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[314] 宗教とは何か
日時: 2009/10/30 11:44
名前: 天橋立の愚痴人間

「アメリカ研究<ピューリタニズム」スレッドでの返信ですが、宗教論として別のスレッドの方がよいと思いましたので立上げました。


「宗教とは何か」と言う問いに下記のような説明がある。

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則とい
う象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻
く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、
生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生
じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期
待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。


ただし、これは宗教の外見上(教団の存在)の概念については理解できるが、宗教そのものについての説明には乏しい。
概略すぎて申し訳けないが、歴史的に宗教のことを追ってみよう。

(呪術の段階)

宗教は最初、アニミズムやシャーマニズムと言う形で、生産の為の自然崇拝から始った。やがてそれが一神教とか多神教の形で神という概念を創り出した。
この段階では、個人及び生計を共にする小集団がその不安に対応するために宗教活動を行うのが中心であり、そのうち指導者が長老とか呪術者という形で出てくる。

(古代宗教の段階)

その後社会が発達し、人間の生活単位が部族から民族へ、さらに国家と広がるに従い宗教のあり方(宗教によせる気持)も複雑化し大規模となり、部族神、国家神の形をとることになる。
古代エジプト王国などは、その究極の形である。
此処では王は宗教上の最高権威でもあり、宗教は個人及び生計を共にする小集団の宗教的願いを包括しながらも統治の為の要素も宗教活動の中に入ってくる。
この時代の国家は純粋な宗教国家と言える。

続く
メンテ

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Re: 宗教とは何か 2 ( No.1 )
日時: 2009/10/30 11:44
名前: 天橋立の愚痴人間

(世界宗教の段階)

古代国家の終わり、起源前、1000〜2000年のころになると、人間の生産力もあがり、国家としての集団生活も安定してくると、人々は「人間とは何か。「宇宙とは何か」と言う領域のことにも興味を持つようになり、国家の枠組みを突き抜けた思考をするようになる。
形而上学的な哲学が興り、宗教も国家を逸脱し万人を対象とする理念が現われた。
それが、現代まで続いているキリスト教であり、イスラム教、仏教の発祥となって、くしくも起源前1000〜起源年の間に一斉に現われた。

最初に述べた「宗教とは何か」と言う問いにたいして、キリスト教については、教父と言われているアウグスティヌスの次の言葉で総括することにする。
「告白』という書物の冒頭で、「(主よ)、私たちの心は、あなたの内に安らうまで、安らぎを得ません」と述べ、キリストの教えを信じて初めて魂の安らぎを得たと告白している。
その前提に彼は「人間は貴方(神)に似せられて造られている」言っている。
言い替えれば、キリスト教の教義は、人々は、キリストの教えに学ぶ(キリストに近づく)ことで心の安寧を得るということに集約できる。

一方、同じ一神教であるイスラム教では、アラーの神に忠誠を求める。人々はそのアラーの戒律をひたすら守ることで心の平安を得ることとされている。
そのためにイスラム教の社会は、信仰という領域で中央集権的な様相が強く、ために宗教と国家が結ぶ付くことが多くなる。
イスラム教を信仰する国民の比率が多くなると、結びつかざる要素があるのである。

これに対して多神教社会で発達してきた仏教の世界では少し様相が異なってくる。
起源前5世紀に現われた仏陀の教えは「この世を苦しみ・迷いの世界と見、苦行にも悦楽にも偏らない正しい実践によってそこから脱け出ること、さらには迷いに沈む生きとし生けるものを救うことを目ざす」ことであった。
仏陀の教えの境地に達することを「解脱」と言い、それによって「涅槃」の世界へ導くことが教義とされている。
要するにキリスト教、イスラム教がひたすら神との関係を強調するのに対して仏教では各自の修練を求め、それによって各自は平安が得られるというものである。
また、仏教の世界観では「輪廻転生」を言う。これも先の2宗教とは根本的に異なり、生(人性)を宇宙の流れの中に位置づけている。
人々は個人であって個人でないのである。

このように我々が宗教と言う概念で捉えるのは世界宗教(アーノルド・トインビーは高等宗教と名づけている)のことであって、2000年の間、人類はこれに基づいて輝かしい発展の歴史を作ってきた。
ところが、この間の科学技術の発達と、それに伴って結実した経済の発達は人間社会自身の悩みを変質させることになった。


続く
メンテ
Re: 宗教とは何か 3 ( No.2 )
日時: 2009/10/30 11:46
名前: 天橋立の愚痴人間

(現代の状況)

科学技術の発達は人間の不安感から多くの物を取り除いた。
疾病は医学により克服し(不死の病に取り憑かれたり永遠の生を求める場合は該当しないが)、生きる為の糧は概ね自由に手に入る。
地震、台風などにもシェルターを準備し国家が守ってくれる。

人々が宗教を要するのは、自らが心理的困難に直面したときだけであり、それも自然的脅威は殆どなく、自ら引き起こす精神的齟齬に起因する場合が多い。

この場合、宗教の入る隙間は個人的カウンセラーの領域に押し込められている。
どちらかと言えば、宗教を求める発端は個人的なものであるはずなので、それでも良いとも言える。
一方で世界宗教が現出した意義には、個人、国家の枠組みを超えた人間社会の安寧を求めることが大切な要素でもあると思うが、実はこの面でも現代の宗教のあり方が変容してきている。

実質的に巨大組織となった各教団は、その存在意義の為に活動することが目的となることが多い。
タリバンに代表されるように、イスラム教では、宗教国家そのものを目指し、他の宗教も少なからず政治的分野で発言力を持つ事で自分の教団組織の伸張を図ろうとしている。

宗教そのものの理念とは違っても、昔から宗教と国家の関係は排除できないものであった。
であるが、宗教そのものが変質してきている現在、政治、国家との関係もそれに応じて見直されているのであろうか。

現代の宗教自身が社会の変化に十分に対応できているとは思えない。そうであるなら単に政治、国家との関係を構築することに精力を注ぐのは間違っている。
創価学会などのありようが、それを一番物語っている。

総括として、現代の宗教は世界宗教が興った時のように、人間、及び人間社会に救済の手を差し伸べることを目的とした、清新な慈愛の精神に欠けるところがある。
欠けるというよりも、旧来の教義では人々を導けなくなってしまっているのではないか。
これは、宗教の側が変質すべきか、宗教を逸脱した人間の方が修正すべきか、そのことは別の問題として検証しなければならない。

最後に、表題のピューリタニズムのことであるが、アメリカ建国時のピューリタニズムはまだしも、現代社会において、単純にそれを引きずっていることが正解であろうか。
キリスト教の教義としてのピューリタニズムは、宗教的には生きているとしても、国家、今や世界との関係においては、それがより政治的、経済的に利用されているとも考えられる。




終わり。

独断と偏見による概論でした。
も少し詳論を御願いしたいものです。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.3 )
日時: 2009/10/31 11:37
名前: 北の国から

 宗教のことは、人間のことや、人間が形成している社会を理解し、その社会をすこしても良い方向に変えていこうとするとき、どうしても理解しておく必要があるテーマですね。とは言うものの、わたしは、宗教を学ぼうという気持ちはありますが、不勉強であり、無知なのです。
 それでも、こういう掲示板、スレッドを提供されているとき「自分も少しは勉強できるかも」と思ったりしています。

 一般に、人間が行動を起こすときに「論理的思考」と「感性、感情による行動」とがあるといわれています。
 大切な家族が亡くなったりして、精神的にどうしようもなく落ち込んでしまうと、精神神経系の病気になってしまったりしますが、そこに、強力な「心のよりどころ」があると、それはそれとして、がんばって耐えることができたりします。詳しくはわかりませんが「お遍路さん」などは、人びとの長年の生活の知恵として、精神神経的なダメージを、ああいうひたすらがんばって、目的をもって歩くということによって防ぐこともできたのかも知れません。
 つまり、たぶん宗教というのは、そうした人間の思考とか力で解決できないと思われることに対する、人類数百万年の歴史の必然としてでてきたものなのでしょう。こういうプラスの効果があるわけですね。
 ところが、宗教がその規模が大きくなると、いろんな問題もでてきます。
 多額の金を集めることが可能になる、とか、科学的なことよりも、信心の深さのほうが「真理」に近づけるような気がしてきたりする、という社会の発展にマイナスの力を発揮することもできてきます。
 「選挙で、票を集めることが、信心の深さ」などと言って、選挙のときに信者を大動員することで有名な某進行宗教団体も、そうしたマイナス面を強くもっています。宗教団体が、「お金」と「選挙のときの票」を利用しようとすると、ろくなことはないのですね。
 ただ、世界の「キリスト教系9約人」「イスラム教13億人」というなかで、ひとつの国の国民が「団結」するための宗教国家が、世界の歴史のなかで、どういう風に評価されるべきかは、わからないのです。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.4 )
日時: 2009/10/31 11:56
名前: 北の国から

 天橋立さまが、明快に指摘されているように、宗教は「教義そのもの」と「組織(宗派)としてのありかた」の問題があって、こんな地の、とくに日本の宗教を考えるときに、この問題は避けられない要素となっています。
 そう考えると、やはり組織、団体としての宗教は、系列の宗派とのたたかいに勝利して、信者をふやし、献金もふやし、社会的存在感をつよめようとするのが、「教義」の正当性を主張するのに必要になります。そしてそのことは、本来の宗教の教義(たとえば日蓮のおしえ)とはかけ離れていきます。一方で、宗教団体の指導者集団は(たぶん、はじめのうちは、金も名誉もどうでもよかったのでしょうが)、教義と団体のありかたの乖離を、ねじまげたり、ごまかしたりして、信者のつなぎとめや、獲得に精を出さざるを得なくなる。
 こういう法則が働いているのではないでしょうか。
 とくに、他の宗派と激しく争っていればいるほど(たとえば、自分達以外は「みんな邪教」と強弁したりする某宗教団体)、そのごまかし、ねじまげに力が入ります。
 
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.5 )
日時: 2009/10/31 12:07
名前: 北の国から

 このこと(教義のねじまげ)が、巨大になって、なおかつ指導者(組織)が権力志向で品性の低い人間だったりすると、その影響は、その信者にとどまらず、国全体をまきこみます。
 宗教団体は、非課税であることを最大限に利用し、潤沢な資金をふんだんに使って「世論」まで金で買ったり、弁護士を養成する法科大学をつくってみたり、国はもちろん、地方自治体の議会に議員を送り込み(選挙のとくいな宗教団体として)、国や自治体の幹部クラスの人事権まで、その宗教団体のボスがにぎる、ということになってしまいます。
 民主的なルールのある政党であれば、それは、国民がなんらかのかたちで排除することはできますが、「信者」「信心」というかたちのむすびつきによる宗教団体、その宗教団体の政党は、そういう自浄作用とか、国民世論によって制御することはたいへんむずかしいものです。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.6 )
日時: 2009/10/31 12:34
名前: 北の国から

 しかし、そうした宗教団体の指導者と、そのとりまきのよこしまな計画が、いつまでもつづかない、というのも、また1つの客観的な法則であるようです。(そうでなければ世の中真っ暗ですから)
 つまり、本来、「教義」で(日蓮さんの教え)に共感して、信心しているひとも、当然宗教団体ですから少なくありません。
 そういうまともな信者さんが「うーん、いまの指導者の言動は異常」とか、関係する政党の動きについて、「何で、自民党と一緒になって、社会保障をけずったり、アメリカの戦争にまきこまれるのに賛成するのか」と、疑惑をいだくことになります。(これは、どんなに幹部や、しどうとゃがごまかそうと思っても、体験的な事実にもとづいているので、だまされにくい、という面を強くもっているのですね)。
 当然のように指導者と、そのとりまきは「巻き返し」をはかろうと躍起になります。ところが、いままでの10年間は、自民党と一緒に権力にくっついていたのが、そうでなくなったとたん、権力にくっついていたときの「うまみ」は消えうせます。巻き返しに躍起になればなるほど、不具合が露呈される。

 動物や、植物の自然界の法則をいろいろ見ていると、こういう法則が、よく見えてきますね。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.7 )
日時: 2009/11/01 09:53
名前: 役立ちの住人

人類は、多くの不幸な過ちを犯してきました。
特に先進国ほど、過去においては偉大なとされる帝国ほど、多くの重大な過ちを犯してきたと思います。

そうした過ちは、犯した側により多くの間違いの原因が、あったからではありません。
むしろ比較的間違いが少なかったために、強者として加害者の立場に回ったと考えるほうが自然です。
被害者側は、間違いを犯さなかったのではありません。対外的に間違いを犯す機会がめぐってこなかっただけです。

歴史上の不幸な事件の当事国同士の、国内状況を比較すると、多くの事例で確認できると共に、そこに有意な違いが見つけられると思います。

こうした主張は、歴史を歪曲し、罪を正当化するものだと、多くの方面から批判されるであろうと思います。
しかし残念ながら、客観的真実は、耳障りの良い、エンターテイメントではありません。
そして私は、職業科学者でも政治家でもなく、評判を気にして事実を無視する必要がありません。

一般には、他人の過ちを攻撃することによって、自らが正当化できるような錯覚をしてしまいますが、それも正しくはありません。
過ちは、どのような理論をもってしても正当化することは出来ません。
正当化に代わるものがあるとするならば、本当の原因を正すことだけかもしれません。

過ちを、更なる過ちの原因にしてしまう事だけは避けて行くべきではないでしょうか。
過ちの原因を、表面的な事実にのみ求め、それを攻撃する姿勢が、まさにそれに当たると、私は考えています。

そして現在の宗教論の殆どは、面白く解りやすいが、非常に表面的で、まるでドラマの筋書きを見るようであり。
批判対象への悪根源論で締めくくられています。

ここで私たちが、社会の問題点とその改善方法を論じることを目的としているのであれば、ピューリタニズムを考えるためには、
思想の原点である聖書との比較からピューリタニズムを生み出すにいたった思想の原点を確認しない限り、空論に終わってしまうのではないでしょうか。
しかし残念ながら、そうした派生的思想から読み解けるのは、宗教そのものではなく、その人々の要求と時代背景のみです。

メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.8 )
日時: 2009/11/01 09:55
名前: 役立ちの住人

宗教を理解するためにいろいろな説が語られてきました。
宗教という得体の知れないものを理解するためには、先ず、一番に考えなくてはならないことは、根源論です。
宗教は現象であるのみなのか、それとも実体のあるものであるのか、という議論です。
これは非常重要な意味を持ち人間の幸福という課題に対して、宗教は阿片すなわち現実逃避の手段であるのか、それとも幸福実現の実体を伴うものであるのかという意味でもあります。

これは非常に難しい大きな問題ですが、ここから始めない限り正しい結論には至らないことは、誰の目にも明らかであると思います。

マルクス以来主流になってきた主張は、現象論です。
天橋立の愚痴人間さんが、紹介くださって主張は、まさにこれにあたり、非常に客観的な印象を受けます。
そしてこれは、現代を代表する宗教論でもあります。
しかし残念なのは、こうした主張は、主張のみが結論とされ、これを裏付ける具体的な研究が無いことです。
科学の時代、歴然とした客観性が求められる科学の世界で、これは非常に特異的なことです。

しかし現象論は宗教問題を解決する根拠とはならないものの、宗教問題を非常に簡単に結論付けることを可能にします。
私たちは知性を使うことなく、宗教は無知より始まるという結論をすぐにでも導くことが出来るのです。
これは研究者にとって、また理解する側にとって、非常に魅力のある考え方であることは事実です。

もちろん実体論にもそれを裏付ける確証はありません。

どちらにも確証がない以上、どちらの意見も科学的結論として採用することが出来ません。
しかし私たちは、実際に社会における宗教の位置を決めなくてはなりません。

私は、実体論を基本として宗教を考えます。
それには理由があります。

先ず、どちらにも確証がない以上、両方どちらも排除することが出来ません。
人間としての最も基本的な権利を犯すことになるからです。
個人の権利としての宗教は、実体論は現象論を含み、現象論は実体論を含みません。
すなわち、私たちが、社会的な価値を共有するためには、実体論を前提とするほかに選択肢はありません。

第二に、経典や聖書に書かれていることは、一見非常に違ったことのように見えます。
キリストは感情的な表現を非常に重視しているのに対し、釈迦は、理論的、哲学的表現を重視します。
違う言葉によって書かれた事柄は、多くの人は違うものであると前提した上で認識します。
しかし、私は、違う言葉で書かれた同じものを、違うものと決め付けるためには、根拠が必要であると考えています。
同じように、同じ言葉で語られた違うものを、同じものであると認識するにも根拠が必要です。

しかしこれらは混同されることが、むしろ普通です。

ほんの一例ですが、神と大日如来、聖霊と諸仏、永遠の命への復活と輪廻からの解脱、根本的な世界観には非常に良く似ています。
愛を強調するキリスト教が人間の弱さを前提に、信仰心を求め思想を構成して行くのに対して、知恵と慈悲を強調する仏教が、人間の強さに期待して、哲学的にその思想を構成してゆきます。
もともとユダヤ教であったものが、キリスト教、イスラム教と、ユダヤ教を補足する形で、分かれていったのに対して、仏教は、仏説という共通の題のもとにあまりにも多くの思想的広がりを見せています。
宗教が、具体的な目標なしに、現実逃避の手段でしかないと仮定するには、あまりにも不自然です。

宗教の普遍的な共通性を、私は認め、そして実体論の可能性の大きさを強く感じるのですが、実体論を否定する根拠には未だ出会ったことがありません。
成立段階から現在に至る歴史の中で、宗教を取り巻く文化と利権、その利権の要求によって、その宗教の原点とはあまりにもかけ離れた、多くの解釈が生み出されてきましたが。
現象論は、こうした解釈を根源的なものであると仮定した、非常に短絡的な仮定の下にのみ、今のところ成り立っています。

私たちは普通、神を信じることは、非科学的であるという印象を受けます。
そうしたイメージは、現象論に知的なイメージを抱かせます。
知性を使うことなく得られる知的なイメージ。
人は自身を知的に見せるために、そうしたイメージを使おうとします。
しかし、本当に知的な人は、根拠を必要とするでしょう。

科学的推論をする限りにおいては、現象論は、無条件に信じる以外に、今のところ可能性を見出すことが難しいようです。
これが私が現象論よりも実体論が真実であると仮定する根拠の概要です。

私は、現在の社会を構成、説明することを目的とした理論を前提として、社会のあり方を語るつもりはありません。
そういった理論に固執することは、現状の問題を肯定し、さらに問題から抜け出す道をふさいでしまうことになるからです。

私が独自の哲学にこだわる理由です。
本当に理解できる理論、またはより可能性の大きな証拠にこだわる理由でもあります。
イメージや流行、情勢によって考え方を変えない理由でもあります。

しかし人間の抱える多くの問題も社会そのものも、明らかに時代と共に変化しています。

人間の幸福、社会と人間の相互的幸福を探しながら、変化を続ける社会と人間をみていると、宗教の根源的な目的と極めてよく似た目標を感じることが出来るのです。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.9 )
日時: 2009/11/01 15:19
名前: 天橋立の愚痴人間

北の国から さん、役立ちの住人さん、レスを有難うございます。
これからの社会の有様を考える時、宗教の問題は、宗教自身を云々する訳ではないのですが、宗教的なものを根拠とする社会の有様の相違を捉えるためには避けて通れないことと思います。
自分の思いを寄せ集めの資料とともに書いてみます。
先ずは宗教心そのものに触れてみたいと思います。

http://members.jcom.home.ne.jp/wadamsm/religion.htm
「信仰とは、見えない事物の確証」

信仰とは何であるか。宗教心はどうして起るか。ヘブル書は答える。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル書11章)

ここに、確信とか基盤といわれている言葉は、本質という意味もある。見えないものを信じるというが、そこにありありとした霊的実在、本質があるからこそ、それを認め得る能力を、人間は与えられている。人類と他の生物を区別する最大のものは、見えない実在に信じる感覚、すなわち霊覚を与えられたということである。
実に、宗教心の発生は、神の息が人に入れられたからである。聖書の言語では、息も霊も、同じく“ルアッハ”である。神の霊との交わりが始まり、人の魂が呼び覚まされるとき、信仰は真の力を発動する。

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(創世記2章)
時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。10そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。(エゼキエル書37章)

このように、人類発生以来、表現されるとき稚拙に思えるものもあるが、見えない世界と通じる感覚が、絶えず呼び覚まされている。霊的なものを把握しようとする心を与えられているのが、人である。魂の渇き、これは人間活動にとって、実に大きな動機である。そこに宗教がある。
人間が、古(いにしえ)から、肉眼で見えないし、なかなか掴みきれないけれど、探し、望ましめられていることがある。望むこと自身、人間の側の働きではない。何か外からの力が迫って、そうなる。
それは、何に基をおいているか。人間の肉の感覚では、曖昧なようであるが、確実な実在が、これをなさしめている。これに、何とかして、辿り着きたい。出逢いたい。
人間の力で、確認することでない。この実在の確証を得たい。霊的実在に触れ、信が目覚め、魂の感度が冴えてくると、霊界すなわち見えない霊的な世界が、ありありと分かってたまらない経験がはじまる。これが、確証である。
(以上引用)

