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[2279] 未来社会を考える < ヒットラーの予言
日時: 2015/05/27 18:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TUwY8d8w

ヒトラーの予言──2039年の未来図について

●以下は、ヒトラーが語った言葉(予言)である。
『1999年以後』(祥伝社)から抜粋


「…“2つの極”はますます進む。1989年以後、人間はごく少数の新しいタイプの支配者たちと、非常に多数の、新しいタイプの被支配者とに、ますます分かれていく。一方は、全てを操り、従える者。他方は、知らずしらずのうちに、全てを操られ、従わされる者たち。

しかも進むのはそれだけじゃない。人間がそうなるにしたがって、地球にも宇宙にも大変動が起こるのだ。1989年以後、人類には宇宙から、かつてないカタストロフィ(大破局)が近づくのだ。

若いころ私は、『我が闘争』に、いずれ人間が大自然から復讐されると書いた。それが1989年以後の状態だ。人間が思い上がって宇宙の自然を犯すため、宇宙が人類に復讐の災厄を下すのだ。そしてそれが人類を、想像を絶する究極の状態にみちびいていく。私が生まれてから150年後、21世紀に来る究極に。私自身もそれを霊感ではっきりと見てさえ、信じられないような究極に。」

「…(20世紀末は)たとえ表面はデモクラシーや社会主義の世であろうとも、実質はナチズムが支配していよう。デモクラシーの国も社会主義の国も、われわれナチスの兵器を競って使い、殺し合い、社会は私の望むとおり、強く支配する者と支配される多数者に分かれていよう。それは天変地異の期間でもある。人類は大自然から手ひどく復讐される。気候も2つに分かれ、激しい熱と激しい冷気、火と氷、大洪水と大旱魃(かんばつ)が代わる代わる地球を襲うだろう。」

「だからその中から『超人(ユーベルメンシュ)』が現われる。もはや普通の人間ではそういう危機を制御できない。それに対応するため人類は超人たちを生み、超人が世界や気候を、人間や戦争を治めることになる。
つまり天変地異の下に生きる多数者。それを支配する少数者。その陰で実質的に世界を操る超人グループ。これが、私の予知する21世紀の世界である。」

「しかし諸君、さらに重大なのは、私がいま、これを話している100年後のことだ。それを告げるためにこそ、私は今日を選んで諸君を招いたのだ。今日から100年後といえば、すなわち2039年1月25日だ。

諸君にはわからないだろうが、そのとき人類には真の究極の状況が起こっている。そのとき人類は──少なくとも、いま言っているような意味での人類は、2039年1月、地球からいなくなっているのだ。」

「それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。いくつかの国は崩れて燃える。毒気で息絶える街もある。

2000年以後は、それが一層ひどくなる。2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。アフリカと中東も完全に荒廃する。結局、いまの文明は砂漠しか残さない。

しかし人類はそれでも滅びない。わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。いまの意味での人類は、そのときもういない。なぜなら、人類は2039年1月、人類以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。」

「それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。

残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。

神人のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。

いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。」

「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。

ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。

こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。
そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」


(引用終わり)

ヒットラーと言うイメージでは、このような思想を思い浮かべることはできません。
どこまで、真実であるか解りませんが、ヒットラーでなくても、このような歴史観があることは興味深く、また概ねは現代及び未来社会を暗示している様です。

メンテ

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人類の環 3 ( No.17 )
日時: 2015/05/30 13:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xD7jqSw2

第5章 二十一世紀の事)

今まで述べてきたように、二十一世紀の初頭の人類は未曾有の繁栄を遂げ、絶好調のようにみえますが、社会の各システムに内在する危機を確実に孕んでおります。 二千年以上前に、ソクラテス・孔子・キリスト・釈迦が存在したように。 数百年まえに、デカルト・カント・アダムスミスが出たように、今人類は新しい考え方を必要としています。

しかし、これだけ複雑になった社会です、単に1人の思想家、一つの論理だけで足りるものとは思いません。 むしろ思想と言う概念そのものを考え直す必要があると思います。 資本主義経済体制の限界・民主主義体制の限界を乗り切るためには、我々の心の問題のコントロールも不可欠です。 具体的には見当もつきませんが、方向性については提案してみたいと思います。 大それたテーマですが、日ごろの考えを発表したくこの一文を作成しました。


イ 経済体制の事

グローバル化を合言葉のように現在の企業はどの分野においても巨大化を目指している、目指さねばならない状況に陥っているが、それが完結したところで良い結末が待っているとは限らない。 究極の巨大化は大変な閉塞状況を導いてしまう。 大なる事が経営を解決すると言った迷信から企業は目を覚ますべきである。

むしろ各企業は適正規模がどのくらいかを策定すべきである。 また現在では各企業による生産物資の内容は全て企業の選択に任せている、一部の医薬品等を除き、生産の内容に国家が介入することはない。 一方で人々の生活は経済システムに翻弄され、就業の面でも消費の面でもまた社会施設の整備の面でもアンバランスなところが多々見られる。

これらのことの根本を考え直してみればどうか。 我が国の国土開発の状況をみても、従来は産業育成・生産性向上が中心テーマであった。 発想を転換して、人々の生活様式・環境の整備の面から企画すればどうなるのか。 豊かな社会であることが前提だが、大都会に集中する居住形式を、せめて老後を送る人々が地方の自然の中で生活できるようにする事も出来るはずです。

