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[2279] 未来社会を考える < ヒットラーの予言
日時: 2015/05/27 18:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TUwY8d8w

ヒトラーの予言──2039年の未来図について

●以下は、ヒトラーが語った言葉(予言)である。
『1999年以後』(祥伝社)から抜粋


「…“2つの極”はますます進む。1989年以後、人間はごく少数の新しいタイプの支配者たちと、非常に多数の、新しいタイプの被支配者とに、ますます分かれていく。一方は、全てを操り、従える者。他方は、知らずしらずのうちに、全てを操られ、従わされる者たち。

しかも進むのはそれだけじゃない。人間がそうなるにしたがって、地球にも宇宙にも大変動が起こるのだ。1989年以後、人類には宇宙から、かつてないカタストロフィ(大破局)が近づくのだ。

若いころ私は、『我が闘争』に、いずれ人間が大自然から復讐されると書いた。それが1989年以後の状態だ。人間が思い上がって宇宙の自然を犯すため、宇宙が人類に復讐の災厄を下すのだ。そしてそれが人類を、想像を絶する究極の状態にみちびいていく。私が生まれてから150年後、21世紀に来る究極に。私自身もそれを霊感ではっきりと見てさえ、信じられないような究極に。」

「…(20世紀末は)たとえ表面はデモクラシーや社会主義の世であろうとも、実質はナチズムが支配していよう。デモクラシーの国も社会主義の国も、われわれナチスの兵器を競って使い、殺し合い、社会は私の望むとおり、強く支配する者と支配される多数者に分かれていよう。それは天変地異の期間でもある。人類は大自然から手ひどく復讐される。気候も2つに分かれ、激しい熱と激しい冷気、火と氷、大洪水と大旱魃(かんばつ)が代わる代わる地球を襲うだろう。」

「だからその中から『超人(ユーベルメンシュ)』が現われる。もはや普通の人間ではそういう危機を制御できない。それに対応するため人類は超人たちを生み、超人が世界や気候を、人間や戦争を治めることになる。
つまり天変地異の下に生きる多数者。それを支配する少数者。その陰で実質的に世界を操る超人グループ。これが、私の予知する21世紀の世界である。」

「しかし諸君、さらに重大なのは、私がいま、これを話している100年後のことだ。それを告げるためにこそ、私は今日を選んで諸君を招いたのだ。今日から100年後といえば、すなわち2039年1月25日だ。

諸君にはわからないだろうが、そのとき人類には真の究極の状況が起こっている。そのとき人類は──少なくとも、いま言っているような意味での人類は、2039年1月、地球からいなくなっているのだ。」

「それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。いくつかの国は崩れて燃える。毒気で息絶える街もある。

2000年以後は、それが一層ひどくなる。2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。アフリカと中東も完全に荒廃する。結局、いまの文明は砂漠しか残さない。

しかし人類はそれでも滅びない。わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。いまの意味での人類は、そのときもういない。なぜなら、人類は2039年1月、人類以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。」

「それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。

残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。

神人のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。

いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。」

「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。

ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。

こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。
そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」


(引用終わり)

ヒットラーと言うイメージでは、このような思想を思い浮かべることはできません。
どこまで、真実であるか解りませんが、ヒットラーでなくても、このような歴史観があることは興味深く、また概ねは現代及び未来社会を暗示している様です。

メンテ

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末世思想 ( No.1 )
日時: 2015/05/27 19:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TUwY8d8w

社会が行き詰まると末世思想や、末法思想が蔓延するものです。
ところが、末世、末法の意味は次のようなものです。

「末世」

後々の時代。下った時代。末の世。

若さ・容色・権力などの盛りの時が過ぎた後。

「世も末だな」というのは、常識はずれの事態や、他人の常識はずれの言動などを見て言う言葉です。
元は仏教用語で、「この世も終わりであること。救いがたい世であること。」という意味です。
つまり、「ひどい世の中だなぁ」というような意味でしょうか。

「末法}

末法というのは、正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)の後に位置づけられている時期のことである。正法・像法・末法という三時(さんじ)のひとつである。
末法というのは、仏の在世から遠く隔たったため、教法が次第に微細・瑣末になり、僧侶が戒律を修めず、争いばかりを起こして邪見がはびこり、釈迦の仏教がその効力をなくしてしまう時期とされる。

キリスト教でも、聖書が教える人類の歴史の終焉と言う言葉があります。

このように宗教的な意味での行き詰まり観はあっても、それ以外で、厳密に我々の気持ちを現せるような使い方ではないようです。



最初にヒットラーを紹介しましたが、実は、その内容の多くの部分は、

「2039年の1月に人類は究極の変化に遭遇する。その時今の意味での人類はもういない」と言う

スペインで100年前に行われた、ファティマ第三の預言に重複しています。

http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/phatima.html

(前略)

キリスト教徒に迫害され改宗したユダヤ人は、キリスト教徒への復讐と、ユダヤ人の国家を実現するべく結社をつくった。これがフリーメーソンである。

フリーメーソンは、ピラミッド型の段階的組織構造で組織され、その最上部のキャップ ストーンにはプロビデンスの目、つまりヤハウェを置いた。彼らにとってヤハウェは伝説の存在であった。

フリーメーソンの上部組織である「プロビデンスの目」であるイルミナティは、21世紀において2つの派閥にわかれている。

1 ハルマゲドンによる建て直しなのか、
2 種の根絶の後に、難民という階級を最下層におく階級社会をベースとする統一政府による共産主義の国家か。
3 それとも、ニビル星の接近によるジオカスタトロフィーなのか。

2012年12月8日現在、人類の選択枝は、上記の3つである。


 それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。

 そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。いくつかの国は崩れて燃える。毒気で息絶える街もある。2000年以後は、それが一層ひどくなる。2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。

 アフリカと中東も完全に荒廃する。結局、いまの文明は砂漠しか残さない。しかし人類はそれでも滅びない。わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。
 ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。いまの意味での人類は、そのときもういない。なぜなら、人類は2039年1月、人類

以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。
 それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。

 残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。

 それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。
 ”神人”のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。

 その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。

 ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。
 食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。

 ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。

 こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。

 これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。
メンテ
愚痴人間さま、読ませて頂きましたが、ヒトラーの超人が密かに支配する社会とは、今の日本にクリソツではありませんか♪ ( No.2 )
日時: 2015/05/27 22:27
名前: 青トマト ID:Dx.OSMB2 メールを送信する

超人を自ら任ずる受験秀才の高級官僚達。

蒸留器で何度も蒸留されて出来上がったウヰスキーとかウオッカとか、そんなものです。

蒸留器とは試験です。

支配される国民とは、

私が常々いうところの、

横井庄一的大多数日本国民です。

いやあ、日本って凄い國だわ。

ヒトラー預言からファチマ預言を既に実現してるんだもの。

超人ウヰスキーがアベを操って、自公カクテルを提供してる。

横井庄一はそれを飲んで、悪酔いの酩酊だ。

でも、ヒトラーもファチマも旧約聖書の焼直し版と言えると解釈いたしますけどねえ。

罰当たりを繰り返して、天罰を喰らうと言うことですわ。

日本の粗悪滓取り焼酎が超人とは、これはとんだ御酩酊だ。

毒が廻って中毒死が待ち受ける。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.3 )
日時: 2015/05/28 01:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:9vadVmto

青トマトさん、

冒頭の引用文、実は100年ほど前の、ファティマの予言を現代風にアレンジしたものと思われます。

現代は至上主義経済の問題が根源にありますが、当時は、まだ、その様なことは考えになく、漠然と人類の将来を予言したものでしょう。

表現は違いますが、下記の文言など、実に現状を捉えています。



>「それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。いくつかの国は崩れて燃える。毒気で息絶える街もある。

>2000年以後は、それが一層ひどくなる。2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。アフリカと中東も完全に荒廃する。結局、いまの文明は砂漠しか残さない。


>こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。


また、別の角度から

>キリスト教でも、聖書が教える人類の歴史の終焉と言う言葉があります。

これも的を得た分析と思います。

このスレッドでは、政治、経済の具体的、個別的な事象の分析より、少し領域を広げて書いてみたいと思いました。
この後、もう少し話を進めたいと思います。


メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.4 )
日時: 2015/05/28 09:33
名前: 北の国から ID:y/XyTtfQ

 天橋立の愚痴人間さん、こんにちは。
北海道は、実はいまが一番いい季節で、ボクも近くの山や原野でフキ、ワラビ、山ウドなどを
採ってきて、(妻が)てんぷらなどにしてくれ、食べたり、ご近所におすそわけしてりしてい
ます。
 十勝岳連峰の残雪と青のコントラストの美しさを眺めていると、いま国会で、たいへんな法
案が通されようとしていることなど、何か別の世界の話かなどと錯覚しそうです。

 北海道大学の理論物理の研究者で(だいぶ前のことですが)、京都大学の朝永先生の弟子で
あった人が「地球は、たくさんある星のひとつで、奇跡的条件の積み重ねがあって、生物が誕
生したが、本来、星は、そこに生物の存在を否定する方向で安定する」と述べておられたこと
があり、そのときは「意思をもたない地球がなぜ」と思ったりしたものです。
 しかし、天橋立さんの提示してくださった資料をよむと、「110億年寿命の地球が、その
後半で、生物の存在を許さない方向で安定していく」という物理学者の話が、現実性をおびて
きます。
 つまり、およそ200万年の人類の歴史でつくりあげてきたはずの「平和」「命」の価値に
それを凌駕するような「貧しい民意」がつくられているようです。
 そして、それが地球のさまざまな自然活動と奇妙、複雑に連携しながら人間と生物の存在を
(人類がそのことに気づく可能性もまったくないわけではないのでしょうが)、否定する動き
に加速していくようにも思えます。

 おおいに、その「貧しい民意」とたたかおうと、ボクもあがいているのですが。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.5 )
日時: 2015/05/28 18:53
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ZJANAf0.

北の国からさん、久しぶりです。
現実の政治の事を考えると、情けなくて、何も書く気がしないのが現状です。

そこで、こんな大きなテーマに臨んでいます。

未来社会を考える前に、現代は、ある意味で、末世、末法の世界に近づいていると思い、その概念を辿っています。

我が国の仏教的な末法思想とは別に、西欧ではハルマゲドンと言う言葉があります。

辞書的には、

ハルマゲドン(アルマゲドン、ハーマゲドン)は、

アブラハムの宗教における、世界の終末における最終的な決戦の地を表す言葉のカタカナ音写。ヘブライ語で「メギドの丘」を意味すると考えられている。
メギドは北イスラエルの地名で戦略上の要衝であったため、古来より幾度も決戦の地となった(著名なものに、トトメス3世のメギドの戦いなど)。このことから「メギドの丘」という言葉がこの意味で用いられたと考えられている。

世界の終末的な善と悪の戦争や世界の破滅そのものを指す言葉である。(戦争を終わらせる最後の戦争。一説では大艱難の頂点がハルマゲドンとも言われている。)

それとは別に、2026年、さらに13年後の2039年について、次のような話があります。

人類の歴史は2026年で終る(小石 泉氏)
2039年には人類は変質する(ファティマ第三の預言)

これらは、キリスト教の発生と共に共存してきた負の伝説のようなものであると思います。
負であろうが、伝説であろうが、その様なものが付きまとうこと自体が、キリスト教の宿命でもあり、人類の運命とでも言えましょう。

ファティマの予言に関する文章の中に、西欧世界で現代でも、その存在が囁かれている陰謀組織、フリーメイソンとかイルミナティについての著述があります。
それが先にあったのか、後でこじつけているのか、解りませんし理解に苦しむ箇所もありますが、ともかく、キリスト教世界に関連することは間違いない様です。

(しばらくは引用文で)

フリーメーソンとイルミナティ

アブラハムの氏族はユダヤ教徒と呼ばれ、キリスト教徒らから迫害される。

ヤハウェが引き連れたユダヤ人は、ユーラシア大陸を東に移動しながら定住先を見つけ、アブラハムと共にバビロンの捕囚となったユダヤ人は、迫害から逃れるために、キリスト教に改宗した。彼らは偽キリスト教徒となりユダヤ教を続けていく。

ルシファーの子孫はキリスト教徒の中に紛れ込み、ユダヤ人を探しては迫害していく。彼らは、中国では景教としてキリスト教を広めつつ、ヤハウェが引き連れたユダヤ人を追い詰め、さらに東へ追いやっていく。

紀元100年ごろ、ヤハウェの一行は、東の果てである日本にたどり着く。

西ヨーロッパのユダヤ人は、スペインに集まったが、やがて、ここでも迫害され、東ヨーロッパに離散していく。

キリスト教徒に迫害され改宗したユダヤ人は、キリスト教徒への復讐と、ユダヤ人の国家を実現するべく結社をつくった。これがフリーメーソンである。

フリーメーソンは、ピラミッド型の段階的組織構造で組織され、その最上部のキャップ ストーンにはプロビデンスの目、つまりヤハウェを置いた。彼らにとってヤハウェは伝説の存在であった。

しかし、1500年代に、鉄砲とともに日本に上陸したフリーメーソンは、ヤハウェが日本に存在することを知る。ヤハウェが実存すると知ったフリーメーソンの上部組織は、ハルマゲドンを契機とするユダヤ国家建設の筋書きを立てる。彼らがイルミナティーである。

20世紀に入り、ナチスのヒトラーが、シャンバラの文明と接触する。ユダヤ人であるヒトラーは、キリスト教徒からの迫害を受けている同胞を助けるために、ポーランド、ソ連に侵攻する。

しかし、偽キリスト教徒であるユダヤ人は、アメリカを参戦させてヒトラーのドイツを降伏させた。

アメリカは、ナチスに替わりアガルタ文明と接触し、高度な科学技術を得る。彼らは、ヤハウェを頂点とするのではなく、アガルタ文明を背後に権力を握り、新世界秩序という統一政府の権力者になろうと計画した。彼らは、ハルマゲドンではなく、不妊薬による種の根絶による人口削減後、難民を最下層階級とする共産主義階級社会を主張し始める。

フリーメーソンの上部組織である「プロビデンスの目」であるイルミナティは、21世紀において2つの派閥にわかれている。

(引用終わり)

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.6 )
日時: 2015/05/28 19:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ZJANAf0.

長くなりますので、ページを変えます。

先述の小石 泉氏の文章に次のようなものがあります。
氏は、プロテスタントの牧師で、キリスト教を興味深く捉えています(これで良いのかと思うほど)
氏の主張の概要は、次の言葉で代表され著作にもなっています。

<人類の歴史は2026年で終る(2000年07月)|西暦の嘘を大発見 聖書に隠された嘘>

次の文章はアメリカの現状を非難するものの一節です。

「清らかなキリスト教会”の助け」

 このようなサタンの働きを陰ながら助けているのがキリスト教会である。というとものすごい反発を食らうだろうが、本当だから仕方がない。近年、キリスト教会全般に“良いイメージ”だけを求めると言う傾向が激しい。汚いものを見るな、美しいもの、心地よいものだけを求めて自分の心を汚さないようにしよう。こういう指導がなされている。

 その一つがノーマン・ビンセント・ピールの可能性思考である。フリーメーソン三三階級のこの男の影響力は非常に大である。確かに彼の論点は失望に打ちひしがれた現代人には圧倒的な真理と映った。私自身若いころ彼の本を読んでどれほど励まされたか知れない……。「神は私たちを愛している。神は私たちに最善のことを計画している。だから元気を出そう。きっと何もかも上手くいくよ。」という思考自体は決して間違ってはいない。

 そして多くの、というよりおよそ成功している牧師の十人が十人、汚いものを見ないようにしよう。美しいものだけを見つめよう。心を汚さないようにしよう。心を守れ。そのようなメッセージしかしない。

 確かにそれは真理である。しかし、忘れてならないことがある。この世の中は神だけではない。エデンにさえサタンはいた。サタンの働きを全く無視して、そんなものが居るとさえ思わないで生きる事は無謀である。まるで今のキリスト教会を見ていると、まむしの居る野原に、まむしなんて居ませんよと入って行く事を勧めているようだ。<キャサリン・クールマンの墓/フリーメーソンのマーク>
 サタン礼拝、サタニズムは実はヨーロッパ、アメリカのもう一つの底流である。それもキリスト教会そのものに深く取りついている。それを直視しないから話にならない。私はアメリカの善良で立派なクリスチャンを沢山知っている。彼らは美しい心の持ち主で、心から神を敬い、人を愛し、国を愛している。しかし、彼らの視野にサタンが居ないから、その善は実に脆弱な基盤に立っている。彼らは国を愛するという。しかし、その国がサタニストに動かされていることに全く気づいていない。だからベトナムでアフリカでコソボでイラクで爆弾を落とし、劣化ウラン弾で人々を苦しめても彼らは平気である。それによってどれほど多くの子供や女性が死んだり傷ついたか考えても見ない。だから自分たちがその加害者になっているという事への深刻な反省が生まれない。

 驚くべきことに、このことを正確に喝破したのが日本の非キリスト者太田龍氏である。氏は西洋哲学が実は悪魔主義だと言う事実に気がついたまれに見る人材である。(「悪魔学としての西洋哲学を超克する」泰流社一九九七年参照。この本は実に貴重な本だが絶版。)

 情けないことに日本の、否、世界のキリスト者でこのことに気がついたのはほんの少数であった。本来このことはクリスチャンが成すべき仕事であるのに、キリスト教を非難攻撃する太田氏がやっているというのは何とも不思議でこっけいなことである。一体、クリスチャンはどうしたのだろう。近代から現代に至る世界の本当の仕組みを正確に見ぬいた人として、太田氏は日本の歴史に残る人物だが、そのことを知っているのは私と数名の人々であろう。

 私はこれまでの本でキリスト教会の欺瞞について少しだけ書いてきた。特に世界一の伝道者や、今アメリカでアイドル的存在のテレビ伝道者の多くがフリーメーソンだと書いたために非難攻撃の的になっている。

 二〇〇三年の一月、「ハーザー」と言う雑誌の編集長がその巻頭言で私の名前を出して攻撃した。それは私の書くもの全般に対するものであったが中でもキャサリン・クールマンという女性の伝道者の墓がフリーメーソンの墓地にあったという私の写真と文章を引用し、およそトンチンカンな攻撃をした。彼はこう言っている「フリーメーソンの印のついた墓がある場所にキャサリン・クールマンの墓があったという単純な意味でしかない。その場所全体がフリーメーソンの墓であると断定されたように書いているが、何の証拠もないのにそういうことを書かれては困る。状況から察してそうだろうというくらいが適切な表現だろう」。

 少なくとも他人が現地に行って実際に見て書いたものに反論するなら、自分もそこに行ってからにすべきだろう。この男はそんなことは考えもしなかったらしく、鼻歌でも歌って、したり顔に一メートルも歩かずにこのようなくだらない文章を得意になって書いている。このように、恥知らずで、不誠実で、いいかげんな人間が横行するのがキリスト教会であるとは情けない限りだ。自らをクリスチャンと言い、少なくともペンで生きようという人間なら自分の書くことにもう少し責任を持ったら良いだろう。そこで私は次のような反論を書いた。そしてあれだけ人を攻撃するなら、私の反論を載せるべきだと言った。彼は不承不承それを「ハーザー」に載せた。

(引用終わり)

冒頭の、

「このようなサタンの働きを陰ながら助けているのがキリスト教会である」

のサタンを、フリーメイソン、イルミナティの組織に置き換えれば、現代社会の本当の支配者が浮かび上がってくるでしょう。

しかしながら、そのサタンも、特定の人物、組織として存在している訳でもなく、結局は人間自身のよからぬ思いが、それを育て上げていることになります。

要するに、それを始めから容認しているキリスト教では、世界、人類を救済する能力に限界があると言うことです。
彼の著作の目次にも次のように書かれています。


1 21世紀は20世紀より激しく変動する

●2 聖書が教える人類の歴史の終焉とは

3 ユダヤ教の狙いはキリスト教の完全支配
4 キリスト教の危機に信者が気付いていない
5 計画が変更された第三次世界大戦
6 日本を巡る悪夢のような時代が始まる
7 では人類の歴史の終りに何が起こるか
8 もしイスラエルが第四神殿を建てたら
9 マインドコントロールから目覚めるために

言い換えれば、サタンとは、民意、そのものとも言えましょう。

初めは信頼できた民意と言うものがサタンに変わってきた原因に、資本主義、民主主義の概念を人類が得たことと思えば、現代社会の分析も意を異にするものとなるでしょう。

良いか、悪いかは別として、これくらいのスタンスで考えねば現代の病根はときほぐれないでしょうね。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.7 )
日時: 2015/05/28 23:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ZJANAf0.

大雑把に取り上げてきましたが、要するに、現在、我々自信が当惑している矛盾、価値観の倒錯などの根源が、こうした中にあると言いたいのです。

西欧第三期文明(私が勝手に名付けています)は、ルネッサンスを契機として始まり、民主主義、資本主義の展開で成熟し世界の文明として展開してきました。

同時に、それはキリスト教的な世界観、価値観の集大成であったと言えます。
それで、文明的な危機として現代を取り上げれば、今まで言ってきたようなキリスト教が内包している諸問題にぶち当たります。

現代社会を否定、ないし修正した未来社会を考えるとき、何を修正し、否定しなければならないかを認識する必要があります。

その様な意味で、これまでの事を書いてきました。
また、現実的に西欧文明に挑戦しているものとして、イスラム教の展開があります。
イスラム教自体は、その発生期においてキリスト教と兄弟の様な環境でした。

しかしながら、厳密に考えるとユダヤ教の教えの解釈において、異なった立場を取った、その立場の違いが、現代の反キリスト社会と言う行動になっています。

このような意味で、イスラムテロや、イスラム原理主義の思想は西欧第三期文明にとっては挑戦者であることになります。

また、ここまでは多神教世界の価値観が謳われていません。
仏教的な価値観から、資本主義、民主主義を見直すことはできないものか、そういう考えが湧いてきます。

しかしながら、我々に留まらず、世界中がキリスト教的文明(価値観)にどっぷりと浸かってしまっています。
実際に、我々は、それ以外のものを想定すらできません。

それでも、

「聖書が教える人類の歴史の終焉とは」

このような発想がある現在、キリスト教的考え方の限界と言うものも理解しなければならないのではないでしょうか。

それが現代であると思います。




メンテ
情けなくなるのは、ごもっともです。既にヒトラー預言の有り様の政治状況ですから。日米共にね。でも…。 ( No.8 )
日時: 2015/05/29 00:10
名前: 青トマト ID:PPln04aM メールを送信する

ヒトラーが何故か預言能力があったとされているのですが…。

しかし、ヒトラーもファチマも私見では旧約新訳聖書の枠内であり、さらに拡げればクルアーン(コーラン)の枠内の事だと考えています。

旧約聖書として纏められたものの根本精神は、
これも私見なのですが、

レビ記の第26章と考えています。

そこでは、人間の自然秩序への逆らいが、どのような結果を招くかについて、戒めを、これでもか、これでもか、と書かれていて、私の愛読の最愛の文章であり、読むと涙を止めることが出来ない名文なのですが…これを記した人物の想いと悲しみと信仰の熱烈性に何時も撃たれるのです。

この26章の心をもって、旧約聖書の編集がなされたのではないかとさえ考えています。

尤も、勝手な推測なのですが。

http://ikitamizu.com/baible/old-03-Leviticus.html#26

近代帝国主義の国際金融資本の覇権の行きつまりも、近代日本の大日本帝国から今に至る歩みも、この26章で説明がつくと、私は考えていますが、皆様の御同意を望むものではありません。

日本でのアベ政権と米国の支配は、日本国民に差し向けられた敵であり、それらの敵による「懲罰」が日本国民に与えられていることになります。

私は横井庄一的日本国民の有り様を擁護し、弁明していますが、それは、私だからであって、私の擁護と弁明は、秩序には通用しないのです。

判っていることなのですが、私に出来るのは擁護と弁明なので、そうしているのです。

二発の原爆投下も原発設置と福島第一の爆発も、差し向けられた敵であり、懲罰なのです。

でも、聖書により、原罪から失楽園に至っている事を悔やみもがいているユダヤ教徒からキリスト教徒からイスラム(教徒)の彼らは、悔やみ悩む民でありますが、日本人は悩まないのですね。

このようにはね。ですから、不誠実であり、それを、すきになれないし、嫌いなのです。

学ぼうとしないから嫌いなのです。

次に回します。
メンテ
何故、聖書の枠内かというと、聖書の宣伝ではなく。 ( No.9 )
日時: 2015/05/29 00:26
名前: 青トマト ID:PPln04aM メールを送信する

逸脱したものは、自己破滅を目指し、自分で敵を造り上げて、その敵の手に自分の首を切り落とさせようとするからです。

国際金融資本が自分への首切り役人として選んだのが、主要な相手はイスラムなのであり、原始キリスト教に近いギリシャ聖教徒のロシアであり、さらには宗教的ではない中国であったのであり、それは本能的な選択と考えられます。

中国のほかの二者は終末論を信じていますから、敵の役割つまりは首切り役人をやってくれるのです。

OKと引き受けてくれるのです。これは、例えですよ。誤解なさらないようにね。

何故、自分で反省して転回出来ないのでしょうか?と普通の人は理性が働きますから、不思議に思うでしょう。

でも、犯罪を見ても判ることですが、外れきってしまうと、戻る機会を失ってしまうのです。

悪い仲間から離れられないといった、外的要因によるだけでなく、精神的にも後戻り出来なくなるものなのですよ。

稿を改めます。

メンテ
自殺、自滅を志向するのです。 ( No.10 )
日時: 2015/05/29 00:39
名前: 青トマト ID:PPln04aM メールを送信する

後戻り出来なくなりますが、自然の秩序は彼に、

自分から、自分を破滅させて幕引きに誘導して、彼を救済するのです。

その他に救いようがないからです。

自己破滅は自殺ではありませんから、他人にやって貰うのです。

戦争を起こして、自滅するのです。

日本人はなにも考えない能天気だから、これに付き合わされるのです。

そう、能天気は罪なのです。

罪だから罰を受けるのです。

私の弁明は効かないのですね。お上には。「お前の自己満足で勝手に語ってろ」との御返事ですよ。

新旧聖書がそして、それを継いだクルアーンが聖典なのは、この自然秩序言い換えれば、神意を述べて示しているからなのです。

「このようになるよ」と記されてあるからなのです。

現在は自己破滅そして自己断罪の渦中にあるわけで、外れた秩序に従ってきたものの程度に応じて打撃は大きいと考えられます。

無知も怠惰も、それに入りますね。そうだろうさ
メンテ
間違えてならないことは、聖書の民の行きつまりを自然秩序と誤解しないことですよ。 ( No.11 )
日時: 2015/05/29 01:05
名前: 青トマト ID:PPln04aM メールを送信する

日本人には元々が聖典がないから、聖典の民の行きつまりを誤解する傾向が濃厚です。

アダムとイブが人類の始まりではない。それは聖典の民においての始まりと解するべきことなのです。

簡単にかいつまんで書いて行くと、

生命の発祥は、地球内の自然から発したのではなく、
宇宙からの渡来であると現代では突き止められていますが、

人類そのものですら、宇宙からの渡来であるとの伝説すらあるのであって、

これは、生命が、
地球という奇跡の星に起こった極めて希な出来事であると言うことではなく、

宇宙における当たり前の現象であるということ、
ですから、
地球においての様々な生命の活動も岩石やマグマの活動も、太陽をエネルギーとしての活動であり、古代の人達から今まで、太陽を生命の元と考えて来たことは正しいことであり、

宇宙には太陽が幾つもあるのですから、そのような宇宙から生命の元が地球に飛来して生命活動を活発に営むにいたった事は、

決して、地球の奇跡でもなんでもないので、ごく当たり前の事なのです。

ですから、この秩序に反する行いをした人間界のごく一部のものたちが自滅に至るのは宇宙の自然現象に過ぎないわけです。

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A-29439

ここに安藤昌益の紹介文を参考に出しておきますが、これは彼を絶賛する目的ではなく、自然秩序認識が古代の思想をたまたま引き継いで残していた彼の著作に活かされていたことを紹介するためです。

残念ながら、彼には歴史観がなかったので、性急に当時の封建性の批判に終わってしまったのは残念です。

歴史的展開の必然性への認識、近代的学問への道を拓く見識がなかったのは残念です。






メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.12 )
日時: 2015/05/29 01:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:uvjGT80.

青トマトさん、こんばんわ。

常に、遅くまで起きておられるのですね。
ヒットラー云々は、こけおどしの興味を引く為に書いたものですが、今までにも言ってきたように、ヒットラーが破れていなかったら、現代社会は、どのようになっていたか、興味があるところです。

さて、キリスト教的な世紀末思想の源泉を、旧約聖書に求められています。
概ねは、そこからの引用、派生したものと思われます。

青トマトさんは、随分とお詳しいですね。
このような話に付き合って頂ける方があるとは思っていませんでした。

結局は、「自殺、自滅を志向するのです。」と言う方向性を示しておられます。

確かに人類は、数から言っても地球の資源に見合わなく増えているとも言えますし、制御出来ない科学の発達は核戦争後の崩壊した世界も想像させます。

大発生したネズミの大群が海へ向かって死の行進をするような事態は避けたいものですね。

一刀両断されるのではなくて、なんとか活路を見いだせないものかと、このスレッドを立ち上げました。

詳細にはまだまだこれからと思いますので、宜しくお願いします。






メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.13 )
日時: 2015/05/29 01:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:uvjGT80.

気がついて、とりあえず下記の文章に反応します。

>でも、聖書により、原罪から失楽園に至っている事を悔やみもがいているユダヤ教徒からキリスト教徒からイスラム(教徒)の彼らは、悔やみ悩む民でありますが、日本人は悩まないのですね。

キリスト教徒、イスラム教徒は悔やむ教徒であると指摘されています。
実は、ここが大問題なのではと、思います。

結局、人間は条件付きで神に許しを得ていることになります。
キリスト教では、フリーメイソンやイルミナティの発生する原因となり、イスラム教ではアラーのためには決死の行動を是認されることになります。

それが、色々な形で現在の状況を作り出しているのではないでしょうか。

日本人は!

それが、問題ではありますね。

ですが、悲観的には見ないようにして行きたいと思います。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.14 )
日時: 2015/05/29 15:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FelPAoRY

さて、始めに返りまして、現代社会が世紀末と言われる状態であるか、ないかの検討をしてみましょう。

冒頭に掲げました、ヒットラーのこの言葉、ヒットラーが、それほど人類全体の将来を憂いていたとは思えませんが。

>こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。

この様に人類の生存形態において2極化が進み、人類全体としての幸せの追求はできなくなる(まとまりはできなくなる)と言う事を言っています。

2極化の実際の内容は、経済的格差となって現れていて、ヒットラーの様に、労働の形態ではないですが、人類の精神的には同じようなものであると考えます。

要するに極端な2極化が進めば、固定すれば、社会は変わらざるを得ないということです。
ヒットラーが言う、ロボット人間とか規定ではなく、人類の経済的格差などは、古代からの常識であり、みんなが平等に暮らせた時代などありません。

ですが、ここに来て、なぜ、格差の問題が社会を文明を変えるまでになったのでしょう。
表面的には経済的格差となっていますが、現代のそれは、単なる経済的な程度の問題ではなく、最下層の人々は生存する手段がなくなってきているのです。

要するに、自然採集ないし自給自足でなければ生きて行くことが出来ない状況に追い込まれているのです。
格差なら、今までも辛抱してきたし、これからも辛抱できるでしょう。
ですが、収入が0ないし0に近くなれば、格差の問題で済ませられないのです。

生産手段の発達は、先進国ほど、労働市場を狭め、既に10%の失業者が出ることが固定されていて、ますます増えて行くでしょう。
そうして、これを放置すれば(30〜40%になれば)、国家(福祉国家)の使命は維持されず、今までの様な、人間社会は崩壊、ないしは変質してしまうのです。

これに対する不安が世紀末思想となって芽生えて来るものと思います。
それでも現在のところは、発展途上国の存在もあり、そこへ労働市場の捌け口を見出したり、国家の経済政策でなんとかなるものと思っているので、深刻に受け止めている訳ではありません。

ですが、予言にある、2039から2050年頃には、もう少し顕著になってくる可能性があります。

仏教の末法思想が釈迦の教えの限界を想定しているように、現代社会の世紀末思想は、キリスト教世界(価値観)の限界を感じていると言えるのではないでしょうか。

政治に対する無力感、理由の分からない犯罪の増加などは、それを予見させる人々の叫びと言えるのではないでしょうか。

もっと具体的に言えば、西欧第三期文明の中心、資本主義、民主主義の限界とも言えるでしょう。
ですが、資本主義も民主主義も人類に限りない幸せをもたらせました。

それにどっぷりと浸かっている現在、それを否定することは中世の魔女狩りの様な半目に会うことでしょう。

ここに民主主義と言うものを取り上げました。
今までの多くのことは経済の問題でしたが、限りなく解放された個人の権利、自由が、増え続ける「余暇」の時間に向けられる時、人間精神の健全性が保たれるか、否かと言う問題もあります。

人間の精神を束縛することが良いとは言いませんが、反対に、100億に近くなった人間、それぞれに権利、自由を保証するなどと言うような社会があり得るのでしょうか。

生きる為の束縛から解放された人間精神の暴走が心配されます。

生きる為の束縛から開放されると言う意味は、次の2通りが考えられます。
一つは豊かになり、時間を持て余す層、もう一つは生きる手段が無くなり自暴自棄となり、これも時間を持て余す。
余暇の問題は、その両方にとって危険な存在になります。

今、言ったような問題は、生きるために真剣で働かねばならない時代には、考えられないようなことでした。
色々な意味で、人間社会は根源的な見直しを必要とされていることが、ぼんやりと感じられるのではないでしょうか。

この時点で世紀末を訴えるのは時期早々でしょうか。
それにしても、予言と言うものは、随分と将来を見据えているものですね。
メンテ
人類の環 1 ( No.15 )
日時: 2015/05/30 13:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xD7jqSw2

次の文章は、10年ほど前に書いたもので(糾弾の私の主張欄に載せています)、ネットで活動を思い立った契機となるものです。
思えば、当時から来るべき人間社会の有り様と模索する事が目的であった様に思います。
ある意味、このスレッドで、再び出発点に帰ってきたようです。


(第1章 まえがき)

世界各地で頻発するテロ、感染の勢いが止まらないエイズ禍、一方で爆発する人口増に対応しようとして世界の資源の争奪戦があり、エネルギー消費の増大と地球環境の悪化など人類は世界的困難な問題に直面している。 科学の発達のスピードは人類自身がその環境に適応できる猶予を与えてくれない。

IT産業の発達による過多な情報社会のあり様は、人類の動物的本質を自覚出来なくしてしまっている。 グローバル化した資本主義経済体制は開発途上国のみならず先進工業国内にも体制に組み込まれない貧困層を生み出しながら、世界中に撒き散らしている過度の競争原理の行き着く先を見ようとしていない。

我々人類は、歴史的に確認されている数千年前から、我々自身の背丈にあった成長をとげてきた。 数十万年といわれている、ホモサピエンスの歴史全体からみれば急激かもしれないが着実な進歩であった。 その間に我々は多種多様な物資を生産することを覚え、指導者を中心とした機能的社会組織を作り上げて来た。

宗教的なものは人々の共通認識として早くから発生していた。 文字の発明・発達は人類の社会機構の整備・科学的思考を爆発的に発達させ、また現在に連なる宗教・哲学・芸術といった精神的内容をもった文明を形成した。 中学校の教科書のような内容で恐縮ですが、人類の問題が現在いかに屈曲点にあるかを証明したく今しばらく続けさせていただきます。

ギリシャ時代近くになると、我々の精神世界は生きるための生産から開放されて独自の発達をはじめました。 宗教ではユダヤ教・ゾロアスター教などの本格的な宗教がおこります。 またギリシャ時代は、数学のターレス・自然科学のデモクリトス・哲学のソクラテスなど一大繁栄期を向かえます。

やがて世界はキリスト教・イスラム教・仏教などが指導する宗教的影響の大きな社会を形成することになります。 政治的にみればこの頃は各地の王侯が支配する封建国家の時代です。 人々は十分に発達した自然科学のもと、ずっと以前に比べ、安定した生産に従事していました。

商業も隆盛になりシルクロードなども栄えました。 しかし流通の内容は特産品の交換が主で拠点ごとによる生産の競合は少なかったと思われる。 人々の生活は現在から見れば相当虐げられたものであったろう、しかし生産手段の発達により出来た余暇の時間が宗教的活動や文芸に向かえるようになっていて一面では安定した時代といえる。

その後、ルネッサンスと言われる時代を経て、人類の大躍進が始まった。 言わずと知れた人間の自由な精神の追求・封建社会の崩壊・産業革命・各分野の科学の大発達などによる社会の変革はあっと言う間に現代の社会を造りあげてしまった。 生産面での変化は特に工業生産の面で大きく、大量生産・価格競争などの要素が組み入れられ、アダムスミスが最初に主張したような、現代資本主義の隆盛が始まった。

人文の面では人間自身の探求が深まり哲学・文学・芸術が華を開いた。 ここ300年間の人類は、戦争による悲劇はあったものの、また地球上の全ての人種では無かったものの、とんでもなく豊かな繁栄を謳歌してきました。 そのスピードは空想小説が50年で現実のものになってしまうくらいです。

しかしながら、余りにも性急な繁栄のもとで、我々は何かを見過ごしてはいなかったか、また将来のために、落ち着いて思考すべきものはないかと考えるべき時期であると思います。

(第2章 経済の事)

自給自足で生計を営む根源的な生き方は、現在でも大災害に見舞われた地域などでは一時的にせよ脳裏に浮かぶように、生物としての人類はこれを忘れてはならない。 幸いに我々の社会での現実は進歩した社会システムの恩恵により手厚く守られている。

経済における資本主義の考え方は物質面における生産・流通を飛躍的に発展させ、現在の豊かな社会を形成するにいたった。 その原動力は我々自身の本能に基づいた物質的欲望を各自が競って取得することを肯定し、またその環境を整備したことである。

永い間続いた封建領主のための生産から、自らのための生産に移行できた時代(後述の民主主義の思想とも相まって実現した)から約300年の間、人類はガムシャラに現代まで行き着いた。 そして、その結果をただ喜んでばかりいてよいのだろうか、現在及び将来について考えてみよう。 地球上ではまだまだここまで至っていない地域のあるのも事実だが、先進工業国と言われている国々においては共通に次のような事態が現出している。

1 生産手段の発達により、地域で消費する必要以上の物質が大量に生産され、そのはけ口を必要としている。

2 生産手段の機械化・ロボット化により、余剰労働力が大量に発生しているはずである。 ただし現在は余剰生産品を他の地域でさばくことで、かつ発展途上国を中心にそれを受け入れられる状況にあるので表面上は重大視されていない。

3 生産手段の高質化に伴い、生産は大組織及びそれに関係する組織が中心となり、健全な労働意欲を持っているだけでは生産に従事できない多数の人々を生み出している。

4 企業は自らの利益追求のため、従来の衣食住に基づく主生産品以外の多種多様の商品の開発生産をせざるを得なくなっている。 これ自体は豊かな生活のため悪いことではないが、新しい商品の氾濫がやがて引き起こすだろう人間の精神面の荒廃を予想したとき手放しで期待してよいものだろうか。

5 膨大な商品生産がもたらす、資源・エネルギーの消費は地球環境を考えなければならない段階に来てしまっている。

6 先進工業国と発展途上国の生産手段の格差は広まるばかりで、人口の多くをしめる途上国との調整の問題は今後増大する。

過ぎ去った時代の状況を思い出してください。 各家庭の子供の目には、近所の左官屋さん・米屋さん・うどん屋さん等々、身近にはたらく人々が映っておりました。 子供にとって、おとなになることはそれらの何かになることと、ごく自然に体得しておりました。 また人々は働くきっかけは自身で手軽に見つけられました。

現在はどうでしょう、安定した生活手段を得るためには、どこかの組織に入り込むことが必要です。 組織の窓口はあちこちにあるわけではありません、また、その職業の多くはサービス産業・IT産業など形態としては把握しづらいものが多くなってきている。 沢山の子供達は就労の根源的意味すら希薄にしか意識できておりません。 このような状況がだんだんと蔓延してきております。

資本主義経済の理論的長所は、人々が誰でも能力・努力に応じて報酬を得ることが出来、各自がその欲望に基づき行動することにより、より豊かな社会を現出することでした。 現在ではその原点の思想に限界があることを現しております。 今や資本主義の経済体制は組織から外れた人々・余剰の人々を除外して進もうとしております。

また大量の余剰商品をさばくための競争は、人間社会での自然で必要な需要供給の関係を逸脱して進んでいます。 巨大組織による強引な物資の押し付け、システムの押し付けは地域の正常な社会基盤の発達を歪なものとしております。 企業はそのために開発した商品を出来るだけ沢山売り込むことで、より巨大化しようと懸命です。

多量の物資への妄想が我々の社会の全能の神となっています。 現在、我々は大量の商品と情報の中で狂喜して生活しております。 迫り来る危機を見つめようとはしておりません。 野生のライオンもその狩猟に当たっては必要以上の狩はしません、北海道のヒグマは必要以上の鮭は取りません。

資本主義経済体制も科学も我々自身が作ってきたものです。 享楽に任してシステムをコントロールする事が出来なければ、それが最後まで人類に幸運をもたらすとは限らないのではないでしょうか。

(第3章 自由の事)

産業革命が起こり、資本主義経済体制の確立とともに、物質文明は見事に開化しました。 封建時代、それ以前の時代と違い経済の仕組は人々のものになり、自分自身で自分達の幸福をつかめる事は誰もが当然のことと疑いません。 同じころから、民主主義の考え方が発達してきました。

ところで「民主主義」とは何を言うのか改めて検証してみましょう。 民主主義の第一定義は政治権力(国を統制する機能)の主体がそれまでの君主から人民に移行した形態を言う。 具体的には選挙で為政者を選び自らの社会と統治を委ねるシステムである。 別に人権(平等・自由等)を重んじる意味があります。 また一般的に民主主義を言った場合、社会主義的な考え方(人々はスタートにおいて平等である事を重要視する)を示す場合があり、自由主義(資本主義的な考えに基づき個人の責任で皆が幸福に暮らせることを理想としている)とは異なって使われる。 それと対比する、以前の封建制における人々の生活は映像や文字で見るばかりで、もはや実感出来ない。

かわりに人々は民主主義の時代の只中に居ることにより、民主主義の意味も自覚できなくなっている。 為政者を選ぶ選挙は人々の意思の総体であるべきなのだが、真面目に参加しようとする人がだんだんと減少している、選挙にも行かないくせに、政治の内容になるとやたらと不満を言う人々が増加している。

封建制の時代でも立派な君主も存在していた。 民主政治でも、我々の代表を真摯に選ぶ努力が必要なことをもっと意識すべきだ。 他方で民主主義の第一義を限りない自由と勘違いしている沢山の人々がいる。 民主主義制度の中であるからこそ、個人の自由が保障されているのだ。 また民主主義の制度と言っても、為政者が人々の代表と言うだけで、社会秩序を維持するための制約は厳然として存在する。 個人の自由と言っても無条件で認められるものと、社会のルールを優先すべきものがあり、その境界線の認識に差異が発生している。

論理的にみても、物事を限りなく分類すると、物事の数だけの分類となり分類の意味が無くなってしまう。 同様に限りなく自由を追求することで人々は自由でなくなってしまう。 なぜなら人々が自由でいられるのは他の人がそれを認めてくれている限りであり、ある人にとっての自由が他の人の不自由をきたすなら、そこには双方にとっての自由は無くなってしまう。 そして社会で生活をしている限り、全ての人々の限りない自由が保障されることはありえない。

過度の自由競争の結果待っているものは、昔の秩序無き時代の弱肉強食の世界である。 特に先進諸国といわれる国々に住んでいる人々は、民主主義になれてしまい、都合のよい自由の追求に狂奔しているように見える。 これは大量生産により手に入る多種多様な商品の取得欲と比例している。 大切な民主主義も、人々の認識を当初の精神から見直さなければ、やがて制御出来ない享楽地獄へ向かわせる事になるのではないでしょうか。


(続く)
メンテ
人類の環 2 ( No.16 )
日時: 2015/05/30 13:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xD7jqSw2

(第4章 心の事)

青少年の心の荒廃の問題が言われて久しくなります。 子供達の事ばかりでなく、大量の商品と情報(特に映像による)の氾濫の中で生活しておる現代の人々は。 時として人間としての自らを物質の中に埋没させ、個々の精神を狭い閉塞した世界に追いやってしまいます。

人間はあくまでも動物の一種であり、自然に頼って生活するものです。 社会の一員として人とのつながりも大切なことです。 家族を養い子孫を残すことは何時でも大変な苦労が必要です。 現在の社会システムを維持するための努力も必要です。 これらの根源的な思考が人々の脳裏に存在してこそ、我々の社会は安定しているのです。 これらのことは常々、大げさに自覚すべきであるとは言いませんが、心の奥底にはしっかりと持っていて欲しいものです。

しかし先に申しました様に、現実はこれらの事をすっかり忘れさせる位に享楽的に推移しています。 人々は物質的に豊かでありすぎるのです。 映像情報による、擬似の別世界の体験に自身を見失いがちです。 特に、青少年たちは、生きる事の現実を認知出来る環境におりません。 またゲームなどの映像情報に過度に接する彼らの中には、歪(いびつ)な社会観が醸成される場合がみられます。 今の若者にとって資本主義だの民主主義と言った概念すら希薄な意識しかありません。

人の心の問題を歴史的に概略してみましょう。 人類史に最初に現れる事象に呪術があります、また有力者の死後の世界を願う沢山の遺跡がある事は良く知られております。 やがて人々は宗教の形でより体系的な精神世界の問題に対応するようになりました。

3000年位前からは思想的(哲学)体系ができました、その延長に有名なギリシャ哲学・中国思想(孔孟思想)インド哲学などが各地で殆ど一斉に開花しました。 そこでは、人々の生きるべき指針を示しているのが特徴です。 人々はいわゆる賢人を見習うことで自分の精神的問題に対処しようとしていました。

次には宗教が人々をリードした時代がありました。 沢山の人々にとって信仰心・宗教の教えが心の支えとなり、社会的には不自由な封建社会に生きていました。

そして最初に申しあげた、産業革命・資本主義・民主主義の展開が始まる少し前から、人間自身の内面を問う哲学と総称する沢山の思想が出てきました。 心の面でもこの時代から現代が始まったといえます。 観念論・唯物論・経験論・実存主義とつづく沢山の展開は人間個人の内面を定義つけようとなされたものです。 結局そのいずれもが正しくしかし十分ではなかったと思います。

資本主義経済(最も一部では共産主義経済体制も起こっておりましたが)のなか、人々は自身の存在を自問自答しながら、生産に励み、豊かな個人生活を築き上げてきました。 たしかに地球的にみれば、ごく最近までは社会生活と思想は互いに補完しあっていたと思います。 しかし、個人の自由の意識に目覚めた思惟と科学の発達、特に医学(大脳生理学)の発達は観念的思考の限界を明らかにしてしまいました。

大量の情報は思想ではまとめきれない事象をどんどん提供します。 最近の若者は、哲学者が数百ページを費やして言う論理の隙間を直感的についてしまいます。

哲学が無用になったとは言いません。 どのような論理も無欠などはありません。 真摯な思考は必要なのですが、欠点を先に見てしまう若者の多くはそれ故に考える事を放棄してしまいます。 現代では哲学は引退間際の老人の位置にあり、力強く社会をリードできる体制にはありません。

同様に宗教の教えも一部の信仰する人々以外に力を発揮できません。 このように現代ははっきりとした心の指標のない時代となっております。 先史時代に荒れ狂う大自然に人々が全能の神を意識したように、現代では大量の物質と情報が無意識のなかで人間を支配しようとしております。 


(続く)
メンテ
人類の環 3 ( No.17 )
日時: 2015/05/30 13:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xD7jqSw2

第5章 二十一世紀の事)

今まで述べてきたように、二十一世紀の初頭の人類は未曾有の繁栄を遂げ、絶好調のようにみえますが、社会の各システムに内在する危機を確実に孕んでおります。 二千年以上前に、ソクラテス・孔子・キリスト・釈迦が存在したように。 数百年まえに、デカルト・カント・アダムスミスが出たように、今人類は新しい考え方を必要としています。

しかし、これだけ複雑になった社会です、単に1人の思想家、一つの論理だけで足りるものとは思いません。 むしろ思想と言う概念そのものを考え直す必要があると思います。 資本主義経済体制の限界・民主主義体制の限界を乗り切るためには、我々の心の問題のコントロールも不可欠です。 具体的には見当もつきませんが、方向性については提案してみたいと思います。 大それたテーマですが、日ごろの考えを発表したくこの一文を作成しました。


イ 経済体制の事

グローバル化を合言葉のように現在の企業はどの分野においても巨大化を目指している、目指さねばならない状況に陥っているが、それが完結したところで良い結末が待っているとは限らない。 究極の巨大化は大変な閉塞状況を導いてしまう。 大なる事が経営を解決すると言った迷信から企業は目を覚ますべきである。

むしろ各企業は適正規模がどのくらいかを策定すべきである。 また現在では各企業による生産物資の内容は全て企業の選択に任せている、一部の医薬品等を除き、生産の内容に国家が介入することはない。 一方で人々の生活は経済システムに翻弄され、就業の面でも消費の面でもまた社会施設の整備の面でもアンバランスなところが多々見られる。

これらのことの根本を考え直してみればどうか。 我が国の国土開発の状況をみても、従来は産業育成・生産性向上が中心テーマであった。 発想を転換して、人々の生活様式・環境の整備の面から企画すればどうなるのか。 豊かな社会であることが前提だが、大都会に集中する居住形式を、せめて老後を送る人々が地方の自然の中で生活できるようにする事も出来るはずです。

人々の生活のあり方そのものに関心を向ければ、多様な企画が浮かんでくるはず。 その方向を主体に考えるなら、いままでとは異なる社会整備の形態が浮かぶはずです。 IT技術の発展により、生産拠点の分散もできるはず。

生産と消費のサークルも、より身近な範囲のシステムと認識できるものが構築できるはずです。 ただ現在のように自国の企業が世界で有数なものに成長する事が一番大切に考えているようでは政策の転換はできない。 けれども国全体がまんべんなく潤うことの方が、結局より豊かな生産を喚起することに気づかねばなりません。

このように世界が、国連・各国家・地域単位で地域にあった社会の整備を目指し、地域にあった物資生産の企画を持つ事、企業による積極的な新製品の開発意欲は大切な要素ではあるが、物資生産計画を地域ごとに策定することも今後必要になると思われる。 各企業による巨大化競争は、もはや企業自身では止められない。

政治権力(民衆)が介入して、ある程度の計画経済の考えを取り入れることが、結果として企業にとっても、我々にとっても良いのではないか。 そのためには同時に社会のあり方を変えねばならない。 我々は究極の企業の巨大化・システムのグローバル化が最終的に資本主義体制の墓場となることを理解しなくてはならない。 またこの事は地球的規模で進行する必要があり、その実現には途方もない労力が必要と思われるがいかがでしょうか。



ロ 余暇の事

随分以前のように思われる小学生の驚愕的な殺人事件以来、次々と無意味な殺人が横行している。 また1人が突飛な事件を起すとすぐに模倣犯が現れる、報道でみる我々も慣れてしまった感がある。 また我が国の青少年の無気力さは他国に比べ目にあまるものがある。

大学生と言ってもろくに本も読めないものが沢山いるのは事実のようだ。 共通する性情は自分にとって都合の良いこと、自分が興味を持っているごく一部の事以外は、精神を集中して対処できないことである。 このようになった根本は、しつけの問題でもなく、教育の問題でもない。 またまた歴史を遡ると、遺跡や考古学的資料でしか確認は出来ないことだが、ギリシャ以前の世界で、貴族階級に属する人々は、自ら生産に従事することもなく、さりとて現代のように沢山の娯楽があるわけでなく、余暇を持て余していたように見受けられる。

彼らにとって究極の関心は人の命を弄ぶ方向へ行ったと思われる。 人同士の決闘やライオンなどとの殺し合いなどが常時行われていたことが遺跡で証明されている。 後にもたびたび起こるジェノサイド(大量殺戮)の例を出すまでもなく、時として人は人を殺す事に何の罪悪感を持たないらしい。

余暇を持て余した現代の人間が、殺人志向へはしる場合も十分考えられることである。 民主主義のなかの自由の穿き違えを云々する前に、人々と余暇の関係を検証してみよう。 古代において一部の貴族社会以外は、生きるための食料の確保や王たちのための労役で休息以外の余暇などは考えられなかった。 ギリシャ以降長く続いた封建社会ではどうであったろうか。

まず支配階級の人々にとっては、隆盛した文化・芸術の世界があった、それらを媒体とした社交の場が余暇を吸収したと思われる。 一般の人々は、生産活動のため、そんなに沢山の余暇は確保出来なかったが、簡単なゲームに興じ、遊芸を起こし、たまには巡礼などの旅をした。

各地の市民革命から始まった、民主主義・資本主義の世界になって、個人の自由な生活が担保されるようになると、それまでの慎ましやかな余暇の過ごし方は、より享楽的嗜好へ変質し飲酒・遊芸等を扱う余暇産業も隆盛となってきた。 また文化・芸術を楽しむ面でも従来の貴族たちと変わらなくなってきた。 だが一部の人を除き、人々の生活は生産活動が主体であることは間違いなく、余暇の時間はあくまでも余暇として消費されていた。

ところで現代ではどのようであろうか。 週休2日制や有給休暇など、人々は自身の余暇を何気なくは過ごせなくなってしまっている。 極端に言えば人生の三分の一は余暇なのである。 ギリシャの昔から貴族たちが味わってきた優雅と退屈と向き合わねばならない人々が沢山輩出してしまった。 さらに現代はすべてのテンポが速いので、昔の貴族が向き合っていたより数倍の余暇を消化しなければならない。 人々の基本的な生活観自体が変質してもおかしくはない。 そこでは昔の人生訓など通用しない、哲学もピントはずれなものに映ってしまう。

現代の社会は、人類が営んできた生産主体の生活から開放されかけている。 この先は、殆どの人類が労働することなく生活する空想科学小説の世界が待っている。 随分と極端な言い方になったが現代の精神的病根の本質はこのあたりまで達していると思われる。

長い前置きとなったが、現代の若者にとって誤った余暇の認識をさせない方策が必要であると思います。 前にも申しましたように、現代の子供には、働くことの意味が充分に理解できません。 その上、親を含めた成人達も自身の余暇の消化に懸命です。 就労にたいする本物の醸成できないのも無理はありません。

また親を含めて物事に真摯に取り組む大人の姿よりも、適当に余暇を消化する大人の姿をみる機会が多い子供達に物事に真摯な態度を要求するほうが勝手と言うものです。 現代の子供たちは皆、昔の貴族の子供達と同様の環境にいるのです。

しかし、この世のなかで全ての人間が貴族になったのでは社会が持ちません。 現代の大人達が今のところ取りあえず楽しんでいる余暇の問題は、このように大変な問題を内包しております。 大量の物資のなかで、労働の必要のなくなった人々が次に何を目指すのか、旅行やゴルフや釣りがあるではないかと簡単に片付けられるものではありません。

余暇を主体とした人間のあり方の研究が必要です。 経済システムと同時にこの問題を解決しなければなりません。 人間は本格的な余暇文明を醸成しなければならなくなってきております。


ハ 自由の事

余暇と言う飛び入りが入ってしまいましたが、民主主義の限界の問題とも無関係ではありません。 民主主義の第一定義は権力の主体が一般の人々にあることです、これを抜きに自由・平等の問題は成立しません。 良い民主主義を維持するためには人々が無責任であってはなりません。 民主主義と言ってもただ空念仏を唱えればよいのではありません、他の体制と同じように沢山のルールがあります。 そのルールを守ることが民主主義を守ることです。 個人の自由はその範囲内で保障することであり。 君主制であったころ、君主のために個人の権利を犠牲にしなければならなかったような事態を排除することがうたわれているのであり、何でもかんでも自由にやりなさいと奨励しているわけではありません。

現在は何か束縛する事があれば、自由の侵害などと大騒ぎしますが、束縛するルールは本来私達自らが私達のために作ったものです。 封建時代のように君主の勝手で決められたものとは本質的に違います。 限りない自由の社会とは、社会組織そのものの否定です。

報道の自由の名目をたてに、実際の社会の倫理・道徳は退廃のきわみを見せております。 自主性を重んじるといった名目で教育した結果、勝手気儘な若者が輩出しております。 また先人に習う事を軽視した結果、小手先だけの知識を振り回す軽薄の輩が増えております。 こんなことで人々は本当の自由を手に入れることが出来るのでしょうか。

急がば回れと言う名言があります。 子供達に目先の自由を押し売りして結局、真の自由の意味のわからない若者をそだてて恥じない教育関係者自身も自由のはき違えをしております。 盲目的自由の追求は民主主義体制の崩壊をもたらします。

正しいルールを守る事の中に、本当に自由になれる範囲が見出されるのです、正しいルールを知らないものには自由も制限されます。 正しくないルールに抵抗すること、改善する事は正義の問題であり、自由であるか不自由であるかの問題ではありません。 自由を守るために正義の心をもって正しくないルールと対決することは、我を通してルールを破ることとは違います。 前述の余暇の時間は、個人にとって自由な選択が前提となる世界です、余暇の増加はより深刻な自由のはき違いをもたらす可能性があります。 禁煙運動が板についてきたように自由のマナーを形成し定着させて欲しいものです。

(第6章 まとめ)

映像を主体とする情報の氾濫のなかで、現代の青少年が正常な自我を形成する事自体が至難の業です。 人間にとって正常な自我の発育がどれほど大切かはここでは言及しませんが、性的衝動をはじめ、世の中の裏表を次々と詰め込まれ、ゲーム等の擬似体験の影響を連日受け続ける子供達に我々大人は何を期待しているのか。

その上、彼らが就くべき職業の窓口は極端に減少している。 大人自身が、所謂、勝ち組・負け組に厳しく選別されてゆく状況のなかで、社会は二極化がすすむ。 双方とも十分すぎる余暇をいだき、それぞれの論理で社会を破壊に導く、そこにはもはや自由な経済活動もなく、民主主義もない、まるで人類の末路をテーマとした映画のような光景が、50年後の我々の世界のように感じる。

そうはしてはいけない、資本主義の妄想も民主主義の妄想も今、我々はたださなければならない。 人類は精神的許容量を超えて物質的に進歩しすぎた。 と言うよりも大量の物質を手にして精神が質を変えてしまった。 二十一世紀はそれを矯正しなければならない。 人類は経済活動全体を制御する方法を身につけなければならない。 物質の氾濫をコントロールしなければならない。 経済活動そのものは本能に基づくものであるから、我々は人間の本質を見直す領域まで立ち入らねばならない。

プラトンが役に立たないのではない。 ショーペンハウエルが役に立たないのではない、キリストも必要だ、人間の本質は変わるものではない、彼らの言っていることは全て間違ってはいない。 ただ人々のほうが自らの本質を見失っているのだ。 しかし現代の状況で安定した精神を維持することは並大抵ではないと思う。 昔から沢山の思想家はいたが、一般の人々にとってけして身近な存在であったとは言えない。 当時の人々の考えることの総体が彼らであり、より究極的に表現しているのが彼らであっただけであり、宗教の教義のように人々に直接的に喧伝されていたものではない。

しかし現代の我々は大部分が自身を見詰め直す必要に迫られている。 先人の意見も真摯に検討しようではありませんか。 我々自身が意識的に現代に応じた我々のあり方を考えるとき、それを象徴する思想家達が現出して体現してくれるのではないか。 数百年前のルネッサンスのように、切実なる我々の意思が集約されたとき、新しい思想が現出するのではないか。 やがて現れる思想は超人間の領域をも抱合しているかもしれない。 そしてその思想は今までになく人々を束縛するものであるかも知れない。 またそれは同時に独裁に結びつかないシステムでなければならない。 安易な思想は我々をまた異なった方向の不幸へ導く。

いよいよ真剣な民主主義の本分が問われる時代の到来が近い。 矛盾する方式だが、勇気を持って確立できるように努力しなければならない。 資本主義経済システムの限界を認識し、そのシステムに振り回されない社会の仕組みを考え出さなければならない。 グローバル化が必要な面もあるが我々の身の丈にあった生活環境を合わせ持とうとする方向のなかに、来るべき社会のヒントがあるように思う。 一方で我々の精神は我々自身が創出する科学と真正面から対峙してゆかねばならない。 数十年の歳月を要するとも、我らが子孫の繁栄のために努力を始めなければならないと思います。

(終わり)
メンテ
自滅・自殺は近代文明の指導者達の最後的運命と言いたかったのです。一般大衆は生き延びて行くでしょう。 ( No.18 )
日時: 2015/05/31 01:11
名前: 青トマト ID:KJfCz9Og メールを送信する

一般大衆までが自滅・自殺を目指すとは全く考えておりません。

古代エジプト文明もそうですし、

何よりも旧約聖書がそう書いています。

アダムとイブの間違いが失楽園を招いたと、創世記でハッキリと指摘しています。

これは、メソポタミヤ地域に栄えた文明が、指導者であるアダムとイブが間違った考えを持つにいたって、自然の理言い換えれば神の意思に背くに至ったから、失楽園これは古代文明の栄華を指していますが、それを失ったと書いているということなのです。

今が、その通りなのです。

金融覇権帝国主義の思想と行動が、アダムとイブなのです。

それで、楽園追放となります。失楽園です。

アベはその下男です。追放です。

失楽園の後でユダヤ人とアラブ人はさ迷うに至った訳ですが、日本人も今のままでは、彼らと同様の運命が待ち受けるかもしれませんね。

アダムとイブと共に滅ぶか…それとも。

何とかするのでしょうかね。

私達はやるべき事をやるだけですが、他人を強制は出来ないし、訳も知らずに動いてくれても、付け焼き刃は落ちるだけですから役に立ちませんしねえ。

保証なんかなにも出来ない、私達には、ということになりますわねえ。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.19 )
日時: 2015/05/31 16:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:f9BGfbwE

青トマト さんの解釈も、私と同じようなものと思っています。

つまり

>アダムとイブの間違いが失楽園を招いたと、創世記でハッキリと指摘しています。

これは、人間と言う動物は、この世で一番欲深く、邪心の持ち主として生まれてきたと言うことになります。
そうであるならば、

>金融覇権帝国主義の思想と行動が、アダムとイブなのです。

この言葉は、この世の邪悪なもの、組織、人間は、もともと人間の本性の反映であり、信仰心で誤魔化していますが、民衆の邪悪さの本当の姿なのです。

キリスト教もイスラム教も、同じ発想で誕生し、それで人間を救済できるものと思っていましたが、人間の邪悪さ加減は想定外でそうはいかなかった、と言うことです。

こう言えば、全てが民衆の責任となり、政治、経済の分野で邪悪なものを糾弾する意味がなくなると考えられがちですが、そうではなく、宗教的な理想論からではなく、神の力の助けを借りず、人間自身で規制を考えねばならないと言うことです。
ですので、

>アベはその下男です。追放です。

アベを糾弾することは、すなわち

我々自信を糾弾しなければならないことになります。

我々自身に、その反省なくして、いくらアベを追放しても

第二のアベ、第三のアベが出てくるのではないでしょうか。

次から、いよいよ本題に入ることにします。




メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.20 )
日時: 2015/06/01 12:29
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:LMeP4TfU

今までは現代社会が直面する問題点を、より深いところで取り上げました。
現代社会の問題点の大きな要素を集約すれば、経済的格差と共生社会に対する価値観の喪失と思います。
福祉国家の成り立ちが危機に貧しているとも言えましょう。

このような問題に対処する為に国家はそれなりに努力をしていることも承知です。
しかしながら、それは望むべき解決へ向かえるものとは考えられません。
現代社会の問題点を生み出す原因(影響力)の方が優っているからです。

その問題点を生み出す影響力とは何が考えられるか、
一つは生存競争(要するに経済)がグローバル化しすぎて、個人的な努力でなんとか切り抜けられる範囲ではなくなってきているのです。
今までやってきた生活手法では自分自身が守れなくなってきているのです。
と言うことは、個人の生活(生存)を保証する為には、国家が介入しなければならなくなってきているのです。

このことは、まだ、最終段階になっている訳ではありませんが、そう言う時代が目先に見えてきています。
それは経済の流通のシステムの問題ではなく、科学技術の発達に伴う生産力の向上が人間の働く機会を奪っていることと、流通システムのグローバル化が、同じように流通に関わってきた人々の働く機会を奪っているのです。

前にも書きましたが、それは先進国ほど失業率が高いと言う現象で現れてきています。
先進国と言いましたが現在のところ、実際はギリシャ、スペイン、イタリアなどで顕著になっていますが、それは先進国の中でも弱い国から始まっていると解釈するべきで、やがて全ての先進国に広がることでしょう。

また、現在の失業率がそれほどでもない先進国は、概ね開発途上国への物資の供給をすることで、破綻を免れていますが、世界的に生産技術が発達して来ている現在、いつまで、その様なことで済ませられるかも問題です。

省みますと、人間社会は、物々交換の時代を脱してから、衣食住を満足させる為に延々と働くことで生活手段、通貨を得ていました。
一部の権力者、富裕層はいても社会全体は、このような社会を構成してきました。

