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[2713] 経済理論の大転換
日時: 2017/06/12 22:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kxWIWdiE

このスレッドは「経済の話し」スレッドの姉妹編として続けます。
「経済の話し」スレッドは、試行錯誤の状態を表し、このスレッドは積極的に、果敢に新しいシステムに挑戦します。

まずは下記サイトの意見を紹介します。


http://ameblo.jp/reisaiouen/entry-11872109459.html

「ケインズ革命=金本位制から離脱する経済学」

 ケインズ主義の構築者、ジョン・メイナード・ケインズ(1883年6月5日〜1946年4月21日)は、イギリスで生まれた経済学者で、20世紀学問史において最重要人物の一人とされています。

 ケインズは、1936年に「雇用、利子および貨幣の一般理論」を表し、有効需要の創出とそれによる乗数効果の理論から、所得再分配を経済政策の基本に据えることが経済の成長政策としても正しいことを訴え、それによって、社会政策である貧困層の救済と、経済成長政策とが、一体のものであることを論証しました。

 ケインズのこの理論は、「需要が供給を支配する」とも言われるように、消費者にお金を持たせようとする需要側重視の特徴を持つために、デマンドサイド経済学と呼ばれます。また、その所得再分配政策を重視する政府を大きな政府と呼びます。

 大きな政府の定義は、政府の財政規模の単純比較を言っているのではなく、政府が国民の社会福祉および社会資本を充実させ、所得格差を是正しようとする姿勢を持つために、必然として政府が国民経済に深く関与することになり、政府の権力も、財政の規模も大きくなることから、これを大きな政府と呼んでいるのです。

 大きな政府は、資本主義において、弱者である労働者、失業者、老人、病人などが救済されることを目的としています。

 通常、お金というものは、富裕層や大企業のほうが有利な投資活動ができることなどにより、貧乏人から富裕層へ、弱者から強者へと、下から上へと吸い上げられるようになっています。それゆえ、強者と言い、弱者と言います。

 古典派経済学の景気循環の分析は次の通りです。

 活発な経済活動によって現金が富裕層や大企業に集中し、彼らの資金が潤沢になると、一方で、消費者の保有する現金が減少して、それまで好況であった財市場の景気が徐々に低迷し株価が下がり始めます。そうすると、富裕層は投資を控えるようになり、国民生活は苦しくなります。

 しかし、株価が下がりきると、投資家にとって、投資からの期待収益が高まり、徐々に投資を増大させるので、証券市場は活気を取り戻します。投資が活発に行われるようになると、財市場も好景気になります。

 好景気下で投資資金が不足したときは、銀行の信用創造による資金も使われるようになります。銀行の信用創造が行われることは、貯蓄を上回る投資が行われるということであり、過剰投資と呼ばれます。

 しかし、どこかの時点で銀行が現金保有量が減少し、融資し過ぎたと判断したときに、銀行は金利を上げ、融資を抑制し、あるいは、現金を回収しようとします。

 銀行が金利を高くすると、富裕層は投資よりも貯蓄を増加させ、現金は銀行に戻り、銀行の保有する現金量が増え始めます。

 しかし、これは労働者の所得を下げることになり、労働者は消費者ですから、消費者の保有する現金が減少することになります。すると、再び、消費は低迷し、株価が下がり始め、景気は再び不況に戻ります。そして、富裕層は株価の値下がりの程度を見ながら、投資する時期を待つのです。

 このように、古典派経済学および新古典派経済学では、投資家と銀行の動向によって景気循環が起こると分析していました。その分析の有力なものが、投資と貯蓄の不均衡分析などと呼ばれるものです。

 特筆すべきは、これらの古典派経済学は、全て、金本位制の必然である、「政府が自由に貨幣を発行出来ない」という拘束の下に考え出されたシミュレーションであるということです。

 現金は、金(gold)との交換を前提とした兌換貨幣であり、よって、貨幣は有限のものであり、富裕層と消費者のどちらが現金を持っているかが、景気循環や経済動向を決定するカギになっていたのです。

 簡単に言うと、金本位制の下では、銀行が金保有高を超える現金の融資を行うと、いつ、どんな場合に、金との交換を請求されるかわからないので、あわてて融資した現金を回収するという行動になってしまいます。金との交換を請求され、交換に応じられなければデフォルト(債務不履行)になってしまうからです。

 したがって、景気のかげりはすぐにやって来ます。

 金本位制の下では、いつも政府と中央銀行で保有している金(gold)をかき集めて足りるかどうかを心配していなければなりませんでした。自国の投資家や他国の政府など、誰かが政府発行紙幣を持ち込んで来て、その時ただちに金(gold)と交換してやることが出来なければ政府もまたデフォルトになります。

 中央政府のデフォルトは正真正銘の財政破綻であり、財政破綻はまさに国家の生死を分けるほど重要なテーマでした。したがって、自国通貨建て国債の発行もまた、金保有高に制限され、そうでなければ、外貨建て国債を発行しなければなりませんでした。

 このように、貨幣の本質を、金(gold)という有限のものであるという認識において生まれたものが古典派経済学であり、古典派経済学の特徴である財政均衡主義です。

 しかし、1971年に、アメリカの大統領のニクソンによって、米ドルと金(gold)との兌換停止が宣言されると、たちまち金本位制は終焉しました。これをニクソン・ショック、または、ドル・ショックと言います。

 それまで、戦争などの事情で、一時的に金本位制が停止されたことがありましたが、奇しくもそれが、金本位制に依らない経済運営の経験になっていたということもあると思われますが、ニクソン・ショックで何が起こったかと言えば、2〜3年後に各国通貨は固定相場制から変動相場制に移行したり、多少の景気変動があったりしましたが、そうしたわずかな動揺以外の重大な変化は何も起こりませんでした。

 これは、管理通貨制度が世界に受け入れられたということです。

 金本位制から管理通貨制度へ移行したからには、経済学も変わらなければならないはずでした。そして、金本位制下とは異なる貨幣、政府債務、財政政策が議論されなければならなかったはずです。

 ケインズは、金本位制下とは異なる政策を行いたいがために、金本位制からの離脱を主張していました。

 富裕層や投資家が限られた貨幣を独占し、流動性選好そして流動性の罠が発生したとしても、それを非難したところで、あるいは、富裕層への増税を主張したところで、政治力でどうにもなりませんでした。事実、ケインズは富裕層への増税を主張したために、学会から役職を奪われ、仲間からも絶交されるなどされ、社会的に報復を受けました。

