Re: 当代世間騙し装置 ( No.291 ) |
- 日時: 2013/05/21 09:21:19
- 名前: 現代宗教は金光教・・満天下有人
- タイトルのようなフレーズにすると、金光教の皆様から、宗旨はそのようなものではないとお叱りを受けることになるでしょうが、金光教をもじっている意味では無く、宗教とてオカネを軸に動いている様を見るにつけ、一言で言うなれば、さような感じになってしまうという程度の意味で・・・
その昔、仏教教義を経営の指針にする某社の幹部会議に出席、同席していた僧侶に、ところで仏教では利益なるものはどのように把握されているのかと問うたことがありました。答えは、リエキと読むから誤解が生じる、ゴリヤクと読むのだと言われたことがありました(笑)。仏教哲理の深源、色即是空では、全ての現象は単なる「色」に過ぎないと言われますが、実態の無い「空」から生じた利益、しかし利益は実態を持っているのだから、利他行の教えも加えると、論理的帰結は果実としての利益の配分は公平になされるべきとの教えになる、仏教教義による経営ならさような結論で良いか、と問うたことがありました。経営幹部は困ったような表情でした・・・(笑)。
ここでも宗教論議も何度かなされ、解釈仏教論になりますが、人間が避ける事の出来ない煩悩、旧約聖書では悲しみ、裏切り、憎しみ、オカネのことetc. これこれの事はやってはいけない律法を定め、それは神との契約であるから、破ってはいけない、キリスト教が出て、それから逃れる為には、神にすがれ、神の教えを守れ、実に人間臭い宗教として発生。
仏教では、色即是空で言い表されるように、人間行為によって生じる諸々の現象は「色」に過ぎない、煩悩も、現象に惑わされているだけで、宇宙の本源を見極めれば、現象の根はみな同じで、物質が回転する過程で人間がそれに幻惑されて諸々の煩悩が生じているだけなのだ、よって本質を見極め動かない定観を持てば、何も悩むことなど無くなる・・・
キリスト教が唯一の神の指針によって人間同士のいざこざを律する宗教であるの対し、、仏教ではその人間のいざこざ、悩みは、宇宙運行の本質を基にすれば現象にしか過ぎない、前者が人間関係を唯心的に捉え、すがる物を神においた唯神的であるのに対し、仏教はそれ以前の宇宙の法則から教義を始めている点で、唯物哲学論的に思えます。
カール・マルクスは仏教教義を知って言ったとも思えませんが、それに通じる唯物史観を構築、それを経済の分野である生産関係の分配に当てはめて、そこから宗教について「宗教上の不幸は、宗教に頼るということ自体が、現実の不幸の現れであり、悩める者の溜息であり、心なき世界の心情であると共に、精神無き状態の精神である。その点で宗教は民衆のアヘンである」として、宗教なるものを喝破している。
色即是空は、何となく分かるのですが、その後の「空即是色」が難解(笑)、ここでもアナーキストさんが、それは0の概念であると解釈され、國井さんは空とは他力であり、人間がどうこう出来ない絶対的なものだとの解釈もされておりましたが、空なるものが実体が無いものだとすると、色もつかないのでは、と思えるし。
空に振り回される人間というのも、如何な存在なのかと思う時、やはりマルクスの精神無き状態の精神であるとの言葉が、ぴたっと飲み込める・・・利他行が友愛に通じるとすれば、少なくとも現代にあっては空が創り上げている構造を、しょうがないから利他行で埋めようとの逃避にも思えます。
とすれば、現代宗教は「金光」が色であり、その基は空であり、他力である空を原理においている以上、他力には勝てない、それは絶対的なものであるからとの教義に変形してしまっているのかも。
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Re: 当代世間騙し装置 ( No.292 ) |
- 日時: 2013/05/22 08:02:06
- 名前: 現代宗教は金光教(2)・満天下有人
- 「金が光る教」になっている代表例は、ローマヴァチカン法王庁であろう。宗教であるからその運用実態はベールに包まれて分かりにくいようだが、一般の金融資本が市場に出動して金融面から経済を動かす時、その尻馬に乗っているだけなのか、チャンスとばかり必ず参入しているようだ。謂わば巨額の資金を運用する多国籍金融資本の一角を占めている。
