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[3074] マルクス主義について
日時: 2018/11/27 19:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FMdlMn6w

マルクス主義について随分と語った様ですが、気がつけばマルクス主義を正面からとらえたスレッドがありませんでしたので、改めて立ち上げます。


「なぜ今、カール・マルクスの『資本論』に立ち返る必要があるのか?」

私はマルクス主義者ではない。思想ということならば、キリスト教(プロテスタンティズム)が私の物事を考える基本になっている。政治的には、私は保守陣営に属するという自己意識を持っている。しかし、私は、マルクスが『資本論』で展開した資本主義分析は基本的に正しいと一貫して考えている。それは、マルクスが資本主義の根本的な矛盾が、労働力の商品化にあることを解明したからだ。その具体的な内容と論理については、この対談でわかりやすく説明しているので、是非読んで欲しい。労働力の商品化ということの意味がわかると、世の中がまったく異なって見えてくる。そして、経済現象に関して、ほんとうに重要な事柄と、そうでない幻影との区別ができるようになる。現代の主流派経済学に慣れている読者には、難病を治療するにあたってのセカンド・オピニオンとしての意味を『資本論』は持つ。
(引用おわり)

そのマルクス資本論の世界はと言えば、資本論が大著なので容易には説明しがたいが大略すれば次のようになります。
資本論は3部構成となっておりマルクスは、その1部を書き下ろしただけであり、後の2部、3部は盟友エンゲルスによるものです。


第1部(資本の生産過程の研究)
『資本論』第1巻の資本の生産について述べた箇所だけを紹介する。授業で紹介したように,アダム・スミスは,資本と土地の私有制にもとづく経済では,
@ 商品交換では,その商品をつくりだすために必要な労苦が商品の価値になること,
A 労働生産物(商品)の価値は,賃金,資本,地代の3つに分かれること
を主張していた。しかし,スミスの議論では,商品の価値がどのようなしくみで3つの構成部分に分かれるのかはあきらかでなかった。マルクスは,労働がつくりだす商品の価値と労働力の価値とを区別することによって,資本が利潤(剰余価値)をつくりだすしくみを説明した。
これに対してマルクスは、
3-1 商品と貨幣
 W−W' 物々交換で手放した商品(たとえば20エレのリンネル)の価値と,交換でえた商品(たとえば一着の上着)の価値とは等しい(それぞれの商品をつくるのに必要な[社会的平均]労働量は等しい/Wは商品die Ware[商品]の略,Gはdas Geld[貨幣]の略)。
 W−G−W' この等価交換の原則は,交換の過程に一般的等価形態である貨幣が仲立ちになっても変わることはない。
 
 3-2 絶対的剰余価値の生産
 G−W−G'  もしすべての商品が等価交換されるのなら,資本家が原料(労働対象),設備(労働手段)を購入し,労働者を雇って(労働力を購入して),商品を生産・販売してえるもの(G')は,当初の元手(G)から増えも減りもしないだろう。ところが,資本家はこの過程で利潤をえる(G' はGより大きくなる)。このような自己増殖する貨幣であるという資本の特徴はどうして生じるのだろうか。
 労働力の価値(der Wert der Arbeitekraft) 労働力の再生産に必要な価値。すなわち,労働者とその家族が生活を維持するのに必要な費用=価値(労働力の価値は食っていくために必要最低限の費用という意味ではない。社会の生活水準が高くなれば,労働力の価値も増大する)
 剰余価値(der Mehrwert) (平均的な)労働者が10時間労働をすれば,その商品には(原料費や設備費に加えて)10時間分の価値が付加される。もし労働力の価値が5時間とする
と,残る5時間分の価値は利潤として資本家の手もとに残る。これを剰余価値という。
 不変資本と可変資本 資本家が生産手段(原料や機会・設備)を購入するために投下する資本は商品の価格に転嫁されるが,剰余価値をつくりだすことはない。これを不変資本という。一方,労働力商品の購入(労働者の雇用)に投下する資本は剰余価値をつくりだす。これを可変資本という。
 絶対的剰余価値の生産 利潤を増やすための最も単純な方策は,下の図のように,労働時間を延長することである(必要労働時間とは労働力の再生産に必要な価値をつくりだすのに必要な労働時間,剰余労働時間とは剰余価値をつくりだす時間のことである)。事実,産業革命の時期の労働者階級と資本家階級との闘争の焦点は,労働時間の短縮を求める労働者とできるだけ長時間労働を維持しようとする資本家たちとの闘争であった。このように,労働時間の延長によってえられる剰余価値を,マルクスは絶対的剰余価値という。

