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[1661] 人間成長の限界
日時: 2013/01/01 08:39:39
名前: 満天下有人 ID:1356997180

・・・目出さも
    あなた任せの
        年の明け・・・

・・・宇宙運行の神は、暮れると必ず明けを運んでくださる。
そこに棲まはせてもらっている人間ども、そろそろ自らの手で明けを運ぶことが出来るのか、21世紀もその内の13%を既に費やした、自らが創り上げて来たシステムも老朽化し限界に近づいてもいるような・・・

社会の、世界の仕組みを巨大な機械と見立てて見るに、民主主義とやら言う潤滑油も、部品にばかり油を注ぎ、この巨大な機械が果たして全人類のエンジンとして適切なものなのか、機械そのものの構造を考えて見る修理屋さんが居ないように思える。

・・・いや修理屋さんは修理が専門だから、機械の構造そのものの適否を求めるのは酷というものだ。だが大きな設計士さんが世界を見渡しても居ないことが、人間の成長の限界を予感させる・・・

ITを駆使しての今日的民主主義の表現の場を掲示板とするなら、どの巨大掲示板を見ても、部品の修理というか、ここのネジはあそこの部品屋に頼もう、いやこっちだと、部分だけの議論に終始している・・・某巨大掲示板を見てたら潤滑油にはベーシックインカムが最適だとの、未だに機械全体を爆発させてしまうような危険な論がまかり出て来ている。

一つの修理現象としてそこにも、機械全体の構造を見れていない、単なる油差しの視点しかない。

・・・新たな機械のエンジンは、エネルギーをくまなく隅々にまで送り込むものでないと、偏った構造ではいずれエンジンストップの日を迎える。人間社会を動かす巨大機械に新たなセンサーを組み込まないと爆発してしまう。新たなセンサーの哲学をどこに求めるか、人間に対する価値観なるものは何なのか、空気を吸い、食わない事には人間は生存できない。価格需給や金融分析主導の論に終始する経済も、何のために同じ論議を繰り返しているのか、経済における価値論がすっぽり抜けたままである・・・これも機械の部品いじりと同じ光景ではないか、宇宙の動かし難い元素を無視したままで、地球崩壊をあれこれ論じるに等しくなる・・・

・・・まあ、人間はただ生きている、生かされているだけの生物体で、別に価値なんぞを求めるややこしい話など不要かも知れない。ならばそれこそが「人間成長の限界」というものになる。だが、生存したいという本能が存在する限り、部品いじりを何のためにやっているのか、人間に沿った共通する価値原則をも一度振り返って見ることから始め直さないと、運行機械が爆発してしまう。

…謹賀新年、謹んでお喜びを申すべきところ・・・

目出たさも
  半ばなりけり
      年の明け・・・

各位様におかれましては、先ずは生存継続の証として新年を迎えることが出来たことに同慶を申し上げたく。  
メンテ

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Re: 人間成長の限界 ( No.126 )
日時: 2013/02/21 13:53:04
名前: 天橋立の愚痴人間


コーンハウザーと社会学的大衆社会論の二つの源

 『大衆社会の政治』の著者W・コーンハウザーは、大衆社会論の源泉を以下の二つの知的反作用のうちに見いだす。すなわち、フランス革命に代表される一九世紀ヨーロッパ社会の革命的変化によって、エリートがその責任と能力において活動していた領域に大衆が参加・介入する機会が著しく増大し、エリートの閉鎖性が失われてしまったことに対する、エリート的価値を防衛しようとする知的反作用のうちに、その一つを見いだす。そしてまた、非エリートの隔離性が失われると共に民衆を全体的に動員しようとするエリートが登場することによって、ロシア革命の勃発およびナチズムの台頭をその典型とする全体主義運動が生じたことに対する、民主的価値を防衛しようとする知的反作用のうちに、いま一つの源泉を見いだす。

 前者の系譜に属する者は、大衆社会は、平等主義が蔓延する無制約な民主主義社会(超民主主義社会)であり、伝統的価値やエリートの創造的な価値保存的機能を喪失した社会であり、また無能力者の追求する大衆的な疑似権威が支配する社会であり、それ故に政治的暴君と文化的退廃とに抵抗することが困難な社会であると批判する(大衆社会の貴族主義的批判)。このような立場をとる者としては、E・パーク、A・ド・トクヴィル、G・ル・ボン、K・マンハイム、J・ブルクハルトなどの名前が挙げられる。これに対して、後者の系譜に属する者は、大衆社会は、共同体を喪失し原子化した大衆が追求する疑似共同体が全体的に支配する社会であり、原子化された非エリートがエリートに過剰に支配され無制約な専制政治・全体主義に転落する傾向を有する社会であり、また主体的に判断し行動するという意味での自由から逃避する大衆がみずから民主主義を空洞化・形骸化している社会であると批判する(大衆社会の民主主義的批判)。このような立場をとる者としては、E・フロム、H・アレントなどの名前が挙げられる。

