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[1931] 神社信仰
日時: 2014/01/01 23:35
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:JRz11XzA

私は、今年から3年、地元の氏神神社の氏子総代を引き受け神社守をしています。

それまで、殆ど興味の無かった神社と言う存在と取り組む事になりました。
近年は氏子の数も減少し維持しがたくなっている神社の財政のことも鑑み、以下の様な文章をなるべく配布し理解を得るような努力をしてきました。
神社信仰と言うものを理解する為に御紹介します。

「土地の神様の話し」

氏神

本来の氏神は、古代にその氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かった。例として、中臣氏は天児屋根命、忌部氏は天太玉命を祀った。
中世以降、氏神の周辺に住み、その祭礼に参加する者全体を「氏子」と称するようになり、氏神は鎮守や産土神と区別されなくなった。同じ氏神を祭る人々を「氏子中」、「氏子同」といい、その代表者である氏子総代を中心に神事や祭事が担われている。氏神を祀る神社の周辺には住んでいないが、その神を信仰する者を「崇敬者(すうけいしゃ)」といい、氏子と併せて「氏子崇敬者」と総称する。
中世以降の例としては、源氏の八幡神(八幡宮)、平氏の厳島明神(厳島神社)などが挙げられる。別格として皇室の祖神を祭った伊勢神宮は、近世までは皇室のみの氏神であったが、今日では日本人全員の総氏神とされている。

「鎮守」

鎮守(ちんじゅ)は、その土地に鎮まりその土地やその土地の者を守る神のことである。平安時代以降になると荘園制が形成され貴族や武士、寺院などの私的領地が確立され、氏族社会が崩壊し氏神信仰も衰退するが、荘園領主達は荘園を鎮護する目的でその土地の守護神を祀るようになる。これが鎮守であり、室町時代の頃に荘園制が崩壊すると信仰は衰退し、氏神に合祀され今日に至っていることが多い。

「産土神」
産土神(うぶすながみ)はその者が産まれた土地の神であり、その者を一生守護すると考えられている。生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、ほとんどの場合産土神と鎮守は同じ神であった。ただし、現在は転居する者が多いため産土神と鎮守神が異なる場合も多い。
この氏神信仰は七五三などで見ることが出来るが、子供のお宮参りは本来氏神にお参りして、その土地の一員になることを認めてもらうための儀式の一つだった。

「節分祭」の案内状

節分とは、季節の変わり目を示す意味であり、本来は春夏秋冬、4回あるそうです。ですので、暦の上では明日から春となります。

また、旧暦では節分を境目に年が改まり、節分祭を行なう事により、旧年の厄や災難を祓い清める「追儺(ついな)」の行事をしてきました。
現代では、元旦を迎える大晦日の有り様があります、
つまり「旧年をいつくしみ、新たな年の幸せを願う気持ちを現す」というために、年末年始の挨拶があり、除夜の鐘を聞き、初詣をすると言う風習を持っています。

「村祈祷(にいなめ祭)の案内状」

古代の人々は、その生活の殆どを土地と共に営んできました。
そうして土地はみんなの生活の糧をもたらす優しい大地であると共に、天変地異も伴う恐ろしい存在でもありました。
そこから生まれたのが、産土(うぶすな)神信仰であり、鎮守信仰です。
その信仰が、その土地に代々住む人々の祖先神のようになってきて、氏神(うじがみ)と言う言葉で表されるようになりました。
須津彦神社は、須津地区の代表的な氏神神社として、この地域に住む皆様の生活の安全、五穀豊穣を祈願して1500年以上前から存在し続けているとされています。
村祈祷とは、1年に一度、今でもこの土地で共に生きる皆様が集まり、氏神様に感謝すると共に、更なる1年の安全、五穀豊穣を祈願するものです。
何かと世知辛い世ですが、この機会に、悠久の歴史に触れていただきたいものです

「厄払い祈祷の案内状」

役年と言うものは
「男の42歳前後というのは本当に社会的責任も増し、精神的にも肉体的にもきつい年頃だと思います。女の33歳は子育ても真っ最中でそれどころではないかもしれませんが、昔は最後の子供を生んだ頃なので、女性にとってちょうどその頃が精神的にも肉体的にも疲れる年頃だったのでしょう。」
とありまして、厄と言うような負の思いよりも、それぞれ人生の節目に到達され事を御祝すると共に、心を引き締めていただく前向きの認識と取られる方が良いかと思います。
神社との関係で言いますと、誕生初参りや七五三などで神社に参られた方の成人された姿と再び、まみえさせていただくと言う事になります。



