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[2378] 人生論<現代に生きるとは
日時: 2016/02/27 08:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:feTh8YOA

現代社会は物質的に豊かになり、あらゆる情報が飛び交い、メディアによってほとんどの人の知るところとなっています。
民主主義の発想と相まって、人々は自分自身のの生き方を考えます。
そういう余裕があるのです。

物事の事象、生命の神秘も科学的に解明され、因果関係などは誰もが知っています。

インターネットの発達により、我々はあらゆる知識を瞬時にして取り込めます。
学者が何年もかかってまとめた知識も、30分もあれば自分のものにできます。
気儘勝手に過ごしている大衆も、時代が時代なら偉大な哲人、科学者、宗教家なのです。

言葉でこそ現せないが、先人が主張してきた様なことは、無意識のうちに体現しているのです。
宗教心についても同じです。

逆に言えば、現代の社会に生きる人々には、人生の指標がないのです。
民主主義は良いとしても、引き換えに人々は自分の人生を自分で切り開くしかないのです。
問題は、70億と言う人口、日本で言えば1億の人々が、皆、自分の人生を自主的に確立できるのでしょうか。

一般的に無気力、怠惰と言う現代人の性癖は、彼ら自身の内面的な葛藤の結果であり、それ以上のものを全ての人に自主的に求めることはできないのではないか。
このままで人類は幸せであるのか。

それを問い直して見ることも必要ではないか。
昔の人生論と対照するに留まらず、新しい可能性を探りたいものであれる。


(人生 その1)

私の住んでいるところは京都北部の田舎町です。
時折、京阪神へ車で行くのですが、途中の内陸部の過疎地域(と言っても私が住んでいる町とそんなに変わらないのですが)と通るとき、ポツン、ポツンとある家に洗濯物が干してある光景が見えます。

こんなところにも家族がいて、奥さんが毎日、毎日家を守って生活しているのだ。
何の刺激もないようなこの場所で、いったい何を張り合いに生活しているのであろうと。勝手に同情して人生の儚さを感じます。

そうして、その後で、何時もの事ですが、人生とは何であろうと言うことへ向かいます。
妻のことを伴侶とも呼ぶように、妻でなくとも人生には伴侶がなくては空しさに耐えられないのではと思います。

そういうものが何処から来るのかは、別の範疇の問題として、人は多くの人とつながりながら生きていることに心の安寧を感じることだと思います。

その結果、1軒屋の生活を寂しく思い、都市部の密集に我を忘れることになるのでしょう。
まあ、密集と言っても「隣の人は何する人」と言いますように密集の中の孤独と言う概念もあります。

また、単につながりと言いましたが、量的なつながりばかりではないはずであり、小さな集団であっても、その深さにおいて量を凌駕することも考えられます。

結局は、その1軒屋の家族が幸せであれば良いのだと、幸せであることを願って、私の心を納得させるころには、車は数キロ先を走っていることになります。

1軒屋の奥さんにとって、まったく御節介な干渉ではありますが、車で通る時、私自身の心が平穏であるときは繰り返し浮かぶ感傷です。

「人生とは何か」と問うとき、
もっともっと、赤裸々な答えを出すことがあります。

人生論の始めに言ってみたかった経験でした。
メンテ

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Re: 人生論<現代に生きるとは ( No.1 )
日時: 2016/02/27 12:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6i.z3m02

(人生 その2)

>結婚したくない人が増えている。

総務省の調査によると現在25歳〜29歳の未婚率は男性71.8%、女性60.3%なのだとか。これは10年前と比べても10%ほど高い数値です。

一体なぜ若者は結婚をしないのでしょうか。彼らのホンネをまとめてみました。

その1.義理の親や親戚付き合いが面倒

「結婚したら必然的に相手の家族の一員になるわけじゃないですか。でも全然違う環境で生きてきたわけだから、価値観だって違うでしょ。そんな人たちと付き合わなきゃいけないと思うと息苦しいなあと思います。

現に姉が旦那さん側の親戚トラブルに巻き込まれて大変そうでした。まあ結婚するとしても30代になってからでいいかな。」(23歳/女性/会社員)

結婚したら相手の家族との交流は避けては通れません。気が合えばいいのですが、そうじゃないことを考えたら荷が重いのは確かでしょう。

その2.一生同じ相手としかセックスできない

「今の彼女は大好きだけど、結婚したら浮気はおろか風俗だって許されないじゃないですか。仮に彼女がセックスを拒むようになったらどうすればいいのか考えると怖いですね。これから先の長い人生、彼女としかできないと思うと窮屈さを感じます。」(27歳/男性/公務員)

性欲は3大欲求の一つ。実際にセックスレスや体の相性が悪いという理由で離婚するカップルも存在しますし、ないがしろにできない問題かもしれませんね。

その3.自由が利かなくなる

「人と暮らすってことで安心感は得られるけど、それと引き換えに自由が奪われてしまうと思います。精神的な面だけじゃなくて、自分で稼いだお金だって全部自分で使えるわけじゃない。だったら多少の寂しさはあっても気楽で自由な独り身も捨てがたいですね」(21歳/女性/学生)

プライバシーの侵害に厳しい世の中で育ってきた我々の世代。他人に干渉されるのを窮屈に感じる人も多いのでしょうか。

その4. むしろ経済的に大変

「老後とか経済的に安心したいから結婚をする人もいるけど、家庭を作るのってすごくお金がかかること。養育費に保険料、あと住宅ローンとかね。だったらむしろ自分の食い扶持だけを稼いで計画的に貯金した方がよっぽど経済的には安定するんじゃないかと思います。

性格的に人と暮らすのにも向かないし、子供も別に欲しいと思わない。私にとって結婚はメリットがないんです。」(25歳/女性/専門職)

昔と違って今は「結婚しなければならない」という半ば脅迫のような観念が薄れています。女性も社会進出をしてから久しく、“1人で自由に生きたい”という意志の通りに人生を歩くことが可能な時代なのです。

“結婚”は確かに転機にはなりうるかもしれませんが、それが人生のすべてではありません。大切なのは生きていく上で「自分にとって何が幸せなのか」ということなのではないでしょうか。まだまだ若い私たち。“幸せになる方法”を模索していきたいですね。


>出世したくない人が増えている

 最近、若い世代のサラリーマンで出世を希望しない人が増えているという記事をよく見る。
 管理職に昇進しても給料は増えず責任だけが重くなることが多く、昇進しない方が気楽でよいという。
 最近の若い人が云々というのは、いつの時代にも繰り返されてきた話題であり、基本的にあまり信用しない方がよい。昇進を希望しない人が増えているという話はバブル時代や高度成長期にもあった。特に目新しいことではない。

出世できなくてもよいというのは、実は高度成長期の話
 それはともかく、本当に出世しなくないという人はたくさんいるのだろうか?また、出世したくないという希望は実際に受け入れられるのだろうか?答えはイエスでもありノーでもある。

 出世しなくてもよいと考える人の多くは、無意識的に、出世しなくてもそれなりの給料と立場が維持されるということを前提にしている。もし、出世した人は億の年収となり、出世できないと給料は恐ろしく安く、しかもいつクビになるか分からないという環境であれば、ほとんどの人が出世を希望するだろう。
 つまりあまり出世したくないというのは、終身雇用と年齢による昇給が維持されていることが前提なのである。

 今までの日本であれば、これが実現できるケースも少なからずあった。日本経済が右肩上がりで成長し、昇進はしなくても勤続年数で昇給を続けることが可能であった。また事業も拡大を続けていたので、どんな人でも恥ずかしくない程度のポストには昇格させることができた。

同一職種、同一賃金であれば実現可能だが
 だが今の時代はそうはいかない。経済のパイが縮小しているため、分け与えるポストは少なくなる一方である。会社としては管理職でない人に高い給料を払いたくはない。出世しないヒラのベテランよりも給料が安い新人を活用した方がよいということになり、年齢が高い社員の居場所は少なくなってくる。この傾向は今後も続く可能性が高い。

 そうなってくると、出世したくないというスタンスの社員が存在し続けることは難しいだろう。

 この問題を解決する唯一方法は、諸外国がやっているような同一職種、同一賃金の導入である。これは、同じ仕事であれば、年齢に関係なく同じ賃金しか支払わないというもの。

 例えば、ヒラの営業職であれば20代の若者も50代のベテランも同じ給与をもらう。営業チームを管理する営業チーフになれば、給料は上がる。ただしチーフに昇格するのは優秀な成績を上げた人であり、25歳の若者かもしれないし、50代のオジサンかもしれない。

 こうなると社内の競争は、全体的な出世競争ではなく、同一職種の中での争いとなる。同期で誰が出世するのかではなく、営業チームの中で誰が実績を上げるかが重要となる。競争相手は、年齢が大きく離れた社員かもしれないし、同世代かもしれない。

(引用終わり)

出世に対する、この発想は少し間違っている。
この文章は、収入と言う面で刺激を与えれば出世競争が再燃する様に書いている。

本当は、そうではない。
出世しなくても何とか食って行けると言う面では納得はするが、多くの若者が出世を望まないのは、出世することによって生じる責任の問題など、煩わしい事に関わりたくないのである。

また出世することによって指揮官としての権力を使いたくないのである。柔弱に育っている彼らには、能力がないのである。
それよりも、マイペースで個人の生活を維持する方を選ぶのである。




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人生論と人生観 ( No.2 )
日時: 2016/02/28 19:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:keCpiPyA