その中でも、最も重要なのは食料の確保で、天変地異の為に危機に貧したことも沢山ありましたが、環境の変遷もありなんとか切り抜けてきました。

現在の危機は、そうした循環的なものではなく、人間自身が作り出した要因(生産技術の発達)によるものであり時期がくれば復活するものではありません。

多くの経済専門家は、新しい産業の交流とか、福祉の分野でその不足が補えると言ってきました。
景気が良くなれば、消費が増え労働市場が活性化するとも言ってきました。

もちろん、それは、それで成り立つ面もあるでしょうが、それで必要な労働市場が確保できると言う証明はありません。
危機の度合いの判断の問題です。

現在、生産技術がまだ未発達の、中国、インドなど世界の人口の1/3を占める国々が、先進国並みのレベルに達すれば、そのような悠長なことで済まされるでしょうか。

世界の100億の人口の半分以上が、新しい産業、福祉の分野で働くことができるでしょうか。
30年、50年後の世界を考える時、このような無責任な予想に任せて安心していられるでしょうか。

30年、50年は、すぐ、先のことです。
このような観点から見て、現在の経済の施策、将来への対応の方針に誤りはないかと考えるべきであります。

何が問題かと言えば、現在の経済政策は概ね100年も前の資本主義経済の理論の延長でより考えていないからです。
その理論がもたらした結果が現在であるのに、それを修正する為に、同じような発想でやっても効果は知れています。

否、知れていると言うよりも、人間社会の方が、資本主義の理論を超えて暴走していると考えられるでしょう。
何よりも安価なものを求める、便利さを求める、そう言う気持ちが経済のグローバル化の推進力となっているのです。

しかしながら、そのことは我々自身の繁栄であり、幸せであるので、それを否定する訳にも行かないことが問題です。

また別の分析があります。
グローバル化を推し進め、それによって利益を得ているのは巨大資本であり、金融資本であると言うものです。
多くの経済専門家は、このシステムを取り上げ現在の問題点の解決に結びつけようとしますが、それは二つの理由で成果を上げることはできません。

一つは、人間の利益追求を社会として認めているからです。
大なり小なり経済活動と言うものはエゴの塊なのです。
どこまでが許されて、どこからが駄目と言う線引きなど効果的にはできません。
もう一つは、グローバル化の利益を、我々自身が求めているからです。

いずれにせよ、従来の経済の施策では、今まではともかく、遠い将来の社会を維持することはできないことを認識するべきであるのです。

さて、ここまでは、結局は解決策は絶望的と言うことになります。
総花的な解決策を模索しても、何も出てこないでしょう。

結論から、申し上げますと、
既成の資本主義のシステムのままでは、避けることが出来ない失業者を出さない方法を組み入れることだと思います。

別の方法に、ベイシック・インカムを採用して、仕事のないものに生活を保証する(生活費を国家が渡す)ことがあります。
これは、後述の人間精神の崩壊につながるので、絶対にしてはならない方法です。

>既成の資本主義のシステムのままでは、避けることが出来ない失業者を出さない方法を組み入れることだと思います。

これが絶対に無理なことか否か、
少なくとも、あらゆる面から、その検証はするべきであるのです。

その方法についても後述することになりますが、現在、直ちに実践できるとも思いませんが、そう言う方法も考えた上での経済の政策を取るべき時期にはきています。

ですが、実際の政治は、TPP参加などと、無条件にグローバル化を進めるなど、将来の政策の転換に障害になることばかりをやっています。

このような意味でも、未来社会を想定した政治を語る必要は時期早々でもないのです。

ヒットラーの予言を噛み締めてください。

>こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.21 )
日時: 2015/06/01 16:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:LMeP4TfU

>既成の資本主義のシステムのままでは、避けることが出来ない失業者を出さない方法を組み入れることだと思います。

上記の内容について直接触れる前に、我々は社会のルールの有り様を見直す必要があります。

現代の社会は、民主主義の美名の下、個人の権利、自由が、何でも希望すれば叶えられると勘違いしています。
いつから、そのようになったのでしょう。思うようになったのでしょう。

最近は、自宅に表札を電話帳に自宅の電話番号も載せず、社会のサービスが受けられると思ってます。
または、自分が社会からはみ出してもやっていけると思い上がっています。

老人介護の問題でも、何かと言えば、介護が面倒な老人を施設に預けることばかりを思います。
社会が成熟して十分な余裕があればできても、その様な状況ではないことは自明の理のはずです。

それができる人間は、家庭は出来るだけの努力をして老人介護をするべきなのですが、大概の家庭では、それをしようとしません。
社会の実態と合わないのに自分の勝手を優先するのです。

その様なことは無理もないのです。
結婚生活においても、自分の自由にならないと、苦労が多いとすぐさま離婚に走ります。
結婚どころか、社会に出て職場の雰囲気が自分に合わないと、すぐさまやめてしまう若者も多くいます。

ともかく現代人は苦労など、何もしたくはないのです。
自分の好きなこと、権利、自由の主張が、まず前面にあるのです。

ですが実際は、それほど自由にはならないことを理解しようとしないのです。
このような風潮が、あるべき社会の変革を妨げているのです。

そうして、このような考え方が市民権を得ていて、誰もそれを非難はしないのです。
年寄り自体が、その様な考えになってしまっています。

最近の年寄りは、年金制度の充実の恩恵を受けていて、結構な経済力だけはあります。
その為に、年寄りの我が儘も昔に比べて大いに膨らんでいます。

また、年寄り自身が若い世代の邪魔をしたくないと介護を拒む傾向もあります。
それも贅沢と言うものではありませんか。
このような社会であれば、世代間の助け合いを一番に考えねばならないはずです。

年寄りが、そうであるので、若い世代は、なおさらのこと、自分の都合を優先して考えます。
最も、それに見合う税負担に応じるならば別ですが、富裕層はともかく社会全体では、それもできない状況であることをしっかりと認識すべきではありませんか。

要するに現代社会といえども、天国のような環境にはないのに、頭の中だけは天国を思い描いてはばからないのです。
その根拠が、民主主義の精神なのです。

民主主義さえ奉じていれば天国になるとでも勘違いしているのです。

話を戻しまして、
民主主義と言っても、自ずから社会のルールは毅然として存在しなければならないことを思い知るべきです。
考えて見ますと、現在でも刑法に関わらず社会の規範は厳然と存在します。

経済の領域でも、昔は電力、水道、電話、交通などは、公的機関によって運営される事を容認してきました。
煙草、酒類の販売も厳しく規制されています。
医療関係の分野も、結構な規制を受け入れています。

アメリカの禁酒法などは例外ですが、経済的なシステムの中でも、民主主義に反する規制は存在しているのです。
それは健全な社会、みんなの為の社会を維持する為の規制であり、国民は納得して受け入れてきたのです。

その時代に合わせた規制が必要で、それを受け入れる真摯な態度が国民に必要とされます。
安全保障の面などで、安倍のバカタレが言っている制約のことではありません。

何でも、かんでも民主主義を振り回さないで、必要なことは民主主義を見直すことができなければ、民主主義の名において、地獄へ異直線の歴史をたどることになるでしょう。

200年程度前に出てきた、民主主義の概念を、正しく理解しなければなりません。
現代社会の民主主義の有り様は、まこと、自分勝手なエゴ以外のなにものでもなく、それが結局は身を滅ぼすことになるでしょう。

未来社会を考えるためには、まず、この関門をクリアーしなくてはなりません。


メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.22 )
日時: 2015/06/03 11:26
名前: 贅六 ID:Yip9xfCw

スレッドの標題に合致してるか如何か判りまへんが、ワテは此のヒットラーちゅう男が、あの時代「国家社会主義ドイツ労働者党」即ち「ナチ」と言う政党のリーダーにのし上がって、その「党是」として唱えた三本柱「アーリア人優越主義」「反ユダヤ主義」「反共産主義」の内の「反ユダヤ主義}だけは中々エエ洞察力を持ってたなァ、て思てます。

考えても見なはれ、今の世界情勢の殆どはユダヤが制覇した“巨大資本”の猛威でもたらされた混乱と混沌でおますがな。

二千年も前に「国土」を失のゥたユダヤの民は、それ以来 分散、流浪、の民として世界を漂流し、ロンドンのシティで隠然と力を蓄えて居ましたが、自由の国“アメリカ”の社会で大きく勢力を伸ばし、アメリカの政権と確固たる協力関係を結んで、世界制覇への羽ばたきを始めよったんです。

此れは即ち、二千年の怨念に対する復讐の仕業とも言うべき行動で、彼等の復讐は留まる所がおませんやろねぇ。

もう一つおもろいのは、450年も前に、ウイリアム・シェークスピアがその戯曲「ベニスの商人」で、“シャイロック”と言あおまへんうユダヤ人の残酷性と冷血性を描いて警鐘を鳴らしてる、ちゅう事で、今の「イスラエル」ちゅう国を見ても、あんまり性質のエエ国やとは見えまへんわねぇ。

もっとコジツケて見てみたら、中世以来の西欧国家社会は「カソリック」以外の各宗教を排斥して来たし、その恨みと怨念が現代世界の不安定を招いてる、と言えん事はおまへんなァ。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.23 )
日時: 2015/06/03 20:58
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:9lXceqzY

>スレッドの標題に合致してるか如何か判りまへんが、ワテは此のヒットラーちゅう男が、あの時代「国家社会主義ドイツ労働者党」即ち「ナチ」と言う政党のリーダーにのし上がって、その「党是」として唱えた三本柱「アーリア人優越主義」「反ユダヤ主義」「反共産主義」の内の「反ユダヤ主義}だけは中々エエ洞察力を持ってたなァ、て思てます。

更に進んで、アルカイーダ、タリバン、イスラム国の活動を正義の味方と言えば、民主主義の名において、たちまち顰蹙を買います。

これについて以前にも書いてみました。

(キリスト教における贖罪と懺悔)

「贖罪」

1 善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うこと。罪滅ぼし。「奉仕活動によっ
て―する」

2 キリスト教用語。神の子キリストが十字架にかかって犠牲の死を遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらしたという教義。キリスト教とその教義の中心。罪のあがない。

※ ボーイスカウトや欧米における寄付金の立場は、これにあたります。

「懺悔」

それぞれの宗教における神、聖なる存在の前にて、罪の告白をし、悔い改めることをいう。

>仏教も懺悔

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。 また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。

>キリスト教の懺悔

告解はカトリック教会においては、洗礼後に犯した自罪を聖職者への告白を通して、その罪における神からの赦しと和解を得る信仰儀礼。現在のカトリック教会ではゆるしの秘跡と呼ばれている。

プロテスタント教会では罪の告白という言い方がされる。プロテスタント教会では、一般にサクラメント(礼典)とは認められておらず、また義務もない。

キリスト教では懺悔の事を告解とも言い、罪の赦しを得るのに必要な儀礼や、告白といった行為をいう。
教派ごとに概念や用語が異なっている。カトリック教会および正教会では、教義上サクラメントと捉えられているが、聖公会では聖奠的諸式とされる。プロテスタントではサクラメントとは看做されていない。


※ ここに大きな違いがあります。
仏教における懺悔は、主に修行僧が行うものであるのに対して、キリスト教では、一般の信者が聖職者を通して行う。

要するに、キリスト教世界では、懺悔さえすれば、全てが許されるのです。
ボランティア活動や寄付さえすれば、道義心など捨てても良いのです。
これがキリスト教世界、アングロサクソン世界の実態であるのですが、一般的なキリスト教の概念が、これを隠しているのです。

更に、ご丁寧にも次のようなことが言われているのです。

救い主はこのように言っておられます。

救い主はわたしたちにこう述べておられます。「見よ,…わたしは,すべての人に代わってこれらの苦しみを負い,人々が…わたしが苦しんだように…苦しみを受けることのないようにした。」
イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために,御自身にしかできないことを行われました。主の贖罪の効力をわたしたち個人の生活の中で完全に発揮させるには,キリストを信じる信仰を持ち,罪を悔い改め,権能を持つ人によりバプテスマを受けて確認され,聖霊の賜物を受け,神の戒めを守り,神聖な儀式を受け,主のようになるための努力をしなければなりません。主の贖罪によりこれらのことを行うならば,わたしたちは主と天の御父とともに永遠に住むためにみもとに帰ることができます。

※ 肝心要のことは、イエスのせいにして、自分たちは悪行の免罪符を手にしているようなものです。
教会に寄付をしたり、祈りを捧げたりすることで、何をやっても許されるなら、結構毛だらけ、猫灰だらけではありませんか。

もちろん、これは善良な一般信者のことではありませんが、ユダヤをはじめとした権力欲、金力欲の強い人間は、このようなキリスト教を十分に利用します。

民主主義も資本主義も、その運営においてユダ金共に完全に利用されているのです。
否、キリスト教にマインドコントロールされてしまっている、我々自身も、それを認めているのです。

メンテ
悪行の免罪符!! としてキリストの名を叫ぶ。日本では…それは…天皇を利用するのですな。 ( No.24 )
日時: 2015/06/03 23:09
名前: 青トマト ID:mLyyX8qI メールを送信する

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟でしたかねえ?

大審問官の前にキリストが突然現れて、審問官はキリストに、

「あんたに出てこられては困るんだよ、去ってくれ。」との主旨を言ったのですよね。

これが、日本では、天皇と政権担当者の緊張関係になって、

政権担当者に都合が悪いと、天皇を様々に圧迫したし、今でもしてるわけです。

で、創価学会では、この関係は、どうなるのでしょう?

学会幹部や池田大作と、お題目なのか日蓮なのか仏なのか?

都合が良ければ、それで良いなら、何でも良いか。

メンテ
ドストエフスキー ( No.25 )
日時: 2015/06/04 00:07
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:.ixe3YsY

青トマトさん、また興味ある言葉をありがとうございます。

カラマーゾフの兄弟も読んだことはありますが、何も覚えてはいません。
大体、陰気なドストエフスキーよりも、トルストイの方が好きでした。

>大審問官の前にキリストが突然現れて、審問官はキリストに、

>「あんたに出てこられては困るんだよ、去ってくれ。」との主旨を言ったのですよね。

ネットで検索したのですが、次のような場面の様です。


(5)「大審問官」

 「大審問官」の舞台は、16世紀のスペイン、宗教裁判の盛んな時代です。大審問官というのは、その裁判長、いわばその地域のキリスト教世界の最高責任者であります。そこへ、ひょっこりイエス・キリストが帰ってくるという話なのです。
 彼は人知れずこっそりやって来たのに、どういうわけか人々は皆、それがキリストであるとわかってしまいます。そこへ大審問官が通りかかり、キリストを捕えてしまうのです。大審問官も、それがキリストだと分かっているのです。その夜、大審問官は、こっそり牢屋のキリストを訪問し、こう告げるのです。

「お前はなぜ今頃、のこのこと帰ってきたのか。困るではないか。お前が去った後、キリスト教会は、実はお前の教えの上に築かれてきたのではない。本当は、あの時、お前と対決したあの悪魔の方が正しかったのだ。お前のせいで、キリスト教会はこんなに苦労をしたのだ。大多数の一般民衆にとっては、パンを与えられて、奇跡と神秘を見せられて、絶対的な権力の元に置かれた方が幸せなのだ。そのことを示してくれたのは、お前ではなく、他ならぬあの時の悪魔であった。」

 90歳になる大審問官にとって、それはこれまで誰にも言えなかった秘密でありました。それを突然、自分の目の前にあらわれたキリストに向かって、息せき切ったように、とうとうとぶち負けるのです。この大審問官は、人間とは自由の重荷に耐えられないか弱い存在であり、自由と引き換えにパンを授けてくれる相手にひれ伏すことを求める哀れな生きものであることを告げるのです。

 「知るがいい。わたしはおまえなど恐れてはいない。知るがいい。このわたしも、かつて荒野にあって、イナゴと草の根で飢えをしのいだことがあった。おまえが人々を祝福した自由を、祝福したこともあった。……だが、わたしはふとわれに返り、おまえの狂気に仕えるのがいやになった。そこでわたしは引き返し、おまえの偉業を修正した人々の群れに加わったのだ。……もう一度言っておくが、明日にもおまえは、そのおとなしい羊の群れを見ることになるのだ。われわれの邪魔をしにきた罪で火焙りになる炎に、わたしの指ひとつでわれ先にとおき火をかきあげる人の群れだ。われわれの火刑にだれよりもふさわしい者がいるとするなら、それこそはおまえだからだ。明日、わたしはおまえを火焙りにする。これで終わりだ」(p.288)。

 大審問官は口をつぐみますと、目の前のキリストが自分に答えてくれるのをしばらく待っています。相手の沈黙が、自分にはなんともやりきれない。老審問官としては、たとえ苦い、恐ろしい言葉でもいいから、何か言ってほしかった。しかしキリストは何も言わないのです。あのピラトの裁判におけるキリストを彷彿とさせます。
 さてこの大審問官とキリストとの対面、最後がどうなるかと言えば、次のようになります。(言わない方がいいでしょうか。私はよく最後まで言ってしまって、「ネタバレしちゃ、だめですよ」と叱られますが)。
 キリストは無言のままふいに老審問官の方に近づき、血の気のうせた九十歳の人間の唇に、静かにキスをするのです。そこで老審問官は、ぎくりと身じろぎをする。そして彼はドアのほうに歩いて行き、ドアを開けてこう言います。『さあ、出て行け、もう二度と来るなよ、、、、絶対に来るな、、、絶対にだぞ、ぜったいに!』そしてキリストは立ち去って行くのです。
 この「大審問官」は、創作ではありますが、とても真実味のある物語ではないでしょうか。彼は、民衆のためと言っていますが、それを言い訳のように用いながら、彼の心の中には、やはり権力への誘惑があったに違いないと思います。そういう意味では、この大審問官自身が、悪魔にひざまずきながら、この世界、そして皮肉なことに、キリスト教世界をうまく操れるすべを、悪魔から受け取っているのです。


(引用終わり)

ドストエフスキーはキリスト教に影響されたとされていますが、彼らしく一筋縄ではキリストを理解していないですね。
ある意味、キリスト教世界の微妙な難点をあぶりだしています。

キリスト教における「贖罪」と「懺悔」で言ったような事を裏付けられていると感じました。

メンテ
失楽園 ( No.26 )
日時: 2015/06/04 16:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:SdaVykX6

別スレッドで、満天下さんが、失楽園について次のように言っておられます。

「神が御創りになった最初の人間アダム、そのアダムとエバがヤハウエの神の意志にそむいたとして、楽園から追放される。「労働」とは、人間に対する罰として失楽園から始まったと、欧米人は人が働かねばならなくなったのは、この創世記に記されている人類の祖・アダムの罪を相続しているからだと、日常的にも自然にそのように精神に埋め込まれているようです。」

期せずして、人間にとって労働(仕事)は、生活を営む上で(社会を維持する上で)必要不可欠なものと定義されているようです。
それが、生産技術の発達で、多くの人が労働しなくても良いことになる事は、そもそも、人間の生い立ちの前提条件が崩れるものとなり、もはや神も仏もない時代、救い様のない時代へ向かうと言うことになります。

如何に科学技術が発達しても摂理に反する生き方が出来るものでしょうか。
人類は冒してはならない領域まで目の前にしていることになります。

その様な訳で、私の言いたいこと(持論)、人間は概ね働く事をやめてはならない。
能力があり意志のある人々に仕事を与えることは、何にもまして重要なことである。

生産技術の発達が、人間から仕事を奪う様なことがあれば、何らかの形で、それを補わねばならない。
一方で、民主主義、資本主義の原理は人類が勝ち取り、人類の幸せに欠かせないものであるならば、国家の力で、社会の力でこれに対処しなければならない。

民主主義、資本主義と言って、これが二律背反で不可能と決め付ける必要はない。
何ができるかを検討しなければならない。
将来は、神の摂理も抱合した民主主義、資本主義のシステムを考えなければならない。

経済の仕組みを考える以前に、人間に仕事を与える為に、作為的にでも仕事を確保することである。
例えば、第一次産業と言われる分野を興隆、復活させることである。

科学肥料が人間に害を及ぼすならば、手間暇かかっても有機農業を復活させることである。
林業を興して、地球の緑を復旧することである。
自然を元に返す為の産業を興すことである。

これらの分野は、経済競争故に打ち捨てられて来た分野でもあり、人間は人間社会の為に、復旧品しなければならない。
しかしながら、資本主義のシステムを取る限り、民主主義を守る限り、それは無理な方向であろう。

そこで、私は提案したい。

以上、言った事業の展開の為の財源は資本主義の論理以外から調達する。
要するに、通貨の増刷(ヘリマネ政策)にほかならない。
民主主義について触れたのは、この領域に関する通貨の増刷が民主主義(資本主義)の概念(公平)に反すれども条件付きでこれを受け入れる必要があるからである。

この為の国家の規制を受け入れることである。
また、それに伴う(食料自給を目的とした場合)交易の制限で生じる物価の不公平性を容認することである。

現代社会は、大規模生産、経済的競争のおかげで、多くの人が昔は考えられない物質、機械器具を手にし狂喜している。
テレビは各部屋に1台、電話は一人一人、自動車もほとんどの家庭が所有し、複数台ある家庭も少なくない。
食料は必要なものの倍以上作っては捨てている。

このような繁栄を否定するつもりはない。
が、そのうちの10%くらいであれば、思うようにはならない不自由を受け入れることができないものか。

人間社会の将来の安定の為に、それくらいの不自由を受け入れるべき時に来ていることは間違いない。
現在は、急激に来た天国のような幸せ感に浸ってはいるが、多くの人が、これではいけないと感じるべき時である。

そうした時に初めて政治は動く、社会は変わる。
現代社会は、色々な矛盾がで初めているが、その不快感を、実際の制度のせいにしているだけでは解決には至らない。

科学技術の発達は、人間の身の丈を超えてしまったのである、神(失楽園)の想定を超えてしまったのである。
これが問題であることを認識しなくてはならない。

とりあえず、今日はこの辺で。





メンテ
失楽園・・・人間生存の基本である第一次産業を忘れた罰 ( No.27 )
日時: 2015/06/04 21:04
名前: 満天下有人 ID:LBCcjgUY

紀元前600年頃の、バビロンの捕囚時代に記されたと言われる創世期に書かれている失楽園。

神によってアダムとエバが失楽させられたその楽園は、有名なエデンの東、メソポタミア文明のチグリス。ユーフラテス河流域に存在した。

神は、園を耕し果実の実を作るよように命じたのに、園の中央に神が植えた知恵の木と生命の木の実を食べたものだから、神しか永遠の知恵と生命を持たないのに、その実を食べた人間が神のようになるのはけしからんとして、神はアダムとエバを追放された。

黙って自然の恵みを耕すことに専念しておれば、人間は生きることが出来るのに、知恵の実を食べてしまったものだから、追放された。でも神の意思に反して人間が生き長らえるには、神が罰したその知恵でしか生き延びる手立てがない。

かくして人間と言う生き物は、神のご意志に反しても、あれこれ知恵を絞って生きる知恵=科学の発達、それによる産業革命、そしてそこから生じた資本主義、それに頼るしか生きることが出来なかった・・・そういうことなのかも知れません。

だがその人間の知恵が編み出した資本主義なるもの、人間が産み出したそのシステムが逆に、人間を支配するようになってしまった。デカルト時代の、我れ思う、故に我あり程度の哲学では、まだそれに気がついていない。ヘーゲルに至って、初期の弁証法的思索の芽が出て、人間が己個人と相対するだけで生きれるのか、社会関係における人間を考えねばならないのではないか、その疑問の入り口に立ったのではあるが、まだ形而上的な把握しか出来ていない。

フオイエルバッハがやっと、人間が編み出したそのシステムに人間が支配されていることに気が付き、カール・マルクスに至って、本格的にその原因が理論的に確立された=人間疎外論なる哲学=労働の外化、労働の二重の疎外論がそれ。(岩波文庫・経済学、哲学草稿84頁)。

働くことに何故か意義を感じなくなった人間、働いても働いても何故か、充実感を覚えない。精一杯働いてもそれは、おれのものでは無くなる、そしてオカネにも結び付かない空虚さ。それは労働が「外化」されたからで、その事は既に神が警告して、お前達人間よ、いくら知恵を働かしてもいずれ、その知恵によってお前たちは滅びるとした、あの2600年前の失楽園で警告されている。そのことをフイオエルバッハやマルクスは気がついていて、論理的に検証したのだと思います。

これから更に生産性の向上で、人間の存在はどうなるのか、その疑問に対して神は既に御答えになっていたと思います。人間は既に人間性を失っていた=これが疎外論であり、働くことの「外化」という哲学で、ヤハウエの神、及び近代哲学の先駆者たちが既に言ってたことだと思います。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.28 )
日時: 2015/06/05 00:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WPr3j5fc

>紀元前600年頃の、バビロンの捕囚時代に記されたと言われる創世期に書かれている失楽園。

結局は、人間の本性は、3000年前から変わらず、それを看過することも、3000年前から行われていたと言うことの様です。


加賀美直史さんと言う生物科学の分野に進んだ人の文章です。彼のブログへ行きましたが英語が多く、ほとんど読めませんでした。
https://naofumi.castle104.com/about/

生物の進化と人間の愚かさについて、少し考えてみました。
生物の進化はDNAレベルでのランダムな変異・組換えが起こった後に、自然選択によって有用なものが残っていくという過程であると考えられています。45億年の歴史と、現在の非常に複雑で高度な生物という形で、このアプローチの有用性は十分に示されています。
リンクのWikipediaの記事にも強調されていますが、生物の進化には目的はなく、変異はランダムに起こると考えられています。
一見すると、これは非効率です。ランダムに頼るよりも明確に目的を持って進化した方が効率がいいように思われます。特に人間のような文明を築いて、医学が発達し、機械工学などの学問が確立していれば、自分で自分の体を作り替えてしまったほうがいいのではないかと。
しかしよくよく思い返してみると、人間が自分の手で進化させたものは必ずしも良い結果を生んでいません。例えば金融危機で問題となっている金融システム。これも長い年月をかけて人類が進化?させているもののです。あるいはビッグ3の経営だって、社員の創意工夫で組織が進化?していてもおかしくありません。いずれも霊長たる人間の中でも優秀なものが、思考力を働かせ、時間をかけながら発展させてきたものです。日本のいまの政治だって、人間が自ら作り上げて進化させてきたものです。
これらは人間が自ら目的意識を持って進化させたとしても、必ずしも良い方向には進まないことの良い例だと思います。
そういう謙虚さを持って、現代人は様々な課題にあたっていくべきだと思います。


この文章を紹介したのは「進化にもコントロールが必要ではないか!」と言うことを言いたかったからです。
ネットで検索しても「進化のコントロール」では、ほとんどヒットしません。
ですが、加賀美氏と同じように、誰かが考え出しているものと思います。

最近、数日、触れてきました人間自身の問題を解きほぐすに必要な概念となるのではありませんか。

メンテ
大審問官のテーマですが、そもそもキリストその人が当時のユダヤにおいて出てきて貰っては困ると認識された訳で…。 ( No.29 )
日時: 2015/06/05 02:01
名前: 青トマト ID:LBasQg/w メールを送信する

それで、十字架にかけれらたと、まあ、常識論を元に考えるとそうなるわけで、大審問官とは当時のユダヤ支配層であったわけで、キリストはユダヤ教において出てきて貰っては困った人物であったわけです。

でも、事実はキリストは死ぬことはなく逃亡できたとクルアーン他は伝えていますね。


そして新訳聖書でもクルアーンでも、終末と新世界の到来を予言しているわけで、現実はその様に動いてきていると私は考えますね。

私たち日本人はこれらの聖典の民ではないので、その事態に備えて、新しい時代を迎える準備を整えなければならないと考えて居るのです。

それは、今までの大多数の日本人の無責任ではあってはならず、日本人が無責任を脱するように自覚できる人達が率先して前に進まなければならないと考えて居るのです。

何やら、年齢に似合わない青臭いトマトの臭いを発してしまいましたか!?
メンテ
少し余計な事かも知れないのですが、伊勢神宮創建の垂仁天皇の時代とキリスト活動の時代とが重なっているのです。 ( No.30 )
日時: 2015/06/05 02:45
名前: 青トマト ID:LBasQg/w メールを送信する

この事は、いわゆる文献とされる様々なものがどの程度に正確であるのかについて厳密な探究が必要ではあるのですが、

伊勢神宮は新に創建された神宮ではなく、元伊勢神宮とか様々な経過を経て現在の地に創建された訳でして、元伊勢神宮も現存しているのです。

では、伊勢神宮が祀られなければならなかった背景が考えられるのです。

勿論、垂仁天皇の御意志があったことではありますが、

猿田彦と言う人物がキーマンであり、彼がこの地に招いたとされて居るのですが、

彼は「天狗」であるわけです。

鼻が高くて赤ら顔で、中東人と見られるのです。

天狗の狗の意味は、小さな可愛い犬との意味ですから、天の小さな犬と言った意味で、
天皇の小さな犬、又は天を祀る小さな(仕える)犬と言った意味になるのです。

それで、猿田彦がどう言った人物であるかについては日本にあまりにも馴染んでしまっていて詳しくは伝えられていないのですが、各地の神社の祭礼等に先頭を天狗が歩く姿が見られるのです。

日本の神道の現在に伝えられている姿に中東の宗教儀礼との共通性が指摘されるのは当然と考えられるのです。

私は、冒頭のテーマに関心を抱いて来てはいます。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.31 )
日時: 2015/06/05 11:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AVeaxoU2

青トマトさんは、和洋の歴史に本当に詳しいですね。

私は当地の祭りのことを調べていて知ったのですが、天狗が猿田彦であるなどとは普通は知りません。
また、元伊勢神社も当地、大江山(鬼退治)の麓にもあり、内宮、外宮もあります。車で30分のところにも、伊勢神宮はここから分祀したと威張っている小さな神社もあります。

キリスト教とは違う、宗教の様子を紹介する意味で、当地の祭りについて調べた文章を掲載します。


その神楽舞の内容を説明しましょう。

須津彦神社に奉納する神楽舞には、現在、剣の舞、鈴の舞、乱の舞、笹の舞の4つが残っております。以前は、加えて、四車(しぐるま)、囃子(はやし)、五宝楽(ごほうらく)があり半日も境内で舞っていたそうです。

舞の説明をする前に、神様と神楽のことについて説明します。
神社の氏神様は、通常神殿におられますが、祭りの時などは須津彦神社の神域を巡行されます。それが御旅行列なのです。

その時、神様が乗り移られる物を依り代(よりしろ)と言いまして、普通は神輿ですが、神楽の獅子頭も依り代とされています。
須津祭りの場合は、神事の初めに、宮司が何時もは閉ざしている神殿の内扉を開く時に、神楽が拝殿に入ってきます。その獅子頭に神様が乗り移られるとされています。
ついでに説明しておきますが、依り代には、御幣や笹、剣、榊、扇、弓など「採物(さいもつ)」と言われているものが多種ありますが、その多くは神様の力を授かると言う意味でしょう。

御旅行列のあと、神楽舞や太刀振りは地域を巡行します。これは祭りの神事を神社境内に留まらず、華やかにすることで民衆の楽しみとするようになって来た為です。
ここでは神社における神楽の奉納の舞を説明します。

まず、剣の舞について、

獅子が宝剣をくわえて舞うことで、天地四方を清めます。宝剣を抜きはらって天地四方の邪気を切り祓う悪魔祓いの舞いとして知られています。静かな笛と太鼓の響きとともに舞う、神々しい舞いです。
獅子が「剣」を口にくわて舞うことは、まさに神が依りついていることを象徴的に表現しているのです。
剣の舞は、各戸訪問の時は、そのお宅を正面として、1方だけのお清めをするのですが、本祭に神社で奉納する剣の舞は、3方の舞と言って四方すべて(地区全域)の邪気を祓う中心的な神事です。
須津彦神社におけるこの舞には天狗が登場します。
天狗の役割は、獅子の真似をして舞うことです。神様が乗り移った獅子が民の為に厳かに舞う、その様を真似る天狗は、我々、民の気持ちを暗示させているのではないでしょうか。

鈴の舞(すずのまい)

門付けなどで最初に舞うのが「鈴の舞」。これは竈払い(かまどばらい)を意味します。現代でこそ、竈(かまど)は使われませんが、竈(かまど)は一家のいのちの根源です。火をおろそかにすると、すべてを失います。だから、「火の用心」なのです。獅子舞いは人々のいのちの根源たる竈(かまど)に感謝し、災いがおきないように最初に「鈴の舞」を舞うのです。一戸一戸を廻り、その家の厄払いをしてくれる神様の民に対する優しい心使いと思って良いのではないでしょうか。

乱の舞

伊勢大神楽のなかに、跳の舞(とびのまい)と言う舞があります。神楽では静かな所作から跳躍、登攀、飛び降り、逆立ち、旋回と回転、首振りと激しく動き回る仕草があります。これはすべて獅子神の悪魔調伏の威力を誇示する表現です。これを「狂い」と言いまして、激しい舞を見せることによって神の力を表現し、その力を皆さまに授けるのです。
須津彦神社の神楽の乱の舞の場合、その途中に洞入り(ほらいり)と言う動作が入ります。洞入りの意味は、獅子が洞窟に潜んで周囲を睥睨(へいげい)している様子を現すようで、実際の洞に入るのではなく、胴体で獅子頭を包み込んで現しています。また、洞に入った獅子が耳だけを動かす仕草をします。他の動物でも、自分を強く見せるために羽を広げたりして大きく見せる事があります。洞入りと言う動作も、獅子の強さの別の表現(威厳を現す)と見ることができます。洞入りを舞うときの舞手は、非常に無理な姿勢を取らざるを得ないそうです。
神道で言います神は、天変地異位を引き起こす恐ろしい存在であると共に、これを祀る(まつる)ことによって民に恵みをもたらす存在とされています。

笹の舞

伊勢太神楽では、これを、楽々の舞(ささのまい)と言います。         
『金槐集』には万葉の神楽を「ささ」とし、やがて採物の「笹」へと移り変わっていったとされています。この笹は単なる笹にあらず、神が依る物なのです。
舞では、「番内」と呼ばれる天狗面の者が笹をもって登場します。獅子はこれに神の来臨を乞うのです。これは神が乗り移ると言う意味ではなく、神様の力を笹に与えて欲しいという意味でしょう。               
10日恵比寿などで「商売繁盛、笹もって来い」と言います。神の力が宿った笹を家に持ち帰へり、田畑にたてれば五穀豊穣となると信じられています。また、家に持ち帰れば災いを祓いのけるとされているのです。

須津彦神社の笹の舞は、神が宿った獅子が、のんびりと休んでいるところに笹を持った天狗が登場し、獅子をからかうと言う仕草で舞がなされています。からかうと言うよりも、天狗が持つ笹に神様に神の力を宿して欲しいと催促しているとも取れます。この場合、天狗はもう一方の手に持った扇子で催促します。休んでいるのに、あまりにもしつこいので、獅子は扇子を取り上げようとするのですが、天狗は、その都度、巧妙に交わして逃げます。獅子はいやいやながらも3回ほど繰り返しますが、容易には取れません。結局は4回目で扇子を取り上げ、舞は終了します。                       
この過程を長々と舞い、神楽舞の中では一番長い舞となっています。この舞は荘厳な神事と言うよりも、獅子の形になった神様に対して自分が持った笹に乗り移れと厚かましくも催促するまでに、民が神を身近に感じている様を現しているのではないかと思います。

登場人物が、なぜ天狗であるかと言いますと、古事記・日本書紀などに登場し、天孫降臨の際に案内役を務めた国津神のサルタヒコは、背が高く長い鼻を持つ容姿の描写から、一般に天狗のイメージと混同され、同一視されて語られることから天狗となったのでしょう。祭礼で猿田彦の役に扮する際は、天狗の面を被ったいでたちで表現される事がよくあります。

(追伸です)

>何やら、年齢に似合わない青臭いトマトの臭いを発してしまいましたか!?

青トマトさんのHNの意味の一端が解った気がします。
今までは、通常は赤いと思われるのに青とは! と思ってました。
そう言う謙遜の意味,あるいは皮肉っぽい意味とも思って思ってましたが、青臭い意見も言うと言う意味が含まれているのですね。

青臭い意見と言えば、私は、その青、そのものです。
私が小沢一郎に出会ったのは、30年も前のことですが、テレビでトツトツと語る政治家の、その青臭さ、書生っぽさに信頼を寄せたのがきっかけです。

普通は、いかにも自分の老成ぶりを誇りたくなるものですが。
どうりで青トマトさんの見識が高いはずです。


メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.32 )
日時: 2015/06/05 14:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AVeaxoU2

青トマトさん、更に追伸です。

No29の青臭い意見の中に、本当に大切なサゼッションが含まれていますね。

本当は青臭い意見など年相応の者がやれば良いのですが、最近の若者、中年は、目先の問題を追うばかりで、そう言うものにはトンと反応しません。


>それは、今までの大多数の日本人の無責任ではあってはならず、日本人が無責任を脱するように自覚できる人達が率先して前に進まなければならないと考えて居るのです。

日本人の無責任さ、無気力さについて、色いろと仰っています。
私は、その特質を日本人の伝統的な「和」の心の中に見ています。
その「和」の概念も「民主主義」の概念が正しく反映されていないように、偏った捉え方をしているのではないかと思っています。

また、後段に

「日本人が無責任を脱するように自覚できる人達が率先して前に進まなければならないと考えて居るのです」

は、更に重要な要素と思っています。
そう言うことができる人、これを時代のリーダーと考えます。
トインビーも文明が展開、発達していく条件として先見者の存在を言っています。

「和」の国のリーダーとは「大和魂(これも偏見が多い言葉ですが)」を兼ね備えた漢であると定義したいと思っています。

そうして我が国の歴史にも、一時、その様な時代がありました。
鎌倉時代です。
この頃に、日本の文化と言うものの素地が出来上がりました。

「大和魂」<日本の心のルーツを考えるスレッドは、このために立ち上げたものですが、余りにも細部にこだわり、未だに完結は程遠い様です。

でも、青トマトさんも、同じような危惧を抱いておられることが分かり、勇気を得た様です。

さらに、さらに、言っておきたいのですが、

昔の人たちは、リーダーの存在を認め、素直についていく(真似る)傾向がありました。
それで世の中の変遷も出来たのです。
革命の時代もそうですね。

ところが現代人は、教育が行き届きみんなが物知りとなり、民主主義の弊害(個人の権利)も相まってリーダーの存在を認めようとはしません。
特にインテリと言われている者共がそうであるので、リーダーがでなくなっています。

これも自業自得と思います。
故に、知識だけをひけらかす、インテリと言う連中を侮蔑して見るようになりました。
メンテ
そうですね、深刻ですね。お恥ずかしいですが。 ( No.33 )
日時: 2015/06/05 23:23
名前: 青トマト ID:LBasQg/w メールを送信する

今日は少し忙しいので、改めて少し詳しく投稿したいとは考えてはいますが、できるかどうか、まあ、少しは頑張って見たいとは思っていますが、なにしろ安倍が地震雲でこまりものでして、満天下有人様も私も首都圏在住で彼には困っていますね。

橋下のようにいさぎよくはないので。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.34 )
日時: 2015/06/06 13:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qLI1YTRM

>猿田彦と言う人物がキーマンであり、彼がこの地に招いたとされて居るのですが、

>彼は「天狗」であるわけです。

>鼻が高くて赤ら顔で、中東人と見られるのです。

と青トマトさんが言っておられます。
なにげなく、言われた言葉かもしれませんが、失楽園の話も同じで、意外と展開する内容なのです。
「大和魂」スレッドの初めのころに関連することを少し書いています。
随分と時間が経って忘れかけていましたが、本論を始める前に、閑話休題として再掲してみます。

>神々の話

西洋のユダヤ=キリスト教では、男性的な神が万物を創り、神は土の塊から人間の男を創ります。そして、神はアダムを慰めるために、男の肋骨から女を創ったとされます。

これに対し、日本神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生します。これらのニ神は、人間と同じ男女の営みをし、人間はその子孫として誕生したとされます。
このように、日本では、男女・陰陽の「和」によって、国土や人間が誕生したと考えてきたのです。

さてイザナギ、イザナミのニ神から生まれた子供が、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのをのみこと)です。
須佐之男命は高天原を暴れまくりますが、弟の暴虐に対して、天照大神は争ったり、罰を下すのではなく、天岩戸に身を隠すという振る舞いをします。それによって、地上は闇の世界となります。

この時、八百万の神々は、天の安の河原(あめのやすのかわら)に集まって、話し合いを行います。思金神(おもいかねのかみ)の妙策によって、天照大神を岩戸から引き出すことに成功し、世界は再び光を取り戻します。
 須佐之男命はその振る舞いのために、高天原から追放されます。しかし、天照大神と須佐之男命は後で和解し、大罪を許された須佐之男命は、出雲の地に下り「やまたのおろち」を退治する大活躍をするのです。(2)

日本神話には、争いを避け、話し合いを重んじ、共存共栄を目指す「和」の精神が、さまざまな形で描かれています。そうした日本固有の精神を、「和をもって貴しとなす」と表現したのが、聖徳太子だといえましょう。
そして「和」は、その後の日本人と日本の精神を考える際のキーワードとなっているのです。

太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」です。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。

>「和」とは

大部分省略して掲載しましたが、大和民族が育んできた「和」と言う概念が地形的にも、民族学的にも特別の条件で自然発生的に形成されて行ったことが伺えます。
その「和」の概念を、も少し具体的に捉えると共に、他民族の特性とも比較したいと思います。

レスをいただく方があり、「和」の言葉自体を解説してくれました。このようなことは思いもしなかったのですが、言語学的な肉付けです。


「和(わ)」は音読みか、それとも訓読みか もし音読みなら、それは漢語だということになります。

日本語とアラビア語:

聖徳太子の時代以前からアラブ商人は今の中国の都市泉州や、揚州に来ていた。もちろんイスラーム革命以前です(聖徳太子が死んだ622年からイスラームは始まった)。揚州は隋の皇帝煬帝お気に入りの都市で、長く滞在していた。要するにアラブ人と隋の皇帝は接点を持っていた。それでアラブ人は東アジアの動向も知っていたに違いないのです。福建の漁港としての泉州の漁民からも、少なくとも日本の九州に関する情報を得ていたはず。

隋が破滅し、唐へと変る東アジアの情勢を受けて、ムハンマドによるイスラーム革命が起されたと想像することができる。唐はご承知のとおり遊牧民による王朝でした。

アラビア語で”ワタシ”を「アナー」、貴方を「アンタ」と呼びます。このうち「ア」は「ワ」と同類でです。日本語では我の”ワ”もあっちの”ア”も厳密に区別しません。だから「アナー」は「ワナー」と置き換えることもできる。大変な共通性があります。ちなみに「アンタ」の”ン”は”ヌ”の変化形です。

要するにソナタというときの”ナ”と「アンタ」というときの”ナ”は日本語とアラビア語で共通しています。”ナ”は遠いものを指し、同時に尊敬の意味がある。

アラビア語で”そして”又は”と”を意味するのに「ワ」という。日本語では”テ”に当たり、英語ではandです。この「ワ」こそ和語としての「わ」だとするならば、その使われる際の場面は日本とアラビアとで非常に似ている。

この「ワ」を使うことにより、「汝」も「我」も同じになるからです。

金印で有名な「倭之奈之国王・・・」の文字も、単に”私の貴方”という意味に過ぎなかった可能性だってある。つまり「ワ・ナ・タ」です。
詳しい書物によると、中国語にもずいぶんアラビア語起源の発音があるようです。


>日ユ同祖

日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが精確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。

シュメールとは現在の南イラクのことです。そしてそこに北からヒッタイト族などがやって来た。そしてバビロニアなどの国家を建設してシュメールの文化をシリアに広めた。シリアとは、現在のシリア、レバノン、バレスチナ、ヨルダン、イスラエルを包括する地区です。シュメールはユダヤにとって先進文化地域だった。

楔形文字は、古代オリエント地区で東アジアにおける漢字と同じ役割を果たしていました。メソポタミアの共通文字だった。

シュメールには葦原が広がっていたらしい。日本もかつては”豊葦原の国”と呼ばれました。葦は筆(ペン)を作るために利用されます。粘土と葦の組合せが文を生んだ。「書く」とは引っ掻くと言う意味です。Grammarのグラムは刻むという意味。紙が発明されるまで、文字は刻んだり引っ掻いたりするしか記する方法が無かった。

シュメールの人々が東に移住し、インダス文明を築くなどしながら、南海伝いに日本までやってきた可能性は十分にあると思います。

>日本人の源流

ここまで遡れば十分でしょう。次には大和の国から見た太古の様相です。

黒潮は日本列島南方海上で対馬方面と高知方面に分かれる。対馬方面へ流れる海流に乗ると、船は九州北西部とか、或いは朝鮮半島南東部に行き着く。出雲地方もその中に含まれます。

紀伊半島もそういう意味で同じ人々が流れ着く場所でもある。そのせいか、熊野権現は出雲系の神様が祭られています。その他に、伊勢、伊豆、安房、鹿島(茨城県)など、いずれも黒潮と無縁ではない。

大和川を行き着くところまで遡ると飛鳥地方に至る。他方その先の山の向こうには、吉野を経て熊野があります。古代にそこでヤマト民とミナト民が出会ったとしても決して不思議ではありません。

このように想像すると、日本古代史は黒潮をキィ・ワードとしてヤマト民やミナト民(海民)の動向を中心にして再構築する必要があると言えるでしょう。

ヤマトとミナトという言葉が出てきました。

昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。

陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。

むかし江戸は武蔵野国にあった。軍艦でも大和の姉妹艦として武蔵が建造されました。江戸がミナト(水戸)民の土地だったことは言うまでもありません。

むかしから、我が国は南方や朝鮮系の渡来人が多くいたことは、聖徳太子の時代にも秦氏、漢(あや)氏などが良く知られています。
上記に書いた流れの中に組み込まれるのでしょう

大和民族とは、日本列島に住んできた人類で構成される民族で、そこでは縄文時代から日本列島に住んできた人々(いわゆる縄文人)と、縄文末期からユーラシ大陸から渡来した人々(いわゆる弥生人)が中心となって形成した。この過程は前回の大きな流れのなかでも触れています。

>「和」の国建国

ヤマト王権が、日本列島各地に散在していた様々な人的集団を勢力下に置き、同化したことにより大和民族が成立していったと考えられている(しかし大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない。

そして民族の特性として、大和民族は農耕民族、あるいは島国に居住することから海洋民族と分類される場合もある。 また江上波夫が騎馬民族征服王朝説を唱えたが学術的には否定されている。

このような中で、日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立したのが神道のはじめである。

『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範とする。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られる。

また時代的に中国の影響を受けて仏教や儒教の考え方は早くから入っていたとしても不思議ではない。祖先崇拝などでは儒教の影響も大きい。それらが複合した形態をもって、一つの一貫した民俗体系が構築されている。

神道、儒教に関しては後に検証するとして、このように民族的にも精神史的にも結構多様な要素を含んで「和」の心が育まれて行ったことが解ります。

その「和」の心の概念をもう少し強くするためにも、仏教や、儒教についても考えなければならないでしょう。
これからの問題ですが、仏教も儒教もインドや中国で展開したものとは少し違っているようです。
なぜ、そうなったかも「和」に関する要素が原因なのでしょう。
メンテ
前段のまとめ ( No.35 )
日時: 2015/06/09 14:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ISHxftYU

初めは、ここまで掘り下げることは考えていなかったのですが、失楽園の話題が出てきて、人間の本質論に言及することになりました。
NO27のレスで満天下さんが、その人間の精神史をまとめておられます。



かくして人間と言う生き物は、神のご意志に反しても、あれこれ知恵を絞って生きる知恵=科学の発達、それによる産業革命、そしてそこから生じた資本主義、それに頼るしか生きることが出来なかった・・・そういうことなのかも知れません。

だがその人間の知恵が編み出した資本主義なるもの、人間が産み出したそのシステムが逆に、人間を支配するようになってしまった。デカルト時代の、我れ思う、故に我あり程度の哲学では、まだそれに気がついていない。ヘーゲルに至って、初期の弁証法的思索の芽が出て、人間が己個人と相対するだけで生きれるのか、社会関係における人間を考えねばならないのではないか、その疑問の入り口に立ったのではあるが、まだ形而上的な把握しか出来ていない。

フオイエルバッハがやっと、人間が編み出したそのシステムに人間が支配されていることに気が付き、カール・マルクスに至って、本格的にその原因が理論的に確立された=人間疎外論なる哲学=労働の外化、労働の二重の疎外論がそれ。(岩波文庫・経済学、哲学草稿84頁)。

働くことに何故か意義を感じなくなった人間、働いても働いても何故か、充実感を覚えない。精一杯働いてもそれは、おれのものでは無くなる、そしてオカネにも結び付かない空虚さ。それは労働が「外化」されたからで、その事は既に神が警告して、お前達人間よ、いくら知恵を働かしてもいずれ、その知恵によってお前たちは滅びるとした、あの2600年前の失楽園で警告されている。そのことをフイオエルバッハやマルクスは気がついていて、論理的に検証したのだと思います。

これから更に生産性の向上で、人間の存在はどうなるのか、その疑問に対して神は既に御答えになっていたと思います。人間は既に人間性を失っていた=これが疎外論であり、働くことの「外化」という哲学で、ヤハウエの神、及び近代哲学の先駆者たちが既に言ってたことだと思います。



そうなのですね。
万物の霊長などという思いが、実際に人間の知恵の部分を発達させ、今や神の想定を超えて、神に近い存在となってしまった。
いや、そのことも神はお見通しであったと言うことです。

そうして結果は、神の救済もままならない状況に追い込まれてしまった。
3000年続いてきた宗教も哲学も人間を十分にコントロール出来なくなってきたということでしょう。

でもね、宗教も哲学も、実際は人間自身が生きるために考え出したもの。
要するに人間自身が、新たな宗教、哲学でも考えない限り、人間社会は混沌に逆戻りするとも言えましょう。

このような観点から見ると大げさになりましたが、トインビー的解釈をすれば、実際には、文明史の岐路に立っているに過ぎません。
現代文明は、発展期を終え、新たな困難に直面している。
それは外敵ではなく内部の矛盾のせいであろう。
であれば、過去数百年で何が問題であったのであろう。
どこで、ボタンをかけ違えたのであろう。
それを求ることで、現在文明への挑戦を避け、更なる展開を向かえることができるでしょう。


(人類の環)のまとめに書いてます、次の言葉になると思います。

そうはしてはいけない、資本主義の妄想も民主主義の妄想も今、我々はたださなければならない。 人類は精神的許容量を超えて物質的に進歩しすぎた。 と言うよりも大量の物質を手にして精神が質を変えてしまった。 二十一世紀はそれを矯正しなければならない。 人類は経済活動全体を制御する方法を身につけなければならない。 物質の氾濫をコントロールしなければならない。 経済活動そのものは本能に基づくものであるから、我々は人間の本質を見直す領域まで立ち入らねばならない。

プラトンが役に立たないのではない。 ショーペンハウエルが役に立たないのではない、キリストも必要だ、人間の本質は変わるものではない、彼らの言っていることは全て間違ってはいない。 ただ人々のほうが自らの本質を見失っているのだ。 しかし現代の状況で安定した精神を維持することは並大抵ではないと思う。 昔から沢山の思想家はいたが、一般の人々にとってけして身近な存在であったとは言えない。 当時の人々の考えることの総体が彼らであり、より究極的に表現しているのが彼らであっただけであり、宗教の教義のように人々に直接的に喧伝されていたものではない。

しかし現代の我々は大部分が自身を見詰め直す必要に迫られている。 先人の意見も真摯に検討しようではありませんか。 我々自身が意識的に現代に応じた我々のあり方を考えるとき、それを象徴する思想家達が現出して体現してくれるのではないか。 数百年前のルネッサンスのように、切実なる我々の意思が集約されたとき、新しい思想が現出するのではないか。 やがて現れる思想は超人間の領域をも抱合しているかもしれない。 そしてその思想は今までになく人々を束縛するものであるかも知れない。 またそれは同時に独裁に結びつかないシステムでなければならない。 安易な思想は我々をまた異なった方向の不幸へ導く。

いよいよ真剣な民主主義の本分が問われる時代の到来が近い。 矛盾する方式だが、勇気を持って確立できるように努力しなければならない。 資本主義経済システムの限界を認識し、そのシステムに振り回されない社会の仕組みを考え出さなければならない。 グローバル化が必要な面もあるが我々の身の丈にあった生活環境を合わせ持とうとする方向のなかに、来るべき社会のヒントがあるように思う。 一方で我々の精神は我々自身が創出する科学と真正面から対峙してゆかねばならない。 数十年の歳月を要するとも、我らが子孫の繁栄のために努力を始めなければならないと思います。

(転載終わり)

そうなのです。
私は現代文明の困難は、過去において人間がものにした「資本主義」「民主主義」の概念が、身勝手に行き過ぎたと言うことになります。

要するに、個人の権利、自由と言う人間の利己心の追求には限度を置くべくであると言うことです。
しかしながら、制限も行き過ぎれば、封建時代に逆戻りします。
最大限で2割くらいの不自由を受け入れる覚悟が必要かと思います。

実際の生活においては、各人は当然、その様な、否、それ以上の不自由を味わっているのですが、表向きは、それを認めません。
その表向きが社会のルールです。

現代社会は、報道に自由の問題でも、これに制約を加えるものなら、敢然と否定します。
もちろん、その制約が独裁者により悪用される危険性があることは歴史が証明しています。
人間の闘争の歴史は、その連続であったとも言えます。

ですが、過去の歴史は人間同士の富(豊かさ)の配分上の闘争でした。
現在の問題は、そうではなく(格差の問題)、人間社会自体の存立の問題でしょう。

経済的にも独占資本を批判しても、雇用の根本的な問題は解決できす、資源の問題も解決できないでしょう。
物資、情報の氾濫による、人間精神の問題についても誰かを糾弾して済むことではないでしょう。

要するに、我々自身が、その利己心において、少しだけ謙虚になることであると思います。
そう言う気持ちになれば、何ができるかと言うことになります。

これから言います、諸制度は、人間自身が、このような気持ちにならないと実践できません。
それは不可能なことでしょうか。

私はそうは思いません。
現在は民主主義に浮かれて見境がなくなっているだけと思います。

信奉するのは神様だけで良いのです。
もともと、神は人間が、その存在の為に考え出した概念でしょう。

人間は、その時の様な謙虚な気持ちに戻ることが大切ではないでしょうか。
メンテ
前段のまとめ 2 ( No.36 )
日時: 2015/06/09 15:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ISHxftYU

未来社会と言う言葉で、検索すると、ほとんどは、科学技術の進歩により、一層豊かな生活ができると言う様なものです。

エネルギーの問題も、通信手段、交通も進歩し、レジャー生活も楽しめると言うユートピア一色です。

ですが、本当に、そのようになるのでしょうか。

現代の問題は社会について行けない、社会から脱落する人間が多く出てきていることではないでしょうか。

その様なものに眼をつむり、科学技術の発展にのみ眼を向けるのは無責任ではありませんか。

このスレッドでは、そう言う未来社会を取り上げるものではありません。

むしろ、進歩のコントロールすべきか、否かが問題となり、いずれ、それも取り上げたいと思います。



メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.37 )
日時: 2015/06/10 14:31
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:mtc/EHkg

『創世記』の記述によればエデンの園は「東の方」にあり、アダムとエバは、エデンの園を耕させ、守らせるために、神によって、そこに置かれ、そして、食用果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。

ヤハウェ・エロヒムはアダムとイヴが禁じられていた知恵の樹の実(禁断の果実)を食べたことから「人はわれわれのひとりのようになり」、その後、生命の樹の実をも食べたことから永遠に生きることを恐れ、エデンの園から追放する(失楽園)。生命の樹に至る道(月)を守るため、ヤハウェ・エロヒムはエデンの東にケルビム(金星)ときらめいて回転する炎の剣(太陽)を置いた。

『失楽園』(しつらくえん)とは、旧約聖書『創世記』第3章の挿話である。蛇に唆されたアダムとエバが、神の禁を破って「善悪の知識の実」を食べ、最終的にエデンの園を追放されるというもの。楽園喪失、楽園追放ともいう。

(旧約聖書より)

意に反して、随分と始原的な認識からスタートします。
アダムとイブが禁断の実を食べた時から人間の社会が始まります。

上記の文章ではアダムとイブが禁断の実を食べてエデンの薗を追放された事を否定的に書いているが、それは比喩としてのことであり、人間社会を肯定的に見たいもの。
ただし、神様が危惧したことは現実として存在するであろう。

禁断の実を食べた人間たちが、その知恵を発揮して、

>「人はわれわれのひとりのようになり」、その後、生命の樹の実をも食べたことから永遠に生きることを恐れ、エデンの園から追放する(失楽園)

「その我々の様になる」とか「永久に生きる」とは、どのような事を暗示するのであろう。

我々の様になるとは、人間としての真摯な態度を忘れ、真面目に働かなくなる(生きなくなる)。
永久に生きると言うことは、死なずに、生殖機能を続ければ、際限ない増殖を続けてしまう。

3000年前に、神様(当時の使徒)は、人間性をこのように喝破していたのでしょう。何にも勝る哲学であります。

そうして、3000年の後、現代社会は、その神様が危惧した様子を垣間見せていると言うことだと思います。

冒頭で紹介した、スペインで100年前に行われた、ファティマ第三の預言にあるように。

「2039年の1月に人類は究極の変化に遭遇する。その時今の意味での人類はもういない」

と言う言葉が、それを暗示しています。


さて、前置きはこれくらいにして、文明史的な観点から、現代社会を検証し未来社会の事を考えましょう。

世界情勢から言えば、経済・軍事大国アメリカの覇権は世界を席巻し、それに抵抗する勢力VSアメリカと言う形となっています。
アメリカを中心とする勢力は、いわゆる、200年前から始まった西欧民主主義、資本主義の本筋を行くものでグローバル化を推し進めてきました。

アメリカと対抗する勢力の内、ロシア、中国は最近になって、民主主義、資本主義を取り入れたものであり、アメリカの様子を見ながら全く同じ過程を踏んでいるのものではないように思います。
ですが、経済的な領域での市場の獲得、資源の獲得には、躍起となってアメリカに対抗しています。

もう一つの勢力、それはイスラムですが、これは西欧民主主義、資本主義を、そのまま取り入れようとはしていません。
現在のところ経済的な軋轢以前に、宗教的な軋轢でアメリカと対峙していると言えます。

別途、発展途上国群がありますが、これは、双方どどちらかに組み入れられる以外に独自の道は歩めそうにありません。

さらに文化的な面を見ますと、アメリカ中心の世界は、物質的には満ち足りていて庶民の関心は自由とか個人の権利の確保へ向かっています。
それと比例して社会の規範を尊ぶ心は衰退し、自由を謳歌する一方で犯罪も多発してきています。

一方、ロシア、中国でも報道はされませんが、犯罪は増加しているものと思います。
両国は資本主義のシステムが定着する過程にあり、その権益、富の争奪が行われているものと思います。
この犯罪は古典的な動機であり、アメリカのそれとは少し異なると解釈した方が良いでしょう。

こう言った面でも、イスラムのそれは異なり、犯罪と言うよりも宗教的な粛清が蔓延っていると言えましょう。


現代社会の危機(問題)を具体的に現せば、

資源争奪、市場争奪の為の戦争勃発。

イスラム世界とキリスト教世界の宗教戦争。

各国に共通する国内問題として、格差の解消(貧困の問題)

アメリカを中心とする先進諸国においては、第二次大戦後に充実したと思われる社会福祉政策の維持の問題。

同じく、精神的荒廃の問題。

生産技術の発達に伴い、労働市場の縮小を迫られている。

一部の国においては飢餓の問題もあるでしょう。



内容的には、このような問題は、何時の時代でもあったことです。
ただし、その現れ方が、これもグローバル化してしまい、国家単位では解決がむつかしくなっています。

その、現代の問題としての特徴を見てみましょう。

>資源争奪、市場争奪の為の戦争勃発。

地球全体の資源は掘り尽くされ、あるいは調査によって埋蔵量が確定され、その取得を目指す国も限定さてれ来ている。
>イスラム世界とキリスト教世界の宗教戦争。
従来はイスラエルVSアラブであったものが、アメリカの介入により、またアメリカナイズされた生活環境への反感から、イスラム(原理主義)VSアメリカの様相が強くなって来ている。文明としての衝突の様相がある。

>アメリカを中心とする先進諸国においては、第二次大戦後に充実したと思われる社会福祉政策の維持の問題。

資本主義システムにより豊かになった分だけ、社会福祉が充実出来ると思われてきたが、各国共、必ずしも経済的発展が豊かさにつながらないことが分かり、制度の維持に混迷している。

>同じく、精神的荒廃の問題。

生きる為の食料を得る為の窃盗、強盗の類は古代からのもの。
最近は、仕事に溢れたが、最低限の物資を得るためだけではなく、富裕層が持つ贅沢品まで手に入れる為に行う窃盗もある。
反対に引きこもりが多いこともこれに入る。
また極端に組織化された社会では、自分の存在意義を見失い、犯罪に走らないまでも、自暴自棄に出る人も少なくないと思われる。
一方で満ち足りた生活を送るものも、退屈さ故に、人間性を失う行動に出来ることもある。

>生産技術の発達に伴い、労働市場の縮小を迫られている。

いわゆるロボット化であるが、これによって安価な商品を得られる一方で、物資の生産の場から雇用の喪失が起きている。
第三次産業で、この埋め合わせを考えているが、余剰となった労働力を吸収しきれない。
これを失業保険、生活保護と言う福祉政策で補おうとするも、量的に財源的に出来なくなって来ている。

>一部の国においては飢餓の問題もあるでしょう。

この問題だけは、国連が中心に動くことによって解決の方法はある。


(今回はこれまでとします)
メンテ
遅れましたが、No.31の御投稿への御返事を短くしか出来ないのですが。 ( No.38 )
日時: 2015/06/15 00:34
名前: 青トマト ID:2UToVr4A メールを送信する

突然に本題から入りますが、
御神事については、サワリと言うものが生ずる事がありまして、怖いもので御座いまして、天橋立愚痴人間様に御当地のお祀りについて詳しく紹介頂いたのには恐縮致しております。

御神事には、公言してはならないものがあるようで、その事は、後で知らされる事が多いのです。前もってある程度は判る場合もありますが。

猿田彦とは特定の個人を指しての言葉とは考えられないものでしょう。

ある系統の人達の事を指すので、何度もこの名が登場するのでしょう。

関東の獅子舞は西国とは趣が違っていて、獅子頭が獅子と言うより、鹿とか竜の頭の様子です。

しかし、天狗が先導するのは同じです。

ダイナミックな動きが多く、中東由来を感じさせます。

鹿を昔はシシとも呼びましたねえ。

当地の神主さんのお話では、獅子舞は元々は竜の舞いであったと言うことです。

獅子頭は前に長く、角が後ろに向かって二本生えています。
竜の頭とも解釈できるのです。

愚痴人間様はアイオーンを御存知ですか?

http://www.weblio.jp/wkpja/content/アイオーン_§アイオーンの像

これは、検索すると鮮明な像が幾つも出てきます。

蛇を体に纏っていて、失楽園をテーマにした創世記の記述との関連性も考えられます。

アイオーンは蛇を纏っているのであって、一体となっていることを表していて、至高の神とされる像であるのです。

ご紹介頂いた御当地のお祀りの参考にはなりませんか?

天狗が獅子の動きを真似るとは、天狗の本来の役割使命を暗示ているのではないでしょうかねえ。

愚痴人間様が御当地の事を詳しく紹介されたのでそれに応えるのが筋とは考えた事もありますが、項を改めます。
メンテ
御返事の続きです。 ( No.39 )
日時: 2015/06/15 00:51
名前: 青トマト ID:2UToVr4A メールを送信する

私は、御神事の役員とはなってはおりませんが、あまりに深入りしての知識の公言は、サワリを受けることがありますので、公言は世界中に対するものであり、核エネルギーと例えても同じことで、無闇な放出は世を乱すのであり、このように戒めが準備されているのでしょうね。

それで、自分の経歴に沿っての御神事に触れた知識は対面以外では話さない事にいたした方がいいのでしょう。

核エネルギー問題でも専門家同士ではコントロールが効きますので。

元伊勢神社については、もしかして、お近いのではと思ってはいましたが、やはりそうでしたか。

この神社に凝っている人も多いようですが、私はその類いではありません。

飛鳥昭夫とか言う評論家(漢字、間違ってるかも?)がかなり入れ込んでいるようで、彼はイスラエル人とも交遊があるようですが、彼の天皇理解は?のものです。

威張られるのは、どういう御心境ですかねえ?

会ってはいないので判りませんが、神事には謙虚が第一で天皇皇后もそのお立場を貫いておられますが。

以上で、御返事は取り敢えずは終えておきます。

創世記の記述に気になるところが御座いますので、日を改めてお書きいたします。
メンテ
サバイバルゲーム ( No.40 )
日時: 2015/06/16 10:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:..vaAwl2

青トマトさん、私は最近、神社総代をやってはいますが、伊勢信仰は全くありません。

ですが、神社も系列で仕切られていまして、当神社は伊勢神宮系列であります。
その為に、年に1回、地方の総代会議というものがあります。
この時に上納金(当神社では数万円、全収入の5%強)を持って行きます。

反対に本部からの補助金などはなく、ただでさえ不満に思っているところへ、会議の冒頭で君が代を斉唱したり伊勢神宮の方向へ向かって礼拝せよと言います。
もちろん、私は全て無視して憚りません。
会議の後の親睦会(宴会)も、こんな連中との会話など興味がないと、出席したことはありません。

さて、本題ですが、

NO37のレスで、現代社会の問題点を包括的に現しましたが、もう少し言い方を変えれば、

現代社会は、全ての人たちを繁栄に導く事が無理であると言う事が解り始めたと言うことです。
要するに人間同士、サバイバルゲームを行い雌雄を決して、立ち位置を決めろと言うことでしょう。

まさかと思い、楽観的に見たいと思うのは仕方ありませんが、実際に、そのように解釈すれば、色々な問題の方向性が理解できます。

このサバイバルゲームのルールは、民主主義と資本主義であることも、同時に認識しなければなりません。
それが嫌なら、民主主義、資本主義に反旗を翻さねばならないのですが、それが意識できない人々は、無意識のうちにサバイバルゲームにのめり込んで行きます。

メンテ
詳しい御返事をさせて頂きたいのですが(創世記に触れられた部分などにつき)、今回は少し気になりました事につき…。 ( No.41 )
日時: 2015/06/17 01:04
名前: 青トマト ID:oNVf3l2M メールを送信する

サバイバルゲーム的な昨今の経済事情を書かれましたが、

これは、詰まりは、今の米英イスラエルのやってる第三次大戦的世界運営を写したものに他ならないのではないですか?