 ケインズは、富裕層への増税がそれほどまでに難しいのならばと、金本位制からの離脱を主張したのです。

 政府が、貨幣を金(gold)の保有量に拘束されず自由に発行できるなら、貨幣の増刷はインフレをもたらしますから、富裕層のため込んだ貯蓄の実質価値を減少させ、実質的に課税したことになります。

 金本位制から脱した現代の銀行は、融資で財市場に出した現金を金(gold)と交換する義務はないので、融資の総額を金(gold)の保有量に拘束される必要はありません。銀行は中央銀行の法定準備率(預金の種類や額に応じて0.05%〜1.3%が定められている)さえ守っていれば、いくらでも自由に融資できます。

 中央銀行もまた貨幣を自由に発行できるようになりました。金(gold)との交換を請求される心配はありません。

 これは決定的に重要なことです。政府も中央銀行も『黄金の拘束衣』を脱いで、身軽になり、清々しい気分になることが出来たのです。

 ところが、『黄金の拘束衣』を脱ごうとしない者がいるのです。それは古典派経済学と、これに従う政治家とマスコミです。

 古典派経済学の黒幕はアメリカのウォールストリート、シカゴボーイズなどと呼ばれ、または、ユダヤ資本とも呼ばれます。彼らにとって、インフレを起こされ、貯蓄の実質価値を減少させること、自らの資本の希少性からもたらされる利益を手放すことなどは絶対に認められないのです。

 そこで、彼らはお金で経済学者を買収し、金本位制からの脱却後も、貨幣増刷に限度があるかのように語り続けさせたのです。ただし、今度は、通貨発行量は政府債務であり、政府債務は、金(gold)の保有量ではなく、GDPとか税収とかに比べて大きすぎてはならないと言い出しました。

 通貨発行権を持つ国家においては、デフォルトはなくなり、インフレおよびハイパーインフレだけが財政破綻の意味になるのに、それから目を背けさせたのです。

 財政破綻の意味が変われば、この世の全てが変わります。

 管理通貨体制になった世界では、政府財政にデフォルトはあり得ません。インフレ、強いインフレ、そして、ハイパーインフレが存在するだけです。

 インフレ、そして、ハイパーインフレの研究がつまり財政破綻の研究です。インフレやハイパーインフレが国民生活と経済成長に何をもたらすのかを研究すれば、財政破綻の問題は簡単に解決できます。

ケインズの経済学が革命であったのは、それまでの古典派経済学が、金本位制の、金(gold)の量に拘束された兌換貨幣をもって行う財政均衡を必須とする経済学であったのに対し、ケインズ経済学では、所得再分配を行うために富裕層への重税を主張しただけでなく、それが出来ないと見れば、今度は、金本位制から解き放たれた管理通貨制度によって、無制限の貨幣発行を目指したからです。

(引用終わり)

ケインズ経済学になぞらえていますが、要するに金本位制を止めた時点で通貨の発行の限度は中央銀行の判断に任されたはず。
ところが世界の中央銀行は、国家、国民を見て通貨発行の量を決めるのではなく、世界の金融筋の顔を見て通貨発行を決めている。

それもそのはず、世界中の中央銀行はロスチャイルドの様な金融資本に牛耳られ、各々の国家の事情によって通貨の発行をすべきところ、世界共通のやり方(国際金融理論)でするように圧力をかけている。

通貨発行権というものが国家に握られているならば、そうはさせないはず。
金本位制を止めた時点で通貨発行権は国家が持つべし。

通貨発行権は国家がもち、国家の都合に合わせて、ハイパーインフレが起きない程度で発行すれば良い。
そうすれば、どの国家も財政破たんの心配などしなくて済む。
また通貨管理を金本位制の延長でやっている現在は、限られた通貨は富裕層に集まり、その分、貧困層は通貨が不足すると言う、いわゆる格差が広まる。

通貨発行権を国家がもち、政策として貧困層に通貨がわたるようにすれば(富裕層から取り上げるのではなく)、貧困問題は解消できる。
そうなれば、富裕層は自分がためた通貨の価値に疑問を呈することになる。
金を必要以上にためることに意味がなくなる。
そのような社会こそ、好ましい社会ではないか。

上記の文章は、言いかえれば、このようなことを言っている。
要するにヘリマネ論を言っている。
それが経済学的に成立することを言っている。

けっこう 毛だらけ ネコ灰だらけ ではないか。
メンテ

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通貨制度とは ( No.1 )
日時: 2017/09/09 14:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:oWR.QT0E

以下は全文引用
https://sites.google.com/site/nekodemokeizai/chi-xu-ke-nengna-jing-jiheno-lue/okaneni-yi-cunshinai-jing-jiha-ke-nengka


通貨制度とは何か (信用通貨と政府通貨)


(じいちゃん)

マクロ経済の運営ツールについて、今回は通貨制度について説明しようと思う。通貨制度は経済運営に極めて重要なんじゃが、どういうわけか無視されておる。というか、そもそも通貨制度には2種類ある事すら新聞マスコミは絶対に触れない。現行の「信用通貨制度」がまるで永遠不変の原則のように経済運営の前提となっておるが、ここには大きな問題も潜んでおるんじゃよ。

(ねこ)

通貨制度には2種類あるの?

