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[1661] 人間成長の限界
日時: 2013/01/01 08:39:39
名前: 満天下有人 ID:1356997180

・・・目出さも
    あなた任せの
        年の明け・・・

・・・宇宙運行の神は、暮れると必ず明けを運んでくださる。
そこに棲まはせてもらっている人間ども、そろそろ自らの手で明けを運ぶことが出来るのか、21世紀もその内の13%を既に費やした、自らが創り上げて来たシステムも老朽化し限界に近づいてもいるような・・・

社会の、世界の仕組みを巨大な機械と見立てて見るに、民主主義とやら言う潤滑油も、部品にばかり油を注ぎ、この巨大な機械が果たして全人類のエンジンとして適切なものなのか、機械そのものの構造を考えて見る修理屋さんが居ないように思える。

・・・いや修理屋さんは修理が専門だから、機械の構造そのものの適否を求めるのは酷というものだ。だが大きな設計士さんが世界を見渡しても居ないことが、人間の成長の限界を予感させる・・・

ITを駆使しての今日的民主主義の表現の場を掲示板とするなら、どの巨大掲示板を見ても、部品の修理というか、ここのネジはあそこの部品屋に頼もう、いやこっちだと、部分だけの議論に終始している・・・某巨大掲示板を見てたら潤滑油にはベーシックインカムが最適だとの、未だに機械全体を爆発させてしまうような危険な論がまかり出て来ている。

一つの修理現象としてそこにも、機械全体の構造を見れていない、単なる油差しの視点しかない。

・・・新たな機械のエンジンは、エネルギーをくまなく隅々にまで送り込むものでないと、偏った構造ではいずれエンジンストップの日を迎える。人間社会を動かす巨大機械に新たなセンサーを組み込まないと爆発してしまう。新たなセンサーの哲学をどこに求めるか、人間に対する価値観なるものは何なのか、空気を吸い、食わない事には人間は生存できない。価格需給や金融分析主導の論に終始する経済も、何のために同じ論議を繰り返しているのか、経済における価値論がすっぽり抜けたままである・・・これも機械の部品いじりと同じ光景ではないか、宇宙の動かし難い元素を無視したままで、地球崩壊をあれこれ論じるに等しくなる・・・

・・・まあ、人間はただ生きている、生かされているだけの生物体で、別に価値なんぞを求めるややこしい話など不要かも知れない。ならばそれこそが「人間成長の限界」というものになる。だが、生存したいという本能が存在する限り、部品いじりを何のためにやっているのか、人間に沿った共通する価値原則をも一度振り返って見ることから始め直さないと、運行機械が爆発してしまう。

…謹賀新年、謹んでお喜びを申すべきところ・・・

目出たさも
  半ばなりけり
      年の明け・・・

各位様におかれましては、先ずは生存継続の証として新年を迎えることが出来たことに同慶を申し上げたく。  
メンテ

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Re: 人間成長の限界 ( No.116 )
日時: 2013/02/19 23:36:04
名前: 天橋立の愚痴人間

満天下さん

先に挙げました「人間成長の限界」の本元となる
A Comparison of the Limits to Growth with Thirty Years of Reality
の文章は、私では3行たりとも解りませんが、要するに「言論プラットフォーム アゴラ」の解説の様なものとして、「人間成長の限界」と言う言葉自体を検証してみたくなりました。

「人間成長の限界」と言う意味を、今後の人類の課題とする見方と、現代社会自体を「人間成長の限界」故とする見方があると思います。

資源問題と言う具体的な領域では、前者の様な解釈が問題となると思いますが、文化文明論的に言えば、元々、人間とは成長できないもので、それが可能なように勘違いしている事に問題があると言うことにもなります(後者)。
満天下さん、自身、この間を行き来されているように感じます。

結論は短絡には下せない事と思いますが、トンでもない命題に挑戦する事になりましたね。


やはり、即興で詩も出てくる様な、政治ゴロをしている方が気楽ですね。
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.117 )
日時: 2013/02/20 10:15:18
名前: 満天下有人

おや?ローマクラブ提言に関する投稿NO.113を見過ごしていました、アップされる先に民主党ダジャレ(笑)が目に入ってしまいました。

文明の崩壊が、単に環境異変によるものだけだったのか、それに人間どもが気がつかなった事もおおきな要因であったのではないか、ということで、まだほんの一部ですが過去の崩壊の歴史から入って見ますと、やはり人間が創り出した文明を、人間が崩壊せしめた、それは環境も含めてのことであった印象が強く、やはり他の生物圏と区別される人間圏の「人間の限界」がそうせしめた。

テーマを「人間の限界」とすれば話はスムーズになるところ、どうも産業革命以降、経済「成長」万能の風潮が地球を覆ってしまい、人間能力の限界を経済成長によって打破しようとしたのに、その経済成長が人間の成長の限界にもなっている、と言うことで両方を合わせて「人間成長の限界」なる合成テーマにしてしまいました。

貼り付け資料の1972年・ローマクラブの提言は、Introductionにも書かれているように、ローマクラブが米マサセッチュ工科大学・MITのデニスメドウズ(米環境学者)に、このままで行くと地球はどうなるかの研究を委託、メドウズが米、独、インド、ノルウエー、イラン、トルコの研究学者を集めてPTを編成しローマクラブに提言したもので、ローマクラブのオリジナルではありません。しかし世界30カ国語に翻訳され、ベストセラーとなり、各大学の教科書として採用されているようです。