キリスト教が中世以来政治覇権の土台となっていることは、十字軍の遠征なる歴史からも明らかなことだが、過去に何度か紹介したようにヴァチカンが巨大資産を持ったのは、ゲルマン民族が現在のフランス地方に侵入し、変遷を経て西フランク王国の有名なピピン大帝が、政治支配の箔をつけるためにヴァチカンに広大な土地を寄進、それがイタリア革命によって一気に奪われてしまい、その時フランスロスチャイルドが当時で20万ドル相当の資金を援助し、金融のノウハウを進講したことによって金融資本の端緒を開いた。
この2月のヴェネデイクト16世の生存したままでの法王引退でヴァチカンが蜂の巣をつちたような騒ぎになったが、原則、法王の地位は生存中に辞任してはならない掟があるからだ。未だに中世がそのまま残っていると言われる法王庁、イタリアマフイアとの癒着や第二次大戦ではフアシスト・ムッソリーニの戦争遂行に協力するなど、時々の権力と癒着して甘い汁を吸って来た歴史は、西欧世界では知らぬ者はいない。神などは二の次なのである(笑)。
話を戻してその神とは・・・宗教とカネのことで金光教なる固有名詞を使わせて頂き、誤解を招くのではとの危惧もあり、少し弁明しますと、金光教様でも、人間が為す凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いておられる。
さてその無礼を働いてはいけない「神」とは何なのか・・・ユダヤ教、イスラム教、キリスト教における「神」、そして仏教における「仏」・・・、それぞれにマホメットやイエスやお釈迦様を通じて説かれる神とか仏の実態は何なのだろうか・・・。
仏教における色即是空、人間が持つ煩悩は何かが変化してそれに悩まされる「色」に過ぎない、変化することによって見える色なのだから実態は無い、つまりそれは「空」なのだから、そんなものに悩まされてはいけない。悩まされない為には、自然に実体として存在する物をよく見るが良い。さすればこの世の争いごと、悩みなどと言うものは、実につまらぬことであることが見えて来る筈だ。
では自然に実体として存在するものとは何なのだろうか、それを悟れば誰でも仏になれるその仏とは何のだろうか・・・
実はそこにどの宗教にも共通して見えて来るものがある。汎仏論などと言う概念があるのかどうかは知らないが、キリスト教の世界では中世から脱却する合理主義思想の台頭と共に「汎神論」論争があった。デカルトを批判したスピノザ哲学に対する汎神論論争が有名だが、神とは何なのか、どこにも普遍的に存在するとされる神について考え直して見る必要があるとの欧州世界では近代思想、哲学への大転換となる抜本的思考が戦はされている。
仏教では既に原典からして、色は単に人間が変化に見えるだけのもので、存在する実態は何も変わっていない、行く川の流れは絶えずして元の水に非ずと言っても、それは存在が動作しているに過ぎず、水なるものの本質は変わらない、それを愛でよ、存在の本質を見よと言う事なのだろうが、オランダ系ユダヤ人のスピノザが、ユダヤ教に破門までされて、動かぬ物とその運動として動いて人間が錯覚してしまう事の峻別から新たな哲学を構築した、そのことと仏教哲理に非常に共通するものを感じる。
ただ違う点は、仏教は何かの哲理を構築し、したままでそこに滞留してしまっている、それに対し、中世思想を転換させたスピノザ→マルクス唯物弁証法構築の基になって行くのだが、いずれにせよ哲学を基に現実の人間社会転換のモチベーションになっている所に大きな違いがある。
それでも西欧と雖もスピノザ以上のものは今日出ておらず、停滞している。中世そのままの博物館的存在のヴァチカン、その法王が数百年に亘る掟をあっさり破って辞任。そのことは何か新たに変わるシグナルにも見えるのだが・・・。
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Re: 当代世間騙し装置 ( No.293 ) |
- 日時: 2013/05/22 10:40:10
- 名前: 金光教・・・天橋立の愚痴人間
- 以下は、教えて goo からの引用です。
ttp://oshiete.goo.ne.jp/qa/3188887.html
「死にいたる病の「死」とは何ですか?」
哲学の初心者です。
キルケゴールの「死にいたる病」の冒頭で、
死にいたる病とは絶望のことである。
としながら、文中では
こういう意味では絶望とは死にいたる病とは呼ばれえない。 絶望者は死ぬことができない。 死ぬことさえも出来ない希望のなさ
などと、絶望と死のつながりを否定している箇所があります。
いったい、彼のいっている「死」とは、何なのでしょうか? ごく一般的に言われている、息が止まり心臓が止まる肉体の死をいっているのでしょうか、それとも精神的な死をいっているのでしょうか?