(じいちゃん)

通貨制度には大きく二種類あると考えておる。
@「信用通貨制度」・・・借金によって通貨を作り出す制度
A「政府通貨制度」・・・資産として通貨を作り出す制度

@信用通貨制度

現在の通貨制度はこれじゃ。この通貨制度の最大の特徴は、通貨はすべて誰かが銀行から借りた借金によって生まれることにある。これは本当じゃ。その証拠に世の中の金融資産と金融負債の合計は必ずゼロとなる。この事が極めて重要なんじゃ。この仕組みは本サイトでは何度も説明しておるが、簡単に説明するとこうじゃ。現金は日銀が発行する。しかし発行しただけでは世の中に供給されない。この現金を民間銀行が日銀から借りるんじゃ。そして日銀から借りた現金を元にして、民間銀行が企業や個人に貸し付ける。これによって初めておカネが世の中に流れだすんじゃ。誰かが借りることで世の中におカネが供給されるということは、世の中のおカネはすべて借金から出来ていることになる。逆に言えば、世の中の企業や個人がおカネを借りなければ、世の中のおカネはすべて消滅して経済はマヒする。これはバランスシートという帳簿の性質上、必ずそうなる。

つまり、現代の資本主義経済は「借金経済システム」だと言えるんじゃ。誰かが常に借金し続けなければ経済がマヒしてしまう。今は世界不況でおカネを借りる人が減っている。だから、日銀が必死になって企業や個人の貸し出しを増やそうと金利を下げておるんじゃ。

(ねこ)

誰かが借金しないとおカネが消えて経済がマヒする制度なんて、根本的におかしいにゃ。でも、どうして今まで問題にならなかったのかにゃ?

(じいちゃん)

そこが重要じゃ。高度経済成長期のように経済成長が著しい時代では、投資によって儲けが出る。じゃから銀行から借金して投資する企業や個人がいっぱい居たんじゃ。だから世の中の借金がどんどん増え、それによって世の中のおカネもどんどん増えたんじゃ(信用拡大)。するとおカネの不足によって生じるデフレのような問題は生じない。むしろ借金が多いために世の中のおカネの量も過剰になり、インフレになるんじゃ。だから、経済成長率が高い時代では、資本主義が借金経済システムであったとしても問題にならなかった。

ところが世界経済は低成長の時代となり、投資しても儲からなくなった。こうなると銀行から借金する人がどんどん減る。すると世の中の借金がへるから、同時に世の中のおカネが減少し、デフレとなる。

このデフレは企業や個人が借金をしないから生じている。放置すれば世の中のおカネはどんどん減る(信用収縮)。そこで仕方なく政府が借金するんじゃ。これによって政府の借金が増えるが、世の中のおカネの量は維持できる。この維持されているおカネが家計や企業の貯め込んでいる金融資産=預金なんじゃよ。ところが、財務省が騒ぎ始めた。国の借金ガーじゃ。しかしすでにお分かりのように、政府の借金を返済すると世の中のおカネの量が減るから家計や企業の貯め込んでいる金融資産は激減するはずじゃ。

このように、経済成長率が低下した時代になったため、信用通貨制度の矛盾が明らかになってきたんじゃ。この矛盾をごまかすためにグローバル化が推進されておるとも言える。多くの人は新聞マスコミによって洗脳されておるので、通貨制度はこの信用通貨制度しかないと信じ込んでおる。しかし通貨制度には別の選択肢もある。

A政府通貨制度

歴史的にはこの制度の方が遥かに古い。この通貨制度の最大の特徴は、通貨は借金と無関係に供給される点にある。じゃから世の中の金融資産と金融負債の合計は必ずプラスになる。この事が極めて重要じゃ。つまりこういう事じゃ。先ほどの信用通貨制度の場合、おカネは誰かが借金しないと生まれないため、常に誰かが借金する必要があった。政府通貨制度の場合は誰も借金しなくてもおカネは生まれる。だから世の中のおカネの量を維持するために政府が借金する必要はまったく無い。

具体的な通貨供給のしくみはこうじゃ。まず日銀が現金を発行する。これを政府が財政支出で使用し、インフラや医療・社会福祉などに使う。これで世の中におカネが流れ出す。実に簡単じゃ。ただしこの方法を高度経済成長の時代に行うと大変な事になる。高度成長期にはただでさえ借金して投資する企業や個人が多くて、世の中のおカネが増えているのに、政府が財政支出なんかしたら、おカネだらけになってインフレが激しくなるんじゃ。これが可能なのは先進国が低成長の時代に移行したからじゃ。そういう時代になったんじゃ。

つまり、高度成長の時代と低成長の時代で、同じ通貨制度を使い続ける必然性はない。それぞれに適した通貨制度を選択すべきということじゃ。そして、信用通貨制度と政府通貨制度をミックスして運用することも可能じゃ。時代の変化に合わせて柔軟に対応すべきじゃが、新聞マスコミは必死になって@信用通貨制度を擁護し、A政府通貨制度を批判する。財政ファイナンスガーというのがそれじゃ。新聞マスコミが反対する理由はおそらく次のようなことじゃろう。@は銀行の利益を生むが、Aは銀行の利益を生まない。つまり金利収入が発生するかしないかじゃ。世の中はそんなもんじゃよ。

(ねこ)

決局は、カネへの欲望が世界を支配してるんだにゃ。

<余談>

(じいちゃん)

そもそもおカネは制度として生まれたものではない。国つまり政府が誕生する以前から物々交換の媒介として何らかのモノを利用することで、原初のおカネの概念が生まれたんじゃ。古代のおカネは政府が作るわけではないので、黒曜石のような矢じりの原料が使われることもあった。実用品じゃな。つまり実際に使用価値があって、腐らない(価値が保存される)ものがおカネとして利用されていた。

国家が誕生すると、国つまり政府がおカネを発行するようになった。ローマ時代や江戸時代ではおカネは政府が発行しておった。これが「政府通貨」じゃ。多くの場合は金貨や銀貨のような貨幣がおカネとして作られたんじゃ。金や銀は実用品でもある。だから実際に使用価値があるし腐らない(価値が保存される)。そいうものをおカネとしていた。政府は金山や銀山を保有して金を掘り起こし、おカネを作った。そのおカネを使って城や公共の建物を建設したわけじゃ。

こうしたおカネは社会で流通する。するとおカネを貯め込む金持ちが現れたんじゃ。こうした金持ちはしこたま金貨や銀貨を貯め込んだが、こうなると泥棒に狙われる恐れが出てくる。そこで、武装した警備員に守られた貸金庫業者におカネを預けるのが安全じゃ。貸金庫業者は預かった金貨や銀貨の預り証を発行したんじゃ。そしてこの預り証を貸金庫業者に渡すと、いつでも金貨を引き出すことができる。この預り証がのちに銀行券(紙幣)となるんじゃ。たとえば金持ちが金貨1枚の預り証をもって肉屋で肉を買う。すると肉屋はこの預り証をもって貸金庫業者へ行けば金貨1枚と交換できるわけじゃ。じゃから、いちいち金貨を使って売買する必要はないんじゃ。

