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[3111] ポピュリズムと民主主義
日時: 2019/03/16 21:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dklAp4jY

議会制民主主義の世の中で、安倍自民党の横暴を許す民意に疑問を呈する多くの人がいる。
民主主義の根本定義からすると安倍が幾ら横暴でも、封建領主とは違い、主権在民の民主政治は担保されている。

民主政治という概念で、人々は何を期待しているのか。
民衆の為の政治、民意を汲み上げた政治であることを願うのであろう。
しかしながら、その民意とは、確かなものがあるのでしょうか。
多くの人々にとって、想いは千差万別、政治の決定(判断)において皆を満足するような決定はできない。
そこで民主政治に必要な多数決の論理が登場する。
まあ、ここまでは一般論で当然の話し。
ところで、政治において何時も多数決の論理で決められることが最善かと言えば、議論が決まらないから止むを得ず、採決を取っても、それが必ずしも最善の決定になるとは限らない。
それも承知で民主政治のシステムをとり続けることも選択肢の一つであろう。

民主政治の問題は、多数決の論理により、最善でなくとも選択せざるを得ないことが発生すること。
もうひとつは、何事か判断すべきとき、大衆(民意)が、その判断に十分な知識をもち理解して判断できるかということ。
これは無理な話であり、人々の能力、置かれた環境により同じように判断する能力は育っていない。
また政治のことは無尽蔵な対象を含んでいて、それらに全て判断を下せるほど個人個人の能力はない。
民意が反映しない現在の議会制民主主義の限界を言い、直接民主政治を採用すべきという人もいるが、直接民主主義としても、この根本問題は無くはならない。

それでは、どうすればよいか。
そこでポピュリズムという概念について考えてみよう。

ポピュリズムとは、一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに、既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢のことである。日本語では大衆主義や人民主義などのほか、否定的な意味を込めて衆愚政治や大衆迎合主義などとも訳されている。

ウイキペディアのこの解釈を、そのまま受け入れるのは早計である。
ポピュリズムとは、政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶ。

そうして、庶民の素朴な常識によってエリートの腐敗や特権を是正するという方向に向かうとき、ポピュリズムは改革のエネルギーとなることもある。しかし、大衆の欲求不満や不安をあおってリーダーへの支持の源泉とするという手法が乱用されれば、民主政治は衆愚政治に堕し、庶民のエネルギーは自由の破壊、集団的熱狂に向かいうる。

先に挙げたように、民主政治と言っても、実際には民衆が一々政治の決定に参加することなど能力的にも、物理的にも無理であるが、ポピュリズムという形ならば、良い面でも悪い面でも参加できると言う事である。

ポピュリズムはその時々の政治・経済・文化的エリートが進める政策や彼らが認める価値観に対して、反発を感じる社会階層が一定程度存在しており、その代弁者たるポピュリストが支持を集めることができたときに生起する。民主主義は、統治者(政治家)と被統治者(有権者)との同一性を原則としている。しかし、代表制民主主義においては、実際には両者の間につねに歪(ゆが)みが生ずる。この代表制の歪みを示す兆候としてポピュリズムをとらえることができる。いいかえれば、ポピュリズムによって民主主義が危機に陥るのではなく、民主主義が機能していないためにポピュリズムが生まれるといえる。

近年では、「複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始し、真の政治的解決を回避するもの」として、ポピュリズムを「大衆迎合(主義)」と訳したり、「衆愚政治」の意味で使用する例が増加している。村上弘によれば、個人的な人気を備えた政治家が政党組織などを経ずに直接大衆に訴えかけることや、単純化しすぎるスローガンを掲げることを指すとするなどポピュリズム否定的に捉えることが多い。

ポピュリズムの対義語に「エリート主義」がある。
エリート主義とは、資産、知、特別な訓練や経験、その他の属性などによって区別される個人の集団(エリート層)に対する信頼や態度であり、彼らが社会の中でより重要な役割を持ち、建設的な行動を行い、統治するに適した卓越した技術や能力や見識を持っている、と考える。
当然、権力は一部の人々の手に集中することになる。
エリート主義は時には社会階級や社会的成層と関連し、上流階級の構成員は「社会的エリート」と呼ばれることもある。

