ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[314] 宗教とは何か
日時: 2009/10/30 11:44
名前: 天橋立の愚痴人間

「アメリカ研究<ピューリタニズム」スレッドでの返信ですが、宗教論として別のスレッドの方がよいと思いましたので立上げました。


「宗教とは何か」と言う問いに下記のような説明がある。

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則とい
う象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻
く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、
生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生
じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期
待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。


ただし、これは宗教の外見上(教団の存在)の概念については理解できるが、宗教そのものについての説明には乏しい。
概略すぎて申し訳けないが、歴史的に宗教のことを追ってみよう。

(呪術の段階)

宗教は最初、アニミズムやシャーマニズムと言う形で、生産の為の自然崇拝から始った。やがてそれが一神教とか多神教の形で神という概念を創り出した。
この段階では、個人及び生計を共にする小集団がその不安に対応するために宗教活動を行うのが中心であり、そのうち指導者が長老とか呪術者という形で出てくる。

(古代宗教の段階)

その後社会が発達し、人間の生活単位が部族から民族へ、さらに国家と広がるに従い宗教のあり方(宗教によせる気持)も複雑化し大規模となり、部族神、国家神の形をとることになる。
古代エジプト王国などは、その究極の形である。
此処では王は宗教上の最高権威でもあり、宗教は個人及び生計を共にする小集団の宗教的願いを包括しながらも統治の為の要素も宗教活動の中に入ってくる。
この時代の国家は純粋な宗教国家と言える。

続く
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

Re: 宗教とは何か 親鸞の「浄土真宗」も最初新興宗教だった ! ( No.46 )
日時: 2018/07/31 16:07
名前: 日本貧民党 ID:KwJ9KICE

宗教とは、端的に言って「人間の苦悩を取り除く事を説く教えである」と私は理解して居ます。

人間は、この世に在って日々暮して居る時は、色々の煩悩によって《悩み》《苦しみ》《怒り》《悲しみ》を重ね、その隙間に少々の《喜び》も感じます。そして究極の<恐怖>は『死』で、その死に対する恐怖が一番大きく人間を悩ますます。それが人間の最も大きな≪苦悩≫即ち『煩悩』なのですが、何れの宗教もこの煩悩を解脱する事を目的として生まれました。

大体13世紀の初頭に、親鸞が師である法然の「浄土思想」の教えを受け継いで、更にそれを発展させ『浄土真宗』成る教えを開宗したのですが、奈良から鎌倉に掛けての『古宗』と比較して、日蓮の開いた『日蓮宗』同様、はじめは<新興宗教>扱いをされて、かなり弾圧も受けました。親鸞も日蓮も、がんこに粘り強く自分の教えを貫いたので、今日がある訳ですが、これ等は後世の弟子たちが教義を整備して、宗派の教義を確立し、経典を依所する事をして居ます。

そして、ここら辺りまでが古義の宗教ですが、それ以後の新興宗教は金儲けの「騙し宗教」以外の何物でもありません。そして前稿でも書きましたが、トップの教祖が一番金を設け、その下教祖に近い順に実入りが良いと言う、ねずみ講に似た機構に成って居るのです。こんなもの入信する奴は、其れこそ全くの「自己責任」ですから、我らの知った事ではありません。

もう一つ、既成宗教は「往生安楽」即ち「死後の平安」を願う者ですが、新興宗教は「現世利益」(げんせりやく)を祈る物で、煩悩からの解脱どころか、煩悩を益々増長させる物なのです。そしてこれが何より欲深い現代人を引付ける理由であるのです。

「ごりやくを受けたければ、どんどん寄進をしなさい!」と言われて貧しい庶民はなけなしの金を寄進するのです。全く以て、宗教をネタにした詐欺なのです。公然と認められた〈振り込め詐欺〉と同じなのです。「ごりやくが無いのは信仰心が薄いからだ!」です。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.47 )
日時: 2018/10/22 12:50
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

「宗教とは何か」という問いかけを繰り返してみます。
もちろん、以下の文章で「宗教」そのものが語れているとは思いません。
理屈で宗教を定義してみても始まらないからです。
それを見てみる為に、最初の頃の文章を再掲載します。


「宗教とは何か」と言う問いに下記のような説明がある。

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則とい
う象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻
く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、
生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生
じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期
待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。


ただし、これは宗教の外見上(教団の存在)の概念については理解できるが、宗教そのものについての説明には乏しい。
概略すぎて申し訳けないが、歴史的に宗教のことを追ってみよう。

(呪術の段階)

宗教は最初、アニミズムやシャーマニズムと言う形で、生産の為の自然崇拝から始った。やがてそれが一神教とか多神教の形で神という概念を創り出した。
この段階では、個人及び生計を共にする小集団がその不安に対応するために宗教活動を行うのが中心であり、そのうち指導者が長老とか呪術者という形で出てくる。

(古代宗教の段階)

その後社会が発達し、人間の生活単位が部族から民族へ、さらに国家と広がるに従い宗教のあり方(宗教によせる気持)も複雑化し大規模となり、部族神、国家神の形をとることになる。
古代エジプト王国などは、その究極の形である。
此処では王は宗教上の最高権威でもあり、宗教は個人及び生計を共にする小集団の宗教的願いを包括しながらも統治の為の要素も宗教活動の中に入ってくる。
この時代の国家は純粋な宗教国家と言える。


(世界宗教の段階)

古代国家の終わり、起源前、1000〜2000年のころになると、人間の生産力もあがり、国家としての集団生活も安定してくると、人々は「人間とは何か。「宇宙とは何か」と言う領域のことにも興味を持つようになり、国家の枠組みを突き抜けた思考をするようになる。
形而上学的な哲学が興り、宗教も国家を逸脱し万人を対象とする理念が現われた。
それが、現代まで続いているキリスト教であり、イスラム教、仏教の発祥となって、くしくも起源前1000〜起源年の間に一斉に現われた。