私は、この本を読む前に目次を読んで、直感的に絶望が引き金となって自殺を図るのかな、と考えていたのですが、それは単なる思い違いなのでしょうか?
広く解釈すれば、生物は生まれた瞬間から死にいたっているのですが、そんなことをいいたいわけではないですよね?
(ベストアンサー)
キルケゴールは死に至る病について、ラザロの死をひいてきたと思うんですね。
クムラン宗団において、刑罰があり、重大な規律違反を犯した場合、処刑されるんです。 実質的な死ではなく、破門のことが 死。 死者の衣装を着せ 穴の中に3日間拘留したあと、集団から永久追放する。 これがクムラン式処刑。
イエスはラザロは死に至るまでの罪を犯してはいないとして、ラザロを復活させた。 つまり、穴の中に閉じ込められ死者として扱われていたラザロは、死に値するほどの罪が無いとイエスが抗議し、ラザロは復権した。 と。
で、キルケゴールは、人は肉体的な死と精神的な死とがあると考えた。
精神的な死が絶望。
>こういう意味では絶望とは死にいたる病とは呼ばれえない。
この文の前は どのようなことが書かれています? 調べてみましたが、その箇所が見つかれないので、よかったら教えてください。
【絶望である事を知らない絶望。 言いかえれば、人が自己を、しかも永遠的な自己を持っているという事についての絶望的な無知。】
とも言ったようです。
キルケゴールは、「全員赤になるべきだ ならないものは地獄に落ちる これは絶対である」というキリスト教の考えに猛反発したようなんですね。
「信仰が大きければ水の上を歩ける」と言う本人すら水の上を歩けないのに、「信仰で歩けるようになる」と言い張るこの虚構を鋭く突いた。
人々が盲目的に水の上を歩けるようになるようにと、絶対的支配者にかしづいているのをみて、この情況は絶望的で、支配の言うなりになり、自分独自の生というものを喪失し、既に死んでいるのにそれを知らないでいる大衆を無知者だ と嘆いた。
この既に死んでいるのに自覚していない人々の風潮が、死に至る病だと思ったんじゃないかと。
>彼のいっている「死」とは、何なのでしょうか?
彼は人は実存的に生きるしかないと悟った。 主体的真理は個人の中にある。 絶対的支配者の主体的真理と個人個人の主体的真理は違う と。
そして一人の主体的真理に統合され、自己を失なってしまい、生を失ってしまうことが、死。
そして人々は死に至る病を発病し、自己を手放し死のうと必死になっている。
キルケゴールに言わせれば、この風潮は病気。
「大衆は虚偽だ」「真理は常に少数の側にある」など、カーメルの笛に踊りながら崖に向かっていく大衆の背中に向かって叫んだわけです。
空しい叫びでしかなく、人々は崖に落ちていった。
ロマン主義の人は現実不可能なことを夢見て、それをさも実現可能であるかのように錯覚して、眠りこけるわけです。
キルケゴールはその逆。 人は実存的な生きかたしかできない限定的な存在であることを自覚し、実存的に生きるしかない と。
生きている以上 いろいろな困難な壁にぶつかる。 支配者の言う通りにするのではなく、一人で決断し、一人で飛んで超えるしかない。
この決断するのは誰か? 私でしかない。 私が飛ぶぞと強く意志を持って、壁を乗り越えるしか、壁を乗り越える手段は無い。
「壁の内側にとどまって泣いて私にすがっていれば神様が助けてくださる。だからわたしのそばを離れないように」という独裁者の撒く毒に、じわじわ犯されて死ぬより、毒を飲まされていると気づいて、奪われた自分だけの生を取り戻し、毒から離れればいいわけです。 そのままなら生きながら既に死んでいるわけですから、悪魔から逃げ、自分の人生を取り戻すしかない。
で、これを死者の復活と言うんじゃないかと。
ラザロの場合は、イエスは復権を与える権限があったから、ジャッジして復権させたのではないかと
これによりイエスは不利になった。 そして処刑され、死者として扱われ、イエスを復権させる権利を持っていた地位の人が彼を復活させた。
これが当時のやりかた。
キルケゴールが、その風習を知っていたかどうかわかりませんが。。。。
結局、肉体的に死がおとづれるより前に、大衆の毒により既に死んでしまっている人が多いってことを彼は指摘したんじゃないかと。
(引用終わり)
キルケゴール理解の一例のようですが、かつて、キルケゴールが感じた「死に至るやまい」の裏返しが現代であるように思います。 観念論(唯心論)、唯物論、現象学と大別される哲学は、全て力を失ったのでしょう(哲学の死)。 宗教も同じ事が言えるのではないでしょうか。