安易なポピュリズムが失敗した例として
アルゼンチンは財政や経済の仕組みなどを無視して、国民に受けがいいポピュリズム政策による短期的な成長とその後の長期的な経済破綻によって先進国から発展途上国へ転落した唯一の国である。戦後直後は先進国であったが、ペロン大統領が人気取りのために外資含めた企業国有化、過度な労働者や組合保護、一次産品主導型の経済、そして福祉へのバラマキで財政無視の放漫財政をした。このような国家の現実を無視した政策はすぐに破綻して、国家資産を使い果たして戦前からの先進国から転落した。

またポピュリズムを意図的に悪用した例もある。
共産主義への恐怖を背景にした1950年代前半の米国におけるマッカーシズムなどがその代表例である。民主政治は常にポピュリズムに堕する危険性を持つ。

さて、これからが本論です。
民主政治と言う言葉で、我々は現行のシステムが理想的に推移すると思い込んでいます。
冒頭の部分で説明したように、直接民主主義であっても間接民主主義であっても、それは理論上のことで、実際には理想的な民主政治など無いのです。

大衆とは、古代から現代まで、もともと、そのようなものであり。
大衆には大衆らしい意思表示があるのです。
それがポピュリズムです。
これは諸刃の剣であり、衆愚促進させることにもなり、またエリート主義に陥っている連中を動かすことも出来るのです。

権力者の方に「ポピュリズム」と蔑視などさせないで、堂々と声を上げるべし。
すき放題、我侭を言えば良い。

物分りの良い大衆ぶり発揮していれば、権力者からつけ込まれる。
大衆は何をするか解らないい状況が良いのである。


>ポピュリズムはその時々の政治・経済・文化的エリートが進める政策や彼らが認める価値観に対して、反発を感じる社会階層が一定程度存在しており、その代弁者たるポピュリストが支持を集めることができたときに生起する。民主主義は、統治者(政治家)と被統治者(有権者)との同一性を原則としている。しかし、代表制民主主義においては、実際には両者の間につねに歪(ゆが)みが生ずる。この代表制の歪みを示す兆候としてポピュリズムをとらえることができる。いいかえれば、ポピュリズムによって民主主義が危機に陥るのではなく、民主主義が機能していないためにポピュリズムが生まれるといえる。


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書いても読まれず、叫んでも聞かれない、 ( No.1 )
日時: 2019/03/25 00:31
名前: ooeyama ID:WRHVsR8o

20世紀の日本を代表する知の巨人 加藤周一氏が、1982年12月16日のA紙連載コラムで語られた内容が、今日の政情と何ら変わらずむしろ悪化している事に驚かされる。以下その論旨の要約を紹介したい。


>1982年秋に中曽根内閣が成立。国民が投票した80年春の衆参同一選挙では、その時の「ロッキード収賄事件」は自民党の立場を弱めているように見えたにも拘わらず、自民党は「大勝」した。腐敗を極めた事件でさえ、選挙結果に影響しなかったとすれば、何をしても選挙で影響しない、と自民党政府が考えたとしても、驚くことはないだろう。

>私は今をさる150年の昔、1833年に20歳のドイツ人医学生が、留学先から故郷の両親へ宛て書いた手紙を思い出す、 ”僕は何時でも原則に従って行動するでしょうが、近頃気付いたのは、大衆の窮乏だけが変化を齎らすということです、個人がどれほど運動しても、叫んでも、それは無益で愚かな事にすぎません、書いても読まれず、叫んでも聞かれない、動いても支持されない、”

>時期が熟さなければ、大衆が「変化」の必要を感じない限り、たとえドイツ諸邦の政府に腐敗が有っても、個人で出来ることは何もない。そう言ったのは後に「ダントンの死」や「ヴォイツェック」を書き、24歳で死んだゲオルク・ビュッヒナァである。

>確かに今の日本でも、個々の問題については、世論調査での多数意見と、自民党政権の政策(軍事予算、政治倫理、改憲、教科書検定など)との間に大きな差がある。その多数意見が大衆運動や反対政党、新聞の論調によって表現される場合、政府がそれに反応する事は甚だ少ない。

>例えば最近の教科書問題で示されたように、政府が反応したのは、日本国内の反対運動や言論機関の批判に対してでなく、外国政府の抗議に対してであった。また世論調査で多数が軍事予算増に反対でも、政府はそのこととは無関係に軍事費を増大させた。

