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[2217] 多神教(インド)の世界 その1
日時: 2015/02/06 17:02
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IBHprFOI

ついでに、イスラム世界とアングロサクソン流(社会)とは、の姉妹編として多神教(インド)の世界にも触れておきます。


下記のサイトの助けをかりて古代インドへ向かいます。
http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/lecture/ancient_muslim_india.htm

インドはヨーロッパと同じくらいの面積があります。「ヨーロッパ人」が、たくさんの民族を含んでいるように、「インド人」も決して一つの民族ではありません。北インドに住むアーリヤ人は、ヨーロッパ系の民族で、南インドに住むドラヴィダ人とは、顔付きがまったく違います。19世紀にインドを植民地支配したイギリス人は、アーリヤ人の言葉とヨーロッパの言葉がよく似ていることから、ヨーロッパ人とアーリヤ人は同じ祖先を持つインド=ヨーロッパ語族だという仮説を立てました。そして、南ロシアからインドにやってきたアーリヤ人がインドに文明をもたらしたのだ、と考えました。

ですから、ハラッパーやモエンジョ=ダロでアーリヤ人の侵入以前のインダス文明の遺跡が見つかったとき、これがどの民族が残したものなのかが大問題になりました。ドラヴィダ人説が有力ですが、はっきりした証拠がありません。出土した印章(ハンコ)には文字が刻まれていますが、単語ばかりで文法がわからず、解読できないからです。最近発見されたドーラヴィーラ遺跡からは、都市の周囲を囲む巨大な貯水池と、インダス文字で書かれた都市の入り口の看板?が見つかっています。


インダス文明滅亡の原因はわかりません。おそらく、何か大きな気候変動によるもので、同じ原因でアーリヤ人の移動がはじまったと考えるべきしょう。カイバル峠からパンジャーブ地方(パキスタン北部)に入り、遊牧生活をしていたアーリヤ人の生活については、聖典『リグ=ヴェーダ』で知ることができます。ヴェーダとは神々への賛歌のことですね。彼らは自然を神々として崇拝し、ヴェーダを唱えて神々を祭る祭司階級をバラモン、この自然崇拝の多神教をバラモン教といいます。同じような多神教(オリンポス12神)を信仰したギリシア人が、専門の祭司階級を持たなかったのとは対照的です。インドの過酷な自然へのおそれが、自然をコントロールするバラモンの権威を高めたのでしょう。

バラモンの下には、貴族(クシャトリヤ)・平民(ヴァイシャ)・奴隷(シュードラ)がいました。先住民が奴隷とされたのはギリシア人と同じです。この四つの身分を種姓しゅせい(ヴァルナ)といい、のちに細分化されて、いまも残るインド独特の身分制度(ジャーティー、またはカースト制度)となりました。起源前1000年ころ、鉄器の伝来とともに、ガンジス川流域に入ったアーリヤ人は、森を切り開いて農業をはじめます。紀元前1000年っていうのは…

たとえばオリエントでは、ダヴィデ王・ソロモン王の時代、ギリシアではドーリア人が侵入した後の暗黒時代、中国では周が殷を滅ぼした頃のことです。超先進地帯のオリエントは別として、ギリシア・インド・中国の古代史は、ほぼ同時進行で展開していきます。まず、鉄器による開墾がすすみ、領土争いから都市国家の間の戦争となり、新しい思想が生まれてくるのです。中国の春秋戦国時代にあたるのが、インドの十六王国時代です。戦乱の日々が繰り返され、人々にとって恐ろしいのは自然ではなく人間となったのです。バラモンに代わってクシャトリヤ、ヴァイシャが台頭し、自然へのおそれに代わって、人間とは何か、人間としていかに生きるかが驍ラきしょう。カイバル峠からパンジャーブ地方(パキスタン北部)に入り、遊牧生活をしていたアーリヤ人の生活については、聖典『リグ=ヴェーダ』で知ることができます。ヴェーダとは神々への賛歌のことですね。彼らは自然を神々として崇拝し、ヴェーダを唱えて神々を祭る祭司階級をバラモン、この自然崇拝の多神教をバラモン教といいます。同じような多神教(オリンポス12神)を信仰したギリシア人が、専門の祭司階級を持たなかったのとは対照的です。インドの過酷な自然へのおそれが、自然をコントロールするバラモンの権威を高めたのでしょう。

バラモンの下には、貴族(クシャトリヤ)・平民(ヴァイシャ)・奴隷(シュードラ)がいました。先住民が奴隷とされたのはギリシア人と同じです。この四つの身分を種姓しゅせい(ヴァルナ)といい、のちに細分化されて、いまも残るインド独特の身分制度(ジャーティー、またはカースト制度)となりました。起源前1000年ころ、鉄器の伝来とともに、ガンジス川流域に入ったアーリヤ人は、森を切り開いて農業をはじめます。紀元前1000年っていうのは…

たとえばオリエントでは、ダヴィデ王・ソロモン王の時代、ギリシアではドーリア人が侵入した後の暗黒時代、中国では周が殷を滅ぼした頃のことです。超先進地帯のオリエントは別として、ギリシア・インド・中国の古代史は、ほぼ同時進行で展開していきます。まず、鉄器による開墾がすすみ、領土争いから都市国家の間の戦争となり、新しい思想が生まれてくるのです。中国の春秋戦国時代にあたるのが、インドの十六王国時代です。戦乱の日々が繰り返され、人々にとって恐ろしいのは自然ではなく人間となったのです。バラモンに代わってクシャトリヤ、ヴァイシャが台頭し、自然へのおそれに代わって、人間とは何か、人間としていかに生きるかが問われるようになりました。ちょうどギリシア哲学や中国の諸子百家が生まれた頃に、仏教などのインド哲学が生まれたのです。

仏教の源流となったのは、ウパニシャッド哲学です。バラモン教の聖典ヴェーダの理論書である『ウパニシャッド』はこう説きます。肉体は衰え、やがて土に戻るが、魂であるアートマン(我が)は不滅である。死とは魂が肉体を脱ぎ捨てることにすぎない。魂は再び肉体を得る。あなたは、生まれてくる前に別の人生を送っていたし、死んだ後にも別の人生がある。魂は、何百、何千と人生を繰り返し、そのたびに肉体という衣服を着たり脱いだりしているだけのことだ。永遠に生と死とを繰り返すことを輪廻転生りんねてんしょうといい、これでは魂の平安は得られない。輪廻の悪循環を断ち切って、宇宙の中心にある魂のふるさとであるブラフマン(梵ぼん)に回帰して、一切の苦しみから解放されること(解脱げだつ)を目指すべきである。ブラフマンとアートマンとは一体であること(梵我一如ぼんがいちじょ)を知れ、と。

インドの古代社会を訪れる前に、インドの宗教のことに触れておきましょう。

◎日本の仏教は、インドの仏教と、どうつながるんですか?

マウリヤ朝までの仏教を上座部じょうざぶ仏教と呼びます。ブッダのように家族を捨て、財産を捨て、名前を捨て、頭を丸めて寺に入り、ひたすら自己の解脱のために修行を続けるのです。このような修行者(出家者)は上座部と呼ばれて、社会生活を営む在家ざいけの信者とは区別され、尊敬されました。スリランカから、ビルマやタイに広まったのはこの上座部仏教です。タイの男性は今でも、一生に一度は頭を剃り、3か月くらい寺で修行する習慣があります。在家信者のまま救ってもらおうとする中国や日本の仏教(大乗仏教)とはまったく違います。

クシャーナ朝の時代、在家の信者も救済するという大乗だいじょう仏教が生まれます。万人救済の「大きな乗り物」という意味です。自分たちは日々の生活に追われ、家族を捨てることもできない。修行者にはなれないから、ブッダや、ブッダの弟子となった修行者たちを神(菩薩ぼさつ)として崇拝し、救済してもらおうというわけです。ナーガールジュナは『中論』を著し、大乗仏教を理論化しました。また、崇拝するには偶像が必要になるので、仏像(ブッダや菩薩の像)が作られるようになりました。クシャーナ朝の都プルシャプラがあるガンダーラ地方からは、おびただしい数の仏像が発掘されています。ガンダーラ美術と呼ばれるそれらの仏像は、同じ時代のローマ帝国でさかんに作られた神々の像とよく似ており、ともにヘレニズム文化の影響下にあったことがわかります。

この大乗仏教は,シルクロードを経て西域から中国へ伝わり、仏図澄ぶっとちょう・鳩摩羅什くまらじゅうが、五胡十六国時代の中国で布教します。ですから、中国・朝鮮・日本に伝わった仏教は、すべて大乗仏教です。なお、大乗仏教の側では上座部仏教のことを小乗仏教(小さな乗り物)と呼んでいます。ちょっとばかにした言い方ですね。使わないほうがいいでしょう。

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多神教(インド)の世界 その2 ( No.1 )
日時: 2015/02/06 17:05
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IBHprFOI

◎ヒンドゥー教って何ですか? 仏教とどう違うんですか?