「人生論」とは

人生について論じること。また,人生の意義・目的・価値などについての考え方。

「人生観」とは

人間ひとりひとりが、自身自身の人生や人間全般の人生について抱く諸観念のこと。人生の見方。

人生観とは多分に形而上学的な認識。

ここでは、人生論について掘り下げてみましょう。

まずは、トルストイの言葉を紹介します。

人生論「現代の迷える人たちへ」トルストイ

いっさいの自己愛を捨て、理性的意識に生きることによってのみ、人間は真の幸福を獲得することができる――人間いかに生きるべきか? 現世において人間をみちびく真理とは何か? 永年にわたる苦悩と煩悶のすえ、トルストイ自身のこの永遠の問いは、本書にみごとに結実した。誤ることのない鋭い観察力と、愛の直感と心の目で綴った、人生についての内面的、哲学的な考察。
人はだれしも、自分が快適になるために、自分の幸福のためにのみ生きている。自分の幸福を望む気持ちを感じないなら、その人は自分を生きていると感じていない。自分の幸福を望む気持ちなしに、人は、人生を想像できないものだ。一人ひとりの人間にとって、生きるということは、幸福を希、獲得することと同じだし、幸福を望み、獲得することは、いきることと同じである。

ところが、自分のその幸福を手に入れようと努めているうちに、人はその幸福が他の存在によって左右されることに気づく。


この世界の限りないすべての存在が、それぞれ自分の目的の達成のためにいつなんどきでも、自分一人のために生命が存在するはずのこの自分を抹殺しかねないのだ。
お気に入り詳細を見る

互いに滅ぼし合い、みずから滅びてゆく無数の同じような個我の中で、自分の幸福だけを得ようと努める個我としての人間の生活は、悪であり、無意味であって、本当の生活はそんなものではあり得ない。

生命とは何か、幸福とは何かも知らないのに、自分たちが生きているように思っているのであり、それはちょうど何の方向もなく波に運ばれている人間が、自分の望んでいる必要な方に向かって泳いでいるのだと思いかねないと同じである。

それでも、生きていかなければならない。

(引用終わり)

これでも結構抽象的な概念ですが、その言葉の中に、幸福とか、真理とか愛などと言う言葉が出てきます。
トルストイは、これらの言葉の意味を自分なりに想定しています。
この言葉で連想される共通の思いを前提としています。

ところが、現代社会において、民主主義の名の下に、やたらと個人の自由、権利意識が強い人たちに、トルストイが思い描いた「幸福」「真理」「愛」の概念が当てはめられるでしょうか。

現代社会と言っても、まだまだ我々の多くは、トルストイに共感できるものを持っています。
それに照らし合わせて現代の若者は!
と言いますが、現代の若者にとっては、何故!トルストイでなければならないか!

と言う事になります。
そうなのです、ある意では現代の気質が正しいのであり、その息で、そのまま受け入れるべきと言えます。
結婚をしたくないことも、出世を望まないことも、それぞれが、そのまま受け入れられるべきであるのです。

新しい人生論として認めれば良いことで、それを批判する根拠などはないのです。



と、まあ

このような論理になるのですが、
果たして、それで良いのでしょうか。

民主主義が謳歌されている現在、あっさりと、それを認めるべきでしょうか。
認めないと言っても

それなりの根拠が必要で、頭ごなしに言うべきではないことは確かですね。

とりとめもない話になりましたが、これが究極のテーマです。




メンテ
お金と人生 ( No.3 )
日時: 2016/05/13 14:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:1gpzstmM

銭亡者・守銭奴と言う言葉があります。
概して次のような者に対する形容です。

>強欲な ・ 欲深い ・ 利己的な ・ 私利私欲を追求する ・ がめつい ・ 拝金主義者 ・ 貪欲な ・ 貪婪な ・ 飽かず求める ・ むさぼる ・ エゴむき出しの ・ 我欲むき出しの ・ 意地汚い ・ 卑しい ・ 銅臭にまみれた ・ 我欲むきだしの ・ 金に汚い ・ 守銭奴
けちんぼ ・ がっちり屋 ・ 吝嗇
ちょっと変わった表現に
>世界経済、秩序、貨幣の安定などを一切無視してマネーゲームに
走るアングロサクソンを中心としたヘッジファンドの連中でしょう。

さて、人々は、どうしてお金にそんなに執着するのでしょう。
理由などは、改めて言わなくても、それぞれに思いがあるはずです。

齢、70歳を迎え人生の大半を終了した者として、お金とは、どういうものであったのか。
途中は、ほとんどの方と同じで、必要なお金を得ることに四苦八苦し、それが人生でした。

子供も独立し、住む家も手に入り、あとは余生と言う段階になって、お金に対して余裕が出来たと思います。
いや、なに!
余裕が出来たと言う意味は、十分に溜め込んだと言う意味ではありません。
もう、そんなにお金を追い求める気持ちが和らいだと言う意味です。

実際には年金に頼る生活で預貯金なども、そんなにありません。
現在は、後、2000万円ほどあれば、すき放題、安心して暮らせると、宝くじを買っています。
要するに私にとっては、2000万円程度で理想の人生が手に入るのです。
大騒ぎし、高望みしてきても結局は人生とはお金で測ればそのようなもの。

このような中で、冒頭に出した守銭奴、銭亡者さん、又はそうでなくても自然と大金を手にする富豪の皆さんの、何億、何十億のおかねの意味するものはなんでしょう。

毎日食べるものでも、ある程度、好きな時に好きなものが食べられれば、特に人が食べられない高級食材を食べ続けたいとは思わないし、海外旅行も毎年、何回も渡り歩くよりも、1,2年に一度くらい、計画し家計をやりくりし旅行する方が味わいがある。
大邸宅も、それこそ無用の長物、夫婦で便利で、使いやすい程度の広さで良い。出来れば狭くても庭付きが良い。

だから富豪がうらやましいとは思わないし、望みもしない。
このように言えば成功できなかった者の負け惜しみと蔑む人もいるであろうが、齢、70に達すれば、それが負け惜しみではないことが分かるであろう。



「足るを知り己を知ればいますでに身にあまる幸をおもえ喜ぶ」

「古妻と トソ酌み交わす 老いの春
  寂しくもあり 寂しくもなし」 

(新村 出)

メンテ
エスキモーの生活 ( No.4 )
日時: 2018/10/07 17:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:hIrqWxwU

皆様に置かれましても同じ様なものと拝察しますが、肝心の政治を語る気持ちが湧きません。

思いつくままに、久しぶりにこのスレッドをUPします。

何日か前ですが、テレビでグリーンランドのエスキモーの事を放映していました。

グリーンランドに関わらずエスキモーの人たちが居住する地域は、農作物も育たない不毛の土地です。
そこで、彼等はアザラシなどを狩猟することで生活をしている様です。
アザラシの食肉はビタミンも含まれていて野菜の代わりにもなるようです。
テレビでは、白熊などの陸上の野生の動物も含まれているかも知れませんが、犬ぞりを使って狩猟の旅をしている光景でした。

彼等の生活の中心は食料となる野生の動物(海洋動物を含む)を取ると言う事です。
狩猟に失敗すれば、生きては行けないのです。
他の番組で、白熊も餌を捉えることが出来なければ餓死してしまいます。

ここでは人間自身も白熊と同じ状況に置かれている様です。
移動手段である犬そりを引かせるためにエスキモー犬を使っています。
大型のそりは十数頭のエスキモー犬に引かせています。

多くのエスコミー犬が従順に人間に従っている光景を見ていても、彼らとエスキモー犬の関係は決して我々の社会におけるペットの様な者ではあリません。
エスコモ―犬と人間の関係も切実で、必死な関係です。

人類が数千年前まで営んできた自然との必死の戦いの関係が、ここでは未だに存在しています。
グリーンランドはカナダに属しています。
カナダは寒冷地は多いが広大な国土を持つ国です。
その様な過酷な土地に住まわなくても、適当な土地へ移住すれば良いだろうに。
もっとも、若い人たちは、そうしているであろうが。

映像の一部に出てきたが、実は彼等は犬そりと言ってもFRP製の近代的なものや、モーターボートも持っています。
主食も食パンでした。
カナダ政府から、いろいろな支援を受けているのでしょう。

ですが、それでも、どうして、その様な過酷な土地に住まわねばならないか。
ここが、この記事の主題です。

近大生活に慣れた我々とは違う価値観、人生観があるのではないかと思います。

私には、とても理解できませんが、理解できないこともあると言う事は解らねばならないのではないかと思います。

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文系の博士課程「進むと破滅」 ある女性研究者の自死 ( No.5 )
日時: 2019/04/10 15:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ntwZ.beE

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190410-00000009-asahi-soci

 大きな研究成果を上げ、将来を期待されていたにもかかわらず、多くの大学に就職を断られて追い詰められた女性が、43歳で自ら命を絶った。

 日本仏教を研究してきた西村玲(りょう)さんは、2016年2月に亡くなった。

 04年に博士(文学)に。05年、月額45万円の奨励金が支給される日本学術振興会の特別研究員に選ばれた。

 実家で両親と暮らしながら研究に打ち込み、成果をまとめた初の著書が評価されて、09年度に若手研究者が対象の賞を相次いで受賞。恩師は「ほとんど独壇場と言ってよい成果を続々と挙げていた」と振り返る。

 だが、特別研究員の任期は3年間。その後は経済的に苦しい日が続いた。

 衣食住は両親が頼り。研究費は非常勤講師やアルバイトでまかなった。研究職に就こうと20以上の大学に応募したが、返事はいつも「貴意に添えず」だった。読まれた形跡のない応募書類が返ってきたこともあった。