こうして貸金庫業者は銀行となり、銀行券つまり紙の通貨が生まれた。しかし金や銀と違って、紙のおカネには何ら使用価値はない。なぜ価値があるかと言えば、金や銀と交換できるという信用があるからじゃ。これが「信用通貨」のはじまりじゃな。この信用通貨の問題は、信用がどんどん膨張することにある。金や銀などのモノと違って信用は膨張する。どういうことか。

銀行はおカネを貸して利息を稼ぐ。ところで銀行は預かった金貨を貸すのではなく、預り証である銀行券を貸し出していた。銀行券はそもそも預り証じゃから本来は金貨の量と銀行券の量は同じであるはずじゃ。ところが銀行は保管している金貨の量の何倍もの銀行券を発行して、それを貸し出すようになった。金貨の何倍もの銀行券を発行することを「信用創造」という。この信用創造の仕組みが現在の銀行制度の根本的な仕組みにもなっておる。ただし預かっている金貨の何倍もの預かり証を発行すれば、大勢の人が一度に金貨を引き出しに銀行へ来ると金貨が足りなくなってしまう。これが取り付け騒ぎじゃ。じゃから「銀行券を金貨の何倍まで膨らませてよいか」というルールが必要となる。これが準備預金制度と呼ばれる考えの原点となるんじゃ。現代ではおよそ50倍から100倍程度じゃ。こうしておカネが何倍にも膨らむため、バブル経済を引き起こす根本的な原因となる。

しかし、現代の民間銀行は金貨を預かっているわけではない。金貨の代わりに銀行が預かっているのが「現金」じゃ。銀行は預かっている現金の何倍ものおカネを「信用創造」で貸し付けておる。この時に貸すのは銀行券ではなく「預金」じゃ。預金は現金と同等に扱われるので信用通貨なんじゃ。こうして、もともとは「政府通貨」として発行されてきた金貨や銀貨などに代わって、銀行が「信用通貨」を発行するようになったんじゃ。つまり、こうした流れを見ても、通貨を発行する役割が銀行である必要性は何もない事がわかる。銀行がおカネを発行する役割を担うのは、単なる慣習に過ぎんのじゃ。だから、何も信用通貨に執着する必要はない。政府が政府通貨を発行することは自然じゃ。実際、500円や100円のような少額貨幣については日銀ではなく、今でも政府が発行しておる。そして、信用通貨を制限して政府通貨を主体とする通貨制度にすれば、おカネが何倍にも膨らむことがなくなるため、バブル経済は発生しなくなるんじゃ。

こうした話は新聞マスコミには絶対に出てこない。ということは、強烈なタブーであって、非常に危険を伴う話じゃ。こんな事を平気で書いておると、このサイトもそのうち閉鎖されるか、暗殺されるも知れんのう。


メンテ
お金とは何か ( No.2 )
日時: 2017/09/10 18:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:mt0N01uQ

順序が逆であったかも知れません。
そもそも、皆さんが思っているお金とは何かという事について皆さんの答えは如何でしょう。
普通は、金がないと生活できない。
出来るだけ多くのお金が欲しい等と言う思いがあるでしょう。

そうではなく、もっと本質的なお金の概念です。
これは日常生活においては不必要な概念であり、皆さんが認識していなければならない問題でもありません。
ですが経済を論じる場合はそうではありません。
そもそも「お金とは何か」から話しをはじめねばなりません。
少し解りにくい概念ですが、辛抱して読んでください。
お金とは何かについては、あと2、3回のレスを続けます。


@お金とは何か

https://ameblo.jp/reisaiouen/entry-11875327683.html

 お金は物々交換の仲介手段として人類史に登場しました。物々交換の仲介手段としてのお金は、一旦、大事な米や野菜などの生活物資と交換されるのですから、海のものとも山のものとも分からないものに変えてしまって大丈夫だろうか、ちゃんと自分の必要とするものと交換できるのだろうかという不安を振り払ってくれるものでなければなりません。

 そこで、最初は、金や銀などの貴金属がお金として使用されました。金や銀といった貴金属は必ず誰か(権力者や富裕層)が欲しがるという意味における価値の普遍性があり、その価値に依存することで物々交換の仲介手段としての信用を得ていたのです。
 しかし、紙幣のほうが利便性が高いことから、政府がいつでも金銀と交換してくれるという役割を持つ紙幣が登場し、紙幣が金銀の代わりを務めるようになりました。紙幣でも、いざというときに政府が必ず金銀と交換してくれると信用出来ることで、お金として金銀の代わりができたのです。

 つまり、あくまでもこの場合の貨幣は金銀であり、紙幣は金の預り証または借用証にすぎません。この信用体制を金本位制と言います。金本位制の下では、貨幣と認められるためには、必ず金と交換出来ることが必須の要件であり、これを兌換紙幣(だかんしへい)と言います。
 金本位制は現代まで続き、現代の経済においても、紙幣は必ず金銀と交換できるので、お金としての役割を果たすことができるのだと人々は思っていました。

 ところが、それは、ごく最近、アメリカ大統領のニクソンによって、あっさりと、間違いであることが証明されてしまいました。1971年のニクソン・ショックです。
 第二次世界大戦まで、世界は戦乱が続き、通貨は不安定化していました。また、戦争中には金本位制も一時機能を停止し、各国は紙幣を独自に発行しても結構経済は回るものだという事実も経験済みでした。

 しかし、第二次世界大戦当時はまだ貨幣の交換比率の混乱から来る不安があったために金本位制への復帰が望まれていました。そこで、第二次世界大戦の終盤期1944年7月に、連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)でブレトン・ウッズ協定が結ばれ、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定め、各国通貨の信用を確立しました。

 しかし、アメリカ大統領のニクソンは、1971年8月15日、ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げました。それで何が起こったかと言えば、ニクソン・ショックの2〜3年後に各国通貨は固定相場制から変動相場制に移行したり、多少の景気変動があったりしましたが、そうしたわずかな動揺以外の重大な変化は何も起こりませんでした。

 世界経済は何の不都合も支障も無く、紙幣を信用し続け、淡々と経済活動を行い続けました。世界は戦後の混乱期を脱しており、国家がしっかり紙幣を管理し、偽造されるリスクなども縮小していました。国家がしっかり管理さえしていれば、必ずしも金銀と交換される必要はなく、紙幣だけで十分だということが証明されたのです。

