ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[112] 余暇文明<人間性の探求
日時: 2009/09/02 13:56
名前: 天橋立の愚痴人間

「余暇のこと」

随分以前のように思われる小学生の驚愕的な殺人事件以来、次々と無意味な殺人が横行している。 また1人が突飛な事件を起すとすぐに模倣犯が現れる、報道でみる我々も慣れてしまった感がある。 また我が国の青少年の無気力さは他国に比べ目にあまるものがある。

大学生と言ってもろくに本も読めないものが沢山いるのは事実のようだ。 共通する性情は自分にとって都合の良いこと、自分が興味を持っているごく一部の事以外は、精神を集中して対処できないことである。 このようになった根本は、しつけの問題でもなく、教育の問題でもない。 またまた歴史を遡ると、遺跡や考古学的資料でしか確認は出来ないことだが、ギリシャ以前の世界で、貴族階級に属する人々は、自ら生産に従事することもなく、さりとて現代のように沢山の娯楽があるわけでなく、余暇を持て余していたように見受けられる。

彼らにとって究極の関心は人の命を弄ぶ方向へ行ったと思われる。 人同士の決闘やライオンなどとの殺し合いなどが常時行われていたことが遺跡で証明されている。 後にもたびたび起こるジェノサイド(大量殺戮)の例を出すまでもなく、時として人は人を殺す事に何の罪悪感を持たないらしい。

余暇を持て余した現代の人間が、殺人志向へはしる場合も十分考えられることである。 民主主義のなかの自由の穿き違えを云々する前に、人々と余暇の関係を検証してみよう。 古代において一部の貴族社会以外は、生きるための食料の確保や王たちのための労役で休息以外の余暇などは考えられなかった。 ギリシャ以降長く続いた封建社会ではどうであったろうか。

まず支配階級の人々にとっては、隆盛した文化・芸術の世界があった、それらを媒体とした社交の場が余暇を吸収したと思われる。 一般の人々は、生産活動のため、そんなに沢山の余暇は確保出来なかったが、簡単なゲームに興じ、遊芸を起こし、たまには巡礼などの旅をした。

各地の市民革命から始まった、民主主義・資本主義の世界になって、個人の自由な生活が担保されるようになると、それまでの慎ましやかな余暇の過ごし方は、より享楽的嗜好へ変質し飲酒・遊芸等を扱う余暇産業も隆盛となってきた。 また文化・芸術を楽しむ面でも従来の貴族たちと変わらなくなってきた。 だが一部の人を除き、人々の生活は生産活動が主体であることは間違いなく、余暇の時間はあくまでも余暇として消費されていた。

ところで現代ではどのようであろうか。 週休2日制や有給休暇など、人々は自身の余暇を何気なくは過ごせなくなってしまっている。 極端に言えば人生の三分の一は余暇なのである。 ギリシャの昔から貴族たちが味わってきた優雅と退屈と向き合わねばならない人々が沢山輩出してしまった。 さらに現代はすべてのテンポが速いので、昔の貴族が向き合っていたより数倍の余暇を消化しなければならない。 人々の基本的な生活観自体が変質してもおかしくはない。 そこでは昔の人生訓など通用しない、哲学もピントはずれなものに映ってしまう。

現代の社会は、人類が営んできた生産主体の生活から開放されかけている。 この先は、殆どの人類が労働することなく生活する空想科学小説の世界が待っている。 随分と極端な言い方になったが現代の精神的病根の本質はこのあたりまで達していると思われる。

長い前置きとなったが、現代の若者にとって誤った余暇の認識をさせない方策が必要であると思います。 前にも申しましたように、現代の子供には、働くことの意味が充分に理解できません。 その上、親を含めた成人達も自身の余暇の消化に懸命です。 就労にたいする本物の醸成できないのも無理はありません。

また親を含めて物事に真摯に取り組む大人の姿よりも、適当に余暇を消化する大人の姿をみる機会が多い子供達に物事に真摯な態度を要求するほうが勝手と言うものです。 現代の子供たちは皆、昔の貴族の子供達と同様の環境にいるのです。

しかし、この世のなかで全ての人間が貴族になったのでは社会が持ちません。 現代の大人達が今のところ取りあえず楽しんでいる余暇の問題は、このように大変な問題を内包しております。 大量の物資のなかで、労働の必要のなくなった人々が次に何を目指すのか、旅行やゴルフや釣りがあるではないかと簡単に片付けられるものではありません。

余暇を主体とした人間のあり方の研究が必要です。 経済システムと同時にこの問題を解決しなければなりません。 人間は本格的な余暇文明を醸成しなければならなくなってきております。


(追伸)

有名な歴史家、アーノルド・トインビーは、半世紀近く前にすでにこのことを指摘しています。

曰く、

「これからの人類の最大の課題は、余暇の事になるであろう」と。

とりあえずスレッドを立てさせていただきましたが、この問題は、時間をかけて話しあうべきかと思います。
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

Re: 余暇文明<人間性の探求  余暇とは その4 ( No.12 )
日時: 2017/09/17 14:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:NF3JZKic

さて第三章ですが、幕末から西欧化が入って来てから現代までの余暇の経緯をたどっているだけでして、特に問題とする記述はありませんが。私たち自身の歴史を追認するために、そのまま転載します。
ざっと読み飛ばしていただければ良いかと思います。


第3章 日本における西欧余暇思想の流入

はじめに

 第1章においても述べたが、西欧において庶民が本格的に余暇時間を手に入れ余暇思想に価値を見出した時期とは、産業革命によりその労働形態が変化した時期であった。では、日本において庶民が本格的な余暇時間を獲得することが出来たのはいつからであったのだろうか。
 また、日本では1960年代後半から1980年代前半までの時期に、西欧余暇思想を基礎とした「余暇」を主題とした研究が主に社会学者、余暇政策に関わる研究者によって展開された。
 しかしこの余暇研究の盛り上がりは約20年間に止まり、1980年代後半以降その勢いは衰えていくことなる。
 本章では、かつてなく余暇論が盛り上がりを見せたこの時期について、どのような背景からこの時期に展開したのか、また、具体的にどのような研究がなされたのかを見ていくこととする。