 安定した職がないまま、両親は老いていく。14年、苦境から抜け出そうと、ネットで知り合った男性との結婚を決めた。だが同居生活はすぐに破綻。自らを責めて心を病んだ。離婚届を提出したその日に自死した。

 父(81)は、「今日の大学が求めているのは知性ではなく、使いやすい労働力。玲はそのことを認識していた」と語る。

 90年代に国が進めた「大学院重点化」で、大学院生は急増した。ただ、大学教員のポストは増えず、文科系学問の研究者はとりわけ厳しい立場に置かれている。首都圏大学非常勤講師組合の幹部は「博士課程まで進んでしまうと、破滅の道。人材がドブに捨てられている」と語る。

(引用終わり)

悲しい話ではあるが、専門職を求めて生計が立たない場合など掃いて捨てるほどある。

プロスポーツ界で自活できる人間がどれだけいるか。
芸能を目指す連中などもっと酷い。
芸術家もそうである、有名なピカソも生きている間に売れた作品は2点と言う。

専門職、自分の好きな道を進むということは、この様なことである。
彼女の悲哀を言う前に

まさしく、人生とは何かを問わねばならない。

(追記)

最後に言っている「人材」という認識が気に入らない。
人材とは知識が高いと言う意味か
どの様な能力であっても、人材を惜しむという認識の裏腹に、能力のないものは惜しむ価値がないという事か。
この場合の人材という言葉の使い方は間違っている。
人生論では受け入れられない概念である。

(菩提和讃)

若し人三世一切の仏を知んと欲すれば、法界性を観ずべし。
一切唯心造なりと、衆生おのおの仏性を、受けて生まれしものなれば
一念不生に至るとき、忽ち仏性現前し、老若男女もろともに、その身が即ち仏なり。

しかるに一念迷い初め、本有の仏性見失い、みずから凡夫となるゆえに貪り瞋り痴さの、煩悩しげき三毒に、闇き迷いの日々となる。
また色声香味触と五欲の悦楽追い求め、刹那の夢に酔いしれる
殺生偸盗邪淫慾、悪口両舌綺語妄語、破戒無懺の輩に、いつか救いのありぬべき。


それ人間の身を受けて、この世に生まれ来ることは、爪の上端に置ける土。
まして尊き仏法の、教えに親しく遇うことは、まこと得がたき縁なり。
かかる時節を失わず、信心決定いたすべし。
人々賢き智慧あれば、春は万の種を蒔き、秋の稔りを待つのみか、衣服家宅に至るまで、遠き計画立てながら、今をも知れぬ後の世の、永き冥路を打ち忘れ、空しく過ごすぞ愚なり。
無常の風に誘われて、忽ちこの世を終るとき、何を頼みとなすべきや、あまた資産のあるとても、冥途の用にはならぬもの。
家財重宝持つ人も、携え行くべき途ならず、偕老比翼の契いもしばし浮世の夢ならん。
兄弟朋友ありとして、伴い行くことさらになし、出入りの息の絶えぬれば、野辺の送りを営みて、老いも若きも仇野の、空の煙と消え失せん。

朝夕撫でし黒髪も、蓬が根の塵となる。
かかる憂き目のあるゆえに、ひたすら菩提を願うべし。
弘誓の願を身につけて、忍辱精進怠らず、布施や愛語にこころざし、十善の道歩みつつ、他己をも自己と覚るならば、これぞ菩薩の浄土なり。

(以下略)
メンテ
Re: 人生論<現代に生きるとは ( No.6 )
日時: 2019/04/13 12:27
名前: ooeyama ID:vrIAaDZE

アップルの創始者故スティーブ・ジョブズ氏が2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、自らの生い立ちや闘病生活を織り交ぜながら、人生観を余すところなく語り広く感動を集めた。「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」は今も語り継がれる、以下に少し長いが引用する上野氏の祝辞も聡明な学生なら心に響く筈だ。


「がんばっても報われない社会が待っている」東大の入学式で語られたこと【全文】


4/12(金) 19:02配信 BuzzFeed Japan

上野千鶴子さんの祝辞全文は、以下の通り。

ご入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。

その選抜試験が公正なものであることをあなたたちは疑っておられないと思います。もし不公正であれば、怒りが湧くでしょう。

が、しかし、昨年、東京医科大不正入試問題が発覚し、女子学生と浪人生に差別があることが判明しました。

文科省が全国81の医科大・医学部の全数調査を実施したところ、女子学生の入りにくさ、すなわち女子学生の合格率に対する男子学生の合格率は平均1.2倍と出ました。

問題の東医大は1.29、最高が順天堂大の1.67、上位には昭和大、日本大、慶応大などの私学が並んでいます。1.0よりも低い、すなわち女子学生の方が入りやすい大学には鳥取大、島根大、徳島大、弘前大などの地方国立大医学部が並んでいます。

ちなみに東京大学理科3類は1.03、平均よりは低いですが1.0よりは高い、この数字をどう読み解けばよいでしょうか。統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。

女子学生が男子学生より合格しにくいのは、男子受験生の成績の方がよいからでしょうか?

全国医学部調査結果を公表した文科省の担当者が、こんなコメントを述べています。「男子優位の学部、学科は他に見当たらず、理工系も文系も女子が優位な場合が多い」。

ということは、医学部を除く他学部では、女子の入りにくさは1以下であること、医学部が1を越えていることには、なんらかの説明が要ることを意味します。

事実、各種のデータが、女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています。

まず第1に女子学生は浪人を避けるために余裕を持って受験先を決める傾向があります。

第2に東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました。

統計的には偏差値の正規分布に男女差はありませんから、男子学生以上に優秀な女子学生が東大を受験していることになります。

第3に、4年制大学進学率そのものに性別によるギャップがあります。2016年度の学校基本調査によれば4年制大学進学率は男子55.6%、女子48.2%と7ポイントもの差があります。

この差は成績の差ではありません。「息子は大学まで、娘は短大まで」でよいと考える親の性差別の結果です。

最近ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんが日本を訪れて「女子教育」の必要性を訴えました。それはパキスタンにとっては重要だが、日本には無関係でしょうか。

「どうせ女の子だし」「しょせん女の子だから」と水をかけ、足を引っ張ることを、aspirationのcooling down、すなわち意欲の冷却効果と言います。

マララさんのお父さんは、「どうやって娘を育てたか」と訊かれて、「娘の翼を折らないようにしてきた」と答えました。そのとおり、多くの娘たちは、子どもなら誰でも持っている翼を折られてきたのです。

そうやって東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。

他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。

東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、ひかれるから、だそうです。

なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。

なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。

女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?

愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。

東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。加害者の男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。

この事件をモデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。

「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大の男子学生が社会からどんな目で見られているかがわかります。

東大には今でも東大女子が実質的に入れず、他大学の女子のみに参加を認める男子サークルがあると聞きました。

わたしが学生だった半世紀前にも同じようなサークルがありました。それが半世紀後の今日も続いているとは驚きです。

この3月に東京大学男女共同参画担当理事・副学長名で、女子学生排除は「東大憲章」が唱える平等の理念に反すると警告を発しました。

これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。

ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。

学部においておよそ20%の女子学生比率は、大学院になると修士課程で25%、博士課程で30.7%になります。

その先、研究職となると、助教の女性比率は18.2、准教授で11.6、教授職で7.8%と低下します。これは国会議員の女性比率より低い数字です。

女性学部長・研究科長は15人のうち1人、歴代総長には女性はいません。

こういうことを研究する学問が40年前に生まれました。女性学という学問です。のちにジェンダー研究と呼ばれるようになりました。

私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。なかったから、作りました。

女性学は大学の外で生まれて、大学の中に参入しました。4半世紀前、私が東京大学に赴任したとき、私は文学部で3人目の女性教員でした。そして女性学を教壇で教える立場に立ちました。

女性学を始めてみたら、世の中は解かれていない謎だらけでした。

どうして男は仕事で女は家事、って決まっているの?主婦ってなあに、何する人?ナプキンやタンポンがなかった時代には、月経用品は何を使っていたの?日本の歴史に同性愛者はいたの?

...誰も調べたことがなかったから、先行研究というものがありません。ですから何をやってもその分野のパイオニア、第1人者になれたのです。

今日東京大学では、主婦の研究でも、少女マンガの研究でもセクシュアリティの研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。そして私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。

学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります。

女性学はベンチャーでした。女性学にかぎらず、環境学、情報学、障害学などさまざまな新しい分野が生まれました。時代の変化がそれを求めたからです。

言っておきますが、東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です。わたしのような者を採用し、この場に立たせたことがその証です。

東大には、国立大学初の在日韓国人教授、姜尚中さんもいましたし、国立大学初の高卒の教授、安藤忠雄さんもいました。また盲ろうあ三重の障害者である教授、福島智さんもいらっしゃいます。

あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。

そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。

ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。

そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。

あなたたちが今日「がんばったら報われる」思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。

恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。

これまであなた方は正解のある知を求めてきました。

これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。

学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。

学内にとどまる必要はありません。東大には海外留学や国際交流、国内の地域課題の解決に関わる活動をサポートする仕組みもあります。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。

異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。

あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。

大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。

知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。

ようこそ、東京大学へ。
メンテ
アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄 ( No.7 )
日時: 2022/05/06 07:11
名前: スメラ尊 ID:JcXkm0c6

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄


反対者をいちいち説得するより、賛同者を増やす方が効率的
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180213T0221090900.html