更にその後の状況変化も検証し、2015年に更なる見通し提言をするようで、どのような結論付けが出るのか楽しみですが、まだ先のことになります。

橋立さん指摘の通り、先ずは経済成長に伴う環境破壊が及ぼすことから、人口、食料問題検証を始めています。メドウズはその段階で0成長を提言しており、これは環境破壊からの視点だけでは無く、世界の指導者は過去、現状から学ぶ習慣を放棄してしまった、だが有権者は未だに指導者たちが全ての答えを持っていると言う共同幻想を抱いている、文化、制度、技術面で、根本的な先手を打たない限り、行く先の答えは明らかだと暗示しています。でもローマクラブはその性格上、そのことには触れていないことでしょう。

これからも引用する積りですが、ジャレド・ダイヤモンド氏の文明の崩壊の検証にも繋がって来ます。

私が注目するのは、「有権者たちが、指導者が答えを持っている」との共同幻想がある限り、答えは明白だとの警告です。そこに人間としての経済とは別の意味での「成長の限界」を感じるのです。であるからには「人間成長の限界」と捉えたことも、あながち的はずれでもないかと(笑)。

・・・人間の脳というものは、どうしても外部要因のイメージを自己の頭の中で、内部的に創り上げてしまうもののようです。古典哲学が「個人個人」の認識に集中して来たのも、人間が個々に脳内で創り上げるイメージのプロセスを軸にしたから、認識論なるものが哲学になってしまったやに見えます。個々が認識するある種の幻想が集団化すると共同幻想が生まれるのではないか、メドウズ氏が言う所の、有権者は指導者がすべての答えを持っていると思うのも、ある種の共同幻想の類に入るのではないか・・・宗教などもその典型ではないでしょうか。

・・・個人の内からイメージするだけでなく逆に、外から内を眺めて見ることが出来ないなら、正にそれが人間の限界でもあり、行く末は自ずと見えて来ることでしょう。主観の合成が客観だとしても、それはあくまで主観の集合だけのことで、困難なことではありますが、己を離れて外部から眺めて見る、全員が一度、月なら月へ行って、外から地球を眺めることが出来るなら、話は簡単なのでしょうけど(笑)。

・・・人間の限界を示唆する事象は過去も現在も無数にある。あるのに当事者意識が無い、そのことが人間の限界を表明しているように見えます。限界現象が無数にある以上、宗教がテーマになれば、そことも関わって来ますし、金融資本然り、昨今の安倍ノミクスも然りで、それに触れると行きつ戻りつにどうしてもなってしまいます。

<人間成長の限界」と言う意味を、今後の人類の課題とする見方と、現代社会自体を「人間成長の限界」故とする見方があると思います。>

両方関連し合っていると思います。限界は現代社会現象だけのものではなく、過去の文明の崩壊から存在して来た訳で、ならば現代のそれをどう突破できるのか、資源と経済成長に限定された視点も含めて、そして内から外を見るのではなく、外から内を見る人間の当事者意識がどこまで広がるのか、今後の人類の課題はそこにかかって来ることですが、どうしても人間の限界を感じて悲観が先立って、しょうがありません(笑)。





メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.118 )
日時: 2013/02/20 10:59:47
名前: 北の国から

 やや別の観点から考えてみました。

たとえば、直径16ミリのボルトをコンクリートに垂直に差し込んで「どれだけの重さに
どれくらいの期間耐えられるか」というのは、自然科学の諸法則によってきまります。
しかし、「トンネル工事の工期を短縮するために、多少のリスクは金のためにはしょうが
ない」という発想は経済、という社会科学の理屈です。
 人間の心臓が銃から発射された兵士の弾に打ち抜かれれば即死、というのも自然科学の
法則ですが、戦争そのものを引き起こすのは、ほとんどの場合「金儲け」という一国の支
配者による「経済的動機」がほとんどで、これも社会科学の分野です。

 自然科学の法則自体は、人間の意識の外にある客観的自然の法則を、観察や実験によっ
て、人間が認識するという作業で、したがって法則そのものには人間の意思のはいりこむ
余地はありません。
 ところが、社会科学というのは人間の意思が複雑に入り込んでいて、ひとつの法則の正
しさを検証するのは極めて困難だと言われています。
 たとえば、経済学をとってみても、多くの法則が確立されているものの、それは「哲学」
をベースに、しかも自然科学の法則をも(生産の過程など)とりいれて実践されますが、そ
のことが人類の発達にどう影響しているのかは、結論も評価もまちまちです。

 「歴史の発展の法則」ということばは、以前ほど使われなくなっていますが、それはた
ぶん「1%の膨大な利益ではなく、99%の幸福」の方向に(時間はかかっても)むかうも
の、というものなのでしょう。
 そして、圧倒的多数の人間が、そのことを知るとともに、現状はどうなんだという吟味
する余裕をもつ。
 人間の成長はそういうことではないかとも思うわけです。
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.119 )
日時: 2013/02/20 10:59:51
名前: 天橋立の愚痴人間

満天下さんが書かれると、格調が高くなります。

互いに年を取りすぎましたが、若者のために、掲示板だけでなく、是非、一文を残していただきたいものです。
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.120 )
日時: 2013/02/20 16:04:27
名前: 天橋立の愚痴人間

北の国から さん

確かに別の観点からも解析できるようです。
貴方の記事を参照に、ネットで探ってきたところ、下記の様なものにぶち当たりました。



ヤフー智恵袋
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1216379567

(質問者)

無知ですいません。合理的ってどういう意味ですか?