 ところでコーンハウザーは、参加する機会の平等・近づきやすい(アクセシブル)エリートの存在にのみ大衆行動の成立根拠を見いだす貴族主義的批判も、操られやすい(アヴェイラブル)非エリートの存在にのみ全体主義運動の成立根拠を見いだす民主主義的批判も、一面的であり、両者は相互に補完されるべきであると言う。そして、共同体社会・多元的社会・全体主義社会という他の社会類型と比較しつつ、大衆社会を以下のごとく規定した。すなわち、
 (1)成立要件という観点からすれば、エリートへの接近可能性も非エリートの操縦可能性も高い社会である。
 (2)構造という観点からすれば、中間集団が非包括的であり弱い社会である。
 (3)文化的特性という観点からすれば、平準化された画一的な基準が、しかしまた同時に流動的な基準が正当性を獲得する社会である。
 (4)自己疎外的であると同時に自己中心的な心理的特性を産み出す社会である。
 (5)代議制のルールが強いが法のルールが弱い、人民主義的民主主義を支えるような社会である。
さて、このようなコーンハウザーの大衆社会論に対しては、いくつかの批判が可能であろう。その一つは、すでに西部邁が的確に指摘している。すなわちそれは、コーンハウザーが四つの社会類型を比較する際に用いている基準は恣意的に解釈される可能性があり、それ故、コーンハウザーにあっては最良の社会であると暗黙のうちに前提されている多元的社会は、大衆社会のもっとも高度に発達した一形態でしかないのではないか、という批判である。もちろん、このような批判は、コーンハウザーとは違った新しい大衆社会像を産み出すことになる。すなわち、西部は大衆社会を、操縦可能性が高いと同時に低い、中間集団の強さが弱いと同時に強い、文化的基準が画一的であると同時に分化的である、自己疎外的であると同時に自己充実的である、法のルールが弱いと同時に強い社会であると考えているのである。それは、大衆をこのような二面性において把握しない限り、現代の大衆状況は把握しきれないということを、つまり、コーンハウザー流の一面的な大衆像の現代における無効性を意味するものである。

 またこれとは別に、次のような批判も成り立つであろう。それは、エリートであるか大衆であるかは、現実の社会階層とは無関係であり、自己態度あるいは自己関係の問題であるとする、精神主義的な批判である。コーンハウザーはエリートという概念を、「社会構造の最頂点にある位置」およびその「位置に付随する機能」という意味で用いている。もちろんこのことは、大衆社会論がさまざまに展開されてきた過程において、当初の貴族と大衆との対置が、エリートと大衆との対置に置換され、しかもそれが現実の社会階層あるいは社会的地位の差異に重ね合わされてきたことを如実に物語っている。しかし、現実の社会階層に密着させた形で、エリートを正の政治階級・社会階級とし大衆を負の政治階級・社会階級とするこのような立場に対しては、後述のような現実の社会階層とは無関係な、精神の資質の差異のみを基盤とする、オルテガ流のエリート・大衆論が成立する余地があるのである。
 なお、コーンハウザーは大衆が原子化していることを強調するが、W・H・ホワイトのように、集団を創造力の源泉として信じ、個人の究極の要求として帰属を信じ、帰属を成就するために科学の適用を信ずる「オーガニゼーション・マン」が巨大組織に過剰同調的に再編入されることが大衆社会を形成する、と考える者もいる。また、エリートの大衆に対する支配関係についても、パワー・エリートや新パワー・エリートによる一元的支配を考える者もいれば、多元的支配を考える者もいる。

オルテガの大衆論

 オルテガは、人間社会をエリートと大衆とのダイナミックな統一態と考え、その本質上、貴族主義的でなければならないと考える。オルテガもまた、大衆社会を、エリートの閉鎖性がなくなり、平均人・凡庸人が凡庸であることを知りつつ社会の至る所で凡庸であることの権利を主張し、かつてはエリートのものであった社会的権力を獲得している社会であると考え、その肯定的な側面にも言及はするが、むしろその野蛮や危険を繰り返し強調している。そして、大衆の反逆という歴史的現象の原因、このような野蛮や危険が到来した原因を、自由主義的デモクラシーと技術(実験的自然科学と産業主義といった物質的技術・政治的技術・社会的技術)に見いだしている。

 ところで、オルテガはエリートおよび大衆を現実の社会階層とは無関係なものであると考え、それを人間のあり方の問題であると考えている。それは、オルテガがエリートを、特別な能力・才能・資質を有し、みずからに多くのことを課して困難や義務を負う人であると規定し、そして大衆を、自己超克の熱情も特別な資質も有さず、みずからに特別のことを課したりもせず、すべての人と同じであることに苦痛を感じないどころか喜びを感じる平均人であると規定していることから明らかである。だが、人間のあり方の問題であるとは、どういうことを意味しているのだろうか。

 オルテガは、所与としての諸々の可能性である、限定された交換不可能なこの現在的な世界(=環境)とそこでの決断(der Entschluß)とを、生(das Leben)の二つの構成要素と考える。このことは、人間が自由へと規定されていること、すなわち、被投的投企が人間の運命(das Schicksal)であることを意味する。こうした運命にあって、エリートがみずからの生に真塾に責任をもって立ち向かい、みずからに多くのことを課して自己実現のために戦い努力するのに対して、大衆はみずから決断しないことを決断し、すべての人と同じであろうと決断する。そうであるかぎり、みずからの生に真塾に立ち向かわない大衆は、みずからに価値を見いだすこともなく、またみずからが生きている生が他ならぬみずからの生であるという、生の真正さ(die Echtheit)を喪失しているのである。それ故、大衆の反逆とは、単に権力・エリートに対する大衆の反逆といった表面的なことを意味しているのではなくて、大衆がみずからの運命に対して、したがってまたみずからに対して反逆しているという事態を意味しているのである。エリートであるか大衆であるかは人間のあり方の問題であるということは、それが自己態度・自己関係の問題であるということを意味しているのである。

