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[3271] エンデの遺言 利子ゼロの政府紙幣・地域通貨の時代が来た
日時: 2020/05/04 02:17
名前: 777 ID:8B8dq/2k


エンデの遺言 利子ゼロの政府紙幣・地域通貨の時代が来た


1999年5月4日 エンデの遺言 金融資本主義の問答。 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=0oFSrTxYKHw

続エンデの遺言 坂本龍一 銀行の未来 - YouTube動画
2001年/NHKエンタープライズ21・グループ現代制作/50分
https://www.youtube.com/watch?v=wPtV4KKhbeY


▲△▽▼

『エンデの遺言』松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/1378.html

河邑厚徳+グループ現代
エンデの遺言
「根源からお金を問うこと」
NHK出版 2000


ミヒャエル・エンデが最後に望んでいたのは、
利子が利子を生まない貨幣だった。
そういう貨幣が使える新たな社会だった。

エイジング・マネー。
時間の経過とともに変化する貨幣。
自由貨幣、補充貨幣、スタンプ貨幣、代用貨幣。

この卓抜な発想には、何人かの先覚者がいた。
ゲゼル、ケインズ、シュタイナーである。
エンデはかれらの著作から
新たな社会経済の青写真を汲み取っていく。
かつてのNHKの番組がその余波をあきらかにする。






 この本のもとになった番組をぼくは見ていない。1999年5月4日の放送だったようだが、見逃したのではなく、知らなかった。この本によってそういう番組があったことを初めて知った。これを読むかぎり、けっこう充実した番組になっていただろうと予想する。

 河邑厚徳といえばNHKの教養番組ドキュメンタリー派の鬼才で、「がん宣告」「シルクロード」「アインシュタイン・ロマン」「チベットの死者の書」などで鳴らした人物だ。その河邑がエンデが残したたった1本のテープから番組を組み立てていったというのだから、それだけでも構想力や構成力がどんなものであるかが想像できる。もっとも書物になるにあたっては、共著者の「グループ現代」が選んだ森野栄一、村山純子、鎌仲ひとみの3人の準備力と執筆力が大きかったはずである。森野栄一についてはあとで紹介する。

 エンデが残した1本のテープというのは、1994年2月にミュンヘンの自宅で語った2時間のものらしく、それもカメラの回っていない音声録音だったようだ。その翌年にエンデは亡くなった(1995・8・28)。

 このときエンデは冒頭で次のように言っていた。

 「よろしいですか、どう考えてもおかしいのは資本主義体制下の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことのすべて、つまり個人の価値観から世界像まで、経済活動と結びつかないものはないのですが、問題の根源はお金にあるのです」。

 これを聞いた河邑はカメラが回っていなかったことを悔しがり、それならその声のテープに新たな映像を加えて、独自のドキュメンタリーに再浮上させようと決断したようだ。

 それからのことは知らないが、ついには本書に見るように取材先をいろいろ加え、多様な編集戦線をつくりあげていったのだろう。「あとがき」によると小泉修吉プロデューサー、村山純子ディレクターの寄与も相当なものだった。

 本書はそういう成り立ちの本であるが、実はエンデ本人をクローズアップしつづけているのではない。『モモ』や『はてしない物語』の作家としてのエンデをほとんど掘り下げてはいない。むしろエンデの周辺、エンデが影響を受けた経済思想家、エンデの衣鉢を継いだ者たち、さらには今日におけるエンデの貨幣感覚の実践者たち、そういう方面を追っている。テーマはサブタイトルにあるように「根源からお金を問うこと」、それこそが『エンデの遺言』だったのではないかということにある。

 では、ぼくの本書を読んでの感想を綴っておく。番組を見ての感想ではない。大きくかいつまんでいくが、ところどころに本書でとりあげていないエンデの作品や時代についてのことや、これまで千夜千冊してきた貨幣論や経済社会論との関係についての感想などを挟む。

 まずは、ここから話していくのがいいと思う。シュタイナー(33夜)のことだ。エンデにはどこかシュタイナーに振幅しているところがある。

 エンデが青少年期をルドルフ・シュタイナーの影響のもとに過ごしたことは、前夜に紹介した。そこでは書かなかったのだが、シュタイナーのアントロポゾフィ(人智学)には父親エドガー・エンデが傾倒していた。エドガーは「見えない世界」を油絵などにしようとしていたので、シュタイナーのみならずあれこれの神秘思想の本を読んでいた(どんな本だったか、知りたいものだ)。

 エンデはその父親より、もっとシュタイナーに近づいた。6歳でシュタイナー学校に入ったということは、シュタイナーのことをある程度知る者ならおおむね見当がつくだろうが、ほとんど生涯の価値観を決定づけるに足るものだったはずである。