つまりは、最初に紹介した、アウグスティヌスの言葉「(主よ)、私たちの心は、あなたの内に安らうまで、安らぎを得ません」の根拠なのですが、この文章はすでにキリスト教団からの勧誘の話しに置き換えられていて、これだけで納得も出来ないでしょう。


他方、仏教の世界ではこんな言い方もします。

「川の向こう岸(彼岸)に立ち、そこからこちら(此岸)で心を悩ます自分をみる」

仏教の世界に彼岸と此岸(しがん)という言葉があります。自分が歩いている道の横に川が流れており、その向こうに仏が悟られた世界がある。それが彼岸であり、自分が立っているこちら側が此岸です。
その彼岸に向かって歩み、到達するのが仏教家の悲願なのでしょうが、一般人には至難なことです。しかしその途中に橋が架かっており、そこを渡って向こう岸に立ち、そこから此岸で心を悩まし、色々な問題に没頭している自分を、別の自分の目で見ることができる。
その橋を仏教によって渡らせてもらい、また彼岸の心境、つまり別の目を自分が、仏教の教えを通して得られる。

続く。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.10 )
日時: 2009/11/01 15:20
名前: 天橋立の愚痴人間

始原的な宗教心を別の方向からも宗教心を見てみましょう。
http://pii-desu.hp.infoseek.co.jp/animism.htm
「シャーマニズム」

人間界と自然界がそれぞれ安定し,調和した関係にある限り,
それらの諸神霊は、和やかに人間生活を守護するものであるが,
自然がその暴威を顕わし,あるいは社会が混乱や不安に陥ると,
神々は荒々しく恐ろしいものとして現れてくる。

このような場合,もはや祭る人と祭られる神との安定した主-客関係は保たれず,
神霊からの一方的な怒りや崇めりが現れ,
特定の人々は神や霊に憑依され,自らの口をとおして神霊の意志を告げたりする。
このように,
人間と神・霊が直接接触あるいは同一化することを中核とする宗教活動をシャーマニズム
という。
ちなみに宗教というのは,
一部のシャーマンがスピリットとの交感を独占し
それを制度化・システム化することによって成立したものだといえます。

「アニムズム」

児童心理学では,子どもの原始的思考様式のことを意味している.
すべてのものが魂を持ち,かつその魂はさまざまな影響力をもっているという児童の思考様式のことをいう.
アニミズムは日本語で「万物有霊論」「物活論」などと表される。
そしてそれら生きている「モノ」と語り合う
(もしくは語源に忠実に「魅了する」)という考え方からシャマニズムが誕生したわけですから、
このアニミズムというものはシャマニズムに先立つ原始宗教の萌芽といえる。
そして現代に至るまでその影響力は失われていない。
日本における竜神・河童(河伯)・山神・風神・雷神・ツクモガミ(憑く物神)などの信仰これら全ては根底に流れるアニミズムを抜きにして語ることはできません。
また、古くから妖怪の類を表す「もののけ」は「物の怪」「物の気」などと書き、
それらが正にアニミズムの体現であることを我々に教えてくれる。

(まとめ)
人々が自然と共に生きていた時代に人類が共通して持っていた癒しの方法なのです。
また、多くの神話や妖精物語もシャーマニズム体験から生まれてきたものだといわれています。
近年、文明の行き詰まりとともに,
自然と共生するシャーマニズムの世界観が注目され、
その癒しの方法が欧米で盛んに応用されるようにもなってきました。
「生きる力」を喪失しつつあるヒトにとって今必要なのは,
さまざまなテクノロジーを駆使しつつもそれに依存してしまうことなく
同時に自らの内なる感覚をとぎすまし,
自然と対話する術をとりもどすことではないでしょうか。
(以上引用)

最後の文章は、結論じみてきてしまいましたが、ここでも述べられているように最初の宗教心は多分に幼児的なものから発生しています。
これに対して世界宗教(高等宗教)と呼ばれるものは大人の宗教心を対象にしています。
その大人の宗教心と言うものの特性は何であるのでしょうか。
大人と言う表現で示すものは、人間の人間たる所以であり、高度に発達した知性のなせる行動のことです。

続く。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.11 )
日時: 2009/11/01 15:22
名前: 天橋立の愚痴人間

(まとめ)

それでは、より高度に発達した知性はより高度(?)な宗教心を必要とするのでしょうか。
「年齢を重ねるとともに宗教心が強くなる」と言う事も言われています。
人間は、より人間的に活動するほど、より自然の法則に逆らうほど、宗教心が芽生えてくるとも想定できるようです。

否、今まではそうであったと言えると思います。
ところで、現代社会は仏教が葬式宗教と言われているように宗教に無関心、不熱心な人が多くなってきています。
このことは、既成の宗教が現代社会の人間の心を掴むことが出来なくなった結果と捉えるか、宗教心そのものが必要とされなくなったものと両方が考えられます。

シャーマニズムの最後に結んでいますように、
「生きる力(目的)を喪失し(見失い)つつあるヒトにとって今必要なのは,
さまざまなテクノロジーを駆使しつつもそれに依存してしまうことなく
同時に自らの内なる感覚をとぎすまし,
自然と対話する術をとりもどすことではないでしょうか」

一般的な人の心は自立すればするほど、生きる為の生活に余裕が出来れば出来るほどに、不安も募ると思います。
また、アニミズム、シャーマニズムの時代の不安は、人間にとってより始原的な不安(大自然の脅威、飢えへの脅威)であったのに対して、現代人の不安はより自己発生的な、それ故に多様で気儘な内容を含んでいます。

人間の社会が多くの人を抱合する共生社会である限り、人々の精神的安寧を求めねば社会の平安は保てません。
それは享楽でも倫理、道徳でも補うことは出来ないでしょう。
宗教心とはそのようなものであり、またそれ故(共生と関連する)に社会の有様とも関連してきたと思います。
宗教と言われるものが確立して以来、多くの宗教団体が政治に関わり悲劇の歴史を作ってきたのも事実です。

これは本来の宗教の使命ではなかったはずです。
ですが、はやり必要な宗教心、
これからの宗教の新しい展開に期待する必要があると思います。
有り余る物資を手に入れ、人生の半分の自由時間を手に入れた人間の為の宗教が。

(結論)
私は仏教的な世界観に基づく新しい考え方で世界の有様を説き、強いては社会学を検証し、国家を、政治を考える源にしたいと思っています。


御長読有難うございました。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.12 )
日時: 2009/11/02 16:48
名前: 反戦主義者

愚痴人間 さんが、せっかく「締め」を為さいましたが、私の宗教観も一言言わせて下さい。

動物の内、“心”と言う意識を持つ人間が生み出した、宗教=信仰は、突き詰めて言えば、「人間の心の弱さの発露」だと思います。
其れは初め、自分を取り巻く森羅万象に宿る超自然なモノを、己に勝る力を持っている“精霊”として崇める事から始まる、即ち“アニミズム”が宗教の淵源であろうと思います。
その内人間は集落と言う社会を形成する様になり、その社会を纏めるリーダーが自然発生的に生まれるのですが、そのリーダーに成るのは血統的に他人より優れた経験を積んできたり、又は他人より好奇心旺盛な血統の者がカリスマとなり、リーダーの任を背負います。此れがシャーマニズムのシャーマン=占い師です。
往時、未開の土地には必ずシャーマンが居ました。原始宗教の芽生えです。
此の時期までは、人間対超自然なモノとの関係を主眼にした考え方で、自然界に於ける人間の生存を願望した手立てでした。
その内に、コミュニティが大きくなり“クニ”的な物に成って来ると、仏教を初めキリスト教やイスラム教以前の原始宗教が生まれ、エジプト、ギリシャ、ペルシャ、などで隆盛を見ます。勿論インドのバラモン教もその範疇に在ります。
此の時期、宗教は統治の為に統治者が即ち神であるというスタイルの宗教で“政教合一”になって来ました。

時間が足りませんのでページを変えます。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.13 )
日時: 2009/11/02 17:48
名前: 反戦主義者

その内に先ず、釈尊が、その次にキリストが、そしてムハムマドが、為政者を抜きにした、仏又は神と人間総てとの対比として、宗教を作り直したのです。
(申し訳有りません、残念ながら“ヒンドゥー”に関するその概略すら存じませんのでご存知の方はお教え願います。勿論キリスト教は窓から覗く程度、イスラムは針の穴から見る程度ですが)

その何れもが本来“一神教”だった物が、特に仏教については伝承・伝播の過程で、多神教の様な物に変容して行っています。特に密教系の宗派にその傾向が顕著です。真言宗に見られる“曼荼羅”などその最たる物です。

この際キリスト教、イスラム教、は措いて置き、日本で本流を占めている仏教と言う宗教を考えて見ますに、私が勝手に呼称して居ます「観光仏教」即ち「京都五山」「南都七大寺」などの寺は総て「多尊仏教」で、市民の殆どは仏教と言えばほぼ総てこう言う仏教をイメージするのではないでしょうか?
此の流れを打ち破ったのが、親鸞で、釈尊は仏の教えを開いたが、我々衆生が恃みとするのは「阿弥陀如来」ただ壱尊である。と唱えたのです。

して見ると、門徒衆で有る私は「一神教」の信者と言う事になりますが、信仰心の濃淡に依るとは言え、他の宗教ほど過激な言動を取らないのは何故でしょう? 多分上記の古典仏教の色んな仏と接する機会が多く、宗派を超越した仏教に馴染んで来たからではないでしょうか?

私に於ける宗教とはこんな物で、この「エエカゲンさ」が幸いしているとも言えるでしょう。
メンテ
文化人類学的考察 1 ( No.14 )
日時: 2009/11/02 19:31
名前: 天橋立の愚痴人間

私は一神教の世界と多神教の世界の違いに興味を持っています。
その違いを少し追って見ましょう。
以下は、旧掲示板の「大和魂」スレッドより抜粋して再掲します。

信仰心の文化人類学的考察

古代日本の世界 「怨霊伝説」

人類には既知の生活圏内においても、どうしても克服できない恐怖が付きまといます。たびたび襲い掛かる地震や噴火などの天災、疫病です。昔の人は、これらの原因を科学的に理解することができず、従って解決できなかったのです。この未知なるものへの「恐怖」が、神や悪魔、亡霊や怨霊といった存在を生み出したのです。

人類は、これらを敬い供養を重ねることで、「未知の恐怖」を克服できると信じるしかありませんでした。近世に至るまで、天災や疫病や精神病といった「目に見えない恐怖」は、悪魔や怨霊の仕業と信じられていました。それが西洋(キリスト教圏)では悪魔、我が国では怨霊伝説として残っています。

まず、怨霊とは何か?それは、恨みを呑んで死んでいった人の霊魂です。怨霊は、一神教世界の悪魔と異なり、個別的で具体的な存在なのです。東洋世界では、怨霊は、恨みを晴らすために仇の命を付け狙い、あるいは天災や疫病を引き起こす邪悪な存在だと考えられていました。これを退治する方法は、供養を重ねて怒りを和らげることで、成仏してもらうしかありません。あるいは、仇討ちを成就させてあげるしかありません。

歴史的に見て誰もが認める怨霊としては、崇徳上皇、菅原道真、平将門、佐倉惣五郎、西郷隆盛などがある。また、最近では、これに加えて、一部の歴史家、小説家が検証した怨霊としては、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王、藤原三代などがある。

これら、怨霊となった人々の共通点は、いずれも不慮の死を遂げていることである。しかも、これらの人々は、理想を掲げて活動していたが、政敵により殺害された人達である。そして、崇徳上皇、菅原道真のように政敵に対して深い恨みを抱き、後世に災いを引き起こしたと見られている。
 
権力者(藤原氏)は、自身の後ろめたさから、民衆と一緒に道真を「天神様」として祀りあげるのである。これにより、権力者自身、道真と民衆から、許しを請うているのである。そうすることで、怨霊も民衆もそれ以上は、権力者を憎むことはなかった。

これこそが、日本の「怨霊思想」である。一見、非科学的な、祟りの話であるが、その中身は、政治、人事に対する民衆の怒り、それに対する、権力者の贖罪、そして、新たな平和の到来、といった政治問題の解決の手段なのである。

出雲大社の謂れにしても、それはヤマト王権成立の過程で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が葦原中国(あしはらなかつくに、日本の古称)を天孫に譲った功績に対して、アマテラスオオミカミ(天照大神)が造営してやった壮大な宮殿とされているが、実際は「オオクニヌシノカミは本心から納得して素直に国譲りをしたのではない、戦いに破れて激しい怨念を抱いたままこの世を去ったというのだ。その怨霊を鎮めるため、幽事(あの世のこと)の支配者としておだて上げ、その宮殿としてアマテラスオオミカミの子孫の住まいより大きい大神殿を建ててやった」と主張されている歴史家がいます。

続く。
メンテ
文化人類学的考察 2 ( No.15 )
日時: 2009/11/02 19:33
名前: 天橋立の愚痴人間

「西欧の悪魔」

これに対して悪魔は、主にキリスト教やイスラム教といった一神教世界に登場する存在であり、唯一神と対立する概念です。神=善、悪魔=悪と考えるのが一番簡単なのですが(ゾロアスター教ではそうなっている)、キリスト教世界などでは、神と悪魔はしばしば混然としています。人間の態度いかんで、神が悪(=天罰)を為すこともあるからです。

欧州のキリスト教会では、悪魔は人間の心の弱さに付けこんで、心を腐らせる邪悪な存在であると教えていました。庶民は、教会に縋り正しい信仰を守ることを怠れば、弱い心が悪魔に食われてしまい、神の御許に辿り着けなくなるというのです。つまり悪魔は、個人の信仰を揺るがせる「恐怖」なのです。天災や疫病は、むしろ、人間が悪魔に負けて正しい信仰を失ったことに対する「神が下した天罰」と考えるのです

ゲーテの『ファウスト』は、悪魔を描いた傑作です。主人公の学者ファウストは、老齢になって「本当の人生の満足」を得ていないことに気づきます。悩み苦しんだ彼は、悪魔メフィストと、ある契約を結びます。悪魔が彼に「本当の人生の満足」を与えてくれるのなら、魂を悪魔に献上するというのです。様々な冒険を経て、ついに本当の幸せを知ったファウストは、心からの満足とともに地獄に落ちるのです。

ウイリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1974)は、悪魔祓いの物語です。主人公のカラス神父は、少女リーガンの体内に巣食う凶悪な悪魔を撃退するのですが、自らは命を落とします。ショッキングな悪魔描写が話題を呼び、1970年代のホラーブームを生んだ傑作です。

他にも沢山ありますが、悪魔が登場する物語は、人間の実存を巡る哲学的なテーマが多いようです。そして、ほとんどの物語がアンハッピーエンドです。悪魔は退治されず、主人公は堕落するか命を落とすのです。

このように一神教世界の悪魔は、神と表裏一体の概念となっていて、神の世界を守護するために使われます。

ヤマト民族が、お互いの生活の平穏のために怨霊を祀り「和」を望んだことと随分と異なるようです。
これは後に記述する、アングロサクソン、ゲルマン民族との性格の比較にも通じることになってきます。

続く。
メンテ
文化人類学的考察 3 ( No.16 )
日時: 2009/11/02 19:35
名前: 天橋立の愚痴人間

「日本の龍神伝説」

日本の竜神伝説を2つ紹介します。

「大分県 震動の滝の竜神伝説」

昔々、震動滝の竜神が年老いてきて、神通力が年々衰えるのを苦にし
どうにかして若い人間を食いたいと願っていた。
ある日北方の釣り人に神通力を送った。それとは知らずいつもよりよく釣れるので釣り人はとうとう滝つぼまで引き寄せられて竜神につかまった。

竜神が「不老長寿の薬にお前の娘をどうしても食いたい。
差し出さねばお前を食うまでだ」と迫ったので釣り人は恐ろしさのあまり
娘を捧げる約束をして逃げ帰ったと。

しかしいつまで待っても娘が来ないので竜神はとうとう怒ってしまい
神通力で部落の底を抜いて水を抜き捨ててしまった。

田も畑も作物は枯れ、井戸水もなくなり部落は最大の危機に見舞われた。
そして竜神は最後の力を振り絞り、断崖をよじ登り部落に火を吹きつけ始めたと。

そこで娘の恋人の若者が一計を思いつき部落総出で白鳥神社に集まり
餅をつき不老長寿の祈願を受けて竜神に捧げた。
竜神も白鳥神社には一言もなく引き下がり、部落は難儀を救われた。
その後天災や大水の出るたびに部落では餅をつき、滝つぼに投げ入れて
竜神の機嫌をとるようになったと。

竜神が崖を這い上がった時の跡が今も残っていて、白崩れとか竜神崩れとかいって
白鳥神社の横に大きく口を開けていてのぞくと恐ろしいということじゃ。



津南町立芦ヶ崎小学校編  「竜ヶ窪に伝わるお話」より

ある年長い日照りが続き、村人はヒエやアワどころか水一滴なく苦しい生活をしていました。

ある時一人の青年が食べ物を探しに出かけると、昼寝をしている龍の側に卵があるのを見つけ、 盗み出しました。村に帰り、せめて年寄りや子供にだけでも食べさせようと卵を割ると、 中から龍の子が現れ母親に助けを求めたのです。怒りに狂った母親龍が村人を食い殺そうとすると、 村人は「子供だけは助けてほしい」と必死で頼みました。

龍はその心に打たれ、村人のために3日3晩雨を降らせ池を作ってやりました。 そして「この池はおまえたちの美しい心の象徴だ。しかし人の心の曇るとき、この池は涸れてしまうであろう」と言い残して消えました。 村人はこの池を『龍ヶ窪』と名付けて大切にし、龍神様をおまつりしたということです。

続く。
メンテ
文化人類学的考察 4 ( No.17 )
日時: 2009/11/02 19:36
名前: 天橋立の愚痴人間

「悪の化身 西洋のドラゴン」

 序章で前述したように、龍は古代中国において四神・四霊などの一つに数え挙げられ、神獣や瑞獣とみなされてきた。また中国では、龍は天子を意味するものであり、天子に関する事柄に用いられ、さらには英雄や豪傑をたとえるものでもあり、特に優れていることを指している。

ところがヨーロッパにおいては、伝説上の怪獣・ドラゴンは中国の龍に近い形態を持つ動物であるにもかかわらず龍とは異なる立場に位置し、強い力・暗黒・暴力を象徴するものとされている。

ヨーロッパで描かれる典型的なドラゴンは、頭に角を持ち、胴は緑や黒っぽい色の鱗におおわれた蛇、あるいはトカゲのような爬虫類のもので、西洋における龍の名「ドラゴン」はギリシア語の「ドラコーン」を由来とし、「ドラコーン」とはすなわち蛇を意味している。獅子の前脚と鷲の後ろ足、サソリの尾などを持つものとして描かれており、また特徴として、コウモリのような翼を有している。

この翼を用いて天空を飛翔し、口から火と煙を吐くとされている。また太古の昔、人類登場以前に存在していた恐竜に似た姿をしてもいる。このようにドラゴンはいくつかの動物が組み合わされた形態を持っていた。

 強い力・悪を象徴する西洋の龍=ドラゴンは、神話や物語、伝説の中では神々と対立する存在として登場する。その多くが神々の敵として悪魔視されており、その姿を変えることなく人間を襲うドラゴンは、聖人・英雄に悉く退治されてしまうのである。ギリシア神話の中ではヘラクレス、ゼウス、アポロンをはじめとする多くの神々・英雄たちによるドラゴン退治の話が語られている。

特にキリスト教では、ドラゴンは秩序を乱す悪(=異教徒)として邪悪、醜悪なものと見なされていた。『新約聖書』ヨハネの黙示録には、巨大な龍または年を経た蛇が天上で天使ミカエル等と戦った末に敗れ、全人類を惑わす者、悪魔・サタンと呼ばれ、地上に投げ落とされ、地下深くに閉じこめられたと記されている。

この中に登場する龍は、火のように赤い大きな龍で、七つの頭、七つの冠に十本の角を持ち、一度に天の星の三分の一をなぎ払ってしまうような尾を有する強大な怪物であった。聖書においてのドラゴンは、何か実在の生き物を表わす言葉として使用されているのではなく、むしろ邪悪・悪魔といったイメージの象徴的な意味を表わすものとして描かれている。

その他、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧などヨーロッパ各地の至るところに神々・英雄によるドラゴン退治の物語が残っているのみならず、数多くの絵画や彫刻などにもモチーフとして用いられてきた。

続く。
メンテ
文化人類学的考察 5 ( No.18 )
日時: 2009/11/02 19:37
名前: 天橋立の愚痴人間

(まとめ)