3-3 相対的剰余価値の生産
 1日の労働時間が一定とする。この場合に剰余価値が増大するのは,労働力の価値が低下したときである。生産技術の発展によって,生産できる衣料や食料などなど,労働力の再生産に必要なすべての商品がこれまでと同じ時間で2倍生産できるようになったとしよう。そうすると,それぞれの商品の価値(それぞれの商品に投下されている労働時間)は(不変資本は考慮しないなら)1/2になると考えられる*。それゆえ,労働力の再生産に必要な労働時間(労働力の価値)はこれまでの1/2になる。そうすると,下の例では剰余労働時間は4時間から6時間に増加する。このように,必要労働時間の短縮によってつくりだされる剰余価値を相対的剰余価値という。
相対的剰余価値は社会の全体で実現するものであって,個別の資本家の努力によって達成できるものではない。しかし,技術革新を追求し,結果的に相対的剰余価値をつくりだそうとする動機は,どの資本家にも存在する。それは特別剰余価値(Extramehrwert)を手に入れたいというそれぞれの資本家の欲求である。ある資本家が画期的な技術革新に成功すると,彼は特別剰余価値を獲得できる。その他の資本家も遅かれ早かれこの技術革新に追随するだろうから、 この特別利潤はいずれ喪失する。 しかし、 このような特別利潤を求める資本家間の技術革新の競争こそ資本主義の生産力を飛躍的に高めることになる。


第2部
第2部は資本の流通過程の研究、すなわち、資本制的生産様式の再生産に関する研究である。第1部がマルクス自身が構成や叙述の仕上げ、刊行まで関わったのに対し、第2部は、マルクスの死後、残されていたいくつかの草稿(第2部のエンゲルスによる序文を参照)をエンゲルスが編集、刊行したものである。

第1篇と第2篇は資本の循環や回転などを扱っており、個別資本の流通過程での運動を考察した。いわば資本家が経営の上で資本の動きを見る時と同じ視点である。実際、マルクスは、工場経営者であったエンゲルスにしばしば資本の回転率などについて照会の手紙を送り、経営のリアルな現実における実務を学び、この草稿に反映させている。

第3篇は社会全体における資本の流通過程の研究である。「再生産論」と呼ばれる理論分野で、社会的総資本の観点から、資本制的生産様式を維持・持続するために、資本の生産・流通・再投下が、どのような制約・条件の下でおこなわれているかを考察したものである。マルクスはフランソワ・ケネーの経済表に刺激を受けながら「再生産表式」とよばれるモデルをつくりあげ、マクロ的視点から資本の流通・循環を論じた。

第3部
第3部は、資本主義的生産の総過程の研究である。第3部も第2部と同様に、マルクス自身の手で刊行されたものではなく、マルクスの草稿をエンゲルスが編集(第3部のエンゲルスによる序文を参照)したものである。

第3部は第1部と第2部の研究をふまえ、資本主義経済の一般的・普遍的な諸現象である費用価格、利潤、平均利潤率、利潤率の傾向的低下の法則、利子、地代などを扱い、資本主義経済の全体像の再構成を試みた。

(引用おわり)

この文章でも何が言いたいか解りません。簡単にまとめてみましょう。

>そこでマルクスは考えました。世の中には、剰余価値を搾取する資本家と、搾取される労働者という二大階級が存在する!!

つまり、資本家は、労働者を低賃金で働かせて、そのぶんの剰余価値を搾取している。本来、社会的必要という観点から支払うべき賃金を支払わず、その分を自らの懐に入れているのだというわけです。
なぜ、そんなことができるのか。それは、資本家には貨幣・土地・工場などの生産手段があって、労働者を雇えば生産できるのに対して、労働者には自らの労働力を売ることでしか生きていけないからです。
この問題を解決するためには、生産手段の私有を排して、社会主義あるいは共産主義の社会にしなければだめだというのが、マルクスの主張でした。

だが、剰余価値の発生を否定するが、国家、行政を維持する費用は何処から出てくるか。
一般的には国民から税金を取らねばならない。
その税金の査定根拠は剰余価値説ではどのように説明できるのか。