金保有量に依存しない通貨制度を「管理通貨制度」と言います。「金本位制」から「管理通貨制度」への移行は、経済学にとっても決定的に重大な出来事でした。
 金本位制の下では、政府が貨幣を発行するときは、政府の金保有量と一致していなければなりません。よって、事実上、各国政府に通貨発行権は無いも同然でした。発行した貨幣量に対する金(gold)保有量が不足し、政府が交換に応じられなければ、それは正真正銘のデフォルト(債務不履行)になります。よって、財政均衡は基本中の基本であり、政府は行政サービスや所得再分配よりも、財政均衡を優先せざるを得ませんでした。

 金融機関にとっても、信用創造を行えば、貸し出す貨幣は全て兌換貨幣でいずれ金と交換しなければなりませんから、出しすぎは経営破綻を意味します。
 いくら担保を抑えていようと、担保がいつでも現金に交換出来るわけではありませんから、現金が預金されることによって、現金が増えたときにしか融資を行えません。そして、現金は金(gold)保有量によって制限されています。
 この頃の主流の経済学が古典派経済学と呼ばれるものです。古典派経済学は金本位制を前提としたものであり、必然として財政均衡主義になります。

 そして、古典派経済学の最も恐れるものが、金融機関からの融資にも限度があることから、資本家が投資資金の不足に陥ることです。よって、いかに金融機関に頼らずに自分の貯蓄を増やすか、つまり、いかに資本家への所得の集中を行うかが、古典派経済学の目的になります。古典派経済学が利益にこだわるのはこのためです。

 この古典派経済学に対して革命的な発想で登場したのがケインズ経済学です。すなわち、ケインズは金本位制から管理通貨制度への移行を主張したのです。それによって、政府や金融機関は無制限に貨幣を発行することが出来るようになります。金融機関の融資が無制限になることによって、資本家への所得の集中も無用になります。

 現在、管理通貨制度が採用されたのは、ケインズによって構築された管理通貨制度の理論があったからです。
 ケインズの願いが本格的に達せられたのは1971年であり、これはケインズが亡くなった1946年から数えて25年後になります。

 ところが、現代の経済学は、いまだに古典派経済学が主流のままです。これは、ケインズの論敵であり、古典派経済学の強力な担い手であるハイエクやフリードマンが1971年の後々まで長生きしたことも関係しているだろうと思われます。
 彼らは頑として資本家の味方であり、資本家への所得の集中というテーマ、したがって、財政均衡主義というテーマを捨てようとしませんでした。管理通貨制度の世になっても、なお、古典派経済学の主張は資本家から絶大な支持を受けました。

 この金本位制下で培われた古典派経済学と、管理通貨制度の現状とのズレが、あらゆる経済学的な論争の基礎にあります。
 管理通貨制度の下では、「貨幣は物々交換の仲介手段にすぎない」という貨幣の本質が明白になります。
 国家が何を管理していたかと言うと、貨幣のシステムであり、貨幣とモノとの交換比率です。それで、人々は、「国が発行した紙幣で必ず自分の欲しいモノを手に入れることが出来る」と信じたのです。

 かつては、それを担保するものが金(gold)の普遍的な価値だったのですが、つまるところ、国民は金(gold)が欲しかったのではなく、欲しかったものは、必ず生活物資と交換できるという信用であったという結末です。
 砂漠で飢えている者にとって必要なものは水と食物であり、金銀財宝ではありません。水と食物が豊富であるにも関わらず、経済活動のルールで水と食物にありつけない者は、金銀財宝があれば水と食物と交換できるという前提において金銀財宝を欲したのであり、だれも水と食物と交換してくれなければ、金銀財宝は無価値です。

実際、あらゆる経済活動において、貨幣の動きを抹消すれば、あとに物々交換の実体が浮かび上がります。ただし、もちろん、経済活動には一方的にモノを奪われる搾取が存在しますから、この場合の物々交換は必ずしも等価交換という意味ではありません。
 しかし、確かに、最終的に必要なのは水と食物であり、あるいは、衣服や自動車などのモノなのです。したがって、国民が紙幣を信じた時、金本位制という貴金属主義があっさりと終わりを遂げたのです。

 ちなみに、貨幣は、その場限りの物々交換の仲介だけでなく、貯蔵という役割も持っています。物々交換においては、例えば米と魚の交換といった取引を通じて、米が通貨の役割を果たしているという時、それは米の魚より高い貯蔵性を指しています。
 金銀財宝は永久に腐りませんから、貨幣の役割を果たしました。そして、紙幣が常に新しい紙幣と交換してもらえるようになった時に、紙幣もまた永久に腐らないという性質を獲得し、さらに、帳簿に記載されるという行為で、さらに安全に貯蔵できる性質を獲得することで、金銀財宝よりも便利な貨幣の地位を確率することが出来たのです。

 そして、この貯蔵という役割が、経済にとって非常に重要な影響をもたらすことになります。古典派経済学とケインズ経済学との対立も、貨幣の貯蔵の役割をめぐる対立であると言って過言ではありません。

(引用おわり)

如何でしょう、お金全体に関しては、私たちには解らないところで管理されているのです。
それが経済であり、その施策によっては我々の所持するお金の循環も影響を受けるのです。

メンテ
お金とは何か その2 ( No.3 )
日時: 2017/09/11 16:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:7LvZZnT6

ますますややこしくなりますが、お金の概念(通常思われている概念とは違う分野の概念)を再認識するためには必要なのです。


「お金の回転によって生産が増える仕組み」

 ここでは、政府や企業によって投資が行われた場合の貨幣の回転と生産の関係を見ながら、貨幣の役割について考えてみます。まず、ごく単純化された例を考えます。
 政府支出が民間の生産を増やす仕組みについて、政府が、公共事業などで100万円の公共投資をし、国民Aがこれを請負い、国民Aは100万円分の道路を建設し、100万円を得たとします。この段階を有効需要の創出と言います。その結果100万円分の道路が生産され、国民Aは100万円を保有します。
 次に、国民Aの100万円を得ようとして、国民Bが100万円の自動車を作り、国民Aに売ります。その結果、自動車100万円分が生産され、国民Aに売り、国民Bは100万円を保有します。
 次に、国民Bの100万円を得ようとして国民Cが100万円の衣料を作り、国民Bに売ります。衣料品100万円分が生産され、国民Cは100万円を保有します。

