐘を吊り上げて、初めて鳴らしてみせる時が来る。 この大鐘を吊り上げるには 巨大な足場を組み、四方八方にロープを張って、大群衆が力をあわせて引く。

しかし外国の賓客は、「聖母マリアに誓って言うが、この鐘は鳴らんよ。 これは鐘などと言えるものではない」 とつぶやく。

 誰もが 不安の気持で注視する中、撞木を振って打ち当てると、鐘は 堂々たる音を立てて、みごとに鳴るのである。 激しい緊張感が破れるとともに 感極まった少年は、野に倒れこんで泣きじゃくる。

その時ルブリョフが現れて、父親のように少年を抱え起こし、初めて沈黙を破って、「泣くな」 と言う。

 ボリースカは 「父さんは 秘密を教えてくれなかった。 ひどい親さ」 と言いながら 泣き続ける。

ルブリョフは、

「立派にできたじゃないか。 何を泣くんだ、祝うべき日だぞ。 さあ、もういい、元気を出せ。 もう泣くな、私と一緒に行こう。 私もまた絵を描く。 お前は鐘を造れ」

と声をかけ続ける。 画家、アンドレイ・ルブリョフの復活である。

 ここで不意に画面はカラーとなり、「エピローグ」 として、ルブリョフが描いた イコン画のディテールを なめるように映し出していく。


 こうして映画を見終わった時、私は、この監督は必ずや ソ連から亡命するだろう と直感した。

これほど批判精神に満ち、自由への希求を持ち続ける芸術家が、いつまでもソ連にとどまっていられるわけもない、と思ったのである。 タルコフスキーは、まさに映画上の ゲルツェンだと思われた。

 たとえば、この最後の 鐘のエピソードが いかに感動的であろうと、映画全体の筋から言って、いかにも唐突である。

アンドレイ・ルブリョフの生涯を描く上で、不可欠のエピソードであったとは、とうてい思えない。

タルコフスキーがこのエピソードを 強引に最終章にいれたのは、鐘を鳴らせたかったのではないか。

ノヴゴロドの "自由の鐘" を。 ゲルツェンが ノヴゴロドの鐘を鳴らせようと 「コロコル」 誌を発行したように、タルコフスキーは鐘を鳴らし、民衆 (ナロード) をして、空を飛ばせたかったのではないだろうか。

 また、この映画を あらためてDVDで見て、私は思う。

そもそも タルコフスキーは アンドレイ・ルブリョフという 一芸術家の生涯を描きたかったのだろうか?

ゾートフが言う "ロシアの真の芸術的天才のシンボル" であるところの ルブリョフの生涯を?

彼は公式には そのように語っている。
しかし、それにしては ルブリョフの芸術家としての主張や創作過程は ほとんど描かれていない。

映画の最後にルブリョフの作品群が、突然カラーになって映し出されるのも、とってつけた感じがしないであろうか?

 タルコフスキーが描こうとしたのは、なによりも、人間の尊厳や 言論の自由を圧殺する ソ連の体制への批判だったのではないか。

ゲルツェンが 生涯をかけて帝政ロシアを批判し、人間の自由と尊厳を回復しようとしたように。

それだからこそ、この映画は当局によって 上映禁止にされたのである。


 タルコフスキーがソ連を出たのは、私の予想よりもずっと遅かった。

それは、私がこの映画を見た 8年後の 1982年で、イタリアで 『ノスタルジア』 を撮るためだった。

ゴスキノ (国家映画委員会) による攻撃のせいで、「20余年間 ソヴィエトの映画界にいて、およそ 17年のあいだ 絶望的な失業状態にあった」 というのは、まさに流刑中の建築家 ヴィトベルクのような思いであったろう。

『ノスタルジア』 を撮り終わったあとも 彼はロシアには帰らず、1984年に事実上の亡命宣言をする。

 もしも タルコフスキーが その 2年後、54歳の若さで死ぬ というようなことがなければ、1991年のソ連崩壊にも立会い、祖国に戻ることが あったかもしれない。

しかし ゲルツェンと同じように、窒息状態のロシアを去ったあと、ロシアの大地への大いなる愛を抱きながらも、彼は 2度と再び祖国の土を踏むことは なかったのである。

 しかし、ロシアに いたたまれなくなって ヨーロッパに亡命していながら、ヨーロッパにもまた絶望せざるをえなかった心情がまた、ゲルツェンとタルコフスキーに共通であろう。

亡命宣言の後、二人とも 2度とロシアの地を踏むことはなかったが、しかし ヨーロッパに安住の地を見出したわけではなかった。 彼らの心は たえず祖国 ロシアに向けられていた と言っていい。

 中国の文学者・巴金 (1904-2005) は "文化大革命" 時に批判され 暗黒の時代を生きたが、その間 ただひたすら ゲルツェンの 『過去と思索』 を読み、訳しながら耐えたという。

ソ連で、映画を作ることを妨げられて 長い不遇の時を過ごしていた タルコフスキーもまた 『過去と思索』 を読み、国家によって作品の実現を妨げられた ヴィトベルクの生涯に 自己を重ね合わせていたのではないだろうか。 それが 『アンドレイ・ルブリョフ』 の構想のもとになったのではあるまいか、と思われてならないのである。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~wu3t-kmy/4_rublyov/rublyov.htm



06. 2010年8月06日 23:21:43: MiKEdq2F3Q
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惑星ソラリス 1972年


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ノスタルジア 1983年


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サンガルガノ大聖堂の廃墟
ttp://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~adachi/sangalgano.htm


07. 2010年8月07日 19:22:12: MiKEdq2F3Q

アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー
『アンドレイ・ルブリョフ』に関して

私は、アンドレイ・ルブリョフ、15世紀の偉大なロシアの画家の映画を作りたいのです。

私は、創造者の人格と彼が生きた時代との関連に興味があります。生まれ持った感受性のおかげで、画家は自分の生きる時代のもっとも深い意味を理解し、この意味を全き形で提示することができます。この映画は歴史映画でも伝記映画でもありません。

私は画家の芸術的な成熟の過程と、彼の才能を分析する過程に、すっかり魅了されています。

アンドレイ・ルブリョフの作品は、ロシアのルネサンスの頂点を記録しています。
ルブリョフは私たちの文化史でもっとも傑出した人物のひとりです。
彼の人生と芸術はけたはずれに豊かな素材を含んでいます。

台本づくりに着手する前に、私たちは歴史資料とスケッチを研究しました。
もっぱら、映画で見せることができないのは何かを決定するためにです。
たとえば、私たちは時代様式に、つまり、衣装や風景や言語に、限られた興味しか持っていません。

映画での出来事が実際に15世紀に生じているなと思わせようとして、歴史的な細部にこだわると、観客の関心がそれてしまいます。

時代臭さのない室内装飾、時代臭さのない(しかし適切な!)衣装、風景、現代の言葉ーこうしたことすべてが、もっとも重要なことだけを表現する助けになるでしょう。

映画はいくつかのエピソードで成立しますが、直接論理的に関連づけされてはいません。

しかし、すべてのエピソードは共通の思考の流れで内的に関連することになります。

挿話が年代順に並べられるかどうかはまだ分かりません。

私たちは、エピソードのドラマツルギーが三位一体の壮大なイコンを創造する理念を生み出す頃のルブリョフの人格の進化を内的に暗示するものと首尾一貫させたいと願っています。

それと同時に、正典的な制限とその型どおりの論理と形式を伴った伝統的なドラマツルギーを避けたいと思っています。

それらは、典型的な障害で、生の十全さと複雑さを表現するのを不可能にするものです。(中略)


芸術家を題材にした映画は時々こんなようになってしまいます。

つまり、主人公が何らかの出来事を目撃する、そして観客は彼が熟慮に沈むのを見守る、最後に彼は自分の思いを作品に表現する。

私たちの映画でルブリョフがイコンを描く場面はありません。

彼は人生を生きていくだけです。

エピソードのすべてに登場するわけでもありません。

映画の最後の部分、そこだけはカラーで撮影するつもりですが、そこはルブリョフのイコン画に捧げられます。

イコンしか映しません。

ドキュメンタリーのように、細かいところまで、きちんと見せるつもりです。

イコン画が映されるたびに、同じ音楽のテーマが流れます。
そのイコンの理念が現れる時代に対応するルブリョフの生の局面で鳴り響いたテーマです。

映画のこのような構造は、その目標から必然的に導き出されます。

つまり、人間性の弁証法を提示して、彼の精神の生を検証したいと思うのです。


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 このインタヴューは、『アンドレイ・ルブリョフ』製作の初期の段階でなされた。

 若々しく、新たな理念に燃える監督の姿が鮮やかに映されている。

たぶん、この時期に、自分のこのような試みが多くの反発と猛烈な批判を生み出すとは思っていなかっただろう。

撮影は困難を極め、同志コンチャロフスキーとの反目、そして決別が待っている。
追いつめられた彼は命を削るような撮影を決行して、農民に文字通り殺されそうになる。

映画は完成しても5年間上映禁止になる。

無断でフランスの映画会社が出品したカンヌで国際批評家大賞を受け、そのためにソ連国内で立場はますます追い詰められる。

 しかし、そこから出会いも生まれた。

『アンドレイ・ルブリョフ』を見たクラウディオ・アバドは感激して、後に自分の指揮するムソルグスキー『ボリス・ゴドノフ』の演出を依頼し、実りある友情が始まったのだった。
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Tarkovsky on Tarkovsky 『アンドレイ・ルブリョフ』


映画の最も重要な慣例のひとつは、映画のイメージは私たちが見聞きする実際の、自然の、生きた形態でのみ体現できるということだ。

私たちが提示するものは自然主義的でなければならない。

私が自然主義と言うとき、実在の不愉快な側面に執着するという否定的な意味ではなく、映画的なイメージの感覚知覚におけるその役割という意味だ。

スクリーンに描かれた夢は、生そのものの自然の形態と同じように明確に目に見える要素で構成されていなければならない。

映画はルブリョフに関するものです。

…しかし私たちにとって映画の真実の精神的なヒーローは、ボリスカです。

映画の狙いは、非常に困難な時代から出現する伝染性の、狂熱のエネルギーを示すことです。
つまり、そういうエネルギーがボリスカのなかで目覚めて、燃えさかり、鐘鋳造につながるのです。
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アンドレイ・タルコフスキー
『アンドレイ・ルブリョフ』を語る


美は、植物が種子から生長するように、悲嘆から育つ


私たちは『アンドレイの受難』と題された脚本をアンドレイ・コンチャロフスキーと書いています。

偉大なロシアの画家アンドレイ・ルブリョフの人生をあつかった映画です。

友人のなかには、戦争でめちゃめちゃにされた子ども時代の映画、どう見たって現代的な映画から、「時代物」、ロシアの中世にどうやって移ることができるのか分からないって言ってます。


別に変なところはないでしょう。

主題テーマが、利用される叙述の形式を支配するだけのことです。

素材は15世紀から引っ張ってきますが、現在の問題を語るつもりです。

私は、芸術家とその時代、当時の民衆との絆に興味があります。

私は芸術の力に関する自分の見解を述べてみたいと思います。


ルブリョフは彼の作品において人間性の偉大な理想を称えています。

友愛の理念、人間の連帯が映画で最も重要なものになるでしょう。
真に偉大な芸術は時とともにますます貴重になります。

どれほど多くの人の思い、感情、希望が何世紀にわたってルブリョフの絵に染みこんでいったことか、そうに違いありません! 

