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[2279] 未来社会を考える < ヒットラーの予言
日時: 2015/05/27 18:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TUwY8d8w

ヒトラーの予言──2039年の未来図について

●以下は、ヒトラーが語った言葉(予言)である。
『1999年以後』(祥伝社)から抜粋


「…“2つの極”はますます進む。1989年以後、人間はごく少数の新しいタイプの支配者たちと、非常に多数の、新しいタイプの被支配者とに、ますます分かれていく。一方は、全てを操り、従える者。他方は、知らずしらずのうちに、全てを操られ、従わされる者たち。

しかも進むのはそれだけじゃない。人間がそうなるにしたがって、地球にも宇宙にも大変動が起こるのだ。1989年以後、人類には宇宙から、かつてないカタストロフィ(大破局)が近づくのだ。

若いころ私は、『我が闘争』に、いずれ人間が大自然から復讐されると書いた。それが1989年以後の状態だ。人間が思い上がって宇宙の自然を犯すため、宇宙が人類に復讐の災厄を下すのだ。そしてそれが人類を、想像を絶する究極の状態にみちびいていく。私が生まれてから150年後、21世紀に来る究極に。私自身もそれを霊感ではっきりと見てさえ、信じられないような究極に。」

「…(20世紀末は)たとえ表面はデモクラシーや社会主義の世であろうとも、実質はナチズムが支配していよう。デモクラシーの国も社会主義の国も、われわれナチスの兵器を競って使い、殺し合い、社会は私の望むとおり、強く支配する者と支配される多数者に分かれていよう。それは天変地異の期間でもある。人類は大自然から手ひどく復讐される。気候も2つに分かれ、激しい熱と激しい冷気、火と氷、大洪水と大旱魃(かんばつ)が代わる代わる地球を襲うだろう。」

「だからその中から『超人(ユーベルメンシュ)』が現われる。もはや普通の人間ではそういう危機を制御できない。それに対応するため人類は超人たちを生み、超人が世界や気候を、人間や戦争を治めることになる。
つまり天変地異の下に生きる多数者。それを支配する少数者。その陰で実質的に世界を操る超人グループ。これが、私の予知する21世紀の世界である。」

「しかし諸君、さらに重大なのは、私がいま、これを話している100年後のことだ。それを告げるためにこそ、私は今日を選んで諸君を招いたのだ。今日から100年後といえば、すなわち2039年1月25日だ。

諸君にはわからないだろうが、そのとき人類には真の究極の状況が起こっている。そのとき人類は──少なくとも、いま言っているような意味での人類は、2039年1月、地球からいなくなっているのだ。」

「それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。いくつかの国は崩れて燃える。毒気で息絶える街もある。

2000年以後は、それが一層ひどくなる。2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。アフリカと中東も完全に荒廃する。結局、いまの文明は砂漠しか残さない。

しかし人類はそれでも滅びない。わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。いまの意味での人類は、そのときもういない。なぜなら、人類は2039年1月、人類以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。」

「それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。

残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。

神人のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。

いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。」

「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。

ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。

こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。
そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」


(引用終わり)

ヒットラーと言うイメージでは、このような思想を思い浮かべることはできません。
どこまで、真実であるか解りませんが、ヒットラーでなくても、このような歴史観があることは興味深く、また概ねは現代及び未来社会を暗示している様です。

メンテ

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Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.7 )
日時: 2015/05/28 23:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ZJANAf0.