100%好意的な評価を受けることは絶対にない

人は誰でも意見を持ったり、何らかの意思表示をした瞬間に、期せずして批判の渦に巻き込まれる。

人は生きている限り、他人の批判から逃れることができない。自分が持った意見は、必ず正反対の意見を持つ人たちから激しく責められる。

自分自身が考えたことは、必ず妨害され、野次られ、敵視され、けなされる。何かすれば、敵対者からは必ず責任を追及され、いかに馬鹿げたことをしたのかと責められ、どうしようもないと軽蔑される。

私たちは、何かしたらそれで責められ、何もしなければ何もできないと責められる。真面目でいると面白味がないと嘲笑され、不良がかると社会不適合者だと吐き捨てられる。


結論から言うと、最も合理的かつ効率的なのは、反対者や批判者は、あっさりと「切り捨てる」ことなのである。

私たちは世の中を支配できない。そうであれば、私たちがしなければならない唯一のことは、「常に批判する人間はいる」と認め、その人たちを切り捨ててしまうことである。

相手を変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのは無駄だ。切り捨てて関わらない。自分の人生に関与させない。説得しない。教えない。


なぜ、それがいいのか。理由は簡単だ。反対者や批判者の意見を変えさせるよりも、賛同者を増やした方が「効率が良く合理的」だからだ。

反対者の意見を変えさせるのは苦労する。結果的に無駄な努力になるかもしれない。無駄ではないかもしれないが、かなり面倒な仕事になる。

この忙しい現代社会で、なぜいちいち反対者や批判者のために、効率の悪いことに取り組まなければならないのか。ひとりの反対者を転向させるより、賛同してくれる人を見つける方が効率的なのだから、それを選択すべきだ。

「どうでもいい人間は切り捨てる」

「批判者を転向させるより賛同者を見つける」

日本人は今まで自分に反対する人たちの意見や、自分たちに対する批判には過剰に反応し過ぎてしまっている。無意味な配慮も横行している。

基本的に、優しすぎるのだ。

だから「どうでもいい人間は切り捨てる」という効率的な生き方ができない。しかし、そろそろこのあたりを変える必要が出てきている。

日本人はもっと我が道を往って幸せをつかんでもいいはずだ。
 


▲△▽▼

世の中では何をしても嫌われる、世の中の人間の 9割 はどうしようもないアホ
「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのは危険なこと


アメリカ人はイスラム教徒に嫌われる。イスラム教徒はキリスト教徒に嫌われる。キリスト教徒は共産主義者に嫌われる。共産主義者は資本主義者に嫌われる。富裕層は貧困層に嫌われる。貧困層は富裕層に嫌われる。

テロリストは全世界に嫌われる。しかし、助けに来たアメリカ軍は、他国に介入したとして嫌われる。

軍人は平和主義者に殺人鬼と罵られて嫌われる。平和主義者は夢想家だと言われて現実主義者に嫌われる。現実主義者は宗教心がないと宗教家から嫌われる。保守派は左翼に嫌われる。愛国者はグローバリストに嫌われる。

ありとあらゆる国で、国民は隣の国の人間を嫌う。国民は国民で、何重にも割れて互いに相手を嫌い合う。考えてみれば、なかなか悲惨な世界だが、これが人間社会の実態でもある。

つまり、私たちは何をどうしても、他人に嫌われる運命にある。ただ道ばたに立っているだけでも嫌われてしまう。どんな生き方をしても、何を言っても言わなくても、他人に嫌われない生き方はない。

私たちは存在してるだけで誰かに一方的に嫌われる。どんなに品行方正であっても、どんなに愛すべき存在であっても無駄だ。この世で嫌われない人間はどこにもいない。

この世の中は、何もしても嫌われるのが現実だ

嫌われないことを考えて生きるのは立派に見える。しかし、それは基本的に報われることはない。誰にも嫌われないで生きるのは不可能だからだ。

別に無理して嫌われる必要はないが、何をしても嫌われるのが現実なのだから、そんなものを重視して生きると100%失敗してしまう。

他人に媚びても、結果的には何も得られない。媚びることが嫌われるからだ。他人に同調しても、それが自分の本意でないのであれば自分で自分を壊してしまう。

嫌われたくないために他人に謝罪なんかしてしまうと、足元を見られて「もっと謝罪しろ、賠償しろ、誠意を見せろ」と恐喝されることもある。

誰でも人間関係を円滑にしたいと思う。しかし、嫌われたくないと思うが故に自分が折れると、自分の立場を悪くするだけである。自分で自分の首を絞めることになる。

何らかの意見を言えば必ず嫌われる。どんな意見でも、その意見と対立する意見が必ずあるからだ。逆に意見を持たなければ持たないで嫌われる。意見を持たない人間は愚かだと思われ、愚かな人間は本能的に嫌われるからだ。

立場を築くと必ず嫌われる。どんな立場でも、その立場を嫌っている人が必ずいるからだ。立場を築かない人も嫌われる。立場も築けないほど実力のない人間だと思われるからだ。

若いと若いがゆえに嫌われる。歳を取れば歳であるがゆえに嫌われる。男であれば男だから嫌われる。女であれば女だから嫌われる。

目立つと目立つというだけで嫌われる。嫌われないように目立たない生き方をしても、その生き方自体が姑息だと言われて嫌われる。

何をしても嫌われるのだ。そんな社会で私たちが生きるためには、誰もが最後に同じところへ落ち着いていく。

それは「嫌われることを恐れない」ということだ。


何をどう言っても、他人に理解されないのが現実

「嫌われることを恐れない」と言っても、誰かの悪口や罵詈雑言を恐れずに言い回ってもいいというわけではない。わざわざ他人に嫌われることを進んでする必要はない。

私たちは自分が心地良く生きるために、ある程度の常識や良識を持って生きなければならない。

しかし常識や良識を持って生きたとしても、嫌われることは最初から受け入れておく必要がある。どんなに常識や良識を持っても、それを持っているが故に嫌われるのだ。

分かってもらおうと思ってはいけない。徒労に終わる。相手は説得されることを望んでいないからだ。理解してくれる人もいるかもしれないが、理解してくれない人もいる。

理解してくれない人は、それがいかに理路整然とした正論であっても絶対に耳を傾けない。

なぜ分かってくれないのかと、隔靴掻痒の気持ちになることもあるかもしれない。しかし、世の中は何をどうやっても交われない人間が存在するのは誰も否定できない事実だ。

自分とはまったく逆の世界観を持つ人も多い。同じ人間であっても、同じ言葉を話していても、そこに横たわる溝は限りなく深い。

だから、自分を嫌い、何を言っても理解してくれない人がいるからと言って、落ち込む必要もなければ激怒する必要もない。

また、そういった人たちにひどく嫌われているからと言って、それを気に病む必要もない。媚びる必要もなければ、理解してもらう必要もない。

大人になればなるほど、意見を持てば持つほど、地位が上がれば上がるほど、有名になればなるほど、反対するために反対している人たちと山ほど遭遇することになる。

つまり、私たちは何をやっても批判され、何を言っても反対され、行いや生き方や主張が正しくても必ず反対者に嫌われるということだ。


嫌われるということ自体は、誰もが経験すること

「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのが危険なのは、それが確実に失敗するのが分かっているからだ。

嫌われる度合いは発言内容な信条や性格によって違う。しかし、どんな性格でも、どんな発言でも、誰かに嫌われることだけは間違いない。

だから、嫌われること自体は別に気にする必要はない。

職場でも、家庭でも、友人関係の中でも、世間の中でも、自分を嫌う人は必ず生まれ、自分の敵が必ず生まれる。私たちはそれに慣れなければならないのだ。

現代のような高度情報化時代になると、多くの人がインターネットで自分を嫌う人を発見することも多い。自分が「受け付けない」と思う人を発見すると同じく、相手もこちらを「受け付けない」と考える。

しかし、それほど気に病む必要はない。それは個人的な問題のように見えるが、本当のことを言えば誰もが経験する普遍的な問題であるからだ。

嫌われるということ自体は誰もが経験することであり、個人的な経験ではないのだ。

気持ちが収まらないかもしれない。潔癖な人であればあるほど、自分が誤解されたり、嫌われたりすることに苦悩する。人間関係の悩みで自殺する人もいれば鬱病になる人もいる。それほど苦しみ抜いたということなのだ。

しかし、マザー・テレサのような聖女さえも批判の対象になるのだから、聖人でも何でもない私たちが、誰かの怒りを買わない方がむしろどうかしている。

だから、誰かに嫌われて気に病むのは無駄だ。私たちが生きている世界は、誰かが誰かを嫌い、批判し、嫌悪し、恨み、排斥し、衝突する世界なのだ。それが現実だ。

そうであれば、逆にこうした世界に早く慣れておく必要がある。特に日本人であれば尚更だ。なぜなら、日本人は日本人であるというだけで、中国・韓国・北朝鮮のような反日国家の人間に嫌われるからである。

嫌われて何か問題でもあるのだろうか。何もない。相手を嫌うことに問題はあるのだろうか。何もない。相手と断絶することに問題はあるのだろうか。もちろん、何もない。


全般的に、蛇は嫌われる。中には蛇を愛する人がいて、この生き物がいかに愛すべき存在なのかを主張したとしても、やはり多くの人は蛇を嫌う。



▲△▽▼


価値感を共有しない国家、集団、人間と分かり合えると思ったら大間違いだ

2017年3月に入って、中国が事実上の制裁を韓国に課すようになっている。なぜか。韓国が高高度ミサイル防衛システム「THAAD(サード)」を配備しようとしているからだ。