金光教(民主主義教)で、その隙間を救えるのでしょうか。 今の政治と同じように、全く、やり切れませんね。
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Re: 当代世間騙し装置 ( No.294 ) |
- 日時: 2013/05/22 17:26:20
- 名前: キルケゴールの絶望死・・満天下有人
- ベストアンサーを眺めると、大きな視点、当時の社会的背景がすっぽり抜けている感じを受けます。
そしてキルケゴールの生死観なるものを一個人の葛藤として分析しているやに見えます。キルケゴールも正に個人の自由とは何かから発想しているので、個人の思考を中心にすれば当然と言えば当然のことなのでしょうが、彼がラザロの処刑に絡めてキリスト教の考えに猛反発したとのベストアンサーには、少し当時の社会的背景に触れている面もありますが、そこにキリスト「教会」が全権を振るった当時の世相があり、キエルケゴールも神を否定したのではなく、キリスト「教会」に反発した。
そして教会に反発すると大衆が騒ぎ出す。当時では「大衆は虚偽」だと叫ばざるを得ないような状況があった。スキャンダルを暴き立てる大衆ジャーナリズムが勃興した時代とも言われてますから・・・
キルケゴールも、人間個体が「実存」するものであり、あれかこれかの選択を行う中で自分を実現し、自由を満喫するのだが、理想と現実には乖離があり、絶望に陥るケースはよくあることだ。その時、自分を超えるものの前に立つ必要がある。それは神だと言ってるのですね。
「教会」に頼るでなく「神」に頼れと言う事は、当時の社会世相上、教会=キリスト教は批判し、教会でない神に頼れ、その安息が無い絶望者は死に至る、まあさような論理で大衆ジャーナリズムと教会にばかり拠り所を求める大衆も一緒に批判している。
ここでも、ではその神とは何かについては明確にしておりません。そして絶望や死についても実存するのは個人だから、その個人の問題として帰結し、哲学が社会一般への制度的批判に拡大されていない。既に産業革命が起こっていたのに精々教会への批判に留まり、後は個人の物の考え方に帰結している。
スピノザからマルクスに至る哲学は、スピノザは神を人間も含む物資と捉え、マルクスはその結果、神をも否定し社会構造にまで哲学を昇華させているのと、本質が全く違うようです。
新自由主義によって新たな自由が叫ばれ、それとて自己責任が並行して言われる現代の歪みも、キエルケゴールの時代の哲学と似ているものを感じます。個々人が個人として安息の場を求めるしかない、それが出来ない者は、自殺率の増加となって現れている。 政教が分離され信仰の自由があっても、状態は変わっていない。
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Re: 当代世間騙し装置 ( No.295 ) |
- 日時: 2013/05/23 07:50:06
- 名前: スピノザの神と金融政策・・満天下有人
- スピノザの宇宙における物質の存在とその調和から、神の概念を帰納する手法、幾何学や医学血液循環論も使って神の概念に導くのだが、凡夫には極めて難解で未だにその真髄を読解したとも言えないのだが、今読んだ所を読み解くのに、また前章から読み直さないと分からなくなってしまい、往ったり来たりでもう1年も時間を食っている(笑)。
著名な哲学は多々あっても、個人の認識論の範囲にとどまっており、その哲学が社会総体をどう捉えているのか、捉えた結果、社会をどう変革しようとするのか、物足りないものばかりで、その点で大袈裟に言えば宇宙的視点から人間に目を落として、人間をも含む物質の存在と運動、その調和を、総社会的に分析し、新たな神の概念にまで至る点で、ついスピノザにこだわってしまう(笑)。
オランダの裕福な貿易商の家庭に育ち、しかし家業手伝いに忙しく学校は出ていない。 1970年のオランダ高額紙幣1000ギルダーの肖像画にもされたくらいなのに、「神は制作物ではない」と言ってしまったものだからユダヤ教から破門されてしまう。
他のどの哲学者からの揶揄も込めた質問に、謙虚に丁寧に説明する84通に及ぶ「往復書簡集」を読んでいると、かなりの人格者であったことが伺える。ゲーテや精神分析のフロイドも絶賛し、後にはアインシュタインをして、存在するものの秩序ある調和の中に自らを表すスピノザの神なら信じるが、人間の運命や行動に関わる神を人格化した人格神は信じないと言わせしめている。