如何でしょうか、日本の竜神伝説の優しい事が御分かりと思います。
怨霊伝説、悪魔伝説と同じように人間の恐怖心の裏返しで各種の伝説は言い伝えられています。

その恐怖とは何であったのでしょうか。

一番に考えら得ることは餓えへの恐怖、つまりは作物の不作だったと思います、狩猟や漁業の成果を祈願する面もあったと思いますが、これは古代のことである程度は安定していたでしょう。

その次には、生命の不安だったでしょう。
疫病、戦い、さらには権力者にとっては永遠の生命を求めていたかも知れません。

そう言うものの対象が水生動物としての龍(ドラゴン)へ向かったともいえます。また、荒れ狂う大河の流域の人々が大河を恐れたのかも知れません。

ヨーロッパではドラゴンは悪魔のように恐れられる存在だけであった事と、中国などでは権力の象徴としてより用いられたことなど、それぞれに民族性が感じられます。

一神教の影響が強いヨーロッパは、あくまでも善をなすものは神のみであり、全てをそれと対立して考える方向が強いようです。
ですからドラゴンはあくまでも人々に害をなす存在として恐れられ、祀られてきたと思います。

それと対極にあるのが日本で、龍をも篭絡し人々に善を成す存在に置き換えています。龍神を手厚く祀ること(自戒すること)によって豊作が得られると言うことです。

割愛しましたが、中国では、人々のそんな思い(豊作祈願)よりも、為政者の威光のために龍が用いられてきたようです。

ヨーロッパや中国などでは、これから述べることになりますが、国家や群落同士が血で血を洗う闘争が続いていました。豊作よりも戦いに勝って生き抜くことの方が重要であったとも思います。

また神と個人の対話を旨とする一神教が育っている社会では、集団としての祈願などは興味がなかったのかも知れません。


一神教の世界と多神教の世界を一部の事例で検証して見ました。

日本は良い国の形をしていると思いませんか。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.19 )
日時: 2009/11/03 00:26
名前: 反戦主義者

大変失礼ですが、お許し下さい。

宗教を考察する時、その宗教に教義・経典の有る無しで、それが宗教か宗教で無いかを峻別しなければ成りません。
教義・経典のないものは迷信又は土着習俗に属する物で、アニミズム又はシャーマニズムで有ると思います。

此処では日本に限って考えを述べますが、日本へは仏教伝来と相前後してその他の色んな“教え”が這入って来ています。易経、陰陽道、道教、その他、これ等が混然と交じり合って昔からの色んなシキタリや生活指針を形成し、庶民の色々な規範を作り上げたりして居ます。我々が佛教から来た教えだと思っている物が、実はそうではなく他の教えだったりします。
例えば、「嘘を吐いたら閻魔様に舌を抜かれるぞ!」と言われた「閻魔様」は、仏教には全く存在を述べられていません。閻魔様は道教から来た諸神の一つです。日本に渡ってきた道教の閻魔様が、何時の頃からか仏教と結び付いて庶民を導くネタと成ったのです。
又、修験道などもアニミズムとシャーマニズムが交じり合い、おまけに其処へ密教が結び付いたと言う、実に複雑怪奇なものです。しかし我々は其れを特に咎め立てする事無く、一種の生活の潤滑油のような感覚で受け入れていまして、其れはそれで良いのですが、明確な宗教としては普遍性に乏しい所が有るのです。

少なからず、小生意気な事を申しまして、ムカツク奴!とお思いでしょうが、悪しからず。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.20 )
日時: 2009/11/03 02:01
名前: 役立ちの住人

常に絶対的な理想を意識する西洋思想は、排他的な価値観と、独立志向を同時に発揮し、ヨーロッパの多様性を現代にまで引継ぎ、国家間、民族間の競争と発展を支え続けたのに対して、
多様性を許容する東洋的な価値観は、統一国家の形成維持を助け、巨大権力の前に、個々の多様性を埋没させていったのは、非常に皮肉な結果であったといえます。

世界の最先進国であった古代支那とヨーロッパ諸国の今日に至るまでの、その後の歴史は、対外的な侵略行動でも対照的な行動を見せます。
中国政府の興味は、民衆の支配にのみ注がれ、アメリカ大陸を最初に発見した、中国の調査団は、学術資料としての価値以外に利用されなかったのに対し、
その後遅れてアメリカ大陸を発見した、ヨーロッパは、侵略に乗り出します。

中国を凌ぐ世界最大の国家を侵略によって達成したイギリスは、民族の多様性を包括できず、多くの独立国家を生み出すことになります。

多様性と排他性、相対する二つの価値観は、状況に応じて、全く逆の効果を発揮します。

日本の政治において、現状を理解し、国のあり方を考える上では、どうでしょうか?
単に排他性、寛容性が、言葉道理の効果を生むわけではありません。

さらにそれらを生み出す、根本的な価値、目標を明確に意識しない限り、私たちは、意思に反し、これらに操られてしまうことになるのです。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.21 )
日時: 2009/11/03 04:30
名前: 天橋立の愚痴人間

役立ちの住人 さん、毎度です。
まず、

>大変失礼ですが、お許し下さい。
>少なからず、小生意気な事を申しまして、ムカツク奴!とお思いでしょうが、悪しからず。

これは止めていただきたく思います。私は、田舎に住むいい年をした建築士に過ぎなく、いろいろな方の話や、ネット検索で知識を仕入れて一端の意見を連ねているのです。

私流に拘っていますのは、現在は西欧思想(文明)が世界を席捲し、民主主義の元に、誰もそれを疑うことなくのめりこんでいるようです。
しかしながら、その民主主義にも限界と言いますか、瑕疵もあるのです。
経済的な豊かさ、豊富な物資、情報が、そう言う面を強くしているのではないかと思います。

そうかと言って、民主主義の利点は余りにも魅力的であります。皆さんにそれ(瑕疵の面)を指摘しても殆ど理解されないでしょう。

こう言う意味で、西欧に対する反西欧的な(日本的な)ものの源流を探るつもりで昔の事に触れています。

>宗教を考察する時、その宗教に教義・経典の有る無しで、それが宗教か宗教で無いかを峻別しなければ成りません。

と御指摘の様に、宗教論としては中へ踏み込んではいないと思います。

>日本へは仏教伝来と相前後してその他の色んな“教え”が這入って来ています。易経、陰陽道、道教、その他、これ等が混然と交じり合って昔からの色んなシキタリや生活指針を形成し、庶民の色々な規範を作り上げたりして居ます。

実際はそのようですね。

>常に絶対的な理想を意識する西洋思想は、排他的な価値観と、独立志向を同時に発揮し、ヨーロッパの多様性を現代にまで引継ぎ、国家間、民族間の競争と発展を支え続けたのに対して、
多様性を許容する東洋的な価値観は、統一国家の形成維持を助け、巨大権力の前に、個々の多様性を埋没させていったのは、非常に皮肉な結果であったといえます。

言葉を変えれば、貴方と同じようなことを言いたいのです。

>中国政府の興味は、民衆の支配にのみ注がれ・・・アメリカ大陸を最初に発見した、中国の調査団は、学術資料としての価値以外に利用されなかったのに対し、
その後遅れてアメリカ大陸を発見した、ヨーロッパは、侵略に乗り出します。

この点も面白いですね。
大体において、中国は無信仰の民族のようです。
指摘された道教、その前の儒教なども為政のための思想であり、民衆の信仰の対象となるようなものは仏教でさえ日本ほど広まることは無かったようです。

華僑という集団がいますので、中国民族が侵略的でないとは思えませんが、少なくとも華僑においても他国そのものの支配よりも、個人的な富の収集にのみ興味を持っていることもキリスト教圏の民族との違いと思います。

>多様性と排他性、相対する二つの価値観は、状況に応じて、全く逆の効果を発揮します。
>日本の政治において、現状を理解し、国のあり方を考える上では、どうでしょうか?

この御指摘の意味も解るような気がします。
しかしながら、私が言わんとしている対象は、西欧文明そのものを批判しようとしているので、西欧文明の様相を受け入れた上での議論からは外れているかも知れません。

また、西欧文明を否定しているのではありません。
現代社会が持つ矛盾を根本的に考える時、既成のものに拘らずに考えようとしています。
そうかと言って、結局は先祖帰りして古代の検証に走っているのですが。

要するに、これからは東洋的な発想(文明)が世界に展開される方が人類の為になるのではと思っているのです。
世界の人口の大半は、それを受け入れられる下地があるのではないでしょうか。

大風呂敷も度がすぎているのは解っているつもりです。
貴方の御意見も全て私の収納庫に入ってきます。
宜しく御指導下さい。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.22 )
日時: 2009/11/03 04:45
名前: 天橋立の愚痴人間

役立ちの住人 さん追伸です。

いろいろな方に紹介しているのですが「るいネット」と言うサイトがあります。

ここも現在の民主主義的考え方そのものに疑問をもち、「共認意識」と言う観点から、新しい価値観を生もうとしているサイトです。

その内容については私は賛成しませんが、すごく大規模(アクセス数は1日に数千あるのではないでしょうか)で熱心にやっています。

賛成しなくても、参考になる意見は随分とあります。
主唱者は「類設計」と言う建築家です。

私と違って全国ネットで営業をしている大組織ですが。

まだ御覧になっていなければ、一度行かれることを勧めます。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.23 )
日時: 2009/11/03 11:25
名前: 役立ちの住人

西洋人、中国人、日本人と非常に乱暴なわけ方をするなら。
それぞれの特徴として、独自の正義、利己性の追求、人とのつながり、という傾向が認められるかもしれません。

私は社会を考え理想を描く上で、視点の高さ、つまりどのような立場でものを見るのかという視点が、鍵になると考えています。

そしてそれぞれの価値観を、より高い視点で発展させたとき、共通の認識が生まれてくると考えています。

人間にも民族にも個性があり特長があります。
それらを否定することなく発展させ、包括できるものが理想であると考えるのです。

同じ目的地を目指すにも、それぞれの立場によって違う道が用意されています。
仮に道は一つずつあるとしても、常に前進と後退という複数の進路があります。

個人という小さな視点ではなく、社会という大きな視点に立ったとき、自身がどちらを向いているのかが、見えてくるように思います。

西洋文明が優位な時代、民族の個性が西洋文明に侵され、失われようとしています。
どのような文化を前提としようとも、決して変わることのない法則があります。
一人では生きられないこと、支配や暴力は共有できないことなどです。

個性と法則からの逸脱が、混同されているところに、西洋文化に駆逐されて行く多くの文化の弱点と、西洋文化の過ちがあります。

理想を語る以上、天橋立の愚痴人間さんと私の目指しているものに、他のかたがたも含めて、大きな違いは無いことは疑うまでもないでしょう。
個々の文化の違いがそうであるように、方法論は個人によっても無限にあると思います。
理想を実現するには、時間がかかっても、同じ日本人は同じ方法論を共有できるまで、互いに学び合わなくてはならないことになります。
私は苦痛にはなりませんが、よろしければ気長にお付き合いください。

るいネットですね。
ありがとうございます。
行ってみます。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.24 )
日時: 2009/11/03 23:14
名前: 役立ちの住人

類ネット、差即見てきました。

なんだかものすごい理論の展開で、びっくりしました。
人間は、セックスのことだけ考えて生きているわけじゃない
そんなに無理をしなくてももっと簡単なところに真理はあると思いますが。

このサイトの何が人をひきつけるのでしょうか?
そこに興味があります。



私も、人類の起源を含む、役立ちの世界を書きましたが、人間観、社会観に決定的な違いがあります。

仕事を通して、社会や消費者への役立ちに喜びを感じ、妻の笑顔に喜びを感じ、子の成長に喜びを感じ、年老いて社会の役に立てなくなったとき、人生を振り返ってにっこり微笑むことが出来。

役立ちを追求することで経済的な豊かさを追うことも、質素でも精神的な安定を追うことも、自由に選ぶことが出来。

もし不幸にして意思に反し、そのような結果の幾つかを得ることが出来なかったとしても、社会の意思として、誰もがその機会を公平に受けることが出来たら。

それが理想の社会だと思います。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.25 )
日時: 2009/11/04 00:26
名前: 天橋立の愚痴人間

見られましたか!

若い人が多いと思いますが、あの情熱には感心します。
それでも、思念で社会を統一しようとすんることには賛成できませんね。
行き着くところにカルトを感じます。

高校生とか、大学の教養部程度には奨めますが、それ以上の年齢に人には卒業願いたい理屈です。

随分以前のことですが、私も数回投稿した事があります。
礼儀をわきまえて柔らかく批難をしたのですが、いろいろな人が拠ってきたことを思い出します。

それでも、猿の社会の研究とか、古代の人類に触れているものとか、文章そのものには沢山の参考になるものがあります。

こう言う理屈の領域に飢えている若者もいると言う証明ですね。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.26 )
日時: 2009/11/04 20:07
名前: 反戦主義者

もうかなり以前ですが、私も偶然此のサイトに出くわしました。

端的に私の感想ですが、「一抹の危うさ」を感じました。

類塾にも関係有るのかどうか知りませんが、

その時見た、断定的な、そしてファシズム的な、論調は、

「チョッと怖いな」と思いました。

将に、愚痴人間さんの仰る“カルト”の匂いが致しました。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.27 )
日時: 2009/11/05 01:18
名前: 天橋立の愚痴人間

反戦主義者 さん、貴方も御存知だったのですか。

あそこでは投稿文に優劣を付け、佳作、秀作などに挙げていますね。
幹部と思わしき人を特別扱いしています。

すでに大衆誘導されている事を多くの投稿者自身が気が付いてないように思います。

将来は、こう言う狂信的な階層と、ただ享楽を追い求めている階層に極端に分かれてくることを心配します。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.28 )
日時: 2009/11/06 01:28
名前: 役立ちの住人

これからもこうした組織はたくさん出てくるでしょうね。

そこでの主張は、あまりにも幼稚な理論です。

たとえば、世の中の多くの人が、正義とは何か、といった質問にすらまともに答えられません。
多くの若者が、善悪を見抜けないのはもっともなような気がします。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.29 )
日時: 2011/06/28 12:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:CY.ZlSS2

このスレッドは「アングロサクソン研究」スレッドと共に「アメリカ研究<ピューリタニズム」スレッドの補足のために書いています。

すでに書いていますようにキリスト教は神とイエスと子の三位一体の思想に基づき、神と子(人間)の個人の関係を基調としています。

そこには多神教が説くような共生のための倫理感はありません。
神の教えを守ることが問題とされています。

であるので、神との対話以外のことについては自由裁量となります。
キリスト教を信じる人たちは一見、我々と同じような倫理感を持っているように思われ、伝道者の献身の前に大層優しい宗教に見えますが、一方十字軍の遠征など、安藤氏が指摘されているように残忍な行為も平気でやります。

そういうものが資本主義と結びついたときに、原理原則の背後で、どんなたくらみをも正当化することに不思議はありません。
これがアングロサクソン流であり、表面のキリスト教的博愛精神に誤魔化されてはいけないのです。

メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.30 )
日時: 2011/06/28 12:16
名前: 手塚 青山 ID:.llqgAmA

日本人なら 武士道 を勉強せい、日本人の矜持です。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.31 )
日時: 2011/06/28 12:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:CY.ZlSS2

手塚 青山 さん、

このスレッドでの意見であれば、少しは内容を見てからにしていただきたい。

何回も「武士道」に触れられていますが、武士道を何と認識されているのでしょうか。
正式に言う「武士道」とは、サムライのイメージでも、大和魂のイメージでもありません。

メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.32 )
日時: 2013/05/26 13:44:40
名前: 天橋立の愚痴人間

「当代世間騙し装置」スレッドで、文化論(宗教論)に話しが行っています。
現代社会の矛盾に対応するに、此処までのことを問題意識しなければならなくなっているのです。
過去の投稿の中の一例を転載します。
今は出て来られなくなった、役立ちの住人さんの意見で、アングロサクソン云々をするよりも、まず、我々自身が我々自身の生き方を捉えることの必要性を説いておられます。
このスレッドを始めから見直していただければ、なを、解りやすいと思います。
ですが、今から思えば、通り一遍の理想的、思想的な局面からの把握に偏り、もう少し、どろどろとした要素に踏み込む事ができていなかったように思います。
そこのところを、皆さんで続けていただきたく思います。

(再掲)

日時: 2009/11/03 02:01
名前: 役立ちの住人


常に絶対的な理想を意識する西洋思想は、排他的な価値観と、独立志向を同時に発揮し、ヨーロッパの多様性を現代にまで引継ぎ、国家間、民族間の競争と発展を支え続けたのに対して、
多様性を許容する東洋的な価値観は、統一国家の形成維持を助け、巨大権力の前に、個々の多様性を埋没させていったのは、非常に皮肉な結果であったといえます。

世界の最先進国であった古代支那とヨーロッパ諸国の今日に至るまでの、その後の歴史は、対外的な侵略行動でも対照的な行動を見せます。
中国政府の興味は、民衆の支配にのみ注がれ、アメリカ大陸を最初に発見した、中国の調査団は、学術資料としての価値以外に利用されなかったのに対し、
その後遅れてアメリカ大陸を発見した、ヨーロッパは、侵略に乗り出します。

中国を凌ぐ世界最大の国家を侵略によって達成したイギリスは、民族の多様性を包括できず、多くの独立国家を生み出すことになります。

多様性と排他性、相対する二つの価値観は、状況に応じて、全く逆の効果を発揮します。

日本の政治において、現状を理解し、国のあり方を考える上では、どうでしょうか?
単に排他性、寛容性が、言葉道理の効果を生むわけではありません。

さらにそれらを生み出す、根本的な価値、目標を明確に意識しない限り、私たちは、意思に反し、これらに操られてしまうことになるのです。

(終わり)
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.33 )
日時: 2013/05/28 14:59:42
名前: 北川景子

宗教とは

宗教とは
一人で安定な心を保つ事ができない人々に対して
心のフォローをされる大切な心

じゃないでしょうか?
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.34 )
日時: 2013/06/17 00:11:56
名前: 神道・・・天橋立の愚痴人間

神道について、

私は、今年から地元の神社総代をする事になり、なじみのない神道の事に関与させられています。
私の村(氏子の対象となる人口は2000人くらいです)には大小、4つの神社があります。
其のうちの一番大きな神社の総代で他の神社も総括する立場です。

その神社の創建の謂れは、450年頃と言われているので、大和朝廷成立以前かも知れません。
今でも春の例祭(村祭り)、節分祭、初午祭、村祈祷、厄除け祈願祭など、神道にまつわる行事を続けています。

最近では氏子として参加していただける家庭は300軒くらいに減っています。
特に若い方の神社、神道に対する理解は、あまり望めなくなっています。

それで私は、村祭りなどの行事を通して、氏神信仰などを紐解き、神社は皆様の生活とともに守り継がれてきたものであり、この地域の鎮守さんとして、氏子であろうが、氏子になっていただいてない人であろうが、神社の立場からは、宗教的に遺棄するする方以外は全て氏子の対象として見守り話しかけたいと常々表明してきました。

ところが、最近、この地方の神社総代が集まる会合がありまして、100名近く集まる、其の会合(総会)に出席したところ(人口4万人くらいの地域でも神社の社は200近く在るらしい)、いきなり天照大神がおわします伊勢神宮に向かって拝礼しろと言う事です。
まあ、神様の親分として、それでも敬意を表したところですが、続いて国家斉唱を言われると、もう神社総代など投げ出してやりたい気分となりました。

日頃、氏神信仰は、我々の共生のための心の拠り所と訴えてきた私にとって、国家神道のシステムに組み入れられていることは、今後、地元の神社を見守り、神社の賑わいを勧める気持ちが萎えてしまいました。

未だに政治に結びついている神道であっては、宗教として期待できないものであります。

このようなものが、日本の国の心では決してないと思います。
「大和魂」スレッドで、日本の心のルーツを探っていますが、神道とは、こんなものであってはならないと思いますし、神道の発祥の意味も、これとは違うと思います。

葬式仏教、国家神道など、日本の心は死んでしまっているようです。

メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.35 )
日時: 2013/08/18 15:54:54
名前: 現代の宗教心・・・天橋立愚痴人間

このスレッドのNo2のレスを再掲します。

古典的宗教観は、標題とNo1のレスで言っています。

日時: 2009/10/30 11:46
名前: 天橋立の愚痴人間

(現代の状況)

科学技術の発達は人間の不安感から多くの物を取り除いた。
疾病は医学により克服し(不死の病に取り憑かれたり永遠の生を求める場合は該当しないが)、生きる為の糧は概ね自由に手に入る。
地震、台風などにもシェルターを準備し国家が守ってくれる。

人々が宗教を要するのは、自らが心理的困難に直面したときだけであり、それも自然的脅威は殆どなく、自ら引き起こす精神的齟齬に起因する場合が多い。

この場合、宗教の入る隙間は個人的カウンセラーの領域に押し込められている。
どちらかと言えば、宗教を求める発端は個人的なものであるはずなので、それでも良いとも言える。
一方で世界宗教が現出した意義には、個人、国家の枠組みを超えた人間社会の安寧を求めることが大切な要素でもあると思うが、実はこの面でも現代の宗教のあり方が変容してきている。