(1)時代背景
 まず、日本において庶民が余暇時間そのものを確保した経緯を簡潔に述べることとする。日本において余暇を個人的に楽しむということは、西欧における場合と同様に、長年特権階級のみに可能なことであった。この余暇が庶民にまで下降してくる時期として、江戸時代が挙げられることが多い。

この理由は、江戸時代が幕藩体制の下に安定していたことや、そうした時代背景の下で多様な「遊び」の面で庶民文化が発達したことなどから、この庶民の余暇の前史として挙げられることの多い江戸時代の遊びだが、日常的に遊びに触れることが出来た人は江戸を主とした都市住民に限られていたと考えられる。では、大多数の庶民が余暇時間を手に入れ、そのあり方について考えるようになったのはいつ頃からなのかを後述するこ
ととする。

 日本人の労働体系が変化したのは、明治時代に西欧諸国からの学びを活かした「殖産興業」の政策の主導で、それまでの農業中心社会から工業産業中心社会へと転換した時期である。また、日清、日露戦争、第一次世界大戦によって重工業が発展し、資本主義が発達した。
このような労働形態の変化と特殊な好景気により、ある程度安定した定期的な収入を得ることのできる中流階層が増大した。このような状況をうけて、当時の日本の人口1億人の大多数が自らを中流階層であるとする、所謂「一億総中流」という意識を持つようになったのである。
また、第二次世界大戦敗戦後には、世界的な労働時間短縮と余暇の量的拡大の動きが日本にも波及した。この動きは、大正デモクラシーにおいて育まれたといえる団結権やストラ
イキ権などの社会権を行使する力が、戦後のGHQの民主化政策の下で政府から後押しをされたことによって高まりを見せることとなる。
実際に、1947年には「労働基準法」が制定され、労働者の年次平均労働時間は、戦時下の最大3500時間に対して2200〜2400時間へと減少している。
 前述のような経緯から、社会において余暇を持つ大衆が出現し、国は彼らの余暇の使い道に新たな市場を見出し、余暇開発政策が進められ、これに伴う余暇研究がなされた。具体的な研究内容については、
(2)具体事例において詳述することとする。
 また、余暇政策が開発されたもう一つの要因として、外国からの圧力という問題に対応するためであったという点が挙げられる。当時、高度経済成長の時代にあった日本の経常黒字により、日米間の経済摩擦をはじめとする各国との経済協調が課題となっていた。その対応として日本の労働者の労働時間短縮が進められ、それに伴う余暇時間の増大に至ったのである。これに加えて、既に余暇研究が盛んであった欧米諸国を中心とした国々によって、啓蒙的な面から余暇の増大が求められていた、という要因があったことを補足したい。

 次に、先程述べた余暇開発政策のための余暇研究者の他に、社会学者を中心として余暇研究が活発に展開したことを見ていく。この背景としては、以下の要因を挙げることができると考える。当時は高度経済成長の時代を迎えており、そのダークサイドとして、長時間労働や労働環境の悪さなどが社会的問題となっていたという点である。このような労働環境においては労働者が機械的に働く「道具」のような存在になり、その人間性を失ってしまうのでないかと危惧される中で、余暇の時間の必要性と、そのあり方が研究されたのである。つまり、社会学者による余暇研究は、どちらかというと「社会問題としての余暇」
として研究されたと考えられる。
 ここまで、1960年代後半から1980年代前半までの時期に、国によって余暇開発政策が進められたり、社会学者によって社会問題の面から余暇研究がなされたりした背景を述べてきた。次に、具体的にはどのような余暇研究がなされたのか見ていく。
(2)具体事例
(@)余暇開発政策のための研究
 政府による余暇開発政策により、その研究にあたり団体の設置や余暇に関する意識及び実態調査などが行われた。具体的にはどのようなことが行われたのか、いくつかの例を挙げてみる。まず、余暇開発政策に伴って設置された団体の例としては、1972年に経済企画庁により設置された「余暇開発室」や、同年通産省により設置された余暇開発産業室と、この外郭団体として設置された「財団法人余暇開発センター」、他には1974年に文部省の外郭団体として設置された「財団法人日本余暇振興会」などが挙げられる。これらのシンクタンクは、高度経済成長後の国民の余暇について、その実態や余暇に対する意識の調査を行った。