最初に述べた「宗教とは何か」と言う問いにたいして、キリスト教については、教父と言われているアウグスティヌスの次の言葉で総括することにする。
「告白』という書物の冒頭で、「(主よ)、私たちの心は、あなたの内に安らうまで、安らぎを得ません」と述べ、キリストの教えを信じて初めて魂の安らぎを得たと告白している。
その前提に彼は「人間は貴方(神)に似せられて造られている」言っている。
言い替えれば、キリスト教の教義は、人々は、キリストの教えに学ぶ(キリストに近づく)ことで心の安寧を得るということに集約できる。

一方、同じ一神教であるイスラム教では、アラーの神に忠誠を求める。人々はそのアラーの戒律をひたすら守ることで心の平安を得ることとされている。
そのためにイスラム教の社会は、信仰という領域で中央集権的な様相が強く、ために宗教と国家が結ぶ付くことが多くなる。
イスラム教を信仰する国民の比率が多くなると、結びつかざる要素があるのである。

これに対して多神教社会で発達してきた仏教の世界では少し様相が異なってくる。
起源前5世紀に現われた仏陀の教えは「この世を苦しみ・迷いの世界と見、苦行にも悦楽にも偏らない正しい実践によってそこから脱け出ること、さらには迷いに沈む生きとし生けるものを救うことを目ざす」ことであった。
仏陀の教えの境地に達することを「解脱」と言い、それによって「涅槃」の世界へ導くことが教義とされている。
要するにキリスト教、イスラム教がひたすら神との関係を強調するのに対して仏教では各自の修練を求め、それによって各自は平安が得られるというものである。
また、仏教の世界観では「輪廻転生」を言う。これも先の2宗教とは根本的に異なり、生(人性)を宇宙の流れの中に位置づけている。
人々は個人であって個人でないのである。

このように我々が宗教と言う概念で捉えるのは世界宗教(アーノルド・トインビーは高等宗教と名づけている)のことであって、2000年の間、人類はこれに基づいて輝かしい発展の歴史を作ってきた。
ところが、この間の科学技術の発達と、それに伴って結実した経済の発達は人間社会自身の悩みを変質させることになった。


(現代の状況)

科学技術の発達は人間の不安感から多くの物を取り除いた。
疾病は医学により克服し(不死の病に取り憑かれたり永遠の生を求める場合は該当しないが)、生きる為の糧は概ね自由に手に入る。
地震、台風などにもシェルターを準備し国家が守ってくれる。

人々が宗教を要するのは、自らが心理的困難に直面したときだけであり、それも自然的脅威は殆どなく、自ら引き起こす精神的齟齬に起因する場合が多い。

この場合、宗教の入る隙間は個人的カウンセラーの領域に押し込められている。
どちらかと言えば、宗教を求める発端は個人的なものであるはずなので、それでも良いとも言える。
一方で世界宗教が現出した意義には、個人、国家の枠組みを超えた人間社会の安寧を求めることが大切な要素でもあると思うが、実はこの面でも現代の宗教のあり方が変容してきている。

実質的に巨大組織となった各教団は、その存在意義の為に活動することが目的となることが多い。
タリバンに代表されるように、イスラム教では、宗教国家そのものを目指し、他の宗教も少なからず政治的分野で発言力を持つ事で自分の教団組織の伸張を図ろうとしている。

宗教そのものの理念とは違っても、昔から宗教と国家の関係は排除できないものであった。
であるが、宗教そのものが変質してきている現在、政治、国家との関係もそれに応じて見直されているのであろうか。

現代の宗教自身が社会の変化に十分に対応できているとは思えない。そうであるなら単に政治、国家との関係を構築することに精力を注ぐのは間違っている。
創価学会などのありようが、それを一番物語っている。

総括として、現代の宗教は世界宗教が興った時のように、人間、及び人間社会に救済の手を差し伸べることを目的とした、清新な慈愛の精神に欠けるところがある。
欠けるというよりも、旧来の教義では人々を導けなくなってしまっているのではないか。
これは、宗教の側が変質すべきか、宗教を逸脱した人間の方が修正すべきか、そのことは別の問題として検証しなければならない。

最後に、表題のピューリタニズムのことであるが、アメリカ建国時のピューリタニズムはまだしも、現代社会において、単純にそれを引きずっていることが正解であろうか。
キリスト教の教義としてのピューリタニズムは、宗教的には生きているとしても、国家、今や世界との関係においては、それがより政治的、経済的に利用されているとも考えられる。

メンテ
古代宗教の神々 ( No.48 )
日時: 2018/10/22 16:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

古代宗教の神々を紹介します。


>エジプトの神

エジプト神話は、特定の開祖が存在しない多神教であり、信仰される神々は、自然現象などを神格化した自然神である。一部、実在した王を神格化した人物神もいると言われるが、断定的な説はない。多くの場合は動物の姿、あるいは動物の頭を持つ人間の姿で表される。

時代が下るにつれて、古い神は他の神に役割を奪われたり、習合して一つの神になったり、神話から姿を消したりすることがあった。例えば、代表的な太陽神であるラーは、後にアメンと習合した。逆に、複数の神々が同じ役割を担うこともあった。例えば世界の創造主としては、後述のようにアトゥム、プタハ、クヌム、オグドアドなど様々な神が信仰された。
エイジプトの神々
アク (Akh):霊魂の相。死後カーとバーの結合により生じる。後期にはカーの分裂によりバーと共に生じると信じられた。
アケル (Aker):地平線の神格化。太陽と2頭の獅子(昨日と明日)に囲まれた盥。
アステン(Asten/Astes)
アテン (Aten/Aton):無数の手を持つ円盤の姿の神。
アトゥム(Atum)
アナト(Anat)
アヌケト(Anuket/Anukis):氾濫するナイル川の女神。名称は「(大地を)抱くもの」に由来。
アヌビス (Anubis)
アピス(Apis)
アポピス(Apophis)
アメミット (Ammit)
アメン(Amen/Ammon)
アメント(Ament):アメンの女性形。鷹頭/駝鳥頭で、しばしば有翼の太母神。
アンクト(Ankt):小アジアの戦女神
アンジェティ(Andjety):アンジェト(Gr. ブーシリス)の主神。死者の統治、再生を司る。
イウサアース(Iusaaset/Saosis(項目 Atum 参照)):アトゥムの影にして妻神。
イウニト(Iunit)
以下多数