実質的に巨大組織となった各教団は、その存在意義の為に活動することが目的となることが多い。
タリバンに代表されるように、イスラム教では、宗教国家そのものを目指し、他の宗教も少なからず政治的分野で発言力を持つ事で自分の教団組織の伸張を図ろうとしている。

宗教そのものの理念とは違っても、昔から宗教と国家の関係は排除できないものであった。
であるが、宗教そのものが変質してきている現在、政治、国家との関係もそれに応じて見直されているのであろうか。

現代の宗教自身が社会の変化に十分に対応できているとは思えない。そうであるなら単に政治、国家との関係を構築することに精力を注ぐのは間違っている。
創価学会などのありようが、それを一番物語っている。

総括として、現代の宗教は世界宗教が興った時のように、人間、及び人間社会に救済の手を差し伸べることを目的とした、清新な慈愛の精神に欠けるところがある。
欠けるというよりも、旧来の教義では人々を導けなくなってしまっているのではないか。
これは、宗教の側が変質すべきか、宗教を逸脱した人間の方が修正すべきか、そのことは別の問題として検証しなければならない。

最後に、表題のピューリタニズムのことであるが、アメリカ建国時のピューリタニズムはまだしも、現代社会において、単純にそれを引きずっていることが正解であろうか。
キリスト教の教義としてのピューリタニズムは、宗教的には生きているとしても、国家、今や世界との関係においては、それがより政治的、経済的に利用されているとも考えられる。

(引用終わり)


現在、イスラム圏で、テロ、暴動が続発しています。
背景に、イスラム教がなければ、起きるでしょうか。
宗教と政治と言う関係から、興味のあるところです。

それと次に、もう登場されなくなって久しい、役立ちの住人さんの、世界観を紹介します。


日時: 2009/11/03 02:01
名前: 役立ちの住人


常に絶対的な理想を意識する西洋思想は、排他的な価値観と、独立志向を同時に発揮し、ヨーロッパの多様性を現代にまで引継ぎ、国家間、民族間の競争と発展を支え続けたのに対して、
多様性を許容する東洋的な価値観は、統一国家の形成維持を助け、巨大権力の前に、個々の多様性を埋没させていったのは、非常に皮肉な結果であったといえます。

世界の最先進国であった古代支那とヨーロッパ諸国の今日に至るまでの、その後の歴史は、対外的な侵略行動でも対照的な行動を見せます。
中国政府の興味は、民衆の支配にのみ注がれ、アメリカ大陸を最初に発見した、中国の調査団は、学術資料としての価値以外に利用されなかったのに対し、
その後遅れてアメリカ大陸を発見した、ヨーロッパは、侵略に乗り出します。

中国を凌ぐ世界最大の国家を侵略によって達成したイギリスは、民族の多様性を包括できず、多くの独立国家を生み出すことになります。

多様性と排他性、相対する二つの価値観は、状況に応じて、全く逆の効果を発揮します。

日本の政治において、現状を理解し、国のあり方を考える上では、どうでしょうか?
単に排他性、寛容性が、言葉道理の効果を生むわけではありません。

さらにそれらを生み出す、根本的な価値、目標を明確に意識しない限り、私たちは、意思に反し、これらに操られてしまうことになるのです。

(引用終わり)

この中で言われています、西欧と中国(東洋)の違いは、一神教と多神教世界の違いであり、今尚、イスラム教圏では、宗教的なものが蠢いていて、世界を混乱させていますが、考えようによっては、民主主義の名の下に、多様性に埋没することが、本当に良いか、否かを考えねばならないでしょう。

少なくとも、世界を支配しようとしているのは、ユダ菌などと特定の集団を挙げずとも、金融資本主義のシステムそのものが、独裁者として我々の上に被さっているのです。
これに対する組織的な抵抗はしなくてよいのでしょうか。
必要と思いながら、それが出来ないのは何故でしょう。
金融資本の論理をも、無邪気に、多様性として受け入れているのではないでしょうか。

少なくとも、イスラムはそれを受け入れてないと思います。
彼等(アラーの神)の排他の論理に基づいて。
メンテ
テスト投稿 ( No.36 )
日時: 2013/08/29 22:05
名前: 天橋立の愚痴人間

やれやれですね!
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.37 )
日時: 2013/08/30 19:09
名前: 天橋立の愚痴人間

UP
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.38 )
日時: 2013/08/31 14:20
名前: 天橋立の愚痴人間

UP
メンテ
仏教の話 ( No.39 )
日時: 2016/02/03 16:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UK7Ssb.I

このスレッドも久しぶりにUPします。

最近、私の家では母親の葬式を出しました。
葬儀費用は、坊主に払う金を含めて170万円かかりました。

決して贅沢なコースを選んだ訳ではありません。
都会では、200〜300万円も普通のようです。

逆に、金のためだだけでもないと思いますが、格安の葬儀もあるようです。
坊主など、アマゾンに申し込めば通夜、告別式込で7〜8万円で派遣してくれるようです。
極端な場合は、坊主なしで葬儀を行う人もいるようです。

私の場合は、坊主に70万円近く盗られました。
田舎の、しきたりのなかで値切る訳にも、選ぶ訳にも行きません。
坊主も生活があり、ある程度の金額は容認してやらねばならないこともありますが、

その坊主の言うことには、仏事を通して社会の経済効果を発揮するとほざいています。
坊主らしく仏事で法話などを言いますが、その一言で、馬鹿者と一括してやりたくなりました。

日本の仏教が葬式仏教と言われて久しいですが、このような時代だからこそ、仏教の本来の精神を流布させる努力が必要なのです。

キリスト教、イスラム教にはない自然の摂理に基づいた我が国の伝統的宗教の復活を説くことに真剣で対処すべきであります。
資本主義の行き詰まりの問題と違い、仏教は行き詰まる理由はなく、敢然と西欧主義に立ち向かうべき立場ではありませんか。

それなのに、葬儀を経済効果と考えるとは・・・怒、怒、怒




メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.40 )
日時: 2017/12/02 16:53
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pGaS8mow

別のスレッドで天皇制について問われました。

そこでレスを書きながら、このスレッドがある事を思いだし、久しぶりにUPする次第です。

現在の世界の3大宗教は、キリスト教、イスラム教、仏教です。
これらは歴史的にほとんど同時期と言えるほどの間に生まれました。

アーノルド・トインビーは、これを世界宗教と定義しています。
それまではユダヤ教はユダヤ民族を対象としていて、他の宗教も呪術的な原始宗教の様相である集団に対して存在していました。

世界宗教と言うのは、特定の民族、集団を相手ではなく人間の普遍の真理に基づいて存在出来るからです。
近年になって日本にも天理教、大本教など新興宗教が生まれましたが、世界宗教と呼ぶほどには教義も一般化されたものではない様です。
特徴として、それらは、まだ創始者に対する想いが強すぎるのでしょう。
オーム真理教などカルトと言われる宗教は特にそれが強く、社会的存在として問題視されています。

世界の3大宗教については、語る内容が多すぎて、ここでは述べませんが、新しい宗教が、それがカルトであっても未だに生まれ続けている事に何かの意味を感じるところです。

キリスト教やイスラム教には偶像はありませんが、仏教には多くの仏像があります。
それを見て、人々は宗教心までは行かなくても何かを感じます。
古代のトーテムポールにも単なる彫刻以上の意味を捉えようとします。

その心を以前の記述の中から再掲してみます。


始原的な宗教心を別の方向からも宗教心を見てみましょう。
http://pii-desu.hp.infoseek.co.jp/animism.htm
「シャーマニズム」

人間界と自然界がそれぞれ安定し,調和した関係にある限り,
それらの諸神霊は、和やかに人間生活を守護するものであるが,
自然がその暴威を顕わし,あるいは社会が混乱や不安に陥ると,
神々は荒々しく恐ろしいものとして現れてくる。

このような場合,もはや祭る人と祭られる神との安定した主-客関係は保たれず,
神霊からの一方的な怒りや崇めりが現れ,
特定の人々は神や霊に憑依され,自らの口をとおして神霊の意志を告げたりする。
このように,
人間と神・霊が直接接触あるいは同一化することを中核とする宗教活動をシャーマニズム
という。
ちなみに宗教というのは,
一部のシャーマンがスピリットとの交感を独占し
それを制度化・システム化することによって成立したものだといえます。

「アニムズム」

児童心理学では,子どもの原始的思考様式のことを意味している.
すべてのものが魂を持ち,かつその魂はさまざまな影響力をもっているという児童の思考様式のことをいう.
アニミズムは日本語で「万物有霊論」「物活論」などと表される。
そしてそれら生きている「モノ」と語り合う
(もしくは語源に忠実に「魅了する」)という考え方からシャマニズムが誕生したわけですから、
このアニミズムというものはシャマニズムに先立つ原始宗教の萌芽といえる。
そして現代に至るまでその影響力は失われていない。
日本における竜神・河童(河伯)・山神・風神・雷神・ツクモガミ(憑く物神)などの信仰これら全ては根底に流れるアニミズムを抜きにして語ることはできません。
また、古くから妖怪の類を表す「もののけ」は「物の怪」「物の気」などと書き、
それらが正にアニミズムの体現であることを我々に教えてくれる。

(まとめ)

人々が自然と共に生きていた時代に人類が共通して持っていた癒しの方法なのです。
また、多くの神話や妖精物語もシャーマニズム体験から生まれてきたものだといわれています。
近年、文明の行き詰まりとともに,
自然と共生するシャーマニズムの世界観が注目され、
その癒しの方法が欧米で盛んに応用されるようにもなってきました。
「生きる力」を喪失しつつあるヒトにとって今必要なのは,
さまざまなテクノロジーを駆使しつつもそれに依存してしまうことなく
同時に自らの内なる感覚をとぎすまし,
自然と対話する術をとりもどすことではないでしょうか。

(以上引用)

最後の文章は、結論じみてきてしまいましたが、ここでも述べられているように最初の宗教心は多分に幼児的なものから発生しています。
これに対して世界宗教(高等宗教)と呼ばれるものは大人の宗教心を対象にしています。
その大人の宗教心と言うものの特性は何であるのでしょうか。

大人と言う表現で示すものは、人間の人間たる所以であり、高度に発達した知性のなせる行動のことです。
それでは、より高度に発達した知性はより高度(?)な宗教心を必要とするのでしょうか。
「年齢を重ねるとともに宗教心が強くなる」と言う事も言われています。
人間は、より人間的に活動するほど、より自然の法則に逆らうほど、宗教心が芽生えてくるとも想定できるようです。

否、今まではそうであったと言えると思います。
ところで、現代社会は仏教が葬式宗教と言われているように宗教に無関心、不熱心な人が多くなってきています。
このことは、既成の宗教が現代社会の人間の心を掴むことが出来なくなった結果と捉えるか、宗教心そのものが必要とされなくなったものと両方が考えられます。

シャーマニズムの最後に結んでいますように、
「生きる力(目的)を喪失し(見失い)つつあるヒトにとって今必要なのは,
さまざまなテクノロジーを駆使しつつもそれに依存してしまうことなく
同時に自らの内なる感覚をとぎすまし,
自然と対話する術をとりもどすことではないでしょうか」

一般的な人の心は自立すればするほど、生きる為の生活に余裕が出来れば出来るほどに、不安も募ると思います。
また、アニミズム、シャーマニズムの時代の不安は、人間にとってより始原的な不安(大自然の脅威、飢えへの脅威)であったのに対して、現代人の不安はより自己発生的な、それ故に多様で気儘な内容を含んでいます。

人間の社会が多くの人を抱合する共生社会である限り、人々の精神的安寧を求めねば社会の平安は保てません。
それは享楽でも倫理、道徳でも補うことは出来ないでしょう。
宗教心とはそのようなものであり、またそれ故(共生と関連する)に社会の有様とも関連してきたと思います。
宗教と言われるものが確立して以来、多くの宗教団体が政治に関わり悲劇の歴史を作ってきたのも事実です。

これは本来の宗教の使命ではなかったはずです。
ですが、はやり必要な宗教心、
これからの宗教の新しい展開に期待する必要があると思います。
有り余る物資を手に入れ、人生の半分の自由時間を手に入れた人間の為の宗教が。


メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.41 )
日時: 2017/12/02 17:29
名前: 「南の島 九州 達磨」 ID:zdXrGtXQ メールを送信する

宗教は 必要な方には 必要です


お墓 和尚様に 献金は 無駄


先祖を 大切に お参り するのは 判るが
 盆 暮れ  年に2回のお参りより
 ご先祖様には  毎日 お参りを


お墓 数百万円も 全く不要

 和尚様の お礼 毎月?毎年  数万年も皆無 不要



毎日 家でご先祖様に  礼拝が 可能です

1 有田焼きの 大きい蓋付きの 調味料入れ?
  正式の 有田焼の 骨壺 5000円から1万円
     高くても 1万円でも 売れるが

   骨壺として 高く高尚に 見せる為に
   価格は数万円の価格が 付けてあるが

   たった1万円の骨壺に 先祖 家族の遺骨入れて
     自宅の床の間に 配置で

   毎日参拝 可能です



重い 墓石を  天草から 東京  北海道 へは無駄
   安い中国からも  燃費の無駄

   小さい有田焼で たった1万円で 可能
  節約で マヨネーズのガラス瓶でも 良いのです
   火葬の 骨粉を ガラス瓶に 入れて
  床の間に  奥のです


ご先祖様に  毎日 床の間で ご供養の礼拝を どうぞ


宗教は  無くて 人間が造ったのが 宗教で
神様は  絶対に 居ませんぞ



もし神様が もし いたら

1 殺人犯人は  造りません
2 交通事故も 泥棒犯人も 神様は造りません
3 飲酒運転の 殺人犯人も 造りません
4 国民の血税泥棒の安部政権も 造りません
5 神様否定の 「南の島 九州 達磨」も 造りません


「南の島 九州 達磨」様が  居るのが

  神様がいない 架空の神様です


正しく 生きれば  それで  良いのですから


「南の島 九州 達磨」
「検事・裁判官・警察官・マスコミ・弁護士・「公務員」ヤクザ犯罪  追求委員会」




メンテ
オーム真理教 ( No.42 )
日時: 2018/07/26 20:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:22.5l3vo

最近、オーム真理教の関係者13人の死刑が執行された。

考えれば、オーム事件から20年の時が経ってしまっている。
オーム事件をテロと扱えば、事件は収束していると言えるでしょう。

オームの系列で未だに存在している宗教団体にアレフと言うのがあり、オーム事件でメディアに随分と登場していた上祐というのが代表に座っていて、会員数は1000名を超えているらしい。

オームと同じ社会悪を実行する危険性があると言う事で、公安警察の監視団体となっているようだ。
しかしながら一部の幹部を除き構成員の多くは、実際に起きたオーム事件はあまり知らない様である。

宗教としてのオーム真理教は何であったのか。
どうしてあれほどの規模に成長していたのか。
オームの犯罪性は取り上げても、そこのところの考察で納得の行くものは無い。

>オウム真理教の教義は、原始ヨーガを根本とし、パーリ仏典を土台に、チベット密教やインド・ヨーガの技法を取り入れている。日本の仏教界が漢訳仏典中心であるのに対しあえてパーリ仏典やチベット仏典を多用した理由は、漢訳は訳者の意図が入りすぎているからとしている。

そして、「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガ・ヒンズー的宇宙観の一部に含まれる、と説く。その結果、例えばキリスト教の創造主としての神は梵天(オウム真理教では“神聖天”と訳す)のことである、等と説かれる。

従って、オウム真理教に於いては儒教・道教・キリスト教・ゾロアスター教等ありとあらゆる宗教・神秘思想を包含する「真理」を追求するという方針がとられた。結果として、キリスト教の終末論も、ヒンズー教的な「創造・維持・破壊」の繰り返しの中の一つの時代の破滅に過ぎない、として取り込まれた。すべての宗教および真理を体系的に自身に包括するという思想はヒンズー教の特徴であり、麻原はそれを模倣した。

要するに浅原にとって、本来の宗教の教義は何でも良かったのであり、教義の内容よりも、それを実践することで信仰心の達成感を高めようとするものである。

具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教の六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。特にヨーガにはかなり傾倒しており、その理由として釈迦もヨーガを実践していたからとする。

オウム真理教の「五つの柱」として、以下の点が挙げられており、「実践宗教」であることが強調されていて、次の様な修業を仮定している。

1 最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在
1 無常に基づく正しい教義
1 その教義を実体験できる修行法
1 その教義を実際に実践して修行を進めている先達の修行者の存在
1 修行を進めるためのイニシエーションの存在

そうして、その達成度を「ポア」などの言葉で表現し、如何にも免許皆伝の境地の指標の様に取りあげている。
ポア(ポワ)とは、ヨーガの用語で「意識を高い世界へと移し替えること」と言う。
ポアの境地について具体的な基準がある訳ではなく、教祖、独裁者の意のままに会員を操る結果となっていた。

自ら実践宗教と言っている様に、本来の宗教と言うものとの違いを見なければならない。

キリスト教でも仏教でも聖職者と言う者があり、彼らは宗教的修行を積むことで、その教義を深く体得し信者にも伝える(布教する)役目を担っている。

これらの宗教では、その宗教としての信仰の心構えを説くものであり、それを通して信者は心の安寧を求めると言う形である。
オーム真理教における修行は、それによって信者自身が教祖に準じる立ち位置になる事を目的としている。

しかしながら、実際には浅原以外を、その位置に寄せ付ける気持ちなど一切なく、また、その様なものの実在もなく、単に信者を強烈にマインドコントロールしていただけである。

ここに「宗教とは何か」で取り上げている信仰心とは異質のものを含んだ宗教がオーム真理教である。
信者と言われる者が、本当に本来の信仰を求めていたのかも怪しいものである。

死刑になった者の中には、相当高い知能の持ち主がいるが、そうした者が、何故、浅原のマヤカシに乗ってしまったのか。

臨床心理学と言う分野があります。

精神疾患や心身症、神経症について、
カウンセリングやセラピーなど、
言葉を使って、患者を癒していくための心理学と言う事です。

臨床心理学の対象者は、生活において何らかのきっかけで、精神的悩みを持った人です。
人生について悩んで宗教心に目覚める人もいるでしょう。
そうした人は臨床心理学ではなく宗教へ向かいます。

オーム真理教へ走る人の多くは、基本的な宗教心に向かうよりも手っ取り早い方向性を求めてオームの教義を求めたのでしょう。
別の言い方をすれば、社会で自立しえない不安を何かで埋め合わせると思ったのでしょう。
要するに、精神的未熟さの裏返しで、宗教心と言うものを安易に捉えてしまったと言えます。

信者が自らのカウンせリングを求めたにすぎないとも言える。
共同で修行と称するヨガの様な体験をし自立の不安から逃れたかったのであろう。
これを宗教心と言うには、あまりにも俗世間の有り様である。

又は、その安易さにひかれたのでしょう。
高い知能を持った幹部らが、人生の何たるかを十分に体得する前に短絡的に飛びつき、屁理屈で教義を解釈し、それが浅原を頂点とするオーム真理教の組織を固めてしまった。

それと並行して、教団幹部の権力闘争が組織に蔓延することになった。
オーム真理教以後、「アレフ」とか「ひかりの輪」などと分派闘争を繰り返すのも、野党が新党を乱立させているのと同じく、宗教活動ではなく権力闘争をしているだけのものである。

また宗教としての教義も自立したものではなく、信者を集め統率しようと思えば、何かの具体的な指標が必要であった。
信者を本来の信仰以外に方向づける必要があった。

それが勝手な世直しであり、オームの世直しは他の宗教が求める、それではない。
結果、サリン事件の様な方向へ暴走させてしまった。

オーム真理教は、もともと宗教ではなかったのである。

ところが、オーム真理教が壊滅してからも、未だにアレフの信者が1000名を越すと言う事実は、オームの事実とは別に現代社会の病根を現している。

民主主義の名の下に、全ての人の権利、自由が尊重されるが、言い替えれば自由と言う事は自己責任を言い渡された事になる。
人間は、各自の欲望も強いが、同時に自己責任に重圧も感じていて、常に不安を抱えている。

共同社会性が強かった昔の生活よりも、人生に対する不安感はましているのであろう。
それでも生活に逼迫している人たちは、余計な事を考える余裕もなく、ただただ一生懸命生きているのみであり、それによって不安感もあまり感じる暇もないのであろう。

しかしながら、少しの余裕があったり、自分で考える知能が高い人間は、常に不安を解消してくれるものを求める。
そうした人たちが安易にカルトに魅力を感じるのもやぶさかではない。

現代、民主主義社会は、豊かになればなるほどに、オーム真理教等のカルトが発生する要素を持っているのである。
世界には多くのカルトが存在するが、確かにオーム真理教の様に実社会に刃を向ける例は少ない。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.43 )
日時: 2018/07/27 10:21
名前: 日本貧民党 ID:gi5RvHgI