サバイバルって?

自分は潰れたくない、自分だけは生き残りたい…それだけの事でしょう。

日本の経営者はお馬鹿が上部を占めていて、近江商人とか大阪商人や松阪商人の商人道徳を忘れて、米国の衰退に従ってるだけの、

テイタラクつまり堕落が、

ハイカラな(古い言い方ですが)装いで言えば、サバイバル、ではないですかねえ。

こんなの商売じゃないですよ。

単なる詐欺、でも、こんな阿呆ばかりじゃありませんよ。

曲りなりにも日本の経済が継続してるのは、やはり信用を重んじてやってる小売りや生産があるわけで、詐欺師ばかりが勝ってるのではありませんよ。

私は、その分野に仕事でタッチしていますので。

サバイバルをやってる前衛?は国際金融資本で、詐欺師 やコンビニ本部は明日の無い砂漠をさ迷ってるだけですよ。

彼らは、敗北者なのです。そう見えませんか?
メンテ
ダイエー、潰れましたねえ。次に、時代転換で潰れるのは何処? ( No.42 )
日時: 2015/06/17 01:16
名前: 青トマト ID:oNVf3l2M メールを送信する

肩で風切るアベ政権も、実は空しい紙風船。

コンビニ、スーパー量販店も、次にはSL・木炭車。

数十年後を生きていて見るといいですよ。

ダイエーの運命は彼一人だけのものじゃない。

盗賊・詐欺師に地位と金は寄り付かないのです。

商売の本質は、他人あってのサービスなのだから。

これが解らないやつは、アイウエオも知らない文盲ですよ。
勿論、数字も読めません。

ですから、転んでそのまま、御昇天だ。いや、地獄堕ちか。そちらだな。
メンテ
サバイバルの意味 ( No.43 )
日時: 2015/06/17 02:48
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:CU.Lu/QA

>サバイバルゲーム的な昨今の経済事情を書かれましたが、
>これは、詰まりは、今の米英イスラエルのやってる第三次大戦的世界運営を写したものに他ならないのではないですか?

サバイバルと言う言葉を使った意味が、良く伝わらなかったと思いますので、さらに追伸します。

私が言うサバイバルをやっている当人は、人間、そのもの、大衆、そのものなのです。
人間の世界で、格差がつくこと、権力者、被支配者が出るのは自然の有り様。

であるので、大国同士の覇権争い、グローバル企業が出ることを否定はしません。

ですが、ほとんどの人間が、その競争に参加できている限りはであり、競争で負かせた人間の犠牲(抹殺)の上に立って存在する、サバイバルな状況は容認できません。

要するに、私が言いたいサバイバルとは、人間の底辺から湧き上がるものであり、そうしたものを許すから、大企業のサバイバルが生まれると言うことです。

資本主義社会も民主主義社会も、これ以上展開すれば人間世界の破滅に繋がる事が予想できても、やめようとはしない人間の心の状況を現しているのです。

そうなのです。

前に自治会活動について書きましたが、表面的には親睦を言っていても、その実、自分の幸せのためには平気で他人を犠牲にするのが人間なのです。
近しい友人の範囲では善人のようでも、社会全体から言えば、平気でサバイバルゲームに打ち込むのです。
それでいて、善人ぶるのが人間なのです。

人間は、もともと、そうであったのですが、現在の様に生きる為の生活環境が厳しくなると、誤魔化しが効かなくなるのです。

古代から、飢饉で飢餓に追い込まれた民衆は、命を投げ出し蜂起します。
現代社会は飢饉は起きませんが、代わりに人間同士の仕事の奪い合いがあります。

少々の格差は辛抱できても、生きられるか、否かの問題になれば、戦いが始まります。
この戦いに休戦はありません。

領土争いなどではなく、互いに、妥協するものがないからです。
一方を抹殺して生き残る。

サバイバルゲームなのです。
人間個人の問題としての。


メンテ
未来社会を考える< これが未来社会だ! ( No.44 )
日時: 2015/06/23 13:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:oBxH1Xj2

今までは、暗い話ばかりしてきました。

そこで、このスレッドの表題である、打って変わって、バラ色の未来社会の話にはいりましょう。

これまで、総活として、人間社会は厳しいサバイバル社会となると言いました。
その根拠は、生きるための手段、要するに必要な金を稼ぐ仕事の取り合いが激しくなるからです。

この際、少々の経済的格差は問題としません。
人、それぞれの環境(能力、運、コネ)などで差が付くのは自然なことであり、人間は、できるだけ良い位置に立とうとする意欲が平穏な社会を構成する上に、大切な要素でもあるのです。

このために、何が必要かと言えば、これも簡単なことです。
不足分の仕事を国家が提供することです。

今後の社会は、資本主義の論理では不可能な経済活動を、合わせ持つことです。
誤解のないように言いますが、仕事に溢れた人に、国家が生活費をバラまくのではないのです。

その仕事は、何でも良いのですが、限りなく続けることができると言う意味で、公共事業による国つくり、介護の分野などいかがでしょう。

これを税金で賄おうとするから出来ないのであり、通貨の増刷(ヘリマネ)でやれば良いのです。

もう一つの方法。
年金の内、基礎年金の部分(月に一人7〜10万円)を、これも国家が通貨の増刷で支給し、もっと多くの年金が欲しい人たちは別途、年金を積み立てることです。

幾ら社会が行き詰まっているとは言え、現金をばら撒けば、人々の勤労意欲をなくし、精神の退廃を招き、とんでもない地獄社会が到来します。

この方法であるならば、人生60年の間は、真面目に勉学し、勤労に励むと言う根底は崩れません。
失業保険や、生活保護なども、特別の場合以外は必要ではなくなります。

消費税などの税収も増え、国民経済は活性化するでしょう。

これが、今まで、何故、出来なかったと言えば、人類は、人類が繁栄する為の、食料を含む資材の生産をすることで精一杯であり、その効率化が社会の使命であったのです。

ですが、生産技術の発達で、必要な資材の確保は、目処が付き、必ずしも人間全てが、遮二無二働かなくても良くなって来ているから、出来ることなのです。

ですが、経済の領域における、この様な転換が、なぜかできません。

これは通貨の役割の根本的な改革を伴うからです。
要するに、貨幣経済の中で金利を求めて動き回る現在の金融システムを否定することになるからです。

古代社会は商売することは、一段とランクの低い存在とされてきました。
ユダヤ人が蔑まれていたのも、江戸時代の身分制度が、士農工商と言うように商売を評価していませんでした。

実際は、権力者から見て、商売の恐ろしさが解っていたのでしょう。
なには、ともかく市民革命と共に、資本主義の思想が勃興し、瞬くまに、貨幣の存在が社会の中心となり、同時に金利を求る事が経済活動の目的となってきました。

でもね、もともと通貨と言うものは物々交換の媒体として発生したものです。
将来は、通貨の存在を、それに近づけても不都合はないはずです。

最も、困るのは、資本主義経済の下、金利を稼ぐことに邁進してきた、金融資本、さには株や投機で稼ぎたい富裕層なのです。
そうです、不労所得の旨みがなくなるのです。

ヘリマネと言えば、条件反射的に忌み嫌う人が大勢を占めている現在ですが、それができない理由はないのです。

資本主義経済と言っても、これ以外の方法はないと断言などできないはずです。

現実に、日本の国家予算は、税収40兆円に対して、2〜3倍の規模で何十年もやってきています。
別のスレッドでも紹介したように、地方の市町村では、税収の10倍くらいの予算を組んでいます。

不足分は、中央からの交付金や地方債ですが、何であろうと、錬金術で財源を手に入れていることには違いありません。

実際は、目立たない形で、かつ消極的な姿勢で、ヘリマネを続けているのです。
その目立たないとか、消極的と言う中に、不正、腐敗、汚職が蔓延ることになっています。

こうしたヘリマネ資金は、年間で、たかだか50兆円くらいでしょう。
GDP500兆円の国でこれができないはずはありませんし。

日本の巨額の財政赤字は5年後には2000兆円、30年後には8000兆円を超えると言われています。
現在でも年間、50〜60兆円の赤字が増えており、最終的には年間200兆円の赤字が積み上がることになります。

年間50兆円のヘリマネを今後30年続けても、1500兆円よりなりません。
どちらが正解か、見なくても分かるでしょう。




メンテ
ギリシャ問題 1 ( No.45 )
日時: 2015/06/30 10:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:hXVDzwIc

前回、国家による雇用の確保とかヘリマネについて言いました。
表面的には、それと同じような事が現実におきています。
ギリシャ問題です。
それを検証することで、前回言った内容を検証しましょう。

しばらくは引用文が続きます。

ドイツやフランスなど、ユーロ地域(ユーロを使う17ヵ国)が、ギリシャへの支援を約束したことを受け、ギリシャのデフォルト(債務不履行)を巡る懸念はひとまず落ち着きを見せているが、ギリシャの未来は、依然、不透明だ。
ドイツ国民は相変わらず、ギリシャ支援に対し、公に不満を示しながらドイツ政府に圧迫を加えており、フィンランドは、ギリシャ支援の見返りとして、担保提供を要求するなど、ユーロ地域のメンバー国らはギリシャ支援を巡る立場がそれぞれ異なっている。のみならず、ギリシャは、財政赤字削減のための様々な緊縮政策を約束しているが、いまだ、苦痛分担を拒否する国民を説得できずにいる。

国民所得が3万ドルに達するギリシャが、自国の運命をこのように隣国の手に任せるようになった原因を、多くの専門家らは、ギリシャの福祉ポピュリズムや「赤字経済(deficit economy)」から求めている。
ギリシャは1970年代までは、欧州でも経済が最も早いテンポで成長する国の一つだった。しかし、1980年代や90年代、社会主義政府が長期間政権を握る過程で、公共部門が過度に膨らみ、公務員や労組は高い賃上げ率の宴を開き、財政赤字は膨らむばかりだった。1995年から2008年にかけて、ギリシャ公務員1人当たりの年平均実質賃上げ率は、ユーロ地域平均の2倍に達し、公共部門の過剰人員は25%に達した。

このような現状の中、政府や政治圏は、国民の支持を取り付けるため、むやみに社会保障支出を増やした。昨年、ギリシャの社会保障関連支出は、国内総生産(GDP)比18.0%と、米国(7.0%)やカナダ(9.2%)の2倍であり、経済協力開発機構(OECD)平均の15.2%よりもさらに高かった。また、ギリシャ公的年金の賃金補填比率は95%に上る。退職後に受け取る公的年金が、退職直前賃金の95%であることを意味する。ユーロ地域でも最も高い。ドイツが36%、フランスが50%であることを考慮すれば、ギリシャの公的年金がどれだけ手厚いかが分かる。

公的年金だけで、退職直前のライフスタイルを維持できるギリシャ国民は、貯蓄の必要性を感じなかった。老後の心配のない人々は、稼いだお金を食べたり飲んだりするのに使った。低い貯蓄率のため、民間企業各社は、海外から資金を調達しなければならず、政府も外債で財政赤字を埋めなければならなかった。

「無料の昼食」はなかった。その間、ギリシャの対外債務は雪だるまのように膨らんだ。ギリシャ政府の債務は、GDPの2倍を超える計3000億ユーロに達した。アリスティデス・ハチス・アテネ教授は今月初頭、自由企業院に招かれて行った公演で、ギリシャ自体の原因や教訓について、「政治が福祉ポピュリズムを乱発したためだ」と主張した。同講演会に出席した一人の国策研究院長に対して、ハチス教授は「韓国もギリシャにようにならないとも限らない。気をつけるべきだ」と話したという。

福祉ポピュリズムは、その瞬間は甘い。国から医療費や教育費、給食費まで出してくれるというのに、嫌がる国民などいない。政治圏は、福祉政策を乱発し、国民は甘い誘惑に味を占め、票を提供する間、国の財政は破綻をきたす。我々が今使っている金は、いつかは誰かが必ず負担しなければならない。日々、福祉支出への要求が高まっている韓国が、ギリシャから学ばなければならない教訓だ。

ギリシャ現代史の要となる一族は、パパンドレウ家だ。3代にわたり首相を輩出した名家だ。わけても2代目アンドレアスは、ギリシャで最も重要な政治家として名を残す。ギリシャを欧州の他の国なみの民主国家にし、福祉社会を築いた、とされる。
 彼に吹きつけた最大の逆風は、軍事クーデタ(1967年)だった。その頃、首相の父ヨルギオスの右腕として働いていたが、クーデタに伴って投獄された。その後、カナダに渡って遠くからの政治活動を余儀なくされた。
 軍事独裁政権の崩壊(1974年)後、自ら旗揚げした「全ギリシャ社会主義運動」(PASOK)を率い、1987年の総選挙で地滑り的勝利をおさめた。

 アンドレアス首相は、何もなかったところに多くの福祉政策を一気に導入した。国民保険制度を設け、小さな村々に診療所を置いた。年金の権利がなかった多数の労働者や農民に、年金を保証した。最低賃金も大幅に引き上げた。ことに農村の女性に対する年金制度は、小さな村や町に住んでいた女性たちに誇りと独立心を育んだ。

 アンドレアス政権は、インフラ整備にも力を入れ、ギリシャの各地で空港が建設され、道路が延びていった。
 高度成長期の日本において、田中角栄の「日本列島改造」の政治と、福祉の旗をふった社会党の政策が一つになったようなイメージの政治だった。

 社会福祉の充実は、よい一面だった。
 他方、悪い一面は、数多くの大企業の国営化だった。経営がおもわしくなく、傾いた企業が多かったからだ。これらの企業には、失業のふちにある多くの労働者がいた。民衆の期待を背負って登場した中道左派政権にとって、政治的には国有化のほか選択肢はなかった。

 企業の国有化は、国が雇用を確保する仕組みをギリシャ社会の中に埋め込むことになった。福祉やインフラ整備など、導入された多くの政策でも、公共部門に新たな仕事が必要になった。
 問題は、それがいつの間にか、有権者の歓心を買う手段になってしまったことだ。政権が代わるたび、公的部門で無用な仕事を作りだしてまで支持者を雇って支援をつなぎとめようとした。これは、やがて、公的部門で働く人が全ての雇用者の4分の1といわれる「公務員天国」を生み出すことになる。

 公共部門での縁故採用も横行した。福祉やインフラの現場では、ムダも横行した。病院が備品や薬品を法外な価格で買ったり、道路建設費が欧州の他の国に比べて何倍も高い、という批判が絶えなくなった。誰かが甘い汁を吸っていた。
 みなが権利を私利のために使うようになった。父が考えもしなかったことだ。【ニコラス・パパンドレウ(作家)、アンドレアスの息子の一人】

 民主化の時代(1980年代)は、ギリシャの産業が力を失っていく時代でもあった。まず石油ショック、ついで欧州に市場を開いたことで保護を失ったことが響いた。
 しかし、政治家たちは、競争力を高めるための政策を講じず、失業者を公共部門で雇うことで失業保険の代わりにした。カネが湯水のように流れ出ていったが、それに見合う増税はしなかった。支出はもっぱら借り入れで賄われた。GDPに対する政府債務残高の割合は、23%(1980年)から、アンドレアスが2期目を終えた年には60%(1989年)に増大した。

 中道右派が政権をとっていた間にも国の借金は増え続け、アンドレアスが3期目の首相に就いた1993年には100%に達しようとしていた。
 我々が債務を消し去るか、債務が国を消し去るか。【アンドレアスの演説】
 だが、いずれも起こらなかった。2001年、ユーロ加盟によって、国債を発行するときの金利が劇的に下がり、借金しやすくなった。1990年代後半の年10%超が年5%弱に・・・・ドイツの金利と変わらなくなった。市場がギリシャを甘やかし、問題を深刻化させた。

 それまでの直近2年間はGDP比100%を下回った政府債務残高は、2005年、100%に戻り、その後も徐々にと膨らんでいった。2004年の五輪にも巨費が投じられ、財政をさらに悪化させた。

 2008年夏、ユーロ圏の中で、ギリシャの国債金利だけがじわじわと上がり始めた。理由の一つは、米国座部プライム問題の発生で、投資家たちが不安がありそうな証券を警戒するようになったことだ。ギリシャ国債もその一つだった。
 11月下旬、ドイツ国債に比べて、1.6%程度の差がついた。青くなったヨルギオス・アロゴスクフィス財務相は、ひそかに消費税の大幅増税や支出の削減などの財政再建策をまとめあげた。当時、ハンガリーがIMFとEUの支援を仰ぐことになっていた。ギリシャもいずれ同じことになるのではないか、とヨ・ア財務相は危機感を部下に漏らした。だが、中道左派の新民主主義党(ND)政権は、公務員給与ベースアップの1年間凍結などの策でお茶を濁すのみ。早めに手を打つタイミングは失われた。
 もしあの時に行動を起こしていれば、財政緊縮策は今より少なくて済んだ。少なくとも今のような落伍者扱いをされることはなかった。【財務省関係者】

 2009年春、EU統計局から、予算の数字がおかしい、と指摘されたが、最終的な回答は総選挙まで引き伸ばされた。数字のごまかしがやがて露見し、危機の引き金を引いた。
 ギリシャは今、自分で国債を発行できなくなり、IMFやEUから融資を受けて、何とか国の機能を維持している。
 ギリシャ危機が始まって以来、対応したのはパパンドレウ家3代目の首相、ヨルギオスだ。皮肉にも、父親が強いたギリシャ流福祉国家のレールを引き返すのが彼の仕事となった。父親がつくり、彼の政権与党となったPASOKがこれまで主張してきたのとは正反対の政策だ。それもIMFやEUの指導の下に。

 ヨルギオスのあとを継いだのは、ギリシャ中央銀行総裁だったルカス・パパディモスだ。政治家への不信が頂点に達し、テクノクラートに政権を委ねるしかなくなったのだ。選挙の洗礼を受けていない人が国を率いるのは、軍事クーデタで生まれた独裁政権以来だ。
 古代に民主主義を生んだギリシャで、民主主義が終わりはしないまでも一時停止を迎えた。歴史の皮肉だ。
 5月6日に総選挙が実施されたが、民主主義の一時停止は6月まで続く。

 以上、有田哲文(朝日新聞編集委員)「ギリシャ、どこで間違ったか」(「世界」2012年6月号)に拠る。
メンテ
ギリシャ問題 2 ( No.46 )
日時: 2015/06/30 10:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:hXVDzwIc

欧州の債務問題を何度か取り上げた中で、筆者はギリシャとドイツを対照的に取り扱ってきた。ギリシャは欧州の“落第生”で、トロイカ(EU、欧州中央銀行、IMF)から支援を受けてやっと国を回し、今は不況のどん底にある。一方ドイツは欧州の“優等生”としてギリシャを支えてはいるものの、国内には「これ以上のギリシャ支援には反対」論が強い。何がこの大きな違いを生んでいるのか。“一軒の家”に例えながら解説してみたい。

まずは産業力の違いである。ドイツには日本と同じように実に数多くの産業があり、それぞれが国際的に非常に強い存在である。例えば車を例にとってみよう。日本も世界に通用する車生産国だが、その日本にも多様なドイツ車(ベンツ、BMW、アウディ、VWなど)が数多く走っている。ドイツ車の普遍性は、世界のどこに行っても変わらない。昨年ロシアに行ったが、そこでも多くのドイツ車が走っていた。大部分は高級車としての位置付けである。
米国も「自動車大国」だが、日本では米国車はあまり見かけない。米国はそれが不満のようで、「日本は輸入車に対して差別的な姿勢を取っている」としばしば不満を漏らす。しかし、日本におけるドイツ車の浸透を見れば、日本が輸入車全般に差別的な姿勢を取っていないことは明確である。なぜドイツ車が浸透し、米国車が日本の消費者に好まれないかといえば、それはドイツ車が優秀だからである。

ドイツは、化学、機械、ガラス、精密など多くの産業分野で世界的に見ても強い存在だ。これは日本に似ている。現在の経団連のトップは住友化学の米倉会長である。電力や鉄鋼、自動車の最大手企業のトップが勤めてきた日本の経済界のリーダー的役回りを化学会社の会長が担っているということは、日本の化学業界が世界的な存在であることの証明である。
対してギリシャには、「これ」といった産業が極めて少ない。一番大きな産業は豊かな文化・歴史遺産を持つ観光だ。約1132万人(2011年/外務省資料)の国民が迎えられる観光客の数は限られているし、今は国自体が非常に苦しい状況でギリシャに来る観光客も少ない。以前は海運がギリシャを代表する大きな産業だったが、今はその面影は薄い。つまり、ドイツは一家の中に数多くの稼ぎ手がいるのに対して、ギリシャにはしっかり稼げる人がいない状況だ。

国民性は真逆だ。平易な言葉でいえば、ドイツ人はしっかりものであるのに対して、ギリシャ人はよい意味ではおおらかで、「明日はなんとかなる」というタイプの人が多い。ドイツ人は堅実に貯蓄をし、ギリシャ人はラテン系にありがちな「使ってから考える」タイプである。英フィナンシャル・タイムズによれば、ギリシャの純貯蓄率はGDPのわずか7%だそうで、その結果、同国の国債の70%は外国人所有だという。対GDP比で日本は世界一の国債発行国であるが、日本の場合は発行された国債の95%を日本国民が保有している。つまり、外国人に持たれている比率は5%しかない。同紙はギリシャの最近の行き詰まりに関して、「国家をあげて遊びほうけたことの当然の報いだ」と断じている。

家庭でも国でも、経済を語るとき「貯蓄」と「借金」は極めて重要な要素だ。「貯蓄」のある家庭は何かあったときにも慌てなくて済む。しかし「貯蓄」がなく、家計を「借金」で回しているような家は、稼ぎ手(産業)の一人が健康を害して働けなくなって収入が減ったら、さらに借金を重ねなければならない。それは一段とその家の負債が増えることを意味する。負債とは返済しなければならないお金だから、負債の積み上がりは「家計崩壊」を意味するのだ。

国の場合は大勢の国民の集合体だから、簡単に「崩壊」はしない。今のギリシャのように国が破綻したら生じる状況を回避しようと様々な国際機関やグループ(欧州の場合はEU)が助けようとする。しかし借金でクビが回らなくなったギリシャでは、商店が潰れ、工場は稼動せず、失業者は増えて(率は23%に達する)、多くの国民が海外への出稼ぎに向かっている。行き先はアフリカや南米であり、かつての地球規模での人の動きとは逆となっている。これは実質的には国民にとっての「国家破綻」である。

もう一つギリシャとドイツの違いは、徴税などの国家システムがしっかりしているのか、国民に順法精神があるのかということだ。ギリシャにも無論お金持ちはいる。しかし、ギリシャのお金持ちはほとんどが税金を納めていないか、納めていても該当額のごく一部といわれる。そもそも国の徴税能力が極めて低く、国民も納税意識が低いといえる。同国は数々の緊縮策を打ち出して経済の立て直しをEUやIMFなど国際社会に訴えているが、世論調査をするとギリシャ国民の92%が「追加緊縮策は不公平」と述べ、さらに23%の国民が

「課税されても税金は納めない」と回答しているという。これでは国家の財政が回るわけがない。
対してドイツ国民は貯蓄をし、納税をしながら、高度な経済活動をして高い生活レベルを維持している。ドイツが日本にGDPで抜かれたのは戦後のそれほど時間がたたない時期で、日本が中国に抜かれて3位になったことから、ドイツは世界第4位だ。しかし、世界に「ドイツは惨めな国だ」と言う人などいない。東ドイツという約1600万人の貧しい国を統合しても、ドイツは依然として強く、国家体制のしっかりした国だ。

しかし奇妙なことに、この対照的な二つの国はEUというグループの加盟国となっている。ギリシャのだらしなさがEUの通貨であるユーロを安くし、そのユーロ安がドイツの産業の輸出競争力を強くしている、という側面はある。その一方で、ギリシャはユーロの高いレベル故に、通貨安で一気に観光客を呼び込んだり産業の競争力を高めることができないハンディがある。
ということは、ギリシャはいずれユーロから離脱するのがよいと筆者は思うのだが、EUとしては今ギリシャに抜けられると「EUの崩壊」のようにいわれるので、ギリシャを包含しておこうとする。お互いにとって不幸なことだ。
まずギリシャがやらなければならないことは、自らの家計を立て直すことだが、それは「国民性を変える」ということであり、極めて難しいと考えるのが自然だ。
メンテ
gギリシャ問題 3 ( No.47 )
日時: 2015/06/30 10:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:hXVDzwIc

以上、見た様に、ギリシャ国家、国民に現在の破滅を導いた責任は十分にあると思います。
しかしながら、結果から云々するばかりではなく、その様な事にならざるを得なかった経済的背景があるはずである。

ギリシャは、それへの対応を誤ったと言うことでしょう。
要するに、むやみに借金に走り、後先を考えなかったと言うことです。

その背景、要するに経済のグローバル化のことですが、まず、ギリシャの失業率を見てみましょう。

1980年のギリシャの失業率は  3%でした、
それが2000年には       12%
2014年には          25%を超えています。

納税義務を疎かにしていたと言う問題はありますが、それ以前に失業者の増加は、絶対的な税収不足、社会福祉費の更なる増加を招くと言う悪循環があったと思います。

そのグローバル化の実態ですが、


最近、わが国の電気産業の業界で、企業が特定の分野から撤退するとのニュースを見かける。三菱電機や三洋電機が携帯電話から撤退を決めたのに続いて、日本ビクターが、薄型テレビから撤退すると報道された。こうした動きの背景には、世界的な家電業界の競争激化と、企業が得意分野に経営資源を集中する姿勢がある。

 家電業界は、一定のマーケットシェアを維持することによって収益を維持することが可能な、いわゆる“スケール・メリット追求型”の産業分野だ。特定の分野で、中・長期的な損益分岐点を上回るシェアを維持できない企業は、当該分野から撤退を余儀なくされる可能性が高い。わが国の電機業界では、こうした“選択と集中”の動きが続くと見られ、それがM&Aを含めた業界再編につながることも想定される。

これまで「内需型」の産業とされてきた日本のサービス産業、特に消費者対応型のビジネスの海外進出が、ここ数年、とどまることなく勢いを増している。少子高齢化などを背景に国内市場の縮小が見込まれる中、経済発展とそれに伴うサービス市場の拡大が進む新興国へと、多くの企業がビジネスチャンスを求めて雄飛を果たしている。


その、グローバリゼーションの進展については、肯定的に推進しようとする意見もある一方で、批判的意見もあります。

(肯定的見解)

• 国際的分業(特化)が進展し、最適の国・場所において生産活動が行われるため、より効率的な、低コストでの生産が可能となり、物の価格が低下して社会が豊かになる(比較優位)[要出典]。
• 投資活動においても、多くの選択肢から最も良いものを選択することができ、各企業・個人のニーズに応じた効率的な投資が可能となる[要出典]。
• 全世界の様々な物資、人材、知識、技術が交換・流通されるため、科学や技術、文化などがより発展する可能性がある。また、各個人がそれを享受する可能性がある[要出典]。
• 各個人がより幅広い自由(居住場所、労働場所、職種などの決定や観光旅行、映画鑑賞などの娯楽活動に至るまで)を得る可能性がある[要出典]。
• 密接に各国が結びつくことによって、戦争が抑制される可能性がある[要出典]。
• 環境問題や不況・貧困・金融危機などの大きな経済上の問題、人権問題などの解決には、国際的な取り組みが必要でありこれらに対する関心を高め、各国の協力、問題の解決を促す可能性がある[要出典]。


(批判的見解)

• 安い輸入品の増加や多国籍企業の進出などで競争が激化すると、競争に負けた国内産業は衰退し、労働者の賃金の低下や失業がもたらされる[要出典]。
• 投機資金の短期間での流入・流出によって、為替市場や株式市場が混乱し、経済に悪影響を与える[要出典]。
• 他国・他地域の企業の進出や、投資家による投資によって、国内・地域内で得られた利益が他地域・国外へと流出する[要出典]。
• 従来は特定地域に留まっていたテロリズムや武力紛争が全世界化し、各地域の安全が脅かされる[要出典]。
• 多国籍企業の進出や人的交流の活発化によって、生活と文化が世界規模で均質化し、地域固有の産業や文化が消滅する[要出典]。
• 地域間競争の活発化によって、投資・経済活動の巨大都市(世界都市)への集中が進み、農山村や中小都市が切り捨てられ衰退[要出典]。
• 多国籍企業の影響力増大によって、各国の国家主権や地方自治が破壊される[要出典]。
• 投資家やエリート官僚が政治を牛耳るようになり、各国・各地域の民主主義はグローバルな寡頭制に置き換えられる恐れがある[要出典]。
• 厳しい競争の中で企業を誘致したり国内産業を育成しようとするため、労働環境は悪化し、環境基準が緩められ、社会福祉が切り捨てられるようになる(底辺への競争)[要出典]。

メンテ
ギリシャ問題 4(終わり) ( No.48 )
日時: 2015/06/30 10:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:hXVDzwIc

以下に紹介する様に、グローバル化は経済の専門家の間では、肯定的に捉えられている方が多い。


経済学者の原田泰、大和総研は「グローバル化の進展が喧伝されたのは、1991年のソ連崩壊がきっかけである」と指摘している[5]。
国際政治学者のサミュエル・P・ハンティントンは著書『文明の衝突』で、世界がグローバル化していくと最終的にイデオロギーの対立はなくなるが、東西の対立(東洋の文明と西洋の文明の対立)が浮き彫りになってくると指摘していた。


経済学者のトマ・ピケティは「グローバル化そのものはいいことであり、経済が開放され一段の成長をもたらした。格差拡大を放置する最大のリスクは、多くの人々がグローバル化が自身のためにならないとして、極端なナショナリズムに向かってしまうことである」と指摘している。

経済学者のタイラー・コーエンは著書『創造的破壊』で「グローバル化によって文化の多様性が失われる」という通説について、社会間の多様性は減少する可能性もあるが、個々の社会の中ではむしろ多様性は促進されるとしている[8]。
経営学者・経済学者の高巖は「グローバリゼーションに関して、

1. グローバリゼーションそのものが貧困問題を解決する
2. グローバリゼーションによって貧困問題はより深刻化する

という2つの見解がある」と指摘している。

経済学者のジェフリー・サックスは「グローバリゼーションは、貧困問題の解決に役立ってきた」と指摘している。サックスは、富はゼロサムゲームのように誰かが大きな富を得たからといって貧しい者がより貧しくなるわけではなく、むしろグローバリゼーションが貧困解消の一助となっているとしている。サックスは著書『貧困の終焉』で「グローバリゼーションが、インドの極貧人口を2億人、中国では3億人減らした。多国籍企業に搾取されるどころか、急速な経済成長を遂げた」と指摘している。

ジャーナリストのトーマス・フリードマンは著書『フラット化する世界』で、地球上に分散した人々が共同作業を始めインド・中国へ業務が委託され、個人・各地域が地球相手の競争力を得ている、あるいは貢献しているとしており、紛争回避にもつながっているとしている。

経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは、グローバリゼーションそれ自体は評価しつつ、そのプロセスは正しい政策の組み合わせ・順序を踏まえるべきとしている。

経済学者のポール・クルーグマンは主に覇権国家や多国籍企業の利益追求を肯定・促進する(新自由主義)ために広められるドグマの一種であるとしている[要出典]。ただし、クルーグマンはグローバリゼーションそのものに反対しているわけではない。

経済学者の竹中平蔵は「グローバル化の進展で起きることは、財政制度・金融制度などの制度の競争である。制度の均一化が起きてくることが、グローバリゼーションである」と指摘している。また竹中は「グローバリゼーションという流れの中で、人の移動は活発となっているが、実際問題として普通の人が国境を越えて移動することは容易ではない。重要なのは、普通の人が国内でも所得価値を生み出せる仕組みをつくることである」と指摘している。

(引用終わり)


ですが、それはグローバル化が、発展、展開して行く過程でのことであり、それが過ぎると、弊害の方が目立ってきます。
目立ってくると言うよりも、それは資本主義の終焉でしょう。

ギリシャ問題は、この過程であり、ギリシャにも瑕疵はあったものの、グローバル化の歪が出たものと思います。
ギリシャばかりでなく、スペイン、イタリア、韓国も、それに近いものでしょう。

要するにギリシャの対応は、資本主義の常識では考えられないものでありましたが、ひとつの脱出方法ではありました。
どこが、いけなかったかの検証は必要ではありますが、ギリシャを常識はずれと非難するだけでは現状は何も変わらないでしょう。

私は、国家による雇用の確保、と通貨増刷の方法を検討する必要性を、さらに感じたことです。
もちろん、その様な荒療治には副作用がつきものです。
ギリシャの様相が、それを教えてくれているのではないでしょうか。


メンテ
ギリシャ問題>やはり根底にあるのは南欧ノンキ気質か ( No.49 )
日時: 2015/06/30 17:06
名前: 満天下有人 ID:YtK5fuu.

朝日経済記者・有田哲文氏の名前を見て、懐かしく思います。小泉政権発足の頃、経済記事についてメールで数回やり取りをして、そのうち、朝日本社のある築地界隈でで一杯やろうとしていたのに、私の身体が障害に会い、実現できませんでしたが、さすがに世界の情報を持っていて、スイスバーゼルの国際決済銀行BISの動き情報には詳しかった。私の方からは食糧メジャーの情報などをあげようとしたものですが、残念。

やはりギリシャ問題についても、ギリシャ人自身の南欧的気質を取り上げていますね。

ただ数値として、国民一人頭のGDP3万ドルと書かれていますが、これは少し大き過ぎるのではないかと思います。我が国で約3万ドルで、外務省統計から逆算しても、GDPは約21兆円、人口1000万人ですから、一人頭2万ドル弱です。

ま、枝葉のことはさておいて、ギリシャの場合、消費物資が国内生産でなく、輸入に大きく頼っていますから、成長率がマイナス4%になるのも当然です。当然、財政赤字がでかくなって来ます。借金が増えます。それも我が国のように、自国が自国に対して借金出来るのであれば急場しのぎは可能ですが、EU加盟国では、それが出来ない。

昔、ハロッド・ドーマーの定理について講釈させてもらったことがあります。

一国の経済方程式は必ず投資(I)=貯蓄(S)に近かづけないと、財政破綻=一国経済の破綻を招くというものです。これに当てはめるとギリシャの姿がよく見えて来ます。

そして失業率の高さがある。これはグローバリ化の影響とするよりも、むしろ民族気質に加えて、近年の雇用法の厳しさに企業がビビッて、出来る限り雇用を押さえていることも影響しているのではないかと思われます。元々、重厚長大産業も薄い同国のこと、それでも失業率は低かったのに、どうして25%にもなったのか、重厚長大産業のグローバリ影響によるのではない、何故なら元々、さような産業は発達していない国ですから・・・そして、輸入先はやはり中国ですね、ギリシャに限らずEUの中国頼りは相当なものですから。

蛇足ですが、ヘリマネ論の実例としてギリシャ問題を取り上げておられますが、関連性の意図がよく見えませんので、ひまな時にでも解説お願いします。EUを離脱して、わが国の様に、大きく積み上がった国家債務、それは自動的に服らんで行くのだから、どっちみち五十歩百歩で、問題ないから可能だとの事なのか。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.50 )
日時: 2015/06/30 16:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:62zVG7z2

有田氏の文章、偶然に見つけたのですが、よく捉えてあると思い紹介しました。

その有田氏と親交があったとは、満天下さんの見識も想像以上に確かなものですね。

50兆円のヘリマネ(通貨の増刷)のことですが、仮にギリシャが、EUなどに借金せずに独自の通貨の増刷で切り抜けていたら、どのようになったでしょう。

まあインフレなどの懸念はあるものの、これから起きる状況に比べれば、大きな問題ではなかったでしょう。
そして、EUからの借金と言っても、国内経済に限れば、ヘリマネとあまり変わらなかったと思います。

ヘリマネを言う場合、金融システムにおける弊害と同時に、大衆の意識と言う面でも大きな問題があります。
ギリシャは、そういう面でも旨くやれなかったと思います。

今後、EUを離脱して自力でやっていくとなれば、それこそ、通貨の増刷に次ぐ増刷をせざるを得ないでしょう。
色々な意味で、ギリシャの破綻の経緯は、参考になるのではと思います。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.51 )
日時: 2015/06/30 18:33
名前: 満天下有人 ID:YtK5fuu.

EU加盟以前のギリシャ単独の経済財政はどのようなものであったか、それを知りませんので何とも言い難いのですが、それでもIMF支援を受けねばならないような状況に陥ったかも知れないにせよ、逆に、ヘリマネ的生き延び手法は取れなかったであろうと推察します。

取れなかったであろうという状況には、二つの側面が想定されます。

一つは、どこの支援も無く単独でヘリマネやっても、異常なインフレに見舞われたことでしょう。そんな国に対し、無条件で助けを出すお目出度い者は居ないと思えます。

二つ目は、自国ヘリマネやった結果、結局IMFなどに支援を求める状態になったと推定されます。どちらにせよ、結果は同じ状態になったにせよ、印刷紙幣で切りぬけられるようなものではないとの認識も、同時に生じていたであろうと思います。

つまり、ほんとに真剣に、ではどうすれば良いのか、昔の様に成長などそこそこで良い、安定して順調平穏に暮らして行ける状態に戻ろうとの機運が、国民の間に生まれていたかも知れません。紙幣印刷で経済が保てるなどと言うことはあり得ない、もしあり得るなら、バブルも崩壊しないことになり、だが、人類は何度もその痛手を蒙って来ている訳で、故に、何をどうすべきかを、真剣に問う機運が生じるのではないかと思うのです。

ギリシャは結局、その直前にEU共同体が出来るなら、そこに入って、団体で救ってもらえるな、こんなに有難いことはない、多分、幻想の誘惑に負けてしまったのではないか・・・それはギリシャに限ったことではなく、イタリアにもスペインにも言えることかも知れません。

結局、EUがスタートしたものの、盟主ドイツなどはギリシャのECB頼りの姿勢を見て、特にすさまじいハイパーインフレ経験国として、のんきなあなた頼りのギリシャには、かなり頭に来ていたことでしょう。

ハイパーインフレを起こさないように持って行く構造も考えずに、あなた頼りのハイパーインフレを起こしかねない姿勢に、もうEU・ECBとしての支援もここまでだと・・・・このことは、所詮ヘリマネでは解決できないのが経済構造だとの、一つの証明を出したかのような騒動ではなかったかと思います。ヘリマネは急場措置としては出来ます。だが、それは最終的には全体を潰してしまう、何の意味も無い手法だと思います。第一、いくらでも印刷によって成り立つ経済って、あり得る筈がないと思うのです。人間がそれを信用しないし、信用しなくなるからです。

特に国民経済をバックに信用でしか成り立たない通貨の場合は、その信用価値の下落が、結局全体をも潰してしまうことになるからです。


メンテ
ヘリマネ ( No.52 )
日時: 2015/06/30 20:07
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:62zVG7z2

>一つは、どこの支援も無く単独でヘリマネやっても、異常なインフレに見舞われたことでしょう。

この事ですね。

通貨の増刷にせよ、外国からの借入にせよ、国家の財源として、税収以外からの資金を得た事に間違いないと思います。
借り入れの担保を国民の資産に当てると言っても、実質にそんな担保は取れません。
仮定の話、名目の話であり実質錬金術と思います。

それと、ヘリマネと違うところは金利が発生することであり、借入金を返さないなら通貨の増刷と形態は変わらないのではないでしょうか。

ただし、借り入れの場合は、飽くまでも返済が前提であり、無条件に増やすことはできませんし、貸してくれる相手もいません。
ですが日本の国債の様に返さなくても半永久的に続けられることもあります。
この場合は、現在は年間40兆円の発行でも、30年後は200兆円と言う様に帳面面だけは、トンでもない数字になります。

それでも、借入と言う宿命は付きまといます。
ところが、ヘリマネとなると、同じ錬金術でも罪悪感がありません。
数量的に自制の概念がなくなる恐れがあります。

これがインフレなど経済の流通に悪さすることになります。
問題は、このヘリマネの金額について確かな制限が出来る保証がいることでしょう。

それが難しいのですね。
ギリシャでは、ヘリマネではなく外国からの借金でも、借りれるものは遠慮なく借りてしまえ、と言う無責任な民意があるようです。
大衆とは、この様に勝手で我が儘な存在です。
ですが、これのコントロールは全く可能性がないのでしょうか。

経済と言うよりも社会学、社会心理学の領分になりますが、今まではタブーであった、この問題に取り組むことも出来るのではないでしょうか。

ヘリマネで公共事業をやると言うことも言っていますが、実際は、その単価の管理が的確にできるでしょうか。
できなければ必要事情の金が出回りインフレを起こすことにもなるでしょう。

ですので、ヘリマネと言っても、対GDPとの比率で制限するとか、使用目的を限るとか、色いろと考えられますが、最終的には、どの様な規制も人間がやるもの、いざとなれば、そのタガが外れてしまう危険が考えられます。

しかしながら、考えてみれば、ヘリマネがタブーと言う規制も、変えられると言う事にもなり、どのみち同じではないかとも思います。

何かあると、ヘリマネを出しますが、こう言う危険性は十分に考えているつもりです。
ですので、満天下さんの意見も参考に具体的に起きるであろう状況を検証したく思っています。


メンテ
満天下さんに問うてみたい ( No.53 )
日時: 2015/06/30 22:53
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:62zVG7z2

このような不確実性の領域の問題について語っていただくのは、満天下さんには迷惑でしょうが。

仮に、日本で年間30兆円のヘリマネ(通貨の増刷)を30年間続けてやり、それで国家予算を組むとすれば、金融経済はどのようになるでしょう。

この場合、とりあえず1000兆円と言う巨額の財政赤字のことは棚上げとして考えます。

50兆円の使途は、その内の20兆円は基礎年金に当てる。
65歳以上の人口は現在、3000万人あまりです。
年間にひとり100万円を支給すれば、30兆円必要です。10兆円分は従来の年金の積立から支給します。

のこりの30兆円を、国家で雇用を生み出すための施策に使います。
主に公共事業となるでしょう。
その対象は主に第一次産業のためのインフラ整備に使います。
農業、漁業、林業などで、30×30年=900兆円です。
まあ全てをそれに当てる訳でもないので、600兆円くらいにします。
道路建設なども入れると、このくらいの事業は十分に消化可能でしょう。
後の300兆円については、できるものが、何かあるはずです。
従来の公共事業は元通り続けた上のことです。

ヘリマネが常態化すれば、何でもヘリマネに頼る風潮が出るでしょうが、この際、そういうことはコントロール出来るとして、この範囲で、純粋に経済活動面で、どの様な影響が出るでしょう。

私は、ヘリマネの上限のコントロールが出来ているなら、そんなに深刻なインフレは起きないと思います。
貿易を除いて、国内経済だけを考えた場合、大きな問題はないかとも思います。

そうしてヘリマネ資金によって活性化した経済から、消費税などの名目で税収を上げて福祉予算に回します。

ですが、それによる金融システムを中心とする対外関係は想像できません。
為替、株、及び日本国債の信用度など、従来の金融システムによって運営されているものに、どのような影響が出て、それが致命的な問題となるのでしょうか。
それとも、何とか調整できる範囲でしょうか。

こう言う事が気になるのすが。
私のヘリマネ論も、このような問題に目処がつかないと、これ以上の展開に躊躇します。



追伸です。

50兆円枠の維持については、それこそ憲法第9条の様な強い制約を付けてはどうでしょう。
最も安倍の様な奴が出てきては、それも不安ですが。

ところで、公共事業と言っても、工事の内容によっては、30兆円をつぎ込んでも資材は別に、人件費として直接工事現場の労働者の手に渡るのは、せいぜい5〜6兆円。
年収300万円の労働者なら100万人分の雇用に過ぎません。
その資材を作るメーカー及び運搬にあたるものも含めて150万人から200万人でしょう。

第一次産業にこだわっていますのは、そうした工事では人件費の比率が高く、200〜300万人の雇用対策となるのではないでしょうか。
それでも将来見込まれる1000万人を超す失業者の救済にはなりません。
ですので、例えば介護事業などへもヘリマネ資金を投入すれば、300〜400万人。
その上に昔のニコヨンの様に国ないし地方自治体が直接、雇用をする方式を取れば(街の清掃など、それに合う仕事がいりますが)500〜600万人の雇用が確保できます。

それでもせいぜい、500万人。
絶対数が足りないのですが、基礎年金支給などを含めて、相乗効果も計算に入れて、1000万人の新たな雇用を確保出来ると踏んでいるのです。
農業、漁業、林業の従事者を、後、200万人くらい増やす計画も立てたいものです。
本当は、そういう事業だけで50兆円くらいつぎ込めば、もっと楽に計算が成り立つのですが。
1500〜2000万人の失業対策が必要となると思います。

そうは行きません。
50兆円の投資も、そんなにバラ色ではありませんが、アベノミクスとやらで、公共事業が増えましたが、これで結構潤っている地方もあるのです。
効果はテキメンと思います。



メンテ
Re: ヘリマネ ( No.54 )
日時: 2015/06/30 23:15
名前: 満天下有人 ID:YtK5fuu.

どうも以前から、この話になると、かみ合わなくなってしまいます。そこで、何故か?と考えて見ると、橋立さんの「ヘリマネ」の意味、というか定義が違うと言うか、どのような概念でヘリマネと言っておられのかが分からなくなる事に気がつきました。

今回言っておられるヘリマネとは、税収以外から得られる無担保、無金利のオカネ、という意味で言っておられるものと理解します。

つまり通貨の単純な増刷ですね。でも私の知る限り、人類経済史上それが為されたことは無いから、それをやって見てはどうかとの、仮定の話ですね。その仮定はどこから生じたのか、<日本国債のように、返さなくても半永久的に続けられるももある>、ここがヘリマネ論の根拠になっていると思われます。

だが、それは誤解です。長期国債であれ、全て金利が付いており、しかも日々、国債市場で国債価格は変動しております。何故か、それを担保に円通貨が発行されているからです。つまり担保になって通貨が発行されている以上、ヘリマネではありません。

昔どなただったか、このことで激論したことがありましたが、一見、担保になっていないように見えるから、誤解されてしまうのです。中央銀行は政府発行の国債を引き受ける形で通貨を供給しており、それは市中銀行を通じて引受され、つまり国民金融資産の銀行預金によって買われており、何かの要因でその国債が買い戻されない、償還されないケースがデフオルトであり、デフオルトになると、国民預金勘定で買った元金が戻って来ません。つまり、最終的には国民が担保しているのです。だから日銀は国債買いによって通貨を供給している構造なのです。

故に<借り入れの担保を国民資産にすると言っても、そんな担保は取れない>のではなく、既に国民資産をバックにした国債が=万が一の場合はいつでも預金封鎖出来るという方法で、担保されてしまっているのです。今回のギリシャ破綻で、銀行閉鎖がそれに該当します。もうほとんどの預金は既に引き出されたとは思いますが、その現象こそが、最終的にはIMFへの返済金は、国民が担保していたことの証明であり、そうでないなら、態々銀行業務停止などする必要もありません。返済財源を引き出されては困る、ということです。

現在でもそうです。いくら超金融緩和と言っても、何も無しで、日銀は円を印刷はしておりません。次にどれくらいの円需要があるかを計算し、それに対し印刷準備金として印刷費は計上するものの、実際には国債と引き換えでないと、円を財務省には渡しません。だからまだ渡していない円は、日銀財務諸表に「発行現金」としては計上されていません。今回の超金融緩和でも、現金通貨は増えていない、そこにインタゲ景気回復論のまやかしが見て取れるというものです。

世界どの中央銀行とて、同じです。具体的に、そのようなオカネを得た国家、政府は無いと思います。何故か、出来ないからです。担保も出さず、利息も払わなくて良いということで発行される通貨はありません。そんなことしたら、とんでもない事になるからです。とんでも無い事になることが分かっているから、どこも出来ないのです。

だからいずこの国でも「国債」を担保に取り、そして利息をつけて期限が来たら返済しています。<ヘリマネに対する自制心、それが難しい、故に確かな制限が出来る保証がいることでしょう>

要るも要らぬも、故に、現に国債で通貨が担保され、利息も付けられ、それでも通貨の過剰需要が発生すれば、国債買いの量を制限し、場合によっては中央銀行が国債売りオペを通じて、通貨価値維持の為に金利上昇操作を行っているのです。つまり、元々からしてヘリマネ出来ないように自らを縛っているのです。何故か、考えても見て下さい、以前申しましたように、ならば道端の石ころと同じように、価値がなくなり、ならば石ころ使った方が費用もかからないことになり、だが、人間、石ころで魚もコメも買えるとなると、もうハイパーインフレを通り越して、物資の奪い合いになります。

今回のギリシャがIMFに返済出来なくなり、デフオルトになる(であろう)のは、返済しないならそれもヘリマネと同じではないかとの見方は、それは結果論です。最初から金利も払わない、返済もしないで、誰も資金支援はしてくれません。贈与金ではなかったからです。ECB国債を発行させて、それを担保に取っていた訳ですから、贈与金でもないことになります。

ヘリマネが可能かどうかの議論は、通貨石ころ論でも申しましたように、そこで生活し、その物資を手に入れないと生きて行けない人間たちが、何も無しで輪転機から出て来る紙幣に対し、どのような価値観を持つかに拠ることだと思います。それを規制する制度が、昔は金本位制度、現在の管理通貨制度においては国債を軸に、国債価値と金利によって規制された通貨発行になって来たのが、歴史です。

まあ、一度やって見たら解るでしょう。今の国際関係のままでなら、一気に$1=1000円に、あっと言う間に暴落するでしょう。鎖国でもしてやらない限り。

と言う事で、私の持論は、通貨による誘導経済は副作用を伴い、通貨はあくまで実体経済の補完として位置付けられるべきであり、一国の経済能力の中で、可能な限りの分配を先ず考えることが、基本であるべきだ、ということです。成長しなくなっても、実物経済が無くなることは無いのですから。そのパイの中で工夫せねばならない、つまり資本主義は、このままで良いのか、という命題に繋がって行きます。
メンテ
タッチの差で投稿入れ違い ( No.55 )
日時: 2015/07/01 05:27
名前: 満天下有人 ID:tJRAcljs

まあ、問題はそのような通貨に対し、皆がどう評価するかにかかって来ることでしょうね。国際的には、諸国の中央銀行で構成されているバーゼルの国際銀行監督委員会が、それを認めるかどうかが問題です。

普通でも、諸国の銀行に対し、その資産状況の規制を発し、通貨価値の維持を計ろうとする委員会で、目下は銀行保有の国債も、リスク資産として算入することを議題にするくらいですから、もし日本が単独でヘリマネ実行するとなると、先ず委員会を脱退せねばなりません。

これは常識はずれの行為になりますから、それでも敢えてやるとなると・・・その場合、日銀は存続させるという前提ですか?・・・すると日銀資産は崩落してしまいますから、崩落した中央銀行が発行した円通貨を、市場がどう評価するか、という仮定の話になってきます。

為替面で、1$1万の下落で済むのか、百万円の下落を見ることになるのか、複数の世界市場がどう見るかにかかって来ますから、とても想像できません。ちょっとしたことで為替金利は、敏感に反応しますから、前人未到のことを経験することになり、すさまじい事になるでしょう。ギリシャでさえ、この有り様ですからね・・・。インフレが必ず起きます。既存債務の金利は別にしても、ここからの金利が暴騰して行くでしょう。国債担保での通貨発行ではないので、その金利を調整する手段もありません。

具体的なことはも一度考えて、レスします。
メンテ
やはりヘリマネはムリです ( No.56 )
日時: 2015/07/01 06:46
名前: 満天下有人 ID:tJRAcljs

<私のヘリマネ論も、このような問題に目処がつかないと、これ以上の展開に躊躇します>

悪いですけど、誰がどうそれを認めてくれるのか、恐らくほとんどの人間は、そんなこと出来るワザではないと思うでしょうし、第一、市場がそんな通貨は認めないでしょう。認めないものを前提にしては、何も考えられません。考えるだけ徒労に終わり、よって、そこからの展開は何も無いことになります。

先ず大前提として橋立さんは簡単に<何でもヘリマネに頼る風潮、それもコントロールできるとして>と、コントロール可能だと前提されてしまって居られますが、どのようにコントロールできるのでしょうか?

最初に法律で縛るのでしょうか?で、そのような法律を誰が賛成するのでしょうか?その時点でもう、ヘリマネは成立させることが出来ないと思いますよ。貿易を除いて国内では問題にならない>と、簡単に言われておりますが、正にその貿易自体が超円安で滅茶苦茶になり、第一次天然資源を輸入に頼っている我が国の場合、そこからハイパーインフレとなるでしょう。

何故かと言うと、故に日銀存続は継続されのですかと、お聞きしたのですが、存続したとして、毎年30兆円x30年間=900兆円もの金額が日銀の赤字となってしまいます。何故かと申しますと、通貨は発行中央銀行の「債務証書」だからです。ここに通貨とて何かによってその価値が担保されていなければ、ただの紙切れと思われてしまい、通貨価値が維持されないとの思想が含まれてしまっているのです。

現在、超金融緩和で膨らんだ日銀資産勘定は約165兆円でバランスされております。それでもあれこれ懸念されている時に、900兆円もの超債務超過に陥る中央銀行が発行した通貨を、誰が信用するでしょう。もうスタート時点からデフオルトですよ(笑)。

金本位制の時代では、中央銀行発行通貨の価値は、金によって担保された債務証書であり、管理通貨時代になってからはその流通価値は、政府発行の国債によって担保された債務証書であり、その政府債務は全国民の付加価値創出能力、現実的には市中銀行を通じて国民金融資産がそれを担保しています。

前稿で申しましたが、半永久的長期国債など、現実にはヘリマネではないかとの理解に、それは違う、としたのは、現にその価格は日々国債市場を通じての売買によって決められており、金利もちゃんと払っています。それが毎年予算編成の際に喧伝される、「国債費の負担増加」として取り上げられる所以です。それが巨額に膨らんでも、ヘリマネとして位置付けるなら、何故世間は騒ぐのか、ほっとけば良い事ですが、ほっとけない重大リスクを内蔵しているからこそ、さあ政府債務がここまで膨らんだと騒ぐ訳です。つまり有担保債務証書であっても、騒わがれてしまうのです。何故日銀総裁は、更なる増税をせよと言いだすのか、その意味を考えただけでもヘリマネは出来ないと言ってるに等しいと、分かるのです。

それが何も無しの債務証書通貨として出て来た場合、どのようにして<コントロール>出来るのか、それが分かりません。そのアイデアを知りたく思います。

私はコントロールできないと思います。だからヘリマネ法案が最初から成立する筈がない。誰が法案作成できるでしょうか?法案も作れないでは、成立以前の問題であり、成立しないことが前提ですから、問題の目処のつけようもありません。
メンテ
ありがとうございました ( No.57 )
日時: 2015/07/01 09:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:HvMhfuc2

満天下さんへ、

何回も、同じようなことで答えて頂き、申し訳けありませんでした。
満天下さんにとっては空気の様に当たり前の認識であると思いますが、今回のレスで、下記の表現が新鮮に移りました。

>通貨は発行中央銀行の「債務証書」だからです。ここに通貨とて何かによってその価値が担保されていなければ、ただの紙切れと思われてしまい、通貨価値が維持されないとの思想が含まれてしまっているのです。

これが金本位制と基本的に違うところですね。
もちろん、金本位制が成り立たなくなった経緯は、実在するもので、そのようにしなければならなかった理由はあるのでしょう。
また、金本位制の場合でも蓄財と言うものはあったでしょう。

通貨と言う概念は、この時、少し変わっています。
ヘリマネと言う言葉で現しています、通貨の恣意的な増刷による通貨管理において、それは、飽くまでも通貨全体の一部に限っての話ですが、それを認めさせるためには、何よりも、通貨の概念の、物理学で起きた、アインシュタイン的転換が必要と思います。
そんな訳で、私が設定した条件などは、新理論に基づく、新しい素粒子の予想の様なものとすれば如何でしょう。

また、現代の産業、経済のあり方も、行き着くところは、これは100年、200年先かも知れませんが、ほとんどの物資は集中管理の上で生産すると言う計画経済となって行くことが考えられます。
その場合、物資を手に入れるための交換手段としての通貨と言うものは、どのような性格になっているかと言う事、更には、人々は、それを手に入れる手段はどうか。
また現在の企業と言うものがどのように存在できているのか。
当然、更なる、通貨の概念は変わらざるを得ないでしょう。

現実の経済の専門の人に、このような想定の話を行くのは失礼かと思いますが、そうかと言って、経済の、生活の基本中の基本の問題を漫画的に処理する訳には行きません。
アインシュタインも、漫画的発想で、新理論が打ち立てられた訳ではないはずです。
まずは現代の事を、徹底的に検証する事が大事だと思っています。

そんなことで、ヘリマネの問題は、まだ追っていきたいと思っています。
ヘリマネと言う言葉は誤解を生むなら、新しい通貨の概念とも言いましょうか。

>それが何も無しの債務証書通貨として出て来た場合、どのようにして<コントロール>出来るのか、それが分かりません。そのアイデアを知りたく思います。

これは経済学の問題ではなく、哲学、宗教の問題でしょう。
ですが、言えることは、現在の債務保証にしても、それは市中銀行が中小企業の経営者に対してとる担保の様な性質のものではないので、実際に保証した債務を引き上げることはできません。

大手企業の破綻では、大手銀行は良く債務放棄をやります。
ギリシャ問題でも、結局はドイツ、フランスの国民にしわ寄せが行きます。

決してシステムが債務保証をしている訳ではなく、その様なルールとして存在しているのです。
これもルールとしてみんなが認めて、始めて成立しているのです。
どのみち、人間の社会は価値観の変更を求められるでしょう。
その様な観点から、これも何とかなるし、しなければならないのではと思います。


このスレッドは、もともと未来社会を取り上げたものですが、とんでもない領域の話に付き合って頂き、ありがとうございました。

メンテ
通貨の概念 1 ( No.58 )
日時: 2015/07/01 22:39
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:QXOxnQjc

満天下さんとの話の中で、通貨の新しい概念について触れました。
早速、これを検証するべくまず、通貨と言うものを考えようと思います。

通貨の歴史と特性。

≪物々交換≫

古代、まだお金が存在しなかった時代には、人々は物々交換で品物のやりとりをしていました。物々交換とは、自分が所有する品物と、他人が所有する品物とをお互いに取りかえることです。人類にとって、はじめて行われた経済取引だと考えられています。
しかし、物々交換は、あまり便利な方法ではありませんでした。交換する品物が偶然に同じ価値であればよいのですが、あまりにもその価値が離れていると交換が成り立ちません。また、交換したい商品がうまく合う人を見つけるのも大変でした。そこで、交換できる共通の物として生まれたのが「貨幣」です。

≪物品貨幣≫

時の経過とともに腐ってしまう食べ物や壊れやすい消耗品などは、通貨として不都合です。そこで、当初は、貝殻・石・布・米などが通貨として使われました。これを、物品貨幣といいます。
物品貨幣は、貨幣の素材によって、自然貨幣と商品貨幣に分けられます。

◆自然貨幣
まず、貝殻・石・骨などの、自然のものを素材とした貨幣が使われるようになりました。これを、自然貨幣といいます。自然貨幣は、宗教や呪術を背景としたものでした。貨幣そのものに価値はなく、通貨として使うには無理がありました。

◆商品貨幣

つぎに、布・米・家畜・穀物などが貨幣として使われるようになりました。商品そのものを貨幣として使ったため、商品貨幣と呼ばれています。

金属貨幣は、金、銀、銅などの金属で作られた貨幣です。

布、米、家畜、穀物などの商品貨幣は持ち運びが不便であったため、持ち運びに便利で壊れにくい金属貨幣が利用されるようになりました。

まず、商品貨幣としての性質を残す秤量貨幣が使われました。秤量貨幣は、金属を重さで量って貨幣として使用したものです。そのため、貫(かん)や匁(もんめ)などの重さが、単位として使われました。金属の価値と貨幣の金額が等しい貨幣です。

≪鋳造貨幣(ちゅうぞうかへい)≫

やがて、金属を溶かし型に流してつくった鋳造貨幣が使われるようになりました。鋳造貨幣は、金貨の価値とは関係なく、信用貨幣(しんようかへい)としての性質を持っていました。

鋳造貨幣は、額面を表示するところから計数貨幣(けいすうかへい)と呼ばれています。計数貨幣とは、一定の形状をもち、一定の品位と重量を刻印で保証した通貨です。江戸時代に発行された、大判や小判などがこれにあたります。

通貨の歴史をいう場合、次には兌換紙幣、金本位制、不換紙幣などについて語らねばなりませんが、ここでは省略します。

≪価値の尺度≫

お金は、あらゆる品物に値段をつけることで、モノの価値をあらわします。
物々交換の時代には、例えばりんご3個とみかん8個を取りかえる…など、モノの価値があいまいで統一性がありませんでした。しかし、貨幣を使うことでモノの価値を同一の尺度ではかることが可能になり、1つ1つのモノの価値を明確に捉えられるようになりました。
このように、貨幣は、モノの価値をはかる基準として使われています。お金(値段)によって、モノの価値を比較したり、判断したりすることができます。これが、貨幣の「価値の尺度」としての役割です。

≪交換(決済)手段≫

お金は、交換(決済)を行う時の支払手段として利用しています。
物々交換の時代には、お互いの品物が等価値でないと交換できませんでした。しかし、貨幣を使うことで、いつでも好きな品物と交換したり、決済したりできるようになりました。
このように、貨幣は、モノとモノとの交換を媒介しています。これが、貨幣の「交換(決済)手段」としての役割です。

※「交換手段」は、商品取引が交換ではなく売買によって行われ、その支払時に貨幣が媒介機能を果たしているところから、「支払手段」とか「媒介手段」とも呼んでいます。また、商品取引の過程で、貨幣が商品の売り手と買い手の間を流通し続けることから、「流通手段」とも呼んでいます。

≪価値貯蔵手段≫

お金は、貯蓄することで、将来に備えてお金の価値をたくわえることができます。
お金は、モノと違って腐ることはありません。貯めておけば、いつでも好きなときにモノと交換(購入)することができます。たくさん貯めておけば、高価なモノと交換(購入)することもできます。
このように、商品を購入せずに貯めておけるお金のことを「貯蔵貨幣」といいます。お金の価値は明日になっても変わらないので、貯蔵手段になります。これが、貨幣の「価値貯蔵手段」としての役割です。

<<誰が通貨を作ったのか>>

石や貝殻、農作物を通貨として使っていた時代はともかく。金属通貨を使う頃は通貨を作る組織が出来ていました。
それは地域、集団の有力者か、社会が進むと領主、国王が作っていました。

そうして、その通貨は、単に物々交換の媒体としてだけではなく領主によって通貨発行益を得る目的で発行され、額面が地金の価値を上回ることがあった。これは一方で贋金の横行を呼んだため、権力者は取り締まりに苦慮することになった。信用通貨と贋金の問題はおそらく貨幣の歴史と同じくらい古いであろうと思われる。価値の裏付けを金属に求めながら、地金価値と額面を厳密に一致させる「本位貨幣」制の確立は近代以降であり、近代以前の貨幣制度を単純にそれで理解することは難しい。

<<金利のこと>>

人間の強欲は、本王的なものであり、通貨の流通と共に、早、通貨の貸付、その金利などの仕組みが発生していました。

世界史の中での金利の起源は、古代文明発祥の地の1つとされているメソポタミアにあったと言われています。この時代、すでに寺院や土地所有者による利子付きの貸し出しが行われていました。そもそもの利子の起源は、農業が始まった頃の「種籾(たねもみ)」の貸し借りによるものとされています。農民に対し神殿などが蓄えた種籾を貸し出し、それを借りた農民は借りた籾の量に3割程度上乗せして神殿に納めていました。これが利子の始まりとされているのです。

 メソポタミアのバビロンの商人は遠方との交易を活発に行なっており、バビロンの金持ちは妻子や財産を担保にとって、商売の資金を貸しつけていました。たとえばバビロンのエジビ家では他人から預金を受け入れて、それを使うのではなく、自己の資金から貸付を行っていたとの記録もあります。さらにメソポタミア文明の象徴とされるハムラビ法典では、銀の貸付利率の上限を20%と定め、借り手に銀のないときは銀対穀物の交換レートにしたがって、穀物で支払うことが出来ると記されています。さらに、古代バビロンでは、すでに複利による利子の計算が行われていました。

 ギリシア期にはアリストテレスが「憎んで最も当然なのは高利貸しである」と言ったように、商品を媒介せずに利子をとる貨幣の貸し付けを批判していました。すでにギリシアでは安全な保管を目的に、貨幣と地金の預託を受け入れ、契約により決まった一定の利息を支払うという個人商人が生まれていたのです。

 アリストテレスのように哲学者の多くが利子に対して批判的な見方をしていたのに対し、ソクラテスの弟子であるクセノフォンは、すべてのアテネ市民が利息収入を共有できる安全保管機関を設立しようとするなど利子に関しては好意的に見ていたものと思われます。 

 ちなみに「economy」という英語の語源であるギリシヤ語「オイコノミア」は、このクセノフォンが用いたものです。「オイコノミア」とは、「家」を意味するギリシア語の「oikos」と、「法律・法則」を意味する「nomos」が合成されたものです。

 旧約聖書では、「貧者」と「同胞」への利子は禁じていますが、お金を貸すことや利子を取ること自体は禁じられてはいません。しかし、利子を取ることは、ギリシアの哲学者たちと同様に、あまり好意的には取られていませんでした。新約聖書の中では、イルサレムの神殿には、そこを訪れる商人のために貨幣を両替し、預けられたいかなる貨幣にも利息を支払う両替商人がいたとの記述があります。 

 イスラム教では利子を取ることそのものが禁じられており、このためイスラム金融では利子ではなく、商品取引などから生じる利益や投資を行った結果の配当といった形態が採られています。

 共和制および帝政ローマ時代にはすでに両替商がおり、国家や貴族のための税金の処理や、債権者との貸借勘定の決済などを行っていました。貨幣を扱う商人は、預けられた貨幣に対して利子を支払い、両替にも従事していました。

今日は、ここまでとします。
メンテ
地動説を天動説に戻すことは、アインシュタインでも出来ないでしょう(1) ( No.59 )
日時: 2015/07/02 10:25
名前: 満天下有人 ID:Uu3X.Tz.