等などです。
私が考える氏神神社のありようとは、このような概念であったのですが。

ところが氏子総代の活動の中に、神社を束ねる神社庁との付き合いもあります。
明治の頃の国家神道の名残で、当地の神社も伊勢神宮を頂点とする、一つの流れに組み込まれています。
神社庁が主催する氏子総代会議は年に2回は開催されます。

そこでは式の冒頭で、伊勢神宮の天照大神に対して拝礼することを要求されます。
そこまでは、当地の神社の親分に敬意を称するための思い、しぶしぶ付き合ったものですが、その後に君が代の斉唱をする羽目になって、神社守である事に嫌気がさしました。
その様子などは、氏子には、とても報告する気にはなりません。

冒頭に紹介した純粋な信仰心とは相容れない要素を強く要求する現在の神社庁の考え方では、この後、どのように取り繕っても神社は観光の対象でしかありません。
普通の神社庁でも、これですので、靖国神社を運営してしている団体が、如何に国民と遊離している存在か判ると思います。

それでも私は後、2年、氏子総代を務めねばなりません。
神社庁など上部の考え方など、何するものぞ!と、地元の氏神信仰を守るつもりでやっています。

人間の心は、何事にも合理的精神で対応できるほど強くはありません。
そういう人たちが、1年に一度、家内安全の為に、神社の御札を購入していただく、その気持ちが純粋であることを信頼しています。
そのためにも、神社は存在している必要があると、この寒いなか年末年始の神社行事に取り組んでいます。

靖国神社を糾弾する一方、このような神社信仰観もあることを披露したくて投稿しました。
メンテ

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神社信仰 ( No.16 )
日時: 2014/01/11 14:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:uQykDZ02

北斗モシリ に紹介していただいた「魏志倭人伝」について、様子を抜粋して現します。
ネットとは、本当に便利なものです。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。



南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず


男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。


その風俗は淫らならず。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。


倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。 屋室有り。父母兄弟の臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるごとし。食飲にはヘン豆を用い、手もて食う。 その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主コツ泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。

・・・

(引用終わり)
最後方で<朱丹を以てその身体に塗る>と言っているのはアイヌの風習のことでしょうか。

ところで、この魏志倭人伝が書かれたのは西暦57年。
当時の日本の現状は、紀元前300年頃から始まった弥生文化の真っ只中、人口で言えば、弥生時代初期の数十万の人口が200万人にも増えていた頃、倭人伝にあるように、それらの人口は100カ国余りの豪族に支配され、有力な豪族のしたには20万人(7万戸)前後が集団を形作っていた様子が書かれています。

大和朝廷の出現は西暦350年頃と言われていて、そのときの総人口は350万人くらいと推定されています。
人口的には、その後、聖徳太子が17条の憲法を発布した604年頃には600万人と増えていたようです。

歴史的な概観を述べましたが、大和朝廷が成立した頃は、氏神信仰も時の権力と結びついたものとなっており、此処で追求している始原的な信仰の根拠とはならないと思います。

さらに、縄文時代の人口を見ますと一時期25万人を超えたとありますが、概ね10万人程度で数先年を経過したようです。
さらに注目すべきは、弥生時代(紀元前300年から西暦600年にかけて)150万人と言われる渡来人があったようです。

氏神信仰と言う範疇で、日本人の心の源泉を探るという意味では、弥生時代直前(紀元前400年ころ)から大和朝廷発足の西暦300年頃を対象にする事がふさわしいかと思います。

縄文時代は人口が少なすぎて、現在の日本人の一般的な習癖をこれに求めるのも如何なものかと思います。
この事についての検証は、後にしまして、日本に置ける氏神信仰の特徴について触れたいと思います。

どの民族においても始原的な信仰心と言うものは、アニミズム、トーテミズムと言う形であったものと思います。
日本の場合の氏神信仰の発祥は、それが、もう少し進んで集落の五穀豊穣を願う儀式が形式化され、常設化されていたと言うことと思います。

さらに、驚くべき事に、その始原的な氏神信仰が現在でも息づいているという事です。
途中、神道と言う形に集約され、時の権力者の擁護にも用いられましたが、そのためか神社施設が全国に存在し、かつ始原的な五穀豊穣を願う信仰心も保たれてきた事です。

