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[2279] 未来社会を考える < ヒットラーの予言
日時: 2015/05/27 18:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TUwY8d8w

ヒトラーの予言──2039年の未来図について

●以下は、ヒトラーが語った言葉(予言)である。
『1999年以後』(祥伝社)から抜粋


「…“2つの極”はますます進む。1989年以後、人間はごく少数の新しいタイプの支配者たちと、非常に多数の、新しいタイプの被支配者とに、ますます分かれていく。一方は、全てを操り、従える者。他方は、知らずしらずのうちに、全てを操られ、従わされる者たち。

しかも進むのはそれだけじゃない。人間がそうなるにしたがって、地球にも宇宙にも大変動が起こるのだ。1989年以後、人類には宇宙から、かつてないカタストロフィ(大破局)が近づくのだ。

若いころ私は、『我が闘争』に、いずれ人間が大自然から復讐されると書いた。それが1989年以後の状態だ。人間が思い上がって宇宙の自然を犯すため、宇宙が人類に復讐の災厄を下すのだ。そしてそれが人類を、想像を絶する究極の状態にみちびいていく。私が生まれてから150年後、21世紀に来る究極に。私自身もそれを霊感ではっきりと見てさえ、信じられないような究極に。」

「…(20世紀末は)たとえ表面はデモクラシーや社会主義の世であろうとも、実質はナチズムが支配していよう。デモクラシーの国も社会主義の国も、われわれナチスの兵器を競って使い、殺し合い、社会は私の望むとおり、強く支配する者と支配される多数者に分かれていよう。それは天変地異の期間でもある。人類は大自然から手ひどく復讐される。気候も2つに分かれ、激しい熱と激しい冷気、火と氷、大洪水と大旱魃(かんばつ)が代わる代わる地球を襲うだろう。」

「だからその中から『超人(ユーベルメンシュ)』が現われる。もはや普通の人間ではそういう危機を制御できない。それに対応するため人類は超人たちを生み、超人が世界や気候を、人間や戦争を治めることになる。
つまり天変地異の下に生きる多数者。それを支配する少数者。その陰で実質的に世界を操る超人グループ。これが、私の予知する21世紀の世界である。」

「しかし諸君、さらに重大なのは、私がいま、これを話している100年後のことだ。それを告げるためにこそ、私は今日を選んで諸君を招いたのだ。今日から100年後といえば、すなわち2039年1月25日だ。

諸君にはわからないだろうが、そのとき人類には真の究極の状況が起こっている。そのとき人類は──少なくとも、いま言っているような意味での人類は、2039年1月、地球からいなくなっているのだ。」

「それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。いくつかの国は崩れて燃える。毒気で息絶える街もある。

2000年以後は、それが一層ひどくなる。2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。アフリカと中東も完全に荒廃する。結局、いまの文明は砂漠しか残さない。

しかし人類はそれでも滅びない。わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。いまの意味での人類は、そのときもういない。なぜなら、人類は2039年1月、人類以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。」

「それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。

残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。

神人のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。

いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。」

「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。

ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。

こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。
そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」


(引用終わり)

ヒットラーと言うイメージでは、このような思想を思い浮かべることはできません。
どこまで、真実であるか解りませんが、ヒットラーでなくても、このような歴史観があることは興味深く、また概ねは現代及び未来社会を暗示している様です。

メンテ

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失楽園・・・人間生存の基本である第一次産業を忘れた罰 ( No.27 )
日時: 2015/06/04 21:04
名前: 満天下有人 ID:LBCcjgUY

紀元前600年頃の、バビロンの捕囚時代に記されたと言われる創世期に書かれている失楽園。

神によってアダムとエバが失楽させられたその楽園は、有名なエデンの東、メソポタミア文明のチグリス。ユーフラテス河流域に存在した。

神は、園を耕し果実の実を作るよように命じたのに、園の中央に神が植えた知恵の木と生命の木の実を食べたものだから、神しか永遠の知恵と生命を持たないのに、その実を食べた人間が神のようになるのはけしからんとして、神はアダムとエバを追放された。

黙って自然の恵みを耕すことに専念しておれば、人間は生きることが出来るのに、知恵の実を食べてしまったものだから、追放された。でも神の意思に反して人間が生き長らえるには、神が罰したその知恵でしか生き延びる手立てがない。

かくして人間と言う生き物は、神のご意志に反しても、あれこれ知恵を絞って生きる知恵=科学の発達、それによる産業革命、そしてそこから生じた資本主義、それに頼るしか生きることが出来なかった・・・そういうことなのかも知れません。