 シュタイナー学校は正式には「自由ヴァルドルフ学校」という。1919年にシュトットガルトの煙草工場に付属する社営学校として開校された。工場に働く師弟が“学衆”だったので、職業学校としてスタートしたものだった。

 いまや世界各地に800校以上を数えるシュタイナー学校は、日本にも1975年に刊行された子安美知子の『ミュンヘンの小学生』(中公新書)を通して、本格的に紹介された。この本には「娘が学んだシュタイナー学校」というサブタイトルがついている。言語芸術、演劇的活動、オイリュトミー(舞踊体操=Eurhythmie)、農業活動、肥料製造、設計、デザイン、ドローイング、絵画、医療、カウンセリングなどを組み合わせた独特の学習教育をしている。ぼくもオイリュトミーの天才と言われたエリゼ・クリンクが来日したときは、なぜか記念講演をさせられた。踊りは風が翻るようですばらしく自在だった。

 ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925)はオーストリア・ハンガリー帝国の辺境の町クラリエヴェク(現在のクロアチア)に生まれ、小さな頃から神秘的なことや幾何学的なことに異常な関心を示していた。

 10代は実業学校に通い、物理にも機械にも興味をもつとともに、レッシングやカントを読むようになった。やがてウィーン工科大学で自然科学を、ウィーン大学で哲学・文学・心理学を学んだ。その活動の出発点は22歳から携わったワイマール版『ゲーテ全集』の編集にある。ゲーテ(970夜)はシュタイナーのすべてなのである。だからドルナッハに最初のゲーテアヌムを設計開館すると(1913)、各地にシュタイナー学校が広まるとともにゲーテアヌムを併設していった。

 エンデはそういうシュタイナーに少年時代から馴染んできた。影響が少なかろうはずがない。

 そのシュタイナーに経済社会論をめぐる著作がある。おもな主張は『社会問題の核心』(人智学出版社)や『シュタイナー経済学講座』(筑摩書房)にまとめられている。おそらくエンデが熱心に読んだ本だろう。そこに「老化する貨幣」が提唱されている。

 大意、次のようなことが書かれている。

  健全な社会においては、貨幣は他人の生産した財貨の“小切手”にすぎない。その“小切手”が経済領域においてどのような財貨とも交換しうるのは、その小切手所有者が社会の生産部門の労働をして、生産物を社会に供給する責任をはたしているかぎりにおいてのことである。

 しかしいま、貨幣は生産活動の表象としての機能を失っている。こうしたときは、貨幣はその貨幣価値をその所有者に足して効能を減じていく処置をされるべきである。たとえば、貨幣所有権が一定の期日を過ぎれば、なんらかの手段で社会に還付されるようにする。本来は生産活動に投下されるべき貨幣が死蔵されないためにも、こうした方法が考案されるべきである。

 シュタイナーは貨幣に「25年ほどの期限」をもうけることを提案した。それによって貨幣価値に高低のカーブをつけ、さまざまな決済・融資・贈与のあいだで自動的な調整がおこなわれていけば、きっとオーガニックな経済社会のバランスがとれるだろうと考えた。

 これが「老化する貨幣」だ。当初の価値がしだいに減衰していくという貨幣という意味をもつ。経済学では「エイジング・マネー」と呼ばれている。「加齢する貨幣」である。時を経過するとともにその価値を変化させ、ときには衰えていく。
 そういうエイジング・マネーをミヒャエル・エンデも夢想した。

 そもそもエンデは戦火の渦中のドイツにいて、祖国のマルクが未曾有の混乱を見せつづけていたことをいやというほどに体験している。このような国家は当時はドイツのほかにはなかった。

 ナチス体制のもとで流通していたのはライヒスマルクである。しかし激しいインフレの進行でほぼ信用を失っていた。そのため敗戦直後のドイツは事実上、いまでは想像もつかないだろうけれど、“物々交換”がまかりとおっていた。なんとタバコが価値尺度と交換手段の役割をはたしたのだ(タバコはこういうときに大事なのです。むやみに禁煙運動など広げないように‥‥笑)。

 タバコのことはともかく、ドイツを占領した連合国はさすがにこの原始的現状を見て、焦った。高度な合理を求める資本主義社会では「原始的な交換」こそ最もヤバイことなのである。カール・ポランニー(151夜)の言う「社会に埋めこまれた経済」が発生してしまうからだ。

 そこで一刻も早く通貨改革を施行しようとしたのだが、紙幣の印刷をどの政府のもとでおこなうかについて、ソ連との合意が得られない。そのため全ドイツの通貨統一はあっさり見送られ、ソ連占領地区を除いた暫定通貨の導入に踏切り、紙幣の印刷をアメリカ本土が担当し、それをこっそりフランクフルトのライヒス銀行に空輸で送りこむという非常手段を決行した。

