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[314] 宗教とは何か
日時: 2009/10/30 11:44
名前: 天橋立の愚痴人間

「アメリカ研究<ピューリタニズム」スレッドでの返信ですが、宗教論として別のスレッドの方がよいと思いましたので立上げました。


「宗教とは何か」と言う問いに下記のような説明がある。

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則とい
う象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻
く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、
生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生
じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期
待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。


ただし、これは宗教の外見上(教団の存在)の概念については理解できるが、宗教そのものについての説明には乏しい。
概略すぎて申し訳けないが、歴史的に宗教のことを追ってみよう。

(呪術の段階)

宗教は最初、アニミズムやシャーマニズムと言う形で、生産の為の自然崇拝から始った。やがてそれが一神教とか多神教の形で神という概念を創り出した。
この段階では、個人及び生計を共にする小集団がその不安に対応するために宗教活動を行うのが中心であり、そのうち指導者が長老とか呪術者という形で出てくる。

(古代宗教の段階)

その後社会が発達し、人間の生活単位が部族から民族へ、さらに国家と広がるに従い宗教のあり方(宗教によせる気持)も複雑化し大規模となり、部族神、国家神の形をとることになる。
古代エジプト王国などは、その究極の形である。
此処では王は宗教上の最高権威でもあり、宗教は個人及び生計を共にする小集団の宗教的願いを包括しながらも統治の為の要素も宗教活動の中に入ってくる。
この時代の国家は純粋な宗教国家と言える。

続く
メンテ

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古代宗教の神々 ( No.48 )
日時: 2018/10/22 16:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

古代宗教の神々を紹介します。


>エジプトの神

エジプト神話は、特定の開祖が存在しない多神教であり、信仰される神々は、自然現象などを神格化した自然神である。一部、実在した王を神格化した人物神もいると言われるが、断定的な説はない。多くの場合は動物の姿、あるいは動物の頭を持つ人間の姿で表される。

時代が下るにつれて、古い神は他の神に役割を奪われたり、習合して一つの神になったり、神話から姿を消したりすることがあった。例えば、代表的な太陽神であるラーは、後にアメンと習合した。逆に、複数の神々が同じ役割を担うこともあった。例えば世界の創造主としては、後述のようにアトゥム、プタハ、クヌム、オグドアドなど様々な神が信仰された。
エイジプトの神々
アク (Akh):霊魂の相。死後カーとバーの結合により生じる。後期にはカーの分裂によりバーと共に生じると信じられた。
アケル (Aker):地平線の神格化。太陽と2頭の獅子(昨日と明日)に囲まれた盥。
アステン(Asten/Astes)
アテン (Aten/Aton):無数の手を持つ円盤の姿の神。
アトゥム(Atum)
アナト(Anat)
アヌケト(Anuket/Anukis):氾濫するナイル川の女神。名称は「(大地を)抱くもの」に由来。
アヌビス (Anubis)
アピス(Apis)
アポピス(Apophis)
アメミット (Ammit)
アメン(Amen/Ammon)
アメント(Ament):アメンの女性形。鷹頭/駝鳥頭で、しばしば有翼の太母神。
アンクト(Ankt):小アジアの戦女神
アンジェティ(Andjety):アンジェト(Gr. ブーシリス)の主神。死者の統治、再生を司る。
イウサアース(Iusaaset/Saosis(項目 Atum 参照)):アトゥムの影にして妻神。
イウニト(Iunit)
以下多数

>ギリシャの神

ギリシア神話は、以下の三種の物語群に大別できる。

世界の起源(→世界の始まり)
神々の物語(→オリュンポス以前、オリュンポスの世界)
英雄たちの物語(→人間の起源、英雄の誕生、英雄の神話)
第一の「世界の起源」を物語る神話群は、分量的には短く、主に三つの系統が存在する(ヘーシオドスが『神統記』で記したのは、主として、この「世界の起源」に関する物語である)。

第二の「神々の物語」は、世界の起源の神話と、その前半において密接な関連を持ち、後半では、英雄たちの物語と絡み合っている。英雄たちの物語において、人間の運命の背後には神々の様々な思惑があり、活動が行われ、それが英雄たちの物語にギリシア的な奥行きと躍動を与えている。

第三の「英雄たちの物語」は、分量的にはもっとも大きく、いわゆるギリシア神話として知られる物語や逸話は、大部分がこのカテゴリーに入る。この第三のカテゴリーが膨大な分量を持ち、夥しい登場人物から成るのは、日本における神話の系統的記述とも言える『古事記』や、それに並行しつつ歴史時代にまで記録が続く『日本書紀』がそうであるように、古代ギリシアの歴史時代における王族や豪族、名家と呼ばれる人々が、自分たちの家系に権威を与えるため、神々や、その子である「半神」としての英雄や、古代の伝説的英雄を祖先として系図作成を試みたからだとも言える。
ギリシャの12神
ゼウス
ゼウスの妻ヘーラー[2]
ゼウスの娘アテーナー[3]
アポローン
アプロディーテー
アレース
アルテミス
デーメーテール
ヘーパイストス
ヘルメース
ポセイドーン
ヘスティアー

>インドの神

ヒンドゥ教における三大神とは、シヴァ、ビシュヌ、ブラフマーである。それぞれ、シヴァは破壊、ビシュヌは維持、ブラフマーは創造を司るとされている。

三大神が確立されたのはおそらく紀元前後のことだが、このうちブラフマーにたいする信仰は早い時期に衰退し、現在、ヒンドゥ教は大きく、シヴァ派とビシュヌ派に二分されている。

アグニ
インドラ(帝釈天)
アシュヴィン双神
チャンドラ (英語版)
ピシャーチャ
ヤマ(閻魔)
ローカパーラ
デーヴァ
ヴィシュヌ[注釈 2]
クリシュナ(K天)
シヴァ
サラスヴァティー[注釈 3](弁天)
ドゥルガー
クベーラ(毘沙門天)
ハヌマーン(大猿王)
ラークシャサ(羅刹)
ラーヴァナ
インドラジット(メーガナーダ)
ナラクーバラ(哪吒)
ヤクシャ(夜叉)
ハーリティ(鬼子母神)
以下多数

>メソポタミアの神

メソポタミア神話(メソポタミアしんわ)はシュメール人、東方セム語アッカド人、アッシリア人、バビロニア人と後に移住してきたアラム人カルデア人の信仰した宗教であり、彼らの共有し、発展させた神話体系である。

アンシャル

天の神。
キシャルの夫。
新アッシリア時代になると、アッシュールと習合された。

イシュタル
愛と美の女神。戦・豊穣・金星・王権など多くの神性を司る。
シュメール神話のイナンナが変化したものだと考えられる。

イナンナ
金星、愛や美、戦い、豊穣の女神。
イシュタルの原型ともいえる女神。

エンキ
工芸、水、知性、創造を司る神。

シヤマシュ
太陽神。

ナブー
知恵と書記の神。

アヌ(アンとも)

天空や星の神であり、世界の礎を築いた神々の王。
アプスー

地底に存在すると考えられていた淡水の海を擬人化したもの。
あらゆる淡水を司るといわれる。
ティアマトの夫。お気に入り詳細を見る
アッシュール

アッシュール市そのものが神格化された神。
エンリル

ニップールの守護神で風の神。

キシャル

アンシャルの妹(または姉)であり妻。
大地を司るため、地母神とも考えられている。
キングー

ティアマトの息子の一人にして第二の夫。
シン

月神。
ティアマト

原初の海の女神。
あらゆる塩水を司るとされる。
アプスーの妻。お気に入り詳細を見る
ナンム

シュメールにおける、海の女神。
天地を生んだ母、全ての神々を生んだ母なる祖先とされた。
ニンリル
メンテ
ユダヤ教 ( No.49 )
日時: 2018/10/22 16:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