だがその人間の知恵が編み出した資本主義なるもの、人間が産み出したそのシステムが逆に、人間を支配するようになってしまった。デカルト時代の、我れ思う、故に我あり程度の哲学では、まだそれに気がついていない。ヘーゲルに至って、初期の弁証法的思索の芽が出て、人間が己個人と相対するだけで生きれるのか、社会関係における人間を考えねばならないのではないか、その疑問の入り口に立ったのではあるが、まだ形而上的な把握しか出来ていない。

フオイエルバッハがやっと、人間が編み出したそのシステムに人間が支配されていることに気が付き、カール・マルクスに至って、本格的にその原因が理論的に確立された=人間疎外論なる哲学=労働の外化、労働の二重の疎外論がそれ。(岩波文庫・経済学、哲学草稿84頁)。

働くことに何故か意義を感じなくなった人間、働いても働いても何故か、充実感を覚えない。精一杯働いてもそれは、おれのものでは無くなる、そしてオカネにも結び付かない空虚さ。それは労働が「外化」されたからで、その事は既に神が警告して、お前達人間よ、いくら知恵を働かしてもいずれ、その知恵によってお前たちは滅びるとした、あの2600年前の失楽園で警告されている。そのことをフイオエルバッハやマルクスは気がついていて、論理的に検証したのだと思います。

これから更に生産性の向上で、人間の存在はどうなるのか、その疑問に対して神は既に御答えになっていたと思います。人間は既に人間性を失っていた=これが疎外論であり、働くことの「外化」という哲学で、ヤハウエの神、及び近代哲学の先駆者たちが既に言ってたことだと思います。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.28 )
日時: 2015/06/05 00:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WPr3j5fc

>紀元前600年頃の、バビロンの捕囚時代に記されたと言われる創世期に書かれている失楽園。

結局は、人間の本性は、3000年前から変わらず、それを看過することも、3000年前から行われていたと言うことの様です。


加賀美直史さんと言う生物科学の分野に進んだ人の文章です。彼のブログへ行きましたが英語が多く、ほとんど読めませんでした。
https://naofumi.castle104.com/about/

生物の進化と人間の愚かさについて、少し考えてみました。
生物の進化はDNAレベルでのランダムな変異・組換えが起こった後に、自然選択によって有用なものが残っていくという過程であると考えられています。45億年の歴史と、現在の非常に複雑で高度な生物という形で、このアプローチの有用性は十分に示されています。
リンクのWikipediaの記事にも強調されていますが、生物の進化には目的はなく、変異はランダムに起こると考えられています。
一見すると、これは非効率です。ランダムに頼るよりも明確に目的を持って進化した方が効率がいいように思われます。特に人間のような文明を築いて、医学が発達し、機械工学などの学問が確立していれば、自分で自分の体を作り替えてしまったほうがいいのではないかと。
しかしよくよく思い返してみると、人間が自分の手で進化させたものは必ずしも良い結果を生んでいません。例えば金融危機で問題となっている金融システム。これも長い年月をかけて人類が進化?させているもののです。あるいはビッグ3の経営だって、社員の創意工夫で組織が進化?していてもおかしくありません。いずれも霊長たる人間の中でも優秀なものが、思考力を働かせ、時間をかけながら発展させてきたものです。日本のいまの政治だって、人間が自ら作り上げて進化させてきたものです。
これらは人間が自ら目的意識を持って進化させたとしても、必ずしも良い方向には進まないことの良い例だと思います。
そういう謙虚さを持って、現代人は様々な課題にあたっていくべきだと思います。


この文章を紹介したのは「進化にもコントロールが必要ではないか!」と言うことを言いたかったからです。
ネットで検索しても「進化のコントロール」では、ほとんどヒットしません。
ですが、加賀美氏と同じように、誰かが考え出しているものと思います。

最近、数日、触れてきました人間自身の問題を解きほぐすに必要な概念となるのではありませんか。

メンテ
大審問官のテーマですが、そもそもキリストその人が当時のユダヤにおいて出てきて貰っては困ると認識された訳で…。 ( No.29 )
日時: 2015/06/05 02:01
名前: 青トマト ID:LBasQg/w メールを送信する

それで、十字架にかけれらたと、まあ、常識論を元に考えるとそうなるわけで、大審問官とは当時のユダヤ支配層であったわけで、キリストはユダヤ教において出てきて貰っては困った人物であったわけです。

でも、事実はキリストは死ぬことはなく逃亡できたとクルアーン他は伝えていますね。


そして新訳聖書でもクルアーンでも、終末と新世界の到来を予言しているわけで、現実はその様に動いてきていると私は考えますね。

私たち日本人はこれらの聖典の民ではないので、その事態に備えて、新しい時代を迎える準備を整えなければならないと考えて居るのです。

それは、今までの大多数の日本人の無責任ではあってはならず、日本人が無責任を脱するように自覚できる人達が率先して前に進まなければならないと考えて居るのです。

何やら、年齢に似合わない青臭いトマトの臭いを発してしまいましたか!?
メンテ
少し余計な事かも知れないのですが、伊勢神宮創建の垂仁天皇の時代とキリスト活動の時代とが重なっているのです。 ( No.30 )
日時: 2015/06/05 02:45
名前: 青トマト ID:LBasQg/w メールを送信する

