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[2224] 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。
日時: 2015/02/16 00:55
名前: 青トマト ID:S4YnK6sk メールを送信する

ryuさんが、ほかのスレッドで論じられていましたことを、少し引き継げたら…と思い、新たに立ち上げました。

私も関心があることなので。

明治国家の前の幕藩体制の確立を準備した時代の出来事ですから無視できないのです。

しかし、さっぱり判らない。

踏み込めば踏み込むほど判らない。

判らないように、されてしまっているのです。

そのように考えれば…判らない理由が判るのではないでしょうか。

つまり、

豊臣政権と徳川政権の二つが、多くの情報を隠してしまって、デタラメ情報ばかりが残されているだけなので、迷路に迷い混むのでしょう。

ここは、事実から大胆な推理を展開させるほうが打開できるのではないでしょうか。

で、結論めいたものは提出できませんが、

若干の参考になる事実や推論を提出しておきます。

まず、死体が無いのがおかしい。

しかし、どうやら首だけは運び出されて、それが埋葬されている静岡の寺院があるとのこと。

首なしの遺体も誰かが襲撃部隊の目を避けて運び出したのだろう。

そう考えれば、つじつまがあう。

信長が生きていれば、やがて出てきたであろうから、死んではいると考えられる。

その後の彼の活動がないことから、死亡を推定する。

本能寺襲撃部隊は、少数精鋭でも可能で、むしろこのほうが成功確立が高いので、これだったのではないかと考える。

明智光秀の大部隊は必要なかっただろう。

斎藤よしたつの岐阜城もごく少人数が裏の崖を登って襲撃して、難攻不落のこの城をおとしている。

大部隊を率いての合戦を必用としないはずなので、綿密に計画して短時間に事を運んだので、遺体も首も運び出す事ができた筈だ。

さて、運びだしは、信長方の仕業なのか、または襲撃部隊の仕業なのか、それも確定できない。

襲撃部隊の仕業であれば、明智の襲撃部隊であれば、隠す筈はない。

本能寺は完全に焼けたわけではないことが判っている。

遺体と首がないことは、この事件を探るに切り口として重要な見逃せない事実だ。
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日光東照宮にはなぜ、明智光秀の家紋が有るのですか? ( No.11 )
日時: 2015/02/18 06:31
名前: ryu ID:rX8034k2

日光東照宮にはなぜ、明智光秀の家紋が有るのですか?
日光東照宮の初代住職?の名前が明智光秀の戒名なのはなぜですか?
と言うか、本当ですか?
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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.12 )
日時: 2015/02/18 12:35
名前: 贅六 ID:cUJMFnC.

eyuはん、あんさん恐らく知ってて釜掛けはったんやと思いますが、

何で陽明門の随臣の袴に「木瓜に桔梗」の紋が付いてるんか?ホンマの事は判ってぇしまへんのとちゃいますか?

一応俗説では「光秀は小栗栖で死んでェへんかった!」ちゅう話がおますわな。

光秀は生きてて、父祖の地「美濃の土岐」あたりに潜伏し、後、名を「南光坊天海」と変えて、家康に仕えた。

家康亡き後、東照権現として日光に祀る時、天海が東照宮の造営にたずさわり、自分の紋どころを随所に配した。

ちゅう説がおますそうでっせ。

その他、秀忠の「秀」は、光秀の「秀」やとか、家光の「光」は、光秀の「光」やとか、実しやかな与太話もあるそうでっせ。

ま、其れも此れもみ〜んな歴史の彼方の“ミステリー”でんな。
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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.13 )
日時: 2015/02/18 14:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:3189TkGg

陰謀説について、以前にこの掲示板に投稿していた人がいます。
HNを「ねこ」氏といいます。
スレッドの名前は「日本の陰謀」です
http://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=1774&l=1-

その原本は下記のサイトの様です。

http://park.geocities.jp/j_con4/0204/p048.html#page311

ご参考までに、

本能寺の変についてもあるのでしょうが、見つける事ができませんでした。
別途、本能寺の変について、多くの説があるようです。

義経が、ジンギスハーンとなった話もあるようです。
正史では解らない事を尋ねるのは、ロマンですね。

同じ様なものと言っては、氏に叱られると思いますが、

小説家の井沢元彦の「逆説の日本史」も面白いですね。
発刊のころからかなり読んでいたのですが、本能寺の変の時代までは読んでいません。

彼の解析なども、面白いでしょう。
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天海と言う名は、空海にならったのでしょうかね? ( No.14 )
日時: 2015/02/18 17:55
名前: 青トマト ID:0PcfTCro メールを送信する

天海?なんかふざけてるような気もするんですがねえ。名の付け方が。

意味としてはおかしくないですよ。

天地の意味なんだから。空海だってそうなんだから。

桔梗紋は、一般的な源氏の紋との説もあるので、それであれば、明智を指しているとは言い切れないのではありますが…。

家康が光秀は忠義の人物と語った言葉があり、これは信長に対しての忠義と私は解しているのですが、光秀を擁護した考えは持っていたのではないかな?