>ギリシャの神

ギリシア神話は、以下の三種の物語群に大別できる。

世界の起源(→世界の始まり)
神々の物語(→オリュンポス以前、オリュンポスの世界)
英雄たちの物語(→人間の起源、英雄の誕生、英雄の神話)
第一の「世界の起源」を物語る神話群は、分量的には短く、主に三つの系統が存在する(ヘーシオドスが『神統記』で記したのは、主として、この「世界の起源」に関する物語である)。

第二の「神々の物語」は、世界の起源の神話と、その前半において密接な関連を持ち、後半では、英雄たちの物語と絡み合っている。英雄たちの物語において、人間の運命の背後には神々の様々な思惑があり、活動が行われ、それが英雄たちの物語にギリシア的な奥行きと躍動を与えている。

第三の「英雄たちの物語」は、分量的にはもっとも大きく、いわゆるギリシア神話として知られる物語や逸話は、大部分がこのカテゴリーに入る。この第三のカテゴリーが膨大な分量を持ち、夥しい登場人物から成るのは、日本における神話の系統的記述とも言える『古事記』や、それに並行しつつ歴史時代にまで記録が続く『日本書紀』がそうであるように、古代ギリシアの歴史時代における王族や豪族、名家と呼ばれる人々が、自分たちの家系に権威を与えるため、神々や、その子である「半神」としての英雄や、古代の伝説的英雄を祖先として系図作成を試みたからだとも言える。
ギリシャの12神
ゼウス
ゼウスの妻ヘーラー[2]
ゼウスの娘アテーナー[3]
アポローン
アプロディーテー
アレース
アルテミス
デーメーテール
ヘーパイストス
ヘルメース
ポセイドーン
ヘスティアー

>インドの神

ヒンドゥ教における三大神とは、シヴァ、ビシュヌ、ブラフマーである。それぞれ、シヴァは破壊、ビシュヌは維持、ブラフマーは創造を司るとされている。

三大神が確立されたのはおそらく紀元前後のことだが、このうちブラフマーにたいする信仰は早い時期に衰退し、現在、ヒンドゥ教は大きく、シヴァ派とビシュヌ派に二分されている。

アグニ
インドラ(帝釈天)
アシュヴィン双神
チャンドラ (英語版)
ピシャーチャ
ヤマ(閻魔)
ローカパーラ
デーヴァ
ヴィシュヌ[注釈 2]
クリシュナ(K天)
シヴァ
サラスヴァティー[注釈 3](弁天)
ドゥルガー
クベーラ(毘沙門天)
ハヌマーン(大猿王)
ラークシャサ(羅刹)
ラーヴァナ
インドラジット(メーガナーダ)
ナラクーバラ(哪吒)
ヤクシャ(夜叉)
ハーリティ(鬼子母神)
以下多数

>メソポタミアの神

メソポタミア神話(メソポタミアしんわ)はシュメール人、東方セム語アッカド人、アッシリア人、バビロニア人と後に移住してきたアラム人カルデア人の信仰した宗教であり、彼らの共有し、発展させた神話体系である。

アンシャル

天の神。
キシャルの夫。
新アッシリア時代になると、アッシュールと習合された。

イシュタル
愛と美の女神。戦・豊穣・金星・王権など多くの神性を司る。
シュメール神話のイナンナが変化したものだと考えられる。

イナンナ
金星、愛や美、戦い、豊穣の女神。
イシュタルの原型ともいえる女神。

エンキ
工芸、水、知性、創造を司る神。

シヤマシュ
太陽神。

ナブー
知恵と書記の神。

アヌ(アンとも)

天空や星の神であり、世界の礎を築いた神々の王。
アプスー

地底に存在すると考えられていた淡水の海を擬人化したもの。
あらゆる淡水を司るといわれる。
ティアマトの夫。お気に入り詳細を見る
アッシュール

アッシュール市そのものが神格化された神。
エンリル

ニップールの守護神で風の神。

キシャル

アンシャルの妹(または姉)であり妻。
大地を司るため、地母神とも考えられている。
キングー

ティアマトの息子の一人にして第二の夫。
シン

月神。
ティアマト

原初の海の女神。
あらゆる塩水を司るとされる。
アプスーの妻。お気に入り詳細を見る
ナンム

シュメールにおける、海の女神。
天地を生んだ母、全ての神々を生んだ母なる祖先とされた。
ニンリル
メンテ
ユダヤ教 ( No.49 )
日時: 2018/10/22 16:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

古代の神々で見たように古代の神は全て多神教としての神々であり、名前はことなるが、人々の日常生活に起因する自然神であった。
人々は日常生活の不安や願い事を神様に託していた。
ギリシャの神々などは、現代哲学に通じる哲学的な意味を持っていた。

それに対して紀元前13世紀になると、ユダヤ教としての一神教が登場する。
ユダヤ教は旧約聖書出エジプト記にある様に世界を放浪しなければならなかったユダヤ民族の存亡をかけた戒めでもあった。

ユダヤ教は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェを神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。

ユダヤ教では、改宗前の宗教に関係なく、「地上の全ての民が」聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる、と考える。「改宗者を愛せ」という考え方は、次のようなことばにもみることができる。