この事は、いわゆる文献とされる様々なものがどの程度に正確であるのかについて厳密な探究が必要ではあるのですが、

伊勢神宮は新に創建された神宮ではなく、元伊勢神宮とか様々な経過を経て現在の地に創建された訳でして、元伊勢神宮も現存しているのです。

では、伊勢神宮が祀られなければならなかった背景が考えられるのです。

勿論、垂仁天皇の御意志があったことではありますが、

猿田彦と言う人物がキーマンであり、彼がこの地に招いたとされて居るのですが、

彼は「天狗」であるわけです。

鼻が高くて赤ら顔で、中東人と見られるのです。

天狗の狗の意味は、小さな可愛い犬との意味ですから、天の小さな犬と言った意味で、
天皇の小さな犬、又は天を祀る小さな(仕える)犬と言った意味になるのです。

それで、猿田彦がどう言った人物であるかについては日本にあまりにも馴染んでしまっていて詳しくは伝えられていないのですが、各地の神社の祭礼等に先頭を天狗が歩く姿が見られるのです。

日本の神道の現在に伝えられている姿に中東の宗教儀礼との共通性が指摘されるのは当然と考えられるのです。

私は、冒頭のテーマに関心を抱いて来てはいます。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.31 )
日時: 2015/06/05 11:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AVeaxoU2

青トマトさんは、和洋の歴史に本当に詳しいですね。

私は当地の祭りのことを調べていて知ったのですが、天狗が猿田彦であるなどとは普通は知りません。
また、元伊勢神社も当地、大江山(鬼退治)の麓にもあり、内宮、外宮もあります。車で30分のところにも、伊勢神宮はここから分祀したと威張っている小さな神社もあります。

キリスト教とは違う、宗教の様子を紹介する意味で、当地の祭りについて調べた文章を掲載します。


その神楽舞の内容を説明しましょう。

須津彦神社に奉納する神楽舞には、現在、剣の舞、鈴の舞、乱の舞、笹の舞の4つが残っております。以前は、加えて、四車(しぐるま)、囃子(はやし)、五宝楽(ごほうらく)があり半日も境内で舞っていたそうです。

舞の説明をする前に、神様と神楽のことについて説明します。
神社の氏神様は、通常神殿におられますが、祭りの時などは須津彦神社の神域を巡行されます。それが御旅行列なのです。

その時、神様が乗り移られる物を依り代(よりしろ)と言いまして、普通は神輿ですが、神楽の獅子頭も依り代とされています。
須津祭りの場合は、神事の初めに、宮司が何時もは閉ざしている神殿の内扉を開く時に、神楽が拝殿に入ってきます。その獅子頭に神様が乗り移られるとされています。
ついでに説明しておきますが、依り代には、御幣や笹、剣、榊、扇、弓など「採物(さいもつ)」と言われているものが多種ありますが、その多くは神様の力を授かると言う意味でしょう。

御旅行列のあと、神楽舞や太刀振りは地域を巡行します。これは祭りの神事を神社境内に留まらず、華やかにすることで民衆の楽しみとするようになって来た為です。
ここでは神社における神楽の奉納の舞を説明します。

まず、剣の舞について、

獅子が宝剣をくわえて舞うことで、天地四方を清めます。宝剣を抜きはらって天地四方の邪気を切り祓う悪魔祓いの舞いとして知られています。静かな笛と太鼓の響きとともに舞う、神々しい舞いです。
獅子が「剣」を口にくわて舞うことは、まさに神が依りついていることを象徴的に表現しているのです。
剣の舞は、各戸訪問の時は、そのお宅を正面として、1方だけのお清めをするのですが、本祭に神社で奉納する剣の舞は、3方の舞と言って四方すべて(地区全域)の邪気を祓う中心的な神事です。
須津彦神社におけるこの舞には天狗が登場します。
天狗の役割は、獅子の真似をして舞うことです。神様が乗り移った獅子が民の為に厳かに舞う、その様を真似る天狗は、我々、民の気持ちを暗示させているのではないでしょうか。

鈴の舞(すずのまい)

門付けなどで最初に舞うのが「鈴の舞」。これは竈払い(かまどばらい)を意味します。現代でこそ、竈(かまど)は使われませんが、竈(かまど)は一家のいのちの根源です。火をおろそかにすると、すべてを失います。だから、「火の用心」なのです。獅子舞いは人々のいのちの根源たる竈(かまど)に感謝し、災いがおきないように最初に「鈴の舞」を舞うのです。一戸一戸を廻り、その家の厄払いをしてくれる神様の民に対する優しい心使いと思って良いのではないでしょうか。

