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[3178] 日本(日本人)とは(日本人のルーツ)
日時: 2019/07/05 16:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:uY3N0oQw

(人口の問題)
紀元前2〜3万年ころの地球は寒冷化が進み人類の定住地に異変が起きた。
この一連の動きのなか、ロシア大陸と日本は氷上を歩いて渡る事ができ、モンゴルの北、バイカル湖周辺に住んでいた人たちが約7000人ほど日本に移住してきたと考えられている。

発見された縄文時代の遺跡数の分析から、縄文以降、各期の推定人口から、8,000年前の縄文早期の人口は、東日本地区で17,300人、西日本地区で2,800人の計、20000人と推定している(東日本地区の多くは北方から移住してきた7000人を含んでいる)。

一方、
・・・・・日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが精確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。
シュメールとは現在の南イラクのことです。
こうしたシュメール文化が、南方(東南アジア・台湾)や朝鮮半島を経由して日本に入って来ました。

このうち黒潮に乗って移住してきた人たちは、日本海ルートをたどり九州北部、山陰から北陸地方に定住しました。
出雲大社を作った一族は相当大きな勢力を持っていたと考えられます。
他方、太平洋側へ渡った一族は九州南部の定住し熊襲を名乗っていました。紀伊半島へ向かって定住したと考えられます。

弥生時代に入ってから中国、朝鮮半島からの移住者が増えるまでは、この南方からの移住者が、縄文人の中核をなしていました。
縄文時代の人口のピークは26万人と言われています。

以上から、現代日本列島人は、旧石器時代から縄文時代を通じて居住してきた縄文人の系統と、弥生時代以降を中心に日本列島に渡来してきた弥生系渡来人の系統の混血であることがはっきりしたというわけだ。また、南方から来たアイヌ人(蝦夷)はこれらとはさらに別の第3の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があったことがわかった。

(我が国への渡来人の歴史)
T 紀元前1万年頃   コーカサス(バイカル湖)方面から約7000人
U 紀元前1万年〜紀元前1000年  南方からの渡来人 縄文時代の中核を構成。北方系渡来人との交流もあり。
V 紀元前2〜3世紀 中国、朝鮮半島から移住し弥生人の中核となった。
  西暦5世紀までに100〜150万人と言われる。
  西暦5世紀後半〜6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
  仏教の伝来もこの時期。
W 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。

(参考)
弥生時代は紀元前1000年から西暦200頃までと言われていますが、弥生時代の後半の人口は60万人と言われています。
西暦700年(飛鳥・奈良時代)には540万人(100〜150万の渡来人を含む)となって行きます。

大和朝廷は紀元200年頃から始動を始め、国家としての形を形成するのは紀元500年頃である。

日本と言う国家は、この時期に初めて成立する概念であり、紀元500年ころ、大和朝廷を成立させた部族を、その民族とすることが出来る。
その部族とは、弥生時代以降、700年簡の移住してきた渡来弥生人が中核となるでしょう。
渡来弥生人と言っても700年の間に民族間の混血が進み、縄文人も含まれることになる。
しかしながら、大和朝廷に服従しないアイヌ(蝦夷)人の一部は、頑強に抵抗しやがて東北、北海道地方に追いやられる。

要するに18世紀に建国したアメリカは、アングロサクソン人が支配しているが、今尚インデアンと言う現住民族がいると同じことである。
我が国(日本人)のルーツ探しも、弥生人をそれとするか蝦夷(アイヌ)を日本人の原型とするか、見方によるものとしなくてはならない。

さて、次には日本の社会の様相を見てみましょう。
我が国に稲作が伝えられたのは紀元前800年(弥生前期ないし縄文後期)とされている。
それ以前と言う説もある。

稲作の伝来、定着と共に社会的大きな変化は環濠集落誕生と社会構成である。
最初は小さな集団から始まったのであろうが、これが段々と大規模なものとなり直径が数百メートルもある大規模なものとなり、村の概念から国の概念へと発達して行く。
また収穫物と言う財産を保持することになり、狩猟生活における獲物の取り合いとは別の、集団同士(村)の熾烈で大規模な争奪戦を生む原因ともなった。

「 クニ」の形成

弥生時代、当時の最先進地域であった北部九州では、当初、それぞれ個別の集落として存在していた「ムラ」が、農耕が基本に持つ高い人口再生産力を発揮してムラの拡大・分化を生み、近辺の生産適地を埋め尽くすように未開地を耕作地へ変えていった。

その結果増加した「ムラムラ」が、弥生前期後半ごろから小共同体(おそらく血族集団、本家と分家などから構成されたような共同体)に成長し、更にその小共同体が、指導力を持った中心的な小共同体と、そういう小共同体との共存を図ろうとする従属的な小共同体とに階層化し、それらが一つのグループとなって「クニ」を形成し始めた。
クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことにあったと思われる。

それほどにムラの数や人口が急増し、北部九州の中小河川の水量では、その効率的な利用が強く求められたからであろう。
当然、クニの内外で調整や裁定というような社会的作業や、それがうまく図れなかった場合には、争いが−すなわちこの列島において初めての戦争が−起こったであろう。
それは次第に、大リーダー(大首長)と小リーダー(小首長)、さらにその構成員というように、人々の間に階層的な関係を発生させた。
縄文時代には考えられなかった、社会構造が形成され始めたのである。

そうした日本列島の新しい鼓動は、半島や大陸の方にも聞こえ始めていた。
「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為し、歳時を以て来たり献見す、と云ふ」
これは『漢書』に記された一文の読み下し文であるが、中国の正史に「倭」が登場した最初の記述である。時代は紀元前1世紀の頃。
現代文に直せば

「楽浪郡から海路を行った先に倭人と言う処がある。(倭の人々がいる、という読み方が一般的であるが、そういう漢文の用法は見出せない、という意見もある) 100以上の国々に分かれており、毎年、四季毎に(楽浪郡政庁を)訪れて貢物を献上する、と言う話である」

これはすなわち、当時の漢(前漢)を中心とする東アジアの国際社会の中に、倭(or倭人)と呼ばれる北部九州を中心とした西日本のクニグニが、一つの勢力として登場してきたことを意味する。
そして、100余国すなわち100余クニとは北部九州だけで収まりきれるものではなく、おそらく「倭」とは西日本全体を指していたのであろう、としている。

中国は後漢の時代、倭の「奴国」が自称太夫(=大臣、長官)を遣わして朝貢をした。時の皇帝・光武帝は返礼として印綬を下賜したという。
この一文は有名な「漢委奴国王」 により証明された。

そして民族の特性として、大和民族は農耕民族、あるいは島国に居住することから海洋民族と分類される場合もある。 また江上波夫が騎馬民族征服王朝説を唱えたが学術的には否定されている。

このような中で、日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立したのが神道のはじめである。
メンテ

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縄文人の遺伝子は現代日本人には殆ど入っていない ( No.3 )
日時: 2019/08/23 22:14
名前: 自分の頭では何も考えない日本人を嘆く者 ID:lUR8SIuY

縄文人の遺伝子は現代日本人には殆ど入っていない


>前述で縄文時代のアイヌを、日本人のルーツとしましたが、そのアイヌと同じDNAを持つ人種が台湾にもいるそうです。



現代日本人Y-DNAハプログループ比率

D1b1--32%
O1b2-32%(旧表記O2b)
O2---20%(旧表記O3)
C2----6%
C1----5%
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1%
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)


縄文人・アイヌ人は D1b2b
現代日本人は D1b1


ハブロタイプが全然違うから現代日本人は縄文人とは別人種だよ
そもそも日本語とアイヌ語は全く共通点がないし。



中国大陸に展開したY-DNA「D」は後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、
南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。

呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。
このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。