古代の神々で見たように古代の神は全て多神教としての神々であり、名前はことなるが、人々の日常生活に起因する自然神であった。
人々は日常生活の不安や願い事を神様に託していた。
ギリシャの神々などは、現代哲学に通じる哲学的な意味を持っていた。

それに対して紀元前13世紀になると、ユダヤ教としての一神教が登場する。
ユダヤ教は旧約聖書出エジプト記にある様に世界を放浪しなければならなかったユダヤ民族の存亡をかけた戒めでもあった。

ユダヤ教は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェを神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。

ユダヤ教では、改宗前の宗教に関係なく、「地上の全ての民が」聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる、と考える。「改宗者を愛せ」という考え方は、次のようなことばにもみることができる。

内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在すると考える傾向(特にハシディズムに良く現れる概念)があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない。

ユダヤ教徒はタルムードと呼ばれる教典に従って行動すると知られている。
7つの戒めとは、タルムードの記載によれば神がノアを通じて全人類に与えたものといわれる七つの戒めのことである。7つの戒めを守ろう道もユダヤ教並の神へ帰る道であるとされる。

教育
ユダヤ教において最も特徴のある分野は教育であり、ユダヤ教徒は教育こそが身を守る手段と考え、国を守るには兵隊を生み出すよりも子供によい教育を受けさせるべきとされている。そのため一般大衆のほとんどが文盲だった紀元前からユダヤ人の共同体では授業料を無料とする公立学校が存在していた。平均的なユダヤ教徒は非常に教育熱心で、子供をよい学校に行かせるためには借金をすることも当然と考える。家庭では特に父親の存在が重要で、先導して子供に勉強、タルムードなどを教え、子供を立派なユダヤ人に育てたものは永遠の魂を得ると信じられている。また子供が13歳に達するとバル・ミツワー(成人式)の儀式が行われ完全に大人と同様と扱われる。

死生観
一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。

カバラ神学では、魂は個体の記憶の集合体であり、唯一神はすべての生命に内在し、ただ唯一神様は永遠の魂(命の木)である。個体が善悪を分かち、銘々の記憶は神様へ帰っている。神様はただ記憶を収集し、善悪を分かたない。神様では、善の記憶が再創造の素材になり、悪の記憶がなくなる。

カバラではそのような寓話がある:毎年贖罪の日ではすべての生命は死んで、生き返り、悪もなくなる。(あるいは、毎年角笛吹きの祭から贖罪の日までの間にすべての生命は死んで、記憶が神様へ帰った。贖罪の日から光の祭りまでの間に神様は再創造し、善の記憶がすべての生命へ帰った。)死亡はただ贖罪の日と同じである。

労働
労働は神の行った行為のひとつであるため、神聖な行為と考えられている。そして、安息日と呼ばれる休日を週1回は必ず行うべきであり、安息日の間は労働はしてはならず、機械に触れてもいけない。自分自身を見つめ、自分と対話したり、家族と対話したりする。

人間は創造主の代わりに労働をする存在として作られたとされる。 労働により得た賃金や物質は一部を創造主に捧げなければならない。


ユダヤ教では性衝動や性行為は自然なもので、必要悪と見なすことは無い。 夫婦の性行為はそれを捻じ曲げることがむしろ罪であるとされる。 また、快楽を伴わない性交は罪とされる。

ただし妊娠・出産を重視する教義のために、保守的な派閥の一部には、自慰行為を悪とみなす意見が存在する。

男性の同性愛は戒律を破ることとされる。女性の同性愛は戒律を破らない。

ユダヤ教はユダヤ民族を念頭に置いたものであったが、ここからキリスト教、イスラム教と言った世界宗教としての一神教が成立した。


メンテ
一神教の世界 ( No.50 )
日時: 2018/10/22 17:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

一神教の基本はある意味きわめて単純明解です。神の教えを絶対なものとして信じ、それに沿った行動を行えばよいのです。その教えも聖書やコーランに明記されていて、実にわかりやすいものです。

具体的には人々は個人的に神と契約していると言う形で存在します。
キリスト教で行う懺悔の儀式も告白もその表れですし、イスラム教徒が行う1日5回の礼拝の儀式などもそうです。

私は映画や動画などでより知りませんが、キリスト教圏の人々は困難に直面したとき、良く「神を信じるか!」と言う設問をします。
概ねは信じるという答えの様ですが、具体的に神の何を信じるかは語られません。
神が奇跡を起こして自分たちが救われるなどと言う事でしょうか。
キリスト教には確かに奇跡の伝承がありますが、宝くじに当たる以上に、万に一つもないその奇跡を期待して信仰している訳でもないでしょう。
それに対してイスラム教徒の間では、困った時の神頼み的な信仰意識ではなく常にアラーの神への服従を誓います。

ですので、イスラム教を突き詰めると、国家の規範よりもアラーの神との契約が優先し、国家の規範の方が従属させられると言えます。結果、宗教国家として現れる事は現在のイランやタリバンの存在で解るでしょう。

まあ、中世のキリスト教も宗教国家を成していましたが、キリスト教とイスラム教の唯一神との契約内容が微妙にことなるので結果が違ってきます。

聖書は以下のような文言がズルズルと続きます。

マタイによる福音書
山上の垂訓

第6章
6:1
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8
だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
6:9
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
6:10
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
6:11
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。

(終わり)

問題は如何に膨大な文章で示しても人間の行動を包括する事は出来ないのです。
逆に捉えれば、キリスト教を信仰すると言う事は、イエスの教え(聖書)守ると言う事は、聖書に該当しない部分については自由に判断することが出来ると言う事になります。
だから概ねのキリスト教徒はイエスの教えを敬い、また具体的な教えがなかってもイエスの教えの延長でものを考えるでしょう。
ですが、信仰の仕方もいろいろで、イエスの直接の言葉の無い部分は我欲を押し通す人間も出てきます。
具遺的に言えば、中世ヨーロッパの侵略戦争、植民地経営などは、イエスの教えを広く当てはめるとやってはいけないことのはずです。
現代社会においてもユダヤ金融資本の世界経済支配は、決してキリストが望んだ社会ではないでしょう。
ですが彼等はキリストの名において、当然の様に行い反省をしません。
キリスト教は人類全体の規範であると言うよりも個人の生き方の基本であると言う証拠です。
そう言う意味で世界の政治に影響する、ローマ法王の存在など、実に偽善的と言えるでしょう。

イスラム国家の現状を見ても、宗教が政治を掌握する事は認められません。
しかしながら、キリスト教の教えがあれば、キリスト教的世界観の基づいていれば世界が幸せになると言う錯覚は持ってはいけない事と思います。

これも具体的に言えば、西欧、アメリカでは裕福な人間の寄付行為が社会的な善行と認められ推奨され称賛を受けることが人々に受け入れられている事です。
無条件の寄付行為であれば良いのですが、そうした裕福な人たち、企業は強引な金儲けをした結果であり、それを許さない社会の規範作りの方が求められるからです。

もちろん、全ての寄付者が、その様な強欲人間とは言いません。
ですが、アメリカの様な寄付社会を漫然と受け入れている様では本当の社会改革にはなりません。

キリスト教はイスラム教と同じく世界を席巻している宗教です。
しかしながら、そのキリスト教国による世界史は略奪と殺戮の世界史でもあった事も忘れないで置きたいものです。

ここでは一神教社会の有り様を書きましたが、日本、インドの様な多神教社会では、どのような事が言えるのでしょう。


メンテ
多神教 ( No.51 )
日時: 2018/10/22 20:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