大雑把に取り上げてきましたが、要するに、現在、我々自信が当惑している矛盾、価値観の倒錯などの根源が、こうした中にあると言いたいのです。

西欧第三期文明(私が勝手に名付けています)は、ルネッサンスを契機として始まり、民主主義、資本主義の展開で成熟し世界の文明として展開してきました。

同時に、それはキリスト教的な世界観、価値観の集大成であったと言えます。
それで、文明的な危機として現代を取り上げれば、今まで言ってきたようなキリスト教が内包している諸問題にぶち当たります。

現代社会を否定、ないし修正した未来社会を考えるとき、何を修正し、否定しなければならないかを認識する必要があります。

その様な意味で、これまでの事を書いてきました。
また、現実的に西欧文明に挑戦しているものとして、イスラム教の展開があります。
イスラム教自体は、その発生期においてキリスト教と兄弟の様な環境でした。

しかしながら、厳密に考えるとユダヤ教の教えの解釈において、異なった立場を取った、その立場の違いが、現代の反キリスト社会と言う行動になっています。

このような意味で、イスラムテロや、イスラム原理主義の思想は西欧第三期文明にとっては挑戦者であることになります。

また、ここまでは多神教世界の価値観が謳われていません。
仏教的な価値観から、資本主義、民主主義を見直すことはできないものか、そういう考えが湧いてきます。

しかしながら、我々に留まらず、世界中がキリスト教的文明(価値観)にどっぷりと浸かってしまっています。
実際に、我々は、それ以外のものを想定すらできません。

それでも、

「聖書が教える人類の歴史の終焉とは」

このような発想がある現在、キリスト教的考え方の限界と言うものも理解しなければならないのではないでしょうか。

それが現代であると思います。




メンテ
情けなくなるのは、ごもっともです。既にヒトラー預言の有り様の政治状況ですから。日米共にね。でも…。 ( No.8 )
日時: 2015/05/29 00:10
名前: 青トマト ID:PPln04aM メールを送信する

ヒトラーが何故か預言能力があったとされているのですが…。

しかし、ヒトラーもファチマも私見では旧約新訳聖書の枠内であり、さらに拡げればクルアーン(コーラン)の枠内の事だと考えています。

旧約聖書として纏められたものの根本精神は、
これも私見なのですが、

レビ記の第26章と考えています。

そこでは、人間の自然秩序への逆らいが、どのような結果を招くかについて、戒めを、これでもか、これでもか、と書かれていて、私の愛読の最愛の文章であり、読むと涙を止めることが出来ない名文なのですが…これを記した人物の想いと悲しみと信仰の熱烈性に何時も撃たれるのです。

この26章の心をもって、旧約聖書の編集がなされたのではないかとさえ考えています。

尤も、勝手な推測なのですが。

http://ikitamizu.com/baible/old-03-Leviticus.html#26

近代帝国主義の国際金融資本の覇権の行きつまりも、近代日本の大日本帝国から今に至る歩みも、この26章で説明がつくと、私は考えていますが、皆様の御同意を望むものではありません。

日本でのアベ政権と米国の支配は、日本国民に差し向けられた敵であり、それらの敵による「懲罰」が日本国民に与えられていることになります。

私は横井庄一的日本国民の有り様を擁護し、弁明していますが、それは、私だからであって、私の擁護と弁明は、秩序には通用しないのです。

判っていることなのですが、私に出来るのは擁護と弁明なので、そうしているのです。

二発の原爆投下も原発設置と福島第一の爆発も、差し向けられた敵であり、懲罰なのです。

でも、聖書により、原罪から失楽園に至っている事を悔やみもがいているユダヤ教徒からキリスト教徒からイスラム(教徒)の彼らは、悔やみ悩む民でありますが、日本人は悩まないのですね。

このようにはね。ですから、不誠実であり、それを、すきになれないし、嫌いなのです。

学ぼうとしないから嫌いなのです。

次に回します。
メンテ
何故、聖書の枠内かというと、聖書の宣伝ではなく。 ( No.9 )
日時: 2015/05/29 00:26
名前: 青トマト ID:PPln04aM メールを送信する

逸脱したものは、自己破滅を目指し、自分で敵を造り上げて、その敵の手に自分の首を切り落とさせようとするからです。

国際金融資本が自分への首切り役人として選んだのが、主要な相手はイスラムなのであり、原始キリスト教に近いギリシャ聖教徒のロシアであり、さらには宗教的ではない中国であったのであり、それは本能的な選択と考えられます。