そうですね、このスレは遥か遠い未来の社会を想定される場でした。ところがここ30年ほどの間におけるヘリマネ論を出されていたので、現実論としてのヘリマネの提案かなと思ってしまいました。

<満天下にとっては、空気のように当たり前の認識・・・>

これも長くてもここ50年くらいの間の事とすれば、私だけでなく、全世界の学者、専門家も含み、そして民衆とて紙幣を印刷してヘリコプターから撒いてくれれば、こんなに有難い事は無いと、思いはしても、それを実行して果たしてオカネの価値が保たれるとは、誰も思ってもいないと思った次第です。

遠い先の社会構造の変化と通貨という事になると、どのような社会構造になるのか、それが見えて来ないと、通貨論も仮定の話の連続となり、どうしても精々、現在の延長線でしか物が言えません。でも社会構造がどのように変わろうとも、人間の本質=利己心が変わらない限り、通貨価値に対する人間の価値基準も変わらないだろうと予想します。

つまり哲学は変わらない、ということです。価値ある物の分配問題としてはかなりの意識変化は生じるとは思いますが、何社会であれ通貨に対する価値基準は変わらないでしょう、原始社会に戻らない限り。いや、原始社会こそ、物の交換過程において、双方の物の交換価値については、うるさかったと想像します。イノシシ一匹と魚10匹では割に合わない、魚15匹でないとダメだ・・・それが産業革命で財が膨大な商品の集積となって現れて来たので、交換手段が通貨に変わっただけです。だが交換価値基準に対する人間の尺度は変わっていないでしょう。

以下、遥か遠い先の事としてではなく、ここ精々50〜100年くらいのスパンのこととして、再度ヘリマネについて補足しておきます。

民衆の思いは、無責任でも良いから、オカネをばら撒いてくれよ、とは思うものの、オカネの価値が無くなってしまい、その影響が大きく自分たちに跳ね返ってくることくらいは、肌で感じて知っている筈です。

橋立さんも、その影響位のことは解っていて、だが、その影響が出ないようにコントロールする「方策」は無いものか、その模索されているのであって、根本にあるヘリマネ自体の有効性は認めていないものと思っておりました。

でも続く投稿で<アインシュタイン的転換が必要である>との考えを見て、まだヘリマネの有効性を信じておられると、感じました。

でもそれはアインシュタイン的発想の転換をいくらやっても、既に通貨の価値原理は確立されたもので、それも第三者が勝手に確立したものではなく、それを使う膨大な生活者たちが、通貨に価値を求めて来た結果、通貨の価値原理は出来上がってしまっているのです。例えて言うなら、人類は地球が回っているのではなく、天が回っていると言われ続けて来ても、どうもそれは違う、地球の方が回っていることに気が付き、しかもそれは実証的に検証されて、今や誰も天動説など信じる者はいません。それと似ていると思います。

そりゃ口では、天からお札撒いてよ、という民衆の気持ちはあっても、その思いの真髄は、タダカネくれよと表現はしても、働けど楽にならざりの、分配に対する不満、叫びであって、表現の仕方が違っているだけで、根本は通貨発行形式に対し不満を持っているのではないものと思います。ただヘリマネでも良いからオカネ出せという心情は、労働に対する構造、分配の不満の別の表現だろうと思います。

橋立さんの論は、そこを取り違えてしまって、事の本質を混同されてしまっているように見えます。将来も含めて生産による冨の集中度の加速、それは通貨の発行の仕方が問題なのではなく、生産様式と分配の構造の問題です。従って、いかなる生産社会、例えそれが共産主義であっても、通貨の価値は維持されないと、生産価値の公平な分配も保てなくなります。つまり通貨の発行形式の問題では無いということです。それはヘリマネ理論の構築(恐らく構築不能だと思いますが)によって是正するもの、あるいは是正可能になるのではなく、むしろ経済社会構造の転換の構築に、求められるべき性格のものであると思います。

ニセ札のことを想定して見てください。何故諸国は、自国通貨のニセ札に神経過敏になるのでしょうか・・・冗談じゃない、何の裏付けもないただ印刷されただけのオラが国の通貨を勝手に造りやがって、とんでもない野郎だ!と怒り、国際刑事事件として追及されます。

何故そんなに怒るのか?・・・裏返せば単純印刷紙幣に価値が無いと皆が思っているからです。価値がないものが流通すれば、オラが国の通貨は暴落する!つまり交換価値維持を毀損する印刷紙幣はダメと言ってる訳です。せっかく国民経済資産をバックに発行している通貨を、簡単に造りやがるとは!・・・つまりヘリマネはニセ札であると、間接的に表現しているのです。

も一つの例を出しておきます。ヘリマネとは最初に誰が言いだしたものか、あのマネタリストノーベル経済学賞のミルトン・フリードマンですね。Optimum Quantity of Money (通貨の最適供給量)なる論文で、一回限りの現金支給をやった場合の、経済効果を実験してみようと提案し、それをFRB前議長のバーナンキが、減税と金融緩和を組み合わせた効果は、ヘリコプターからカネを撒く効果に等しいと言ったことから、ヘリマネなる用語で金融界に回り始めた物です。

でも、その発行の仕方について、中央銀行による単純印刷通貨でやることを、ヘリマネとは定義していない。通貨の供給の仕方について言ってるだけであって、その通貨が国債に担保された通貨なのか、あるいは単純印刷のものとしているのかは、ハッキリしていません。恐らく、現代社会にあっては通貨なるものは、国債によって担保されたものであるとの前提は、当然で常識的なものだとする前提のもとにヘリマネなる言葉を使ったようで、単純印刷通貨をもってヘリマネとしたものではないようです。

すると、単純印刷通貨で、金利も返済も不要と言う通貨をヘリマネと定義されたのは、橋立さんが人類史上初めての方、ということになります(笑)。それが通用し認められればノーベル賞なんてケチな賞で報いるべき理論ではありません。地動説をひっくり返して天動説に戻すほどの、すごい価値あるものになることでしょう。
メンテ
地動説を天動説に戻すことは、アインシュタインでも出来ないでしょう(2) ( No.60 )
日時: 2015/07/02 10:54
名前: 満天下有人 ID:Uu3X.Tz.

も一つ、経済構造の転換を通貨発行形式によって変えようとされる混同が見える箇所について、<大手企業の破綻では、大手銀行はよく債務放棄を(債権放棄の間違い?だと思いますが)やります。ギリシャ問題でも結局、ドイツ、フランス国民にしわ寄せが行きます>・・・

結局、通貨は回り回って国民が担保しているが故に<独仏国民にしわ寄せ>が行くのであって、だから、どこにもしわ寄せが行かないような通貨でやれ、つまりヘリマネをやれと言っておられるのでしょうか?・・・そこで問題は、ヘリマネを何でコントロールするのかという最初の疑問に戻ってしまいます。

橋立さんは、そのコントロールは、哲学、宗教の問題であると言われていますが、意味がわかりません。人間は不特定多数の者によって構成されています。例えば、実質上何の裏付けも無い印刷されただけの通貨が撒かれたとします。それが公共事業であっても民衆は喜ぶでしょう。公共事業ですから実質付加価値の創造ができます。だから税収なり何なりで回収が出来ますから、政府は通貨価値維持が出来、金利払っても回収が出来る国債裏付けで日銀に通貨を供給させる訳です。

それを態々何故、副作用が大きい単純印刷通貨でやらねばならないのかが、理解できません。多分、これも仮定の話としてその影響を測定される為に出された問題提起だとは思いますが、その通貨が公共事業でなくもっと広い範囲で、それこそヘリコプターから撒いたとして、民衆は一斉に拾いに行くとします。問題はそこで終われば良いのですが、そこで民衆はどのような哲学で以ってそれを使うのかが問題になってきます。

拾って儲けただけでは、事は済まないと思います。哲学的思考をめぐらして行けば、ちょっと待てよ、こんなことって有りかよ?と、正に哲学的に疑問を発して来ることでしょう。何で政府はこんなことを認め始めたのか?疑問が疑問を呼び、逆効果的にモラルが崩れて行き、悪性インフレの芽を培養してしまいます。いや、ヘリマネは正しいやり方だとの新たな哲学が生まれるとは思えません。

繰り返しになりますが、それが正しいやり方だと民衆が思うのは、ヘリマネが正しいと言うのではなく、民衆が不景気や非正規、格差問題に対し不満を持っているそのことに対し、政治がやっと気が付いてくれた、つまりヘリマネ容認ではなくヘリマネを通じて、社会経済構造に気がついてくれたかと、さような評価ではにかと思えるのです。何度も言いますが、社会経済構造の転換問題が、通貨価値と混同されてしまっているやに感じます。

<決してシステムが債務保証をしている訳ではない、その様なルールとして存在している>・・・皆が認めるルールであるが故に、システム化されたのではないでしょうか?

どの道、人間の社会は価値観の変化を求められることは、確かだと思います。だがそれは変化に伴う分配構造の変化を意味するものであって、膨大な資本主義的生産物に取り囲まれた世界社会構造にあって、価値基準の無い通貨でその生産分配が果たして秩序ある循環に寄与できるか、どうも新たな哲学より、人類何千年もかかってこさえて来た哲学が、それを拒否するように思えます。人間なる生き物が真に利己心を捨て去り、共生第一の生物に生まれ変わらない限り・・・そういう意味で未来問題は、通貨にあるのでなく、ヘリマネが有効になれる筈も無く、よって別の角度から未来社会は考察されるべきではないかと思います。勿論、変わるであろう社会に対し、通貨も変わるだろうと想定されてはいますが、通貨価値にたいする見方は変わらないだろうと思います。

財としての価値を手に入れる手段に対する価値観、それは人間が変わらない限り、いかなる社会になっても変わらないと思います。仮に未来社会が尚、資本主義社会であるなら、通貨価値基準に対する人間の考え方は、変わらないと思います。皆がお互いに共存共生する社会に変わっておれば、話はまた別で、ということも通貨価値基準で社会が変わるのではなく、社会構造の変化が通貨価値基準のを変えるから、どのような社会に変わるのかの予測を固めないと、未来の通貨を論じても仕方がないと思うのです。ハルマゲドンで最終世界は一つ、民族も一つにでもならない限り、交換に関するお互いの価値基準の違いに対する基準取り決めは、続くことでしょう。生産形態がどのように変わっても、それを得る手段の価値基準に対する人間の求めは変わらないと思います。

PS:
せっかく壮大な通貨新理論に挑戦されていますので、その為にも事実関係の誤認は指摘させて頂きます。

<(金本位制廃止の時に)通貨と言う概念は、この時、少し変わっています>

いえ、変わっていません。変わったのは通貨価値を担保するものが、金から国債に変わっただけです。つまりより広い範囲での当該国の経済現状、雇用率や失業率、金利動向、経済成長、諸々の要素、それを反映する国債価値及び金利に取って代わっただけで、通貨の概念は変わってはいません。





メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.61 )
日時: 2015/07/02 10:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:.yPezjw6

アッハッハ ヤフー時代から、私が考えている様な経済理論が確立出来ると、ノーベル賞を10個くらいまとめて頂けるものと言ってきました。

今回のレスの中で、一つだけ、言い訳けをしておきます。
人間は基本的に利己心の塊であり、これを容易にコントロール出来るとすることは大きな間違いであると思います。

私がマルクスを否定しているのは、マルクスが、これをやっているからです。
その証拠に、結局は民主主義を渇望するという理由でマルクス主義は行き詰まりました。

通貨の概念の転換と言いましても、人間のこの面を転換することはできません。
ただし通貨の概念をいう場合、他にも考えられる範疇はあると思います。

同じく、単純に文字通りのヘリマネをすると、人間精神の破綻を招くことも必死です。
それも人間の変えられない本質と思っています。

アインシュタインの転換についていわれていますが、アインシュタインと言えども宇宙、そのものを変えた訳ではありません。
通貨問題でも、人間の利己心というものに手を出す訳ではありません。
これから、話を進めようと思っていますが、なにせ、ノーベル賞10個分の問題です。
旨く説明出来る保証などありませんが、中央銀行による通貨管理システムの有り様、概念の中に、そのヒントがあるように思います。

天動説、地動説と言われましたが、通貨の管理については、通貨発行権が、必ずしも中央銀行に頼ってきた訳ではない歴史から。弄る要素もあるのではないかと思っています。
また古代は、通貨発行は領主の専権事項でしたが、これを再び国家に移すとしても、社会全体が封建主義であるのと民主主義であるのとは条件が違ってくるのではないでしょうか。

このような観点から話をしてみたいと思います。
その都度、問題点を指摘していただくように御願いします。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.62 )
日時: 2015/07/02 11:31
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:.yPezjw6

レスの内容を読んでいまして、単純な意味の説明であったと思いますが、この問題の中にも私が考えている本質が含まれています。

>それは通貨の発行の仕方が問題なのではなく、生産様式と分配の構造の問題です。

通貨の発行の仕方云々はさておき

「生産様式と分配の構造の問題です」

これを、どのようにするかです。

今までは個人個人の労働の対価として分配されてきました。

その個人個人の労働が担保されない状況(失業)になると、どのような方式で分配が可能かということです。

もちろん失業者が労働者の1〜2割程度であれば、社会保障と言う形の救済策(分配)はできます。

今後の資本主義体制が、この範囲で継続するならば、新し経済のシステムなど考えなくても良いと思います。

通貨は人間の文化的生活にとっては、空気、水と同じように不可欠な存在です。

生産物の分配と言うよりも、通貨の分配をどうするか、と言う観点から考えた方が良いのではありませんか。

そこでヘリマネ論が出てきます。

ですが、何度も言っていますように、現金でばらまくことは、人間性の維持の為に絶対にしてはならない事と思います。

(追伸です)

分配方式の中に、金で分配するのではなく現物で分配すると言うことも考えられます。

自力で分配に預かれないものに国家が現物支給する。

これはアメリカのフードスタンプのようなものです。

余りにも非人間的であり、このようなシステムでは、やがて社会がひっくり返る事になると思います。

それも人間の本質でしょう。

(さらに追伸です)

現代の経済学では、このような領域の問題は考えようとはしません。

弱肉強食の理論を延長すれば、弱者は切り捨てれば済むことです。

そうして弱者が死に絶えても人間の社会がなくなる訳ではありません。

人間社会をサバイバルゲームと捉えているのです。

これならば、現行の資本主義のシステムを後生大事に守り、弱者のことなど形だけ、暴動が起きない程度の対応する意図とみれば、全ての事が納得できます。

連中は、地球の資源的理由から、これ以上の人口増加が、これで解決できるとでも踏んでいるのでしょうね。

メンテ
通貨管理制度 ( No.63 )
日時: 2015/07/02 14:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:.yPezjw6

18世紀後半から始まった産業革命は、それまでと比べ物にならない多くの商品を生産して、売買の媒体たる通貨が大量に必要になりました。

それに伴い、別の国家間の貿易も盛んになり、通貨の価値の裏付けがさらに必要となってきました。
そこで登場したのが金本位制です。

金本位制の理念は古くからあったのですが、その目的は通貨を溜め込んだ富裕層の身分保証のようなものでした。
19世紀以降は、通貨の価値基準が異なっていては貿易の決済に支障が生じる為に金本位制が求められ、ヨーロッパ各国が次々と追随し、19世紀末には、金本位制は国際的に確立した。

ところが19世紀末から20世紀にかけて、更なる生産手段の発達と、流通、それに金融資本の台頭と共に、金本位制も維持できなくなってきました。

1929年、ニューヨークのウォール街で株式が大暴落したのをきっかけに、世界大恐慌が起こりました。経営がおかしくなった企業は、銀行に駆けつけて預金を引き出します。はじめのうちは要求に従っておとなしく銀行券を渡していた銀行も、苦しくなった企業が増えるにつれ、預金引出しを渋るようになりました。そうなると預金を引き出すのに銀行券をもらうのが不安になり「金で返せ」というようになります。しかし、それだけの金貨が銀行にはありませんでした。既にみてきたように、銀行は手持ち以上の銀行券を発行していたのです。ますます銀行券は信用されなくなり、兌換要求に応じられない銀行は倒産に追い込まれました。そうなると倒産した銀行に預金していた企業や融資を頼っていた企業も巻き添えになり、倒産してしまいます。このように倒産の嵐が吹き荒れ、失業者が街にあふれてしまったのです。こうして大恐慌が原因となり、主要各国の金本位制は崩壊しました。

その後は、本格的なグローバル化時代です。

この時代は、金本位制が崩れたことも相まって金融投機が盛んになりました。

価値の裏付けを失ったお金の価値は、為替市場で決められるようになりました。需要と供給のバランスによって決まる「お金の価値」は、投機的利益の道具となっていきます。

そして、金という「実質的な財」の制約から解放され、単なる数字となったマネーは、コンピューターの発達に乗って、利益を求め世界中を駆けめぐるようになります。

投機とは、将来の価格変動を予想して、現在の価格との差額を利得する目的で行われる商品や有価証券などの売買のことです。その基本は、安い時に買って高い時に売る。価格変動がなければ利益がでませんし、変動幅が大きければ大きいほど巨額の利益を獲得するチャンスとなります。

一般の生活者からみれば、お金の価値は変わらず安定していた方が良いのですが、投機家にとっては変動しないと困るわけです。そして、巨額な資金を持つ機関投機家は、為替市場を操作することができます。実体経済からかけ離れ巨大に膨れ上がった投機マネーは、1990年代後半に世界各国で金融危機を引き起こし、世界を新たな混乱に陥れていきました。

(全世界の国が一日に産出する商品・サービスの総額が約836億ドル。それに対して外国為替取引額は一日で1兆8800億ドル、デリバティブ取引をあわせると3兆1000億ドル。実体経済はマネー経済のわずか2.7%しかないことになります。)

通貨の成り立ちに伴って金利と言う概念は、当初からあったものですが、それを求る行為に際限がなくなったと言うことです。

ところで、通貨の流通を調整する為に、各国には通貨管理制度があります。

管理通貨制度とは、各国の政府や発券銀行が、経済を調整するために通貨の入出を管理する制度のことである。日本の場合は、日本の中央銀行である日本銀行が通貨を管理している。政府・中央銀行は自国通貨を無限に市場に供給できる。紙幣発行権は日銀が有し、政府は硬貨だけを発行するという制度は、政府の通貨乱発を防ぐためのものである。
中央銀行は通貨を保証しなければならず、通貨の価値を下げないようにする、つまり物価を安定させなければならない。インフレーション(物価上昇)、デフレーション(物価下落)のどちらの現象も回避するため、中央銀行は通貨供給量の動きを監視し、市場に出回る通貨量が適量になるように調整する。
管理通貨制度では、その国の政治・経済状況が貨幣の価値を決める。つまり、その国の「信用」によって、その国の貨幣の価値は安定したり不安定になる。

要するに、この通貨管理制度なるものが、本当の意味で機能しているか否かの検証をすることも大事でしょう。
まず、通貨管理の理念は、何によっているのでしょう。

目標として、その国の通貨の安定を言っていて、その文言自体は正しいでしょう。
ですが通貨管理制度で、実際に安定と思われていることが、本当の安定なのでしょうか。

経済の指標は既に実体経済を離れてしまっているのに、それを管理する理念が、もしかして旧態依然の経済論理に基づいていることも考えられますし。

逆に、現状の投機経済の金融のあり方に合わせてやっているとも考えられます。
現状の投機経済の金融に合わせてやっているならば、その事自体が誤りです。

現在の経済を検証するにおいて、どこの国でも金融マフィアの奴隷国家となっている様相が、それによって示されています。


メンテ
通貨管理制度 2 ( No.64 )
日時: 2015/07/02 17:10
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:.yPezjw6

前回は通貨管理の基本的な概要を言いましたが、実際の通貨管理は複雑なのです。
これを示すために、ひとつの文章を引用します。

http://d.hatena.ne.jp/nari0215/20100515/1273933954

国債を発行する限度額は?

最初に断っておきますが、ここでは数字を出して検証は致しません。おいらは、数字を調べるほどのことではないと思っていますので、調べたい人は独自に調べていただければと思います。

今回は「国債はどれだけ刷れるのか?」という事について考えたいと思います。これは大雑把に「お札をどれだけ発行してよいのか?」という事と大体同じと考えて良いと思います。

我々の使用している通貨は、何を基準に発行しているかというと、金本位制までは国家の金保有量に応じた通貨を発行してきました。(金本位制とは通貨の価値を保障するため、金を保有した量に見合った額の通貨しか発行できないというシステムです。いざとなったら、通貨を政府の保有する金と交換してくれるという保障があったわけです。)
現在は、金本位制ではないので、通貨の発行は自由に行えます。そして、その価値を支えているのは、金に変わり国家の信用力なのです。

金本位制は1971年のニクソンショックで終焉を迎えることになりますが、何故金本位制は終わってしまったのでしょうか?
その理由は、経済規模が大きくなれば、それに伴う使用通貨の額も大きくなります。市場で必要な通貨の量は、市場規模の拡大と共にどんどん大きくなりますが、金の採掘量は急激に増えたりはしません。発行する通貨を増やしたいけど、それを保障する金が無いという事になり、通貨は金との連動を断ち切っしまったのです。

順調に経済が成長するとすれば、これは当然の流れといえるでしょう。ただし、ここから先は通貨の保障が「金」から「信用」という曖昧なものになったわけですから、よりモラルというものが重要になってきます。
ここでモラルと言っても仕方が無いので、実際いくらまで通貨(もしくは国債)が発行できるのか?ということを考えなければいけません。ではその額はと言うと、一言でいえば、経済規模に相当した額といえます。すなわち、市場の決算や投資に使われる市場規模に相応した額といえるでしょう。

では、ここで本題ですが、今の日本の通貨発行量(もしくは国債の発行量)は、経済規模に対して妥当な水準かという事を考えなければいけません。
今の日本経済は非常に複雑で、簡単に預貯金の量とか、国の資産とか、国のGDPなどから判断できない状況にあります。国の債務が国内債務であることや、国民金融資産が過剰に積み上がっていることなど、他先進国と日本は圧倒的に状況が違います。
国民金融資産と同額までは良いなどという意見も聞きますが、それも妥当ではありません。国民金融資産以上に国の経済規模が大きければ、通貨や国債の発行は可能といえるでしょう。

普通に考えたら、日本の経済規模以上に借金をすることが、リスク(信用低下)という事になります。
では、経済規模は?

ここが凄く不透明な訳です。冒頭で数字を出さないといった理由はここにあります。
ここでGDPが云々言ってるようでは、実情を正確に判断しているとは言えません。まず、世の中に出回っている通貨がすべてではないという事を考えなければいけません。

今、世の中に出回っている通貨の量で実質的な経済は回っています。本来はこの程度の通貨発行で良わけです。しかし、実はそれ以上にお金が過剰に市場にストックされています。それが国民金融資産(預貯金)1400兆円というわけです。まず、このお金が市場に出ればインフレは一気に加速することを理解しておかなければいけません。なにせ、国家予算を90兆円として、15年分に相当する額ですから…。

しかし、現状では日本の国民性として、預貯金を引き出そうとしたりしないのです。だって日本国民のほとんどは、預貯金を引き出して投資信託や株やFXに投資したりしないですよね。そんなのは全体のごくわずかに過ぎないのです。逆にこれが功を奏して、行き場を失った預貯金が、国債を買い支えているという訳です。なので、本来の経済規模以上の預貯金と国債残高が積み上がるという極めて異常な事態となっている訳です。

では、デフレ脱却のために、適度なインフレが起こるまで国債を発行するという事は可能でしょうか?
今、言った通り、超破壊力のある爆弾がいつ爆発してもおかしくない状況で待ち受けているわけで、「信用」というたがが外れた途端いきなりハイパーインフレになったりする可能性が高いと思われます。…要は、インフレを飼いならすのは困難という事です。まず机上の理論には従わない可能性が高いでしょう。

さらに「信用」を破壊する要因があります。これこそが一番問題なのですが、それは金融デリバティブです。ここにはレバレッジ(信用取引)という投資手法があり、投資金額の数十倍の取引が出来るわけです。例えは100万円で1000万円とか1億円の取引が出来るというわけです。ファンドなども巨額のマネーにレバレッジをかけて運用しています。その取引額の総額はというと、もはや数京円規模なのです。(京は兆の10000倍です。)

また、投資にはカラ売り(ショートポジション)という手法もあり、日本国債の信用が低下すれば、市場規模を遥かに超える売り浴びせが、行なわれることだってあります。その額が数100兆規模に及ぶという事は、ごくごく普通に起こるかもしれません。
日本が財政危機で信用低下となった時、それが本来国民金融資産で相殺するはずだったとしても、レバレッジをかけた投機資金が、日本国債を売り浴びせにかかった時、日本国債の信用と共に国民金融資産も、あっという間に消えてなくなる可能性もあるわけです。(おいらのブログの今日の相場の一番下に、「昨日の記事の通り、来週もユーロを売り込みたいと思っています。」とあります。これが現実です。おいらの投資活動自体がすでに経済を混乱させている一要因なのです。)
とにかく今後は、国内に限定された理論よりも、リアルで国際的な感覚が必要になると思っています。日本だけで経済は動いていません。

最後になりますが、これらの信用リスクを回避するには、実の無い資産(預貯金や現金)を、実のある資産(貴金属地金や土地)に徐々に転換する必要があるのではないかと考えています。これを象徴するように金価格は上昇の一途をたどっています。
ちなみに、今日のお題に対するおいらの答えは(正確な答えではありませんが)、
どうせ財政出動などしても、現在の経済の大局を覆すことはできないと考えていますので、しっかり財政再建に打ち込むべきと思います。すなわち税収以上の国債を極力発行するな!という事です。
経済が発展すれば幸せな生活になるかというと、それだけでは無いと思います。都会の暮らしの便利さから、少しだけ自然の有難さを感じる生活にシフトすればいいだけのことではないでしょうか?

(引用終わり)

ここでいわれているように、実際の経済規模に準じて通貨の価値を担保しようと思えば、1400兆円くらいが関の山です。
それでも、それも単なる仮定であって、実際に担保出来る訳ではありません。
だから通貨の価値保証が「信用」と言う行為に変えられているのです。

現在の通貨管理の大原則は、ひとえにこの理屈に沿って行われていますが、上記の文章にも出てきましたが投機のための通貨の暗躍には全く意味がありません。

その投機の金融の動きを無視出来るかと言えば、為替相場などで一国の経済など吹っ飛ばしてしまう影響力があるのです。
企業等は、その相場に組み入れられて活動しているのですから、仕方がありません。

この問題を裏側からみれば、中央銀行がこだわっている通貨の発行限度の想定、そのものが、実際にはほとんど意味がないのです。
意味があるのは国内経済だけで、ハイパーインフレが抑えられていると言うだけです。

ですが、これも単なる想定であり、為替相場がどのように展開しても、それだけでハイパーインフレになると言うこともないのです。
それは、国内には必要な生活物資は十分にあり、北朝鮮ではないので、その商品の取り合いが起きるとは言えないのです。

まあ、輸入品の価格の変動には対応するでしょうが、余りにも高くなれば、国産に切り替えれば良いのです。
食料自給の事がいわれていますが、そうのような意味でもある程度の国内産業の保護は必要なのです。

ギリシャでも判る様に、グローバル化と言うものは、そのような自衛手段をも奪われて金融資本にひれ伏していると言うことです。
ついでに言いますと、クソ安倍が進めているTPPは、国を滅ぼすものなのです。

ですが原油に関するものは大変な事になるでしょうね。
現実の通貨管理には、既に大きな矛盾を含んでいるのです。

かと言いまして、そんなに簡単に代替案がある訳ではありませんが、これを絶対視することもないでしょう。

とりあえずは、新しい通貨の概念を一通り模索するための文章なので、ここは一旦打ち切ります。

後で検証したいと思いますが、満天下さんが言っておられる「金融鎖国政策」は、まさに、この矛盾に対応されたものです。

メンテ
通貨管理制度 3 ( No.65 )
日時: 2015/07/03 11:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:VhO0Ve4c

「続・当代世間騙し装置」スレッドでギリシャ問題を語る中で、通貨の問題について話が出たので、続きをここに移します。

まず、私が言っていますヘリマネと言うのは、実際に現金をばらまくものではありません。雇用の確保の為の資金を通貨の増刷をすればどうかと言うことであり、満天下さんも、以前にいわれていた様に対価があればヘリマネの規定には当たらないといわれていて、対インフレなどの懸念の検証には、別途の考察も出来る様です。

また基礎年金に当てるための資金、20兆円はヘリマネではありますが、その総量は限定されていて、しかも、それは基礎年金としてより発行しませんので、その用途によってインフレが起きる懸念は少ないと思います。

ですので、ロシア、ジンバブエで起きたような、ヘリマネ騒ぎではなく、ハイパーインフレに結びつけなくても良いかと思います。

通貨管理制度について

>何やら別稿では、何を言ってるのか、国民貯蓄の額で国債は担保されるものではなく、経済規模=GDPの範囲が国債発行の限度だとか、そう言いながら最後で発行額は税収が限度だとか、さっぱり理解できない矛盾記事の引用をされているようですが、何を言ってるのかよく分かりません。

上記の文章のたいしょうである引用文ですが、確かに通貨の発行限度の想定の根拠として、色々なものを上げています。
私は、それを、どれでもよかったのである、と言う様に捉えていました。

仮に、国民資産が通貨の信用の担保であるとしたら、ギリシャで起きているらしい、取り付け騒ぎに合点が行きません。
金融機関に預金をしている人にとって、それが国家の債務保証にもなっているとは夢にも思わないでしょう。

それなのに、理由が国家財政にあるにせよ、勝手に国家が背負った借金の担保に自分の預金を差し押さえられ、引き出せないなどと、泥棒にあったのと同じです。

金本位制が維持できなくなり、信用通貨に変わり通貨管理制度を作りはしましたが、結局は、その機能は本当の意味でのあるべき管理、国民のための管理は十分でないことになります。

その大きな理由に、何京円といわれる投機マネーの跋扈を許さざるを得ないことです。
満天下さんも指摘されているように、多くの国の中央銀行、そのものが投機マネーマフィアの影響下にあるのでは、それも道理です。

現在の通貨管理は、何を隠そう、投機マネーの活動を補完する為になされていて、国民のことなど二の次であるのです。

ギリシャで金融破綻に不安を持った国民が預金を引き出そうとするのを抑えているのも、その通貨管理のせいではありませんか。
現在の通貨管理の概念を潰すことこそ、金融界のアインシュタイン的転換ではないでしょうか。

実際は、アインシュタインほどの天才でなければできないほど、困難な問題でありますが。
メンテ
通貨管理 4 ( No.66 )
日時: 2015/07/03 11:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:VhO0Ve4c

現在までで、通貨管理制度に大鉈を振るうなら、

通貨管理のための中央銀行を、国家管理に戻すことでしょう。
もちろん、国家管理の弊害は、悪質な独裁者、またはドンキホーテのような政治家が出て、国内経済を無茶苦茶にすることです。

ですが、それは国民の手で、それを引きずり下ろすこともでき、当面の混乱は自己責任で賄ってもらう。
そんな事を何回も繰り返せば、そのうちに国民も、そんなバカを宰相には選ばなくなるでしょう。

世界中が金融マフィアに蹂躙され自国民ではニッチモサッチモ行かなくなるよりも、よほど被害は少ないでしょう。

まあ、まあ

これは宿題ですが。
メンテ
通貨とは ( No.67 )
日時: 2015/07/03 21:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:lCRIQS4Y

通貨管理制度のことはしばらく休憩しまして、次は庶民にとって通貨とは、どのように思われていたかの検証をします。

まずは復習です。

お金は、あらゆる品物に値段をつけることで、モノの価値をあらわします。

物々交換の時代には、例えばりんご3個とみかん8個を取りかえる…など、モノの価値があいまいで統一性がありませんでした。しかし、貨幣を使うことでモノの価値を同一の尺度ではかることが可能になり、1つ1つのモノの価値を明確に捉えられるようになりました。

このように、貨幣は、モノの価値をはかる基準として使われています。お金(値段)によって、モノの価値を比較したり、判断したりすることができます。これが、貨幣の「価値の尺度」としての役割です。


お金は、交換(決済)を行う時の支払手段として利用しています。

物々交換の時代には、お互いの品物が等価値でないと交換できませんでした。しかし、貨幣を使うことで、いつでも好きな品物と交換したり、決済したりできるようになりました。

お金は、貯蓄することで、将来に備えてお金の価値をたくわえることができます。

お金は、モノと違って腐ることはありません。貯めておけば、いつでも好きなときにモノと交換(購入)することができます。たくさん貯めておけば、高価なモノと交換(購入)することもできます。

ここまでは、通貨は物々交換のための手段であり、生活に必要な物資を入手するための手段でした。
逆に言えば、物々と同じような経済活動によって通貨を手に入れていたと言うことです。

ところが実際は、早くから労働の対価として通貨を入手し、それで必要な商品を手に入れられると言う図式が完成しました。
これは画期的な事であり、人々の生活において必要な物資を入手することが簡単に出来る様になりました。

その代わりと言いますか、労働の対価として必要なお金を受け取ることの、その基準が労働価値説として浮かび上がり、商品の価格は労働の量により決められるとう概念が発達しました。

従来の物々交換における交換比率とは別の基準です。
これは、そのごマルクスによって特異な形で突き詰められています。

どちらにせよ、労働価値説の概念は、資本主義のシステムにおいて効果的な存在であり、流通経済は飛躍的に展開して行きました。

人々にとっては、働けば通貨が得られると言う簡単、明白な図式となりました。
無論、当時から不動産所得や不労所得もありましたが、労働=通貨と言うことが、人々にとって水や空気の様に無意識の存在になりました。

第二次産業、第三次産業の隆盛と共に、通貨の存在が生きる事の、前提であり最初にあるべきものでした。
最近、経済学を語る人に需要が先か供給が先かと言う言い方で、需要を喚起すれば供給が必要となり、労働が発生し通貨が流通すると言う事を言う人がいます。

実際に需要と供給が交互に左右している条件では、それは成り立っても、現実として貧困に喘ぎ、通貨を持たない人には、そんな理論など当てはまりません。

人々にとって通貨とは、そういう存在であり、経済学上の理論で説明されても意味がないことがあります。
もちろん、どの時代でも経済が殆どの人々を縫合して進展していた訳ではありません。

経済的に困窮する人々、一時的にもせよ、生きるための物資を購入する通貨を持ってない人に対する救済は社会福祉で賄い、経済の理論は、理論として成り立っていました。

ですが、これは飽くまでも救済であり、資本主義体制としては落ちこぼれ、体制外の人間でしかありません。
問題は、このような人々の数が人口の1/4、1/3に増えてくると救済はできなくなります。


古代社会と違い、現代の人々は通貨が手に入らなければ 自分の所有する物、または採集してきた物→必要な物、または通貨と交換=いわゆる自給自足
と言うことはできなくなているのです。

現代社会の仕組みでは、働く場所がない→通貨が手に入らない→物資が買えない→生きてはいけない。
の一直線なのです。

この様な人々に取って通貨管理の内容など関係ないのです。
経済の理論を何日聞かせても、関係はないのです。
単に、すぐに通貨が欲しいだけです。

そのような通貨の有り様を、経済学では考慮することはなく、ひたすら通貨の流通(金融)の図式を整えることばかり執着しています。

共生社会を考えるなら、共に生きていける事を是とするならば、通貨の供給が行き渡るような施策があって良いものでしょう。

現代経済学の対策は、

毛細血管が壊死しているのに、輸血をしたり、心臓マッサージをして患者が生き返るとでも思って施術をしているようなものです。

そのうちに手足を切って胴体だけで生きていこうとするような事をやり始めるでしょう。

ひとびとが通貨に抱く概念と通貨管理をしてる専門家の概念は、このように違っているのです。
まあ、経済の専門家といわれている連中は、明日の食事もできないような困窮に落ちいったことがないので、金は天下の回りもの、の様に考えているのでしょう。


メンテ
通貨の概念 2 ( No.68 )
日時: 2015/07/03 22:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:lCRIQS4Y

前のレスで言いましたのは、通貨とは人々にとり生きていくための手段であり、労働によって得られるものである。
もはや物々交換の媒体などと言う概念はないでしょう。

また通貨を多く取得する事、蓄える事によって、より大きな欲望を得られるとし、通貨を貯める事に執着してやまない。
自分の利己心を実現する手段でもある。

通貨獲得への執着心は、時には人間性を破壊する程のものであり、通貨は人間性の醜い面を引き出す事になることも多い。

別の面、通貨の存在は人間の利己心を満足させるものであり、あくなき通貨獲得競争がある一方、通貨の入手に成功しなかった人間は、利己心を制御することを余儀なくされ、通貨がない故に、自分の納得させてきた。

通貨の多寡は人間精神をコントロールする結果となってきた。
仮に、ヘイマネ政策を実行し、通貨が誰にも必要なだけ分け与えられとなると、人間の欲望追求の利己心は全く開放される事になるのか。

丁度、民主主義における個人の権利、自由を認める風潮が、必ずしも、望むべき方向に展開してない時に、この上、通貨の分配で際限のない通貨の所持がみんなに与えられた場合、民主主義はどのように展開し始めるか、末恐ろしい。

これを考えると、ヘリマネ、ベーシック・インカムの施策が絶対にやってはならない施策である。


ここに再び「創世記」の話を思い出しましょう。


>『創世記』の記述によればエデンの園は「東の方」にあり、アダムとエバは、エデンの園を耕させ、守らせるために、神によって、そこに置かれ、そして、食用果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。


アダムとエバは、神のい付けでエデンの園を耕させられていたのです。
そえがあるとき神の言いつけに背き、禁断の身を食べた為に人間社会がスタートしたと言う物語に、既に人間の宿命が語られています。

人間は労働することによって平静が保っておられるのです。
労働を怠けようとしたり、ズルを決め込む人間に平穏はないのです。

労働なしに生きる対価(通貨)を求ることは、神との契約違反であり、エデンの園も追放されるのです。
現代社会において労働なしに通貨を配分すると言うことは、既に人間社会をも、追放されるに等しい暴挙なのです。

人間個人個人にいて「通貨」とは、どのようなものであるかの検証を終わります。
結論的な言い方はしてませんが、そんなことなどできなくて、概念として把握していただけば良いかと思います。
メンテ
生産様式における社会経済問題と、通貨価値維持システムを混同されないように・・ ( No.69 )
日時: 2015/07/04 11:40
名前: 満天下有人 ID:LBCcjgUY

う〜ん、長々と読ませて頂いた感想ですが、やはり何を対論するスレなのか、また分からなくなりました。一番最初に、これはまたヘリマネ論なのか、分配論なのかが分からず、どうも両者を混同されているような感じを持ち、だからあらゆる経済上の要素が盛り込まれてしまい、テーマが何だったのか、訳が分からなくなってしまいました。

最も新しい投稿では、ヘリマネ、ベーシックインカムは絶対にやってはいけないと言われているので、それを言うためのスレだったのか?テーマが分からなくなった由縁です。

橋立さんのテーマ、問題提起は、新通貨論でした。現状通貨は発行権者のもののようになってしまっているから、新たな哲学を考えないといけない、そのような問題提起だったと思います。それに対し私は、現状通貨発行制度は、むしろ国民経済を守るものであり、だから管理通貨制度に代わっても、国債発行なる縛りで通貨は発行されている・・・それは通貨価値維持の人間民衆の、人類誕生の時からの本能であり、それはいかなる社会構造になっても変わらない・・・故に、

<通貨価値基準で社会が変わるのではなく、社会構造の変化が通貨価値基準を変えるのだから、“どのような社会に変わるのか(理想とするのか)、の予測を固めておかないと、未来の通貨を論じても仕方がないと思う>、と条件を付しました。(投稿NO.59)。更には、人間大衆の通貨価値に対する見方は、いかなる社会であっても古来変わらないと思うから、その角度からも新通貨論に期待しました。

そこで橋立さんの「新通貨論」では、どのような新社会経済体制を望まれているのか、それに大いに期待したのですが、その新通貨論は、どこに収斂されて来るのかが、むしろ経済社会論の展開の歴史検証の連続で、新通貨論の切片が見えて来ません。故に、テーマは何だったのか?と振り返ってしまいます。

ただ途中で、<通貨発行の仕方云々はさておき、生産様式と分配の構造の問題>と、方向を転換された気配は感じましたが、でも<(その労働の対価を)どのような方式で分配が可能か>との反問の中に、オカネを配る方法は無いかとのニュアンスが込められています。やはりヘリマネが思考の中心に置かれていますね・・・再度申しますと、正にその解決前提は、未来社会をどう仮定するかに懸っていることで、それ抜きではやはり何を議論すれば良いのか、また分からなくなってしまいます。

新たな投稿の度にその内容は、経済社会体制の問題であり、通貨の問題では無い、私の持論はいかなる社会経済制度においても、通貨はその補助手段であり、その価値維持は正にそれを使う国民生活者に跳ね返らないように、いかなる形態の社会であれ価値維持手段は守られねばならない、その意味で、新たな通貨価値論はあり得ない、それは例えて言うなれば、地動説を天動説に戻すに等しく、例えアインシュタインであっても不可能である、故に変わらない通貨価値維持を、新たなものに変える為の追及は徒労に終わるから、考えるだけムダではないかと、最初に申しました意味は、そこにあります。

その角度から、引用記事氏の論理、そして橋立さんの論理を指摘しようとすると、これまた投稿記事の全段落について言わねばならなくなり、例えば1400兆円の貯蓄と通貨発行との関係に論及しようとすれば、通貨マフイアによる投機問題が絡んで来て、それは通貨価値維持を損ねるというよりも、通貨を使う側の「制度」の問題であって、逆に言えば、事ほど左様に悪用されるから、更に通貨の管理の厳重性が問われる所を、管理通貨制度など何も管理されていないから、意味がないとの論に繋げてしまわれるから、一体何を議論されているのか、分からなくなり、それを検証する投稿労力と時間が追いつきません(笑)。

ただこれが、橋立さんの新通貨論の切片かな?と思われる記事が一つありました。それは<中央銀行による通貨管理のシステムの有り様、概念の中に、そのヒントがあるように思います。通貨発行権が、必ずしも中央銀行に頼ってきた訳ではない歴史から、葬る要素もあるのではないか>・・・

これは驚きました。橋立さんが政府紙幣発行、あるいは地域通貨発行論者であったとは!・・・中央銀行に発行権を与えないということは、政府が発行権を持つことになります、つまり政府紙幣擁護論になります。それも通貨権力が施政者に渡るから、そう言う意味では無いとなると、地域通貨でやれ、ということですか?

確か橋立さんは、政府紙幣容認論者でも無く、地域については丹後における商品券発行の仕方にも反対されていたと思うのですが・・・

歴史は全く逆で、政治権力が通貨支配権を持てば、いくらでも通貨の印刷が可能となり、それでは経済が安定しない、年がら年中、ハイパーインフレの中で生活して行かねばならなくなるから、中央銀行を独立させたわけで、故に我が国でも財政法が定められて、日銀の独立性が分離されたものです。あの高橋是清でさえ、国債の日銀引き受けをやらせましたが、それは一回限りとしており、つまり、経済秩序がどういうことになるか、よく知っているが故の措置でした。

目下の日銀黒田のやり方は、、正にその財政法を破りシンゾー独裁通貨発行論に迎合してしまっている。自民党の中でも、日銀独立性を奪えとのとんでもない逆行論が出始める有り様です。戦争加担政治に復帰する構図とそっくりです。

総論としては、新通貨論構築の前提仕方ないので一行一行検証して行くことに致しますが、一番最初に申しました通り、どうも橋立さんは、通貨価値維持のシステムと、歴史的にここまで発展?(退化?)して来た生産様式における分配論とをまだ混同されている。故に通貨主導論でそれが解決できるのではないかとされている。しこがズバッと出て来ないものだから、何を言わんとされようとしているのかが、常に混乱してしまいます。多くの投稿記事はむしろ、生産社会の矛盾、それは一重に分配論に原因があるものばかりで、それに特化されているものばかりで、新通貨論に繋がる切片が見えないのです。

混同されている記事の箇所は多々ありますが、例えばマルクスの労働価値論が通貨論と混同されているし、ギリシャ国民による預金引き出し行為に言及されて、取り付け騒ぎが起っていることの、背景理屈をよく咀嚼されてないように思います。ジンバブエ、ロシアハイパーインフレの背景解釈が全然理解されていないようです。
それは、基礎年金がヘリマネでなされていると解釈される、最も基本的な事実誤認によるからだと思います。その遠因は、引用記事氏の記事内容は、どれでも良かったとの解釋に感じられます。

まあ、一つ一つ事実誤認を指摘しないことには、新通貨論も大変危ういものなる危険があります。管理通貨制度及び通貨発行基準は、事実上いい加減だから、そのれに準拠する必要はない、ということにはならない訳で、ギリシャ国民が取り付け騒ぎを起こし、事の本質が分かっていないとの指摘も、それは、わが国も含めて気がついていない方がおかしいのであって、管理通貨制度が悪いからではありません。制度の趣旨を守らない方がおかしいのであって、だからギリシャデフオルトのような事態が発生する訳です。

どれは、中央銀行の独立性を止めて政府管理にせよとの意見にも感じられます。財務省役人も選挙で選べるようにするのか・・・これも、どのような未来社会を想定してのことかとの、私の前提条件に収斂されることですが、それは、新通貨論を提案された橋立さんの仕事だと思います。

PS:そろそろズバッと、新通貨論を提示されては如何でしょう。
メンテ
ズバッと概略! 未来社会 ( No.70 )
日時: 2015/07/04 14:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:l5xh42ic

満天下さん、まことに申し訳けありません。

私の言い方は、あっちへ飛び、こちへ飛びの繰り返しです。
試行錯誤、そのものを出しているようなものです。
ですが、それが本当の認識の仕方とも(弁証法的)と思っています。


>そろそろズバッと、新通貨論を提示されては如何でしょう。

ですが、ズバッ言えるのは通過論ではなくて、未来社会の有り様です。


経済の話をするとき、常に想定しているのが雇用の問題です。

>『創世記』の記述によればエデンの園は「東の方」にあり、アダムとエバは、エデンの園を耕させ、守らせるために、神によって、そこに置かれ、そして、食用果実の木が、園の中央には生命の樹と知恵の樹が植えられた。
 
の文章も借りていいましたが。人間社会は各自が生きるための労働をしていることが人間性を保てる絶対条件と想定しています。

3000年も前に書かれたであろう旧約聖書の中に、人間の本質が見事に書かれていると驚嘆しています。
人間は、言われた様におとなしく労働をしていれば良いのに、知恵の実を食べたばかりに利己心が芽生え、ややこし人生に入ってしまった。要するにおとなしく畑を耕すと言う原点を見直せと言う様に解釈しています。

ですので、結果としての格差があろうとも、むしろ格差は必要とも、ともかく人間には労働と言うものが必要です。
それによって始めて人間の醜い本性がコントロールされるものと思っています。

私たちの一生を振り返っても、仕事抜きの人生など考えられないでしょう。
生きるために仕事をしなくて良いならば、私たちの精神もどこへ飛んで行くか知れません。

ところが現代社会は生産手段の発達と流通経済の発達で、生きるための仕事にありつけないもの、仕事をする必要がなくなった人が随分と増えてきています。
自民党などが言っています、新しい産業で雇用を確保すると言うような話は、不確実な予想に過ぎず、生産技術の更なる発達、経済のグローバル化の方が進んできます。

私の話の前提は、以上の事を認めるか、認めないかで話が違ってきます。
ヘリマネを絶対否定していますのは、上と同じ理由からです。

経済のことは、では、どうすれば良いか考えた時に始まります。

生きるための仕事を求めている人に、概ね仕事を提供すると言うことは、もはや国家が動かないと、企業の責任ではできないことです。
いい遅れましたが、資本主義は、人間性に最も適した制度であり、これを踏み外しては、別の深刻な事態が生じます。
そいう訳で資本主義体制を取りながら、殆どの人に雇用と確保するということは、先に言いました様に国家かそれに変わるものがやらねばなりません。

この為に、どのような経済の仕組みを作るかが発想のスタートです。
それは、当然、資本主義を修正することになります。

通過管理制度などのことですが、現行の制度は現行の経済のシステムを維持する限り、それが正解で、間違っているとは考えていません。

このスレッドで以前にも書きましたが、このような事を大雑把にいうことは漫画の世界の問題であり、それが実現可能か、否かを検証して進まねばなりません。
ヤフーの頃は、概ね漫画的発想で終わっていましたが、満天下さんなどの話を通じて、結構専門的な言葉で検証出来る様になったでしょう。

公共事業や基礎年金を通過の増刷でするとかは、それが可能か否かを具体的な例で検証してるのです。
通貨発行権を国家に戻すことも同じです。

と、いいますのは、これも満天下さんとの話の中から、修正資本主義の修正すべき中心は、どうも通過管理制度にあると当たりをつけました。

もちろん、理論的な問題以外に、金融マフィアの存在もあり、この修正(価値観の転換)は、それこそアインシュタインの相対性理論の様に普通は考えもしないことであると思っています。

地域通貨に関しては、どのような場合でも認めてはいません。
むしろ、通貨発行権を国家に委ねると言う考えからも、否定しなければならないことです。

以上の様に、私が提案していますことは、文明史的範疇のものであり、経済の領域も超えていると思っています。

このスレッドのアクセス数に見られるように、現在では、こうした文章に殆どの人が興味を示さない事を悲しんでいます。

(追伸です)

>もちろん、理論的な問題以外に、金融マフィアの存在もあり、この修正(価値観の転換)は、それこそアインシュタインの相対性理論の様に普通は考えもしないことであると思っています。


新しい通貨の概念、これはこの中にあると思いますが、そのようなものを具体的に提示するのは、むしろ現行制度に精通されている満天下さんの方が近道であると思っています。
メンテ
通貨価値維持の重要性>それが正に中央銀行独立の重要性です ( No.71 )
日時: 2015/07/04 14:08
名前: 満天下有人 ID:LBCcjgUY

通貨発行権を政府に戻せとの意見には、驚きましたが、何故ハイパーインフレが起るのかの重要な要因として、通貨が単純に印刷されるのが、最も大きな原因なのです。

その例として、ルーブル危機が何故起こったのか、その悪例として最も代表的な例としてアフリカジンバブエを挙げましたが、どうもそれが理解されないようなので、も一つ例を挙げておきます。

我が国の史実です。明治維新の時に、薩長はどのような金融制度にすべきか、欧米を1年7カ月もかけて、岩倉使節団として半ば遊興もかねて回った話を何回か投稿したことがありました。

そして帰国後に、維新政府は、英国の中央銀行型ではなく、アメリカの*国立銀行制度を採用したことを紹介しました。

(*ここで言う「国立」とは、政府管轄の国立という意味ではありません。国が定める銀行法に乗っ取って設立される民間の銀行という意味です。)

従って通貨価値を維持する中央銀行は我が国にはありませんでした。

そして明治10年、西南戦争が起りました。その時に政府は、通貨価値維持を目的とする中央銀行が無かったものだから、政府が勝手に戦費を印刷しまくり、そして国立銀行にも紙幣を印刷させて、それを政府紙幣で返済する方法を取ったものですから、すさまじいインフレを起こしてしまいました。つまり、橋立さんも言われる管理通貨制度など意味がないとされる、その管理通貨制度を仕切る中央銀行もなければ、兌換の裏付けも無い政府通貨を発行した結果なのです。ジンバブエハイパーインフレもロシアルーブルも同じ原因で起りました。

その反省に立って、明治15年、松方正義、後に蔵相、首相になる前の日銀副総裁になった高橋是清をフランスに派遣、セーの法則で有名なセーの叔父?だったか、仏中央銀行総裁のレオン・セーの手ほどきを得て、日銀が創設されます。

その松方は、日銀は設立したものの、後の緊縮財政で失敗し、金融史では松方デフレとして批判されておりますが、ヘリマネの悪結果の重要な史実として、書くのを忘れましたので、追加しておきます。

かくの如く、単にヘリマネという命題だけに対しても、それには通貨価値維持の検証もせねばならないし、膨大な史実を列記せねばならないほど、重大な問題を含むテーマなので、簡単にレスが進まないのです。先ずはやはり、橋立さんの事実誤認を、一つ一つ潰さねばならない作業が、不可欠となって来ました。

そして、どのような意味で言っておられるのかも、一つ一つ尋ねて行かないと、すれ違ってしまい、誤解が生じて、糸がもつれて要らぬ労力を要することになります。

最大の事実誤認は、あの引用記事氏の記事に、重大な錯誤が含まれているそれに対し、橋立さんが、そのどれでも良いと気軽な認識しかされていなことから、事実誤認の上に誤認が重なる事になってしまい、少なくとも私には、何をしようとするスレなのかが、訳が分からない状態になってしまっているのです。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.72 )
日時: 2015/07/04 14:32
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:l5xh42ic

満天下さん

>橋立さんの事実誤認を

と言われていますが、これまでの満天下さんとの話の中でも知識を得ており、あるて程度は理解できていると思います。
事実を誤認している訳ではありません。

逆に問いかけますと、現行の通貨理論、通貨管理理論の延長で、先に私が言いました未来社会での労働の有り様を担保することができるでしょうか。

そのようなものは経済の専門家からは、金輪際出てこないでしょう。

大体、現行の経済理論などは、実体経済の追認ばかりしてきたものでしょう。
新自由主義の考え方もです、当時の経済の都合に合わせてハイエクなどを復活させています。
そのやり方で、将来の経済社会のあり方を、想定するような理論など出してくるはずはありません。
今までの資本主義体制は、それでもよかったのですが、資本主義に行き詰まりと言うことが出ている現在では、それに任せることは如何でしょう。

ですので、未来社会の有り様を私が言っているようなことは必要ないと思われるならば、何も無理に現行制度を弄らなくても良いことです。

私は、現行制度(お陰さまで、そんなに事実誤認している訳ではありません)を事態に合わせて弄っているようでは、大きな転換はできないと思っています。

国家が雇用を保証するなどは、トンデモない大きな変換です。

>最大の事実誤認は、あの引用記事氏の記事に

通貨発行の限度を国民資産に求めるか、GDPに求めるかなどは、大きな転換に対しては些細な違いと思っています。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.73 )
日時: 2015/07/04 16:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:l5xh42ic

通貨を国家が発行する事について、それが旨く行かなかった事例を色いろと言っていただいていますが、だからと言って、それを永遠のタブーだとすることはないでしょう。

通貨発行を国家が行った事例のほとんどが、いわば、いい加減な発想のものであったとも言えます。
また現代社会において政治が経済に翻弄されいることも事実です。

将来、経済の分野でも政治を反映させるためには、通貨発行権を政府が握ることです。
霞ヶ関の官僚共が横暴になっているのも予算編成権の実際が内閣でなく官僚の手にあることと同じだと思います。

ですが、政治とは、これも不安定要素が付きまとい、いつ暴虐の政治屋が出てくるかもしれませんし、衆愚政治に陥るかも知れません。

でも、これは歴史が証明しているように、国民の手で修正出来ています。
現代社会のグローバル化は、一国の国民が、どのようにあがこうが、大きな問題を修正することはできません。
世界同時革命が起きることも考えられません。
起きたとしても、それまでに崩壊した国家の浮体が充満していることでしょう。

で、ありますので、今のところの国家単位で、経済を政治に取り戻すことが必要でしょう。
通貨を国家が発行する事のディメリットは山ほどあるでしょう。

ですが人類は本気でその対抗策に挑戦したことがあるでしょうか。
もちろん、今まででは不可能であったとしても、現代社会のあらゆる事象を検証すれば、可能かもしれません。

いずれも、そう言う提案でして、明確に、それはが立証されば、言っております様にノーベル賞、10個ものです。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.74 )
日時: 2015/07/04 16:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:l5xh42ic

満天下さんとの意見交換の中で、このスレッドの主体の概要が出ております。

満天下さんも指摘されているように、もとより、未来の話です、可能性の話です。

そうして、これも満天下さんが指摘された事について一々、反証できるか否か、が求められているのです。

制度として流布しようと思えば、多くの人も納得する理論の構築が必要なのです。

その詳細までも、私にできるとは思いませんが、方向性の提案は可能かと思います。

それも未だ確かであると言う検証も出来ていない状況です。

経済に詳しい方の参戦こそ、求められています。



メンテ
仕切り直しまして ( No.75 )
日時: 2015/07/04 17:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:l5xh42ic

満天下さんとの議論の行き違いは、確かに起こっています。
そうして、それは対立でもないのです。
同じ事を、帰納法(私)から言っているか、演繹法に基づいているかの違いと思います。
特に、このスレッドでは、私の持論を優先させて進行しているからです。

要するに、経済の議論を進める以前にNO 70のレスの前半、特に下記の問題に対する満天下さんの認識が、どうであるかが問題なのです。

>ですので、結果としての格差があろうとも、むしろ格差は必要とも、ともかく人間には労働と言うものが必要です。
それによって始めて人間の醜い本性がコントロールされるものと思っています。

未来社会を考えるとき、上記以外にないと言う訳ではありません。

いろいろな想定が出来ると思います。
別のものがあり、それが私の提案よりも望ましいと思われれば、即座に私の提案は取り下げます。

どなたでも、よろしいので、このような角度からのご意見が欲しく思います。

本当に、素直に、その様に考えています。

ともかくグローバル化して行く資本主義の矛盾を傍観していてはいられない気持ちです。
メンテ
未来社会を考える ( No.76 )
日時: 2015/07/04 17:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:l5xh42ic

>いろいろな想定が出来ると思います。

ある人は言います。

ごルーバル化で進歩した経済体制により、富の分配さえ誤ることなく、全ての人が暮らせるように、ワークシャアリングなどを取り入れ時間的な余裕はレジャーを増やすことによって、より充実した人生が送れる。

グローバル化は、ある意味、商品を安価にして多くの人が多くの商品を容易く手に入れられ、少々の年収が減っても豊かな人生が送れる。
また、どうしても職がない人にはベーシック・インカムをやり対応すれば良い。

未来社会は、そもそも働かなくても良い人は働かなくても良いのである。
基本的な生活は国家が管理し国民は自分の余暇の時間を消費する事を考えれば良い、理想社会である。

グローバル化が進んだ社会は、格差が格段に広がり、社会の二極化が進行する。
それも仕方ない現実として受け入れれば良い。

グローバル化によって生まれた深刻な社会の二極化は、結果として弱者、強者の深刻な対立を引き起こし世界中がテロ、暴動状態となり、スラムと繁栄地など地区的にも住み分けされ、もはや近代国家とは言えない、と言うよりも、それが未来国家の姿である。


まさに冒頭の文章で紹介しました、人間性が著しく変わる問題、そうして、新しい人間社会の現れです。

>「…“2つの極”はますます進む。1989年以後、人間はごく少数の新しいタイプの支配者たちと、非常に多数の、新しいタイプの被支配者とに、ますます分かれていく。一方は、全てを操り、従える者。他方は、知らずしらずのうちに、全てを操られ、従わされる者たち。

それも予言では2039年、近未来です。


皆様は、どのような社会を思われますでしょうか。

このスレッドの主題は、こうした事を避ける為に、何ができるか、何が可能か、何をしなければならないか、と言う事です。
メンテ
未来社会を考える ( No.77 )
日時: 2015/07/04 17:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:l5xh42ic

随分と未来の事を無責任に言っているようですが

方向性が定まれば、すぐにでも打たねばならない手があるのです。

例えばTPP、

これなど実行されれば、その分だけ経済の修正が効かなくなります。

食料鎖国政策も未来に備えた施策になります。

金融鎖国も、いずれやらねばならない課題となってきます。

年金問題なども、目先の財源云々ではなく、未来を見越したアイデアがあるものと思います。

未来社会を実現するのは、もっと、もっと先としても、今からできることも沢山あるのです。

何よりも、政治の方向性を定めることが大切です。

安倍自民党VSクソ野党など

問題になりません。
メンテ
あの〜、この掲示板、仕様が変わったのでしょうか? ( No.78 )
日時: 2015/07/04 18:20
名前: 満天下有人 ID:LBCcjgUY

一つは以前と同じように、投稿時間が極めて短くなっています。ワード原稿を投稿フオームに移して、タイトルを入れただけでもう「投稿制限時間が過ぎました」と警告が出てしまいます。ほんの30秒くらい時間が経つと、もう投稿が出来ずに、また一からやり直しで、ほんとに手間がかかりますね。

そこで一計を案じて、先ずタイトルは入れずに時間を節約し、一旦投稿してから、後で修正ボタンをクリックして、タイトルを入れ直すという、二度手間手法でやっています。

次に、レス投稿した時には掲示板にアップされていなかった橋立さんの記事が、後で沢山アップされてる現象です。故に、レス投稿した内容がチグハグになってしまい、また遡って対論せねばならないと言う、非常に複雑な構図になっています。

内容を追うだけでも大変なのに、レスした後で、読んでもいなかった投稿が目に入り、論理の組み立てを、またバックせねばならにという,二重の手間に悩まされています。

6月には、この掲示板も新装されるとか言われておりましたが、その関係なのでしょうか?新しいサーバーの関係で、そうなっているのでしょうか?。
メンテ
回想! ( No.79 )
日時: 2015/07/04 18:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:l5xh42ic

思えば、経済のシステムに対して真っ向から挑戦されていた人が3人います。

エリーゼさん、
地域通貨論にこだわっていた、名前を忘れましたが経歴からみて、相当な見識のある方、
この方に期待はしていたのですが、結局、私に対して機嫌を損なわれ、出てこなくなりました。

それに、少しピントがはずれていたとは思いますが、グッキーさんです。

満天下さんは、あまり背伸びをした発言はされていませんが、ことあると「金融鎖国論」を持ち出されています。
これははっきりと現行制度に否を現されているのので、それを視野には、入れておられるものと思っています。

ネット活動も10年に近くなりますが、経済を根本的に見直そうと思われていたのは、これくらいです。
でも、社会には、そのような方が、まだまだおられると確信しています。

いかがでしょうか、満天下さん、一時の私に比べる経済学的な認識は飛躍的に進歩しているでしょう。
これまで満天下さんに、色いろと、いわれてきた経済の理論は、ほぼ、そのとおり理解出来ているつもりです。
ご心配なく。

でも、このスレッドも、これが終着ではありません。
満天下さんに指摘されている事を、一々反証する理論をまとめねばなりません。
しかし、そのことは、この延長上では無理かと思います。


メンテ
満天下さんへ ( No.80 )
日時: 2015/07/04 18:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:l5xh42ic

アッハッハ

満天下有人さんが私に言いたいことは言われる前から解っています。

新しいことは別ですが

ですのでレスの順序が間違っていても誤解することはありません。

それだけ付き合っていますから。

ただし経済の問題に対する立ち位置は、確かに少し違っているはずです。

もともと、このスレッドを書くために勉強させてもらっていたようなものです。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.81 )
日時: 2015/07/06 22:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8cQiQXTw

今までは、未来社会の経財のシステムで、どのような方向性が考えられるかの想定問答であったと思います。

これからは、その可能性を具体的に、ここの事例で検証して見なければなりません。
そこでまず、年間30兆円分の新たな公共事業を通貨の増刷でやることを考えましょう。

糾弾掲示板には「新しい公共事業が日本を救う<雇用の確保」と言うスレッドを立ち上げています。
「新しい公共事業が日本を救う」と言う言葉は、最初に評論家の森田 実氏のブログで知りました。

その内容は次のようなものであり、私が言っているように直接雇用問題を念頭においたものではなく、港湾建設などを通して日本の産業の興隆を図ろうとするものです。

森田実著『新公共事業必要論―港湾・空港の整備が日本を救う』を読んで

http://www.pluto.dti.ne.jp/mor97512/WA2-43.HTML

このとこについて、もう一人熱心に主張されている人に、藤井 聡(ふじい さとし)京都大学(大学院工学研究科・都市社会工学専攻)教授がいます。
氏の主張は下記のサイトに出ています。

http://transm.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/images/stories/PDF/Fujii/201006-201012/presentation/fujii20101410_presentation.pdf#search='%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%85%AC%E5%85%B1%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E3%81%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%86'