その名のとおり多神教では多くの神々が崇拝され、それゆえに同じ宗教の中での信仰形態も多様である。また、特定の一神(主神)が最も高位にあると考え、主神を崇拝の中心とするものを、多神教的一神教と呼ぶことがある。

多神教とされているもの。

日本神話・神道
琉球神道
仏教
道教
中国神話
ヒンドゥー教
インド神話
ギリシア神話
エジプト神話
北欧神話
ケルト神話
ハワイ神話

この内、仏教、神道、ヒンズー教は現存している多神教であるが、神話、伝説として今なお人々の間に生きている神もいます。

一神教と多神教を比較してみましょう。

>一神教の成り立ち

予言者や開祖によって誕生します。

>多神教の成り立ち

自然や動植物などあらゆるものに魂が宿ると考える『アミニズム』から自然に誕生します。

>一神教の性質

神は完全なものであり、人知を超えた全知全能の存在です。
もちろん、たったひとりの神なのでパーフェクトでなければなりません。

>多神教の性質

一方で多神教の神は、それぞれ得意分野があります。
さらにはいい神だけでなく、悪い神だって存在します。

ざっと、この様に言えます。
ところでキリスト教、イスラム教の様に、多神教として現在まで活動している仏教について触れておきましょう。

紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。

>世界観

仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるネパールの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている。人の一生は苦(ドゥッカ、ストレスフル)であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。

仏像や仏閣などは仏教が伝来した国、そして日本でも数多く見られるが、政治的な目的で[要検証 – ノート]民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。

>輪廻転生・六道・仏教と神

仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

また、神(天)とは、仏教においては天道の生物であり、生命(有情)の一種と位置づけられている。そのため神々は人間からの信仰の対象ではあっても厳密には仏では無く仏陀には及ばない存在である。仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教であった。時代が下るにつれて開祖である仏陀、また経典に登場する諸仏や菩薩に対する信仰を帯びるようになるが、根本的には信仰対象に対する絶対服従を求める態度は持たない。仏教における信仰は帰依と表現され、他宗教の信仰とは意義が異なっており、たとえば修行者が守るべき戒律を保つために神や霊的な存在との契約をするという考えも存在しない。

次には一神教であるキリスト教などと異なる仏教の世界を見ることにします。
メンテ
仏教 ( No.52 )
日時: 2018/10/22 21:02
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

お釈迦さまは「創造主」でも「神の子」でも「預言者」でもなく、世の中の真理・理法に「気がついた人」という感じになるだろうと思います。仏教の教えは、お釈迦さまが考えて作ったものでもなく、誰かからお釈迦さまに特別に授けられたものでもないわけです。
 お釈迦さまは未踏峰の山に初めて登ったというような「偉大な先駆者」的な位置づけでしょうか。

 仏教ではかなり初期から、このことははっきり認識されていて、お釈迦さまが悟った事柄は、お釈迦さまが悟ろうが悟るまいが元からあったもの(=この世の普遍の真理である)とされています。
 
 経典や論書は法を説くのと同時に法に近づいて行くための「手段」としての役割を負うため、いろいろな説き方が可能だ(手段は多い方が良いだろう)と考えられたということになるのだろうと思います。
 
宗教としての仏教は、その後に小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教へ別れて行きました。

仏教とは本来修行して悟りを得ることを目的とした宗教です。で、その本来の教えに忠実に修行をしようというのが上座部仏教です。
それに対して、修行者が仏教の精神を広く説くことにより、人々が修行せずとも仏教を信仰することは可能だと説くのが大乗仏教です。
上座部仏教は別名を南方仏教といい、主にアジア南方(タイやカンボジアなど)に広がり、大乗仏教は日本・中国・韓国などに広まりました。
ですから、タイなどでは純粋に仏教を信仰しているのは僧だけで、他の人々は僧を尊敬しその修行を支えているというわけです。そのため、タイなどではお坊さんが人々の尊敬を集め、身分が高いとされているのです。

その釈迦が、どのような教えを説いているか見てみましょう。

釈迦は2500年前に、天竺国(てんじく、現在のインド)の北部、ヒマラヤ山麓(現在のネパール付近)を治めていた釈迦族の王・浄飯王(じょうぼんのう)と、その記・摩耶夫人(まやぶにん)の間に生まれた王子で、姓をゴータマ、名をシッダッタといいました。

釈迦という呼び名は、その出身である釈迦族からとったものです。後に、真理に目覚めてからは仏陀(ぶつだ)、または、"釈迦族の聖者"という意味を持つ、釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)あるいは略して、釈尊(しゃくそん)と呼ばれるようになりました。

その「仏陀」の”教え”が、すなわち<<仏教>>という訳であります。

釈迦は人生について悩み、29歳の時に「さとり」を求め出家しました。そして、想像を絶する苦行の数々を行いました。そして考えました。極端な偏りは何も生み出さない。王子時代の快楽の日々、修行時代の苦行の日々、これら極端な偏りはいけない。真理をとらえる為には、その中程を貫く過程――「中道(ちゅうどう)」が大切ではないかと気が付きました。そして、出家してから6年目にあたる、35歳の時に真理に目覚め「仏陀(ぶつだ)」となりました。さとりを開いた仏陀は、教えを広める伝道生活を送り、やがて80歳で入滅しました。

「中道」 何事も両極端はいけない、ほどほどが良い <考え、行動、・・・>

★ 人生は四苦八苦、「迷い」や「執着心」を断って、「考えすぎない」のが一番だと悟った。

釈迦の教えは、縁起、四諦、八正道から成り立っています。
 
縁起(えんぎ) 物事がお互いに関係しあっているという意味

釈迦は、人生は苦であり、苦の根本的な原因としは、「無明(むみょう、無知、迷い)」、無知である為に迷い、迷う為に物事に対して「愛(愛憎の念)」をもち、それに対して「取(執着)」し、執着する事で苦しむと考えました。四諦、八正道でこの無明から抜け出す方法を説いています。

四諦(したい) 苦という人生の本質、苦の原因、原因の消滅、苦の原因を取り除く方法

苦諦(くたい)
苦に関する真理。人生とは本質的に苦であると説いています。
 
集諦(じったい)
原因に関する真理。人生が苦である事の原因を明らかにしている
 
滅諦(めったい)
原因の消滅に関する真理。苦の原因である煩悩(ぼんのう)の消滅が苦の消滅です。
 
道諦(どうたい)
道=実践(方法)に関する真理。苦の原因を取り除く方法を説いています

八正道(はっしょうどう) 道諦をさらに詳しく説いた八つの正しい道(方法)

この方法を修行を積む事により、煩悩(ぼんのう)をなくし、結果として苦を克服する事が出来ます。
1. 正見(しょうけん) 我の意識を離れ、正しく物事を見る事。
 
2. 正思惟(しょうしゆい) 正しく物事の道理を考える事。
 
3. 正語(しょうご) 真実のある正しい言葉を語る事。
 
4. 正業(しょうごう) 正しい行為。間違った行いをしない。
 
5. 正命(せいみょう) 正法に従って清浄な生活をする事。
 
6. 正精進(せいしょうじん) 正しく目的に向かって努力する事。
 
7. 正念(しょうねん) 邪念を離れて正しい道を思念する事。
 
8. 正定(しょうじょう) 正しく精神を集中して安定させる事。

後世の多くの経典は、何千とも言われていますが、宗派によっていろいろな形はありますが、釈迦の教えを説いたものです。
それ故、宗派はあっても宗派の対立は過激なものではありません。
特に大乗仏教が盛んな日本では、庶民も理解しやすい 和讃、御詠歌の様なものもあります。