中国のほかの二者は終末論を信じていますから、敵の役割つまりは首切り役人をやってくれるのです。

OKと引き受けてくれるのです。これは、例えですよ。誤解なさらないようにね。

何故、自分で反省して転回出来ないのでしょうか?と普通の人は理性が働きますから、不思議に思うでしょう。

でも、犯罪を見ても判ることですが、外れきってしまうと、戻る機会を失ってしまうのです。

悪い仲間から離れられないといった、外的要因によるだけでなく、精神的にも後戻り出来なくなるものなのですよ。

稿を改めます。

メンテ
自殺、自滅を志向するのです。 ( No.10 )
日時: 2015/05/29 00:39
名前: 青トマト ID:PPln04aM メールを送信する

後戻り出来なくなりますが、自然の秩序は彼に、

自分から、自分を破滅させて幕引きに誘導して、彼を救済するのです。

その他に救いようがないからです。

自己破滅は自殺ではありませんから、他人にやって貰うのです。

戦争を起こして、自滅するのです。

日本人はなにも考えない能天気だから、これに付き合わされるのです。

そう、能天気は罪なのです。

罪だから罰を受けるのです。

私の弁明は効かないのですね。お上には。「お前の自己満足で勝手に語ってろ」との御返事ですよ。

新旧聖書がそして、それを継いだクルアーンが聖典なのは、この自然秩序言い換えれば、神意を述べて示しているからなのです。

「このようになるよ」と記されてあるからなのです。

現在は自己破滅そして自己断罪の渦中にあるわけで、外れた秩序に従ってきたものの程度に応じて打撃は大きいと考えられます。

無知も怠惰も、それに入りますね。そうだろうさ
メンテ
間違えてならないことは、聖書の民の行きつまりを自然秩序と誤解しないことですよ。 ( No.11 )
日時: 2015/05/29 01:05
名前: 青トマト ID:PPln04aM メールを送信する

日本人には元々が聖典がないから、聖典の民の行きつまりを誤解する傾向が濃厚です。

アダムとイブが人類の始まりではない。それは聖典の民においての始まりと解するべきことなのです。

簡単にかいつまんで書いて行くと、

生命の発祥は、地球内の自然から発したのではなく、
宇宙からの渡来であると現代では突き止められていますが、

人類そのものですら、宇宙からの渡来であるとの伝説すらあるのであって、

これは、生命が、
地球という奇跡の星に起こった極めて希な出来事であると言うことではなく、

宇宙における当たり前の現象であるということ、
ですから、
地球においての様々な生命の活動も岩石やマグマの活動も、太陽をエネルギーとしての活動であり、古代の人達から今まで、太陽を生命の元と考えて来たことは正しいことであり、

宇宙には太陽が幾つもあるのですから、そのような宇宙から生命の元が地球に飛来して生命活動を活発に営むにいたった事は、

決して、地球の奇跡でもなんでもないので、ごく当たり前の事なのです。

ですから、この秩序に反する行いをした人間界のごく一部のものたちが自滅に至るのは宇宙の自然現象に過ぎないわけです。

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A-29439

ここに安藤昌益の紹介文を参考に出しておきますが、これは彼を絶賛する目的ではなく、自然秩序認識が古代の思想をたまたま引き継いで残していた彼の著作に活かされていたことを紹介するためです。

残念ながら、彼には歴史観がなかったので、性急に当時の封建性の批判に終わってしまったのは残念です。

歴史的展開の必然性への認識、近代的学問への道を拓く見識がなかったのは残念です。






メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.12 )
日時: 2015/05/29 01:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:uvjGT80.