お二人について共通していますのは、財源の事までは踏み込まれていないのです。

おそらく、私の様にいきなり通貨の増刷などとは、立場からも言い出せないのでしょう。
それをタブーとするのが常識であるからです。

ですが、これほど明確に示せている未来の産業のあるべき形態を、それで諦めて良いのでしょうか。
そこで具体的な検証をすることにします。

まず、その金額を年間30兆円と限る事についてです。
30兆円と言うのは、GDPのおよそ、6%にあたります。
GDPの推移と言う面では単純に6%にはなりませんが、1〜2%の成長と言えるでしょう。

既成の経財理論では、公共事業の成果として対価があるので、通貨のバランスにおいて必ずしもヘリマネの作用が発生する事にはならないそうです。

問題は、その資金の捻出の、可、不可ですが、今までは国債発行の形で一時借入としてやってきました。
その国債の償還ですが、実際は買い替え、買い替えの連続で、結果、1000兆円の借金として残っています。

結果は通貨の増刷を同じですが実際には金利が発生しています。
同時に償還が一応は前提ですので金額的に限度が想定されています。
これは既成理論の中では通貨の価値の担保(信用)と言う意味では重要な要素です。

ですので、これくらいの規模の新しい公共事業の増加は、実体経済に限り、特に問題はないと思います。
対価もあるのでインフレに直結するものでもありません。
まあ好景気に伴う資材の高騰は考えられますが。

ところは問題は別にあります。
通貨の増刷で公共事業がやれると言うことが一般的になれば、公共事業で儲けてやろうとする業者が多くなることです。
このためには、その公共事業の発注の形態を厳しく管理しなければなりません。
数量的にも限度がある事を認めさせなければなりません。

実は、論理的、技術的な面よりも、この方が大変なのです。
これができなければ、通貨の増刷はまさしくヘリマネになり、ヘリマネでいわれている悪いところが噴出してきます。

ここは人間性の問題であり、哲学的な領域となります。
どころで人間社会の経済活動が全て自由競争に任されているかと言えば、そうでもないのです。
現在はともかく、電気、水道、電話など公共性を重要視するものは国家管理の下にありました。
麻薬、医薬品などの流通も厳しく統制されていて、人々は、それを受け入れています。

このように人々が納得すれば、経済の面でも国家により統制は受け入れられています。
公共事業も、成果物の統制は容易にできるでしょう。
ですが、その財源的容量規制は、今まではやったことはありません。
従来は税収との関連で人々は受け入れていました。

どのみち、未来社会においては、多くの領域で公共の規制、いい変えれば資本主義の行き着くところを見れは商品の生産までも、ある種の統制が必要な社会となってくると思います。
そのようなものの一旦として、受け入れられるように努力しなければならなく、国家の機能も、この面も重要になってくるでしょう。

具体的になにをやるかと言えば、通貨の増刷規模を厳しく設定することです。
現在、その解釈やら、改正でもめていますが、憲法9条も、そのようなものではないかと思います。

またインフレを防ぐためには、その公共事業の工事費の査定をしっかりと行い、それ以上の発注はしないことです。
その事業は、もともと雇用の確保が目的であるので、それで業者が受けないのであれば、個人責任として捨てておけば良いだけです。
無理に発注することはありません。

現在の公共事業の発注金額の査定は、いい加減なものなので、これも改善の必要はありますが、こんなことは事務的なことで問題にはなりません。

もう一方の懸念もあります。
それは、日本だけが、通貨の増刷を行っていることに対する対外的な問題です。
問題と言っても、それは国債を海外で処理するとか、為替の相場の問題でしょう。

通貨増刷は借入としないので国家財源が赤字になり、そのために信用が失墜することはないでしょう。
要するに為替における価値観の問題となると思います。

実態経済、実態取引は、商品、サービスの媒体としてあるのですから、国内でインフレが起きない限り問題はないと思います。
逆に考えれば、それでインフレが起きるようなら通貨の増刷をコントロールすれば良いのです。

ですが、

デリバティブとか投機マネーを運用する連中は、日本の国が安定することこそ望んでいないので、猛然と異を唱えてくるでしょう。

問題は、国内における通貨の増刷の効用が何であれ、それを望まない勢力があり、実際の貿易などで障害が生じることです。
これが厄介なのですが、日本の場合、貿易がGDPにしめる割合は10%強なのです。
資源確保の問題は、この比率の事にしてはいられませんが、これも日本に確かな生産技術、魅力的な商品があれば、致命的な問題とすることはないでしょう。

このような訳で、理屈において年間30兆円の公共事業のための通貨の増刷は十分に検討の価値がある事と思います。

次は、それで、どの程度の成果が見込まれるか見てみましょう。
メンテ
ハイパーインフレについて 1−イ ( No.82 )
日時: 2015/07/07 17:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XbXkkCqM

先のレスの文章は、慌てて書いた物なので、論旨が分かりにくくなってしまっています。
改めて書き直して見たいと思います。

ところで、

次の段階へ(それで、どの程度の成果が見込まれるか見てみましょう。)へ進む前に、もう一度、通貨増刷が可能か否か、できない場合、その理由は何かと言う課題を検討しましょう。

それと言うのも、このテーマの手本みたいなギリシャの様子が伝わって来るの、これに対応してやって見たいと思います。
ギリシャ危機で為替相場が随分変動している様です。

為替相場とギリシャ国内のインフレとの関係はわかりませんが、少なくとも現在のところ、ギリシャではインフレが酷くなって来たと言うニュースは聞きません。


これに関する、ある記事を見つけました。
このブログの主は、私と同じような事を考えているようで、他の記事もおいおい、紹介したいと思います。

働く人のためのケインズ革命
http://ameblo.jp/reisaiouen/theme-10082412312.html

 マスコミの悪質なプロパガンダで、国民は、政府の財政が破綻した場合、海外から日本にモノが全く入ってこなくなり、社会保障や住民サービスがストップしてしまうといったイメージを持っているようですが、モノが有り余るほど生産されている日本では、そのようなことは起こりようもありません。まったくのデタラメです。

 今、さかんに、政府とその尻馬に乗ったマスコミが言っている財政破綻の意味は、何やらイメージの湧きにくいハイパーインフレまたは国債暴落のことで、マスコミであろうと、政治家であろうと、経済学者であろうと、実際どうなるのかを、まじめにシミュレーションして見ようとする者はいません。財政破綻したら大変なことが起こると言うだけなのです。何が起こるのでしようか。

 通貨発行権のないギリシャ政府の債務は、確かに、普通の意味で借金を返すことが出来ない、デフォルトが有り得るという意味における借入です。そして、デフォルトした場合のギリシャは、他の国が援助の手を差し伸べるということはあるでしょうが、基本的に外からモノを調達出来なくなり、モノ不足による行政サービスのストップが有り得ます。これは、日本における地方自治体の財政破綻と同じ理屈で、お金がなくなり、外部からモノやサービスを調達できないといった現象と同じものです。あくまで企業や家計と同じポジションの地方財政の破綻です。

 地方財政の破綻はあり得ます。北海道の夕張市は2007年に国の管理下に入り、財政再生団体として353億円の借金の返済を続けています。その財源と称して、市税や公共料金を値上げされ、医療などのサービスも縮小されました。この場合、ハイパーインフレが起こったのではなく、モノが外部から調達できなくなったのです。

 ギリシャや夕張市のような地方財政の場合、ハイパーインフレは起こりません。通貨が所属する地域全体と同じなので、わざわざギリシャ国内で高いものを買う必要はなく、外の経済圏であるユーロ圏から物資が調達すれば良いからです。自国に他人の国の通貨を流通させている場合は、ハイパーインフレを伴わない破綻であり、ギリシャ国民の所得が下がるだけです。そして、自治体であるギリシャ政府というミクロ経済主体の所得も下がり、行政サービスのための雇用が出来なくなるわけです。ギリシャ政府の身に企業の倒産と同じことが起こります。通貨発行権を持っている日本とは、破綻の意味が異なるのです。

 ギリシャの場合、EUの一員であると言っても、民族的にはドイツやフランスに比べてマイノリティーであり、ドイツ人やフランス人が同胞意識を持っていることはないと思われます。ギリシャが破綻した場合は、ギリシャでは実質所得が減少するといったつらいことが待っているだろうということが想像されますが、おそらく、他のEU諸国民は同情しないでしょう。

 ところが、夕張市は違います。正真正銘の日本人であり、同胞意識は十分あります。日本人の全てから共感や同情を得られる条件が全て揃っています。なのに、なぜ、税金や公共料金を上げられ、医療や福祉を得られなくなるのでしょうか。夕張市の人口1万人で353億円を返済しているようですが、こんな返済金などは、地方交付税に手心を加えれば簡単に返してしまいます。なぜ、それをやらないのでしょうか。

 夕張市の人々は全員が怠けていたのではありません。日本国民として普通どおり働き、普通どおりの生活をしていたはずです。夕張市の住人に落ち度があったわけではありません。なのに、なぜ、政府は何もせずに、夕張市の住人に懲罰のような嫌がらせをするのか判りません。人口1万人の所得を減らし、増税して貨幣を回収したところで何ほどにもならないでしょうに。日本政府の夕張市に対する仕打ちは、嫌がらせとしか思えません。中央政府は、財政破綻の危機を煽らなければならない都合上、自己責任でやって行けなくなった場合、自治体がどうなるかの末路をサンプルとして見せているのです。

 全ての日本人は、夕張市民をいつまでも苦しい生活のまま放置しておくことが正しいことだとは思っていません。しかし、政府が、夕張市民を「そのままにしておけ」と言っているのです。十分な地方交付税があれば、すぐにでも、夕張市住民の生活も良くなるはずですが、あえて、全国の自治体への地方交付税を削りたいので、政府の言うとおり地方交付税を削って地方自治体が自己責任で節約しなければどうなるかの見せしめとしたいのです。

 このように、地方財政の破綻は、デフォルトが起こることによって、モノが外部から調達できなくなることですが、通貨発行権を持つ国の政府財政の破綻は、国債暴落またはハイパーインフレとなることで、通貨の価値が無くなり、国家全体として、モノが外部から調達できなくなることを意味します。

 ハイパーインフレは、貨幣の量が急激に増えるか、モノの量が急激に減るかし、市場を流通する貨幣の量とモノの量がアンバランスになることで起こります。とは言っても、市場を流通する貨幣の量が少々増えた程度ではハイパーインフレになりません。モノの量が壊滅的に不足するようになるか、供給力が無いにも関わらず、急激に貨幣の量を増やすかしなければ起こりえないのです。

 モノの量が急激に減るという場合は、生活必需品を中心とするモノ全体の不足のことであり、石油危機などで物価が上昇するだけというケースは当てはまりません。なぜなら、他の物資の生産が続けられている限り、その生産物と石油を交換することが出来るからです。強力な国内生産力を持つ日本の場合、調達できるモノの量が急激に減ることは考えられません。そのような日本でハイパーインフレが起きるといった場合、市場を流通する貨幣の量を急激に増加させる以外にありません。貨幣の量を増やすスピードの問題です。では、財政破綻論者は、どのように、市場に貨幣が急激に供給されるような事態を想定しているのでしょうか。

 日本のような、通貨発行権を持っている国においては、自国通貨建ての国債暴落とハイパーインフレは表裏一体のもので、起きるときは同時に起こります。財政破綻論者は、政府債務が膨大になって国民の間に不安が広がると、@国債の金利を上げても買う者がいなくなり、政府は、日銀に国債の直接引き受けをさせざるを得なくなる。すると、A市中にお金があふれ、ハイパーインフレが起こると言っています。これが「事実上の破綻」だと言っているのです。

 しかし、はたして、事はそう単純ではありません。例えば、第一段階の@で、政府にお金がないので、貸し付けたお金を返してもらえない、つまり、国債の満期が来てもお金を返してもらえないという流言庇護が広がり、国債が全く売れなくなったとします。あり得ないガセネタですから、そうした混乱はすぐに沈静化しますが、しかし、図らずもそういう事態が起こったとします。当然ながら、日銀は国債を直接引き受けます。満期になった国債についても、新規国債で返済分を調達できませんから、ジャンジャンお金を印刷し、政府はそのお金でジャンジャン借金を返します。返せないと言うよりはマシですから、それはもう絶対にそうします。

 そうして、金融機関、保険会社、個人が我も我もと国債を換金し、金融機関、保険会社、個人の手元に膨大なお金が戻ったとします。それで、何が起こるでしょうか。多くのお金は金融機関や保険会社の金庫に戻り、運用先のない預かり金として持て余まされることになります。しかし、その段階では、それらのお金がどこに行くかはまだ決まっていないのです。投資先や欲しいものがない場合は、人々は、じっとそれらのお金を持ったままです。そこまでは、ハイパーインフレどころかインフレにもなりません。

 金融緩和は、日銀による金融機関からの国債の買取であり、政府の借金の返済と同じものですが、今の日本で、黒田日銀がバズーカ2を放ってもインフレのきざしすら見えません。金融機関が中小企業や個人にジャンジャンお金を貸し込んで、ようやく微弱なインフレが起こる程度でしょうが、その間接金融も機能していない状況です。

 それから、第二段階として、マネタリストたちはA市中にお金があふれ、ハイパーインフレが起こると言っています。なぜ、市中にお金があふれるかというと、一方で、国債を買わなかった金融機関や保険会社は、その資金をじっと持っていても儲かりませんから、国債以外のものに投資するからです。金融機関や保険会社は、資金の運用益を稼ぐために、どこかへ融資または投資をしようと模索し始めます。通常、金融機関は市中に貸し出しを行い、保険会社は他の証券に投資します。巨額なお金が中小企業への融資や大企業への投資に回され、中小企業や大企業が活発に設備投資や雇用の拡大をはじめると、そこで始めてインフレが起こります。

 しかし、これまで、金融機関や保険会社が国債ばかりを買い、市中に貸し出しをせず、保険会社が他の証券に投資しなかったのは、デフレ不況であり、融資や投資をしても儲からないと判断していたからです。それなのに、国債の満期が来てもお金を返してもらえないという流言庇護が広がったことで、デフレ不況をものともせず、融資や他の証券への投資を行うようになるのか理解に苦しみます。これは矛盾した行動ではないでしょうか。

(続く)
メンテ
ハイパーインフレについて 1−ロ ( No.83 )
日時: 2015/07/07 17:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XbXkkCqM

 万一、金融機関が融資拡大に踏み切るとすれば、それは歓迎すべきことで、恐れることではありません。金融機関は、中小企業と運命を共にするほどのリスクを負う覚悟を持たなければ、中小企業に融資することは出来ません。現在の銀行員は公務員化していますから、その銀行員から見れば、地元の中小企業に融資するリスクなど、ほとんどヤケッパチとも言える融資に見えるでしょう。しかし、国債からの金利収入を全て断たれてしまっては、つぶれるしかありませんから、まさにそのヤケッパチな融資をやるかも知れません。そうでもしければ、金融機関は倒産してしまうからです。

 しかし、むしろ、そんなヤケッパチ融資は中小企業、個人商店、労働者を救うことになります。日本の底力はすごいので、日本の景気が回復してしまうでしょう。金融機関や保険会社が国債を買わなければ、むしろ、日本は良いほうに向かいます。しかし、債権者が恐れている通り、その景気回復が多少なりともインフレを伴うことは間違いありません。

 しかし、考えてみれば、金融機関や保険会社が、国債を買うことを拒否し、国債以外のものに投資や融資をしようとするときは、良好な投資環境があるということです。景気の悪い時に、金融機関や保険会社が、闇雲に投資や融資をするなどの「良いこと」をするとは思われません。

 つまり、財政破綻論者は、金融機関や保険会社が、景気の悪い中で、お人好しにも闇雲な投資や融資をやると言っているのです。そして、金融機関や保険会社がそういう「良いこと」をするので、ハイパーインフレが起きると言っているのです。ハイパーインフレが起きるほどの投資や融資をやってもらいたいものですが、金融機関や保険会社はそんなお人好しではありません。そう考えれば、政府財政の破綻はむしろ好ましいものなのですが、日本の政府財政は決して破綻しませんし、金融機関や保険会社も、政府財政の破綻などという流言飛語に惑わされることもありません。。

 普通は、A市中にお金があふれ、景気が良くなったときに、民間投資の他の利回りに負けないように、@国債の金利が上がり、国債の価格が下落するということになるのですが、財政破綻論者は、それを逆転させて、ある日突然、@国債の金利を上げても買う者がいなくなることで、国債価格が暴落し、政府は、日銀に国債の直接引き受けをさせざるを得なくなる、すると、景気の悪いにも関わらず、A金融機関や保険会社が、国債を買わないで余ったお金で、お人好しな投資や融資を行って、市中にお金があふれ、ハイパーインフレが起こると言っているのです。企業の経済活動の動機が判っていないとしか思えない発言です。

 デフォルトも無いのに、なぜ、ある日突然国債が売れなくなるのでしょうか。また、なぜ、景気が悪いのに、金融機関や保険会社が、国債を買わないで余ったお金で、闇雲な投資を行うのでしょうか。なぜ、このような無茶な推測になっているかというと、日本に強大な生産力があるにも関わらず、これを無視して、ハイパーインフレが起こると言いたいからです。

 しかし、どう考えても、日本では、市場を流通する貨幣の量が少々増えた程度ではハイパーインフレになりません。日本のみならず、国内産業が巨大な通常の先進国では。戦争などでモノの量が壊滅的に不足しない限り、ハイパーインフレは起こしたくても起こりえないのです。

 では、国債の暴落論はどうかというと、日本のような通貨発行権を持ち、全て自国通貨建て国債でやっている国にとって、国債暴落とハイパーインフレは一体のものです。ハイパーインフレとは通貨暴落のことですが、通貨が暴落しないのであれば、国債を持っていても、10年物国債の場合は、確実に10年以内に額面通りの円が返ってくるので、あわてて安値で国債を売る必要はないからです。

 国際会計基準の定義では、3年間で100%(年率約26%福利)のインフレをハイパーインフレと言っています。日本で1974年に23%という物価上昇率を記録したことがありますが、これは高度成長期の物価上昇で、財政破綻とは無縁のものでした。すると、この定義におけるハイパーインフレになることが財政破綻だということにはならないことになります。単に、すごい経済成長による、すごいインフレであるにすぎないというだけです。これが、ケーガンの定義においてはハイパーインフレは1万3000%のインフレとなります。このハイパーインフレのケースは、戦争や災害で国内の産業が破壊されたか、もともと国内に生産力が無いのに膨大な貨幣を印刷し続けたかのどちらかしかありません。

(終わり)
メンテ
ハイーパーインフレについて 2 ( No.84 )
日時: 2015/07/07 16:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XbXkkCqM

ウィキペディでは、

インフレーション(inflation)とは、経済学においてモノやサービスの全体の価格レベル、すなわち物価が、ある期間において持続的に上昇する経済現象である。日本語の略称はインフレ。日本語では「通貨膨張」とも訳す[1]、俗称は「右肩上がり」。反対に物価の持続的な下落をデフレーションという。


ハイパーインフレとは、《hyperinflationから》生産能力が限界に達しているため、有効需要の増加が生産量の増加をもたらさず、物価だけが短期間に数倍、数十倍に騰貴し、その結果、貨幣に対する社会的信頼が崩れてしまう状態。超インフレーション。

<ドイツで起きたハイパーインフレ>

第一次世界大戦後、ドイツは、連合国側に対して1,320億金マルクの賠償金支払いが課された。しかし、これはフランスのように、国土を戦場とされはしなかったものの、膨大な戦費負担などによって痛手を被っていたドイツにとっては、支払い能力をはるかに上回っており、賠償金の支払いはしばしば滞った。これを理由に1923年1月11日、イギリスの反対を押し切ってフランス・ベルギー軍6万が、借金のカタとばかりにドイツ最大の工業地帯であり石炭などが豊富に埋蔵されているルール地方を軍事占領した。このため、従来の賠償金支払いに加えて、現地で進駐に抵抗する住民のストライキのため、生産活動は停滞し、またドイツ政府がこの行動に対し1日4千万マルクの補助金の支出を決定した。

 既に第一次世界大戦中よりドイツでは戦時国債の乱発によってインフレが進行していたが、このような大支出に国庫は負担しきれず、やむを得ず、紙幣の大量印刷で対抗した。しかし、なんら裏付けのない紙幣乱発は状況を致命的なものとし、歴史上例のないのハイパーインフレが発生した。

 このインフレを鎮めたのは、11月15日に発行されたレンテンマルクの出現によってでした。レンテンマルクは、土地など不動産を担保にした紙幣であり、「レンテン」とは、レンテの複数形で地代とか利子、あるいは年金という意味である。
 こうして、新しい発券銀行としてレンテン銀行が設けられ、レンテンマルクとライヒスマルクの交換レートは1レンテンマルク=1,000,000,000,000(1兆)ライヒスマルクと決定された。レンテン銀行の通貨発行量は32億レンテンマルクに制限され、国債引受高も12億レンテンマルクに制限された。レンテンマルクは法定通貨ではなく不換紙幣であり、金との交換は出来なかった。しかしながらレンテンマルクの発行によりドイツのインフレは沈静化した。このインフレの収束は「レンテンマルクの奇跡」Wunder der Rentenmarkと呼ばれた。

<ジンバブエのハイパーインフレ>

ジンバブエでは最近、とんでもないハイパーインフレが起きています。
その経緯は次の様なものです。

2006年2月16日、政府のジンバブエ準備銀行のギデオン・ゴノ総裁は政府はIMFへの未払い金を清算するために、20兆5000億ジンバブエドルを発行し、外貨を買うと発表した[38]。2006年5月のはじめ、ジンバブエ政府はさらに60兆ジンバブエドルを発行すると発表した[39]。それに加えて、兵士と警官は300%、その他公務員は200%の昇給を求めていた。
それらの金は、その年の予算に組み込まれておらず、政府はどこからその金を持ってきたのか話さなかった。5月29日、準備銀行当局は IRIN に対し紙幣を印刷するためのインクや特殊用紙を確保するのに失敗したため、約60兆ジンバブエドル(公式レートで5億9290万米ドル)の発行が少し遅れたと述べた。
2006年8月末、マネーサプライの22%にあたる10兆旧ジンバブエドルが、新通貨への切り替えが行われず、紙屑と化した。
2007年6月27日、準備銀行のゴノ総裁は兵士の給料を900%、その他公務員の給料を600%昇給させるために、さらに1兆ジンバブエドルの発行をするようロバート・ムガベ大統領から命じられた[40]。
2007年7月28日、ムガベ大統領が「政府は地方の事業の資金が足りないなら、いくらでも金を発行するだろう」と話したと報じられた[41]。
2007年8月30日、50万の荷車と80万の牛鍬と牛(頭数不明)を購入するために3兆ジンバブエドルを発行したと発表した。この道具と牛は、2008年の選挙買収に使われるといわれている[42]。
2007年9月3日、ジンバブエの闇市場が価格統制にもかかわらず再び勢いを伸ばしていると報告された。以前月11米ドル(200万ジンバブエドル)で雇われていた人々は、闇取引を通して166米ドル(3000万ジンバブエドル)を手に入れているという[43]。
2007年11月24日、マネーサプライが58兆ジンバブエドル(闇レートで4100万USドル)に達したと報告された[44]。しかし、ジンバブエ中央銀行は1兆 - 2兆ジンバブエドルしか現金を保有できなかった。これは、一般に流通する現金が56兆 - 57兆ジンバブエドルに達していたことを示す。
2008年1月4日、マネーサプライは33兆 - 100兆ジンバブエドルに達したと報告された[45]。さらに、20万ドル紙幣の廃止は保留されたためマネーサプライの増加に拍車をかけた。
2008年1月18日の新券(100万・500万・1000万ドル)の発行は、未知の量だがマネーサプライ増加に寄与した。
2008年1月21日ゴノ ジンバブエ銀行総裁が、マネーサプライは12月の中ごろから170兆ジンバブエドルに増加したと発表した。更に、ゴノ総裁は2008年1月28日には800兆ジンバブエドルに達すると予想していた[46]。
2008年3月1日、ドイツの紙幣印刷会社ギーゼッケ アンド デブリエント(以下『G&D』)が週50万ユーロ以上を受け取り、170兆ジンバブエドルを発行しているとサンデータイムスが報じた[47]。

その背景には次の様なことがありました。

まず、ジンバブエという国はインフレが起こるまでの歴史では、少数派の白人が政治の実験を握っていて、経済もそれによって動かされていました。

しかし、ローデシア紛争が起こり、
政治を統括するのは黒人政治家が80%を占めるようになります。
そして、黒人の大統領に頭首が入れ替わります。
1980年にジンバブエ共和国が成立。

建国当時は首相だったムガベ氏が大統領に就任。
しかし、ここからの政権は独裁ともいえる状態で、何でもあり。
反論する人や勢力があれば、暴行、殺害など普通にあったと言います。
もはや、力によって抑えつけている感じ。
まさに独裁状態になってしまいます。

そして、完全に頭がイカれてるとしか思えませんが
「植民地時代に強奪された白人の土地資産を黒人へと無償かつ強制的に権限を委譲しなさい」法案という無茶苦茶な法案を堂々と提出します。

大半の白人はこの時に土地を安値で売り払い、外国へ出て行ってしまいます。
ま、当たり前といえば当たり前ですよね(;´Д`)

ジンバブエは追い打ちをかけられるように、
農業技術の低下と干ばつにより食料危機に陥ります。

そして、2007年更にイカれた法案が提出されます。
外資系企業に対して、
「保有株式の過半数を譲渡するように、逆らったら逮捕」法案を提出します。

もちろん外資系企業は国外へ逃亡します。
無条件で保有株の過半数を譲渡とか意味不明過ぎますからね(;´Д`)

この時、ジンバブエは経済制裁無しにそれと同じ状態に陥ります。
つまりは、流通経路が自然に消滅した状態になり物資が不足します。
その結果困るのは当然国と国民です。

物資が不足している。
この状況を見かねた政府は更に頭の悪い法案を提出してきます。
「市場に出回っている物資が不足するなら、
 物資を持つ物は絶対に市場に売らないといけない」法案を提出
もはやネタなのかと目を疑いたくなる。
もう子供に遊びで法案を考えさせているのではないかというくらいのものだ(;´Д`)

当然、物資の強制売却は更なる物資不足を深刻化させました。
その結果待っているのは、需要と供給バランスの崩壊です。
りんごを買いたい人が10万人いるのに、りんごは10個しかない。
こんな状態をイメージしてもらえればわかり易いかと思います。
日本でも野菜の収穫が悪い年は、キャベツやトマトが数十円高くなったりしますよね。
それより圧倒的に酷い状態がジンバブエと思っていただければいいかと。

もちろん、このような物資の不足は物資の値上がりに直結します。
買い手が多いのに、物資は少ない。
日本でいう野菜の収穫が少ない、キャベツの値上がり。
つまり、ジンバブエは物資の異常な不足で、異常な物価の高騰を引き起こしてしまったわけです。

次にまぁた馬鹿な法案を国が提出してきます。
「物資を絶対に安値で売らないといけない」法案を提出
この国は本当に大人が政治やってるのかと思いたくなりますね(;´Д`)

その結果もたらすのは、利益が出せなくなった国内の企業が次々と倒産。
元から、様々な企業の流通は利益を目的として行われるものなので。
例えば、スーパーやコンビニは利益を出すために、
原価で仕入れたものを、原価より高い値段で売って利益を出しています。
それを国が「物資を安く売れ!!!」と言ってきたわけです。
調達コストよりも安い値段で売れば、もちろん利益にはなりません。
その結果、みんな倒産しちゃったんですね。

そして、もちろんその先に待ち受けているのは、
失業者の大量排出。
失業者まみれになったジンバブエでは、職の無い人間があらゆる物資を強奪。
治安は最悪となっていきます。
強奪などそういった事件が日常化し、警察など、国の機関ももちろんお手上げ状態になり無法地帯と化します。

これが、経済をないがしろにした国の末路です。
経済が傾いた国は、その結果として職を失う人間が大量排出され、次に待っているのは国民の暴挙。
あらゆる機能が停止した国は無法地帯と化す。
実に恐ろしいですね。
バブル崩壊後、このような日本になっていなくて良かったですね。
日本は少なくてもここまで馬鹿ではないということですね。
流石に、ジンバブエの政治がいかに酷いものかは分かって頂けたと思います。
しかし、国のトップが入れ替わるだけで、国は数年、数十年で崩壊する。
これは、崩壊した国の良い例としても今後語り継がれることでしょう。

(引用終わり)

ハイパーインフレは政治であると極言している人もいるように、単なる経済上の出来事でもないようです。
メンテ
お金とは何か! ( No.85 )
日時: 2015/07/07 17:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XbXkkCqM

満天下さんとも議論した内容、
新しい通貨の概念として、この様な事をいわれる方もおられます。

http://ameblo.jp/reisaiouen/theme-10082412093.html

 お金は物々交換の仲介手段として人類史に登場しました。物々交換の仲介手段としてのお金は、一旦、大事な米や野菜などの生活物資と交換されるのですから、海のものとも山のものとも分からないものに変えてしまって大丈夫だろうか、ちゃんと自分の必要とするものと交換できるのだろうかという不安を振り払ってくれる信用の高いものでなければなりません。そこで、最初は、金や銀などの貴金属がお金として使用されました。金や銀といった貴金属は必ず誰かが欲しがるという意味における価値の普遍性があり、その価値に依存することで物々交換の仲介手段としての信用を得ていたのです。

 やがて、政府がいつでも金銀と交換してくれる紙幣が登場し、紙幣が金銀の代わりを勤めるようになりました。紙幣でも、いざというときに政府が必ず金銀と交換してくれると信用出来ることで、お金として金銀の代わりができたのです。このように、現代の経済においても、紙幣は必ず金銀と交換できるので、お金としての役割を果たすことができるのだと人々は思っていました。ところが、それは、ごく最近、アメリカ大統領のニクソンによって、間違いであることが証明されてしまいました。1971年のニクソン・ショックです。

 第二次世界大戦まで、世界は戦乱が続き、通貨は不安定化していました。そこで、第二次世界大戦の終盤期1944年7月に、連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)でブレトン・ウッズ協定が結ばれ、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定め、各国通貨の信用を確立しました。これを金本位制と言います。

 しかし、アメリカ大統領のニクソンは、1971年8月15日、ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げました。それで何が起こったかと言えば、ニクソン・ショックの2〜3年後に各国通貨は固定相場制から変動相場制に移行したり、多少の景気変動があったりしましたが、そうしたわずかな動揺以外の重大な変化は何も起こりませんでした。世界経済は何の不都合も支障も無く、紙幣を信用し続け、淡々と経済活動を行い続けました。世界は戦後の混乱期を脱しており、国家がしっかり紙幣を管理し、偽造されるリスクなども縮小していました。国家がしっかり管理さえしていれば、必ずしも金銀と交換される必要はなく、紙幣だけで十分だということが証明されたのです。

 国家が何を管理していたかと言うと、貨幣のシステムであり、貨幣とモノとの交換比率です。それで、人々は、「国が発行した紙幣で必ず自分の欲しいモノを手に入れることが出来る」と信じたのです。国民は金銀財宝が欲しかったのではなく、欲しかったものは、必ず生活物資と交換できるという信用だったのです。砂漠で飢えている者にとって必要なものは水と食物であり、金銀財宝ではありません。水と食物が豊富であるにも関わらず、経済活動のルールで水と食物にありつけない者は、金銀財宝があれば水と食物と交換できるという前提において金銀財宝を欲したのであり、だれも水と食物と交換してくれなければ、金銀財宝は無価値です。

 最終的に必要なのは水と食物であり、あるいは、衣服や自動車などのモノなのです。そして、安定した国家が発行する紙幣を信じることで、紙幣主義が確立された時、金本位制という貴金属主義があっさりと終わりを遂げたのです。もともと、貨幣の役割はあくまでモノとモノとの交換手段であり、貨幣は究極的にモノ本位制だったということです。モノとモノを交換する必要が無ければ、貨幣の意味もないのです。戦後間もない世界では政府の発行する貨幣を信用できなかったので、金銀の信用力に頼らざるを得なかったにすぎません。ところが、世界情勢が安定し、あるいは、偽造が不可能であるなど、いくつかの先進的技術が貨幣に信用を付与したことで、モノ本位制が本来の姿を現したのです。

 現代の貨幣とは、紙や金属に「標記価値のものと交換できます」と書いてあるだけのものです。しかし、それは、つまり、大富豪が何らかの貨幣を作り出し、大富豪の信用力をもって必ず表記価値のものと交換できるという国民の信用を得るならば、誰でも貨幣を発行するチャンスを持っているということでもあります。ところが、どこかの誰かがそういうことで貨幣を発行できるとなると、その誰かが国家の経済を支配することになります。経済を支配することは、国家を支配するということでもあります。そこで、政府は、貨幣発行権を国家主権の行使者である政府の独占的権利とし、政府以外の者が貨幣を発行することを禁止しました。国家主権の名において、他の誰にも通貨発行権を渡すことはありません。政府が通貨発行権を保持しながらも、中央銀行が貨幣を発行しているのは、政府が中央銀行に権限を委任しているからであって、そうでなくては、中央銀行は貨幣を発行することは出来ません。

 多くの国では、貨幣は、中央銀行が発行して流通させることが一般的ですが、現在でも一部の国では、政府機関が直接紙幣を発行している場合があります。むしろ、本質的には、政府機関が中央銀行に委任せずに、直接的に紙幣を発行することのほうが正常な状況と見るべきでしょう。日銀を通じない政府発行貨幣が本来の貨幣のあり方です。したがって、最近、政府発行貨幣論議が沸き起こっていることはまことに当然のことなのです。

 それにも関わらず、なぜ、多くの国で中央銀行が通貨を発行しているかというと、それは、国家の運営は政治家が行っており、歴史的に、政治家に通貨発行権をまかせると、選挙のことが頭から離れない政治家は、貨幣を乱発し、金融を緩め続けて利益誘導する誘惑に勝てず、景気が過熱する傾向があったためです。つまり、通貨発行権を中央銀行に委託する理由は、政治家が信用されていないからです。

 いうなれば、政治家があまりにも馬鹿なので、政治的に中立と考えられている中央銀行が政府の委託を受け、通貨発行の役割を担っているわけです。したがって、むしろ、中央銀行の存在は、存在すべくして存在しているのではなく、国家の通貨発行権に対してノイズ(雑音)的な存在にすぎないと見るべきものです。いくら、中央銀行が金(gold)を保有しようとも、政府の主催する物資の流通市場が通貨の価値を担保しているのであって、金(gold)が担保しているのではありません。

 それが、いつから、政府が直接通貨を発行することそのものが悪いことのように思われ、日銀の判断が神のごとき無謬性を持つと思われるようになったのか。日銀総裁もまた人間であり、選挙とは関わりないとしても、政治家に負けず劣らず頭のおかしい者がいるはずなのに、何の疑問もなく、通貨政策を代理人の集団である日銀に丸投げしている、現代日本の状況は異様と言うほかありません。

(引用終わり)

私の場合は、これとも違います。

お金は物々交換の媒体でさえもなく、生きる権利の媒体として、公平ではないが、分配されなければ、ならないものである。

? ? ?

如何なものでしょう。

メンテ
政府にとってお金とはなにか ( No.86 )
日時: 2015/07/08 12:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8PzEwjTY

退屈な話が続いていますが、そう簡単に新しい経済の仕組みが出来る訳ではありません。
慎重の上にも慎重に検証しなくてはなりません。

出展は同じブログです。

http://ameblo.jp/reisaiouen/theme-10082412093.html


「政府債務とは何か」

 政府財政が家計と同じなら、家庭の主婦が最も優秀な財務大臣になれます。しかし、そうは行かないのです。政府財政は家計とは意味が異なります。例えば、債務の返済において、家計では生産の対価である所得から債務を返済しますが、政府は貨幣発行権をもって債務を返済します。これは、何を意味するでしょうか。

 家計において、生産をして、その対価を得て、返済しなければならないということは、債務者が自己の生産物を他人に買ってもらうことで、マネーストック(市中に流通している貨幣の量)の中から貨幣を回収して返済しなければならないということです。それは、物々交換という経済活動の主体者であることを義務付けられているということです。すなわち、貨幣という仲介物を省略すれば、家計における返済とは、自分の労働による生産物を差し出すということに他なりません。

 債務の返済方法に着眼すれば、政府債務の本質が見えて来ます。家計の債務とは、他人の生産物の先取りだから、後日、自分の生産物を差し出すことで返済しなければなりません。自分が生産できなければ、他人から先取りしたその生産物は、差し押さえによって債権者にそのまま返すことになります。つまり、債務者である家計に貸付によって譲渡された生産物を、同等の生産物をもって返済できないならば、譲渡された生産物そのものを債権者の元に戻す原状回復が返済になります。これが、「経済とは生産物の交換である」ことから結論付けられる、民間における返済のルールです。

 政府の場合は、税金で貨幣を他人から徴収する税金の方法によるか、または、自分(日銀)でお金を印刷して返すことが出来ます。税金による貨幣の回収においては、ほとんど強盗に近い武力的な強制力で他人からお金を回収します。何の物々交換もありません。また、お金を印刷して返す時も、生産をせずに、輪転機を回しているだけです。このように、政府は、資本主義の物々交換のルールを無視して返済します。政府は自分で生産することはありません。他人の物を強制的に調達して、それを回しているだけなのです。民間の債務返済と、政府の債務返済はこのように異なります。

 政府債務の拡大は、確かに、国民の生産物を、一方的、かつ、強制的に取り上げるものです。貨幣を取り上げただけ支出することで需要が増え、その需要に国民の生産が追いつかなければインフレになります。しかし、国民のほうは、どんなに政府債務が拡大されようとも、よほどのインフレが起こらない限り、何も取られているという実感はありません。マクロとしては供出することで損をしていることになっても、むしろ、ミクロとしては、貨幣を対価として手に入れることで儲かることになります。逆に、政府債務が拡大されても、拡大幅が足りずに、それ以上に生産力が有り余っていればデフレが続きます。

 では、政府のほうは政府債務を拡大した分の何かを得ているかというと、公的固定資本形成などの行政サービスの負担は、道路や橋が出来上がり、または行政サービスが行われることで、すでに国民のものになっていますから、政府としては、もう国民に現物の形で還元しています。政府は何も得ていないのです。政府としては、再分配しただけであり、返すべき筋合いのものは何もありません。それにも関わらず、それを普通の債務と考えると、二重に返すことになります。このように、政府債務を民間における債務と同様に考えると、つじつまが合いません。したがって、政府債務は民間における債務と異なる意味を持ち、よって、民間の返済とは異なる方法で、債務の返済を行うことになります。それが貨幣の新規発行です。

 政府が債務を返済する意味は、国債を貨幣に変換するということですが、変換(高流動性の発行)によってインフレ圧力が発生します。このインフレと政府支出の相手先を見ると、政府が仲介者として、公的固定資本形成の負担をインフレによって国民全体に公平に振り分けているということが解ります。つまり、政府債務の存在とはインフレによる国民全体への負担の振り分けを留保している状態であり、政府債務の返済とはその留保を解除し、インフレを執行するということです。

政府債務の拡大は、通常、インフレをもたらしますが、日本では政府債務が拡大しているのにインフレにはなっていません。政府が国債を発行して支出をし、市場に物価に影響する貨幣を供給しても、すぐに再び国債を発行し市場から貨幣を回収してしまうからです。マネーストックは、国債を発行し支出した時点で増えます。再び国債を発行して金融機関から貨幣を回収してもマネーストックは減りませんから、この国債発行と政府支出を繰り返せば、マネーストックは政府債務を拡大した分だけ増え続けます。日本の、マネーストックが増え続けているのに、インフレにならない理由はこのことによります。

以下省略。

(引用終わり)


実際に世界は通貨の増刷競争をしています。

 実際リーマンショック以降の世界を見ていると金融緩和と言う手法で、各国政府が自国通貨を印刷しまくって通貨に対する信用を落とす競争をしている。
特に先進国では景気が一向に回復しないから残された手段は紙幣を増刷して株と不動産の価格を上げることしかない。
アメリカも日本もEUも中国も輪転機経済になってしまい、通貨の信用は急速に低下し、そのかわり株と不動産は値上がりに転じている。

ハイパーインフレにならないのは、その通貨が株式、投機に回っているからです。
普通、通貨の供給量増大に対して、それに見合った生産力があることがインフレを回避すると言われています。

メンテ
政府のお金とは 2 ( No.87 )
日時: 2015/07/08 12:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8PzEwjTY

一方通貨の増刷は以下の様な事態を引き起こすと言われています。

ハイパーインフレ発生メカニズム

1.紙幣の発行量を増やす
2.増やしたお金で公的な借金を全額完済
3.世の中のお金の量が大幅に増える
4.お金が増えたことにより、物を買う人が増える
5.物を買う人が増えると安売りの所から売れていき、欲しい場合は値段の高い所で買わなければならなくなる
6.値段が高くとも生活の為に仕方なく買う人は多いと考えられる
7.この為、物価が上昇する(インフレ)
8.(物の量が変らないとして)物価の上昇はお金が増えた量に比例する。お金の量が5倍になれば、物価も5倍など
9.物価が上昇してくるともっと上がるのではと考え、物があっても売り渋る商人も増える(江戸時代の米騒動の時の米屋)
10.このことが更に物価を上昇させる
11.気がついたら物価が極端に上昇(100倍とか)し、昔は車が買えていた預金で車のプラモデルしか買えなくなるということが発生。

また、先に紹介している、この著者は

「政府債務が八千兆円でも破綻しない」と言うことも言っています。

 2014年4月28日財政制度審議会が、2060年に政府の借金が8000兆円になるとの試算を発表し、「国や自治体は歳出の大胆な見直しやさらなる増収策に早急に取り組むことが必要だと警鐘を鳴らしています」。政府は相変わらず数字のトリックを使って、危機を煽り、低所得者から税金を巻き上げ、お金を循環させない緊縮財政を行おうとしているわけです。
 まず、そもそも、8000兆円になったとしても、それを政府の借金と見るかどうかという問題がありますが、仮に、借金としても、46年後の8000兆円がどのような価値のものか、つまり、その時の物価がどのようになっているかを言わずに、ただ8000兆円とだけ言うのは悪意があるとしか思えません。

 大卒初任給で比べてみれば、2014年の46年前は3万円、現在は20万円で、約7倍に増えています。バブル崩壊後のデフレで20年間の停滞があっても、なお7倍になっているのです。消費者物価は同期間で約3倍、名目GDPは約6倍になっています。間に20年間のデフレがあって、この差ですから、今後の46年間は想像も付かないくらい、大卒初任給、消費者物価、名目GDPは大きくなっているものと思われます。このような他の指標を無視して、危機感を煽るのは卑怯とも姑息とも言うべきでしょう。

 1995年11月大蔵省は財政危機宣言を出しました。この財政危機宣言は後の橋本内閣の財政政策に大きな影響を与えました。なにしろ、橋本氏も経済に関してはシロートでしたから止むを得ません。その1995年当時の日本のGDPは501兆円、政府および自治体の債務は477兆円、消費者物価指数は101です。(消費者物価指数2010年=100とする)。2014年の日本のGDPは492兆円、政府および自治体の債務は1200兆円、消費者物価指数は102です。債務の対GDP比は財政危機宣言をした1995年以来約2.5倍に達していますが、財政破綻の兆しすらありません。それでは、あの時の政府の財政危機とは一体何だったのでしょうか。

 通貨発行権を有する国の政府債務に関する認識と、家計の債務に関する認識が、うまく識別できていないので、政府債務の増大に危機感を持ってしまうのです。財務省は、国民の政府財政と家計との錯覚を利用して、このように危機感を煽り、増税しようとするのですから、姑息としか言いようがありません。

 通貨発行権を有する国の政府債務の拡大とは、市場に流通する貨幣を増加させるという意味であって、それ以上のものでも、以下のものでもありません。通常、貨幣を増加させるとインフレになります。

 「貨幣中立説」は貨幣量の増減は物価にだけ影響を与え、生産活動や雇用の増減などには影響を与えないという意味ですが、短期的には当てはまらないにしても、中長期的には、完全ではないにしても大体そういうイメージを持って良いものと思われます。確かに、貨幣量がマネーストックを意味している場合は、日本では、マネーストックの増加が必ずしも物価に影響を与えていませんから、厳密には貨幣中立説は正しいとは言えません。しかし、これをもって「貨幣中立説」の趣旨を否定することは正しくありません。貨幣数量説、フィッシャーの交換方程式なども、貨幣の量の物価水準への影響を説明するものですが、根本は貨幣中立説に沿ったものです。

 貨幣中立説は感覚としては何となく分かります。しかし、実際に貨幣を2倍に増やした場合、単純に物価が2倍になるかというと、なかなかそうはなりません。なぜなら、増えた分を均等に消費するとは限らないからです。つまり、預金を増やしたり、投機を増やしたりと、それまでと違う比率で消費に回るからです。しかし、貨幣中立説では、それは短期的な寄り道で、中長期で見た場合、理論的に物価は2倍になるであろうと予測しているのです。ところがそうなっていないので、フィッシャーの交換方程式やマーシャルのkなどで、マネーストック以外のもの、つまり、貨幣の流通速度やマネーストックの回転数とかを持ち出してきたということです。しかし、経済学の仮説に少々のズレが生じるくらいは当たり前ですから、貨幣中立説だけでも、貨幣の量と物価の関係は十分説明出来ていると思われます。
 貨幣は、それを発行した国の、生産物と生産物の交換手段にすぎません。貨幣増発や国債増発の真の財源もまた、そこに生産物が存在するということです。生産物が増加していないのに、貨幣を増刷すると、貨幣中立説のイメージから、インフレになります。逆に、生産物が増加しているのならば、貨幣を増刷しなければデフレになり、実質債務が増大し、国民の多数である債務者が損害を受けます。

 生産物の増加に合わせながら、貨幣を増刷していけば、価格は変わりません。それは、すなわち、生産力が増加し続ける限り、インフレになることもなく、貨幣を2000兆円、3000兆円、4000兆円と増やすことが出来るということであり、自国通貨建て国債もまた貨幣の増刷にすぎませんから、2000兆円、3000兆円、4000兆円と発行できるということです。多少のインフレは、実質債務を減少させるので、投資のリスクが軽減され、むしろ経済成長には好ましいものですから、それを加味すれば、貨幣の量は、経済成長より早いスピードで増やすことも出来ます。そのリスクは物価と賃金のバランスだけです。
 物価と賃金をバランスさせながら増やすことはそんなに難しいことではありません。ゆるやかなインフレが続くように、供給する通貨の量を増やし続けて行き、インフレがひどくなれば、通貨の量を減らせば良いだけです。これを交互に繰り返していけば、経済は、物価が比較的安定的したまま、何十年も持続的に成長していきます。

 いくら、通貨を増やし続けても、また、いくら国債を増加させ続けても、国内生産力が増加している限りインフレにはなりません。仮にインフレが起こったとしても、制御可能な範囲のインフレに留めることが出来ます。もちろん、一挙に大量に発行すれば、賃金の上昇が物価上昇に追いつかない状態であるスタグフレーションになりますから、国民を苦しめ、政策としては失敗することになります。要はスピードなのであって、賃金が物価に追いつくスピードで増やしていけば、政府債務がいくら増えても問題ありません。

 例えば、国内の年間15兆円の土木工事の能力しかないところへ、30兆円の発注をしても、供給力がありませんから、建設部門の単価が2倍になるだけです。これでは、国民全体の経済政策として現実的ではありません。ハイパーインフレが起きると言っている連中は、そういうことを考えているわけです。まるで子供です。

 しかし、20兆円程度の発注の意思を示せば、単価の上昇と共に、建設業は徐々に能力を拡大させます。供給能力を少し上回る発注を繰り返すことで、建設業は供給力を拡大し、例えば、年間20兆円ほどの能力が出来たところで、設備投資や雇用の成果、国民経済全体へ及ぶ乗数効果によって、おそらく日本の景気は完全に回復しているものと思われます。そのときは、首尾良く2ないし3パーセントのインフレ率もまた達成されていることでしょう。

 積極財政反対派はすぐに極端な例を出してきます。年間15兆円の消化能力しかない日本の建設業界に30兆円の公共投資をやったら大変なことになると言うのです。誰も、今すぐ30兆円にしろとは言っていません。供給力の成長の様子を見ながら、需要を増加させて行くことが常識です。そのようして、産業は育てていくものです。

 この2ないし3パーセントという適度なインフレの中で、10年とか20年のスパンで政府債務が1000兆円、2000兆円、4000兆円、8000兆円と増えることは、むしろ理想的です。インフレ率は生産物と貨幣量のバランスですから、そのバランスが急激に変化しなければ、いかに巨額な政府債務でも、そのバランスの中に適応して行きます。4000兆円であろうが8000兆円であろうが、要はスピードの問題なのであって、結果の絶対値の問題ではないのです。政府債務の問題は、その拡大のスピードと、債務残高の絶対値という、二つの問題提起があるはずなのに、現在、スピードの問題が無視され、絶対値の問題ばかりが取り上げられているので、話がおかしくなっているのです。


(引用終わり)

全て信じあっれる訳でもありませんが、考え方は参考になると思います。
通貨管理の基本的な価値の転換に通じるものなのです。
是か非かは別にして。

また、飽くまでも国債にこだわり、通貨の単純な増刷(ヘイマネ)へは踏み込んでいません。

メンテ
ピットコイン ( No.88 )
日時: 2015/07/08 14:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8PzEwjTY

政府紙幣増刷論には次のようなものもあります。

●ブキャナン(ノーベル賞受賞者)、ワグナー

需要不足の経済状態から脱出するための理想的な経済政策は、政府貨幣発行を財源とする赤字予算を組むことである。・・・・・ Buchanan, J.M. and R.E. Wagner, Democracy in Deficit: the Political Legacy if Lord Keynes, New York, Academic Press, 1977
(深沢実・菊池威訳 『赤字財政の政治経済学』文眞堂, 1979年)。


●ポール・サミュエルソン(ノーベル賞受賞者)

円通貨の増刷を直ちに始め、3年間の減税政策を実施せよ。
・・・・[2001]「小泉首相に税率引き下げ提言」静岡新聞 論壇 平成13年6月1日号


●スティグリッツ(ノーベル賞受賞者)

少量の紙幣増発はデフレをうち消す。第一の方策として消費税減税、第二の方策として投資に対する税額控除を提案する。・・・ 日本経済新聞 2002年5月9日(水)


●ディラード

政府貨幣発行を認めないことは管理通貨制度を否定することに等しい・・・・・ 
Dillard, Dudley D., The economics of John Maynard Keynes,1948
(岡本好弘訳、『J.M.ケインズの経済学 : 貨幣経済の理論』)


ラビ・バトラ 「日本に捧げる新経済5ヵ年計画」「税収減は紙幣の増刷で補う」 1996年発行「JAPAN 繁栄への回帰」

(総合法令)

「民間部門を再活性化させるために私が提案した計画案が実行に移されればその活気は作り出されるが、それはまた同時に政府の財政赤字を急激に拡大させることになる。〜中略〜このような一連の財政赤字は、今までの膨大な財政赤字にまた加えられることになるのである。ではこのような財政赤字を一体どうして補っていったらいいのだろうか。それは紙幣の増刷で行う。借り入れが停滞しているときに通貨資金供給量を増加させるための唯一の方法は、政府が紙幣を増刷し、その増刷したお金で赤字を補填するということである。これは「一石二鳥」である

。政府の財政赤字をなくし、通貨資金供給量を上昇させるのである。〜中略〜第五章でも述べたように、潜在的な供給力が消費需要よりも大きければ紙幣の増刷が物価を上昇させることはない。通貨資金供給量の増加は、現在非常に必要とされている需要の増大を生み出すのである。そして消費需要が生産供給に追いつくまで、どれだけ紙幣を増刷しようが、高いインフレの危険性はない。ただ実際に需要が供給に追いついたときに、すぐに通貨資金供給量の増加を抑制すればよいのである。そして、そのときには現在ある経済的危機は消えていることだろう。」

話は変わりますが、

ピットコインの話をします。

国家の恣意的な通貨を見限って、仮想国家による新通貨を発行しようと気が付いた天才プログラマーいた。名前をナカモト・サトシという日本人のような名前をしているが、このナカモトの呼びかけに世界中のプログラマーが賛同し、仮想通貨の決済システムを作ってしまった。

 国家が管理している通貨は金融機関を通じてディリバリーしているのだが、この金融機関の窓口を閉めてしまえば通貨ユーロでさえ利用できなくなることをキプロス政府が教えてくれた。

「まずいじゃないか、国家の通貨は所詮お釈迦様の手の内で、いくら持っていても口座凍結されれば一銭の値打もなくなってしまう」
キプロス政府の信用は地に堕ち、金融機関経由の預金も危ないということになって一気にビットコインに対する需要が拡大した。
キプロス政府より、仮想通貨を発行している仮想国家の方が信用を勝ち得た瞬間だった。

一方ビットコインは金融機関の口座を通さないので、その資金の捕捉は国家はできなくなり、また金融機関にとっては重要な手終料収入の激減になる。
このビットコインは世界で数百万人が利用し、その規模は1兆円というから相当なものだ。
そしてこのビットコインの利用者の約半分は中国人なのだが、これには中国政府が目をむいた。

「なんということだ。中国人民には人民元というこよなき通貨を提供しているのに、人民元を見限ってビットコインに換えて、しかもその資金を海外に送金してドルに換えている。中国人民には愛国心がないのだろうか」
中国国内でビットコインの取引を禁止したが、これはインターネットの世界の通貨だから口座凍結ではなくインターネットの遮断になるが、こうしたサイトは雨後の竹の子のように発生する。

 中国人の金持は中国政府を信用していない。本当は預金はドルか円かユーロで持ちたいが、通常の人民が勝手に外国通貨を購入することはできない。だからあらゆる手段を通じて自身の人民元を海外にもち出そうとする。その最適な手段がビットコインでこれならだれにも知られずにそっと国外に資金を移すことができるからだ。

 ビットコインの将来はどうなるだろうか。すべては国家通貨との信用力との競争で、キプロスやアルゼンチンのような弱小国家の通貨よりビットコインの方が信用力はあることは確かだ。
人民元については意見が分かれる。中国政府はいつなんどき金持ちに牙をむいてくるか分からないので金持ちは人民元を信用していない。一方一般の人民にとっては人民元は相応の信用力がある。

 21世紀に入って国家通貨は仮想通貨の挑戦を受けることになった。弱小国家の紙幣は顧みられなくなり、かつてはドルやユーロや円に換えていた人々はさらにビットコインと言う選択肢が得られることになった。
今は中国人がその主要な利用者だが、ドルやユーロや円が増刷競争をすればするほどビットコインの利用者が増加することだけは確かだ。

(引用終わり)

ピットコインなどは現在の通過制度に寄生する害虫と思っていますが、

そのようなものまで現れると言うことは、、通貨と言う概念、管理体制は、言われる様に確固たるものでもないようで、この問題は改めて検証しなければならないでしょう。

メンテ
通貨管理とは! ( No.89 )
日時: 2015/07/09 13:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:iTx2gqZ6

通貨の話をする場合、もう少し専門的な内容に踏み込まねばならないでしょう。

「ベースマネー」

日本の場合、現金通貨とは、日本銀行券と硬貨の合計であり、中央銀行預け金としては、金融機関が保有している日銀当座預金残高がこれに当る。
日本のマネタリベース = 日本銀行券発行高 + 貨幣流通高 + 日銀当座預金残高


「マネーサプライ」

マネーサプライ(money supply、通貨供給量)またはマネーストック(money stock、通貨残高)とは、金融機関と中央政府を除いた経済主体(一般法人、個人、地方公共団体等)が保有する通貨の合計として定義される。

日本では現金通貨(紙幣を含む広義の貨幣)、普通預金、当座預金、定期預金、外貨預金、譲渡性預金(CD:Certificate of Deposit)の総合計の通貨量である


「ベースマネーとマネーサプライの関係」

マネタリーベースとマネーサプライの比は、貨幣乗数あるいは信用乗数と呼ばれ、信用創造を通じて中央銀行が供給した通貨が銀行システムを通じてどれだけの通貨を生み出したかを見る指標である。
マネタリーベース(ハイパワードマネー) × 信用乗数(貨幣乗数) = マネーストック(マネーサプライ)[2]
マクロ経済学の教科書では、マネタリーベースをほぼコントロール下におく中央銀行は、このコントロールによって、間接的にマネーサプライを調節することができるため、金融政策の一つの指標としている。

この他に実際は「信用通貨」があります。

信用創造(しんようそうぞう、英: Money creation)とは、銀行の貸出によってマネーサプライ(通貨供給量)が増加すること。あるいは、金融機関のおこなう「決済機能の提供」と「金融の仲介機能」が作用して信用貨幣が増加する機能を指す。銀行が貨幣経済において果たしている重要な機能のひとつ。

銀行は預金を受け入れ、その資金を誰かに貸し出す。その過程で信用創造は発生する。以下は、そのプロセスの例である。

1. A銀行は、X社から預金1000円を預かる。
2. A銀行は、1000円のうち900円をY社に貸し出す。
3. Y社は、Z社に対して、900円の支払いをする。
4. Z社は、900円をB銀行に預ける。

この結果、預金の総額は1900円となる。もともと1000円しかなかった貨幣が1900円になったのは、上記2.の結果として、Y社が900円の債務を負い返済を約束することで900円分の信用貨幣が発生したことになるからである。この900円の信用貨幣(預金)は返済によって消滅するまでは通貨(支払手段)としても機能する。このことはマネーサプライ(現金+預金)の増加を意味する。
さらに、この後B銀行が貸出を行うことで、この仕組みが順次繰り返され、貨幣は増加していく。このように、貸出と預金を行う銀行業務により、経済に存在する貨幣は増加する。


「通貨管理:ベースマネーとマネーサプライの関係」の要旨(理屈)は次のようなものです。

本章の要約1

貨幣および信用と金融政策:貨幣と信用は銀行のバランスシートの左右の両側であり、金融政策が経済へ及ぼす効果に関する理論は、その両者に焦点をあてるものである。

本章の要約2

マネー・サプライの変化と経済活動:
マネー・サプライを増加させたとき、次の三つの効果(およびその組合せ)が生じる可能性がある。それは、貨幣保有の増加、産出量の増加、物価水準の上昇である。経済がフル稼働の状態にあるならば、マネー・サプライの増加は主として物価水準に影響を与える。逆に、経済がかなりの程度の過剰生産能力を持っているならば、通常は産出量が増加する。ただし深刻な景気後退期においては、産出量への影響は非常に小さいものにとどまる可能性がある。

本章の要約3

貨幣の流通速度:貨幣の流通速度とは、貨幣が経済を流通する速さであり、名目GDP(あるいはGNP)のマネー・サプライMに対する比率である。Qを経済で生産された財の量、すなわち実質GDP(あるいはGNP)、pを物価水準としたとき、pQは名目GDP(あるいはGNP)Yに等しい。貨幣の流通速度Vは
V=pQ/M=Y/M
によって定義される。流通速度を用いて言い直すと、マネー・サプライが増加したときには、流通速度の低下、産出量の増加、物価水準の上昇の三つのどれか(またはその組合せ)が生じることになる。この問題は、第一にマネー・サプライの変化は貨幣の流通速度と名目所得pQをどのように変化させるかという問題と、第二に名目所得pQの変化は物価水準pと産出量Qの変化にどのように分割されるのかという問題の2段階に分けることができる。後者は経済が総供給曲線の垂直に近い部分と水平に近い部分のどちらにいるのかによって決定される。したがって、重要な問題は、前者、すなわちマネー・サプライの変化は名目所得pQをどの程度変化させるかである。

本章の要約4

貨幣需要:人々は、貨幣保有の機会費用とその便益を比較して貨幣需要を決定する。伝統的な考え方では、貨幣として利子が生じない通貨を念頭に置いて、貨幣保有の機会費用は貨幣を保有しないで債券を保有したならば得られた利子であると考えている。貨幣は交換手段としての機能を持ち、貨幣を保有することにより取引が容易になる。貨幣保有の便益は、その保有により取引が容易になることである。取引の回数が増えれば増えるほど、人々は貨幣をより多く保有しようと考える。このように取引を容易にすることから発生する貨幣に対する需要を貨幣の取引需要という。伝統的な考え方によれば、名目所得が増加すると購入される財の価値が大きくなるので、貨幣の取引需要は増加すると考えられている。


「通貨管理のマクロ的な視点」

財政政策の指標となっているものです。

三面等価の原則:(ハロッド・ドーマーの定理)

先ず混乱されないように前提を置くとして、この定理はあくまでも単年度の動態分析で、単年度損益計算書だと思って下さい。でないと政府累積借金=それはこの単年度損益計算から、静態分析資料である国の貸借対照表に反映され、累積されて行くものでありますから、最後に記しておりますISバランス理屈との整合性に混乱してしまいますので。

GDP(輸出入を含むGNPは別途)国民総生産は全て、家計・企業・政府(税)に分配
されて所得となり、支出される。これが三面等価の原則で、それで全体の説明が出来ます。

【総生産:】

これはもう釈迦に説法で、産業分類によって農林水産、鉱業、製造業・・・サービス業が生み出した付加価値合計です。それぞれの分野における仕入分は差引かれて、差額だけを累積したものがGDPです。
総生産には、政府サービス生産も加算されます。警察、学校、国立病院とか・・・

【(A)分配面からの所得=】

雇用者所得(消費+貯蓄+税)
企業所得(消費+貯蓄(企業の場合は内部留保・営業余剰+税)

(註1)この税は=政府所得になります。
(註2)固定資本減耗=所謂減価償却費は、企業内部留保とみなし、営業余剰に含ませて、項目省略によってすっきりさせます。 

【(B)所得の支出=次のように分解されます。】

民間最終消費
企業最終消費
政府最終消費
総固定資本形成(民間投資+政府投資(所謂公共事業費)
在庫品

(A)=(B)ですから、両辺から消費を相殺しますと、
(S)貯蓄+税=(I)民間投資+政府公共事業となります。

この(I)投資=(S)貯蓄が、ハロッド・ドーマー定理のミソで、これをISバランス
と言います。S>Iの場合はまだ投資出来る、S<Iの場合は、投資不足で国内での
財源が不足を意味し、海外からの投資を要請するケースとなります。

我が国現状ではまだ(S)>(I)の状況にあり、投資の余裕はありますが、これが財政赤字に消費され投資国債になっていない。

メンテ
再び、通貨の概念。 ( No.90 )
日時: 2015/07/09 13:32
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:iTx2gqZ6

「状態的な通貨の恣意的な増刷(ヘリマネ)」とは、ベースマネーを、市場の条件に関わらず、規則的に増やすことです。
もちろん、結果はマネーサプライとして出てくるでしょう。
そうして、それが貯蓄過多になった場合、問題は発生してくるでしょう。

極端な話、十分な仕事にありつけた国民の殆どが1億円の預金ができるようになれば、事情が変わってきます。
しかし、実際は、その様になるまでに、通貨の増刷をやめればいい事で、必要もないでしょう。

>生産物の増加に合わせながら、貨幣を増刷していけば、価格は変わりません。それは、すなわち、生産力が増加し続ける限り、インフレになることもなく、貨幣を2000兆円、3000兆円、4000兆円と増やすことが出来るということであり、自国通貨建て国債もまた貨幣の増刷にすぎませんから、2000兆円、3000兆円、4000兆円と発行できるということです。多少のインフレは、実質債務を減少させるので、投資のリスクが軽減され、むしろ経済成長には好ましいものですから、それを加味すれば、貨幣の量は、経済成長より早いスピードで増やすことも出来ます。そのリスクは物価と賃金のバランスだけです。

と言う方もいるようです。

「貨幣は、それを発行した国の、生産物と生産物の交換手段にすぎません。貨幣増発や国債増発の真の財源もまた、そこに生産物が存在するということです。生産物が増加していないのに、貨幣を増刷すると、貨幣中立説のイメージから、インフレになります。逆に、生産物が増加しているのならば、貨幣を増刷しなければデフレになり、実質債務が増大し、国民の多数である債務者が損害を受けます。」
これは大概の方が容認される話であると思います。

飽くまでも、品物が先にありきの従来の通貨の概念です。

これに対して、このようには考えられないでしょうか。
実際には社会福祉などで実際にやられているのです。

生産物の交換手段と言う意味ではなく、人間が生きるために国家が担保した媒体であるとすれば、国家がなすべきことは富の分配ではなく、通貨の分配と言う概念が生じてきます。
もちろん、人間性の問題もあるので、自ずから厳しい制約がなければなりません。

アインシュタイン的転換と言っても、宇宙そのものの存在は変わらず、視点が違うと言うことです。
経済におけるアインシュタイン的転換も、資本主義経済自体は変わらないものとして行くべきであります。

メンテ
新しい公共事業が日本を救う! ( No.91 )
日時: 2015/07/09 14:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:iTx2gqZ6

自民党政権の時代、公共事業の発注に絡む汚職の問題が噴出し、必要もない道路、箱ものも税金を使って建設されてきた。
その予算総額は、往時で16兆円。
小泉政権の頃から、批判が高まり、公共事業は悪とされた。
民主党政権でも「コンクリートから人へ」などと、何の根拠もない観念で間違った方向へ進み、現在の公共事業費の総額は6兆円。

建設業者も60万から40数万に減ってきた。
業者が減ると同時に建設労働者も職場を離れた。

先にも公共事業が経済果たす役割、将来の産業を興し、保持するための役割としての重要性を説く人は結構多い。
土木建設業は現場で多種な業種が必要である以外に、各種物資の生産、流通の面でも、他に類を見ない裾野の広さがある。
かつ、まだまだ人手による部分が多く、グローバル化の影響の少ない業種である。