仏教の考えでは、「この世」は幻のようなものです。死は避けられず、人間は滅びゆくものである。「この世」における財産や幸福に何の価値があろうか…。そんなものは捨て、「あの世」での解脱を求めるべきではないか、と。こういう悲観的な思想は、戦乱の世には流行します。しかし、社会が安定し、人々がそれぞれ人生の目標に向かってがんばれるような時代には、むしろ「この世」を積極的に肯定するような、楽観的な思想が求められます。「金儲けしたい」「いい学校に入りたい」「素敵な人と結婚したい」など、現世の欲望(現世利益げんせりやく)をかなえてくれる神さまを人々は求めるのです。学業成就や交通安全や縁結びのお札ふだを、あなたはどこでもらいますか? 仏教のお寺ですか? 神社ですよね?

そう、日本人は「あの世」のことは仏教に、「この世」のことは神社に、と使い分けていますね。日本の神社信仰(神道しんとう)は、このような現世利益の信仰で成り立っているのです。インドにも神社信仰にあたるものがあり、これをヒンドゥー教というのです。日本の神道、中国の道教と同じく、ヒンドゥー教は特定の開祖や教義をもちません。神さまは、古代バラモン教の神々とドラヴィダ人の神々をあわせて星の数ほどいますが、特にシヴァ神(破壊、嵐、舞踊の神)、ヴィシュヌ神(秩序、太陽の神)が人気者です。

ヒンドゥーの教えでは、欲望も権力も、現実に存在するものは肯定的に考えます。輪廻転生の思想もありますが、解脱を目指すより、よりよい来世(次の人生)を迎えることを願うのです。前世(前の人生)での自分の行い(業ごう、カルマ)が、現世の運命を定めたのであり、これを変えることはできない。だから、社会を変えるのではなく、与えられた運命を受け入れ、その中でベストをつくす。そうすれば来世でよりよい運命に転生できるであろう、と説くのです。実は、このような思想がインド独特の身分制度、カースト制度の容認につながったのです。

ヒンドゥーの聖典『マヌ法典』は、神々が人類の始祖マヌに与えた法という形で、身分ごとの職業・結婚・食事に関する細々した規定を定めています。この点で、現世否定の仏教やジャイナ教が、カースト制度をはっきり否定したのとは対照的ですね。

ヒンドゥー教が民衆の間に広まっていったグプタ朝の時代、仏教の僧侶たちは大学の中で、学問的研究に没頭し、民衆への布教を軽視しました。草の根の支持者を失った仏教は、国家の保護を失えば衰退する運命にありました。イラン系遊牧民エフタルの侵入によるグプタ朝の衰退、古代最後のヴァルダナ朝が短期間で崩壊したあと、インドはたくさんの地方政権に解体し、仏教を保護しようとする政府はなくなりました。こうして仏教寺院は荒れはてた遺跡となり、インドはヒンドゥー国家となっていったのです。

ついでに現在騒動が起きているチベット密教について触れましょう。
仏教の一派が、ヒンドゥー教の現世利益も取り入れて、勢力挽回をはかったのです。さまざまな祈祷(まじない)や秘密の儀式で現世の望みをかなえてくれます。唐代の中国で真言宗として確立し、空海(弘法大師)が日本に伝えました。○○大師というのは、真言宗(密教)の寺、という意味です。密教はチベット(吐蕃とばん)にも伝わり、チベットの民間宗教と融合して非常に発達しました。これがラマ教(チベット仏教)です。モンゴルのフビライ=ハンを夢中にさせたのがこれです。ラマ教の教主ダライ=ラマは、事実上チベットの支配者になります。


11世紀初めには、イスラム系のガズナ朝のマフムードによって、はじめてインドはイスラム系勢力の侵入を受けることになります。ここにインド地方におけるイスラムとヒンズーの宿命的な対立が始まります。

イスラム教とヒンズー教の違い。

イスラムの教えでは、全知全能の唯一神が宇宙を作り、人間を作った。この恐るべき神は、いつか最後の審判を下し、全人類を裁き、歴史を終わらせる。絶対的な神の前では人間は小さな小さな存在であり、人間同士が差別しあうのはばかげている。神の前では人間は平等である、と説きます。

ところが、ヒンドゥーの教えでは、神々は自然の中に無数に存在し、人間に恩恵を与える。神々の姿が多様であるように、人間の姿も多様であり、身分の違いがあるのは当然である。人間は、生と死を永遠に繰り返す。よりよき来世のため、神々に祈れ、と説きます。

この対立が、現代のインドとパキスタンの対立、核実験やミサイル開発という形でかなりヤバイところまでいっているという現実につながるわけで、「仕方ない」では済まされません。

水と油みたいな2つの宗教が、仲良くやっていくことはできないのか? 実は、仲良くやっていた時代もあったのです。ムガル帝国3代皇帝アクバルの時代です。彼は、2つの宗教が共存できる国を目指しました。ヒンドゥーに対する異教徒税(ジズヤ)を廃止、自分もラージプート族の娘と結婚し、新しい都アグラにはヒンドゥー様式の宮殿を建てます。ヒンドゥー、イスラムの学者に、キリスト教の宣教師も加えて討論させたり、すべての宗教を統一する“神聖宗教”をつくろうとまで考えました。

インドには平和が訪れました。税金は十分に集まり、国の財政をうるおしました。皇帝シャー=ジャハーンが、亡き王妃のために作った白大理石の巨大な墓、タージ=マハルは、ムガル帝国の豊かさと、文化融和の象徴なのです。本来、イスラムには人間のためにあのような巨大建造物を作るという発想はありません。形はイスラムのモスク風ですが、考え方はヒンドゥーです。このように、いままで考えられなかったような、文化の融合が起こりました。言葉では、ヒンディー語(北インドの言葉)の文法にアラビア語・ペルシア語の単語を取り入れ、アラビア文字で表記するウルドゥー語が生まれました。現在も、パキスタンや北インドで使用されています。宗教ではイスラム教とヒンドゥー教が融合してシク教が生まれました。

ヒンドゥー教のヴィシュヌ神は、太陽のようにすべてを包み込む優しい神さまです。同時に、さまざまな姿に化身(けしん)する神でもあります。『マハーバーラタ』の英雄クリシュナや、『ラーマーヤナ』のラーマ王子は、ヴィシュヌの化身なのです。

このヴィシュヌ神=ラーマ・クリシュナ神に帰依することで救いを得ようとする一派が生まれました。さまざまな神が、実は一人の神である、という考えは、限りなく一神教に近くなります。神への帰依(きえ、バクティ)という考えも、神への服従(イスラム)という考えとほとんど同じです。ムガル帝国の初期、イスラム教徒の織工として生まれ、ヒンドゥーのヴィシュヌ派の教育を受けたカビールは「ヒンドゥーもイスラムも、同じ!」と説きました。続いて下級カースト出身のナーナクは、ヴィシュヌもアッラーも同じ唯一神の二つの姿である、と考え、唯一神への帰依、偶像の否定、カーストの否定を説くシク教の教祖となりました。

しかし、「正統的な」イスラム教徒、ヒンドゥー教徒から見れば、このようなごちゃまぜ宗教は「異端」とされ、迫害されます。シャー=ジャハーンの子、アウラングゼーブは、正統イスラム教徒でした。ムガル帝国の不幸はここから始まります。彼は、異端の父を幽閉し、ジズヤ復活を宣言し、これに従わないヒンドゥー教徒を武力討伐しはじめます。デカン高原のヒンドゥー教徒はマラータ同盟を結成して激しく抵抗し、インドは再び戦乱の中に沈んでいきます。混乱のインドを、イギリス人が征服するのはたやすいことでした。