宗教とは、其れを始めた『開祖』又は『教祖』は、純粋に人間の精神世界に「安寧」を与えようと言う、崇高な思いであったかも知れない。

其れが年を経るに従って、徐々にイビツナものに変質して、世俗の欲望に迎合する物に成り、そう成らなくとも、『仏教』の如く人の死に関わる「葬式仏教」に成り果てたのです。

また、古典的宗教以後に創設された所謂「新興宗教」は、例外なく金儲けの為に「教祖」が創設したものです。例えば、今は大学や病院、その他色々な社会事業などを運営している『天理教』でさえ、昔はメジャーでは無く、金儲けの教団であると思われて居ました。
私が子供の頃は、天理教に対する偏見から、天理教は、信者に成ると「屋敷を払ろうて、田売り給え、テンリン教のために!」等と言う中傷が行われて居ました。 しかし、天理教自身の努力も有って、今は社会的貢献も行う「宗教団体」と変貌して来ました。

現在、日本は憲法で「思想・信教の自由」が謳われて居ますから、どの様な宗教を信じようと自由ですが、明治以後に創立された所謂「新興宗教」は、例外なく金儲けの為の物です。

新興の宗教を創設した開祖が、“人並みの暮らし”又は“人並み以上の暮し”をしたいが為に創設したもので、例外なく信者から間断なく寄進をする事を要求します。そして信者を増やす「布教活動」を義務付けられるのです。中にはインチキ商品を売り回る事を義務付けられる事も有ります。

この新興宗教、見ていると「ねずみ講」の共通する所が有り、教団の開祖に近い位置に座る奴ほど「実入り」が良いと言う構図に成って居ます。 即ち「最初に始めたもの勝ち」ということです。
まぁ、天橋立さんが、「イワシの頭」を『ご神体』として『橋立教』とでも銘打った新興宗教を始められると、天橋立さんはたちどころに金が転がり込んで来るでしょう。

一方、既存の宗教ですが、此れも今「人の精神的安寧を目指す」ことから逸脱してしまいました。どの既存宗教に依らず、開宗の理想から逸脱してしまいました。人間の俗念や欲望がそれほど大きく肥大してしまったと言う事です。此れは、近・現代の宗教者の怠慢と俗化以外に理由は有りません。

僧侶や聖職者は口を開けば『宗教者も人間が、生きて行かねばならない』と言いますが、ベンツやBMWを乗り回す坊主を見ると、現代社会の歪みがマザマザと見えて来るのです。

宗教が斯う言う体たらくでは世の中が乱れるのも無理は有りません。政治同様、宗教にも何も期待できませんね。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.44 )
日時: 2018/07/29 10:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:zkVgwkDc

日本貧民党さんの記事。何気なく読んでいたのですが、

>天橋立さんが、「イワシの頭」を『ご神体』として『橋立教』とでも銘打った新興宗教を始められると

ここのヶ所で、んっ!と思いました。
もしかして、日本貧民党さんは、阿蘇海の「金樽鰯」の事を知っておられるかと!
たぶん、偶然の例えと思いますが、天橋立とイワシには因縁もあるのです。

http://tango.hippy.jp/foods/kintaruiwashi.html

 天橋立で仕切られた内海(阿蘇海)で獲れるマイワシを、地元丹後では金樽鰯(きんたるいわし)と呼び重宝しています。
 阿蘇海は天橋立で仕切られているため、海水の出入りが少なく、イワシのエサとなるプランクトンが豊富にあるため、ここで育ったイワシは外海物と比べ丸々太り脂も乗り、とても美味しいのです。

 金樽イワシには昔話があります。 その昔、丹後の国に藤原保昌という殿様がおられ、その殿様は阿蘇の海に舟を浮かべて酒盛りをよくされておりました。何時ものように黄金の酒樽を舟に乗せて酒盛りをしていると、ふとした拍子に黄金の酒樽を海に落としてしまいました。網で拾い揚げようとしましたが見つからず、その代わりに黄金色に輝くイワシが沢山獲れました。それを食べた殿様はその美味しさにびっくりされ、大変喜ばれました。それから阿蘇海で獲れるイワシを「金樽いわし」と呼ぶようになりました。

>続いて、この様な事も書かれていますが、

この金樽イワシ、もともと狭い海ですので漁獲量もそれ程多くはなく、昔は鮮度を保っての交通が発達しておらず、地産地消がほとんどでしたが、最近は京阪神の料理屋からの引き合いが多く、獲れたら高値で直ぐ出ていくため、地元では滅多に見られなくなりました。
 先日行き付けの魚屋でたまたま見かけたので買って帰りました。キロ1,200円と高級魚なみの価格でしたが、丸々と太り美味しそうだったのでついつい手が出ました。
 さっそく帰ってお刺身とオリーブオイルのソテーにして頂きました。
 刺身は脂がよく乗り、口に入れるととろけるように美味しく、やはり金樽イワシは絶品でした。

(引用終わり)

確かに阿蘇海で漁業をしていた人もいますが、現在は、その船を見かける事もほとんどなく、魚つりでイワシが釣れたと言う話もなく、壊滅しているのではないでしょうか。
それより先に、前の大戦の為に阿蘇海に接してステンレス鋼を生成する軍事工場(現在も日本冶金としてあります)が作られ、以後、その排水を70年以上流しているので海水は濁り昔の面影は有りません。

宗教については、実際に興る宗教の殆どは、カルトかカルト的、言い換えれば金儲けの手段として、誰かが興しているのではないでしょうか。

私は、仏教、氏神信仰などには理解を示しています。
それは、人間がいだく永遠の不安感に関しての拠りどころとして認めている訳であり、信仰によって救済されるとか、御利益がある様な発想は全くしていません。

カルト、信仰宗教を狂信する人の気持ちが理解できません。
それを、無宗教というのでしょうか。

メンテ
新興宗教一覧 ( No.45 )
日時: 2018/07/30 23:04
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8npwd4BQ

このようなデーターも紹介しましょう。
(新興宗教の信者数)

【1位】幸福の科学/11000000
【2位】創価学会/8270000(世帯)
【3位】立正佼成会/3111644
【4位】顕正会/1670000
【5位】霊友会/1390248
【6位】佛所護念会教団/1240689
【7位】天理教/1209421
【8位】パーフェクトリバティー教団(PL教団)/934489
【9位】真如苑/909603
【10位】世界救世教/835756
【11位】崇教真光/800000
【12位】妙智會教団/654046
【13位】世界基督教統一神霊協会/600000
【14位】生長の家/586973
【15位】円応教/456902
【16位】金光教/429975
【17位】念法眞教/416931
【18位】神慈秀明会/360000
【19位】阿含宗/356841
【20位】ほんみち/318985
【21位】本門佛立宗/300306
【22位】中山身語正宗/294930
【23位】黒住教/272565
【24位】大乗教/255198
【25位】光明念佛身語聖宗/231610
【26位】神理教/221518
【27位】世界真光文明教団/220000
【28位】ものみの塔聖書冊子協会/216472
【29位】妙道会教団/213100
【30位】天光教/170377

>幸福の科学

幸福の科学は、大川隆法が1986年10月6日に、設立した新宗教である。幸福の科学によれば、仏法真理の流布による人類幸福化を掲げている。発足以前の1985年から、イエス・キリストや孔子などの歴史上の偉人・宗教家などが大川隆法の口を通じて語ると主張し、(チャネリング)という内容の書籍(霊言集)を多数出版している。最初の「霊言集」である『日蓮の霊言』[3]のなかで用いられている「幸福科学」という言葉は、1年後の1986年に団体の名称の基となった。

宗教法人「幸福の科学」では、大川隆法が多数の法話で説いた「仏法真理」を教義とし、仏法真理の探究・学習・伝道を通じての「この世とあの世を貫く幸福」と地上ユートピアの建設を目指しているとする。

修行の実践については、現代の四正道として「愛・知・反省・発展」を提唱している。人間は神の子・仏の子であることを自覚した上で他者へ愛を与え、真理を探求し、自分の心を見つめ直し、社会全体を向上させる心構えを持つことを現世の「魂修行」とする。また、世界観として多元宇宙論を展開し、三次元世界(この世)は根源神に近づくための「魂の修行の場所」とされている。

本尊
宗教法人「幸福の科学」の本尊は、霊天上界に存在するとされる、至高神 エル・カンターレ(El Cantare)である。

宗教法人「幸福の科学」では、大川隆法が多数の法話で説いた「仏法真理」を教義とし、仏法真理の探究・学習・伝道を通じての「この世とあの世を貫く幸福」と地上ユートピアの建設を目指しているとする[2]。

修行の実践については、現代の四正道として「愛・知・反省・発展」を提唱している。人間は神の子・仏の子であることを自覚した上で他者へ愛を与え、真理を探求し、自分の心を見つめ直し、社会全体を向上させる心構えを持つことを現世の「魂修行」とする[14][15]。また、世界観として多元宇宙論を展開し、三次元世界(この世)は根源神に近づくための「魂の修行の場所」とされている[14]。

本尊
宗教法人「幸福の科学」の本尊は、霊天上界に存在するとされる、至高神 エル・カンターレ(El Cantare)である。

幸福の科学において「エル・カンターレ」は「うるわしき光の国、地球」もしくは「地球の光」という意味を持つ地球神を表す言葉で、幸福の科学の本尊である[1][2][3]。また、幸福の科学の教義では、エル・カンターレの本体部分が地上に下生したのが、大川隆法とされていることから、幸福の科学総裁の大川隆法のことも示す[4]。幸福の科学の信者は、エル・カンターレを体現した「現成の仏陀(悟りたる者)」であるとして大川隆法を信仰している。 祈りの言葉では「主エル・カンターレ」という呼称が用いられる[5]。

大川隆法は、最初の「御生誕祭」(1991年7月15日、東京ドーム)において自身がエル・カンターレであると宣言し[6]、自らが地上に降りて法を説く使命、全人類を救済し、新文明を建設する等の大乗の仏陀の使命を宣言した。

※ 殆どカルトであるのに海外まで伸長しているのは何故か!


>創価学会

創価学会の三色旗
青は「平和」、黄は「栄光」、赤は「勝利」を表すとされる。
1930年(昭和5年)11月18日に、『創価教育学体系』が発刊され、尋常小学校の校長であった牧口常三郎と、戸田城聖ら当時の教育者などが集い、日蓮の仏法精神に基づく教育者の育成と雑誌の発行を目的とする「創価教育学会」(初代会長:牧口常三郎、理事長:戸田城聖)を創立した。1937年(昭和12年)に、創価教育学会は日蓮正宗の講の1つとして位置付けられた。この組織が創価学会の前身となる。

仏法が説く生命尊厳の思想を根本に、人類の幸福と社会の繁栄、世界平和の実現を目指す「広宣流布」という運動を実践する。
詳細は「広宣流布#解釈」を参照
万人の生命に等しく内在する、智慧と慈悲と勇気に満ちた仏の生命を最大に発揮する「人間革命」を信仰の指標とする。
かつては日蓮正宗以外は、すべて邪宗教であり害毒を流すものとして、他の宗教や宗派を一切認めない姿勢を持っていた[38]。また、島田裕巳によると、創価学会員の子弟は、修学旅行などで神社仏閣を訪れた場合には、神社の鳥居や寺院の山門はくぐろうとしない、という。

※ 要するに市井の宗教屋が自分の宗派が持ちたかっただけ、他人のふんどし(日蓮宗の教義)を拝借して作った程度。


>生長の家

生長の家(せいちょうのいえ)は、1930年(昭和5年)に谷口雅春により創設された新宗教団体。 その信仰は、神道・仏教・キリスト教・イスラム教・ユダヤ教等の教えに加え、心理学・哲学などを融合させている。正しい宗教の真理は一つと捉えている。宗教法人格を持つ。
生長の家の教義は雅春の著作特に生命の実相と甘露の法雨を基礎とする。なお、生長の家は、神道や仏教、キリスト教、天理教、大本等諸宗教はその根本においては一致するという「万教帰一」という思想を主張・布教している。ただし、現総裁の雅宣が生長の家の経典を含む各宗教の聖典の原理主義的解釈を否定していることでもわかるように、例えばイスラム原理主義や創価学会の教義をそのまま認めている、というわけではない。

生長の家では、世界を実相と現象に分けて区別し、第一義的実在であるのは「善一元なる唯一絶対神」だけであって、それ以外のものは実相には存在しない、と考える。現象世界のものは、物質から霊的なものまで、すべて「第一義的実在に非ず」[11]と説く。「物質は心の影」であると説く一方で、その「心」すらもなく、死者の霊も先祖供養等の対象とはするが、物質が存在しないというのと同じ意味で霊魂も存在しないといている。逆にいうと、例えば先祖供養の形式については、信徒は仏教やキリスト教、神道のいずれの方式で行っても、生長の家の教義に違反しない、ということであり、生長の家が信徒に対して改宗を求めない理由の一つとなっている。

※ オームと一緒、信仰の対象は何でも良いのであり、その無節操さを、あらゆる宗派を総括すると言っている。
結局は、教祖は谷口雅春から清超の二男谷口雅宣へ世襲する家業宗教である。

>天理教

天理教(てんりきょう)は、日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖[注 2]とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)。

天理教の教典の一つである『天理教教典』の第三章「元の理」には、天理教の根本教義が示されており、「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」と書かれている。親神が人間を造ったのは、泥海と表現されるような混沌と化した状態であった世界を面白くなく感じて、人間が明るく勇んで暮らす「陽気ぐらし」を見て、人間とともに「よろこび」「たのしみ」たいと思ったからであり、親神の守護と恵みにより、人間は生かされており、天然自然が存在すると説かれている[15]。人間の役割は、親神が見たいと説く陽気ぐらしの実現にほかならず、親神によって生かされているという謙虚な気持ちを持ち、欲を捨て、嘘をつかず、平和で豊かな世界を目指すことが重要であるとされる。

天理教と[ひのきしん」

天理教の用語。漢字を充てると「日の寄進」。寄進とは元々、神社や仏閣の設立、造営に心を寄せるものがボランティアで資金を出したり、労働力を提供したりすることを言う。天理教では自身の執着を去って他人に力を与えることをひのきしんと言い、それを奨励している。つまり天理教に対する無償の奉仕活動。基本的に信者は手弁当で参加する。
と言えば、恰好が良いが、実のところ信者に寄進競争を煽っているのである。
(もちろん金、財産が一番の対称)

※ インド哲学のごとき理屈を並べているが、結局は、目的は「ひのきしん」と称して信者から財産を巻き上げること。
そりゃ数百万の信者から財産を巻き上げれば豪華な社殿も出来るであろうさ。
上納させる為の教義を堂々と説くなど、まこと厚かましい。


我が国の錚々たる新興宗教を貶しすぎましたかな。
私はね、これらの宗教の教祖が、本当に悩める人々を救済する事に目覚め宗派を立てたとは思えない。
メンテ
Re: 宗教とは何か 親鸞の「浄土真宗」も最初新興宗教だった ! ( No.46 )
日時: 2018/07/31 16:07
名前: 日本貧民党 ID:KwJ9KICE

宗教とは、端的に言って「人間の苦悩を取り除く事を説く教えである」と私は理解して居ます。

人間は、この世に在って日々暮して居る時は、色々の煩悩によって《悩み》《苦しみ》《怒り》《悲しみ》を重ね、その隙間に少々の《喜び》も感じます。そして究極の<恐怖>は『死』で、その死に対する恐怖が一番大きく人間を悩ますます。それが人間の最も大きな≪苦悩≫即ち『煩悩』なのですが、何れの宗教もこの煩悩を解脱する事を目的として生まれました。

大体13世紀の初頭に、親鸞が師である法然の「浄土思想」の教えを受け継いで、更にそれを発展させ『浄土真宗』成る教えを開宗したのですが、奈良から鎌倉に掛けての『古宗』と比較して、日蓮の開いた『日蓮宗』同様、はじめは<新興宗教>扱いをされて、かなり弾圧も受けました。親鸞も日蓮も、がんこに粘り強く自分の教えを貫いたので、今日がある訳ですが、これ等は後世の弟子たちが教義を整備して、宗派の教義を確立し、経典を依所する事をして居ます。

そして、ここら辺りまでが古義の宗教ですが、それ以後の新興宗教は金儲けの「騙し宗教」以外の何物でもありません。そして前稿でも書きましたが、トップの教祖が一番金を設け、その下教祖に近い順に実入りが良いと言う、ねずみ講に似た機構に成って居るのです。こんなもの入信する奴は、其れこそ全くの「自己責任」ですから、我らの知った事ではありません。

もう一つ、既成宗教は「往生安楽」即ち「死後の平安」を願う者ですが、新興宗教は「現世利益」(げんせりやく)を祈る物で、煩悩からの解脱どころか、煩悩を益々増長させる物なのです。そしてこれが何より欲深い現代人を引付ける理由であるのです。

「ごりやくを受けたければ、どんどん寄進をしなさい!」と言われて貧しい庶民はなけなしの金を寄進するのです。全く以て、宗教をネタにした詐欺なのです。公然と認められた〈振り込め詐欺〉と同じなのです。「ごりやくが無いのは信仰心が薄いからだ!」です。
メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.47 )
日時: 2018/10/22 12:50
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

「宗教とは何か」という問いかけを繰り返してみます。
もちろん、以下の文章で「宗教」そのものが語れているとは思いません。
理屈で宗教を定義してみても始まらないからです。
それを見てみる為に、最初の頃の文章を再掲載します。


「宗教とは何か」と言う問いに下記のような説明がある。

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則とい
う象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻
く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、
生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生
じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期
待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。


ただし、これは宗教の外見上(教団の存在)の概念については理解できるが、宗教そのものについての説明には乏しい。
概略すぎて申し訳けないが、歴史的に宗教のことを追ってみよう。

(呪術の段階)

宗教は最初、アニミズムやシャーマニズムと言う形で、生産の為の自然崇拝から始った。やがてそれが一神教とか多神教の形で神という概念を創り出した。
この段階では、個人及び生計を共にする小集団がその不安に対応するために宗教活動を行うのが中心であり、そのうち指導者が長老とか呪術者という形で出てくる。

(古代宗教の段階)

その後社会が発達し、人間の生活単位が部族から民族へ、さらに国家と広がるに従い宗教のあり方(宗教によせる気持)も複雑化し大規模となり、部族神、国家神の形をとることになる。
古代エジプト王国などは、その究極の形である。
此処では王は宗教上の最高権威でもあり、宗教は個人及び生計を共にする小集団の宗教的願いを包括しながらも統治の為の要素も宗教活動の中に入ってくる。
この時代の国家は純粋な宗教国家と言える。


(世界宗教の段階)

古代国家の終わり、起源前、1000〜2000年のころになると、人間の生産力もあがり、国家としての集団生活も安定してくると、人々は「人間とは何か。「宇宙とは何か」と言う領域のことにも興味を持つようになり、国家の枠組みを突き抜けた思考をするようになる。
形而上学的な哲学が興り、宗教も国家を逸脱し万人を対象とする理念が現われた。
それが、現代まで続いているキリスト教であり、イスラム教、仏教の発祥となって、くしくも起源前1000〜起源年の間に一斉に現われた。

最初に述べた「宗教とは何か」と言う問いにたいして、キリスト教については、教父と言われているアウグスティヌスの次の言葉で総括することにする。
「告白』という書物の冒頭で、「(主よ)、私たちの心は、あなたの内に安らうまで、安らぎを得ません」と述べ、キリストの教えを信じて初めて魂の安らぎを得たと告白している。
その前提に彼は「人間は貴方(神)に似せられて造られている」言っている。
言い替えれば、キリスト教の教義は、人々は、キリストの教えに学ぶ(キリストに近づく)ことで心の安寧を得るということに集約できる。

一方、同じ一神教であるイスラム教では、アラーの神に忠誠を求める。人々はそのアラーの戒律をひたすら守ることで心の平安を得ることとされている。
そのためにイスラム教の社会は、信仰という領域で中央集権的な様相が強く、ために宗教と国家が結ぶ付くことが多くなる。
イスラム教を信仰する国民の比率が多くなると、結びつかざる要素があるのである。

これに対して多神教社会で発達してきた仏教の世界では少し様相が異なってくる。
起源前5世紀に現われた仏陀の教えは「この世を苦しみ・迷いの世界と見、苦行にも悦楽にも偏らない正しい実践によってそこから脱け出ること、さらには迷いに沈む生きとし生けるものを救うことを目ざす」ことであった。
仏陀の教えの境地に達することを「解脱」と言い、それによって「涅槃」の世界へ導くことが教義とされている。
要するにキリスト教、イスラム教がひたすら神との関係を強調するのに対して仏教では各自の修練を求め、それによって各自は平安が得られるというものである。
また、仏教の世界観では「輪廻転生」を言う。これも先の2宗教とは根本的に異なり、生(人性)を宇宙の流れの中に位置づけている。
人々は個人であって個人でないのである。

このように我々が宗教と言う概念で捉えるのは世界宗教(アーノルド・トインビーは高等宗教と名づけている)のことであって、2000年の間、人類はこれに基づいて輝かしい発展の歴史を作ってきた。
ところが、この間の科学技術の発達と、それに伴って結実した経済の発達は人間社会自身の悩みを変質させることになった。