私はスクリーンにそういう希望を伝えたいと思います。


映画は15のノヴェッラ:小話で構成されます。

アクションはルブリョフ、ダニル・チェルニー、キリルの3人の人物をめぐって集中します。

詩的な構造は全編にわたって保持されますが、叙述の連鎖を数回断ち切ることになります。

長年、映画は劇場のドラマツルギーに依存してきましたが、今や映画芸術は詩に近づいてきています。私には、詩における探求と近代映画の探求に非常に密接な関係が見えます。

私は、アレゴリー、隠喩、直喩を用いるのを好みます。

私は、不可能に思えるものが向かい合う状況が好きです。

認識からすり抜けるように思える複数のテーマを対峙させることは、私の内部に、イメージにあふれた最も深い思念を揺り動かします。

ますます多くの映画が詩的イメージに基づいて作られようとしています。

新作で私は古典的ロシア詩の比喩体系を具体的に利用するつもりです。(1963年)


映画のアイデアは「僕の村は戦場だった:イワンの少年時代」をやっている頃にすでにあった。


自分のアイデアじゃないと認めますね。

あるときモスクワ郊外の森を散策していたんだ、私とコンチャロフスキーと映画俳優のヴァジル・リヴァーノフでね...

ちょうどそのときにリヴァーノフが3人でルブリョフの脚本を書こうと提案した。
彼はぜひ主役をやりたいと。

でも、いろいろあってリヴァーノフは脚本書きに参加できなかった。
一方私たちのほうはすっかり虜になったその企画をあきらめることはできなくなった。

私たちはずいぶんすんなりと仕事を進めた。

1年後(もう少し後か)台本の異稿が3つ出来上がっていた。

私たちはもう一度見直しをして、時代考証のさまざまなソースを恐ろしくたくさん研究しなければならなかった。

少なくとも、旧来の出来合いの考え方を捨てることができるためにね。


台本の最終ヴァージョンにかかっているときに私たちはまだどこかしっくりこない部分があると感じていた。

でも出来上がったとき私は台本が成功作であると感じることが出来た。

それから良い映画が作れると感じたから、成功なんだね。

脚本家として私は経験が浅かった。

『ルブリョフ』の前に私は2作しか仕事をしていなかった。

すべてに満足したわけではなかったが、一貫性、首尾の統一の印象はそれが良い作品だと示唆していた。

私がつくろうとしているまさにそのたぐいの映画にうってつけの脚本だから立派な仕事だというわけだ。

俳優、ロケ地、カメラマンの貢献をあてにしているけど、この脚本は私たちの仕事を最後まで導いてくれる主導テーマを含んでいる。

当然、シーンを追加しますよ、省くシーンもあるだろうし、ただ土台はしっかり出来上がりました。


「この映画で私が何を言いたいのか」という質問に答えるなら、おおまかなことしか言えません

芸術と民衆との絆について直接何か述べるつもりはありません。

これはまあ、明らかでしょう。

脚本に明確に出ていると私は思います。

私は、自然の美を探り、美というものは、種子から植物が生長するように、悲劇から、災厄から育つことを観客に気づいてもらいたいとは願っています。

私の映画は美しい、族長的な古いロシアをめぐる物語にはならないでしょう。

私の願いは、輝かしく驚異に満ちた芸術が隷属、無知、文盲の悪夢の「続き」として出現することがどのようにして可能であったのかを示すことです。

私はこうした相互依存の関係を見つけだし、この芸術の誕生を跡づけたいと思います。

こういう条件が満たされたときはじめて私はこの映画が成功作だと思えるでしょう。


ここでオマール・ハイヤームの絵に触れておきましょう。

ご存じですか、薔薇の木があって、その根元に虫が何匹も食らいついているという絵を? 

しかし、死からのみ、不死は生まれるのです。

不死を理解するときに、私たちは死を理解するでしょう。

絡み合った白と黒とでも言いましょうか

そういう周期性を、生を理解する客観的で弁証法的様式と、例示の様態と共に、この映画を形作る基礎にするつもりです。

私たちはカメラマンのヴァディム・ユーソフとロケ地を選びました。
彼とは『イワンの少年時代』で既に仕事をしています。

脚本の仕事が続いている頃、ユーソフは別の映画作りに参加しました。

映画の歴史的な側面から、たくさんの人が必要な大きなシーンが求められ、そのために少なからぬ困難が生じることを忘れてはいけないでしょう。

例えば、クリコヴォ平原の戦いは省くことが出来ません。

ロシアがはじめて外国からの侵略者に対する道徳的な優越を悟る象徴になっているのですから。

ロシアが形成されるこの時代はディミトリー・ドンスキーの勝利抜きでは考えられません。

実現するのは面倒でしょうが、とにかく絶対に欠かせないエピソードです。
それは、(ロシアの王子が片棒を担いだもので、裏切りと腐敗の個人的な象徴となった)タタール人のウラジミール襲撃や、新しい鐘の鋳造のエピソードが欠かせないのと同じです。

これらのシーンはどれも小規模な解決が許されません。
こみ入った準備が必要です。(1965年)

伝記映画? 

違います、このフィルムは誰かの伝記を飾るエピソードが銀幕に再現されることはありませんから、伝記映画のジャンルに入りません。

ルブリョフの生涯を再構築することが私の意図だったのではなく、既に触れたように、私は主に人間に興味があるのです。

また過去の時代の雰囲気に興味があるのです。

しかし、だからといって時代劇になるわけじゃありません。

私の意見では、歴史的正確さは出来事を歴史的に再構築するという意味ではありません。

私たちが示したいことにとって重要なのは、それが真実味を帯びたあらゆる特性を保持すべきだということです。

俗に言う「時代もの」はしばしば、あまりに装飾過多で芝居がかっています。

異国趣味をすべて排除することも私の意識的な決定です。

エキゾチシズムは過去のものなら何でも凄いなと驚かせてそれでよしとする所まで来てしまいました。過去を含めて、すべてを通常の展望に収めて眺めるように努力しましょう![ノ]


ソロニーツィンに関して、私はただただ運が良かった。

最初、私はこの役を有名な俳優に任せることはできないと分かっていただけでした。

悪魔に憑かれたような一念が目に見えるような、強い表現力のある顔でなければならないと私は悟りました。

ソロニーツィンは、打ってつけの肉体的な外観であるだけでなく、複雑な心理過程の偉大な解釈ができる人物です。(1969年)

主役の俳優は映画に一度も出たことがない人物でなければならかった。

誰もが自分なりのルブリョフ像をもっているのだから、他の役を思い出させる人を使うことは出来ない。そういうわけで、それまで端役しかやったことのないスヴェルドロヴスクの劇場の俳優を選んだのです。

ソロニーツィンは、月刊「イスクーストヴォ・キノ」に載った脚本を読んで、モスフィルムまで自前ではるばるやって来て、自分以上にルブリョフをやれる者はいないと宣言したのです。

スクリーンテストをして、実際、はまり役だと私も納得しました。


『アンドレイ・ルブリョフ』をカットした者はいません。私以外にはね。

自分でいくつかカットをしました。

第1版で映画は3時間20分でした。第2版は3時間15分。

私は最終版を3時間6分まで短縮しました。

最後の版がベストで、もっとも成功していると私は確信しています。

長すぎるシーンをカットしただけです。
観客はそれらがないことにも気づきません。

カットは主題を変えてもないし、私たちにとってこの映画で重要であるものを変えてもいません。

言い換えると、意味のないひどく長いシーンを省いたのです。

観客に心理的なショックを引き起こすために野蛮なシーンをいくつか短縮しました。

ただの不愉快な印象を引き起こすためではありません。

それでは私たちの意図が台無しになります。

長いディスカッションの間カットするように忠告してくれた友人と同僚みんなの判断は、結局正しかったのです。

それを理解するのにしばらく時間が必要でしたがね。

最初私は、彼らが私の創造的個我を抑圧しようとしているのではないかと思いました。

後になって、私はこの最終版が私の要求以上の成果を挙げていることを理解しました。

だから映画が現在の長さに短縮されたのを全然後悔していません。[ノ]

画家のように色彩のハーモニーに敏感でない限り、日常生活で色彩に注目することはない。

例えば、私にとって映画のリアリティは白黒の階調に存在しています。

しかし『ルブリョフ』で私たちは生とリアリティを一方では芸術と関連づけ、もう一方でその絵と関連づけなければならなかった。

最後の色彩のシークェンスとモノクロフィルムの間の、このような関連は、私たちにとってルブリョフの芸術と彼の生の相互依存を表出する方策でした。

言い換えると、一方で、日常生活が合理的に現実的に提示され、他方でー彼の生を因習的な芸術で総括をして、次の段階で、その論理的な継続が来る。

アンドレイ・ルブリョフの壮麗なイコンをそんな短い時間で示すのは無理です。
だから私たちは選び抜いた細部を呈示し、観客を細部の断片の連続から、ルブリョフの至高の創造である、あの名高い「三位一体」のフルショットまで導いて、彼の仕事の全体像の印象を創造しようと努めました。