ところで、宗教融和の考えは20世紀によみがえります。イギリスからのインド独立と、ヒンドゥー・イスラムの融和を説いたガンディーは、熱心なヴィシュヌ派の信者でした。彼は『マハーバーラタ』を終生手放さず、クリシュナ神が説く宗教融和の考えを、実行しようとしたのです。そういう意味で、彼はアクバル皇帝の後継者でした。宗教対立が激化する中で、インド・パキスタンが分離独立し、これに反対して融和を解くガンディーは、その翌年、「正統」ヒンドゥー教徒の凶弾に倒れます。


引用終わり。

さて、しばらくは、インドの神話の世界です。

〜古代インド大叙事詩『ラーマーヤナ』より〜
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mizuta/mizutasekaisi/4rama.htm

ヒンドゥー教の聖典は?
 キリスト教は『聖書』、イスラム教は『コーラン』、ではヒンドゥー教の聖典は? 実はヒンドゥー教には聖典はありません。しかし、ヒンドゥー教徒には、聖典ともいえる心のよりどころになっている書物があります。それは、紀元前数世紀から語り継がれている『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』という二つの大叙事詩なのです。

 『ラーマーヤナ』は、インドや東南アジアのヒンドゥー教徒の世界では、祭りなどの時に芝居・舞踊劇・紙芝居などで上演され続けています。また『ラーマーヤナ』は、二千数百年間、親から子さらに孫へと語り継がれてきました。字が読める読めないということと関係なく、すべてのヒンドゥー教徒の心の中で、今も『ラーマーヤナ』は生きているのです。

作者ヴァールミーキはインドのホメロス
 『ラーマーヤナ』は24000シュローカの大叙事詩です。シュローカというのは、二行を一つの対にした詩の単位でのことです。『ラーマーヤナ』は48000行の長大な詩なのです。

 この叙事詩はヴァールミーキという詩人の作とされています。ヴァールミーキはガンジス川流域のコーサラ国(紀元前6世紀頃)の人であったといわれています。インドのホメロス(古代ギリシアの大詩人)ともいえる人です。

『ラーマーヤナ』の舞台
 現在、北インドで多数を占めるアーリア人がインドに侵入したのは紀元前1500年頃です。その頃、古代インダス文明は衰退期に入っていました。アーリア人は、インダス文明の残滓から諸要素を吸収しつつ、のちのヒンドゥー教につながる宗教観・宇宙観を生みだしていきました。

 アーリア人がインド北部を東進して肥沃なガンジス川流域に入ったのは、紀元前1000年頃です。やがて、ガンジス川流域に16の王国が生まれます。その中にコーサラ国(紀元前6世紀頃)という王国がありました。これから紹介する大叙事詩『ラーマーヤナ』はこのコーサラ国の王子ラーマとその妃シーターを中心に展開される愛と冒険の物語です。北はコーサラ国から南はマイソールさらにスリランカまで、インド全体がその舞台となります。

主人公ラーマ
 ラーマはコーサラ国の都アヨーディヤーで、ダシャラタ王とその一番目の妃との間に生まれました。ダシャラタ王には三人の妃があり、二人目の妃との間に生まれたバラタ王子、さらに三人目の妃との間に双子の王子がおりました。長男ラーマはこの異母兄弟三人とともに育ちました。

 実は、この四人兄弟はヴィシュヌ神の生まれ変わりでした。ヴィシュヌ神は万物に化身して世界を救う神です。ラーマたちは、この世の災厄のもとになっている魔王ラーヴァナを退治するために、人間の姿をしてこの世にあらわれたヴィシュヌ神の化身だったのです。

ラーマ王子の妃シーター
 同じ時代、ガンジス川流域にミティラーという国がありました。ある時、その国の王が鋤(すき)で土を掘り起こしていると、土の中から幼女が現れました。王はこの幼女にシーターと名づけ、王女として育てたのです。シーターとは田の畝(うね)という意味です。

 王は神の大きな強い弓を引くことのできる者にシーターを嫁がせることにしました。美しいシーターを求めて多くの男たちがやってきましたが、だれもこの弓を引けるものは現れませんでした。そこへ、ラーマがやってきました。ラーマはその弓をやすやすと持ち上げ、弦をつけようと曲げはじめたとき、たちまち百雷のごときとどろきとともに弓は真二つに折れたのです。こうして、土から生まれたシーターはヴィシュヌ神の化身ラーマと結婚することになりました。その後12年の間、二人は幸せな日々を都で過ごしました。

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多神教(インド)の世界 その3 ( No.2 )
日時: 2015/02/06 17:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IBHprFOI

少しだけストーリーを追ってみて、その世界の様子を見たいと思います。

ラーマ、森へ追放される

 コーサラ国のダシャラタ王が引退して、ラーマが王位を継ごうとした時のことです。異母弟バラタの母が悪い侍女にそそのかされて陰謀をはたらきます。その陰謀のために、気の進まない弟バラタが王位につき、ラーマは14年間、森に追放されることになってしまいました。

 ラーマは一人で森に行こうとします。しかし、シーターは「森にお連れくださいませ。さもなくば毒を仰ぐか火に入るかでございます」と嘆願します。妃シーターのことばを聞いたラーマは、シーターを連れていく決心をしました。さらにラーマを慕っていた弟ラクシュマナ(双子の一人)も一緒に行くことを願います。ラーマはシーター、ラクシュマナとともに森の中へと入っていきます。森の生活は厳しいながらも、三人は力を合わせて生きていきます。

魔王ラーヴァナ

 ラーマは、魔王ラーヴァナを退治するためにこの世に現れたヴィシュヌ神の化身でした。魔王ラーヴァナは、ランカー島(今のスリランカ)にいました。魔王にはシュールパナカーという妹がいます。ある時、その妹がラーマたちのいる森に遊びに来ました。魔王の妹はラーマに恋をします。そして、ラーマを誘惑しようとするのですが、ふられてしまいます。魔王の妹は、開き直ってラーマの妃シーターに襲いかかるのですが、逆にラーマ兄弟に耳と鼻を切り落とされてしまうのです。この話を聞いた魔王ラーヴァナは、シーターを奪い取ることを決心します。魔王ラーヴァナは、魔法師を強引に説き伏せてシーター誘拐計画を実行するのです。

金色の鹿

 魔王に説き伏せられた魔法師は、金色の鹿に化けてシーターの前にあらわれます。シーターはこの金色の鹿に魅了されてしまいます。そして、ラーマにその鹿を捕らえて欲しいと強くねだるのです。ラーマはシーターのために逃げ去る金色の鹿を追いかけていきます。遠くまで追いかけた末、ついにラーマは金色の鹿を射止めました。すると、鹿は魔法師の本性を現しました。そして、ラーマの声を真似て「ああシーター!ああラクシュマナー!」と叫びながら死んでいきました。

 遠くから聞こえるその声を聞いたシーターは、弟ラクシュマナにラーマを助けに行って欲しいと懇願します。弟ラクシュマナは、シーターを守っておくようにというラーマの命令との間で激しく葛藤します。しかし、「ラーマをうしなうならば、私は火にも入り…、いかにしても命を絶つ。他の男に身をまかせることなどあろうか」というシーターことばにおされて、弟ラクシュマナはシーターをおいてラーマの方へ向かうのでした。
 魔王ラーヴァナは、計画通り、一人になったシーターを捕らえてランカー島に連れ去ってしまうのです。

猿の王スグリーヴァ

 ラーマ兄弟は、必死になってシーターを探します。その捜索中に、キシュキンダー(南インドのマイソール)の森で、シーター誘拐を目撃していた猿の王スグリーヴァとその重臣たちにであいます。猿たちは、シーターが残していった装身具と肩掛けを保管していました。
 この猿の王スグリーヴァは、猿の国の王位を兄に奪われていました。兄が戦いで死んだと誤解して王位についていたスグリーヴァのもとに、生きていた兄が遠征から帰ってきたのです。兄は弟から王位を取り返すだけでなく、弟の妻ターラーまで奪い取ったのでした。
 その話を聞いたラーマは、妃シーターを失っている自らの身の上から、強く猿の王スグリーヴァに同情します。そして、王位奪還の戦いを助ける約束をします。一方、スグリーヴァは、兄を倒して王位に復したのち、猿王国の軍団でシーターを探し出す約束をするのです。