人々の生活のあり方そのものに関心を向ければ、多様な企画が浮かんでくるはず。 その方向を主体に考えるなら、いままでとは異なる社会整備の形態が浮かぶはずです。 IT技術の発展により、生産拠点の分散もできるはず。

生産と消費のサークルも、より身近な範囲のシステムと認識できるものが構築できるはずです。 ただ現在のように自国の企業が世界で有数なものに成長する事が一番大切に考えているようでは政策の転換はできない。 けれども国全体がまんべんなく潤うことの方が、結局より豊かな生産を喚起することに気づかねばなりません。

このように世界が、国連・各国家・地域単位で地域にあった社会の整備を目指し、地域にあった物資生産の企画を持つ事、企業による積極的な新製品の開発意欲は大切な要素ではあるが、物資生産計画を地域ごとに策定することも今後必要になると思われる。 各企業による巨大化競争は、もはや企業自身では止められない。

政治権力(民衆)が介入して、ある程度の計画経済の考えを取り入れることが、結果として企業にとっても、我々にとっても良いのではないか。 そのためには同時に社会のあり方を変えねばならない。 我々は究極の企業の巨大化・システムのグローバル化が最終的に資本主義体制の墓場となることを理解しなくてはならない。 またこの事は地球的規模で進行する必要があり、その実現には途方もない労力が必要と思われるがいかがでしょうか。



ロ 余暇の事

随分以前のように思われる小学生の驚愕的な殺人事件以来、次々と無意味な殺人が横行している。 また1人が突飛な事件を起すとすぐに模倣犯が現れる、報道でみる我々も慣れてしまった感がある。 また我が国の青少年の無気力さは他国に比べ目にあまるものがある。

大学生と言ってもろくに本も読めないものが沢山いるのは事実のようだ。 共通する性情は自分にとって都合の良いこと、自分が興味を持っているごく一部の事以外は、精神を集中して対処できないことである。 このようになった根本は、しつけの問題でもなく、教育の問題でもない。 またまた歴史を遡ると、遺跡や考古学的資料でしか確認は出来ないことだが、ギリシャ以前の世界で、貴族階級に属する人々は、自ら生産に従事することもなく、さりとて現代のように沢山の娯楽があるわけでなく、余暇を持て余していたように見受けられる。

彼らにとって究極の関心は人の命を弄ぶ方向へ行ったと思われる。 人同士の決闘やライオンなどとの殺し合いなどが常時行われていたことが遺跡で証明されている。 後にもたびたび起こるジェノサイド(大量殺戮)の例を出すまでもなく、時として人は人を殺す事に何の罪悪感を持たないらしい。

余暇を持て余した現代の人間が、殺人志向へはしる場合も十分考えられることである。 民主主義のなかの自由の穿き違えを云々する前に、人々と余暇の関係を検証してみよう。 古代において一部の貴族社会以外は、生きるための食料の確保や王たちのための労役で休息以外の余暇などは考えられなかった。 ギリシャ以降長く続いた封建社会ではどうであったろうか。

まず支配階級の人々にとっては、隆盛した文化・芸術の世界があった、それらを媒体とした社交の場が余暇を吸収したと思われる。 一般の人々は、生産活動のため、そんなに沢山の余暇は確保出来なかったが、簡単なゲームに興じ、遊芸を起こし、たまには巡礼などの旅をした。

各地の市民革命から始まった、民主主義・資本主義の世界になって、個人の自由な生活が担保されるようになると、それまでの慎ましやかな余暇の過ごし方は、より享楽的嗜好へ変質し飲酒・遊芸等を扱う余暇産業も隆盛となってきた。 また文化・芸術を楽しむ面でも従来の貴族たちと変わらなくなってきた。 だが一部の人を除き、人々の生活は生産活動が主体であることは間違いなく、余暇の時間はあくまでも余暇として消費されていた。

ところで現代ではどのようであろうか。 週休2日制や有給休暇など、人々は自身の余暇を何気なくは過ごせなくなってしまっている。 極端に言えば人生の三分の一は余暇なのである。 ギリシャの昔から貴族たちが味わってきた優雅と退屈と向き合わねばならない人々が沢山輩出してしまった。 さらに現代はすべてのテンポが速いので、昔の貴族が向き合っていたより数倍の余暇を消化しなければならない。 人々の基本的な生活観自体が変質してもおかしくはない。 そこでは昔の人生訓など通用しない、哲学もピントはずれなものに映ってしまう。

現代の社会は、人類が営んできた生産主体の生活から開放されかけている。 この先は、殆どの人類が労働することなく生活する空想科学小説の世界が待っている。 随分と極端な言い方になったが現代の精神的病根の本質はこのあたりまで達していると思われる。

長い前置きとなったが、現代の若者にとって誤った余暇の認識をさせない方策が必要であると思います。 前にも申しましたように、現代の子供には、働くことの意味が充分に理解できません。 その上、親を含めた成人達も自身の余暇の消化に懸命です。 就労にたいする本物の醸成できないのも無理はありません。

また親を含めて物事に真摯に取り組む大人の姿よりも、適当に余暇を消化する大人の姿をみる機会が多い子供達に物事に真摯な態度を要求するほうが勝手と言うものです。 現代の子供たちは皆、昔の貴族の子供達と同様の環境にいるのです。

しかし、この世のなかで全ての人間が貴族になったのでは社会が持ちません。 現代の大人達が今のところ取りあえず楽しんでいる余暇の問題は、このように大変な問題を内包しております。 大量の物資のなかで、労働の必要のなくなった人々が次に何を目指すのか、旅行やゴルフや釣りがあるではないかと簡単に片付けられるものではありません。