面白半分ですが、

もしかして、

天海は信長だったとか?

ふざけすぎかな?

精神的に徳川幕府の基礎を支えたとか…。

元々、織田家は北陸の神社関係の家系で、主君の柴氏に従って尾張に来ていた訳でして、東照宮には光秀だけではなく、信長の影響もあり?
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ウーン、なかなかねえ難しいですね。でもねえ、世間で光秀の三日天下と言われるが、豊臣も二代天下で終わったんだよな。 ( No.15 )
日時: 2015/02/19 02:54
名前: 青トマト ID:EgMsOUP2 メールを送信する

これですね、織田信長の偉業達成を起点として考えると、案外、突破口が拓ける予感がした。

織田政権と言うものが、戦国の完全平定は未完ではあったが存在していたとの事なので、その成果の上に、この事件が起きて、豊臣二代政権、そして徳川幕府と行くわけだ。

織田政権も幕府の名ではない。ただし、室町幕府を引き継いでいたが、信長の思惑はそれを離れていた。

その上で、幕府を名乗らない豊臣政権が生まれた。

しかし、家康は再び幕府を名乗ったのだ。

このラインはなんとか読めそうだな 。

ただし、若干の知識は必要だ。

朝廷と神道と仏教と官位ほかの知識が突破口を開き、それへの理解をもたらすだろう。

今まで、いくつかのスレッドに幾つかを投稿してきていますが、

英文では、間違った文法や言い回しをしているかも知れず、ワンセンテンスでは間違ってないかも?、まあ、冗談半分の新規な言い回しと笑ってください。

その他、乱暴な書き方もしていますが、本音の吐露として紳士的で無い奴4と笑ってくれて結構です。
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青トマトさん、すいません。誤解です・・・ ( No.16 )
日時: 2015/02/21 14:10
名前: ryu ID:z2N7d.W6

こんにちは、青トマトさん!!ryuです。少しばかり言い訳すると、釜を掛けるつもりで投稿したわけではありません。私の方もかなり前から「本能寺の変」に興味・関心があり、あのスレッドをだした後で解ったことなのです。つまり、うけうりでありどうしても貴方に紹介したいと思い、あのような形でいそいで書いた次第です。誤解させてしまいすいませんでした。

 で、、、あの説が正しいとなると次に続く「清洲会議」・「賤ヶ岳の戦い」・「朝鮮出兵」・「関ヶ原の戦」・「大阪夏の陣」・・・これら、全部、羽柴秀吉のいやらしい部分(人間のエゴ)がでていませんか!?私、人間的には羽柴秀吉より柴田勝家のほうが好きですね、人間的に!!どうやらこれら、ミステリーというより そもそも教科書に書いてあることが少しばかり事実に反し、デタラメを教えられたのかもしれませんね。まぁー、今までの説がただしくないのであれば、、、フィクションともノンフィクションともとれるので、、、 では、また・・・・・See You!!
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私ではありません。他の方ですよ。ご心配要りません。 ( No.17 )
日時: 2015/02/23 05:30
名前: 青トマト ID:GkCIOefY メールを送信する

私ではなく、贅六さんだったのです。

昨夜に少し長い評論めいたものを書きましたが、時間切れで投稿不可となりました。

また、改めて投稿します。

今回は、私でない事を誤解を解くために短く投稿しました。

どうも秀吉は信長の戦国収束の偉業達成の座を盗みとったのではないでしょうか?

と、疑いますね。

これは、彼単独の行いではなく、多数の共犯者達の協力により彼がトップの座についたのではないか。

関白の座がそれを表していて、本来は信長がその座にすわる筈(相応しいということ)ではなかったか?

これには室町幕府誕生以前の歴史つまりは南北朝動乱の潜伏した問題も絡んでいて、徹底した改革断行の力を持った信長を排除する力が働き、はるかに弱体な政治力の秀吉を頭に据えたのではないか。

それは、信長に圧迫を受けて、滅びる寸前にまで追い詰められた者達ではなかったか?

秀吉は政権基盤が弱かったので…それで…二代で潰れたのは当然だったのだ。

かくして、徳川幕府が信長の意思を不完全にではあったが継承して、家康が関白ではなく、将軍の座につき、室町幕府にかわる幕府統治をはじめるに至った。

かくして、戦国時代は収束した。

尤も、平安朝的政治体制は選択されはしなかった。

その事が、幕末の間違った律令国家体制を真似る形での天皇御親政を結果として産み出すに至ったところの、倒幕運動を薩摩・長州をはじめとしての有力諸藩を動力として起こさせるに至った。

徳川幕府の貢献は信長の偉業を不完全に継いで大きいが、後醍醐天皇の遺志を継いでの、平安秩序の問題点を改革した上での復活を目指すべきであったのかもしれない。

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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.18 )
日時: 2015/02/23 11:13
名前: 贅六 ID:.98h8pLk

“太閤贔屓”の贅六即ち“大坂者”としては、ここは一つ“物申す”べき所なれど、いや、いや、今日ビはそないな事どっちゃでも宜し、どっちみち「太閤」はんかて、元はと言えば、尾張のど百姓の小倅だしたよって、大坂城に居てはったちゅうたかて、死ぬほど身贔屓せな成らん、ちゅう訳でもおまへん。