乱の舞

伊勢大神楽のなかに、跳の舞(とびのまい)と言う舞があります。神楽では静かな所作から跳躍、登攀、飛び降り、逆立ち、旋回と回転、首振りと激しく動き回る仕草があります。これはすべて獅子神の悪魔調伏の威力を誇示する表現です。これを「狂い」と言いまして、激しい舞を見せることによって神の力を表現し、その力を皆さまに授けるのです。
須津彦神社の神楽の乱の舞の場合、その途中に洞入り(ほらいり)と言う動作が入ります。洞入りの意味は、獅子が洞窟に潜んで周囲を睥睨(へいげい)している様子を現すようで、実際の洞に入るのではなく、胴体で獅子頭を包み込んで現しています。また、洞に入った獅子が耳だけを動かす仕草をします。他の動物でも、自分を強く見せるために羽を広げたりして大きく見せる事があります。洞入りと言う動作も、獅子の強さの別の表現(威厳を現す)と見ることができます。洞入りを舞うときの舞手は、非常に無理な姿勢を取らざるを得ないそうです。
神道で言います神は、天変地異位を引き起こす恐ろしい存在であると共に、これを祀る(まつる)ことによって民に恵みをもたらす存在とされています。

笹の舞

伊勢太神楽では、これを、楽々の舞(ささのまい)と言います。         
『金槐集』には万葉の神楽を「ささ」とし、やがて採物の「笹」へと移り変わっていったとされています。この笹は単なる笹にあらず、神が依る物なのです。
舞では、「番内」と呼ばれる天狗面の者が笹をもって登場します。獅子はこれに神の来臨を乞うのです。これは神が乗り移ると言う意味ではなく、神様の力を笹に与えて欲しいという意味でしょう。               
10日恵比寿などで「商売繁盛、笹もって来い」と言います。神の力が宿った笹を家に持ち帰へり、田畑にたてれば五穀豊穣となると信じられています。また、家に持ち帰れば災いを祓いのけるとされているのです。

須津彦神社の笹の舞は、神が宿った獅子が、のんびりと休んでいるところに笹を持った天狗が登場し、獅子をからかうと言う仕草で舞がなされています。からかうと言うよりも、天狗が持つ笹に神様に神の力を宿して欲しいと催促しているとも取れます。この場合、天狗はもう一方の手に持った扇子で催促します。休んでいるのに、あまりにもしつこいので、獅子は扇子を取り上げようとするのですが、天狗は、その都度、巧妙に交わして逃げます。獅子はいやいやながらも3回ほど繰り返しますが、容易には取れません。結局は4回目で扇子を取り上げ、舞は終了します。                       
この過程を長々と舞い、神楽舞の中では一番長い舞となっています。この舞は荘厳な神事と言うよりも、獅子の形になった神様に対して自分が持った笹に乗り移れと厚かましくも催促するまでに、民が神を身近に感じている様を現しているのではないかと思います。

登場人物が、なぜ天狗であるかと言いますと、古事記・日本書紀などに登場し、天孫降臨の際に案内役を務めた国津神のサルタヒコは、背が高く長い鼻を持つ容姿の描写から、一般に天狗のイメージと混同され、同一視されて語られることから天狗となったのでしょう。祭礼で猿田彦の役に扮する際は、天狗の面を被ったいでたちで表現される事がよくあります。

(追伸です)

>何やら、年齢に似合わない青臭いトマトの臭いを発してしまいましたか!?

青トマトさんのHNの意味の一端が解った気がします。
今までは、通常は赤いと思われるのに青とは! と思ってました。
そう言う謙遜の意味,あるいは皮肉っぽい意味とも思って思ってましたが、青臭い意見も言うと言う意味が含まれているのですね。

青臭い意見と言えば、私は、その青、そのものです。
私が小沢一郎に出会ったのは、30年も前のことですが、テレビでトツトツと語る政治家の、その青臭さ、書生っぽさに信頼を寄せたのがきっかけです。

普通は、いかにも自分の老成ぶりを誇りたくなるものですが。
どうりで青トマトさんの見識が高いはずです。


メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.32 )
日時: 2015/06/05 14:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AVeaxoU2

青トマトさん、更に追伸です。

No29の青臭い意見の中に、本当に大切なサゼッションが含まれていますね。

本当は青臭い意見など年相応の者がやれば良いのですが、最近の若者、中年は、目先の問題を追うばかりで、そう言うものにはトンと反応しません。


>それは、今までの大多数の日本人の無責任ではあってはならず、日本人が無責任を脱するように自覚できる人達が率先して前に進まなければならないと考えて居るのです。

日本人の無責任さ、無気力さについて、色いろと仰っています。
私は、その特質を日本人の伝統的な「和」の心の中に見ています。
その「和」の概念も「民主主義」の概念が正しく反映されていないように、偏った捉え方をしているのではないかと思っています。