おそらく


縄文人・アイヌ人は D1b2b でアイヌ語を話していた

四川文明人・九州縄文人・西北九州弥生人・現代日本人は D1b1 で日本語を話していた

弥生時代後半から古墳時代に朝鮮から日本に移住してきた渡来人は O1b, O2 で百済語、高句麗語を話していた


なんだろうね




▲△▽▼


2019年05月25日
鳥取市青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨のDNA解析補足


 現代日本人のY染色体DNAハプログループ(YHg)Dの起源について最近述べましたが(関連記事)、鳥取市青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨のDNA解析(関連記事)について言及するのを忘れていたので、補足します。青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨に関しては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では32人中31人が「渡来系」で、1人が「縄文系」と推定されています。一方、核DNA解析では、父系(YHg)の多数が「縄文系に近い」と分類されたそうです。おそらく、現代日本人のYHgにおいて30〜40%と高い割合を占めているD1bなのでしょう。じっさい、「縄文人」においてYHg-D1bが確認されています。

 単純に考えれば、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団の社会構造は父系的だったことになります。在来の縄文系集団に、弥生時代以降にユーラシア東部より渡来した人々が主体の集団から女性が「嫁入り」してくような構造があった、というわけです。しかし、現時点で確認されている「縄文人」およびゲノム解析で「縄文人」の変異内に収まる東北地方の弥生時代の男性は全員YHg-Dに分類されるものの、より詳細に分類できる個体は全員、YHg-D1b2aです(関連記事)。一方、現代日本人で多いのはYHg-D1b1です。YHg-D1bは、D1b1 とD1b2に分岐し、D1b2からD1b2aが派生します。つまり現時点では、現代日本人のYHgにおいて多数派のD1b1は「縄文人」では確認されていないので、弥生時代以降にアジア東部から到来した可能性も一定以上想定しておかねばならないだろう、と私は考えています。ただ、予想される「縄文人」の現代日本人への遺伝的影響から推測すると、現代日本人のYHg-D1bが「縄文人」由来である可能性はじゅうぶん考えられます(関連記事)。

 それはともかく、もし現代日本人のYHg-D1b1の多くが弥生時代以降の「渡来系」由来で、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団の男性もYHg-D1b1だとしたら、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団は、母系では「渡来系」で父系では「縄文系」ではなく、どちらでも「渡来系」が圧倒的に優勢だったと考えられます。もっとも、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団のYHgの詳細は報道では不明なので、「縄文系」と推測されるD1b2aなのかもしれませんが。より詳しい情報を得ないと判断の難しいところですが、現時点での報道からは、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団を、母系では「渡来系」で父系では「縄文系」と単純化するのには慎重であるべきだと思います。

 日本に限らず、自集団の起源論に高い関心が寄せられている国・地域は多いでしょう。一般層の日本人起源論でとくに関心が高いのは、現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響のように思います。これに関しては、「縄文人」と現代日本人との連続性を強調する見解と断絶を強調する見解とがネットでは「大きな声」になっているように思われ、迂闊なことを言うと直ちに罵倒・嘲笑を受ける、といった印象さえ私は抱いています。現時点では、日本も含めてユーラシア東部に関しては、とてもヨーロッパのような水準で人類集団の形成過程を論じられる状況ではないと思います。現代日本人の起源の解明には、日本列島だけではなくユーラシア東部の古代DNA研究の大きな進展が必要となるので、それまでは安易に断定してしまわないよう、私も気をつけておかねばなりません。





▲△▽▼



青谷上寺地遺跡で出土した渡来系弥生人の男性は縄文人と同じY-DNA D2を持っていた 2018-12-21
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12420079127.html


青谷上寺地遺跡で出土した人骨のうち32体をミトコンドリアDNA分析した結果、ほぼ全員の31体が渡来系弥生人であった。そして、その内29体が血縁関係が無かったという。



大陸での争いを避けて、家族を見失ったまま大慌てで渡来した直後で家庭を再建出来ていなかった時期の遺跡であったと想像される。まるで、昭和時代の敗戦で家族を見失って大陸から日本に戻った引揚者の状況によく似ている。



また、「中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり、刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨な行為があった」と考えられており、日本列島に上陸した直後までに争いがあったか、傷ついたままで渡海した可能性がある。家庭を作って一つの村を構成してからの争いなら、何人か同じDNAを持つ血族を構成してグループ化していたはずである。



そして、下関市の土井ヶ浜遺跡の弥生人の食生活と比較する為に骨の成分を分析すると、海産物を多く食べるなど、よく似ていた。この食文化は現代まで続いており、また現代日本語の方言のアクセント分布を見ると、出雲地域を除いて、下関から鳥取辺りにまで広がる山陰方言の文化圏の人々となっている。また、下関の綾羅木郷遺跡から土笛が完形品として出土しているが、この土笛は北九州の宗像以東から山陰沿岸に出土して、やはり山陰文化圏を構成していた。



すなわち、土井ヶ浜遺跡の弥生人と同族で、中国大陸の山東半島の臨淄(春秋戦国時代の斉国)で出土した斉国人と同族と言うことになる。この斉国人とは、秦の始皇帝の一族(秦氏)や羌族(現在のチャン族)と男性遺伝子Y-DNA Dの観点で同族であり、また縄文時代の山の民(いわゆる縄文人)が男性遺伝子Y-DNA D2を持っているとされている。



青谷上寺地遺跡の人骨の男性遺伝子の分析は未だこれからとのことで、結論を今の段階では出せないが、男性達は男性遺伝子Y-DNA D2を持ち、全員が原日本語を喋っていたと期待される。










鳥取市青谷町青谷 青谷上寺地遺跡



現代日本語のアクセント分布(wikiより)




追加(2019.3.4)



青谷上寺地遺跡の弥生人は、母系は渡来系で父系は縄文系との結果がDNA分析で判明した。



すなわち、渡来人の男性は日本列島に従来から定住する縄文人と同族であり、男性達はY-DNA D2を持ち、全員が原日本語を喋っていたことになる。



結果を発表した篠田副館長は未だ、渡来系弥生人の男性が元々、日本列島内の在来の縄文人と同じY-DNA D2を持っていることに気がついていない。





参考



@ 弥生人骨、予想覆し「渡来系」大半…鳥取の遺跡



読売新聞(2018.11.18、参考)






鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、鳥取県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。



遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。市民ら約130人が聞き入った。



篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。



青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたことがうかがえるという。また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。



共同研究では今後、細胞核のDNAから父系のルーツについても分析する。2019年3月には、鳥取市内で最終的な研究成果を発表する予定で、篠田副館長は「当時の人々がどのように暮らしていたのかを明らかにしていきたい」。報告を聞いた同市の会社員男性(64)は「青谷でどんな人が暮らし、自分たちのルーツはどこにあるのか、興味をかき立てられた。研究内容に注目したい」と語った。







同町の青谷上寺地遺跡展示館では17日、研究に用いられている人骨5点の展示も始まった。午前9時〜午後5時。月曜、祝日の翌日は休館。無料。終了日は未定。問い合わせは同展示館(0857・85・0841)。(河合修平)




A 弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツたどる 鳥取・青谷上寺地遺跡



産経WEST(2018.8.15、参考)






鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携し、鳥取市青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生時代後期(2世紀後半〜3世紀)の人骨のDNAを分析する研究を始めた。



弥生後期は、大陸や朝鮮半島からの渡来人と在来の縄文人の混血が進んだ時期と考えられるが、人骨の出土例は全国的にも少なく、DNAが本格的に分析されるのは今回が初めて。日本人の成り立ちの解明につながる成果が期待される。