その一つ般若心経と菩提和讃を紹介します。


●魔訶般若波羅蜜多心経

>@観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

観世音菩薩が深遠なる智慧の完成のための修行をしていたとき、物質や肉体、そして精神を構成する五蘊はすべて空であることを悟り、すべての苦悩や煩いを克服した。

>A舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。

舎利子よ、すべての色(姿形のある物質や肉体)は空であり、空は色にほかならない。
色はすなわち空であり、空が色なのだ。色以外の五蘊の要素である受(感受作用)、想(観念)、行(認識形成作用)、識(識別作用)もまた同じである。

>➂舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

舎利子よ、この世に存在するすべては実体のない空を特徴とする。だから生じも滅しもせず、汚いもきれいもない。増えも減りもしない。

>C是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。

それゆえ、空のなかには色はなく、受・想・行・識もない。また、感覚器官である眼・耳・鼻・舌、さらには身も心もない。感覚の対象である色形や音、香、味、触感、観念でとらえる物事もない。感覚と対象の間にある限界や意識会といった認識世界もない。

>➄無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智・亦無得。

苦の根源である無明もないし、無明が尽きることもない。無明が原因で起こる老死といった苦もないし、またそれが尽きることもない。悟りに至る道である四諦もない。智慧もなく得るものもない。

>E以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。

このように得るものもはなにもないゆえに、大乗仏教の道を極める菩薩は般若波羅蜜多(智慧の完成)を実践する。ゆえに心に妨げや執着がない。妨げや執着がないゆえ恐れるものも何もない。一切の誤った考えから遠く離れているので、涅槃の境地を究めている。

>F三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。

三世(過去・現在・未来)の諸仏も般若波羅蜜多を実践したことで、最上の悟りを開いた。

>G故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。

ゆえに知るがよい。般若波羅蜜多は、偉大な真言であり、無上の真言であり、並びなき真言である。一切の苦を除くことができる真実で虚妄のないものである。

>H故説、般若波羅蜜多呪即説呪曰

ゆえに般若波羅蜜多の真言を唱えよう。
それは、すなわち以下の真言だ。

>I羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。

>J般若心経

至れり至れり、彼岸に至れり、完全に彼岸に至れり。
これが悟りである。



●菩提和讃(ぼだいわさん)

若し人三世一切の仏を知んと欲すれば、法界性を観ずべし。
一切唯心造なりと、衆生おのおの仏性を、受けて生まれしものなれば
一念不生に至るとき、忽ち仏性現前し、老若男女もろともに、その身が即ち仏なり。

しかるに一念迷い初め、本有の仏性見失い、みずから凡夫となるゆえに貪り瞋り痴さの、煩悩しげき三毒に、闇き迷いの日々となる。
また色声香味触と五欲の悦楽追い求め、刹那の夢に酔いしれる
殺生偸盗邪淫慾、悪口両舌綺語妄語、破戒無懺の輩に、いつか救いのありぬべき。

それ人間の身を受けて、この世に生まれ来ることは、爪の上端に置ける土。
まして尊き仏法の、教えに親しく遇うことは、まこと得がたき縁なり。
かかる時節を失わず、信心決定いたすべし。

人々賢き智慧あれば、春は万の種を蒔き、秋の稔りを待つのみか、衣服家宅に至るまで、遠き計画立てながら、今をも知れぬ後の世の、永き冥路を打ち忘れ、空しく過ごすぞ愚なり。
無常の風に誘われて、忽ちこの世を終るとき、何を頼みとなすべきや、あまた資産のあるとても、冥途の用にはならぬもの。
家財重宝持つ人も、携え行くべき途ならず、偕老比翼の契いもしばし浮世の夢ならん。
兄弟朋友ありとして、伴い行くことさらになし、出入りの息の絶えぬれば、野辺の送りを営みて、老いも若きも仇野の、空の煙と消え失せん。
朝夕撫でし黒髪も、蓬が根の塵となる。
かかる憂き目のあるゆえに、ひたすら菩提を願うべし。
弘誓の願を身につけて、忍辱精進怠らず、布施や愛語にこころざし、十善の道歩みつつ、他己をも自己と覚るならば、これぞ菩薩の浄土なり。

観世の慧眼明らかに、弘く衆生に回向して、ともに濁世を渡るべし。
尚ぶらくは人間の、受くる形はそのままに、仏の姿にかわらねば、本来より具えし霊明の、一仏心に覚むとき、この身すなわち仏にて、仏が仏を念ずれば、一声唱うる称名も、諸仏の浄土に通徹す。
日々仏に近づきて、礼拝供養も懇ろに、香花燈燭とりささげ、粥飯茶果等供えつつ、身口意三輪浄らかに、称名念仏経陀羅尼、坐禅観法修すれば浄土はもとよりわが身にて、心が即ち仏なり。

つらつらこの身を観ずるに、生生世世の父母や、一切衆生にいたるまで、その恩愛の深きこと、天の極り無きごとし。
されば誓願たてまつり、無明の眠りを覚しつつ、行住坐臥に怠らず、一心勇猛に修業して、無辺の衆生を慈しみ、菩提の道に趣かせ、本有の仏性発露して、不報の恩を報ぜんと、般若の船に掉さして、涅槃の岸に到るべし。


※ 以上仏教の世界とキリスト教世界の違いを紹介してみました。
メンテ
私の宗教観 ( No.53 )
日時: 2018/10/22 21:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

このスレッドを綴りながら、私自身の宗教に対する想いを述べます。

私が若いころ(大学生のころ)はキリスト教の教えが新鮮に移り、日本中に散会する教会や牧師、神父の存在と共に好意を持っていたものです。

しかしながら思想書などを読み漁る内に、キリスト教の教義に鼻じらむものを感じてきました。
何故、それほどイエスに拘らねばならないか!
同時にアングロサクソンで書いたように、キリスト教圏では我欲の強い人間が野放しにのさばり、それを非難する想いが全くないと言う事です。

それに引き替え、仏教の教えは、釈迦の悟りは示唆するが、結局は自分自身で努力しなさいと言うもので、自由な精神が保たれます。
死後の世界観も恣意的に納得できるもので、死後の世界をイエスに委ねたりしません。

と、言う訳で老年に至るほどに仏教に好意を抱くようになりました。
と言っても、熱心な信仰を持っている訳でもなく、実際は葬式仏教の域を出ません。

しかしながら仏教の世界観とそれに並ぶ儒教的、倫理、道徳の思想は神道思想にもつながり、日本人の心のバックボーンとして相応しいものと思っております。

メンテ
般若心経 ( No.54 )
日時: 2019/01/04 13:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cO7i41JY

『般若心経』は、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典で、般若経の1つともされる。
僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている。

>般若心経全文

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

https://www.youtube.com/watch?v=a4vmA9noFXo


>現代語訳、解説


摩訶般若波羅蜜多心経(タイトル)
(まかはんにゃはらみったしんぎょう)
存在が存在することの意味を説いたお経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
私(観音菩薩)は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に、一つの真実にたどり着いた。
その真実について、お伝えしよう。

照見五蘊皆空 度一切苦厄

(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)
私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。
だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。


しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。
確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。


驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。
その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。




舎利子

(しゃりし)
ブッダの弟子のシャーリプトラよ。
私が知り得た真実とは、「自分が存在しない」という驚くべき事実のことなのだ。
今からその真意について簡潔に話をするから、よく聞いておくれ。




色不異空 空不異色

(しきふいくう くうふいしき)
まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。


つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。
これは事実として理解できるね?


体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。
不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。


この、「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。
そうだな、「空(くう)」という言葉がいい。
「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。




色即是空 空即是色

(しきそくぜくう くうそくぜしき)
私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質をもっている。
存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。
そして存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。


もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。
変化をしないから固定的な物体なのだ。


しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。
どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。




受想行識 亦復如是

(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)
そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。
すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。


つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。
これが何を意味しているかわかるだろうか?


そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。
固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。


ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。
できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。


しかし真実としては、自分というものは存在しないのだ。
これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。


(続く)
メンテ
般若心経 2 ( No.55 )
日時: 2019/01/04 17:03
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cO7i41JY

舎利子 是諸法空相

(しゃりし ぜしょほうくうそう)
シャーリプトラよ、驚いただろうか?
それとも、言っている意味がよくわからないだろうか?
もしくは、当たり前のことを言われたような気がしただろうか?


まあ、今はどれでもいい。
あらゆる存在が「空」であるという理解は、当たり前のもの、普遍の事実であるから、今すぐ理解できなくても大丈夫だ。消えてなくなることはない。
これを知ろうと志せば、必ず知ることができる。

ただ、世界の在りようをしっかりと見つめて真実を見抜いていこうとする態度だけは失ってはいけないよ。
このことは人生を生きる上で本当に重要な理解となるから、くれぐれも忘れないでおくれ。


不生不滅 不垢不浄 不増不減

(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)
あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。


あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。


「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。


だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。


「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」
これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。


そして存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。


是故空中 無色 無受想行識

(ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき)
これまでのことを繰り返すことになってしまうが、もう一度言おう。
身も心も、すべては「空」であり、固定的な実体などというものはどこにも存在しない。
私たちを含むあらゆる存在は、変化するなかで「今はこの状態として存在している」というふうな存在のしかたでしかこの世界に存在することができない。


つまり存在には自性がなく、すべて無自性なのである。


無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心。
そのどこにも不変のものはなく、みな「空」である。


見えたもの、聞こえた音、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思い。
それらもまた「空」であり、不変の実体として存在するものではない。

無眼界乃至無意識界

(むげんかいないしむいしきかい)
私たちは感覚器官で周囲の世界を感じとる。
つまり私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官で感じた世界であって、世界そのものを感じているわけではない。


世界とは、私と世界とが互いに関係し合うところに生まれるものなのだ。
そうした世界もまた、「空」であることに違いはないのだがね。

無無明 亦無無明尽

(むむみょう やくむむみょうじん)
私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く。
真実とは、存在は「空」だということ。
誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。


なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。
ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。


あらゆるものは、有るようで無いのである。
それは、ただ無いのとも違う。
やっぱり、有るようで無いのだ。

乃至無老死 亦無老死尽

(ないしむろうし やくむろうしじん)
だから、老いや死ということも、本当は存在しない。
老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。


老いないわけではないが、死なないわけではないが、それはやはり老いでも死でもない。

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)
あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。
それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。
じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。


ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。
これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。


私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。
真実を受け取るとは、知識で理解することではない。
だから、得ることなどできないのだ。


菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ)
無い無いばかりで申し訳ないが、やはり無いと言うほかに方法がない。
誤った認識の発端は、「有る」と思うことだから、やはりどうしても否定の形をとらざるをえないのだ。

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである。
わだかまりを抱くことが何もない。


わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃

(おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。


たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?


自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか。


それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ。


このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。


三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
いつの時代であっても、どの国であっても、いかなる宗教を信じていても、この「空」という存在の真理を知っている者は心が安らかでいられる。
よく、「仏」という言葉が使われるが、その仏とはこの「空」を知る者を指す言葉でもあるのだよ。
仏とは「真実に目覚めた者」という意味の言葉だからね。


真実を感得するのに仏教徒でなければならない理由などないのだ。
誰の眼の前にも真実は姿をあらわしているのだから。

故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒

(こち はんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)
だからいいかい、存在が存在することの真実を見抜く「般若波羅蜜多」という智慧は、あらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのだ。


人は、「生きる」ということの意味を真剣に考えたとき、必ずこの真実に向き合うことになる。
存在が存在することの意味を知らずして、存在が生きることの意味なんてわかるわけがないからね。

能除一切苦 真実不虚

(のうじょいっさいく しんじつふこ)
あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう。


だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。
病などによる痛みや疼きが消えるわけではないが、それらを「苦」と認識して「苦」から逃げようとすることはないという意味だ。

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰

(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)
最後に、この真実を見抜く般若の智慧を、短い咒文で讃えたい。
これだけは意味を訳さないで、古代の言葉のまま読んでほしい。
昔のままの言葉で読むことに意味があるのだ。


だから言葉の細かな意味は知らなくてもいい。
「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
頭で理解することが、理解の全てではないのである。


では、その咒文をここに記しておく。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
ギャーテーギャーテー
ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー
ボウジーソワカー

(引用終わり)

如何でしょう、私たちが仏式儀式でよく聞く般若心経の世界です。
般若心経は、釈迦の挨拶の様なもので釈迦の基本姿勢を現しています。
具体的な教えを説くお経は沢山ありますが、一般の人々が理解しやすいものに「和讃」があります。
その一つ「菩提和讃」はNO52のレスで紹介しています。

これに対してキリスト教とは何か。
そのキリスト教の世界観を現してみましょう。


>キリスト教の世界観

この世界と人間は、神によって創造されたものであるという世界観をもっています。過去のキリスト教ではこの世界観に基づき、人がいかにこの世界を支配し克服していくかという考えが強調されてきました。

(原罪)

神が初めに創造した男女・アダムとエバが、神に食べることを禁じられた善悪を知る木の実を食べたという物語を通して、人の自己中心性という罪、神への裏切り・信頼関係の断絶を示しています。またそれに続いて、兄カインが弟アベルを殺害した人類最初の兄弟殺人事件が描かれていますが、それは、人間のもろさ、弱さを教えてくれます。

(救済 イエスの登場)

イエスは人びとに対して、神の思いを知り生きること、また、自分を愛するように人びとを愛するようにと教え、また、人びとはキリストを通して、神の呼びかけ、語りかけを聴き、従うようになりました。
信じる、もしくは、そのような神の存在があることを受け入れるということを、キリスト教では「信仰」といいます。このような思いを受け入れるならば罪のゆるしにあずかり、どのような人でも神と人との新たな関係に生きることができると教えています。「救い主・メシア」という意味のギリシャ語である「キリスト」という言葉と、固有男性名詞「イエス」をならべて「イエス・キリスト」と書き、「イエスはすなわち救い主」であるということを指すようになりました。

(引用終わり)

全く異なる世界観でしょう。
私は、断然、釈迦の世界観が好きです。

メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.56 )
日時: 2022/05/06 07:12
名前: スメラ尊 ID:JcXkm0c6

メンテ
回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達 ( No.57 )
日時: 2022/05/06 07:19
名前: スメラ尊 ID:JcXkm0c6

回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達


アメリカには「ポーン・アゲン」を なのり、そう呼ばれる人びとがいる。 人生の道半ばで、神に、キリスト に、聖書に出会い、キリスト教徒とし て新しく生まれ変わった人びとであ る。改宗ではなくて、回心と再生を誓う、プロテスタント教会のなかの行動的な一派である。


◆40歳にして「回心再生」

ブッシュニ世はボーン・アゲンのひ とりになった。飲酒にふけって、安易 な生活を送っていたのが、名高い伝道師の説教を聞いてからは、四十歳にし て酒を断ち、回心再生の人となった。

朝は祈りと聖書の読誦にはじまり、閣議も祈りではじまる。
演説には聖書 のことばがちりばめられている。

「アメリカに昧方しないやつは敵だ」というブッシュニ世の人物を特色づける発 言も聖書からでている。

「わたしの側 に立たない者はわたしに逆らう者、わたしと共に集めない者は散らす者である」

神仏の信仰を問わず、ボーン・アゲンの宗教体験をもつ人びとのおおく は、個人の内面の間題として回心をうけとめている。

ところが、アメリカの 「生まれ変わり」は異様に猛烈である。かれらは公の場で回心の体験を声高 に語って、人間は罪を負って生まれた存在であるから回心しなさい、改俊しなさいと、説得と折伏の活動に訴えることを神に奉仕する使命と信じている。