>自民党政権に強い影響力を持っているのは、国民の多数意見でなく、自民党内の諸派、財界の指導者たち、及びアメリカ政府の意見である。然し政策に影響する要因はそれだけでない、衆参同一選挙で「大勝」以来、自民党政府の態度が目立って変わってきた事、

>それまで遠慮しがちに仄めかしたことを公然と言い出すまでになり、それと共に役所の小役人までが妙に威張りだした事は、日本国の権力が今日なお選挙結果に敏感だということを鮮やかに示している。勝てば威張り負ければ大人しくなる。流石議会民主主義の国であり、「自由な選挙」の国である。

>かくして政府の施策は日本国の場合に限らず、必ずしも国民多数意見を反映しない、然し選挙の結果からは強い影響を受けるのである。多数意見と選挙の票は平行しないが、全く関係ないわけでない。政府を支持する側か言えば、為すべきことは、第一に世論を権力にとって有利な方へ操作する事であり、それでも世論が不利な場合は、第二に政策批判と投票行為を分離することであろう。

>反対する側からいえば、第一に政策批判に大衆を動員することであり、第二に政策批判を投票行為に結び付けることであろう。この第二の課題を果たす為、第一の課題を徹底させる、即ち政策批判をお祭り騒ぎとして大衆化するばかりでなく、其々に個人に於いて内面化する事を条件とする。個人で出来ることは勿論限られている。しかし何もできないのではない。

>例えば中曽根政権は、今日期待できる良い政府になるか、或いはもっと悪い政府になるか、それは政府の問題よりも、国民の問題である。昔ビュッヒナァが言ったように、田中元首相も、中曽根現首相も、自民党も社会党も、国民の身体に合った着物に違いない。身体が美しければ着物も美しく、身体が醜ければ着物も醜いだろう。 引用終わり、


上記の記事は今から37年前の日本の政治環境を語られたものだが、文中のドイツ諸邦を日本国に、中曽根内閣を安倍内閣に、教科書検定問題を現政権の国民不在の諸政策に置き換えても何ら違和感なく読める、アメリカの強い圧力下での防衛力強化や辺野古移転等で、外圧に弱く民意に耳を貸さない政権と、それを無批判に支持する国民の政治意識は、38年前から少しも進歩していない、否 むしろ退化の一途を辿っている事に、書いても読まれず、叫んでも聞かれない絶望感に襲われる。






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加藤周一のジレンマ ( No.2 )
日時: 2019/03/27 10:55
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Lq9tcgV.

ooeyama さん、どちらかと言えば、ややこしいスレッドにお出でいただき有難うございます。

このスレッドは、こうだ!と言い切れるものは無いでしょう。
人類と言う種族は、霊長類と言うほど知能も高く仲間を思いやる心もある。
一方で、独断と偏見が往来する社会でもある。

民主主義の名の下に、どうにも旨く行かない現象を根源的に捉える試みをしているサイトがあります。
「るいネット」と言いまして、膨大な記述を持っています。
その極々一部を紹介してみます。

http://www.rui.jp/
るいネット

>現存する哺乳類の大部分は(もちろんサル・人類も含めて)、原モグラから枝分かれした。現在の哺乳類の祖先である原モグラは約1億年前に登場するが、その時代は大型爬虫類の天下であり、原モグラは夜行性で、林床や土中に隠れ棲み、そこからチョロチョロ出撃するという、密猟捕食の動物であった(従って、現在でも多くの哺乳類は色盲のままである)。

>原モグラは、土中に隠れ棲むしかなかった弱者であり、それ故にいくつかの特徴的な本能を発達させている。中でも哺乳類の哺乳類たる最大の特徴は、弱者が種を維持する為の胎内保育機能(それは、危機ゆえに出来る限り早く多くの子を産むという、危機多産の本能を付帯している)である。しかし、卵産動物が一般に大量の卵を産み、その大部分が成体になるまでに外敵に喰われることによって淘汰適応を実現しているのに対して、胎内保育と産後保護の哺乳類には、適者だけ生き残ることによって種としてより秀れた適応を実現してゆく淘汰適応の原理が働き難くなる。そこで、淘汰過程が成体後に引き延ばされ、成体の淘汰を激化する必要から、哺乳類は性闘争=縄張り闘争の本能を著しく強化していった。実際、性闘争を強化した種の方が適応力が高くなるので、性闘争の弱い種は次第に駆逐されてゆく。かくして哺乳類は、性闘争を極端に激化させた動物と成っていった。モグラの場合、性闘争に敗け縄張りを獲得できなかった個体(=大半の個体)は、エサを確保できずに死んでゆく。