『北海道人は合理的だ』『AB型の人=合理的』

とか書いてる人が結構いたんですが‥

教えて下さい



(回答者)


「合理的」には、2つの異なった用法があります。

1つは、「理に適った」・・という意味で、論理的に筋道の通っているとか、科学的に証明可能である、ということです。
主に、学問の方法とか、論理を立てるときなどに使われます。
(自然の法則と解釈している文章もあります)

もう1つは、もっと日常的・現実的な場面でよく使われる意味で、「形式ではなく実質を重んじる」
「義理人情や感情に流されず、必要なことだけ行う」「ムダなことをしない」「効率第一」といったやり方、考え方のことです。

「北海道人」については、後者の意味で使われているのでしょう。
とくに、「日本的義理人情や、しきたり、儀式にあまりしばられない」というライフスタイルはあるようですし、
結婚式は会費制が原則、とも聞いたことがあります。おそらく、北海道の歴史が、
このような気質に影響を及ぼしているのでしょうね。

AB型のほうは、実際のことはともかくとして、こういう話は通常日常的なレベルですから
そう書いた人が言いたかったのは、やはり、後者の意味でしょう。


(引用終わり)

北海道と言う事にリンクして、この記事を転載しましたが、当たっていますか!

貴方が言われている、この2面性はこれだと思いさらに検索してみました。



ウイキペディアより。

合理的選択理論 (rational choice theory) とは、行為者の合理性を大前提とする社会理論のことである。経済学を中心に発達したが、2006年現在で政治学でも一定の勢力を持っているし、社会学ではまだまだマイノリティであるが、一部に強力な支持者がいる。方法論的個人主義により、社会の中の様々な現象を捉えようとする考え方の一つである。また方法論的個人主義と並んで個人の合理性が合理的選択理論の前提的な仮定だが、合理性とは個人が自己の効用を最大化するように行動することを指す(個人的合理性)。

近代経済学、とくにその主流となる新古典派経済学の古典的形態では、個人ないし企業などの経済主体がみずからの行為を合理的に選択すると考えて全理論を構成していた。たとえば、浦井憲と吉町昭彦は、経済学(ミクロ分析)は、「合理性による社会の把握」であり、それが「経済学の限界でありまた同時に意義」であると述べている[1]。

より具体的には、消費者は予算制約のもとでみずからの効用を最大化し、企業は可能に生産可能な範囲で利潤を最大化すると、ミクロ経済学は考える。その画期的かつ古典的・典型的な成果は、アローとドブリューの「競争均衡理論」である[2]。この意味で、新古典派の経済理論は、すべて合理的選択理論に基づいていると言ってよい。

ただ、現実の市場においては、個人は完全に自由とは限らず、契約の不完備性や情報の不完全性、将来の不確実性など、様々な制約が存在する。これらの場合、不完備契約の理論や情報の経済学などにより補正されるが、これらの行動を単純に合理的選択ということはできない(モラルハザードや逆選択)。また、複数の行為者同士の相互作用とその結果が、当事者たち(プレーヤー)たちの選択する戦略に依存する場合、最大化という考え方ではよい戦略決定をすることができない。このような状況を、経済学はゲームの理論で説明している。ゲームの理論では、解(均衡)の多くで、プレーヤーの行動を合理的な選択の結果と見なすことができるが、囚人のジレンマが示すように、どう行動するのが合理的か判別しがたい場合がある。最近のゲームの理論では、プレイヤーの限定合理性を前提にするのが当然とされている。プレイヤーの行動は、最適解が存在するときでも、そのように行動するとはかならずしも考えられていない(特異的戦略 idiosyncratic play)。とくに進化ゲームでは、プレーヤーの合理性(合理的な情報処理能力)はほとんどで0と前提されている。[3]。

合理的選択理論やゲーム理論は、最近、とくに公共経済学や公共選択、公共政策の分野で注目されているが、理論経済学の主流は、むしろ限定合理性を前提にした行動理論に移行しつつある。公共経済学や公共選択では、政府の行動とそれに対する人々の行動か問題になる。そこでは市場での自由競争では、十分な供給と状態の維持が不可能な公共財について、説明することが重視されている。社会秩序も公共財の一つであり、その意味で、社会学における秩序問題と、公共財の研究は同じである。この場合、政府が考えなければならないのは、真の意味の合理的選択行動ではなく、相手に出し抜かれない程度の推察である。二者二択ゲームのような単純かつ限定された設定において合理的選択理論は一定の有効性をもつと考えられている。

(ゲームの理論の説明)

ゲーム理論の応用 [編集]現在のゲーム理論は純粋数学としての解析的研究のみに留まらず、工学を初めとして経済学、経営学、心理学、社会学、政治学など社会科学への応用も多く見られ、特に経済学において大きな成功をおさめている。