これはミサイル攻撃に対する防衛システムなのだが、これが配備されると北朝鮮のミサイルどころか中国のミサイルまでもが防衛されることになる。

中国は以前より韓国にTHAADミサイルの配備は絶対に認めないと通告していたのだが、韓国はアメリカには早く配備しろと命令されていた。

結局、コウモリ外交のツケで板挟みになった韓国は、アメリカの命令の方に従うことに決めたのだが、それは中国を蹴ることでもあった。だから、中国は激怒して韓国を追い込んでいるのである。

中国のやり方は傲慢だが、日本は韓国に対する扱いはこの中国に学ぶ必要がある。韓国のような、すぐに裏切り、約束を守らず、価値感を共有しない国家は、中国のように有無を言わさない「制裁」や「報復」によって関係を断ち切らないといけないのである。

韓国は反日を繰り広げている。あちこちに「嫌がらせ像」を立てて日本を嘲笑している。このように価値感を共有しない韓国に対しては、日本こそが中国のように報復で返さなければならないのである。岸田文雄外相はすぐにそれをすべきだ。


「価値観を共有しない」とは、このようなことだ

価値感を共有しない国家、集団、人間と分かり合えると思ったら大間違いだ。絶対にそれはない。結果的には関係はうまくいかない。無理に一緒になっても、常に同床異夢であり、呉越同舟である。

この事実を認識するのは重要だ。

人間関係の軋轢や問題は、そのほとんどが「価値観を共有するかしないか」だ。相手が同じ価値観を持っていないと、どんなに長い時間一緒にいても必ず破綻が待っている。

自分の譲れない部分で価値観を共有していないと、一緒にいられない。個人でも、グループでも、民族でも、国家でも、重要な部分で価値観が共有されいないと必ず関係は壊れる。

「価値観を共有しない」とは、具体的にどのようなケースが考えられるのか。日本人の一般的な性格を元に考えれば、いくつもの例が挙げられる。

たとえば、日本人は自立心が高い。生活でも経済問題でも、その多くは他人に迷惑をかけず、自分で何とかしようと努力するし、困難にも耐える人が多い。

そうすると、依存心が強く、何でもかんでも他人を利用しようと考える民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は黙々と「すべきこと」をする。他人がどうであれ、自分のやることはしっかりとやる人が多い。ある意味、これも自立心の高さから生まれている。

そうすると、すべきことをせず他人に期待し、裏切られると恨んだり非難するような民族とは「価値観を共有しない」と言える。日本人には合わないのだ。

日本人は、それぞれ他人には他人の考え方があることを理解する。他人と意見が違ったり、思想が違ったりしても、できる限り相手を許容する人が多い。

そうすると、相手も自分と同じ考えだと思い「違う」と分かると裏切られたと思って頭ごなしに批判してくるような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、すぐに目の見えるような成果がでないことでも、長い目で取り組み、少しずつ効果を生み出せるように努力する。他人が見ていなくても責任を持って取り組む人が多い。

そうすると、すぐ目に見える成果をあげようと行動し、効果が出ないと分かると、さっさと見捨てて顧みないような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、見栄や虚栄心よりも身の丈に合った生活や考え方を好む。うわべを飾り、外観を取り繕い、他人に良く思われようと過剰な努力をしたところで、内面が伴っていないと意味がないと考える人が多い。

そうすると、整形手術でも嘘でも詐欺でも騙しでも何でもいいからうわべだけを飾ろうとするような民族とは「価値観を共有しない」と言える。


日本と「価値観を共有しない」民族が存在する

日本人は、個人的な約束から公的な約束まで、たとえ自分が損をかぶることになっても、責任を持とうとする人が多い。いったん約束したことはきちんと果たそうと考える。

そうすると、自分の都合によって約束を守らなかったり、前に言ったことを翻したり、約束などした覚えはないと言い張るような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、物事を徹底して取り組み、綿密さや正確さをできる限り保障しようとする人が多い。また、そうやって物事に取り組むことに誇りを感じている。

そうすると、物事には適当に取り組み、問題が出たら責任を他者に押しつけ、それでいて最初は「何でもできる」と根拠もなく言うような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、信頼されることや信用されることをモットーとして取り組み、そのために地道な努力をする人が多い。信頼を得るには長い時間がかかる。しかし、その時間は無駄だとは思わない。

そうすると、金のためなら、嘘でも裏切りでも詐欺でもゆすりたかりでも何でもするような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、事実関係が間違っていると謝罪し、同じ間違いが起きないように物事を改善しようと考える人が多い。自分の感情よりも、事実を優先する。

そうすると、都合が悪くなると泣き叫び、ごまかし、逆切れし、被害者を装ったりするような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、他人に対する思いやりや、恩義を忘れない。また、思いやりには思いやりを返し、恩義には報いようと努力しようとする人が多い。

そうすると、思いやりを見せる相手は弱い人間だと考えたり、恩を受けたことをなかったことにし、恩を仇で返すような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。


関係を断たなければ、問題はますます深刻になる

もちろん、個人間や民族間で、すべての価値観が完全に一致しているというのはあり得ない。

人間はひとりひとり違っており、民族もそれぞれ違っている。文化も違えば、人種も違えば、宗教も習慣も何もかも違う。だから、完全一致を目指すとすべてがうまくいかなくなる。

しかし、根本的な部分で、ある程度の価値観の共有が為されていないと、最初からうまくいかないというのも事実である。

あまりにも価値観が違っていると、どこかで妥協したとしても、他のほとんどの部分が対立してしまって、次から次へと問題が発生していく。

無理に一緒になっても、関係は必ず破綻してしまう。ただ破綻するだけではない。互いに最も不幸な形で関係が破綻するのである。常に同床異夢であり、呉越同舟というのは、そういう意味だ。

したがって、「価値観を共有していない」「今後も共有できる見込みがない」と分かれば、互いに深入りすべきではなく、関係は断絶するか、もしくは必要最小限の関わりにとどめておくしかない。

「価値観を共有していない」というのは、共に生きるのに適していないということだ。生きている世界が違っているのだ。その上、相手が憎悪を向けてくるのであれば、関係は断絶すべきであり、関わるべきではない。

「誰とでも仲良く」というのは幼稚園か小学生低学年の標語であり、それは現実的ではない。うまくいかない関係は、いずれ壊れる。悪化する可能性のあるものは、いずれ悪化する。

日本は八方美人になってあちこちに良い顔をしても仕方がない。「価値観を共有していない」と悟った国とは関係を断たなければ、問題はますます深刻になっていく。

価値観を共有していない相手とは戦略敵に関係を断つというのは、問題を複雑化させないために、とても大切なことだ。

今後、韓国のように価値観を共有していない相手と関係を断てるかどうかで日本の命運が決まる。

日本は、韓国の反日で凄まじく迷惑を受けている。民族の尊厳を貶されていると言っても過言ではない。それならば、なぜ政治家は躊躇しているのか。日本も中国を見習って、さっさと韓国に報復すべきなのだ。

そして、最終的には韓国と一切の関係を断つべきだ。国交断絶と非韓三原則こそが、正しい韓国との付き合い方である。


最終的には韓国と一切の関係を断つべきだ。価値感を共有しない国に遠慮は要らない。国交断絶と非韓三原則こそが、正しい韓国との付き合い方である。


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反日国家との関係はマネージなどできないので断交が正しい

「一見、良いことを言っているように見えて、実は裏には別の意図がある」というのは、中国・韓国・北朝鮮のような反日国家が常に使う手口である。

たとえば、「平和を守れ、平和は素晴らしい」というのは、とても美しい言葉だ。人は誰でも平和でいたいし、協調したいと思っている。誰も他人と衝突しながら生きたくない。

しかし、それを反日国家が日本に強要したとしたらどうだろうか。日本の防衛力をゼロにするために「平和を守れ」と諭しているのだから、言うがままに反日国家を信じていると、あっさりと侵略される。

「平和を守る」というのは美しい言葉であり、理想だ。しかし、現実には暴力国家・独裁国家・詐欺国家が日本のまわりに存在するのだから、きれい事など聞いている場合ではない。

反日国家が、あの手この手で日本を侵略しようとするのが現実社会のリアルな姿なのである。

日本の侵略にはいろいろあるのだが、その中のひとつの大きな手法が捏造ファンタジーの歴史プロパガンダを日本に押しつけて「謝罪しろ、賠償しろ、金を出せ」と恫喝したり、「平和を守れ」と叫んで武装解除させる方法だ。

日本はやりたい放題されている。


建前の美しい言葉は、警戒心を解くための手口

「信じ合うのは美しい」というのは間違いない。しかし、簡単に中国・韓国・北朝鮮のような国を信じてしまったら、日本は騙されて終わりだ。

韓国を見ればいい。国と国の約束すら守れない史上最悪の詐欺国家である。

だから、普通の常識を持った日本人であれば、他国を信じたいと思っても、それは「お花畑の理想論だ」と一定の警戒心を持って生きている。

この「警戒心」こそが反日国家にとって、最も邪魔なものだ。だから、反日国家はこのように言う。

「友好関係は美しいのに、日本人は他人を疑って生きている。間違っている。我々を信じなさい」

そうやって彼らは自分を信じさせて、守りもしない合意を結んで金を毟り取っていく。現に、日本は日韓合意で10億円を毟られて合意も反故にされている。

韓国の方は国内で好き放題しているのに、「友好関係は美しい。協力し合うべきだ」と都合の良い建前や理想を日本に押しつけているのは日本をカモにするための手法でしかない。