 最後に、国民Cは年度末に税金として100万円を納付したとします。そして、100万円という貨幣の回転はここで止まったと仮定します。国民Cだけに税金が100万円というのは酷すぎますが、本当は国民A、B、Cがそれぞれ税金を支払うのですが、ここでは話の便宜上国民Cが代表して払ったことにします。
100万円は再び政府の手に戻り、市場から100万円の貨幣は消えてなくなりました。それでは、誰が得をしたのかということですが、この話の焦点は、最後に、誰がお金を握ったかにあるのではなく、お金の存在によって生産物を渡すべき相手を探り当てることが出来、国民A、B、Cが生産することが出来たことにあります。

 (この例では、最後に税金によってお金は回収されましたが、課税されなかったとして、国民Cが貨幣を貯蔵した場合も同じです。)
 政府が100万円を財政支出した結果、100万円のお金が回転している間に、国民Aが100万円分の道路、国民Bが100万円の自動車、国民Cが100万円の衣料を生産しました。
 この例では、政府の公共投資でしたが、民間の設備投資でも、消費でも、減税(家計の可処分所得が増える)でも、市場に貨幣が供給されることは同じであり、同様に、国民の中で生産を始めることが出来ます。

 このように、貨幣の存在を認識することによって、その貨幣を得るための生産が始まるところに、貨幣の存在の意味があります。貨幣を使用することを有効需要と言います。経済学で言う需要はすべて有効需要を意味します。
 需要のサインを察知することで需要を探り当て、生産し、取引すれば、お金の役割は終わりです。その後、お金が税金等で消え去って、誰の手元に残らなくても構いません。
 新たに投資しようと試みる者は、銀行に行って、お金を借りれば良いのですから、お金を富裕層とかの誰かの手元に残しておく必要はありません。
 例として、相続税を100%にして、親からの相続財産を無くしてしまっても、子孫は、銀行からの借り入れで新しい投資にチャレンジすることが出来ます。個人商店や同族企業の事業の継承については、相続を否定するわけではなく、相続税に相当する金銭を納めれば良いのです。

 ちなみに、銀行から借りて投資するという行為は誰でも出来ることですが、それを快く思わない勢力が存在します。それは富裕層と呼ばれる人たちです。他人が簡単に投資出来なければ、富裕層は投資先がより取り見取りになり、圧倒的な優位に立ちます。投資の競争相手がいなくなれば、自分たちの持っている資金の価値が高まり(資本の希少性)、それによって、利益率を高めることが出来ます。
 富裕層は金本位制の下でそのハッピーな経験をしています。金本位制の下での投資においては、お金の発行量が制限されていて、銀行もうかつに信用創造できませんでしたから、富裕層の貨幣の貯蔵(貯蓄)にしかその当てがありませんでした。
 よって、古典派経済学の認識においては、貯蓄が重要となり、富裕層がお金を貯め込めば貯め込むほど、経済に良い影響が有ると考えられていました。まず、「富める者が富まずして、国の発展はあり得ない」というイギリスの元首相のサッチャーの言葉もこのことを反映しています。

 サッチャーが首相になった頃はすでに金本位制は廃止されていましたが、サッチャーも金本位制から脱却したことの意味、すなわち、「新たな貨幣発行が格差をなくし、国民の平等が達成される」という理屈が判らなかったのであろうと思われます。
 英国はEUに加盟しても、通貨発行権を放棄しなかったのですが、それにも関わらず財政均衡を重視したのです。

 サッチャーだけでなく、その後、現在もまだあらゆる国の首長も政府も、そのことを理解しようとしません。それどころか、むしろ、富める者をますます富ませる政策を継続しようとしています。
 それはなぜなのか。現代の経済学者たちは、「どうすれば国民が豊かになれるか」、「どうすれば経済成長出来るか」といった普遍的国民の幸福の問題を取り上げてもお金になりませんから、もはや、国民のための「学」としてのプライドに見切りを付けてしまっているということです。

 最も、お金になり、最もセンセーショナルなテーマである「どうすれば富裕層が金本位制下と同じ待遇を受けることが出来るか」のクイズを解くことに夢中になっているのが古典派経済学です。
 そちらのクイズを解いた方がお金がもらえ、ほめられ、老後の生活もいろいろな人脈によって保証されるからです。そのフィクサーが、すなわち、アメリカの投資家であり、テレビ・新聞の株主であり、日本の経団連です。
メンテ
お金とは何か その3 ( No.4 )
日時: 2017/09/11 16:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:7LvZZnT6

「ケインズの貨幣数量説からの離脱」

 金本位制を廃止する前は、お金を集めなければ支出が出来ないということでは、民間企業のみならず政府もまた同じでした。民間企業であろうと、政府であろうと、むやみに貨幣を印刷すれば本位貨幣の金(gold)と交換出来なくなり、デフォルトしてしまうからです。
 金本位制下において、政府が所得再分配をするために資金調達をする方法は税金です。ところが、富裕層に対する課税については、富裕層の抵抗が激しく、なかなか課税がうまく行きませんでしたから、政府はしばしば財政危機に陥りました。
 そこで、業を煮やしたケインズは、金本位制を廃止し、政府が自由に貨幣発行を行い、政府支出を自由に行えるようにしようとしたのです。

 そうすれば、富裕層への課税が困難でも、貨幣を印刷することによって所得再分配を目的とする政府支出が行えるようになります。ケインズにとって、金本位制からの離脱は、富裕層への課税が出来ないことに対する対抗手段でした。
 ケインズのやりたかったことは、無制限の財政支出であり、低所得者や貧困層への所得再分配です。
 経済とは何かを考えるときに、特定の問題意識がなければ、経済学はオモチャになってしまいます。ある手段を使えば、ある結果が得られるという論争ばかりしていても仕方ありません。経済学ではそうした論争が延々と続きますが、論争によって何を目指そうとしているかに注意しなければなりません。