また、後段に

「日本人が無責任を脱するように自覚できる人達が率先して前に進まなければならないと考えて居るのです」

は、更に重要な要素と思っています。
そう言うことができる人、これを時代のリーダーと考えます。
トインビーも文明が展開、発達していく条件として先見者の存在を言っています。

「和」の国のリーダーとは「大和魂(これも偏見が多い言葉ですが)」を兼ね備えた漢であると定義したいと思っています。

そうして我が国の歴史にも、一時、その様な時代がありました。
鎌倉時代です。
この頃に、日本の文化と言うものの素地が出来上がりました。

「大和魂」<日本の心のルーツを考えるスレッドは、このために立ち上げたものですが、余りにも細部にこだわり、未だに完結は程遠い様です。

でも、青トマトさんも、同じような危惧を抱いておられることが分かり、勇気を得た様です。

さらに、さらに、言っておきたいのですが、

昔の人たちは、リーダーの存在を認め、素直についていく(真似る)傾向がありました。
それで世の中の変遷も出来たのです。
革命の時代もそうですね。

ところが現代人は、教育が行き届きみんなが物知りとなり、民主主義の弊害(個人の権利)も相まってリーダーの存在を認めようとはしません。
特にインテリと言われている者共がそうであるので、リーダーがでなくなっています。

これも自業自得と思います。
故に、知識だけをひけらかす、インテリと言う連中を侮蔑して見るようになりました。
メンテ
そうですね、深刻ですね。お恥ずかしいですが。 ( No.33 )
日時: 2015/06/05 23:23
名前: 青トマト ID:LBasQg/w メールを送信する

今日は少し忙しいので、改めて少し詳しく投稿したいとは考えてはいますが、できるかどうか、まあ、少しは頑張って見たいとは思っていますが、なにしろ安倍が地震雲でこまりものでして、満天下有人様も私も首都圏在住で彼には困っていますね。

橋下のようにいさぎよくはないので。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.34 )
日時: 2015/06/06 13:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qLI1YTRM

>猿田彦と言う人物がキーマンであり、彼がこの地に招いたとされて居るのですが、

>彼は「天狗」であるわけです。

>鼻が高くて赤ら顔で、中東人と見られるのです。

と青トマトさんが言っておられます。
なにげなく、言われた言葉かもしれませんが、失楽園の話も同じで、意外と展開する内容なのです。
「大和魂」スレッドの初めのころに関連することを少し書いています。
随分と時間が経って忘れかけていましたが、本論を始める前に、閑話休題として再掲してみます。

>神々の話

西洋のユダヤ=キリスト教では、男性的な神が万物を創り、神は土の塊から人間の男を創ります。そして、神はアダムを慰めるために、男の肋骨から女を創ったとされます。

これに対し、日本神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生します。これらのニ神は、人間と同じ男女の営みをし、人間はその子孫として誕生したとされます。
このように、日本では、男女・陰陽の「和」によって、国土や人間が誕生したと考えてきたのです。

さてイザナギ、イザナミのニ神から生まれた子供が、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのをのみこと)です。
須佐之男命は高天原を暴れまくりますが、弟の暴虐に対して、天照大神は争ったり、罰を下すのではなく、天岩戸に身を隠すという振る舞いをします。それによって、地上は闇の世界となります。

この時、八百万の神々は、天の安の河原(あめのやすのかわら)に集まって、話し合いを行います。思金神(おもいかねのかみ)の妙策によって、天照大神を岩戸から引き出すことに成功し、世界は再び光を取り戻します。
 須佐之男命はその振る舞いのために、高天原から追放されます。しかし、天照大神と須佐之男命は後で和解し、大罪を許された須佐之男命は、出雲の地に下り「やまたのおろち」を退治する大活躍をするのです。(2)

日本神話には、争いを避け、話し合いを重んじ、共存共栄を目指す「和」の精神が、さまざまな形で描かれています。そうした日本固有の精神を、「和をもって貴しとなす」と表現したのが、聖徳太子だといえましょう。
そして「和」は、その後の日本人と日本の精神を考える際のキーワードとなっているのです。

太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」です。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。

>「和」とは

大部分省略して掲載しましたが、大和民族が育んできた「和」と言う概念が地形的にも、民族学的にも特別の条件で自然発生的に形成されて行ったことが伺えます。
その「和」の概念を、も少し具体的に捉えると共に、他民族の特性とも比較したいと思います。