また実際は、各生産を受け持つ組織(民間企業ではないが結局は企業のような組織が登場する)が必要経費として確保したものの中から上納金として国家へ治めるか、その企業単位で福祉政策などを行うかである。
どちらにしても、国家を維持する為の金が足らず、従来とおり国民から税金をとっていた様である。
剰余価値説の原則的な事は理解できても、税金や国家の維持の為の経費の出処については明確な説明はない。

この曖昧な税体系が、各組織の幹部(共産党幹部)の企業の私物化を生み資本主義国家の富裕層に代わる腐敗を生みだした。

また一般的な剰余価値の定義について、具体的に色々な事例で説明しているが、
人間活動のすべてを剰余価値と言う基準で数値を当てはめることが本当に出来るのであろうか。

この疑問に対して後で、マルクス経済学を批判する立場からの指摘がある。
この大前提に瑕疵があれば、後の2部、3部は意味をなさない。
後世マルクスが広く受け入れられた原因に、マルクスが指摘した資本主義経済のシステムの矛盾の事がある。
実際にはマルクスは次のように指摘した。
メンテ

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Re: マルクス主義について ( No.1 )
日時: 2018/11/27 18:48
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FMdlMn6w

実際にはマルクスは次のように指摘した。

> マルクスが捉えた資本主義の本質とは何か。それは「資本(capital)」が「無限に自己増殖する価値運動である」ということです。これをマルクスはG−W−G' という定式でもって表しています。ここでGは貨幣(ドイツ語でGeld)、Wは商品(ドイツ語でWare)を意味しています。この定式についてもう少し詳しく説明しましょう。

 一般的な商品交換は、W−G−Wという定式で表されます。例えば、小麦という商品(W)を有している農業者はこれを市場で売って貨幣(G)を手に入れ、その貨幣(G)でもって別の商品(W)、例えば上着を手に入れる。このような商品a→貨幣→商品bの交換を、W−G−Wという定式で表しているわけです。

 ではこの商品交換の定式をひっくり返した資本の一般定式、G−W−G' とは何を意味しているのか。資本家の行動を考えてみてください。資本家はまず投資の元手となる貨幣(G)を有しており、その貨幣を何らかの商品(W)に投資し、次にその商品を用いて何らかの事業(生産・流通・販売)を行うことによって、最終的に当初有していたよりも多くの貨幣(G')を獲得する。最後のG'の '(ダッシュ)が意味するのは、貨幣の増加分(+凵jを意味しています。通常の商品交換とは異なり、貨幣→商品→貨幣+αという順序でもって、手持ちの貨幣を増殖させていくのが資本家の行動になる。

 重要なのはこのような資本の価値増殖運動が果てしなく続くということです。つまり、G−W−G'−W−G''−W−G'''−…というかたちで資本家は飽くことなく価値(貨幣)の増殖を図っていく。そしてマルクスのいう「資本」とは、このような無限の価値増殖運動そのものです。増殖した剰余価値(+凵jをさらに次の事業へと投資することによって、資本家はますます資本の価値を増殖させていく、というわけです。マルクスは『資本論』第一巻・第四章「貨幣の資本への転化」のなかで次のように書いています。

資本家は、資本の価値増殖運動をやむことなく持続させ、より多くの剰余価値を獲得しようとする。そのためには、資本家は事業によって獲得した剰余価値(利潤)を自分の欲望のために使い果たしてはなりません。多少の贅沢は許されるにしても、剰余価値の大部分は次なる事業への投資に用いなければならない。実際に、資本主義のなかで成功している資本家・事業家のほとんどは、どこかの時点で「もういいや」と満足するのではなく、「もっともっと」とより大きな事業へ元手の資本を投下していきます。資本の無限運動は、資本家の「欲望の無限増殖」をももたらすのです。

(引用おわり)
まあ、これを読んでも何が何か解らない向きもあろう。
平たく言えば、資本主義経済のシステムは、資本が無限に剰余価値を取得するために一人歩きを始めると言う事です。
現代社会におけるグローバル化は、この予言の通りであります。
その結果、経済は国民全体に平穏を及ぼすものではなくなり格差が広まり2極化が進行する。

まあ、その資本主義の体質を見抜くところまでは称賛できますが、翻ってマルクスが対案としたマルクス経済学、つまり資本論の世界は問題がないかと言えば、これが問題なのです。