猿の王位争い

 スグリーヴァは兄に戦いを挑みました。激しい一騎打ちの末、スグリーヴァが倒されかけた時、ラーマは影から弓を放って兄を倒します。スグリーヴァはラーマの助けにより勝ちました。敗れて死に瀕した兄は、ラーマの攻撃を「ルール違反の罪深い攻撃」であったと非難します。ラーマは、弟の妻ターラーを掠奪した兄の罪に対する処罰を与えたのだと言ってこれに答えました。

 兄は亡くなります。兄の妃になっていたターラーは、同じ弓で自分も殺して欲しいとラーマに懇願します。しかし、ラーマはターラーを殺しませんでした。そして、倒された兄は、一人で火葬されたのです。


快楽に耽る猿たち

 兄を倒したスグリーヴァは猿の王に復帰します。戴冠式が行われました。その後、宴会が延々と続き、王スグリーヴァ、再び妃となったターラーをはじめ、猿たちは快楽に耽る日々を過ごしてしまうのです。王スグリーヴァは、シーター捜索の約束をなかなか実行しません。

 その猿たちの都へ、ラーマの弟ラクシュマナがやってきます。ラクシュマナは快楽に耽る猿たちの様子を見て怒りに燃え上がるのです。怒るラクシュマナに対し、猿王の妃ターラーは答えます。「私はラーマがなにゆえに立腹しておられるのかということも、遅延の原因も知っております。私はまた、現在いかなることがなされるべきかも知っております。私は、肉の欲望の力にさえ無知ではありません。

…王は、色情におぼれながらつねに私のかたわらで過ごし、恥を知る心も忘れてしまいました。…しかし、王はすでに兵を召集するよう命をくだしております。…」さらに続くおだやかなターラーの思慮深いことばによって、ラーマの弟ラクシュマナは心をなごませるのでした。ターラーは、友情を大切にしなければならないことを忘れていませんでした。ターラーは、酒と快楽の中にありながらも自己を見失っていなかったのです。兄王の葬儀の時に、殉死するというターラーをラーマが殺さなかったからこそ、このようなターラーがあったのだと思います。

 そして、剛勇な猿たちが集結するのでした。

猿王の重臣ハヌマーンの大活躍

 猿王の重臣ハヌマーンはシーター捜索のため、集結した猿の軍勢をひきつれてランカー島に向かいました。そしてついにシーターを見つけだしました。シーターは魔王ラーヴァナのいうことをすべて拒否して、監禁されていたのです。

 ハヌマーンたちは満身創痍になって戦います。が、ハヌマーンは捕らえられてしまい、しっぽに油を注がれて火をつけられてしまいます。しかし、シーターの祈りが火の神アグニに通じます。ハヌマーンは火の熱さを感じませんでした。逆にその火でランカー島に火を放ち、島は火の海となるのです。ハヌマーンはシーターの所在を知らせにラーマの元へと帰るのです。
 知らせを聞いたラーマはランカー島へ行き、魔王ラーヴァナを壮絶な戦いの末に倒しました。

ラーマの疑いと怒り

 そして、ラーマはついにシーターと再会します。しかし、彼は
「余が戦争を完遂したのは、おんみのためではなかった。…いま余は、夷狄の家に長く滞留したことについて、おんみの徳性を疑うものである。余の前に立つおんみを、余は見るに耐えないのである。…いずこへと好むところへおもむくがよいであろう。」
とシーターの純潔を疑うとともに、シーターに怒りをぶつけるのです。
炎の中のシーター

 ラーマに疑われたシーターは、

「誓って申しますが、私は潔白であります。…ラーヴァナは私の意識がないとき、私の肢体に触れたかもしれませんが、それは私の罪でしょうか。…葬送の火を私のためにおつくり下さい。…この非難を受けては、生きる心はありません。…私は身を焔に投じます。」
と言います。ラーマの弟ラクシュマナは葬送の火を準備しました。シーターはラーマのまわりを一度あるき、火に近づき、火神アグニに呼びかけました。

「もし私のラーマへの愛がまったく純潔でありますならば、私をこの火焔より守らせたまえ」
 シーターは火を一巡し、その火に身を投じました。すると、その炎の中から火神アグニがシーターを膝に置いてあらわれました。シーターは真紅の衣裳をまとい黒髪をなびかせ、燦然とあらわれたのです。火はシーターを焼きませんでした。

 こうして、ラーマはシーターを再び迎えることになるのです。ラーマはシーターとともにコーサラ国の都アヨーディヤーに凱旋します。弟バラタは、父王ダシャラタの死後、ラーマのサンダルを玉座に置いて帰りを待っていました。ラーマは弟バラタの差し出すサンダルをはいて玉座にのぼりました。
 こうして壮大な『ラーマーヤナ』の物語は終わるのです。

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多神教(インド)の世界 その4 ( No.3 )
日時: 2015/02/06 17:11
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IBHprFOI

如何でしょう。日本の神話に登場する神々たちも、親族間の争いを経て、建国の神が現れています。

中国には、このような神話はありません。これから訪れるイスラムの世界の成り立ちも、そんなに人間的なものではありません。
ただインドと日本の違いは、倒した政敵の扱いです。
日本では、怨霊伝説となって倒された神々にも思いを馳せております。


話は少し飛びますが、インドには“サティ(寡婦殉死)”と言う風習があります。

 ヒンドゥー教の世界では、夫に先立たれた妻が、夫の火葬の火で殉死する風習がありました。これをサティといいます。この風習の背景には、『ラーマーヤナ』の物語があると考えられます。しかし、サティを行う人間の女性はシーターのように炎の中からは現れません。インドでは、多くの女性がサティの犠牲になってきたのです。サティは1829年に禁止されました。しかし、その後もサティは散発的に行われてきています。

ループ・カンワルさんのサティ

 1987年1月17日、インド北西部のラジャスタン州デオララ村で、18才の娘ループ・カンワルさんは24才の医者をめざしていたマン・シンさんと結婚しました。しかし、夫マン・シンさんはその年の秋に亡くなってしまいました。葬儀はその日に行われました。若妻カンワルさんは赤い結婚式の衣裳に身を包みました。

村人が見守る中、遺体を焼くために積み上げられた薪の上に座ったのです。喪主である夫の弟が火をつけました。1987年9月4日、カンワルさんはそのまま焼死しました。カンワルさんは炎の中で笑みを浮かべていたと村人はいいます。

 カンワルさんは神になりました。その後、神になったカンワルさんを崇(あが)める盛大な儀式が行われました。人口1万人に満たない村に30万人以上の人々が集まったといいます。

カンワルさんは微笑んだか?
 この話を知ったとき、私はカンワルさんの炎の中での微笑みが信じられませんでした。彼女の微笑みは村人たちの幻想だったのではないでしょうか。私は、カンワルさんがシーターのように熱さを感じなかったとは考えられないのです。カンワルさんは生身の人間です。サティは、「死」への恐怖とともに、身体的に大きな痛みを伴う残虐な儀式なのです。

 カンワルさんは死後、神になったかも知れません。しかし、炎に包まれていた時は、神ではなく生身の人間だったはずです。

神々の過ち

 『ラーマーヤナ』のシーターのお話はとても純粋で美しい物語です。ただし、シーターは土から生まれた神さまであったことを忘れてはなりません。その純粋さ・美しさは神ゆえのものなのです。生身の人間に神さまの純粋さを求めてはいけないと思います。

 『ラーマーヤナ』をよく読んでみると、神々でさえいろいろな過ちを犯しています。シーターは金色の鹿に目を奪われてしまってラーマにしつこくねだりました。ラーマは猿の王位争いで、弓を影から放っています。ラーマがシーターを疑ったのも大きな過ちでした。人間の姿をしているというだけで、神々もいろいろな過ちを犯してしまうのです。

猿たちの過ち
 『ラーマーヤナ』では、猿たちもいろいろな過ちを犯しています。王位争いは誤解から始まっています。弟スグリーヴァの戴冠後、猿たちは快楽に耽る日々を過ごしました。そして、ラーマとの約束をなかなか果たしませんでした。ターラーは、兄王の死後に自分も殺して欲しいと言ったすぐ後から、弟王と快楽に耽る生活を送っていました。