レスをいただく方があり、「和」の言葉自体を解説してくれました。このようなことは思いもしなかったのですが、言語学的な肉付けです。


「和(わ)」は音読みか、それとも訓読みか もし音読みなら、それは漢語だということになります。

日本語とアラビア語:

聖徳太子の時代以前からアラブ商人は今の中国の都市泉州や、揚州に来ていた。もちろんイスラーム革命以前です(聖徳太子が死んだ622年からイスラームは始まった)。揚州は隋の皇帝煬帝お気に入りの都市で、長く滞在していた。要するにアラブ人と隋の皇帝は接点を持っていた。それでアラブ人は東アジアの動向も知っていたに違いないのです。福建の漁港としての泉州の漁民からも、少なくとも日本の九州に関する情報を得ていたはず。

隋が破滅し、唐へと変る東アジアの情勢を受けて、ムハンマドによるイスラーム革命が起されたと想像することができる。唐はご承知のとおり遊牧民による王朝でした。

アラビア語で”ワタシ”を「アナー」、貴方を「アンタ」と呼びます。このうち「ア」は「ワ」と同類でです。日本語では我の”ワ”もあっちの”ア”も厳密に区別しません。だから「アナー」は「ワナー」と置き換えることもできる。大変な共通性があります。ちなみに「アンタ」の”ン”は”ヌ”の変化形です。

要するにソナタというときの”ナ”と「アンタ」というときの”ナ”は日本語とアラビア語で共通しています。”ナ”は遠いものを指し、同時に尊敬の意味がある。

アラビア語で”そして”又は”と”を意味するのに「ワ」という。日本語では”テ”に当たり、英語ではandです。この「ワ」こそ和語としての「わ」だとするならば、その使われる際の場面は日本とアラビアとで非常に似ている。

この「ワ」を使うことにより、「汝」も「我」も同じになるからです。

金印で有名な「倭之奈之国王・・・」の文字も、単に”私の貴方”という意味に過ぎなかった可能性だってある。つまり「ワ・ナ・タ」です。
詳しい書物によると、中国語にもずいぶんアラビア語起源の発音があるようです。


>日ユ同祖

日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが精確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。

シュメールとは現在の南イラクのことです。そしてそこに北からヒッタイト族などがやって来た。そしてバビロニアなどの国家を建設してシュメールの文化をシリアに広めた。シリアとは、現在のシリア、レバノン、バレスチナ、ヨルダン、イスラエルを包括する地区です。シュメールはユダヤにとって先進文化地域だった。

楔形文字は、古代オリエント地区で東アジアにおける漢字と同じ役割を果たしていました。メソポタミアの共通文字だった。

シュメールには葦原が広がっていたらしい。日本もかつては”豊葦原の国”と呼ばれました。葦は筆(ペン)を作るために利用されます。粘土と葦の組合せが文を生んだ。「書く」とは引っ掻くと言う意味です。Grammarのグラムは刻むという意味。紙が発明されるまで、文字は刻んだり引っ掻いたりするしか記する方法が無かった。

シュメールの人々が東に移住し、インダス文明を築くなどしながら、南海伝いに日本までやってきた可能性は十分にあると思います。

>日本人の源流

ここまで遡れば十分でしょう。次には大和の国から見た太古の様相です。

黒潮は日本列島南方海上で対馬方面と高知方面に分かれる。対馬方面へ流れる海流に乗ると、船は九州北西部とか、或いは朝鮮半島南東部に行き着く。出雲地方もその中に含まれます。

紀伊半島もそういう意味で同じ人々が流れ着く場所でもある。そのせいか、熊野権現は出雲系の神様が祭られています。その他に、伊勢、伊豆、安房、鹿島(茨城県)など、いずれも黒潮と無縁ではない。

大和川を行き着くところまで遡ると飛鳥地方に至る。他方その先の山の向こうには、吉野を経て熊野があります。古代にそこでヤマト民とミナト民が出会ったとしても決して不思議ではありません。

このように想像すると、日本古代史は黒潮をキィ・ワードとしてヤマト民やミナト民(海民)の動向を中心にして再構築する必要があると言えるでしょう。

ヤマトとミナトという言葉が出てきました。

昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。

陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。

むかし江戸は武蔵野国にあった。軍艦でも大和の姉妹艦として武蔵が建造されました。江戸がミナト(水戸)民の土地だったことは言うまでもありません。

むかしから、我が国は南方や朝鮮系の渡来人が多くいたことは、聖徳太子の時代にも秦氏、漢(あや)氏などが良く知られています。
上記に書いた流れの中に組み込まれるのでしょう

大和民族とは、日本列島に住んできた人類で構成される民族で、そこでは縄文時代から日本列島に住んできた人々(いわゆる縄文人)と、縄文末期からユーラシ大陸から渡来した人々(いわゆる弥生人)が中心となって形成した。この過程は前回の大きな流れのなかでも触れています。