公共事業が行われる場所も、地域地域に特定され、国内循環型の経済の構成にも一役買っている。
このように、経済がグローバル化した、この時期に、対応策として一番有効な産業を排斥する、その根拠は何である。

土建屋国家でも、何でも良いではないか。公共事業こそ、我が国の国民経済を回復するための基幹産業でなければならない。

20年近く、公共事業をこれだけ圧縮しておいて、今や公共事業を出したくでも工事を行う職人がいないなどと、うそぶく馬鹿者がいる。
20年かけて減らしたのだから、20年かけて、元へ戻せば良いだけの事。
公共事業を今後、増やす意図を表明すれば良いだけのもと、そうして徐々に増やせばよい。

だから財源のことが問題になる。

社会保障費の増大は避けられす、少子高齢化の現実もあり税収で賄うことはできない。
できないからと言って、これだけ死活問題となった格差、貧困の問題を、只見ているだけで過ごすのか。

万難を排して年間30兆円の通貨の増刷をして、社会を変えてみようとは思わないのか。
社会が安定し、そのようなことも必要なくなればやめれば良いが、少なくとも少子高齢化が終わる、30年間くらいは続けねばならないでしょう。

メンテ
新しい公共事業が日本を救う! ( No.92 )
日時: 2015/07/09 21:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:iTx2gqZ6

新しい公共事業とは、

A 第一次産業の保護育成のためのインフラ整備。

 1 誰でも容易に参加できるような農地の整備。
    
   灌漑、機械、倉庫の配置、全天候型農地(大規模な温室)を全国に展開する。
   各施設は、格安で農家の賃貸する。

 2 漁礁の整備、養殖漁業のインフラ整備。

 3 林業振興 
  
   林道の整備、植林、木の手入れなどに補助金を出す。

 4 シェールガス、地熱発電などの研究、開発を促進し、小規模であっても着手する。

B 道路整備、及び防災事業

  幅員4.0未満の道路の拡幅、地震、洪水対策。


C 医療、社会福祉施設の拡充

  終末医療、老人ホームなど、老人福祉のシステムを作り、全国の地域へ分散して配備する。

主にAの事業を優先する。

工事の発注形式の改革。

発注元は、地方で出来るものは地方とし、工期を十分にとって中小零細企業でも受注できる様にする。 
 


新しい公共事業などを通して、雇用の確保をどれくらい想定するか。(公共事業ばかりではない)

我が国の人口減少にともない、労働者数は20年の将来、5000万人となる(現在6400万人)。
その内の2000万人くらいは職がなくなることを想定する。
現在のワーキングプアーの総数、1500万人。
少子高齢化の時代を乗り切れば、2000万人分の雇用を、市場に任せない方法で確保すれば、よいと思う。

それでは、年間30兆円の公共事業で、どれくらいの雇用が確保できるか。

建設業において、総工事費の内のどれくらいが人件費となっているかについては、明確な資料はありません。
飲食店、土産物店など、他の業種や建設業の各業種(左官とか塗装など)の人件費の比率は20〜50%などと言う統計は出ています。

工事を受注した場合、元請け企業は10〜15%の経費を見ます。
このうちの半分は、元請け企業の人件費とみると、30×0.1×0.5=1.5〜2兆円が出てきます。
その他に、実際の工事は、各種下請けが行い、これも業種によってまちまちですが、平均で20%くらいとします。
サッシュや鉄鋼など、それ自身高価な資材を使う場合は、人件費の比率は落ちできます。
(30ー3)×0.2=5.4兆円が下請け企業や職人の経費となっています。

ところで、建設資材を作っている企業、運搬などをする企業にも人件費が発生しています。
こちらは、概ね工業生産ですので人件費の比率は低くなります。
これを10%と想定しますと。
(30ー3ー5.4)×0.1=2.1兆円

合計では、30兆円の公共事業の発注で、1.5+5.4+2.1=9兆円が人件費として労働者に支払われる事になります。
結論として、工事費の1/3くらいは人件費とみて良いでしょう。
大雑把な試算ですが、高価な資材があまりない土木事業では、もうすこしし増えると思いますが、半分と言うことはないでしょう。

では、10兆円で、どれくらいの雇用が発生するかと言えば、贅沢を言わず年収300万円の労働者であれば330万人の雇用を生むことになります。

これだけか、と思うわれる方がいると思いますが、貧困に喘いでいた330万人の人が生活が安定うすることによって家族を含めて消費が増えます。
その他の相乗効果を含めて500万人の雇用を生む効果があると思っています。

それでも、少ないですね。
ですが、公共事業の対象が、産業のインフラ整備であるので、第一次産業を中心に、建設業とは異なる分野で雇用が発生します。

農林漁業の就労者が200万人増える様にしたいものです。
この様に30兆円の新しい公共事業発注だけでは、せいぜい700〜800万人の雇用が生まれる程度です。

ですから、私は、これとは別に年間20兆円くらいの通貨の増刷で基礎年金を支給することも提唱しています。
安定した老後の生活が保証される事によって、若者を含む社会全体の消費活動が活発になり、税収も増え、福祉の予算も増えてきます。
このようなことが相乗効果を発揮して、さらに300〜500万人の雇用が生まれると想定しているものです。

都合1100〜1300万人の雇用が確保されますが、想定した2000万人には、届きません。
ですが、これ以上の想定には無理があります。

それと、こうした社会が実現することによって、思わぬ展開が期待したいものですね。


年間20兆円くらいの通貨の増刷で基礎年金を支給することについては、まだ検証していませんが、それを次にやろうと思っています。




メンテ
年間30兆円の新しい公共事業 ( No.93 )
日時: 2015/07/11 18:03
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:fcsYnJws

私が通貨の増刷をヘリマネと言うイメージで言っていますが、特に公共事業を通貨の増刷で行う事には、厳密な意味でヘリマネにはならないでしょう。

それは事業による成果物が発生するからです。
経済学的にも、資産と言うトータルな概念から、必ずしも通貨だけが増えた事にはなりません。
ベースマネーの供給と言う面では、確かに年間30兆円づつは増えて行く事になります。
ただ、通貨の増刷を一切しなくても、社会において経済活動は続きますし、それが建設などへ向かった場合、成果物はどんどん増えていきます。

通貨の総量は変わらないのに、通貨の回転によって資産は増えていきます。
通貨とは、このように算数的には捉えられないものと思います。

対価物があるから、ヘリマネではないと言う考えも、今少し理解しかねます。
これは通貨と言うものが、決して資産的には考えられない性格を持っているからでしょう。

翻って我が国の国債の残高を見てみましょう。
最近は国債残高が1000兆円を超えたといいます。

それが資産とか、サービスとか、言う対価物の存在など意識に上がりませんが、どのような計算となっているのでしょう。
と言うよりも、通貨の発行額を資材、サービスの流通量と比例して考える事に誤魔化しがあるのではないでしょうか。
これを言いますと、国債の発行限度が、我が国の国民資産、1400兆円が限度であると言う理屈の問題となります。
実際の通貨の流通、管理は、そのようなものに厳密に捕われていないのではないでしょうか。
現実に、後2年もすると国債残高は、1400兆円を超えることになりますが、この場合、通貨当局は何と説明するつもりでしょう。

この領域については、ベースマネー、マネーサプライの事を言っている部分で通貨の回転率のようなことが問題にされていて、その効果を追認することはしているようです。

また現実的に国債発行と言う形で、国家は通貨を増刷しています。
その国債が残高が、どんどん増えて行き、現在は1200兆円、30年後は8000兆円になると言います。
税収が40兆円そこそこで、そのような国債など返せるはずはないし、返せないと解っていても増発を繰り返します。

通貨の増刷には変わりなく、それに金利がるいているか、否か。
名目的には市中から資金を吸い上げている事になっており、償還と言う形で弁償していますが、弁償のための国債発行を繰り返すなど、民間言う資金管理とは全く違います。

通貨の増刷を常時やってきたと言えましょう。
この場合、ベースマネーもマネーサプライも、総額は増え続けていることになりますが、この現象についてバランスさえ取れていれあ経済学的には問題ないのでしょうか。

以前、紹介したブログの主などは、はっきりと問題ないと言う立場のようです。
全体として認めざるを得ない現実であると思います。

ともかく、お金と言うものは、日常生活の中で感じる以外の性格があることは間違いなく、日常生活より実感がないものにとっては訳の解らない存在で、それゆえに騙されているように感じます。

何はともあれ、現実にこれほど通貨の増刷が行われている現在、公共事業のための年間、30兆円の通貨の増刷が絶対に認められない根拠が解りません。

もちろん、経済学的な根拠はともかく、
通貨を無制限に増刷すること、大衆にそれが可能だと思わせる事の危険性は別の問題です。

私は、通貨増刷の制限の規定をどのように設けるかは問題ですが、通貨の増刷(税金に頼らない)年間30兆円規模の公共事業は出来ると思います。
それはヘリマネ的、通貨の増刷でなく、いままでとおり、建設国債の発行を繰り返しても同じことと思います。

要するに、今まで言ってきた、通貨の概念、そのものを修正する必要になって来ていると言うことになります。

そのようなものが成り立つとして、次には年間、20兆円を基礎年金対策費として、これはヘリマネ、ベーシック・インカムの様相の強いものですが、ついでに実践可能か否かの検証をしたいと思います。
メンテ
年間20兆円の通貨の増刷で基礎年金を支給する ( No.94 )
日時: 2015/07/12 01:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:a8ctUG2g

ベーシックインカム(basic income)とは最低限所得保障の一種で、

政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するという構想。基礎所得保障、基本所得保障、国民配当とも、また頭文字をとってBIともいう。

フィリップ・ヴァン・パレースが代表的な提唱者であり、弁護者である。しかし少なくとも18世紀末に社会思想家のトマス・ペインが主張していたとされ、1970年代のヨーロッパで議論がはじまっており、2000年代になってからは新自由主義者を中心として、世界と日本でも話題にのぼるようになった。

ここで言っているベーシック・インカムとは、国民全員に対して給付する事を前提とし、少ないながら基本的な収入を確保できた国民は、更なる収入が欲しくなり労働意欲が芽生えるという理屈となっている。

と言うのは、生活保護などに頼ると、結局は全てそれに頼ろうとして労働意欲が低下すると言うことに基づいているが、それは信用は出来ない。
またベーシック・インカムの推奨者には、新自由主義を唱える人もいて、ベーシック・インカムを施行する代わりに生活保護、失業手当てなどの社会保障費を減らし、小さな政府へ向かおうとする目的で言っている人もいる。

このような意味でのベーシク・インカム構想が、どこから出てきたのは不思議ではある。
またベーシック・インカムの財源としては、概ね他の福祉予算を削って、これに当てようとするものであるが、中には政府発行の紙幣で行うと言う構想もあるようだ。

どちらにしても

国民の最低限度の生活を保障しなければならないと言う考え方は存在する。
これに使う通貨は、もはや経済行為の帰結として出てくる通貨の概念ではない。

こう言う事を前提として、年金の基礎的な部分、仮に毎月、7〜8万円を、積立しなくても国民全員に給付すれば、どのようになるか見てみたい。

65歳以上の年寄りの人数は、現在は3000万人を少し超えているものと思う。
3000万人×7万円×12ヶ月=25兆2000億円が必要となります。

それ以上の年金は、各自が長い間で積立れば良いこと、この部分は、必ずしも国家が運営する必要はなく民間に年金業者ができても良いでしょう。
年に20兆円の通貨増刷で、この制度をやる様に提唱しているのですが、ベイシック・インカムなどで、若い時から国から現金給付を受けるのと違い、労働者として第一線を引いてからの話であり、65歳までは、何が何でも働かねばならず、この形のベーシック・インカムであれば、その為に労働意欲をなくす人間がでることはありません。

若い頃は、別の形で雇用の保証を国がやれば良いのです。
雇用の保障ですので、現金給付はありません。

また65歳から支給される基礎年金の殆どは生活のための消費に回ると思うので、これによって激しい、インフレが起きることもないでしょう。

30兆円の公共事業と20兆円の基礎年金給付の組み合わせで、人々の生活は安定し、それによる経済効果、社会福祉費の減少も考えられます。

国家が国民に現金を給付すると言う構想は随分と以前からのもののようです。
現代社会は、いよいよ、この問題に本格的に取り組まねばならない様になって来ているのではないでしょうか。

資本主義経済おシステムを維持していても、問題なく出来る事と思います。

年金機構に住み着いて怠け放題、贅沢三昧している職員などは、全て解雇し新しい公共事業の現場労働者として使えば良いのです。
民間の年金会社であれば、彼らの何倍もの能力で成果も上がることでしょう。

メンテ
未来社会を考える <まとめの章 ( No.95 )
日時: 2015/07/12 15:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:b8xskny6

このスレッドで述べて来たことは「新しい日本のかたち」として、ずっと以前から思ってきたことです。
現代社会は、何と言っても経済の領域がその大半を占めます。
「新しい日本のかたち」とは、グローバル化の影響で疲弊した日本を救うための方向性を示そうとしたもので、その経済面のことでは、このスレッドで概ね語れたと思います。

満天下さん、他の経済に詳しい方との交流がなければ、このスレッドは書けなかったでしょう。

「新しい日本のかたち」の経済の仕組みとして、どうしても現在の資本主義の有り様を基本的な分野ですこしは修正しなければならないと思ってきました。

それが通貨の概念であり、通過管理の有り様です。
ですが、資本主義のシステムの基本に口をはさもうとするならば、民主主義の問題も避けて通れないことです。

公共事業の分野だけに通貨の増刷を財源とすることなども、民主主義で言う平等、公平の概念(本当は少し違うのですが)に制約を加えねばなりません。
こうした施策を受け入れる、国民の合意がいるのです。

しかしながら、

経済のグローバル化を目論む世界の巨大資本の暗躍は、その転換を許さず、1国の政治など自由に操ります。
それでも、グローバル化した資本主義の行き詰まりは、多くの人が指摘するところであり、現実にそのように向かっています。

経済の専門家と言われる人たちは、目先の利益に拘るのみで、万民のための経済のシステムを画策しようとはしません。
現況の体制を覆すのも、世界革命が必要なほど、至難の技です。

それが解っていても、もの申したい気持ちで書きました。

共産主義国家が、実質、全て崩壊した現在、政治的な対立軸は、根本的になくなりました。
民主党の失敗が、全てを物語っています。
多くの人は民主党の人事面の失敗としていますが、そうではなく、民主党に限らず、既成政党全てが、グローバル化を推進する自民党と対立する施策を持ってはいなかったのです。

安倍の馬鹿政権は一刻も早く倒すべきではありますが、倒したからと言って政治は、極、一部より変わらないと思います。

現代社会は、こうした角度からの提言が求められていることは事実でしょう。
私の意見は、10年ほど前から漠然と考えていたものですが、これに関わらず、こうした根本的な領域で、ものを考えている人もかなりおられるものと思っています。

今後、こうした意見が表に出てくる事を期待します。

追伸ですが、こうした資本主義の大転換は、むしろ現行の金融マフィアの筋から出てくる可能性があります。
このような体制になっても、金融マフィアに取っては住み着く領域もあるのです。

世界中を破壊するよりも、金融マフィアは自分の為に転換をしてくるでしょう。
実に情けない、政治の姿ではありませんか。

それでは、一旦は、このスレッドでの主な主張は終わります。
先に書きました、経済以外での諸問題を合わせて検証する為に「大和魂」スレッドなどで、国民性の事を書こうとしています。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.96 )
日時: 2015/08/07 10:39
名前: エリーゼ ID:nBMV3eP.

んとですね、、、、、

通貨の裏づけは、国民の総資産(国有資産も含む)であります。

総資産が担保された通貨とも言えます。

その観点から言えば、ユーロは憲法違反の通貨とも言えます。(問題解決は不可能)



ちょっと、観点を変えますが、、、、日本の借金の1000兆円ですが、

これは、国民の総資産の裏付けのない借金をしたため、積み上がったものと理解してください。



それと、、、、、書かれた中身はほとんど読んでません。悪しからず。

マクロコントロール理論をもっと勉強されたほうが良いと思います。






あまり時間的余裕が無いので糾弾掲示板には中々来れません、、、、でわまた、、、、、
メンテ
おやエリさん、これはお珍しい>いっせいです ( No.97 )
日時: 2015/08/07 11:31
名前: 満天下有人 ID:W4OKDEtU

猛暑続きで頭もタコイカのように軟化しますなあ(笑)。

<通貨の裏づけは、国民の総資産(国有資産も含む)であります。>、やはり理解されておりますね。

ただし、政府借金1000兆円に見合う国民金融資産はまだ300兆円ほど残っています。

日銀資金循環統計:昨年6月末現在 家計金融資産 1645兆円 ローン等負債355兆円。
                              差引残高1290兆円

           内、政府が最後の負債精算権力による担保精算分 −)1000兆円
              まだ通貨及び国債価値担保に充当できる額    290兆円

ギリシャはIMFやECB借金返済に、国有財産である港湾コンテナーヤード、空港、など売却。これから電力会社も売るようです。
わが国政府資産で最も換金性の高い投資勘定が約150円ありますが、これは公益法人向けの出資金で、実質は何も無いでしょうね。あと、木曽川とか大井川などの河川権利売ろうにも、買う所がおまへん(笑)。東名高速は形の上では既に民営化されているし・・・。

自衛隊を海外に派兵したいなら、アメリカやNATOから料金取ったら、どうでっしゃろ、財政の助けになりまっせ(笑)。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.98 )
日時: 2015/08/07 14:10
名前: エリーゼ ID:nBMV3eP.

>通貨の裏づけは、国民の総資産(国有資産も含む)であります。

>総資産が担保された通貨とも言えます。


このことは、1000兆円の負債の根拠となるものが、国有総資産への借入金によるコスト増ですが、

本来、国家のイニシャルコストは印刷によらなければなりません。このことは誰ひとりとして、理解していません。

もっと勉強して欲しいものです。

メンテ
あたらしい経済のシステムとは! ( No.99 )
日時: 2015/08/27 21:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:gCIKZues

あたらしい経済のシステムについて検索したところ、次のような問答があることを見つけました。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2131543.html
質問者:dochiteboy

>クエッション

最近貧富の格差が拡大していると言われています。お金さえあれば何でもできるという極端な拝金主義やいわゆる勝ち組の人たち、その一方で学校の給食代すら払えない低所得世帯が急増しているとか。経済学者やエコノミストも所詮は今ある経済システムの枠内での議論をしているに過ぎません。
共産主義でも社会主義でも資本主義でもない、これまでの貨幣経済を根本的に変えるような全く新しい経済システムって考えられないものでしょうか?もちろん政治システムとも関係してくると思いますが。
一億総中流時代と呼ばれた時代がありましたが、それこそ全人類総中流世帯になるような画期的なシステムって考えられないものでしょうか?また、最先端の経済学の研究ではどんなことを研究しているのでしょうか?そういう画期的な議論はされていないのでしょうか?
数千年に一度くらいの大天才でも現れないと無理なのでしょうか?


dochiteboy氏の問いかけに、かなりの人が応じていました。
このスレッドの内容に即したものであるので紹介します。
ですが、どの方も問題意識はあっても、具体的な内容までは踏み込めていないようです。
ですが、この様な気運が高まる事は大切な事と思います。


>アンサー1

> 1.バイオテクノロジーの飛躍的進歩で食料が無制限に生産できる。

> 2.宇宙開発の飛躍的な進歩で宇宙ステーション、スペースコロニー、他惑星への移住が容易に可能になり、人口増加は問題にならない。
> 3.石油に変わる安価なエネルギーの開発が本格的に実用化し無制限に利用できる
> 遺伝子(テロメアの研究など)や再生医学の研究が飛躍的に進歩すれば人間の寿命は飛躍的に延びる

dochiteboyさんの仮定には書かれていませんが、これだけ科学技術が発達していれば、その世界の生産者は人間ではなく、人間と同等以上の知能を備えたロボットであるとも想定できます。それらロボットの開発・生産・保守・管理もロボット自身が行うでしょう。人間が行うよりも論理的、かつ正確であり、休む必要がないので生産性も高いはずです。人間が必要とするものは、全てロボットが用意してくれます。もはや、人間は働かなくても、何不自由なく生活できてしまう環境になります。

dochiteboyさんの言われる「全人類総中流世帯になるような画期的なシステム」「全く働かなかったとしても全ての人が最低限の衣食住を確保できる」の実現のために必要なのは、「全く新しい経済システム」ではなく、未来の科学技術ではないでしょうか?そして、そのような世界では、私たちの考える「経済」という概念自体が成り立たないように思えます。もっとも、仮定的要素をベースにした世界では、生きがいや生死観が現代人と全く異なるでしょうから、私にはその世界をうまく想像できないのですが…。

「無制限」など、都合のいい仮定的要素を付加してしまうと、「最先端の経済学の研究ではどんなことを研究しているのでしょうか?」以外の質問が意味を成さないように思えます。(偉そうですみません)



>アンサー2

最新の経済学でしたら、以下のキーワードで検索してください。

最近、立命館の先端総合学術研究科なんか元気です。

●実証的経済学と規範的経済学●厚生経済学●進化経済学●複雑系
●アローの一般不可能性定理●ゲーム理論●パレート最適●格差原理
●シュンペーター●スラッファ●ガルブレイス●森嶋道夫
注:若干、偏りあり。

それと、ベーシック・インカム論争について少し、ベーシックインカムとは、市民権に基づく個人の権利として、属性や地位に関わりなく、誰にでも無条件で支払われる生活保証金のようなもの。論争自体の紹介は、単に煩雑となるだけで、質問に関係しそうな部分だけご紹介します。

『要するに、多くのエコロジストが、労働時間の短縮が必要であり望ましいということに関心を寄せているが、簡単な計算を行えば、その理由がわかるだろう。100人からなる社会があり、そのうち90人が職についており、10人が失業中だとしよう。私たちは(a)失業している10人のために雇用を創出するよう努力するべきなのか、(b)90人の雇用を再配分するべきなのだろうか。
エコロジストの戦略に従えば(a)は決して実現することはできない。なぜなら、これは「成長へと突き進む」・・・p212

例えばイギリスのような国で、4000億ポンドのGDPが8000億ポンドになったとすれば、以前に比べて2倍ほど裕福になったと一般の人は考えるだろう。このような経済学者による福祉の定義のなかには、「財」が多くなれば多くなるほど必要や要求の充足度が高くなるとの想定がある。しかし、フレッド・ハーシュがかなり前に提示した、物質的財は「位置的である」という論点(Hirsch,1976)、すなわち財の効用は供給量に反比例して減少するという論点をのことを考慮に入れないとしても(ハーシュは通常の再生可能な財と芸術作品のように再生不可能な財を区別し、後者を位置的な財と呼んだ)、この経済学は、経済成長が財のプラス効果を帳消しにするような「不良品」を生み出しているという事実を見逃している。・・・ウルリッヒ・ベックが主張するように、脱工業社会は不良品の生成によって特徴づけられる(Beck1992)。この消費と極貧層の非消費との間の矛盾の結果、犯罪、絶望、依存といつた数多くの社会的なトラウマが生まれる。にもかかわらず、福祉は物質的な富の際限ない拡大によってもたらされると考えられているのである。p214』

以上、『自由と保障ベーシックインカム論争』 トニー・フィッツパトリックより

引用前半の(b)はワークシェアリングですが、日本では、掛け声だけで頓挫した理由を見つけないと。

●ところで、この気合の入っていない回答を書き込んだ本当の意味は、質問の最後の一行にあります。

いったいどんな天才が、自然科学・社会科学等の個別に分化した、膨大な成果を全て理解しうるのでしょうか?
最初のキーワードに載せた、複雑系は、知識分散と計画経済の不可能性を元に、一般均衡理論とは別の理論に挑戦しています、この件に関しては、塩沢由典氏の『複雑系経済学入門』等をお勧めします。

要約・回答全文のキーワードで自分で検索して調べてね。失礼しました。
悲観しすぎることは無いとしても、楽観できるとは言えません。


>アンサー3

(本当の)経済学者は、

経済学の(本当の)目的である、
完全雇用(=みんな能力・嗜好にあった仕事をして、飯を食える世界)
を達成するには、どうすればいいかを日々研究してます。
それでも、結論は出てきません。
なぜかというと、
 1.情報の伝達速度が平等ではない。
 2.情報の処理能力が平等ではない。
からです。

とりあえず、
 1.情報の伝達速度を平等にする。
 2.情報の処理能力を平等にする。
 3.挑戦する機会を平等にする。
ための仕組みを作ることさえ出来ればいいと思います。
ってのは、すでに経済学(特に情報経済学や労働経済学)では
確立されています。

(続く)
メンテ
あたらしい経済のシステムとは! ( No.100 )
日時: 2015/08/27 21:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:gCIKZues

>アンサー4

「最先端の経済学の研究」については知りません。


「これまでの貨幣経済を根本的に変える」というのは、「もちろん政治システムとも関係してくると思います」と考えているように、貨幣の小細工で変わるものではないでしょう。

歴史的に見れば、人類は機械力を手に入れてから大きく『生産力』が変化して変わってきたといえないでしょうか。

もちろん、未来については見えないので、現実から核心となることを考えれば、生産力が大きく変わることでより少数の人間の頭数によって、多くの人間の欲望を物質の面で生産できるということですから、あとは、どのようにしてその生産力の恩恵を多くの人間に行き渡らせるか、という課題でしょう。

したがって、その課題は、個人の問題ではなく、社会的に解決しなければならないことなので、当然のごとく、政治的な問題でもあるということでしょう。

また、公共事業と同じ機能は、戦争によっても作り出すことができます。公共事業費は誰かがもらうことですが、戦費もまた、それを誰かがもらうことです。「誰」は企業であっても、企業の株は、個人にたどり着くように。

まだアメリカはイラクで戦争していますが、こんなことしているようでは、未来の新しい経済システムは未来でしょうね。



>アンサー5

よくぞきいてくれました!!


 では説明しましょう、まず公共投資についてですが現在先進国全体で見ましても失業率は前に比べて上がってますよね?この原因はいろいろあるんでしょうが、IT革命や経済のグローバル化またはアメリカ流の合理主義による生産性の上昇によって余剰労働者がでてきたのがおもな原因だと思います。

 さらにその余剰労働者を吸収できる新たな産業がでてこないことと、民間企業は儲けた利益を設備投資に使わず、配当や企業買収に使い経営規模を巨大化あるいは多角化して得た利益をまた企業買収に使うという弱肉強食時代であり、失業者は増えるばかりであります。

 つまり現在民間に労働需要はなく、国が需要を作るしかないのです。え、公共事業?と思うかもしれませんが電柱や用水路を地下に埋めたり、公園の整備や植林などまだまだやらなければならないことがたくさんありますし、現在民間が採算が取れずやらないような研究開発を国がやることは非常に重要であります。

 さらに付け加えておくと現在のようにメディアが過剰消費を促してメーカーに利益をあげさせ、そしてその利益をもとにメーカーは設備投資をするというスタイルよりも、国が国家事業としてやるなり補助金出すなりして研究開発をしたほうが効率的に技術開発ができ国際競争力が高いのです。これはなぜかといいますと前に書いたモラルや勤勉性の問題と、いままで過剰消費するために生産に投入していた資源や労働力を、技術開発や研究開発に投入できるからなのです。
 
 まあこれをを可能にするためには労働者がいまよりも高度な技能を身に着けなければならないのですが。

 あとのふたつのキーワードは疲れたのでまた今度書きますね。


>アンサー6

一億総中流や景気循環の抑制と技術革新を両立するキーワードは、マネーサプライ、公共投資、そしてインテリジェント・デザインかな?

 実際現在の先進国を見ましても、商品を売って得た利益を元に研究開発をするという民間主導の経済だけでは労働力を吸収できなくなってきているようですし、また現在のようにメディアを使ってむりやり消費
させようとするとモラルや勤労意欲の低下を、まねくようですね。


>アンサー7

考えた人は多分ここに書き込む前にノーベル賞にむけ、論文を書くことと思います。


 さて、「貨幣経済を根本的に変える」と有りますが、近代以前から綿々と使われているシステム(金貨から紙幣、リアルマネーを使わない決済と姿を変えているモノの、本質的には同じ)をすぐに改変出来るとは到底思えません。

 第2に、全員が中流であることが可能かどうか、という点があります。質問者様が想定される「中流」というのはどの位のレベルですか?
 それが、世界の平均値であるならば、それは少なくともパソコンでインターネットを楽しむような余裕のある暮らしではありません。現在の日本の中流とするならば、既に人口は許容量を遙に越えています。
 余剰をパージしますか?それとも生活レベルを思いっきり落としますか?

 さらに、目指すモノに矛楯が含まれています。無から有を産み出すことが出来ない以上、底辺を引き上げる原資は、当然上の方から巻きあげたもので養われます。たとえば、日本における累進課税だったり、相続税だったりするわけです。
 しかし、上から巻きあげて下に配る以上、どうしたって、上にはつねに取られているという意識が付きまといます。反面、下に播く分を手篤くすればするほど、それに対する依存が起きます。社会主義国家での、福祉国家と言われた国々での社会実験の結果からすれば、国家が見える手で行う行為は思いのほか影響を与えやすいものです。ある程度適当な再分配のバランス、というものは有るかも知れませんが、一定のパイを奪い合っている以上、どうしても上が有れば下が出てくるモノと思われます。
 
#もっともこの様な答えは回答子が凡人であるためであって、大天才であればまた違うことを言えるのかも知れませんが。


>アンサー8

>全人類総中流世帯になるような画期的なシステム


それを「社会主義」っていいます。全ての生産性を国が管理して均等に分配すれば皆中流です。
でも、それではやる気が起きないですよね。やってもやらなくても中流なんですから。
だから、社会主義は崩壊しますよね。

つまり、人間が楽をしようとしている限り、総中流なんて不可能なのです。


以上です。
同じような事を考えている人が沢山いることをしり元気をいただきました。


メンテ
未来社会を考える意見の紹介 1 ( No.101 )
日時: 2015/08/28 14:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:5pAXU6uw

引き続いて、これから数回、あたらしい社会のシステム(経済)の構築の必要性を説いている人の意見を紹介します。
はじめは「るいネット」からの引用です。
原文は、長ったらしく、必要以上に理屈を言われていますので、その口調を参考までにご覧いただき、後で私の解説をします。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=261011

「新理論が登場してこない理由2 専門家は根本追求に向かえない」


本来なら、新理論を構築するのは、学者をはじめとする専門家の役割である。ところが、今こそ近代観念に代わる新理論が求められているのに、誰も新理論の構築に向かおうとしない。それは何故か?
学者や評論家やマスコミ人=観念思考の専門家たちは、近代観念をメシの種にして生きているので、決して近代観念を捨てることは出来ない。もし捨てれば、たちまちその地位を追われてしまう。
しかし、潜在思念は流動しており、彼らも、新しい潮流と頭の中の近代観念との矛盾・対立を少しは感じているはずだが、一向にその矛盾を切開し根本追求に向かおうとしない。
それは、そもそも新しい潮流を掴む感度が著しく低下しているからだと考えられる。では、彼らは、人々の意識潮流=潜在思念を感取する力を、何故そこまで低下させてしまったのか?

人類は一貫して潜在思念(本能と共認機能)で現実を対象化してきた。言葉や文字が登場して以降も、それら観念に大きく規制されながらも、潜在思念発の現実思考があくまでも主役であった。ただ、文字を操る専門家は、現実から乖離した観念思考に嵌っていったが、それでも多くは、潜在思念発の観念思考に(≒健全な範囲内に)とどまっていた。
しかし、100年前に学校が出来、全国民が7〜18歳(今では22歳)まで、一律に観念教育を受けるようになると、観念回路が成長してゆく時期に植えつけられたこの一律の近代観念は社会共認となり、人々の意識を強く支配するに至る。同時に、試験制度が末端にまで浸透し、その結果、試験エリート=統合階級という身分が不動のものとして確立されてゆく。そして、この新たな身分制度が磐石なものとして確立されてゆくにつれて、統合階級の意識は大衆から離反してゆく。
中でも決定的だったのは、’70年以来(とりわけ’02年以降)、大衆が私権収束から脱して共認収束を強めてきたのに対して、あくまで私権収束を促す試験制度の勝者たる試験エリートたちの意識がどんどんエリート意識(=私権意識)に塗れてゆき、決定的に大衆とは逆行していったことである。その結果、試験エリートたる専門家たちの大半が、大衆の期待を深く感取することができなくなってしまった。

有史以来、求道者たちは、同類期待(=みんなの期待)を深く感取し、それを自らの課題として根本から徹底的な追求を重ねることによって、新観念を生み出してきた。しかし、現代の専門家=試験エリートは、子どもの頃から近代観念を植え付けられ、その上、同類期待も真っ当に感取できなくなっているので、かつての求道者のような本物の追求課題を持ち得ていない。
もし、同類期待を深く自らの課題として孕んだ本物の求道者なら、職業的専門家になると本物の課題を追求できなくなることは明らかなので、プロの道を選ばなかったはずである。従って、易々とプロの道を選んだ時点で、課題意識が著しく低下していることは明らかであり、専門家の99.9%は失格だと言えるだろう。従って彼らは、相変わらず近代観念に立脚したまま専ら細分化された専門領域での目先の追求か、矛盾を取り繕う詭弁の追求しか出来なくなり、新理論どころか誰も大理論(グランドセオリー)の構築に取り組もうとしなくなってしまった。それが、新理論が登場してこない究極の原因(「自分」観念に毒されていない者も含めて、誰も新理論を生み出せない理由)であり、全ては学校制度と試験制度の所為である。

観念思考者たちが、根本追求に向かわない(=近代観念に代わる新理論の構築に向かわない)原因は、もう一つある。
先に述べたように、人類は同類圧力だけが現実を形成する全く新しい時代を迎えたが、人類はこれまで専ら自然圧力を対象とし、同類圧力(主に期待)をテコにして観念機能を形成してきたし、私権時代も飢餓の圧力→私権圧力を前提とした同類圧力(主に闘争)を追求力の源泉としてきた。従って、同類圧力のみを対象とし源泉とする観念思考は、経験したことがない。
例えば、受験勉強のような私権圧力でしか観念追求したことがない人には、同類圧力のみを源泉とする観念追求は出来ない(そもそも追求する気になれない)のかもしれない。試験エリートたる専門家や「自分」観念に囚われた観念病者などは、その典型だろう。
しかし、ほぼ同類圧力のみを源泉とし、対象として期応収束⇒課題収束してきた世代なら、仲間期待発で観念追求することは、充分可能なはずである。その意味では、何よりまず、私権発から同類発へ(=自分発からみんな発へ)の意識の切り替えが求められている。


(引用おわり)

要するに現代の経済のシステムの矛盾に気づきながら、経済の専門家と言われる連中は、真摯にこの問題と取り組む事をしないと言っています。

その理由の一つは、現実の経済専門家と言われている者は、そのほとんどが生活費を現在の経済のシステムの中から得ていて、それに反旗を翻すことは、そく生活の手段を絶たれる環境にあると言うことです。

巨大資本とそれにおもねく国家権力が、その様なものを自由にさせないのです。

もう一つは、現在の経済システムに対する認識が、人々の中では空気や水のように当たり前の自称と身についてしまい、根本的な事を疑うと言う事をしなくなっているのです。

経済の専門家と言えども、従来の知識があればあるほど、それを理解していればいるほど、それを疑うことができないのです。
発明、発見の歴史を見てますと、過去のそれは、簡単に思いつく内容が多かったのですが、今日は、物事についてあらゆる角度からの連携が必要とされており、どこを触れば大きな変換に結びつくかの糸口が見出しかたくなっていることもあります。

其れ故に、知識、情報にこだわる専門家よりも、素人的発想の中に、的を得ているものがあるのではないかと言うことが言えます。

表現は違えど(むつかしく言っている)、この様なことであると思います。
メンテ
未来社会を考える意見の紹介 2 ( No.102 )
日時: 2015/08/28 18:19
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:5pAXU6uw

前回に続いて「るいネット」からです。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=260986

「新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった」

情報中毒による追求力の衰弱もその一つだが、新理論が登場してこない最大の原因は、近代観念が人々の共認収束に蓋をする閉塞の元凶となったからである。
近代観念も、市場の拡大期には私権拡大の可能性に誘引されて、その追求力が衰えることはなかった。しかし、豊かさの実現によって私権拡大が終息し、共認収束の大潮流が出現すると、私権欠乏を大前提とし自我を源泉として生み出された近代観念は、共認収束の出口に蓋をする閉塞の元凶でしかなくなる。

もちろん近代観念だけではなく、近代観念の教宣機関たる学校制度もマスコミも、あるいは私権収束を促す試験制度や試験エリート(学者・官僚・マスコミ人)の存在も、およそ私権統合を担ってきた法と体制の全てのものが社会の桎梏(手かせ足かせ)となったが、中でも、時代閉塞の真犯人と言うべきは、それら私権体制と市場拡大を導いてきた近代観念である。
人々の頭の中を支配する近代観念は、共認社会への出口を模索する人々にとって、この上なく厄介な障碍となっている。従って人々が、思考を閉塞させる近代観念やそれに基づく理論を、邪魔な物として忌避するのは当然である。だからこそ、’70年以来、人々は一貫して思想や理論を敬遠し、無思想・無関心が蔓延していったのである。今や大多数の人々は、理論=役に立たない厄介なものと見なすに至っている。

観念や理論がここまで忌避される原因は、時代=潜在思念が急速に転換していっているにも拘らず、近代観念が全く進化しなかった点にある。
では、近代観念は、なぜ進化できないのか?
近代観念は、自我発で形成された架空観念であり、その一つ一つの観念が、自己正当化観念として働いている。その結果、近代観念に染まったものは、無数の自己正当化観念に囲まれたその中心に強固な「自分」という観念を形成し、あたかもその「自分」観念こそが自分の本質であるかのような錯覚に陥ってしまう。
従って、いったん強固な「自分」観念を形成してしまうと、その「自分」観念を崩すことは自己の崩壊を意味することになるので、「自分」観念を疑うような根本追求に対する忌避回路が形成される。このような根本追求に対する忌避回路が形成されている以上、誰も近代観念を根底から覆すような大理論の構築に向かおうとしないのは当然である。
近代観念に代わる新理論が登場してこない原因の第一は、この「自分」観念による根本追求の忌避にある。

すでに、25年以上も前から、社会のいたるところで綻びが露呈し、その綻びが日増しに大きくなって危機的な様相を呈しているにもかかわらず、学者や官僚が小手先の弥縫策や矛盾を隠蔽する詭弁に終始し、決して根本追求に向かおうとしないのは、近代観念に刻印された、根本追求の忌避作用の為せる所である。
また、近代観念を見限って、予知や宇宙人やアセンション等の超常情報に収束している観念思考者たちも決して大理論の構築に向かおうとしないが、それは、彼らが「自分」観念を温存したまま超常現象に逃避しただけだからである。従って、その超常情報の発信そのものが、大きな騙しとなっている。実際、危機を煽るだけ煽って、後は祈るだけで何もしないこの連中は、金貸し勢にとって実に有難い援軍であろう。そんなことになってしまうのも、「自分」観念を温存したままだからであり、それほどに「自分」観念の根は深い。

しかし、自我・私権の終息により、近代観念(=自己正当化観念)の源泉と誘引先が閉ざされ、どんどん風化してゆくので、その中心に形成された「自分」観念も、時と共に風化してゆき、いずれ消滅する。
代わって、本能回帰・共認回帰の潮流に応合した「もったいない」「役に立ちたい」等の新しい言葉が浮上し、古い近代観念を圧倒しつつある。そして、それら本能回帰・共認回帰の潮流の中で育った若い世代は、次々と「自分」観念から脱却し、素直に期応充足⇒課題収束を深めていっている。いまや、「自分」観念にしがみついているのは、仲間関係が上手くいかない等の関係不全から観念収束した観念病者か私権派だけである。

(引用おわり)

このサイト特有の私権と言う言葉で、ややこしくと言えば語弊があるが、哲学的とか形而上学的に説明しています。
内容は、要するに科学の発達で情報が行きかい、多くの人がそれなりの知識を持つようになった。

と同時に、知識の面でも希求心が充足されたと思い込み、あたらしい知識を取り入れる欲望が少なくなってきた。
そうして、かれらが得ている情報とは多分に現状のものであり、現状を打開する為の情報は、多くはなく、其れゆえに、知識が現状容認で固定される。
一方で、物質的に満たされた社会の現象を見るだけで満足し、将来も思いうかべる気持ちがない。

その下りは下記のように表現されている。

「近代観念は、自我発で形成された架空観念であり、その一つ一つの観念が、自己正当化観念として働いている。その結果、近代観念に染まったものは、無数の自己正当化観念に囲まれたその中心に強固な「自分」という観念を形成し、あたかもその「自分」観念こそが自分の本質であるかのような錯覚に陥ってしまう。
従って、いったん強固な「自分」観念を形成してしまうと、その「自分」観念を崩すことは自己の崩壊を意味することになるので、「自分」観念を疑うような根本追求に対する忌避回路が形成される。このような根本追求に対する忌避回路が形成されている以上、誰も近代観念を根底から覆すような大理論の構築に向かおうとしないのは当然である。
近代観念に代わる新理論が登場してこない原因の第一は、この「自分」観念による根本追求の忌避にある。」

結果、

「自我・私権の終息により、近代観念(=自己正当化観念)の源泉と誘引先が閉ざされ、どんどん風化してゆくので、その中心に形成された「自分」観念も、時と共に風化してゆき、いずれ消滅する。

代わって、本能回帰・共認回帰の潮流に応合した「もったいない」「役に立ちたい」等の新しい言葉が浮上し、古い近代観念を圧倒しつつある。そして、それら本能回帰・共認回帰の潮流の中で育った若い世代は、次々と「自分」観念から脱却し、素直に期応充足⇒課題収束を深めていっている。いまや、「自分」観念にしがみついているのは、仲間関係が上手くいかない等の関係不全から観念収束した観念病者か私権派だけである」

要するに自己意識が萎えた人々は、自分が考えるのではなく、共生の概念にのみ逃げ、ボランティア活動などに存在意義を求める。
真正面から社会の有り様を言及することはしなくなる。

当然、あたらしい社会、経済のシステムなどに興味を持たず、先見者が、それを示しても反応はない。

と言う様な意味と考えます。
「るいネット」には、このように難解な文章がある。
もっと平易に現せると思うが。

ともかく、2つの意見は、あたらしい社会(経済)のシステムの提示は、二重の意味で困難であり、まだ誰もが成功していないと言うことでしょう。

必要なのは、解っていても。

メンテ
未来社会を考える意見の紹介 3 ( No.103 )
日時: 2015/08/28 18:29
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:5pAXU6uw

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/ssrc/result/memoirs/kiyou18/5.pdf#search='%EF%BC%94%EF%BC%8E%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E4%BD%93%E7%B3%BB%E6%A7%8B%E7%AF%89%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E6%80%A7'

現代経済分析の視点・新しい経済学を求めて ... - 立命館大学のシンポジウムから。

4.新しい経済学体系構築の必要性

経済学の歴史は,古典派,マルクス主義,新古典派,ケインズ,また制度学派などが資本主
現代経済分析の視点・新しい経済学を求めて ―シンポジウムをめぐって―(岩田) 77
義社会の分析を行ってきた.これまでの日本の経済学界は,欧米で確立された経済学の応用で
あり,独自の体系を形成するまでには至っていない.しかし,最近では複雑系,あるいは進化
経済学などが一定の支持者をもって展開している.2008年のノーベル経済学賞を授与された
ポール・クルーグマンは新制度学派を名乗っている.21世紀の経済学は,理論・政策の多様化
が進展している.そこで今日の経済現象は,生産,分配,消費あるいは金融システムの転換ま
でを含んだ新しい経済システムの形成を必要としているのか.あるいは21世紀の経済学は,既
存の経済学の応用か新しい体系の確立かの岐路にたっており,経済学の真価が問われているの
である.

萩原は,経済学の意義を次のように捉える.経済学は新しい現象の発生にたいして,それと
どのように取り組んでいくかが,基本的な課題である.したがって現実的な出来事に向かい合
うことにより,その適切な処方箋を提起することが重要である.その場合のポイントは,例え
ば非正規雇用が増えることになれば,大多数の社会の構成員から分配の不公平なこと,制度の
改善の声が出てくることが望まれる.人間は利己的であるといわれているが,同時に他人に対
する「思いやり」を持っているのである.経済の種々な問題が生じても,人間の利己的な側面
からのみの解決策ではなく,「思いやり」を込めた処方箋を提起していくことが経済学の課題
である.さらに経済学は,現実の問題に対処できるものと,できないものを取捨選択していく
ことが求められている.

後藤は,経済学は経済システムを設計する責任があることを強調する.経済システムの設計
は,生産,消費,分配活動のなかで個々人が主体的に携わることを前提にすべきである.経済
システムにおいては,雇う側と雇われる側の階級的な固まりがあることが歴史的であり,また
構造的な点で重要である.ただしこうした固まりが社会を構成する唯一の分け方なのであるか
は問題がある.現在は「階級」という言葉を避け,「所得階層」などの言葉が使用されている.
統計的な手法による便宜的な「固まり」である.こうした方法以外に,例えば高齢者という「固
まり」,障害者という「固まり」,あるいは女性という「固まり」などがある.こうした「固ま
り」は,本人が望むと望まざるとにかかわらず,社会的・経済的な不利益を制度的に負ってい
るのである.マルクスが述べたように,制度が個人を制約し,さらにそれぞれのポジションに
よって幻想を抱くという状況がある.「固まり」を現実の暮らしの中で,種々な角度から捉え
ることが必要である.したがって生産,消費は個々人の選好や価値判断で集合的に行っている
のである.例えばわれわれがデパートに買い物に行って,何を買いたいのかを考えるとき,ど
のような経済システムを選択するのか,個々人によって異なっているのである.こうした個々
人の主体性に関して新古典派経済学は,同一視するという最大の難点がある.個々人は,一定
のシステムの中で,許容の範囲での予算とか,戦略とかをたて,自分の消費を決めていく.す
なわち個々人の自由がある.またこれまでの経済学は二つの大きなテーマをもってきた.一つ
は大きな経済システム,オルタナティヴの設計.もう一つは社会的選択理論に代表されるよう
なシステムの合意である.マルクスにより提起された歴史的・構造的な枠組みを受け継ぎなが
ら,新古典派経済学によるミクロ分析,すなわち個人に焦点をあてて,分析する視点である.
さらに規範としての「市民的自由」,「政治的自由」であり,センの主張する「福祉的自由」で
ある.「福祉的自由」は個々人が現実にどれだけ選択することができるか,選択の手段をもっ
ているか,また個々人と異なるポジションにいる人々がどれだけの選択権をもっているのかが,
問われる.こうした視点からの経済学の形成が必要である,と主張する.

角田は,新しい経済学とは自分の頭の中でひねり出すというのではなく,既存の経済学の再
配置が必要である,と主張する.個人の立場から出発すれば,個人は企業・集団で働く一人の
人間であり,地域の住民であり,消費者として企業に向かい合う,国民としての主権など様々
な属性をもっている.このような個人が社会関係の中で種々なコミュニティを形成する.コ
ミュニティを支えているのが市場でもある.国家は全体としてのルールを作成し,一部強制力
も発揮する.こうした点はサミュエル・ボールズが主張するようなコミュニティ,国家,市場
ということになる.ただしコミュニティは,古いコミュニティが解体されるという意味ではな
く,企業を含めて新しい集団が形成されていくということである.したがってこうしたコミュ
ニティをつないでいく新しいシステムが必要になる.またベーッシク・インカムについては,
たとえば現在の日本の社会保障の総額が100兆円であり,国民一人あたりにすれば90万円にな
る.後藤は,この90万円をベーシック・インカムとして保障すればどうか,と提案しているが,
しかし所得は生産,労働,資産があってはじめて発生するものである.古典派経済学は分配の
前に生産があることを主張していることの理解と同一の問題である.

平田は,大筋では後藤の提起と変わらないとして次のような考え方を示す.今日の経済学は
古典派経済学のフレームワークのなかだけで考えても問題を解決できない.一昔前はミクロ経
済学とマクロ経済学の関係がどのようになっているのかが議論になった.それは,たとえばミ
クロとマクロは接合していない,というようにである.ミクロ経済学とマクロ経済学は個別分
野では接合が進んでいた.それはミクロが新古典派経済学,マクロがケインズ経済学として整
理されていたからである.しかし最近の動向は,全体像を捉えるマクロの視点と新古典派のミ
クロの視点との接合がうまく行われていない.むしろケインズ経済学に対するアンチテーゼの
ような考え方が,数多く出現している.ところがそれらは,新古典派のマクロモデルでの個別
の消費,投資関数の組み立て理論ができていても,マクロ全体でどのように調整するか,フレー
ムワークとしてどのように捉えるかの理論立てが弱くなっている.したがってこうした考え方・
方法論が再構築さるならば,社会的な合理性あり,かつ社会的な合意がえられるならば,コン
トロールすることが可能かもしれない.そのためのプロセスを導き出すマクロコントロールが
現在見えにくくなっている.それ故に経済学は,ミクロとマクロの接合できるモデルの必要が
あり,課題がある.しかし現状は,こうした課題をこなすことが困難になっている.

(引用おわり)

分析ばかりで、いささかつまらない。

結局は、具体的にはベーシック・インカムに逃げている。
もちろん、無制限なベーシック・インカムであるが、もう少し考えられることがあるのではないか。

まあ、何はともあれ、大学の研究の立場では、こうした「あたらしい経済のシステム」について論議されていることが分かり、その紹介に代えさせていただいた。

メンテ
科学技術が貧困をもたらす ( No.104 )
日時: 2015/09/02 09:55
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ESX5GMUk

https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/jing-jino-ben-zhitookane/ji-shuno-jin-buga-pin-kunwomotarasutoiu-mao-dun

科学技術が進歩して生産性が向上すれば人々の生活は豊かになると誰もが思うでしょう。ところが現実はその反対です。科学技術の進歩により、安い価格で大量の商品が生産できるようになると、逆に失業がどんどん増えるのです。今まさにその矛盾が日本を襲っています。

<市場経済の致命的な欠陥>

科学技術が進歩して、機械やコンピューターが人々の労働を軽減してくれるなら、人々にゆとりが生まれ豊かな社会になる。子供の頃、多くの人はそう信じていたはずです。たとえばすごく高度なロボットが現れて、人々の代わりに労働をすべて担ってくれるなら、人々は労働から解放されるはずです。そして、人々はスポーツや芸術や学問の場で競い合うことによって、人間のさらなる可能性を追求するようになる。まあ、すこし現実離れした夢のような話ですが、でも、科学技術が進歩すれば、その夢に向かって徐々にでも前進するはずでしょう。

ところが現実は逆です。科学技術の進歩で生産性が高まると、労働力がいらなくなります。すると企業はコストダウンのために人々を解雇するようになります。コストダウンにより企業は、より安い価格で商品を大量に生産できるようになります。ところが日本のあちこちの企業で同じように生産性の向上に伴って人々を解雇するようになると、社会にどんどん失業者が増えます。失業者が増えることで商品を買うことのできる人も減ってしまいます。すなわち、技術革新により安い価格で大量の商品が生産できるようになる一方で、それを買える人がどんどん減っていくのです。そして商品を買える人が減るため商品が売れ残るようになり、デフレになってしまいます。驚くべきことに科学技術の進歩が原因で経済が衰退するのです。その引き金を引くのは「コストダウン」というおカネと市場の理論です。「生産と分配」という本来の目的を無視しておカネの理論が暴走しているのです。

少し考えれば、多くの人がこの異常な矛盾にすぐに気づくはずです。ところが、政治家も経済学者も、当然ながらマスコミも、この最大の矛盾を正面から問題提起する人は誰もいません。未だかつて、その答えを聞いたことも見たこともありません。

<新自由主義が矛盾を増幅する>

かつて終身雇用制の日本では、このような矛盾は露骨に表面化してこなかった。なぜなら、終身雇用だからコストダウンのために、社員を簡単に解雇することはなかったからです。確かに社員を首にできないぶんだけコストは下がりにくかったかも知れないが、逆に失業が増えないことで人々の購買力は維持され、商品が売れなくなることもなかったのです。それが日本の高度成長期の厚い中間所得層、いわゆる「日本総中流」の実態であり、これが貧富の格差の少ない日本を実現していた。物価は高くとも、貧富の差は少ない社会だった。

ところがアメリカからグローバリゼーションと新自由主義が導入され国際間のコスト競争が激化した。そして企業は海外とのコスト競争に打ち勝つためにコストダウンを迫られ、雇用の流動化が進む中で容易に社員を解雇するようになり、終身雇用制は崩壊した。これによりコストダウンが実現し、物価は安くなり始めたが、逆に人々の賃金が低下し、失業が増加することになり、国内の消費者の購買力は不況もあいまって低迷を続けた。内需が不足するデフレが続いているのだ。その結果、せっかくコストダウンで大量生産した商品も国内では売れず、結局は海外へ輸出せざるを得ない状況になった。事実、高度成長期には比較的低かった日本の貿易依存度は近年延び続けている。こうして日本の中流層は崩壊し、物価が安くとも貧富の格差は広がり、貧困層の増加を招いたのです。

技術革新により、安い価格で大量の商品が生産できるようになる一方で、それを買える人がどんどん減っていく。これは貨幣経済と市場経済のメカニズムが内包する致命的な欠陥です。「生産と分配」という経済本来の目的を無視しておカネの理論が暴走しているのです。今の日本政府のようにこれを「グローバリゼーションと新自由主義」は良い事だといって放置を続けると、貨幣経済と市場経済の負の側面がどんどん拡大して、やがて日本の経済が崩壊してしまうでしょう。

<高付加価値商品の開発は問題解決にならない>

今日まで貨幣経済と市場経済の矛盾を防ぐ唯一の方法として主流だった考えは「新しいニーズの開拓」です。新たな商品に対する人々の欲求を刺激することで需要を生み出し、その需要を満たすための商品を生産することで仕事が生まれ、失業していた人が職を得るという方法論です。「日本は高付加価値商品の開発に活路を見出すべきだ」などの主張がこれに当たります。しかしこの方法を採用した場合、人々の雇用を維持するためには生産性の向上に伴って限りなく欲求を拡大し、生産量を拡大し、大量生産、大量消費を続けなければなりません。永久に右肩上がりに大量生産・大量消費を拡大する。そんなことは可能でしょうか?不可能です。地球の資源が枯渇してしまいますし、環境の破壊も懸念されます。しかも欲求の拡大は無限ではないようです。だから日本の内需が伸びないのです。もし日本人の欲求が拡大し続けていたなら、日本経済は今とは違ったものになっていたはずです。

しかも、もし日本のメーカーが高付加価値商品を開発したとしても、それが日本の雇用を生み出すでしょうか?答えはNOです。高付加価値商品も人件費の安い海外で生産されます。実際、アメリカのアップル社はiPhoneで飛ぶ鳥を落とす勢いですが、その製品の生産はアメリカではなく台湾や中国で行われ、台湾や中国の雇用を生み出しています。すでに国境を越えた技術移転も簡単に行われるようになり、日本の企業が日本の雇用を生み出すという常識さえ疑わしいものになりつつあるのです。

「日本の不況は生産性の向上ではなく、中国からの輸入が原因だろう」と言う人もいるでしょう。しかし、それも生産性の向上の一種です。この生産性の向上は技術革新ではなく、グローバリゼーション(国際分業)が引き金です。中国で安く生産できるようになるということは、コストベースで言えば生産性の向上を意味するからです。技術革新でコストダウンすることと同じです。ロボットが人間の代わりに労働してくれると同じように、日本人の代わりに中国人が労働してくれるわけです。それで、日本人は生活必需品を作る必要がなくなったのです。その分だけ、日本の失業者が増えるのです。

(引用おわり)


文中にもある様に、失業の問題は市場主義経済論の、どこを弄っても解決はできない段階に来ているのですが、その至上主義経済の恩恵を受けている連中は、本当の事を、時代の変遷を認めようとはしません。

こうしたブログなど。利権と関係のない人たちが声を上げてはいますが。
メンテ
アルゼンチンの破綻とは ( No.105 )
日時: 2015/09/02 13:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ESX5GMUk

財政破綻で大成功したアルゼンチン

https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/akusesuno-duoi-ji-shi/cai-zheng-po-zhande-da-cheng-gongshitaaruzenchi


アルゼンチンはIMFの介入を受け、新自由主義政権の下で経済が崩壊し財政破綻したが、その後、新自由主義を排除し、目覚しい経済成長と福祉の実現を達成しつつあります。共産主義が病気であると同様に、新自由主義も国家を破綻に追い込む病気なのです。

「マスコミに載らない海外記事」というすばらしいブログがあります。そこでの記事「アルゼンチン: 何故フェルナンデス大統領が当選し、オバマが落選するのか」を以下に抜粋・一部修正して引用します。
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-8c71.html

(以下は、引用記事)

<アルゼンチン、危機から、力強い成長へ>

アルゼンチンの経済的破局と大衆反乱は、それまでアルゼンチンを支配してきた軍国主義と投機的略奪から、社会福祉と持続的な経済成長へという基本的転換を実現する好機となった。その結果、アルゼンチンはアメリカが後押しした30年間の略奪的新自由政権を脱し、「正常な資本主義福祉国家」を作り出すことに成功したのだ。

アルゼンチンは、1976年から1982年の間に、30,000人のアルゼンチン人を殺害した大量虐殺将軍達を生み出した、残虐な軍事独裁に苦しんだ。1983年から1989年まで、独裁政権時代の遺物に対処し損ね、三桁のハイパー・インフレーションの中で指揮をとった、新自由主義政権のもとで、アルゼンチンは苦しんだ。1989年から1999年、アルゼンチンは、最も利益の上がる、公企業、天然資源(石油を含む)、銀行、道路、動物園や公共トイレを、特売価格で外国投資家に売り渡された(追伸:世界銀行やIMFが介入した国では良くある搾取事例)。そして2001年12月、銀行が閉鎖し、10,000社が倒産し、最終的壊滅的崩壊に至った。

アメリカとIMFが推進した“自由市場”政策の全面的な失敗と人的災害を背景に(追伸:IMFの介入を受けた国家は長く貧困に苦しむが、アルゼンチンもそれ。IMFの実態を良く知るマレーシアはアジア通貨危機後にIMFを断固拒否して経済的に復活を遂げた)、キルチネル/フェルナンデスはアルゼンチンの対外債務をデフォールトし、民営化されたいくつかの企業と年金基金を再国有化し、銀行に干渉し、経済再生に向け社会的支出を倍増し、製造向けの公共投資を拡大し、一般消費を拡大した。2003年末までには、アルゼンチンはマイナスから、8%成長に転じた。

<人権・社会福祉と独立した対外経済政策>

アルゼンチンの経済は、2003年から2011年までに、アメリカ合州国の三倍以上、90%成長した。経済回復とともに、とりわけ貧困を減らす為のペログラムへの、三倍の社会的支出が行われた。貧しいアルゼンチン人の比率は、2001年の50%以上から、2011年の15%以下へと減少した。対照的に、アメリカの貧困は、同じ十年間で、12%から17%に増大した。

アメリカは、1%の人々がアメリカの富の40%を支配する(OECDで不平等が最大の国)。対照的に、アルゼンチンの不平等は半分に縮小した。アメリカ経済はリーマンショックで8%以上も下落し、2008-2009年の深刻な不況から回復し損ねた。対照的にアルゼンチンの落ち込みは1%以下で、堅調に、8%成長をとげている(2010-2011)。アルゼンチンは年金基金を国営化し、基本年金を倍増し、栄養不良対策と、就学を保証する、全児童に対する福祉プログラムを導入した。

対照的にアメリカでは、20%の子供たちが貧弱な食生活に苦しみ、青年の中退率は増大しており、少数民族の子供たちの25%が栄養不良状態にある。医療/教育の更なる削減が進むにつれ、社会状況は悪化するばかりだ。アルゼンチンでは、給与所得とサラリーマンの数は、実質で、10年間に50%以上増えたが、一方アメリカでは10%近く減少した。

アルゼンチンGNPの力強い成長は、成長する国内消費と、力強い輸出収入に支えられている。アルゼンチンの貿易黒字は有利な市場価格と競争力によって安定している。対照的に、アメリカの国内消費は停滞し、貿易赤字1.5兆ドルに迫り、歳入は年間9000億ドル以上の非生産的な軍事支出に浪費されている(追伸:だからTPPを強引に進めるわけだ)。

<緊急援助と貧困に対するアルゼンチン式代替案>

アルゼンチンの成功体験は、国際金融機関(IMF、世界銀行)、その政治支援者、経済新聞の評論家連中のあらゆる教えに反している。経済専門家達は口々に「アルゼンチンの回復は持続可能ではない」と予言したが、成長は十年以上にわたり継続した。金融評論家は、デフォールトすれば、アルゼンチンは金融市場から締め出されることになり、経済は崩壊するだろうと主張した。しかしアルゼンチン経済は出収入と国内経済の再活性化に基づく自己金融によって成り立っており、高名なエコノミストを当惑させている。

フィナンシャル・タイムズのコラムニストは依然としてアルゼンチンの「来るべき危機」について電波を飛ばしている。彼等は「高いインフレーション」「持続不可能な社会福祉」「過大評価された通貨」を持ち出してアルゼンチンの「繁栄の終わり」という予言を書きたてている。8%という成長率の継続や、2011年選挙でのフェルナンデス大統領の圧倒的勝利を目の前にして、自由主義者たちからの中傷誹謗は加熱するばかりだ。英米の金融関係ジャーナリスト連中は、学ぶ価値があるアルゼンチンの経済経験を中傷するのではなく、ヨーロッパと北米における自分たちの自由市場体制の終焉にこそ取り組むべきだろう。



※ もう一つの証言。



デフォルト国アルゼンチンに現代の「桃源郷」を見た

論説委員 太田泰彦

http://www.nikkei.com/article/DGXMZO82291540T20C15A1000000/

 世界の国々は4つのタイプに分類できる。「豊かな国」「貧しい国」、そして「日本」「アルゼンチン」である――。米国の経済学者ポール・サミュエルソンが1990年代に好んで語ったというジョークである。

 米欧の先進国の暮らしや産業のレベルが高いことは、誰から見ても明らかだ。途上国や新興国の人々の苦労を知らない者はいない。けれども、天然資源が乏しく第2次世界大戦で国土が荒廃した日本が、なぜあれほど経済的な成功を収めたのか。素人にも納得できるように説明できる経済学者はいない。

■見た目は「国家崩壊の危機」……

 同じように、世界中がうらやむほど豊かな自然環境と資源に恵まれたアルゼンチンが、どこで何をどう間違えて、これほど落ちぶれてしまったのか。これまた原因は何かと問われて、明快に答えられる専門家は見当たらない。ケインズ学派と新古典経済学を統合した経済学の泰斗の目にも、日本とアルゼンチンは不思議の多い国と映っていたに違いない。

 その後、日本はバブル崩壊と長いデフレを経験し、繁栄の謎を問われる特殊な国ではなくなった。一方のアルゼンチンは2001年に約1000億ドルの債務の返済ができなくなり、最初のデフォルト(債務不履行)に陥った。

 以来、パリクラブなどを舞台に債権者との交渉を延々と繰り返したほか、その間にも合わせて6回ものデフォルトを引き起こした。国際的な信用は地に落ち、孤立を深めている。巨額な債務や米国への激しい対決姿勢など、おどろおどろしい見出しが連日のように紙面に躍る。報道記事で知る限り、アルゼンチン経済はガタガタ。もはや国家崩壊の危機にひんしているようにも見える。

 そんなデフォルトをめぐる不安と臆測が渦巻く昨年の8月初め、緊張に身を固くしながら、同国の首都ブエノスアイレスを訪れた。聞くと見るとでは大違い、百聞は一見にしかず、と言うべきか。治安の混乱や困窮した市民の生活を想像していた私にとって、そこには驚くべき光景が広がっていた。

 人々の表情が、なんとのどかで、楽しげであることか。パリを思わせる美しい石畳の街角で、町の音楽家がタンゴを奏でている。朝には、センスのよい服装の男女が、忙しそうに、だが平和な面持ちで職場へと足早に歩く。夜になるとしゃれたレストランやバーでワイングラスを傾ける人々の笑顔が目立つ。百貨店やモールは買い物客でにぎわい、店には商品があふれていた。大規模なデモもなく、町は極めて静か。もちろん暴動など起きてはいない。

 私が訪れた数日間は、旧市街に露天商が並ぶ手作り小物のフェスティバルが開かれていた。小粋なバッグやアクセサリーを物色してぶらぶら散歩するブエノスアイレス市民と観光客たち。ここがデフォルトした国とは到底思えない。短期間の滞在中に、いつのまにか「危機」の2文字は私の頭の中から消え去っていた。

 この国は世界で孤立している。しかし孤立しても、基本的には生きていける国なのだと実感した。穀物の一大産地であり、大豆油、大豆カスの輸出は世界1位、トウモロコシは2位、小麦は9位。牛肉は世界一おいしいともいわれ、上質の国産ワインが安く手に入る。食べるものには困らない。工業製品の多くを輸入に頼るが、必要な物品は南米南部共同市場(メルコスル)で結ばれた隣国ブラジルから十分に入ってくる。

 エネルギーや鉱物資源もあり余っている。技術的に採掘が可能なシェールガスの埋蔵量は、中国に次いで世界2位とされる。番組でも紹介されるが、ハイブリッド自動車などの電池の素材として欠かせないリチウムの生産量は世界4位。銅やアルミなど需要が伸びる金属類も生産、輸出している。