 次に、余暇に関する意識及び実態調査では、1968年に消費者庁の国民生活審議会において「余暇問題の現状と将来方向性」に関する調査を行い、その報告を行っている。また、1971年には総理府による「余暇に関する世論調査」や消費者庁の国民生活センターによる「余暇満足調査」などが実施、報告されている。
 ここまで、政府のシンクタンクとして設置された団体について見てきたのだが、完全に政府の主導する団体による研究だけでなかったことを補足したい。例としては、全国農協環境協会によって農家を対象とした意識及び実態調査が行われており、その結果を『農家の余暇・旅行白書』5にまとめ1970年から度々刊行している。他にも新聞社による調査など、必ずしも政府主導でなく民間団体による調査や調査結果の社会への公表の行われていたのである。
(A)社会問題解決のための研究
 1969年刊行の『講座日本の将来5−余暇時代と人間−』の日本社会の現状と将来を述べた序文において、この時期の余暇を主題とした研究の盛り上がりが述べられているため、以下に引用する。
 この巻は…社会を取り扱うのが役目である…本書においては、新しい時代の趨勢を最もよく代表している余暇の問題をとりあげ、…余暇時代の動向と課題とを重点的に追及した。…まさに現代は余暇時代であり、こうした趨勢は、…今後ともほとんど確実に進行していくであろう6。
 この序文からは、余暇研究の盛り上がりが読み取れると同時に、当時の社会学者達が、余暇研究について、時代を経ても続いていく普遍的な主題であり続けると感じていた、というこの時期の余暇研究の特徴が伺えるのではないだろうか。では、実際にどのような余暇研究が行われたのだろうか、以下のように考えられる。「余暇」とはそもそも何であり、その本来的意義とは何か。初期の余暇社会論には、「余暇」を主題として論じながら、その意義を再び「労働」の側に位置付ける傾向が存在していたが、やがて「余暇」の本質規定ないし本来的意義として「自己実現」が顕著に浮かび上がってくる。
 この考察から、1970年代の余暇論では、労働において機械化・組織化が高度に進む社会背景から労働者の人間性が失われることを危惧し、余暇を個人の主体性の自由に委ねられた時間として「自己の発掘」や「将来設計」を立てて自己実現のために活用するべきとする「あるべき姿」の追及が主流となっていたことが分かる。また、その余暇思想の基礎には、「人間の完成」を目指した。このように余暇のあり方が言及し、より良いあり方を啓蒙していったという特徴の一方で、当時の余暇の現状を分析し、そこから何か特色を得ようとする研究はあまりみられないこともまた、この時代の余暇研究の特色といえると考え
る。
(B)厚生運動論と余暇社会論
 本章においては、日本において余暇が研究主題として広く取り上げられた時期として、前述の時期について取り上げて来た。しかし、主題としてではないが、この時期以前にも、日本において余暇が社会的な問題とされた時期が存在するため、ここで取り上げることとする。この、日本における余暇研究のはじまりは、日本社会の近代化がある程度進んだ1920年代と見られることが多くある。都市において、工場やオフィスで働く近代的な労働形態の人々が増加し、また、週休制の浸透が進んだことにより週末の余暇が生まれ、様々な余暇活動が活発に行われるようになるのである。例としては、東京の浅草、大阪の道頓堀
などの「盛り場」には活動写真の店や飲食店など存在し、多くの人が訪れた。このような庶民の様子について、「民衆娯楽」という面から研究する研究者があった。

 前述のように、日本独自の余暇研究のはじまりと言えるものはあったが、その後の日本社会では昭和恐慌に続く経済不振や、その解決として模索された大陸侵略、といった不安の時代に進み、この先駆的余暇研究は伸びやかな土壌で育まれるには至らなかったのである。むしろ、国民生活への統制色を強める政府は、余暇を「国家に奉仕すべき時間」と見なし、ドイツのナチズムが開発した歓喜力行運動(余暇における国家奉仕を目的とした運動)に倣って、「国民厚生運動」へと、発展していくのである。この動きの中に合って、民衆娯楽の研究者の多くが、国民厚生(レクリエーションの訳語とされた)運動の研究を担うようになっていったのである。

 しかしながら、このように政府の国民統制質の良い労働力の確保を目的とした社会風潮の中で、「国民生活論」を主題とする一部の研究者達が、余暇生活の擁護を主張していた点は、補足しておきたい。具体的に彼らが行ったことは、戦時経済の中で拡大される労働時間に対して、休息のあり方についての研究である。
 労働時間が大幅に延長されたならば、それに見合うだけの休息を取得しなければいけないはずだが、実際には、休憩を犠牲にしても、楽しみとしての余暇時間は減少しない。彼らは、このことを実態調査から結論として見出しており、楽しみとしての余暇を、人間の文化化的な欲求として、欠くことのできないものとして位置づけている。
 ここまで概観した、この時代の余暇研究は、戦後になり、「労働科学研究所」の生活時間研究に引き継がれていく。また、「生活学」と呼ばれる新たな学問としても、引き継がれていくこととなる。
メンテ
Re: 余暇文明<人間性の探求  余暇とは その5 ( No.13 )
日時: 2017/09/17 14:53
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:NF3JZKic

紹介する文章の最後です。
第4章は、現代の余暇に対する分析です。
この文章も、どちらかと言えば学者氏が、行政に依頼されて書いたようなものなので、分析以外に出る事は無いようです。
そういう意味で、このスレッドの言いたいことではありません。
とりあえずは紹介して、そのご「余暇」の問題を検討してみましょう。
この中で、少し目を引いた内容に。
「○○活」を余暇の有り様の一つに取り上げている事です。
こんな事を言えば叱られるかも知れませんが「ボランティア活動」「NPO活動」も余暇の有り様と」認識すれば良いかとも思いました。


第4章 現代日本人の余暇に関する意識とその用途

(1)近年の研究動向

 まず、近年の日本の余暇研究はどのように進められてきたのかを見ていくこととする。
 1978年に行われた、「第一回実態調査」の結果における余暇研究者120名の専門分野の内訳は後述の通りであった。
@ 治・法律・経済・労働(20.3%)、
A観光・レクリエーション(28.8%)、
A 社会学・心理学・教育学(18.0%)、
B 園・建築・都市計画(16.5%)、
D育・スポーツ・生理(11.3%)、
Eその他(15.1%)。このように、極めて多岐にわたる分野の研究者が余暇を主題とした研究にアプローチしている。また、各種の実態調査や意識調査の結果は、『レジャー白書』や、『農家の余暇・旅行白書』などの定期的な刊行により公表がされてきた。

(2)具体的な用途
 余暇の具体的な使い方を見ていく資料として、最新の動向を見るために適しているものは『レジャー白書』の2013年版であると考える。この調査研究は、余暇活動調査等をもとに、日本における余暇の実態を、需要と供給の双方の視点から総合的、時系列的にとりまとめているもので、1977年の創刊以来通算37号目になっている。調査方法は、インターネットを使用した調査で、対象としているのは日本全国の15歳から79歳の男女である。
 同書では、日本人の余暇活動の現状について、避暑や避寒、または温泉などの目的で国内観光旅行に訪れる人が5670万人と、前年に比べて90万人増加しており、二年連続で他のレジャーと比べて最も参加人口が多かったことを述べている。また、前年比が90万人増加した背景として、東京スカイツリーの開業を挙げている。

