Re: 資本主義と民主主義 ( No.219 ) |
- 日時: 2015/05/09 14:36
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AdjYH8/k
- 満天下さん、資本主義と民主主義についての考察の続きに、以下の文章を紹介します。
阿修羅掲示板でのやりとりですが(阿修羅にしては真面目なものですが、私は深くは関わっていません)。
(前略)
じゃあどうやって食べていくの?だけど、そもそも生産性が上がっている わけだから、必要なものを全員分揃えることは可能なわけだ。
だから、LKXRYf922Aさんも言うように、分配の仕組みを変えればいい。 従って貨幣の考え方を変える、というのは方向としては間違っていない。 意味としては同じだと思っている。
(中略)
生産性をあげて経済活動を必要最小限にする、余った時間を余暇に使う、 幸福になる、そこから新しい発想が生まれる、人類が生き残る確率があがる。 そういうストーリーじゃないかな。
(後略)
少し進んでいると思うと、このような将来像を描く人が多いのです。 まあ、簡単な気持ちで、ユートピアを想定しているものと思います。
(以下は私の返事です)
全体としては、理解願っているようだが、
>生産性をあげて経済活動を必要最小限にする、余った時間を余暇に使う、 幸福になる、そこから新しい発想が生まれる
ここからが、少し違います(前のコメントでは、そのことは言及しなかったが)。
それは「余暇」に対する考え方です。
現在は、経済の問題がほとんどであると言って良いでしょう。 あなたが言われるように満ち足りた社会になると、次に出てくるのは「余暇」の問題です。
有り余る余暇を、ほとんど人が創意工夫して過ごせば良いのですが、人間と言うものは厄介な代物。
贅沢に慣れれば、更なる欲求を募らせるもの。 そうして出て来るのは、性犯罪の増加、意味のない殺人などなど、善良な人間精神の崩壊が始まります。
最近の犯罪の中でも、既に、その兆候は見て取れるでしょう。 この事は、歴史家アーノルド・トインビーが、50年も前に予告しています。
「余暇の問題は、人類にとって、将来、一番深刻な問題となるであろう」
と。
であるので、人間は、どうしても生きるために働かねばならないと言う基本姿勢は崩してはならないのです。
そのことで人間は善良で有り続ける事が出来るのです。
これを前提として、経済のシステム、貨幣のシステムから、考えたいものですね。
※ 満点下さんも心配しておられる民衆の中の民主主義に対する思いが、冒頭のようなものに発展する可能性があり、それはますます人間社会を壊していきます。
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Re: 余暇と経済関係 ( No.220 ) |
- 日時: 2015/05/09 18:39
- 名前: 満天下有人 ID:AyJRluO.
- 産業革命と言う用語を創出したアーノルド・トインビー。そのトインビーが未来において必ず生じる余暇の問題を取り上げていたということは、氏は経済学者ですから、生産性の向上によって生じる余暇の事に論究したのでしょうかねぇ、氏の著書は読んだことが無いので、なんとも言えませんが、仮にそうだとしても、人間にとって余暇とは、その発生源にも大きく関係することで、故に、生産関係から発生する余暇であれ何であれ、そもそも余暇なるものに人間が向かい合う事は、経済に関係なく、大昔から人間の形而上的資質に関わる問題であり、何故そのことが近代になって大きな問題として浮上したのか、問題提起のプロセスが、今一よく分かりません。
例えば労働と余暇の関係から考察するにしても、働き過ぎで考える余裕も無いと思う人間と、そうではない人とでは、同じ余暇が生じても、それに対処する場も変わって来ることでしょう。
高齢化社会においても、同じことが言えると思います。もう働く必要が無くなった、否、働きたいにも社会がそれを不要としている以上、どうにもならない。いや人生タップリ稼がせて貰って、もう働く必要が無いとする人たちと前者では、余暇に対する取り組み姿勢も違うものになりそうです。