ゲーム理論を駆使することでノーベル経済学賞を受賞した学者や候補と目される学者は少なくない(1994年:ジョン・F・ナッシュ、ラインハルト・ゼルテン、ジョン・C・ハーサニーの3名、2005年:ロバート・オーマンとトーマス・シェリングの2名)。また、ゲーム理論に強い影響を受けた情報の非対称性をもつ市場分析によって、ジョージ・アカロフ、マイケル・スペンス、ジョセフ・スティグリッツの3名が2001年に経済学賞を受賞した。

経済学への影響 [編集]以前のミクロ経済学においては、他の経済主体の行動が自分の利得に影響を与えることはなかった。しかし、現実の経済現象においては、例えばライバル企業の動向が自社の利益を左右するように、自分の利得が他の経済主体の行動に影響を受けていると考えるのが自然である。このとき、自分の最適な行動は他者の行動によって変わり、他者にとって最適な行動は自分の行動により変わる。このように、最適な戦略が相互に依存し、相手の戦略を読み合う必要が生じるような状況をゲーム理論は分析対象としている。

最適な戦略が相互に依存し合う状況は多く見られ、ミクロ経済学だけではなく他の経済学の分野、さらには政治学や心理学、生物学においてもゲーム理論は応用されている。



(引用終わり)

上記のややこしい文章(読み飛ばされることを御勧めします)で、言っていますことは、現代流の政治、経済の合理性において、他にも選択の余地もあったことを示しているようです。

要するに、社会学的に考えて進むべき道を知りながら、アングロサクソン流の合理主義に傾いて行ったのでしょう。
それが西欧文明と言うことでしょうね。

せっかくの貴方の平易な表現を、難しくしてしまったようですが、行き着くところは同じ結論のようですね。

ゲームの理論か、何か知りませんが、そんなもので人間社会を抱合する発想が気に入りませんね。

まさに、アングロサクソンの世界です。




御蔭さまで、別の視点を得られました。
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.121 )
日時: 2013/02/20 22:06:59
名前: 満天下有人

北の国さん、仰る通りで、人文、社会科学は多様な人間の意思が入り込んで、自然科学のように法則を抽出できない所が難問です。

その自然科学でさえ、多様な思考の素になる生命の定義が出来ない。遺伝子とか生命を構成する物質の所までは辿りついても、そこから先の何故多様になるのかがまだ発見されない。

自然科学の場合は予め実験で仮説を立証することは出来ても、人間の思考となるとそうは行きません。ならば人間が創り上げている、例えば経済制度についても、予め実験することもできません。イスラエルのキブツのようなものも、在るにはあるけど、特に経済政策では金融政策一つ取り上げても、結果はやってみないと分からない。

となると、結局、過去の政策ではどうだったかによる、経験値を検証するしかない。なのにバブル発生の憂き目を見たという経験値があるのに、また同じことをやり始める。そうならないように別の要因も加味するならともかくも、それも無い。正に「人間の限界」を感じます。

<そして、圧倒的多数の人間が、そのことを知るとともに、現状はどうなんだという吟味する余裕をもつ。>

誠にそうなのですが、相対する勢力の凋落があったにせよ例えば、安倍政権は一度経験したことなのに、また同じ選択をするその人間の集団認識が、さっぱり理解出来ません。

まだまだ吟味する余裕があることが、驚きなのです。

メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.122 )
日時: 2013/02/21 10:10:30
名前: イントィッション

>誠にそうなのですが、相対する勢力の凋落があったにせよ例えば、安倍政権は一度経験したことなのに、また同じ選択をするその人間の集団認識が、さっぱり理解出来ません。

同感です。。。 あんなお古がまた政権捕ったなど、まったく迷惑このうえありません!!! (怒!!!


おはようございます。。。
 先日の森ゆうこ議員の参院の質疑の会話をコピーしておきます。。。
    ↓
ttp://my-dream.air-nifty.com/moriyuuko/219.html

○森ゆうこ君 まあ、そうお答えになるのが普通だというふうに思いますけれども。

 ジョージ・ソロスというのは有名な方なんですけれども、総理は御存じですか。

○内閣総理大臣(安倍晋三君) 名前は知っておりますが、残念ながら個人的な交友関係にはありません。


○森ゆうこ君 ここで個人的な関係があると言われたらどうしようかなと思っていました。

 ジョージ・ソロスはこの数か月の円安でもう大もうけしたんですよね。もうニュースになっておりますから総理も御存じだと思いますけれども、この間、有名なヘッジファンドマネジャーですけれども、いわゆるハゲタカの代表と私は思いますが、この数か月、この円安、これで約十億ドル、今円安になっていますから換算すると幾らなのかですけれども、約九百三十億円もうけたと。これがアベノミクスなのか、これはアベノリスクなのか、今はアベノバブルでこれがはじけてしまうのかという危惧を拭えない、ハゲタカに餌をやっているだけじゃないだろうかというふうに心配する理由なんですけれども。