私たちは色彩のドラマツルギーのようなもので観客をこの作品まで導き、印象主義的な流れを創造し、観客が断片から総体へと移動するように願いました。

色彩のフィナーレは、およそ250メートルのフィルムを占めますが、観客に休息を与えるために必要だったのです。

モノクロームの最後のシーンが終わるとすぐに観客が映画館を出ていってほしくなかった。

観客は、ルブリョフの生から自らを引き離し、省察する時間を与えられるべきなのです。

私たちの狙いは、色彩を眺めながら私たちがつけた音楽に耳を傾けることで、観客が映画の全体から一般的な性質の結論をいくつか引きだして、心の中でその主要な道筋を選り分けることができるということです。

手短に言うと、観客に本をすぐに手放してほしくないんです。

もし『ルブリョフ』が「鐘」のエピソードでそのまま終わっていたら失敗作になっていただろうと思います。何としても観客を映画館にとどめる必要があったのです。

彼がどれほど偉大であったかを示すために、芸術家の生の継続のようなものを、付け加える必要がありました。

彼はそれらすべての経験を、最悪の経験を生き抜いたという事実をです。

そして、そうした体験からはじめて、彼の作品の色彩は得られたのだということをです。


こうした思いのすべてを観客に伝える必要がありました。

フィルムが雨にうたれる馬のイメージで終わることを指摘したいと思います。

私にとって馬は生命と同義であるので、象徴的なイメージなのです。馬を見ていると、私は生命そのものの本質にじかに触れているという感じがします。

もしかすると馬がとても美しい、人に優しい動物であるからなのでしょう。

それに馬はロシアの風景の特徴といってもいいでしょうから。

『ルブリョフ』には馬の出るシーンが数多くあります。

気球で空を飛ぼうとして人が死ぬ冒頭のシーンを思い出してください。

一頭の悲しげな馬は沈黙の目撃者なのです。

最後のシーンの馬の存在は、生命そのものがルブリョフの芸術のすべての源泉であったという意味なのです。(1969年10月)

原作者の特権を行使して私たちはアンドレイが沈黙の行に入るように決めました。

しかしそれは私たちが彼に同意するという意味ではありません。

それどころか、その後のエピソードで私たちは観客にアンドレイの沈黙が無意味であるということを納得させようとします。

その後の事件に直面すると、それは無駄なのです。

私たちの主人公は芸術家として何も出来ないのです。

彼は参加することが出来ないのです。

彼の沈黙は私たちにとって非常に幅広い、抽象的な、ほぼ象徴的な意味を持っていました。

アンドレイが沈黙しているエピソードで、映画の意味にとって根元的な重要性を帯びた出来事が生じます。

狂った村娘の登場人物がありますね、ブラゼナーヤです。

彼女は突然タタール人と一緒に行ってしまいます。

タタール人のひとりが好きになり、彼と一緒に行ってしまう。

狂った者だけが侵略者に輝かしく喜ばしいものを見いだすことができます。

彼女の狂気によって私たちは状況の馬鹿さかげんを強調したかった。

正気の人間ならあんなことはしないですよ。

しかしアンドレイは何か行動を起こすべきだったし、彼の責任ある立場に対するこの攻撃を許すべきではない。

なぜなら昔のロシアではブラゼナーヤは神聖な者と見なされました。

ブラゼナーヤ、ユロージヴィを侮辱することは当時大きな罪だと思われていましたから。

ところが彼は何も反応しない。

彼は誓いを守り、一言もことばを発さない。

アンドレイは他者のために立ち上がりもしなければ自分を守ることも出来ない。

ローラン・ブイコフの演じる旅芸人は、自分を警備隊に売ったのはアンドレイだと思う。

なぜなら彼が踊りながら貴族をからかった浮薄で批判的な歌を歌うのを眺める群衆の中にアンドレイがいるのを見たからです。

長い年月が経って、鞭打たれ多くの苦難を経験した流刑から帰ってきて、旅芸人は人々の面前でルブリョフを裏切りの罪で訴えます。

ルブリョフは身の潔白を証明できません。

彼は最後まで無言です。

彼は聖三位一体大寺院の壁画を描くように召喚されます。

彼はそれでも無言のままです。

彼は自分に引きこもり、自分の才能を埋もれさせて、狂人のように生きます。
何もかもが狂っている。

ルブリョフは正常な人間が行動するように行動しない。

祖国を愛する誇り高い市民が当然なすべき事をやらない。

自らの信念の力によって、鐘づくりに賭けた確信と情熱によって、ボリースカだけがアンドレイを沈黙から呼び覚まします。

強靭さ、人間の愛すべき創造力、忍耐力、そして自らの運命に対する信頼がルブリョフを罪深い誓いを破らせるように強制します。(1967年2月1日)
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/rublov2.html

Andrey Tarkovsky on "Andrey Rublev"
ttp://www.youtube.com/watch?v=nQVzjR8Y918

ttp://www.youtube.com/watch?v=97Ep4OtbSOM&feature=related


彼の発病は突然だった。

誰一人そんなことは思ってもなかったし、悲劇的なものとも思ってもいなかった。

1985年12月に体調がすぐれなくて、徹底的なメディカルチェックを受けたことは知っていたが、フィレンツェに発つ前、クリスマスイブに空港まで連れて行ってくれと頼まれたときには驚きが待っていた。

その道中で、彼はシンクロされたサウンドトラックの最終版の指示を始めた。
彼は映画の献辞を変えるように言った。

「我が息子アンドリューシャに捧げる、こうして闘うために私は彼から離れることになる」

とするように。

クリスマスの翌日、私はアンドレイが癌だと知った。


しかし1986年6月のあの日に、ドイツで彼は治ったように見えた。回復期が目前にあるかのようだった。私たちは高揚して、昔のように冗談を飛ばしていた。

アンドレイはベッドの傍らの小さなテーブルに置かれた聖書に手を伸ばして、「伝道者の書」の一節を読んだ。

1:2傳道者言く 空の空 空の空なる哉 都て空なり

1:3日の下に人の勞して爲ところの諸の動作はその身に何の益かあらん

1:4世は去り世は來る 地は永久に長存なり

1:5日は出で日は入り またその出し處に喘ぎゆくなり

1:6風は南に行き又轉りて北にむかひ 旋轉に旋りて行き 風復その旋轉る處にかへる。

1:7河はみな海に流れ入る 海は盈ること無し 河はその出きたれる處に復還りゆくなり

1:8萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず 目は見に飽ことなく耳は聞に充ること無し

1:9曩に有し者はまた後にあるべし 曩に成し事はまた後に成べし 日の下には新しき者あらざるなり

1:10見よ是は新しき者なりと指て言べき物あるや 其は我等の前にありし世々に旣に久しくありたる者なり

(伝道者の書第1章第2節から第10節)
ttp://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html

テクストが私を短調の気分に誘い、私たちの地上の生は時には無目的に思えると、地上的な反応を私がすると、アンドレイの反撃が閃光のように帰ってきた。

私たちの地上の生は、そんなひとつの見方で分類して片づけられるほど単純なものではない。

彼はページを繰って、また読んだ。

11:7夫光明は快き者なり 目に日を見るは樂し

11:8人多くの年生ながらへてその中凡て幸福なるもなほ幽暗の日を憶ふべきなり 其はその數も多かるべければなり 凡て來らんところの事は皆空なり

11:9少者よ汝の少き時に快樂をなせ 汝の少き日に汝の心を悦ばしめ汝の心の道に歩み汝の目に見るところを爲せよ 但しその諸の行爲のために神汝を鞫きたまはんと知べし

(伝道者の書第11章第7節から第9節)
ttp://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html

宗教は、タルコフスキーの生で重要な役割を果たした。

彼は宗教者と会って、彼らと信仰の問題を話し合いたいといつも願っていた。

私たちがよく話したテーマに、私の叔母の人生と宗教があった。

病気の時にアンドレイは彼女の見事な人生観から多くの力を引き出した。

彼女の精神的支えと宗教的省察は、アンドレイの魂にはっきりとした刻印を残した。

映画が完成すると、私は彼から、叔母への言葉を添えたポスターを受け取った。

彼は、一度もあったことのない、しかし、自分のために多くの祈りを捧げてくれたことを承知している女性に、それを贈ったのである。

アンドレイは、現代人が祈る力を失ってしまった、そしてそれこそ私たちの精神の枯渇を示すものだと信じていた。


彼はしばしば聖書のテクストに基づいた映画を作りたいという欲求を感じていたが、そんな大それた仕事をやり遂げるのに、自分は卑小すぎると思っていた。

しかし、他の誰がそんな試みを出来たであろうか?


療養所のまわりを午後に散策することがアンドレイの日課だった。
その道行きで、私たちはヨブ記に描かれた愛の複雑な性質について話した。
かくも厳しい試練にさらされた愛。かくも厳しき苦悩。
それと同時に苦痛と悲惨を生み出す愛について。


散歩はおよそ45分だったが、私たちが歩いたのは、あちこちに置かれたベンチに腰を下ろしたりして、300メートルほどだった。
そのとき初めて、私はアンドレイの体力がどれほど弱っているか、気がついた。