余暇を主体とした人間のあり方の研究が必要です。 経済システムと同時にこの問題を解決しなければなりません。 人間は本格的な余暇文明を醸成しなければならなくなってきております。


ハ 自由の事

余暇と言う飛び入りが入ってしまいましたが、民主主義の限界の問題とも無関係ではありません。 民主主義の第一定義は権力の主体が一般の人々にあることです、これを抜きに自由・平等の問題は成立しません。 良い民主主義を維持するためには人々が無責任であってはなりません。 民主主義と言ってもただ空念仏を唱えればよいのではありません、他の体制と同じように沢山のルールがあります。 そのルールを守ることが民主主義を守ることです。 個人の自由はその範囲内で保障することであり。 君主制であったころ、君主のために個人の権利を犠牲にしなければならなかったような事態を排除することがうたわれているのであり、何でもかんでも自由にやりなさいと奨励しているわけではありません。

現在は何か束縛する事があれば、自由の侵害などと大騒ぎしますが、束縛するルールは本来私達自らが私達のために作ったものです。 封建時代のように君主の勝手で決められたものとは本質的に違います。 限りない自由の社会とは、社会組織そのものの否定です。

報道の自由の名目をたてに、実際の社会の倫理・道徳は退廃のきわみを見せております。 自主性を重んじるといった名目で教育した結果、勝手気儘な若者が輩出しております。 また先人に習う事を軽視した結果、小手先だけの知識を振り回す軽薄の輩が増えております。 こんなことで人々は本当の自由を手に入れることが出来るのでしょうか。

急がば回れと言う名言があります。 子供達に目先の自由を押し売りして結局、真の自由の意味のわからない若者をそだてて恥じない教育関係者自身も自由のはき違えをしております。 盲目的自由の追求は民主主義体制の崩壊をもたらします。

正しいルールを守る事の中に、本当に自由になれる範囲が見出されるのです、正しいルールを知らないものには自由も制限されます。 正しくないルールに抵抗すること、改善する事は正義の問題であり、自由であるか不自由であるかの問題ではありません。 自由を守るために正義の心をもって正しくないルールと対決することは、我を通してルールを破ることとは違います。 前述の余暇の時間は、個人にとって自由な選択が前提となる世界です、余暇の増加はより深刻な自由のはき違いをもたらす可能性があります。 禁煙運動が板についてきたように自由のマナーを形成し定着させて欲しいものです。

(第6章 まとめ)

映像を主体とする情報の氾濫のなかで、現代の青少年が正常な自我を形成する事自体が至難の業です。 人間にとって正常な自我の発育がどれほど大切かはここでは言及しませんが、性的衝動をはじめ、世の中の裏表を次々と詰め込まれ、ゲーム等の擬似体験の影響を連日受け続ける子供達に我々大人は何を期待しているのか。

その上、彼らが就くべき職業の窓口は極端に減少している。 大人自身が、所謂、勝ち組・負け組に厳しく選別されてゆく状況のなかで、社会は二極化がすすむ。 双方とも十分すぎる余暇をいだき、それぞれの論理で社会を破壊に導く、そこにはもはや自由な経済活動もなく、民主主義もない、まるで人類の末路をテーマとした映画のような光景が、50年後の我々の世界のように感じる。

そうはしてはいけない、資本主義の妄想も民主主義の妄想も今、我々はたださなければならない。 人類は精神的許容量を超えて物質的に進歩しすぎた。 と言うよりも大量の物質を手にして精神が質を変えてしまった。 二十一世紀はそれを矯正しなければならない。 人類は経済活動全体を制御する方法を身につけなければならない。 物質の氾濫をコントロールしなければならない。 経済活動そのものは本能に基づくものであるから、我々は人間の本質を見直す領域まで立ち入らねばならない。

プラトンが役に立たないのではない。 ショーペンハウエルが役に立たないのではない、キリストも必要だ、人間の本質は変わるものではない、彼らの言っていることは全て間違ってはいない。 ただ人々のほうが自らの本質を見失っているのだ。 しかし現代の状況で安定した精神を維持することは並大抵ではないと思う。 昔から沢山の思想家はいたが、一般の人々にとってけして身近な存在であったとは言えない。 当時の人々の考えることの総体が彼らであり、より究極的に表現しているのが彼らであっただけであり、宗教の教義のように人々に直接的に喧伝されていたものではない。

しかし現代の我々は大部分が自身を見詰め直す必要に迫られている。 先人の意見も真摯に検討しようではありませんか。 我々自身が意識的に現代に応じた我々のあり方を考えるとき、それを象徴する思想家達が現出して体現してくれるのではないか。 数百年前のルネッサンスのように、切実なる我々の意思が集約されたとき、新しい思想が現出するのではないか。 やがて現れる思想は超人間の領域をも抱合しているかもしれない。 そしてその思想は今までになく人々を束縛するものであるかも知れない。 またそれは同時に独裁に結びつかないシステムでなければならない。 安易な思想は我々をまた異なった方向の不幸へ導く。

いよいよ真剣な民主主義の本分が問われる時代の到来が近い。 矛盾する方式だが、勇気を持って確立できるように努力しなければならない。 資本主義経済システムの限界を認識し、そのシステムに振り回されない社会の仕組みを考え出さなければならない。 グローバル化が必要な面もあるが我々の身の丈にあった生活環境を合わせ持とうとする方向のなかに、来るべき社会のヒントがあるように思う。 一方で我々の精神は我々自身が創出する科学と真正面から対峙してゆかねばならない。 数十年の歳月を要するとも、我らが子孫の繁栄のために努力を始めなければならないと思います。