しかし、ターラーは自らの過酷な運命に負けませんでした。怒るラーマの弟を冷静になぐさめ、猿たちに約束を果たさせたのです。その時のターラーの様子は次のようでした。

「艶冶(えんや)なターラーは、酔顔のまま、よろめく足どりに帯をならしながら、豊満な胸の重みから体をいささか前に傾けて、ラクシュマナ(ラーマの弟)に進みよった。…ターラーは酔いのゆえに羞恥を忘れ、…媚(こび)をたたえながら大胆に話しかけた。」

過酷な運命に翻弄され、酒と快楽の中にありました。しかし、ターラーは自己を見失うことなく、冷静に思慮深いことばを語りだしたのです。ターラーは友情の大切さを忘れませんでした。

シーターからターラーへ

 「猿の世界」と「ラーマたち神々の化身」の世界とは大きな違いがあります。それは、ラーマたちが、猿の世界にはない「完璧な純粋性」を求めていたということです。そこに『ラーマーヤナ』の美しさがあります。その神々しい美しさは炎の中のシーターに結晶します。シーターのような神々しい美しさを求める心は大切かも知れません。

ただ、神の求める「完璧な純粋性」を生身の人間に求めてはいけないのではないでしょうか。『ラーマーヤナ』は、神々でさえ人間の姿をしている時は、過ちを犯すものだと教えているではありませんか。


ラーマヤーナの項、終わり


インドの伝説を一つ紹介します。
http://chaichai.campur.com/indozatugaku/ganesha.html

「ゾウの神様ガネーシャ伝説」

インドでもっとも人気のある神様ガネーシャ。その強烈なキャラクターは数ある神々のなかでも異彩を放っており、一度見た人は決して忘れることは出来ないだろう。



ガネーシャの特徴はその顔にある。写真を見ていただけば分かるように、見事なゾウ顔なのだ。ユーモラスな顔という人もあるが、目付きは結構怪しい。

それは例えるなら、マリファナのやりすぎみたいな恍惚の表情のようでもあるし、またじっさいのゾウにも似ていなくもない。見れば見るほど不思議な気分になる神様でもある。

ところで、ガネーシャの足元にはいつもネズミの姿がある。じつはこのネズミ、ガネーシャの乗り物である。じっさいに乗っている絵はまだ見たことがない。

また、ガネーシャの牙の片方は必ず折れていなければならない。伝説によると。…とある月夜の晩にふらふらとガネーシャが出歩いているとき、目の前を横切った蛇にネズミが驚き、主人のガネーシャを振り落としてしまった。牙はその衝撃でポキリと折れてしまった。ガネーシャは怒って、蛇を捕まえ、腰に巻きつけてしまったのだとか…。また、その場面を見ていた月が大笑いしたため、ガネーシャはまたもや癇癪をおこして折れた牙を投げつけてしまった。それで結局、折れた牙は今も行方不明のままだ。まったく神様らしくない話だが、ガネーシャ誕生譚はさらに奇想天外なものだ。


元祖ガネーシャ?

ことの始まりはシヴァ神(破壊の神)の妻パールヴァティーが自分の垢で人形を作ったことにあった。多分、これも気まぐれに違いないが、すっかり気に入った彼女はその人形に魂を吹き込み息子にしてしまった。そしてまず、この息子に自分が入浴中の門番の役割をいいつけた。

そんなこととは知らずにこの家に戻ってきたのが夫のシヴァだった。でも、シヴァとこの息子は初対面、お互い「入れろ入れない」の押し問答になってしまった。すっかり激昂したシヴァはこの息子を殺そうとしたがなかなか歯が立たない(史上最強の神様のはずなのに…?)。そこでビシュヌの助けも借り、ようやくこの息子の首を切り落とすことに成功した。

しかし、問題はパールヴァティーである。まさか自分の夫が息子を殺してしまうなどと想像もしていなかったから、この事態に激しく動揺し、嘆き悲しんだ。シヴァはもともと同情心の強い神様だから何とかしなければ、という訳で、とにかく家来の悪鬼たちに「すぐに何でもいいから首を用意してこい」と命令した。そこで悪鬼たちが慌てて出発し、ようやく見つけたのがゾウだった。ゾウは哀れにも首を切り落とされ、その首を死んだ息子の胴体につけて生き返らせた。こうして生まれたのがガネーシャである。

ガネーシャの一般的な説明を読むと、「富をもたらす現世利益のおだやかな神様」といった説明がよくあるが、そんなつまらない神様はインドには存在しない(存在できない)。ガネーシャもまた、かなり癖のある神様である。ずるがしこいし癇癪持ちだし何より嫉妬深い。信者たちは、その嫉妬を恐れて、寺院に行くとまずガネーシャの祠へ行ってお祈りをする。まあ、かなり我がままな神様だと思って間違いない。

ところで、毎年夏、8月から9月の10日間、ガネーシャの誕生を祝う祭りが西インドを中心に行われる。粘土で作られたガネーシャの巨大な像が街を練り歩き、最後は川や海に流される。とくに有名なのはムンバイとプネ、いつかは行きたい祭りの一つだ。

−−−−−−−−−−−−−
ガネーシャは日本にもやってきている。おそらく平安時代、空海あたりによって連れてこられ、長いあいだ門外不出であったのが、中世あたりに一般に出回った。いわゆる「聖天さん」がそうだ。正式名称は「大聖歓喜天」である。ゾウ頭の男女が抱き合うような怪しい格好をとる姿で知られている。あまりに怪しかったためか、お稲荷さんや弁天さんのようにはメジャーにはならなかったが、その分、謎めいている。


如何でしょうか。
日本の穏やかな話と違い、逞しい創造性が見られるでしょう。
これがインドの特徴で、全体の流れよりも個人の恣意が尊重されます。
メンテ
多神教(インド)の世界 その5 ( No.4 )
日時: 2015/02/06 17:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IBHprFOI

次は民話です。

「人の運命」

 ある国に貧乏な爺さんと、婆さんと、その息子がいた。三人はたいへん信心深くて、毎日神に祈りを捧げながら日を送っていた。けれどいっこうにその御利益もなくて、二晩に一晩は飯をぬいて寝る、というふうだった。それでも三人は神の祭礼だけは欠かした事がなかった。
 ある日、天で幸福の女神のラクシュミーが夫のナーラーヤナ神に言った。
「ねえ、あなた。あの三人は毎日わたしたちをこれほど熱心に拝んでいるのに、あんなに不幸だなんて」

「そんな事を言っても、彼らの運命は現世ではこういう事になっているのじゃ」
ナーラーヤナがこう答えるとラクシュミーは、
「いいえ、あなた。それは嘘ですよ。わたしは幸福の神ラクシュミーですよ。あなたは偉大なナーラーヤナ神じゃありませんか。ああしていつもわたしたちの事を拝んでいるのですから、ひとつ行って望みを叶えてやろうじゃありませんか」と言った。

 そこで二人の神は連れ立って下界へ下りていった。そして三人の住む家の庭に立ち、家の者を呼ぶと中から爺さんが出て来た。
「われわれは天から来たナーラーヤナとラクシュミーじゃ」
ナーラーヤナ神がこう言うと、爺さんはびっくりして、
「こんな貧乏人の家になんでまた来られましたか」と言って、いそいそと家の中から破れたカンタ(刺し子布)を出して来た。二神はそこに坐って言った。
「お前達はたいへん信仰があつい。そこで今日はお前達の望みを叶えに来たのじゃ。何なりと望みを申すがよい」

「それは本当ですか」
「本当じゃ。明日から毎朝ひとりずつ池に行って身を清め、そのあとで自分の望みを言うがよい。財宝でも何でもやろう。もし大国の王になりたいというなら王にもしてやるぞ」
こう言って、二人の神は天に帰っていった。

 これを聞いた爺さんと婆さんと息子は喜んだ。そしてそれぞれ自分の願いごとを考え、誰がはじめに望みを叶えてもらうかその順番を決めた。
まず婆さんが初めに望みを叶えてもらう事になった。婆さんは翌朝早く池へ行き、体や手足を洗って身を清めると、どんな望みを言おうかと考えた。
「わしはこんなに黒くて醜い。村の連中もわしを見てはバカにしおる。爺さんは財宝が欲しいと言っていたから、うん、そうじゃ。それならわしは...」と言って神にこう願った。
「神様、わしを美人にして下さいな。インドで一番美しい女に、いやそれより世界で一番美しい女にして下さいな」