内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在すると考える傾向(特にハシディズムに良く現れる概念)があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない。

ユダヤ教徒はタルムードと呼ばれる教典に従って行動すると知られている。
7つの戒めとは、タルムードの記載によれば神がノアを通じて全人類に与えたものといわれる七つの戒めのことである。7つの戒めを守ろう道もユダヤ教並の神へ帰る道であるとされる。

教育
ユダヤ教において最も特徴のある分野は教育であり、ユダヤ教徒は教育こそが身を守る手段と考え、国を守るには兵隊を生み出すよりも子供によい教育を受けさせるべきとされている。そのため一般大衆のほとんどが文盲だった紀元前からユダヤ人の共同体では授業料を無料とする公立学校が存在していた。平均的なユダヤ教徒は非常に教育熱心で、子供をよい学校に行かせるためには借金をすることも当然と考える。家庭では特に父親の存在が重要で、先導して子供に勉強、タルムードなどを教え、子供を立派なユダヤ人に育てたものは永遠の魂を得ると信じられている。また子供が13歳に達するとバル・ミツワー(成人式)の儀式が行われ完全に大人と同様と扱われる。

死生観
一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。

カバラ神学では、魂は個体の記憶の集合体であり、唯一神はすべての生命に内在し、ただ唯一神様は永遠の魂(命の木)である。個体が善悪を分かち、銘々の記憶は神様へ帰っている。神様はただ記憶を収集し、善悪を分かたない。神様では、善の記憶が再創造の素材になり、悪の記憶がなくなる。

カバラではそのような寓話がある:毎年贖罪の日ではすべての生命は死んで、生き返り、悪もなくなる。(あるいは、毎年角笛吹きの祭から贖罪の日までの間にすべての生命は死んで、記憶が神様へ帰った。贖罪の日から光の祭りまでの間に神様は再創造し、善の記憶がすべての生命へ帰った。)死亡はただ贖罪の日と同じである。

労働
労働は神の行った行為のひとつであるため、神聖な行為と考えられている。そして、安息日と呼ばれる休日を週1回は必ず行うべきであり、安息日の間は労働はしてはならず、機械に触れてもいけない。自分自身を見つめ、自分と対話したり、家族と対話したりする。

人間は創造主の代わりに労働をする存在として作られたとされる。 労働により得た賃金や物質は一部を創造主に捧げなければならない。


ユダヤ教では性衝動や性行為は自然なもので、必要悪と見なすことは無い。 夫婦の性行為はそれを捻じ曲げることがむしろ罪であるとされる。 また、快楽を伴わない性交は罪とされる。

ただし妊娠・出産を重視する教義のために、保守的な派閥の一部には、自慰行為を悪とみなす意見が存在する。

男性の同性愛は戒律を破ることとされる。女性の同性愛は戒律を破らない。

ユダヤ教はユダヤ民族を念頭に置いたものであったが、ここからキリスト教、イスラム教と言った世界宗教としての一神教が成立した。


メンテ
一神教の世界 ( No.50 )
日時: 2018/10/22 17:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

一神教の基本はある意味きわめて単純明解です。神の教えを絶対なものとして信じ、それに沿った行動を行えばよいのです。その教えも聖書やコーランに明記されていて、実にわかりやすいものです。

具体的には人々は個人的に神と契約していると言う形で存在します。
キリスト教で行う懺悔の儀式も告白もその表れですし、イスラム教徒が行う1日5回の礼拝の儀式などもそうです。

私は映画や動画などでより知りませんが、キリスト教圏の人々は困難に直面したとき、良く「神を信じるか!」と言う設問をします。
概ねは信じるという答えの様ですが、具体的に神の何を信じるかは語られません。
神が奇跡を起こして自分たちが救われるなどと言う事でしょうか。
キリスト教には確かに奇跡の伝承がありますが、宝くじに当たる以上に、万に一つもないその奇跡を期待して信仰している訳でもないでしょう。
それに対してイスラム教徒の間では、困った時の神頼み的な信仰意識ではなく常にアラーの神への服従を誓います。

ですので、イスラム教を突き詰めると、国家の規範よりもアラーの神との契約が優先し、国家の規範の方が従属させられると言えます。結果、宗教国家として現れる事は現在のイランやタリバンの存在で解るでしょう。

まあ、中世のキリスト教も宗教国家を成していましたが、キリスト教とイスラム教の唯一神との契約内容が微妙にことなるので結果が違ってきます。

聖書は以下のような文言がズルズルと続きます。

マタイによる福音書
山上の垂訓

第6章
6:1
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8
だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
6:9
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
6:10
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
6:11
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。

(終わり)

問題は如何に膨大な文章で示しても人間の行動を包括する事は出来ないのです。
逆に捉えれば、キリスト教を信仰すると言う事は、イエスの教え(聖書)守ると言う事は、聖書に該当しない部分については自由に判断することが出来ると言う事になります。
だから概ねのキリスト教徒はイエスの教えを敬い、また具体的な教えがなかってもイエスの教えの延長でものを考えるでしょう。
ですが、信仰の仕方もいろいろで、イエスの直接の言葉の無い部分は我欲を押し通す人間も出てきます。
具遺的に言えば、中世ヨーロッパの侵略戦争、植民地経営などは、イエスの教えを広く当てはめるとやってはいけないことのはずです。
現代社会においてもユダヤ金融資本の世界経済支配は、決してキリストが望んだ社会ではないでしょう。
ですが彼等はキリストの名において、当然の様に行い反省をしません。
キリスト教は人類全体の規範であると言うよりも個人の生き方の基本であると言う証拠です。
そう言う意味で世界の政治に影響する、ローマ法王の存在など、実に偽善的と言えるでしょう。