この他には、各地のテーマパークが人気であり、遊園地の参加人口は、前年の2100万人から110万人増加して2210万人となっている。また、この調査研究においては、デジタル化時代に伴い、今回初めてSNS、ツイッターなどを利用した余暇の過ごし方についても、「デジタルコミュニケーション」への参加人口、という枠を設けて調査している。

この結果を見ると、その参加者は2510万人にのぼっており、この分野に関してこれまで調査の対象として扱っていなかったことは、時代に即時対応しているとは考えにくい。さて、ここまで見て来たような参加側から視点を変え、提供する側である余暇関連産業の市場を見ると、2012年は64兆7272億円となり、これは前年比0.3%でほぼ横ばいに推移していることが述べられている。

目新しい動きとしては、遊園地を含めた旅行に訪れる人の増加や乗用車の売上の増加により、「観光・行楽」の部門が、1991年以来の4%台の大きな伸びとなっていることが挙げら
れる。

 次に、ここまで見てきた「余暇を使いどのような行為を行っているのか」についての調査結果を踏まえて、余暇を使った活動について、「やめる理由」と「はじめる理由」を調査していることを取り上げることとする。この調査では、余暇活動の主役になる年代層が、これまでの10代から60代以上に変化していることが、調査結果として述べられている。

そして、それぞれの理由については、「やめた理由」が、「年齢や健康、体力に合わない」や「費用が負担できない」などが多く、「はじめる理由」は、「テレビ、ネット、新聞などを見て」や「周囲の人がやっているから」というものが多いという結果が出ている。この結果からは、「はじめる理由」がメディアを中心とした外部からの情報発信に乗じたものであることが分かる。

 このメディアの余暇開発の発想は、1960年代後半から1980年代前半に、日本において盛んに研究された余暇の本質規定的な研究を基礎とした余暇開発政策があるのだろうと考えられる。しかしながら、当時の研究では、「人格の完成」のために余暇を使うべきだとした西欧余暇思想を基礎としつつ、その本質を探求し美点を日本人の性質に合った形で規定することは無かった。本質規定された余暇を実現する方法がクローズアップされ、社会で流行しているように考えられる。

(3)例としての「○活」

 ここまで『レジャー白書』の内容に沿って、余暇の用途について見てきたが、ここからは、余暇の用途の選択の際に、「いかに有効か」、「いかに効率的か」という判断基準を持つ、現代日本人の余暇活動を見ていくこととする。例としては、近年流行となっている、「○活」というように略されている、様々な活動について取り上げていく。

具体的には、就職活動の「就活」や、朝の出勤前の時間を有効活用して勉強や非日常的な体験など種々の活動を行う「朝活」、「婚活」、「恋活」、最近では意識的に泣く機会を設けよ
うとする「涙活」まで存在している。もはや、言葉尻に「活」を付けるだけで、何でも流行してしまいそうな風潮がある。

 ここまで挙げた幾つかの例のように、余暇の過ごし方について取捨選択する際の選択肢は、メディアを中心とした外部から並べられたもので、涙のような生理的現象まで活動として捉える、という特徴が見られた。そのような現代日本人の余暇は、「何でも自由に選択できる環境が逆に息苦しい」というような、自由すぎる社会の揺り戻しのような問題点も見えてくる。

 「余暇時間の使い方の実態」及び、その用途を決定した背景にある「共通の価値観」について、主に
@ 時間・活動調査、
A 社会史
B 本質規定(「余暇」とは何かを問う)、という三つの観点から見てきた。

そして、この余暇開発政策が進められた背景には、主に1960年代後半において、「物の豊かさから心の豊かさを重視、追求」するようになった国民のニーズに応えることや、国際社会に復帰した日本として「労働時間短縮、自由時間の増大」を達成し余暇の価値追求をする国際社会の風潮を乱さないように配慮したこと、また、経済摩擦の緩和などの外圧への対応ということがあったのだと考えられる。

 また、前述の余暇開発政策は当時余暇研究の最先端であった欧米に倣ったものであった。しかし、この日本における余暇研究の広まりは、前述のような理由から、急激に増大した余暇の使い道への対応のため、実質的な対応としてレジャー施設の設置などの環境整備に偏ってしまった傾向が見られる。このために、「観想のための余暇」を重視した古代ギリシャ哲学に源流を持つ良さを活かしきることができていない面もあると考えている。

また、の実態を通して、失業などにより増加するや、自由すぎる社会の圧迫感を持った面、など幾つかの問題も顕在化した。今後の余暇研究はどの方向に向かい、社会にどう反映されていくのか、観察していきたい。

 本論文を作成するにあたり、様々なご指導を頂きました神田より子先生に深謝いたします。また、多くのご指摘を下さいました神田ゼミの同期・後輩の皆様をはじめ、ご支援いただきました方々に心から感謝いたします。
メンテ
Re: 余暇文明<人間性の探求  余暇とは ? ( No.14 )
日時: 2017/09/17 15:29
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:NF3JZKic

「余暇」と言うテーマを捉える時、人間の意識と言うものに言及しなければなりません。

「人間は考える葦」とパスカルが言ったように「我思う故に我あり」とデカルトが言ったように、人間と言う存在の特徴は思考が発達している事です。
また我々の意識は希薄になっているようですが、たの多くの動物と同じ様に人間も群れを成して生存することが必要な種族なのです。
こうした最大の特徴、本質を無視するわけにはいきません。

次に人間の思考、要するに考える事とは、最新の医学で証明されているように、知覚により構成されているのです。
宗教が言うように考える主体が(魂)が初めから宿っている訳ではありません。