まだ彼の言う神を全部咀嚼出来た訳でもないが、宇宙の中に存在する地球、そこに既に存在する「実体」としての物質、しかもそれらは異なっているのに反発し合うこともない、それに相対する人間も全物質の一部分として捉え、その物質が調和されて運動している、その運動こそが「神」であると定義している。
宇宙は無限であり、その運動に相対する人間も自由な思考によって、その思考を無限に広げる、だがしかし、人間なる物は身体機能からして有限な存在である。その意味で地球上の物質が一定のパイの中に存在する有限なるものと同じく、パイは予め決定されている。
(スピノザの前提を考えると、予め一定された物質のパイ、それが反発し合う事も無く調和されており、それを有限である人間が無限なものにしようとして、全体調和を壊そうとしているのが、有限なる存在であることを忘れた現代人間どもの所業と言う事になりはせぬか)。
昨日の米オハイオ州に於ける大ハリケーン、その他諸々の自然災害、それは存在する物質運行の反発運動の結果と言うより、偏った空中あるいは地中のエネルギーが、調和を取ろうとして起こす運動なのかも知れない。
突然に昨日の日銀総裁の記者会見に話を絡めてしまうが、長期金利の上昇が収まらないことに懸念する記者団の質問に総裁は、先週ではインタゲ掲げれば長期金利は上昇するのが当然と言いながら、昨日では上昇を抑え込む手立てはあると宣たまわった。国債価格と超金利は一定のパイの中で動くようにされているのが、誰もが知っている常識である。一定のパイに収めないと、経済の仕組みは、紙切れをいくらでも印刷して調和が保たれるものではない。超金利を抑え込むとは、更に紙幣を印刷することを意味する。
これもまた人間が自然の調和ある運行を、人為的に破壊する人工的所業の例ではないのか・・・人間経済生活を調和させる方法は別の所にあると言うのに・・・神の反発は計算済で言ってるのか、安倍さんに黒田さんに、御用学者の皆さんよ。
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Re: 当代世間騙し装置 ( No.296 ) |
- 日時: 2013/05/23 14:49:05
- 名前: 金融資本主義とキリスト教
- 満天下さんは、キルケゴールにもスピノザにも詳しいようですね。
キリスト教との関係において言えば、
>著名な哲学は多々あっても、個人の認識論の範囲にとどまっており、その哲学が社会総体をどう捉えているのか、捉えた結果、社会をどう変革しようとするのか、物足りないものばかりで、その点で大袈裟に言えば宇宙的視点から人間に目を落として、人間をも含む物質の存在と運動、その調和を、総社会的に分析し、新たな神の概念にまで至る点で、ついスピノザにこだわってしまう(笑)。
キルケゴールもスピノザも、一神教としてのキリスト教にこだわりがあるようです。 現代人に哲学的な解析は、労多く益ないものとして、結論から言いますと、
>突然に昨日の日銀総裁の記者会見に話を絡めてしまうが、長期金利の上昇が収まらないことに懸念する記者団の質問に総裁は、先週ではインタゲ掲げれば長期金利は上昇するのが当然と言いながら、昨日では上昇を抑え込む手立てはあると宣たまわった。国債価格と超金利は一定のパイの中で動くようにされているのが、誰もが知っている常識である。一定のパイに収めないと、経済の仕組みは、紙切れをいくらでも印刷して調和が保たれるものではない。超金利を抑え込むとは、更に紙幣を印刷することを意味する。
要するに、現代金融資本主義そのものが、キリスト教的側面を持ち、何でも、かんでも、神様(金融の理論)に集約しなければ話が進まないと言うことでしょうか。
一般大衆は、何も解らない内に、資本主義を信心することを余儀なくされ、キルケゴールの「死に至る病に犯されている」と言う指摘、スピノザが言う、自由意志の何たるものか、と言う命題で啓蒙された人間の意識が、当時と同じように袋小路に入り込んでいると言う事になるでしょう。
しかしながら、当時の障害が、キリスト教であったのに対して、現代のそれは、人間自身が持っている利己心であります。 他方、現代哲学は、生理学的な要素を踏まえ、もはや絶対(実体)の存在など意識におきません。 人間の利己心をコントロールする術があるなら、それが思想でしょうが、人間の利己心は個人的なそれ、集団としてのそれなど複雑に絡み合い、倫理道徳の領域以外では至難の技です。
しかしながら、金融資本の支配のキリスト教的な体質、そのものを(制度)大衆の合意によって意識的に変える事は可能ではないでしょうか。 そのためにも、キリスト教文化に少しは退場していただかねばならないのではないでしょうか。