 するとたちまち婆さんはこの世にまたとないほどの美女になった。
 そして池から上がり、さて家へ帰ろうかと思っているところへ、ある国の商人が通りかかった。そして美女になった婆さんを見た。
「わたしのような金持ちの家にもこんなに美しい女はいないのに、こんな辺ぴな田舎の池のほとりにこんな美女がいるとは...」

 商人はこうつぶやくと、美女になった婆さんを馬に乗せてさらっていってしまった。
 これを見た爺さんはたいへん悲しんだ。
「わしの婆さんがいなかったら、この所帯も意味がない。いくら財宝を得て王になったところで婆さんがいなくては何になろう。それならいっそのこと...」

爺さんは翌朝池に行き、身を清めてから神にこう祈った。
「神様、さらわれてしまったわしの婆さんをどうか豚にして下さい」
 商人は美女になった婆さんをさらっていって家の一室にかくまい、翌日結婚式をあげる事にしていた。ところが一日たってみると驚いた事に美女が豚になっている。
「これはどうした事だ!わたしは豚などさらってきた覚えはなかったが...」

 商人は豚をひっぱたいて追い出した。
 豚は家に帰って来たが、豚になってしまっては仕方がない。爺さんも豚をたたいてはあっちへ追ったりこっちへ追ったりしていた。これを見て息子は、
「ああ、母さんが豚になってしまっては、いくらおれが財を得たところで何になろう」と思って、

翌朝池に行くと神様にこう願った。
「神様、どうかおれの母さんを元通りの姿にして下さい」
 すると婆さんは黒くて醜い元の姿に戻った。これで三人の願いは聞き届けられた。
 天でナーラーヤナ神は言った。
「どうだね、ラクシュミー。わしが言った通り、彼らに運はなかったのじゃ」-おわり-



我々にも、そのまま当てはまるような話しです。
しかし、日本ではこの種の民話はありません。
倫理、道徳の間に埋没しているのでしょう。



今度は、現代にも生きている、ことわざの類です。


インドのことわざ 言い伝え
http://www.namasute-mumbai.com/kotowaza.html

日本語がご堪能なギータ・ナイアルさんにインドのことわざや
日常生活での言い伝えについてうかがいました。
ギータ先生は、印日協会で日本語講師を勤めるかたわら、
日系企業の通訳としてご活躍です。
英語、ヒンディー語、カルナータカ語など5つ以上の言語を習得されてます。
美術の造詣も深くムンバイのJJアートスクールで学ばれました。

 

皆さんこんにちは、今回のテーマをいただいた時に、最初に考えたのは、子供の時に聞いた物語です。その事からお話します。

 夜、泥棒が、街一番のお金持ちの家に忍び込み、荷物を持って逃げ出そうとした時、足の指の爪を剥がして家の中に落としてしまいました。泥棒は大急ぎで戻って爪を拾おうとしたが、爪はなかなか見つからず、仕方なく電気をつけたら見つかってしまいました。

この泥棒が、どうして爪などにこだわったかといえば、インドでは、古くから「爪を落としたところは滅びる」といわれていました。泥棒にしてみれば、大事な仕事場(お金持ちの家)がなくなっては困るので、爪を必死になって探していたという笑い話です。

インドの社会背景には、『小さなものでも大きなものへのつながりがある。』という考え方があります。カルマ(因縁)と言いますが、常に、自分の言った些細な言葉や考え方も、大きなものにつながっている、だから思慮の足りない言動を慎む様にという戒めが、この物語にはあります。もちろん先のとがった爪は危ないので切った後の始末の戒めでもあるわけですが。

Q.爪の話が出ましたが、日本では、夜のタブーがあります。例えば、夜に爪を切ってはいけない。

夜に、塩を買ってはいけない。夜に、新しいものを使い始めてはいけな
い。それと反対に、祝事は、朝の方が良いとされています。インドには、朝・夜の時間によるタブーがありますか。

インドでも時間に関するいろいろな観念があります。日没の時間は、1日の中で、とても大切な瞬間です。サンスクリットの考えから来ていますが、日没と日の出の時間は精神的にも大変敏感になる時間で、この時間には、お線香をたき空気を清めてお祈りをします。日が暮れて家に灯をともす時、私も今日1日の無事を感謝しながら敬虔な気持ちでお祈りをします。

この時間をサンジャ(サンスクリット)と言い、女性の名前にもよく使われています。日の出は、ウシャ(サンスクリット)といい、これもよく女性の名前として、使われています。ウシャには、ヒンディーの聖人にとっても大事な時間で、早朝4時頃からお祈りをします。太陽に水を奉げて祈る時間です。

インドでも夜、爪や髪の毛を切ってはいけないといわれています。夜、暗いところで刃物を使うと事故になることへの戒めでもあると思いますが…。また、夜は、塩、ヨーグルトは、貸してはいけないとされています。鍋などの調理器具の貸し借りもいけなくて、結婚式や、人寄せで、大なべを借りに来た時は、担保に小さな鍋を預かるというしきたりもあります。また、夜の戒めとして、新しいものをおろして使わない、お金を貸さない、新しいものを買わないという、戒めもあります。

 ボンベイのような都会では、このような時間の戒めを全部守っていくには、忙しすぎるし、合理的ではありません。インドでもゆったりとした時間があった時の戒めが多いのですが、私自身、若い頃はあまり気にしなかったことも、歳をとるにしたがって、何か、生活上に意味のある決まりなのではないかと思うようになりました。

夜遅くまで外出していて、日没をかなり過ぎてから電気をつけるような時もスイッチを入れながら、心の中で、お祈りしています。夕方の時間は、とても大切な時間と、意識しています。また、女性は、家の運を守る役割があるとも言われていて、灯をともし、スイッチを入れるのは、守り神の女性の仕事でもあります。

Q.日本では、「茶柱が立つ」(お茶の中に茶の芯が浮く事)と縁起が良いとか、「雨降って地かたまる」という、縁起の良い前触れについても良く言われます。良い事のまえぶれについてインドにも言い伝えがありますか。

 商店などでは、朝1番のお客さんを大切にします。何も買わずに帰られてしまうと、1日商売がうまくいかないという考えから、たとえどんなにお客に値切られても買ってもらいたがります。以前は、私の母が朝早くクレープ(布地)を買いに行き、その店では買わなかったけど、母が再び戻ってきたら店主が店の前で母を待っていたそうです。

母が店を出てから1時間あまりの間に大変な客入りで、大繁盛。母は、ただで、クレープを貰ったそうです。母が、商売繁盛をもたらしたと思ったそうです。一番最初のお客は大事にされます。

また、仕事場に入る時、そこの床に手をついてその手を自分の額に持っていき拝んだりします。今日1日仕事が上手くいきますようにという気持ちですね。舞台に上がる時もそうですね。

 インドでは、朝一番に目に、入ったもので、その日の運を占ったりします。それは、いつも嫌われていたり疎まれているもので、生肉、お酒、痛いもの(刺とか、出掛けにどこかをぶつけて、痛い思いをする)、ヒジュラ(インドのオカマの人たち)などです。こういうものに、朝一番に出会うと、今日は、これ以上嫌なことはない、転じて、良い事があるとなるわけです。

 ヒンディー教の新年(4月14,15日ごろ)には、朝、母に4時ごろに起こされます。この時目は目隠しされていて、祭壇の前に行くまで目を閉じていなければなりません。祭壇には、お盆に花、カジョル、鏡、ランプ、米、ビンディーの赤い粉、金貨など美しいものが入っています。新年に先ず目に入るものが美しいものであり、これを見ると1年間良い事があると思われています。またこの日は、子供たちは少しだけお金を貰います。お年玉と同じです。新年のお花には、ハルディーという金色の花が使われます。藤のような花で黄色です。

(この花は、日本名で金くさり、英名ゴールデン・シャワーというそうです。イギリスでもよく観られるそうです。4月頃、マニ・バワンの通りが見事だそうで、この通りは、ハルディー・レーンというそうです。)
カジョルとは、ギー(インドのバター)を煮詰めてその煤を銅版に受けて作った黒い粉です。子供が厄除けで目の下につけています。