研究には国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)も連携する。同センターが保管する頭蓋骨など人骨約40点からサンプルを採取。ミトコンドリアDNAを分析して塩基配列の特徴を調べ、世界のヒト集団の特徴と比較し、同遺跡の弥生人のルーツをたどる。



また、血縁関係・親族構造など集落内での人と人のつながりや、髪や瞳の色、直毛か、毛深いかといった身体的特徴の解明も試みる。最終的な研究成果は、今年度末に発表される予定だ。



低湿地にある同遺跡は、大気から遮断されて腐敗菌の繁殖が抑えられたことなどから、保存状態の良い遺物が多数出土し「弥生の博物館」と呼ばれる。中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり、刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨(せいさん)な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。



「魏志倭人伝」「後漢書」などの書物には、この時期に「倭国大いに乱る」とする記述もある。同センターでは「大量殺戮(さつりく)の謎にせまれれば、大きな成果となる。『倭国乱』で何が起きたかを示す、唯一の痕跡になる可能性がある」と話している。




B 「安定同位体分析からみた土井ヶ浜弥生人の食性」米田穣(東京大学総合研究博物館教授)



第18回土井ヶ浜シンポジウム 『全容が見えた土井ヶ浜遺跡―土井ヶ浜遺跡発掘調査報告書刊行記念』(2014年3月15日、海峡メッセ下関、参考)



次に14:15東京大学・米田穣教授。東京大学総合研究博物館・研究部放射性炭素年代測定室。ええとC14はいわずもがな、なんと「「同位体生態学を用いた骨化学という新しい分野を開拓する日本で唯一の研究室」」とのこと。理学博士でいらっしゃいますな。土井ヶ浜弥生人の骨の成分から、何を食べていたか調べるそうです。「ナポレオンの毛髪から砒素が」のもっと進んだかたちかな。



まずはお礼、おつかれのところ安定同位体という科学の話。うんまあ、土井ヶ浜シンポジウムは主体が人類学ミュージアムだけあって理系の講演も多いのだけど、たいていの参加者は考古学の話と思ってるものね。ご本人は米に田に穣(みのる)がお名前なので研究テーマとしたと。毎回言ってるだろソレ(笑)



縄文時代から弥生時代への移行は、狩猟・採集から農耕社会への変化でもあると。ヒトがどうやって食物を獲得してきたか、重要だが難しいテーマ。難しい理由のひとつは、遺跡に残る資料が限られること。



例として、北海道網走市のモヨロ貝塚(オホーツク文化)の貝層。残るものとしては土器などの道具で、釣り針があれば魚を捕っていたことがわかる。でも野菜や果実などは消化されて残らない。そこで、食物の証拠が残っているものとして人骨を調べる。コラーゲンというタンパク質。コラーゲンは生前は骨の20%〜25%含まれる。3本の鎖からなり、非常に強い。この骨の化学組成で材料を探っていく。



骨は歯と違い、少しずつ動くので、例えば骨折はなおる。人骨を分析すると、死ぬ10年前くらいからの食物の結果がわかる。注目するのは炭素12と炭素13、窒素14と窒素15。同位体の数値から植物⇔草食動物⇔肉食動物と食物連鎖もわかる。炭素同位体では雑穀類のC4植物、ドングリやイモやコメやムギのC4植物という違いはわかるが、ドングリとイネの比率はわからない。窒素同位体だと貝・魚はわかる。髪の毛にも食生活の変化が記録されている。雑食の女性がベジタリアンの男性と結婚してベジタリアンになると、グラフ的には雑食時の蓄積傾向からベジタリアンな動きにかわり、つまり結婚後は夫と同じような動きになる。



ここから分布図を示してそれがなにをどう表しているか簡単な説明と土井ヶ浜弥生人の傾向がどうかという話。正直、図がないと何がなにやら。とりあえず、今回は土井ヶ浜弥生人32個体中31点から保存状態のよいコラーゲンが見つかってそれを利用。N15とC13では海陸のいろんなものを食べていたことになり、他分野先行研究ともほぼ一緒の結論。



土井ヶ浜遺跡は青谷上寺地遺跡(鳥取県)に似ている。いわゆる北部九州弥生人である隈・西小田遺跡(福岡県筑紫野市)は稲作をしていたが、少し違う。深堀遺跡(長崎県)・大友遺跡(佐賀県)とも逆方向に少し違う。一方、縄文時代の東名遺跡(佐賀県)は水稲がなくても近い。違うところは水稲による差か。ただ津雲遺跡(岡山県)は縄文時代でももっと広範囲に分布するので、いろんなものを食べていると。なお、現代人に比べると海産物をたくさん食べていることになる。



年齢差について。乳児は窒素が高く、母乳による栄養か。どの遺跡でも乳児は窒素が高く、年齢とともにさがる傾向。乳幼児は炭素が低いが、おかゆのせいか。男女差は、男のほうが窒素が高いので、漁労に従事して魚を食べやすかったか。特異なものはなく、極端に偏った食物ではなさそう。個人差は大きくないので身分があって食べ物が違うとかそういうことはなさそう。これからの研究で格差がでるかもしれない。



というところで時間オーバー。うーむ、骨から生前に何を食べてたかわかるとはおそれいったぜ。




C 土笛(参考)



北九州の宗像以東、下関市綾羅木郷遺跡から山陰沿岸に出土する土器が、鳥取県の青谷上寺遺跡からも出土している。




青谷上寺地遺跡で出土した土笛のモデル




土笛の出土地域、下関の綾羅木郷遺跡では完形品が出土している(参考)。




D 斉は秦と同族の民(Y-DNA D2)が山東半島で稲作を身につけ、また海人族からの海の幸と交換する経済を確立していた!この斉は秦に滅ぼされて、海人族と共に日本の山陰沿岸に渡来した(参考)。




E 日本語の起源(参考)




F 古代の原日本語と現代の方言(参考)




G 日本語の起源と騎馬民族(参考)




H 弥生人、母系は渡来系、父系は縄文系か DNA分析で判明



毎日新聞(2019.3.4、参考)






国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告会が2日、同市のとりぎん文化会館であった。国立科学博物館の篠田謙一副館長が、まだ途中段階で不確かだと断った上で「(人骨の)父系の遺伝子は縄文系に近いグループ」に多くが位置付けられると説明した。父系の遺伝情報が分かる「核ゲノム」分析の成果。



全国初となる弥生時代の人骨の本格的なDNA分析だけに、約430人が興味深そうに耳を傾けた。昨年11月の初回の報告会では、母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」の分析により、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”が多いとされていた。



当時の青谷地域では多様な遺伝グループが存在したと考えられ、日本人の起源の分析につながる可能性もあるという。今後はDNA分析を進めて各個体の特徴を調べる方針。【園部仁史】




10 <青谷上寺地遺跡>人骨の一部 渡来×縄文系



読売新聞(2019.3.3、参考)




DNAの解析結果について説明する篠田副館長(右、鳥取市尚徳町で)



弥生後期 国立科学博など解析



鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で出土した弥生時代後期の人骨の一部は、母親が大陸にルーツを持つ渡来系、父親が日本在来の縄文系だったことが分かった。2種類のデオキシリボ核酸(DNA)を解析した国立科学博物館や県埋蔵文化財センターなどが2日、同市尚徳町のとりぎん文化会館でのシンポジウムで発表した。当時は大陸との間で人の交流が盛んだったことを示すという。



DNAは、細胞の核にある染色体と、細胞質内のミトコンドリアにそれぞれ含まれており、中でも男性が持つ「Y染色体」は父親から、ミトコンドリアは母親から受け継がれる性質がある。同博物館の篠田謙一副館長らは昨年、遺跡で見つかった32人分の骨からミトコンドリアDNAを抽出。配列を調べ、31人が渡来系、1人が縄文系であることを突き止めた。



