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[2721] 日本のマスメディアについて!
日時: 2017/06/30 16:13
名前: イントィッション ID:ae3a9DBU

最近、日本のマスメディアがどうも安倍政権寄りばかりであるのが不思議でたまりません。。。

アメリカでは、現在、トランプ大統領のツイッターで、CNNは嘘ばかり! と叩いていました。。。ついでにCNNでトランプ大統領の悪口を言う女性アナウンサーが整形手術をした〜〜〜など、トランプ大統領が発言しているので、政府の中では波紋を呼んでいる。。。

日本では、色々な局の記者は常に安倍政権側の味方を基本にした内容の質問を投げかけている。。。

その中で東京新聞の望月記者の鋭い質問。。。官邸側には絶対に立たずに真実を追求している。。。

そんな望月記者に何かあったら、すぐに安倍政権のやったことだとネットに大騒ぎになるでしょう。。。

そして、何か大きな力がマスメディアに動いているのではないか??? デンツウとも言われていますが。。。

安倍首相はマスメディアに50億円も支払っていることも耳にしました。。。

マスメディアというのは、必ず真実を突き止めて、真実を報道しなければならない。。。 それなのに最近も嘘報道ばかり!!!

NHKなどは国民のためにある国民が皆で支払って国民に雇われている局なのに、なぜか、国民の頭脳を支配してしまうような報道である!!!

さて、皆さんのご意見をぜひお聞かせください。。。
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国民よ目を醒ませ・・・ ( No.4 )
日時: 2017/07/01 17:25
名前: イントィッション ID:hafrnPio

日時: 2010/09/11 11:00名前: 満天下有人 ID:vSANwvRk

・・・<一般国民、国民の多くをマインドコントロールするのは斯くもたやすいとは、するほうが悪いのか、される国民がだらしないのか>・・・

・・・昨日、秋風の気配もあり、すぐ横の自然公園に出て、時々お会いするお犬様散歩をされるご婦人・・・渡辺恒三ご老体は温かくやさしそうな人ですね、と・・・

一瞬、ガハッ!グエーッ!ってな気持ちになりましたね(笑)・・・中流層とおぼしき衆ぐうの多いこと・・・

犬を蹴っ飛ばしてやりたくなりましたね(笑)・・・罪もないお犬様の目を醒ましても、どうにもなりませんが・・・。



日時: 2010/09/13 08:14名前: 満天下有人 ID:MeOwcy1s

・・・NYタイムズ、ウオールストリートジャーナルなど、主要米紙の代表選を巡る論調は、おおむね我が国大手マスコミの論調と似ている・・・曰く、大衆は菅直人支持が多いというものだ・・・

昨日のTV報道の軸になっていたものは、態度未決定の国会議員の密着取材、未だに態度を決めかねている議員先生たち、そもそも政治理念などお持ちかという疑問が、ふつふつと湧いて来た・・・
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満天のオッチャン、的を得てます。。。さすがです。。。 ( No.5 )
日時: 2017/07/01 17:34
名前: イントィッション ID:hafrnPio

2017年の6月末の週刊ポストで、安倍政権の支持率が読売と産経の数字が誤っている。。。何か操作しているのではないか!
と、表紙に書かれてありました。。。
民主党の時も同じだったんですね〜。。。
   ↓


日時: 2010/09/14 08:10名前: 満天下有人 ID:sdKdJ40c

・・・今日午後には、菅か小沢かが決定する・・・

事ここに至った経緯を振り返ると、今回の代表選は、現政権の是非を問う与党民主党に対する真の世論は、どのようなものであるかを問うものではなかった、民主党内における権力闘争に始まり、菅の言葉”脱小沢”に如実に表れた追い落としだけが目的の菅一派に対し、国家全体の転換を真に考えていた小沢が、遂に怒った・・・

鳩山の突然の辞任により、反小沢筆頭格の渡辺恒三が、自分一派である仙石、前原、枝野、岡田、玄葉、野田、樽床等々、所謂新七奉行・・・これに蓮舫、安住などの木端がくっつき、いち早く菅擁立に動き、菅政権誕生後はこの面々が全て政府与党の要職に配置された・・・

・・・新七奉行の面々は、前原が主催する凌雲海のメンバーであり、その小沢追い落としの会合は、既に昨年12月、小沢が中国訪問中に赤坂で持たれていた・・・更にそれ以前から検察による小沢排除の動きは活発化しており、大手紙、TVマスコミは愚劣な大衆洗脳キャンペーンを展開・・・

渡辺恒三は、息子恒雄が御世話になった米国際戦略研究所日本部長であるマイケルグリーンの手練手管に乗り、小沢排除が一段と強化されて行った・・・そのやり方は、戦略などと呼ぶにはおこがましい、ただ自分たちの場所を失いたくない劣情が軸になっていたに過ぎない・・・

その劣情にマスコミの劣情が重なった・・・ここ数日の劣情の表れは、世論は7割が菅支持との報道を続けながら、そしてサポーター、地方議員も圧倒的に菅支持との報道をつい先日まで続けながら、一昨日あたりからサポーター票も伯仲などと言いだしている・・・どのネットでも小沢圧倒的支持の調査など、目にも入っていなかった、大きい所ほどその愚劣さは顕著であった・・・

・・・何よりも、見るにも聞くにも堪えない菅一派議員の愚劣下劣な選挙姿勢があった・・・そして態度を決めかねていた議員たちが、天下国家の視点でなくポピュリズムによって態度決定を見せていたことであろう・・・