 ドイツは国民の意志とはまったく関係のない暫定通貨、いや擬似通貨とさえいいうる通貨によって、真っ二つに分断されたのだ。

 こうした事情を目の前で見ていたエンデは、貨幣や通貨というものが勝者に強く、敗者には酷(ひど)くなっていくことを実感した。また国際通貨や基軸通貨というものが資本主義と社会主義の苛烈な競争のためにのみ大手をふっていることに気がついた。

 かくてエンデは、「パン屋でパンを買うためのお金」と「株式取引所で扱われる資本としのてのお金」を厳しく峻別すべきことを、しだいに考えるようになっていく。

 このような体験をしたエンデが、貨幣や通貨のありかたに疑問をもったとしても不思議はない。エンデはNHKの番組では、こんなふうに言っている。

 私が見るところ、現代のお金がもつ本来の問題は、お金自体が商品として扱われていることです。本来、等価代償であるべきお金がそれ自体で商品となったこと、これが決定的な問題だと私は思います。お金自体が売買されるのが現代です。これは許されることなのか。そのことにおいて貨幣というもののなかに、貨幣の本質を歪めるものが入るのではないか。これが核心の問題だと思います。

 エンデは貨幣を否定しているのではない。そういうことではない。おそらくどんな思想家も革命家もエコノミストも、貨幣を否定する者なんて、めったにいるはずがない。貨幣は言語や大工道具や運送機関のように必然なのである。そのことは『貨幣と象徴』(1371夜)にも書いておいた。

 しかし、言葉づかいによっては人が傷つくように、英語教育で世界中を統一することが愚挙であるように、大工道具で手が頻繁に切断されてはならないように、尺貫法で大工が仕事をしたっていいように、小さな町を機関車が横断するべきではないように(それでは『ねじ式』の悪夢がくりかえされる)、自動車は森首相の悪ったれ息子だからといって酔ってコンビニに突っ込んではならないように、貨幣にもそれなりの使い勝手があっていいはずなのである。

 エンデはこのことを説明するのに、シュタイナーが説いた「社会有機体三層論」を援用した。

 人間の社会というものは、さまざまなレベルやレイヤーやゾーンで成立している。これをシュタイナーは大きく3つに分けた。第1には国家や法や政治のもとに生きている(法生活)。第2に生産や消費のもとに生きている(経済生活)。第3に文化や教育のもとに生きている(文化生活)。

 これらはそれぞれが相互に自律しあっている「生の領域」なのである。これを一緒くたにしないほうがいい。たとえばフランス革命は「自由・平等・友愛」を掲げたが、「平等」は政治や法が律しても、「自由」は精神や文化が担うべきであろう。もしも「友愛」を問題にしたいなら、それこそ経済における友愛が追求されるべきなのだ。

 そもそも「所得と職業」が、「報酬と労働」が一つになってしまったことが問題なのである。われわれは「働く」ということを「同胞のために働く」という場合にもいかすのだし、逆に、決まった収入を得ることと好きな仕事をもっとしたいということが一致しないことだって、しょっちゅうあることなのである。まして表現活動や冒険の旅に出ることは。

 そう、シュタイナーは主張したわけだ。社会は有機体として「法制・経済・文化」の三層になっているというのだ。ヴァルター・クグラーの『シュタイナー 危機の時代を生きる』(晩成書房)などを読まれるといい。『社会問題の核心』では次のようにも書いている。

  純粋な生産活動によって得られる収入と、すぐれた経営手腕によって得られる収益と、貯蓄によって得られる収入とは、それぞれ区別して考えるべきである。社会における資本のはたすべき役割は、個人がその能力によって発現する役割にも寄与するべきである。資本主義の問題は、資本がそのすべてを経済領域に向けすぎたことにある。むしろ本来の創造的な機能にこそ資本が機能できるようにしなければならない。

 エンデもこのようなシュタイナーの主張を継承して、経済が「自由」と「平等」を謳っていることに疑問を呈し(まさに新自由主義がその合唱のようになったのだが)、社会が分業によって成り立っているのだとしても、その分業によってすべての市場経済が許容されるべきではないし、株式経済のルールが人々を法令遵守させるべきではないと考えた。

 シュタイナーもエンデも、資本はもっと社会的なものであるということを考えていたのだ。銀行だってそうである。社会のためのソーシャルバンクがあっていい。
 しかし、そんなことがありうるのだろうか。それは夢物語にすぎないのではないか。番組では、ここでドイツにあるGLS銀行を取材する。