これは一神教である、キリスト教圏、イスラム教圏では見られない現象と思います。
キリスト教、イスラム教は仏教と共に、人間の心の問題を対象に発展した。いわゆる近代宗教です。
仏教圏はともかく、キリスト教圏、イスラム教圏においては宗教と言えば、その宗教のことを指し、それによって資源的な氏神信仰の様なものは衰退して行かされたのでしょう。

そこが一神教世界と、日本(おそらくヒンズー教圏も)との根本的な文化の違いと思います。
日本で言う、その氏神信仰的な要素を、あえて、宗教とは規定せず、共認意識と言う概念で捉えることも出来るのではないかと思います。
共認意識と言う言葉は、別のサイト「るいネット」で良く使われている基本概念ですが、此処は哲学的な意味で使っていますので、少し違う事を理解して頂きたく思います。

チョット、道を外れた様でもありますが、私が考える氏神信仰を論じるためには、意識していただきたい背景であります。
メンテ
日本とは何か ( No.17 )
日時: 2014/01/12 01:34
名前: 北斗モシリ ID:KRWp3fW.



>最後方で<朱丹を以てその身体に塗る>と言っているのはアイヌの風習のことでしょうか。

倭人伝ですから倭国の倭人の風俗を記述していること勿論ですよ。             
アイヌの風習と似ていることに一寸驚かされますね。アイヌ人縄文人末裔説を意識させ
られるところですね。「男子無大小皆黥面文身」、「以朱丹塗其身體」。


>ところで、この魏志倭人伝が書かれたのは西暦57年。
 
おい、おい、ですよ。陳寿が死んだのは297年ですから『三国志』が書かれたのはその前
です。西暦57年(福岡・志賀島の金印)記述は范曄の『後漢書』ですよ。



>倭人伝にあるように、それらの人口は100カ国余りの豪族に支配され、有力な豪族のした
>には20万人(7万戸)

貴方は一体何を読んでいる。‘ネットとは、本当に便利なものです’と「魏志倭人伝」記事
部分を引用しておきながら。‘倭人伝にあるように’とは。

「今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝」とあるではないか。夷蛮の外国
のたかが大豪族、有力豪族に対して「倭王」という称号で呼ぶことは絶対にない。金印を授与
することもない。せいぜい銀印止まりである。7万戸を直轄領とする国は「邪馬壹國」でありその
『女王』に親魏倭王として金印を与えたと明確に中国の正史に書いてあるではないか。この女王
国は30数カ国を従えている書いてあるではないか(‘100カ国余りの’なんて書いてない)。
「此女王境界所盡」。




古代人口推定値はよく見ますが、ないよりましくらいまあこんなものかと考えて下さい。
>弥生時代(紀元前300年から西暦600年にかけて)150万人と言われる渡来人があったようです。
‘ないよりまし’な推定値で奈良時代の人口600万人以上、600万として150万人を差し引くと
350万。騎馬民族征服説は否定されている。これに従えば渡来人は三々五々やってきた。
>縄文時代は人口が少なすぎて、現在の日本人の一般的な習癖をこれに求めるのも如何なもの
>かと思います。
征服者や大陸・半島からの難民が一挙大量に渡来帰化しなかったのだから少数者が多数者に
混血していく道理となる。その割合は‘ないよりまし’推定値で300年で150万人。平均年5000人。
「如何なものか」とはこちらが言いたい。もっとも「この事についての検証は、後に」するとか。



ついでだが、以下にコメントしておく。

>大和朝廷の出現は西暦350年頃と言われていて、そのときの総人口は350万人くらいと
>推定されています

 奈良盆地にある王朝で「始馭天下之天皇(記紀によれば)」崇神のことを言うのか。350
年を遡って近畿王朝の成立をいう説はいくらでもある。通説でもない。
‘ないよりまし’推定値350万人そのときの総人口というが東日本・東北を除いた人口数を
指すのだろうか。そのことはよいとして、文全体の雰囲気から近畿王朝支配下の総人口とも
読める。私に言わせれば近畿王朝はローカルな有力王権であって倭国の盟主覇権国は
九州の王権だ。倭国王から見れば近畿王は臣下にすぎない。

メンテ
日本とは何かーー訂正箇所 ( No.18 )
日時: 2014/01/12 01:56
名前: 北斗モシリ ID:KRWp3fW.