またまた、飛んだ文章となってしまいました。 読者の中には、荒唐無稽、大言壮語と笑っておられる方のおられるでしょうが、結局は、将来の人間社会は、この領域まで踏み込む必要があるのではないでしょうか。
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Re: 当代世間騙し装置 ( No.297 ) |
- 日時: 2013/05/23 15:05:13
- 名前: 國井
- キルケゴールは、仏教徒にとっては、比較的読み易いですね。
私、「死に至る病」の講読をとっていました 。 デンマーク語なので、独訳や英訳で受講していましたが、 私、教授の前で和訳をバッチッとひろげて受けていました。
巌頭之感 悠々たる哉天壤、 遼々たる哉古今、 五尺の小躯を以て此大をはからむとす、 ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、 萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。 既に巌頭に立つに及んで、 胸中何等の不安あるなし。 始めて知る、 大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
曰く「不可解」
大方の人は、気晴らしをして、「不可解」の域に達しないでいるのでしょうね。
ここに達して、精神的自立の問題が起きるのでしょうか。
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Re: 当代世間騙し装置 ( No.298 ) |
- 日時: 2013/05/23 22:23:43
- 名前: 神は全体の調和に在る・・満天下有人
- 國井さん今晩は、毎度です。
<またまた、飛んだ文章となってしまいました>・・・これよく分かります。膨大な論理に照らして何かを言おうとする時、学校の勉強でもありませんし、限られた時間と紙面で先哲の論理、それも膨大なもので、現実に当てはめて言おうとすると、手も頭も疲れて間が抜けてしまうものです。
文学部哲学科の出でもありませんので、詳しくもありません。有名な一節が目に止まると、いかなる思考過程でさような結論が導き出されたのか、そしてそれが現代の現実と如何に関連するのだろうかと思った時に、興味を惹かれて検証してみたい気になるのです。持論は、この現代人間社会、どうしても下部構造としての経済生産関係によって社会が左右されている、ならば経済学にも哲学があってもよさそうなものですが、まあ資本論以外には見当たりません。現象として現れる経済結果の分析ばかりで、構造論から分析する哲学性あるものは、無いように見えます。
社会あっての経済なのに、その経済が多数の人間に対し、いかな貢献をしているのか、そうはなっていないとすると、それを喝破する哲学性ある原論も出て来ない。金融資本の横暴にせよ、金融資本にだけ焦点を当てても、根本の改造には至らないと思えますし、そうさせている構造に対し、諄々と説いてくれる思想も見当たりませんね。
<・・・人間の意識が、当時と同じように袋小路に入り込んでいる・・・当時ではキリスト教が障害であり、現代においては、人間の利己心が障害になっている、そして哲学も生理学的な要素を踏まえ、もはや絶対「実体」などに意識も無い>・・・
誠にその通りで、人間の利己心についてスピノザはどう考えていたのだろうか、直接の言及は見当たりませんが、推定される箇所があります。ドイツの神学者ハインリヒ・オルデンブルグの質問に答えた書簡の32通目ですが、その前に宇宙、その一部分を構成する地球、そこにある物質、物体が実体であり、人間もその一つであるとして・・・
「自然における全ての物体は、他の諸物体によって取り囲まれ、かつ相互に一定の様式で存在し作用するように決定されています。しかもこの際、その全体においては、換言すれば全宇宙においては常に運動と静止の同じ割合が保持されているのです。 この帰結として、全ての物体はそれが一定の仕方で規定されて存在する限り、全宇宙の一部分であって、それは全体と調和し、また残余の諸物体と連結するものと見られねばなりません。
そして宇宙の本性は無限でありますから、宇宙の諸部分は、この無限な力の本性によって無限の仕方で規定され、しかもこれを実体という観点から見れば、それぞれの部分はその全体と一層緊密な合一を持つものと私は考えます。