 昨年7月末に陥った今回のデフォルト状態は、アルゼンチンに債務の返済能力が欠如していたのが原因ではない。2001年の危機対応で債務再編と減額に応じなかった、いわゆる「ホールドアウト債権者」との法廷闘争で、同国政府を訴えていたヘッジファンドなどの原告が勝利したからだ。同国が債務の全額を返済するまでは、債務再編に応じた「ホールドイン債権者」に対する利払いをも禁じるとしたニューヨーク地裁の判決を、米連邦最高裁が支持したのだ。ホールドアウト債権者との交渉が決裂した結果、同国は7月30日の利払いを履行できず、デフォルト状態とみなされた。

 実際にはアルゼンチン政府は、ホールドイン債権者への利子の送金を続けている。だが、裁判所の判決が出ている以上、米国の銀行は受け取ったカネを債権者に払い出すことができない。裁判所に怒られるのが怖いからだ。だから債権者の手元にカネが届かない。

 全体の3%とされるホールドアウト債権者は、97%のホールドイン債権者とアルゼンチンを、こうしたジレンマに陥らせることで「デフォルト認定を得ること」自体が狙いだったとされる。タダ同然の格安の値段で旧国債を買い取った上で、債務不履行に備える保険商品であるクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)を大量に購入しており、はれてデフォルトとなれば巨額の保険金を手に入れることができる。ひとことでいえば、これは「マネーゲーム」だ。

 だからこそ、アルゼンチン側は猛反発した。その美貌とポピュリズム的な政策が目立つクリスティーナ・フェルナンデス大統領は、ここぞとばかりに「ハゲタカファンド」と、他国をネタにゲームに興じるウォール街、そして米国の価値観そのものを批判した。米国への反撃の急先鋒(せんぽう)は、ノーネクタイのラフな姿で記者会見に現れ、弁舌鮮やかにアルゼンチンの正当性を主張するイケメン大臣。43歳のアクセル・キシロフ財務相である。

■したたかさに陰りなし

 実はフェルナンデス政権は、アルゼンチン国内で今年10月に選挙を控えている。8月には予備選がある。通貨価値の下落やインフレで人気が低落していたこの時期に、米国から予期せぬ挑戦を受けたのは、むしろ幸運だと考えていた節がある。理不尽なハゲタカや米国を攻撃することで、国民のナショナリズム感情に訴え、支持率の底上げにつながると計算しているからだ。つまり、なんのことはない、アルゼンチン国内から眺めれば、今回のデフォルト騒動は「政治ゲーム」である。

 ニューヨークを舞台とする「マネーゲーム」と、ブエノスアイレスで繰り広げられる「政治ゲーム」。これがアルゼンチン史上8回目とされるデフォルトの本質である。

 せっかくだから、ここで一つ番組の秘密をお教えしよう。事の経緯は放送には盛り込まれないが、ジパング取材班は実はキシロフ財務相の単独インタビューに、ほぼ成功していた。最終的に見送ったのは、時間的な制約だけでなく、法外な金額の“コスト”がかかったからだ。外国の債権者に多大な迷惑をかけていながら、アルゼンチンのしたたかさには、いささかの陰りもない。

 鮮やかなドレスをひるがえし、エロス満点のタンゴダンサーが舞台で踊る、踊る……。きらびやかなバンドネオンの音がホールに鳴り響き、バイオリンは切なく歌う。食べ切れないほどのステーキをテーブルに載せて、観客はおいしいワインに酔いしれる。ブエノスアイレスはきょうも、元先進国の誇りと文化の香りに包まれている。

 同じように公的債務が大きくても、日本にはまねはできない。ここは現代の桃源郷ではないか。私は滞在の最終日に、そんな錯覚に陥っていた。


 「私が見た『未来世紀ジパング』」はテレビ東京系列で毎週月曜夜10時から放送する「日経スペシャル 未来世紀ジパング〜沸騰現場の経済学〜」(http://www.tv-tokyo.co.jp/zipangu/)と連動し、日本のこれからを左右する世界の動きを番組コメンテーターの目で伝えます。随時掲載します。筆者が登場する「他人事じゃない!?ハゲタカに狙われたアルゼンチン」は1月26日放送の予定です。

(引用おわり)

国家の破綻、破綻と大騒ぎしている経済学者に取って、破綻とは、金融資本の損得について言っているのであろう。
要するに現代の経済の混沌は、ロスチャイルドなどが作り、それに参加している金融マフィアたちのゲームなのである。

現代の金融理論など、そのゲームのルールに過ぎないのである。

次に、同じようにギリシャの事を見てみましょう。



メンテ
ギリシャの場合 ( No.106 )
日時: 2015/09/02 23:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kbFeQ1pc

ギリシア問題は通貨統合のワナ

https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/sono-tano-ji-shi/girishia-wen-tiha-tong-huo-tong-henowana

<ギリシア問題の根幹は生産力不足>

ギリシア問題の根底にあるのはギリシア国内の供給能力の不足です。そしてギリシアのように供給能力が不十分で国際競争力のない国が、ユーロを採用してドイツをはじめとする競争力の強い国々と通貨統合するとどうなるか?それはある種の「わな」のようなものです。通貨統合は人々に幸福をもたらすとは限りません。通貨統合すれば「弱肉強食の世界」になるのです。なぜそんなことが言えるのか、考えてみました。

<通貨統合前のギリシアは貿易収支は自然に均衡していた>

ギリシアは貿易赤字国です。貿易赤字ということは、ギリシア国内の生産だけで自国の人々の需要を満たすことが出来ないため、不足分を輸入に依存しているということになります。つまり国内の生産能力が不足した状態です。ところで、貿易赤字が続くと貿易代金の支払いのためにおカネがどんどん国外へ流出してしまいます。まず通貨統合前の状態を考えてみます。通貨統合前のギリシアにおいては、独自通貨の「ドラクマ」が使われていました。貿易赤字が続くと、為替市場においてドラクマは値下がりを続け、ドラクマ安になります。ドラクマが安くなると輸入品が値上がりしてしまうことから、自然と輸入に歯止めがかかるのです。輸入に頼れなくなると生活が苦しくなりますが、やがて国内の生産力を強化することで総需要の不足分を自国内で調達できるようになります。

また自国通貨が安くなることで輸出価格競争力が増し、輸出を増加し、その対価として自国で調達不能な資源などの輸入を再開することが出来るようになります。このように、独自の通貨を使用している状態であれば、為替市場における調整機能が働くことにより、自国通貨安を通じて輸入に歯止めがかかります。そしてやがて国内の生産力が強化されることで人々の需要は満たされ、貿易赤字の問題も解決されます。また、そうでなければならないのです。

<ユーロだから貿易赤字にストップがかからない>

ところがユーロは複数国家で導入されていることから、為替市場におけるユーロの相場は自国だけでなく他国の貿易収支を加えて影響されます。たとえばギリシアがユーロ圏外との貿易において貿易赤字でも、ドイツが貿易黒字であればユーロ全体としては貿易赤字にはなりません。だからユーロは値下がりせず、ギリシアの輸入品の価格が上昇することはありません。すると輸入品が安いのだから買えば済むという安易な判断になってしまいます。ユーロを握っている限り、いつまでも貿易赤字を垂れ流しで輸入ができる。こうなると国内の産業を発展させて生産力を向上する必要はなくなってしまいます。ところがここに罠があるのです。貿易赤字をそのまま続けると輸入代金の支払いのために国内のユーロが国外へどんどん流出して国内はユーロ不足、つまりおカネの無い状態となります。しかしユーロ通貨の発行権は欧州中央銀行だけにあり、各国は通貨の発行権を剥奪されています。つまりギリシアは自国通貨であるはずのユーロを発行することができません。すると、国内はどんどんおカネが不足してしまう。

<自由貿易だから関税もかけられない>

国内のカネが不足すると何が起こるのか?不況が発生するのです。そのメカニズムを通貨循環の視点から簡単に考えてみましょう。ギリシアの人々はギリシア国内の企業で働いている。そこで受け取る賃金はその企業が生産した付加価値、つまりギリシアで生産された全商品の総額とほぼ同額です。その賃金は本来なら全額がギリシア国内で生産された商品を買い取ることに使われなければならない。そうすることで企業におカネが戻り、そのカネに基づいて生産が行われ、そのおカネが再び人々の賃金となるからです。そうしておカネが国内で循環することにより、ギリシアの国内経済が健全に保たれます。

ところがその賃金の一部が輸入品の購入に向けられることで、海外へ流出して戻ってこなくなる。つまりギリシアで生産された商品に売れ残りが生じる。すると、本来は全額がギリシア国内の企業へ戻るはずだったおカネが減ってしまいます。ですから企業の収益が悪化します。また、売り上げとして企業へ戻ったおカネが次の段階でギリシアの人々の賃金となります。ところがそのおカネが海外へ流出して減っていますから、賃金として支払うべきおカネの総額がすでに不足しています。つまり、ユーロが海外へ流出することで賃金が次第に減るのです。そのようにして次第にギリシアの人々は購買力を失い、産業もすたれてしまいます。

このような場合、普通の国であれば、関税を用いて輸入を抑制すればよいのです。まず輸入を抑制して海外へのおカネの流出を防ぐ。そしてその間に不足している商品を国内で生産する体制を整える、あるいは別の輸出産業を育成することにより、貿易赤字を出さないようにしながら国内の需要を満たすための政策を行うのです。ところが、ユーロ圏では関税の権利も剥奪されています。関税が撤廃された自由貿易圏だからです。ユーロ圏はまさしく「新自由主義」の世界そのものです。つまり、もはや海外へおカネが流出することを防ぐ手段はないのであります。このようにギリシアは出血多量により瀕死状態となるわけです。


<通貨の発行権を剥奪された国の破綻>

ギリシア政府の苦悩は察するに余りあります。通貨は発行できない、為替の調整機能は働かない、関税もかけられない。一方で不況により困窮した国民からは突き上げられる。そこでギリシア政府は国債の増額に踏み切るのです。しかし、ギリシア国内ではおカネが貿易赤字のためにどんどん流出しているから、当然ながらギリシア国内の貯蓄額も非常に低くなっています。国内で国債を調達しようとしても国内にはおカネがない。ここは苦しくても踏ん張らねばならないのですが、ギリシア政府は悪魔の誘惑に勝つことができなかった。ギリシア国債を外国に売ってしまいます。ユーロは欧州通貨であり信用力がありますから、海外からユーロ建てで借金することができる。そのことに甘えてギリシアは国債を発行し続けたのです。それを買ったのは、ギリシアに大量の商品を輸出して、ギリシアから代金を稼ぎまくったドイツです。つまり、キツイ言い方をすると、ドイツはギリシアから巻き上げたカネをギリシアに貸し付けたわけです。いまや、そのドイツが先頭を切ってギリシアに借金の返済を要求しています。もちろん、借りるギリシアにも問題はあります。

そして国債にも通貨統合の罠があります。ギリシア国債はユーロ建てなので、ギリシアの自国通貨建て国債に見えますが、ギリシアにはユーロ通貨の発行権はありません。自国通貨であっても通貨発行権が無い場合は外貨建て国債と同じ意味になります。ですから破綻する可能性があるのです。

どういうことでしょうか?ユーロで借りたおカネはユーロで返済しなければならないが、ギリシアにはユーロ通貨の発行権は無い。たとえば日本のように通貨が独立した国家であれば政府が通貨の発行権を有しています。ですからデフォルトしそうになったら、円建ての国債の返済は円を刷れば可能なのです。そんなことをすれば確かに国債は暴落しますが、債務の返済が不能になることは絶対にありません。しかし、ギリシアは通貨の発行権が無いため、ユーロを刷れません。ギリシアにとってユーロは自国通貨でありながら自国通貨ではないのです。通貨発行が出来ないため、税収で返済が出来なくなった瞬間にデフォルト。即死です。通貨統合によって自国通貨を奪われることは恐ろしい事なのです。


<ギリシアのさらなる悲劇>

独自の通貨を持っている国の場合、国債のデフォルトは自国通貨の暴落を招きます。しかしこれで国が死んでしまうことはありません。確かに暴落すると輸入品の価格が高騰して一時的はかなり苦しくなることは間違いありません。しかし、自国通貨が暴落して通貨安になると、輸出価格競争力が回復します。通貨暴落により一時的に国内経済は大混乱に陥るものの、やがて輸出が経済を牽引するようになる。先日読んだ本によれば、過去に経済破綻した多くの国がこれにより数年で立ち直ってきているというのです。ロシアや韓国もまさしくそれです(両国とも近年に破綻を経験している)。財政が破綻したからといって国が終わることはありません。自国通貨安による輸出拡大で国の経済は回復できるのです。ところがギリシアの場合、自国通貨はユーロであり、経済規模の小さなギリシアの国債がデフォルトした程度では、ユーロが暴落することはありません。つまり通貨暴落による為替安の恩恵を受けることは一切ありません。このような状況ですから、ギリシアが輸出による国内産業の立て直しを図ることは極めて難しいと言えるのです。

ギリシアが債務の返済を行うためには、ギリシアが貿易黒字化し、輸出により外貨を稼ぎ、それで債務を返済することがもっとも自然な方法であります。しかし、それが出来ないとなればギリシアはどうすれば借金を返済できるのでしょうか?

@国民が保有しているユーロを増税で集めて返済。



現在ギリシアでは緊縮政策と増税が行われており、これに反対して国内では暴動が発生しているのです(最近は落ち着いたようですが)。しかし、これをやるとギリシア国内の通貨が不足して不況がますます悪化します。そこで、最近のギリシアは「国民に対してさらに増税をするから、そのかわり当面のカネを貸してくれ」と、IMFやECB(ユーロの中央銀行)に働きかけています。しかしIMFやECBは「まだまだ増税が足りんぞ」と突っぱねている状況です。追い詰められたギリシア政府は開き直ったり、逆切れしています。

A国土など貴重な資産を売り渡す。

もはや屈辱的でありますが、国土をカネ持ちに売り渡すのです。貴重な文化財を借金の返済のために外国人に売り渡すのです。投機などで巨万のあぶく銭を稼いでいる資産家に渡すのです。悲しい事にこれが資本主義の現実です。カネが主導する世界の真の姿です。

ニューズウィークのサイトに短いコラムがあったのであります。

ギリシャを「植民地化」するEU

http://newsweekjapan.jp/stories/world/2010/05/post-1252.php

貿易赤字国、つまり、輸出競争力が弱く、国内の生産力が不足しているギリシアのような国家がEUのように巨大な自由貿易経済圏に統合されると何が起こるのか?自由貿易経済圏というと、なにやら良さそうに聞こえるのでありますが、その実態は過酷な生存競争にあることを忘れてはならないのです


(引用おわり)

現在、ギリシャや中国の問題で、世界中の為替、株価の変動が起きていますが、それが国民目線から見た実体経済とは、何の関係のない領域で起きているかが判るでしょう。

ことの本質は別にあるのにも関わらず、金融資本主義と言うシステムは、それを見ようとはしない。
本当は奴らがいうほどに、世界の経済は不安定なものではないのである。

その根拠として、これから述べることになるが、現代は先進国と言われている国では、その国の国民が日常生活に必要とする物資は、ほぼ十分に確保されていて、分配の方法だけが問題であるのだ。

経済活動(生産の場)で、みんなが切磋琢磨しなければならなかった時代とは違っていることが考慮されていないのである。
メンテ
ヒットラーの予言 ( No.107 )
日時: 2015/09/03 11:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:sxgPEfw2

再び、冒頭のヒットラーの予言。


「…“2つの極”はますます進む。1989年以後、人間はごく少数の新しいタイプの支配者たちと、非常に多数の、新しいタイプの被支配者とに、ますます分かれていく。一方は、全てを操り、従える者。他方は、知らずしらずのうちに、全てを操られ、従わされる者たち。

「…(20世紀末は)たとえ表面はデモクラシーや社会主義の世であろうとも、実質はナチズムが支配していよう。デモクラシーの国も社会主義の国も、われわれナチスの兵器を競って使い、殺し合い、社会は私の望むとおり、強く支配する者と支配される多数者に分かれていよう。それは天変地異の期間でもある。人類は大自然から手ひどく復讐される。気候も2つに分かれ、激しい熱と激しい冷気、火と氷、大洪水と大旱魃(かんばつ)が代わる代わる地球を襲うだろう。」

「だからその中から『超人(ユーベルメンシュ)』が現われる。もはや普通の人間ではそういう危機を制御できない。それに対応するため人類は超人たちを生み、超人が世界や気候を、人間や戦争を治めることになる。
つまり天変地異の下に生きる多数者。それを支配する少数者。その陰で実質的に世界を操る超人グループ。これが、私の予知する21世紀の世界である。」

「しかし諸君、さらに重大なのは、私がいま、これを話している100年後のことだ。それを告げるためにこそ、私は今日を選んで諸君を招いたのだ。今日から100年後といえば、すなわち2039年1月25日だ。

「それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。いくつかの国は崩れて燃える。毒気で息絶える街もある。

2000年以後は、それが一層ひどくなる。2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。アフリカと中東も完全に荒廃する。結局、いまの文明は砂漠しか残さない。

しかし人類はそれでも滅びない。わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。いまの意味での人類は、そのときもういない。なぜなら、人類は2039年1月、人類以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。」

残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。

(引用おわり)


要するに、ヒットラーは100年後、2039年頃には、世界は支配するものと隷属するものの2極化が進み、現在の様な人間社会の概念とは違うようなものになると言っています。

残虐非道のイメージより浮かばない、ヒットラーが人類の未来を予言しているなど思いもよらなかった。
ところが、このヒットラーの予言は、形態は違えど結構、的中しているところもある。
予言とは、もともと、そのようなものでもあるでしょうが。

グローバル化が進んだ現在、世界中に格差が広まり、富める者と弱者の立ち位置は固定され、システムに反抗する事も許されず彷徨するのみの大衆が全人口の半分きもなる。

その原因は生産、流通のロボットか、集約化であり、それがグローバル化を推進している。
古代と違い、搾取する権力者と搾取される民衆というシチュエイションではないのである。

社会のシステム、そのものが人間を追いやっているのであり、弱者は抵抗する対象さえ見いだせないでいる。
抜け出す方法がないのである。

ヒットラーの生きた時代では、今日の生産技術の発達は予見できなかったであろうが、そこは予言、何かを感じて現在の姿、否、人間社会の未来の姿を予見したものと言える。

ヒットラーの予言のあるなしに関わらず、現代に生きる我々は、時代の特性をしっかりと認識しなければならない。
ノストラダムスの予言も、それが実現しているとは言えないが、ヒットラーの予言も同じように、時代への警鐘として受け止めることはできる。

そういう見地から、我々は何を考えねばならないか、何ができるかと考えていきたい。
資本主義の制度も民主主義の制度も、考え直す必要があるのではないでしょうか。

そういう時期に来ているのではないでしょうか。

メンテ
現代社会とは ( No.108 )
日時: 2015/09/03 15:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:sxgPEfw2

ヒットラーの予言とは、内容が異なるが、現代社会が直面する大きな問題を取り上げてみましょう。

要するに資本主義と民主主義の現実です。

資本主義体制について、なるほど、過去200年の間、この体制があったこそ、多くの人々は豊かな物質を手にいれることが出来、食料の生産においても、餓死するような事態は避けられています。

しかしながら、ほとんどの人が生きられる為の経済のシステムと言う面から見直してみると、次の様な事態が起きています。

科学技術の目覚しい発達で、生産、流通と言った基礎的な経済行為の実態は、機械化、省力化が進み、多くの人の手に寄らなくても十分な生産が出来る様になりました。

第一次、二次産業に従事する労働者の割合は、50年前のそれより半分くらいとなり、全体の25%まで落ち込んでいます。
現在までは、余剰労働力は第三次産業が吸収している結果になっていますが、それも飽和状態で最近は、先進国でも平均、10%の人が失業状態です。

以前は、失業しても一時的な事として、景気が良くなれな就職出来ていました。
現在のそれは、科学技術の闊達は、さらに進み、グローバル化の流れと共に全ての経済活動の分野で省力化、集約化が求められていて、失業者は増えることはあっても減ることはない状況です。

また経済のグローバル化のおかげて生産拠点と消費拠点がはるか遠方の場合が多くなり、通貨の循環が全体としてもバランスが取れていても、実際の生活圏単位では、生きては行けない多くの人々が発生しています。

各国の政府の経済への考え方は、経済活動を全体として見るばかりで、地域地域に起きている深刻な通貨の不循環の問題を経済の問題としては取り上げません。

その規模は、既に社会福祉政策では補えないほどになっているのですが、問題の本質を理解しようとせずに、福祉予算のカットで乗り切ろうとしています。現在でも財政が困難なのに、将来は福祉政策など一部の人間が対象となり、多くの人々は路頭に放り出されることでしょう。

グローバル化の、もう一つの面は、投機マネーが増殖し、実体経済とはかけ離れた金融問題を引き起こしていることです。
また、同時に、通貨の世界においても、グローバル化、集約化が進み、ユーロ圏の様な試みが好まれています。

世界の国の経済的実力、生活程度も様々であり、それぞれの国に取って、その国家自身がその国合った方法で自立を図ることが一番大切であるのに、経済的な強国は、融資や援助を名目に介入し、グローバル化を強要します。

こうして、グローバル化の影響は、経済の経済たる目的を逸脱し、経済の為の経済のシステムと化しています。
こうした結果、世界中の国が強国、弱国に仕分けされ、また大衆も強者、弱者に識別され、その格差は構造的なものとして固定されていきます。

これがヒットラーも指摘した、人間の社会ではないでしょうか。

さらに、民主主義についても言及したいと思います。

民主主義とは、元来、主権が市民にあると言う意味ですが、現在は、そのようなものよりも、個人の権利、自由が保証された社会であると言う様に受け取られています。

私は資本主義と民主主義は双子の関係と言ってきました。

個人の権利が確保されていないと、資本主義の繁栄はありません。
また資本主義の発達で人々の生活が豊かにならないと、個人の自由など得られません。
そういう意味で、資本主義の発達と民主主義の謳歌は、ここ200年間で人類が勝ち取った偉大な成果であると考えます。

ところで、その民主主義も、資本主義が成り行かなくなれば、ただでは済まないのです。
個人の自由権利と言って、それぞれが欲望を叶えられている間は、干渉されずに生きていけるでしょうが、経済的破綻で個人の権利、自由も主張できなくなった人たちが、豊かな人々の権利、自由と共生できるでしょうか。

自由、権利と言っても、相手が、社会が認めてくれてこその権利であり、自由なのです。

昨今、これを履き違えて、何でも自分の権利だ自由だという人がいますが、同じように隣人にも同じ権利があるとしたら、当然対立も生じることになります。

日本で言えば、1億人が1億とおりの権利、自由を主張して、それが通るようなことは考えられないでしょう。
要するに個人の権利、自由も、一定のルールを守ってこそ、そのルールが守られていてこそ実現できるのです。

ところが、権利だ、自由だと主張する人間に限って、このルールの概念がありません。
そうして、この様な人が随分と増えてきました。

このような、権利意識、自由の意識は脆いものです。
確固たる人間社会の有り様を考えるとき、現在の上面に流行っている民主主義の概念を見直し、共生する為のルールの概念を醸成させて行く必要があります。

このことは、とりもなおさず、お金が全てと言う生活に対する考えかたの修正にも結びつくことができるでしょう。
要するに資本主義の修正は民主主義の修正も伴わなければできないのです。

このスレッドは現代社会というものを、このように認識し、我々は、どの様に対応できるか、対応すべきかを模索するスレッドと考えています。

ヒトラーの予言を、単なる、陰謀として排斥せずに、ヒットラーなどには想像もしなかった、彼の警鐘と受け止めておきたいと思います。




メンテ
人間の本質 ( No.109 )
日時: 2015/09/04 11:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dhV4.NIY

議論を進める前に、人間社会とは、どのように捉えるべきかについて検証しておきましょう。

人間とは、何か! と問いかけるとき、一番、平易で、ロマンチックに言えば、

>美しくも醜くもある。善でも悪でもある。優しくも恐ろしくもある。

とでも、言いましょうか。

自分の身を犠牲にしてまで他者を庇う、博愛精神もあれば、何千万人を虐殺するのも人間です。
人間の我欲は留まるところを知らず、一個人、一集団が世界制覇を目指す。
自然の摂理、生き死にの問題も自由にしようとする。

そのような哲学的な課題は、別にして、人間社会が、ここまで進化してきたのは、人間のあくなき欲求、競争心が基盤にあるからでしょう。

これが他の動物と神様とも違うところです。
ですが、同意に競争に疲れた人間精神は、心の安らぎも求めてきました。
宗教、哲学の世界が、それであり、それによって、生の現実から一時的にせよ、逃れようとしてきました。

競争の苦しさから逃れたいと思う気持ちは、ユートピアの思想として昔から存在してきました。
万物の霊長などと自認している人間も、其れゆえに、常に悩み続けてきたのです。

ところで、この人間の心の悩みが解放されると、どのようになるか、仮定の話に過ぎませんが、生存競争から解放されて人間社会を考えてみましょう。

誰とも競争しなくても、誰でも好きなものが手に入る、好きなことが出来るということになります。
ですが、実際には、誰かが望んだものは、他者の望みと重複したばあい、現在は手持ちの金の多寡で雌雄を決することになりますが、通貨が意味を成さない時代においては肉体的な優劣で強引に決めなければなりません。

先に生存競争と言いましたのは、生きるという意味でのことであり、精神的な面のことは抱合されていません。
通貨を抜きの人間の欲望追求は、恐ろしい時代の到来となるのです。

また、日常生活において自らが働かなくても生きられる社会では、人間の行動の対象は趣味的なものに限られます。
趣味、レジャーの世界というものは、日常の労働があってこその息抜きで、些細なことでも楽しむことが出来ているのです。

人生、80年、勉学の必要もなく、やるべきものもなく、どうして平穏に生きられるでしょう。
人間が神様の様に、欲望を一切持たず、ひたすらに時間の流れに任せて、ニコニコとしていられるでしょうか。
他の動物ならば、まだしも、冒頭に掲げた人間精神が、ユートピアで満足していられるでしょうか。

要するにユートピアは、それを追うことで、現実生活の安らぎとするべきものであります。
ですのでで、ユートピアでなくても、ユートピアを彷彿とさせる、共産主義的な考えかたは非常に危険なのです。

実際にユートピアが実現した時の、人類の悩みは、現代において金銭的格差の悩みの何十倍も深刻なものとなるでしょう。

この様な意味で、私は人間社会から競争心をなくすことを考えてはならないと思います。
もともと、人間は、そのようなもの。
苦しくても、生きるための働き続けられるシステムこと、人間社会が維持しなければならないシステムなのです。

また、働いている時間は、人間の哲学的な悩みも解消してくれているのです。
格差の問題ですが、これも人間社会に格差はあって当たり前。

競争があるから格差が生まれるのです。
ただ、生きることもできない困窮者を救済するシステムが必要なのです。

よって、資本主義のシステム、民主主義のシステムも、私は肯定します。
その上で、必要な修正を加えようとしています。




メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.110 )
日時: 2015/09/04 13:14
名前: 北の国から ID:fE8J0w96

 天橋立の愚痴人間さんこんにちは。

 大江健三郎さんの小説は、たいへん難解なものが多く、読むのにエネルギーがいる
ので、あんまり読んでいないのですが、それでもがんばって読むこともありました。
 大江氏は「田舎でユートピアをめざす主人公」がでてくる小説を書くのですが、そ
れはほとんど失敗してしまうという結末です。そして、人間とは自分たちをコントロ
ールして理想的な社会をつくる能力があるのか?問いているようです。

 実際にはスペインのモンドラゴンのような地域全体の協同組合などが「実験的」に
(関わっている人々は実験のつもりはないのでしょうが)おこなわれているのは良く
しられており、「資本主義でもない社会主義でもない経済のしくみ」の研究者などが
現地にいって「これはすばらしい」などといろいろ本を出してます。が、このモンド
ラゴンも結局のところ、経営難に陥ると労働者の人件費削減(労働者の合意を得てい
るという)など、うまくいかなくなってしまっているようです。
 (生協などが一時たいへんもちあげていたようです)

 「生産手段の指摘所有と、商品の社会性」が、資本主義経済のもっとも基本的矛盾
といろんな本に解説しており、「したがって生産は国家主導で計画的におこなうこと
によって解決をはかる」ということらしいのですが、これは成功したためしがありま
せん。
 もちろん不十分で初歩的な政治体制などもその理由のひとつでしょうが、天橋立さ
んが指摘されているように「人間というものの本質についての研究」が不十分である
のでしょう。
 旧ソ連では、工場長と労働組合と共産党が方針を決めれば、なんでも決まってしま
うという社会の仕組みは、どう考えても崩壊に向かわざるをえなかったのでしょう。

 人間は競争によって成長発展していくという天橋立さんの指摘。ボクもそう思いま
すが、肝心なのはその競争の中身(きっかけと目標)が問題なのでしょう。だからと
言って「正しい競争と、不正の競争がある」という単純でないことも確かです。

 たとえば、ボクも軽自動車で走るよりも、ランドクル−ザーを運転しているほうが、
(税金も保険料も燃費もバカ高いけど)ハッピーななれるということがあります。
(ランドクルーザーは持っていませんが)

 技術にしても、旧ソ連の医療は「ほとんど無料(無差別、平等)」ではあっても、
その医療技術レベルは悲惨なものであったことが知られています。

 つまり、一生懸命に働けば、その分生活が良くなる、ということが人間にとって、
かなり重要なことであるべきなのでしょう。

 ところが、実際には(人間はどういう家庭に生まれてくるかは選べない)生まれた
家庭環境によって、人生の大きいところが制限されきまってしまうという社会的な理
不尽さがあります。とくに、どんなに無能な人でも大企業のオーナーの家に生まれれ
ば、高いレベルの生活ができるようになっています。

    つづく
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.111 )
日時: 2015/09/04 14:06
名前: 北の国から ID:fE8J0w96

 したがって、ある程度まともな資本主義とその政治体制を考える場合、この理不尽さを
解消していく仕組みを考える必要があると思います。

 まともな知識人(加藤周一氏など)でも、猛烈に勉強しているものの(もちろん実践の
面でも相当がんばっていますが)、一般には、生産現場で働いたことがないということに
よって、生産現場で働いている(農業でも建設現場でも工場でも営業でも医療現場でも)
人びとと、どうも根源的な乖離があり、知識人が労働者、国民に支持されずらいという面
があるらしいのです。

 (この掲示板の投稿される方々は、現役のかた、過去にマスコミ関係で働いておられた
など、実践的理論がほとんどですね)

 まず、教育や医療などに「効率」という概念をできるだけもちこまないような仕組み。
 財政赤字団体に指定された夕張市では、小学校も統廃合され、通学がたいへんになって
いるそうです。スクールバスの運行などで(大きな経費はかからない)、まともな授業を
うけられるようにどうしてならないのでしょうか。
 北海道は過疎地域が多いので、高等学校もどんどん統廃合されています。こんな理不尽
な資本主義国は、他にあるのでしょうか。どこの資本主義国も教育にはたっぷり予算を使
っているようです。
 もうひとつは医療ですね。
 過疎地域に生まれた子どもは、小児科もない。医療費補助もない。
 病院などは医者に経営させていたのでは、うまくゆくはずがなく、どういう組織をつく
って医療機関を運営するか。
 この研究が、たぶん国全体の「企業のしくみをどうするか」という大きなヒントになる
と思っています。

 資本主義社会を「出来るだけ理不尽を少なくする」のは、選挙制度ではないでしょうか。
日本のように、3割の得票で7割の議席を得て、好き放題できるなどは論外ですね。
 しかし、どんな優れた精度であっても、投票所に行く人々の「民度」がたかまらないと
意味をなさないというきびしい問題もあります。

 ただ、全体として言えることは、人間というのはまちがいなく不完全なものであって、
「いい家に住みたい、いい車に乗りたい、たまにはおいしいもを食べたい、暖かい家庭に
めぐまれたい」というわりとまともな要求から、エスカレートするようにつくられている
ようです。
 しかしながら、これを政治がコントロールすべき、とすると必ず悲惨な国家ができあが
ってしまのですね。

 山田洋次さんの寅さんの家庭は(人間愛がテーマなのでしょうが)、どんな小さな「理
不尽さ」でも、敢然とたたかっていくという共感性がすばらしいですね。

 こういう価値観を地球上の人類が共感できるといいのですが。

 結論のない変な投稿になってしまいましたが、今後もまた考えて行きたいと思います。
メンテ
未来社会を考える  ( No.112 )
日時: 2015/09/04 18:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:/I/dBsto

北の国から さん

このスレッドは現実から少し先へ行こうとしています。
あっちえ飛び、こっちへ飛びますが、ご理解願います。

先のレスの中で、
何気なしに仰った言葉と思いますが、

>つまり、一生懸命に働けば、その分生活が良くなる、ということが人間にとって、
かなり重要なことであるべきなのでしょう。

名目は、それで良いとしても、実際に人々の努力に比例して成果が上がるという事も、実はたまらなく窮屈なシステムなのです。
実際には、そのようなことにはなりませんが、人間は競争していなければならないと言いましたが。

その競争の仕方にも不公平があって良いのです。
私なども、気持ちの上では、もう少しマシな生活ができているはずであると言う自負を持っていますが。

今の位置、片田舎のしがない建築士で何とかしのげているだけの立場を、私の人生は運に恵まれず、コネもなく仕方がなかったのだと、それで納得して平穏に生きています。

私でなくて、最下層に苦しんでいる人たちも、それを全て自身の責任だというのは酷ではないでしょうか。
ですので貧富の差ばかりでなく、不公平も容認しています。

寅さんの話をされていますが、富や名誉、知識の多寡だけが、人生ではないようですね。
そのような立場で見れば、貧富の差、公平性など、大した問題ではないのではありませんか。
人間の生活は、1/3は寝て、1/3は嫌でも仕事をして、1/3は楽しむ。
このバランスが必要かと思います。

週休3日制にもなると、もう余暇の過ごしかたが苦痛になるのではないでしょうか。
ところが、グローバル化した経済において、物質的に豊かな現代において、人生の1/3を働くと言うことが難しくなりそうです。

何が、危機と言って、これが一番の危機ではないでしょうか。
未来の社会の大筋は、何とかして殆どの人が生きるために働かねばならないという環境を作り出す事と思います。
そのような社会を作るために何をしなければならないかがテーマです。

このあと、もう少し議論を続けて行きたいと思います。
メンテ
通貨発行権の問題 ( No.113 )
日時: 2015/09/04 22:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:/I/dBsto

再び、未来社会の有り様を考えましょう。
一般的に、未来社会でネットを検索しますと、科学技術の発達で夢のような生活を言っていますが、そうではありません。

現実の社会の矛盾を、どのように克服するかの問題です。

未来の社会の大筋は、何とかして殆どの人が生きるために働らいている。
働く場所が確保されているという社会です。

しかしながら、実際には多くの人が働く場所を失っているのが現実です。
その上、グローバル化は、ますます、その傾向を強め、もはや経済活動の中で、現行のシステムの中では、そのような状況は考えられません。

そこで、どのようにすれば雇用が増えるかと言うことですが、今まで紹介した資料でも、多くの方が公共事業の事を言っています。
もっと考えれば、それ以外の方法もあるかもしれません。
ここは論を進めるために公共事業に限って進めます。

始原的な問題は別としまして、公共事業の対象は無尽蔵と言えるほどあります。
ないのは、公共事業を行う財源です。

公共事業によって雇用を確保すると言っても、無制限にする訳ではありません。必要最小限の範囲であり、常にそれ以外の雇用を生む産業の育成に努めることが前提です。

こうした見地に立って財政問題を見たときに、それを不可能にしてるのが現行の経済理論、金融理論なのです。
しかしながら、それが絶対的なものかと言えば、全く、そうではないのです。

これも今までやってきましたが、通貨の価値の担保とか、通貨は国家が跛行してはならないとか、国家の債務の限界の基準とか、それらは、全て目安にすぎず、数学の方程式のような絶対性などないのです。

そこで、とりあえず、まったく違った角度からの通貨の理論に挑戦してみましょう。




「人類史上空前の快挙、通貨発行権を取り戻したハンガリー」

http://blog.goo.ne.jp/oribeizum/e/414b6f0e7b8e035582ad2a4c7a415e0e

国家が国家運営のために自国の中央銀行から借金させられるというユダヤによる通貨発行権簒奪式財政運営が、いずれ必ず破綻することは、アメリカそして我が国を見れば明らかです。
アメリカ国家は、天文学的な負債を中央銀行にあたる連邦準備銀行(FRB)から負っています。日本国家も国債発行による負債が1000兆円を超えました。これらは返済できるレベルをはるかに超えており、さらに、今後利息の支払いが加速度的に増加することを考慮すれば、破綻する以外に道はありません。

日本やアメリカだけでなく、ロスチャイルド中央銀行がある国々では国家財政が赤字だらけです。
恐ろしいのは、そうした国では殆どの人が、それが国家の放漫財政によるものだと思い込んでいることではないでしょうか。

国家を運営するにはお金が必要ですが、それは必要経費であり、必ずしも戻ってくる性質のものではありません。必要なときは、ケチらずに注ぎ込むのが正しいと言えます。しかし、ユダヤはメディアを使って財政赤字があたかも悪いことであるよう喧伝します。国家財政が赤字であるか黒字であるかなど、実はそれほど重要でなはないと思えてなりません。
そして、不足する財政をずーっと借金して賄おうとさせるから巨額の負債を負うことになってしまいました。

永続的に借金に頼る財政というのは根本的に間違ってないだろうか?
では、どうすればいいのか?

簡単です、政府がお金を発行すればいいだけです。
政府が発行したお金で国を運営する、何か問題がありますか?
発行量をきちんと制御する仕組みを作れば、できないことではありません。

元々、通貨を発行する権利は国家に帰属すべきです。通貨の信頼は、国家の信頼に基づいているので当然のことです。
そんな当然のことが当然でなくなっているのが、ユダヤの簒奪システムに取り込まれた自由主義国といわれる実は自由ではない国々です。

かつて、通貨発行権という国家が持つべき当然の権利を行使した為政者がアメリカにいましたが、いずれも殺されています。直近ではJ.F.ケネディさんです。
ユダヤの力の源である通貨の権利に触れる者は、何人であれ悲惨な目に遭います。
自由主義国家で最も触れてはならないタブーの中のタブー、それが通貨発行権です。

シリアにはロスチャイルド中央銀行がないそうですが、ユダヤが今必死になってシリアを落そうとしている最も大きな要因は、シリアにユダヤ支配の中央銀行を設立して、金融で国を乗っ取る為ではないかと想像されます。
奴らにとって、ユダヤ簒奪システム以外で上手くやっている国は放置できません。シリア攻略が上手くいけば、次は必ずイランを攻めるでしょう。このまま、奴らの蛮行を許せば、本当にNWOが実現してしまいます。

しかし、世界がユダヤ簒奪システムに覆い尽くされようと言うこのご時世において、果敢にも反旗を翻す国がありました。

◆8月28日

 ハンガリーが政府発行通貨で経済を立て直しているようだ。銀行から借金をすれば利息を支払わねばならなくなる。であるなら、国家主権を発動しての通貨発行を断行すればよいということで、勇気あるハンガリーの首相がそれを実行しているという。

 これは小さなことのように見えて、これからの世界経済に多大な影響を与えていく、世紀の大事件となりそうだ。通貨発行を民間が支配ないしは影響力を及ぼす「中央銀行」という名の民間銀行に任せ、国債を買ってもらう事で利息を支払うというシステムから、無利息の政府発行通貨で、経済を回す、ということが可能だということを証明したことになるからだ。

 このブログでも、安倍政権に対する要請として、2012年12月17日号「大震災復興から、日本列島イーハトーブ化へ」で示したように、政府発行通貨を断行してもらいたいのであるが、やはり以下の記事で言われている金融的専制が束縛しているのであろう。

 これからの世界は、この世界経済上のさまざまな状況が天変地異とあいまって、世界大混乱の様相を呈するようになっていくであろうが、それもこれも、新しい世界を生み出すための産みの苦しみである。人類がどうしても通過せざるを得ない路程なので、腹をくくって臨まねばならない。


●ハンガリーは銀行の足かせを捨て去る

http://americanfreepress.net/?p=12418
【8月23日 American Free Press】

 ハンガリーは一級の歴史的ステップを踏みつつある。

 1930年代のドイツ以降、ヨーロッパの主要な国がロスチャイルドが支配する国際的銀行カルテルの支配から逃れようとすることは無かった。これは驚くべきニュースであり、金融的専制から自由になるための戦いを世界的に拡大させるよう愛国的民族主義者に勇気を与えるものとなろう。 
 
 既に2011年、ハンガリーのヴィクトール・オルバン首相は、国際通貨基金(IMF)とテロ国家のイスラエルのの鞭の下に、無限に続く債務にあえぐ奴隷状態に国民を売り飛ばした彼の社会主義者の前任者に対して、正義で応えると約束していた。以前の行政は責任ある立場にあるイスラエル人によって穴だらけにされていたため、大衆の怒りを買い、それで大衆はオルバンのフィデス党を選択した。
 
 ドイツ語サイトの「National Journal」によれば、オルバンはこの高利貸し達を彼らの王座から追い出す動きを始めた。この人気があり民族主義者である首相はIMFに対して、ハンガリーはロスチャイルドの所有する連邦準備銀行の代理者から、更なる「支援」を受けたいとも思わないし必要ともしていないと告げたのだ。これでハンガリー人は民営で訳の分からない中央銀行に高利を搾り取られることがなくなることだろう。

 その代わりに、ハンガリー政府は通貨に対する主権を発揮し、必要に応じて負債なしの通貨を発行する。その結果は顕著なものである。国家の経済は、以前は債務のために停滞していたものだったが、急速に回復しつつあり、国家社会主義のドイツ以来見られなかったものになっている。

 経済大臣は、厳格な予算政策のお陰で、IMFから借りていた22億ユーロは約束の2014年3月よりかなり前倒しして2013年8月12日に支払いを済ませたと宣言した。オルバンは「ハンガリーは投資家から信頼を得ている」と語り、それはIMFでも連邦準備銀行でも、その他のロスチャイルドの金融帝国の手先のことではないと語った。むしろ彼は、それはハンガリー人のためにハンガリーで何かを製造している者たちで、真実の経済成長を生み出している者たちのことを言っているのだ。これは、金権政治の海賊どもの「紙上の繁栄」ではなく、実際に人々を雇用し彼らの生活を向上させる何らかの生産的なものである。

 債務奴隷の足かせ生活から解放されたハンガリーなので、私的な金儲けではなく民間の福利厚生のために政府によって機能するハンガリー中央銀行の会長が、IMFに対して古いヨーロッパの地にあるその事務所を閉鎖するよう要請したことは驚くに値しない。加えて、アイスランドの努力に共鳴して、司法長官が過去三人の首相に対し、多大な負債を国家にもたらしたことで訴訟を起こした。

 ハンガリー内の銀行家らの権力を根底的に破壊するであろう残りのステップは、国家社会主義のドイツにあったような、そして現在ではブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ、つまりBRICS諸国が行っているバーターシステムを導入することである。そしてもしもアメリカがハンガリーの動きを真似るならば、アメリカ人はこの高利貸しの専制から解放され、平和的な繁栄が戻ってくることを期待できるだろう。

転載終了

何気に凄いニュースです。そして、久々に良いニュースです。
ヨーロッパのど真ん中で謀反を起こされたユダヤは怒り心頭に違いありません。恐らく全身全霊で潰しにかかるでしょう。
しかし願わくば、これが世界中に飛び火して、1% VS. 99%の戦いがいたるところで発生して、ユダヤ簒奪システムが大崩壊を起こすことを祈ります。


(引用おわり)

他にも通貨発行権は国家にあるべきという意見があります。
それも、後で紹介します。

メンテ
通貨発行権の話 2 ( No.114 )
日時: 2015/09/05 10:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ESQ7rU2g

50年後に国の借金8000兆円?なら国債を廃止せよ

https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/nekodemowakaru-jing-ji-yong-yu/50nian-houni-guono-jie-jin8000zhao-yuan-nara-guo-zhaiha-fei-zhiseyo

<50年後に国の借金が8000兆円になるというなら、それは制度そのものが問題>

Q:財務省の「財政制度等審議会」で、50年後に国の借金が8000兆円になるとか試算したらしいにゃ。それをマスコミがしたり顔で報道してるけど、何か意味あるのかにゃ?増税を正当化するために財務省とマスコミが組んでいるだけとしか思えないにゃ。

A:まったくじゃな。今回はワシも相当に頭に来た。8000兆円などという非現実的な数値を、臆面も無く堂々と出されると、ワシとしても「なら、国債という制度そのものを廃止すべきじゃ」と言いたくなるのう。つまり国債という借金財政制度は危険で欠陥があり、債務によって国家を運営するというやり方そのものを変えるべきという発想が生まれるというわけじゃ。そもそも通貨発行権を有する「国家」が、なぜ借金をする必要があるのか?

Q:なるほど、通貨発行権を有する国家が、わざわざ借金して首が回らなくなるのは滑稽にゃ。こういう馬鹿記事を読むと、そういう根本的な疑問がふつふつと沸くにゃ。

A:所詮、財務省は「経理係」にすぎん。カネの足し引きという発想しか頭にない連中なのじゃ。経理係が会社で力を持つと会社がつぶれるし、政治において力を持つと国家が破綻する。なぜなら、会社の場合であっても国の場合であっても、「経理係」には経営能力がないからじゃ。

<小学生でもわかる試算の非現実性>

Q:でも、本当に借金が8000兆円になるのかにゃ?

A:ほっほっほ、あり得んな。そもそも前提がおかしいのじゃ。少し考えれば小学生でもわかるじゃろう。

Q:たとえば?

A:まず、前提となる経済成長率じゃが、実質2%、名目3%という数値がおかしい。日銀がインフレターゲットを2%としておるのじゃから、名目は4%になるはずじゃ。つまり、あろうことか金融政策を無視した数値を前提としておるのじゃよ。さらに言えば「成長率を高めに設定した」というが、それは嘘じゃ。なぜなら実質成長率の拡大が難しくとも、金融緩和だけで名目成長率はコントロールできるからじゃ。名目成長率はインフレ率に連動しており、インフレターゲットを3%に設定するなら、この場合の名目成長は5%という事になる。高めの設定といえば、名目成長3%ではなく、5%というところじゃろう。こんなのは財務省お得意のまやかしじゃな。ちなみに税収は名目に連動するので、金融緩和するだけで税収は増加する。米国FRBのやった事と同じじゃ。

Q:また財務省のまやかしにゃ。他にはあるかにゃ?

A:そもそも債務残高が8000兆円になるまで国債が売れ続けるという前提がおかしい。現在はおよそ1000兆円程度じゃが、その金額でも国債が暴落するとか騒いでいるのに、同じような連中が「8000兆円になるまで国債が売れ続ける」というのは矛盾しとるというか、お笑いじゃ。8000兆円になる前に国債の買い手が付かなくなる。誰が買うのじゃ?そして、もし買い手が最後まで付くとすればそれは「日銀」を置いて他にはない。もし日銀が直接に国債を買い入れたなら、その場合の国債発行は通貨発行と同じ意味になる。日銀の資産と政府の負債は相殺されてしまうから、国民の借金にはならないのじゃよ。

A:前にも言ってたにゃ。日銀が国債を買い取ることは、通貨発行と同じ意味なんだにゃ。他には?

Q:債務残高が8000兆円になると、財政破たんする前にインフレで経済が破綻するじゃろ。そんな事すら気付かんとは、まさに大笑いじゃな。8000兆円も債権を発行するという事は、8000兆円のカネが世の中に出回るという事じゃ。政府が債務(つまり借金)を抱えれば、債権(つまりおカネ)は個人か企業が保有することになる。おそらく個人の金融資産は5000兆円になり、企業の内部留保も3000兆円くらいになるんじゃないか。国家のバランスシートから言えば、そういう話になる。そんなカネが動いたらとんでもないインフレになるじゃろ。

ところで、ハイパーインフレになったら、借金の実質的な負担は大きく減る。つまり、額面100万円の国債だとしても、物価が100倍になったら、実際の価値は1万円になってしまうというわけじゃ。つまり、ハイパーインフレになると借金の返済が楽になる。仮に国債の残高が8000兆円に膨れ上がったとしても、物価が100倍になると実質的な負担は100分の一になる、つまり、80兆円じゃな。ずばり、国債を買っていた連中が大損というわけじゃ。実際にイギリスではインフレにより政府の債務が半減したとの実例もあるらしい(1945年から1950年代にかけて)。

<カネの収支しか理解できない財務省の知能>

Q:なんで財務省はこんなバカな試算しかできないのかにゃ?

A:財務省は「経理係」に過ぎんからじゃ。人間というのは、巨額のカネをあつかっていると、カネの影響力に惑わされ、すっかり気がでかくなって、偉くなった気分になるのじゃ。じゃが、彼らは何一つ生産的な事はできん。技術革新も生産性向上も出来ん。経理にとっては「帳簿」がすべてじゃ。帳尻を合わせる事が究極の使命であり、国家の浮沈など二の次じゃ。じゃが、経理とはそういうものじゃ。経理が悪いのではない。むしろ経理に国家運営を左右されるような仕組みそのものがおかしいのじゃよ。財務省に強大な権限を与えておる今の政治のしくみにこそ問題の根本がある。

<国債を廃止し、通貨発行と金融資産課税で国家運営を行うべき時>

Q:財政を借金で運営するという、今の制度は限界があるのかにゃ。

A:そうじゃな、ワシはそう思うとる。特に国の借金8000兆円という馬鹿げた試算を聞いて確信した。「国債という制度」そのものに欠陥がある。なぜ将来の世代に借金を残してしまうのか?国債を発行するからじゃ。なぜ国債を発行するのか?社会を支えるためにはおカネが必要なのじゃ。そして、どのみちおカネを都合しなければならないなら、それは借金でするのではなく、通貨発行ですべきという事じゃ。

Q:それは「禁じ手」とマスコミが騒ぐにゃ。

A:ほっほっほ、禁じ手というのは「思考停止」の常とう句に過ぎんのじゃよ。考えてもみたまえ。国債を発行し続け、それを民間に売り続ける事で社会を維持するとどうなるか?将来の世代に借金を残すだけでは済まないのじゃ。「投資家の顔色をうかがう国家運営」に陥る危険性が高い。いや、すでにそうなっとる。「投資家の信用が〜」としたり顔で言う評論家の多いこと、そして政治家も「市場の信頼が〜」と言っている。国家より投資家が強いのだ。投資家が国債を買ってくれないと社会が維持できないなど、健全な社会とは言えないじゃろう。

Q:そうにゃ。にゃんで通貨発行権を持つ国家が投資家に「カネで」コントロールされなきゃならないのにゃ。おかしいのにゃ。社会を維持するためにおカネが必要なら、借金ではなく、通貨を発行すればいいにゃ。

A:そうじゃ。通貨を発行すればインフレになるというが、そもそも国債を発行しても同じことじゃ。なぜか?インフレになるかどうかは、生産と消費の活動に投入されるおカネの量、つまり循環するおカネの量に左右されるのじゃ。じゃから、その出所が通貨発行であろうと、使われずに貯め込まれているおカネを国債発行で借りてこようと、同じ金額を市場で使うのじゃから同じ事なのじゃ。どのみち、循環するおカネの量が増えればインフレになる。

Q:そうにゃ、国債はやめるにゃ。でも、通貨発行をどんどん続けてもいいのかにゃ?

A:もちろん通貨発行量を最低限に抑えるため、同時に他の手段も打つべきじゃ。それが「金融資産課税」じゃ。国債を発行する目的の一つに「使われずに貯め込まれているおカネを社会に循環させる」という事がある。しかし借金という手段を用いて「使われずに貯め込まれているおカネを社会に循環させる」のには限界がある。だから国民が生活防衛のために貯めている貯金などの金融資産は別として、資産家や大企業が膨大に貯め込んでいる「使わないカネ」に課税すれば、消費税などより遥かに安定した財源にすることができる。そうすれば「「使われずに貯め込まれているおカネを社会に循環させる」ことができる。逆に「循環しているおカネ」への課税は減税すべきじゃな。所得税や法人税、消費税などは減税じゃ。

Q:資産家や大企業の資産に課税すると困るんじゃないかにゃ。

A:大丈夫じゃ。第一に発行した通貨の多くは最終的に資産家や大企業に貯め込まれてしまうからじゃ。資本主義経済とは「資本が増大する」ことが原動力となって動くシステムじゃ。つまり資本を多く持つ者に多くのおカネ(資本)が集まるシステムになっておる。従って、発行した通貨の多くが資本のある者に集まる。そして貯め込まれて動かなくなる。じゃから貯め込まれたおカネに課税しければ、発行した通貨は永遠に資産家の財布に貯まり続けるだけじゃ。じゃから税率2〜3%程度を課税したからといって、資産家が潰れるはずはないのじゃ。

第二に課税するのはあくまでも「貯め込まれたおカネ」じゃ。たとえば企業がおカネを使って生産設備に投資したり、研究開発に投資しておカネをどんどん使うのは良い事じゃ。じゃから、企業の利益には課税しない。逆に法人税は減税するのじゃよ。しかし利益を貯め込むのであれば、世の中の役に立たない。企業がカネを寝かせてはダメなのじゃよ。じゃから企業が稼ぐ活動はどんどん支援するが、貯め込むのはダメという話じゃ。どんどん投資する企業はカネを貯め込んでいないから、課税されてもそれほど問題にならないはずじゃ。

Q:通貨発行を財源にすると、放漫財政にならないかにゃ?

A:確かにそうじゃ。財務省にこんな権限を持たせると際限なく財政予算枠を増やし続ける危険性もある。歳出額の上限を決めなければならんじゃろう。これは、たとえば国内総供給力を金額換算した際の一定比率を上限とすると良い気がする。つまり潜在GDPのことじゃな。国内の供給力を遥かに超えた通貨を供給するとインフレが生じるから、それに気を付ければ良いのじゃ。

Q:実際に国債廃止するにはどう進めるのにゃ?

A:そうじゃな、今後は新規の国債は発行せず、政府紙幣を発行する。政府通貨と言っても今使っている紙幣と別の紙幣を作る必要なはい。今の紙幣を「政府通貨」という建前で政府が直接に発行すれば良いだけじゃ。もちろん、金融資産課税の創設も同時に行うべきじゃな。

<インフレより生産力のほうが大切>

Q:それでもマスコミがインフレ、インフレって騒ぐ気がするにゃ。

A:インフレを過度に恐れる必要はない。インフレになったからと言って生活が苦しくなるわけでは無いからじゃ。以前にも述べたが、モノの値段が上がっても、モノが世の中に豊かに供給され、人々にそれを買うだけのおカネが供給されるなら、貧しくなることは決してありえないのじゃ。つまり、豊かさとはモノの値段の高い安いではなく、市場で供給されるモノの量と人々に分配されるおカネの量によって決まるのじゃよ。

Q:市場に商品がたくさんあって、人々にも給料がたくさん支払われれば、物価が高くても問題ないにゃ。でも、そんなことってあり得るのかにゃ?

A:それは、ひとえに「日本の生産能力」にかかっておる。至極当然じゃが、生産力が高ければ高いほど多くのモノを生み出すことが出来るから、社会は豊かになる。生産能力こそが重要じゃ。仮に財政が健全化しても、それは帳尻の問題に過ぎん。日本の生産力が衰退すれば、財政が健全でも国は亡びるのじゃ。逆に通貨発行で財政を支えても、日本の生産力がどんどん拡大すれば心配はない。人々の需要を満たす生産力を日本は維持することができるか?それがすべての基本じゃ。

断言できる「カネは刷れば済む話だ。」じゃが生産力は違う。

Q:そうだにゃ〜、日本の危機は財政破綻なんかじゃないのに、本当に財務省もマスコミもピンボケなのにゃ。あきれてものが言えないにゃ。完全に頭が「おかね」に支配されて本質がわからなくなってるのにゃ。

A:そうじゃな、しかし、それは財政の話だけではない。グローバリズムも中国問題も、おカネに支配された思考パターンから一歩外へ出てみると、実はまったく違った視点から考える事ができるのじゃ。頭がおカネに支配されたままでは、その枠でしか物を考える事ができなくなる。財務省を見ていると、まさにその事に気づかされるのじゃよ。
メンテ
通貨発行権の話 3 ( No.115 )
日時: 2015/09/05 10:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ESQ7rU2g

政府通貨と国債の日銀引き受けは同じ

https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/nekodemo2/hikiuke_onaji

Q.(ねこ)

政府通貨はとても有効だと思うけど、反対も多いし実現がむずかしいんじゃないかにゃ。

A.(じいちゃん)

まあ政府通貨といっても今までと同じお札(日銀券)をそのまま使うやり方もあるんじゃが、ちとややこしい。拙著(金融緩和の天国と地獄)に書いておるから興味があれば読んでみて欲しい。さて今日はその方法ではなく、政府通貨を発行しなくても日本銀行が国債を直接引き受ければ同じ効果があるという話をしよう。

Q.(ねこ)

へええ、日銀が国債を直接引き受けると政府通貨の発行と同じ効果があるのかにゃ。だったら国民に馴染みの薄い政府通貨ではなくて日銀引き受けという手段もありだにゃ。それってどういう方法かにゃ。

A.(じいちゃん)

前にも話したが、日本銀行が現金つまり日本銀行券を発行する方法として、主に国債の購入と民間銀行への貸し付けによって現金が発行されている。これは日銀のバランスシートを確認すると誰でもわかる。2014年9月のデータで言えば、国債が約230兆円、銀行への貸し付けが30兆円ある。一方で現金としては銀行券が約86兆円、当座預金が166兆円じゃ。日銀は主に国債を買うことで現金を発行し、それを民間銀行に供給しておるのじゃ。ちなみに現在日銀が金融緩和政策として行っているのは、民間銀行の保有する国債を買い取って、その代金として現金を発行して民間銀行に支払っておるのじゃよ。

Q.(ねこ)

にゃんだ、日銀は結局のところ民間銀行から国債を買い取って、その代金として現金を発行しているのにゃ。だったらそんな面倒なことをしないで、最初から政府が発行した国債を日銀が買って現金を発行すればいいにゃ。

A.(じいちゃん)

ワシもそう思う。しかし実際には政府が発行した国債を直接買い取ることは、基本的に行われていない。あくまでも民間銀行などが政府から買い取った国債をあとから日銀が買い取る。しかしどちらの方法でも日銀の帳簿上はほとんど違いがない。では日銀が民間銀行から国債を買い取る場合と政府から直接買い取る場合で何が違うのか。

まず、民間銀行が保有する国債を日銀が買い取った場合、その時に発行した現金は銀行に渡る。そのあと「銀行が誰かに貸し付け」することで初めて世の中(民間非金融部門)に流れ出す。つまりこの場合は世の中におカネが流れ出す時は必ず世の中の借金が増えることになる。

一方で政府が発行した国債を日銀が直接買い入れた場合は「そのまま」世の中に流れ出す。なぜなら日銀が発行したおカネはそのまま財政支出として公共投資や社会福祉などに使われて世の中に流れ出すからじゃ。つまりこの場合は世の中におカネが流れ出しても世の中の借金は増えないんじゃ。

Q.(ねこ)

なるほど、民間銀行が保有する国債を日銀が買い取る方法、つまり現在行われている金融緩和政策の場合は、世の中のおカネが増える時には必ず世の中(民間非金融部門)の借金も増える。もし政府が発行した国債を日銀が直接買い取ったら、世の中のおカネは増える時にも世の中の借金は増えないんだにゃ。
A.(じいちゃん)

ついでに言えば、もし日銀が国債を直接買い入れたとしたら、その時に発行した現金はそのまま財政支出として使われるが、その後、そのおカネは企業や家計にどんどん流れて生産活動を次々に刺激して、最終的には誰かの貯蓄として退蔵されることになる。そしてこの貯蓄は銀行の貸し付け原資となるのじゃ。つまりこの段階になると、民間銀行の国債を日銀が買い取ったのとほとんど同じ状態になる。つまり難しい言葉で言えば、ベースマネーが増えるのじゃ。このベースマネーを元に銀行が預金を発生して誰かに貸し付ければ、おカネが世の中に流れ出す。

Q.(ねこ)

にゃんだ、だったら銀行の保有する国債なんか買わないで初めから政府から直接買えば、財政投資にも使えるし、そのあと民間銀行の貸し出しにも使えるにゃ。一石二鳥なのにゃ。

A.(じいちゃん)

まったくワシもそう思う。しかも日銀引き受けで生まれた現金は政府の借金も増やさない。前にも説明したが国債は政府の債務ではあるが日銀が保有しているため、事実上、政府の借金にはならない。だから日銀が保有する国債で裏付けられたおカネを国民や企業が貯め込んだとしても、財政が破綻する心配はまったくない。将来世代の負担にならない。じゃからこのおカネは「政府通貨と同じ」役割を果たすのじゃ。

Q.(ねこ)

でも政府の発行した国債を日銀が直接引き受けるとおカネが増えすぎてハイパーインフレになると盛んに主張する人たちがいるのにゃ。

A.(じいちゃん)

心配ない。みんな貯蓄が大好きなので、おカネが手に入っても貯め込んで使わないからじゃろう。そもそもみんながおカネをもっと使っていたら、とっくの昔にデフレは解消しておる。それに日銀が発行しなくても民間銀行がバンバン預金というおカネを作っておるわい。じゃから日本の株価がどんどん上昇しておるのじゃよ。

国債を日銀が直接引き受ける際に発行した現金も、民間銀行が貸し付けの際に借金として作り出した預金も、同じおカネの機能をもっておる。どのみち貯め込むのであれば同じことじゃよ。ただし民間銀行が借金として作り出したおカネは、誰かが貯め込めば貯め込むほど、世の中の借金がバブルのように膨らむ。だから金利が上昇するとおカネを借りている人が破綻する。一方で日銀が国債を直接引き受けして作り出したおカネは、どれほど貯め込んでも世の中の借金は増えない。誰も困らない。

もしハイパーインフレの可能性があるとすれば、銀行が信用創造で預金を勝手にどんどん発生させてバブルを引き起こした場合じゃ。そのような問題に対しては、銀行の信用創造を制限するために預金準備率を引き上げすれば簡単に対処できる。それでも心配なら預金課税を創設して、しこたま貯め込んでいる金持ちの預金を吸い上げれば良いのじゃ。簡単じゃ。

おカネは単なるルールじゃから、景気活性化の方法も財政再建の方法も手法は考えればいくらでもある。もちろん方法によってメリットやデメリットはある。しかし多くの方法を知れば知るほど選択肢は広がるはずじゃ。しかし多くの人がそれを知らない。なぜなら増税に都合の悪い情報を財務省が抑え、マスコミが必死に隠しておるからだと思う。もしそうでなければ、マスコミはもっと多くの可能性について報道しておるはずじゃ。

決してマスコミを信用してはいかん。自分の頭で考えなければ騙されるだけじゃ
メンテ
通貨発行権 4 ( No.116 )
日時: 2015/09/05 11:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ESQ7rU2g

さて、ここで目先を変えて見てみましょう。

経済の理論には、リフレ派と言う考え方があります。

リフレ派とは

緩慢なインフレを継続させることにより、経済の安定成長を図ることができるとするマクロ経済学の理論を喧伝、もしくは政策に取り入れようとする人々のこと。
リフレーションとは再膨張の意で、経済学的には景気循環においてデフレーションから脱却してマネーサプライ(通貨供給量)が再膨張し、加速度的なインフレーションになる前の段階にある比較的安定した景気拡大期を指す。リフレ派の主張は、政府・中央銀行が数パーセント程度の緩慢な物価上昇率をインフレターゲットとして意図的に定めるとともに、長期国債を発行して一定期間これを中央銀行が無制限に買い上げることで、通貨供給量を増加させて不況から抜け出すことが可能だとするもの。


アベノミクスの「第一の矢」そのものではありませんか。

ですが、これは金融面で資金を投入すれば、それだけで景気が回復するという、マネタリストの言い分に過ぎません。

また、その財源として、税収以外のものが資金として投入されています。
直接的でなくても、財源不足を国債で賄うという考え方は、通貨の増刷にほかなりません。
こうして累積したのは1000兆円の借金ですであり、まだまだ増加し続けているのです。

同じ通貨の増刷でも、給付という増刷は、蛇蝎の様に忌み嫌われています。
本当に、そうなのか、これを、このスレッドでは検証したいと思っています。



話を元へ戻しまして、何故、国家が通貨発行をしないかということです。

実際は通貨の増刷は常時、続いているのです。

その原因は、むやみな通貨の増刷はハイパーインフレを招くということにあります。
実際に、戦争の為の財源として多額の通貨の発行をしたり、単なる景気対策としてやったために、通貨の価値が下落して通貨の意味を成さなくなった例が結構あります。

これに対して現在は、通貨発行権は中央銀行が持っているのが普通です。

中央銀行の機能とは、

中央銀行は政府から独立しており、金融に関して独自の判断をするという位置づけを与えられている。政府から独立した存在であることが求められるのは、政府が通貨価値の保持を怠り、目先の諸問題に対応することを避けるためである。

と規定されています。

現代社会は、この中央銀行制度によって世界中の通貨を安定させ、貿易を拡大し、グローバル化を進め現在の発展を築いてきました。

しかしながら、ギリシャ問題で明らかになった様に、世界各国の経済状況は、マチマチです。
グローバル化したとは言え、日常おいて、人々は相変わらず周囲の生活圏での経済活動によって生活しています。

地域は地域の事情によって経済問題と取り組まねばなりません。
国家単位でも同じことです。

ユーロ圏の統合は、グローバル化を目指す経済にとっては有益であっても、それが庶民の生活までを担保してものとは言えないでしょう。
そのに対して、国家と言うものは、全体のこととは別に自国の有り様も念頭に置かねばなりません。
グローバル化の流れに乗り遅れまいとする気持ちが、結局は自国の経済を守れず破綻することになります。