・・・新七奉行からして、自分たちの場所確保が第一義であるような政治スタンス、それは閣僚としての方針がどこにあるのか、右往左往する姿勢によって証明されていた・・・

検察に始まり、マスコミ、菅一派の議員たちに拡散されて来た政治風景・・・それは愚劣下劣を超えて「卑劣」なものであったという方が、適切かも知れない・・・ある意味、ヒトラー以下である(笑)・・・

大辞林によれば「卑劣」とは、品性や言動がいやしいこと。人格的に低級であること、と字句の意味が書かれている・・・万が一にも小沢敗北であっても、それに下ることはない・・・連中は実に壮大な「卑劣」さを残して呉れた・・・世の運行はそこを無視して動くものではない・・・。
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マスメディアに捧げる  カナリヤの歌 ( No.6 )
日時: 2017/07/02 00:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0tha0rRI

カナリヤの歌

使命を忘れたマスコミは 良識のそとにすてましょか♪
いえいえそれはなりませぬ♪

使命を忘れたマスコミは 希望のそとにすてましょか♪
いえいえそれはなりませぬ♪

使命を忘れたマスコミは 侮蔑のむちでぶちましょか♪
いえいえそれもなりませぬ♪

使命を忘れたマスコミは 堕落の船に エゴのかい♪

暗愚の海にうかべれば♪

忘れた使命を思いだす♪


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昨日、秋葉原で例によって安倍の演説がありましたが、安倍帰れ! 安倍やめろ!がすごい! ( No.7 )
日時: 2017/07/02 15:14
名前: イントィッション ID:Ps5V/1Jw

>暗愚の海にうかべれば♪  忘れた使命を思いだす♪

やはり戦争にならないとマスゴミの連中はわからないんでしょうか?

ネットの力でしょうか? 籠池さんの力でしょうか?

安倍やめろ! 安倍帰れ! コールがなんと自民党の青年部を中心にドンドン拡大していきました。。。

安倍はまだそれに反論をしております。。。 まったく反省のはの字もしていない!!!

    ↓
https://www.youtube.com/watch?v=a6X8SMPgDpo


  しかし、この国民の声をNHKなどは絶対にTVに出さない!!! (怒)

  東京新聞は安倍の支持率は5%! 不支持は80%以上!

  この声を地方に届ければ、地方も安倍の不支持は90%以上になるでしょう!!!

ヒットラーの顔のようになった安倍の顔写真もかかげてありました。。。

 満天のおっちゃんもこう言うでしょう。。。
  
 >検察に始まり、マスコミ、安倍一派の議員たちに拡散されて来た政治風景・・・それは愚劣下劣を超えて「卑劣」なものであったという方が、適切かも知れない・・・ある意味、ヒトラー以下である(笑)・・・


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現代の日本のメディアに、このような経済の哲学について番組をやってほしい (1) ( No.8 )
日時: 2017/07/08 17:08
名前: イントィッション ID:IcNtRvM.

天橋立さんのこの投稿内容の番組をやっていただきたい!!!
  ↓
日時: 2013/02/21 13:45:05名前: 天橋立の愚痴人間

文化文明論の次に哲学を持って来まして恐縮ですが、これも避けては通れない領域と思いますので、とりあえず資料を添付します。ネットと言いますのは本当に便利なものですね。私などもすぐに一介の哲学者になれるようです。

下記の内容は、それこそ斜め読み程度にしてください(熱心に読んでいただくほどの値打ちはありません・大衆の概念を再確認していただく事が目的で引用しました)。
私もそのようにして、過去の哲学が大衆をどのような観点から見ていたかを知るくらいです。
ざっと目を通したところ、誰もが自分の理屈の中に大衆を押し込めようとしているだけで、本当に大衆を認識していることにはならないのではと思います。

キリスト教で言うところの悪魔とは、実は大衆のことであると言うくらいの認識が必要でしょう。


大衆社会論の行方
――近代的理性の危機――
ttp://www.res.otemon.ac.jp/~yamamoto/works/Abhl89.htm

一、 大衆社会状況とその批判


大衆社会

 現代社会は、一九世紀の社会形態との対比において、しばしば大衆社会と称される。それが意味するところは、必ずしも一義的ではないが、およそ以下のような社会状況が存在している社会であると一般に解されている。
(1)自然科学・技術の高度の発達を基盤とする大量生産(mass production)方式の進展によって、資本の集中化・独占化が進み、生産労働が質的に変化すると共に、大量生産方式の進展に伴って生じた大量のプロレタリアートが、新中間層に転化した状況。
(2)人口の都市集中が進み、大量生産に対応する大量消費(mass consumption)が拡大し、またそれに伴って生活様式が平均化・画一化した状況。
(3)大量生産・大量消費を可能にする物理的交通手段や精神的交通手段、特にマスメディア(mass media)の発達により、それまでの局限されていた環境世界が時間的にも空間的にも飛躍的に拡大すると共に、マスメディアによって伝達されるシンボルの領域が疑似環境として重きをなし、大衆操作(mass manipulation)が容易に行われうる状況。
(4)大規模化・複雑化した組織を合目的的かつ効率的に管理運営する手段的機構として官僚制が発達し、人間および人間関係の非人格化あるいは疎外感が問題化する状況。
(5)人口の都市集中化と新中間層の拡大などによって、かつての共同体が崩壊し、その結果、個人および個人的な第一次集団が、多元的で独立した中間集団の中で直接相互に関係することがなく、したがって社会的絆を欠く孤立化・原子化した存在となる状況。