あるいは時間が余ってしょうがない、何故なら、リストラされてしまったからだ・・・このタイプの人の余った時間に対する処し方、これもまた自ずと違ったものになって来る。要するに、余暇の発生源によって、それへの対処の仕方は、それぞれ違って来るのではないかと思うのです。仕事を天職と思う人が仕事が無くなってしまうケースでも同じことが言える。でも、働くことは生命維持の手段であって、労働は一時的拘束にしか過ぎないと、最初から割り切っている人では、これまた余暇に対する姿勢が違ってくる。
要するに、人間にとって余暇とは時間の空間ですから、人それぞれの形而上の空間であり、そのことについては古代から人間は千差万別に対処して来たのであろうと思います。
トインビーも経済学者ではあっても、宗教の根源にもかなりの洞察を行っているようですが、むしろそれとの関係で人間性を考察している内に、余った時間について何か論及したのでしょうか。むしろ特権者があり余った時間を弄ぶようになることを懸念されていたのか・・・
現状、労働の場も無くて困り果てている状況の改善も出来ずに、先々の余裕時間の心配をしてもしょうがない気がしないでもありませんが、むしろ、有り余る余暇を生み出す前提となる生産経済の問題に目を向けよ、という趣意なら問題提起の意図が理解できます。それに対する処し方が甘いことも、現代民主主義の特徴でもありましょうか。
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アーノルド・J・トインビー ( No.221 ) |
- 日時: 2015/05/09 19:46
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BIVPaY1Y
- 満天下さん、私は知らなかったのですが、
アーノルド・トインビーと言う人物は、イギリスの経済学者、社会運動家にもいるようですね。
実は、私が言っています、トインビーは、彼の甥で、正式にはアーノルド・J・トインビーと言うそうです。 私が言うトインビーは20世紀最大の歴史家と称されています。
彼の主著は「歴史の研究」でありまして、その取り上げ方は、文明史的、文化人類学的なもので文明の興亡に焦点を当てて書いています。 私が読んだ、もうひとつの本は彼の「宗教論」です。
そこでは、キリスト教、イスラム教、仏教の3つを高等宗教として取り上げています。 理由は、ユダヤ教などのそれまでの宗教が民族単位など、少数の仲間を対称として考えられていたことに対して、これらの宗教は民族を超えた教義として流布することを主体としています。
歴史書と言っても、記述を中心とするものではなく、当時、大変興味深く読んでいました。 現在は、ボヤーとした断片の知識が残っているだけです。
現在は、随分と御無沙汰になっていますが、当時はキリスト教関係の本やら、西欧の没落など、歴史に関する本などを好んで読んでいましたが、もう、その様な情熱は湧いてきません。
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Re: アーノルド・J・トインビー ( No.222 ) |
- 日時: 2015/05/09 20:34
- 名前: 満天下有人 ID:AyJRluO.
- ああ、歴史学者の方のトインビーですか、イギリス外務省情報部SISの幹部でしたね。007シリーズの作者・イアン・フレミングは情報員時代、Jトインビーの指令を受けてスパイ活動に従事していた。このフレミングの007は、実際にスパイ活動をやっていた時の計画などを少しSF風に仕立てて面白いですね。
その叔父の経済学者トインビーの方は、オックスフオード大時代に、ミルナーという男に好かれて、このミルナーが南ア鉱山資源を奪う壮大な計画を立てて、オックスフオード大の秀才どもを集めて、アフリカ征服を実行した。このミルナースクールをもじって、アフリカはミルナー幼稚園に奪われたと歴史に記されているようです。
有名な劇作家、バーナードショウとアフリカ征服の議論などをしている内に、当時の英蔵相・ゴーシエンの個人秘書に抜擢されて、活躍する。そのゴーシエンから四代後に生まれたのが,故ダイアナ妃。 一族の資産は兆円単位のようです(笑)。まあ、この連中の関係からユダ菌どもが誕生して来たと見ています。
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トインビー ( No.223 ) |
- 日時: 2015/05/09 23:18
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BIVPaY1Y