 過去の金融緩和で投入されたお金はいわゆる豚積みと言われて、結局こういう投機資金に使われたという指摘があるんですけれども、過去の金融政策とどこが違うんでしょうか。


○国務大臣(麻生太郎君) 豚積みの定義をはっきりされておかれないといかがなものかと存じますが、少なくとも過去、日本銀行が二十兆、三十兆の金融を緩和した結果、金融緩和というものは基本的に市中銀行に金がたまる、それから先、日銀の当座預金が増えているだけで、それから先市中に金が回っていかない。したがって、二十兆、三十兆は市中銀行に寝たまま止まっている。それを多分まとめて豚積みという表現をしておられるんだと思いますが、そういうような状況がありましたので、今回、三本の矢の中では、日本銀行の金融緩和だけでは過去と同じようなことになる、したがって実需が出てくるためにはどうするかというのが二本目、三本目の矢を立てているところが従来と違うところだと存じます。


○森ゆうこ君 その二本目、三本目の矢がまだはっきりよく見えていないところが問題だというふうに思っておりますけれども。例えば、我々は原発ゼロノミクス、まあアベノミクスに対抗してじゃないですけど、原発ゼロノミクス、どちらが流行語大賞を取れるかと、国民のために競いたいというふうに思いますけれども。例えば、エネルギー政策を大転換して新たなエネルギー産業を育成するですとか、そういう新しい成長戦略がはっきりと示されていれば別ですけれども、どういう成長戦略なのかはいまだに見えておりません。

 ところで、経済のパイが大きくなっても、つまり、いわゆるイザナギ超えの景気であったときも、結局国民の生活は苦しくなる一方だった、これが最大の問題なんですね。皆さんの関心は、生活者の関心は、いつ、じゃ給料は上がるんだろうかということなんですけど、いつ上がるんですか。


★ブタ積み! とは、市中銀行に20兆円、30兆円と眠ったままなんでしょうか???
★給料はいつ上がるんですか???

給料はいつ上がるんですか???
 ↓

○内閣総理大臣(安倍晋三君) この十五年間ずっとデフレが続いていました。デフレ下にあっては、残念ながら収入が減っていたんですね。約国民総収入は五十兆円減ったわけですから、ですからこれを何とか変えていかなければいけない。このままでは、デフレが続いていけば収入は増えない。若い人は将来にローンを組もうと思ったって組めませんし、それは当然、年金にもこれはインフレスライドしていきますから、デフレでもスライドをしていくということになります。

 そこで、この道しかないということで、まずはデフレ脱却、今まではずっといろんなことをやってもうまくいかなかった。ですから、次元の違う政策を我々は進めていく、それが大胆な金融緩和と機動的な財政政策と、そして民間の投資を、民間の企業の投資を引き出していく、喚起していく成長戦略であります。そして、それが順調に進んでいく中において企業が収益を上げていく、そして将来、これはデフレが続いていくとなれば企業はお金を投資しませんが、インフレ期待の中では投資もしていきますし、人材にも間違いなく投資をしていくという中において給与は上がっていく。しかし、それには時間が掛かる場合もあります。

 そこで、我々は、企業の方たちにとっても、一日も早くデフレから脱却をした方が企業にとってもいいんですから、それを促していくためにも協力をしていただきたいということで、先般、経済団体の方々にお集まりをいただきまして、なるべく早い段階において、できればすぐにでも賃金あるいは一時金等において賃上げあるいは一時金を上げる努力をしていただけないか、こうお願いをしたわけであります。産業競争力会議に入っていただいている新浪さんのローソンはいち早く決めていただきましたし、幾つかの企業もそういう対応をしていただいていると思います。業績が向上したところから、あるいはそういう意思を持ったところから始めていただきたいと、このように思います。

★また、回りくどい言い方しかコソコソしているのと同じですよね〜!!!
このお古がデフレ脱却をできるわけもないし、TPPが決まれば、すぐに日本の雇用はドンドン減り、安い毒だらけの品物がドンドン入り込んで来れば、デフレ以上にデフレになりますよね〜!!! お古!!!

ついでに企業の経営者の皆さん、ほとんど賃上げはしない! と発言しましたよ!!! お古!!!
ついでに、中小企業は異常なまでの円安で、燃料代が増え続け、悲鳴をあげて、もっと給与減らすそうです!!!
ついでに、経常収支は異常な円安で、輸入の価格が増え続け、赤字に転落!!!

いよいよ、アメリカの念願の日本の経済破綻に一歩一歩前進ですか??? 統一教会のお古さん!!!
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.123 )
日時: 2013/02/21 13:23:41
名前: 天橋立の愚痴人間

>私が注目するのは、「有権者たちが、指導者が答えを持っている」との共同幻想がある限り、答えは明白だとの警告です。

間が開いてしまいましたが、上記の言葉に関して、

この発想は、トインビーも、持っています。
トインビーは、先験者が現れ、大衆が、それに倣うことを始めたとき、文明は始まるとしています。

此処では指導者の存在が大きなものとされていますが、しかしながら、その大衆と言うものの総括にはあまり触れてはいません。

歴史的に見ても大衆を継続的に統率出来たのは、独裁と宗教のみであります。
大衆と言う存在は、一方で無気力、従順を思わせますが、一方では気侭、強欲の塊です。

大衆の強欲と言うものは、独裁者が社会の片隅で味わうものに比べて始末に負えません。
その大衆を主体にしたとき(民主主義)現在の統制不可能が想定されなければならなかったと思います。
独裁資本がはびこるのも、ひとえに無責任な大衆の強欲の結果であるとすることができます。