イスラム国家の現状を見ても、宗教が政治を掌握する事は認められません。
しかしながら、キリスト教の教えがあれば、キリスト教的世界観の基づいていれば世界が幸せになると言う錯覚は持ってはいけない事と思います。

これも具体的に言えば、西欧、アメリカでは裕福な人間の寄付行為が社会的な善行と認められ推奨され称賛を受けることが人々に受け入れられている事です。
無条件の寄付行為であれば良いのですが、そうした裕福な人たち、企業は強引な金儲けをした結果であり、それを許さない社会の規範作りの方が求められるからです。

もちろん、全ての寄付者が、その様な強欲人間とは言いません。
ですが、アメリカの様な寄付社会を漫然と受け入れている様では本当の社会改革にはなりません。

キリスト教はイスラム教と同じく世界を席巻している宗教です。
しかしながら、そのキリスト教国による世界史は略奪と殺戮の世界史でもあった事も忘れないで置きたいものです。

ここでは一神教社会の有り様を書きましたが、日本、インドの様な多神教社会では、どのような事が言えるのでしょう。


メンテ
多神教 ( No.51 )
日時: 2018/10/22 20:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

その名のとおり多神教では多くの神々が崇拝され、それゆえに同じ宗教の中での信仰形態も多様である。また、特定の一神(主神)が最も高位にあると考え、主神を崇拝の中心とするものを、多神教的一神教と呼ぶことがある。

多神教とされているもの。

日本神話・神道
琉球神道
仏教
道教
中国神話
ヒンドゥー教
インド神話
ギリシア神話
エジプト神話
北欧神話
ケルト神話
ハワイ神話

この内、仏教、神道、ヒンズー教は現存している多神教であるが、神話、伝説として今なお人々の間に生きている神もいます。

一神教と多神教を比較してみましょう。

>一神教の成り立ち

予言者や開祖によって誕生します。

>多神教の成り立ち

自然や動植物などあらゆるものに魂が宿ると考える『アミニズム』から自然に誕生します。

>一神教の性質

神は完全なものであり、人知を超えた全知全能の存在です。
もちろん、たったひとりの神なのでパーフェクトでなければなりません。

>多神教の性質

一方で多神教の神は、それぞれ得意分野があります。
さらにはいい神だけでなく、悪い神だって存在します。

ざっと、この様に言えます。
ところでキリスト教、イスラム教の様に、多神教として現在まで活動している仏教について触れておきましょう。

紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。

>世界観

仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるネパールの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている。人の一生は苦(ドゥッカ、ストレスフル)であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。

仏像や仏閣などは仏教が伝来した国、そして日本でも数多く見られるが、政治的な目的で[要検証 – ノート]民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。

>輪廻転生・六道・仏教と神

仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

また、神(天)とは、仏教においては天道の生物であり、生命(有情)の一種と位置づけられている。そのため神々は人間からの信仰の対象ではあっても厳密には仏では無く仏陀には及ばない存在である。仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教であった。時代が下るにつれて開祖である仏陀、また経典に登場する諸仏や菩薩に対する信仰を帯びるようになるが、根本的には信仰対象に対する絶対服従を求める態度は持たない。仏教における信仰は帰依と表現され、他宗教の信仰とは意義が異なっており、たとえば修行者が守るべき戒律を保つために神や霊的な存在との契約をするという考えも存在しない。

次には一神教であるキリスト教などと異なる仏教の世界を見ることにします。
メンテ
仏教 ( No.52 )
日時: 2018/10/22 21:02
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

お釈迦さまは「創造主」でも「神の子」でも「預言者」でもなく、世の中の真理・理法に「気がついた人」という感じになるだろうと思います。仏教の教えは、お釈迦さまが考えて作ったものでもなく、誰かからお釈迦さまに特別に授けられたものでもないわけです。
 お釈迦さまは未踏峰の山に初めて登ったというような「偉大な先駆者」的な位置づけでしょうか。

 仏教ではかなり初期から、このことははっきり認識されていて、お釈迦さまが悟った事柄は、お釈迦さまが悟ろうが悟るまいが元からあったもの(=この世の普遍の真理である)とされています。
 
 経典や論書は法を説くのと同時に法に近づいて行くための「手段」としての役割を負うため、いろいろな説き方が可能だ(手段は多い方が良いだろう)と考えられたということになるのだろうと思います。
 
宗教としての仏教は、その後に小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教へ別れて行きました。

仏教とは本来修行して悟りを得ることを目的とした宗教です。で、その本来の教えに忠実に修行をしようというのが上座部仏教です。
それに対して、修行者が仏教の精神を広く説くことにより、人々が修行せずとも仏教を信仰することは可能だと説くのが大乗仏教です。
上座部仏教は別名を南方仏教といい、主にアジア南方(タイやカンボジアなど)に広がり、大乗仏教は日本・中国・韓国などに広まりました。
ですから、タイなどでは純粋に仏教を信仰しているのは僧だけで、他の人々は僧を尊敬しその修行を支えているというわけです。そのため、タイなどではお坊さんが人々の尊敬を集め、身分が高いとされているのです。

その釈迦が、どのような教えを説いているか見てみましょう。

釈迦は2500年前に、天竺国(てんじく、現在のインド)の北部、ヒマラヤ山麓(現在のネパール付近)を治めていた釈迦族の王・浄飯王(じょうぼんのう)と、その記・摩耶夫人(まやぶにん)の間に生まれた王子で、姓をゴータマ、名をシッダッタといいました。

釈迦という呼び名は、その出身である釈迦族からとったものです。後に、真理に目覚めてからは仏陀(ぶつだ)、または、"釈迦族の聖者"という意味を持つ、釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)あるいは略して、釈尊(しゃくそん)と呼ばれるようになりました。