>「和」の国建国

ヤマト王権が、日本列島各地に散在していた様々な人的集団を勢力下に置き、同化したことにより大和民族が成立していったと考えられている(しかし大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない。

そして民族の特性として、大和民族は農耕民族、あるいは島国に居住することから海洋民族と分類される場合もある。 また江上波夫が騎馬民族征服王朝説を唱えたが学術的には否定されている。

このような中で、日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立したのが神道のはじめである。

『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範とする。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られる。

また時代的に中国の影響を受けて仏教や儒教の考え方は早くから入っていたとしても不思議ではない。祖先崇拝などでは儒教の影響も大きい。それらが複合した形態をもって、一つの一貫した民俗体系が構築されている。

神道、儒教に関しては後に検証するとして、このように民族的にも精神史的にも結構多様な要素を含んで「和」の心が育まれて行ったことが解ります。

その「和」の心の概念をもう少し強くするためにも、仏教や、儒教についても考えなければならないでしょう。
これからの問題ですが、仏教も儒教もインドや中国で展開したものとは少し違っているようです。
なぜ、そうなったかも「和」に関する要素が原因なのでしょう。
メンテ
前段のまとめ ( No.35 )
日時: 2015/06/09 14:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ISHxftYU

初めは、ここまで掘り下げることは考えていなかったのですが、失楽園の話題が出てきて、人間の本質論に言及することになりました。
NO27のレスで満天下さんが、その人間の精神史をまとめておられます。



かくして人間と言う生き物は、神のご意志に反しても、あれこれ知恵を絞って生きる知恵=科学の発達、それによる産業革命、そしてそこから生じた資本主義、それに頼るしか生きることが出来なかった・・・そういうことなのかも知れません。

だがその人間の知恵が編み出した資本主義なるもの、人間が産み出したそのシステムが逆に、人間を支配するようになってしまった。デカルト時代の、我れ思う、故に我あり程度の哲学では、まだそれに気がついていない。ヘーゲルに至って、初期の弁証法的思索の芽が出て、人間が己個人と相対するだけで生きれるのか、社会関係における人間を考えねばならないのではないか、その疑問の入り口に立ったのではあるが、まだ形而上的な把握しか出来ていない。

フオイエルバッハがやっと、人間が編み出したそのシステムに人間が支配されていることに気が付き、カール・マルクスに至って、本格的にその原因が理論的に確立された=人間疎外論なる哲学=労働の外化、労働の二重の疎外論がそれ。(岩波文庫・経済学、哲学草稿84頁)。

働くことに何故か意義を感じなくなった人間、働いても働いても何故か、充実感を覚えない。精一杯働いてもそれは、おれのものでは無くなる、そしてオカネにも結び付かない空虚さ。それは労働が「外化」されたからで、その事は既に神が警告して、お前達人間よ、いくら知恵を働かしてもいずれ、その知恵によってお前たちは滅びるとした、あの2600年前の失楽園で警告されている。そのことをフイオエルバッハやマルクスは気がついていて、論理的に検証したのだと思います。

これから更に生産性の向上で、人間の存在はどうなるのか、その疑問に対して神は既に御答えになっていたと思います。人間は既に人間性を失っていた=これが疎外論であり、働くことの「外化」という哲学で、ヤハウエの神、及び近代哲学の先駆者たちが既に言ってたことだと思います。



そうなのですね。
万物の霊長などという思いが、実際に人間の知恵の部分を発達させ、今や神の想定を超えて、神に近い存在となってしまった。
いや、そのことも神はお見通しであったと言うことです。

そうして結果は、神の救済もままならない状況に追い込まれてしまった。
3000年続いてきた宗教も哲学も人間を十分にコントロール出来なくなってきたということでしょう。

でもね、宗教も哲学も、実際は人間自身が生きるために考え出したもの。
要するに人間自身が、新たな宗教、哲学でも考えない限り、人間社会は混沌に逆戻りするとも言えましょう。

このような観点から見ると大げさになりましたが、トインビー的解釈をすれば、実際には、文明史の岐路に立っているに過ぎません。
現代文明は、発展期を終え、新たな困難に直面している。
それは外敵ではなく内部の矛盾のせいであろう。
であれば、過去数百年で何が問題であったのであろう。
どこで、ボタンをかけ違えたのであろう。
それを求ることで、現在文明への挑戦を避け、更なる展開を向かえることができるでしょう。


(人類の環)のまとめに書いてます、次の言葉になると思います。

そうはしてはいけない、資本主義の妄想も民主主義の妄想も今、我々はたださなければならない。 人類は精神的許容量を超えて物質的に進歩しすぎた。 と言うよりも大量の物質を手にして精神が質を変えてしまった。 二十一世紀はそれを矯正しなければならない。 人類は経済活動全体を制御する方法を身につけなければならない。 物質の氾濫をコントロールしなければならない。 経済活動そのものは本能に基づくものであるから、我々は人間の本質を見直す領域まで立ち入らねばならない。