- 満天下さんの意外な言葉に、改めて、トインビーを追ってみました。
すると、何と、
忘れられた歴史家とか、トインビーの著作が絶版になると言う情報を得ました。 なぜ、そうなったのでしょう。
私は「歴史の研究」や「宗教論」をほぼ読んでいて、その内容について関心していました。 他の歴史書と違い、史実を政治的、軍事的に追うのではなく、哲学、文明史、宗教的に追いかけ、個々の事実よりも、その流れの因果関係について語っていました。
文明の衰退と発展、試練と克服などと言う捉え方は、刺激的でした。
その様な取り上げ方は、ある程度、哲学、文化人類学、宗教に興味がないものにとっては、大言壮語、理想家と写ったのでしょうか。
また、トインビーが言っている文明の起源の話などは、プラトンの洞窟の比喩の様な趣があり、確かに歴史の記述としては、アマチュア的とか、妄想の類に傾注しすぎると言う批判があるようです。 ウパニシャッドの世界や、存在、有、無などと言う形而上学的な世界に親しんでいる人間でないと、マンガチックに見えるのでしょう(素直に読む事ができないのでしょう)。
一時はトインビーの言葉に期待をしてみたが、その不確実性故(その通りに推移しないから)に忘れ去られようとしていると言うことでした。
トインビーを乗り越えるのならば、申し分のない主張ですが、自分が感応できないからと言って、彼を避けるとは、なんという愚劣。
(以下は、その評論の一例です)
包括的な文明論というのは「大きな物語」としてそれなりに魅力のある分野ですが、昨今の流行ではないようです。 また、書店に書籍が並ぶというのはまさに人気であり流行を示すものであって、学問上の価値とはあまり関係ありません(万葉集を現代韓国語の知識で解読する・比較言語学の概念を用いずに日本語の起源を探る等)。
>主要なものを絶版にすることはまずないと思った
岩波の復刻版のフェアを見て「こんなのが版元品切れ重版未定(=絶版)になってたのか」と驚くという経験を何回(何十回?)も繰り返した自分から見ると、かなり現実離れした考え方です。
トインビーの評価としては、こちらが現代的なものとしてはほぼ満点でしょう。そのぐらいの存在意義の人です。 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0705.html
大雑把に言えば宗教の役割を過大評価しすぎであり、「面白いけど現実には合ってないよね」というのが正直なところでしょうか。 見るべきところがないわけではないですが、わざわざ今読むべきかというと、「まあ暇つぶしならいいんじゃね?」レベルだと思います。
>こちらが現代的なものとしてはほぼ満点でしょう。
と言うのが、松岡正剛と言う御仁の、トインビーの批判をしているようですが、その批判の内容は、同じ書物を読んだ私から見て、どうして、そうなるのかと、耳を疑いたくなるような内容です。 そう言う解釈をして耳目を集めたかっただけでしょう。
むしろ松岡某氏にカルトの匂いを嗅ぎます。
http://1000ya.isis.ne.jp/0705.html
要するに、現代人は、物事を深いところから考える事ができなくなったのでしょう。
では、歴史に何を求めるかと、と言うことは二の次、三の次なのでしょうね。 自分のレベルで、人の粗探しばかりしていて、大きなもの、真実なものを求めようとはしません。
>包括的な文明論というのは「大きな物語」としてそれなりに魅力のある分野ですが、昨今の流行ではないようです。
この言葉など、もう、ショックの極みです。 先に民主主義で言いました様に、もはや民衆にも政治にも、インテリにも期待できるものはありませんね。
トインビー流に言うならば、現代社会に置ける民主主義の概念の混沌は、西欧第三期文明に置ける人類生存への挑戦(攻撃)であり、人はこれをどうして乗り越えるかが、試されていると言うことになります。
その昔、文明への挑戦(攻撃)は、自然災害や多民族の侵略である場合がほとんどでした。中世ヨーロッパのキリスト教による世界支配も、その一つと考えられます。だからルネッサンスが起こり、新しい文明(西欧第三期文明)が始まったとも言えるでしょう。
※ この風潮に腹がたって、追伸です。
言う事がアマチュアっぽいなどと、なんという言い草、明き盲。 私などの文章も大概、アマチュアっほく、専門用語などは苦手です。