大衆社会状況下の人間

 フォード・システムに、典型的に見られるような大量生産方式が普及し官僚制化が進展すればするほど、個人は、チャールズ・チャッブリンが『モダン・タイムズ』で描いたように、高度に合理化された大規模組織の中で全体の見通しもなくただただ特定の機能を果たすだけの非人格的な「歯車」となる。しかも、中間集団の弱さあるいは欠如のためにそこで自己充実感を得ることもできないため、組織に属しながらも孤独感・不安感にさいなまれる。このような日常的な疎外状況を前にして、大衆人(mass man)は一時的な慰安や幸福を求めてさまざまの「気晴らし(divertissement)」をする。マスメディアによって送られてくる画一的な一時的な刺激、ありとあらゆるものを話題にするおしゃべり、アルコールや賭事やスポーツや観光。大衆人はこういった「気晴らし」をする(これらの大半は、没個性的な大量消費されるべき商品であるにすぎない。たとえこれらの商品が差別化されていようとも、差別化をするということ自体が平均化するのだから、没個性的な商品であることには変わりはない。このため、平均化の傾向はさらに促進されることになる)。
そして、中間集団の弱さあるいは欠如のために、大衆人は政治的・社会的な出来事に対して無関心あるいは無知でありがちである。また、たとえそれに対する関心や知識を持っていたとしても、関心の対象が遠く隔たっているために現実感を伴うことがなく、そのため大衆人は無責任な傍観者となる傾向が強い。
また大衆人は、他人志向型の同調様式(リースマン)をとるばかりか、社会的な順応と差別化への欲望(ジンメル)、あるいは懸隔性(ハイデッガー)に起因する流行・ファッド・クレイズといった集団行動あるいは集合行動を成立させつつ、それに巻き込まれて行く。

大衆社会状況に対する予感的警告

 ところで、一九世紀の哲学者S・キルケゴールは、このような大衆社会状況が本格的に到来しつつあることをいち早く予感し、『現代の批判』(一八四六年)において、以下のような時代批判および大衆批判を行っている。
 キルケゴールは、みずからもその中で生きた時代(現代)を、「革命時代」「情熱的な時代」「行動の時代」に対して、「分別の時代」「反省の時代」「情熱のない時代」であると規定する。そこにおいては、「妬み」が個々人の消極的な統一原理として定着しており、そのために水平化の現象が生じていると指摘する。しかし、この水平化が成立し得るためには「一切のものを包括しはするが実体は無である」「公衆」が存在している必要があるが、公衆は、それ自体が抽象物である「新聞」によって作り出されると、キルケゴールは言う。個々人の営む共同生活が「充実した内容」を持たない非現実的なものとなり、また個々人が「同じ時代の、ある状況あるいは組織の中に統一される」ことが決してあり得ないほどまでに原子化されたために、新聞が、「一つの全体」を形成しているという「蜃気楼」を生み出すというのである。この意味において、キルケゴールは、公衆が新聞という一瞬だけ感情をくすぐる「官能の刺激剤」に支配され、その虜になっている現代を、「広告の時代」「宣伝の時代」であると批判するのである。そしてまた、個々人が「あれかこれかのどちらかを選ぶという絶対的な情熱」を喪失し、非自律的に、非主体的に傍観者としてのみ生き、「気晴らし」を求めてただただ「おしゃべり」だけをしている時代であると批判するのである。キルケゴールのこのような時代批判および実存主義的大衆批判には、さまざまな問題点が含まれてはいるが、水平化の現象・共同体の喪失と原子化・マスメディアと大衆操作の可能性・大衆人の心理的特性などを、一九世紀半ばにしていち早く指摘した点は、大いに評価されるべきであろう。


二 大衆社会論の系譜


疎外の問題とマルクスの階級社会論

 へーゲルは、『法哲学』(一八二一年)の中で、市民社会においては、個々人が自己の特殊な欲求を満足させるためには他者の労働に依存せざるを得ず、それ故にまた自己も労働をすることによって他者の特殊な欲求を充足せざるを得ないという相互依存関係の普遍性が、「欲求の体系」を形成することを指摘する。ところで、個々人の欲求および欲求充足の手段の種別化は、生産をも種別化し、「労働の分割」(=分業)を生ぜしめることになる。そしてその結果、分割され抽象化した個々人の労働は単純化し、労働における個々人の技能も彼の生産量も増大する(したがって国富も増大する)。しかし他方では、労働の価値が下落するばかりか、労働そのものが「機械的」なものとなり、労働者は機械にとって代わられることになる。そして、さらにはまた、個々人の資産・技能・教養などによって「身分の区別」が形成されることになる。このことをへーゲルは指摘した。へーゲルは、産業革命を経た市民社会においては、労働者の疎外が必然的であることを、また身分的な区別を有する有機的全体が編成されることが必然的であることをしっかりと見抜いていたのである。

 この点においてはへーゲルの継承者であるマルクスは、『経済学・哲学草稿』(一八四四年)において、以下のごとく、資本主義社会における労働を「疎外された労働」であると分析する。すなわち、資本主義社会における労働者は、みずからの労働を外化・対象化したものである労働生産物から疎外され(物象の疎外)、それ故、自己活動であるはずの労働そのものが労働者にとって外在的となり、労働者は労働そのものから疎外される(自己疎外)。ところで人間は、知的にも現実的にも、自己を個体としての自己と類的存在としての自己とに二重化する存在であり、したがって、労働は本来個体的な活動であるのと同時に類的な活動であるのだから、疎外された労働は人間から生産の対象(非有機的身体としての自然・自己自身・人間の生命活動)を奪うことによって、人間から類を疎外する。つまり、物象の疎外と自己疎外とは類からの疎外を意味するのである。だが、このことはただちに人間からの人間の疎外を意味している、と。