今年はさらに、渡来系31人のうち、保存状態の良い6人についてY染色体のDNAを解析した。その結果、Y染色体が抽出できた4人中、3人は縄文系で、渡来系は1人だった。



3人の母親は大陸から日本に渡ってから日本の男性と結婚したか、大陸で日本の男性と結婚後に渡来した可能性があるという。今後は分析する個体数を増やすなどしてルーツを詳細に調べる計画で、篠田副館長は「人口の増減や混血の状況、個体の特徴などを明らかにしたい」としている。



コメント: 篠田副館長は未だ、渡来系弥生人の男性が元々、日本列島内の在来の縄文人と同じY-DNA D2を持っていることに気がついていない。


11 青谷上寺地遺跡の弥生人の身長は縄文人より高く、渡来系であった(参考)


12 響灘文化、北九州の弥生人とは異なった文化を持ち、山東半島の臨淄辺りから渡来した



▲△▽▼



近年脚光を浴びた三星堆文明は、これまでの中国文明と違って、誰が造り出した文明か今のところ断定が下されていないが、彝族の祖先が造った文明ではないかという説がある。


中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。

欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。

そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。

このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2





▲△▽▼


中国には、なんと日本語を聞き取れる民族がいる!?=中国メディア  2018-08-30
http://news.searchina.net/id/1666373?page=1


 中国メディア・東方網は28日、「中国には日本語を聞き取れる少数民族がおり、日本人の祖先はここから生まれたとの説もある」とする記事を掲載した。
 記事は「日本の歴史上の発展は、中国と深い繋がりを持っている。そして、日本の起源についても中国にかかわる様々な説が出ており、例えば秦の始皇帝の医師だった徐福が祖先といった説や、東南アジアから逃げて来た移民が祖先という説もある。しかし近年、日本の学者が日本人発祥の地として四川省の山岳地帯にある涼山を挙げたのだ」と紹介した。

 そして、日本の歴史学者が長年の研究の末、日本の言語や習慣が四川省の涼山に住むイ族とかなりの部分で似ていることを発見したと説明。実際に現地調査に訪れたところ、現地のイ族の人たちは日本語の発音に違和感を覚えず、一部の発音は日本語とほぼ同じであり、いくつかの日本語の意味も理解できたことから歴史学者が大いに驚いたと伝えている。

 また、現地には「火把節」という1000年単位で伝承されている有名な祭りがあり、これが日本の伝統的な祭りである「火祭」と関係性を持っているとの説も出たと紹介。一方で「現時点でわれわれは客観的な姿勢で更なる研究結果を待たなければならない。完全に否定される説ではないが、同時に日本人の祖先が四川省の山間に住むイ族であると完全に認めることもできないのだ」とし、あくまで仮説の1つにすぎないことを説明した。

 例え一部であっても、日本語に近いような発音体系や語彙を持っている外国の民族があると、何となく親近感を覚えはしないだろうか。実際にイ族の人びとがわれわれ日本人のルーツかどうかは分からないが、ぜひ友好的な関係は深めたいものである。(編集担当:今関忠馬)(写真は、四川省の山岳部。提供:123RF)




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イ(彝)族
http://www.gesanmedo.or.jp/uli224.html

 イ族は、総人口が657万8524人(1990年)で、中国の少数民族中第6位、イ語系の少数民族のなかでは最大の人口を有する。雲南省の楚雄イ族自治州や紅河ハニ族イ族自治州、四川省の涼山イ族自治州を中心に、貴州省や湖南省、広西チワン族自治区の山岳丘陵地などに広く分布し、一部はミャンマー、ベトナム北部、タイ北部などのインドシナ半島北部に至っている。

 中華人民共和国成立後に、はじめて1つの民族集団として統一された。すなわち、かつては羅羅、夷人、夷家と呼ばれ、蔑称の夷が通称であったのを彝に改めて民族名称と定めた。わが国においても「夷」を「エビス」とあずまえびす呼び、たとえば東夷といえば、東国に居住する武士のことで、京に住んでいた人々が、その無骨さをあざけって名づけた名称となっている。

言語は多様で、六方言に大別されるが、互いにほとんど通じない。

約1000年前に創作されたという音節文さん字曇文が、ヒモ(宗教職能者)によって伝えられている。

ヒモは太鼓を叩いて精霊を呼び、その精霊と人間との仲介役を果たした。

なおイ文は象形文字を母体とするが、大部分は同音仮借によってイ語の音節を示す音節文字である。叙事詩『阿詩瑪』や格言および祭祀などが、この文字によって記された。

イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とし、その後しだいに南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達、定着したとされる。

漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称された集団の主力部分を形成していたが、漢王朝時代から唐王朝時代にかけて奴隷制社会に入り、その勢力は強大となった。すなわち、唐王朝時代になると、雲南省東部には烏蕃と呼ばれる集団が、雲南省西部には白蕃と称される集団が形成されていった。

烏蕃は、四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬牧畜民族で、現在の黒イやナシ族の祖先に該当すると考えられているチベット系の集団の総称である。

一方、白蕃は、祖先がタイ系の水稲耕作民であったと推定され、早くから雲南省のいくつかの盆地に定住した。

このいくつかの集団は、唐王朝時代には大理盆地に最も多く定着したとされ、現在の白イがその末裔とされる。

 その後、烏蕃の一部が征服王朝として、雲南の地に建なんしょう国したのが南詔王国である。

南詔王国が滅亡したあと、分立状態がしばらくつづいたが、そのなかでも黒イの奴隷主階層は、自らの社会を維持するため、周辺の農耕諸民族などに対して、奴隷略奪の抗争や戦争を積極的に行った。そのため、奴隷階層のなかには、白イのほかに、たとえば、タイ系の民族やミャオ族、漢族なども含まれることになった。

 また黒イの男性は、自らのアイデンティティを保持するため、伝統的には、わが国のチョンマゲのような髭(天菩薩と呼ぶ)を結い、その上に黒いターバンを巻くことを常とした。そのため、髭を包んだ部分がふくれて、まるでアンテナのように角状に突き出ている。さらに、男性は黒いチャルワと称しているマントをはおり、正装時には長剣を腰につるした。この集団が黒イと称されているのはこの色によるとされる。また既婚女性も同様に、黒色のターバンを頭に巻いている。なお、黒イ集団は白イなどのイ族の他の集団と通婚しなかった。

 そこで、元、明、清の三王朝は、いずれも黒イを統制・支配することに、たいへん苦労を重ねた。すなわち、黒イ集団を筆頭にイ族は、元王朝時代になるとロロ(躍羅)と称されることになり、元王朝は羅羅斯宣慰司という行政官庁を特別に設置し、彼らの支配を試みた。つづく明王朝時代では、たえずロロが反乱を起こしたので、この反乱を鎮圧しようと、ロロの族長に世襲制の官位を与えて土司と称した。そして、この土司に一定の範囲内で彼らの自治権を認めた。そのうえで、彼らを四川省や雲南省の地方長官の管理下に置くという、いわばアメとムチの政策を実行した。

 さらに清王朝時代では、土司制度を全廃し、清王朝が直接派遣する地方官(流官)による支配、つまり改土帰流政策を強力に行った。この強行策は、四川省大涼山一帯に集結した黒イ集団以外に対してはいちおう成功し、ロロ社会は流官と一体となった地主階層による封建制へと移行した。

 一方、大涼山一帯に集中して居住する他の黒イ集団は、中華民国時代になっても黒イの奴隷主がその支配を強力に維持し、ロロ独立国とさえいわれるほどであった。その当時の様子は、大涼山の黒イ集団の結集地である四川省西昌市に開設されている奴隷社会博物館でも具体的に知ることができる。なお、これら二つの集団がイ族と呼ばれるようになったのは、中華人民共和国成立後のことである。