 この点においては、オルテガは実存主義者と同様の立場をとっている。しかし、両者の間には決定的な違いがある。実存主義者がこの自己関係を存在論的に理解しようとするのに対して、オルテガはそれをあくまでも存在的にのみ理解しようとしていること、このことが両者の決定的な相違である。それは、オルテガがエリートの特別な社会的能力・才能といったものを問題にしていることからも、また大衆の反逆を歴史的な現象であると規定していることからも窺えるであろう。


三 問題点は何か――展望にかえて――


 上述のことからしても明らかなように、大衆社会論はきわめて多様である。大衆社会あるいは大衆社会状況を存在的に分析する実証諸科学の大衆社会論もあれば、それを存在論的に分析する存在論的な大衆社会論もある。また、大衆とエリートとを現実の社会階層に重ねる大衆社会論もあれば、重ねない大衆社会論もある。さらにはまた、大衆成立の要因の分析、エリートの大衆支配の構造の分析、大衆人の心理特性の分析など、大衆社会論の関心は多岐にわたる。それらのすべてをここで取りあげることはできなかった。また、ごく最近の大衆社会論については何一つ取りあげなかった。とはいえ、大衆社会論が問題にしてきたことの一端(類と個の問題・自己関係の問題・存在的な問題・存在論的な問題)は、示すことができたのではないだろうか。だが、大衆社会論が真に問題にしてきたことは、実はこういったことではなかったのではないだろうか。大衆社会論は、実際のところは、近代的な理性、近代的思惟そのものが危険をはらんでいることを主張しようとしてきたのではないだろうか。

 「人間が主体(das Subjekt)となる」こと、すなわち、人間が「あらゆる存在者がその存在と真理とのあり方という点でそこに基礎を置いているような存在者になること」が近代の本質であると、ハイデッガーは述べる。人間はこのような主体となることによって、もはや現前するものをそれ自身に即して存在するものとして受け入れる(vernehmen)のではなくて、すなわち、現前するものの自己顕現を受け入れるのではなくて、それをみずからに対抗・存立するもの(Gegen-ständiges)としてみずからの前に定立する(vor sich stellen)。現前するものをみずからに対抗・存立するものとしてみずからの前にこちらに立てること(=対・象として表象すること)によって、世界はいまや世界像になったのである。近代とは世界像の時代である。だが、近代的思惟(表象作用)がこのような「表象的仕立て直し(das vorstellende Herstellen)」を意味するかぎり、近代的思惟は作成・生産(Herstellen)という性格、技術的な性格を有している。近代的思惟は、現前するものの自己顕現を塞いでしまうという点において、かつてのテククネーとは違って現実をそれが役立つもの・用象(Bestand)として顕現するように挑発しつつ立たせる[=仕立てる・用立てる]こと(das herausfordernde Bestellen)をその本質とする、近代的技術と一致しているのである。

 ところで、近代的思惟が自然(世界)を対象として表象的に仕立て直すことであるということは、現実的な具体的な個体的自我が、表象的仕立て直しを可能ならしめる根拠としてのデカルト的エゴ、すなわち、主体(主観)一般(das Subjekt überhaupt)に仕立て直されていることを、同時に意味している。このことは重要である。というのも、本来的自己存在を喪失し一般化・平均化した大衆人の原型は、原理的には、このような近代的思惟によって仕立て直された主観一般のうちに見いだされるからである。それ故、大衆社会の到来は、実は近代的思惟の始まりと共にすでに準備されていたと言えよう。また、近代的思惟とその本質を同じくする近代的技術は、自然を用象として顕現するよう挑発的に仕立てるのみならず、同時に人間自身を「人間素材(Menschenmaterial)」という用象として顕現するよう挑発的に仕立てる。それ故、大衆社会状況の到来は、実は近代的技術がその始まりを告げたときから必然的であったと言えよう。

 このように考えるならば、現代は、近代的思惟と近代的技術とによって一切のものが対象および用象として仕立てられてしまった時代、現前するものの自己顕現が塞がれ、存在が忘却され無となった、ニヒリズムの時代であると言えよう。ニヒリズムの時代の社会、それが大衆社会である。大衆社会の危険が叫ばれるときには、同時に近代的思惟そのものの危険(および近代的技術そのものの危険)が叫ばれているのである。大衆社会論の根底にあって真に問われなければならなかったものは、実にこれなのである

(終わり)
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.127 )
日時: 2013/02/21 14:34:18
名前: 北の国から

 天橋立の愚痴人間さん。

 ご承知のように、北海道は(やや乱暴に言うと)、「流れ者の土地」です。しがらみがない。
本州のように「家のまわりに塀をはりめぐらす」という家はほとんどありませんし、お葬式も「香典」があって、
その場でわたされる「香典返し」(海苔やコーヒーの詰め合わせが多い)で「終わり」です。
 歴史も浅いし、文化も伝統というものもあまりありません。