 「贈ることと貸すことの共同体の銀行」という奇妙な名をもつこの銀行は、預金者が自分で投資するプロジェクトを選び、同時に自分で預金の利率を決められるようになっている。たとえば有機農業のプロジェクトを促進したいと思えば、銀行が選定した有機農業ファンドに投資する。そのとき、自分で自由に利率を選ぶ。銀行側も利子の最高額の設定を通常の利率にしておいて、それ以下でもかまわない投資者を募る。その投資者が多く、その有機農業プロジェクトが成功すれば、投資者は存分なリターンが得られるわけである。

 ここまでくると、前夜にも少しふれたように、エンデがハンス・ビンスヴァンガーの『金と魔術』(1374夜)にひとかたならぬ関心をもったことは、容易に予想がつく。

 あらためて言うまでもなく、ゲーテが『ファウスト』で描いた錬金術は紙幣を勝手に印刷する近代の錬金術だったわけだが、それは連合国アメリカがドイツマルクにしてみせたことであり、ソ連がこれを無視したことに通じていた。戦勝国はたえず貨幣を牛耳ったのだ。それとともに、そのことは現代の貨幣資本主義や株式資本主義のすべての常識にもなっていったのである。ファウストとメフィストフェレスの会話は、資本主義社会にはまったく届いていなかったのだ。

 前夜にも述べておいたように、ビンスヴァンガーはのちにはエンデの『鏡のなかの鏡』にも注目した。映画化をすればきっとアンドレイ・タルコフスキー(527夜)の『ストーカー』のような作品になるような趣向だが、内容は一つのシティの祭壇から金銭価値が増殖していっているという恐怖を描いている。エンデがいつごろ『金と魔術』を読んだのかは知らないが、エンデはビンスヴァンガーに、そのビンスヴァンガーはエンデに影響されてきたのであろう。

 ビンスヴァンガーは、本書のインタヴューでは次のような発言をしている。成長と失墜をもたらす貨幣経済の根底に株式市場があることを問題視した発言だ。
 株式経済は重要な企業形態ではあるけれど、成長を基盤にせざるをえない。しかもこの経済では分配された利益配当が主題であって、株価が主人公なのである。かつ、株式経済の利潤は手元に戻ってくることを当てにした投資で成り立っている。そこに問題がある。エンデはそうした株式市場の外で動く貨幣経済の可能性を模索していたのではないか。

 いささかシュタイナーの思想に加担しすぎたかもしれないが、エンデがこのような経済思想の持ち主だったことは、これまであまり知られてこなかった。本書はエンデに対する取材を通じて、この面を取り出した。

 それでは話を次に進めよう。

 エンデがシュタイナーに続いて、いや、シュタイナーその人がその経済思想に影響されたであろうからエンデも注目しつづけた、もう一人の経済思想家がいた。それが知る人ぞ知るシルヴィオ・ゲゼルなのである(以下、シルビオ・ゲゼルと表記する)。

 ゲゼルは、ケインズ(1372夜)が『雇用、利子および貨幣の一般理論』でとりあげた「スタンプ付き貨幣」を発想したドイツの商人である(以下、スタンプ貨幣と言う)。ケインズはかなりゲゼルの影響を受けている。

 しかしゲゼルは、ケインズが言うようなたんなる商人ではなかった。革命的な経済思想家であり、画期的な貨幣論の提案者であった。むろんケインズもそれはわかっていた。ケインズは「シルビオ・ゲゼルは不当にも誤解されている。しかし、将来の人間はマルクスの思想よりもゲゼネの思想からいっそう多くのものを学ぶはずだろう」と書いた。

 ついでにいまのうちに言っておくが、実はアインシュタイン(570夜)もゲゼルにぞっこんだった。「私はシルビオ・ゲゼルの光り輝く文体に熱中した。貯め込むことができない貨幣の創出は、別の基本形態をもった所有制度に私たちを導くであろう」と褒めている。

 けれどもゲゼルは一貫して無視されてきた。何か危険な思想の持ち主だったのか。それともユートピア主義者だったのか。あるいは極左主義なのか。そのいずれにもあてはまらない。では、いったいゲゼルとは何者なのか。何がケインズやシュタイナーやエンデにもたらされたのか。スタンプ貨幣というアイディアなのか。いや、それだけではなかった。

 ともかくも、この異質な人物のアウトラインを知っておくべきだろう。本書『エンデの遺言』にもそれなりのページ数がさかれている。日本で「ゲゼル研究会」を主宰している森野栄一の執筆担当だった。

 シルビオ・ゲゼルは1862年にドイツ帝国のライン地方に生まれた。マルメディ近郊というところで、ドイツ文化とフランス文化が混じっていた。父親は会計局の役人、母親は教師。9人兄弟の7番目で、家の中ではフランス語、外に出るとドイツ語を喋った。