人間を、ある特殊な環境に閉じ込めて置区事によってその人間の人間性自信が変わるよいいます。
ただし、その環境に入るまでの意識は残るでしょうし、その分の継承は否定できないでしょう。

何が言いたいかと言えば、人間は働く事に埋没する生活を続けていれば、他の生活、休息、レジャーなどに思いを馳せます。
西欧の中世は1000年もの間、キリスト教教義に束縛され続けてきました。
ルネサンス(人文復興運動)は、中世の後半、その反動として激しく登場しました。

哲学はある種の価値観を追究する傾向がありますが、人間の思考と言うものは、ある絶対的価値観に基づくものでなく常に環境に影響されている証拠です。

また人間の欲望には限りがなく、知覚のなれは、ある種の欲望に満足するとさらなる刺激を求めて、その上の欲望を意識します。
反対に地獄と言うものにも限界はありません。
これが地獄だと嘆いていても、その人の心の有り様によってはさらなる悲劇が続くと言う事は実例で御分りでしょう。

何を言いたいかと言えば、現在では好ましく思われている「余暇」の概念も、受け取り方を間違がえれば、悲劇を招きかねないと言う事です。
「余暇」の問題は前に紹介した文章の様に、時間の問題でもなく、内容の問題でもないのです。

キリスト教教義に対する反動として、人間復興が囁かれたように
封建独裁から民主主義が希求されたように
労働の中からレジャーが意識されたように

物事は、人間の思考に基づく物事は、常に二面性、多面性をなしている事を見逃してはいけないのです。
それを一つに集約することは、キリスト教教義の世界であり、封建独裁なのです。
その逆もあります。
民主主義が万能と考えられがちですが、民主主義の矛盾も各所に噴出してきています。
無宗教が人間社会を救えると言う保証は何もありません。

ですから「余暇」の問題の本質を探るならば、必ず対立する概念と合わせて認識する必要があります。
この場合は「労働」と考えるのが良いと思います。
「労働」以外に何かがあれば、それでも良いのですが、頭の中の考えだけではなりません。
故に、先に紹介した「余暇論」は事実の分析だけのことであり

アーノルド・トインビーが警鐘した内容を検証するものではありません。

「これからの人類の最大の課題は、余暇の事になるであろう」

この言葉に対比するものとして

20世紀の人類の課題は「貧困」であったと言っておきましょう。


いずれにしても「余暇」問題は、
これではないと言う定義が出来ただけで、新しい領域に踏み込んだ訳ではありません。


メンテ
Re: 余暇文明<人間性の探求 ( No.15 )
日時: 2017/09/17 16:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:NF3JZKic

さて、つぎに古代ローマでの余暇についてみてみましょう。

古代ローマの遺跡として、コロセウム(闘技場)、大浴場、大劇場などが神殿などと共に残っています。
ローマの市民の生活とは、各地を植民地化して、大量の奴隷もローマに連れてきています。
殆どの実際の労働は奴隷に任せて、家事すら奴隷にやらせています。

貴族もそうですが、少なくともローマに住みつく事を許された市民は、住宅、食料など必要なものは皇帝から支給され、簡単な管理職に突くだけで、およそ時間を持て余す優雅な生活に浸っていました。

まず、食べることに執心し、腹いっぱいになれば、態々自分で吐き戻し食べることを続けたと言います。
コロセウムは、罪人の公開処刑場で数万人が処刑を見に集まったと言います。
処刑だけでなく、決闘も好まれみんなの前で命のやり取りをしていました。
さらには、罪人、奴隷を野獣と決闘させたり、奴隷同士決闘させて、それを見ることが楽しみでした。

家庭においては子供などは自分が楽しむ邪魔だけの存在で、子供を産むことを嫌い中絶が横行し、ために少子高齢化に悩んだそうです。
当時はゴルフ、ボーリングなどもなく、ゲーム機もありません。
さの変わり大劇場を造り観劇をしています。豪華な大浴場も作り入浴を社交と考えています。

市民の生活自体は保障されていたので政治に関心を持つ者などいません。
どのように考えてもまともな生活ではありません。

<< 現代に生まれた人間の精神生活の癌の一つは、精神的緊張の低下であって、ごく少数の選ばれた人びとを除き、我々はみな、弛緩した日々を送っている。仕事においても、気晴らしにおいても、我々がもっぱら目標にしているのは、人気取りと享楽である。全心を自分のしている事に打ち込み、本当に手に入れる価値のある承認を勝ち取ることのうちに見いだされる、真の精神的財宝を得ることに、少しも関心をもたない >>

上は1〜3世紀のヘレニズムの批評家の文章で、時代も場所も違いますが古代の一部の豊かな人間の社会をえがいた文章です。
「余暇」→楽しむことよりも、社会全体の有り様としてみれば、これがユートピアとは、とても思えません。

なをかつ、当時は、このような「余暇」を持つ者の周囲には、それに倍する奴隷がいて、奴隷は余暇どころは一生懸命に働かされていたのです。
当時の裕福な市民と言え、奴隷の存在は目の当たりにし、自分たちの特権意識はありました。

現代は民主主義の社会、その社会の発達で多くの人が必死で働くことなく、週休3日、4日と言う有り余る余暇の時間を獲得した場合、それが当然だと思い込み、それ以外の生き方は目に入らず「余暇」だけを見つめる状況になる事が人間にとって幸せなのでしょうか。

私たちは、私たちの次元で余暇を考えます。
多くの人は「余暇」を肯定的のみに見て歓迎しています。
ギリシャの哲人が考えたように、人生を見つめる機会と喜びます。
何年、見続けるつもでしょう。