 あまり合理的な道民を感じたことはありません。

 また、たとえば百人一首にしても「下の句を読んで、下の句だけの書かれた木の札をとる」というように、知性
を重視するという点でも、これからのようです。

 ただ、いわゆるフロンテイアスピリットのようなものは、知識人にも、また1次産業にたずさわる人々のなかに
若干あると思えます。

 ボクは大阪の人々に、合理性があると思っていましたし、大阪から流れてきた友人と話していても、そう感じる
のですが、横山ノック知事以来、疑問をもつようにんりました。

 京都は知性の高い、歴史も伝統もある土地がらでしょうが、京都で、訪問先の家で「ご飯食べていらっしゃい」
と言われて(北海道だと、そのままにとってなんら問題ないのですが)、「それじゃお言葉に甘えて」などとご飯
をいただいたりすると、一生笑い物になる、という話を聞いたことがあり「うーん、むずかしい地域なんだ」など
と思ったことがあります。

 それでも、北海道のよさは、道端で困っていると、知らんぷりする人が圧倒的に少ないことでしょうか。
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.128 )
日時: 2013/02/21 15:07:20
名前: 天橋立の愚痴人間

北の国から さん

私が住んでいます丹後地方は、京都の北海道と言われる北の果てです。
都との関係は、昔話に大江山の鬼退治に、都から来た 頼光達くらいのものですか。

>『大江山絵巻』酒呑童子は日本最強の鬼と言ってよく、玉藻前で有名な白面金毛九尾の狐と、恨みによって大天狗と化した崇徳天皇と並んで、日本三大悪妖怪と謳われるようになった。

京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王により討伐隊が結成され、姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させた上、酒盛りの最中に頼光が神より兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という酒を酒呑童子に飲ませて体が動かなくしたうえで寝首を掻き成敗した。しかし首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれている。

頼光たちは討ち取った首を京へ持ち帰ったが、老ノ坂で道端の地蔵尊に「不浄なものを京に持ち込むな」と忠告され、それきり首はその場から動かなくなってしまったため、一同はその地に首を埋葬した。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいう。これが現在でも老ノ坂峠にある首塚大明神で、伝承の通り首から上の病気に霊験あらたかとされている[6][7]。大江山(京都府福知山市大江町)の山中に埋めたとも伝えられ、大江山にある鬼岳稲荷山神社の由来となっている。

また京都府の成相寺には、この神便鬼毒酒に用いたとされる酒徳利と杯が所蔵されている[8]。

酒呑童子という名が出る最古のものは重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)であるが、この内容は上記の酒呑童子のイメージとはかなり異なっている。まず綴りが酒「天」童子であり、童子は一種の土着の有力者・鬼神のように描かれていることがうかがえる。また童子は「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とも述べている。酒で動きを封じられ、ある意味だまし討ちをしてきた頼光らに対して童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。

他には、森鴎外が小説で取り上げた「安寿と厨子王」の話があります。

>平安時代の末期、平正氏は、筑紫国へ左遷された。妻と、安寿・厨子王の幼い姉弟は、正氏に会いに行く途中、越後国で人買いに騙され、離ればなれになってしまった。安寿と厨子王は、丹後国の苛烈な荘園領主・山椒大夫に売られ、奴隷としてこき使われるようになる。やがて、成長したふたりは、荘園から脱走することを考えるようになった。そしてある日、安寿は厨子王に脱走をすすめる。厨子王は都への上洛を果たし、丹後に国司として赴任、厨子王の脱走とともに入水した姉の菩提をとむらうとともに、山椒大夫に対して奴隷を解放し賃金労働者として雇うように命ずる。その後、母が佐渡国にいると聞きつけた厨子王は、佐渡にむかい、盲人となった母親に再会する。



いづれも、そんなに好ましい関係ではありませんでした。

京都人は、仰るとおり相手にしたくない連中ですね。
最も、そんな人は極一部になっているでしょうが。

地域の人々の特性を言いますと、大阪などは、公私混同と言いますか、平気で他人の領域へ踏み込んできます。
公共心を守る精神も、エスカレーターに乗るとき東京の人は大体、左に寄っているのですが、大阪は、そんな事に無頓着です。
そうかと言って行儀の良い東京人が好きと言うことにもなりません。
また、同じ田舎でも、私が住んでいる田舎よりもさらに僻地へ行きますと、人情と言うものを熱く感じますが、そうかと言って、そこが住みやすいと言うことにもなりません。

先のレスで書いていますように大衆意識こそ、扱いにくいものなのですね。
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.129 )
日時: 2013/02/21 15:07:52
名前: 北の国から

 満天下有人さん。

 自然科学と社会科学を、思考としてそれぞれが他方にどう働きかけることができるのかという問題は
かなりむずかしいテーマですね。
 たとえば、医学そのものは生物学、化学など自然科学の領域の適用と理解される場合がありますが、
診療場面そのもののなかにも(つまり診断の過程で)、社会科学が重要なポイントになり治療計画に重大
な意味をもつ(たとえば患者の栄養状態と経済状況や、日ごろの労働の場面など)場合があるのはよく知
られていることではありますが、これとて、その改善計画に医師や医学が立ち入る余地はほとんどない
と理解されています。