青トマトさん、こんばんわ。

常に、遅くまで起きておられるのですね。
ヒットラー云々は、こけおどしの興味を引く為に書いたものですが、今までにも言ってきたように、ヒットラーが破れていなかったら、現代社会は、どのようになっていたか、興味があるところです。

さて、キリスト教的な世紀末思想の源泉を、旧約聖書に求められています。
概ねは、そこからの引用、派生したものと思われます。

青トマトさんは、随分とお詳しいですね。
このような話に付き合って頂ける方があるとは思っていませんでした。

結局は、「自殺、自滅を志向するのです。」と言う方向性を示しておられます。

確かに人類は、数から言っても地球の資源に見合わなく増えているとも言えますし、制御出来ない科学の発達は核戦争後の崩壊した世界も想像させます。

大発生したネズミの大群が海へ向かって死の行進をするような事態は避けたいものですね。

一刀両断されるのではなくて、なんとか活路を見いだせないものかと、このスレッドを立ち上げました。

詳細にはまだまだこれからと思いますので、宜しくお願いします。






メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.13 )
日時: 2015/05/29 01:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:uvjGT80.

気がついて、とりあえず下記の文章に反応します。

>でも、聖書により、原罪から失楽園に至っている事を悔やみもがいているユダヤ教徒からキリスト教徒からイスラム(教徒)の彼らは、悔やみ悩む民でありますが、日本人は悩まないのですね。

キリスト教徒、イスラム教徒は悔やむ教徒であると指摘されています。
実は、ここが大問題なのではと、思います。

結局、人間は条件付きで神に許しを得ていることになります。
キリスト教では、フリーメイソンやイルミナティの発生する原因となり、イスラム教ではアラーのためには決死の行動を是認されることになります。

それが、色々な形で現在の状況を作り出しているのではないでしょうか。

日本人は!

それが、問題ではありますね。

ですが、悲観的には見ないようにして行きたいと思います。

メンテ
Re: 未来社会を考える < ヒットラーの予言 ( No.14 )
日時: 2015/05/29 15:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FelPAoRY

さて、始めに返りまして、現代社会が世紀末と言われる状態であるか、ないかの検討をしてみましょう。

冒頭に掲げました、ヒットラーのこの言葉、ヒットラーが、それほど人類全体の将来を憂いていたとは思えませんが。

>こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。

この様に人類の生存形態において2極化が進み、人類全体としての幸せの追求はできなくなる(まとまりはできなくなる)と言う事を言っています。

2極化の実際の内容は、経済的格差となって現れていて、ヒットラーの様に、労働の形態ではないですが、人類の精神的には同じようなものであると考えます。

要するに極端な2極化が進めば、固定すれば、社会は変わらざるを得ないということです。
ヒットラーが言う、ロボット人間とか規定ではなく、人類の経済的格差などは、古代からの常識であり、みんなが平等に暮らせた時代などありません。

ですが、ここに来て、なぜ、格差の問題が社会を文明を変えるまでになったのでしょう。
表面的には経済的格差となっていますが、現代のそれは、単なる経済的な程度の問題ではなく、最下層の人々は生存する手段がなくなってきているのです。

要するに、自然採集ないし自給自足でなければ生きて行くことが出来ない状況に追い込まれているのです。
格差なら、今までも辛抱してきたし、これからも辛抱できるでしょう。
ですが、収入が0ないし0に近くなれば、格差の問題で済ませられないのです。

生産手段の発達は、先進国ほど、労働市場を狭め、既に10%の失業者が出ることが固定されていて、ますます増えて行くでしょう。
そうして、これを放置すれば(30〜40%になれば)、国家(福祉国家)の使命は維持されず、今までの様な、人間社会は崩壊、ないしは変質してしまうのです。

これに対する不安が世紀末思想となって芽生えて来るものと思います。
それでも現在のところは、発展途上国の存在もあり、そこへ労働市場の捌け口を見出したり、国家の経済政策でなんとかなるものと思っているので、深刻に受け止めている訳ではありません。