そのマルクス資本論を具体的に批判したのが次の文章です。

たとえば「等価交換」という考えです。マンガ版ではパン屋と八百屋が売れ残ったパンと野菜を交換し、その交換が成り立つのは互いの商品が同等の価値を持つからだと解説されます。

 何となく納得してしまうかもしれません。しかし人が物を交換するのは、相手の物が自分の物と同じ価値を持つからではありません。もしそうなら、多くの買い物客がスーパーやコンビニを出たとたん店に引き返し、不良品でもないのに、買ったばかりの商品を返し、お金を取り戻そうとするはずです。同等の価値を持つことが交換の理由なら、商品とお金の交換を何度繰り返しても、人は満足するはずだからです。

 しかし現実にはそんなことをする人はいません。買い物客は、払ったお金よりも買った商品の価値が大きいと思うからです。一方、店の主が商品を手放すのは、逆に商品よりもお金の価値が大きいと思うからです。

 つまり交換が成り立つのは、同じ物(お金も物の一種です)でも人によって価値の大小が違って見えるからなのです。
>「マルクス『資本論』は何を間違えた?〜商品の価値を決めるのは労働量ではない〜」
この2018年は、共産主義の父といわれる哲学者・経済学者、カール・マルクスの生誕200年にあたります。出生地であるドイツのトリーアで記念式典が開かれ、青年時代を描いた映画が各国で公開されるなど、話題を集めています。

 先月創刊した、古典・名著をマンガ化する新シリーズ「講談社まんが学術文庫」の初回刊行分にも、マルクスの主著『資本論』が入りました。近代資本主義が興隆する19世紀英国を舞台に物語が展開し、『資本論』のエッセンスを解説します。若い登場人物たちのドラマは楽しめます。

 けれども、原作である『資本論』が不朽の古典として扱われることには抵抗を感じます。今からみれば、経済について完全に誤った考えに基づいているからです。
 ここからわかるのは、物の価値とは、それを作るためにかかった労働量などの客観的な基準で決まるのではなく、人それぞれの主観によって決まるということです。この事実は1870年代、オーストリアの経済学者メンガーらによって明らかにされました。経済学の歴史上、革命的な発見といわれます。

 しかし、それ以前の世代に属するマルクスは旧来の考えにとらわれたままでした。1867年に全3巻のうち第1巻が出版された『資本論』は誤った古い考えによって書かれたため、つじつまの合わないおかしな主張が多いのです。「等価交換」はその一つです。

もっとおかしな主張は「剰余価値」です。マルクスは『資本論』第1巻でこう述べます。商品の価値はすべて労働によって生み出され、その価値どおりに市場で売買される。ところが資本家は商品を売って得た代金のうち、労働者には一部を賃金として支払うだけで、原材料費などを除いた残りは利潤として自分の懐に入れてしまう。いいかえれば、労働者が生んだ価値の一部には対価を払うが、残りの価値(剰余価値)には払わない。これは実質的な不払い労働であり、不当な搾取である、と。

 これは商品の価値は労働によって決まるという、誤った考えから出発しています。実際には、商品の市場価値を決めるのは労働者の働いた量ではありません。消費者の心に基づく選択です。私たちは買い物をするとき、商品の製造にかかった労働量を調べたりしません。

 もしマルクスのいうように商品の価値が労働量で決まるなら、大規模な設備を使い人手を省く資本集約型産業よりも、サービス業など人手を要する労働集約型産業のほうが利益率は高くなるはずです。しかし実際にはそのようなことはなく、長期ではあらゆる産業の利益率は均一化に向かいます。ある産業の利益率が他より高ければ、その産業に参入する企業が増え、価格競争が広がって利益率が低下するからです。

 マルクス自身、『資本論』第1巻でこの矛盾を認め、あとの巻で解決を示すと約束しました。ところが第1巻を出版した後、なかなか続きを出さないまま、16年後の1883年に死んでしまいます。

 あとを引き継いだのは盟友フリードリヒ・エンゲルスです。エンゲルスはマルクスの遺した草稿をもとに、第2巻を1885年に出版します。しかし矛盾の解決は示されませんでした。読者が不審に感じることを警戒してか、エンゲルスは序文で、解決は次の第3巻で示されると予告し、経済学者たちにこんな「挑戦状」を叩きつけます。この矛盾をどう解決するかわかる者がいたら、第3巻が出版されるまでに見せてもらいたい、と。