 そう考えれば、ケインズがなぜあれほどまでに富裕層の経済学である古典派経済学と闘い続けてきたか判ります。
 経済成長だけが目的なら、経済成長は株主が儲かるだけであり、どうせ他人事ですから、学会から追放されたり、職を失ってまで闘う必要はなかったはずです。
 金本位制から管理通貨制度への転換で、政府が貨幣を発行してもデフォルトの心配はなくなります。実際、金本位制を廃止した1971年以降、政府のデフォルトによる世界恐慌は存在しません。
 当時の経済政策の第一の目的は経済成長でした。というか、現在でもそうです。しかし、経済成長させるためなら、どのような手段でも良いというのではなく、富裕層は、自分たちが儲かるような経済成長というものを模索していたのです。
 自国や周辺国で戦争が起こっているときはそうも言っていられませんでしたから、軍需産業に資金が集中され、そこで働く労働者たちに所得が分配されました。その結果、経済成長が起こりました。もちろん、富裕層はそこでも儲けましたが、利益を独占するところまでには至りません。

 それよりも、終戦後は軍需産業が縮小されるため、その労働者を公共投資などに振り向けなければ不況となるので、さらに、利益は多数の中小企業や労働者に分配されて行き、ますます富裕層は利益を得られなくなります。
 それで安定すれば、それで良さそうにも思えますが、富裕層の望むことは、利益の独占であり、自分たちが儲かるような経済体制を創り上げることであって、そのような安定ではありませんでした。
 政治家だけでなく経済学者を牛耳っていたのも富裕層でしたが、政治家に所得再分配を止めさせるためには、そして、そのことで国民を説得するためには、ある種の大義名分が必要でした。それが経済成長理論です。
 富裕層は、故意にバブルを引き起こし、故意にバブルを崩壊させ、日本政府にバブル崩壊からもたらされる不況を脱出するためという口実で、構造改革という、所得再分配を停止する政策を導入させました。

 つまり、経済成長理論は国民に対する説得手段にすぎません。よって、所得再分配という側面は確信的に削られ、ただ経済成長のみが経済学の目的として公認されることになったのです。
 これらの手法はどの国においても用いられ、どの国の経済学においても、議論の目的を経済成長としなければ議論の遡上にすら上らなくなっていますす。
 よって、ケインズにとっても、挑戦者としてリングに上がるためには、経済成長に関する議論で武装しなければなりませんでした。ケインズは、しばらくの間は、所得再分配という本音を隠して、経済成長理論をテーマとして学会で闘うことになります。それは、経済のさまざまな理論で古典派経済学を論破することで行われました。

 その中心となる議論の一つが、貨幣数量説の批判です。
 貨幣量が増えれば、物価が上がることは、古くから知られてました。つまり、インフレが起こる原因は貨幣量の増加です。しかし、古典派経済学とケインズではそのメカニズムの分析が異なります。
 古典派経済学の基本的な理論は貨幣中立説および貨幣数量説と呼ばれ、単純に貨幣の量を増やすことで物価が上がるが、それは経済成長をもたらさないというものです。
 貨幣中立説の中立とは、経済成長に対して中立つまり無関係であるという意味であり、貨幣数量説はその理論を少し複雑にしただけのものです。いずれも、貨幣量の増加は物価の上昇をもたらすだけで、経済成長に対しては意味が無いという理論です。
 古典派経済学では、現在でも、この理論が採用されています。貨幣の数量を増やすことには基本的に反対なのです。したがって、財政政策にも金融政策にも基本的に反対です。ただし、金融政策が機能しなくなったのを見届けるや否や、金融政策には賛成するようになりました。

 貨幣数量説の前提には貨幣中立説があります。貨幣中立説は、貨幣量は物価以外に影響を与えないとする説ですが、短期どころか中長期で見ても、貨幣量と物価が比例しないという矛盾が出てきたために、現代では、フィッシャーの交換方程式や、マーシャルのkなどの考え方を導入することによって、貨幣量と物価を説明しようと試みています。この貨幣中立説に修正を加える一連の理論を貨幣数量説と言いますが、基本は貨幣中立説にあります。

 これに対抗して、ケインズはいろいろ古典派経済学がいらだつような指摘をしています。つまり、貨幣数量の増加は、金利を介して物価に影響を与え、また、金利を介して経済成長をもたらすという指摘です。こうした指摘は古典派経済学が最も嫌がることです。
 なぜなら、古典派経済学は、貨幣数量の増加は金利に影響を与えないとすることで、貨幣数量の増加を、貯蓄や投資と切り離し、経済成長とも切り離して来たからです。
 そして、財政政策を無効と断言することで、経済への政府の介入を排除しようとして来たのです。
 しかし、貨幣数量を増加させることが金利に影響を与え、経済成長をうながすならば、財政政策に意味が出来てしまいます。
 ケインズは、マーシャルやピグーやリカードの例を出しながら、古典派経済学(新古典派経済学とも言われている)は、現実にはあり得ない市場を想定し、その中で議論しているにすぎないとし、そこに現実の常識が入り込むと、古典派経済学は覆されてしまうと言っています。
そして、ケインズは、「利子率,所得と利潤との区別および貯蓄と投資の区別を導入しないかぎり,物価形成の過程について,いかなる現実的な洞察もえられないと思われる」と言い、貨幣数量説からの離脱を宣言しました。
 さらに、貨幣の保有の動機には大きく分けて、取引動機と投機動機の2種類があり、取引動機の比率が高まると経済成長が始まるとし、経済成長するかどうかは貨幣量の増やし方によるのであって、貨幣量を増やすことに意味は無いという理論に反対しました。

 重要な点は、貨幣量をいくら増やしても、そしていくら政府支出をしても、無駄だとする理論に反対することです。それは、政府支出にはしっかりとした役割と意味があるとすることでもあります。
 そこで、ケインズは、消費性向と乗数効果の理論を用意しました。この両方の理論はケインズ経済学の最も基礎的な理論になります。
 富裕層に対する増税および低所得者に対する減税のセット、または、公共投資などによって、低所得者の可処分所得を増やせば、高い消費性向の家庭の所得が高まり、それによって乗数効果が高まり、経済成長をもたらすことが出来ます。
 この理論は、政府の所得再分配政策を、経済成長理論の上からも正しい政策としてバックアップします。
 ここに、ケインズ経済学と古典派経済学の最も先鋭な対立軸が存在します。
 最近の経済学では、経済の現場で起こっている事実から、さすがにケインズの理論を無視できなくなって、かなり、ケインズの理論を取り入れられています。マクロ経済学と言えば、大概のものがケインズの理論を基礎にしています。
 しかし、依然として、富裕層が儲けることが出来る経済成長という価値観で、ケインズの真の目的である所得再分配は切り捨てられています。