ですが、予言にある、2039から2050年頃には、もう少し顕著になってくる可能性があります。

仏教の末法思想が釈迦の教えの限界を想定しているように、現代社会の世紀末思想は、キリスト教世界(価値観)の限界を感じていると言えるのではないでしょうか。

政治に対する無力感、理由の分からない犯罪の増加などは、それを予見させる人々の叫びと言えるのではないでしょうか。

もっと具体的に言えば、西欧第三期文明の中心、資本主義、民主主義の限界とも言えるでしょう。
ですが、資本主義も民主主義も人類に限りない幸せをもたらせました。

それにどっぷりと浸かっている現在、それを否定することは中世の魔女狩りの様な半目に会うことでしょう。

ここに民主主義と言うものを取り上げました。
今までの多くのことは経済の問題でしたが、限りなく解放された個人の権利、自由が、増え続ける「余暇」の時間に向けられる時、人間精神の健全性が保たれるか、否かと言う問題もあります。

人間の精神を束縛することが良いとは言いませんが、反対に、100億に近くなった人間、それぞれに権利、自由を保証するなどと言うような社会があり得るのでしょうか。

生きる為の束縛から解放された人間精神の暴走が心配されます。

生きる為の束縛から開放されると言う意味は、次の2通りが考えられます。
一つは豊かになり、時間を持て余す層、もう一つは生きる手段が無くなり自暴自棄となり、これも時間を持て余す。
余暇の問題は、その両方にとって危険な存在になります。

今、言ったような問題は、生きるために真剣で働かねばならない時代には、考えられないようなことでした。
色々な意味で、人間社会は根源的な見直しを必要とされていることが、ぼんやりと感じられるのではないでしょうか。

この時点で世紀末を訴えるのは時期早々でしょうか。
それにしても、予言と言うものは、随分と将来を見据えているものですね。
メンテ
人類の環 1 ( No.15 )
日時: 2015/05/30 13:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xD7jqSw2

次の文章は、10年ほど前に書いたもので(糾弾の私の主張欄に載せています)、ネットで活動を思い立った契機となるものです。
思えば、当時から来るべき人間社会の有り様と模索する事が目的であった様に思います。
ある意味、このスレッドで、再び出発点に帰ってきたようです。


(第1章 まえがき)

世界各地で頻発するテロ、感染の勢いが止まらないエイズ禍、一方で爆発する人口増に対応しようとして世界の資源の争奪戦があり、エネルギー消費の増大と地球環境の悪化など人類は世界的困難な問題に直面している。 科学の発達のスピードは人類自身がその環境に適応できる猶予を与えてくれない。

IT産業の発達による過多な情報社会のあり様は、人類の動物的本質を自覚出来なくしてしまっている。 グローバル化した資本主義経済体制は開発途上国のみならず先進工業国内にも体制に組み込まれない貧困層を生み出しながら、世界中に撒き散らしている過度の競争原理の行き着く先を見ようとしていない。

我々人類は、歴史的に確認されている数千年前から、我々自身の背丈にあった成長をとげてきた。 数十万年といわれている、ホモサピエンスの歴史全体からみれば急激かもしれないが着実な進歩であった。 その間に我々は多種多様な物資を生産することを覚え、指導者を中心とした機能的社会組織を作り上げて来た。

宗教的なものは人々の共通認識として早くから発生していた。 文字の発明・発達は人類の社会機構の整備・科学的思考を爆発的に発達させ、また現在に連なる宗教・哲学・芸術といった精神的内容をもった文明を形成した。 中学校の教科書のような内容で恐縮ですが、人類の問題が現在いかに屈曲点にあるかを証明したく今しばらく続けさせていただきます。

ギリシャ時代近くになると、我々の精神世界は生きるための生産から開放されて独自の発達をはじめました。 宗教ではユダヤ教・ゾロアスター教などの本格的な宗教がおこります。 またギリシャ時代は、数学のターレス・自然科学のデモクリトス・哲学のソクラテスなど一大繁栄期を向かえます。

やがて世界はキリスト教・イスラム教・仏教などが指導する宗教的影響の大きな社会を形成することになります。 政治的にみればこの頃は各地の王侯が支配する封建国家の時代です。 人々は十分に発達した自然科学のもと、ずっと以前に比べ、安定した生産に従事していました。