(終わり)
メンテ
自滅・自殺は近代文明の指導者達の最後的運命と言いたかったのです。一般大衆は生き延びて行くでしょう。 ( No.18 )
日時: 2015/05/31 01:11
名前: 青トマト ID:KJfCz9Og メールを送信する

一般大衆までが自滅・自殺を目指すとは全く考えておりません。

古代エジプト文明もそうですし、

何よりも旧約聖書がそう書いています。

アダムとイブの間違いが失楽園を招いたと、創世記でハッキリと指摘しています。

これは、メソポタミヤ地域に栄えた文明が、指導者であるアダムとイブが間違った考えを持つにいたって、自然の理言い換えれば神の意思に背くに至ったから、失楽園これは古代文明の栄華を指していますが、それを失ったと書いているということなのです。

今が、その通りなのです。

金融覇権帝国主義の思想と行動が、アダムとイブなのです。

それで、楽園追放となります。失楽園です。

アベはその下男です。追放です。

失楽園の後でユダヤ人とアラブ人はさ迷うに至った訳ですが、日本人も今のままでは、彼らと同様の運命が待ち受けるかもしれませんね。

アダムとイブと共に滅ぶか…それとも。

何とかするのでしょうかね。

私達はやるべき事をやるだけですが、他人を強制は出来ないし、訳も知らずに動いてくれても、付け焼き刃は落ちるだけですから役に立ちませんしねえ。

保証なんかなにも出来ない、私達には、ということになりますわねえ。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.19 )
日時: 2015/05/31 16:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:f9BGfbwE

青トマト さんの解釈も、私と同じようなものと思っています。

つまり

>アダムとイブの間違いが失楽園を招いたと、創世記でハッキリと指摘しています。

これは、人間と言う動物は、この世で一番欲深く、邪心の持ち主として生まれてきたと言うことになります。
そうであるならば、

>金融覇権帝国主義の思想と行動が、アダムとイブなのです。

この言葉は、この世の邪悪なもの、組織、人間は、もともと人間の本性の反映であり、信仰心で誤魔化していますが、民衆の邪悪さの本当の姿なのです。

キリスト教もイスラム教も、同じ発想で誕生し、それで人間を救済できるものと思っていましたが、人間の邪悪さ加減は想定外でそうはいかなかった、と言うことです。

こう言えば、全てが民衆の責任となり、政治、経済の分野で邪悪なものを糾弾する意味がなくなると考えられがちですが、そうではなく、宗教的な理想論からではなく、神の力の助けを借りず、人間自身で規制を考えねばならないと言うことです。
ですので、

>アベはその下男です。追放です。

アベを糾弾することは、すなわち

我々自信を糾弾しなければならないことになります。

我々自身に、その反省なくして、いくらアベを追放しても

第二のアベ、第三のアベが出てくるのではないでしょうか。

次から、いよいよ本題に入ることにします。




メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.20 )
日時: 2015/06/01 12:29
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:LMeP4TfU

今までは現代社会が直面する問題点を、より深いところで取り上げました。
現代社会の問題点の大きな要素を集約すれば、経済的格差と共生社会に対する価値観の喪失と思います。
福祉国家の成り立ちが危機に貧しているとも言えましょう。

このような問題に対処する為に国家はそれなりに努力をしていることも承知です。
しかしながら、それは望むべき解決へ向かえるものとは考えられません。
現代社会の問題点を生み出す原因(影響力)の方が優っているからです。

その問題点を生み出す影響力とは何が考えられるか、
一つは生存競争(要するに経済)がグローバル化しすぎて、個人的な努力でなんとか切り抜けられる範囲ではなくなってきているのです。
今までやってきた生活手法では自分自身が守れなくなってきているのです。
と言うことは、個人の生活(生存)を保証する為には、国家が介入しなければならなくなってきているのです。

このことは、まだ、最終段階になっている訳ではありませんが、そう言う時代が目先に見えてきています。
それは経済の流通のシステムの問題ではなく、科学技術の発達に伴う生産力の向上が人間の働く機会を奪っていることと、流通システムのグローバル化が、同じように流通に関わってきた人々の働く機会を奪っているのです。

前にも書きましたが、それは先進国ほど失業率が高いと言う現象で現れてきています。
先進国と言いましたが現在のところ、実際はギリシャ、スペイン、イタリアなどで顕著になっていますが、それは先進国の中でも弱い国から始まっていると解釈するべきで、やがて全ての先進国に広がることでしょう。

また、現在の失業率がそれほどでもない先進国は、概ね開発途上国への物資の供給をすることで、破綻を免れていますが、世界的に生産技術が発達して来ている現在、いつまで、その様なことで済ませられるかも問題です。

省みますと、人間社会は、物々交換の時代を脱してから、衣食住を満足させる為に延々と働くことで生活手段、通貨を得ていました。
一部の権力者、富裕層はいても社会全体は、このような社会を構成してきました。

その中でも、最も重要なのは食料の確保で、天変地異の為に危機に貧したことも沢山ありましたが、環境の変遷もありなんとか切り抜けてきました。

現在の危機は、そうした循環的なものではなく、人間自身が作り出した要因(生産技術の発達)によるものであり時期がくれば復活するものではありません。

多くの経済専門家は、新しい産業の交流とか、福祉の分野でその不足が補えると言ってきました。
景気が良くなれば、消費が増え労働市場が活性化するとも言ってきました。

もちろん、それは、それで成り立つ面もあるでしょうが、それで必要な労働市場が確保できると言う証明はありません。
危機の度合いの判断の問題です。

現在、生産技術がまだ未発達の、中国、インドなど世界の人口の1/3を占める国々が、先進国並みのレベルに達すれば、そのような悠長なことで済まされるでしょうか。

世界の100億の人口の半分以上が、新しい産業、福祉の分野で働くことができるでしょうか。
30年、50年後の世界を考える時、このような無責任な予想に任せて安心していられるでしょうか。