 イ族には多くの自称があるが、ノス(黒イ、四川大涼山など)、二(アシ、サニなど)、ロロホ・ララポ(白イ)の三大系統に大別される。このうちノス社会は、かつて大涼山が奴隷制社会であったことや、現在でも族長(家支)が一族の強固な結束力としてあることを特徴としている。なお家支は血統を意味し、始祖から父子連名制によってつながる父系親族集団である(父子連名制)。

 家支は数百戸単位で構成される。頭人を代表者とし、慣習法によって、もめごとを調停する徳古や、祭祀を司るヒモ、さらには病気の治療をするスニがいる。そのなかでヒモは、太鼓を叩き、神と人間の仲介をするシャーマンである。大涼山の奴隷制社会は、この家支を基盤として、支配層の黒イ諾蘇と、被支配層の曲諾や奴隷の阿加・岬西の階層に厳格に分けられていた。

 この点を少し補足すれば次のようになる。すなわちノスと呼ばれる黒イ集団は、大涼山周辺に居住するイ族の約10パーセントであった。この黒イ集団に支配される奴隷層は、チョゴ、アージャ、シャシの三階層に大きく区分されるが、白イ集団と総称された。チョゴは最上層に位置するものであるが、奴隷主に隷属しており、移動の自由はなかった。しかし、自らの家屋と子女を所有する権利は認められ、わずかであるが耕地と農具などを所有した。涼山イ族の約五〇パーセントを占めた。アーシャは、奴隷主の管内に家屋を持っていた。奴隷階層としては中間に位置し、チョゴ階層から落ち込んだものや、シャシ階層からはい上がった者も含まれていた。涼山のイ族の約30パーセント強を占めた。次のシャシ階層は家内奴隷で、人身の自由をまったく持たなかった。アーシャとシャシは戦争で囚われたり、さらわれたりした漢族など非イ族の人々も含まれていた。

 なお、イ族は平屋根の木造家屋に住み、部屋はすべて土間形式である。とくに日常生活の中心ともなる部屋には囲炉裏が切られ、鍋荘と呼ばれている。

 生業は、おもに山間部で、ソバ、エンバク、オオムギ、トウモロコシ、ジャガイモを栽培し、ヤギやブタなどの家畜を飼育するが、一部では牧畜も行っている。伝統的な主食はツアンパ(妙ったムギ粉を水で練ったもの)で、チベット族の食習慣に近い。アシ集団に見られる密枝と呼ばれる神木を崇拝する神樹信仰や、祖先祭祀、旧暦の6月24日に開催される火把節がさかんである。火把節は豊作を祈る祝祭で、歌垣も行われる。結婚に関しては、古くからイ族の青年男性は、イトコすなわち自分の両親の兄弟姉妹の子のうち、異性の兄弟姉妹を意味する交差イトコを嫁の候補とする習慣を持っていた。イ族社会にあっては、母親の兄弟は必ず別の氏族であり、同様に父親の姉妹は、他の氏族に嫁ぐのが原則となっていた。そのため、血族のなかでもこれに対して、交差イトコは他人とみなされたのである。親の同姓の兄弟姉妹同士の平行イトコ婚はきびしく禁じられていた。つまり平行イトコ、婚は、同じ氏族間の結婚と考えられたからである。

 葬式に関しても、ナシ族やプミ族と同様、伝統的には火葬の習慣を持っていた。この習慣は、高原に居住する遊牧民の世界観につながるもので、イ族の出自を考えるうえで参考になるものといえよう。しかし、火葬を行えるのは、燃料を十分に使用できる豊かな身分に限られ、そうでない人々は、鳥葬もしくは土葬を行った。






メンテ
Re: 日本(日本人)とは(日本人のルーツ) ( No.4 )
日時: 2019/08/08 11:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:IxgHRrLw

「アイヌ人は日本人の原型にはならない」との指摘、最もです。

私の元々の言い方が舌足らずでありました。

私は弥生時代後期からの渡来人が日本人の原型にするには、すこし寂しいものを感じました。

その方が自然であるかも知れませんが、それではロマンがありません。

ともかく、日本・日本人の原型を縄文時代後半または弥生時代前半におきたく、斯くなりました。

またアイヌと言っても、縄文人全体に占める割合は解りません。

とりあえず、アイヌは現代にも続いていて著名なのでアイヌと言う言葉を使いました。

なを、縄文人でアイヌ以外のDNA鑑定は、サンプル数が少ないのか、あまり取り上げられていませんね。

1万年まえにバイカル湖付近から移住した人がいる証明も、バイカル湖付近に住んでいる人のDNAと似ていることからもされているようですが、本当にその人たちの遺骨が見つかっているわけでもないでしょうに。
メンテ
アホ右翼は天皇や日本人が縄文人の子孫だと思いたがっているけど、実際は朝鮮人の子孫だったという皮肉 ( No.5 )
日時: 2019/08/09 19:41
名前: 自分の頭では何も考えない日本人を嘆く者 ID:fmcHzgeo

アホ右翼は天皇や日本人が縄文人の子孫だと思いたがっているけど、実際は朝鮮人の子孫だったという皮肉


【我那覇真子「おおきなわ」#74】
長浜浩明〜韓国人とは遠縁だった!遺伝子から探る日本人のルーツ[桜R1-6-21] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7CPxmCGtjR0

【我那覇真子「おおきなわ」#75】
長浜浩明〜遺伝子が証明!沖縄の先祖たちは、日本本土から移住した縄文人だった[桜R1-6-28] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BezxJ6uRi1g



2019年4月29日
【三橋貴明】古代史分野の三橋貴明

嘘情報が蔓延してしまっているのが、歴史分野です。

特に、古代史の分野については、 歴史学者の嘘が目を覆いたくなるほど凄まじいレベルに達しています。

昨日も書きましたが、 日本の歴史学者は古代史の基本資料である古事記や日本書紀を無視するというか、 根拠なく否定するのです。
(その割に、中国の史書はやたら妄信する)

日本国の情報を正すために、 歴史分野においても「嘘を暴き、拡散する」 必要があると考えていたのですが、 実はこの分野には先駆者がいらっしゃいます。

「日本人ルーツの謎を解く」などの著作を出されている、長浜浩明氏です。

https://amzn.to/2L6LozM

長浜氏のスタイルは、経済分野における三橋と酷似しています。

一次ソースから素直に「歴史」を読み解き、現代の自虐歴史学者たちの欺瞞を次々に暴いていく。

何しろ、単にソースデータを読み解いているに過ぎないため、長浜氏が発する「情報」は、誰も否定できません。
しかも、インターネットにより、 誰でもソースデータを確認出来てしまうのです。

自分とスタイルが似ているためというわけではないですが、 三橋は以前から長浜氏の大ファンです。

というわけで、三橋経済塾第八期第八回講義(19年8月)のゲスト講師として、長浜氏にお願いし、
快くお引き受け頂きました(超嬉しかった!)。

それはともかく、三橋は長浜氏の後追いの形で、ソースデータに基づき古代史を「正す」お仕事を増やしていきます。

第一弾として、三橋初の本格的な歴史的なコンテンツ「経世史論」をリリースしました。

【経世史論〜「正しい祖国の歴史」を学び、「現代」を読み解く〜】


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三橋貴明やチャンネル桜関係者が非常に高く評価している長浜浩明先生によると


朝鮮人も日本人も縄文人の子孫だった
琉球人も縄文人の子孫
天皇一族も縄文人の子孫
アイヌ人は13世紀にシベリアから渡来してきた異民族で、先住民ではない


なんだそうです。しかし、真実は


縄文人直系でなかった西北九州弥生人 ゲノム解析で判明
米山正寛 2019年7月23日
https://www.asahi.com/articles/ASM7J6TNBM7JULBJ01M.html