一方、発展途上は、先進国からの投資と言う甘い誘惑によって、無理矢理にグローバル化のシステムに組み入れられてしまいます。
そこでは、日本が明治、大正時代に経験した、国民による国の隅々に行き渡る国づくりが出来ません。

問題の国では、国家としての経済計画をし、必要であれば通貨の増刷をして国作りも出来るのですが、グローバル化のシステムに組み込まれているので、それによる不利益を重視し、それが出来ません。

ですがグローバル化と言うものは、もともと弱肉強食の理論、結局は発展途上国に未来はないことになります。
このように経済のグローバル化は金融面で中央銀行システムが支えているのです。

中央銀行の理論は理論としては間違ってはいないが、地域地域の事情は考慮せず、そのために一概に取り入れるのが正解とは言えないのです。

通貨発行権を国家が持つことに対しては、通貨発行の金額的な問題と、用途などインフレの懸念を考えると共に、国際関係における不利益も考慮しなければなりません。

ですが、それを採用するか、しないかは絶対的なルールではないはずです。
通貨発行権を国家が持つ場合のディメリットを、徹底的に検証すべきではありませんか。







メンテ
通貨発行権 5 ( No.117 )
日時: 2015/09/05 11:29
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ESQ7rU2g

通貨発行権を国家が持つと言うことは、

政治をないがしろにして進む経済の弊害を、国家がある程度はコントロールするということです。

政治の中に経済の領域も取り込み、政治を信頼できるものにするためです。

現代の自民党と野党との関係もそうでしょう。
TPPの問題でも格差の問題でも、現在の自民党、野党がいくら知恵を絞っても本格的な改革など何も出来ません。
その程度の政党を見比べても埓があかないではないでしょうな。

また国家が通貨発行権をもち、その国家が放埒な通貨発行をしないように、国民が監視するシステムを確立すれば良いでしょう。
現在、安保法制の論議で、あれほど詳細に規定ができるならば、通貨発行の内容について法律で縛れば良いのではないでしょうか。

インフレ懸念の事も、一般論としてインフレを論じるのではなく、現代の状況に即したものがあるでしょう。
要するに生活の為の物資は、既にふんだんにあるか、いつでも必要なものを生産できる環境にあるのです。

北朝鮮のように金に任せて商品の取り合いが発生することはないのです。


次には通貨の信用について述べるとします。
メンテ
通貨の価値(信用度) 1 ( No.118 )
日時: 2015/09/06 11:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Gkng1MlI

さて、一般的な通貨の価値(信用度)について紹介します。

http://green.ap.teacup.com/pekepon/1102.html

■ 現代の通貨は「信用」で成り立っている ■

日銀の「日本国債の全量買取」がどういう事態を招くかと言えば、
それは「国家の信用」と「円の信用」の喪失です。

「円」は紙切れです。
しかし、「信用通貨」は「国家の信用」によって「紙切れ」に「価値」を与えています。

金兌換制が停止された現在において、「通貨」は「紙」以外の何物でもありませんが、
「政府」を国民や世界が信用している限り、これは「お金」として機能します。

ところが、政府が無節操に「お金」を増やしたらどうなるでしょう。
名目GDPは上昇します。
これを好景気と宣伝する事が出来ますし、庶民も賃金が上昇すればそう錯覚します。

中央銀行で無く、政府が発行する「政府通貨」が現在の世界で禁じ手なのは、
過剰発行によって通貨の信用を著しく損なう恐れがあるからです。

■ 通貨の価値を担保するのは、国家と国民の資産と、そして税を通した労働供与 ■

ですから中央銀行制度は、「資産と引き換え」に通貨を発行して、
「お金」と「実態経済」をリンクさせ、「紙のお金」に「価値」を付加しています。

「国債」で担保として機能するのは、「国家の資産」と「国民の生産力」です。
国家の日銀からの借金は、「徴税」という「国民の労働奉仕」によって支払われます。

このバランスが取れているうちは、多少国債を多く発行しても
国債の信用も、通貨の信用も失われません。

■ 預金は担保に取られている ■

しかし、国債を大量に発行し、これを中央銀行が全量引き受ける事になれば、
国債の信用も、通貨の信用も同時に失われます。
将来の税収を、国債の発行量が上回ってしまうからです。

「日本人の預金がある内は国債を発行出来る」というのも同様の理由です。
私達の「個人資産」の多くは「預金」です。
銀行が預金の運用として、日本国債を買っている場合、
「国債の担保」は私達の「預金」です。

仮に日本国債がデフォルトすれば、私達の預金が毀損します。

■ 自国建て国債はデフォルトしないが、通貨価値の下落で国民は資産を失う ■

日本は「自国建ての国債」を発行していますから、デフォルトはしません。
その代わり、日銀の全量買取によって、大量の通貨が市場に大放出される過程で
高率のインフレが発生し、2年で通貨価値が半減する様な事態が発生します。

銀行預金の価値が半減する一方で、日本の債務は事実上半減します。

これが「インフレ税」の実態で、同時に為替も調整されます。
日本の国と通貨の信用が失われれば、「円」は大暴落します。

200円、300円/1ドルで踏みとどまれれば良いですが、
ショックが大きければ、円はさらに下落します。

(引用おわり)

「管理通貨制度の下では、自国通貨は原則的にいくらでも発行できる[1]。金を貨幣価値の裏付けとする金本位制においては、銀行券発行量は正貨準備高に拘束されるのに対し、管理通貨制度では行政府の通貨政策次第であり、貨幣の価値は政府または中央銀行の政策によって裏付けされるためその価値は不安定となりやすい。よって通貨当局は金融政策により貨幣価値の安定化を図ることを重視する。」

上は管理通貨制度のあらましですが、通貨を管理する上の目安とされているのが、冒頭の通貨の考えかたです。
通貨の発行総量(具体的には国債の発行)をいくらにするのが適正かという根拠に国民金融資産(1400兆円)が考えられています。

ですが、この部分の考え方は、次の様に言われています。



■ 通貨の価値を担保するのは、国家と国民の資産と、そして税を通した労働供与 ■

ですから中央銀行制度は、「資産と引き換え」に通貨を発行して、
「お金」と「実態経済」をリンクさせ、「紙のお金」に「価値」を付加しています。

「国債」で担保として機能するのは、「国家の資産」と「国民の生産力」です。
国家の日銀からの借金は、「徴税」という「国民の労働奉仕」によって支払われます。

このバランスが取れているうちは、多少国債を多く発行しても
国債の信用も、通貨の信用も失われません。



国民の資産という以外に、国民の生産力(GDPのことではありません)とか。労働供与とかいう概念も入っていて、あくまでもバランスをとると言うことになっています。
バランスということは、ハイパーインフレを起こさないと言うことでしょう。

また、国民の資産で通貨の価値の担保をしていると言っても、それはバランスの問題であり、実際に通貨を担保する代償として資産が取られる訳ではありません。

ただし、ハイパーインフレなどが起きると、自動的に国民の金融資産は、半分にも1/10にも消えてしまうことになるでしょう。
ですので、ギリシャなどで実施された預金封鎖の処置は、国民をハイパーインフレから守ると言う意味で実施されたのです。

そのハイパーインフレが起きる原因を、色々検証しなければならないと思います。
ギリシャの場合は国家財政の破綻により、それが起きると懸念されました。

ジンバブエの場合など、為政者の放漫政策によって引き起こされたケースもあります。
同時に、軍事予算をつくるためにやった通貨の大量増刷がハイパーインフレを起こさなかった場合もあります。

また、ギリシャが財政破綻しても数字的にはギリシャ以上と思われる日本が財政破綻するとは言えないようです。

この様な事を、探るために基礎的な通貨の概念から見ていくことにしましょう。
メンテ
通貨の価値(信用度) 2 ( No.119 )
日時: 2015/09/06 18:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Gkng1MlI

お金の話。
お金は、最初は物々交換に変わって物資を手に入れる、都合の良い媒体として発生した。
初めの頃は、それにふさわしい貝殻などが、お金として使われた。

この時代は、簡単な目安であり、具体的な等価性は、あまり重要ではなかった。
また、通貨の量も、効果すべき商品の数にバランスしていればよかった。

時代が下り、封建領主など権力者が、自分のために商品を集めたり、事業を行うばあい、まずお金を集めることが必要になった。
そこで考えられたのは貝殻通貨などではなく、通貨、そのものに価値があるお金を作り、それを与えることで欲望を満たした。

貝殻をお金とした経済圏では、その申し合わせ、ルールを共有する必要があったが、通貨そのものに価値が有る通貨(主に貨幣)は経済圏を広めることになった。

お金の歴史において、この様な時代は、つい最近の200〜300年前まで続いてきた。
日本においても戦国大名が、こぞって金山、銀山の開発をし、それでお金を作り、自国の勢力拡大を図った(もちろん略奪と言う方法も有った)。
当時は、主に金、銀などの希少鉱物の価値を通貨の価値の目安としてお金を発行していた。

時代も変わって「金本位制」と言う制度ができたのは、経済圏が広く、大きくなり、通貨、そのものに価値あるものを使用できなくなり、通貨は通貨として発行し、その価値を金に変えて担保するという理屈でした。
その後の歴史は説明するまでもないでしょう。

ところで、最初のお金の量は、交換する物資の量とバランスが取れていれば良いだけのものでした。
ですので、通貨の価値を決める為の約束事も比較的容易で分かりやすいものでした。

金貨、銀貨、銅貨の時代も、通貨の価値としては比較的安定していました。
資本主義が発達してきて、商圏が広がると共に、通貨の価値の担保のことが問題となり、また通貨自身の発行が、信用創造の通貨の発行の量が予想外に多くなり、実際の商品、サービスの量と通貨の量のバランスと言う問題は空虚な概念に取って変わられた。

結果、現在では次の様な捉え方となっています。
これでは、我々の実際の生活のことが、どこで考えられているか、解りません。

【総生産:】

【(A)分配面からの所得=】

雇用者所得(消費+貯蓄+税)
企業所得(消費+貯蓄(企業の場合は内部留保・営業余剰+税)

(註1)この税は=政府所得になります。
(註2)固定資本減耗=所謂減価償却費は、企業内部留保とみなし、営業余剰に含ませて、項目省略によってすっきりさせます。 

【(B)所得の支出=次のように分解されます。】

民間最終消費
企業最終消費
政府最終消費
総固定資本形成(民間投資+政府投資(所謂公共事業費)
在庫品

(A)=(B)ですから、両辺から消費を相殺しますと、
(S)貯蓄+税=(I)民間投資+政府公共事業となります。

この(I)投資=(S)貯蓄が、ハロッド・ドーマー定理のミソで、これをISバランス
と言います。S>Iの場合はまだ投資出来る、S<Iの場合は、投資不足で国内での
財源が不足を意味し、海外からの投資を要請するケースとなります。

我が国現状ではまだ(S)>(I)の状況にあり、投資の余裕はありますが、これが財政赤字に消費され投資国債になっていない。

(引用おわり)

一方で、投機マネーをいうものが出回り、ますます、通貨の概念を変えています。
また、生産技術の発達で、商品と通貨の価値関係の変化も著しく、通貨に一定の価値を与えると言う発想そのものが変質していると思います。

要するに通貨の概念を根底から変えても良いのではないでしょうか。

実際に現在の通貨は、我々の生活の範囲で捉えている面とは、まったく異なる様相を持って流通しています。
そうして通貨の管理と言っても、その途方もない現象を相手にしているだけで、我々自身の生活における、キャッシュフローの問題など見ようとしていません。

現在の通貨管理制度では、このようにしかならないのです。

これに対して考えられるのは、通貨を生活手段として、物資の配分の為の道具とすれば如何でしょう。

要するに、普通は通貨は経済活動によって生じる権利なのですが、経済活動を伴わなくても、通貨を配分するということです。
そういう通貨の管理も通貨管理と見なくてはなりません。

もちろん、現実の経済活動がある限り、経済活動の成果としての通貨の取得はなくてはなりません。
一部ではありますが、通貨とは、必ずしも経済活動に寄らなくても配分されると言う概念を取り入れることです。

簡単に言えば、ヘリマネの動機です。
通貨、そのものの概念が変質している現在、新たな概念の構築も、現代の矛盾を解決するために必要なのではないでしょうか。

通貨の増刷(ヘリマネ)によって経済の仕組みが変わる、云々よりも先に、これが可能か、否かを検証する事も必要でしょう。





メンテ
お金とは! ( No.120 )
日時: 2015/09/06 23:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Gkng1MlI

ここで別の角度から、通貨について考えてみましょう。

以下はネットからの検索です。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1452988414

>その1

結局、お金とは何なのでしょうか?
多くの人が、お金持ちになりたいと思っている。

そして、お金が貯まると、それを守ろうとする。

金庫を買ったり、防犯カメラを買ったり、資産を分割して複数の投信や銀行に預け、また増やそうとする。

強盗が来ないかと不安にもなる。

逆に、お金がないが為に命を絶つ人もいる。

汗水流して貯めたお金が、本当に価値があるとも考え、

差金取引等の金融商品で儲けた人間のお金を、マネーゲームで儲けただけだという人もいる。

お金って何?

確かにお金がないと、物の価値が分からない。

単に、その価値の判断材料だけに過ぎないのかも知れない。

でも、それならば、お金がなく死んでいく者の魂?気持ち?は、何なのだろうか。

皆様のお金に対する考えを聞かせて下さい。

どんな事でもいいです。


>その2

私にとってお金は情報です。
結局、お金はその額面で何が買えるかが分かる情報でしかないんです。
そのシステムがあるからこそ物を買うことができると思うと便利なものです。

幸せだったときはお金をたくさん使ったときではなく、学生時代のお金がない時代だったとも思います。
お金は欲しいと思いますが、お金があることで幸せになれるとは思いません。

情報をどう判断するかはその人それぞれで違うと思います。
お金がなくて惨めだと思うのはその人自身ですし、どの程度がお金がない状態なのか判断するのもその人です。

勝手な考えですが、お金こそ全てにおいて最強です(ガキっぽい表現ですみません)。なぜなら、お金で買えない物は無いでしょう。人の心(考え)すら、お金で左右されます。政治家、弁護士、警察官、どんなに社会的地位の高い人でもお金にはかないません。綺麗事を言うつもりは全くありません。そんな私、今は貧乏生活ですが、いつの日か大金持ちになりたいものですね。


>その3

私はお金とは、価値を表すものでしかないと思っています。
価値を何かにたとえるのは難しいので、紙切れやコインで価値を表現しているだけです。
お給料にしてもそうですね、他に表現して人にあげられるものがないから、お金を使って賃金として払っているわけです。

でも、お金も価値をなくすときがくるかもしれません。
だから、20代で1000万貯めただの、30代で3000万貯めただの、知恵袋で自慢している人は、
価値を人に預けて安心しているだけなんですよね。使っていない。
使わないと意味がないんです。
ただの紙切れになる日がいつなのか、そのあたりは誰にもわかりません。
だから、貯金しつつ、使わないと、価値を有効活用していないことになります。

そしてその価値よりも大切、財産になるものは「知恵」です。
お金の価値が0になる日はあるかもしれませんが、「知恵」だけは残ります。
ですから、通帳にお金を貯めるのではなく、自分に知恵を貯めることが一番の財産になると思いますよ。
それをせずに、ただやみくもに貯蓄額を増やして満足し、自慢している人は、
おろかと言わざるを得ません。

>その4

お金=道具に過ぎないと私は思います。


人は、何故金を残すのか?それは、『自分が生きた形を子孫に残したいから』です。

日本人は間抜けな人類。

『お金』や『家』など、残して死ぬから、遺族が争う。
私はそういう場面を何回も見てきた。
お金に振り回されるのではなく、お金を支配できるように学習しなければいけません。
ある程度金がたまると、強欲な人間は、「守り」に入る。

本当の金持ちは「社会貢献」するのに使う。出さないとお金は入ってこない。
使わないで守りに入っているのは「小金持ち」です。
私は自分で汗水たらして稼いだ金を子孫には残す気持ちはありません。葬式代を覗いた分は、全部使いきります。

>その5

う〜ん、個人的にはデバイスって表現のほうがしっくりくるな〜。厳密に言えば総資産を構築するアカウントがデバイスになるのだろうけど。

無論、貨幣としてのお金の概念と通貨としてのお金の概念があるのは理解できるでしょう。金は確かに資産ですが、通貨は基本的に現代では中央銀行の負債を示す証券と考えることもできるでしょう。(少々証券の定義からずれますが)

通貨には一般に強制通用力があります。お金が無いということは債務を消滅させられないと言うことです。債務不履行を起こせば社会的信用を失うことでしょう。一般に債務は同意がない限りなくなりません。加えてみれば、確かに債務を免除することを示せなければ永遠と債務者なわけです。あなたがいくらダイヤモンドでおにぎりを手に入れようと思ってもそれはむりなのです。おにぎりには128円と言う値段がついていますが、ダイヤモンドには128円の債務を消滅させるだけの力がないのです。ゴールドバーを10個積み上げても同様です。スイカの10円の電子情報の支払いでうまい棒が買えるのは、コンビニの店員さんが仕方がないから債務を消滅させてあげようという慈悲で成り立った契約に過ぎないのです。

>その6

お金はただのツール(道具)です。
人間が作り出した一番バカバカしい道具です。
節約のカテゴリでこんなこというのは乱暴かもしれませんが、率直な思いです。

お金を必要以上に崇めたり、執着したり、あるいは汚い物と思ったりするのはお金に振り回されているだけです。
お金は特別でもなんでもないです。

しかし道具は使いこなさなければ、意味がありませんから、
「お金なんてなくても平気さ〜」なんて言って努力しないのはナンセンスです。

>その7

お金とは信用です世界中にお金がありますが
国が破綻すれば
信用がなくなり
紙屑になります

昔は物々交換でした
その時代から
コレと交換するならコレみたいにだいたい決まってましたが

それだと
流通に手間がかかるため
お金を作りましたが
最初はあまり信用が無くお金が定着するまでに時間がかかりました

いまでも常に世界中で為替や両替が行われますが
全ての紙幣では価値が違います
それは信用の違いです

>その8

私の感覚ではお金は手段ですかね
お金が必要な人は稼げばいいが必要のない人には
特別多くはいらないもの

使い道があるなら稼ぐべきです
シンプルな答えは物々交換のかわりですよ

(引用おわり)

たわいのない意見ですが、みなさん、既に「お金」と言う存在を神の様に受け入れています。
お金と言うものが、どこからもたらされるかについてば言及しません。
そうではなく、得られたお金の使い道に興味があるようです。

もちろん、財産の相続か、誰かに贈与されるか、もしくは銀行強盗もそうでしょうが、それ以外は働くことによって得られるものと、働かねば得られないものであることは承知しています。

国家から与えられるなどとは、誰も思い浮かびません。
メンテ
お金とは! ( No.121 )
日時: 2015/09/06 23:11
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Gkng1MlI

以下の意見は「お金」と言うものを、経済学的に説明したもので、内容は変わりません。


お金とは、人間社会において、欲しいものや必要なものを手に入れるために使われる物体及びその概念である。また、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持つ。浪漫ともいえる。人が生きていく上で重要な要素の一つでもあり、命そのものとする人もいる。人間が一生を懸けて追い求めていく存在、それがお金なのだ……。
「お金そのもの」は単なる紙や金属であり、大した価値は無い。加えて日本のお金は不換紙幣、つまりその紙幣が示す金額の金(金属の「きん」)との交換が保証されていない。普段は意識しないが、「お金」の価値は、自分を含む皆が「お金はその同額のものと交換できる」と信じ込んでいてこそ発揮されるのである。
現在の「不換紙幣」は各国政府がその価値を保証するから皆がその価値を「信じ込む」ことができる(米ドルの信用が高いゆえんである)。その政府の信用がなくなるとジンバブエドルのようなパニックに陥り、最悪の場合ただの紙切れや金属片になってしまう。


お金が存在しないとどうなるだろうか?想像してもらいたい。
もし、あなたがお金が無い世界で生きていこうとすると、生活に必要なもの(家、食料、服、日用品などなど)を自分で作らなければならない。毎日毎日、膨大な時間をそうした生活必需品の製造と維持に費やさなければならなくなる。しかし、それでも手に入らないものもある。例えば、海や川から遠く離れた地域に住む人は、どうしても魚が手に入らない。逆に、川や海の傍に住む人は山菜などは手に入らない。そこで、両者の間でまず原始的な物々交換が行われた。しかし、もし山の人が魚ではなく塩を欲しがっていたらどうなるか?魚を持って行った人は山菜を手に入れられず、魚もその間に腐ってしまう。

そこで、物々交換をよりスムーズに行うためにお金という概念が生まれた。まず、製品に金額を決めたり(価値の尺度)、お金を持っていれば商品と交換してもらえるという暗黙の了解が作られた(交換の媒介)。また、食料品などはいずれ傷んでしまうので、お金(金属とか紙とか)に交換しておくことで保存できる(価値の保蔵)。 お金があるおかげで、我々は重い商品を運ばずに、軽くてかさばらないお金(現在ではより「軽い」クレジットカードや電子マネー)を持ち運ぶことで、他人の作ったものを容易に手に入れられる。お金とは、価値のあるモノを繋ぐ潤滑油のような存在なのである。

お金が誕生したことで、分業がより容易になったことも忘れてはならない。分業が進んだことで、個人はより多くの自由時間を手にした。これは、「鍛冶屋は食欲を満たす為に、自分でパンを焼く必要が無い。」という言葉で端的に表せるだろう。
なお、よくお金があるから貧富の格差ができるのだ、と言われるが、これは貨幣という概念ができる以前に「物の貯蔵・貯蓄技術」が生まれた時点ですでに格差は発生しているので論じる意味はない。

メンテ
マルクスの「お金」 ( No.122 )
日時: 2015/09/06 23:50
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Gkng1MlI

今まで、貨幣そのものについての検証は出来てなかったが、マルクスのそれは、そうではない。

>マルクス経済学。労働価値説には下の様に書かれている(ウィキペディア)


マルクス経済学では、価値=貨幣ではない。発展した商品生産社会では、すべての商品の価値は貨幣の一定量によって表現されるが、このことは価値=貨幣を意味しない。たしかに、貨幣はいかなる商品とも交換可能であり、すべての商品の価値を表現できる一般的等価物である。ここから、貨幣そのものが価値である、とする観念が生まれる(貨幣の物神性)。

マルクスによる貨幣の説明はこうである。どの商品も、自分の価値を単独で表現することはできず、等価関係におかれた他の商品の使用価値量でしか表現できない。ある商品の使用価値量でもって、他のすべての商品の価値を表現するとき、この特殊な役割の商品が貨幣となり、貨幣の役割をする商品には、他のすべての商品との交換可能性が与えられる。したがって、貨幣とは、社会の諸商品の価値を統一的に表現するために、ある商品に与えられた一般的等価物としての役割である。歴史的には、金 (gold) が貨幣の役割を担ってきた。貨幣に一般的等価物の役割を与えて、貨幣の使用価値量(金ならばその重量)でもって、他のすべての商品の価値を表現させ、価格表現を可能にさせるのは、商品生産社会である。したがって貨幣も社会的産物である。

マルクス経済学における商品の価値とは、商品生産社会で必然的に発生する社会的観念である。等価交換の基準となる価値という社会的観念の存在は、商品の生産に必要な労働量によって、商品の交換価値または価格の変動が規制されることを意味する。これが価値法則である。貨幣商品の使用価値の一定量として、商品の価格として表現されるところの価値、直接には目に見えず価格として現象しながらも、価格の変動を規制する法則としての価値、これがマルクス経済学における価値である。


そうして、労働価値説では。


マルクスによれば、商品は二つの価値、すなわち消費することによって直接人間の役に立つ(消費者の精神的・肉体的欲求を満たす)という意味での使用価値 (use-value)、他の商品と交換可能であるという意味での、交換可能な他の商品との量的比率で表される交換価値 (exchange-value) をもつ。なお、貨幣(money)の一定量として表現された交換価値が価格 (price) である(貨幣については後述する)。この交換価値または価格の本質が、価値である。
商品生産社会においては、(存在する場合には貨幣媒介として)二つの商品が交換される際には、等価交換が原則となる。すなわち、人々は交換される二つの商品が等しい価値となるよう意識し、これが商品交換を規制する。したがって、価値とは商品生産社会に必然的に発生する社会的観念である。

では、二商品が等価であるとは何を基準として測られるのか。言い換えれば、価値の実体は何か。それは商品の生産に費やした労働の量、しかも、使用価値を生産するための労働の具体性を捨象した、単なる人間の労働力の支出としての抽象的人間労働の量である。この量は客観的に、その商品を生産するのに社会的平均的に必要な労働時間によって測られる。マルクス経済学は、商品の価値は、商品生産に必要な労働量によって客観的に決まるとする労働価値説を古典派経済学から継承している。

(引用おわり)

マルクスは、貨幣根拠は労働によって決まるでと言っています。

でも、まあ、それは一般的に働かねば貨幣を得られないという事と実際には変わりはないのですが、通貨を単なる交換手段としていた従来の通貨の概念とは異なります。

その延長で考えれば、労働したくても労働する機会がない人たちに、通貨はどのように分け与えられるべきかの問題を提起することになります。

要するに、近代福祉国家は、国民の生活を守ることが使命であり、我が国の憲法にも勤労の機会を保証すると謳ってあります。
通貨の根拠が労働であるなら、労働ができない人たちに国家は責任をとり、生活の為の通貨を分け与える義務が生じます。

これが従来のように通貨が単なる物々交換の媒体(経済行為の中から生まれる)であれば、そうは行きません。

>マルクスは、貨幣根拠は労働によって決まるでと言っています。

>でも、まあ、それは一般的に働かねば貨幣を得られないという事と実際には変わりはないのですが、

先に、このように言いましたが、その考えかたの違いが問題なのです。


>(お金が)国家から与えられるなどとは、誰も思い浮かびません。

先のレスで、上の様に言いましたが、マルクスによって、小さいながら、従来の観念に風穴を開けることができました。

メンテ
通貨の価値(信用度) 3 ( No.123 )
日時: 2015/09/07 12:52
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kjisfH5s

ここ何回か、お金とは、どのようなものかについて話しています。

そのような事を言われても、お金のことなど十分に分かりきっていること、と思われるかもしれませんが、実は言いました様に、お金とは、約束事が守られなければただの紙切れ。

そのような紙切れでも、手に入れようとすれば、懸命に働かねばならない。
また昔はともかく、現代の生活は、金がなければできないことが殆どになっている。

お金の流通は経済のルールとしてあっても、実際の人々にとっては、ルールなどと言ったものではなく、生きること、そのもの。血や空気と同じであり、1ヶ月も金を止まられると生きてはいけないものとなっている。

経済のシステムに変調がきたして、お金が満遍なく循環しなくなると、たちまち死活問題になる。
その経済のシステムに欠陥が生じると、その影響を受ける人たちは生きてはいけなくなる。

国家と経済の関係であるが、経済は人間の本能のおもむくままに進行する無機的な存在。
経済そのものに人情なく、共生の意識もない。
弱肉強食の論理があるだけ。

国家の使命はそうではないであろう。
共生のために集まった地域的集団のはずであり、近代国家と言われるものは、福祉制度を掲げ、国民の人権を保証するものである。
で、あるならば、経済の欠陥で生きることができなくなった国民を救済する義務があるはず。

もちろん、従来も、そのような形で経済のシステムの欠陥を補完してきた。
だが、グローバル化の影響は、その欠陥の内容の質が違ってきている。
救済しなければならない人々が量的に、従来の社会保障では対応できなくなってきている。

その事を、国家として十分に認識を新たにする必要があるのである。
民主主義国家と言うことは、国民自身がそれを認識する必要があるのである。

経済の流れの中で、お金を手に入れることができなくなった人たちに、一定の生活費を支給する事を考えるべきであり、それは施しでも何でもないのである。


<新しいお金の概念>

お金と言うものは、個人の労働に対して与えられるものであり、仮に職につけなくても、その能力を有し、働く気持ちのある人たちはお金を受け取る権利があり、国家がそれを保証するということである。


※ ただし、実際の労働を省略してお金を配分することは、別途、精神的な不都合を生じるのも人間性の特質であり、それも考慮して、国家はその人たちに経済活動の機会を与えることにより、お金を確保できるようにする。
これが雇用の為の公共事業を必要に応じて国家が発注する所以である。


現在の経済、及び経済専門家、国家を含む金融当事者は、お金をマクロ的に受け取ることよりしないで、通貨の管理ばかりに精を出している。

お金の本質を見ようとしない連中は、何のために施策をやっているのか。
もちろん、お金を集めることに汲々としている資本家のためにやっているのである。

そのような奴らに経済の舵取りを任せては置けない時代が到来したのである。
我々ば何のために国家を作ったのか。
政治があるのか。

この様な観点から、考えないと現在社会の矛盾、グローバル化のともなう問題の解決はできないのである。
お金の認識は、その為の第一歩。

通貨の価値(信用度)などは、通貨管理上のルールに過ぎなく、それよりも通貨の配分の問題を捨て置くことが問題である。

現在の金融制度など根底からくつがえす気持ちでないと、改革など出来ません。
メンテ
通貨の概念<新しい経済の仕組み ( No.124 )
日時: 2015/09/08 13:53
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:LdpPne.o

前回、下記の様な定義つけをしました。

>お金と言うものは、個人の労働に対して与えられるものであり、仮に職につけなくても、その能力を有し、働く気持ちのある人たちはお金を受け取る権利があり、国家がそれを保証するということである。

これに即して考えれば、お金の価値と言うものは、労働者が1日、7時間働いて得られるお金で、普通の生活が出来る程度のものでなくてはならない。

例えば、平均的な労働で平均的な能力を有する労働者の賃金を、10000円とした場合、その1万円で、食費、住居費、光熱費、医療費、少々の娯楽費に充当できるものでなければならない。

それが通貨の価値基準であり、通貨を管理する国家は、その価値を担保できる様な施策をとらねばならない。
当然、インフレが起きないようにしなければならないし、起きれば対処しなければならない。

通貨の発行量に関する制約は、その国の国民が生活する上で必要なもの以外に、社会全体の進歩、発展の為の先行投資も、それがインフレを起こさない限り、良いものとする。

そうは言っても、至上主義経済のシステムは、人間社会のためにも必要な制度であり、金融機関が信用創造によって増やす通貨の制度は、これを保持する。

通貨の発行を国家の手によるということは、この通貨の概念により確立出来る。
これ以外は、概ね従来の通貨管理のシステムは有効であるが、ただ一点、投機の為の通貨の増刷は、認めない。
投機行為にも国家としての制約をする。

以前から言ってきましたが、通貨の新しい概念の構築こそ、まず先にありきであるのです。
それによって、金融理論も少しは修正されるでしょう。
これが修正資本主義の中核の考えかたです。

30兆円の公共事業と20兆円の基礎年金の財源を通貨の増刷で賄うと言う施策は、この延長で考えられることです。
目標が定まれば、細かい規定、理論は、これを成就するために考えれば良いのです。

現在のシステムも、単なるルールです。
新しいルールができないはずはありません。

ただし国家を介入させるとなれば、それは政治の問題であり、民意の問題です。
それが了解されれば、通貨管理の上で、一番厄介な、インフレを抑制するルールも出来ると思います。
これこそがグローバル化の悪影響に悩む現代社会の進むべき方向ではないでしょうか。

また、既存の政党には、この様な考えを持つものがありません。
新しい経済、未来社会の構想さえないのですので、それも止むを得ないかもしれませんが、こうした理論を確立し、政治がそれに向かって進むようにしなければなりません。

そうでなければ現代社会がかかえる矛盾は何時まで経っても解決できず、ますます破綻に向けて歩みを進めることになるでしょう。

>30兆円の公共事業と20兆円の基礎年金の財源を通貨の増刷で賄うと言う施策は、この延長で考えられることです。

我が国において、この様なことができないはずはないのですが、確固たる方針が定かでないために、誰もがやろうと思いつきません。

しかしながら、それを阻害している強大な勢力があることは、別途解決しなければならない問題です。

特定の政治家、学者などが言い出せば、たちまち暗殺の対象になるこの問題も、国民の総意と言うことなら切り替えもできるのです。

長くなりましたが、一連の未来社会の構想は、これで終わりとします。

>30兆円の公共事業と20兆円の基礎年金の財源を通貨の増刷で賄うと言う施策

の具体的な検証は、まだまだ必要かと思いますが。



メンテ
未来社会の経済学<まとめ編 ( No.125 )
日時: 2015/09/11 20:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:/0gTH3JQ

以前にも触れた様に、経済学は自然科学でも人文科学でもない、論理学、数学の様な形式科学とされています。

実際には、社会学、哲学、政治などを含む人文科学の要素があります。

今日、経済が政治を通り越して一人歩きし、そのために社会的な矛盾が起きていることは承知されているはず。

ですが政治は経済の分野の根本に触れることなく、景気の問題としてのみ対応することを余儀なくされています。

経済的な弱者を社会福祉で救済することが政治のように思われています。

もっと進んで、政治が経済の基本をコントロールすべきではありませんか。

それは国家が経済活動の参加することを意味しているものではありません。

経済のあらゆる分野に口を出すことではありません。

経済に社会学的な要素を注入することです。

経済学とは、本来、人文科学の分野で考えられるべきものではないでしょうか。

その中の経済学であるべきであります。

具体的には通貨発行権を国家が握ることによって、経済の中に社会学的な要素を取り込む事ができます。

通貨発行権が国家にあるものとして考えれば、色々なものが見えてくるでしょう。

国家が通貨発行権を持つことの弊害は古くから指摘されていて、中央銀行制度ができたものですが、完璧に中央銀行が独立した存在かと言えば、そうでもありません。

本来、あるべきものを強引に仕分けしてしまっているので、実際には、国家の使命も果たせなくどこの国でも、止むをえず、国債発行などの領域で、国家と馴れ合い関係はあります。

このように、陰でこそこそやっている程度では、積極的な、必要な経済の施策を打ち出せません。

また、中央銀行制度は、いかにも公正中立の立場のように思われていますが、ここにこそ、金融資本の暗躍の要因があるのです。

ロスチャイルドが世界の中央銀行のほとんどを牛耳って、巨大な利益を得ているように言われていますが、中央銀行の決算の中にはそのようなものは出てこないでしょう。

実際には中央銀行の施策をコントロールすることによって、市場の動きを先取りし、為替、株などの領域で莫大な利益を得ているのです。

ですので、何かあると世界中が大騒ぎすることが、彼らには必要な環境なのです。
各国の財政が逼迫し、何らかの形で通貨の増刷をしている事も、金融マフィアにとっては願ってもない、環境なのです。
表向きの通貨の増刷には触れませんが、結局は、通貨の価値、云々を主張し、税金により支援金を出させることで、国民の資産で補わせようとしています。

通貨の発行権が国家にあれば、金融マフィアの暗躍の場所はなくなるのです。


要するにロスチャイルドを筆頭とする巨大金融資本は、究極のインサイダー取引によって利潤を上げていることになります。

リーマンショックの時でもギリシャ危機でも、必ず、為替、株価は2度や3度は乱高下します。

奴らは巧妙に、それを引き起こし一般の投資家、国家を巻き込んで、自分たちは利潤だけが残るようにしているのです。

どうせ中央銀行制度とは、この様なものなのです。

それよりも、通貨発行権を国家のものとし、それによって起きる不都合を政治の力で解決していく方が、よほど理にかなった方法であります。

以上、色々と書いてきて、現在の金融システムを論理を否定できる数式的証拠は提示出来ていませんが、現在の金融理論の矛盾を追求する状況証拠は山ほど揃っております。

世界中の人々は、勇気を持って審問にかけるべきであるのです。

また新しい経済の論理を構成する数式的なルールも、その気になって考えれば、必ず成立させることができます。

アダムスミス自身が、言っているように経済の大きな領分は「神の手」に委ねられているのです。

ですから、その後に続く、どのような経済論も、経済の事象を完全には捉えてはいません。

そのほんどが仮定の話ですし、経済の事象を後から追認する程度のものです。


現代経済学は最も数学を取り入れていると言われていますが

以下の数式、そのものが、応用の式であり、加減乗除のように絶対的な帰結を生むものではありません。

物理学のように、それで持って、可能性を予測するのは良いでしょう。

しかしながら、論理というものは、実社会においては、最終的には、それを結果として、正義として押し付けるようになるものです。

実際の生活を対象とする経済学においては、その数式の用途を可能性の問題として取り上げていれば良いのですが、ここから政策の方針を導き出します。

その矛盾が現代経済学が実態を現していないことにつながります。


琶=0n&#8722;1(a+id)=an+n(n&#8722;1)d2

&#8226;変分法: calculus of variations

maxx(t)∫T0F(t,x(t),x&#729;(t))dt

オイラー方程式: Euler equation [必要条件: the necessary condition for optimization]

∂F∂x&#8722;ddt(∂F∂x&#729;)=0

&#8226;ハミルトン関数: Hamiltonian (function)

maxx(t)∫T0F(t,x(t),y(t))dt




ですので、私は以下の経済学的数式も参考程度としか考えません。


【(A)分配面からの所得=】

雇用者所得(消費+貯蓄+税)
企業所得(消費+貯蓄(企業の場合は内部留保・営業余剰+税)

(註1)この税は=政府所得になります。
(註2)固定資本減耗=所謂減価償却費は、企業内部留保とみなし、営業余剰に含ませて、項目省略によってすっきりさせます。 

【(B)所得の支出=次のように分解されます。】

民間最終消費
企業最終消費
政府最終消費
総固定資本形成(民間投資+政府投資(所謂公共事業費)
在庫品

(A)=(B)ですから、両辺から消費を相殺しますと、
(S)貯蓄+税=(I)民間投資+政府公共事業となります。

この(I)投資=(S)貯蓄が、ハロッド・ドーマー定理のミソで、これをISバランス
と言います。S>Iの場合はまだ投資出来る、S<Iの場合は、投資不足で国内での
財源が不足を意味し、海外からの投資を要請するケースとなります。

我が国現状ではまだ(S)>(I)の状況にあり、投資の余裕はありますが、これが財政赤字に消費され投資国債になっていない。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.126 )
日時: 2015/10/17 11:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WIy2aE.g

TPP交渉も妥結した。

どこまで進む経済のグローバル化。

本当にグローバル化が望まれる時代であれば、TPP交渉など、もともと無用。

格差がある状態で、強引にグローバル化を要求するのは、強者の論理。

強者は、強者であるために、強者の常として恫喝を行う。

弱者は身を守るために、渋々従う。

その恫喝であるが、ヤクザと違うのは、一方で果実をちらつかすことである。

それが、アングロサクソン流。

宗教改革を経て、市民権を得たキリスト教徒(ピューリタン)は、キリスト教の影に隠れて己の経済的強欲を正当化し、世界の秩序などには目もくれない。

弱者等は、自分たちに従えば良いと考える。

現在の経済の仕組みは、彼らが作り上げたもの。

都合の悪い事には、民主主義(飽くまでもキリスト教的民主主義)は、個人の権利を最優先させる。

アングロサクソンの思うツボ。

奴らは、インテリヤクザであるのだ。

こんな奴らに対抗するには、どうするか!

アングロサクソン流に冒された世界を覆す事ができるのか。

それは、もはや文明史的転換が必要である。

パラダイムチェンジが必要である。

我々に、それができるか!

民主主義も資本主義も

根本から問い直さねばならない。

それが未来の社会である。

ユダヤを迫害した

あのヒットラーが

冒頭のような考えをもっていたとは

驚き、桃木、山椒の木!
メンテ
未来社会を考える < トインビーの予言 ( No.127 )
日時: 2015/10/21 21:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:GDGXZfZc

掲示板のトラブルで、このスレッドの結論的な部分が消滅しました。
少しづつ復旧したいと思いますが、同じ方法も窮屈なので、アプローチを変えて見ます。



トインビーは、「基軸時代」に現れた高度宗教では、「究極の精神的実在」が求められた、ここにこそ人間の「破壊的な自己中心性」を克服し得る手がかりが与えられていると説きました。日本の神道は、こうした高度宗教の中には数えられていません。しかし、トインビーは、日本の神道に対しても期待を寄せています。

 1974年(昭和49年)、日本の国際PHP研究所は、晩年のトインビーの論文を編集し、『日本の活路』を刊行しました。本書でトインビーは、文明史的な視野から、現代世界で今こそ必要なものについて、次のように訴えます。

 「最初は、人間は自然の奴隷でした。いまでは人間は、自分自身の技術の奴隷です。しかも、人間にとって、人間の技術というものは、かつての自然よりもはるかに恐るべき主人なのです。これこそ、人間が直面している現在の実際にほかなりません。それはまさに新たな精神的復興を緊急に必要としている苦境ということができます」と述べています。

 そして、トインビーは「西洋がどうしても学び、心に留めなければならない教訓を、東洋は持っている」として、その一つに「人間と人間以外の自然との本来の調和を取り戻す方法」を挙げます。トインビーは、日本は、「その固有の宗教と哲学の中に、現代人の自然からの疎外に対する、貴重な矯正手段を持っている」と述べ、神道に注目すべきことを説いています。

「神道は、人間とそのほかの自然との調和のとれた協調関係を説きます。神道によれば、自然は神聖であり、侵すことのできない権利を持っています。人間には、そうした自然の権利を尊重すべき宗教的義務があるのです。そして、もし人間がそうした権利を侵したら、その報いを受ける、とされています。日本国民は、自然の汚染によって、すでに報いを受け始めました。彼らは自然を怒らせ、自然に報復を余儀なくさせることによって、わざわいを招き寄せました。しかし彼らは、実は神道の中に、そうしたわざわいに対する祖先伝来の救済策を持っているのです」

 「自然と調和して生きることは、人間が生き残るための必須の条件です。これはまぎれもなく神道の教えにほかなりません」

 そして、また次のように述べています。

 「どん欲ではなく畏敬こそ、自然に対する私たちの態度を支配する感情でなくてはなりません。明日への挑戦は、神道への復帰です。西洋の見地からいえば、キリスト教や回教以前のカナン人、ギリシャ人、ローマ人の、宗教への復帰なのです」

 「技術は、全人類に対して同じ精神的挑戦状を突きつけました。私たちは、精神のルネサンスを達成することによって、この挑戦にこたえなければなりません。もし私たちが失敗すれば、人類の前途そのものが暗いものになります」

人類の精神的ルネサンスを達成するために、トインビーは、神道への復帰を提唱しました。神道の復興は、日本にとっても、また西洋諸国にとっても、さらに人類の生存のためにも必要だと訴えたのです。(

 私は、トインビーの偉大さの一つは、それまでの「世界史」が西洋人の視点で書かれたものであることを暴いたことにあると思います。キリスト教徒による十字軍の栄光は、ムスリムから見れば、侵略者の収奪であり、異教徒の暴行である。トインビーは、そのことを、西洋人で初めて公言しました。トインビーは、文明の東西、そして南北を、ともに公平に見る視点を、文明史観の根底にすえました。そして、人類史の次の段階では、西洋は東アジアに主導権を譲り渡すことになると、20世紀半ばにおいて大胆に予測したのです。

 トインビーの歴史認識は、西洋中心主義ではありません。彼は、世界の歴史は複数あり、西洋の歴史は世界の歴史の一つにすぎないと考えました。トインビーによると、16世紀から19世紀までは、西洋諸国がその科学文明を使って、世界を一つにした時代でした。西洋文明は一見、世界を征服したかに見えますが、征服したのは、たかが物質文明だけであって、精神的な原理まで支配することはできていない。今まで西洋文明に征服されていた他の文明が、西洋文明に反撃を加える時期が来ている、とトインビーは洞察しました。

 1947年(昭和22年)に、トインビーは、百年後の世界を予測して、次のように書き記しています。

「西暦2047年の将来から現代をふりかえってながめる未来の歴史家たちにとって、20世紀を特徴づけるものは西洋文明がその他の世界のあらゆる社会に加えた衝撃ということであろう」と。

● 資本主義の精神へのユダヤ教の影響


 神の栄光を増すための「道具」として勤勉に働き、倹約に努めれば、結果として利潤を生む。資本が蓄積される。一旦、資本が形成されると、資本は利潤を要求し、利潤を上げるための経営をしなければならなくなる。

 近代資本主義の特徴の一つは、複式簿記を土台とした合理的な産業経営にある。企業は、明確な数値目標を設定し、目的を実現するために、具体的な計画を立てる。さまざまな資材、労働を効率的に組み合わせ、利潤を最大にすべく計画・実行し、その結果を数値的に確認する。近代資本主義は、こうした形式合理的な態度によって、目的合理的な産業経営を行うことを最大の特徴とする。

 産業資本の形成によって、資本は、利潤の獲得を目的とした価値増殖の運動体に転じた。資本の価値増殖運動は、人間の欲望を拡張する活動である。資本主義の機構を生み出した宗教的な倫理は忘れられ、利潤の追求が肯定されて、価値観が大きく転換した。人々は来世の救済より、現世の利益を求める。もはや宗教的な禁欲ではなく、富と快楽を追求する欲望こそが、経済活動の推進力となる。


 ここで注目すべきは、ユダヤ教の影響である。この点は、本稿とは別に主題的に検討する予定なので、ここでは簡単に述べる。

産業資本の確立期以降の資本主義の精神は、キリスト教よりもユダヤ教に近いものに変貌している。ユダヤ教は、現世における利益の追求を肯定し、金銭の獲得を肯定する。プロテスタンティズム的な「世俗内禁欲」とは正反対の価値観である。そして、ユダヤ教的な価値観が非ユダヤ教徒の間にも広く普及したものこそ、今日に至る資本主義の精神だと私は考えている。

近代資本主義は、産業資本の形成をもって、初めて資本主義となった。産業資本が出現する以前、資本は商人資本、高利貸し資本という形態を取った。経済史学者は、これらを前期的資本と呼ぶ。そして商人資本、高利貸し資本からは近代資本主義は生まれないとする。

しかし、経済活動は生産だけでなく、消費と流通と金融なくしては成り立たない。近代資本主義においては、商人資本は商業資本となり、高利貸し資本は銀行資本となった。産業資本は、生産によって利潤の獲得をめざす資本である。これを生産資本と呼ぶならば、商業資本は流通資本、銀行資本は金融資本である。生産だけでなく、消費・流通・金融がバランスよく発達してこそ、経済規模が拡大する。それによって、資本の価値増殖運動は持続的に発展する。生産は消費と結びつくことで、継続・拡大する。この生産と消費を結びつける流通と金融に巧みなのが、ユダヤ人だった。

産業資本の発達による貨幣経済の拡大は、ユダヤ人の活躍の場を広げ、彼らに膨大な富をもたらした。それとともに、資本主義世界経済の発達によって、ユダヤ教の価値観がヨーロッパ文明のみならず、非ヨーロッパの諸文明にも浸透したところに、グローバル資本主義が出現したといえよう。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ的な価値観を体得した諸国民が、地球規模の資本主義経済を推進しているのである。


●資本主義の精神の根底にあるものとは

 さて、近代資本主義は、結果として、利潤追求・欲望拡大の文明を生み出した。その資本主義の発達は、産業資本の形成による。ウェーバーは、産業資本形成期におけるプロテスタンティズムの倫理の役割を強調した。しかし、産業資本の発生期より以前にさかのぼると、ヨーロッパ文明の海外進出には、利潤追求・金銭獲得にもっとむき出しの欲望が働いていた。
 資本の本源的蓄積の時期となった15世紀末以降、西欧人は有色人種を非人間視し、インディオに強制労働をさせて銀を収奪し、黒人に奴隷労働をさせて砂糖や綿花で富を得た。マルクスは、西欧社会の労働者をプロレタリアと呼んだが、生産手段たる土地から引き剥がされ、鉄鎖以外には失うことのないプロレタリアとは、白人種に奴隷にされた有色人種こそがそうだった。そして、私はこうした異教徒を奴隷化し、彼らを使役して富を得る欲望こそが、近代資本主義の精神の最も根底にあるものではないかと思う。また、そこには、周囲の異教徒を敵視し、自らの神観念を絶対化するユダヤ教に通じるものがあると思う。

 そのうえ、カトリックもプロテスタントも、西欧において魔女狩りを行なった。魔女狩りは非キリスト教的なものを排除する社会現象だった。魔女狩りは、ルネッサンス期に嵐のように吹き荒れたが、その最盛期は、宗教改革時代と共に訪れ、1600年を中心とした1世紀がピークだった。
 魔女狩りはカトリック信者だけでなく、プロテスタントも行った。ドイツのプロテスタントも、アメリカのピューリタンも、魔女狩りに熱狂した。これは、プロテスタンティズムの倫理の暗黒面であり、ユダヤ=キリスト教自体の持つ暗黒面でもある。
 イエス=キリストの教えは、隣人愛を説く。使徒パウロは、神は愛であると説いた。しかし、キリスト教徒の愛は、異教徒には及ばされなかった。いやキリスト教社会の内部ですら、他宗派には及ばされなかった。それをよく表すのが、旧教・新教の間の宗教戦争である。私は、異なるものを徹底的に排除し、破壊しようとするのは、イエス=キリストの教えというより、ユダヤ的なものではないかと思う。

 プロテスタントは、それまでラテン語で書かれ、ラテン語の知識のない者は読むことのできなかった聖書を各国語に訳した。これは、ギリシャ=ローマ文明の遺産であるキリスト教の土着化をもたらした。各国語訳の聖書は、印刷技術と紙の使用によって、民衆に普及した。民衆は、自分たちが日常使っている言葉で聖書を読めるようになった。
 私は、このことがキリスト教の再ユダヤ教化をもたらす一要因になったのだろうと考える。イエス=キリストが教えを説く前に書かれた旧約聖書の思想は、ユダヤ教のものである。各国語訳聖書の学習は、キリスト教の教えの習得と土着化とともに、間接的なユダヤ教の摂取ともなったのだろう。
 こうした問題については、いずれ改めて別稿で検討してみたい。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.128 )
日時: 2016/02/09 13:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dmkX7GEs

UP

後半の部分は経済の話になっていますが、冒頭のヒットラーの予言に続く文章は、人間の精神、心の持ち方の問題であり、現在及び遠い将来を予見する上に、参考になるでしょう。

ヒットラーの予言とは、思いがけないものですが、丁度現代に当たる時代には文明的転換が起きると書かれています。
メンテ
文明史的転換 ( No.129 )
日時: 2016/02/12 21:55
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:x9umxIbE

西欧民主主義、資本主義は偉大な文明であるといえよう。

世界中がこれに染まった大文明はかつてない。

だが、それもはっきりと行き詰まりの様相を見せている。

科学技術の発達で、かつては何千年とかかった文明の発展が、この200〜300年で果たされた。

予想もしない速さで文明の未来が見えてきた。

文明は生きている、衰退もし、発展もし、滅びることもある。

我々が考えなければならないのは、現代文明を発展させることである。

その為にはそれなりの行動が必要である。

ヒットラーのものとは言い切れないが、ヒットラーは、この時期に我々自身の価値観の転換(パラダイムチェンジ)が必要になることを予想していた。

具体的には、何かを考えてみよう。

資本主義の行き詰まりのことは、先駆者の間では既に言われている。
民主主義はどうかと言えば、
これも、ただ個人の自由、権利と狂喜しているだけでは済まなくなってきている。

何が問題か、考えてみようではないか。


メンテ
 ヒットラーの予言 ( No.130 )
日時: 2016/03/15 19:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:HuzIbwww

「…“2つの極”はますます進む。1989年以後、人間はごく少数の新しいタイプの支配者たちと、非常に多数の、新しいタイプの被支配者とに、ますます分かれていく。一方は、全てを操り、従える者。他方は、知らずしらずのうちに、全てを操られ、従わされる者たち。
(中略)
「しかし諸君、さらに重大なのは、私がいま、これを話している100年後のことだ。それを告げるためにこそ、私は今日を選んで諸君を招いたのだ。今日から100年後といえば、すなわち2039年1月25日だ。

「それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。いくつかの国は崩れて燃える。毒気で息絶える街もある。
(中略)
「それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。

残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。

神人のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。

いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。」

「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。

ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。

こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。
そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」


(転載終わり)

具体的な表現こそ違和感があるものの、
この文章に、なにか暗示される事はないか。

ノストラダムスの予言でも、予言と言うものは、まあ、そんなものであろうが。

メンテ
未来社会を考える ( No.131 )
日時: 2016/05/06 11:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:MUYWbK3Q

繰り返しになりますが、次の文章の意味を、感じ取ってください。
100年前に作られた文章なので、比喩的な表現になっていますが、現代社会が直面している課題を別の形で現しています。

>「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。

>ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。


生産技術の飛躍的な発達で、人々は、何が何でも働かなくても、生きていくことはできるようになってしまい、実際に既に働くと言うことはサービス産業が中心になって来ています。

人間の実質的な生活(人生)に置いて、
「食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも」与えられると言うことは、何を指すことになるのか。

従来の人間は、働かねば食えず、住む場所も得られず、義楽も、悩みも生きてゆく過程で感じ取り得てきていたものです。
このように喜怒哀楽とは人生の実態でありました。

生きるために働く必要もなく、有り余る余暇に埋没した人生に、何の人生があるでしょう。
人間は、神様の様に無色無臭の存在でいることはできないのです。
アダムとイブの話の様に、そう言う環境ではいられないから人間が誕生したのです。

理想とか、幸せなどは、求めているうちはよいのですが、その真っ只中にいれば、理想でも幸せでもないのです。
紹介した文章は、そう言う環境を示すと同時に、そのような社会からはみ出さざるを得ないもの、排斥された者が辿るアングラ生活と体制内にいる人間との致命的な対立がある事を示しています。


>「それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。

「神人」と言っていますが、それはシステムと言い換えても良いでしょう。
システムとは、これまた複雑で、要するに我々自身が構築するもの、人間の理想、否、思い上がりが、そうさせると言っても良いでしょう。

断っておきますが、このような文章で末世を言うつもりではありません。
問題点を把握して、そうならないようなシステムを目指さねばならないことを言いたいのです。

具体的には、人間にとって生きるために働かねばならない環境は絶対に維持しなければならないことであり、ほとんどの人が働ける社会を作らねばなりません。

グローバル化する経済の法則に任せていては、それができないことを認識しなければならないのです。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.132 )
日時: 2016/09/29 13:20
名前: topics editor ID:YnhX7nh6

UPします
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.133 )
日時: 2016/12/26 00:39
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:S8Zvs7uo

UP
メンテ
ベーシック・インカム ( No.134 )
日時: 2017/06/03 10:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4mdeIA0Y

阿修羅で、この様な記事を見つけました。
未来社会を見つめる記事は本当に少なくめったにお目にかかれません。

「超ヒマ社会」とベーシックインカム(中村伊知哉):人類総貴族化時代も間近か?
https://news.yahoo.co.jp/byline/nakamura-ichiya/20170603-00071650/

AIがもたらす超ヒマ社会。働くこと以外の生き方をみつけなければいけません。
することはたくさんありましょう。飲食。恋愛。芸術。学問。奉仕。
ぼくらの一つの解が「超人スポーツ」。スポーツは自分で汗をかくから楽しい。ロボット同士の対戦を観戦しても興奮しない。AI・ロボット後も人類に残される業務であります。だから、新しいスポーツを作って楽しもう、というもの。
とはいえ、全ての仕事がAI・ロボットに移行することはありますまい。予測どおり、半分ぐらいが奪われる、と考えてみましょうか。
すると、その超ヒマ社会が経済システムとして回るのか、が巨大テーマとなります。
彼らが半分の仕事を奪うということは、半分の生産を引き受けてくれるということでしょうが、ではぼくたちが半分働かなくなって、世の中の生産量やGDPが変わらないとして、それで世の中が回るのか。生産論よりも分配論の問題かもしれません。
その一つの回答案がベーシックインカム(最低生活保障、最低所得保障)。働いているか、いないかに関わらず、国民全員に生活に必要最低限のお金を支給するこの制度は、社会福祉コストが増大する超高齢化社会に向けた大胆な政策プランとして注目されていますが、AI・ロボットの台頭も影響しています。
2016年6月、スイスがその是非を国民投票にかけました。月額で大人が2500スイスフラン(約27万5千円)。最低生活保障を導入する代わりに年金や失業手当を廃止する提案。反対約8割で否決されました。議論が生煮えで政府も反対だったんです。
一方、フィンランドが今年1月から、抽選で選ばれた2000人を対象に一人あたり月560ユーロ(約7万円)で実験を開始。オランダのユトレヒト、カナダのオンタリオ、イタリアのリヴォルノ、スコットランドのグラスゴーといった地域でも実験が計画されているといいます。
可能性のある制度です。社会保障システムをまるごと変える大胆な策だけに、成り立つのかの分析が必要です。まずはいくらのベーシックインカムなら社会保障廃止が実現できるのか、の数式ですね。
その上で、全ての人に最低所得を渡すことが労働意欲に与える影響と、それが経済にもたらす影響。これが成り立つなら、AI・ロボットが仕事をしてくれても結構、働くヤツは働くさ、となるかもしれません。
これに関し、中央大学の森信茂樹教授がデータを踏まえた論考を提示しています。
「人工知能に仕事を奪われる人々を、ベーシックインカムで救おうという議論の現実味」
http://diamond.jp/articles/-/98513
一人当たり月10万円弱の給付額として、60兆円ばかりの課税が必要という答案。データを用いて、財源調達などの政策論にも踏み込んでいます。こうした論考をたたかわせ、AIという技術と、社会経済との折り合いを考える。理系・文系の「学」の出番です。
こうしたAI社会をどう実現していくのか。
マレー・シャナハン「シンギュラリティ」は、大きな社会的・政治的意志が必要、とします。
AIの未来に悲観・楽観であるとを問わず、そうであることに同意します。そしていよいよそういう議論と判断が必要になっていると考えます。
「シンギュラリティ」は、デジタル・パーソナルアシスタントの可能性をにらみ、AIへの権利、人格を与える議論を進めています。これは日本政府・知財本部でマンガ家・赤松健さんがAI人格論を持ちだしたことを想起させます。
しかし、AIの人格に関しては、AIが複製・分割・結合されることとの関係をどうみるか。市民権が国にヒモついてきたことをどうとらえるか。筆者はそう指摘します。制度設計は超難問です。
AIはまだ技術論の段階ですが、実装を展望し、社会、経済、政治、哲学、宗教などの知見を総動員することが求められます。研究者=彼らから、みんな=ぼくらの問題になりました。
仕事のなくなる社会とベーシックインカム。経済学・政治学などの知恵を国際的にたたかわせて、現実的な仕組みを考えることが必要です。

(引用終わり)

私の返信

この様な未来社会を論じる記事は少なく、待っていました。
ベーシック・インカムを主体とする社会、方向性はそうであって欲しいが、
ベーシック・インカムをやりすぎると、投稿文の様に暇を弄ぶ釈迦となり、への弊害は計り知れません。
一言で言うと、1億、総貴族社会となり虚栄と享楽がはびこります。

ですが、ますます発達する経済のグローバル化、生産技術の発達は、このままの至上主義経済では、一部の貴族と奴隷の社会となり歴史を2000年もさかのぼります。

では、どうすれば良いかの問題になります。
応えは単純。
ベーシック・インカムで困窮者を救済するのではなく、国家が必要な雇用を提供するシステムの確立です。
そのためにはギリシャの様に国民の1/3くらいは公務員としなければならなくなるでしょうし、公共事業を増やし雇用を確保したり、介護業界などの人件費を国家で補助するなど、いろいろと考えられます。

そうすればハイパーインフレを起こすこともなく、安定し、安心できる社会が作れます。
ただし、表題のベーシック・インカムにおいても問題となるのが財源です。
これは現在ではタブーとされているヘリマネ(通貨の増刷)で補わねばなりません。
問題なのは1億総貴族社会の弊害を除くためには、国民は原則、一生懸命働かねば生きて行けない状況を保つことです。
そのことが結局は人間にとって一番幸せなのです。

働かなくても生きて行ける社会が理想社会の様に思われかちですが、それは真逆の思いなのです。
メンテ
Re: ベーシック・インカム ( No.135 )
日時: 2017/06/04 11:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FGQcIkrk

前のレスの続きで、
ベーシック・インカムについて阿修羅で、次の様な問答をしました。
解りやすい問答となったので紹介します。


16. 2017年6月03日 22:29:39 : EIHH4CSarE : ZNs6WKx@BdQ[705]

一億総貴族社会となるかどうかはわかりませんが、例えば、年収300万円程度を上限とすることで、この上限を下回る低所得者に対しては、差額分をベーシックインカムで給付することで、年収1075万円を超える労働者に対する残業手当をカットすることで、カットした分を、年収1075万円を下回る労働者の基本賃金に廻すことで、年収1075万円を超える労働者に対する所得税や社会保険料を、どんどん徴収することで、年収300万円〜年収1075万円の範囲の労働者に対する所得税や社会保険料を軽減することで、ベーシックインカムの財源に充てていくというのは如何でしょうか?
年収1075万円を超える労働者にしてみれば、税金や社会保険料を、どんどん払い続けながらも、必要最低限の医療や介護などのサービスについては、遠慮することなく受けることが出来る様になることを誇りとして、国際社会にどんどん見せつけて行くことにすれば良いのでは?

年収300万円未満の低所得者については、ベーシックインカムにより給付を受けながらも、医療や介護などの公的サービスについては、どんどん遠慮することなく受けることが出来る様になることを、誇りとして、国際社会にどんどん見せつけて行くとにすれば、最低補償年金や農家への個別所得補償制度も、この年収300万円程度を上限とすることにでもすれば、年収300万円から1075万円までを所得比例年金に適用することにすれば良いのでは?

年収300万円〜1075万円の範囲の中間所得者については、ベーシックインカムによる給付を受けることも無く、税金や社会保険料については、収入に応じて払い続けながら、必要最低限の医療や介護サービスについては、誰もが受けることが出来ると同時に、必要な人には、どんどん遠慮することなく回して下さい、ということを誇りとして、国際社会にどんどん見せつけて行くことにすれば良いのでは?



18. 天橋立の愚痴人間[297] k1aLtJengsyL8JJzkGyK1A 2017年6月04日 08:59:35 : Fwo8pHGm1k : ZvtoPs3BEYQ[8]

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年収300万円〜1075万円の範囲の中間所得者については、ベーシックインカムによる給付を受けることも無く、税金や社会保険料については、収入に応じて払い続けながら、必要最低限の医療や介護サービスについては、誰もが受けることが出来ると同時に、必要な人には、どんどん遠慮することなく回して下さい、ということを誇りとして、国際社会にどんどん見せつけて行くことにすれば良いのでは?
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16さん

結果の形としては大賛成です。
現在のワーキングプア、非正規雇用の人たちが年収300万円を国家によって保障されることが出来たらどんなによいか。

しかしながら、問題があるのです。
ワーキングプアでも、働きながら補助を受けてくれるのなら、それで良いのですが、いっそのこと働くことを止めて全額補助(ベーシック・インカム)で暮らそうとされれば問題があるのです。
それも労働者のうちの2割程度ならば良いのですが、半分くらいの労働者が働かないようになれば、他の社会的な問題は生まれてくるでしょうね。

生産技術の発達から言えば、産業全体としては労働者の数は減っても良いのですから、そのような事態が起きることは十分に予想されます。
ある種の予想、ロボット化が進めば、労働人口の半分以上が失業する(30年ほど先には)という予想も出ています。

だから、一部にはベーシック・インカムを取り入れても、何とか雇用も確保しなければいけないと言うのが私の考えです、
そうして、このような流れのなか、生産技術のさらなる発達、雇用の確保は市場主義のシステムに任せていてはできないの国家が介入するべきと言う事です。

いずれにしても、このようなことは税収によっている財政ではできません。
それでヘリマネ(通貨の増刷)の解禁を言っております。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.136 )
日時: 2017/08/18 09:19
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:SlGXt8Ro

ヒットラーの言葉の検証。

>「しかし諸君、さらに重大なのは、私がいま、これを話している100年後のことだ。それを告げるためにこそ、私は今日を選んで諸君を招いたのだ。今日から100年後といえば、すなわち2039年1月25日だ。

>諸君にはわからないだろうが、そのとき人類には真の究極の状況が起こっている。そのとき人類は──少なくとも、いま言っているような意味での人類は、2039年1月、地球からいなくなっているのだ。」

>「それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。いくつかの国は崩れて燃える。毒気で息絶える街もある。

>2000年以後は、それが一層ひどくなる。2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。アフリカと中東も完全に荒廃する。結局、いまの文明は砂漠しか残さない。

※ グローバル化の影響で疲弊する人たちの事を言う。

>しかし人類はそれでも滅びない。わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。いまの意味での人類は、そのときもういない。なぜなら、人類は2039年1月、人類以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。」

※ これは枢軸国の称賛だから、読む必要もない。

>「それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。

>残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。

※ 形而上学的に捉えられているが、格差が拡大した結果、富裕層と貧困層が固定化する現象と見ることが出来る。

>神人のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。

>いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。」

※ 格差が拡大したまま、システムとしては強引に固定化されることを言っている。
 要するに奴隷化社会が到来すると言うこと。

>「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。

>ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。

※ 貧困層の社会、実際社会の大半を現している。

>こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。
そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」

※ 神々とは究極の富裕層のこと。
 彼らは軍隊によって隔離された地域に住み、実際は社会を支配する。

 ヒットラーは、枢軸国が勝利すれば、このような事にはならないと言いたいのか、
 それとも、マルクスの様に資本主義社会の行く末を案じてくれているのか。

 まあ、それはそれとして、ヒットラーでさえも、このような想いを抱いていたと言う事に吃驚します。
メンテ

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