(現代の状況)

科学技術の発達は人間の不安感から多くの物を取り除いた。
疾病は医学により克服し(不死の病に取り憑かれたり永遠の生を求める場合は該当しないが)、生きる為の糧は概ね自由に手に入る。
地震、台風などにもシェルターを準備し国家が守ってくれる。

人々が宗教を要するのは、自らが心理的困難に直面したときだけであり、それも自然的脅威は殆どなく、自ら引き起こす精神的齟齬に起因する場合が多い。

この場合、宗教の入る隙間は個人的カウンセラーの領域に押し込められている。
どちらかと言えば、宗教を求める発端は個人的なものであるはずなので、それでも良いとも言える。
一方で世界宗教が現出した意義には、個人、国家の枠組みを超えた人間社会の安寧を求めることが大切な要素でもあると思うが、実はこの面でも現代の宗教のあり方が変容してきている。

実質的に巨大組織となった各教団は、その存在意義の為に活動することが目的となることが多い。
タリバンに代表されるように、イスラム教では、宗教国家そのものを目指し、他の宗教も少なからず政治的分野で発言力を持つ事で自分の教団組織の伸張を図ろうとしている。

宗教そのものの理念とは違っても、昔から宗教と国家の関係は排除できないものであった。
であるが、宗教そのものが変質してきている現在、政治、国家との関係もそれに応じて見直されているのであろうか。

現代の宗教自身が社会の変化に十分に対応できているとは思えない。そうであるなら単に政治、国家との関係を構築することに精力を注ぐのは間違っている。
創価学会などのありようが、それを一番物語っている。

総括として、現代の宗教は世界宗教が興った時のように、人間、及び人間社会に救済の手を差し伸べることを目的とした、清新な慈愛の精神に欠けるところがある。
欠けるというよりも、旧来の教義では人々を導けなくなってしまっているのではないか。
これは、宗教の側が変質すべきか、宗教を逸脱した人間の方が修正すべきか、そのことは別の問題として検証しなければならない。

最後に、表題のピューリタニズムのことであるが、アメリカ建国時のピューリタニズムはまだしも、現代社会において、単純にそれを引きずっていることが正解であろうか。
キリスト教の教義としてのピューリタニズムは、宗教的には生きているとしても、国家、今や世界との関係においては、それがより政治的、経済的に利用されているとも考えられる。

メンテ
古代宗教の神々 ( No.48 )
日時: 2018/10/22 16:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

古代宗教の神々を紹介します。


>エジプトの神

エジプト神話は、特定の開祖が存在しない多神教であり、信仰される神々は、自然現象などを神格化した自然神である。一部、実在した王を神格化した人物神もいると言われるが、断定的な説はない。多くの場合は動物の姿、あるいは動物の頭を持つ人間の姿で表される。

時代が下るにつれて、古い神は他の神に役割を奪われたり、習合して一つの神になったり、神話から姿を消したりすることがあった。例えば、代表的な太陽神であるラーは、後にアメンと習合した。逆に、複数の神々が同じ役割を担うこともあった。例えば世界の創造主としては、後述のようにアトゥム、プタハ、クヌム、オグドアドなど様々な神が信仰された。
エイジプトの神々
アク (Akh):霊魂の相。死後カーとバーの結合により生じる。後期にはカーの分裂によりバーと共に生じると信じられた。
アケル (Aker):地平線の神格化。太陽と2頭の獅子(昨日と明日)に囲まれた盥。
アステン(Asten/Astes)
アテン (Aten/Aton):無数の手を持つ円盤の姿の神。
アトゥム(Atum)
アナト(Anat)
アヌケト(Anuket/Anukis):氾濫するナイル川の女神。名称は「(大地を)抱くもの」に由来。
アヌビス (Anubis)
アピス(Apis)
アポピス(Apophis)
アメミット (Ammit)
アメン(Amen/Ammon)
アメント(Ament):アメンの女性形。鷹頭/駝鳥頭で、しばしば有翼の太母神。
アンクト(Ankt):小アジアの戦女神
アンジェティ(Andjety):アンジェト(Gr. ブーシリス)の主神。死者の統治、再生を司る。
イウサアース(Iusaaset/Saosis(項目 Atum 参照)):アトゥムの影にして妻神。
イウニト(Iunit)
以下多数

>ギリシャの神

ギリシア神話は、以下の三種の物語群に大別できる。

世界の起源(→世界の始まり)
神々の物語(→オリュンポス以前、オリュンポスの世界)
英雄たちの物語(→人間の起源、英雄の誕生、英雄の神話)
第一の「世界の起源」を物語る神話群は、分量的には短く、主に三つの系統が存在する(ヘーシオドスが『神統記』で記したのは、主として、この「世界の起源」に関する物語である)。

第二の「神々の物語」は、世界の起源の神話と、その前半において密接な関連を持ち、後半では、英雄たちの物語と絡み合っている。英雄たちの物語において、人間の運命の背後には神々の様々な思惑があり、活動が行われ、それが英雄たちの物語にギリシア的な奥行きと躍動を与えている。

第三の「英雄たちの物語」は、分量的にはもっとも大きく、いわゆるギリシア神話として知られる物語や逸話は、大部分がこのカテゴリーに入る。この第三のカテゴリーが膨大な分量を持ち、夥しい登場人物から成るのは、日本における神話の系統的記述とも言える『古事記』や、それに並行しつつ歴史時代にまで記録が続く『日本書紀』がそうであるように、古代ギリシアの歴史時代における王族や豪族、名家と呼ばれる人々が、自分たちの家系に権威を与えるため、神々や、その子である「半神」としての英雄や、古代の伝説的英雄を祖先として系図作成を試みたからだとも言える。
ギリシャの12神
ゼウス
ゼウスの妻ヘーラー[2]
ゼウスの娘アテーナー[3]
アポローン
アプロディーテー
アレース
アルテミス
デーメーテール
ヘーパイストス
ヘルメース
ポセイドーン
ヘスティアー

>インドの神

ヒンドゥ教における三大神とは、シヴァ、ビシュヌ、ブラフマーである。それぞれ、シヴァは破壊、ビシュヌは維持、ブラフマーは創造を司るとされている。

三大神が確立されたのはおそらく紀元前後のことだが、このうちブラフマーにたいする信仰は早い時期に衰退し、現在、ヒンドゥ教は大きく、シヴァ派とビシュヌ派に二分されている。

アグニ
インドラ(帝釈天)
アシュヴィン双神
チャンドラ (英語版)
ピシャーチャ
ヤマ(閻魔)
ローカパーラ
デーヴァ
ヴィシュヌ[注釈 2]
クリシュナ(K天)
シヴァ
サラスヴァティー[注釈 3](弁天)
ドゥルガー
クベーラ(毘沙門天)
ハヌマーン(大猿王)
ラークシャサ(羅刹)
ラーヴァナ
インドラジット(メーガナーダ)
ナラクーバラ(哪吒)
ヤクシャ(夜叉)
ハーリティ(鬼子母神)
以下多数

>メソポタミアの神

メソポタミア神話(メソポタミアしんわ)はシュメール人、東方セム語アッカド人、アッシリア人、バビロニア人と後に移住してきたアラム人カルデア人の信仰した宗教であり、彼らの共有し、発展させた神話体系である。

アンシャル

天の神。
キシャルの夫。
新アッシリア時代になると、アッシュールと習合された。

イシュタル
愛と美の女神。戦・豊穣・金星・王権など多くの神性を司る。
シュメール神話のイナンナが変化したものだと考えられる。

イナンナ
金星、愛や美、戦い、豊穣の女神。
イシュタルの原型ともいえる女神。

エンキ
工芸、水、知性、創造を司る神。

シヤマシュ
太陽神。

ナブー
知恵と書記の神。

アヌ(アンとも)

天空や星の神であり、世界の礎を築いた神々の王。
アプスー

地底に存在すると考えられていた淡水の海を擬人化したもの。
あらゆる淡水を司るといわれる。
ティアマトの夫。お気に入り詳細を見る
アッシュール

アッシュール市そのものが神格化された神。
エンリル

ニップールの守護神で風の神。

キシャル

アンシャルの妹(または姉)であり妻。
大地を司るため、地母神とも考えられている。
キングー

ティアマトの息子の一人にして第二の夫。
シン

月神。
ティアマト

原初の海の女神。
あらゆる塩水を司るとされる。
アプスーの妻。お気に入り詳細を見る
ナンム

シュメールにおける、海の女神。
天地を生んだ母、全ての神々を生んだ母なる祖先とされた。
ニンリル
メンテ
ユダヤ教 ( No.49 )
日時: 2018/10/22 16:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

古代の神々で見たように古代の神は全て多神教としての神々であり、名前はことなるが、人々の日常生活に起因する自然神であった。
人々は日常生活の不安や願い事を神様に託していた。
ギリシャの神々などは、現代哲学に通じる哲学的な意味を持っていた。

それに対して紀元前13世紀になると、ユダヤ教としての一神教が登場する。
ユダヤ教は旧約聖書出エジプト記にある様に世界を放浪しなければならなかったユダヤ民族の存亡をかけた戒めでもあった。

ユダヤ教は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェを神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。

ユダヤ教では、改宗前の宗教に関係なく、「地上の全ての民が」聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる、と考える。「改宗者を愛せ」という考え方は、次のようなことばにもみることができる。

内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在すると考える傾向(特にハシディズムに良く現れる概念)があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない。

ユダヤ教徒はタルムードと呼ばれる教典に従って行動すると知られている。
7つの戒めとは、タルムードの記載によれば神がノアを通じて全人類に与えたものといわれる七つの戒めのことである。7つの戒めを守ろう道もユダヤ教並の神へ帰る道であるとされる。

教育
ユダヤ教において最も特徴のある分野は教育であり、ユダヤ教徒は教育こそが身を守る手段と考え、国を守るには兵隊を生み出すよりも子供によい教育を受けさせるべきとされている。そのため一般大衆のほとんどが文盲だった紀元前からユダヤ人の共同体では授業料を無料とする公立学校が存在していた。平均的なユダヤ教徒は非常に教育熱心で、子供をよい学校に行かせるためには借金をすることも当然と考える。家庭では特に父親の存在が重要で、先導して子供に勉強、タルムードなどを教え、子供を立派なユダヤ人に育てたものは永遠の魂を得ると信じられている。また子供が13歳に達するとバル・ミツワー(成人式)の儀式が行われ完全に大人と同様と扱われる。

死生観
一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。

カバラ神学では、魂は個体の記憶の集合体であり、唯一神はすべての生命に内在し、ただ唯一神様は永遠の魂(命の木)である。個体が善悪を分かち、銘々の記憶は神様へ帰っている。神様はただ記憶を収集し、善悪を分かたない。神様では、善の記憶が再創造の素材になり、悪の記憶がなくなる。

カバラではそのような寓話がある:毎年贖罪の日ではすべての生命は死んで、生き返り、悪もなくなる。(あるいは、毎年角笛吹きの祭から贖罪の日までの間にすべての生命は死んで、記憶が神様へ帰った。贖罪の日から光の祭りまでの間に神様は再創造し、善の記憶がすべての生命へ帰った。)死亡はただ贖罪の日と同じである。

労働
労働は神の行った行為のひとつであるため、神聖な行為と考えられている。そして、安息日と呼ばれる休日を週1回は必ず行うべきであり、安息日の間は労働はしてはならず、機械に触れてもいけない。自分自身を見つめ、自分と対話したり、家族と対話したりする。

人間は創造主の代わりに労働をする存在として作られたとされる。 労働により得た賃金や物質は一部を創造主に捧げなければならない。


ユダヤ教では性衝動や性行為は自然なもので、必要悪と見なすことは無い。 夫婦の性行為はそれを捻じ曲げることがむしろ罪であるとされる。 また、快楽を伴わない性交は罪とされる。

ただし妊娠・出産を重視する教義のために、保守的な派閥の一部には、自慰行為を悪とみなす意見が存在する。

男性の同性愛は戒律を破ることとされる。女性の同性愛は戒律を破らない。

ユダヤ教はユダヤ民族を念頭に置いたものであったが、ここからキリスト教、イスラム教と言った世界宗教としての一神教が成立した。


メンテ
一神教の世界 ( No.50 )
日時: 2018/10/22 17:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

一神教の基本はある意味きわめて単純明解です。神の教えを絶対なものとして信じ、それに沿った行動を行えばよいのです。その教えも聖書やコーランに明記されていて、実にわかりやすいものです。

具体的には人々は個人的に神と契約していると言う形で存在します。
キリスト教で行う懺悔の儀式も告白もその表れですし、イスラム教徒が行う1日5回の礼拝の儀式などもそうです。

私は映画や動画などでより知りませんが、キリスト教圏の人々は困難に直面したとき、良く「神を信じるか!」と言う設問をします。
概ねは信じるという答えの様ですが、具体的に神の何を信じるかは語られません。
神が奇跡を起こして自分たちが救われるなどと言う事でしょうか。
キリスト教には確かに奇跡の伝承がありますが、宝くじに当たる以上に、万に一つもないその奇跡を期待して信仰している訳でもないでしょう。
それに対してイスラム教徒の間では、困った時の神頼み的な信仰意識ではなく常にアラーの神への服従を誓います。

ですので、イスラム教を突き詰めると、国家の規範よりもアラーの神との契約が優先し、国家の規範の方が従属させられると言えます。結果、宗教国家として現れる事は現在のイランやタリバンの存在で解るでしょう。

まあ、中世のキリスト教も宗教国家を成していましたが、キリスト教とイスラム教の唯一神との契約内容が微妙にことなるので結果が違ってきます。

聖書は以下のような文言がズルズルと続きます。

マタイによる福音書
山上の垂訓

第6章
6:1
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8
だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
6:9
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
6:10
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
6:11
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。

(終わり)

問題は如何に膨大な文章で示しても人間の行動を包括する事は出来ないのです。
逆に捉えれば、キリスト教を信仰すると言う事は、イエスの教え(聖書)守ると言う事は、聖書に該当しない部分については自由に判断することが出来ると言う事になります。
だから概ねのキリスト教徒はイエスの教えを敬い、また具体的な教えがなかってもイエスの教えの延長でものを考えるでしょう。
ですが、信仰の仕方もいろいろで、イエスの直接の言葉の無い部分は我欲を押し通す人間も出てきます。
具遺的に言えば、中世ヨーロッパの侵略戦争、植民地経営などは、イエスの教えを広く当てはめるとやってはいけないことのはずです。
現代社会においてもユダヤ金融資本の世界経済支配は、決してキリストが望んだ社会ではないでしょう。
ですが彼等はキリストの名において、当然の様に行い反省をしません。
キリスト教は人類全体の規範であると言うよりも個人の生き方の基本であると言う証拠です。
そう言う意味で世界の政治に影響する、ローマ法王の存在など、実に偽善的と言えるでしょう。

イスラム国家の現状を見ても、宗教が政治を掌握する事は認められません。
しかしながら、キリスト教の教えがあれば、キリスト教的世界観の基づいていれば世界が幸せになると言う錯覚は持ってはいけない事と思います。

これも具体的に言えば、西欧、アメリカでは裕福な人間の寄付行為が社会的な善行と認められ推奨され称賛を受けることが人々に受け入れられている事です。
無条件の寄付行為であれば良いのですが、そうした裕福な人たち、企業は強引な金儲けをした結果であり、それを許さない社会の規範作りの方が求められるからです。

もちろん、全ての寄付者が、その様な強欲人間とは言いません。
ですが、アメリカの様な寄付社会を漫然と受け入れている様では本当の社会改革にはなりません。

キリスト教はイスラム教と同じく世界を席巻している宗教です。
しかしながら、そのキリスト教国による世界史は略奪と殺戮の世界史でもあった事も忘れないで置きたいものです。

ここでは一神教社会の有り様を書きましたが、日本、インドの様な多神教社会では、どのような事が言えるのでしょう。


メンテ
多神教 ( No.51 )
日時: 2018/10/22 20:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

その名のとおり多神教では多くの神々が崇拝され、それゆえに同じ宗教の中での信仰形態も多様である。また、特定の一神(主神)が最も高位にあると考え、主神を崇拝の中心とするものを、多神教的一神教と呼ぶことがある。

多神教とされているもの。

日本神話・神道
琉球神道
仏教
道教
中国神話
ヒンドゥー教
インド神話
ギリシア神話
エジプト神話
北欧神話
ケルト神話
ハワイ神話

この内、仏教、神道、ヒンズー教は現存している多神教であるが、神話、伝説として今なお人々の間に生きている神もいます。

一神教と多神教を比較してみましょう。

>一神教の成り立ち

予言者や開祖によって誕生します。

>多神教の成り立ち

自然や動植物などあらゆるものに魂が宿ると考える『アミニズム』から自然に誕生します。

>一神教の性質

神は完全なものであり、人知を超えた全知全能の存在です。
もちろん、たったひとりの神なのでパーフェクトでなければなりません。

>多神教の性質

一方で多神教の神は、それぞれ得意分野があります。
さらにはいい神だけでなく、悪い神だって存在します。

ざっと、この様に言えます。
ところでキリスト教、イスラム教の様に、多神教として現在まで活動している仏教について触れておきましょう。

紀元前450年ごろに、インドで開始された仏教は、今では初期仏教として研究されている。釈迦は、他の苦行などの実践者の主張であるアートマン(真我)の存在を否定して無我とした。釈迦の死後数百年で部派仏教が生まれ、大きく大衆部と上座部とに、さらに細かく分かれたが、今なお大きな勢力として続いているのは南伝した上座部仏教であり、初期の教えを模範としている。紀元前の終わりごろには北伝し日本にも伝わることになる大乗仏教が開始され、教義や団体は多彩に発展しており、禅の瞑想法の様々、チベットや日本の真言宗に残る密教、一方で浄土信仰のような信仰形態の変化など多様である。

>世界観

仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるネパールの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている。人の一生は苦(ドゥッカ、ストレスフル)であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。

仏像や仏閣などは仏教が伝来した国、そして日本でも数多く見られるが、政治的な目的で[要検証 – ノート]民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。

>輪廻転生・六道・仏教と神

仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされる。生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

また、神(天)とは、仏教においては天道の生物であり、生命(有情)の一種と位置づけられている。そのため神々は人間からの信仰の対象ではあっても厳密には仏では無く仏陀には及ばない存在である。仏教はもともとは何かに対する信仰という形すらない宗教であった。時代が下るにつれて開祖である仏陀、また経典に登場する諸仏や菩薩に対する信仰を帯びるようになるが、根本的には信仰対象に対する絶対服従を求める態度は持たない。仏教における信仰は帰依と表現され、他宗教の信仰とは意義が異なっており、たとえば修行者が守るべき戒律を保つために神や霊的な存在との契約をするという考えも存在しない。

次には一神教であるキリスト教などと異なる仏教の世界を見ることにします。
メンテ
仏教 ( No.52 )
日時: 2018/10/22 21:02
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

お釈迦さまは「創造主」でも「神の子」でも「預言者」でもなく、世の中の真理・理法に「気がついた人」という感じになるだろうと思います。仏教の教えは、お釈迦さまが考えて作ったものでもなく、誰かからお釈迦さまに特別に授けられたものでもないわけです。
 お釈迦さまは未踏峰の山に初めて登ったというような「偉大な先駆者」的な位置づけでしょうか。

 仏教ではかなり初期から、このことははっきり認識されていて、お釈迦さまが悟った事柄は、お釈迦さまが悟ろうが悟るまいが元からあったもの(=この世の普遍の真理である)とされています。
 
 経典や論書は法を説くのと同時に法に近づいて行くための「手段」としての役割を負うため、いろいろな説き方が可能だ(手段は多い方が良いだろう)と考えられたということになるのだろうと思います。
 
宗教としての仏教は、その後に小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教へ別れて行きました。

仏教とは本来修行して悟りを得ることを目的とした宗教です。で、その本来の教えに忠実に修行をしようというのが上座部仏教です。
それに対して、修行者が仏教の精神を広く説くことにより、人々が修行せずとも仏教を信仰することは可能だと説くのが大乗仏教です。
上座部仏教は別名を南方仏教といい、主にアジア南方(タイやカンボジアなど)に広がり、大乗仏教は日本・中国・韓国などに広まりました。
ですから、タイなどでは純粋に仏教を信仰しているのは僧だけで、他の人々は僧を尊敬しその修行を支えているというわけです。そのため、タイなどではお坊さんが人々の尊敬を集め、身分が高いとされているのです。

その釈迦が、どのような教えを説いているか見てみましょう。

釈迦は2500年前に、天竺国(てんじく、現在のインド)の北部、ヒマラヤ山麓(現在のネパール付近)を治めていた釈迦族の王・浄飯王(じょうぼんのう)と、その記・摩耶夫人(まやぶにん)の間に生まれた王子で、姓をゴータマ、名をシッダッタといいました。

