Re: 日本人は昔から今に至るまで、空気や水と同じように国が存在してると思い違いしてる。ハワイ人や沖縄人と違う。 ( No.3 ) |
- 日時: 2015/01/07 01:02
- 名前: 青トマト ID:4xl7w34Q
- 済みません。まだ続きます。
ハワイと言う国はもうありません。
琉球王国もありません。
英国は動乱を続けて、スコットランドが独立を志向し、アイルランドとの闘争を続けて来ています。
ですから、これらの地域は、島であっても、
国の存在は危ういものであり、相対的なものであり、国は無くなるものであることを知っているのです。
ところが、日本人は、ハワイや沖縄よりも、幸せ一杯のめでたい蓬来国であって、
日本と言う国は、いつまでもあるものと思ってる。
終わり無き世のめでたさを…松竹立てて…祝う…日本こそ…麻痺の国。
ですから、軍事占領されていることを知らず、それを拒否する機会もあったことも気がつかず、
独立してると勘違いしている。
余りに恵まれ過ぎているので、幸福も不幸も分からないのだろう。
これは、相手が倒れてくれなければダメだわ。
まあ、待ちましょう。
愚公よりも気長に。チャイニーズよりも大陸的にと言えないから、太平洋的にと言っておこう。
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Re: 日本人は昔から今に至るまで、空気や水と同じように国が存在してると思い違いしてる。ハワイ人や沖縄人と違う。 ( No.4 ) |
- 日時: 2015/01/07 01:07
- 名前: 青トマト ID:4xl7w34Q
- ですから、日本国民が相手の占領を容易にしているだけなんですよ。
本当のところはね。
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Re: 日本人は昔から今に至るまで、空気や水と同じように国が存在してると思い違いしてる。ハワイ人や沖縄人と違う。 ( No.5 ) |
- 日時: 2015/01/07 09:22
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:tiq6UQDU
- 島国であっても、大概は存立の危機を経験しているものですが、確かに日本は平安を守ってこれていますね。
そこで培われた「和」と言う概念も関係しているのではないでしょうか。
要するに「覇気」と言うものが乏しい民族ですね。
自己宣伝になりますが、
私は日本民族に「覇気」が感じられたのは、大和朝廷成立の過程と鎌倉時代にあると思っています。
「大和たましい<日本人の心のルーツを探る」スレッドへお越し下さい。
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日本人がハワイアンを好むのは偶然ではなく本当に好きなんでしょう。沖縄民謡よりもより好むのでは? ( No.6 ) |
- 日時: 2015/01/08 02:07
- 名前: 青トマト ID:7qNsBoIw
- ハワイの人達が米国の州であることを受け入れている有り様が、日本の米軍基地受容と在日米軍の受容そして米国の日本支配の受容に似ていると思います。
最近になってハワイの人達が独立も語りだして来たようです。
琉球沖縄は、回りの国々を意識して、均等に交流する事を心掛けなければ存立できないという位置にあったわけです。
しかし、ハワイと日本はこれとは違うのですね。
日本が徳川幕府の時に長く鎖国が出来たのは、出来る地理的条件があったからで、琉球沖縄はそうは行かなかったのです。
こういったなかで、和なる心の在り方も生まれたのでしょう。
私は、どうもこの和なるものがよくわからないのです。
和なんて言いながらエゴイズム丸出しで生きていて、それでいて和なんて言ってるから、欺瞞的な嫌らしさを感じています。
そう言っても、私自身も和そのものの生き方をしているのだろうとは思っていますが。
和の反対は(大陸的)闘争かな?
ちなみに私はハワイアンは特に好きではありません。歌いたいとも踊りたいとも思わない。
性に合わないのです。かったるくて眠くなってきそうなのです。
ですから、どうも私は日本人の気性にも合わないようなのです。
それで、日本を観察的に眺めるのでしょうね。
サッサと決めてサッサとやればいいのにといつも思っています。
まあ、住みやすい地域なんでしょう。
日本でなければ生活できないということはないでしょうが、
日本人であるということは、このような気性とか環境とかいったことではなく、世界の他地域の人達との連帯に如何に貢献できるのか?ということに、その日本ならではの特長が何であるのか?といったことになるのではないかと思うのです。
そうであればこそ、私も日本人として存在できるのです。
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RE 和なんて言いながらエゴイズム丸出しで生きていて、それでいて和なんて言ってるから、欺瞞的な嫌らしさを感じています。 ( No.7 ) |
- 日時: 2015/01/08 10:41
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:OERzmUw6
- >和なんて言いながらエゴイズム丸出しで生きていて、それでいて和なんて言ってるから、欺瞞的な嫌らしさを感じています。
私も、京都北部の田舎町で自治会活動の真っ只中で住んでいます。
市と言っても、元々町村合併でできたものなので、私が住んでいる集落は人口2000人あまりの、村です。 全て悪いとは言いませんが、その村単位の結束力を誇示するためか、自治会活動が盛んです。
名目は地区の友愛、親睦、発展を謳っていますが、何かあると、地区民同士の足の引っ張り合い、陰口は言っても、本当の意味の助け合いなどありません。
それでも「和」なのでしょうね。
イスラムゲリラが暗躍するような世界よりも良いでしょう。
「和」と言う概念は、そんなに単純に捉えられないものだと思います。
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「和をもってと尊し(貴し)となす」とは聖徳太子の言葉とされていますが、異説もあるようで。 ( No.8 ) |
- 日時: 2015/01/09 00:40
- 名前: 青トマト ID:/Y6Takfg
- この言葉においての「和」とは、角を立てずに穏便に穏やかに、との意味ではなく、相手・他人の意見を互いに想い合って争わずに議論をして合意を得るように、との意味だそうですが…。
17条の憲法が美しい文面であるべき期待される心掛けが説かれているようです。
これは、近代の五ヵ条の御誓文によく似ていて、教育勅語にも似ていると思います。
文面の中身だけでなく、運命もにているのではないですか!!