その「仏陀」の”教え”が、すなわち<<仏教>>という訳であります。

釈迦は人生について悩み、29歳の時に「さとり」を求め出家しました。そして、想像を絶する苦行の数々を行いました。そして考えました。極端な偏りは何も生み出さない。王子時代の快楽の日々、修行時代の苦行の日々、これら極端な偏りはいけない。真理をとらえる為には、その中程を貫く過程――「中道(ちゅうどう)」が大切ではないかと気が付きました。そして、出家してから6年目にあたる、35歳の時に真理に目覚め「仏陀(ぶつだ)」となりました。さとりを開いた仏陀は、教えを広める伝道生活を送り、やがて80歳で入滅しました。

「中道」 何事も両極端はいけない、ほどほどが良い <考え、行動、・・・>

★ 人生は四苦八苦、「迷い」や「執着心」を断って、「考えすぎない」のが一番だと悟った。

釈迦の教えは、縁起、四諦、八正道から成り立っています。
 
縁起(えんぎ) 物事がお互いに関係しあっているという意味

釈迦は、人生は苦であり、苦の根本的な原因としは、「無明(むみょう、無知、迷い)」、無知である為に迷い、迷う為に物事に対して「愛(愛憎の念)」をもち、それに対して「取(執着)」し、執着する事で苦しむと考えました。四諦、八正道でこの無明から抜け出す方法を説いています。

四諦(したい) 苦という人生の本質、苦の原因、原因の消滅、苦の原因を取り除く方法

苦諦(くたい)
苦に関する真理。人生とは本質的に苦であると説いています。
 
集諦(じったい)
原因に関する真理。人生が苦である事の原因を明らかにしている
 
滅諦(めったい)
原因の消滅に関する真理。苦の原因である煩悩(ぼんのう)の消滅が苦の消滅です。
 
道諦(どうたい)
道=実践(方法)に関する真理。苦の原因を取り除く方法を説いています

八正道(はっしょうどう) 道諦をさらに詳しく説いた八つの正しい道(方法)

この方法を修行を積む事により、煩悩(ぼんのう)をなくし、結果として苦を克服する事が出来ます。
1. 正見(しょうけん) 我の意識を離れ、正しく物事を見る事。
 
2. 正思惟(しょうしゆい) 正しく物事の道理を考える事。
 
3. 正語(しょうご) 真実のある正しい言葉を語る事。
 
4. 正業(しょうごう) 正しい行為。間違った行いをしない。
 
5. 正命(せいみょう) 正法に従って清浄な生活をする事。
 
6. 正精進(せいしょうじん) 正しく目的に向かって努力する事。
 
7. 正念(しょうねん) 邪念を離れて正しい道を思念する事。
 
8. 正定(しょうじょう) 正しく精神を集中して安定させる事。

後世の多くの経典は、何千とも言われていますが、宗派によっていろいろな形はありますが、釈迦の教えを説いたものです。
それ故、宗派はあっても宗派の対立は過激なものではありません。
特に大乗仏教が盛んな日本では、庶民も理解しやすい 和讃、御詠歌の様なものもあります。

その一つ般若心経と菩提和讃を紹介します。


●魔訶般若波羅蜜多心経

>@観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

観世音菩薩が深遠なる智慧の完成のための修行をしていたとき、物質や肉体、そして精神を構成する五蘊はすべて空であることを悟り、すべての苦悩や煩いを克服した。

>A舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。

舎利子よ、すべての色(姿形のある物質や肉体)は空であり、空は色にほかならない。
色はすなわち空であり、空が色なのだ。色以外の五蘊の要素である受(感受作用)、想(観念)、行(認識形成作用)、識(識別作用)もまた同じである。

>➂舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

舎利子よ、この世に存在するすべては実体のない空を特徴とする。だから生じも滅しもせず、汚いもきれいもない。増えも減りもしない。

>C是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。

それゆえ、空のなかには色はなく、受・想・行・識もない。また、感覚器官である眼・耳・鼻・舌、さらには身も心もない。感覚の対象である色形や音、香、味、触感、観念でとらえる物事もない。感覚と対象の間にある限界や意識会といった認識世界もない。

>➄無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智・亦無得。

苦の根源である無明もないし、無明が尽きることもない。無明が原因で起こる老死といった苦もないし、またそれが尽きることもない。悟りに至る道である四諦もない。智慧もなく得るものもない。

>E以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。

このように得るものもはなにもないゆえに、大乗仏教の道を極める菩薩は般若波羅蜜多(智慧の完成)を実践する。ゆえに心に妨げや執着がない。妨げや執着がないゆえ恐れるものも何もない。一切の誤った考えから遠く離れているので、涅槃の境地を究めている。

>F三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。

三世(過去・現在・未来)の諸仏も般若波羅蜜多を実践したことで、最上の悟りを開いた。

>G故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。

ゆえに知るがよい。般若波羅蜜多は、偉大な真言であり、無上の真言であり、並びなき真言である。一切の苦を除くことができる真実で虚妄のないものである。

>H故説、般若波羅蜜多呪即説呪曰

ゆえに般若波羅蜜多の真言を唱えよう。
それは、すなわち以下の真言だ。

>I羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。

>J般若心経

至れり至れり、彼岸に至れり、完全に彼岸に至れり。
これが悟りである。



●菩提和讃(ぼだいわさん)

若し人三世一切の仏を知んと欲すれば、法界性を観ずべし。
一切唯心造なりと、衆生おのおの仏性を、受けて生まれしものなれば
一念不生に至るとき、忽ち仏性現前し、老若男女もろともに、その身が即ち仏なり。

しかるに一念迷い初め、本有の仏性見失い、みずから凡夫となるゆえに貪り瞋り痴さの、煩悩しげき三毒に、闇き迷いの日々となる。
また色声香味触と五欲の悦楽追い求め、刹那の夢に酔いしれる
殺生偸盗邪淫慾、悪口両舌綺語妄語、破戒無懺の輩に、いつか救いのありぬべき。