悪人ほど美辞麗句や理想を語りたがる。その理由は明らかだ。それは、要するに相手から「疑う心」を奪い取るためのテクニックなのである。

どこかのインチキ宗教の教祖も、美辞麗句を語って自分を信じさせている。もちろんそうやって自分を信じさせて、信者の財産を根こそぎ奪うためだ。

建前や美辞麗句を押しつける人間というのは、本当のところを言えば、非常に危険なタイプの人間であることも多い。

問題は、日本人はこの手の手法に弱いということだ。

日本政府も、中国・韓国・北朝鮮から「友好しろ」と押しつけられると友好し、「友好のためには謝罪しろ」と迫られると謝罪し、「謝罪するなら賠償しろ」と凄まれて賠償してきた。

日本政府がそうなら、日本人個人もまた「きれい事」に弱い。赤ん坊の手をひねるように簡単に騙される。日本人は友好を好み、弱者を守りたいという美しい気質があるので、そこを見透かされている。


自分が弱者になりすまして「弱者を守れ」と叫ぶ

生活保護にしてもそうだ。やむにやまれぬ事情で生活が困窮して生活保護を受けている人もいる反面、わざと働かないで生活保護を不正受給をするクズのような人間もいる。

本当に困った人にとって、生活保護は一縷の望みであるにも関わらず、それを不正受給する一部のクズのために生活保護というシステムは崩壊の危機に瀕している。

こうした生活保護に寄生する悪人どもは、自分が弱者になりすまして「弱者を守れ」と叫ぶ。

よくよく考えれば、本当の弱者というのは、自分が弱者であることを恥じてそれを隠そうとする。間違えても「自分は社会的弱者だが、世間は自分を守れ」と叫ばない。

そんなことを叫んで社会運動している暇があるのなら、一日でも早く仕事を見つけてまっとうに暮らせるように努力する。あるいは、心情的に、世間に迷惑をかけないように慎ましく目立たないようにする。

しかし、弱者を装ってタカリをする人間は逆だ。

「弱者を守れ」と声高に叫び、「弱者の人権を保護しろ」と役所の職員を恐喝し、もっと金をよこせと声を荒げて要求する。弱者という立場にあぐらをかいて、「保護しないのは差別だ」とわめいて、上から目線で高飛車に金を要求する。

「弱者を守る」というのは、当たり前のことであり、これは誰も否定することができない。だから、弱者を装っている悪人は、ことさらに建前や理想を他人に語って金を奪い取る。

「人を信じろ」「弱者を守れ」という正論は、悪人の手にかかるとそれ事態が相手から金を毟るための「ワナ」となる。それは、正論を無理やり相手に押しつけて、自分の都合の良いように相手を動かす手法に過ぎない。

宗教ビジネス、弱者ビジネス、人権ビジネスというのは、こうした「理想の押しつけ」「善意の押しつけ」によって成り立っている。

それを国単位でやっているのは韓国である。この国はありとあらゆる問題にケチをつけて自分が被害者だと言い張り、事あるごとに「謝罪しろ、賠償しろ」とわめき、合意を結んでも平気で破る。


悪人が善人に見え、善人が悪人に見える理由

「友好関係は美しい」という人と、「騙されるな。友好関係は破棄しろ」という人がいたら、どうしても「友好関係は美しい」というメッセージを発した人の方に好感が集まる。

「友好関係は美しい」と言っている人は、一見すると悪人に見えない。

悪人どころか善人のように見える。たとえ、友好関係を結んでから「友好を壊したくなければ謝罪しろ、賠償しろ」という邪悪な魂胆があったとしても人格者に見える。

逆に「騙されるな。友好関係は破棄しろ」と言っている人は、邪悪で心が狭い人のように見える。

たとえ反日国家の友好に裏があると分かっていて、日本を守りたいと思うがゆえの発言であっても、そのメッセージからはどうしても偏狭な悪人のような印象に見える。

悪人の方が善人に見えてしまうというのは、別に不思議なことではない。悪人は信用されなければ商売にならないから、必要以上に信用されるために外見を飾り、言葉を飾るからだ。

たとえそれが嘘でも、そのように振る舞っていれば人々が騙されることを悪人は知っている。

だから内面が真っ黒な人間ほど、外見を飾って飾って飾りまくる。美辞麗句を語り、善意を声高に要求する。そんな人間こそが危険なのである。

もう日本人は分かったはずだ。

「平和を守れ」も「友好関係は美しい」も、邪悪な人間や国家が言うと、そこには裏があるのだ。「騙した方と騙された方では、騙される方が悪い」とうそぶく国民や国家が美辞麗句を言うのはワナなのである。

美辞麗句に騙されてはならない。

中国・韓国・北朝鮮は反日国家であり、すでに日本の敵国と化している。歴史は捏造し、何の約束も守らない。ただ、日本を責め立て、日本を貶め、日本を崩壊させようとしている。

特に韓国は許せないほど卑劣だ。そうであれば、日本人はもう韓国と関わるべきではないというのは誰でも分かる。反日国家との関係はマネージなどできない。

相手にして騙されるくらいなら、完全に関係を断ち切ってしまうのが正しい。そして、それは政府だけに突きつけるのではなく、日本人ひとりひとりが肝に銘じるべきなのだ。個人も「非韓三原則」をすべきなのである。


相手にして騙されるくらいなら、完全に関係を断ち切ってしまうのが正しい。そして、それは政府だけに突きつけるのではなく、日本人ひとりひとりが肝に銘じるべきなのだ。個人も「非韓三原則」をすべきなのである。





▲△▽▼


許すと現実から抜け出せる

さて、先日は、今の伝統だとか常識だとか。
そんなものは時の権力者が適当に作っただけ。
伝統でもなんでもないですよ。

そんな話を載せますた。

世の中にあるこうすべき。
こう生きるべき。
こういう人が素晴らしい。これがまっとうな大人。

そんな常識は、時の権力者が広めた単なる物語。

例えば、家畜を見る

狭い牛舎に押し込められて
モーモー鳴いてる牛さん達。

はたから見ると可哀そうに。。そう思うのですが。
せまい満員電車に押し込められて通勤する人たち。

なぜか人間になると、それが常識的でまっとうな生き方になってます。

って、あんた!それは単なる奴隷でしょ!

多くの人は完全に洗脳されて
自分や他人を取り締まって生きてます。

日本に広がる不寛容社会。

今から100年後。

2017年当時は、どうも不倫だとか不謹慎発言だとか。
お互いにネットで叩き合うのが流行ってたらしい。
バカな社会だったんだなぁ。

そう笑う時が来るでしょう。


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こう生きるのが正しい生き方。
あなたが学校で習った道徳。
常識。

ワタスが最近、思うのは、

例えばワタスの知り合いに、いつも人に優しく
自分を犠牲にしてまで人に尽くさなきゃならない。
そういう観念に凝り固まった人がいますた。

ワタスも以前はそういう正義感で色々活動をしてたこともあるんですが

でも、そういう正義をかざして生きてると、なんだか生きづらいんですね。

正義とか声高に言う人を見ると、
むしろ、普通の人より社会の不平不満を口にして生きてる。

あいつは卑怯だ。
あいつには常識がない、モラルがない。
あいつは許せない。
この社会は最低だ。

いつも不平不満を言ってる。

で、むしろ、そういう観念=洗脳を手放すと、そんな毎日、愚痴ばかり言わないで生きられるのでは?
もっと楽になれるのでは?

そう思ったりするのですた。

宗教もそう。

宗教を信じるあまり、結局のところ人を攻撃するようになる。
幸せになるべくして宗教をやっているのに、なぜか元々の目的は忘れ去られ戦争をやるようになる。
宗教が殺し合いの道具になってる。

実は歴史的に見て一番殺し合いをやってるのは宗教で、
そして今の不寛容社会に日本を見ると

なにか日本全体が変な宗教に入ってるように思えるのです。

バシャールさんや他のスピ系の人たちが言う「許す」「手放す」。

許すと楽になれる。
現実が溶け始める。

それはワタスは本当だと思います。

他人を許す。それは大事なことです。

でも、人からイヤーなことを言われたら、
そういう嫌な人を許す必要があるでしょうか。

聖人君子じゃあるまいし。
人ばっかり許してると、自分が苦しくなっていきます。

まずは、そういうイヤーな気分になってる自分を許す。
そしてイヤーなことを言う人とは金輪際会わない。
良い人ぶらない。

そうやって自分の中にくすぶってる思いを開放する。
許す。

こうあらねばならない。正義であらねば。優しくあらねば。
そういう○○であらねば。
それをやめてみる。

自分の内側と外側は違うことのようで元々同じものです。

だから自分が自由に生きるようになると、むしろ他人に腹が立たなくなるし
やさしくなれる。

不寛容社会は自分を取り締まってる人が多いからです。

自分をまず許す。ユルユルして解放する。

この世界は許せない、認めない。
そっちをずーっとやってるとどんどん苦しくなる。

で逆に、許す方。
認める方に行くとどんどん楽になる。

肯定の言葉が増えて良い出来事が寄ってくる。
現実が変わり始める。
バシャールさんなどは現実が溶け始めると表現してますが。

ワタスはそれは本当だと思ってます
https://golden-tamatama.com/blog-entry-yurusu-nukedasu.html



▲△▽▼



日本人は、人間関係を壊してはいけないという刷り込みが強い 2013-01-04

日本で不文律のように言われていることがある。それは


「人間関係は維持しなければならない」

「どんな人間関係でも、それを壊すと自分が困る」


というものだ。日本人は農耕民族なので、協調性も非常に重要視されており、どうしようもない人間とも嫌々付き合わなければならないとも言われている。


「世の中、誰もが好きな人間とだけ付き合って生きていけるほど甘くない。ときには嫌な人間とも付き合わなければならないのだ。我慢しなければならない」


日本人は昔は「村」の人間関係から逃れられず、今は「職場」の人間関係から逃れられない。だから、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と