この様に言いますと大衆批判となり、何事も先行きしませんが、そうではなく、もっと、大衆のことを検証しなくてはならないのではないかと言う事です。
特に民主主義が行き渡ってから、大衆と言うものが無条件で肯定されて来ました。
本当にそれで良かったのでしょうか。

それが、まさしく「人間性の限界」論ではないでしょうか。
具体的に言えば、宗教、独裁に変わるものと思いますが、具体的と言いましても実際は、全く具体的なものは見えては来ません。

哲学は、古今東西、過去、現在ともに、大した役割は果たせなかったように思います。

ちょっとした事ですが、冒頭の言葉に触発されまして、確認した次第であります。
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.124 )
日時: 2013/02/21 13:45:05
名前: 天橋立の愚痴人間

文化文明論の次に哲学を持って来まして恐縮ですが、これも避けては通れない領域と思いますので、とりあえず資料を添付します。ネットと言いますのは本当に便利なものですね。私などもすぐに一介の哲学者になれるようです。

下記の内容は、それこそ斜め読み程度にしてください(熱心に読んでいただくほどの値打ちはありません・大衆の概念を再確認していただく事が目的で引用しました)。
私もそのようにして、過去の哲学が大衆をどのような観点から見ていたかを知るくらいです。
ざっと目を通したところ、誰もが自分の理屈の中に大衆を押し込めようとしているだけで、本当に大衆を認識していることにはならないのではと思います。

キリスト教で言うところの悪魔とは、実は大衆のことであると言うくらいの認識が必要でしょう。


大衆社会論の行方
――近代的理性の危機――
ttp://www.res.otemon.ac.jp/~yamamoto/works/Abhl89.htm

一、 大衆社会状況とその批判


大衆社会

 現代社会は、一九世紀の社会形態との対比において、しばしば大衆社会と称される。それが意味するところは、必ずしも一義的ではないが、およそ以下のような社会状況が存在している社会であると一般に解されている。
(1)自然科学・技術の高度の発達を基盤とする大量生産(mass production)方式の進展によって、資本の集中化・独占化が進み、生産労働が質的に変化すると共に、大量生産方式の進展に伴って生じた大量のプロレタリアートが、新中間層に転化した状況。
(2)人口の都市集中が進み、大量生産に対応する大量消費(mass consumption)が拡大し、またそれに伴って生活様式が平均化・画一化した状況。
(3)大量生産・大量消費を可能にする物理的交通手段や精神的交通手段、特にマスメディア(mass media)の発達により、それまでの局限されていた環境世界が時間的にも空間的にも飛躍的に拡大すると共に、マスメディアによって伝達されるシンボルの領域が疑似環境として重きをなし、大衆操作(mass manipulation)が容易に行われうる状況。
(4)大規模化・複雑化した組織を合目的的かつ効率的に管理運営する手段的機構として官僚制が発達し、人間および人間関係の非人格化あるいは疎外感が問題化する状況。
(5)人口の都市集中化と新中間層の拡大などによって、かつての共同体が崩壊し、その結果、個人および個人的な第一次集団が、多元的で独立した中間集団の中で直接相互に関係することがなく、したがって社会的絆を欠く孤立化・原子化した存在となる状況。

大衆社会状況下の人間

 フォード・システムに、典型的に見られるような大量生産方式が普及し官僚制化が進展すればするほど、個人は、チャールズ・チャッブリンが『モダン・タイムズ』で描いたように、高度に合理化された大規模組織の中で全体の見通しもなくただただ特定の機能を果たすだけの非人格的な「歯車」となる。しかも、中間集団の弱さあるいは欠如のためにそこで自己充実感を得ることもできないため、組織に属しながらも孤独感・不安感にさいなまれる。このような日常的な疎外状況を前にして、大衆人(mass man)は一時的な慰安や幸福を求めてさまざまの「気晴らし(divertissement)」をする。マスメディアによって送られてくる画一的な一時的な刺激、ありとあらゆるものを話題にするおしゃべり、アルコールや賭事やスポーツや観光。大衆人はこういった「気晴らし」をする(これらの大半は、没個性的な大量消費されるべき商品であるにすぎない。たとえこれらの商品が差別化されていようとも、差別化をするということ自体が平均化するのだから、没個性的な商品であることには変わりはない。このため、平均化の傾向はさらに促進されることになる)。
そして、中間集団の弱さあるいは欠如のために、大衆人は政治的・社会的な出来事に対して無関心あるいは無知でありがちである。また、たとえそれに対する関心や知識を持っていたとしても、関心の対象が遠く隔たっているために現実感を伴うことがなく、そのため大衆人は無責任な傍観者となる傾向が強い。
また大衆人は、他人志向型の同調様式(リースマン)をとるばかりか、社会的な順応と差別化への欲望(ジンメル)、あるいは懸隔性(ハイデッガー)に起因する流行・ファッド・クレイズといった集団行動あるいは集合行動を成立させつつ、それに巻き込まれて行く。