上の投稿文、4段目で推定人口値のところです。

600万として150万人を差し引くと350万。

600万として150万人を差し引くと450万。
と訂正。


従って、年平均は15000人、となります。

お詫びして訂正します。  北斗モシリ
メンテ
邪馬台国の話し ( No.19 )
日時: 2014/01/12 12:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:9EVXsNXE

北斗モシリ さん、一部記載が間違っていたかも知れません。
訂正を有難うございます。
さて、ご指摘の部分について、「大和魂(日本の心のルーツを探る)」スレッドのNo142のレスで取り上げている文書を訂正の変わりに添付します。
いずれにせよ、NET情報ですが、私自身、研究家でもないので、信頼できると思われる情報に頼らざるを得ません。



ここで、我が国の人のルーツと渡来人ことを確認しておきましょう。
今から15000年くらい前の人口は、当時の北方よりの渡来者(7000人)を含めて20000人程度であったようです。

それから縄文時代といわれる1万年の間、自然の環境と共に増減(最大26万人)したものの縄文時代の後期には76000人と推定されています。
これが弥生時代の後期には60万人と推定され、

西暦700年(飛鳥・奈良時代)には540万人となって行きます。
このうち、弥生時代から飛鳥までの1000年間に渡来した人は100〜150万人と推定されています。
人口の自然増もありますが、人口における渡来人の割合、かつ渡来人は常に石器や農耕技術を伴って渡来していることは、我が民族文化のルーツを探るのに重要な観点となるでしょう。

さて、稲作の渡来と弥生時代のことになります。

縄文中期の繁栄も、4,000年前ごろから起きた地球の寒冷化で突然崩壊した。特に中国では3000年前の寒冷化、乾燥化は厳しく北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。
このために長江流域を追われた民族は中国の奥地ばかりではなく、東南アジアにも向かったし、台湾島にも向かった。

これらの人々によって我が国に稲作が伝えられたのは紀元前800年(弥生前ないし縄文後期)とされている。

稲作の伝来、定着と共に社会的大きな変化は環濠集落誕生と社会構成である。
最初は小さな集団から始まったのであろうが、これが段々と大規模なものとなり直径が数百メートルもある大規模なものとなり、村の概念から国の概念へと発達して行く。
また収穫物と言う財産を保持することになり、狩猟生活における獲物の取り合いとは別の、集団同士(村)の熾烈で大規模な争奪戦を生む原因ともなった。

「 クニ」の形成

弥生時代、当時の最先進地域であった北部九州では、当初、それぞれ個別の集落として存在していた「ムラ」が、農耕が基本に持つ高い人口再生産力を発揮してムラの拡大・分化を生み、近辺の生産適地を埋め尽くすように未開地を耕作地へ変えていった。

その結果増加した「ムラムラ」が、弥生前期後半ごろから小共同体(おそらく血族集団、本家と分家などから構成されたような共同体)に成長し、更にその小共同体が、指導力を持った中心的な小共同体と、そういう小共同体との共存を図ろうとする従属的な小共同体とに階層化し、それらが一つのグループとなって「クニ」を形成し始めた。
クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことにあったと思われる。

それほどにムラの数や人口が急増し、北部九州の中小河川の水量では、その効率的な利用が強く求められたからであろう。
当然、クニの内外で調整や裁定というような社会的作業や、それがうまく図れなかった場合には、争いが−すなわちこの列島において初めての戦争が−起こったであろう。
それは次第に、大リーダー(大首長)と小リーダー(小首長)、さらにその構成員というように、人々の間に階層的な関係を発生させた。
縄文時代には考えられなかった、社会構造が形成され始めたのである。

そうした日本列島の新しい鼓動は、半島や大陸の方にも聞こえ始めていた。
「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為し、歳時を以て来たり献見す、と云ふ」
これは『漢書』に記された一文の読み下し文であるが、中国の正史に「倭」が登場した最初の記述である。時代は紀元前1世紀の頃。
現代文に直せば

「楽浪郡から海路を行った先に倭人と言う処がある。(倭の人々がいる、という読み方が一般的であるが、そういう漢文の用法は見出せない、という意見もある) 100以上の国々に分かれており、毎年、四季毎に(楽浪郡政庁を)訪れて貢物を献上する、と言う話である」