商業も隆盛になりシルクロードなども栄えました。 しかし流通の内容は特産品の交換が主で拠点ごとによる生産の競合は少なかったと思われる。 人々の生活は現在から見れば相当虐げられたものであったろう、しかし生産手段の発達により出来た余暇の時間が宗教的活動や文芸に向かえるようになっていて一面では安定した時代といえる。

その後、ルネッサンスと言われる時代を経て、人類の大躍進が始まった。 言わずと知れた人間の自由な精神の追求・封建社会の崩壊・産業革命・各分野の科学の大発達などによる社会の変革はあっと言う間に現代の社会を造りあげてしまった。 生産面での変化は特に工業生産の面で大きく、大量生産・価格競争などの要素が組み入れられ、アダムスミスが最初に主張したような、現代資本主義の隆盛が始まった。

人文の面では人間自身の探求が深まり哲学・文学・芸術が華を開いた。 ここ300年間の人類は、戦争による悲劇はあったものの、また地球上の全ての人種では無かったものの、とんでもなく豊かな繁栄を謳歌してきました。 そのスピードは空想小説が50年で現実のものになってしまうくらいです。

しかしながら、余りにも性急な繁栄のもとで、我々は何かを見過ごしてはいなかったか、また将来のために、落ち着いて思考すべきものはないかと考えるべき時期であると思います。

(第2章 経済の事)

自給自足で生計を営む根源的な生き方は、現在でも大災害に見舞われた地域などでは一時的にせよ脳裏に浮かぶように、生物としての人類はこれを忘れてはならない。 幸いに我々の社会での現実は進歩した社会システムの恩恵により手厚く守られている。

経済における資本主義の考え方は物質面における生産・流通を飛躍的に発展させ、現在の豊かな社会を形成するにいたった。 その原動力は我々自身の本能に基づいた物質的欲望を各自が競って取得することを肯定し、またその環境を整備したことである。

永い間続いた封建領主のための生産から、自らのための生産に移行できた時代(後述の民主主義の思想とも相まって実現した)から約300年の間、人類はガムシャラに現代まで行き着いた。 そして、その結果をただ喜んでばかりいてよいのだろうか、現在及び将来について考えてみよう。 地球上ではまだまだここまで至っていない地域のあるのも事実だが、先進工業国と言われている国々においては共通に次のような事態が現出している。

1 生産手段の発達により、地域で消費する必要以上の物質が大量に生産され、そのはけ口を必要としている。

2 生産手段の機械化・ロボット化により、余剰労働力が大量に発生しているはずである。 ただし現在は余剰生産品を他の地域でさばくことで、かつ発展途上国を中心にそれを受け入れられる状況にあるので表面上は重大視されていない。

3 生産手段の高質化に伴い、生産は大組織及びそれに関係する組織が中心となり、健全な労働意欲を持っているだけでは生産に従事できない多数の人々を生み出している。

4 企業は自らの利益追求のため、従来の衣食住に基づく主生産品以外の多種多様の商品の開発生産をせざるを得なくなっている。 これ自体は豊かな生活のため悪いことではないが、新しい商品の氾濫がやがて引き起こすだろう人間の精神面の荒廃を予想したとき手放しで期待してよいものだろうか。

5 膨大な商品生産がもたらす、資源・エネルギーの消費は地球環境を考えなければならない段階に来てしまっている。

6 先進工業国と発展途上国の生産手段の格差は広まるばかりで、人口の多くをしめる途上国との調整の問題は今後増大する。

過ぎ去った時代の状況を思い出してください。 各家庭の子供の目には、近所の左官屋さん・米屋さん・うどん屋さん等々、身近にはたらく人々が映っておりました。 子供にとって、おとなになることはそれらの何かになることと、ごく自然に体得しておりました。 また人々は働くきっかけは自身で手軽に見つけられました。

現在はどうでしょう、安定した生活手段を得るためには、どこかの組織に入り込むことが必要です。 組織の窓口はあちこちにあるわけではありません、また、その職業の多くはサービス産業・IT産業など形態としては把握しづらいものが多くなってきている。 沢山の子供達は就労の根源的意味すら希薄にしか意識できておりません。 このような状況がだんだんと蔓延してきております。