 そこから9年後の1894年、残りの草稿やメモを取りまとめ、ついに第3巻が出版されます。エンゲルスはまた序文を書き、前巻での「挑戦状」に応えて多数の論者が矛盾について論考を発表したが、どれも的外れだった――と勝ち誇ります。それでは第1巻の刊行から27年もたってようやく出版された最終巻で、マルクスは矛盾をどのように解決したのでしょうか。実は、解決できなかったのです。

 第3巻でマルクスは、商品の価値は投じられた労働で決まるという理論と、異なる産業で利益率は均一化するという現実は「一致しないかのように見える」と改めて述べますが、その矛盾の解決は示しません。その代わり、資本主義が発達した国ほど利益率の均等化が迅速に進むという現実を認めるだけです。これは結局、商品の価値は労働で決まるという第1巻の理論を放棄したものです。

 メンガーと同じオーストリアの経済学者、ベームバベルクは1896年に出版した著書『マルクス体系の終結』で「マルクスの第3巻は、その第1巻を否認している」と指摘し、マルクスは解決でなくごまかしを示したという他の経済学者の厳しい意見に同意します。第1巻で述べた剰余価値の理論が間違っているなら、それに基づき展開された、資本家は労働者を搾取するという主張は根拠を失います。ベームバベルクは『資本論』を「カルタ札で組み立てられた家」、すなわち砂上の楼閣だと切り捨てました。

 マルクスが第2巻以降を生前出版しなかったのは、この破綻が修復不能だと気づいたからともいわれます。そうだとすれば、学者としてかろうじて誠実だったといえるでしょう。

今の世界ではこうした経緯を無視し、マルクスを見直そうと無責任な声が高まっています。欧州連合(EU)のユンケル欧州委員長は記念式典に出席し「平等の実現のために力を尽くした」と功績をたたえました。

 しかし20世紀の社会主義諸国崩壊が示すように、破綻した論理を土台に未来を築くことはできません。マルクスが話題となる今、それこそがかみしめるべき教訓のはずです。

(引用おわり)

そうなのです、マルクスは人間社会の存立、そのものを経済行為に置き換えようとしているのです。
旧約聖書のアダムとイブの話ではありませんが、人間の性と言うものは神様でも予測できないものです。
その人間性をいとも簡単に剰余価値論でまとめる事など出来ないのです。
マルクス自身は、そこまで意図していなくても、結果、マルクス主義を実現するためにソビエト共産党はじめ、毛沢東、チャウセスク、ポルポトが何をしたかを見れば明らかでしょう。
それらの国において民主主義が無視されたのです。
もちろん、無視して人間社会が成り立てば、それも良いでしょうが、それでは主客転倒で何の為の政治システムか、何の為の経済か解らない事になります。

資本主義社会の矛盾を解く事の必要性は、その真っただ中にいる我々は十分に認知しています。
しかしながら、それがマルクス主義によって得られるとは間違いであります。

メンテ
Re: マルクス主義について ( No.2 )
日時: 2018/11/27 17:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FMdlMn6w

実際の資本論を覗いてみよう。
次のような文章が延々と続き、退屈でとても読んではいられません。
納得すれば読みもしますが、一々、こじ付けであり、人間がこのように反応するとは決して思いません。


>A. 単純、個別または偶生の価値形態
x量 A商品=y量 B商品  又は

A商品x量はB商品y量に値している。

20ヤールのリンネル = 1着の上衣 又は

リンネル20ヤールは、上衣一着に値している。

(1) 価値表章の両極。相対的価値形態と等価形態
あらゆる価値形態の秘密は、右の単純なる価値形態の中に伏在している。従ってこれが分析こそ、困難の中堅たるもので

種類の異った二つの商品AとB(即ち上例でいえばリンネルと上衣)は、この場合、二つの異った役目を演ずることは明らかである。すなわちリンネルは上衣によってその価値を言い表し、上衣はこの価値表章の材料として役立つのである。第一の商品は能動の役目を演じ、第二の商品は被動の役目を演ずる。第一の商品の価値は、相対的価値として表現されている。換言すれば、それは相対的の価値形態(relative Werthform)にある。第二の商品は等価として作用する。換言すれば、それは等価形態(Aequivalentform)にある。