その特徴は徹底した二元論である。人間は神に選ばれて救われる者と、救 われない者に分かれている。回心者に は永遠の平和、福音に耳ふさぐ者は悪魔の子で永遠の地獄が待っている。

善と悪、神と悪魔、味方と敵、白と黒、光と闇が現世を二分して戦ってい るという論理を用いて、迷える小羊に選択をせまるのである。

原理主義(ファンダメンタリズム) はイスラムの 「専売」のように思われて いるが、この 言葉と運動は はじめて一九 二〇年代アメ リカの白人プロテスタントの環境からうまれた。

ボーン・アゲンは原理主義の三つの 教条を継承している。

聖書に書かれてあることはすべて神の言葉であって、解釈や考証はゆるされない。
人間は神によってつくられた被造物で、サルから進化したなどという「妄説」はゆるされない。

やがてキリストがこの世に再臨して至福の千年 が始まるから、神への奉仕にいそしまなければならない。

◆悪魔うけいれる土壌

最近のギャラップ世論調査による と、アメリカ人の48%は神が人間をつ くったと信じ、28%が進化論に傾いている。そして、悪魔の存在を68%が信 じている。

テロリズムも「九・一一」の悲劇も、バグダッドに巣食う悪魔の仕業だ という圧倒的な政治宣伝がたやすくう けいれられる精神的土壌がそろっている。 プロテスタント教会の少数派であっ たボーン・アゲン原理主義と、帝国を夢みる新保守覇権主義の二つの特殊な 潮流と人脈が、アメリカ政治の中枢を乗とってしまった。

神の下なる道義の国アメリカの指揮 官ブッシュニ世は、「万軍の王の王、主の主」(ヨハネ黙示録)として、神の御業を実践する十字軍に立つのである。

しかし、利得の追求を宗教的熱狂で紛飾した十字軍は、中東のみならず、 世界の現状にひそむ限りない複雑さと、そして、人間の惨害を無視して強行されるのだから、前途には、とほうもない魔の陥弊が待っている。

現在の狂ったアメリカ人の精神構造を探るには、アメリカを覆っているキリスト教原理主義的教義が分からないと理解できない。

回心再生と言ったって何のことか分からない。

回心再生して神に仕え、そうでない福音に耳を塞ぐ者たちを、悪魔の子として永遠の地獄に突き落とすことが、彼らの使命なのだ。

このようなキリスト教原理主義の教義が分かっていれば、ラムズフェルドの冷酷さも理解できる。

彼はアフガニスタンの戦場における、タリバン兵の捕虜達をクンドゥスに集め、爆撃して皆殺しにした。悪魔の子として地獄に突き落としたわけだ。
彼らにとっては異教徒は人間とはみなさないのだ。




キリスト教原理主義

キリスト教原理主義の本質は、主に米国が過去に行った過失を正当化できるからこそ普及しているのであり、キリスト教よりもユダヤ教の亜種に近い性質を帯びている。
プロテスタントといえば、多くの日本人はルター派とカルバン派しか思いつかないだろうが、英米のプロテスタントの多くは、英国国教会の亜種である。

英国国教会は、設立当初から血塗られている。

ローマ教会が離婚を許さないのを理由に、ローマ教会を離脱して英国王が首長となる教会を設立したのであるが、そのヘンリー8世は6人の妻を持ち、2番目の妻アン・ブーリンと5番目の妻キャサリン・ハワードを姦通罪で処刑している。6人のうち死別は3番目の妻ジェーン・シーモアのみである。

英国国教会の成立には、ローマ教会を通して仏の影響力を廃したかったのもあるだろう。アビニョン捕囚(1309〜77)の影響でフランスはローマ教会への影響力を強化していた。
また、ローマ教会自体が各国の王の上に己の存在を置く状態であり、英国内の反発があるからこそ、英国国教会は存続したのだろう。

つまり、設立自体が、エゴイズムとナショナリズムが動機である。

そのため、エリザベス一世時代に英国国教会から清教徒が反発して分離するのだが、彼らがローマ教会へ戻らずに新しい諸派を建てていった理由も、ナショナリズムによるローマ教会への反発があった。

もちろん、当時のローマ教会は相当腐敗していたのも事実だ。
つまり、英米のプロテスタントの場合、ルター派とカルバン派ほど純粋な動機とは言い難い部分が元来強かったのである。

ローマ教会を離れた時に、教皇に替わる宗教的権威は、何になるか。
自派内のヒエラルキーの頂点である。

古い宗派の中で頂点を極めることは難しいが、新派を建てれば己自身が頂点になりうる可能性がある。

「英国人は六十の宗派を抱えているが、料理のソースは一つだ」というイタリアの諺があるほど、英米のプロテスタントは多数の派がある。

己が宗教的権威になりたいという我欲こそが、多数の派が存在する理由の最大の要因ではないかと憶測している。

一番の問題は、聖書無謬性という偏向なのだが、これはルター派が聖書中心主義を唱えた影響から英米のキリスト教原理主義に多い。

キリスト教において本来一番大切なのは、イエス=キリストの言葉であった筈だが、イエス=キリストの言葉と矛盾する見解を米国人が頻繁に出すのは、聖書無謬性の影響ではないかと思う。

聖書無謬性、というよりも、旧約聖書無謬性こそが、キリスト教原理主義の中心に存在するのではないか。

旧約聖書は、無謬どころか矛盾だらけだが、キリスト教原理主義で重要視されているのは、旧約聖書の内容とヨハネの黙示録なのである。

ヨハネの黙示録の諸派にとって都合の良い解釈することと、旧約の内容が、キリスト教原理主義の根本のようだ。

これでは、キリスト教というよりも、選民思想が極端に強いユダヤ教の亜種である。

まず、北米インディアンの土地を奪ったことについては、「アメリカは約束の地である」と説明する。

鉄砲隊に向かって「特攻」を続けた北米インディアンを、虐殺し続けるのに当たって、「北米インディアンは聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と説明する。

奴隷貿易の中心は実は英国だったが、「黒人は聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と同様に説明している。

聖書の無謬性という信仰を利用することによって、自分達のエゴイズムや貪欲な物欲、選民思想を合理化できるのだ。

どんな人間だとて、異民族でも多数の人間を無差別虐殺すれば、潜在的に罪悪感を感じるものである。

もちろん、本物の「見せかけだけの善人」ならば、潜在的にも罪悪感を感じないだろうが。

米国人の心に在った潜在的罪悪感や不安感を薄れさせ、自らの虐殺・軍事的及び経済的侵略を正当化するために、聖書無謬性は、実に利用価値の高い説なのである。
聖書無謬性は、選民思想を強化し、エゴイズムの発現と経済侵略を正当化する。
だから、英国は「死の商人」として長年成功できたのだろう。日本で有名なグラバーも、英国の武器商人である。

第二次世界大戦後、英国の国土は荒廃していた。

戦争の被害のない米国が「世界の中心」となったのは必然であるが、その世界の中心とは、「世界の武器工場」なのである。この情けない地位は、この先当分揺るぎそうにない。

人殺しで儲ける「商売」は、私は世界中で最も卑しい職業だと思う。

殺傷兵器を多数生産することにも、自己正当化と合理化が必ず必要になる。

「我々は、民主主義を世界に普及するために武器を製造しているのである」とか工場で合理化の言葉を言わなければ、現場の労働意欲が必ず低下していく筈だからだ。

米国で武器を多数製造しなくても、たくさんある別の産業に大半を転換すればいいだけの筈だ。日本は、戦後ちゃんとできたのだから。

だが、恐らく、最早不可能だろう。

なぜなら、米国は「民主的な豊かな社会」から「憎悪と恐怖の対象」「言論を弾圧する強国」へと変質して行っているからである。

報復を恐れて先制攻撃し、無差別攻撃するために、他国民の憎悪と怒りが増し、死を賭しても抵抗を表したいという人々をどんどん増やしているという、ごく当たり前の論理が、米国人には理解できないようだ。