>この様に哺乳類は、淘汰適応の必要から性闘争の本能を極端に強化し、その性情動物質によって追従本能(いわゆる集団本能の中枢本能)を封鎖することによって、個間闘争を激化させ淘汰を促進するという淘汰促進態である。しかし、それはその様な大量淘汰態=進化促進態としてしか生き延びることができない弱者故の適応態であり、生命の根源本能たる集団本能を封鎖し、大多数の成体を打ち敗かし餓死させるこの極端に強い性闘争本能は、生き物全般から見て尋常ではない、かなり無理のある本能だとも言える。だからこそ、同じ原モグラから出発して地上に繁殖の道を求めた肉食哺乳類や草食哺乳類は、進化するにつれて親和本能を強化し、その親和物質(オキシトシン)によって性闘争本能を抑止することで追従本能を解除し、(尋常な)集団動物と成っていったのであろう。


【補足】追従本能
例えば、魚や鳥の群れが先頭をゆくものについて行く、鴨の子どもが親の後ろをついて行くなど、誰かの後を追いかけてゆく本能。群れで暮らす動物にそなわっている集団本能の一つ。

【補足】親和本能
例えば、お母さんが赤ちゃんに母乳を与えたり、だっこしたりすると母子とも落ち着いた気持ちになる。哺乳類で特に強化された、個体と個体とを仲良く結びつける本能。


※ ここまでは、外圧(自然環境、他種との闘争)が激しい古代に哺乳類が生き延びたのは、究極は弱者(メス)の種保存本能(子供を生む=性闘争本能)と言うことであった。
そかしながら、人類の人類たるところは、性本能による固体同士の弱肉強食を避け、共生のための親和本能を目覚めさせたことである。

※ 外圧の少ない現代社会において婚姻を嫌う人間が増えてきたことは、これとは真逆で種保存本能が著しく退化している現象と伺える。

>凄まじい外圧に晒され、共認機能(更に観念機能)を唯一の命綱として生き延びた人類は、共認を破壊する性闘争や自我を五〇〇万年に亙って全面封鎖してきた。実際、この極限状況では、人類は期待・応望の解脱充足を生きる力の源にしており、その充足を妨げ、生きる力の源を破壊する様な性闘争や自我が徹底的に封鎖されてゆくのは必然である。あるいは、絶対的な課題共認・規範共認によって(つまり、絶対的な共認圧力=集団統合力によって)、性闘争や自我が発現する余地など、全くなかったとも言える。しかし、人類は外圧を克服してゆくにつれて、極めて厄介な自己矛盾に陥ってゆく。

[補足]共認機能(意識)
共に認め合うこと。人類の集団や社会は、互いに課題を共認し、評価を共認し、役割や規範を共認することによって統合(=秩序化)されている。
 共認機能は、元々は不全から解脱する為に形成された機能で、相手の不全→期待と自分の不全→期待を重ね合わせ同一視することによって安心感や癒やしなどの充足を得る機能(=上記の充足回路)。つまり、相手(=自分)の期待に応えることによって、正確には期待と応合のやり取りによって充足を得る機能である。なお、この共認充足は、サル・人類の最大の充足源・活力源となっている。

>しかし、人類の同類闘争は、サルのそれとは全く異なる位相へと、人類を導いてゆく。サルは表情や身振りによって共認しているので、互いが見える集団内部でしか共認を形成することができない。それに対して、人類は観念共認によって集団を超えた共認を形成することが出来る。人類はバラバラにされた個体の私権闘争(その根源は性闘争)を、私権の共認に基づく私権の強制圧力によって統合し、観念共認による超肥大集団=私権統合国家を形成した。その点が、モグラやサルと違う点である。だが滅亡の危機を前にした今、それが人類の進むべき正しい道であったかどうかは、改めて根底から問い直されなければならないだろう。とりわけ、開けてはならないパンドラの箱を開けて性闘争を顕現させ、本源集団を破壊した性的自我については、充分に解明し総括しておく必要がある。