プラトンが役に立たないのではない。 ショーペンハウエルが役に立たないのではない、キリストも必要だ、人間の本質は変わるものではない、彼らの言っていることは全て間違ってはいない。 ただ人々のほうが自らの本質を見失っているのだ。 しかし現代の状況で安定した精神を維持することは並大抵ではないと思う。 昔から沢山の思想家はいたが、一般の人々にとってけして身近な存在であったとは言えない。 当時の人々の考えることの総体が彼らであり、より究極的に表現しているのが彼らであっただけであり、宗教の教義のように人々に直接的に喧伝されていたものではない。

しかし現代の我々は大部分が自身を見詰め直す必要に迫られている。 先人の意見も真摯に検討しようではありませんか。 我々自身が意識的に現代に応じた我々のあり方を考えるとき、それを象徴する思想家達が現出して体現してくれるのではないか。 数百年前のルネッサンスのように、切実なる我々の意思が集約されたとき、新しい思想が現出するのではないか。 やがて現れる思想は超人間の領域をも抱合しているかもしれない。 そしてその思想は今までになく人々を束縛するものであるかも知れない。 またそれは同時に独裁に結びつかないシステムでなければならない。 安易な思想は我々をまた異なった方向の不幸へ導く。

いよいよ真剣な民主主義の本分が問われる時代の到来が近い。 矛盾する方式だが、勇気を持って確立できるように努力しなければならない。 資本主義経済システムの限界を認識し、そのシステムに振り回されない社会の仕組みを考え出さなければならない。 グローバル化が必要な面もあるが我々の身の丈にあった生活環境を合わせ持とうとする方向のなかに、来るべき社会のヒントがあるように思う。 一方で我々の精神は我々自身が創出する科学と真正面から対峙してゆかねばならない。 数十年の歳月を要するとも、我らが子孫の繁栄のために努力を始めなければならないと思います。

(転載終わり)

そうなのです。
私は現代文明の困難は、過去において人間がものにした「資本主義」「民主主義」の概念が、身勝手に行き過ぎたと言うことになります。

要するに、個人の権利、自由と言う人間の利己心の追求には限度を置くべくであると言うことです。
しかしながら、制限も行き過ぎれば、封建時代に逆戻りします。
最大限で2割くらいの不自由を受け入れる覚悟が必要かと思います。

実際の生活においては、各人は当然、その様な、否、それ以上の不自由を味わっているのですが、表向きは、それを認めません。
その表向きが社会のルールです。

現代社会は、報道に自由の問題でも、これに制約を加えるものなら、敢然と否定します。
もちろん、その制約が独裁者により悪用される危険性があることは歴史が証明しています。
人間の闘争の歴史は、その連続であったとも言えます。

ですが、過去の歴史は人間同士の富(豊かさ)の配分上の闘争でした。
現在の問題は、そうではなく(格差の問題)、人間社会自体の存立の問題でしょう。

経済的にも独占資本を批判しても、雇用の根本的な問題は解決できす、資源の問題も解決できないでしょう。
物資、情報の氾濫による、人間精神の問題についても誰かを糾弾して済むことではないでしょう。

要するに、我々自身が、その利己心において、少しだけ謙虚になることであると思います。
そう言う気持ちになれば、何ができるかと言うことになります。

これから言います、諸制度は、人間自身が、このような気持ちにならないと実践できません。
それは不可能なことでしょうか。

私はそうは思いません。
現在は民主主義に浮かれて見境がなくなっているだけと思います。

信奉するのは神様だけで良いのです。
もともと、神は人間が、その存在の為に考え出した概念でしょう。

人間は、その時の様な謙虚な気持ちに戻ることが大切ではないでしょうか。
メンテ
前段のまとめ 2 ( No.36 )
日時: 2015/06/09 15:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ISHxftYU

未来社会と言う言葉で、検索すると、ほとんどは、科学技術の進歩により、一層豊かな生活ができると言う様なものです。

エネルギーの問題も、通信手段、交通も進歩し、レジャー生活も楽しめると言うユートピア一色です。

ですが、本当に、そのようになるのでしょうか。

現代の問題は社会について行けない、社会から脱落する人間が多く出てきていることではないでしょうか。

その様なものに眼をつむり、科学技術の発展にのみ眼を向けるのは無責任ではありませんか。

このスレッドでは、そう言う未来社会を取り上げるものではありません。

むしろ、進歩のコントロールすべきか、否かが問題となり、いずれ、それも取り上げたいと思います。



メンテ

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