 つまり、自然科学の成果そのものは、社会科学のもろもろの理屈や運動抜きには、人類の役に(そのま
ま)立つことは少ないのではないかと思います。

 ただ自然科学の思考が世の中の進歩に役立っているとしたら「分からないものは分からない」とスパッ
と言いきる潔さでしょう。

 また、日本においては自然科学の学者、研究者はどちらかというと、社会そのものに対して「毅然とも
の申す」ということが少なく、また発言しても、大衆的な説得力と言う点では未熟のような気がします。

 たとえば、薬害訴訟などで、被告の製薬会社は「原告の立証責任」という制度をたてにとって、「因果
性の否定」をしてきます。そして自然科学の観点でこれを覆すのはなみたいていではありません。
この場合は、社会科学の分野から「薬害訴訟」の立証責任については、被告が立証しなければならない、
というような提起があってもよい(もちろん法改正ですが)とするべき、そういう役割が社会科学者の
側にあると思います。
メンテ
構造が理解できない安倍のバカミクス ( No.130 )
日時: 2013/02/21 22:24:49
名前: 満天下有人

イントちゃん、おっちゃんも森議員の質問場面は見ました、でも安倍の答弁は矛盾だらけ、安倍ボンも大変だな(笑)、ミソもクソも一緒くたにしてしまった理屈でやってるから・・・

その前に、通貨安競争は止めようとの全体雰囲気の中で始まったモスクワG20、ラガルドIMF専務理事が、安倍のミクス政策は一定の範囲内で理解出来るとのお言葉を貰ったものだから、そうなのです!私は円安の為に金融緩和政策をやっているのではありません、「デフレ解消」の為なのです、と我が意を得たようで・・・

・・・そこで強気になって、前々回国会でインタゲ達成できない時には、日銀法を改正すると、また同じ恫喝を繰り返す答弁。G20ではデフレ解消が目的で通貨安競争をやっているのではない!日銀法を改正すると、どこがどうなってデフレ解消になるのかは、説明なし。インフレになって、そのどこがどうして国民生活の安寧になるのか、風が吹けばおけ屋が儲かる類の政策だから、一部を除いてどちら様もキツネに包まれたような気分であろうか。いや、株高でエエジャナイカ、エエジャナイカで気分良く浮かれているのか・・・今回の株高は明らかにバブルの様相を帯びています。例えば、シャープを一例としてあげると、インフレ期待で株価は昨年12月に比べ、ここ2カ月間で5割上昇していますが、業績は大赤字、国際低価格競争で、更にコストが安い国での生産を模索せねばならない状況なのです。まあ投機で儲けてはいけないとまで無粋なことは言いませんけど、要するに投機家の皆さん、気をつけておくれやす、ということです(笑)。

はてさて安倍のバカミクスが強調するデフレ解消の為に、法改正までして日銀に金融緩和させるとは、どういう理屈なのでしょうか、一番分かりにくい事は、インフレに転換できない事の責任=デフレが何故、中央銀行にあるかという説明が無いことでしょう、説明が無いと言うより安倍の頭では説明出来ないのでしょう、つまり誰かの入れ知恵で政策を掲げてしまったということでしょう、誰であるかと言えば、アメリカのノーベル経済学受賞の金融学者・クルーグマンで、その手先が我が国に居て、こいつらが政府の言う事を聞く人物を次期日銀総裁にしようとうとしているのですね・・・

少し教科書的に三段論法で考えて見るに、インフレに持ち込むとは、言い換えるとデフレでは困ると言う事であり、何故デフレでは困るかと言うと、GDPが減少し続けて既に大赤字の財政がもたないと言う事になります。安倍の超金融緩和の狙いは、実は、赤字財政を容易にフイアナンスし、政府の責任がクローズアップされないようにする為のものと言う印象が強いのですね・・・他に困ることと言えば、賃金が下がって消費マインドが冷え込むということですが、実はここに安倍のチャンポンミクスの勘違いあるのです。

デフレが何故日銀の所為ではないかと言うと、お札を印刷して発行する中央銀行は、発行のし過ぎによるインフレを抑えることは、金利を上げたり通貨発行を抑制したりして、政策的にインフレを抑え込むことは出来ますが、その逆、デフレを解消する機能はそもそも持っていないのですね・・・抑え込むことは出来ても、引っ張り上げることはできません。別の言い方をすれば、インフレなど物価に影響を及ぼすのは「金利」であって、通貨供給の問題では無いということです。

少し専門的でややこしい話になりますが、経済学の基本理論に、「自然利子率」という概念があります。この場合の利子とは、銀行などが貸す貨幣に対する利子とは全く違うものです。違うと言うよりも銀行利子率の根底に元々あるものなのです。どういうことかと言いますと、世の中には色んな財、商品があるとします。それを消費する側は、今の商品よりももっと良いものが出るだろう、あるいは技術革新などがあって、同じ商品でも別の効用があるものに取って代わるだろう、そういう期待感があればその商品を生産し供給する側の意欲と、それを買ってやろうとする消費側の意欲が均衡して来ます。その均衡がマイナスの場合、消費意欲<供給サイド意欲の状態、それをデフレ現象という訳ですね。その度合いのことをデフレギャップと言うのですね。