恐らく、欧米人以外の人々を、無意識下で「人間」と認めていないからである。

世界中から恨まれ憎まれていることを、米国人の大半が9.11まで気づかずに済めたのは、エバンジェリカルが米国民が潜在的に持つ罪悪感や不安感を合理化し、選民思想を強化してくれているためである。

戦争があるたびに、米国内のエバンジェリカルは信者数を増していく。

今や、聖書無謬性を信じる米国人が半数以上なのではないか。

例え、神が言ったことが正しかったとしても、転記を続けた古代ユダヤ人が自分達に都合の良い内容に書き換えなかったと何故信じられるのかは、理解に苦しむ。

古代ユダヤ人の知っている世界しか書かれていないからといって、それ以外の土地に住むのは人間ではない、あるいは被差別民族だと信じられるのは、何故なのか。
「木を見る西洋人 森を見る東洋人」に従えば、西洋人の世界観があまりに単純だからと説明できるだろう。

そんなに、世の中、単純なわけなかろうが。
あらゆる物事は、複雑に絡み合っている。
人体の一部が悪くなれば、全体に影響が及ぶようにだ。

潜在的罪悪感を引きずるからこそ、米国は犯罪大国になったのではないか。

エバンジェリカルは「核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 朝日選書」によると、ヨハネの黙示録の「ゴグとマゴク」、つまりイスラエルに進攻して戦う二つの大国とは、ロシアと中国だと教えているそうだ。
信者を増やすために、「核戦争はすぐ来る」とエバンジェリカルが米国民の恐怖を煽れば煽るほど、「どうせ先はないんだから」と自暴自棄の心境に陥り、犯罪に走る者は増えていったのだろう。

潜在的罪悪感や不安感は、潜在的犯罪者を増加させていき、米国民の人心を荒廃させて行ったのである。

「人のふり見て我がふり直せ」と言う。

経団連が武器輸出を求めた結果、内閣が勝手に、当座米国にのみミサイルを輸出することに決めてしまったが、これは米国の轍を踏むことになるだろう。
潜在的罪悪感を合理化する装置としての宗教は、日本において国家神道と靖国である。
次第に国粋主義者が再度増えて行っている現状を、よく考えてほしい。
米国の事実上支配下に入っている日本では、精神的には戦後の混乱が続いたままなのである。

恐らく、潜在的罪悪感や社会の矛盾を合理化するために、日本人の多数が、再び自発的に国家神道と靖国に縋り始めたのである。

それを否定する者に対して、「非国民」扱いが始まっている。

戦後の精神的混乱を「日教組の偏向が」等とする、安易な合理化を続けているようでは、昭和初期と同じ状況を自ら作り出してしまうだろう。

そして、潜在的罪悪感と社会の矛盾を合理化するのに、靖国では駄目だと考える人々が新・新興宗教に縋っていくのである。

この状況が長く続けば、オウムのような極端な教義を必要とする人々が増えていくはずだ。

武器輸出は、第二・第三のオウムを作り出し、アーレフを強化する。
エゴイズム、利己主義と物質主義、利益優先主義、選民思想などの、「アメリカナイゼーション」が「グローバリズム」の名で一層進行していけば、犯罪発生率が増加するのは当然である。

物事は連鎖していると考えるのは、東洋的発想らしいが、過去の清算が充分に済まないならば、潜在的罪悪感や不安感が、国を誤った方向へと導くのは避けがたいだろう。
良い商品を世界に供給するのを止めて、死の商人への道を進むのが、日本国の将来のために素晴らしいことと思いますか。

経済的論理のみを追求すれば、犯罪発生率は高まり、要人暗殺や報道機関への武力攻撃等の右翼テロが頻発する時代をもたらすだろう。

その先にあるのは、五‐一五事件(1932年犬養毅首相暗殺)、二‐二六事件(1936年陸軍クーデター)のような時代が来るだろう。

貴方は、奥田経団連会長や小泉首相が、そういうことまで考えて武器輸出を決めたと思いますか。

重要案件が国会の議決を経ないで決まる事態は、民主主義の形骸化の進行です。
「誰がなっても変らない」と賢しらに言う人々が多数日本にはいますが、本来、日本の未来を選ぶのは、国民の一票の筈です。

貴方は、どんな未来を選びたいと考えていますか?

何もせずに他人(政治家や官僚)のせいにするというのも、一つの選択であり、その選択に相応しい未来が待っているはずです。

【福音派】聖書の外典・偽書と「聖書の絶対不可謬性」

キリスト教史の中で、旧約聖書が正式に聖典の扱いを受けるようになった歴史は意外に浅く、トリエント公会議(1545)の時である。

2世紀には既に旧約聖書を認めない派が存在し、それに反対するためにも4世紀に聖書のラテン語訳が始まり、397年「正典」が一応決まった。

特に、ヨハネの黙示録を新約に残すかどうかで、随分揉めたらしい。

東方正教会は、長く認めていなかったという。

1世紀末に書かれたもので、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」の著者とは別人が書いているが、今でも諸説あり、作者が福音書作者でないと文献学等で否定されていることを聞くと激怒する宗派もあるらしい。

どの文書が聖書として認められるべきか否かで、長く揉めて来た歴史というのは、大抵の宗教にあることだ。例えば、「北伝仏教の経典の多数は偽書である」という研究もある(「梅原猛の授業 仏教」をご参照下さい)

そんな歴史があるのに、特に、キリスト教原理主義者達を中心に「聖書の絶対不可謬性」を固く信じているキリスト教徒が結構いるのだそうだ。

聖書の中には、これを聖書に含めるかで揉めた文書があるという歴史等を、清教徒は全く知らなかったらしい。そのため、アメリカを中心に「聖書の絶対不可謬性」という、珍奇な教義をもつ教団が多いのだそうだ。

しかも、彼らが「間違いがない」と主張するのは、大抵、本来は聖典ではなかった旧約聖書のほうで、新約と違って間違いだらけの書物だ。
旧約聖書は盲信されると、世界の迷惑になる話が多すぎるのだ。

聖書と言っても旧約聖書は、基本的に泊付けのために導入されたものであり、どう考えても新約聖書の「神」と矛盾している。

旧約聖書の「神」は、所詮民族宗教の神なので、イエスと違い、人を幸福にすることのない神なのだ。

その「神」とイエスが三位一体であると言ったものだから、それから、キリスト教の神は相当残虐な「神」に変化し、教会の教えも残虐なものに変質してしまったのかもしれない。

ローマカトリックが新教の発生と共に今までの教会のあり方を見直して現在に至るのと対照的に、「自分達こそ、(旧教の輩と違って)汚れなき者である」と主張し続けて来た人々は、随分人殺しが好きな人々になっていき、全く自分達の行動を振り返ろうとはしない。

「神に選ばれた」とか「(自分達だけは)清浄なるものである」とか、「アメリカは『神の国』である」とか言うのは、明らかな(誇大)妄想である。
民族宗教の神ならともかく、キリスト教の神が、そんなに驕り高ぶり尊大で、「自分達は選ばれているから何をやっても許される」といった論理で他国民を無差別虐殺するような信者を、そんなに高く評価するだろうか。