歩いたために疲れ果てて、アンドレイはベッドに横になり、聖書に手を伸ばして『伝道者の書』をまた読み始めた。

3:1天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり

3:2生るるに時あり死るに時あり 植るに時あり植たる者を抜に時あり

3:3殺すに時あり醫すに時あり 毀つに時あり建るに時あり

3:4泣に時あり笑ふに時あり 悲むに時あり躍るに時あり

3:5石を擲つに時あり石を斂むるに時あり 懐くに時あり懐くことをせざるに時あり

アンドレイは言った。

「覚えているかい? 私が『石を擲つに時あり石を斂むるに時あり』という題を私たちの映画につけたかったのを。

スウェーデン語では響きが良くなくてね。」

タルコフスキーは床についたまま、療養所の部屋の壁に掛けられたイコンを見やった。

彼の言葉の響きが消えて、森のささやきとツバメのさえずりが聞こえてきた。

しばらくしてから、彼はまた読み始めた。

3:6得に時あり失ふに時あり 保つに時あり棄るに時あり

3:7裂に時あり縫に時あり 默すに時あり語るに時あり

3:8愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり

3:9働く者はその勞して爲ところよりして何の益を得んや

3:10我神が世の人にさづけて身をこれに勞せしめたまふところの事件を視たり

3:11神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり

(伝道者の書第3章第11節まで)
ttp://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html

アンドレイは聖書を脇に置き、毛布を引き上げて、うやうやしくそれを隠すと、沈黙が再び訪れた。

それは虚無の沈黙ではなかった。深い瞑想に満ちた沈黙だった。


暗くなり、私の帰るときが来た。私たちは抱擁とキスを交わし、「イタリアで会おう」と言った。それが最後の出会いだった。1986年7月26日。


* * *

12:1汝の少き日に汝の造主を記えよ 即ち惡き日の來り年のよりて我は早何も樂むところ無しと言にいたらざる先

12:2また日や光明や月や星の暗くならざる先 雨の後に雲の返らざる中に汝然せよ

12:3その日いたる時は家を守る者は慄ひ 力ある人は屈み 磨碎者は寡きによりて息み 窓より窺ふ者は目昏むなり

12:4磨こなす聲低くなれば衢の門は閉づ その人は鳥の聲に起あがり 歌の女子はみな身を卑くす

12:5かかる人々は高き者を恐る畏しき者多く途にあり 巴旦杏は花咲くまた蝗もその身に重くその嗜欲は廢る 人永遠の家にいたらんとすれば哭婦衢にゆきかふ

12:6然る時には銀の紐は解け金の盞は碎け吊瓶は泉の側に壞れ轆轤は井の傍に破ん

12:7而して塵は本の如くに土に皈り 霊魂はこれを賦けし神にかへるべし

12:8傳道者云ふ空の空なるかな皆空なり


(伝道者の書第12章第1節から第8節より)
ttp://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html


彼の葬儀の日、パリの聖アレクサンデル・ネフスキー教会で、私たちはろうそくを手に、偉大な芸術家に別れを告げようとしていた。

僧はろうそくに火をつけて、最前列に立つ人々にその炎を近づけた。

次々と炎が点されて、最後には、ちらちらと踊る火をいただいたろうそくのすべてが、私たちのアンドレイ・タルコフスキーの想い出の連鎖をつくり出していた。

ttp://homepage.mac.com/satokk/mihal/mihal.html


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サクリファイス (1986)

ttp://www.youtube.com/watch?v=zENPuEqgT4U

ttp://www.youtube.com/watch?v=kK9pHTyyKA4&NR=1

ttp://www.youtube.com/watch?v=k4izcNMy4rY

ttp://www.youtube.com/watch?v=ahxujJlYwZU&feature=related

ttp://www.youtube.com/watch?v=2_aEjbYED0Q&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=Mr5cYiRPf3E
ttp://www.youtube.com/watch?v=QeQCb5uyIFY

ttp://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9-DVD-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC/dp/B000062VMC


『ノスタルギア』の撮影前に書かれた、『魔女』と題された『サクリファイス』の最初の脚本コンセプトは、癌にかかった人間の治癒をめぐって展開した。

不治の病と知り、自暴自棄の状態になると、アレクサンデルは不思議な人物と出会う。

彼はアレクサンデルに、回復の唯一の希望は、魔力をもつ魔女と噂される女性のところに行って、彼女と寝ることだと告げる。

アレクサンデルがそうすると、彼は驚異的な治癒を経験し、医者は茫然自失することになる。

ところが、ある日その魔女がひょっこり姿を現し、雨にうたれながら家の外で待ち受けて、彼をさらおうとする。

脚本のこの段階で、アレクサンデルの犠牲は、家族と所有物を捨てて、貧者の姿に身をやつし、この女性と家を去ることだった。

『ノスタルギア』の撮影中に、タルコフスキーは、当時映画で気になっていることと自分の実生活との数多い平行関係に驚いた。

映画の主人公、アンドレイ・ゴルチャコフは短期間滞在するだけの予定でイタリアを訪れたが、望郷の念に消耗していく。

そして、ロシアに帰ることは叶わず、最後にはイタリアで客死する。

タルコフスキー自身、最初は、映画が完成するとロシアに戻るつもりだったが、 彼もまたイタリアで病気になり、滞在を延ばすしかなかったのだ。


タルコフスキーは、また、アナトーリ・ソロニーツィンの死にひどく心を痛めていた。

タルコフスキーの作品の多くで主役を演じたソロニーツィンは、『ノスタルギア』でもゴルチャコフの役を演じる予定だった。

また最初から『魔女』のアレクサンデルの役がふられていた。

ソロニーツィンは、物語の第1版でアレクサンデルの人生に転機をもたらすあの病気で死んだ。

そして「今では、数年後に、私もまたその病気で苦しんでいる」

林の木の下でアレクサンデルが、小さな息子に話す言葉は、痛いほどの意味を秘めている。

「死なんてものは存在しない。死の恐怖だけが存在する」

ttp://homepage.mac.com/satokk/pgreen.html


タルコフスキーは家にほとんど異常なほど愛着があった。

『サクリファイス』で家が焼け落ちるのをワンシーン、ワンカットで撮影するのは、それ自体が彼にとって目的になった。

我々は、『サクリファイス』で焼け落ちる家が、潜在的に実生活で病魔にむしばまれつつある彼の肉体の映像になるのを実感し、それを目撃する。

撮影は1度失敗して、2度目に成功した。
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サクリファイス製作風景
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1. ノスタルジア 1983年

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サンガルガノ大聖堂の廃墟 


 アンドレイ・タルコフスキーの映画はすべてすばらしい映画的光景を映し出している。

『僕の村は戦場だった』はテーマの重さと拮抗するような映像のリリシズムがあった。

『惑星ソラリス』も突出したSF?映画だった。

東京の首都高速が未来都市のイメージとして活用されていることで話題になったが、むしろ、その後のタルコフスキーに頻出するブリューゲルとバッハの融合が印象に残る。

『ストーカー』も晦渋な映画だが、水のイメージがじつに美しい。

そしてタルコフスキー的な映像というてんでは、なかでも、『鏡』と『ノスタルジア』が秀逸だと思う。

 『ノスタルジア』は、イタリアが舞台だ。

ロシアから亡命してきた詩人(アンドレイ・タルコフスキーそのものだ)が、創作の自由のためにはロシアから離れねばならず、しかしその創作の源泉である故郷の原風景やロシアの大地から切り離されることによって生じる心理的葛藤(それをノスタルジアという)に苦しむ姿を美しい映像で描いている。

 ノスタルジアのラストに、ある廃墟の寺院が出てくる。

それがサンガルガノ寺院である

 私は、映画に導かれてこの寺院を訪問した。1993年のことである。


 資料として『タルコフスキーatワーク』(芳賀書店)の「ノスタルジアへの旅」(鴻英良)をみた。彼はノスタルジアのロケ現地をめぐる旅にでかけ、詳細にその発見を記している。

それによると、タルコフスキーの撮影チームは、ラストシーンをサンガルガノで、印象的な地下の聖母のシーンをトゥスカニアで撮影したことになっている。

私は、仕事でローマを訪れたさいに、フィレンツェに移動し、そこでレンタカーをして、トスカナ地方をドライブしてローマに戻る計画をたてた時、ぜひともこのサンガルガノの廃墟とトゥスカニアを訪れてみたいと思った(まぎらわしいが、トゥスカニアは、トスカナ地方にはない。ここもじつに素晴らしいところだった。町にはホテルが一軒しかなかったが、ここが素晴らしかった。)


(トゥスカニア全景と地下の聖母が撮影された場所)


 トスカナ地方をドライブしはじめると、すぐさま人生の至福につつまれるような感慨を味わった。

こんな素晴らしいドライブはそうはない。

フィレンツェもすばらしいが、サンジミニャーノ、シエナ、ペルージャ、アッシジといった小さな町々が途方もなく素晴らしい。

しかしサンガルガノは探し出しにくかった。

さきの鴻英良氏もサンガルガノへ行くのにはたいへん苦労している。
彼はレンタカーでなく電車をつかっていたのだ。

シエナから行くのだが、観光地ではないため、何もない田園のなかを迷いながら運転してたどりつくほかはない。

 うつくしいトスカナの田園のなかに、それはあった。

 夏のあいだには、臨時の売店なども開かれているから、訪れる人は案外少なくはないのかもしれない。絵はがきやカレンダーなども売っていた。

 サンガルガノがどういうものかは、次の写真をみてほしい。


 サンガルガノ大聖堂(廃墟)


 イタリアのガイドブックや、ミシュランの緑には、きちんとサンガルガノが紹介されている(小さくだが)。ミシュランによれば、人は、この廃墟を訪れると、あらためて栄華のはかなさと、人生についてしみじみと想いをいたすだろう、とある。

たしかに廃墟には、そういう想いへと人を誘う不思議な力がある。

ためにヨーロッパには廃墟趣味というのがあって、わざわざ廃墟を建築する!ことも多かったようだ。

もちろんサンガルガノは正真正銘の廃墟である。


 タルコフスキーのノスタルジアでは、ラストシーンで、イタリアに亡命した主人公が死んでゆく意識のなかで、故郷ロシアの原風景が蘇ってきて、その懐かしい風景の中に包まれて死んでゆくのだが、その故郷ロシアのノスタルジアに満ちた風景が、サンガルガノの廃墟のなかに再現されて、廃墟の建物と渾然一体となってえもいわれぬ効果を生み出していた。

そしてノスタルジアの風景のなかに、やがていちめん雪がふってきて静かに映画はおわってゆくのだ。この最期の風景だけでも、ノスタルジアは映画史に残るものではないかと思う。
ttp://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~adachi/sangalgano.htm

Andrei Tarkovsky - "Tempo di viaggio" (italian with french subtitles)

ttp://www.youtube.com/watch?v=PY9DPNQSET0
ttp://www.youtube.com/watch?v=P0pcra3oGQk&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=OAP7Iv4Z0SI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=bkygo4Kn7CI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=yyXeDNPzXFs&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=R8hrHfv2Ou4&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=5M4Md2S7Mtk&feature=related