30年、50年は、すぐ、先のことです。
このような観点から見て、現在の経済の施策、将来への対応の方針に誤りはないかと考えるべきであります。

何が問題かと言えば、現在の経済政策は概ね100年も前の資本主義経済の理論の延長でより考えていないからです。
その理論がもたらした結果が現在であるのに、それを修正する為に、同じような発想でやっても効果は知れています。

否、知れていると言うよりも、人間社会の方が、資本主義の理論を超えて暴走していると考えられるでしょう。
何よりも安価なものを求める、便利さを求める、そう言う気持ちが経済のグローバル化の推進力となっているのです。

しかしながら、そのことは我々自身の繁栄であり、幸せであるので、それを否定する訳にも行かないことが問題です。

また別の分析があります。
グローバル化を推し進め、それによって利益を得ているのは巨大資本であり、金融資本であると言うものです。
多くの経済専門家は、このシステムを取り上げ現在の問題点の解決に結びつけようとしますが、それは二つの理由で成果を上げることはできません。

一つは、人間の利益追求を社会として認めているからです。
大なり小なり経済活動と言うものはエゴの塊なのです。
どこまでが許されて、どこからが駄目と言う線引きなど効果的にはできません。
もう一つは、グローバル化の利益を、我々自身が求めているからです。

いずれにせよ、従来の経済の施策では、今まではともかく、遠い将来の社会を維持することはできないことを認識するべきであるのです。

さて、ここまでは、結局は解決策は絶望的と言うことになります。
総花的な解決策を模索しても、何も出てこないでしょう。

結論から、申し上げますと、
既成の資本主義のシステムのままでは、避けることが出来ない失業者を出さない方法を組み入れることだと思います。

別の方法に、ベイシック・インカムを採用して、仕事のないものに生活を保証する(生活費を国家が渡す)ことがあります。
これは、後述の人間精神の崩壊につながるので、絶対にしてはならない方法です。

>既成の資本主義のシステムのままでは、避けることが出来ない失業者を出さない方法を組み入れることだと思います。

これが絶対に無理なことか否か、
少なくとも、あらゆる面から、その検証はするべきであるのです。

その方法についても後述することになりますが、現在、直ちに実践できるとも思いませんが、そう言う方法も考えた上での経済の政策を取るべき時期にはきています。

ですが、実際の政治は、TPP参加などと、無条件にグローバル化を進めるなど、将来の政策の転換に障害になることばかりをやっています。

このような意味でも、未来社会を想定した政治を語る必要は時期早々でもないのです。

ヒットラーの予言を噛み締めてください。

>こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.21 )
日時: 2015/06/01 16:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:LMeP4TfU

>既成の資本主義のシステムのままでは、避けることが出来ない失業者を出さない方法を組み入れることだと思います。

上記の内容について直接触れる前に、我々は社会のルールの有り様を見直す必要があります。

現代の社会は、民主主義の美名の下、個人の権利、自由が、何でも希望すれば叶えられると勘違いしています。
いつから、そのようになったのでしょう。思うようになったのでしょう。

最近は、自宅に表札を電話帳に自宅の電話番号も載せず、社会のサービスが受けられると思ってます。
または、自分が社会からはみ出してもやっていけると思い上がっています。

老人介護の問題でも、何かと言えば、介護が面倒な老人を施設に預けることばかりを思います。
社会が成熟して十分な余裕があればできても、その様な状況ではないことは自明の理のはずです。

それができる人間は、家庭は出来るだけの努力をして老人介護をするべきなのですが、大概の家庭では、それをしようとしません。
社会の実態と合わないのに自分の勝手を優先するのです。

その様なことは無理もないのです。
結婚生活においても、自分の自由にならないと、苦労が多いとすぐさま離婚に走ります。
結婚どころか、社会に出て職場の雰囲気が自分に合わないと、すぐさまやめてしまう若者も多くいます。

ともかく現代人は苦労など、何もしたくはないのです。
自分の好きなこと、権利、自由の主張が、まず前面にあるのです。

ですが実際は、それほど自由にはならないことを理解しようとしないのです。
このような風潮が、あるべき社会の変革を妨げているのです。

そうして、このような考え方が市民権を得ていて、誰もそれを非難はしないのです。
年寄り自体が、その様な考えになってしまっています。

最近の年寄りは、年金制度の充実の恩恵を受けていて、結構な経済力だけはあります。
その為に、年寄りの我が儘も昔に比べて大いに膨らんでいます。

また、年寄り自身が若い世代の邪魔をしたくないと介護を拒む傾向もあります。
それも贅沢と言うものではありませんか。
このような社会であれば、世代間の助け合いを一番に考えねばならないはずです。

年寄りが、そうであるので、若い世代は、なおさらのこと、自分の都合を優先して考えます。
最も、それに見合う税負担に応じるならば別ですが、富裕層はともかく社会全体では、それもできない状況であることをしっかりと認識すべきではありませんか。