資本主義経済の理論的長所は、人々が誰でも能力・努力に応じて報酬を得ることが出来、各自がその欲望に基づき行動することにより、より豊かな社会を現出することでした。 現在ではその原点の思想に限界があることを現しております。 今や資本主義の経済体制は組織から外れた人々・余剰の人々を除外して進もうとしております。

また大量の余剰商品をさばくための競争は、人間社会での自然で必要な需要供給の関係を逸脱して進んでいます。 巨大組織による強引な物資の押し付け、システムの押し付けは地域の正常な社会基盤の発達を歪なものとしております。 企業はそのために開発した商品を出来るだけ沢山売り込むことで、より巨大化しようと懸命です。

多量の物資への妄想が我々の社会の全能の神となっています。 現在、我々は大量の商品と情報の中で狂喜して生活しております。 迫り来る危機を見つめようとはしておりません。 野生のライオンもその狩猟に当たっては必要以上の狩はしません、北海道のヒグマは必要以上の鮭は取りません。

資本主義経済体制も科学も我々自身が作ってきたものです。 享楽に任してシステムをコントロールする事が出来なければ、それが最後まで人類に幸運をもたらすとは限らないのではないでしょうか。

(第3章 自由の事)

産業革命が起こり、資本主義経済体制の確立とともに、物質文明は見事に開化しました。 封建時代、それ以前の時代と違い経済の仕組は人々のものになり、自分自身で自分達の幸福をつかめる事は誰もが当然のことと疑いません。 同じころから、民主主義の考え方が発達してきました。

ところで「民主主義」とは何を言うのか改めて検証してみましょう。 民主主義の第一定義は政治権力(国を統制する機能)の主体がそれまでの君主から人民に移行した形態を言う。 具体的には選挙で為政者を選び自らの社会と統治を委ねるシステムである。 別に人権(平等・自由等)を重んじる意味があります。 また一般的に民主主義を言った場合、社会主義的な考え方(人々はスタートにおいて平等である事を重要視する)を示す場合があり、自由主義(資本主義的な考えに基づき個人の責任で皆が幸福に暮らせることを理想としている)とは異なって使われる。 それと対比する、以前の封建制における人々の生活は映像や文字で見るばかりで、もはや実感出来ない。

かわりに人々は民主主義の時代の只中に居ることにより、民主主義の意味も自覚できなくなっている。 為政者を選ぶ選挙は人々の意思の総体であるべきなのだが、真面目に参加しようとする人がだんだんと減少している、選挙にも行かないくせに、政治の内容になるとやたらと不満を言う人々が増加している。

封建制の時代でも立派な君主も存在していた。 民主政治でも、我々の代表を真摯に選ぶ努力が必要なことをもっと意識すべきだ。 他方で民主主義の第一義を限りない自由と勘違いしている沢山の人々がいる。 民主主義制度の中であるからこそ、個人の自由が保障されているのだ。 また民主主義の制度と言っても、為政者が人々の代表と言うだけで、社会秩序を維持するための制約は厳然として存在する。 個人の自由と言っても無条件で認められるものと、社会のルールを優先すべきものがあり、その境界線の認識に差異が発生している。

論理的にみても、物事を限りなく分類すると、物事の数だけの分類となり分類の意味が無くなってしまう。 同様に限りなく自由を追求することで人々は自由でなくなってしまう。 なぜなら人々が自由でいられるのは他の人がそれを認めてくれている限りであり、ある人にとっての自由が他の人の不自由をきたすなら、そこには双方にとっての自由は無くなってしまう。 そして社会で生活をしている限り、全ての人々の限りない自由が保障されることはありえない。

過度の自由競争の結果待っているものは、昔の秩序無き時代の弱肉強食の世界である。 特に先進諸国といわれる国々に住んでいる人々は、民主主義になれてしまい、都合のよい自由の追求に狂奔しているように見える。 これは大量生産により手に入る多種多様な商品の取得欲と比例している。 大切な民主主義も、人々の認識を当初の精神から見直さなければ、やがて制御出来ない享楽地獄へ向かわせる事になるのではないでしょうか。