「孤独な人間には価値がない」


と徹底的に刷り込まれていく。日本人は、


「人間関係を壊してはいけない」


という刷り込みが、極度に強い社会なのだ。

金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう

嫌われたら「村八分」される。村八分されたら生きていけない。だから、日本人は仲間はずれにされたり、孤独にされるのを非常に恐れており、孤独にも恐怖を感じる人も多い。はた目から見ると、人間関係の強迫観念にとらわれているかのようにも見える。社会がそれを強制している。だから、日本人は、仲間はずれにされないように他人に合わせるようになり、主張することもできず、何でも流されるように受け入れてしまう。

夜の街、歓楽街、欲望の街、売春地帯では、これが致命傷になる。手練手管に長けた女性や、自由奔放でまったく他人のことを考えない女性に、とことん振り回されるのである。

相手に不満があっても、流されるように受け入れ、そのために、どんどん金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう。そうなってしまっても、相手を切れず、利用され、カモにされ、踏み台にされる。

怒ったり、たしなめると、


「本当はあなたを愛してる」

「次からはきちんとする」


と答えて反省するが、しばらく経つとまたもや同じことを繰り返す。こういった女性は、他の男とトラブルを起こし、社会的なルールを守らず、金銭トラブルを起こし続けるのである。それでも、切れずに、ずるずると付き合って行く。人間関係で、「流されている」典型的な例である。

売春地帯では、日本人が束になっても敵わないほど奸知に長けた恐ろしい女性もいて、セックスをエサに男を破滅させる光景を山ほど見る。売春地帯で男が飛び降り自殺したり、自棄になって女性を殺害したりする事件が多発している。時には最悪の事件を起こす男もいる。日本人に多いのは


「ずっと貢がされる」

「断り切れなくて金を毟られる」

「次々とタカられる」


というものである。


詐欺で逮捕されたタイ女性。外国人を手玉に取って騙すような女性は、どこにでもいる。


流される人間関係が致命傷になってしまう

フィリピンでも、タイでも、ずるずると金を毟り取られる一方の男が山ほどいて、すべて奪われたら大使館前に「捨てられる」ような男もいる。すべて毟り取られて乱射事件を起こす男もいる。

なぜ、そうなるまで関わってしまうのか。ここに、人間関係で我慢し、村八分を恐れ、人間関係を切ることができない日本人の「刷り込み」を見ることができる。日本社会が日本人に強要している「刷り込み」とは、


「我を殺して協調性を重視する」


ことと


「ノーと言って人間関係を壊してはいけない」


というものだ。日本人の多くは子供の頃からそれを「刷り込まれている」ので、まったく意識していないが、だから危険なのである。過度に協調性を意識すると、それを良いことに、ずるずると利用され、タカられ、毟り取られていく。

東南アジアで女性ひとりと知り合ったら、その女性の友人や家族や親戚が次から次へと出てきて、当たり前のように、毎日のようにタカられる。

日本人は、それに強烈な不満を感じても、決してそれを口に出さず、ただ耐えて耐えて耐え抜いて、タカられるがままになる。それに何とも思わないで溶け込める人間ならいいのだが、最後に爆発して事件を起こすのであれば、最初から人間関係は遠慮なく切り捨てるほうがいい。日本から一歩出ると、むしろ「人間関係の切り捨て」ができるようにならないと、どうしようもなくなってしまう。特に、アンダーグラウンドではそうだ。流される人間関係が致命傷になってしまうのである。


自分のためにならない人間関係は、容赦なく切る

裏社会(アンダーグラウンド)は、常に表社会とは、逆のルールが作用している。

愛は表社会では正しい感情。
愛は裏社会では間違った感情。

信じることは表社会では正しい感情。
信じることは裏社会では危険な感情。

疑うことは表社会では嫌悪されること。
疑うことは裏社会では重要なこと。

何もかもが、表社会と裏社会ではそっくりそのままひっくり返っていて、表社会のルールで裏社会を泳ぐと、たちまちのうちにカモにされてしまう。

特に日本人は、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と「孤独な人間には価値がない」と徹底的に刷り込まれているので、世界中どこでもカモだ。カモにされても、気がつかないほどだ。

そこから逃れるには、


自分のためにならない人間関係は「容赦なく切り捨てる」

「ノーと言う」

「付き合えないと言えるようにする」


べきなのである。あなたのためにならない人間関係は、長く生きていると必ず出てくる。単に、群れるための人間関係、流されてできてしまった人間関係、我慢しているだけの人間関係、自分をダメにしてしまう人間関係、破滅が目に見えるだけの人間関係……。

そんな人間関係を強いる人間が、必ずあなたの目の前に現れる。特に海外では「友達」を押し売りする男と、「愛」を押し売りする女が、高確率で現れる。そのときに、人間関係を切れるかどうかが命運を分ける。悲劇を避けるためには、一刻も早く、日本社会特有の「刷り込み」から脱して、「悪い人間関係を切る」経験を積まなければならない。

大切にしなければならない縁と、容赦なく切らなければならない縁を見極めて、切るべきものは早めに切るべきだ。


重荷になっている人間関係に囚われてはならない。日本社会特有の「刷り込み」から脱して、悪い人間関係を切る。


▲△▽▼

自分を苦しめる人間関係から脱却するために最初に考えるべきこととは?
https://blackasia.net/?p=9867

人間関係に苦しむ人は多い。人間関係に苦しむ人が最もすべきことは、苦しい人間関係を何とか改善することだろうか。そうではないと私は信じている。それよりも、もっと効果的で合理的な方法がある。

それは、「自立できる経済力を持つこと」である。

なぜか。どの組織、どの人間関係にも依存しないだけの自立できる経済力があれば、自分に合わない人間を、簡単にかつ明快に断ち切ることができるからである。自立できているのに、自分にとって有害な人間と一緒にいる理由はどこにもない。

自立できる経済力があれば、自分にとって知的な刺激を受ける人、一緒にいて心地良い人、共に楽しめる人だけを残して、どうでもいい人間は切ることができる。人間関係を「改善」するのではなく、「取捨選択」することができる。

合理的だと思わないだろうか。

そう考えれば、自立できる経済力を持つというのは、なかなか深遠なテーマであることに気づくはずだ。経済的な豊かさは、実はしがらみを切るためのツールでもあるからだ。(鈴木傾城)

自分の価値を認めない人のために時間を使うな

すべての人間は分かり合えると思ったら大間違いだ。

人はそれぞれ信じるものが違い、主義主張が違い、文化が違い、習慣が違い、生き方が違い、目的も違う。ありとあらゆるものが違うのに、すべての人と分かり合えるはずだと思うのは、それこそどうかしていると言っても過言ではない。

「何をどうしても分かり合えない人がいる」

これが現実なのである。ただ、すべての人と分かりあえなくても問題ない。互いに節度ある関係を保つことができるのであれば、それで世の中は回るからだ。

しかし、節度ある関係すらも築けず、自分にとって害でしかない人間も世の中にいる。それも莫大な数で存在する。何をどうしても好きになれない人間や、うまく関係を築けない人間は避けられない。

本当のことを言えば、好きになれない人間と一緒にいるような選択はすべきではない。好きになれない人間と長期に渡って継続的に関わるのは合理的ではない。避けなければならない。

親兄弟や親族とうまくいかないという人は多い。その場合はどうすればいいのか。私なら近くにいない。疎遠になる。関わらない。避ける。物理的に接触を避けて、自分自身の人生や生き方を最優先する。

関係が切れないのであれば、関係を限りなく疎遠にしておけばいい。親兄弟であっても、自分にとって心地良い関係を保つことができないというのであれば、なぜ緊密な関係を持つ必要があるのか。

自分の価値を認めない人のために、貴重な時間を使うべきではない。

「自立できるだけの経済力」はここで生きてくる。自立するというのは「自分が好きでない人のために時間を使わない」ことなのである。

意外にドライな合理的精神を持っている

幸せな人間関係で自分の環境を固めたいのであれば、一緒にいて心地良い人との関係を良くして、そうでない関係は清算する作業を繰り返すのが理に適っている。

自分を理解してくれない人や自分にとって有害な人と関係を改善することではない。「人類みな兄弟」ではない。不必要な関係は切らなければならないし、もし切れないのであれば疎遠にしていく必要がある。

農家は育てている農作物に栄養を与え、雑草を引き抜いて実りを得る。雑草も大切だと言って一緒に雑草を育てていては重要な農作物が枯れる。農作物を成長させるためには、雑草を引き抜いて取り去る作業は欠かせない。

人間関係も同じで、自分にとって実りにならないばかりか有害ですらもあるような人間関係は引き抜いて取り去る作業をして当然だ。

分かり合えない人との関係を何とかしようと思うのは、まさに雑草を育てているのと同じなのである。そんな労力があるのであれば、大切な人間関係の方に時間を使う方がよほど役に立つ。

しばしば壊れ、しばしば改善しなければならず、しばしば自分に害を為す人間関係をどうにかするのは困難な仕事だ。それよりも、最初から心地良く、お互いに尊重できて、自分を向上させる人間関係を増やした方が絶対にいい。

扱いにくい人間と関わるべきではない。取引もすべきではない。扱いにくい人間は遠ざけることによって自分の大切な時間を守ることができる。

人生の中で素晴らしい人間関係に囲まれている人は、意識的にも無意識にもそうしている。その人は大勢の人をふるい落とした結果だ。彼らは付き合う人を慎重に選んでいるのである。