Q.カジョル(子供が目の下につける黒い墨)について教えてください。

インドでは、あまりむやみに子供を誉めてはいけないと言われています。なぜなら、可愛い、綺麗といわれて、人の妬みを買うと子供に災いが起こるといわれているからです。だからよく子供が器量を誉められるとお母さんは急いで子供を家に連れて帰り、塩とチリをつかんで、子供の前で、ぐるぐる3、5、7回まわして、口の中で、小さな声で呪文を唱えてチリと塩を火に投げ捨てて清めたりします。

そのために、目の下にカジョル(黒墨)をつけて人の妬みをかわない様に厄除けにします。子供の食べっぷりを誉めてもいけません。赤ちゃんなどが、よく食べますねといわれると病気になるともいわれています。しかし、親ならばわがこを誉められて、悪い気はしないのでこの言い伝えについてはあまり神経質になることはありませんが。

メンテ
多神教(インド)の世界 その6 ( No.5 )
日時: 2015/02/06 17:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IBHprFOI

Q.方角についても日本では、南や東は、良い方角ですが、北や西は、あまり良くあり
ません。インドはどうですか。

インドでは死んだ人は、南向きに寝かせます。普通は、東を頭にして寝るのが良いとされていますが、北についてはあまりタブーはありません。西は、好ましくない方位です。

Q.左右の使い分けについても教えてください。

基本的には、上半身は、右手で、下半身は左手で。物を手渡す時は、必ず右手で。厳格な人は、顔は右手で、腰から下、足は左手で洗いますが、これはとても不便なので、気分的にそう守ろうと考えている程度で…しっかり分けては暮らせませんから。

Q.アジアの女性には、タブーはたくさんあると思うのですが、女性のタブーで今でも厳しく守られている事があれば教えてください。

一番強く言われているのは、妊娠中に月食を見てはいけない、月食中の外出です。これは、子供に障るといわれていて、どんなに、西洋的教育を受けて、進歩的なインドの女性も頑なに守っています。

Q.日本では、3や、8が昔から良い数字といわれています。また、贈り物をする時などは、4(し)は、死に通じるので、嫌われます。奇数は、これ以上半分にできないので、壊れないという意味から、祝事に使われます。数字についても教えてください。

奇数はよい数とされています。結婚のお祝い金は、10,001ルピーというように奇数を包みます。また、0(ゼロ)は、インドで発見された数字ですけど、何もない、空虚であるということから良い数字とされています。かたちも輪なので、完全無欠で良い数です。

おでこにつけるビンディーは○。実はここから来ています。
また、ビンディーは、第三の目、心の目でもあるわけですが。
4についてのインドでの考え方は、社会の規範は、4で表されます。方角、ヴェータ(ヒンドゥー教の聖典)は、4つあります。カーストも4つですね。

 話が横にそれますが、ヒンディー教のヴェータ(聖典)というのは、4つあって、これには、人間はなぜ生きるのか、生きる目的について書かれています。1はダルマ(人間らしさ)ダルマのために働く、人が人のために働く、人の役に立つということ。2つ目は、アッタ(物、お金)の為に働くということ。3つ目は、カーマ(愛)ですね。もちろん、子供や隣人への愛も含まれますよ。4つ目はモクシャ(悟り、自分の魂の開放)です。

5は5つの金属を合わせたものは、体に良いとされていて、5種類の金属をバングルなどにして身につけていますね。
7は、サンスクリットでも大事な数です。7つの世界、7つの大陸、7つの海、7つの惑星、インドの音階も7つですね(サ・レ・ガ・マ・パ・ダ・ニ・ラ)=(ド・レ・ミ…)。結婚式で、火の周りを回るのも7回ですし、大事な人が来た時にお清めで、お盆に載ったお供え(花、ランプ、カジョルなど8品目)を、ぐるぐる回すのも7回です。
8は、このお供えが8品目ですね。


まだまだ書いてありますが以下は省略します。




インド古代への旅は一段落させておいて現代インドの様子も見ておきましょう。

インドの社会と言えば、現在も残るカーストの制度とIT産業分野を発達させた高度な知識集団の存在を思い浮かべます。

歴史的に見ても、イスラム圏との宗教戦争や独立戦争はあったとしても覇権を争う大きな戦争は体験していない大国であります。

その他に、宗教的な考え方を大切にしている国民性などが感じられます。
そう言うものを、限られた情報ですが少し検証してみます。

インドのカースト制
http://www.indochannel.jp/society/class/01.html

日本では一般的に、インド独特の身分制度であるカースト制度とは、バラモン(僧侶)、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(隷属民)という四階層で構成される身分制度であると思われています。この区分はすでに紀元前数世紀頃、古代インドのバラモン教(ヒンドゥー教の母体となった民族宗教)の聖典『リグ・ヴェーダ』の中に見ることができます。この区分はインドでは「ヴァルナ」と呼ばれ、本来は肌の色に由来するものでした。当時インドに侵攻したアーリア人の肌が、土着のドラヴィダ民族に比べ白かったため、自らの肌色を頂点として作り上げた階級制度です。

日本語では四姓制度としても知られるヴァルナですが、実際にはこれらの制度に入ることのできないアウトカースト(不可触民・アチュート・ダリット)も存在するため、インドの社会は大きく五つに区分されるということもできます

このヴァルナに加え、職業別の階級制度(身分差別)であるジャーティという区分も存在します。サブ・カーストとも呼ばれるジャーティの種類は、一説には2,000とも3,000とも言われます。インド社会を現実的に構成するのは、数え切れないほど細分化された世襲制度ジャーティです。各ジャーティは伝統的な職能集団で、地域社会内ではジャーティ間での分業体制が成り立っています。これに加え、ジャーティの特徴として内婚制(同ジャーティ内での結婚)が挙げられます。この内婚制度は現在でも厳格に守られており、異カースト(異宗教)間の結婚は少数です。このように、インドのカースト制度とは、「ヴァルナ・ジャーティ」制度ということができます。

 この身分制度の根幹を成す考え方として、ヒンドゥー教独特の浄・不浄の概念があります。もっとも身分が高い階級は最高に清浄であり、身分が下がるに従ってケガレも増すという考えです。そして浄・不浄の概念は、これもヒンドゥー教の根幹を成す業・輪廻の概念と抜きがたく結びついています。つまり、現世の身分を決定するのは前世の行いであり、現在の自分に与えられた身分(職業)に没頭することで、来世のよりよい身分が約束されるというわけです。この考え方の枠組みによれば、下の階級が上層階級へ尽くすことこそが、自らを救済する道であるということになります。このことが、いわゆるカースト制度がなかなか消えない理由でしょう。

 独立後のインド憲法ではカースト差別を禁止しており、政府は最下層に置かれた不可触民や先住民の地位向上のため教育、公的雇用、選挙での留保制度といった保護政策をとっています。また近代化や都市化が進みつつあるため、新たな職業への進出等で地域の伝統的な分業関係が崩れ、カースト制度はゆるやかに解体の方向に進みつつあるといってもいいでしょう。しかし村落社会を中心に依然として根強い影響を持っています。   

インドの大家族制

インドでは、伝統的にジョイント・ファミリーと呼ばれる一族郎党が一ヶ所に集まって暮らす大家族システムが一般的でした。これは、大量の労働力を確保する必要がある農村地帯でとくに発達したスタイルです。現在都市部では核家族も増えてきてはいますが、依然としてジョイント・ファミリーは一般的なインド人の理想とする暮らし方であるということは間違いないでしょう。今でも農村部では、100人以上の家族を抱えるジョイント・ファミリーも存在します。 大家族制度の影響を示すひとつの例として、親族の名称の複雑さが挙げられます。インドでは、父方の祖父(ダーダー)、父方の祖母(ダーディー)、母方の祖父(ナーナー)、母方の祖母(ナーニー)それぞれに名称があります(カッコ内はヒンディ語での呼称)。このように、父母どちらの血統かで呼び名が異なっており、おじやおばに当たる呼称も10種類に分類されるそうです。