要するに現代社会といえども、天国のような環境にはないのに、頭の中だけは天国を思い描いてはばからないのです。
その根拠が、民主主義の精神なのです。

民主主義さえ奉じていれば天国になるとでも勘違いしているのです。

話を戻しまして、
民主主義と言っても、自ずから社会のルールは毅然として存在しなければならないことを思い知るべきです。
考えて見ますと、現在でも刑法に関わらず社会の規範は厳然と存在します。

経済の領域でも、昔は電力、水道、電話、交通などは、公的機関によって運営される事を容認してきました。
煙草、酒類の販売も厳しく規制されています。
医療関係の分野も、結構な規制を受け入れています。

アメリカの禁酒法などは例外ですが、経済的なシステムの中でも、民主主義に反する規制は存在しているのです。
それは健全な社会、みんなの為の社会を維持する為の規制であり、国民は納得して受け入れてきたのです。

その時代に合わせた規制が必要で、それを受け入れる真摯な態度が国民に必要とされます。
安全保障の面などで、安倍のバカタレが言っている制約のことではありません。

何でも、かんでも民主主義を振り回さないで、必要なことは民主主義を見直すことができなければ、民主主義の名において、地獄へ異直線の歴史をたどることになるでしょう。

200年程度前に出てきた、民主主義の概念を、正しく理解しなければなりません。
現代社会の民主主義の有り様は、まこと、自分勝手なエゴ以外のなにものでもなく、それが結局は身を滅ぼすことになるでしょう。

未来社会を考えるためには、まず、この関門をクリアーしなくてはなりません。


メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.22 )
日時: 2015/06/03 11:26
名前: 贅六 ID:Yip9xfCw

スレッドの標題に合致してるか如何か判りまへんが、ワテは此のヒットラーちゅう男が、あの時代「国家社会主義ドイツ労働者党」即ち「ナチ」と言う政党のリーダーにのし上がって、その「党是」として唱えた三本柱「アーリア人優越主義」「反ユダヤ主義」「反共産主義」の内の「反ユダヤ主義}だけは中々エエ洞察力を持ってたなァ、て思てます。

考えても見なはれ、今の世界情勢の殆どはユダヤが制覇した“巨大資本”の猛威でもたらされた混乱と混沌でおますがな。

二千年も前に「国土」を失のゥたユダヤの民は、それ以来 分散、流浪、の民として世界を漂流し、ロンドンのシティで隠然と力を蓄えて居ましたが、自由の国“アメリカ”の社会で大きく勢力を伸ばし、アメリカの政権と確固たる協力関係を結んで、世界制覇への羽ばたきを始めよったんです。

此れは即ち、二千年の怨念に対する復讐の仕業とも言うべき行動で、彼等の復讐は留まる所がおませんやろねぇ。

もう一つおもろいのは、450年も前に、ウイリアム・シェークスピアがその戯曲「ベニスの商人」で、“シャイロック”と言あおまへんうユダヤ人の残酷性と冷血性を描いて警鐘を鳴らしてる、ちゅう事で、今の「イスラエル」ちゅう国を見ても、あんまり性質のエエ国やとは見えまへんわねぇ。

もっとコジツケて見てみたら、中世以来の西欧国家社会は「カソリック」以外の各宗教を排斥して来たし、その恨みと怨念が現代世界の不安定を招いてる、と言えん事はおまへんなァ。
メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.23 )
日時: 2015/06/03 20:58
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:9lXceqzY

>スレッドの標題に合致してるか如何か判りまへんが、ワテは此のヒットラーちゅう男が、あの時代「国家社会主義ドイツ労働者党」即ち「ナチ」と言う政党のリーダーにのし上がって、その「党是」として唱えた三本柱「アーリア人優越主義」「反ユダヤ主義」「反共産主義」の内の「反ユダヤ主義}だけは中々エエ洞察力を持ってたなァ、て思てます。

更に進んで、アルカイーダ、タリバン、イスラム国の活動を正義の味方と言えば、民主主義の名において、たちまち顰蹙を買います。

これについて以前にも書いてみました。

(キリスト教における贖罪と懺悔)

「贖罪」

1 善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うこと。罪滅ぼし。「奉仕活動によっ
て―する」

2 キリスト教用語。神の子キリストが十字架にかかって犠牲の死を遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらしたという教義。キリスト教とその教義の中心。罪のあがない。

※ ボーイスカウトや欧米における寄付金の立場は、これにあたります。

「懺悔」

それぞれの宗教における神、聖なる存在の前にて、罪の告白をし、悔い改めることをいう。

>仏教も懺悔

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。 また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。

>キリスト教の懺悔

告解はカトリック教会においては、洗礼後に犯した自罪を聖職者への告白を通して、その罪における神からの赦しと和解を得る信仰儀礼。現在のカトリック教会ではゆるしの秘跡と呼ばれている。

プロテスタント教会では罪の告白という言い方がされる。プロテスタント教会では、一般にサクラメント(礼典)とは認められておらず、また義務もない。

キリスト教では懺悔の事を告解とも言い、罪の赦しを得るのに必要な儀礼や、告白といった行為をいう。
教派ごとに概念や用語が異なっている。カトリック教会および正教会では、教義上サクラメントと捉えられているが、聖公会では聖奠的諸式とされる。プロテスタントではサクラメントとは看做されていない。


※ ここに大きな違いがあります。
仏教における懺悔は、主に修行僧が行うものであるのに対して、キリスト教では、一般の信者が聖職者を通して行う。

要するに、キリスト教世界では、懺悔さえすれば、全てが許されるのです。
ボランティア活動や寄付さえすれば、道義心など捨てても良いのです。
これがキリスト教世界、アングロサクソン世界の実態であるのですが、一般的なキリスト教の概念が、これを隠しているのです。