相対的価値形態と等価形態とは、相互に従属し交互に制約する不可分的な二要素[訳者註 12]であると同時に、又互いに相排斥しあるいは相対抗する両極端、換言すれば同一なる価値表章の両極である。これ等の両形態は常に、価値表章によって相互関連せしめられる異なった商品の間に配置される。例えば、リンネルの価値はリンネルでは、言い現わし得ない。20ヤールのリンネル = 20ヤールのリンネル なる言い現しは、何らの価値表章ともなるものではない。この方程式はむしろ反対に、20ヤールのリンネルは20ヤールのリンネル以外の、即ちリンネルなる使用対象の一定量以外の何ものでもないという事を語るに過ぎないのである。要するに、リンネルの価値はただ相対的にのみ、即ち他の商品によってのみ言い現わされ得るのである。さればリンネルの相対的価値形態なるものは、他の何らかの商品がリンネルと対立して等価形態に在ることを前提する。他方に、等価として作用するこの他の商品は、同時に又相対的価値形態にあり得るものではない。この商品は自己の価値を言い現わすものでなく、ただ他商品の価値表章の材料たるに過ぎないのである。 勿論 20ヤールのリンネル = 1着の上衣 なる言い現し、即ちリンネル20ヤールは上衣1着に値するという言い現しは 1着の上衣 = 20ヤールのリンネル という、即ち上衣1着はリンネル20ヤールに値するという転倒された関係を含む。しかし上衣の価値を相対的に言い現わすためには、この方程式を転倒する必要がある。そしてかくするや否やリンネルは上衣に代って等価となるのである。斯くの如く、同一の商品は、同一の価値表章に於いて、同時に相対及び等価の両形態を採ることは出来ないのであつて、これ等の両形態はむしろ両極的に相排斥するものである。

所で一つの商品が相対的価値形態に在るか、又はその反対の等価形態に在るかという事は、全く価値表章に於ける各場合の位置に依って定まるものである。換言すれば、それが自己の価値を言い現わす商品であるか、言い現わされる商品であるかの如何に依って、定まる事である。

(2)相対的価値形態
a 相対的価値形態の内容
一商品の単純なる価値表章が、いかように二商品間の価値関係内に伏在するかを見出すためには、まず量的方面から全く切り離して、この価値関係を観察する必要がある。然るに大抵の人は、それと正反対の方法をとって、価値関係の中に、二種類の商品の定量が等位に置かれる比例のみを見て、異った物の大小はそれを同一の単位に約元するとき、初めて量的に比較し得るに至ることを看過する。異った物の大小はこれを同一なる単位の言い現しとして見るとき、初めて同一分母の大きさ、従ってまた通約し得る大きさとなるのである。[17]

20ヤールのリンネル = 1着の上衣 であるにしろ、または =20着の上衣 であるにしろ =x着の上衣 であるにしろ、換言すればリンネルが少数の上衣に値するにしろ、多数の上衣に値するにしろ、 いずれにしてもこれ等の比例は常に、リンネルと上衣とが価値の大きさとしては同一単位の言い現しであり、同一性質の二物であることを意味している。 リンネル = 上衣 はこの方程式の基礎となるのである。

しかしこれ等の二商品は質的に等位におかれるとはいえ、その演ずる役目は同一ではない。これによって、リンネルの価値のみが言い現わされるのである。いかにしてか。リンネルの「等価」又はリンネルと「交換され得る物」としての、上衣に関連せしめられることによってである。この関係に於いては、上衣は価値の存在形態(Existenzform)、即ち価値物として通用する。なぜならば単に斯かる物としてのみ、上衣はリンネルと同一であるからである。