しかしながら、その情熱は激しく、真実に迫ろうとしています。 大きな変革を前提とすれば、専門知識など逆に障害になることもあります。 トインビーも生粋の学者ではなかったから、あの文章が書けたとも言えます。 アカデミックな歴史学者としては、トインビーが目障りであったのでしょう。
歴史家として希に見る情熱を注いで書いた、トインビーの著作を、アマチュアっぽいと避けるなど、なんという無知蒙昧、見当違い。 何の為に意見を言い、著作に打ち込んでいるのか。
要するに流行に乗って金が稼ぎたいのか。
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余暇の問題。21世紀ラッダイト運動は起こるのか ( No.224 ) |
- 日時: 2015/05/10 20:45
- 名前: 満天下有人 ID:oPloO2fo
- 未来の世紀文明に余暇問題が大きな重しとして登場して来るとの、J・トインビーの警告。
氏が論じた余暇の原語は、どのような英単語だったのか、それを知らないものだから、翻訳された余暇という言葉だけを聞くと、氏が言わんとした事が何だったのか、よく分からないもので、対論が途切れてしまいました。
氏が指摘したかった事を理解するには、原著をじっくり読まないと分からず、かなりの時間を要しそうです。ただ断片的に拾ったアンチョコの範囲では、文明が生成される本質論からの余暇問題なのか、単に経済生産的側面から生じる余暇の事なのか、両方の命題を含むとするなら、これは1カ月程度の原著の読書だけでも足りない、生涯をかけた、膨大なライフクワークに匹敵するテーマになります。
ただ日本語で表現される「余暇」という単語から受ける印象は、暇を持て余すという印象が先に来てしまって、故に犯罪とか、あるいは時間を持て余す富裕層のロクでもない発想しか産まない、そういう意味で警鐘を発していたのか、「余暇」と言うだけではそこら辺がよく分かりません。
産業革命時代では、機械生産が生産性を挙げて、労働者は仕事にあぶれる危機感から、機械打ち壊し運動=ラッダイト運動が勃発した。当時の労働者の危機感を想像して見るに、それは、仕事が無くなって持て余す時間への恐怖感というよりも、仕事そのものを奪われる恐怖感の方が強かったのではないかと想像します。所謂マルクスが指摘した、二重の労働の疎外感、というものではなかったか・・・仕事は大事だ、人間、仕事をすることで生きていることが出来る第一の要因は、生活のカテを得られること、同時に生きている喜びを感じる、そして暇を持て余す恐怖を抱え込むこともない。
余暇と言う一語でも、そのように、そのことが内包するフアクターは、多様に複雑に絡み合っているのではないかと思うのです。私が先に余暇とは、「形而上的」概念も含んでおり、その範疇でなら、それは個人の人生哲学の範囲の問題であり、別の、生産性向上による経済的側面から生じる余暇と捉えるならば、考えの方向性がまた違ったものになって来る。社会関係と無縁で生きることは出来ない社会生活的な意味での余暇と、そこに宗教的な思索をも含めると、何が危機なのかの意味合い合が大きく異なって来て、凡人には整理がつきません。
J・トインビーも、そのような発想で余暇発生の危機感を述べていたのか、とにかく原著を読んでいないので、トインビー批判への批判も、ままなりません。そして氏は、文明に危機をもたらす余暇は、止めようがない、故に生じてしまう余暇に対して対処すべきだ、と言われたのか、或いは、事前にそのような余暇の発生を食い止めよとしたのか、そこら辺のこともよく分かりません。
仮に経済的生産性の向上によって生じる余暇が問題であるとするなら、現代にあっての生産性の向上は、PCの発達と無関係ではない。そう考えると、仮に余暇の発生を事前に食い止めるべき、PC打ち壊し運動が起るのか・・・
とにかくJ・トインビーが出した余暇によって生じる文明の危機には、膨大な要因が含まれていると思います。まあ、書評家の連中が言う事、かれらは書評と言う商売をせねばなりませんから、その程度に受け止めておけば良いと思います。世に言う評論家として・・・。
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余暇文明 ( No.225 ) |
- 日時: 2015/05/11 09:27
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dyV9ED5.