釈迦という呼び名は、その出身である釈迦族からとったものです。後に、真理に目覚めてからは仏陀(ぶつだ)、または、"釈迦族の聖者"という意味を持つ、釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)あるいは略して、釈尊(しゃくそん)と呼ばれるようになりました。

その「仏陀」の”教え”が、すなわち<<仏教>>という訳であります。

釈迦は人生について悩み、29歳の時に「さとり」を求め出家しました。そして、想像を絶する苦行の数々を行いました。そして考えました。極端な偏りは何も生み出さない。王子時代の快楽の日々、修行時代の苦行の日々、これら極端な偏りはいけない。真理をとらえる為には、その中程を貫く過程――「中道(ちゅうどう)」が大切ではないかと気が付きました。そして、出家してから6年目にあたる、35歳の時に真理に目覚め「仏陀(ぶつだ)」となりました。さとりを開いた仏陀は、教えを広める伝道生活を送り、やがて80歳で入滅しました。

「中道」 何事も両極端はいけない、ほどほどが良い <考え、行動、・・・>

★ 人生は四苦八苦、「迷い」や「執着心」を断って、「考えすぎない」のが一番だと悟った。

釈迦の教えは、縁起、四諦、八正道から成り立っています。
 
縁起(えんぎ) 物事がお互いに関係しあっているという意味

釈迦は、人生は苦であり、苦の根本的な原因としは、「無明(むみょう、無知、迷い)」、無知である為に迷い、迷う為に物事に対して「愛(愛憎の念)」をもち、それに対して「取(執着)」し、執着する事で苦しむと考えました。四諦、八正道でこの無明から抜け出す方法を説いています。

四諦(したい) 苦という人生の本質、苦の原因、原因の消滅、苦の原因を取り除く方法

苦諦(くたい)
苦に関する真理。人生とは本質的に苦であると説いています。
 
集諦(じったい)
原因に関する真理。人生が苦である事の原因を明らかにしている
 
滅諦(めったい)
原因の消滅に関する真理。苦の原因である煩悩(ぼんのう)の消滅が苦の消滅です。
 
道諦(どうたい)
道=実践(方法)に関する真理。苦の原因を取り除く方法を説いています

八正道(はっしょうどう) 道諦をさらに詳しく説いた八つの正しい道(方法)

この方法を修行を積む事により、煩悩(ぼんのう)をなくし、結果として苦を克服する事が出来ます。
1. 正見(しょうけん) 我の意識を離れ、正しく物事を見る事。
 
2. 正思惟(しょうしゆい) 正しく物事の道理を考える事。
 
3. 正語(しょうご) 真実のある正しい言葉を語る事。
 
4. 正業(しょうごう) 正しい行為。間違った行いをしない。
 
5. 正命(せいみょう) 正法に従って清浄な生活をする事。
 
6. 正精進(せいしょうじん) 正しく目的に向かって努力する事。
 
7. 正念(しょうねん) 邪念を離れて正しい道を思念する事。
 
8. 正定(しょうじょう) 正しく精神を集中して安定させる事。

後世の多くの経典は、何千とも言われていますが、宗派によっていろいろな形はありますが、釈迦の教えを説いたものです。
それ故、宗派はあっても宗派の対立は過激なものではありません。
特に大乗仏教が盛んな日本では、庶民も理解しやすい 和讃、御詠歌の様なものもあります。

その一つ般若心経と菩提和讃を紹介します。


●魔訶般若波羅蜜多心経

>@観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

観世音菩薩が深遠なる智慧の完成のための修行をしていたとき、物質や肉体、そして精神を構成する五蘊はすべて空であることを悟り、すべての苦悩や煩いを克服した。

>A舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。

舎利子よ、すべての色(姿形のある物質や肉体)は空であり、空は色にほかならない。
色はすなわち空であり、空が色なのだ。色以外の五蘊の要素である受(感受作用)、想(観念)、行(認識形成作用)、識(識別作用)もまた同じである。

>➂舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。

舎利子よ、この世に存在するすべては実体のない空を特徴とする。だから生じも滅しもせず、汚いもきれいもない。増えも減りもしない。

>C是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。

それゆえ、空のなかには色はなく、受・想・行・識もない。また、感覚器官である眼・耳・鼻・舌、さらには身も心もない。感覚の対象である色形や音、香、味、触感、観念でとらえる物事もない。感覚と対象の間にある限界や意識会といった認識世界もない。

>➄無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智・亦無得。

苦の根源である無明もないし、無明が尽きることもない。無明が原因で起こる老死といった苦もないし、またそれが尽きることもない。悟りに至る道である四諦もない。智慧もなく得るものもない。

>E以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。

このように得るものもはなにもないゆえに、大乗仏教の道を極める菩薩は般若波羅蜜多(智慧の完成)を実践する。ゆえに心に妨げや執着がない。妨げや執着がないゆえ恐れるものも何もない。一切の誤った考えから遠く離れているので、涅槃の境地を究めている。

>F三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。

三世(過去・現在・未来)の諸仏も般若波羅蜜多を実践したことで、最上の悟りを開いた。

>G故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。

ゆえに知るがよい。般若波羅蜜多は、偉大な真言であり、無上の真言であり、並びなき真言である。一切の苦を除くことができる真実で虚妄のないものである。

>H故説、般若波羅蜜多呪即説呪曰

ゆえに般若波羅蜜多の真言を唱えよう。
それは、すなわち以下の真言だ。

>I羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。

>J般若心経

至れり至れり、彼岸に至れり、完全に彼岸に至れり。
これが悟りである。



●菩提和讃(ぼだいわさん)

若し人三世一切の仏を知んと欲すれば、法界性を観ずべし。
一切唯心造なりと、衆生おのおの仏性を、受けて生まれしものなれば
一念不生に至るとき、忽ち仏性現前し、老若男女もろともに、その身が即ち仏なり。

しかるに一念迷い初め、本有の仏性見失い、みずから凡夫となるゆえに貪り瞋り痴さの、煩悩しげき三毒に、闇き迷いの日々となる。
また色声香味触と五欲の悦楽追い求め、刹那の夢に酔いしれる
殺生偸盗邪淫慾、悪口両舌綺語妄語、破戒無懺の輩に、いつか救いのありぬべき。

それ人間の身を受けて、この世に生まれ来ることは、爪の上端に置ける土。
まして尊き仏法の、教えに親しく遇うことは、まこと得がたき縁なり。
かかる時節を失わず、信心決定いたすべし。

人々賢き智慧あれば、春は万の種を蒔き、秋の稔りを待つのみか、衣服家宅に至るまで、遠き計画立てながら、今をも知れぬ後の世の、永き冥路を打ち忘れ、空しく過ごすぞ愚なり。
無常の風に誘われて、忽ちこの世を終るとき、何を頼みとなすべきや、あまた資産のあるとても、冥途の用にはならぬもの。
家財重宝持つ人も、携え行くべき途ならず、偕老比翼の契いもしばし浮世の夢ならん。
兄弟朋友ありとして、伴い行くことさらになし、出入りの息の絶えぬれば、野辺の送りを営みて、老いも若きも仇野の、空の煙と消え失せん。
朝夕撫でし黒髪も、蓬が根の塵となる。
かかる憂き目のあるゆえに、ひたすら菩提を願うべし。
弘誓の願を身につけて、忍辱精進怠らず、布施や愛語にこころざし、十善の道歩みつつ、他己をも自己と覚るならば、これぞ菩薩の浄土なり。

観世の慧眼明らかに、弘く衆生に回向して、ともに濁世を渡るべし。
尚ぶらくは人間の、受くる形はそのままに、仏の姿にかわらねば、本来より具えし霊明の、一仏心に覚むとき、この身すなわち仏にて、仏が仏を念ずれば、一声唱うる称名も、諸仏の浄土に通徹す。
日々仏に近づきて、礼拝供養も懇ろに、香花燈燭とりささげ、粥飯茶果等供えつつ、身口意三輪浄らかに、称名念仏経陀羅尼、坐禅観法修すれば浄土はもとよりわが身にて、心が即ち仏なり。

つらつらこの身を観ずるに、生生世世の父母や、一切衆生にいたるまで、その恩愛の深きこと、天の極り無きごとし。
されば誓願たてまつり、無明の眠りを覚しつつ、行住坐臥に怠らず、一心勇猛に修業して、無辺の衆生を慈しみ、菩提の道に趣かせ、本有の仏性発露して、不報の恩を報ぜんと、般若の船に掉さして、涅槃の岸に到るべし。


※ 以上仏教の世界とキリスト教世界の違いを紹介してみました。
メンテ
私の宗教観 ( No.53 )
日時: 2018/10/22 21:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BEJWm4C6

このスレッドを綴りながら、私自身の宗教に対する想いを述べます。

私が若いころ(大学生のころ)はキリスト教の教えが新鮮に移り、日本中に散会する教会や牧師、神父の存在と共に好意を持っていたものです。

しかしながら思想書などを読み漁る内に、キリスト教の教義に鼻じらむものを感じてきました。
何故、それほどイエスに拘らねばならないか!
同時にアングロサクソンで書いたように、キリスト教圏では我欲の強い人間が野放しにのさばり、それを非難する想いが全くないと言う事です。

それに引き替え、仏教の教えは、釈迦の悟りは示唆するが、結局は自分自身で努力しなさいと言うもので、自由な精神が保たれます。
死後の世界観も恣意的に納得できるもので、死後の世界をイエスに委ねたりしません。

と、言う訳で老年に至るほどに仏教に好意を抱くようになりました。
と言っても、熱心な信仰を持っている訳でもなく、実際は葬式仏教の域を出ません。

しかしながら仏教の世界観とそれに並ぶ儒教的、倫理、道徳の思想は神道思想にもつながり、日本人の心のバックボーンとして相応しいものと思っております。

メンテ
般若心経 ( No.54 )
日時: 2019/01/04 13:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cO7i41JY

『般若心経』は、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典で、般若経の1つともされる。
僅か300字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれているとされ、複数の宗派において読誦経典の一つとして広く用いられている。

>般若心経全文

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

https://www.youtube.com/watch?v=a4vmA9noFXo


>現代語訳、解説


摩訶般若波羅蜜多心経(タイトル)
(まかはんにゃはらみったしんぎょう)
存在が存在することの意味を説いたお経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
私(観音菩薩)は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に、一つの真実にたどり着いた。
その真実について、お伝えしよう。

照見五蘊皆空 度一切苦厄

(しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)
私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。
だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。


しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。
確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。


驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。
その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。




舎利子

(しゃりし)
ブッダの弟子のシャーリプトラよ。
私が知り得た真実とは、「自分が存在しない」という驚くべき事実のことなのだ。
今からその真意について簡潔に話をするから、よく聞いておくれ。




色不異空 空不異色

(しきふいくう くうふいしき)
まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。


つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。
これは事実として理解できるね?


体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。
不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。


この、「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。
そうだな、「空(くう)」という言葉がいい。
「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。




色即是空 空即是色

(しきそくぜくう くうそくぜしき)
私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質をもっている。
存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。
そして存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。


もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。
変化をしないから固定的な物体なのだ。


しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。
どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。




受想行識 亦復如是

(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ)
そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。
すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。


つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。
これが何を意味しているかわかるだろうか?


そう、自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。
固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。


ただ、私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。
できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。


しかし真実としては、自分というものは存在しないのだ。
これはつまり、「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。


(続く)
メンテ
般若心経 2 ( No.55 )
日時: 2019/01/04 17:03
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:cO7i41JY

舎利子 是諸法空相

(しゃりし ぜしょほうくうそう)
シャーリプトラよ、驚いただろうか?
それとも、言っている意味がよくわからないだろうか?
もしくは、当たり前のことを言われたような気がしただろうか?


まあ、今はどれでもいい。
あらゆる存在が「空」であるという理解は、当たり前のもの、普遍の事実であるから、今すぐ理解できなくても大丈夫だ。消えてなくなることはない。
これを知ろうと志せば、必ず知ることができる。

ただ、世界の在りようをしっかりと見つめて真実を見抜いていこうとする態度だけは失ってはいけないよ。
このことは人生を生きる上で本当に重要な理解となるから、くれぐれも忘れないでおくれ。


不生不滅 不垢不浄 不増不減

(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)
あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。


あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。


「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。


だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。


「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」
これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。


そして存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。


是故空中 無色 無受想行識

(ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき)
これまでのことを繰り返すことになってしまうが、もう一度言おう。
身も心も、すべては「空」であり、固定的な実体などというものはどこにも存在しない。
私たちを含むあらゆる存在は、変化するなかで「今はこの状態として存在している」というふうな存在のしかたでしかこの世界に存在することができない。


つまり存在には自性がなく、すべて無自性なのである。


無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心。
そのどこにも不変のものはなく、みな「空」である。


見えたもの、聞こえた音、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思い。
それらもまた「空」であり、不変の実体として存在するものではない。

無眼界乃至無意識界

(むげんかいないしむいしきかい)
私たちは感覚器官で周囲の世界を感じとる。
つまり私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官で感じた世界であって、世界そのものを感じているわけではない。


世界とは、私と世界とが互いに関係し合うところに生まれるものなのだ。
そうした世界もまた、「空」であることに違いはないのだがね。

無無明 亦無無明尽

(むむみょう やくむむみょうじん)
私たちは、真実に眼を向けずに、自分本位の誤った認識で生きることで「苦」という感情を抱く。
真実とは、存在は「空」だということ。
誤った考えとは、自分を含む様々な存在が実体として存在していると思ってしまうこと。


なぜ世界が「空」という真実のもとに存在しているのかは、私にもわからない。
ただ、世界は現にそのように「空」として在るわけだから、これは事実として受け止めるしかない。


あらゆるものは、有るようで無いのである。
それは、ただ無いのとも違う。
やっぱり、有るようで無いのだ。

乃至無老死 亦無老死尽

(ないしむろうし やくむろうしじん)
だから、老いや死ということも、本当は存在しない。
老いや死とは人間の眼から見た、概念としてのみ存在するもので、実際には「空」である存在が変化をして形を変えているだけである。


老いないわけではないが、死なないわけではないが、それはやはり老いでも死でもない。

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)
あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。
それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。
じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。


ここはとてもややこしいところだが、頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。
これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。


私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。
真実を受け取るとは、知識で理解することではない。
だから、得ることなどできないのだ。


菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ)
無い無いばかりで申し訳ないが、やはり無いと言うほかに方法がない。
誤った認識の発端は、「有る」と思うことだから、やはりどうしても否定の形をとらざるをえないのだ。

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである。
わだかまりを抱くことが何もない。


わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃

(おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん)
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。


たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?


自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか。


それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ。


このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。


三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
いつの時代であっても、どの国であっても、いかなる宗教を信じていても、この「空」という存在の真理を知っている者は心が安らかでいられる。
よく、「仏」という言葉が使われるが、その仏とはこの「空」を知る者を指す言葉でもあるのだよ。
仏とは「真実に目覚めた者」という意味の言葉だからね。


真実を感得するのに仏教徒でなければならない理由などないのだ。
誰の眼の前にも真実は姿をあらわしているのだから。

故知 般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒

(こち はんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)
だからいいかい、存在が存在することの真実を見抜く「般若波羅蜜多」という智慧は、あらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのだ。


人は、「生きる」ということの意味を真剣に考えたとき、必ずこの真実に向き合うことになる。
存在が存在することの意味を知らずして、存在が生きることの意味なんてわかるわけがないからね。

能除一切苦 真実不虚

(のうじょいっさいく しんじつふこ)
あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は、どんな苦しみも、それが概念でしかない自分が築き上げた、さらなる概念であることに気がつくだろう。


だから苦しみから逃れようとして苦しむことなど、あるはずもない。
病などによる痛みや疼きが消えるわけではないが、それらを「苦」と認識して「苦」から逃げようとすることはないという意味だ。

故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰

(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)
最後に、この真実を見抜く般若の智慧を、短い咒文で讃えたい。
これだけは意味を訳さないで、古代の言葉のまま読んでほしい。
昔のままの言葉で読むことに意味があるのだ。


だから言葉の細かな意味は知らなくてもいい。
「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
頭で理解することが、理解の全てではないのである。


では、その咒文をここに記しておく。

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
ギャーテーギャーテー
ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー
ボウジーソワカー

(引用終わり)

如何でしょう、私たちが仏式儀式でよく聞く般若心経の世界です。
般若心経は、釈迦の挨拶の様なもので釈迦の基本姿勢を現しています。
具体的な教えを説くお経は沢山ありますが、一般の人々が理解しやすいものに「和讃」があります。
その一つ「菩提和讃」はNO52のレスで紹介しています。

これに対してキリスト教とは何か。
そのキリスト教の世界観を現してみましょう。


>キリスト教の世界観

この世界と人間は、神によって創造されたものであるという世界観をもっています。過去のキリスト教ではこの世界観に基づき、人がいかにこの世界を支配し克服していくかという考えが強調されてきました。

(原罪)

神が初めに創造した男女・アダムとエバが、神に食べることを禁じられた善悪を知る木の実を食べたという物語を通して、人の自己中心性という罪、神への裏切り・信頼関係の断絶を示しています。またそれに続いて、兄カインが弟アベルを殺害した人類最初の兄弟殺人事件が描かれていますが、それは、人間のもろさ、弱さを教えてくれます。

(救済 イエスの登場)

イエスは人びとに対して、神の思いを知り生きること、また、自分を愛するように人びとを愛するようにと教え、また、人びとはキリストを通して、神の呼びかけ、語りかけを聴き、従うようになりました。
信じる、もしくは、そのような神の存在があることを受け入れるということを、キリスト教では「信仰」といいます。このような思いを受け入れるならば罪のゆるしにあずかり、どのような人でも神と人との新たな関係に生きることができると教えています。「救い主・メシア」という意味のギリシャ語である「キリスト」という言葉と、固有男性名詞「イエス」をならべて「イエス・キリスト」と書き、「イエスはすなわち救い主」であるということを指すようになりました。

(引用終わり)

全く異なる世界観でしょう。
私は、断然、釈迦の世界観が好きです。

メンテ
Re: 宗教とは何か ( No.56 )
日時: 2022/05/06 07:12
名前: スメラ尊 ID:JcXkm0c6

メンテ
回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達 ( No.57 )
日時: 2022/05/06 07:19
名前: スメラ尊 ID:JcXkm0c6

回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達


アメリカには「ポーン・アゲン」を なのり、そう呼ばれる人びとがいる。 人生の道半ばで、神に、キリスト に、聖書に出会い、キリスト教徒とし て新しく生まれ変わった人びとであ る。改宗ではなくて、回心と再生を誓う、プロテスタント教会のなかの行動的な一派である。


◆40歳にして「回心再生」

ブッシュニ世はボーン・アゲンのひ とりになった。飲酒にふけって、安易 な生活を送っていたのが、名高い伝道師の説教を聞いてからは、四十歳にし て酒を断ち、回心再生の人となった。

朝は祈りと聖書の読誦にはじまり、閣議も祈りではじまる。
演説には聖書 のことばがちりばめられている。

「アメリカに昧方しないやつは敵だ」というブッシュニ世の人物を特色づける発 言も聖書からでている。

「わたしの側 に立たない者はわたしに逆らう者、わたしと共に集めない者は散らす者である」

神仏の信仰を問わず、ボーン・アゲンの宗教体験をもつ人びとのおおく は、個人の内面の間題として回心をうけとめている。

ところが、アメリカの 「生まれ変わり」は異様に猛烈である。かれらは公の場で回心の体験を声高 に語って、人間は罪を負って生まれた存在であるから回心しなさい、改俊しなさいと、説得と折伏の活動に訴えることを神に奉仕する使命と信じている。

その特徴は徹底した二元論である。人間は神に選ばれて救われる者と、救 われない者に分かれている。回心者に は永遠の平和、福音に耳ふさぐ者は悪魔の子で永遠の地獄が待っている。

善と悪、神と悪魔、味方と敵、白と黒、光と闇が現世を二分して戦ってい るという論理を用いて、迷える小羊に選択をせまるのである。

原理主義(ファンダメンタリズム) はイスラムの 「専売」のように思われて いるが、この 言葉と運動は はじめて一九 二〇年代アメ リカの白人プロテスタントの環境からうまれた。

ボーン・アゲンは原理主義の三つの 教条を継承している。

聖書に書かれてあることはすべて神の言葉であって、解釈や考証はゆるされない。
人間は神によってつくられた被造物で、サルから進化したなどという「妄説」はゆるされない。

やがてキリストがこの世に再臨して至福の千年 が始まるから、神への奉仕にいそしまなければならない。

◆悪魔うけいれる土壌

最近のギャラップ世論調査による と、アメリカ人の48%は神が人間をつ くったと信じ、28%が進化論に傾いている。そして、悪魔の存在を68%が信 じている。

テロリズムも「九・一一」の悲劇も、バグダッドに巣食う悪魔の仕業だ という圧倒的な政治宣伝がたやすくう けいれられる精神的土壌がそろっている。 プロテスタント教会の少数派であっ たボーン・アゲン原理主義と、帝国を夢みる新保守覇権主義の二つの特殊な 潮流と人脈が、アメリカ政治の中枢を乗とってしまった。