更に、ご丁寧にも次のようなことが言われているのです。

救い主はこのように言っておられます。

救い主はわたしたちにこう述べておられます。「見よ,…わたしは,すべての人に代わってこれらの苦しみを負い,人々が…わたしが苦しんだように…苦しみを受けることのないようにした。」
イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために,御自身にしかできないことを行われました。主の贖罪の効力をわたしたち個人の生活の中で完全に発揮させるには,キリストを信じる信仰を持ち,罪を悔い改め,権能を持つ人によりバプテスマを受けて確認され,聖霊の賜物を受け,神の戒めを守り,神聖な儀式を受け,主のようになるための努力をしなければなりません。主の贖罪によりこれらのことを行うならば,わたしたちは主と天の御父とともに永遠に住むためにみもとに帰ることができます。

※ 肝心要のことは、イエスのせいにして、自分たちは悪行の免罪符を手にしているようなものです。
教会に寄付をしたり、祈りを捧げたりすることで、何をやっても許されるなら、結構毛だらけ、猫灰だらけではありませんか。

もちろん、これは善良な一般信者のことではありませんが、ユダヤをはじめとした権力欲、金力欲の強い人間は、このようなキリスト教を十分に利用します。

民主主義も資本主義も、その運営においてユダ金共に完全に利用されているのです。
否、キリスト教にマインドコントロールされてしまっている、我々自身も、それを認めているのです。

メンテ
悪行の免罪符!! としてキリストの名を叫ぶ。日本では…それは…天皇を利用するのですな。 ( No.24 )
日時: 2015/06/03 23:09
名前: 青トマト ID:mLyyX8qI メールを送信する

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟でしたかねえ?

大審問官の前にキリストが突然現れて、審問官はキリストに、

「あんたに出てこられては困るんだよ、去ってくれ。」との主旨を言ったのですよね。

これが、日本では、天皇と政権担当者の緊張関係になって、

政権担当者に都合が悪いと、天皇を様々に圧迫したし、今でもしてるわけです。

で、創価学会では、この関係は、どうなるのでしょう?

学会幹部や池田大作と、お題目なのか日蓮なのか仏なのか?

都合が良ければ、それで良いなら、何でも良いか。

メンテ
ドストエフスキー ( No.25 )
日時: 2015/06/04 00:07
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:.ixe3YsY

青トマトさん、また興味ある言葉をありがとうございます。

カラマーゾフの兄弟も読んだことはありますが、何も覚えてはいません。
大体、陰気なドストエフスキーよりも、トルストイの方が好きでした。

>大審問官の前にキリストが突然現れて、審問官はキリストに、

>「あんたに出てこられては困るんだよ、去ってくれ。」との主旨を言ったのですよね。

ネットで検索したのですが、次のような場面の様です。


(5)「大審問官」

 「大審問官」の舞台は、16世紀のスペイン、宗教裁判の盛んな時代です。大審問官というのは、その裁判長、いわばその地域のキリスト教世界の最高責任者であります。そこへ、ひょっこりイエス・キリストが帰ってくるという話なのです。
 彼は人知れずこっそりやって来たのに、どういうわけか人々は皆、それがキリストであるとわかってしまいます。そこへ大審問官が通りかかり、キリストを捕えてしまうのです。大審問官も、それがキリストだと分かっているのです。その夜、大審問官は、こっそり牢屋のキリストを訪問し、こう告げるのです。

「お前はなぜ今頃、のこのこと帰ってきたのか。困るではないか。お前が去った後、キリスト教会は、実はお前の教えの上に築かれてきたのではない。本当は、あの時、お前と対決したあの悪魔の方が正しかったのだ。お前のせいで、キリスト教会はこんなに苦労をしたのだ。大多数の一般民衆にとっては、パンを与えられて、奇跡と神秘を見せられて、絶対的な権力の元に置かれた方が幸せなのだ。そのことを示してくれたのは、お前ではなく、他ならぬあの時の悪魔であった。」

 90歳になる大審問官にとって、それはこれまで誰にも言えなかった秘密でありました。それを突然、自分の目の前にあらわれたキリストに向かって、息せき切ったように、とうとうとぶち負けるのです。この大審問官は、人間とは自由の重荷に耐えられないか弱い存在であり、自由と引き換えにパンを授けてくれる相手にひれ伏すことを求める哀れな生きものであることを告げるのです。

 「知るがいい。わたしはおまえなど恐れてはいない。知るがいい。このわたしも、かつて荒野にあって、イナゴと草の根で飢えをしのいだことがあった。おまえが人々を祝福した自由を、祝福したこともあった。……だが、わたしはふとわれに返り、おまえの狂気に仕えるのがいやになった。そこでわたしは引き返し、おまえの偉業を修正した人々の群れに加わったのだ。……もう一度言っておくが、明日にもおまえは、そのおとなしい羊の群れを見ることになるのだ。われわれの邪魔をしにきた罪で火焙りになる炎に、わたしの指ひとつでわれ先にとおき火をかきあげる人の群れだ。われわれの火刑にだれよりもふさわしい者がいるとするなら、それこそはおまえだからだ。明日、わたしはおまえを火焙りにする。これで終わりだ」(p.288)。