他方にまた、リンネルの固有の価値性(Werthsein)[訳者註 13]が前方に現われて来る。換言すれば、それは独立した一表章を与えられるのである。なぜならば、リンネルはただ価値としてのみ、自己の等価物又は自己と交換され得る物としての上衣に相関的となるからである。同様に酪酸はギ酸プロピルとは異った物質である、しかし双方とも、同じ化学的実体から成り立っている。即ちいずれも炭素(C)、水素(H)、及び酸素(O)から成り、しかも同じ割合の結合、即ち C4H8O2 を有している。そこで今、ギ酸プロピルを酪酸と等位に置くときは、この関係に於いて先ずギ酸プロピルは単に C4H8O2 の存在形態に過ぎないものと見倣されるであろう。そして次に、酪酸もまた C4H8O2 から成るといわれるであろう。斯くの如く、ギ酸プロピルを酪酸と等位に置く事によって、両者の化学的実体はその物体的形態から区別して言い現わされることになるのである。 商品はこれを価値として見れば、人間労働の単なる凝結であるという時、我々の分析によって商品は価値抽象(Werthabstraktion)に約元されることになるが、しかしその現物形態とは異った何等の価値形態をも付与されることにはならない。然るに、他商品に対する一商品の価値関係に於いてはそうではない。この場合には、一商品の価値性質(Werthcharakter)は他商品に対するそれ自身の関連を通して現われて来る。 例えば、上衣を価値としてリンネルと等位に置くとき、上衣に含まれている労働はリンネルに含まれている労働と等位に置かれることになる。ところが上衣を造る裁縫は、リンネルを造る機織とは異った一つの具体的労働である。しかし機織と等位に置かれることによって、裁縫は事実上これらの両労働に於ける現実的等一物、即ち双方に共通した人間勢労働という性質に約元されることになる。この迂回によって、機織もまた価値を織る限りに於いては裁縫と区別せらるべき何等の特徴をも有しないこと、換言すれば抽象的の人間労働であることが明かになる。種類の異なった商品の等価表章によってのみ、価値形成労働の特殊性質が鮮明にされる。けだし商品に含まれている種類の異った諸労働は、この等価表章に依って事実上その共通物なる人間労働一般に約元されることになるからである[18]。

しかし、リンネル価値を構成する労働の特殊性質を言い現わしただけでは、まだ十分でない。流動状態にある人間労働力、即ち人間労働は、価値を造り出すけれども価値ではない。それは凝結した状態に入り、対象的形態を採ったとき価値となるのである。リンネルの価値を人間労働の凝結として言い現わすためには、我々はそれをリンネル自身とは物的に異っていて、しかも同時にリンネルにも他の商品にも共通した一つの「対象性」(Gegenständlichkeit)として言い現わされなければならない。この問題は既に解決されている。

リンネルの価値関係に於いては、上衣はリンネルと質の等しい物、即ち同一性質の物として通用する。それは一つの価値であるからである。従ってそれはこの場合、価値が現われてゆく所の物、換言すればその捕捉し得べき現物形態を以って価値を代表している所の物として通用する。勿論、上衣なる商品の現物体は、単なる使用価値である。上衣は我々の掴む最初のリンネルの一片と同様に、価値を言い現わすものではない。この事実は要するに、上衣はリンネルに対する価値関係以外に於いてよりも、その以内に於いての方が、多くの意義を有している――もっとも人によっては、 金縁付きの上衣を着ていると、それを着ていない時よりも意義がある如く――ことを論証するに過ぎない。

上衣の生産に於いては事実上、裁縫の形で人間の労働力が支出せられた。即ち上衣の中には人間の労働力が蓄積さ れているのである。この方面から見れば、上衣は即ち『価値の負担者』である。もっとも上衣の斯かる性質それ自体は、上衣が如何に擦り切れても、その糸目から透いて見える訳ではない。そしてリンネルの価値関係に於いては、上衣はただこの方面からのみ、即ち体現された価値として、価値物体としてのみ意味を有している。リンネルは上衣がボタンをかけた盛装に誤られず、その中にこれと血筋の繋がった美しい価値の魂を認めたのである。しかしリンネルから見て価値が同時に上衣の形を採ることなくんば、上衣はリンネルに対して価値を言い現わし得るものではない。それは丁度、Bな る個人から見て陛下の地位が同時に又Aなる個人の風貌容姿を帯び、従って君主の代わる毎にその容貌や、毛髪や、他のいろいろなものを変更することなければ[訳者註 14]、AはBに対して陛下たり得ないのと同様である。