でも、それは、少なくとも私たちは労働と言うものも十分に理解した上での観念です。
生まれながらに余暇時代に生きる将来の若者のことも考えた結論でしょうか。

やはり人間は基本的に生きるためには一生懸命に働かねばならず、余暇は、その休息であると言う前提を崩してはいけません。
余暇に哲学的意義を、必要以上に求めることも間違っています。
余暇に哲学的意義を求めるよりも、自分が働かねば家族を養えないと思う方が、余程生きる価値を見出すことにつながります。

それでもね、実際には殆どの人が全員、必死で働かなくても生活に必要な生産ができるようになっている事が気になります。
そこを、どの様にみんなに納得させて、仕事に向かわせるかです。
人間はアダムとイブの時代からずる賢いものです。
中途半端な説明で、殆どの人間が仕事に真剣で向き合わさせることは出来ません。

余暇と労働の問題を、もっと、もっと探求しなければなりません。
メンテ
Re: 余暇文明<人間性の探求 ( No.16 )
日時: 2018/01/06 15:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:05gQi7yk

「人類の環」スレッドでも取り上げていますが、グローバル化がますます進み、経済的格差、2極化が進んだ社会を考えてみましょう。

富裕層は、お金も暇も十分にあり「余暇」を持て余すようになる。
一方で貧困にあえぐ人たちは、仕事もなく「余暇」の時間だけは十分にある。
その様な時代は、既に目先に迫っている。

要するに人間にとって、人間社会にとって自由すぎる時間は悪魔のようなものなのである。
人間が環境に従って大人しくしていられるものであれば、アダムとイブの様な話は存在しない。

人間とは自らの欲望を求め続ける生物である。
生きるための活動から解放された人間が、次に、どのような欲望を抱くかは計り知れない。

多くの人は「余暇」が増えることを歓迎し、それこそ人生の生きがいと応える。
それが本当なのであろうか。

「余暇」については、このスレッドで冒頭から検証してきている。
決して多くの人が考えるような楽観的なものではない。

2000年も前、アリストテレスが二コマコス倫理学

「幸福はレジャーのうちにあると一般的に考えられている。何故ならば、我々がレジャーもなく働くのは、レジャーに生きるためであり、戦争をするのは平和に生きるためだからだ」

このように言ったように「余暇」だけを取り上げて人間の幸せを問えるものではない。

また歴史家、アーノルド・トインビーは現代社会が抱える貧困の問題の次に来るのは

「これからの人類の最大の課題は、余暇の事になるであろう」

と、50年も前に喝破しおている。

「余暇」の問題は、今後、もっと慎重に、十分考えなければならなくなる。
人間は、基本的に生きるために働かねばならないと言う前提があってこそ、幸せな社会を築くことが出来るのだという認識を忘れてはならない。
人間の心とは、その様なコントロールが必要である事を認めねばならない。
メンテ
10連休でこれ! ( No.17 )
日時: 2019/05/10 08:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:5PgShAb6


平成から令和への改元もあり、10連休となった今年のゴールデンウイーク。家庭内では想定外の事態が勃発していた。なかでも多かったのは、「休めるどころか、地獄だった」という主婦の嘆きである。
.

「連休中は家族が起きる時間がバラバラで、娘の朝食が終わってしばらくしたら夫の朝食、またしばらくしたら娘の昼食、それから今度は夫の昼食…と、ご飯の用意ばかり。こっちは外食で息抜きしたいのに、夫は“連休中は混んでるだろ”と涼しい顔。食事の後、片づけもせずにソファでごろ寝する姿に、殺意さえ覚えました」(40代主婦)
.

 離婚の2文字が頭をよぎったという人も多数いた。
.

「家のBGM権は当然のように夫に。しかも聴く曲が椎名林檎とあいみょん。あいみょんなんてどこで覚えてきたのか。結婚した頃からそんなの聴いたこともなかったですから。しかもトイレに行くには必ずスマホを片手に。一回入ると、20分は出て来ない。不倫を疑ってしまった。
.

 家のことをしてくれとは言わないけど、10日間もそんな姿を見ていてこの人と暮らしたくないな、とじわじわ感じてしまった」(40代主婦)
.

 夫の生活力の低さに辟易としたのは50代の主婦。
.

「宅配便を受け取るのにやれ印鑑はどこだ、宅配便を出すのに電話してくれ、レストラン予約も外出先の営業時間を調べるのも全部私。普段、夫が忙しい時にはもちろん私がやりますよ。でも、休みでも全部聞いてくるし、頼んでくる。この人、こんなに能力低くて本当に仕事できるのかしらと妙に冷めた気分に。お店くらい自分でチャッチャと探して予約してくれよ!」
.

 続く外出で亀裂が入った夫婦も。
.

「遊園地に行っても3才の子供と楽しむどころか、いつもスマホ画面をチェック。並んでおくよと言って、気を利かせたふりして、1人でスマホゲームをしている姿にガッカリ。子供と公園に行けば2時間ももたずに『この後どうする?』と。そのくせ、自分の仲間と釣りにはしっかり準備して行ってしまう。ああこの人、自分の子供と楽しんで遊べないんだと思うと、この先の結婚生活を続ける意味を見失いましたね」(30代主婦)


 長すぎる休みは、ご近所トラブルやママ友関係に思わぬ危機も招いていた。
.

「お隣が目覚ましをセットしたまま旅行に行っちゃって、毎朝6時にジリジリとはじまり10分以上鳴ってるんです。本当に勘弁してほしい。戻っていらした時に、目覚ましかけっぱなしでしたよ、と軽く伝えたつもりが、明らかに不機嫌に。お土産をおしつけるように渡していきました。以来、よそよそしくなってしまった」(60代主婦)
.

 遠出を避けて近くの公園に遊びに出かけるママたちは、子供でへとへと、ママ友にへとへと…。
.

「とにかく子供に何かしらイベントをやらせなければ、宿題の日記も書けやしない。海外やリゾートなど旅行に行ける家はいいですけど、日記の宿題は庶民には酷でした。
.