- トインビーが取り上げている余暇の問題は、トインビーの何かの著作に書いているのではなく、そう言う言葉を発していると言う事をどこかでみたと思うのですが、なにせ、随分と以前のことなので解らなくなりました。
それ以来、有り余る余暇の問題は、人生において哲学的、宗教的にも大きなウエートを占めると思ってきました。
その延長で「余暇文明」と言う概念に注目していましたが、それをテーマとした著作は多くはありません。
ネットで「余暇文明」で検索しますと、少しは出てきますが、内容は、レジャーの過ごし方を書いているようなものが多く、トインビーが指摘した意味での「余暇」の問題ではないようです。
私は人間は不公平があるから、格差があるから、悩みがあるから平穏に生きられるものと思って思っています。
人の人生がガラス張りで評価されては、多くの人は劣等感に苛まれ、逃げ道がなくなってしまいます。
実際の人生では、自分は高等教育を受けていないのであいつよりも浮かばれないのだ、とか
あいつはコネがあるので出世できるのだとか、なんとか自分を慰めて生きているものです。
また、数々の悩み事も、働いている間は忘れています。
生活の為に働かねばならないと言うことは、それ以外の欲望を制御できます。
旅行などを楽しめるのは、苦しい職場生活の合間に旅行すればこそ、楽しいのであり、何年も旅行し続けるのは、もはやレジャーではありません。
人生は8分の苦の中に2分の楽があれば、良いのです。 それでこそ、互いに助け合うことの意味が分かり、共生社会のルールが成立出来るのです。
みんなが遊びほうけているような社会こそ、地獄の社会と思います。
トインビーが警鐘している「余暇」の問題は、このようなことでありますが、トインビーもこれについては本格的に取り上げていないかと思います。 当時は、イケイケドンドンの時代であり、グローバル化の問題も意識されていませんでした。
現在、いくら生活が苦しいからと言っても、いくら格差があるからと言っても
余暇を持て余す時代よりも幸せであると思います。
ですので、日頃、ほとんどの人に、なんとかして仕事を確保しなければならないと言っています。
紹介された様に、その昔、機械の打ち壊しをやった人たちの方が先見性があると思います。
現代人は豊かになりすぎて、神にもなったつもりで、思い上がっているのでしょう。
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社会制度による歪みも、形而上的に吸収しますか・・・ ( No.226 ) |
- 日時: 2015/05/12 07:25
- 名前: 満天下有人 ID:wQjynK3s
- <私は人間は不公平があるから、格差があるから、悩みがあるから平穏に生きられるものと思っています。>
まあ、結局のところ何事も、自己精神と向き合うことで己への鍛錬として世の矛盾も吸収して行かねばならないということのようですね。そのように収斂して行けば、糾弾する対象も無くなって、平和に過ごせる、そういうことのようです。
原著も読んでいないので何とも言えませんが、どうもJ・トインビーも、人間が産み出した物理的な社会制度による歪みとて、所詮は信仰的な世界において、個人の問題として形では捉えられない形而上の世界で、それぞれの人間が己と向きあって解決して行かねばならない、そういう事を言ってるようですね。氏の力点が古代から存在する人間の目に見えないものへと畏怖感、そういう事象について思いを深めよ、そのような深遠な哲理を基準に、むしろ人間が創りだしている人為的な歪み(社会的な不平等)などは、取るに足りないことに見えて来て、むしろ左様な矛盾があるからこそ、人は生きていける、そういう論理のようですねね。
何事も、文明草創期にあった天地と人の一体感からすれば、全てはそこに吸収される、つまり人為的な矛盾から生じる悩みなどというものは、取るに足りないことだ。そう思えば世俗的な、資本による飽くなき利潤追求オンリーの本質から受ける影響なども、単なる悩みに過ぎず、神仏的大きな抱擁に包まれることに思いが至らない民衆の浅はかさが、格差にうるさくなっているだけのことだ。そういう事のようですね。
仕事の有無とて、そのことによって精神的に平穏に過ごせるはずの事なのに、それを騒ぐ民衆の方が、未だに文明の何たるかに至っていないことの証ではないのか、確かにそう思えば、では人間、何に対して糾弾を続けるのか、神仏一体的な抱擁の中に入れば、不公平も格差も何も問題があるとは感じられない筈だ・・・J・トインビーは、多分、そういう事を言っていたのでしょうね。
ただ、よく分からないのは、仕事こそ、ロクでもない考えを起こさない場であるのに、その仕事を奪うようなオートメによる余暇の増大に、J・トインビーは何故警告を発したのか、そこがさっぱり分かりません。経済関係から生じる形而下的で人為的な事象に対してさえも、個々人ではどうすることも出来ない物理的人為的な事象までをも、形而上的な個々人の情念の世界で解決せよと言ってたのでしょうか。
21世紀における文明崩壊の危機は、むしろ形而下的、人為的な操作によって為される傾向が強くなっていると思えます。環境問題とて、資本の本能による論理で悪化し、人の生活を不安定にする雇用の問題にせよ、むしろ人為的な操作によって不安定化されている。その不安定さの中に平穏さが存在するのであって、それに気づかないことが文明の崩壊につながるとの論理になって来て、どうもよく分かりません。逆に現状のおかしな現象に不満を持つ、その事の方が、文明の崩壊につながるとの文脈になって来ます。
仕事にこそ生き甲斐がある、でも人為的にその仕事にもありつけない状況を作り出した結果としての不安が、平穏さにつながるとの論理がよく解りません。橋立さんがよく出されている格差のデータ。よく調べておられると何時も感心していたのですが、その格差データ提示の意図も、このような格差がある事に驚いてはいけない、惑わされてはいけない、その中にこそ平穏さが隠されているのだとの意図であったとは、とても思えないのですが。
つまり、個々人の宗教観、芸術観的な形而上的で抽象的な場で、社会制度的矛盾に対する人間の思いも消化すべきだとするなら、糾弾とは、何に対するものなのかが、分からなくなってしまいました。これは、原著も読んでいないけど、どうもJ・トインビーに対する私なりの疑問にもなって来ます、特に文明と宗教的考察をしておきながら一方で、資本主義をバネにする生産性の向上から生じる暇な時間に文明の危機を設定している文脈が、さっぱりわかりません。まあ、それに対する世間一般の消化不良的解釈に危機感を持たれることについては、よく理解出来ますが。
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Re: 続・当代世間騙し装置 ( No.227 ) |
- 日時: 2015/05/11 22:55
- 名前: 天橋立の愚痴人間 ID:/xWVgiN.