これらの優れた文面に国の歩みは外れて、道を踏み外して行った訳ですが、
確かに、五ヵ条の御誓文と教育勅語の文面は素晴らしく、後者は小学校教育において戦前の教育を受けた人々が広く接したものなので、今でも年配者の方々にはファンが多いのです。
それで、戦前回帰を目指したい人が多くいても不思議ではなく、アベのオミコシが彼らによって担われているという現実もあるでしょう。
取り合えず、次に続けます。
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和をもって尊しとは…。 ( No.9 ) |
- 日時: 2015/01/09 00:59
- 名前: 青トマト ID:/Y6Takfg
- 続きです。
十七条の憲法、近代の、五ヵ条の御誓文と 教育勅語
これらが、これらの理想を裏切られて、悲惨な運命を辿ったのには理由があって、
意地悪な見方をする私は(私自身は決して意地悪とは思っていませんが)、
共にこれらの時代は、これらの美しい文面を掲げなければ収まらないと、掲げた人達(者達?)が考えて、統治されるべき人達に向けて準備したのであろうと考えているのです。
純真な国民ほど、これらの文面を正直に捉えて、自分の倫理観に役立てています。
それはそれでいいのですよ。
しかし、そう書かなければ収まらないであろうところの国内事情の密かな混乱があったのです。
そう考えられます。
共に陰謀政治の時代でした。
実際には穏便に進む時代ではなかったのです。
天皇の権威をもってして、又、その権威を利用して、国を運営したかったのでしょうが、実際には、そうは行かなかった。
政治をなす者達の動機が低くて汚れていたからです。
それで、国民を蔑視し、尊く扱わなかった。
十七条の憲法が聖徳太子のものであるとの見方には根強い反対意見が昔からあり、厩戸皇子が太子とは別人との説があります。
太子についてふれたいので続けます。
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厩戸皇子の言葉になにが込められているのか。 ( No.10 ) |
- 日時: 2015/01/09 01:22
- 名前: 青トマト ID:/Y6Takfg
- この言葉の意味ですが、
よく説明されてはいないようです。
私見では、
太子暗殺疑惑に絡んだ言葉でしょう。
太子暗殺については根強く語られています。
梅原猛氏の名著「隠された十字架」では、法隆寺の夢殿の本尊が太子像であるとされています。
植草一秀氏は高校生の時にこれを読んで衝撃を受けたとの事ですが、
厩戸皇子とは、キリストの犠牲を表しており、
彼は犠牲として捧げられたのだ、として、暗殺を匂わせて知らせている言葉なのでしょう。
実際にキリストが殺害されたとは考えにくく、クルアーン(コーラン)では、キリストの死を否定しています。
しかし、キリストが切羽詰まった圧迫にあったのは事実で、やがて殺害されるであろうと予測されたので、彼が死んでは、その後のユダヤとローマの混乱に投げ込まれるユダヤ人やローマの支配地域住民の混乱を収めるために、復活の教義を準備したのでしょう。
それにはキリスト自身を生け贄に捧げるとの独特の教義が準備された。
太子の時代には、この教義の思想を持った渡来人達が多くいて、彼らは政争の内紛をよく知っていた。
それで、暗殺された太子を、キリストのようにされたと見なして、詰まりは、ユダヤ王国や支配者ローマのような権力者集団に殺された、犠牲者生け贄として表現して、
厩戸皇子と呼んだのでしょう。
ちなみに、最近の研究では、キリストは馬小屋なんかでは生まれておらず、母親の部屋で生まれたと見られているようです。
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聖徳太子 ( No.11 ) |
- 日時: 2017/09/22 16:26
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ljtXeShA
- 青トマトさんは、今はおられません。
代わって議論を進めます。 聖徳太子についてはウィキペディアでは次の様に紹介されています。
> 敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御(死去)した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。 戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。 <
「和を持って尊しとする」、17条の憲法などから思い浮かべる聖人の様なイメージとは遠い存在の様な気もします。 その聖徳太子には暗殺されたと言う陰謀説もあるようです。
言いたいのは青トマトさんも指摘しておられるように、日本も決して昔から、
>日本人は昔から今に至るまで、空気や水と同じように国が存在してると思い違いしてる。
このようなものではなかったはずであると言う事と言いたいのです。
同じ様に、民主主義と言う概念も、いまや、空気や水の様に思われていて、故に民主主義が危機である、言い換えれば民主主義の何たるかが軽んじられていると言えます。
人間は一つの欲望を手に入れると、それが当たり前になり、次の欲望へ向かう。 欲望には限度がない。 それが人間。 ついでに申し上げよう。 不孝、地獄も底がない。 俺は不孝だ、地獄だと叫んでいても、開き直っていても、さらなる地獄が待ち受けている事が解らない。 それも人間。