 大審問官は口をつぐみますと、目の前のキリストが自分に答えてくれるのをしばらく待っています。相手の沈黙が、自分にはなんともやりきれない。老審問官としては、たとえ苦い、恐ろしい言葉でもいいから、何か言ってほしかった。しかしキリストは何も言わないのです。あのピラトの裁判におけるキリストを彷彿とさせます。
 さてこの大審問官とキリストとの対面、最後がどうなるかと言えば、次のようになります。(言わない方がいいでしょうか。私はよく最後まで言ってしまって、「ネタバレしちゃ、だめですよ」と叱られますが)。
 キリストは無言のままふいに老審問官の方に近づき、血の気のうせた九十歳の人間の唇に、静かにキスをするのです。そこで老審問官は、ぎくりと身じろぎをする。そして彼はドアのほうに歩いて行き、ドアを開けてこう言います。『さあ、出て行け、もう二度と来るなよ、、、、絶対に来るな、、、絶対にだぞ、ぜったいに!』そしてキリストは立ち去って行くのです。
 この「大審問官」は、創作ではありますが、とても真実味のある物語ではないでしょうか。彼は、民衆のためと言っていますが、それを言い訳のように用いながら、彼の心の中には、やはり権力への誘惑があったに違いないと思います。そういう意味では、この大審問官自身が、悪魔にひざまずきながら、この世界、そして皮肉なことに、キリスト教世界をうまく操れるすべを、悪魔から受け取っているのです。


(引用終わり)

ドストエフスキーはキリスト教に影響されたとされていますが、彼らしく一筋縄ではキリストを理解していないですね。
ある意味、キリスト教世界の微妙な難点をあぶりだしています。

キリスト教における「贖罪」と「懺悔」で言ったような事を裏付けられていると感じました。

メンテ
失楽園 ( No.26 )
日時: 2015/06/04 16:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:SdaVykX6

別スレッドで、満天下さんが、失楽園について次のように言っておられます。

「神が御創りになった最初の人間アダム、そのアダムとエバがヤハウエの神の意志にそむいたとして、楽園から追放される。「労働」とは、人間に対する罰として失楽園から始まったと、欧米人は人が働かねばならなくなったのは、この創世記に記されている人類の祖・アダムの罪を相続しているからだと、日常的にも自然にそのように精神に埋め込まれているようです。」

期せずして、人間にとって労働(仕事)は、生活を営む上で(社会を維持する上で)必要不可欠なものと定義されているようです。
それが、生産技術の発達で、多くの人が労働しなくても良いことになる事は、そもそも、人間の生い立ちの前提条件が崩れるものとなり、もはや神も仏もない時代、救い様のない時代へ向かうと言うことになります。

如何に科学技術が発達しても摂理に反する生き方が出来るものでしょうか。
人類は冒してはならない領域まで目の前にしていることになります。

その様な訳で、私の言いたいこと(持論)、人間は概ね働く事をやめてはならない。
能力があり意志のある人々に仕事を与えることは、何にもまして重要なことである。

生産技術の発達が、人間から仕事を奪う様なことがあれば、何らかの形で、それを補わねばならない。
一方で、民主主義、資本主義の原理は人類が勝ち取り、人類の幸せに欠かせないものであるならば、国家の力で、社会の力でこれに対処しなければならない。

民主主義、資本主義と言って、これが二律背反で不可能と決め付ける必要はない。
何ができるかを検討しなければならない。
将来は、神の摂理も抱合した民主主義、資本主義のシステムを考えなければならない。

経済の仕組みを考える以前に、人間に仕事を与える為に、作為的にでも仕事を確保することである。
例えば、第一次産業と言われる分野を興隆、復活させることである。

科学肥料が人間に害を及ぼすならば、手間暇かかっても有機農業を復活させることである。
林業を興して、地球の緑を復旧することである。
自然を元に返す為の産業を興すことである。

これらの分野は、経済競争故に打ち捨てられて来た分野でもあり、人間は人間社会の為に、復旧品しなければならない。
しかしながら、資本主義のシステムを取る限り、民主主義を守る限り、それは無理な方向であろう。

そこで、私は提案したい。

以上、言った事業の展開の為の財源は資本主義の論理以外から調達する。
要するに、通貨の増刷(ヘリマネ政策)にほかならない。
民主主義について触れたのは、この領域に関する通貨の増刷が民主主義(資本主義)の概念(公平)に反すれども条件付きでこれを受け入れる必要があるからである。

この為の国家の規制を受け入れることである。
また、それに伴う(食料自給を目的とした場合)交易の制限で生じる物価の不公平性を容認することである。

現代社会は、大規模生産、経済的競争のおかげで、多くの人が昔は考えられない物質、機械器具を手にし狂喜している。
テレビは各部屋に1台、電話は一人一人、自動車もほとんどの家庭が所有し、複数台ある家庭も少なくない。
食料は必要なものの倍以上作っては捨てている。

このような繁栄を否定するつもりはない。
が、そのうちの10%くらいであれば、思うようにはならない不自由を受け入れることができないものか。

人間社会の将来の安定の為に、それくらいの不自由を受け入れるべき時に来ていることは間違いない。
現在は、急激に来た天国のような幸せ感に浸ってはいるが、多くの人が、これではいけないと感じるべき時である。

そうした時に初めて政治は動く、社会は変わる。
現代社会は、色々な矛盾がで初めているが、その不快感を、実際の制度のせいにしているだけでは解決には至らない。

科学技術の発達は、人間の身の丈を超えてしまったのである、神(失楽園)の想定を超えてしまったのである。
これが問題であることを認識しなくてはならない。

とりあえず、今日はこの辺で。





メンテ

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