 弥生時代に現在の長崎県周辺にいた「西北九州弥生人」は、縄文人直系と考えられていたが、
実は渡来系弥生人との間でかなり混血が進んでいたことを、国立科学博物館などのグループが
人骨に残された遺伝情報(核ゲノム)を解析して明らかにした

 九州の弥生人は三つに大別される。大陸から北部九州にやって来た渡来系弥生人、
鹿児島県付近に住んでいた、頭の前後が極度に短いなどの特徴を持つ南九州弥生人、
そして、西北九州弥生人だ。

渡来系弥生人が在来の縄文人と交じり合う形で、現代の日本人につながる人々が生じていったとされるが、
西北九州弥生人は影響をほとんど受けず、顔の彫りの深さや腕の太さなどに縄文人と共通する特徴を残していたと考えられてきた。

 今回、下本山岩陰遺跡(長崎県佐世保市)から1970年に発掘された約2千年前の西北九州弥生人の男女各1体の人骨を対象に
核ゲノムを構成するDNAの変異に注目して遺伝的特徴を解析した。2体はともに縄文人と現代日本人との中間に位置付けられた。
縄文人直系と考えられてきた西北九州弥生人も、渡来系弥生人との間で混血が進行していた可能性が高まった。

 




>九州の弥生人は三つに大別される。大陸から北部九州にやって来た渡来系弥生人、
>鹿児島県付近に住んでいた、頭の前後が極度に短いなどの特徴を持つ南九州弥生人、
>そして、西北九州弥生人だ。


大陸から北部九州にやって来た渡来系弥生人 = 漢民族、一重瞼、寒冷地適応している

鹿児島県付近に住んでいた、頭の前後が極度に短いなどの特徴を持つ南九州弥生人
= 長江人、二重瞼、寒冷地適応していない

西北九州弥生人 = 九州の先住民、二重瞼、寒冷地適応していない



天皇一族は一重瞼なので、当然大陸から北部九州にやって来た渡来系弥生人の系統になりますね:


天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。


メンテ
Re: 日本(日本人)とは(日本人のルーツ) ( No.6 )
日時: 2019/08/11 23:29
名前: 贅六@関西弁 ID:7CaTNJEA

んな事、今更ゴチャゴチャ言うてもしょうない話でっせ。

天皇家が半島系の部族の子孫やちゅう事は、もう随分前から囁かれてますわなぁ。ワテも「そうやろなぁ」て思てます。

仮にやねぇ、日本の歴史を「皇紀」で勘定して、今は‟紀元2680年”ほどでっか? と言う事は一応神武が敷島の国の大王の位を占めたのは、弥生時代の後期ちゅう事だすわなぁ。と言う事は神武は「弥生人」ちゅう事でっしゃろ。

その弥生人が、高千穂の峰ちいますよって、九州の南の端に上陸して、北進、東進、を重ね、今の奈良=大和に拠点を置き「神武」一族による周辺征服と統一を図った!

古事記の書かれている苦労話は、先住民の「縄文人」との抗争の話で、神武一族によって縄文人は夫々北や南に追いやられ、最後まで抵抗したのが北の蝦夷や南の熊襲でっしゃろ。

この神武一族の弥生人の以前に、山陰地方へ渡って来ていた、鉄器文化を持つ「出雲族」が居たり、神武一族の後から半島経由で渡って来た弥生家に連中も居たりして、混成の大和民族が出来上がる訳で、純粋の「大和民族」てなもんは無い❕ とワテは思てます。

日本や、日本人のルーツを、知的エンターテインメントとして楽しむのはエエけど、日本魂とか、大和魂とか、言うて大げさに論じて見ても、大して重要な事でない! とワテは思います。
メンテ
だからそれがアホ右翼の誤解なんだよ ( No.7 )
日時: 2019/08/12 08:29
名前: 自分の頭では何も考えない日本人を嘆く者 ID:qE2ZyWzo

>>6
>神武が敷島の国の大王の位を占めたのは、弥生時代の後期ちゅう事だすわなぁ。と言う事は神武は「弥生人」ちゅう事でっしゃろ。


だからそれがアホ右翼の誤解なんだよ

実際には


・弥生人は縄文人と殆ど変わらなかった

・天皇や畿内人は弥生人の子孫ではなく、弥生時代後半以降昭和まで日本に移民し続けてきた朝鮮人の子孫だった

・古墳時代以降、畿内の弥生人の子孫は被差別同和部落民として差別されてきた

・長浜浩明は天皇や畿内人が朝鮮人の子孫だと困るから、
朝鮮人も日本人も両方共 縄文人の子孫だった
アイヌ人は縄文人の子孫ではなく13世紀にシベリアから移民して来た異民族だった
という奇説をでっち上げた



一方、最近、核DNAの解析で明らかになった真実は

サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.youtube.com/watch?v=H1GFzg882d8



弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった
大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて
現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手は
この縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで
ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

篠田謙一:そういうことになると思うんです。

小島瑠璃子:え〜!








メンテ
Re: 日本(日本人)とは(日本人のルーツ) ( No.8 )
日時: 2019/08/16 09:42
名前: ooeyama ID:/knV2g5c

>日本や、日本人のルーツを、知的エンターテインメントとして楽しむのはエエけど、日本魂とか、大和魂とか、言うて大げさに論じて見ても、大して重要な事でない! とワテは思います。


贅六@関西弁氏 ID:7CaTNJEAの言われる如く、大して重要な事でない! と00eyamaも思います。ダーウィンの進化論によれば、所詮人類は猿人類からの枝分かれ、その始祖がアフリカ大陸のホモサピエンスと、絶滅したとされたネアンデルタール人、しかしヨーロッパ人に一部血が混じるとされる(新説)。そして中東ユーラシアからアジア、南北アメリカ大陸に広がった。種としては白も黒も黄色も人類皆兄弟。

古代の覇者が捏ねた似非な伝統や、根拠なき血統や血縁を重視するのは、伝説の幻想を追う民族主義者のアホに委ね、21世紀後期にも人類の平和共存を願うなら、まず固定観念で縛られた民族意識を捨て、実在すら疑われる教祖とやらに洗脳された宗教意識を捨てる、故ジョン・レノン謳う「イマジン」の所有欲なき世界感で、民族が違う、宗教が違うで殺し合う、愚かな争い事とおさばらしたい。
メンテ
中南米インディオもアイヌ人も縄文人も、遺伝子は確かに少し残っているけど、若い女以外は全員殺された ( No.9 )
日時: 2019/08/23 23:08
名前: 自分の頭では何も考えない日本人を嘆く者 ID:lUR8SIuY

>>8
>絶滅したとされたネアンデルタール人、しかしヨーロッパ人に一部血が混じるとされる(新説
>根拠なき血統や血縁を重視するのは、伝説の幻想を追う民族主義者のアホに委ね、21世紀後期にも人類の平和共存を願うなら、


頭の中お花畑で誤解してるみたいだけど

中南米インディオもアイヌ人も縄文人も、遺伝子は確かに少し残っているけど、若い女以外は全員殺された


中南米インディオの男と20歳以上の女は全員殺され
中南米インディオの20歳以下の女は性奴隷にされたので、中南米インディオの遺伝子が現代に残されたんだよ

中南米インディオもアイヌ人も縄文人も、遺伝子は確かに少し残っているけど、それは性奴隷にされた若い女の子供の遺伝子だ
若い女以外はすべて虐殺されている


研究の進んでいるヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類との共存期間で、以前は最大で数万年ほど想定されていましたが、近年では5000年程度との見解が有力。