そして消費意欲に見合う生産側の意欲、これを「潜在成長力(率)」と言います。デフレギャップとは、生産能力に対し潜在成長率が不足している状態ということになります。そうしますと、自然利子率とは≒潜在成長率ということになって来ます。そしてその潜在成長率の中身は何かと言いますと、資本、生産性、労働力という生産に必要な三つの要素で成り立っています。

現在のデフレ問題は、この三要素のうち「労働力」が大きなネックになっているのです。労働力が不足しているという意味でのネックではありません。国際低価格競争の為に労働力を削減せねばどうにもならないと言う意味でのネックです。

そしてその原因によって、労働者は明日の消費を控えるという行動に出ざるを得なくなる訳です・・・・この悪循環を、日銀の所為だとは言えない筈です。自然利子率→潜在成長力の不足は日銀の所為だと、誰が言えますか?常識で考えても判る話です、デフレギャップを起こしている潜在成長力、これは通貨発行当局がどうこう出来る性質のもでないことは、一目瞭然でしょう、日銀がどこかのメーカーに、おいお前の所は生産性が悪いからこうせよとか、お前の所は労働力が足りないとか、賃金を上げてやれとか、つまり潜在成長力のことについて口出し出来ないのです、出来ないと言うよりその役目は政府が負う問題です、つまりデフレ問題は中央銀行の問題では無いという理屈になって来ますね・・・ところが日銀の所為だと言うバカが居るのですね、それが日銀法を改正すると言う安倍であり(笑)、肩書だけは立派な学者どもなのです(笑)。

森議員はそのことを全部言ってたわけですね。麻生が過去の日銀金融緩和政策が「ブタ積になっていたことを認める答弁も、要するに日銀がいくら金融緩和して銀行に資金を供給しても、銀行で滞留してしまうことを言ってる訳ですね。これも潜在成長力のプラスマイナスは金融の問題では無いことの証明になります。

掲示板でグラフを投稿できませんが、過去の金融緩和でも、GDPはさっぱり上向かない、賃金は安倍答弁のように50兆円?減少、円は逆に高くなって行った、統計で明らかに出ています。今回の円安も安倍のミクスによるものと言うより、ユーロの金融不安が落ち着く傾向を見せたことが第一の円安の動機だと思いますよ。そしてオカネだけがジャブつく流動性の罠=潜在成長力が無い時に金融緩和すれば、オカネは証券市場などの投機に向かうのは当然のことで、実質生活の向上に繋がらないことは、簡単な理屈です。

見て御覧なさい、森議員の質問に安倍は、「儲かっている企業」に賃上げを要請しているとバカな答弁をしていますね、ローソンの賃上げはNHK特集でも観ましたが、本社正社員の一部に限定すると言ってますね。それも一時金で・・・会社側はこのご時世、何が起こるか分からないから全面賃上げはしないと言っていました。安倍のミクスはそこが全然分かっていないのです。もし株高、円安で景気が良くなるから金融緩和するというのなら、一々経団連にまで賃上げをお願いする必要も無いのに。

ほんとに笑っちゃいますよ、三つの意味で。一つは、過去の実績を全く検証もせずに中央銀行にデフレ責任を中央銀行におっ被せ、どうもそれでは具合悪いと思ったものだから、日銀でなく政府が企業に賃上げを求める行為、言い換えると自ら唱えた安倍のミクスを、自ら否定しているチンドン屋政策です、何も分かっちゃいない。

第二は、賃上げ問題は労働組合「連合」が担うべきですのに、定昇はしないと言う経団連に向かって何もしない姿勢。

第三は、こんな有り様になるのは分かっていることで、世界的に見ても政府などにはもう、おんぶされる時代では無いとの認識が広まり始めているのに、この有り様を評価する有権者が7割を超える勢いを示していることです。
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.131 )
日時: 2013/02/22 13:39:36
名前: イントィッション

>実は、赤字財政を容易にフイアナンスし、政府の責任がクローズアップされないようにする為のものと言う印象が強いのですね・・・他に困ることと言えば、賃金が下がって消費マインドが冷え込むということですが、実はここに安倍のチャンポンミクスの勘違いあるのです。

とうとうチャンポンミクスになりました。。。

市中銀行に20兆、30兆とブタ積みという定義の説明も麻生・安倍ダブルチャンポンミクスとなりましたね〜。。。
この二人、政権捕って、国会を笑点の番組に様変わりさせたんでしょうか??? 視聴率アップのために ゲー。。。

麻生も首相時代に何億円も銀座の高級クラブにブタ積みしましたね〜。。。 その説明しているんでしょう。。。

ついでに、やくざの血筋は、銀座の高級クラブからホストクラブにまで、広いですね〜。。。(笑。。。
   ↓

小泉元首相の甥が逮捕されたようです。


小泉元首相のおいを逮捕 ホストクラブ無許可営業容疑

ttp://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013022101000913.html

神奈川県横須賀市でホストクラブを無許可で営業したとして、県警が風営法違反(無許可営業)の疑いで、小泉純一郎元首相のおいで飲食店経営者、小泉力也容疑者(29)=横須賀市日の出町=を現行犯逮捕していたことが21日、捜査関係者などへの取材で分かった。

★この事件、マスコミの皆さん! 大きく報道してくれませんか???
  NHKの夜の7時から
  土曜日の朝の日テレの政治番組!
  日曜日の報道2001!
  日曜日の朝日のお昼の番組!
 