(引用終わり)

最後に私権という言葉が出てきます。

>一般的に、私権とは、私法関係における権利である。公権と対比される。

と言うことですが、るいネットでは、もう少し広範囲(哲学的にも)私権を定義し、私権時代と言う言葉で現代社会を見ています。
それに対して共認意識の復活を取り上げているようです。

るいネットを御覧になったこともあるかと思いますが、思念のための参考にするのは良いですが、理論に頼りすぎる彼らの行き着くところ(目標)は結局はマルクス、ヒットラーの独裁を生むカルトの記念性もあります。

話がややこしくなりましたが、加藤周一が煩悶する、思うようには行かないと言う遠因が、人類の本性にもつながると言うことを言いたかったのです。

要するに原始時代の爬虫類など他種の激しい外圧の下、性本能によるメスによる種の保護(私権)が第一優先事項でありました。
しかしながら、人類発祥後の500万年は、同時に共生のための親和本能に基づき集団を構成し人類は発展してきました。

現代社会では民主主義の名の下に文字通り私権が尊重され、社会(共生)の基盤が希薄になってしまっています。
多くの場合、為政者への不満は私権の延長でしかないのです。
現代社会の政治の退廃は、これに乗じたものとも言えるでしょう。
るいネットでは「共認意識」と言う言葉で私権時代によって失われた(希薄になった)共生の理念を求めている様です。

加藤周一の思いと同じように、糾弾掲示板でものを言う、私たちも何時も空しい気持ちに苛まれています。
ですが一方で、誰かが言い続けなければ、本当にそれが必要とされる時期に、誰もが気づくことも無いでしょう。

縁の下の力持ちでは在りませんが、日の目を見ない地味な努力と承知しながら止むに止まれない気持ちから続けています。

今回は、話が飛びすぎましたが、ポピュリズムと民主主義の問題は、さらに色々な角度から見ていきたいと思います。
メンテ
加藤周一のジレンマ 2 ( No.3 )
日時: 2019/03/27 11:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Lq9tcgV.

前回はすこぶる回りくどい言い方になりましたが、平たく言えば次のようなことです。

民主主義の名の下に現代社会は個人が中心になりすぎ、政治のことなど共生のための理念は二の次、三の次となってしまいました。

全く関心が無いわけでもありませんが、あくまでも私権(個人)が第一優先なのです。

社会のあり様に危機感を持った人が幾ら説いても聞き流されるだけで反応はしないでしょう。

これが現代社会なのです。

「るいネット」の話を取り上げましたのは、彼らは現状認識で諦めず、1億年も遡って、哺乳類、人類の根源体質を探っています。

結果は同じようなことですが、彼らの執心には脱帽です。

「るいネット」の文章では、私権が優先された時代は、爬虫類などの外圧の恐怖のなかでメスはともかく種の保存本能で行動し、それが種を存続させてきました。

それが(外圧)が落ち着くと、霊長類と言われるような種は、親和本能(集団)を大切にし、それで発展をしてきました。

現代社会において、民主主義の名の下に、個人個人は個人の権利、自由に走り、集団としての共生の理念には関心を持ちません。

個人情報秘匿のためか玄関に表札も出さずに郵便物、宅配のサービスを要求している始末です。

個人の権利、自由を求めるならば、それに比例する社会のルールも知らねばなりません。

原始時代に私権(性本能)が優先されたのは、外圧からの種の保存と言う名目がありました。

私権だけでは集団としての種が成り立たないことは「るいネット」の歴史の考察でも明らかです。

個人の権利、自由も大切なことですが、それが認められるのは、その様な社会があってからのことです。

私権を追い求める代わりに社会を潰してしまっては何も残りません。

私権が全ての時代とは、文字通り、弱肉強食の原始時代に遡るということであり、社会の否定です。

自分自身の欲得を求めるのも良いですが、それならば、無差別殺人を犯す人たちにも、その私権を認めねばなりません。

人間としてより良き社会を求めるならば、私権だけにこだわりすぎると結局は社会を壊し不幸になるだけと認識していただきたいもの。

全ての人間に社会を憂う発信を求めてはいませんが、少しは警鐘となる言葉に関心を持っていただいもの。

政治に関心を持っていただきたいもの。
メンテ

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