IT産業の発展と「〇」の概念を生み出した国。

インドではヒンドゥー教をベースに頭脳労働が尊いとされており、初等教育よりも高等教育に重点がおかれていることも特徴です。

インド工科大学(IIT、Indian Institute of Technology)やインド科学大学院大学(IISc、Indian Institute of Science)など、世界のトップクラスの大学や大学院があります。IITなどは、ここに落ちた学生で、米国のマサチューセッツ工科大学に入るとまで言われているほどです。
もともとインドの数学の発達は早く

特に、インドの数学は古代ギリシャの数学の影響を多大に受け、古代インドで発展した数学は8世紀ころにはイスラム世界に伝わりアラビア数学に影響を与えた歴史があります。
有名な「ゼロ」の概念も当時のインドで発見されています。

「ゼロ」の発見の意味

ゼロの数字「0」は、インドで生まれたといわれています。インドでは夜空に輝く星は、地球から眺めると点や小さな円に見えることから、それを「・」や「○」で表していました。これを無を意味する概念、「シーニャ」と呼びました。

ゼロという数字は、まず、「何もない」ということを示すためにある、といえます。私たちは、モノの数を数えるときに数字という概念を使い始めましたが、何個あるかということの他に、「何もない」ということを表現しなければならなくなったのです。

私たちは普段、十進法の数字を使います。これは、数が十個目になったら、次のケタにあがるというものです。

 1 2 3 4 5 6 7 8 9

 その次は、十個のかたまりが1つという意味で、十の位が「1」になります。つまり、こうです。

 1

 わかりましたか?これが十を表したつもりです。一の位は何もないので、何もかかなかったのですが...この表現方法では、とても分かりにくいので、ゼロが必要になったのです。つまり「ケタ」を表す必要があったのです。当然、正しくはこうなります。

 10

 日本や中国では、漢数字で数を表すことができます。一、十、百、千、万、億...ですから、言葉にするときも、ゼロを意識せず言うことができます。

 「三百五」

 しかし、ときどき聞き間違えることがあるので、丁寧にいうときは、

 「三百とんで五」

 と言うこともあります。この「とんで」がゼロを意味しているのです。
 ゼロの存在に慣れてしまった今では、ありがたみが薄いかもしれませんが、ゼロの発見はとても偉大です。何もないことを最初に表現しようと考え付いたのは一体誰なのでしょうか?まさに暗号を解くような発想です。


インドではもともと、哲学と宗教の境目がなく、哲学者といわれる人が衆人の前で白熱した持論を戦わせる、それが時には数日に及ぶようなことがあったそうである。

見方を変えれば哲学が大衆の中に溶け込んでいると言えるでしょう。これはヒンズー教が一神教ではなく、また先に言いましたようにインドの宗教は日本で言う仏教よりも神道信仰に近いものであり、現世のあり方と結びついていることと無縁ではないと思います。

そう言う観念力が発達した社会がカースト制度を受け入れていることも、西欧の合理的精神から見れば不思議なことです。

メンテ
多神教(インド)の世界 その7 ( No.6 )
日時: 2015/02/06 17:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IBHprFOI

最後にリグ・ベーダの一章を紹介してインドへの旅を終えようと思います。
私の好きなこの詩は、現代インドの人々の底流に今も生きているのではないでしょうか。
不思議の国、インドであります。

「リグ・ベーダ」

そのとき、無もなく、有もなかった、
空界もなく、その上の天もなかった。
世界を庇護したのはだれか、それを包んだのはだれか。
あの底知れぬ深遠はどこにあったのか、あの海はどこに。

そのとき、死もなく、不死もなく、
夜と昼とがさだかでなかった。
かの唯一者は、息なく呼吸し、
そのほかには何ものも存在しなかった。

全世界は暗黒におおわれ、
光なく、夜の中に消える大洋であった。
そのとき、おおいの中に隠れていたもの、
かの(唯一者)が灼熱の力によって生まれた。

これから出て、はじめに現れたのが、
知の種子なる意欲であった。
有の根底を無のなかに見いだしたのは、
心の動きにしたがい、探し求めた聖賢たちであった。

彼らが測素を横にずっと張ったとき、
何がその下にあって、何がその上にあったのか。
種子をもつものが存在し、活動する力が存在した。
自存力が下に、あふれそうな力が上に。

だが、だれがうまく尋ね当てたのか。
創造がどこから生じたかを、だれか認めたものがいたのか。
神々も、この創造よりのちに生まれ出た。
では、創造がどこから生じたかを、だれが宣言するのか。

創造を生み出したもの、
彼はいと高き天の光でそれを総覧し、
彼はそれをつくりなし、あるいはつくりなさず。
彼はそれを知り、あるいはまたそれを知らないか。



多神教(インド)の世界への旅は、これで終わります。
キリスト教圏とイスラム教圏の神の解釈をめぐる対立は、多神教の価値観からは生まれない事が想像されると思います。
この意味での文明の衝突はないとしても、現在、世界を席巻しているアングロサクソン流文明の中での矛盾が自ら文明の衝突を巻き起こしているのでしょう。

それはアングロサクソン流というものが、もはやキリスト教でもイスラム教でも、もちろん仏教圏でも、対立を引き起こしていると言うことになるでしょうね。


メンテ
インド人の性格! ( No.7 )
日時: 2018/02/15 13:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8Hk78UA6

「インド人もびっくり」と言う言葉があります。
これはカレー会社が自社製品の宣伝の為に使った言葉です。

さて哲学的な分析は別として実際のインド人の性格と心理的特徴について、紹介していきます。


インド人は、せっかちなのに、のんびりしていて、時間にルーズであり、

無責任で、都合の悪いことは全て他人のせいにする性格を持っています。


※ もちろん、全てのインド人に当てはまるわけではありませんが。

また、非常に話好きで、いつもしゃべっていますが、人の話を聞くことは、あまりありません。

宗教が入り混じった国ですので、宗教的なことをえんえんと話し続ける人も多いです。

※ しかも、言っていることは、支離滅裂であることが多いですし、

ウソも非常に多いです。それに、とてもいい加減で、

何事にも雑ですし、ずうずうしくて、何かをやり遂げる根性がない人が多いです。

※ もちろん、そうじゃないインド人もたくさんいますので、あくまでも一般的なお話とお考えください。

そして、子供じみた性格の人が多く、自分さえ良ければいいという自己中心的な人が多いです。

また、都合の悪いことはヘラヘラと笑ってごまかし、

問題に真正面からぶつかっていく勇気がない人が多いです。

さらには、権威に弱く、権力を笠に着る人が多く、他人を踏み台にすることを厭わないし、自分のミスは棚に上げて、相手のミスを猛烈に攻撃することが多いです。

ちなみに、インドでは、太っていることを良しとする風潮もあるのですが、

それは、太っていることは裕福さと豊さの証と考えられているからです。

※ では、インド人には、どのように接すればいいのかと言いますと、

まず、相手の言ってることを全て理解しようとしないでください。言っていることは理不尽だし、支離滅裂ですし、ウソも多いからです。

また、強い態度で接するようにしましょう。そうすると、権威に弱いインド人は、おとなしく話を聞きます。

あまりにもひどい態度の場合は、説教してもいいです。

大事なポイントは、インド人に話す時は、いつも上から目線で話すことです。そうしないと、彼らは、あなたを下に見て、めちゃくちゃな要求をしてきます。

お人好しを見つけると、騙そうとしてきますから、注意が必要です。

イエスノーをはっきりさせて、インド人の不当な要求は、バッサリと切り捨てる必要があります。

なぜなら、彼らは、ダメでもともとと、いろんな過剰要求をしてくるからです。

※ で、ここが日本人と一番異なる点なのですが、

インド人は、礼儀や気遣いをするのは、格下である証拠と認識します。そして、譲ることは、弱さであり、降伏であると認識するのです。

※ ですから、日本人の謙譲の美徳などは、全く相手にされず、「こいつは格下だな」と判断して、
横柄な態度を取ってきます。

ちなみに、インド人は、見栄っ張りですので、大勢の前で恥をかくことを、心底恐れています。


(引用終わり)


インド哲学、宗教からは想像できない様子ですが、それは日本人の哲学、宗教観が、そうしているのでしょうね。
私たちの常識では、インド人は性悪で付き合いきれない様に感じますが、インド人にとっては、何が問題なのか解らないのでしょうね。

まさしく、民族性の違いですね。

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