これで貴下は、私がどんな理由で人間の体を自然の一部であると考えているかが、お分かりでしょう。ところで人間の精神について申せば、それも自然の一部であると考えます。・・・・・人間の思惟は(観念である以上)無限です。但しそれは、有限で人間の身体をのみ認識している限りにおいてです。」
ある意味、人間の利己心というものは、限りないものですね、それが無限であってもスピノザは、無限はまた無限の力で個々の部分を全体調和の中に入れてしまうものだと言ってるように思えます。存在する実体は自然に調和を保っていることで自然が存在できる・・・果てしなき利己心は、調和を破壊し、いや、その段階で自然に存在する「実体」でなくなってしまうのですから、利己心の追及そのものがナンセンスということになってしまう。
その認識に到達できないとするなら、よく言われますように、行き着くところまで行かないと、人間が自然の調和の中に生きていることに気がつかない。そういうことになるのでしょう。全体と部分についてスピノザは、生理学的にも説明しておりますが、紙面の関係上、またにするとして、地球上の物質の調和を数学者らしく幾何学を用いて説明しておりますが、様子に三角形の内角の和は、形が何であれ180度だと言ってるようです。つまりパイは一定です。三角形の形がいかように変わろうとも、内角の度数の違いによって面積のパイは変わらず調和される・・・
PS:<スピノザも、一神教としてのキリスト教にこだわりがあるようです>
これについては、「神」については相当なこだわりを持っていたようですが、キリスト教に対しては、それは教会に対するものかも知れませんが、さほどこだわりは持っていなかった節があります、むしろ批判しているようです。同じく神学者オルデンベルクへの書簡72通目を引用しておきます。
『第一の点について言えば、私は神及び自然について近代のキリスト教徒たちが通常説いている見解とは、まるで異なった見解を持っております。・・・(後段で)私はこう申します。我々の救いのためには、キリストを肉に従って認識することは、絶対に必要なことではないのです。ただし、神の永遠なる子についてなら、換言すれば万物の中に顕現し、多くの人間の中に顕現する神の叡智が、イエスを通じてなされているとするなら、これは別に考えなくてはいけません・・・・』
『次に奇蹟について申せば、私は反対に、神の啓示の確実性は、奇蹟即ち無知の上には築かれ得ないと確信いたします』
自然に存在する実体が調和する、その合理的運動が神であるとするスピノザらしい哲理を感じます。言い換えますと、奇蹟は非合理的なものであり、それを神が起こすとしたら、神は非合理的な存在となってしまう。だが神は(自然は)合理的存在であるが故に、奇蹟は起こさない。起こせば自然の合理的連鎖が切れて、全ての存在が消滅してしまいますね・・・果てしなき利己心にも言えることです。
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Re: 当代世間騙し装置 ( No.299 ) |
- 日時: 2013/05/24 07:31:14
- 名前: イントィッション
- ●東京株式相場暴落、利食いした欧米ヘッジ・ファンドは、「ジャバニーズ・テイク・アウト」とバカにして高笑い
板垣さんの情報からです。。。 ↓ ttp://foomii.com/00018/2013052407000015669
もう 朝から嫌な気分ですW。。。
日銀の金融緩和を実際にしているのは黒田さんではなく、竹中平蔵でしょう!!!
小泉の時は、欧米の悪魔ヘッジファンドから、加担した手間500億円貰ったと言われています。。。
今度は、いくら貰うんでしょうね〜。。。
NHKでさえ、昨夜のニュースで、(株で損したのかぁNHK?)ケイマン諸島に大金持ちが脱税として金を運ぶことを国税局が今、やっきになって追求していることが大きく報道されていました。。。
これは絶対にやってもらわないといけないことですね〜。。。 ケイマン諸島は、会社の社員の低賃金や非正規労働者を多くしている実態があるでしょう!!!
とにかく、スーパーコンピューターは株式市場では禁止!
ケイマン諸島への金の持ち運び禁止!
六本木ヒルズへロックフェラーの本社を移転させることは大禁止!
モンサントの日本への入ることは禁止!
アメリカの既得権者に売り渡す、(例えば水の支配権利を民営化と称して、国民に騙す)ことを禁止!
日本の食品大企業は、特にヤマザキは、遺伝子組み換えなどの添加物をほとんど使用禁止!
抗がん剤、子宮頸がんワクチン、その他、毒薬ワクチンの使用禁止!
もちろんTPP介入禁止!