イタリアのタルコフスキー

タルコフスキーは『ノスタルギア』を「単純なラブストーリー」だと言う。

(ヤンコフスキイ演ずる)アンドレイ・ゴルチャコフはロシアの大学教授で、長年講義してきた建築を実際に見るために、イタリアを初めて訪れる。

彼は自分の通訳兼ガイド(ドミツィアナ・ジョルダーノ)に思いを寄せる一方で、トスカーナの数学教授のドメニコ(ヨセフソン)に自分の一種の分身を見いだす。

ドメニコは世界の終末は近いと信じているので狂人と見なされているのだった。

ローマのRAIでの製作発表記者会見で、タルコフスキーはこう述べた。

「『ノスタルギア』のテーマは、人々がお互いを本当に知らずに共に生きるのは不可能なことと、相互理解の必要性から生まれる問題を扱っています。

名前を知るくらいなら非常に簡単だが、他者を深く認識する段階に達するのははるかに困難だ。

また表面にはさほど現れませんが、この映画には、文化を輸入したり輸出したり、異文化を取り入れるのは不可能だという主張を扱った一面もあります。

私共ロシア人もダンテやペトラルカが分かると主張出来る。

それはイタリア人の皆さんがプーシキンが分かると主張出来るのと同じ理屈です。

けれども実はそんなことは不可能なのです。

つまり同じ国民でなければならないのです。

文化を複製し伝播するのは、その本質に有害であり、皮相な印象しか広めない。

異文化を教えるのは不可能なのです。」

「この映画で、通訳のエウジェニアが『どうしたら分かりあえるのかしら』と訊く。

アンドレイ・ゴルチャコフは『境界を壊すことだ。』と答えます。

これは複雑な地球規模の問題で、単純なレベルで解くか、全然解けないかのどちらかです。

単純なレベルでは子供が解決してくれると言えますが、もっと複雑なレベルでは自己認識の問題と関連しています。

アンドレイは自分の分身とも言える狂人にこうした難題を肩代わりさせようとします。
アンドレイは真理を探求しているのですが、自分が直接分かってもいないものを教えても無駄じゃないかという思いが心をよぎることがあります。

彼は、あの狂人に、自分の行動に確信を抱いている人物を見いだす。

世界の救済法を知っていると言って、それに基づいて行動する人間を見いだします。

ドメニコは反省を知らぬ、ただ行動するだけの無邪気な子供に似ています。

ですからある意味でアンドレイに欠けているものを代表しているのです。」
ドメニコのキャラクターは、部分的には脚本が既に脱稿した段階で、グウェラがたまたま見た新聞記事からインスピレーションを受けたものだった。

タルコフスキーによると、それは映画に重要な総合性をもたらす幸運な発見であった。

「グウェラは類い稀な才能に恵まれた詩人で、偉大な発見が出来る。

幸い私は映画畑で、グウェラは詩の方ですから、嫉妬しなくてすんでいますがね。」
タルコフスキーは最初はモスクワでかなりの部分を撮影する計画だったが、ソヴィン・フィルムとの協約が破棄されて、彼はモスクワのシーンに振り分けたフィートを半分に減らさねばならなかった。


「運命は私たちに救いの手を差し延べてくた。

トスカーナで見付けた家はモスクワより映画的にはるかに興味深いものです。

イタリアに、ロシアのこのささやかな一角を拡張出来るのを私はとても嬉しく思っています。」

タルコフスキーは今でも水にとりつかれたままなのだろうか?

「水は神秘的な要素です。一個の分子であり、とてもフォトジェニックです。」

とタルコフスキーは語る。

「水は運動と、変転と流動の感覚を伝えることができる。

『ノスタルギア』にもたくさん水があるでしょう。

たぶん水には潜在意識の反響があるのかも知れない。

ひょっとすると、私が水を大好きなのは、先祖の輪廻転生を隔世遺伝で記憶していることから生まれるのかも知れない。」


彼の映画の「悲観主義」とイタリアの人生観の「楽観主義」に生じうる軋轢について、また、イタリア人には彼の映画を理解するのが困難なのでは? と問い質すと、タルコフスキーはこう答えた。
「私にだって楽観主義はある。

今度の映画は比較的単純で分かり易いラブストーリーです。

けれども同時に私は、表面下に潜むもっと深遠で混沌としたものを、底まで掘り下げる努力をしています。

悲観主義は、気遣いと人が自分に課す問題の複雑さが絡んで生まれてくる。

こうした問題は、歓喜に満ちた態度で世界に向かっても解けるはずもない。

私の関心は、世界の現状を気遣い、胸を痛めている人々にあります。

このために、時には、余りに複雑になるのかも知れません。」

「映画は高度の緊張を伴う芸術形態です。

一般には理解されないことかも知れませんがね。

私は理解されたくないというのではなく、例えばスピルバーグのように、一般大衆向けに映画を作るのは私には出来ないということです。

もし自分にそんなことが出来ると分かったら、恐ろしく恥ずかしいでしょうね。

一般大衆に届きたいなら、芸術とは何ら関係のない『スターウォーズ』や『スーパーマン』のような映画を作らなければならない。

私が、大衆を白痴のように扱っていると、とらないでください。

ただ確かに私は、大衆を喜ばせようと苦心したりしない。

ジャーナリストの皆さんの前で、どうして私はいつもこんなに自己弁護ばかりしているんでしょうね。近頃私には、皆さんが欠かせないでしょう。

私の映画がアンゲロプロスと同じくらいの配給を得るのなら、特にそうでしょう!」
ttp://homepage.mac.com/satokk/at_in_italy.html

タルコフスキー、『ノスタルギア』を語る

内面への旅 ギデオン・バックマン


バックマン:
まず最初に、西側で仕事をする感想を話してもらいたいですね。
アンドレイ・タルコフスキー:今回は初めて外国で映画を撮るだけでなく、私は外国の条件下で初めて仕事をしています。

世界中どこに行っても映画を作るのは難しいと思います。

でも、何が難しいかが場所によって変わってくると私は気づきました。

こちらで、最も大きい障害は金と時間の不足がずっと続くことです。

特に資金不足は創造性を妨げ、また資金が不足すると時間が足りないということになる。

映画に取り組む時間が長くなるほど、コストも高くなる。


ここ西側では、お金が支配する。

ソビエト連邦で私は一度も費用のことは考える必要がなかった。

とにかく心配無用だった。

イタリアのテレビ会社RAIがとても気前よく、この映画製作に招いてくれました。
実際そうなんですが、割り当てられた予算は明らかに乏しい。

これまで外国で働いた経験がないので、いくらかは私の思いこみかも知れませんが。
現在のプロジェクトは実際に「文化的なイニシアチブ」と分類されていて、商業的ヴェンチャーとは思われていません。

一方では、イタリアの映画チームと技術的クルーと一緒に仕事をするのは、とびきり報いのある経験です。

彼らは極めつけのプロで、高度な知識があり、自分の仕事を楽しんでいるようです。
誰もが自分のやっていることを愛しているように見えます。

しかし私は、私たちロシア人の方法とイタリア人のやり方の比較をしたくない。
どこへ行っても、理由が何であれ、映画作りは複雑で骨の折れる仕事です。
私が西側で一番批判に値すると思うのは、全く経済的な要素に全面的に依存していることです。

これは、芸術形式としての映画の未来そのものを危難にさらす可能性をもっています。

ギデオン・バックマン:
あなたが20 年間に作った5作品:『僕の村は戦場だった』、『アンドレイ・ルブリョフ』、『ソラリス』、『鏡』そして『ストーカー』すべてに、個人と個人を取りまく環境の間にいつでも強い対立があります。
『ノスタルギア』でもこれがテーマですか?

強いのは常に葛藤そのものであり、個人ではありません。

それどころか、私の中心人物は必ずと言っていいほど、弱い人間です。

その人間の強さは彼らの弱さから生まれてくる。

彼らがその環境に上手く適応していない、環境と調和していないという事実から彼らの強さは生まれてきます。

当然、個人と社会の間には、際だった個人と彼を取りまく環境の間には、いつでも葛藤があります。

すなわち、これらの間にはいつでも対立が存在していて、これこそ私たちは葛藤だと言うのです。

人間関係の存在しないところには、葛藤もまた存在しない。

私は、社会との関係が対立の強い要素によって特徴付けられる人物を使うことに興味があります。

そういう人は自分を囲む現実に対して強烈な関係を持っていて、このために、そういう人は常に、最後には環境と衝突してしまうようです。

私はそういう人間を追いかけて、彼が自分の問題をどのようなやり方で解決するのか見つけだしたいのです。

自分のなかに閉じこもってしまうのか? 
それとも自分自身に誠実であり続けるのか?

ある意味で、これは私の作劇法のまさに根っこにある問題だと言えるかもしれません。


ギデオン・バックマン:
どのようにして『ノスタルギア』が誕生したのか、話していただけますか?

私は何度かイタリアへ来たことがありますが、およそ3年前に、よい友人で、イタリアの作家、詩人であり脚本家であるトニーノ・グウェッラと一緒に映画を作ることに決めました。

映画は私のイタリア体験をめぐるものになる予定でした。


オレグ・ヤンコフスキー演じるゴルチャコフは仕事でイタリアに来たロシアの知識人です。

映画のタイトルは、『ノスタルジア』という言葉では非常に不満足な翻訳でしかないのですが、私たちから遠く離れたものを求める苦悩、憧れても憧れても一体化することの出来ない諸世界を求める苦しみを示しています。

しかし、それは内面の故郷への憧れ、何らかの内的帰属感を表してもいるのです。

映画の「アクション」、出来事そのものの順序は、何度か修正されました。

一部は脚本を書いている準備段階で、また一部は撮影中にも修正されました。

私は分断された世界で、引き裂かれて砕け散った世界で生きることが不可能であることを表出したいのです。


ゴルチャコフは歴史の教授、国際的に知られたイタリア建築史の専門家です。

彼はそれまで複製と写真だけで知っていた、そして教えていた記念碑と建物を今こそはじめて、眼で見て手で触れる機会に恵まれたのです。

イタリアに到着するとすぐに、彼は、芸術作品を生みだした文化の統合的な部分にならない限り、芸術作品を伝えたり、翻訳することは出来ない。

知ることすら出来ないと実感し始めます。

さて、彼は18世紀の少しは知名度のある作曲家の足跡をたどるためにイタリアに来ます。

その作曲家は元はロシアの農奴だったのですが、主人によって宮廷音楽家として教育を受けるようにイタリアに送られたのでした。

彼はボローニャ音楽院でジャンバティスタ・マルティーニを師とし、やがて有名な作曲家となり、その後は自由人としてイタリアで生活をしました。

映画の重要なシーンに、ゴルチャコフが、イタリア人の通訳であり旅の連れである若い女性に、作曲家がロシアに書き送った手紙を示すところがあります。

そこで彼は、ホームシックを、彼の「ノスタルギア」を表現しています。

それが何を指示しているかと言うと、この作曲家は実はロシアに帰ったが、アル中になり、最後に自殺したということです。


ゴルチャコフにとっても、イタリアの経験は人生を変えるものになります。

イタリアの美とその歴史は、彼の魂に大きな印象を刻み込み、彼は苦しみます。

なぜなら、彼は自分自身の背景をイタリアと内的に和解させることができないのです。

彼のイタリア体験ははじめは全く外的な性格しか持っていないのに、ソ連に帰ったらそれが何かの終わりを内包するだろうと、彼はやがて気づきます。

そのため彼は憂鬱になります。

自分がイタリアで経験したことを忘れることも、捨ててしまうことも決して出来ないと知っているからです。

自分のイタリア経験を生かすことが自分にはできないのだと思い知ると、彼の内的な苦痛、「ノスタルギア」は増します。

このノスタルギアには、彼が自分の体験を故郷の愛する人々と共有することが出来ない、イタリアに出立する前には彼の最も近しい人々とも共有できないということを自覚することも含まれます。