 そしてマルクスは、私有財産が、疎外された労働の産物であると同時に労働が疎外される原因であることを指摘し、それと共に賃労働と資本、プロレタリアートとブルジョアジーとの階級対立を導き出す。そして、産業革命および私有財産という制度のために人為的に作り出された階級、人間性を完全に喪失した階級による社会主義革命を主張する。しかしそれは、プロレタリアートの解放という政治的な解放のみを意味するのでは決してなく、「一般的人間的な解放」、人間の「全隷属的状態」からの解放を意味しているのである。というのも、マルクスは、資本主義社会における労働そのもののうちに人間の自己疎外を見いだし、大衆社会状況をこの疎外の諸々の現象形態であると考えるからである。
 だが、大衆社会状況(とりわけ疎外状況)や大衆社会を階級社会としての資本主義社会と不可分のものとするマルクスのこのような議論には、問題があると言わざるを得ない。というのも、大衆社会状況(とりわけ疎外状況)は、資本主義とか社会主義とかといった社会体制とは無関係に存在しているとも考えられるからである。
大衆社会に対する実存主義的批判

 マルクスが疎外状況を人類史における一つの過渡的な社会体制である資本主義社会にとって必然的なものであると考えるのに対して、実存主義者たちはそれを社会体制の問題ではなくて、人間存在そのもののあり方の問題、「自己が自己自身に対して態度をとる(sich zu sich selbst verhalten)」その態度のとり方の問題、すなわち、自己態度あるいは自己関係の問題であると考える。また、マルクスが人間の本質を類的存在に見いだし、疎外状況を類からの疎外であるという形で類の問題と捉えるのに対して、実存主義者は、それをあくまでも主体的個体の自己関係の問題であると捉える。

(続く)
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現代の日本のメディアに、このような経済の哲学について番組をやってほしい (2) ( No.9 )
日時: 2017/07/08 17:13
名前: イントィッション ID:IcNtRvM.

日時: 2013/02/21 13:48:14名前: 天橋立の愚痴人間

 たとえば、キルケゴールは『死に至る病』の中で、「信仰」を「自己自身を獲得するために自己自身を喪失すること」であると規定しているが、それは以下のことを意味している。すなわち、神の前に単独者として立つ自己(真のキリスト者)と成るためには、「自己自身を忘却する」ことによって、また「自己自身を分散する(=気晴らしをする)」ことによって「自己自身を喪失している」ような自己、このような自己(「絶望」せる自己あるいは大衆人の自己)を喪失しなければならないということ、このことを意味している。このことは逆に言えば、大衆人(宗教的に実存していない者)は、「神の前の自己」という真の自己自身に関係しておらず、したがってまた単独者として絶対者に絶対的に関係してもいないという意味で、「自己自身および神を喪失している」ということを意味する。キルケゴールの先の時代批判は、真の自己を喪失し、また神を喪失し、匿名性と無責任性の中で生きている大衆が真理である、という公理が時代を支配していることに対する批判なのである。つまり、キルケゴールは大衆社会状況の原因を、大衆人のこのような非本来的な自己関係のあり方のうちに、自己喪失・神喪失のうちに見いだしているのである。

 それは、ハイデッガーの場合でも同様である。マルクスが資本主義の世界を商品連関の全体性と解するのに対して、ハイデッガーは『存在と時間』において、平均的日常的世界(環境世界)を道具連関の全体性と解する。そして、環境世界の世界性が有意義性の全体性であることを、また環境世界が共世界であることを分析する。このような世界において共存在する共現存在は、他者への顧慮的な気遣いを欠損していたり、積極的に他者を顧慮的に気遣っていたりするのだが、この相互共存在の秘匿された性格を、懸隔性(=他者との区別を気遣うこと)であると指摘する。だが、懸隔性が共存在の性格であるということは、現存在が日常的な相互共存在としては、不断に非自立的であること、非本来的であること(おのれの自己をおのれのものとしていないこと)を、また「そのつど私のものであるということ」を喪失してしまった、誰でもであって誰でもでないような中性的な、したがってまた責任免責された「世人(das Man)」であることを意味している。

 ところで、ハイデッガーは現存在を「死へと態度をとる存在(Sein zum Tode)」であると規定するが、おのれの最も固有な可能性であるおのれの死へと積極的に態度をとる限り、われわれは単独化し「不安のうちに漂泊する」ことになる。というのは、不安が有意義性の全体性であったはずの世界を無化し、それと共に共存在しているわれれ自身をも滑り落ちさせるからである。だが、「何ものにもすがりつくことができない、この漂泊の底深き振動において」「純粋な現・存在」が出会われるのである(『形而上学とは何か』)。にもかかわらず、われわれはさしあたって大抵は、おのれの死へと積極的に態度をとることから逃避し、本来的自己(おのれの自己をおのれのものにし得ている自己)から額落し、平均的日常的世界に埋没しているのである。この本来的自己からの額落という事態、本来的自己存在の忘却あるいは喪失という事態のうちに、換言するならば、自己に対するこのような態度のとり方のうちに、ハイデッガーも大衆社会状況の原因を見いだしており、おのれの死へと先駆的に決意すること(die Entschlossenheit)によってのみ大衆社会状況は脱せられると考えているのである(キルケゴールにあっても信仰は決断の問題である)。