これはすなわち、当時の漢(前漢)を中心とする東アジアの国際社会の中に、倭(or倭人)と呼ばれる北部九州を中心とした西日本のクニグニが、一つの勢力として登場してきたことを意味する。
そして、100余国すなわち100余クニとは北部九州だけで収まりきれるものではなく、おそらく「倭」とは西日本全体を指していたのであろう、としている。

中国は後漢の時代、倭の「奴国」が自称太夫(=大臣、長官)を遣わして朝貢をした。時の皇帝・光武帝は返礼として印綬を下賜したという。
この一文は有名な「漢委奴国王」 により証明された。

この頃、「倭」のいかほどの国が後漢と外交関係を持っていたか明らかではないが、「奴」という国が倭の代表として、ないしは倭の中でも特別な国として認められていたということであろう。 
しかしながら「奴」が国々の代表であったのに対して近隣の伊都国(福岡西方)は漢皇室との関係において特別の権威を持っていて「奴」と連携して後漢と外交関係を保っていたものと考えられる。

これらの「国」が成立するまでには、クニとクニとの間でサバイバルの戦いがあったであろうことは想像に難くないが、「国」と「国」同士が激しく対立して戦った形跡はない。
これはおそらく、当時、新興国であった倭を構成する国々が、東アジアの国際社会に於ける倭の位置を十分認識し、対立するどころか相互補完して、諸外国に伍して行こうとしたからだと推測される。

その中で紀元200年、伊都国が、その後ろ盾と頼っていた後漢の勢力が弱体化するに従って、自らの権威も衰え、倭国連合を掌握する力を削がれることになっていくのである。
従って、倭国ではもはやいずれの国も、倭国連合を掌握する力はなく伊都国の代わりに新たな連合の盟主になろうと意欲を示す国、鉄や諸々の舶来の文物、技術を求め独自の交易を展開して利益を得ようとする国、あらたな倭国のフレーム作りを画策する国などが次々と台頭し、相争ったに違いない。

魏志倭人伝にいう「倭国乱れる(倭国大乱)」とはこういう状況を語ったと思われる。
さらに倭人伝は続ける。
「 倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」  

それこそ「邪馬台政権」の樹立であり、これまでの「王」に変わる王の中の王「大王」卑弥呼の擁立であった。
この新邪馬台王権の誕生は、その後の7世紀後半の律令国家の成立という、大和朝廷の完成に向けての画期となったというのである。

しかしいずれにせよ、倭ないし邪馬台国は、中国王朝に対し朝貢を続け、冊封をうけて、東アジアにおける交易と安全の保障を求めるという卑弥呼以来の外交方針を続けたのである。

突然ではありますが、現代のアメリカ追従の腑抜け外交ぶりをみて、
「日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…」という聖徳太子による当時の大国、中国からの独立宣言と思しき宣言を心から称えたい。

一気に大和朝廷出現までの歴史を遡りましたが、弥生時代以降の渡来人についてまとめておきます。
渡来時期を4つに区分すると・・・

T 紀元前2〜3世紀 弥生時代に日本に定住した。
U 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
V 5世紀後半〜6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
W 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。

5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。

この様に我が国は縄文前期の1万年前から、多くの渡来人によって構成されてきました。
人種的には

南方系 ミクロネシア、ポリネシア
中国系 江南人
北方系 バイカル湖系、古モンゴロイド
等が、千島、樺太、朝鮮半島、南方から海を隔てて移り住んで、縄文人、弥生人、アイヌ人、本土人として定着して行きました。

メンテ
日本は多民族国家! ( No.20 )
日時: 2014/01/12 17:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:9EVXsNXE

渡来人については、下記の様な話しもあります(No143のレス)
此れなど見ていますと、日本人の特性と言われている「和」の心、保守的な性格が信じられないくらいですね。
逆に、温暖な地域に、多民族が集結したからこそ、そういうものが育ったのでしょうか。


・・・・・日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが正確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。

シュメールとは現在の南イラクのことです。そしてそこに北からヒッタイト族などがやって来た。そしてバビロニアなどの国家を建設してシュメールの文化をシリアに広めた。シリアとは、現在のシリア、レバノン、バレスチナ、ヨルダン、イスラエルを包括する地区です。シュメールはユダヤにとって先進文化地域だった。