上衣がリンネルの等価たる価値関係に於いては、上衣形態が価値形態として通用し、リンネルなる商品の価値は、上衣なる商品の現物体を通じて言い現わされる。即ち一商品の価値は、他商品の使用価値によって言い現わされることになるのである。リンネルはこれを使用価値として見れば、感性的に上衣と異なる一物であり、また価値として見れば、『上衣に等しき物』であって、上衣たるが如く見える。斯くしてリンネルは、その現物形態とは異った価値形態を与えられることになる。リンネルの価値性(Werthsein)商品上衣との交通を通じて語っていることは我々の認める所である。ただリンネルは、己れ一人だけに通ずる言語、即ち商品語を以ってその思想を洩らすのである。リンネルはその価値が人間労働という抽象的性質から見た労働によって形成されることを語らんとするに、上衣なるものは、それがリンネル自身と等しく通用する限り、即ち価値である限り、自身と同一の労働から成ると言うのである。リンネルはその崇高なる価値対象性がその粗硬なる現物体とは異なるものであることを語らんとするに、価値は上衣のように見え、従ってリンネル自身はこれを価値物として見れば、上衣と全て瓜二つだと言うのである。ついでに言うが、商品語もヘブライ語の外に尚幾多の、多かれ少なかれ正確な方言を有している。例えばラテン系の動詞ヴァレレ、ヴァレル、ヴァロアール[訳者註 15]は、ドイツ語の「ヴェルトザイン」[訳者註 16]よりもより適切に、Bなる商品をAなる商品と等位に置くことは、Aなる商品自身の価値表章たる事を言い現すものである。パリーは聖祭も同然だ![訳者註 17]

価値関係によって、商品Bの現物形態は、商品Aの価値形態とたり、換言すれば、商品Bの現物体は商品Aの価値鏡となるのである[19]。商品Aは、価値体として、即ち人間労働の体化としての商品Bに関連せしめられること(beziehen)によって使用価値Bを自分自身の価値表章とする。斯く商品Bの使用価値によって言い表された商品Aの価値こそ相対的価値なる形態を有するものである


>商品の要素は二つ。使用価値と
価値(価値の実体と価値の大きさ)である。


 (1)資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならぬ。

 (2)一商品は、とにもかくにも我々の面前に存在して、その特質をもって、人間の様々な欲求を満足させて呉れる。 その欲求が、例え胃からであろうと、幻想からであろうとかまわない。
 ただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。  

 (3)鉄や紙などの有用物を、その質と数量という視点から見て行くことにしょう。 これらのものは、 様々な特質の集合体であり、様々な用途に使える。 これらの用途の発見は 歴史的な所産である。
 また、これらの有用物の数量を計る標準的な方法も、社会的に確立されてきたものである。様々な計量方法があり、計られる物の性状の違いによるものもあれば、習慣的に用いられてきた方法もある。

 (4)ある物の有用性が、その物の使用価値である。物の有用性は空中に浮かんでいるものではなく、あくまでもその商品の物質的な特質の内に限られ、その商品の外に存在してはいない。 つまりは、一商品、鉄とかトウモロコシとかダイヤモンドとかは、一現物であり、使用価値であり、有用物なのである。
 この一商品の使用価値という特質は、その有用さの質のために必要とされた労働の量からは独立している。 我々が使用価値を論じる場合は、常に、その数量の確認が大切である。1ダースの時計とか1ヤードのリネンとか1トンの鉄とかのように。  しかしながら、商品群の各使用価値の諸々については、それしか知識を要さない商品学に任せておけばいい。
 使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。      


(以下略)
メンテ
Re: マルクス主義について ( No.3 )
日時: 2018/11/27 19:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FMdlMn6w

マルクス自身は、結局のところ「資本論」を完結しなかった。
彼が描いた資本論の社会の実現は無理と解っていたのではないか。
マルクスの資本論の世界では、国家の構成そのものが出来なかったのである。
マルクスの「資本論」はあくまでも一つの私案にすぎず、欠陥理論であったのである。
マルクスは剰余価値の根拠を説いただけであり、それで国家の経営を含む、人間の経済活動が把握できたと勘違いしたのである。

それを高坂逸郎など日本の学者は文章の解説のみに精をだし、肝心の是非は問わなかった。
さらに、マルクス主義の指導者達は、マルクスの資本主義経済体制批判の部分のみを強調し、資本論の欠陥には目をつむる事で政治的な批判精神旺盛な若者を虜にする事になった。

マルクス自身は晩年、「インターナショナル運動」を組織して労働者の団結を図った。
資本論構成の中で資本家と労組者を仕分けしたことから、労働者が側の擁護が必要と思っていたのであろう。

マルクス自身は、この様であり、マルクスの資本主義経済体制批判は的を得たものであり、労働運動の必要性も有益な指摘であった。
しかしながら若くしてマルクスの著作を読んだレーニンが、マルクスの著作を大義名分にソ連共産党を組織する事を思いついた事から、後世のマスクス主義共産党独裁国家が現れた。

あとは歴史が示すとおり、マルクスの基本的な認識違いが悲劇となって現れた。

メンテ

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