それ人間の身を受けて、この世に生まれ来ることは、爪の上端に置ける土。
まして尊き仏法の、教えに親しく遇うことは、まこと得がたき縁なり。
かかる時節を失わず、信心決定いたすべし。

人々賢き智慧あれば、春は万の種を蒔き、秋の稔りを待つのみか、衣服家宅に至るまで、遠き計画立てながら、今をも知れぬ後の世の、永き冥路を打ち忘れ、空しく過ごすぞ愚なり。
無常の風に誘われて、忽ちこの世を終るとき、何を頼みとなすべきや、あまた資産のあるとても、冥途の用にはならぬもの。
家財重宝持つ人も、携え行くべき途ならず、偕老比翼の契いもしばし浮世の夢ならん。
兄弟朋友ありとして、伴い行くことさらになし、出入りの息の絶えぬれば、野辺の送りを営みて、老いも若きも仇野の、空の煙と消え失せん。
朝夕撫でし黒髪も、蓬が根の塵となる。
かかる憂き目のあるゆえに、ひたすら菩提を願うべし。
弘誓の願を身につけて、忍辱精進怠らず、布施や愛語にこころざし、十善の道歩みつつ、他己をも自己と覚るならば、これぞ菩薩の浄土なり。

観世の慧眼明らかに、弘く衆生に回向して、ともに濁世を渡るべし。
尚ぶらくは人間の、受くる形はそのままに、仏の姿にかわらねば、本来より具えし霊明の、一仏心に覚むとき、この身すなわち仏にて、仏が仏を念ずれば、一声唱うる称名も、諸仏の浄土に通徹す。
日々仏に近づきて、礼拝供養も懇ろに、香花燈燭とりささげ、粥飯茶果等供えつつ、身口意三輪浄らかに、称名念仏経陀羅尼、坐禅観法修すれば浄土はもとよりわが身にて、心が即ち仏なり。

つらつらこの身を観ずるに、生生世世の父母や、一切衆生にいたるまで、その恩愛の深きこと、天の極り無きごとし。
されば誓願たてまつり、無明の眠りを覚しつつ、行住坐臥に怠らず、一心勇猛に修業して、無辺の衆生を慈しみ、菩提の道に趣かせ、本有の仏性発露して、不報の恩を報ぜんと、般若の船に掉さして、涅槃の岸に到るべし。


※ 以上仏教の世界とキリスト教世界の違いを紹介してみました。
メンテ
私の宗教観 ( No.53 )
日時: 2018/10/22 21:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

このスレッドを綴りながら、私自身の宗教に対する想いを述べます。

私が若いころ(大学生のころ)はキリスト教の教えが新鮮に移り、日本中に散会する教会や牧師、神父の存在と共に好意を持っていたものです。

しかしながら思想書などを読み漁る内に、キリスト教の教義に鼻じらむものを感じてきました。
何故、それほどイエスに拘らねばならないか!
同時にアングロサクソンで書いたように、キリスト教圏では我欲の強い人間が野放しにのさばり、それを非難する想いが全くないと言う事です。

それに引き替え、仏教の教えは、釈迦の悟りは示唆するが、結局は自分自身で努力しなさいと言うもので、自由な精神が保たれます。
死後の世界観も恣意的に納得できるもので、死後の世界をイエスに委ねたりしません。

と、言う訳で老年に至るほどに仏教に好意を抱くようになりました。
と言っても、熱心な信仰を持っている訳でもなく、実際は葬式仏教の域を出ません。

しかしながら仏教の世界観とそれに並ぶ儒教的、倫理、道徳の思想は神道思想にもつながり、日本人の心のバックボーンとして相応しいものと思っております。

メンテ
般若心経 ( No.54 )
日時: 2019/01/04 13:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cO7i41JY

『般若心経』は、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典で、般若経の1つともされる。
僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている。

>般若心経全文

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

https://www.youtube.com/watch?v=a4vmA9noFXo


>現代語訳、解説


摩訶般若波羅蜜多心経(タイトル)
(まかはんにゃはらみったしんぎょう)
存在が存在することの意味を説いたお経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
私(観音菩薩)は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に、一つの真実にたどり着いた。
その真実について、お伝えしよう。

照見五蘊皆空 度一切苦厄

(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)
私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。
だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。


しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。
確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。


驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。
その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。




舎利子

(しゃりし)
ブッダの弟子のシャーリプトラよ。
私が知り得た真実とは、「自分が存在しない」という驚くべき事実のことなのだ。
今からその真意について簡潔に話をするから、よく聞いておくれ。




色不異空 空不異色

(しきふいくう くうふいしき)
まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。


つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。
これは事実として理解できるね?


体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。
不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。


この、「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。
そうだな、「空(くう)」という言葉がいい。
「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。




色即是空 空即是色

(しきそくぜくう くうそくぜしき)
私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質をもっている。
存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。
そして存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。


もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。
変化をしないから固定的な物体なのだ。


しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。
どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。




受想行識 亦復如是

(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)
そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。
すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。


つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。
これが何を意味しているかわかるだろうか?


そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。
固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。


ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。
できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。


しかし真実としては、自分というものは存在しないのだ。
これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。


(続く)
メンテ
般若心経 2 ( No.55 )
日時: 2019/01/04 17:03
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cO7i41JY

舎利子 是諸法空相

(しゃりし ぜしょほうくうそう)
シャーリプトラよ、驚いただろうか?
それとも、言っている意味がよくわからないだろうか?
もしくは、当たり前のことを言われたような気がしただろうか?