大衆社会状況に対する予感的警告

 ところで、一九世紀の哲学者S・キルケゴールは、このような大衆社会状況が本格的に到来しつつあることをいち早く予感し、『現代の批判』(一八四六年)において、以下のような時代批判および大衆批判を行っている。
 キルケゴールは、みずからもその中で生きた時代(現代)を、「革命時代」「情熱的な時代」「行動の時代」に対して、「分別の時代」「反省の時代」「情熱のない時代」であると規定する。そこにおいては、「妬み」が個々人の消極的な統一原理として定着しており、そのために水平化の現象が生じていると指摘する。しかし、この水平化が成立し得るためには「一切のものを包括しはするが実体は無である」「公衆」が存在している必要があるが、公衆は、それ自体が抽象物である「新聞」によって作り出されると、キルケゴールは言う。個々人の営む共同生活が「充実した内容」を持たない非現実的なものとなり、また個々人が「同じ時代の、ある状況あるいは組織の中に統一される」ことが決してあり得ないほどまでに原子化されたために、新聞が、「一つの全体」を形成しているという「蜃気楼」を生み出すというのである。この意味において、キルケゴールは、公衆が新聞という一瞬だけ感情をくすぐる「官能の刺激剤」に支配され、その虜になっている現代を、「広告の時代」「宣伝の時代」であると批判するのである。そしてまた、個々人が「あれかこれかのどちらかを選ぶという絶対的な情熱」を喪失し、非自律的に、非主体的に傍観者としてのみ生き、「気晴らし」を求めてただただ「おしゃべり」だけをしている時代であると批判するのである。キルケゴールのこのような時代批判および実存主義的大衆批判には、さまざまな問題点が含まれてはいるが、水平化の現象・共同体の喪失と原子化・マスメディアと大衆操作の可能性・大衆人の心理的特性などを、一九世紀半ばにしていち早く指摘した点は、大いに評価されるべきであろう。


二 大衆社会論の系譜


疎外の問題とマルクスの階級社会論

 へーゲルは、『法哲学』(一八二一年)の中で、市民社会においては、個々人が自己の特殊な欲求を満足させるためには他者の労働に依存せざるを得ず、それ故にまた自己も労働をすることによって他者の特殊な欲求を充足せざるを得ないという相互依存関係の普遍性が、「欲求の体系」を形成することを指摘する。ところで、個々人の欲求および欲求充足の手段の種別化は、生産をも種別化し、「労働の分割」(=分業)を生ぜしめることになる。そしてその結果、分割され抽象化した個々人の労働は単純化し、労働における個々人の技能も彼の生産量も増大する(したがって国富も増大する)。しかし他方では、労働の価値が下落するばかりか、労働そのものが「機械的」なものとなり、労働者は機械にとって代わられることになる。そして、さらにはまた、個々人の資産・技能・教養などによって「身分の区別」が形成されることになる。このことをへーゲルは指摘した。へーゲルは、産業革命を経た市民社会においては、労働者の疎外が必然的であることを、また身分的な区別を有する有機的全体が編成されることが必然的であることをしっかりと見抜いていたのである。

 この点においてはへーゲルの継承者であるマルクスは、『経済学・哲学草稿』(一八四四年)において、以下のごとく、資本主義社会における労働を「疎外された労働」であると分析する。すなわち、資本主義社会における労働者は、みずからの労働を外化・対象化したものである労働生産物から疎外され(物象の疎外)、それ故、自己活動であるはずの労働そのものが労働者にとって外在的となり、労働者は労働そのものから疎外される(自己疎外)。ところで人間は、知的にも現実的にも、自己を個体としての自己と類的存在としての自己とに二重化する存在であり、したがって、労働は本来個体的な活動であるのと同時に類的な活動であるのだから、疎外された労働は人間から生産の対象(非有機的身体としての自然・自己自身・人間の生命活動)を奪うことによって、人間から類を疎外する。つまり、物象の疎外と自己疎外とは類からの疎外を意味するのである。だが、このことはただちに人間からの人間の疎外を意味している、と。

 そしてマルクスは、私有財産が、疎外された労働の産物であると同時に労働が疎外される原因であることを指摘し、それと共に賃労働と資本、プロレタリアートとブルジョアジーとの階級対立を導き出す。そして、産業革命および私有財産という制度のために人為的に作り出された階級、人間性を完全に喪失した階級による社会主義革命を主張する。しかしそれは、プロレタリアートの解放という政治的な解放のみを意味するのでは決してなく、「一般的人間的な解放」、人間の「全隷属的状態」からの解放を意味しているのである。というのも、マルクスは、資本主義社会における労働そのもののうちに人間の自己疎外を見いだし、大衆社会状況をこの疎外の諸々の現象形態であると考えるからである。
 だが、大衆社会状況(とりわけ疎外状況)や大衆社会を階級社会としての資本主義社会と不可分のものとするマルクスのこのような議論には、問題があると言わざるを得ない。というのも、大衆社会状況(とりわけ疎外状況)は、資本主義とか社会主義とかといった社会体制とは無関係に存在しているとも考えられるからである。
大衆社会に対する実存主義的批判