楔形文字は、古代オリエント地区で東アジアにおける漢字と同じ役割を果たしていました。メソポタミアの共通文字だった。

シュメールには葦原が広がっていたらしい。日本もかつては”豊葦原の国”と呼ばれました。葦は筆(ペン)を作るために利用されます。粘土と葦の組合せが文を生んだ。「書く」とは引っ掻くと言う意味です。Grammarのグラムは刻むという意味。紙が発明されるまで、文字は刻んだり引っ掻いたりするしか記する方法が無かった。

シュメールの人々が東に移住し、インダス文明を築くなどしながら、南海伝いに日本までやってきた可能性は十分にあると思います。

ここまで遡れば十分でしょう。次には大和の国から見た太古の様相です。

黒潮は日本列島南方海上で対馬方面と高知方面に分かれる。対馬方面へ流れる海流に乗ると、船は九州北西部とか、或いは朝鮮半島南東部に行き着く。出雲地方もその中に含まれます。

紀伊半島もそういう意味で同じ人々が流れ着く場所でもある。そのせいか、熊野権現は出雲系の神様が祭られています。その他に、伊勢、伊豆、安房、鹿島(茨城県)など、いずれも黒潮と無縁ではない。

大和川を行き着くところまで遡ると飛鳥地方に至る。他方その先の山の向こうには、吉野を経て熊野があります。古代にそこでヤマト民とミナト民が出会ったとしても決して不思議ではありません。

このように想像すると、日本古代史は黒潮をキィ・ワードとしてヤマト民やミナト民(海民)の動向を中心にして再構築する必要があると言えるでしょう。
ヤマトとミナトという言葉が出てきました。

昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。

陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。

むかし江戸は武蔵野国にあった。軍艦でも大和の姉妹艦として武蔵が建造されました。江戸がミナト(水戸)民の土地だったことは言うまでもありません。

むかしから、我が国は南方や朝鮮系の渡来人が多くいたことは、聖徳太子の時代にも秦氏、漢(あや)氏などが良く知られています。
上記に書いた流れの中に組み込まれるのでしょう。

大和民族とは、日本列島に住んできた人類で構成される民族で、そこでは縄文時代から日本列島に住んできた人々(いわゆる縄文人)と、縄文末期からユーラシ大陸から渡来した人々(いわゆる弥生人)が中心となって形成した。この過程は前回の大きな流れのなかでも触れています。

ヤマト王権が、日本列島各地に散在していた様々な人的集団を勢力下に置き、同化したことにより大和民族が成立していったと考えられている(しかし大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない。

そして民族の特性として、大和民族は農耕民族、あるいは島国に居住することから海洋民族と分類される場合もある。 また江上波夫が騎馬民族征服王朝説を唱えたが学術的には否定されている。

このような中で、日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立したのが神道のはじめである。
・・・・・

この文章の出発点となった時代背景ですが、先に挙げた古代年表に準じてもう少し詳しく検証してみましょう。

メンテ
Re: 神社信仰 ( No.21 )
日時: 2014/01/13 15:19
名前: 山之辺のボンクラ ID:WIlpkg9M

北斗のモシリ殿、
察する所、貴方は北海道の方ではないかと推察いたしますが、昔々は日本列島の殆ど、少し後になって関東平野以北から北海道に掛けて暮らしていた“先住の人”自身か、単にハンドルネームを“アイヌ”即ち“人”の「穏やかに暮らす大地」=モシリ、を用いたのかは分かりませんが、小生の投稿に柔軟に対応なさる所は、弾力性を失わぬ脳細胞の持ち主と推察申します。

まぁ、この日本の古代の歴史など、諸説紛々、断定的な事は言えぬのが普通。曖昧模糊とした物であるゆえ面白いとも言えます。

天橋立の愚痴人間氏の、カミツキに鼻白んで、敢えて即刻の書き込みを差し控えておりました。又最初に書きました様に、読ませて貰う事にして居りましたゆえ、これからもロムだけに致します。

色々面白い事をお書きになれば、折に触れて詠ませて貰います。
メンテ
Re: 神社信仰 ( No.22 )
日時: 2014/03/24 23:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:iZtC3JAI

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メンテ
日本の神の概念 ( No.23 )
日時: 2014/05/01 18:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Ri1uOz1w

神社の神様と言えば、
大圀主命(おおくにぬしのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)などの伝説の人物の名前であったり
隼総別命(はやぶさわけのみこと)
誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと=応神天皇)など天皇、皇族など有力者の名が出てきます。