他者と、自分の印象と経験を共有できないことをこのように意識すると、彼の滞在はひどく辛いものになります。

彼の魂は拷問をされたようになりますが、同時に、心の友を見いだす欲求が彼の中で揺れ動きます。彼を理解し、彼の経験を共有出来る者を求めます。


映画はノスタルギアの本性を探る一種の論考です。

あるいは、ノスタルジアと称されるかも知れないが、実際には憧れよりも多くのものを含んでいるあの経験に関する論考です。

ロシア人は、最大の困難を経験しなければ、新しい友人や知人と別れることが出来ない。

ソ連への帰郷が迫ると、それは悪夢になりますが、このイタリアへの憧れも、「ノスタルギア」と呼ばれるこの複雑な現象を創り出す多くの要素のひとつにすぎないのです。

ギデオン・バックマン:
映画では何が、魂の友を求める気持ちをあらわしているのですか?

ゴルチャコフは彼の経験を本に書くという最初の意思を放棄し、むしろ出会ったイタリア人に、その経験を手渡す、あるいは渡そうと心を決めます。

エルランド・ヨセフソン演じるトスカナの村の出身の数学教師に手渡そうとします。
7 年間このイタリア人は、彼が最も恐れる災害から妻子を救うために妻と子どもたちを家に閉じこめました。

彼は世界の終末を恐れていたのです。


この幾分異常で、神秘的な狂信者はゴルチャコフにとって、一種の「第二の自我」になります。

ゴルチャコフは彼に自分自身の感情と疑惑を認めます。

ドメニコ、その教師は映画の肯定的な力と見なせるかも知れません。

彼の性格は、未来に必要な状況を人格化しているからです。

彼はゴルチャコフの主な話し相手になりますが、彼は、ゴルチャコフが自分の内面に現れ始めていると感じる精神的な不安の極端な事例を表しています。

ドメニコはまた、人生の意味、自由と狂気の概念の意味の、絶えざる探求を表象しています。
もう一方では、彼は子どもの受容性を、しばしば子どもに見つけられる並はずれた感受性を、保持しています。

しかし、彼は、ロシア人に欠けているある特徴を併せ持っています。

ロシア人が容易に傷つき、生命の深い危機に陥る状況でも、このちょっと頭のおかしいイタリア人は単純で、核心にずぱっと斬り込んで、彼自身の啓発された外向性で、一般的な問題の解決を見いだします。

トニーノ・グウェッラが新聞の切り抜きでこの人物を見つけてきて、私たちはそれをもう少し展開しました。私たちは彼に子供じみた気前の良さといった感じを与えました。
一種無邪気な寛大さが彼には強力にある。

彼を取りまくものとの関連で彼の率直さは、子どもに見られるような信頼感を強く思い出させます。

彼は信念の行為を遂行するという思いに取り憑かれています。

火のついたロウソクを手に、トスカニアの村の真ん中にある巨大な、四角い古代ローマの温泉、バーニョ・ヴィニョーニの湯を抜いた温泉場を渡りきるといった行為です。

ゴルチャコフがこれをやろうとするのですが、ドメニコはさらに大きな犠牲が必要だと考えて、ローマに行き、カピトレウムのマルクス・アウレリウス像の上で焼身自殺をします。

それは暴力的な犠牲行為ですが、しかし狂信の要素はいささかもなく、 啓示の瞬間に啓示される救済への心穏やかな信念で行われます。

ギデオン・バックマン:
主人公の2人、建築学の教授と数学教師は、あなたが個人的に自己同一視出来る性格を持っていますか?

私が2人のどこが一番好きかと言うと、狂人の行為にある信頼感であり、旅人のほうは、より大きな理解を達成しようとする執拗さです。

その執拗さは希望と呼ぶことも出来るでしょう。

ギデオン・バックマン:
この2人を結びつける関係はご自身の気持ちを反映していますか?…

私のヒーローは、「狂人」を首尾一貫した強い人格だと考えている。

「狂人」は自分自身の行動に確信があるが、ヒーロー自身にはこのような確信が欠けている。

それで彼はドメニコにすっかり魅了され、最後には、ドメニコこそ、私のヒーローがいつも考え込んではすべてを合理化していたのを、そうすることなく生きる勇気を与える助けになります。

この意味で—この展開のおかげで—ドメニコはゴルチャコフの「もう一つの自我」になるのです。

人生で最も強い者は、子供の信頼と直観的な安心感を保持することに成功した者である。

ギデオン・バックマン:
この映画を作る何らかの外的な理由があるのですか? 
その内的緊張を解読する鍵を与える何らかの明らかなテーマが?

私にとって、人々が互いに出会って一緒に働くことがどれほど重要であるかを何度でも示すことがとても大切なのです。

独りで、自分の秘密の片隅で生きるときには、欺瞞的な平穏が支配するように思えます。しかし2人の人間が互いに接触すると途端に、この接触がどのように深められるか、意味深いものになりうるかという問題が生じます。

この映画は、ですから、何よりもまず、文明の2 つの形式、2 つの生き方、2つの異なる考え方に内在する葛藤を扱っています。第二に、人間関係で巡り会う類の困難を扱った映画です。

男女の愛情関係ということになると、一緒に生活することがどれほど難しいか、お互いをよく知らないときにお互いに感じた愛情を感じるのがどれほど難しいか、そういうことを示したいと思います。表面的に知り合うことは簡単ですが、お互いを本当に知るようになるのはずっと困難です。ゴルチャコフはイタリア女性の通訳と一緒です。若い女優ドミツィアーナ・ジョルダーノがエウジェニアを演じています。

それは—単純に言うと— 教授と女性との、始まりもしないラヴストーリーでもあります。


しかし、もっと広いパースペクティヴから見ると、映画は文化を輸入したり輸出することが不可能であることを示すでしょう。ソビエト連邦の私たちはダンテとペトラルカを理解していると思っているが、これは正しくない。またイタリア人はプーシキンを知っていると思っているが、これもまた誤った考えである。抜本的改革がない限り、その文化に疎遠な人に、ある民族の文化を移植することは絶対不可能でしょう。

ゴルチャコフの苦悩がはじまるのは、彼を取りまくすべての新しいもの—イタリア滞在中に彼の関心を惹いた感情と人間に魅了されるのを自分が遅かれ早かれ止めなければならないと気づくときです。新たな魅惑と興味が彼の中でうごめき始めます。

彼はある人物に出会う。彼自身のように、真の関係を築くのは不可能であると理解していて、それゆえに自分自身を犠牲にする人物です。その人物、ドメニコは同じような心の断片化に苦しんでいます。自分の内側で全世界と、あらゆる良きもの、人間、情緒、そして霊性と、一体化することが出来ないことで苦しんでいる。

誰もがドメニコを「狂人」だと思っている。もしかするとそうなのでしょう。
しかし彼が狂人だと見なされる理由、彼の反応と感情を生み出す理由、ゴルチャコフが非常にはっきりと認識する感情は、全く正常なものです。

ギデオン・バックマン:
それは別の受肉をした自己との出会いなのですか?

ゴルチャコフは類似を認識し、出会いが比較的短いという事実にもかかわらず彼は2人の間のつながりを感じることができます。2人の苦しみが似ていることが、2人を結びつけるのです。

映画を撮影していくうちに、ドメニコはさらにもっと重要になり、私たちは彼に、当初よりずっと堅固な造形を与えました。真の触れあいが不可能だとゴルチャコフがますます自覚するようになったことを、彼はさらに明確に表現します。

ある程度、彼はまた私たち全員が生きざるを得ない恐れ、来るべき未来の私たちの不安をも、表現しています。恐怖こそ、未来を待ち受ける私たちの心理状態の問題なのです。—未来が抱えた問題なのです。


誰もが未来を憂慮している。未来に安心できない。

この映画はこの私たちの不安と深く関わっています。
また我々の無感動もテーマです。

無感動がいかなる方向にでも状況を展開させてしまうからです。私たちは憂慮していますが、それと同時に状況を変えるために何もしていない。確かに、私たちは実際には多くのことをしていますが、私たちが「実際に」していることは、絶望的に不十分です。もっと多くのことをすべきなのです。

私がかかわっている限りでは、私にできるすべてがこの映画です。私が捧げるささやかなすべてです。ドメニコの苦闘は私たちすべてと関わっているのだと示すこと、あまりに受け身だと私たちすべてを責めるときドメニコが全く正しいのだと示すしか私には出来ない。彼は「正常者」が怠惰すぎると訴える「愚者」です。彼を取りまくものすべてを揺すり起こすために、自己を犠牲にして、自分自身の警告を強調します。これが彼の犠牲であり、彼に出来るすべてなのです。

彼の意図は、私たちに行動を強制することであり、「現在」を変えることです。

ギデオン・バックマン:
ドメニコにこの行為をさせる世界観はあなたのものでもありますか?