「汝の敵のために祈れ」と言った神がだ。

聖書を書き記したのは所詮古代ユダヤ人であり、聖書の中にサハラ以南の黒人、インド以東のアジア人、北米南米・オーストラリア・ミクロネシアの現地人の存在が書かれていないのは、単に、当時の古代ユダヤ人の知識が足らなかっただけである。

ところが、「聖書の絶対不可謬性」を盲信する人々は、聖書に出て来ない人々を「人間として認めてはならない」という、見解になりがちだ。

清教徒が最初にこの考え方を米国に伝え、英国の清教徒が奴隷貿易を擁護した。自分達は清い名を名乗り、その行動は実に血なまぐさい。

聖書が誤っていることを認めぬ代わりに、世界や現実のほうを自分達の信念に合わせようとすると、随分多数の人々の人権を侵害し、戦争を次々起こし、多数の国を弱体化させ、...たくさんの異教徒をアジア・アフリカ・南北アメリカで殺さなければならない。
実際に、合わせようと今まで努力してきたのが、アメリカ合衆国という国の「裏の歴史」ではないのだろうか。

「キリスト教原理主義のアメリカ」(p.94)では、「聖書の絶対不可謬性」を信じる信者の割合を表示している。

 ユニタリアン・ユニバーサリスト        6%
 統一キリスト教会              12%
 アメリカン・福音ルーテル教会        21%
 エビスコーパル・チャーチ(聖公会)     22%
 統一長老派教会               25%
 統一メソディスト教会            34%
 エホヴァの証人               51%
 チャーチ・オブ・クライスト         55%
 サザン・バプティスト会議          58%
 チャーチ・オブ・ナザレン          58%
 アセンプリーズ・オブ・ゴッド        65%
 ユナイテッド・ペンテコスタイル・チャーチ  69%
 チャーチ・オブ・ゴッド           80%




「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景について

アメリカに移住したピューリタンは、「キリスト教原理主義」を貫いて、「エルサレムの建国」を「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」として、西部開拓(実際は先住民殺戮)を推し進めた。

この「キリスト教原理主義」の精神性が連綿と続いているという。
「キリスト教原理主義」は聖書(:福音)絶対であるのと同時に、選民思想であるという。これが他部族みな殺しを正当化させているとのこと。

元々、ヨーロッパ自体が

「古代・地中海周辺における皆殺し戦争の結果としての共同体の徹底破壊」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=330205

により、選民思想も登場してきているという背景があります。

ヨーロッパは、17世紀中頃に徹底殺戮の宗教戦争(:「神」と「悪魔」の戦い)をやめる条約を取り交わしました。しかし、アメリカ(に渡った移民)はその後も長きにわたって、みな殺しの殺戮を繰り広げてきたことが、今尚「敵を妥協せず徹底的に叩く」という精神性に繋がっているのだと思います。

以下、

『世界を操るグローバリズムの洗脳を解く(馬渕睦夫著)

からの紹介です。
****************************

■アメリカを新しいエルサレムの地にする

イギリスでピューリタン革命が起こる前、宗教的な迫害を受けたピューリタンの一部の人たちは、新天地を求めてイギリスからアメリカ大陸に向いました。1620年にピルグルム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに渡ったのです。
ピューリタン(清教徒)というのは、purity(純水、清浄)という言葉から来たものですが、文字通り、宗教的な純粋、純化を求めていた人たちです。

彼らは、当時のカソリックの腐敗した状況を見て、ルターの宗教改革をさらに徹底してやらなければいけないと考えました。

ある意味で、キリスト教の原理主義であり、相当極端な過激な思想であったと思われます。それゆえに、イギリス国内での迫害も強かったのでしょう。ピューリタンたちはイギリスで食い詰めた最下層の人たちだったという説もあります。

いずれにせよ、彼らの一部はイギリスを逃れてアメリカに移住しました。
彼らピューリタンは、司祭の言葉ではなく、聖書の言葉こそ神の言葉と考えて、聖書の言葉を忠実に実践しようとしました。そして「この地に自分たちにとってのエルサレムを建国しよう」と考えたのです。

ピューリタンたちは旧約聖書を重視しましたが、旧約聖書に忠実に従ったという点ではユダヤ人たちと考え方は同じです。

ユダヤ人は自分達を選民と考えていましたが、ピューリタンも自分達を現代の選民と考えて、アメリカという地をエルサレムにして、神の福音を世界に伝えようと考えました。これが「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」と呼ばれるものです。建国の精神に立ち戻って考えれば、アメリカと言うのは宗教国家であることが分かります。

彼らは、神の福音を伝えることを使命と考えていましたから、それを妨害する勢力は皆敵と見なしました。その観点に立てば、先住民の殺戮も正当化されました。

そして神の福音を妨害する勢力を西へ、西へとなぎ倒していったのがフロンティア・スピリットです。フロンティア・スピリットは、ピューリタニズムと表裏一体です。
西へ、西へと進んでいって最終的にたどり着いたのがカリフォルニア。そこから先は海に遮られています。しかし、太平洋を越えて福音を伝えようと考え、アメリカはハワイ、フィリピンに進出し、さらに日本、中国にも福音を伝えようと考えました。
このように、アメリカのたどってきた歴史は、マニフェスト・デスティニーの歴史と考えると筋が通ります。


■宗教国家のアメリカには「妥協」がない

現代のアメリカには、ピューリタニズムの精神はもうほとんど残っていません。アメリカの国体はすっかり変わってしまいました。国体は変質してしまいましたが、彼らのマニフェスト・デスティニーの考え方は変わっていません。アメリカ的な発想を世界に普及させる、あるいは押し付けるというやり方を続けています。つまり、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を世界に広げることが、一貫したアメリカの世界戦略です。

彼らは、「自分達は植民地主義者ではない。帝国主義者ではない」とずっと主張し続けていますが、実際の現象を見れば、遅れてきた帝国主義者の様相を呈しています。彼らは「門戸開放」という言葉を使いましたが、言い方を変えれば、「オレたちにも分け前をよこせ」という意味です。

神の福音を伝えることが目的であったにせよ」、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を広げることが目的であったにせよ、実質的には帝国主義と同じです。

建国の経緯を見れば、アメリカと言う国の本質は宗教国家であることが見えてきます。宗教を広げることを理念としている以上、彼らに妥協というものはありません。その点を理解しておくことが重要です。宗教国家の側面は、アメリカの戦争のやり方にも影響しています。

ヨーロッパにおける戦争というのは、妥協が成立することがよくあります。17世紀に宗教戦争によって疲弊しきったヨーロッパ諸国は、1648年にウェストファリア条約を結んで宗教戦争を止めることを決めました。

宗教戦争というのは、「神」と「悪魔」の戦いですから、悪魔は徹底的に叩くほかなく、どちらかが破滅するまで行われます。続けていけば際限が無くなり、ヨーロッパ全体が破壊されてしまうため、宗教を理由とした戦争を止めるウェストファリア条約が結ばれました。

ウェストファリア条約以降は、ヨーロッパでは戦わずして対立が終わることもありましたし、話し合いによって妥協が成立することもありました。
アメリカの場合は、選民思想によるマニフェスト・デスティニーが根本にあるため、アメリカにとっての戦争は、いずれも宗教戦争的意味合いが濃く、彼らには妥協というものがありません。

第二次世界大戦においては、アメリカは日本を徹底的に攻撃して壊滅状態に追い込みました。その後の占領政策では日本の国体を徹底的に潰そうとしました。一切の妥協はありませんでした。それが宗教国家のやり方です。
今は、ピューリタニズムのアメリカ的な精神を持った人たちは、ほとんどいなくなりました。アメリカの国体が変質して、宗教国家の要素はなくなっていますが、妥協しないやり方は変わっていません。
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