人間とは良くも悪くも厄介極まる種族である。 幸せ感に浮かれた人間に、国のかたちなど解らない。 空気や水の様に思ってはばからない。
空気や水は自然界の無機質。 国は人間社会の入れ物。 所詮は、空気や水と同じではない。
話は変わり、意味もないことですが、聖徳太子の生母「穴穂部間人皇女」は丹後半島出身と、当地丹後半島の人々が言って祀っている。 なぜならば「間人(たいざ)」と言う地名があるからだ。 間人を「たいざ」とはなかなか読めないだろう。 丹後半島は奈良時代より遡る、丹後王国があったと言う関係では、「穴穂部間人皇女」という名前は、この地名に因んだとも言える。 また丹後半島の「間人」が、穴穂部間人皇女の名を使ったまも知れない。 丹後地方が蘇我氏の支配下であった形跡は確認されていない。
さらにおまけ「17条の憲法」 17条の憲法は、官僚や貴族に対する道徳的な規範が示している。
> 一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。 三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。 四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。 五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略) 六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略) 七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略) 八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略) 九に曰く、信は是義の本なり。(略) 十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略) 十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略) 十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略) 十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略) 十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略) 十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略) 十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略) 十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)
(引用終わり)
憲法とは、古代も現代も官僚、政治家の指針。 国民が守るものではなく、守らせるもの。
それが安倍自民党には解らない!
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中国の領土(国家)意識 ( No.12 ) |
- 日時: 2020/08/05 14:31
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:2FVIXRss
- 中国の建国史
長江文明(ちょうこうぶんめい)とは中国長江流域で起こった複数の古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る。 黄河文明と言う場合は、紀元前 7000年ころからを指す。
中国の王朝として夏、殷などがあるが、それは紀元前2000年ころの話である。 古代の王朝として周があるが、その後、呉、越、晋、秦、楚、斉などに分裂し、紀元前220年に秦bによって再び統一王朝が出来る。
秦の時代から、北方の匈奴、西域、満州地方は、他民族の侵略を受け防衛を強いられている。 その後の王朝は、南はベトナム、ラオスへの侵攻、北は万里の長城を築き他民族と戦いを続けてきた。 満州方面は、契丹、女真族などと争いを続け、モンゴルには一時、征服される。 朝鮮とは、秦の時代から、領土争いを続け、結局は朝鮮を属国化している。
中国共産党になってからは、チベットを領有することでインドと対立し、ベトナム、ラオス、カンボジアを共産主義化した。 朝鮮戦争においては、北朝鮮を支援し連合軍と戦い、北朝鮮を共産化した。
最近、中国がロシアのウラジオストクを中国の領土であると主張している根拠は、紀元700〜900年にかけて朝鮮系の民族が渤海国を興し、渤海国を唐の藩属として定期的に方物を献上し朝貢をさせていたことから、渤海国の最大の領地であったころ、ウラジオストクが含まれていたことによる、言いがかりの様なものである。
この様に、中国は他民族からも侵略を受けてきたが、それ以上に好戦的であり領土拡張を企ててきた。 また、国家と言う認識が、日本などと全く異なる。 日本では昔から、国家の全容が見えていた。
中国などは、政権、そのものが完全な統治をしたこともなく、常に領土が変わっていたので、他国を侵略し続けることに違和感がない。 また、中国人は明確な国家の概念がないので、公に対する意識も希薄。 拠って、人間社会が築き上げたルールを軽んじる(特許権の無視、衛生・環境に対する責任感もない)。
周辺国にとっては、実に迷惑な話である。
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