 ところで、大衆社会に対する実存主義的批判は、大衆論ではあっても大衆社会論ではないといった印象が強い。というのも、それは歴史的所与としての社会を政治的・経済的・社会的に具体的に分析したりはしないからである。しかし、それが大衆社会状況を存在論的に分析するものである限り、それを存在論的な大衆社会論であるといってもさし支えないのではないだろうか。そもそも実存主義に対しては、それは主観的な非合理主義であり、独我論的な個人主義であり、歴史的・社会的な具体性を欠く形而上学であるという批判がある。確かに、実存主義は一般に、不安・絶望・嘔吐といった根本的情態性を問題にし、単独者を問題にし、政治的・社会的・経済的世界を具体的に考察しないため、そのような批判が妥当するように見える。しかし、非隠蔽性という根源的な真理を開示するからこそ根本的情態性を問題にしているのであること、単独者の自我孤立性は抽象的なものではなく、具体的であること、存在者にのみ関わる存在的な実証諸科学に対して、この立場は存在論的であること、これらのことを偏見なく考慮すれば、上記の批判は無効になる(詳しくは、W・ヤンケ著『実存思想の軌跡』八二ー九二頁参照)。それと同時に、具体性を欠いてはいるが、存在論的な大衆社会論の存立可能性も理解されるであろう。

(続く)
メンテ
現代の日本のメディアに、このような経済の哲学について番組をやってほしい (3) ( No.10 )
日時: 2017/07/08 17:18
名前: イントィッション ID:IcNtRvM.

日時: 2013/02/21 13:53:04名前: 天橋立の愚痴人間


コーンハウザーと社会学的大衆社会論の二つの源

 『大衆社会の政治』の著者W・コーンハウザーは、大衆社会論の源泉を以下の二つの知的反作用のうちに見いだす。すなわち、フランス革命に代表される一九世紀ヨーロッパ社会の革命的変化によって、エリートがその責任と能力において活動していた領域に大衆が参加・介入する機会が著しく増大し、エリートの閉鎖性が失われてしまったことに対する、エリート的価値を防衛しようとする知的反作用のうちに、その一つを見いだす。そしてまた、非エリートの隔離性が失われると共に民衆を全体的に動員しようとするエリートが登場することによって、ロシア革命の勃発およびナチズムの台頭をその典型とする全体主義運動が生じたことに対する、民主的価値を防衛しようとする知的反作用のうちに、いま一つの源泉を見いだす。

 前者の系譜に属する者は、大衆社会は、平等主義が蔓延する無制約な民主主義社会(超民主主義社会)であり、伝統的価値やエリートの創造的な価値保存的機能を喪失した社会であり、また無能力者の追求する大衆的な疑似権威が支配する社会であり、それ故に政治的暴君と文化的退廃とに抵抗することが困難な社会であると批判する(大衆社会の貴族主義的批判)。このような立場をとる者としては、E・パーク、A・ド・トクヴィル、G・ル・ボン、K・マンハイム、J・ブルクハルトなどの名前が挙げられる。これに対して、後者の系譜に属する者は、大衆社会は、共同体を喪失し原子化した大衆が追求する疑似共同体が全体的に支配する社会であり、原子化された非エリートがエリートに過剰に支配され無制約な専制政治・全体主義に転落する傾向を有する社会であり、また主体的に判断し行動するという意味での自由から逃避する大衆がみずから民主主義を空洞化・形骸化している社会であると批判する(大衆社会の民主主義的批判)。このような立場をとる者としては、E・フロム、H・アレントなどの名前が挙げられる。

 ところでコーンハウザーは、参加する機会の平等・近づきやすい(アクセシブル)エリートの存在にのみ大衆行動の成立根拠を見いだす貴族主義的批判も、操られやすい(アヴェイラブル)非エリートの存在にのみ全体主義運動の成立根拠を見いだす民主主義的批判も、一面的であり、両者は相互に補完されるべきであると言う。そして、共同体社会・多元的社会・全体主義社会という他の社会類型と比較しつつ、大衆社会を以下のごとく規定した。すなわち、
 (1)成立要件という観点からすれば、エリートへの接近可能性も非エリートの操縦可能性も高い社会である。
 (2)構造という観点からすれば、中間集団が非包括的であり弱い社会である。
 (3)文化的特性という観点からすれば、平準化された画一的な基準が、しかしまた同時に流動的な基準が正当性を獲得する社会である。
 (4)自己疎外的であると同時に自己中心的な心理的特性を産み出す社会である。
 (5)代議制のルールが強いが法のルールが弱い、人民主義的民主主義を支えるような社会である。
さて、このようなコーンハウザーの大衆社会論に対しては、いくつかの批判が可能であろう。その一つは、すでに西部邁が的確に指摘している。すなわちそれは、コーンハウザーが四つの社会類型を比較する際に用いている基準は恣意的に解釈される可能性があり、それ故、コーンハウザーにあっては最良の社会であると暗黙のうちに前提されている多元的社会は、大衆社会のもっとも高度に発達した一形態でしかないのではないか、という批判である。もちろん、このような批判は、コーンハウザーとは違った新しい大衆社会像を産み出すことになる。すなわち、西部は大衆社会を、操縦可能性が高いと同時に低い、中間集団の強さが弱いと同時に強い、文化的基準が画一的であると同時に分化的である、自己疎外的であると同時に自己充実的である、法のルールが弱いと同時に強い社会であると考えているのである。それは、大衆をこのような二面性において把握しない限り、現代の大衆状況は把握しきれないということを、つまり、コーンハウザー流の一面的な大衆像の現代における無効性を意味するものである。