 これは国民に向かって露骨に言えませんから、論調として、まず経済成長が大事であり、それゆえ経済成長のための政策を優先するという理論になります。これは、実際は、中小企業が排除され、大企業の株価至上主義というように言いくるめられて行きます。つまり、富裕層の本音に行き着くのです。
 例えば、消費性向を重視し、国民生活の側から財政政策の内容を研究しようとする経済学は存在せず、さらに、金融制度が信用創造に与える影響を研究する経済学も存在しません。
 ポール・サミュエルソンの新古典派総合と呼ばれる経済学派は、ケインズの理論を不況期だけ利用し、好況期は古典派経済学を利用しようと主張しています。しかし、それは詭弁にすぎません。所得再分配の視点が抜け落ちています。国民大衆には経済学の判別は出来ませんから、不況期に好況期の経済政策を行われても判りません。そうこうしている内に、やがて古典派経済学が全てを制します。

 また、ニューケインジアンなどという学派が現れ、ケインズの賃金の下方硬直性に重点を置き、ケインズ政策の利用を、新古典派総合の理論より長期的にしなければならないと言っていますが、やはり、関心は経済成長にあり、本質は、経済成長至上主義(実際は大企業の株価至上主義)の新古典派経済学にすぎません。そういう意味では、やはり、ケインジアンを名乗りながらも、ケインズの所得再分配を骨抜きにしようとする敵であることに変わりはないのです。

(引用終わり)

要するに現在の通貨管理制度のままでは、お金の循環の有り様が制限されていて、これではグローバル化、寡占化が進んだ現状ではお金は必要なところへ回らないで、集まるべきところへより集まらないと言う状態を打破できません。
ですから現在の通貨管理のあり方を見直せと言う事ですが、これが、どうして、どうして現状の状態で利益を享受している連中が認めません。
こうした連中を相手に戦わねばならないのです。
その為には理論武装も必要なのです。

NO1のレスで紹介した、ねこ氏が言っている通りなのです。

>こうした話は新聞マスコミには絶対に出てこない。ということは、強烈なタブーであって、非常に危険を伴う話じゃ。こんな事を平気で書いておると、このサイトもそのうち閉鎖されるか、暗殺されるも知れんのう。
メンテ
お金とは何か 総集編 ( No.5 )
日時: 2017/09/11 17:29
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:7LvZZnT6

この数回、難しい理屈を捏ねてきましたが、改めて自分の言葉で平たく説明させていただきます。

最初は物々交換の媒体であったお金は、それが広く流通する事によって、交換以外にお金を貯める事によって将来の生活を保障するものになりました。

また人々は物々交換以外に自分の労働力を提供する事によって必要なものを買うお金を手にすることが出来るようになりました。
このシステムは非常に便利であり瞬く間に世界に広がり、200年ほど前の産業革命いらい、拝金主義と言われるほとお金を追う事に夢中になってきました。

ところが最近では、必要なお金を手に入れるために働いても、十分な対価が得られないとか、働く場所が無いとかいう事態が起きるようになりました。

お金と言うものは、物資または物資の生産・流通の量に比例したお金より流通できないものと思い込んできました。
実際に、お金と言うものは、そうした制約の中で発行されるべきものでもありました。

必要なら、それを必要とする人にお金を与えれば良いと言う様な概念はありませんでした。
そんな事になれば、天国のような世界になります。

ですが実際にはそうしたことも可能な訳です。
生産技術、流通制度の発達は、昔の様にそれに見合うほどの人的対価(給料)を支払う必要がなくなったのです。
物々効果の時代には、それに見合う価値のある商品が無ければ交換は出来なかったでしょうが。
現在は、昔では考えられない様な対価で商品を得られます。

お金の価値の本当の意味が変質してきているのです。
商品さえ、必要に応じて確保できていれば、お金は、その交換と言う意味での存在価値を保障する必要はありません。
北朝鮮の様に生活に必要な商品が不足していれば別ですよ。
それを取り合うためのお金が必要となるのです(インフレを起こします)。

この状態さえなければ、お金は別途の基準で流通させることが出来るのです。
要するに生活の手段としてお金を分け与えることが出来るのです。
お金自身の概念が変質するのです。

お金が足りなければ、必要なだけ銀行へ行けばもらえるという様な社会は誰も考えたことは無かったでしょう。
ですが経済的には何の問題もないのです。

しかしながら、ヘリマネとかベーシック・インカムの様に単にお金をばらまくのでは別の大問題を引き起こします。
一番大きな問題は、誰も働く意欲がなくなるからです。

遊び人ばかりの社会など決して理想の社会とは言えません。
人生の生きがいを仕事に見つけている人も多くいます。
仕事をすると言う事は人間の生活になくてはならない要素なのです。

ですので、実際のヘリマネ(通貨の増刷)は、公共事業の発注とか、介護事業の人件費の補填とかを通して流通(増やす)させることが必要なのです。
殆どの人が真面目に働くと言う条件で、グローバル化のせいで職を失った人には、働く場所を国家が責任を持って保障すると言う条件で、働く人には相応のお金を保障すると言う事が理論的には可能なのです。

生活に必要な物資の生産が確保できていれば、国民が必要とするお金は必要に応じて増刷することが可能と言う事です。
現在の通貨管理の理念の中には、そういう発想はありません。

皆さんに語りかけているのは、もしも、私が言うような時代になったとして、国民の側から、もっと金を増やせと言う声が上がるでしょう。
安易にそのような状況になることは、また大問題なのです。
お金とは、その様に思われても行けないのです。

お金に対する概念の変更も必要ですが間違った概念でも困ります。
ですので、この問題は、我々自身の道義的、倫理的な問題でもあるのです。

市場主義経済の行く先は見えているように思われます。
50年、100年先には完全に破たんしているでしょう。

人間社会はそれに対して革命的な思想の変換、文明史的な一歩前進が必用でしょう。
将来の、お金と言う事については、それほどの問題を含んでいると言う事です。


メンテ

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