神の下なる道義の国アメリカの指揮 官ブッシュニ世は、「万軍の王の王、主の主」(ヨハネ黙示録)として、神の御業を実践する十字軍に立つのである。

しかし、利得の追求を宗教的熱狂で紛飾した十字軍は、中東のみならず、 世界の現状にひそむ限りない複雑さと、そして、人間の惨害を無視して強行されるのだから、前途には、とほうもない魔の陥弊が待っている。

現在の狂ったアメリカ人の精神構造を探るには、アメリカを覆っているキリスト教原理主義的教義が分からないと理解できない。

回心再生と言ったって何のことか分からない。

回心再生して神に仕え、そうでない福音に耳を塞ぐ者たちを、悪魔の子として永遠の地獄に突き落とすことが、彼らの使命なのだ。

このようなキリスト教原理主義の教義が分かっていれば、ラムズフェルドの冷酷さも理解できる。

彼はアフガニスタンの戦場における、タリバン兵の捕虜達をクンドゥスに集め、爆撃して皆殺しにした。悪魔の子として地獄に突き落としたわけだ。
彼らにとっては異教徒は人間とはみなさないのだ。




キリスト教原理主義

キリスト教原理主義の本質は、主に米国が過去に行った過失を正当化できるからこそ普及しているのであり、キリスト教よりもユダヤ教の亜種に近い性質を帯びている。
プロテスタントといえば、多くの日本人はルター派とカルバン派しか思いつかないだろうが、英米のプロテスタントの多くは、英国国教会の亜種である。

英国国教会は、設立当初から血塗られている。

ローマ教会が離婚を許さないのを理由に、ローマ教会を離脱して英国王が首長となる教会を設立したのであるが、そのヘンリー8世は6人の妻を持ち、2番目の妻アン・ブーリンと5番目の妻キャサリン・ハワードを姦通罪で処刑している。6人のうち死別は3番目の妻ジェーン・シーモアのみである。

英国国教会の成立には、ローマ教会を通して仏の影響力を廃したかったのもあるだろう。アビニョン捕囚(1309〜77)の影響でフランスはローマ教会への影響力を強化していた。
また、ローマ教会自体が各国の王の上に己の存在を置く状態であり、英国内の反発があるからこそ、英国国教会は存続したのだろう。

つまり、設立自体が、エゴイズムとナショナリズムが動機である。

そのため、エリザベス一世時代に英国国教会から清教徒が反発して分離するのだが、彼らがローマ教会へ戻らずに新しい諸派を建てていった理由も、ナショナリズムによるローマ教会への反発があった。

もちろん、当時のローマ教会は相当腐敗していたのも事実だ。
つまり、英米のプロテスタントの場合、ルター派とカルバン派ほど純粋な動機とは言い難い部分が元来強かったのである。

ローマ教会を離れた時に、教皇に替わる宗教的権威は、何になるか。
自派内のヒエラルキーの頂点である。

古い宗派の中で頂点を極めることは難しいが、新派を建てれば己自身が頂点になりうる可能性がある。

「英国人は六十の宗派を抱えているが、料理のソースは一つだ」というイタリアの諺があるほど、英米のプロテスタントは多数の派がある。

己が宗教的権威になりたいという我欲こそが、多数の派が存在する理由の最大の要因ではないかと憶測している。

一番の問題は、聖書無謬性という偏向なのだが、これはルター派が聖書中心主義を唱えた影響から英米のキリスト教原理主義に多い。

キリスト教において本来一番大切なのは、イエス=キリストの言葉であった筈だが、イエス=キリストの言葉と矛盾する見解を米国人が頻繁に出すのは、聖書無謬性の影響ではないかと思う。

聖書無謬性、というよりも、旧約聖書無謬性こそが、キリスト教原理主義の中心に存在するのではないか。

旧約聖書は、無謬どころか矛盾だらけだが、キリスト教原理主義で重要視されているのは、旧約聖書の内容とヨハネの黙示録なのである。

ヨハネの黙示録の諸派にとって都合の良い解釈することと、旧約の内容が、キリスト教原理主義の根本のようだ。

これでは、キリスト教というよりも、選民思想が極端に強いユダヤ教の亜種である。

まず、北米インディアンの土地を奪ったことについては、「アメリカは約束の地である」と説明する。

鉄砲隊に向かって「特攻」を続けた北米インディアンを、虐殺し続けるのに当たって、「北米インディアンは聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と説明する。

奴隷貿易の中心は実は英国だったが、「黒人は聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と同様に説明している。

聖書の無謬性という信仰を利用することによって、自分達のエゴイズムや貪欲な物欲、選民思想を合理化できるのだ。

どんな人間だとて、異民族でも多数の人間を無差別虐殺すれば、潜在的に罪悪感を感じるものである。

もちろん、本物の「見せかけだけの善人」ならば、潜在的にも罪悪感を感じないだろうが。

米国人の心に在った潜在的罪悪感や不安感を薄れさせ、自らの虐殺・軍事的及び経済的侵略を正当化するために、聖書無謬性は、実に利用価値の高い説なのである。
聖書無謬性は、選民思想を強化し、エゴイズムの発現と経済侵略を正当化する。
だから、英国は「死の商人」として長年成功できたのだろう。日本で有名なグラバーも、英国の武器商人である。

第二次世界大戦後、英国の国土は荒廃していた。

戦争の被害のない米国が「世界の中心」となったのは必然であるが、その世界の中心とは、「世界の武器工場」なのである。この情けない地位は、この先当分揺るぎそうにない。

人殺しで儲ける「商売」は、私は世界中で最も卑しい職業だと思う。

殺傷兵器を多数生産することにも、自己正当化と合理化が必ず必要になる。

「我々は、民主主義を世界に普及するために武器を製造しているのである」とか工場で合理化の言葉を言わなければ、現場の労働意欲が必ず低下していく筈だからだ。

米国で武器を多数製造しなくても、たくさんある別の産業に大半を転換すればいいだけの筈だ。日本は、戦後ちゃんとできたのだから。

だが、恐らく、最早不可能だろう。

なぜなら、米国は「民主的な豊かな社会」から「憎悪と恐怖の対象」「言論を弾圧する強国」へと変質して行っているからである。

報復を恐れて先制攻撃し、無差別攻撃するために、他国民の憎悪と怒りが増し、死を賭しても抵抗を表したいという人々をどんどん増やしているという、ごく当たり前の論理が、米国人には理解できないようだ。

恐らく、欧米人以外の人々を、無意識下で「人間」と認めていないからである。

世界中から恨まれ憎まれていることを、米国人の大半が9.11まで気づかずに済めたのは、エバンジェリカルが米国民が潜在的に持つ罪悪感や不安感を合理化し、選民思想を強化してくれているためである。

戦争があるたびに、米国内のエバンジェリカルは信者数を増していく。

今や、聖書無謬性を信じる米国人が半数以上なのではないか。

例え、神が言ったことが正しかったとしても、転記を続けた古代ユダヤ人が自分達に都合の良い内容に書き換えなかったと何故信じられるのかは、理解に苦しむ。

古代ユダヤ人の知っている世界しか書かれていないからといって、それ以外の土地に住むのは人間ではない、あるいは被差別民族だと信じられるのは、何故なのか。
「木を見る西洋人 森を見る東洋人」に従えば、西洋人の世界観があまりに単純だからと説明できるだろう。

そんなに、世の中、単純なわけなかろうが。
あらゆる物事は、複雑に絡み合っている。
人体の一部が悪くなれば、全体に影響が及ぶようにだ。

潜在的罪悪感を引きずるからこそ、米国は犯罪大国になったのではないか。

エバンジェリカルは「核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 朝日選書」によると、ヨハネの黙示録の「ゴグとマゴク」、つまりイスラエルに進攻して戦う二つの大国とは、ロシアと中国だと教えているそうだ。
信者を増やすために、「核戦争はすぐ来る」とエバンジェリカルが米国民の恐怖を煽れば煽るほど、「どうせ先はないんだから」と自暴自棄の心境に陥り、犯罪に走る者は増えていったのだろう。

潜在的罪悪感や不安感は、潜在的犯罪者を増加させていき、米国民の人心を荒廃させて行ったのである。

「人のふり見て我がふり直せ」と言う。

経団連が武器輸出を求めた結果、内閣が勝手に、当座米国にのみミサイルを輸出することに決めてしまったが、これは米国の轍を踏むことになるだろう。
潜在的罪悪感を合理化する装置としての宗教は、日本において国家神道と靖国である。
次第に国粋主義者が再度増えて行っている現状を、よく考えてほしい。
米国の事実上支配下に入っている日本では、精神的には戦後の混乱が続いたままなのである。

恐らく、潜在的罪悪感や社会の矛盾を合理化するために、日本人の多数が、再び自発的に国家神道と靖国に縋り始めたのである。

それを否定する者に対して、「非国民」扱いが始まっている。

戦後の精神的混乱を「日教組の偏向が」等とする、安易な合理化を続けているようでは、昭和初期と同じ状況を自ら作り出してしまうだろう。

そして、潜在的罪悪感と社会の矛盾を合理化するのに、靖国では駄目だと考える人々が新・新興宗教に縋っていくのである。

この状況が長く続けば、オウムのような極端な教義を必要とする人々が増えていくはずだ。

武器輸出は、第二・第三のオウムを作り出し、アーレフを強化する。
エゴイズム、利己主義と物質主義、利益優先主義、選民思想などの、「アメリカナイゼーション」が「グローバリズム」の名で一層進行していけば、犯罪発生率が増加するのは当然である。

物事は連鎖していると考えるのは、東洋的発想らしいが、過去の清算が充分に済まないならば、潜在的罪悪感や不安感が、国を誤った方向へと導くのは避けがたいだろう。
良い商品を世界に供給するのを止めて、死の商人への道を進むのが、日本国の将来のために素晴らしいことと思いますか。

経済的論理のみを追求すれば、犯罪発生率は高まり、要人暗殺や報道機関への武力攻撃等の右翼テロが頻発する時代をもたらすだろう。

その先にあるのは、五‐一五事件(1932年犬養毅首相暗殺)、二‐二六事件(1936年陸軍クーデター)のような時代が来るだろう。

貴方は、奥田経団連会長や小泉首相が、そういうことまで考えて武器輸出を決めたと思いますか。

重要案件が国会の議決を経ないで決まる事態は、民主主義の形骸化の進行です。
「誰がなっても変らない」と賢しらに言う人々が多数日本にはいますが、本来、日本の未来を選ぶのは、国民の一票の筈です。

貴方は、どんな未来を選びたいと考えていますか?

何もせずに他人(政治家や官僚)のせいにするというのも、一つの選択であり、その選択に相応しい未来が待っているはずです。

【福音派】聖書の外典・偽書と「聖書の絶対不可謬性」

キリスト教史の中で、旧約聖書が正式に聖典の扱いを受けるようになった歴史は意外に浅く、トリエント公会議(1545)の時である。

2世紀には既に旧約聖書を認めない派が存在し、それに反対するためにも4世紀に聖書のラテン語訳が始まり、397年「正典」が一応決まった。

特に、ヨハネの黙示録を新約に残すかどうかで、随分揉めたらしい。

東方正教会は、長く認めていなかったという。

1世紀末に書かれたもので、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」の著者とは別人が書いているが、今でも諸説あり、作者が福音書作者でないと文献学等で否定されていることを聞くと激怒する宗派もあるらしい。

どの文書が聖書として認められるべきか否かで、長く揉めて来た歴史というのは、大抵の宗教にあることだ。例えば、「北伝仏教の経典の多数は偽書である」という研究もある(「梅原猛の授業 仏教」をご参照下さい)

そんな歴史があるのに、特に、キリスト教原理主義者達を中心に「聖書の絶対不可謬性」を固く信じているキリスト教徒が結構いるのだそうだ。

聖書の中には、これを聖書に含めるかで揉めた文書があるという歴史等を、清教徒は全く知らなかったらしい。そのため、アメリカを中心に「聖書の絶対不可謬性」という、珍奇な教義をもつ教団が多いのだそうだ。

しかも、彼らが「間違いがない」と主張するのは、大抵、本来は聖典ではなかった旧約聖書のほうで、新約と違って間違いだらけの書物だ。
旧約聖書は盲信されると、世界の迷惑になる話が多すぎるのだ。

聖書と言っても旧約聖書は、基本的に泊付けのために導入されたものであり、どう考えても新約聖書の「神」と矛盾している。

旧約聖書の「神」は、所詮民族宗教の神なので、イエスと違い、人を幸福にすることのない神なのだ。

その「神」とイエスが三位一体であると言ったものだから、それから、キリスト教の神は相当残虐な「神」に変化し、教会の教えも残虐なものに変質してしまったのかもしれない。

ローマカトリックが新教の発生と共に今までの教会のあり方を見直して現在に至るのと対照的に、「自分達こそ、(旧教の輩と違って)汚れなき者である」と主張し続けて来た人々は、随分人殺しが好きな人々になっていき、全く自分達の行動を振り返ろうとはしない。

「神に選ばれた」とか「(自分達だけは)清浄なるものである」とか、「アメリカは『神の国』である」とか言うのは、明らかな(誇大)妄想である。
民族宗教の神ならともかく、キリスト教の神が、そんなに驕り高ぶり尊大で、「自分達は選ばれているから何をやっても許される」といった論理で他国民を無差別虐殺するような信者を、そんなに高く評価するだろうか。

「汝の敵のために祈れ」と言った神がだ。

聖書を書き記したのは所詮古代ユダヤ人であり、聖書の中にサハラ以南の黒人、インド以東のアジア人、北米南米・オーストラリア・ミクロネシアの現地人の存在が書かれていないのは、単に、当時の古代ユダヤ人の知識が足らなかっただけである。

ところが、「聖書の絶対不可謬性」を盲信する人々は、聖書に出て来ない人々を「人間として認めてはならない」という、見解になりがちだ。

清教徒が最初にこの考え方を米国に伝え、英国の清教徒が奴隷貿易を擁護した。自分達は清い名を名乗り、その行動は実に血なまぐさい。

聖書が誤っていることを認めぬ代わりに、世界や現実のほうを自分達の信念に合わせようとすると、随分多数の人々の人権を侵害し、戦争を次々起こし、多数の国を弱体化させ、...たくさんの異教徒をアジア・アフリカ・南北アメリカで殺さなければならない。
実際に、合わせようと今まで努力してきたのが、アメリカ合衆国という国の「裏の歴史」ではないのだろうか。

「キリスト教原理主義のアメリカ」(p.94)では、「聖書の絶対不可謬性」を信じる信者の割合を表示している。

 ユニタリアン・ユニバーサリスト        6%
 統一キリスト教会              12%
 アメリカン・福音ルーテル教会        21%
 エビスコーパル・チャーチ(聖公会)     22%
 統一長老派教会               25%
 統一メソディスト教会            34%
 エホヴァの証人               51%
 チャーチ・オブ・クライスト         55%
 サザン・バプティスト会議          58%
 チャーチ・オブ・ナザレン          58%
 アセンプリーズ・オブ・ゴッド        65%
 ユナイテッド・ペンテコスタイル・チャーチ  69%
 チャーチ・オブ・ゴッド           80%




「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景について

アメリカに移住したピューリタンは、「キリスト教原理主義」を貫いて、「エルサレムの建国」を「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」として、西部開拓(実際は先住民殺戮)を推し進めた。

この「キリスト教原理主義」の精神性が連綿と続いているという。
「キリスト教原理主義」は聖書(:福音)絶対であるのと同時に、選民思想であるという。これが他部族みな殺しを正当化させているとのこと。

元々、ヨーロッパ自体が

「古代・地中海周辺における皆殺し戦争の結果としての共同体の徹底破壊」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=330205

により、選民思想も登場してきているという背景があります。

ヨーロッパは、17世紀中頃に徹底殺戮の宗教戦争(:「神」と「悪魔」の戦い)をやめる条約を取り交わしました。しかし、アメリカ(に渡った移民)はその後も長きにわたって、みな殺しの殺戮を繰り広げてきたことが、今尚「敵を妥協せず徹底的に叩く」という精神性に繋がっているのだと思います。

以下、

『世界を操るグローバリズムの洗脳を解く(馬渕睦夫著)

からの紹介です。
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■アメリカを新しいエルサレムの地にする

イギリスでピューリタン革命が起こる前、宗教的な迫害を受けたピューリタンの一部の人たちは、新天地を求めてイギリスからアメリカ大陸に向いました。1620年にピルグルム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに渡ったのです。
ピューリタン(清教徒)というのは、purity(純水、清浄)という言葉から来たものですが、文字通り、宗教的な純粋、純化を求めていた人たちです。

彼らは、当時のカソリックの腐敗した状況を見て、ルターの宗教改革をさらに徹底してやらなければいけないと考えました。

ある意味で、キリスト教の原理主義であり、相当極端な過激な思想であったと思われます。それゆえに、イギリス国内での迫害も強かったのでしょう。ピューリタンたちはイギリスで食い詰めた最下層の人たちだったという説もあります。

いずれにせよ、彼らの一部はイギリスを逃れてアメリカに移住しました。
彼らピューリタンは、司祭の言葉ではなく、聖書の言葉こそ神の言葉と考えて、聖書の言葉を忠実に実践しようとしました。そして「この地に自分たちにとってのエルサレムを建国しよう」と考えたのです。

ピューリタンたちは旧約聖書を重視しましたが、旧約聖書に忠実に従ったという点ではユダヤ人たちと考え方は同じです。

ユダヤ人は自分達を選民と考えていましたが、ピューリタンも自分達を現代の選民と考えて、アメリカという地をエルサレムにして、神の福音を世界に伝えようと考えました。これが「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」と呼ばれるものです。建国の精神に立ち戻って考えれば、アメリカと言うのは宗教国家であることが分かります。

彼らは、神の福音を伝えることを使命と考えていましたから、それを妨害する勢力は皆敵と見なしました。その観点に立てば、先住民の殺戮も正当化されました。

そして神の福音を妨害する勢力を西へ、西へとなぎ倒していったのがフロンティア・スピリットです。フロンティア・スピリットは、ピューリタニズムと表裏一体です。
西へ、西へと進んでいって最終的にたどり着いたのがカリフォルニア。そこから先は海に遮られています。しかし、太平洋を越えて福音を伝えようと考え、アメリカはハワイ、フィリピンに進出し、さらに日本、中国にも福音を伝えようと考えました。
このように、アメリカのたどってきた歴史は、マニフェスト・デスティニーの歴史と考えると筋が通ります。


■宗教国家のアメリカには「妥協」がない

現代のアメリカには、ピューリタニズムの精神はもうほとんど残っていません。アメリカの国体はすっかり変わってしまいました。国体は変質してしまいましたが、彼らのマニフェスト・デスティニーの考え方は変わっていません。アメリカ的な発想を世界に普及させる、あるいは押し付けるというやり方を続けています。つまり、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を世界に広げることが、一貫したアメリカの世界戦略です。

彼らは、「自分達は植民地主義者ではない。帝国主義者ではない」とずっと主張し続けていますが、実際の現象を見れば、遅れてきた帝国主義者の様相を呈しています。彼らは「門戸開放」という言葉を使いましたが、言い方を変えれば、「オレたちにも分け前をよこせ」という意味です。

神の福音を伝えることが目的であったにせよ」、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を広げることが目的であったにせよ、実質的には帝国主義と同じです。

建国の経緯を見れば、アメリカと言う国の本質は宗教国家であることが見えてきます。宗教を広げることを理念としている以上、彼らに妥協というものはありません。その点を理解しておくことが重要です。宗教国家の側面は、アメリカの戦争のやり方にも影響しています。

ヨーロッパにおける戦争というのは、妥協が成立することがよくあります。17世紀に宗教戦争によって疲弊しきったヨーロッパ諸国は、1648年にウェストファリア条約を結んで宗教戦争を止めることを決めました。

宗教戦争というのは、「神」と「悪魔」の戦いですから、悪魔は徹底的に叩くほかなく、どちらかが破滅するまで行われます。続けていけば際限が無くなり、ヨーロッパ全体が破壊されてしまうため、宗教を理由とした戦争を止めるウェストファリア条約が結ばれました。

ウェストファリア条約以降は、ヨーロッパでは戦わずして対立が終わることもありましたし、話し合いによって妥協が成立することもありました。
アメリカの場合は、選民思想によるマニフェスト・デスティニーが根本にあるため、アメリカにとっての戦争は、いずれも宗教戦争的意味合いが濃く、彼らには妥協というものがありません。

第二次世界大戦においては、アメリカは日本を徹底的に攻撃して壊滅状態に追い込みました。その後の占領政策では日本の国体を徹底的に潰そうとしました。一切の妥協はありませんでした。それが宗教国家のやり方です。
今は、ピューリタニズムのアメリカ的な精神を持った人たちは、ほとんどいなくなりました。アメリカの国体が変質して、宗教国家の要素はなくなっていますが、妥協しないやり方は変わっていません。
メンテ

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