 16歳でギムナジウムを卒業すると、父親が公務員に就かせたいというので郵政局の職員になるが、すぐに退職してしまう。年長の兄の2人がベルリンに出ていたので、兄弟で歯科用の医療器械を扱う店を開いた。その後、語学力をいかしてスペインのマラガに赴き、ほどなく軍務に服役、その後に退役すると機械メーカーの通信員となる。アンナ・ベッカーとも婚約する。

 1886年、24歳のゲゼルはアルゼンチンに行く。兄のパウルが製造した歯科治療器具をブエノスアイレスで販売することが仕事だが、アルゼンチンはインフレとデフレを繰り返す金融混乱時代になっていた。ゲゼルはこの地でアンナと結婚し、輸入業者としての荒波をくぐりはじめた。とくに国内の不換通貨に金の価格の変動が重なって、国際為替相場が暴力的なほどに擾乱していくのを体験する。

 好調に見えた投機ブームが2年ほどたつと、アルゼンチンの経済は最悪になってきた。政府はデフレ政策をとり、金の流出と引き換えに追加的な対外債務を求めるのだが、いっこうにうまくいかない。銀行も不振に喘ぎはじめ、投資家たちは政府の債務返済猶予を認めない。すぐさま紙幣の価値が低落し、破産企業が続出すると、闇の投機が躍り、貨幣の売り買いが始まった。

 それなりの仕事をしていたゲゼルは、ここで一念発起する。ことごとく事業を整理して(段ボールプラントも仕事にしていた)、工場の売却益でラプラタ川に浮かぶ島をひとつ買うと、そこで農地を耕しつつ、理論活動に耽ったのである。こうして第1弾の『社会的国家への架け橋としての通貨改革』という画期的な論文が生まれる。インフレ期に貨幣の売買が安定するには、「指数通貨」と「自由貨幣」の両方が必要だというものだった。

 反応はなかった。しかしゲゼルは続いて『事態の本質』『貨幣の国有化』を著し、1897年には『現代商業の要請に応える貨幣の適用とその管理』を刊行して、アルゼンチン政府と経済界に問うた。反応はあいかわらず、ない。それでもゲゼルは『アルゼンチンの通貨問題』というパンフレットを作り、政界・実業界・新聞社をまわった。しかしあまりの無反応に、ゲゼルは段ボールのプラントビジネスを再開し、自分の事業の展開によって政策と通貨の問題を実験してみせた(このやりかたは、ぼくが親しい原丈人のやりかたに似ている)。

 しかし、それでもまだ反応はなかった。けれども、ゲゼルの予想はずばり当たっていたのである。物価水準を切り下げようとする経済政策はことごとく失敗だったのだ。アルゼンチン経済は1年後に破綻、4万人の失業者が街に溢れた。ゲゼルのほうはかえって財を得た。34歳になっていたゲゼルは、1900年にヨーロッパに帰ってくる。

 ヨーロッパに戻ったゲゼルはスイスを選んだ。ヌシャーテル県のレゾート・ジュネヴィに農場を購入すると、そこでみずから農民となって6年間をおくった。スイスの長い冬がゲゼルに新たな思索と表現をもたらした。

 アルゼンチン時代とちがって、ゲゼルは今度は「土地」のことを考えた。そこで最初の活動として「貨幣と土地改革」という雑誌を創刊した。「自由地」という概念もこしらえた。あいかわらず世間の反応は冷たかったが、エルンスト・フランクフルトが共感を示した。すでに『不労所得』『シルバーリバーからの手紙』といった著作をものしていた経済学者である。フランクフルトはのちにゲゼルの主要大著『自然的経済秩序』の協力者になっていく。

 ついでスイスの国営銀行法の議論に介入して、『スイス銀行の独占』を書き、1906年には『労働全収権の実現』を、続いて『アルゼンチンの通貨過剰』を、さらにフランクフルトと共著の『積極通貨政策』を刊行した。

 ここでスイスからベルリンに拠点を変えたゲゼルは、ゲオルグ・ブルーメンタールと雑誌「重農主義者」を発刊するかたわら、これまでの著作を編集再構成し、いよいよ『自然的経済秩序』をまとめていった。この主著は、日本では『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』(ばる出版)という大著になっている。カウツキー研究者の相田慎一の訳である。2007年に翻訳刊行されたものだが、ぼくはこれを読んでぶっ飛んだ。

 どういうふうにぶっ飛んだかは、以下のゲゼルのこのあとの事歴の紹介のところにも少しはふれるが、詳しくは次夜の千夜千冊にまわしたい。ここにはピエール・ジョセフ・プルードンが蘇っているからだ。プルードンがどういう思想家だったかということも、今夜はふれない。