その他、神道においては恨みを残して亡くなった人物を『神』として祀り、祟りを避けようとした例も数多くあります。中でも菅原道真を祀る天満宮は亡くなった人間を神として扱う顕著な例です。 また、一人ひとりはそれほど有力な人物でなくとも、数多くの人々が亡くなった場合にも神として祀られ、これは靖国神社等が例として挙げられます。

このように神道の神々は、いろいろな種類があり、発展の段階もさまざまなものが並んで存在している。神には大別して以下のような側面がある。

1. 自然物や自然現象を神格化した神
2. 思考・災いといった抽象的なものを神格化した観念神
3. 古代の指導者・有力者などを神格化したと思われる神(エウヘメリズム)、氏の集団や村里の守り神とされるようになる神々
4. 万物の創造主としての神(ここにおいてはthe Godである)
5. 万物の創造主・主宰者としての全能の天皇

近代になるほど神の人格化が試みられ、神道と権力を結び付けて考えるようになります。西欧キリスト教さ社会における王権神授説の同じような発展をしています。
我が国でも明治天皇を現人神とした時代もありました。
ところで、我が国の神社信仰における神の概念は、そういう歴史的展開にも関わらず、自然物や自然現象を神格化した神の概念が強く残っています。

八百万の神(やおよろずのかみ)と言うのは、自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(厠神 かわやがみ)、台所の神様など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから八百万の神と言われるようになったと考えられる。八百万とは無限に近い神がいることを表しており、数ある多神教の中でも、数が多い考え方であると言える。 またこういった性格から、特定能力が著しく秀でた、もしくは特定分野で認められた人物への敬称として「神」が使われることがある。

日本において外来宗教の影響を受ける以前に存在していた宗教をいう。純神道、原始(古)神道、神祇信仰ともいう。
古神道は「原始宗教の一つである」ともされ、世界各地で人が社会を持った太古の昔から自然発生的に生まれたものと、その様相はおしなべて同様である。その要素は、自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム)、またはその延長線上にある先祖崇拝としての命・御魂・霊・神などの不可知な物質ではない生命の本質としてのマナの概念や、常世(とこよ・神や悪いものが住む)と現世(うつしよ・人の国や現実世界)からなる世界観と、禁足地や神域の存在と、それぞれを隔てる端境とその往来を妨げる結界や、祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念とその結果による政(まつりごと)の指針、国の創世と人の創世の神話の発生があげられる。

上記のややこしい説明は別としまして、要するに神道の神様の始原的な概念は、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)と言う2つの側面を持って捉えられていると言うことです。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっています。
ここで説明したいのは、歴史的な変遷を重ねた神道(神社信仰)ですが、その始原的精神は今なを、いろいろな形で生きついていると言うことです。

荒魂・和魂の概念は、我が国の伝説の中にも現れています。
各地にある竜神伝説は、恐ろしい竜ではあるが、大切に崇めると雨を降らせてくれる人々の守り竜でもある。河童伝説もキツネ伝説も大概は、その動物の二面性を説いています。
菅原道真の様に恨みを残して死んでいった人を祀る気持ちも同じように禍を転じて福としたい気持ちの現れです。西欧にも竜神伝説はありますが、西欧のそれは、飽くまでも人間に禍する竜としてのみ描かれています。
日本の神道と言うよりも神社信仰のこの概念こそ日本的であり大切な想いであると思います。

メンテ
Re: 神社信仰 ( No.24 )
日時: 2016/12/04 22:10
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8.cwWs.Q

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取越九郎さんの宗教論の端緒にしていただくために。

取越九郎さん、同じようなスレッドでも、ドンドン立てて下さい。
糾弾掲示板では、1000のスレッドは生きていますが、1000を超えると過去ログへ移り閲覧だけはできるようになります。
現在は過去ログに500以上のスレッドが入っています。

このシステムになる前の旧掲示板時代にも2000近いスレッドが立てられていました。
それは現在ではアクセス出来なくなっています。
またこのサイトの特徴は、いつでも古いスレッドを閲覧、UPできることにあります。
ですので古いスレッドへのアクセスも随分と増えているものがあります。
当初は少ないアクセスでも何年も経てば誰かが見ていることに成ります。

追伸です

本当は、レスがあまり長く続くのは読者から見れば問題がありますね。
メンテ
Re: 神社信仰 ( No.25 )
日時: 2016/12/26 00:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:S8Zvs7uo

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メンテ

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