つまり、ネアンデルタール人は僅か5000年で現生人類に虐殺されて滅ぼされた。




▲△▽▼


2015年06月12日
青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動
https://sicambre.at.webry.info/201506/article_14.html


 新石器時代〜青銅器時代のヨーロッパにおける人間の移動に関する、『ネイチャー』に掲載された二つの研究が報道されました。『ネイチャー』には解説記事(Callaway., 2015)も掲載されています。5000〜3000年前頃のユーラシアの青銅器時代には、精巧な武器や馬に牽引させる戦車が拡散し、埋葬習慣の変化が広範に確認されるなど、大きな文化的変容が生じた、とされています。この大きな文化的変容が、おもに文化のみの拡散によるのか、それとも人間集団の移動に伴うものだったのか、ということをめぐって議論が続いてきました。この問題は、インド-ヨーロッパ語族の拡散とも関係して論じられてきました。

 5000〜1300年前頃のユーラシアの住民101人のゲノムを解析した研究(Allentoft et al., 2015)では、青銅器時代のヨーロッパにおける大きな文化的変容は人間集団の移動に伴うものであり、インド-ヨーロッパ語族が青銅器時代にヨーロッパに拡散したとする仮説が支持される、との見解が提示されています。5000年前頃には、ヨーロッパ中央・北部のゲノムは中東からの初期農耕民やそれ以前のヨーロッパの狩猟採集民のゲノムに似ていました。しかし、ヨーロッパ中央・北部集団のゲノムは4000年前頃までには、カスピ海〜黒海の北側の草原地帯に存在したヤムナヤ(Yamnaya)文化集団のゲノムにもっと類似していました。

 この研究は、薄い肌の色は青銅器時代のヨーロッパにおいてすでに高頻度で存在したものの、乳糖耐性はそうではなかったことも明らかにしています。以前には、ヨーロッパの初期農耕民において畜乳はカロリー摂取の重要な手段であり、新石器時代から乳糖耐性には正の淘汰が働いていたのではないか、と考えられていたのですが、乳糖耐性に関しては、正の淘汰が働いたのは青銅器時代以降のことではないか、と指摘されています。この乳糖耐性は、ヤムナヤ文化集団によりヨーロッパにもたらされた、と推測されています。

 もう一方の研究(Haak et al., 2015)では、8000〜3000年前の69人のヨーロッパ人の全ゲノムデータが作成され、解析・比較されました。その結果、やはり青銅器時代における東方草原地帯(現在の国境線ではウクライナを中心とします)からヨーロッパへの大規模な人間集団の移動が示唆されました。ヨーロッパにおいて新石器時代の始まりとなる8000〜7000年前頃に、遺伝的にはヨーロッパの先住狩猟採集民とは異なり、初期農耕民と密接に関連した集団がドイツ・ハンガリー・スペインに現れました。一方でその頃のロシアには、24000年前頃のシベリア人と高い遺伝的類似性を有する狩猟採集民集団が存在していました。

 6000〜5000年前までには、ヨーロッパの大半の農耕民はその祖先集団よりも多くの狩猟採集民集団のDNAを有していました。一方でこの時期の東方草原地帯の牧畜民であるヤムナヤ集団は、ヨーロッパ東部の狩猟採集民だけではなく、中東の農耕民集団のDNAも継承していました。ドイツの後期新石器時代縄目文土器(the Late Neolithic Corded Ware)文化集団はそのゲノムのうち75%をヤムナヤ集団から継承しており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 この東方草原地帯由来のDNAは、遅くとも3000年前までには中央ヨーロッパ人の全標本に存在し、現在のヨーロッパ人には広く確認されます。この研究は、ヨーロッパのインド-ヨーロッパ語族の少なくともいくつかは、東方の草原地帯に起源があるだろう、と指摘しています。また、中央ロシアのアルタイ山脈近くの4900〜4500年前頃の集団にもヤムナヤ集団の遺伝的痕跡が確認され、インド-ヨーロッパ語族のアジアへの拡散との関連が想定されます。最近では、青銅器時代のヨーロッパにおいて男性人口の拡大があったのではないか、との見解も提示されており(関連記事)、青銅器時代のヨーロッパにおける文化変容は、大規模な人間の移動に伴っていた可能性が高そうです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(Allentoft et al., 2015の引用と、Haak et al., 2015の引用)です。


集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団ゲノミクス

集団遺伝学:青銅器時代のユーラシアの集団変化

 青銅器時代は大きな文化的変化の時代であったが、その要因は知識の伝達と大規模な人の移動のどちらにあったのだろうか。今回、ユーラシア各地の古代人101人の標本から低カバー率のゲノム塩基配列を得て解析した研究で、この時代に起こった大規模な集団の移動や入れ替わりが明らかになった。得られた解析結果は、青銅器時代のヨーロッパ人では、淡色の皮膚はすでに普通になっていたが乳糖耐性はあまり広まっていなかったことを示しており、乳糖耐性に対する正の選択が働き始めたのは従来考えられていたよりも新しい年代だったことが示唆された。この研究で得られた知見は、インド・ヨーロッパ語族が前期青銅器時代に広がったとする別の報告(Letter p.207)とも一致する。


集団遺伝学:ステップからの大移動がヨーロッパでのインド・ヨーロッパ語族の成因の1つとなった

集団遺伝学:ヨーロッパの言語を変えたステップからの大きな一歩

 今回D Reichたちは、8000〜3000年前に生存していたヨーロッパ人69人の全ゲノムデータを作成した。その解析から、8000〜7000年ほど前に現在のドイツ、ハンガリーおよびスペインに当たる地域で、先住の狩猟採集民とは異なる初期農耕民の血縁集団が出現したことが明らかになった。同時代のロシアには、2万4000年前のシベリア人との類似性が高い独特な狩猟採集民集団が生活していた。6000〜5000年前までに、ロシアを除くヨーロッパの広い地域で狩猟採集民系統が再び現れた。西ヨーロッパ集団と東ヨーロッパ集団は約4500年前に接触し、現代のヨーロッパ人にステップ系統の痕跡が残された。これらの解析から、新石器時代の人口動態に関する新たな手掛かりに加えて、ヨーロッパのインド・ヨーロッパ語族の少なくとも一部がステップ起源だとする説の裏付けが得られる。この研究で得られた知見は、青銅器時代の古代人101人のゲノムについて調べた別の研究結果(Article p.167)とも一致する。

メンテ
Re: 日本(日本人)とは(日本人のルーツ) ( No.10 )
日時: 2019/08/13 13:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:piFY/zA6

自分の頭では何も考えない日本人を嘆く者さん、毎度です。

あなたが多数の投稿をしてくださるので私は一息ついています。

このスレッドでの民族論ですが、DNA的には絞られてきますが、私はそうではなく、文化人類学的な見地から見たいと思います。

ネアンデルタール人のことも出てきましたが、根源をたどればモンゴロイド系の人間には、ある程度似たDNAがあるでしょう。

しかしながら、文化的にはインド、東南アジア、中国、日本など明らかに異なるものがあります。

最も、西欧の其れと比べれば大別は出来るでしょうが。

「大和魂(日本の心のルーツを探る)」スレッドの前半で、私はこれらの国の民族的特性に言及しています。

日本人の特徴の「和」のこころは、どのように育成されてきたのでしょう。

「和}と一文字で表しても、概要の把握は難しいです。

民話、伝説などの違いに、それとなく民族の特性が出ています。

弥生後期の渡来人は、その後、大和朝廷成立の大きく関わってきたでしょう。

ですが、彼等が「和」の心を育成したとは思いません。

ですので日本、日本人の起源を縄文時代及び弥生時代の前期に求めたくは思っています。

メンテ
Re: 日本(日本人)とは(日本人のルーツ) ( No.11 )
日時: 2019/08/21 10:05
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qC8xBU3g