 またこれとは別に、次のような批判も成り立つであろう。それは、エリートであるか大衆であるかは、現実の社会階層とは無関係であり、自己態度あるいは自己関係の問題であるとする、精神主義的な批判である。コーンハウザーはエリートという概念を、「社会構造の最頂点にある位置」およびその「位置に付随する機能」という意味で用いている。もちろんこのことは、大衆社会論がさまざまに展開されてきた過程において、当初の貴族と大衆との対置が、エリートと大衆との対置に置換され、しかもそれが現実の社会階層あるいは社会的地位の差異に重ね合わされてきたことを如実に物語っている。しかし、現実の社会階層に密着させた形で、エリートを正の政治階級・社会階級とし大衆を負の政治階級・社会階級とするこのような立場に対しては、後述のような現実の社会階層とは無関係な、精神の資質の差異のみを基盤とする、オルテガ流のエリート・大衆論が成立する余地があるのである。
 なお、コーンハウザーは大衆が原子化していることを強調するが、W・H・ホワイトのように、集団を創造力の源泉として信じ、個人の究極の要求として帰属を信じ、帰属を成就するために科学の適用を信ずる「オーガニゼーション・マン」が巨大組織に過剰同調的に再編入されることが大衆社会を形成する、と考える者もいる。また、エリートの大衆に対する支配関係についても、パワー・エリートや新パワー・エリートによる一元的支配を考える者もいれば、多元的支配を考える者もいる。

オルテガの大衆論

 オルテガは、人間社会をエリートと大衆とのダイナミックな統一態と考え、その本質上、貴族主義的でなければならないと考える。オルテガもまた、大衆社会を、エリートの閉鎖性がなくなり、平均人・凡庸人が凡庸であることを知りつつ社会の至る所で凡庸であることの権利を主張し、かつてはエリートのものであった社会的権力を獲得している社会であると考え、その肯定的な側面にも言及はするが、むしろその野蛮や危険を繰り返し強調している。そして、大衆の反逆という歴史的現象の原因、このような野蛮や危険が到来した原因を、自由主義的デモクラシーと技術(実験的自然科学と産業主義といった物質的技術・政治的技術・社会的技術)に見いだしている。

 ところで、オルテガはエリートおよび大衆を現実の社会階層とは無関係なものであると考え、それを人間のあり方の問題であると考えている。それは、オルテガがエリートを、特別な能力・才能・資質を有し、みずからに多くのことを課して困難や義務を負う人であると規定し、そして大衆を、自己超克の熱情も特別な資質も有さず、みずからに特別のことを課したりもせず、すべての人と同じであることに苦痛を感じないどころか喜びを感じる平均人であると規定していることから明らかである。だが、人間のあり方の問題であるとは、どういうことを意味しているのだろうか。

 オルテガは、所与としての諸々の可能性である、限定された交換不可能なこの現在的な世界(=環境)とそこでの決断(der Entschluß)とを、生(das Leben)の二つの構成要素と考える。このことは、人間が自由へと規定されていること、すなわち、被投的投企が人間の運命(das Schicksal)であることを意味する。こうした運命にあって、エリートがみずからの生に真塾に責任をもって立ち向かい、みずからに多くのことを課して自己実現のために戦い努力するのに対して、大衆はみずから決断しないことを決断し、すべての人と同じであろうと決断する。そうであるかぎり、みずからの生に真塾に立ち向かわない大衆は、みずからに価値を見いだすこともなく、またみずからが生きている生が他ならぬみずからの生であるという、生の真正さ(die Echtheit)を喪失しているのである。それ故、大衆の反逆とは、単に権力・エリートに対する大衆の反逆といった表面的なことを意味しているのではなくて、大衆がみずからの運命に対して、したがってまたみずからに対して反逆しているという事態を意味しているのである。エリートであるか大衆であるかは人間のあり方の問題であるということは、それが自己態度・自己関係の問題であるということを意味しているのである。

 この点においては、オルテガは実存主義者と同様の立場をとっている。しかし、両者の間には決定的な違いがある。実存主義者がこの自己関係を存在論的に理解しようとするのに対して、オルテガはそれをあくまでも存在的にのみ理解しようとしていること、このことが両者の決定的な相違である。それは、オルテガがエリートの特別な社会的能力・才能といったものを問題にしていることからも、また大衆の反逆を歴史的な現象であると規定していることからも窺えるであろう。


三 問題点は何か――展望にかえて――


 上述のことからしても明らかなように、大衆社会論はきわめて多様である。大衆社会あるいは大衆社会状況を存在的に分析する実証諸科学の大衆社会論もあれば、それを存在論的に分析する存在論的な大衆社会論もある。また、大衆とエリートとを現実の社会階層に重ねる大衆社会論もあれば、重ねない大衆社会論もある。さらにはまた、大衆成立の要因の分析、エリートの大衆支配の構造の分析、大衆人の心理特性の分析など、大衆社会論の関心は多岐にわたる。それらのすべてをここで取りあげることはできなかった。また、ごく最近の大衆社会論については何一つ取りあげなかった。とはいえ、大衆社会論が問題にしてきたことの一端(類と個の問題・自己関係の問題・存在的な問題・存在論的な問題)は、示すことができたのではないだろうか。だが、大衆社会論が真に問題にしてきたことは、実はこういったことではなかったのではないだろうか。大衆社会論は、実際のところは、近代的な理性、近代的思惟そのものが危険をはらんでいることを主張しようとしてきたのではないだろうか。