ドメニコの性格の本質的な要素は、彼の世界観そのものではありません。

究極の犠牲行為へと彼を導くあの世界観ではありません。

むしろ彼が内面の葛藤を解決するために彼が選択するやり方なのです。

従って、私は彼に立ち現れる葛藤ほど、彼の出発点に興味がありません。

私は彼の抗議がどのように生まれたのか、彼がどのようにそれを表現したのかを、理解したいし、示したいのです。

私は実は、彼がそれを「どのように」表現するかにも興味がないのです。

最も重要な事は、抗議そのものの存在自体なのです。

私は、個人が抗議を表現するのに選ぶ方法が重要だと思います。

恐れることなくはっきりと表明された素朴な意見すら(頭がおかしいと思われても仕方がない意見でも)、いわゆる「正常人」の話より、怠慢なおしゃべりに身を委ねて、決して何も実際は「行動」しない人の言葉よりも、多くのことを意味しうるのです。

ギデオン・バックマン:
あなたの考えが多数の聴衆に達することが重要だと思われますか?

万人が理解できる芸術映画の形式が存在すると私は思わない。

従って、すべての観客の役に立つ映画を作ることはほとんど不可能です。もしそれが出来たら、芸術作品ではなくなるでしょう。芸術作品は、異議申し立てを受けずに、認められることはないのです。

スピルバーグのような監督には大変な観客がついていて、巨万の富が懐に入り、だれもがそれを喜びますが、彼は決して芸術家ではないし、彼の映画は芸術ではない。もし私が彼のように映画を作るなら—自分に出来るとは思いませんが—私はまったくの恐怖で死んでしまうでしょう。芸術は山のようなものです。山頂があり、それを取りまいて丘陵がある。山頂に存在するものを誰もが理解できるわけではない。


観客を虜にして、私がやっていることに興味をもたせることが私の課題だとは思いません。それが暗示しているのは、私が彼らの知性を過小評価しているということだからです。結局、観客が馬鹿ばかりだとは思いません....

しかし私が芸術作品をつくるということだけ、プロデューサーに約束したら、世界のプロデューサーは誰も私に、びた一文投資しないということを私はしばしば考えます。

ですから、私は自分の作る映画の1作1作に私の精力と勤勉さのすべてを投資します。

私は私のベストを尽くそうとします。そうしなければ、私は二度と映画を作るチャンスに恵まれないかも知れません。

私は私なりのやり方で、自分の理想を妥協させずに、観客の関心を獲得するのに成功してきたと思います。

そしてそれが、結局、大切なのです。

私は、青い空の彼方をただよう知的なタイプではないし、別の惑星からやって来たわけでもない。

それどころか、私は地球と地球の人々に親密な絆を感じます。

端的に言うと、私は知的に実際以上にも実際以下にも見られたくない。

私は観客と同レベルですが、私には別の役割がある。私の使命は観客の使命とは異なっている。

あらゆる人の理解を得ることは私には重要でありません。
私にとって最も重要ことは、万人に理解されることはないということです。

映画が芸術形式なら—私たちは同意見だと思いますが—芸術の傑作は消費財ではない、むしろ、創造性の見地からも、それを生み出す文化に関しても、時代の理想を表現する芸術的頂点なのです。それを忘れてはいけない。

傑作は、私達が生きている特定の時代の理想に形式を与えます。

理想は、決して万人にすぐ近づけるものではない。

理想に近づくには、精神的に発達し、成長しなければならない。

大衆の精神的なレベルと芸術家が証す理想の間の弁証法的な緊張が消えるなら、芸術が本来の目的と働きを喪失してしまったということになります。

残念ながら、目にする映画が単なるエンターテインメントのレベルを超えていると言えるのは稀です。

私がドヴジェンコ、オルミ、ブレッソンの映画を大切に思うのは、彼らの純粋で素朴な禁欲的な感触に私が惹かれるからです。芸術はこうした特徴に到達する努力をしなければならない。それから信頼感に。


観客の意識に創造的な理念が到達する前提条件は、創作者が観客に信頼を寄せているということです。両者は共通のレベルで相互に意思疎通することが出来なければならない。他に道はありません。

創造者にとって全く明白なものに関するときですら、観客に理解を暴力的に強制しようとしても無価値です。しかし、観客の倫理原則を尊重しなければならないとしても、近代的映画芸術形式を創造する自らの義務に妥協があってはならない。

観客の後ろ向きの趣味に支配されてはならない。

私は、文学的、演劇的、劇的な構築を信じない。


それは芸術形式としての映画特有の作劇術と共通点がない。

ほとんどの現代映画はアクションをとりまく情況、映画の叙述を観客に説明することに終始する。しかし映画に説明は要らない。むしろ情緒に直接訴える必要がある。その時高められた情緒の状態が知性を自ずと前進させるのです。


私は、主題自体の論理の代わりに主観的な論理—思念、夢、記憶—を伝えさせてくれる映画を編集する原理に到達しようと努力しています。

私は、現実の状態と魂の人間的な状況、言い換えると、人間の行動に影響を及ぼす要因から発生する形式を探しています。

それは心理的な真実を提示する最初の条件です。

ギデオン・バックマン:
「主題の論理」は映画のプロットと同じですか?

私の映画では、物語自体は特に重要ではありません。

私の作品で真に意義深いものは、映画のプロットに表現されたことは一度もない。

私は不必要に気を散らすものを排除して、重要なことについて話そうとします。

純粋に論理的なレベルでは必ずしも結びつかない事物を示します。

内的な人間性において、私たちにそうした事物を結びつけるもろもろの思念をひっかきまわすのです。

ギデオン・バックマン:
ということは、あなたにとって重要なことは映画で伝えられる情緒であって、語られるストーリーそのものではないと言うことですか?

私は、私の映画であれはどういう意味なのか、これはどういう意味かとよく尋ねられます。

ひどい話です! 

芸術家は自分の狙いを答える必要はない。

私は、自作に関して特に深い考え、深遠な思想を持っていません。

私の象徴が何を表すのか、私はまったく分からない。

私が唯一追求しているのは、そういう象徴が特定の情緒を生み出すということです。

どのような感情が出現するにしろ、それは内面からのあなたの応答に基づいているのです。

ひとは常に、私の作品に隠された意味を発見しようとします。

しかし映画を作り、同時に、自分の思考を隠そうとするのは変ではないですか?私のイメージは、ありのままのイメージであり、何の意味もない.... 私たちは自分自身をあまりよく知らない。

つまり、 時々私たちは慣習的なやり方では計りきれない力を表出することがあるのです。

ギデオン・バックマン:

あなたの映画で「旅人」が頻繁に隠喩として用いられて来ましたが、『ノスタルギア』の場合のように、はっきり定義された主題であったことはありません。あなたはご自身を「旅人」と思われますか?

1 つの旅しか可能でない. 内面への旅です。

地球の表面をあちこち駆けめぐっても大したことは学ばない。

いつか出発点に帰り着くように旅をするとも私は信じない。

人間は決して出発点には戻らない。

なぜなら旅の過程で彼が変わってしまうからだ。

そして言うまでもなく、私たちは自分自身から逃れられない。

私たちは、私たちであるものを、担っている。

私たちは私たちの魂の住処を、カメが甲羅を運んでいるように、運んでいる。

世界中の国をめぐる旅は、単なる象徴的旅でしょう。

どこに到達しようとも、探しているのはやはり自分自身の魂である。

ギデオン・バックマン:
自分自身の魂を探索するためには自分自身に強い確信がなければならない。しかし今日、自分の立場を取りうる自分自身の能力への人間の信念は、 —いたるところで—外的な出来事、外側から来る理念への信念に価値をおく狂信に屈服してきたように、私には思えます。

そうです。私は、人類が自分自身を信じることを止めてしまったと感じています。

言い換えると、「人類」そのもの—ではなく、そんな概念は存在していません—むしろひとりひとりの人間個人を信じる気持ちがなくなってしまった。

現代人の魂を考えるとき、私には合唱隊の女性歌手に見えます。

彼女は音楽のリズムに合わせて口をパクパクするのですが、一音も発声しないのです。

結局、他の皆が歌っているのです!

彼女は歌っているふりをしているだけです。

他の人たちの歌で十分だと思っている限り、そうです。彼女がこんなふうに振る舞えるのは、自分自身の個人の行動の大切さに信頼を失っているからです。

現代人は信念を欠いている。自分の行動で社会に影響を及ぼすことが出来るという希望を喪失している。

ギデオン・バックマン:
そのような世界で映画を作る意味は何ですか?

人生の唯一の意味は、精神的に成長するときに求められる努力にあります。

誕生したときとは別の何かに私たちは変わる。

人生の意味は、発達してそうなるのに必要な努力にある。誕生と死の間の期間にこれを成就するなら、それが困難であり、進歩が時にはのろのろしたものに思えるとしても、私たちは実際、人間性に奉仕したことになるのです。

私はますます東洋哲学に興味をそそられています。

そこでは、人生の意味は観想にあり、人は宇宙の不可分の部分なのです。

西洋世界はあまりにも合理的になり、西洋の人生観は、より実用主義に根ざしているように見えます。
つまり、あらゆるものを少しずつ完璧なバランスに保ち、体を生き続けられるようにして、出来るだけ長い間ただ「存在」していればよい。

ギデオン・バックマン:
存在の経験を描く計器としての時間の概念を信じないのですか?

私は、「時間」が本質的に客観的なカテゴリーでないと確信しています。

「時間」は、人間がそれを知覚しなければ存在できないからです。

科学的な発見の数々も同じ結論を引きだしているようです。

私たちは「今」に生きていない。

「今」はあまりにも移ろいやすいので、ゼロではないが近づくほどにゼロに近づくので、それをつかまえる方法がない。

私たちが「今」と呼ぶ時間の瞬間はただちに「過去」になり、「未来」と呼ぶものが「今」になり、それもまたすぐに「過去」になる。

「今」を経験する唯一の方法は、自分自身を「今」と「未来」の間に存在する深淵に突き落としてみることです。

こういう理由から、「ノスタルギア」は過ぎ去った時をめぐる単なる悲嘆と同じではないのです。

ノスタルギアは、私たちが自分の内的な天賦を当てにするのを諦めて、それらを適切に整え利用しないとき、そうすることで自分の義務を行うのを怠ったとき、そうやって消え去った時をめぐる強烈な悲しみの感情なのです。
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カンヌのタルコフスキー

50歳になるアンドレイ・タルコフスキー、この繊細な詩人にして見事な映像芸術家(20年で5作−5つの傑作映画の創造者)がカンヌ映画祭にやってきた。

明日『ノスタルギア』を上映してイタリアの旗を高く掲げることになる。

この映画は彼とトニーノ・グウェッラとの共同脚本で、RAIとゴーモンの出資でローマで撮影された。

真剣なテーマの映画を見せることになる彼は、真剣なテーマを語ることになる。


ポルロ:
何への郷愁なのでしょうか、タルコフスキーさん?