まあ、今はどれでもいい。
あらゆる存在が「空」であるという理解は、当たり前のもの、普遍の事実であるから、今すぐ理解できなくても大丈夫だ。消えてなくなることはない。
これを知ろうと志せば、必ず知ることができる。

ただ、世界の在りようをしっかりと見つめて真実を見抜いていこうとする態度だけは失ってはいけないよ。
このことは人生を生きる上で本当に重要な理解となるから、くれぐれも忘れないでおくれ。


不生不滅 不垢不浄 不増不減

(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)
あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。


あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。


「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。


だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。


「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」
これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。


そして存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。


是故空中 無色 無受想行識

(ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき)
これまでのことを繰り返すことになってしまうが、もう一度言おう。
身も心も、すべては「空」であり、固定的な実体などというものはどこにも存在しない。
私たちを含むあらゆる存在は、変化するなかで「今はこの状態として存在している」というふうな存在のしかたでしかこの世界に存在することができない。


つまり存在には自性がなく、すべて無自性なのである。


無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心。
そのどこにも不変のものはなく、みな「空」である。


見えたもの、聞こえた音、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思い。
それらもまた「空」であり、不変の実体として存在するものではない。

無眼界乃至無意識界

(むげんかいないしむいしきかい)
私たちは感覚器官で周囲の世界を感じとる。
つまり私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官で感じた世界であって、世界そのものを感じているわけではない。


世界とは、私と世界とが互いに関係し合うところに生まれるものなのだ。
そうした世界もまた、「空」であることに違いはないのだがね。

無無明 亦無無明尽

(むむみょう やくむむみょうじん)
私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く。
真実とは、存在は「空」だということ。
誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。


なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。
ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。


あらゆるものは、有るようで無いのである。
それは、ただ無いのとも違う。
やっぱり、有るようで無いのだ。

乃至無老死 亦無老死尽

(ないしむろうし やくむろうしじん)
だから、老いや死ということも、本当は存在しない。
老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。


老いないわけではないが、死なないわけではないが、それはやはり老いでも死でもない。

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)
あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。
それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。
じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。


ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。
これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。


私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。
真実を受け取るとは、知識で理解することではない。
だから、得ることなどできないのだ。


菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ)
無い無いばかりで申し訳ないが、やはり無いと言うほかに方法がない。
誤った認識の発端は、「有る」と思うことだから、やはりどうしても否定の形をとらざるをえないのだ。

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである。
わだかまりを抱くことが何もない。


わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃

(おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。


たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?


自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか。


それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ。


このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。


三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
いつの時代であっても、どの国であっても、いかなる宗教を信じていても、この「空」という存在の真理を知っている者は心が安らかでいられる。
よく、「仏」という言葉が使われるが、その仏とはこの「空」を知る者を指す言葉でもあるのだよ。
仏とは「真実に目覚めた者」という意味の言葉だからね。


真実を感得するのに仏教徒でなければならない理由などないのだ。
誰の眼の前にも真実は姿をあらわしているのだから。

故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒

(こち はんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)
だからいいかい、存在が存在することの真実を見抜く「般若波羅蜜多」という智慧は、あらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのだ。


人は、「生きる」ということの意味を真剣に考えたとき、必ずこの真実に向き合うことになる。
存在が存在することの意味を知らずして、存在が生きることの意味なんてわかるわけがないからね。

能除一切苦 真実不虚

(のうじょいっさいく しんじつふこ)
あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう。


だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。
病などによる痛みや疼きが消えるわけではないが、それらを「苦」と認識して「苦」から逃げようとすることはないという意味だ。

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰

(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)
最後に、この真実を見抜く般若の智慧を、短い咒文で讃えたい。
これだけは意味を訳さないで、古代の言葉のまま読んでほしい。
昔のままの言葉で読むことに意味があるのだ。


だから言葉の細かな意味は知らなくてもいい。
「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
頭で理解することが、理解の全てではないのである。


では、その咒文をここに記しておく。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
ギャーテーギャーテー
ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー
ボウジーソワカー

(引用終わり)

如何でしょう、私たちが仏式儀式でよく聞く般若心経の世界です。
般若心経は、釈迦の挨拶の様なもので釈迦の基本姿勢を現しています。
具体的な教えを説くお経は沢山ありますが、一般の人々が理解しやすいものに「和讃」があります。
その一つ「菩提和讃」はNO52のレスで紹介しています。

これに対してキリスト教とは何か。
そのキリスト教の世界観を現してみましょう。


>キリスト教の世界観

この世界と人間は、神によって創造されたものであるという世界観をもっています。過去のキリスト教ではこの世界観に基づき、人がいかにこの世界を支配し克服していくかという考えが強調されてきました。

(原罪)

神が初めに創造した男女・アダムとエバが、神に食べることを禁じられた善悪を知る木の実を食べたという物語を通して、人の自己中心性という罪、神への裏切り・信頼関係の断絶を示しています。またそれに続いて、兄カインが弟アベルを殺害した人類最初の兄弟殺人事件が描かれていますが、それは、人間のもろさ、弱さを教えてくれます。

(救済 イエスの登場)

イエスは人びとに対して、神の思いを知り生きること、また、自分を愛するように人びとを愛するようにと教え、また、人びとはキリストを通して、神の呼びかけ、語りかけを聴き、従うようになりました。
信じる、もしくは、そのような神の存在があることを受け入れるということを、キリスト教では「信仰」といいます。このような思いを受け入れるならば罪のゆるしにあずかり、どのような人でも神と人との新たな関係に生きることができると教えています。「救い主・メシア」という意味のギリシャ語である「キリスト」という言葉と、固有男性名詞「イエス」をならべて「イエス・キリスト」と書き、「イエスはすなわち救い主」であるということを指すようになりました。

(引用終わり)

全く異なる世界観でしょう。
私は、断然、釈迦の世界観が好きです。

メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前  「名前#任意の文字列」でトリップ生成
E-Mail 入力すると メールを送信する からメールを受け取れます(アドレス非表示)
URL
パスワード ご自分の投稿文の編集、削除の際必要です。面倒でしょうが入力をお勧めします。
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存