 第一次世界大戦のさなかに『自然的経済秩序』は出た。ゲゼルは勇躍、1916年にはベルリンで「金と平和」を、翌年にはチューリヒで「自由土地、平和の根本条件」を、1919年にはふたたびベルリンで「デモクラシー実現後の国家機関の簡素化」を、それぞれ講演した。

 3番目の講演は「小さな政府」を提唱したものだった。しかしゲゼルはそうした驚くべき先駆性とはべつに、1917年に始まったロシア革命によるマルクス主義的な反資本主義の思想と行動に警戒を強めた。いったい社会主義や共産主義によって世界は変革されるのか。ゲゼルは以降、ボルシェヴィズムを批判し、マルクスの経済思想の限界を見極めようとする。

 思想的にマルクスを批判しただけではなかった。1919年にバイエルン共和国のホフマン政府から社会化委員会への参加が要請されると、ミュンヘンで友人のテオフィール・クリスティン、ポレンスケ弁護士らとともに「自由経済顧問団」を結成し、ギュスターブ・ランダウアーの新政府(クルト・アイスナー政府)の樹立に協力をする。ゲゼルは『自然的経済秩序』第4版の序文にこんなふうに書いている。

  自然的経済秩序は新たな秩序の人為的な組み合わせではない。分業から生まれた発展は、われわれの貨幣制度と土地制度かがその発展に対立するという障害に直面する。この障害は取り除かれなければならない。それがすべてだ。

  自然的経済秩序は、ユートピアとも一時的熱狂とも無縁である。自然的経済秩序はそれ自身に立脚し、役人がいなくとも生活する力をもっており、あらゆる種類の監督と同様に国家それ自体を無用なものとする。それは、われらが存在を司る自然淘汰の法則を尊重し、万人に自我の完全な発展の可能性を与えるのだ。

  この理念は自分自身で責任を負い、他者の支配から解放された人格の理念であり、これはシラー、スティルナー、ニーチェ、ランダウアーの理念である。

 だいぶん過激になっている。しかし、ゲゼルが新政府の財務担当人民委員に就任して1週間で、クルト・アイスナー新政府はモスクワの指示に従う共産主義者によって転覆されてしまった。これがバイエルン第二共和国である。ランダウアーは逮捕され、殺害された。

 ゲゼルは憤然として「全貨幣所有者への呼びかけ」というパンフレットを撒いた。また、国内物価水準の安定のために国際為替レートの協調会議の招待状を認(したた)めた。が、ゲゼルらは共産主義者の嫌疑をかけられ、大逆罪で告発される。

 その後、ゲゼルは高等裁判所での法廷闘争を展開、結局は釈放されるのだが、さすがに暗澹たる気分になっていた。国家というものが大逆罪によって何を仕掛けているのか、あまりにもよく見えすぎたからだ。もはや国家には脱出口はないのではないか。さすがのゲゼルも絶望したようだ。

 第一次世界大戦は終わった。しかしヴェルサイユ条約の経済政策はなんともひどいものだった。黙っていられないゲゼルは、1920年に『ドイツ通貨局、その創設のための経済・政治・金融上の前提』というパンフレットを発表する。時のドイツ銀行の総裁ハーフェンシュタインに宛てた。むろん何の対応もなかった。

 もはやドイツ一国を相手にできないと見たゲゼルは、まずは『ドイツ国民への宣言』を書き、ついで「世界貨幣」を構想した『インターナショナル・ヴォルタ・アソシエーション』を発表した。今日のIMFとは異なる国際通貨協会を創設して、どの国民通貨に対しても中立的な通貨を発行するという構想である。このときどうやら、ケインズがゲゼルに注目したようだ。おそらくシュタイナーもこのころにゲゼルの自由貨幣論に触発されて、「老化する紙幣」を発想したものと思われる。

 それならいよいよもって“ゲゼルの奇跡”が近くなってきつつあるはずだったが、もうゲゼルの余命のほうがなくなりつつあった。1927年、渾身をふりしぼって『解体する国家』を書くと、世界が大恐慌に見舞われていったさなかの1930年3月11日、69歳の誕生日を前に、ゲゼルはベルリン郊外のエデンに没した。いま、ぼくが少しずつ近づきつつある年齢だ。

 ミヒャエル・エンデがどのようにシルビオ・ゲゼルを知ったかははっきりしない。NHKの番組では、金融システムの問題を話していたエンデが、その話が華僑に入ったあたりで突然にゲゼルのことを持ち出し、取材班を驚かせたという。NHKチームはゲゼルのことをまったく知らなかったからだ。

 のみならず、エンデはゲゼルの経済思想が実践された例を持ち出した。オーストリアのヴェルグルという町のことだった。

 シルビオ・ゲゼルという人物がいて、「お金は老化しなければならない」と説きました。お金で買ったものはジャガイモにしろ靴にしろ、消費されていく。しかしその購入に使ったお金はなくならない。モノは消費され、お金はなくならない。モノとしてのお金と消費物価とのあいだで不当競争がおこなわれているのです。ゲゼルはそれはおかしいと考えたのです。ゲゼルはお金も経済プロセスの進行とともに消費されるべきだと考えたのです。