 子供たちのお土産交換も本当にやめて欲しい。ハワイのお土産をくばっていた家があったんですが、他のママは“休みにハワイなんて子供のためにはどうかしら…”とよくわからない陰口を言うし。正解は地方の実家に帰省なんでしょうけど、うちは両方東京だし。本当に精神がすり減りました」(40代主婦)
.

 キャンプやBBQという言葉を二度と聞きたくないという主婦も。
.

「なんで5月で連休だとキャンプ? BBQ? しかも子供のママ・パパ仲間となんて最悪です…。パパたちは飲みながら談笑していればいいけど、準備も大変、洗い物も大変なのは私たち。しかもあのママを誘い忘れたとか、あっちのBBQには誘ってもらえなかったとか余計な気ばかり使ってしまった。実際、近所の公園でBBQをやっているところを誘い忘れた家族に見られてしまい、気まずすぎます」(30代主婦)
.

 想定外続きの事態に、連休の折り返し時点でSNS上には悲鳴が殺到。ツイッターには「#10連休いらない」のハッシュタグが登場した。
.

※女性セブン2019年5月23日号

(引用終わり)

これは一部の話で、多くの方は連休を楽しんだでしょう。
ですが、多すぎる余暇の時間は、この様なことを想起させるという実例です。
メンテ
Re: 余暇文明 お上お仕着せの10連休、 そして高過ぎる五輪チケット ! ( No.18 )
日時: 2019/05/10 23:02
名前: 日本貧民党 ID:99zDa3TM


長い連休も終わった ! 現役サラリーマンの人はさぞリフレッシュ出来ただろう ! と思いきや、休みすぎて、或いは家族サービスで、疲れ果てた人も多いと言う事らしい。 将に、「過ぎたるは、及ばざるが如し」である。
この「十連休」の間でも当然“休めなかった人”はゴマンと居る。交通事業、デパート・スーパーから中小の小売業の従事者、警察などの保安従事者、その他数え上げればキリが無いが、私も昔は此の範疇の人間でした。他人が遊ぶ時は自分は遊べない、と言う因果な商売でした。

と言う愚痴絡みの話は此れ位にして、 この頃何かと私の様な貧しい者が 『変だな ! 』 と思う事が多過ぎます。

この五月から元号が代わって、『令和』と成った訳ですが、その節目に神社などへ参詣する人が多かったそうです。そして其の際に幾許かのお金を払って、神社の「御朱印」を戴いて帰るそうです。
不信心な私には、少しく理解に苦しむ事ですが、一応容認して置きます。当節は何事も『金の世の中』ですから神社も何かネタを見付けてモノを売り、ゼニもうけをしようと必死なのです。

で、其れはそれで良いのですが、其の『御朱印』をネットオークションで売る奴が居るそうです。上には上があるもので、神社の上を行くって訳ですね。『御朱印』なんて何の宗教的意味合いも無い ! と言う事は百も承知。『オレはもっと儲けてやるぞ ! 』と言う訳です。

此の事だけでも十分厭な事なのに、此れに輪を掛けて 『変な奴』が居る事で、此れを数万円も玳瑁を叩いて買う奴が居ると言うのです。益々不可思議な話に成って来ました。 世の中は不可解です。
昔から、「駕籠に乗る人、担ぐ人、其のまた草鞋を作る人」 等と言う言葉が有りますが、此の話はその逆で、『何処かの神主が、時代に便乗して御朱印の護符を売り出した。すると、何処かの心も懐も貧しい奴が、大行列に並んで其れを手に入れたら、何処かの馬鹿が其れを欲しがって大金を払って買い取った」
将に、資本主義の見本の様なストーリーで、一番労力の少ない神社は単価が低い代わりに数をこなしてそれなりの収益を上げる。それを手に入れようとした奴は多大な労力を消費して手に入れた事と小狡い知恵を働かせた功により、大金を手に入れた。それをネットで買い取った奴は、苦労の代わりに大金で御朱印を手に入れた。 と言う図式で、資本主義の見本の様な噺です。

で、この話、「目端の利く奴が、金儲けをする」と言う話です。

次に、オリンピックの話ですが、
各競技の観戦チケットの予約受付を始めるそうです。私は見るとしてもテレビでしか見ませんが、

そのチケットの価格を見て驚きました!! 思わず 『一体何処の国の話?』と思ったのです。
ご存じの方も多いと思いますが、
 開会式が、  12,000円〜300,000円、
 閉会式が、  12,000円〜220,000円、
 陸上が、     5,800円〜110,000円、
 競泳が、    11,800円〜108,000円、
と言うインフレ価格で、富裕層以外はとても生で観戦できるものでは有りません。

一番安い価格の物で、
 サーフィンが、 均一で、3,000円 と示されて居ますが、此れはエラク廉いな! と思って終うのですから、此の凄さが判ろうと言うものです。

この新聞記事の恐ろしい所は、この記事のタイトルが、

  『東京五輪 低価格戦略』 と銘打って居る事です。 

一体主催者は日本人を何と心得ているのでしょう。 当節大挙して来日するお金持ちの中国人と間違えているのではないでしょうか?
勿論、此れに対して新聞は何の批判も加えて居ません。世界の趨勢はこんな物なのでしょうかねぇ? 今更ながら「グローバル・コモン・センス」に取り残された我が身の時代遅れを嘆くばかりです。
メンテ
Re: 余暇文明<人間性の探求 ( No.19 )
日時: 2019/05/11 11:18
名前: ooeyama ID:zi/iCuuo

>そのチケットの価格を見て驚きました!! 思わず 『一体何処の国の話?』と思ったのです。
ご存じの方も多いと思いますが、
 開会式が、  12,000円〜300,000円、
 閉会式が、  12,000円〜220,000円、
 陸上が、     5,800円〜110,000円、
 競泳が、    11,800円〜108,000円、
と言うインフレ価格で、富裕層以外はとても生で観戦できるものでは有りません。