 「人間が主体(das Subjekt)となる」こと、すなわち、人間が「あらゆる存在者がその存在と真理とのあり方という点でそこに基礎を置いているような存在者になること」が近代の本質であると、ハイデッガーは述べる。人間はこのような主体となることによって、もはや現前するものをそれ自身に即して存在するものとして受け入れる(vernehmen)のではなくて、すなわち、現前するものの自己顕現を受け入れるのではなくて、それをみずからに対抗・存立するもの(Gegen-ständiges)としてみずからの前に定立する(vor sich stellen)。現前するものをみずからに対抗・存立するものとしてみずからの前にこちらに立てること(=対・象として表象すること)によって、世界はいまや世界像になったのである。近代とは世界像の時代である。だが、近代的思惟(表象作用)がこのような「表象的仕立て直し(das vorstellende Herstellen)」を意味するかぎり、近代的思惟は作成・生産(Herstellen)という性格、技術的な性格を有している。近代的思惟は、現前するものの自己顕現を塞いでしまうという点において、かつてのテククネーとは違って現実をそれが役立つもの・用象(Bestand)として顕現するように挑発しつつ立たせる[=仕立てる・用立てる]こと(das herausfordernde Bestellen)をその本質とする、近代的技術と一致しているのである。

 ところで、近代的思惟が自然(世界)を対象として表象的に仕立て直すことであるということは、現実的な具体的な個体的自我が、表象的仕立て直しを可能ならしめる根拠としてのデカルト的エゴ、すなわち、主体(主観)一般(das Subjekt überhaupt)に仕立て直されていることを、同時に意味している。このことは重要である。というのも、本来的自己存在を喪失し一般化・平均化した大衆人の原型は、原理的には、このような近代的思惟によって仕立て直された主観一般のうちに見いだされるからである。それ故、大衆社会の到来は、実は近代的思惟の始まりと共にすでに準備されていたと言えよう。また、近代的思惟とその本質を同じくする近代的技術は、自然を用象として顕現するよう挑発的に仕立てるのみならず、同時に人間自身を「人間素材(Menschenmaterial)」という用象として顕現するよう挑発的に仕立てる。それ故、大衆社会状況の到来は、実は近代的技術がその始まりを告げたときから必然的であったと言えよう。

 このように考えるならば、現代は、近代的思惟と近代的技術とによって一切のものが対象および用象として仕立てられてしまった時代、現前するものの自己顕現が塞がれ、存在が忘却され無となった、ニヒリズムの時代であると言えよう。ニヒリズムの時代の社会、それが大衆社会である。大衆社会の危険が叫ばれるときには、同時に近代的思惟そのものの危険(および近代的技術そのものの危険)が叫ばれているのである。大衆社会論の根底にあって真に問われなければならなかったものは、実にこれなのである

(終わり)
メンテ
日本の報道自由度が更に低下 ( No.11 )
日時: 2017/07/17 16:12
名前: イントィッション ID:n/lgTdUs

日時: 2016/04/22 10:47名前: 満天下有人 ID:yVCe.YDg

マスコミの報道に、どれくらい自由があるのか、政府による監視規制度を毎年調査している「国境なき記者団」によるランキングで、わが国は毎年自由度が下がり、独裁後進国並みに低下している。一昨年の特定機密保護法制定時には59位まで下がり、昨年は61位、今年になって、例の高市早苗総務大臣による政府電波権限を振りかざしながらマスコミに対し、政府批判にブレーキを掛ける恫喝紛いの発言で、72位に後退。

これとは別に、政府が来日を先延ばしばかりするので、しびれを切らした国連の表現の自由査察官・デビッド・ケイ氏が20日に来日された。昨年末に来日の予定だったが、日本政府があれこれ理由をつけて来日を遅らせるように求められたので、調査来日が遅くなってしまったと、その理由をぶら下がり日本記者たちに述べていた。

何故遅らせるようにしたのか、その真意は国連には分からない、それこそ日本記者が政府に聞いて欲しいと答えていたが、調査の目的が、政府によるテレ朝幹及びNHK幹部を官邸に呼びつけて、テレ朝古館キャスターやNHK国谷弘子女史と外務省OBの古賀氏による菅官房長官批判について、どのような事情聴取をしたのか、そのことを調査する目的を官邸が、既に知っていたからであろう。   

電波配分の権限を持つ総務省の高市早苗大臣による「公平性を欠くテレビ局に対しては停波もありうる」とする発言に至っては、これはもう中世における暗黒国家のようなものである。国連査察官デビッド氏は、特に高市早苗大臣に、その経緯を聞きたいとしていたから、官邸にとっては最も具合悪い事になってしまったのであろう。その後デビッド氏が民間の誰と誰に会ったかに、神経をとがらせていると言うから、余程の慌て振りである。

丸で満州事変から太平洋戦争に至った、あの頃の言論統制と同じような、いや場合によってはそれ以上の報道規制、言論統制への躍起振りである。だから今回の熊本大災害に遭遇し、近隣の原発状態についての報道がやけに少ないと感じた事の背景にも、このような報道規制マインドがあるからではないかと、妙な勘繰りまでそそってしまった。ここ数日では原発状況の細かいテロップがあちこちで見れるようにはなっているが、これとて、では、異常発生のテロップを見たからとて、ではどうしろと言うのか、どこえ逃げろと言うのか、その時はもうどうする事も出来ないのである。

ちぐはぐな政治が続いている。具合悪い事は報道させない事で政権寿命を守っているだけだ。国連人権擁護委員会や報道査察機関も、今時あまりにも行き過ぎた日本政府のやり方に危険なものを感じたのだろう、それが今回の国連査察官の来日となったのだろう。

全体主義監視管理社会を描いたジョージ・オーエルの「1984年」・・・・これはソ連共産主義国家を批判して、ユートピアに対抗するデストピア社会として描かれた統制国家に対する批判小説であった。時は既に2016年になっている。これからどのような監視社会にしようとしているのか、時代逆行の国家「日本」。
メンテ
世界同時株式大暴落の裾野は広い ( No.12 )
日時: 2017/07/17 16:27
名前: イントィッション ID:n/lgTdUs