  日曜日のNHKの政治討論会! なぜ、政治家にはやくざ関係者やカルト宗教団体が多いのか?というテーマで!

  やってくださいよ! マスコミさん!
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.132 )
日時: 2013/02/22 18:55:53
名前: 満天下有人

そういえば、公明党から国会議員になった茶道の池坊保子?、TVで言ってたけど、国会とは実に面白い所で、一度やったら辞められないとか(笑)。

麻生のオカネの使い方は豪快ですね、麻生財閥のカネ使ってるのか、政党助成金も紛れこんでいることでしょう、銀座数寄屋橋の一流寿司屋・じろーで年間2千万円も食っているとの記事も目にしたことがあります。あんな高級店は、とてもじゃないが、個人のオカネでは食えません・・・

森議員の質問に対し、日銀ベースマネーがブタ積みになっているとの答弁、日銀が金融緩和を実施する方法は、通常、市中銀行保有の国債を買い上げて、その一部を法定準備金として当座預金させ、残りを市中銀行に渡し、銀行がそれを市中に供給する訳ですが、この場合、日銀の法定準備金以上(僅かなものです)に当座預金が膨れ上がると、それだけ金融緩和した印になるのですが、市中金融機関に供給したオカネがその先に流れていかない(資金需要が無い)なら、せっかく日銀に積み上がった当座預金は役を果たしていないことになり、これを「ブタ積み」と言うのですね・・・

・・・まあ、麻生と安倍がタッグを組んで答弁しても、その政策がほんとに国民一般の生活の安定に役立たないなら、これもブタ積みと言えるでしょう(笑)。まあ、永田町そのものがブタ積み状態なのだから。
メンテ
日本人の限界 ( No.133 )
日時: 2013/02/23 20:37:28
名前: 満天下有人

何やら民主党からまた2名の参院議員が脱藩すると言う。民主党のていたらくに限界を感じてのものなら、それはそれで別に構わないことだが、脱藩後、自民党の補正予算に賛同し、ネジレ参院の一助にしたいそうだ。多分、もろもろの政策にも賛同し、夏の参院選での己の生き残りの為であろう。

国民新党の白見庄三郎も古巣の自民党にカムバックを要請、国民新党の代表がである(笑)、これも次期選挙で居所が無くなる恐怖が先だってのことであろう。

これは単に政界に於ける連中の生態とだけ、言い切れるものではない、日本人全体に潜む体質のようなものを感じる。食えている間は構造の歪みなどにはお構いなしで、食えなくなると信条などどうでも良く、食えれば信条などどうでも良いとする別のネグラに向かう。

例によって大手紙の調査だから、話半分としても安倍政権への支持率が70%を突破、長きに亘る自民党の原発政策を批判したあの原発事故の時の国民心情は、どこえやらである。中国の公害には厳しい姿勢を取っても、国内事故のその後の状況などには無関心が嵩じている。

オバマと安倍がTPP参加問題で共通認識に合意したそうだ、例外なき関税撤廃でなく、例外もあるという合意だ・・・これを表面的に受け入れて我が民意による安倍自民党への支持派は、一層高くなることであろう。

コメなどの関税例外に目が向いてしまい、外資受け入れの一層の自由化や毒素条項などの危険性には目が向かなくなる。遺伝子組換え種子のモンサントが、また米国農家と訴訟を起こしている。数年前のカナダにおけるモンサントの強圧的訴訟には、こんなことが認められるのかと驚いたものだ。モンサント種子が飛来し、他農家で収穫が上がったのだから利益はモンサントに還元すべきとの訴訟で、同社が勝訴。これと同じ訴訟がインデイアナ州の大豆農家との間で起こっている。

問題は、さような農業はやらなければ良い、モンサントはその時になって使わなければ良いのであって、杞憂に過ぎないとするか、だがTPPの問題は、コメを例外品目とすれば済む話では無い。資本の更なる自由化が含まれている。少子高齢化で我が国農業が衰退して行く中にあって、農業の株式会社化によって大規模営農に転化する客観情勢が進めば、当然ながら外資による集約化も例外ではなくなる。モンサントとて例外ではない。多国籍企業はいくらでも別の衣をまとって出てくるのである。

さような資本も含む規制撤廃の自由化を進めたのは、自民党である。日米同盟の強化も
株高、円安で隠れてしまったか(笑)、民衆は何となくそれでもええじゃないかとのムードに傾きつつある感じだ。まあ、民主党のテイタラクで、それに代わる受け皿が無いから、しょうがないじゃないかとのムードも強くなっているのだろう。

・・・何事も、その歪みが表面化した時に考えれば良いではないか、食えなくなったら、あるいは安全に生活出来ない状況になった、その時に考えればええじゃないか・・・日本人間の限界が見える。居場所が無くなりそうだから、今の内に強い所へ鞍替えしようとの政治家の行動は、政治家に限った気質でも無い。
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.134 )
日時: 2013/02/23 21:36:09
名前: 天橋立の愚痴人間