- 金銭の問題に関わらず、格差とか、悩みは、人間社会である限り、と言いますか、みんなが神にでもならない限りなくはなりません。
ですので、格差がない世界とか、悩みのない世界を究極の目標として社会のシステムを考えることはできません。
そう言う条件下で万民の幸せを追求するのが政治ではないでしょうか。 糾弾は、その政治に対してあると同時に、民衆の啓蒙もあって良いのではと思います。
トインビーの余暇については、先にも言いました様に、彼は著作のなかで体系的に取り上げたものではなく、予見みたいなものです。 予見ではありますが、マルクスが、ずっと将来までの、資本主義経済体制の瑕疵を透視したように、人類にとって「余暇」の問題は大きなものとなるでしょうね。
ただし、資本主義体制が行き詰まり、世界が壊滅状態になれば、その様な心配もしないで良いでしょう。 その程度の話と思います。
ですが、資本主義体制を大きく修正しようと思えば、その方向性として「余暇」、言い換えれば労働の有り様に関する考察を、もっと重要に思わねばならないのではないでしょうか。
追伸です。
トインビーについて、多くを知ってはいませんが、彼は、経済とか、格差の問題など、具体的な事象については語っていないように思います。
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論点の軸の食い違い ( No.228 ) |
- 日時: 2015/05/12 08:52
- 名前: 満天下有人 ID:wQjynK3s
私の資本主義論、民主主義論は、どちらかと言うと、人間が間違った方向で、言い換えると人為的な制度をこさえることで、そこから社会に対する影響も生じて来たのではないか、よって今日見れる派遣法や非正規労働などの労働の切り下げ=それによって生じる歓迎されざる余暇時間も人為制度的に生じている。その社会的制度として具体的に見える問題として取り上げたのですが、橋立さんはむしろ、人生一般論というか、格差の問題にせよ経済的格差だけではなく、人間が本来的に持っている能力の差とか、そのことまでをも含む人間一般論として、そして余暇の問題もそこのような人生一般論的な面で取り上げておられた。
そこに論点の食違いが生じたようです。私とて、人間人生一般論としては、人間として避けることができない大きな本質的な事象は厳として存在していること位は解ります。ただ、今回の一連の投稿における趣意は、むしろ掴みどころのない茫洋とした宗教、芸術などにも関係する人間一般論を軸とするのではなく、端的には政官あるいは巨大資本による歪というもっと狭い範囲での(狭くもありませんが)事象に焦点を当てたものです。
これに対し、橋立さんは、もっと人間本質に絡む一般論を軸にされた、故に人間の不公平、格差などは当然に存在する、存在するからこそ平穏がある、そのような広い意味で余暇のことも問題提起された。
だが私の場合は、より狭い範囲での社会体制から人為的に生じている歪みを最初からテーマにしていたものですから、そして阿修羅での論争紹介でも「生産性」というより身近で具体的で、より資本人為的な事項も取り上げておられたので、論点の軸は同じだと先走りしてしまい、故にそれは全て人間に平穏さをもたらすものだとの論が、唐突に思えてしまったのです。そして何故そこで創価学会などが取り上げて宗教論的に利用したJ・トインビーを出されたのかが、分かりませんでした。
橋立さんの論は、例えば悪人正機説に見れるような仏の大きな懐からの発想で事を捉えておられた、そこに食い違いが生じたものと思います。再度申しますと橋立さんは形而上的に、私は事象を目に見える人為的形而下的に捉えていた事による食い違いでした。これにて対論は終わりにします。
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