素晴らしい人間関係に囲まれているというのは、意外にドライな合理的精神を持っている人であると私は見ている。ドライに人間関係を取捨選択しているから、よけいな人間関係に煩わされないで幸せな人間関係だけでまわりを固められる。

幸せな人間関係でまわりを固められるというのは、「人間関係の取捨選択」がきちんとできている証拠なのだ。雑草を引き抜いて、大切な存在に水を差している。

そして、彼らはそれができる経済的な余裕も持っている。自立できているから、雑草が引き抜ける。経済的に自立できていなければ、雑草を引き抜く力がない。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

問題は、切らなければならない関係が放置されること

極度に悪化した親子の関係、暴力が絡むようなパートナーとの関係に苦しむ人もいる。血縁的、法的な結びつきがある場合、人間関係は簡単に切れない。しかし、切れないからと言って自分に害を為すのを放置しておくのは良いことではない。

切らなければならない関係は、意図的に切らなければならない。

いろんなしがらみで切れないのであれば、関係を疎遠にしていかなければいけない。相手が自分に害を為すことができないように「一定の距離」を置いて、関係を限りなくゼロに薄めていかなければならない。

多くの場合、自立できる経済力があればそれが実現できる。

経済的に自立できていれば、関係を切ることも、疎遠にすることも、それほど難しいことではなくなる。経済力を背景にして、新天地を求めて旅立つことが可能になる。

だから、注力すべきは壊れた関係の中でサバイバルすることではなく、着実に自立できる経済力を身につけることとだ。

すべてはそこに行き着く。

人間関係は切ってもいいのだと分かっていれば楽になれる。それができる経済的な余力があれば、さらに楽になる。実際に「何をどうしても分かり合えない人」を切ったら、もっと楽になれる。

人間関係に苦しんでいる人は「切ること」をより重視してもいい。そして、経済的に自立できるのであれば、その決断は実現化できることに気づくべきだ。

社会の底辺で多くの荒んだ人たちを見てきたが、彼らの問題はひどい人間関係にがんじがらめにされていたということだけでなく、そこから抜け出すための経済的な余裕がなかったことにも私は気付いている。

自立するだけの経済力を手に入れるというのは、それを実現できている人にとっては別に大したことではないように思うのだが、そこに至っていない人にとっては、大変なことでもある。

しかし、大変だからと投げ出してはいけないものでもある。自立するだけの経済力は、破滅的な人間関係から脱却するための武器にもある。武器は持っておくべきだ。(written by 鈴木傾城)

農家は育てている農作物に栄養を与え、雑草を引き抜いて実りを得る。雑草も大切だと言って一緒に雑草を育てていては重要な農作物が枯れる。農作物を成長させるためには、雑草を引き抜いて取り去る作業は欠かせない。人間関係も同じで、自分にとって実りにならないばかりか有害ですらもあるような人間関係は引き抜いて取り去る作業をして当然だ。

▲△▽▼

自分と合わない人と関係改善の努力するよりも、もっと良い方法がある
https://blackasia.net/?p=10033

柔軟な人は、頑固な人と合わない。約束をきちんと守る人は、約束と守れない人とは合わない。優しさを基本にして生きている人は、他人に冷酷な人とは合わない。人間は、いろんな部分で他人と合わない面を持つ。

だから、人間関係は常にトラブルに満ち溢れている。人間関係のトラブルを経験したことのない人は、この世にいないのは断言できる。

性格も、年齢も、職業も、性別も、教育も、国籍も、文化も、宗教も、主義も、それが違うと常に対立と衝突と反目が生まれる。必ず何かが起きるのだ。

そうなったとき、いったいどうすればいいのか。

誤解を解いて互いに分かり合えるように話し合うのは基本だ。しかし、話し合って議論をしても、性格や感覚や信念が違っている場合は、結局のところ相互理解は非常に難しい。

そもそも、あまりにも違っていると、話し合うことすらも難しいのだ。そのため、あまりに個人個人の性格や信念が違っていると、もはや何もしなくても人間は分離していくことになる。

意図してもしなくても、自然にそうなる。分離する。(鈴木傾城)

「自分と世界観が違う」と思った人間に対して

分かり合おうと努力するのは基本だが、根本的に合わない人というのは存在する。

「自分と世界観が違う」と思った人間に対しては、相手を変えようとしたり、自分が変わろうとしたりしないで、静かに関係を切る方向で考えるしかない。結局、最後にはそこに行き着く。

合わない人といつまでも苦闘する必要性はまったくない。どのみち、そうなるのだから、それが自然なのだ。

実は「合わない人」と離れるのは、それほど悪いことではない。

自分の人生で常に関わっていけるのは150人が限度だとイギリスの人類学者、進化生物学者であるロビン・ダンバー氏は「ダンバー数」で提唱した。

人生に密接に関わることができる人の数というのは、せいぜい150人だった。それ以上の人間と関わったところで、人間関係が希薄になって関係を保てない。

全人類はすでに74億人を超えているが、その中でたった150人しか強い人間関係を築けない。だとしたら、「合わない人と苦闘する」というのがいかに「時間に無駄」なのか分かる。

合わない人と苦闘するような実りのないようなことをするより、むしろ合う人を150人見つけた方が合理的だと思わないだろうか。

仮にその150人を探そうと思って、1年に3人をがんばって見つける計画を立てたとする。気の合う人を1年で3人見つけるというのは、大変なことだ。それをクリアしても、150人に到達するには、なんと50年もかかる。

そうであれば、なおさら「合わない人と苦闘する」ような時間はないと分かるはずだ。人間は合わない人間とは意図しなくても切れるのだが、自分に合う人を探すためには時間も必要なので、意図的に合わない人間を切る必要もある。

それは、誰もが進んでやってみたいと思うべきもの

カナダの小説家、モンゴメリは小説『赤毛のアン』で「心の奥底を打ち明けられる本当の仲間。いままでずっと、そういう友達に巡り会うことを夢見てきたの」と主人公の少女に語らせている。

「気の合う人を150人見つける」というライフプランは、別に苦痛と忍耐にまみれたものではない。むしろ、誰もが進んでやってみたいと思うべきものでもある。

しかし、それを実現するためには時間が重要になってくるので、どうしても削らなければならない人間関係が出てくる。誰を削るのか。もちろん、努力してもうまくいかない人間関係を切るしかない。

(1)うまくいかない人間関係を切る。
(2)新しい自分に合う人間関係を探す。
(3)自分に合う人間関係を保つ。

人生は短いのだから、合わない人を切って合う人を自分のまわりに残すことの方が、合わない人と苦闘するよりもストレスがないというのは少し考えただけでも分かるはずだ。

努力する方向性を間違えてはいけないのだ。自分と合わない人と合うように努力する方向よりも、自分と合う人を見つける努力する方向の方が報われる。

どんなに努力しても報われず、違和感や異質感を感じて引っ掛かるのであれば、それ以上望むべきではない。

人間関係というのは、自分の一方的な思いで動くわけではないので、相手が自分の思う通りに変身してくれると思うのは子供の無邪気な想像と同じだ。

自分の性格や考え方を他人に変えられたくないのと同様に、他人もまた誰かに変えられたくないと思っている。

そんな中で、関係がうまくいかないのであれば、関係をフェードアウトさせて、自分の気の合う人を探す「冒険」に出た方が生産的なのである。

関係を断つというのは、失う方ばかりに焦点がいってマイナスの目で見られることが多いが、そんなことはない。新しい冒険のために身軽になるというプラスの側面もある。

あなたに合う人が、世界のどこかで待っている

合わない関係を静かに終わらせるというのは、もうひとつプラスの面がある。「合わない人を断ち切る」というのは、皮肉なことに共存共栄になるのだ。なぜなら、互いに没交渉になれば争いが起きないからである。

衝突というのは、相手がそこにいるから発生する。関係が断ち切れたら衝突もない。

うまくいかなくなった関係も、長い歳月が問題を氷解させて和解になることもある。仲違いして離れ離れになった親子も、数十年後に静かによりを戻すケースもある。

一緒にいれば殺人事件が起きていた可能性もあるような憎悪剥き出しの人間関係だったとしても、数十年も経てば怒りも憎しみも薄らいでいることもある。

合わない人間とは離れ、関わりをなくすことによって、また関係が築けることもある。関わりを消すことによって、逆にうまくいくきっかけがつかめることもある。

だから、「うまくいかないものを切る」というのは、何かを解決する上でも重要なことである。

自分自身の人間関係も、あるいは世界中で起きている民族闘争も、ありとあらゆる対立は、互いに完全に相手を断ち切ることによって逆に致命的な破滅を避けることが可能になる。

それをしないで、一方的に関わろうとすればするほど問題は激しくこじれて行き、最後には破壊的な事態に陥っていくことになる。

「合わない相手を断ち切る」という合理的な方法論は、もっと取り入れられて然るべきだと言える。

それは、とてもシンプルな方法論だ。

切った相手には、その相手に合う別の相手がいる。自分には自分に合う別の相手がいる。だから、合わない相手を切るというのは、互いに共存共栄することでもある。

私たちには、自分に合う人が世界のどこかで必ず待っている。それを探しに行くのは、悪い話ではない。

人間関係も断捨離が必要だ。人間関係を断捨離をすることによって私たちは時間と精神の余裕を作り、そこに合う人を埋めていくことで人生を豊かにすることができる。「切る」というのは大切なことなのである。(written by 鈴木傾城)

自分自身の人間関係も、あるいは世界中で起きている民族闘争も、ありとあらゆる対立は、互いに完全に相手を断ち切ることによって逆に致命的な破滅を避けることが可能になる。
メンテ

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