>分類とは、複数の事物や現象を、何らかの基準に従って区分することによって体系づけることである。そうして作られたグループをカテゴリという。

>事物は多様である。それを扱う場合、ある特徴でもって共通であるものをまとめることで極めて多様である事象を多少とも簡略化することが出来る。これが分類である。学問全般が多かれ少なかれ様々な分類によって事物・事象を分析・整理して扱う性質があるといえる。

要するに分類は、その必要に応じて行なうもの。
限りなく分類すれば、それは事象の数ほどに分けねばならなず、もはや分類にはならない。
逆に、大雑把過ぎると、分類の効果を得られない。

この観点からみて、
自分の頭では何も考えない日本人を嘆く者氏の分類は、日本人を特定する目的にはそぐわない。

他方、 贅六@関西弁氏や ooeyama 氏は分類すること、そのものに異を唱えている。
しかし、このスレッドは、元々、日本人の発祥を特定したい為に書いているもの。
分類なくして語れない。

要するに両氏は、このカテゴリー(スレッド)自身を否定したいのであろう。
またご丁寧にも「大和魂<日本人の心のルーツを探る」を取り出して、そのスレッドの意義を否定しているが、文脈上でどこに、その必要性があるか。

余談になるが、 贅六@関西弁氏、日本貧民党氏(同一人)が私を非難するときの口癖が「私は文章の読解力がない」とのことであるが、どういたしまして、彼が思う以上に彼の心情は手に取るように解っているつもり。

>贅六@関西弁氏 ID:7CaTNJEAの言われる如く、大して重要な事でない! と00eyamaも思います。

この様に言う、00eyama氏もあるいは贅六と同人物なのであろう。
かれは4つのHNを使って私に纏わり付いていたことになる。
呆れたものだ。
否、追分の三五郎と言った御仁も同じような捨て台詞と共に去って行った。

翻って、糾弾掲示板などで政治を語ることも、人間の精神的ある種のカテゴリーに入る。
社会の様相を見るに、政治、経済、教育、芸術など、人間活動のカテゴリー毎の議論が存在し、必要である。

両氏は、自分勝手な立場で、時にはカテゴリーにこだわり、場合によってはカテゴリーを否定する。
それは意見の交換が目的ではないことを意味する。

それでは、意見は異なるが、
自分の頭では何も考えない日本人を嘆く者氏の対応の方が、余程誠実である。

贅六@関西弁氏や ooeyama 氏について考えてみた。
両氏の投稿の中には、この様な場面がしばしば出てくる。
両氏は、それぞれの意見を言うも、元々、私の存在、そのものが気に入らないのであろう。

私が糾弾掲示板の画面の管理をしていることが気に入らないのかもしれないが、確固たる掲示板は、どこでも管理者が存在している。
完全放置の掲示板が、どの様になっていくか、氏は解らないのであろうか。

以前にヤフー掲示板にいたことがある。
ヤフー掲示板も一応は管理者がいることになっていたが、殆ど放置状態。
そのために、紙面は罵声の浴びせあい、荒らし、ストーカーが蔓延り、真摯な交流を続けたい者にとっては悲しい経験をした。

その経験から、糾弾掲示板は参加者にとって居心地の良い掲示板であろうとした。
過去には、それに感謝されている人もいた。

糾弾掲示板の参加者が減ってきた理由に、この掲示板は真面目すぎると言うか、正論を言う場合が多く、気軽に発信したい人にとって堅苦しく思われていることもあるのではなかろうかと思っている。
同時に、政治の腐敗と言うか、政治家のテイタラクを見て、ことさらに発信する意欲を無くされた方が多いと思っている。
私自身も、その気持ちを免れない。

阿修羅掲示板においても、意欲的にスレッドを立ち上げる人が激減して、最近のスレッド立ての8割ほどは、赤カブをはじめ数名の管理者側の人間がしている。

また、糾弾掲示板に参加していらい十数年、
意見が対立した方はいるが、この様な姿勢で私に絡んでくる投稿者は居なかった。

私は両氏の意見に賛同することはあっても、非難したことはない、
その私の何処が気に入らないというのであろう。


(参考)掲示板の管理について

阿修羅掲示板では、罵声を浴びせることを目的とした投稿、スレッドの流れを阻害するような投稿は管理人が非表示としている。

るいネットは、管理人の立場で投稿者の意見に優劣をつけ佳作、優秀作などランクをつけている。

今は活動停止している老人党掲示板は数名の管理者をおいていたが、管理者の意向を反映するような行為が行われ、衰退していった。
(老人党掲示板自体が、右傾化していった)

糾弾掲示板において、スレッドを大切にしているのは、そのスレッドが末永く活動できるようにすることと、スレッドの乱立により流れが目ぐるしく推移すること、また特定の投稿者の身勝手な投稿が掲示板を占めることが無いようにするためです。
メンテ
日本人は嫉妬深い人種である ( No.12 )
日時: 2019/08/21 12:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qC8xBU3g

余談になるが、
日本人は嫉妬深い人種である。

(その1)
そもそも嫉妬は、「嫉妬する相手」の置かれた状況や得たものをうらやむことから生じます。自分とはあまりにかけ離れた相手に対してはかえって嫉妬心はおきないものですが、自分とあまり変わらないような、身近にいると思える人に対しては強い嫉妬心を持つ傾向にあります。なぜなら、嫉妬というのはたいてい自分と相手との微妙な差異から生じるからです。あまり差が無いと思っていたライバルや、自分より格下だと思っていた後輩が仕事で高い業績を上げたとき、嫉妬心抜きで素直に相手を賞賛するのは難しいでしょう。つまり、自分と似ていて、同じだと感じている人が突然何か目立つような事を行った場合、自分とは違う「異質」なものだと感じてしまうのです。

 多様な民族や宗教的背景を内部に持つアメリカなどとは異なり、日本人の多くは幼少期から成人になるまで比較的同質の集団の中で生きていかなければなりません。同じようなバックボーンを持って生まれて育った日本人は、個人が有する価値観も似たようなものとなり、あるべき人生の理想像も類似のものになります。この結果、日本人は多くが似たようなメンタリティを有することになり、皆が同じような嫉妬心を抱くようになるといいます。繰り返しになりますが、日本社会は多様性があまりなく、均等な社会だといえます。そのような社会の中で、少しでも「普通」からはみ出してしまうと、たちまち嫉妬の対象となり、バッシングの嵐を受けてしまうのです。「出る杭は打たれる」という言葉がありますが、まさに日本社会を表す言葉だといえます。

(その2)
日本人は聖徳太子の和の精神に則り
日本人同士互いにいがみ合うことも言い争うこともなく
お互いに協力して生活(成功)していきましょう
という相互助力の意識、精神が非常に強い。
なので
日本人は、例えば、その意識から誰かが逸脱して
飛び抜けることを非常に忌み嫌う。
よって
日本人は、出る杭を打とうとする。
所謂
輪(調和)を乱す者
という意識を持ち、叩く。
組織でも
優秀な能力を持った人材が
決まって排除の対象にされるのも
その「輪(調和)を乱すもの」のレッテルを無意識的に抱かれるからだ。

(その3)
学校の授業でも必ず習う「学問のすゝめ」のなかで、福沢諭吉は人間が生きていくうえでもっとも害となるのは「怨望(えんぼう)」とした。これは、他人と比べて自分を不満に思い、自分を高めずに他人を引きずり下ろそうという陰湿な心でここから猜疑や恐怖、卑劣が生じるとした。要は、「嫉妬」である。

※ 私は京都北部の田舎町に住む、一介の建築士、世の中を憂い淡々と意見を発信しているだけである。
メンテ

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