日吉丸→木下藤吉郎、から、羽柴秀吉→豊臣秀吉に次々名前を変えて、関白・太閤と上り詰めたんは宜しいけど、根が百姓の出と言う卑しき身の性の為せる業か、この御仁は強いエゴ、と、執着心、しか無かったんやねぇ。

お館様、である「信長」を真似し過ぎて、秀吉は自分も「エエ番頭」を用いなんだ。 官兵衛に盛り立てられて、エエ線まで来たんですが、奸臣の三成に迷うて官兵衛には最後に離反されるし、文化・教養指南の利休も死なせてしまうし、ドン百姓の限界を抜けられへんかった事が、豊臣を二代で終わらした根本原因や無いかいな? て思いますが、チャイますか?

ま、歴史に「・・たら話」してもしゃぁ無いし、ワテらが習ォた歴史もフィクションがいっぱい散りばめられてるし、何がホンマか解らんちゅう事でっしゃろ ! 其処に、後世の物書きの想像を掻き立てる面白さが有るのやおませんか。

早い話が、つい此の間有った「明治維新」のプロセスや成り立ちも、其れを推進した“薩長”の作り話で、今に成って色々異説が出て来てますわなァ。

ワテら国民・庶民は何時の時代も、為政者のプロパガンダで踊らされてますのや。勿論、今もでっせ !
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すんまへん! 大阪のお人は太閤ヒイキは当然でっしゃろ。おかみさんに嫌われる男は失格者やね。勤務が ( No.19 )
日時: 2015/02/24 01:07
名前: 青トマト ID:iRJ9q6R6 メールを送信する

ねね殿はよう知ってましたわね。

ねね殿は信長公に夫の浮気癖を訴えて、なんとかしてチョーと頼み込んだんですわな。

殿に亭主の恥を晒してまでも訴えたオネネの悔しさはいかばかりでしたでしょうか?

信長殿は、ねねを叱りつけるどころか、

「あの禿げ鼠を注意してやる」と手紙で応えたんですな。

かみさんと上司を大いに困らせた禿げ鼠はどんな奴だったか推測出来ますわな。

ねね殿は信長公なきあとは、家康公にも頼ったのですわな。

亭主の不徳を何とか補って欲しいと考えたのでしょうな。

家康公は辛かったでしょうな。

沢山の人達を困らせていた人物ではなかったのかな?

確かに、信長公には重用された。

しかし、信長公が重用したのは、多くの人々だったのだ。

秀吉を最も重用したわけではない。

日本人の喜ぶ出世物語の英雄として持て囃されたのは、

関白になったからだった。

その関白の座が、汚ならしい行いによって射止められたものならば、

英雄は地に落ちる事になるのではないだろうか?

木下藤吉郎は、忍者の類いの人物であって単なる百姓ではなかったとも言われておりますな。

蜂須賀小六と親しかったのもそのせいと言われてますな。

大阪の方々にえろうすんまへん。堪忍なあ。
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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.20 )
日時: 2015/02/26 08:42
名前: 贅六 ID:02SOgyrw

>大阪の方々にえろうすんまへん・・・て、すんまへんも何も、先にも書きました様に、ワテに限って言いましたら別に何とも思てしまへんでぇ。あの人は尾張の人だしたさかいねぇ。

ただねぇ、大坂御陣 によって 大坂 は天領と成り、大坂城代 が居てた物の、大坂は浪花の町=商人の町に成ったちゅう事は、徳川のお蔭みたいに見えるんですが、それ以前に秀吉が江州(近江の国)から江州商人を仰山連れて来てた所為で、大坂商人の血脈には近江商人のDNAが色濃く流れてますねん。

其れと織田政権の末期に、キリシタンの居心地が段々悪るゥ成って、秀吉は遂に「キリシタン禁教令」を出しよりましたわなァ。パードレ達にとっては青天の霹靂で、各地のキリシタン大名も安穏としてられん様になり、高山右近なんかも棄教を迫られたけど、「教えを捨てるくらいなら国を捨てる」ちゅうてマニラへ流されて、彼の地で程なく死んでしまいよりましたやおまへんか。

秀吉の後を襲った家康も、キリシタンを容認する事は無かった。秀吉、家康、がキリスト教がヨーロッパの侵略の先兵や! ちゅう認識が有ったんか無かったんか、はワテには解りまへんが、結果としては後世の植民地化を防いだ、ちゅう功績に成ってると言えまへんか? 

よう言われる言葉に「織田が搗き 羽柴が捏ねし 天下餅 座して喰らうは 一人徳川」ちゅう落首がおますが、此れなんかも家康がじっくり考えた上の必然か? 成り行きの結果偶然の産物か? ワテには判断が付きまへん。

こんな事考えてたら興味は尽きまへんので、いっつも仕舞いに風呂入って一杯飲んで寝てしまいまんねん。 ほな、また。
メンテ

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