ノブレス・オブリージュもいなく、紫式部が言う、大和男子もいなく、トインビーが言う先験者の現れない・・・

こうした状況で大衆は蠢いています。

昔の、その大衆と言われるものは、無知で従順であるが、自分達が救われる風は敏感に感じ取ったものである。

しかしながら、民主主義の名の下に、情報科学の影響下、知識にあふれ賢しらになった大衆は、集団のことよりも自己の権利、欲望を唱え始め、斯の先駆者達の諭しを受け付けない。

このような環境を逆手にとって悪は栄える。
大衆を食い物にする妖怪が繁殖する。

明治維新の英雄達も、現代社会では、何をする手立てもなく消え行く運命であろう。
この混沌の中から現れるべき者は何であろう。

下記のリグベーダの世界は戻ってこない。
人類は超えるべきでない限界を超えたのである。

(リグベーダ)

そのとき、無もなく、有もなかった、
空界もなく、その上の天もなかった。
世界を庇護したのはだれか、それを包んだのはだれか。
あの底知れぬ深遠はどこにあったのか、あの海はどこに。

そのとき、死もなく、不死もなく、
夜と昼とがさだかでなかった。
かの唯一者は、息なく呼吸し、
そのほかには何ものも存在しなかった。

全世界は暗黒におおわれ、
光なく、夜の中に消える大洋であった。
そのとき、おおいの中に隠れていたもの、
かの(唯一者)が灼熱の力によって生まれた。

これから出て、はじめに現れたのが、
知の種子なる意欲であった。
有の根底を無のなかに見いだしたのは、
心の動きにしたがい、探し求めた聖賢たちであった。

彼らが測素を横にずっと張ったとき、
何がその下にあって、何がその上にあったのか。
種子をもつものが存在し、活動する力が存在した。
自存力が下に、あふれそうな力が上に。

だが、だれがうまく尋ね当てたのか。
創造がどこから生じたかを、だれか認めたものがいたのか。
神々も、この創造よりのちに生まれ出た。
では、創造がどこから生じたかを、だれが宣言するのか。

創造を生み出したもの、
彼はいと高き天の光でそれを総覧し、
彼はそれをつくりなし、あるいはつくりなさず。
彼はそれを知り、あるいはまたそれを知らないか。

(リグベーダ終わり)

もはや社会を救う、あの先験は期待できない。
人類は修羅の混沌の中に放り込まれた。

人類にとって、人間性の限界を取り戻すことのみが、認めることのみが、唯一の燭光となるであろう。
それは大衆自身の問題である。

人類は人間性の限界に挑戦し、超えることを目指した故に、現在を招いた。
先験者でなく、大衆が、それを反省する事ができるであろうか。

それとも、人間性の限界を説く、先験者が現れるであろうか。
現れたとしても、勝手気ままに、傲慢になった人類を説き伏せる事ができるであろうか。

大衆とは、斯くも扱いにくいものではある。


メンテ
人間性の限界 ( No.135 )
日時: 2013/02/24 07:44:15
名前: 満天下有人

・・・修羅の混沌の中に放り込まれた人類。それぞれの時代においてなんとか切り抜けては来たものの、近代以降は混沌から抜け出すために、人間が自ら修羅場を産み出して、自らをそこに投げ入れて苦労している・・・

流れの大枠はやはり西欧文明、近世までは宗教観を軸にして、社会制度もそれに沿って形創られていたものが、産業革命をバネに、社会制度までがその枠に嵌め込まれてしまって、その西欧文明が環境も含む制度を、限りなき競争のルツボの中で人間同士の闘いに変えてしまった。

19世紀にオーストラリアに入植したイギリス人が、キツネとウサギを持ち込んで、キツネに遭遇したことのない原産地哺乳類が捕食され、ウサギは食用動物の牧草を食い尽くし、それを再生する為に持ち込んだ種に有害雑草種が混入して、悪循環が始まった。

自然界に対する横暴を人間社会の制度に当てはめて見るに、ビッグバンと称して食うための経済制度を成長させるでなく破壊し始めた。自然界に対する破壊が人間制度に向けられ始めて、今度は食い合いが人間同士で始まった。中世からあった構図ではあろうけど、産業革命を機に、食い合いが宗教から経済に軸が移されただけである。

食う事の基礎物資である農業に対し、種子を独占するモンサントの行為などは、基礎物資の支配を経済支配にまで高める、実に現代的因子を持っている。ビッグバンを革新的行為とみなす行動は、自然界における宇宙の法則と違って、人間界においてはその結果の予見は可能な筈なのに、間違った類推が往々にして正反対の現象をもたらす。

正反対の現象が出るかもしれない現象は、周りに数限りなく出ているのに、それを予知する能力も無く、その現象の結果に対してまでも鈍感であるなら、もう何をか況やである。

例えばの話、反米か隷米かなどと言う現象もそうであろう、親米か反米かという括り以前の事として現象を捉えない限り、予知能力も無い振りまわされに終わってしまう。超金融緩和にしてもそうであろう。後は、人類なる人間の社会が、現象鈍感さをどこまで許容できるか、そこに頼るしかないのだろうか・・・。
メンテ

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