  このゲゼルの理論を実践し、成功した例があります。1929年の世界大恐慌の後のオーストリアのヴェルグルという町のことで、その町長のウンターグッゲンベルガーが町の負債と失業対策のため、現行貨幣とともに「老化するお金」を導入したのです。

 ヴェルグルはザルツブルグ近郊にある。その町で、1932年に画期的な実験がおこなわれた。世界大恐慌のあおりをくった人口5000人ほどのヴェルグルは、400人の失業者と1億3000万シリングの負債をかかえていた。そこで町は、通常貨幣とは異なった「労働証明書」という形の新しい通貨を発行し、公共事業の支払いに充てた。

 世界史上初の「エイジング・マネー」の導入だった。しかしオーストリア政府とオーストリア中央銀行は紙幣の発行は国家の独占的な権利であるので、この行為は認められないとして、ウンターグッゲンベルガー町長を国家反逆罪で起訴、すべての新紙幣を回収してしまったため、この実験はあえなく潰えた。

 ヴェルグルで発行された「労働証明書」は、ゲゼルが構想し提案した「自由貨幣」のうちのひとつの、「スタンプ貨幣」である。特定の地域で短期間にわたって使うためのものなので「地域通貨」とも「代用紙幣」ともいえる。

 ヴェルグルのスタンプ貨幣(厳密には紙券)は12カ月分の枡目が印刷されていて、そこに使用者たちがスタンプを貼るようになっている。スタンプ紙券の額面はいろいろだが、どの紙券も毎月1パーセントずつ減額していく。そのため町民は月末までに減価分に相当するスタンプを当局から購入して貼らなければ、額面を維持できない。町はこうしたスタンプ収入をさまざまな救済資金に充てたのだ。

 スタンプ貨幣は“期限のついた紙幣”であって、“減価する紙幣”なのである。使用者の“痕跡が残る紙幣”でもある。とくに「勝手に増殖しないようになっている」という最大の特色がある。

 ゲゼルは1週間で0・1パーセントずつ減価するスタンプ貨幣を提唱した。年間に換算すると5パーセントになる。これは一般の通貨レートの変動に接近した変動幅だと想定できるので、ゲゼルの構想がすぐれていたことを暗示した。


ヴェルグルで発行された地域通貨「労働証明書」

写真は5シリングのもので、裏側(下)に宣言文が記されている。

 いったいゲゼルからエンデに伝わった自由貨幣の構想は、資本主義の世の中で現実化可能なものなのだろうか。

 むろんゲゼルは可能だと考えた。ゲゼルは資本主義をよくするにはそれしか方法はないと考えていた。ゲゼルもエンデも、またシュタイナーも、お金や資本主義を廃止する必要はまったくないと考えている。むしろ現状の通貨・紙幣・資本主義がこのまま進んでいけばしだいに悪化するだろう、取り返しがつかなくなっていくだろうとみなしていた。

 どのようにゲゼルに発した自由貨幣を議論していけばいいのか、またゲゼルが「土地」を“自由地”として再解釈していったかということをどう議論すればいいのか、それを正確に語ろうとするとけっこう難しい。だから、そのことについては次夜に視点を変えて案内するとして、ここでは、こうした自由貨幣構想が各地で現実化した小さな例を、NHKの取材に従って紹介しておくことにする。

 ★1932年の早い時期、ドイツのバイエルンの石炭鉱山の町シュヴァーネンキルヘンで、鉱山所有車のヘベッカーが「ヴェーラ」という自由貨幣を発行した。ヴェルグル同様にすぐに政府が禁止したため、わずか10カ月ほどの実験だったというが、このあとドイツは経済悪化が深刻になり、ナチスが台頭してきた。

 ★1932年10月、アメリカのアイオワ州ハワーデンで30万ドルの自由貨幣が発行された。ハワーデンは人口3000人。自由貨幣は失業手当の調達に使われた。3セントの印紙を貼る方式だった。

 ★1933年、ロングアイランドのフリーポートで、失業対策委員会が5万ドルの自由貨幣を3種類の紙券として発行した。スタンプ紙幣方式だった。同じ年、アラバマ出身のバンクヘッド上院議員とインディアナ州のピーテンヒル下院議員がそれぞれゲゼル理論を咀嚼して、連邦政府に代用貨幣の発行を認めるという法案を提出、緊急時の通貨対策として承認をされたが、これは実施されることはなかった。