(続く)
メンテ
人類の環 2 ( No.16 )
日時: 2015/05/30 13:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xD7jqSw2

(第4章 心の事)

青少年の心の荒廃の問題が言われて久しくなります。 子供達の事ばかりでなく、大量の商品と情報(特に映像による)の氾濫の中で生活しておる現代の人々は。 時として人間としての自らを物質の中に埋没させ、個々の精神を狭い閉塞した世界に追いやってしまいます。

人間はあくまでも動物の一種であり、自然に頼って生活するものです。 社会の一員として人とのつながりも大切なことです。 家族を養い子孫を残すことは何時でも大変な苦労が必要です。 現在の社会システムを維持するための努力も必要です。 これらの根源的な思考が人々の脳裏に存在してこそ、我々の社会は安定しているのです。 これらのことは常々、大げさに自覚すべきであるとは言いませんが、心の奥底にはしっかりと持っていて欲しいものです。

しかし先に申しました様に、現実はこれらの事をすっかり忘れさせる位に享楽的に推移しています。 人々は物質的に豊かでありすぎるのです。 映像情報による、擬似の別世界の体験に自身を見失いがちです。 特に、青少年たちは、生きる事の現実を認知出来る環境におりません。 またゲームなどの映像情報に過度に接する彼らの中には、歪(いびつ)な社会観が醸成される場合がみられます。 今の若者にとって資本主義だの民主主義と言った概念すら希薄な意識しかありません。

人の心の問題を歴史的に概略してみましょう。 人類史に最初に現れる事象に呪術があります、また有力者の死後の世界を願う沢山の遺跡がある事は良く知られております。 やがて人々は宗教の形でより体系的な精神世界の問題に対応するようになりました。

3000年位前からは思想的(哲学)体系ができました、その延長に有名なギリシャ哲学・中国思想(孔孟思想)インド哲学などが各地で殆ど一斉に開花しました。 そこでは、人々の生きるべき指針を示しているのが特徴です。 人々はいわゆる賢人を見習うことで自分の精神的問題に対処しようとしていました。

次には宗教が人々をリードした時代がありました。 沢山の人々にとって信仰心・宗教の教えが心の支えとなり、社会的には不自由な封建社会に生きていました。

そして最初に申しあげた、産業革命・資本主義・民主主義の展開が始まる少し前から、人間自身の内面を問う哲学と総称する沢山の思想が出てきました。 心の面でもこの時代から現代が始まったといえます。 観念論・唯物論・経験論・実存主義とつづく沢山の展開は人間個人の内面を定義つけようとなされたものです。 結局そのいずれもが正しくしかし十分ではなかったと思います。

資本主義経済(最も一部では共産主義経済体制も起こっておりましたが)のなか、人々は自身の存在を自問自答しながら、生産に励み、豊かな個人生活を築き上げてきました。 たしかに地球的にみれば、ごく最近までは社会生活と思想は互いに補完しあっていたと思います。 しかし、個人の自由の意識に目覚めた思惟と科学の発達、特に医学(大脳生理学)の発達は観念的思考の限界を明らかにしてしまいました。

大量の情報は思想ではまとめきれない事象をどんどん提供します。 最近の若者は、哲学者が数百ページを費やして言う論理の隙間を直感的についてしまいます。

哲学が無用になったとは言いません。 どのような論理も無欠などはありません。 真摯な思考は必要なのですが、欠点を先に見てしまう若者の多くはそれ故に考える事を放棄してしまいます。 現代では哲学は引退間際の老人の位置にあり、力強く社会をリードできる体制にはありません。

同様に宗教の教えも一部の信仰する人々以外に力を発揮できません。 このように現代ははっきりとした心の指標のない時代となっております。 先史時代に荒れ狂う大自然に人々が全能の神を意識したように、現代では大量の物質と情報が無意識のなかで人間を支配しようとしております。 


(続く)
メンテ

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