 マルクスが疎外状況を人類史における一つの過渡的な社会体制である資本主義社会にとって必然的なものであると考えるのに対して、実存主義者たちはそれを社会体制の問題ではなくて、人間存在そのもののあり方の問題、「自己が自己自身に対して態度をとる(sich zu sich selbst verhalten)」その態度のとり方の問題、すなわち、自己態度あるいは自己関係の問題であると考える。また、マルクスが人間の本質を類的存在に見いだし、疎外状況を類からの疎外であるという形で類の問題と捉えるのに対して、実存主義者は、それをあくまでも主体的個体の自己関係の問題であると捉える。

(続く)
メンテ
Re: 人間成長の限界 ( No.125 )
日時: 2013/02/21 13:48:14
名前: 天橋立の愚痴人間

 たとえば、キルケゴールは『死に至る病』の中で、「信仰」を「自己自身を獲得するために自己自身を喪失すること」であると規定しているが、それは以下のことを意味している。すなわち、神の前に単独者として立つ自己(真のキリスト者)と成るためには、「自己自身を忘却する」ことによって、また「自己自身を分散する(=気晴らしをする)」ことによって「自己自身を喪失している」ような自己、このような自己(「絶望」せる自己あるいは大衆人の自己)を喪失しなければならないということ、このことを意味している。このことは逆に言えば、大衆人(宗教的に実存していない者)は、「神の前の自己」という真の自己自身に関係しておらず、したがってまた単独者として絶対者に絶対的に関係してもいないという意味で、「自己自身および神を喪失している」ということを意味する。キルケゴールの先の時代批判は、真の自己を喪失し、また神を喪失し、匿名性と無責任性の中で生きている大衆が真理である、という公理が時代を支配していることに対する批判なのである。つまり、キルケゴールは大衆社会状況の原因を、大衆人のこのような非本来的な自己関係のあり方のうちに、自己喪失・神喪失のうちに見いだしているのである。

 それは、ハイデッガーの場合でも同様である。マルクスが資本主義の世界を商品連関の全体性と解するのに対して、ハイデッガーは『存在と時間』において、平均的日常的世界(環境世界)を道具連関の全体性と解する。そして、環境世界の世界性が有意義性の全体性であることを、また環境世界が共世界であることを分析する。このような世界において共存在する共現存在は、他者への顧慮的な気遣いを欠損していたり、積極的に他者を顧慮的に気遣っていたりするのだが、この相互共存在の秘匿された性格を、懸隔性(=他者との区別を気遣うこと)であると指摘する。だが、懸隔性が共存在の性格であるということは、現存在が日常的な相互共存在としては、不断に非自立的であること、非本来的であること(おのれの自己をおのれのものとしていないこと)を、また「そのつど私のものであるということ」を喪失してしまった、誰でもであって誰でもでないような中性的な、したがってまた責任免責された「世人(das Man)」であることを意味している。

 ところで、ハイデッガーは現存在を「死へと態度をとる存在(Sein zum Tode)」であると規定するが、おのれの最も固有な可能性であるおのれの死へと積極的に態度をとる限り、われわれは単独化し「不安のうちに漂泊する」ことになる。というのは、不安が有意義性の全体性であったはずの世界を無化し、それと共に共存在しているわれれ自身をも滑り落ちさせるからである。だが、「何ものにもすがりつくことができない、この漂泊の底深き振動において」「純粋な現・存在」が出会われるのである(『形而上学とは何か』)。にもかかわらず、われわれはさしあたって大抵は、おのれの死へと積極的に態度をとることから逃避し、本来的自己(おのれの自己をおのれのものにし得ている自己)から額落し、平均的日常的世界に埋没しているのである。この本来的自己からの額落という事態、本来的自己存在の忘却あるいは喪失という事態のうちに、換言するならば、自己に対するこのような態度のとり方のうちに、ハイデッガーも大衆社会状況の原因を見いだしており、おのれの死へと先駆的に決意すること(die Entschlossenheit)によってのみ大衆社会状況は脱せられると考えているのである(キルケゴールにあっても信仰は決断の問題である)。

 ところで、大衆社会に対する実存主義的批判は、大衆論ではあっても大衆社会論ではないといった印象が強い。というのも、それは歴史的所与としての社会を政治的・経済的・社会的に具体的に分析したりはしないからである。しかし、それが大衆社会状況を存在論的に分析するものである限り、それを存在論的な大衆社会論であるといってもさし支えないのではないだろうか。そもそも実存主義に対しては、それは主観的な非合理主義であり、独我論的な個人主義であり、歴史的・社会的な具体性を欠く形而上学であるという批判がある。確かに、実存主義は一般に、不安・絶望・嘔吐といった根本的情態性を問題にし、単独者を問題にし、政治的・社会的・経済的世界を具体的に考察しないため、そのような批判が妥当するように見える。しかし、非隠蔽性という根源的な真理を開示するからこそ根本的情態性を問題にしているのであること、単独者の自我孤立性は抽象的なものではなく、具体的であること、存在者にのみ関わる存在的な実証諸科学に対して、この立場は存在論的であること、これらのことを偏見なく考慮すれば、上記の批判は無効になる(詳しくは、W・ヤンケ著『実存思想の軌跡』八二ー九二頁参照)。それと同時に、具体性を欠いてはいるが、存在論的な大衆社会論の存立可能性も理解されるであろう。

(続く)
メンテ

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