タルコフスキー:私たちの「ノスタルギア」はあなたたちの「ノスタルジア:郷愁」ではありません。

個人的な感情ではなく、国外に出たロシア人が経験するとても複雑で深遠なものなのです。

それは、病です。

魂の力、仕事の能力、生きる喜びを枯渇させる病気です。

私は、このノスタルギアを、具体的な物語、イタリアに来たソヴィエトのインテリゲンチャの話と突き合わせて、分析します。

ポルロ:
そのノスタルギアにさいなまれながら、イタリアでの仕事はどうでしたか?

きわめて良好でした。

なぜなら、なんといっても、映画というものはどこでも大きな家族なのです。

この映画をつくるのに通訳もいらなかった。

ブロークンなイタリア語で言いたいことは通じましたから。

映画は普遍的な言語を使っています。

お互いを理解し、自分を説明するのに役立ちます。

ところが、この手の仕事、つまり映画作りの財政面に関して、議論が多すぎるのには驚きました。ロシアでは、議論にもならないことですから。

ポルロ:
ロシア人の主人公を見ていると、自伝的な映画として見たい気持ちに駆られるのですが。

そうですよ。ただし芸術的な観点からに、限られますが。

実際、そういう意味では、この映画ほど暴力的なほど私の気分を反映させた映画をつくったことがありません。

私の内面世界をこれほど深く解放させた映画は初めてです。

私自身、完成した映画を観たとき、この表出力に直面して愕然としました。

気分が悪くなったほどです。

鏡に映った自分の姿を見たときや、自分のもくろみを踏み越えてやりすぎたと感じたときに経験するのと同じ気分です。

ポルロ:
それでは、何があなたのもくろみだったのですか?

私の願いは、イタリアにやってきて、自分に関して思いがけない情緒を発見するロシア人を観察することでした。

もちろん、私がアフリカに行っても、どこに行っても、同じことが起きたことでしょう。

この男は国と国を隔てる障壁がある理由が分からない。

人間同士を分離しようとする人工的な慣例を受け入れない。

こういうことは当然、彼に恐ろしい苦悩を引き起こします。

お互いにもっと理解するにはどうしたらいいか聞けば、子どもでも、国境を開放したらいいと答えるでしょう。

もちろん、これは素朴で、理想主義的な答えですが、基本的には正当なものです。

この素朴な世界観と祖国を出た人間の現実的な生活状況がこのように衝突することから、ドラマが生まれるのです。

ポルロ:
お仕事が助けになりましたか?

映画はもっとも高貴で重要な芸術です。

とはいえ、商業と商品市場から誕生したという原罪をいまだに贖っているところなのですが。

ポルロ:
このすべては悲観論に非常に近いとは思いませんか?

その逆です。真の悲観論者は、幸福を求め続ける人たちです。

2,3年待って、それからどこまで実現したか、訊いてみたらいいのです。

ポルロ:
あなたの楽観論がどこにあるのか訊いてもいいですか?

私たちの文明のドラマは、科学技術のニーズが、精神性の要求から調和を欠いて、一方的に発達していることにあるのです。霊性の完成こそ、人生の本当の目的なのです。
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アンドレイ・タルコフスキー・インタビュー2

(ナタリア・アスペシ)1983年カンヌ
私たちロシア人には、あの優しい感情が致命的な病なのです

アスペシ:
賞に関心はないのですか?

タルコフスキー:ないと言えば、嘘になります。

自分の本が読まれようが読まれまいが、気にしないという作家のようなことになってしまいます。

映画は観られるためにつくられるのです。

万が一、『ノスタルギア』がここカンヌで受賞したら、私はとてもうれしいでしょう。

『ノスタルギア』はイタリアで構想、撮影、製作されましたが、私の映画の中で最もロシア的な映画です。

アスペシ:
イタリアの生活はどうですか?

とても気に入っています。

イタリアは私が長期間いられる唯一の国です。

他なら一週間以上いられないでしょう。

けれども、月末にはモスクワに戻ります。

私の国、私の人々から離れて私は長くは生きられないのです。

私には多くの企画があります。心を決めなければならない。

なかでも、ドストエフスキーの『白痴』に基づく映画を構想しています。

私の教養は、偉大なロシアの作家たちによって、形成され、養われました。

彼らのように、私は物質生活と精神生活を融和させようと苦闘する劇的な状況を経験しています。

アスペシ:
カンヌ映画祭に持ってくるまでに『ノスタルギア』を一度しか観ていないというのは本当ですか?

そうです。大満足です。私の一番うまく実現した映画だと感じています。

私の内面世界を最も良く表現した映画です。

主人公は私の「分身」みたいなものです。

私の感情、私の心理、私の本性、そのすべてを持っています。

彼は鏡に映った私の姿です。

アスペシ:
なぜ自分の映画について話したくないのですか?

それは正確ではありません。映画のプロットを繰り返したくはない。

それ自体は意味がないからです。

ロシアの作家が、同郷の人間の研究をしにイタリアに来た。

その音楽家の足跡は2世紀前に失われている。

そこで、イタリア人の教授と金髪の通訳に出会って・・・。

こんなことを知って、何が面白いのですか? 

しかし、映画が言おうとしていることは説明しようとすることは出来ますよ。

それは情緒の表出です。私の中に最も深く根ざしている感情です。

ソ連を出るときに、それを最も強烈に感じたのです。

まさにその理由のために、イタリアだから『ノスタルギア』を撮影できたと言うのです。

私たちロシア人にとって、私たちにとって、ノスタルギアは優しく優しく甘い感情ではありません。

あなたたちイタリア人にとってはそうかもしれませんが。

私たちにとって、それは一種の死の病です。命に関わる病気です。

この深い共感が私たちを、自分だけの苦しみ、あこがれ、別離に縛らないで、他の者の苦悩に結びつけるのです。情熱に満ちたエンパシーです。

アスペシ:
『ノスタルギア』をご自分の作品のどこに位置づけされますか?

『ノスタルギア』は私にとってきわめて重要な映画です。

私が自分自身をすっかりと表出することができた映画です。

こう言いましょう。映画というものが真に偉大な芸術形式で、人間の魂のもっとも知覚不能な動きすら忠実に表象できるということを私に確証してくれました。

アスペシ:
たとえ一度でもご覧になって、完成した映画でもっとも心に残ったのは何でしょう?

そのほとんど耐え難い悲しみです。

ところが、それが精神性に自分を浸したいという私の欲求を非常に見事に反映しているのです。

とにかく、私は悦楽に耐えられない。

陽気な人たちは有罪だと私には思えます。

なぜなら、彼らは存在の憂慮すべき価値を理解できないのだから。

子どもと老人には幸福を許しますよ、でも、他の連中に関して、私は不寛容だ。


アスペシ:
23年のキャリアで、なぜ6作しか作っていないのですか?

作りたい映画だけを作ったからです。

相当な資金が必要でしたね。今、50歳になり、このような慎重さや、私自身の欲張りな点といった問題を自問し始めています。

私は急がなければならない。

もっと仕事をしなければならない。すべてを言わなければならない。
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20年ぶりのタルコフスキー映画「ノスタルジア」


群馬会館でタルコフスキーの「ノスタルジア」を20年ぶりぐらいで見ました。

むかしはタルコフスキーに熱狂していた一時期もあったのですが、しばらく前からその熱も冷めてしまってよいのか悪いのか映画の中身とは関係ないところを見てしまいます。

登場する犬はシェパードみたいですが、この犬がとてもかしこい。

おそらくこの犬がうまく「演技」していなかったら、「ノスタルジア」の完成はおぼつかなったでしょう。


ロシアの田舎のシーン、詩人アンドレが滞在するホテル、狂人ドメニコの家などさまざまのシーンで犬が登場しますが、よほど訓練されていて勝手に動き回るような無駄な演技をしません。

まあ、動物のことですから何度かはNGを出したのだろうが、いい演技をしています。

追記 : このシェパードだが、タルコフスキー自身が飼っていたダックス(ダーネチカ)という愛犬じゃないかと思う。


あと、あらためて思ったのはカメラの撮影がとても丁寧に撮られていたこと。

その前に見た河瀬直美の「火蛍」の撮影ハンディ・カメラだったので対照的に感じられました。

「ノスタルジア」は人物など画面の中心を見ているとわからないのですが、画面の端を見ていると超スローでアップしてゆくのがわかります。

あれはカメラ自体に備わっている機能を使ってズームしたのか、それともレールの上でカメラを移動させたのだろうか?

ラストシーンのロシアの田舎とイタリアの遺跡を合成させたシーンもあらためて見るととても奇妙です。前景と後景とでは雪の降り方が異なっているのだ。

CG全盛の今日からすれば新鮮に感じられます。

もっともタルコフスキーには東京の首都高速を撮って未来都市を表現するというウルトラCの大技がありますね。撮影を担当したのはジョゼッペ・ランチという方らしい。

詩人アンドレのホテルの部屋、アンドレが窓を開けると外は雨降りなので部屋の向こうがわからないのです。

最初植え込みか森だろうと見当をつけていたが、しばらくすると薄黒いかたまりがゆっくりと下に流れていくのです。

なんだろう思っていると、また黒いのがゆっくりと下に落ちていく。
フィルムのキズでもなさそうだし。

窓ガラスはないはずなのですが仮にガラスがあったとすれば、窓に貼りついた木の葉が雨に打たれて流れ落ちている感じがした。

そのシーンではその黒いものの正体はわからずじまいだったのだが、ラスト近くで雨ぬきのシーンがあったので確認してみる。窓の外は土壁。

つまりあの黒っぽいものはどうやら土壁が剥がれて流れ落ちていたのだ。
詩人アンドレのホテルの部屋は映画用のセットだろうから、インスタントにこしらえた壁がホースで散水した水で流れてしまったようです。
ノスタルジア・コム ttp://www.acs.ucalgary.ca/~tstronds/nostalghia.com/
ttp://fuqusuke.s32.xrea.com/archives/000050.html


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この話の続きは

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に書きます。
メンテ

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