日時: 2016/06/25 13:27名前: 満天下有人 ID:UbwfbPeY

く、株主資本主義世界の仕組みは、どうしようもないね。株持っていないから関係の無いこととして、済ませられるなら、別にどうということも無いのだが、間接的に全員へその影響がジワジワと広がってくる。

いや、今や直接的に影響が出る。アベノバカミクスで貴重な年金基金までが株に投資されているからね・・・

平成元年のバブル崩壊の時、業務が忙しくなって、新人補強を申請したことがありましたけど、人事部は、バブル崩壊、保有株式の評価損を理由に来年度新規採用は半分になるとの理由で、却下されたことがありました。企業は雇用削減に走ります。

下請け企業なども、仕事が更に減ることでしょう。そして持たされている親会社の株にも評価損が出て、業績結果のマイナスとして出てきます。

第一次恐慌の時の失業率25%、そしてリーマンショックの時でもアメリカでは、名だたる元大企業員が職をくださいと、サンドイッチマンのような看板を首からぶら下げて歩く有り様だった。

結局、回り回って家計消費も身構えてしまって、サイフの口を締めにかかる。残念ながら株式暴落の二次三次影響の裾野は、とてつもなく広いのですね。

大手マスコミは相変わらずEU離脱アベノミクスに暗雲などと、相変わらずノー天気な記事しか書けない。EUに関係なく最初から暗雲は漂っていたではないか(W)。

メンテ
政治屋稼業死守たけなわの参院選 ( No.13 )
日時: 2017/07/17 16:34
名前: イントィッション ID:n/lgTdUs

日時: 2016/06/26 08:37名前: 満天下有人 ID:jFfAi0tY

嘘つき合戦とは、贅六はんの言葉だったが、今や、政治屋稼業死守にたけなわとなった参院選。嘘つきと収入の道・家業を無くしてたまるかとの根性が、朝日、毎日二紙の記事から十分伺える。

〇朝日:EU離脱問題騒動をも手柄にする首相、「EUショックの対応準備すでにしていた」
『 安倍晋三首相は25日、仙台市内の街頭演説で「伊勢志摩サミットで、日本は議長国として、新たなリスクに陥ることを回避するため、あらゆる手段をとらなければならないことをまとめた。準備はすでにしていた」と強調した。
 首相は5月下旬の主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)の後、「世界経済が危機に陥る大きなリスクに直面している。財政面での対応も含め、あらゆる政策を総動員する」などと語り、消費増税の先送りを決めた。首相の演説の言葉は、自らの判断が正しかったと強調するものと言える。菅義偉官房長官も25日、山形県米沢市での講演で「消費増税先送りの判断は正しかったのではないか」と話した。

 ただ、首相は24日、英国のEU離脱のニュースを聞くと、驚いた表情を見せたという。この日は首相も官房長官も選挙応援に出ていた。24日夕に官邸に戻り、急きょ関係閣僚会議を開いて対応を協議したのが実態だった。

 閣僚の一人は「結果的にサミットで首相が言ったとおりになったが、『どうだ』と胸を張れる話ではない。ここで対応を間違えれば痛い目に遭う」と言う。急激に進んだ「円高・株安」の動きに歯止めをかけ、実体経済への悪影響を防ぐことに全力を挙げる考えだ。
 選挙戦では、世界経済の危機に対応するため「安定政権」の必要性を訴える作戦。首相は25日の演説で「このときに求められているのは何か。それは政治の安定だ」。公明党の山口那津男代表も同日、横浜市内の街頭演説で「世界の先行きが不透明だからこそ、安定した政権が必要だ。自民と公明の安定政権でなければ、この難局を乗り切ることはできない」と訴えた。』

まあもう、脳の容量が小さく、政治屋稼業の為に何でも手柄にしてしまうことを考える以外に、頭が働かない、容量が足りないことを示す格好の嘘の付き方。

〇毎日:公私混同防止策に及び腰

『舛添要一・前東京都知事の公私混同問題を巡り、政治資金の支出を事実上野放しにしている今の法令を改めるべきだとの声が、専門家から上がっている。毎日新聞はこれを踏まえ、参院選を戦う主要政党に公私混同の防止策を尋ねた。だが「政治家本人が説明責任を果たすこと」(自民党)など、多くは法令による支出規制に後ろ向きで、選挙の争点となる気配はない。』

政治無能なくせに、貰う物については意地汚い素質丸見え。国民税収奪の既得権は死守し、官僚報酬引き上げにも眼をつむる。同類、手に手を取って国の食い尽くしに必死だな。

〇ネットで参院選を検索していたら、世論調査するに際し、大手二紙が全く同じ数値を出していることを発見したコラムに目が止まった。

日経新聞≪調査は日経リサーチが22〜23日、乱数番号(RDD)方式で電話で実施した。全国の有権者5万943人を対象に2万7640人の有効回答を得た。回答率は54.3%。≫

読売新聞≪調査は電話で実施し、有権者が在住する5万943世帯のうち、2万7640人から回答を得た(回答率54%)。≫

これって何?ってな感じ。政権でありながら、よくも恥ずかしくもなく、滔々とウソ八百を並べて何でも手柄にする政権に、社会の木鐸なる言葉が既に死語になってしまった政治の監視役であるべきマスコミのていたらく。

商売で生き延びるには、ここまで政権にひれ伏し、コストを下げる為に談合して同じネタを使わねばならないのか。知性の象徴と思われて来たジャーナリズムまでが、知性も理性も倫理もヘッタクレもない、丸で生き延びるための動物のようなマネをする。

終わりが始まった国の大きなシグナルが、次から次へと出てくる。
メンテ

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