同様にご存じの方も多いと思いますが、周囲の圧力で渋々辞めた、日本オリンピック会長
竹田恆和氏が、凡そ3億円とも噂される高額な賄賂でオリンピック誘致に成功した、、
更に新スタジアム建設等諸費用が、当初誘致の際示された偽経費より3倍も跳ね上がる。

当然それらの経費は上記のチケット価格に反映される筈、貧乏な小生はTV観戦しますが、
上記の腐敗と無駄を了承された上で観に行かれるお目出度い方々のご好運を祈ります。
メンテ
オリンピック入場券 ( No.20 )
日時: 2019/05/11 16:05
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:JtpdVRPI

>グローバル化が進む中、公務員、優良企業の社員は別として、彼らが就くべき職業の窓口は極端に減少している。 大人自身が、所謂、勝ち組・負け組に厳しく選別されてゆく状況のなかで、社会は二極化がすすむ。 

双方とも十分すぎる余暇をいだき、

それぞれの論理で社会を破壊に導く、そこにはもはや自由な経済活動もなく、民主主義もない、まるで人類の末路をテーマとした映画のような光景が、50年後の我々の世界のように感じる。

(以上、人類の環スレッドより)

オリンピックの入場券が幾ら高くても勝ち組には問題はない。
スマホの最新版が出ると言って長蛇の列を作って買い求めるのも勝ち組と言われる人たち。

驚くほど高い入場券であるが、もともと貧乏人が買うことなど期待してないのさ。
貧乏人抜きでもオリンピックは出来るのさ。

でもね、人口の半分以上は、そんなことには縁がない。
明日をどの様に生きるか煩悶する。

最近「上級国民」と言う言葉が行き交っているようです。
段々と多くの人が社会の2極化を意識し始めました。

今回のオリンピック入場券の問題も、其れを強調するものです。
いずれにしても、私は下級国民、番外地の住民です。

さあね、オリンピック開催中、下級国民は、どの様にして余暇を過ごしましょうか!
メンテ
Re: 余暇文明 関経連のオッサンも「今度の10連休オカシイね」と言った ( No.21 )
日時: 2019/05/12 10:35
名前: 日本貧民党 ID:h9GOiNU6

この関経連のオッサンは、『ワタシ的には、この10連休可笑しいと思うよネ』と言ったそうですが、其れなら今の馬鹿政府に諫言すれば良かったじゃないか! そんな勇気も無い癖に良く言うよ!

まァね、フランスだって夏のバカンスのシーズンに成ると、“パリ”の人口が半減する! と言う位だから「皆一斉に!」と言う事は似た様なものと思いますが、此処で気を付けなければいけないのは、日本との大きな違いが有ると言う事です。

パリジャンたちは、自分が取れる休みが10日どころの騒ぎじゃ無く、2週間3週間と言う長期にわたる物(勿論、個人の懐具合で、休みの期間も、その質も、異なります)ですし、日本の様に全員が同じ期間に一斉に! と言う事では無いのです。
行き先は殆ど南仏の海岸辺りですが、期間も日にちの設定もバラバラです。
ま、隣りがバカンスに行くのだから、我が家でも行かなければ! なんて言う体面上の理由も有るには有るのですが、基本的には彼等に確立された「個人主義」によって行動をする、と言う事です。

日本は、有り余る有給休暇を、会社の上司や同僚の目が五月蠅い為に自由に採れない。自分が休めば同僚にその分負担が増える。等と言う職場環境の硬直性から、「私個人」を優先出来なくて、身辺事情を優先して終う、と言うある種の全体主義的な社会環境に身を置いているのです。此れは、日本と言う国が古来より強固な「村社会」によって成り立って来たと言う伝統によるもので、ムラに帰属する事によって自分が存在すると言う、非常に他律的な社会通念が続いているのです。

言って見れば、安倍の、又は自民党の「集団的自衛権」の考えは、この村社会的なセンスから抜け切れて居ない縄文人的感覚が為せる業であると言えるでしょう。そう言う意味で今の日本の政治と言うものは、2000年も、3000年も、遅れていると言えます。

噺を「休み」と言う話題に戻して、
今度の10連休の実施によって、多くの勤め人はその殆どが「家族サービス」に費やしたと想像しますが、日本中の人間(私の様な例外も有りますが)が一斉に移動する事で、色々な弊害も多く出て来ました。日本中の大きなターミナル駅は何処も皆人、人、人、の大混雑。高速道路は大渋滞、其れに加えて、インバウンドのお客様方が特大のスーツケースを電車と言わず、バスと言わず、持ち込んで一般の上客に迷惑を掛けるのには、本当に腹立たしい状態です。

旅行関連の業者は「インバウンド様・様」ですが、我々一般市民は迷惑この上無し。何処へ行っても聞こえて来るのは外国語ばかり、此処はバンコックか? 北京か? マレーシヤか? はたまたソウルか? と思う有り様。 此れを見ていると、何の事は無い、奴らは安全で、大人しい日本人の住む、『ニッポン』が大好きだと言う事が判ります。
日頃から、日本を悪しざまに言う彼の国の指導者たちは、“対日強硬論”を吐き続けて居ないと、自らの政治的立場が危ない‼ と言う事情が有ると言う事です。

また話が逸れましたが、日本人の休みの取り方は大変異様です。働き方改革 は日本人奴隷化の政策ですし、今度の「10日間連休」も日本の勤労者をスポイルする為の物だと言う事も出来るのです。
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前  「名前#任意の文字列」でトリップ生成
E-Mail 入力すると メールを送信する からメールを受け取れます(アドレス非表示)
URL
パスワード ご自分の投稿文の編集、削除の際必要です。面倒でしょうが入力をお勧めします。
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存