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[2517] 民主主義と衆愚
日時: 2016/07/21 18:02
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:whmcu7zc

>民主主義

人民が権力を所有し行使する政治形態。古代ギリシャに始まり、17、18世紀の市民革命を経て成立した近代国家の主要な政治原理および政治形態となった。近代民主主義においては、国民主権・基本的人権・法の支配・権力の分立などが重要とされる。現代では政治形態だけでなく、広く一般に、人間の自由と平等を尊重する立場をいう。

>民主政治(民主主義と統治)

…現代の政治社会は一般に民主主義を理念として構成される。民主主義の理念が治者と被治者の一致を含む以上,民主政治においては,両者の同質性が説かれ,両者の間の利益の共通性が強調されることになる。しかし,民主政治においても,治者と被治者の同質性はフィクションであり,現実には支配服従関係が厳然として存在することはいうまでもない。…

>衆愚政治

自覚のない無知な民衆による政治。ペリクレス死後のアテネの民主政治の堕落を批判していった語。

イギリスの元首相チャーチルの言葉の中に
「民主主義は最悪の政治形態であると言える。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば。」

>民意

集団的知性とは、多くの個人の協力と競争の中から、その集団自体に知能、精神が存在するかのように見える知性である。

集団的知性は、細菌、動物、人間、コンピュータなど様々な集団の、意思決定の過程で発生する。集団的知性の研究は、社会学、計算機科学、集団行動の研究などに属する。

集団から得た意見は専門家1人で出した答えよりも正解に近づくという「集合知」の存在が知られていますが、一方で、集団心理によって人は「衆愚」となり愚かな行動を起こすこともあります。集合知ではなく衆愚になってしまう時には何が起こっているのか、そして衆愚にならないようにするためにはどうすればいいのかが、研究によって明らかになっています。

>衆愚

衆愚とは、多くのおろかな人の事を言い、その人たちが影響を及ぼす政治を衆愚政治と言う。

>集合知(集団的知性)と衆愚

1906年にイギリスの大学者Francis Galton氏は、ある村で行われた800人が参加する「牛の重さ当てコンテスト」を訪れました。コンテストの終了後Galton氏が参加者の予想を集めて平均を求めたところ、その重さは1208ポンド(約548kg)。驚くことに、これは実際の牛の重さである1198ポンド(543kg)と約1%の誤差だったのです。

これが集合知と呼ばれるものの1つの例。1人の専門家の意見よりも個人の意見を多数集めたグループの意見の方が正解に近いという考え方です。しかし、オンライン掲示板などインターネットのユーザーであれば「みんなの意見は正しい」という考えが必ずしも賢明でないことは分かっているはず。

では「どんな時に集合知が愚かなものとならないのか?」というと、近年の研究によると「集団のメンバーが相互に影響しないこと」が重要な要素とのこと。集団が各個人の持つ幅広い予想から意見を出せば賢明な答えになるのですが、何かのバイアス(偏見、先入観)がかかった時、つまり互いが影響を与えたり外部の要因に影響されたりした時に、集合知は愚かなものとなってしまうのです。

>まとめ

人民主権も良い、自由、平等も良い。
民主主義は理想の形、我々の希望の星。

で、あるが

流行を追い、ニュースに飛びつき、自らの趣向を満足させることにのみ興味を抱く
そのような観念の一致で政治が成り立つのか。
個人個人の欲望の集合を、あるべき集合知と言えるのか。
求められる集合知とは、社会の有り様に対する問に対してではないのか。

我々は上記の文章の中に、我々に託された問題もあることを認識できているのであろうか。
民主主義と言っても統治の問題はある。
我々が衆愚に陥っていては、然るべき政治が出来ない。
然るべき政治ができなければ弱肉強食の前時代的な社会へ戻る。

民主主義と言う言葉だけを過信し、手をこまねいていることは、民主主義を堕落、衰退させることになる。
民主主義社会に慣れきった人々、生まれながらに民主主義社会の中で育った人たちは、我々が勝ち取った民主主義の有り様を忘れてしまっている。

ヘレニズム社会(紀元1〜3世紀)の批評家の一言

< 現代に生まれた人間の精神生活の癌の一つは、精神的緊張の低下であって、ごく少数の選ばれた人びとを除き、我々はみな、弛緩した日々を送っている。仕事においても、気晴らしにおいても、我々がもっぱら目標にしているのは、人気取りと享楽である。全心を自分のしている事に打ち込み、本当に手に入れる価値のある承認を勝ち取ることのうちに見いだされる、真の精神的財宝を得ることに、少しも関心をもたない >

何をか言おう。
平和ボケした人たちは、民主主義の看板を掲げていれば、自然と理想社会が実現できるように勘違いしている
平和な社会の果実、個人の権利、自由は考えても、真に大切にしなければならない価値を見失っている、それを得るための困苦から逃げている。
否、考えることさえ避けている。
否、否
そのようなものが、あることさえ解らない。知ろうとしない。

(追伸)

弛緩した長年の民意の結果、
国会議員、地方議員共に、政治を口実に己の利得を目的とした議員が殆どになった。
民衆に対して、本当に価値あるものを身を持って示すことができる者がいなくなった。
選挙の為の弁舌は、その言葉自体がまやかしに過ぎないことは疑う余地すらない。

そのような議員を、いくら選挙で選ぼうが、欺瞞を生む以外の何ものでもない。
もはや議会制民主主義は衰退し、新たな封建制、強欲な富者の為の封建制が始まっている。
民主主義の名の下に、民衆の承認を得て!

先の参院選も都知事選も、新しい形の封建領主を選んでいるに過ぎないのである。
私は、そのような行為(選挙)には与しない主義である。

メンテ

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Re: 民主主義と衆愚 ( No.1 )
日時: 2017/01/26 22:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UJSnjRns

民主主義とは本当に厄介な代物。

民主主義と言えば、誰もが参加できることで大衆は満足する。
しかしながら、一歩では、誰かの突出は望まれない。

それが皆の為であると言っても独断は嫌われる、信用されない。
国家を、大衆を導くと言っても、これが善などと、どこから見ても心地よいものばかりではない。
そんな答えがあれば、もともと問題なく、リーダーなど現れなくも自然と解決できるもの。

大衆を、時代を導く論理とは、そんなに確実な形はなく、大衆も自覚することも難しい。
それを示すのが先遣者であり、理念を遂行するのが英雄である。

だが、現代民主主義社会では大衆の認識できないものは大衆の意思でもって排斥される。
結局は先遣者も英雄も出る幕はない。

明治維新の始まりとなった、江戸末期の尊王思想も、尊王攘夷も尊王討幕も、ましてや明治政府がやった国政改革も最初は、維新の志士ですら明確に認識できているものは少なかった。

また後世に伝えられている英雄たちも、決して欠点のない人格者などでもなかった。
現代流に非難すれば、それに耐えられる人物(英雄)などいなかった。
それでも彼らを信じてついて行ったので大業は成し遂げられた。

現代では、明治維新に参画した人材が出ても、それぞれが、それぞれの位置で押しつぶされていたであろう。
また現代社会のありようでは明治維新のような変革はできない。

時代が変わるとは、そういうもの。
時代の変革において、民主主義は仇となることの方が多いのである。

トランプアメリカ新大統領が英雄か否かは解らない。
でも、少なくとも現在の言動から、早急に結論を出す必要はないのである。

本当に民主主義とは厄介なものである。

しかしながら、

「民主主義は最悪の政治形態であると言える。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば。」

(イギリス首相 チャーチル)

だそうである。
メンテ

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