欧米ギャング・ヘッジファンドから日本への政治支配禁止!
日本のメディアのこれ以上の嘘の情報は禁止!
アメリカのことばかり情報を伝えるメディアは禁止! (ロシアや中国の悲惨さもTVで報告せよ!)
本当に、日本は汚れっぱなしです!!!
あまりにも醜い! 日本の大衆がそれほど、特に60代(バブルをいまだ夢見ているような)の頭脳は汚れきっています!!!
汚れた頭脳のところに、寄り添うように悪魔の手が入りやすいんでしょうね〜。。。WWW
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Re: 当代世間騙し装置 ( No.300 ) |
- 日時: 2013/05/24 07:46:10
- 名前: 笑える安倍のチャンポンミク・・満天下有人
- あっはっはっ、昨日日経平均の1140円もの一気の大暴落、史上何番目の大暴落か、調べる気も起らないが、最近では福島大災害の時、これと同じくらいの暴落だったかな、あの時は実質経済も損傷を受けたのだから、当然と言えば当然であった。
今回はどうか、中国製造業景気指数が50の中立ラインを下回ったことを受け、それを理由に日経平均先物が売られ始めたとの市場分析であったが、も一つは前日の国債長期金利が上昇、一時1%に達し、これは小さい数字に見えるが、安倍のミクス発動の頃が0.56くらいだったから短期間で約倍に跳ね上がった訳で、これは国債を買うマインドが薄れ国債価格の異常な下落を意味し、財政悪化懸念も加味されたのであろう。
国債価格が下落するということは、市中の国債の買いマインドが低下したことを意味する。安倍のミクスで超金融緩和推進の為に日銀が、政府発行の国債を直接買う、毎月約7兆円を2年間にわたって日銀が200兆円に達するまで買い入れ、加えて不動産投資信託証券も買い入れる異常な、市中で言うところの異次元金融緩和を実施した訳だが、これで経済が活性化し名目成長率は4%くらい伸びる筈だと・・・
今年1〜3月期GDPは確かに3.5%プラスになっている。NHKなど盛んにこれをニュースで煽っていた。だが中身を見ると、リーマンショック後に比べると、伸びたのは政府最終支出(医療保険、警察官、学校などの公務員人件費など)が10.5%増、公的資本形成(港湾修理などの政府資産)が21.5%増で、将来の生産、雇用、所得の源泉になる実質民間設備投資は12%減少している。
尤も金融緩和による投資増加には遅効性があって、今の段階で速断出来るものでは無いにしても、超金融緩和によるオカネの向かい先は、民間設備投資でなく、株式市場に向かったということだ。
巨額だから、短期間で株価を暴騰させても、個別企業の実質投資、成長が無ければ、個別企業の株価暴騰が持続する筈がない。つまり超金融緩和は既にバブルを引き起こしていたと言うことである。かなり上昇した後では、そこから更に買い上げることはしっかりした実質経済の成長の裏付けが無いと、リスクを伴う。国際ヘッジフアンドなどは、そこら辺の心理を見越して昨日、日経先物で売りを浴びせ、狼狽した一般が売り一色となり、売りが売りを呼ぶ展開となったのであろう。
日銀異次元緩和には、不動産投資信託証券も含まれている。市場はそれを受けて不動産関連株が暴騰し、しかし長期金利の上昇を見て既に下落は始まっていた。それが昨日の暴落で更に下落、足払いを喰らわせられていたのに更なる暴落で足を折られてしまったようなものである。 ある女子大生などツイッターで、金融緩和による金融筋からの融資攻勢に出合って、借金して株を買い、500万円ほど儲けたと言っていたのが、昨日ではマイナス100万円になってしまったと嘆いている(笑)。まあ大暴落の後では一時的に揺り戻しもあろうから、そこで傷を少しでも小さくして逃げなさい(笑)。
甘利経済担当大臣は安倍のミクス第4弾として、財政是正を言い出した。超金融緩和で成長路線に乗ると言ってたのではないのか、ならば何故財政是正言い出す?ほっといても良くなるのではなかったのか?マクロ経済をオカネで成長させると言い、だがミクロ経済としての個別企業は、設備投資意欲が上がるどころか減少している。そして最終消費者は已然としてデフレマインドの中に居る。
こういう現象を、チャンポンミクスによる弊害だと言っても、過言ではないだろう。スピノザが言う全体と個の調和、チャンポンミクスの頭では分からないのであろうか。
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