 ★1934年10月、スイスのバーゼルに本店をおくヴィア銀行は、協同組合銀行として経済リング「ヴィア」を開始した。そのころのスイスには5万人ほどのゲゼル派がいたらしい。その出資にもとづいて4万2000フランが資本金になった。翌年には会員3000人、年間売上は100万フランになった。1938年に“時間とともに目減りする通貨”を発行するために、「ヴィア」という経済単位での取引ができるようにした。有効期間1年で、毎月、印紙を裏に貼るようにした。理念は利用者間の相互扶助におかれたため、利子率は最低限のものだった。こうしてその取引額は1960年には1億8330万フランに達した。いまでは、スイス企業の17パーセントにあたる7万6000社がヴィア・システムに参加し、1995年以降はヴィアカードによる決済が可能になっている。

 ★1983年、カナダのバンクーバーで、コモックスのマイケル・リントンが「グリーンドル」という物やサービスを交換できるシステムLETSを始めた。地域交換取引システム(Local Exchange Trading System)の頭文字をとってLETSという。物やサービスの提供を受けたい住民が、そのつどグリーンドルという計算単位で代価を発行するしくみになっていて、口座ゼロから出発してグリーンドルを使うと口座からその分がマイナスになることでスタートできた。リントンはこのマイナス口座からのスタートをLETSへのかかわりを示す“積極的な負”とみなした。

 ★1991年、ニューヨーク州イサカで「イサカアワー」という地域通貨が誕生した。「グリーンスター」という生協型のスーパーマーケットのポール・グローバーが始めたもので、非営利の委員会でこれを管理した。1イサカアワーは10ドル。現在も使われていて、8分の1アワー、4分の1アワー、2分の1アワー、1アワー、2アワーの5種がある。表面には「ここイサカでは私たちはお互いに信頼しあっている」というフレーズが刷られ、裏面には「この紙幣は時間の労働もしくは交渉のうえでの物やサービスの対価として保証されています。イサカアワーは私たちの地元の資源をリサイクルことで地元の経済を刺激し、新たな仕事を創出する助けとなります。イサカアワーは私たちの技能・体力→道具・森林・野原・川などの本来の資本によって支えられています」と刷られている。

 ★1992年、ドイツのザクセンアンハルト州のハレ市に、「交換リンク」という仕組みが始まった。現金をまったく使わずに通帳上の中だけで物や仕事やサービスを交換するシステムで、通帳の中で交換されるのは「デーマーク」という経済単位である(1デーマーク=1ドイツマルク)。これは会員全員が見る交換可能リスト誌を媒介にして、日本にもよく見られる「売ります」「買います」の“交易”が成立すれば、あとは年会費や通帳発行料金などを収めれば、そのほか自由だった。その後、「交換リンク」はデーマーク型のものがドイツで200あまりの地域で、フランスでは「SEL」という単位の300あまりの地域が実施されている。


上図:旧東ドイツ・ハレ市の交換リング「デーマーク」

下図:交換リンクの仕組み。サービスと単位の動き。

https://1000ya.isis.ne.jp/1378.html

 ざっとではあるが、こんなふうにゲゼルの自由貨幣運動は各地に広まっていったのである。ここではふれなかったが、ドイツの「緑の党」などのムーブメントにも、つねに自由貨幣論は出入りしてきた。

 しかしながらこれらは、いまでは地域通貨論や電子マネー論の範疇で片付けられているだろう事例になっている。そうなる理由もあるのだが、ゲゼル→ケインズ→シュタイナー→エンデという系譜を考えると、その程度の議論でいいのかどうか、そろそろ問われるべきときがきているはずである。



▲△▽▼


人口100人の青い目の人達の村_新自由主義村があった。

4人の資本家に支配された労働者庶民96人が住んでいた。

資本家の年俸は2億円、残りの庶民は年俸200万円
全体で9億9200万円の紙幣が循環していた。

新自由主義村では、自動車は6、7台しか売れず、他の者は自転車だった。
暴動や略奪や薬物中毒・犯罪が頻繁に起こっていて
ズタズタなスラム社会になった。


その村の隣に、ジパングという人口100人の島国があった。

20人の知恵者をリーダーとした職人庶民80人いた

リーダーの年俸は1440万円、残りの職人は年俸500万円

全体で 新自由主義村より少しすくない6億8800万円の紙幣が循環していた。

その村では、自動車は100台売れた。 自転車も売れた。

あらゆる産業が学問が医療が社会福祉が発展し
インフラが整備されていき、すばらしい街を形成していった。

メンテ

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ミヒャエル・エンデ『モモ』の世界 ( No.1 )
日時: 2020/05/04 02:29
名前: 777 ID:8B8dq/2k


ミヒャエル・エンデ『モモ』の世界



Momo (1986) - english audio - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=8Q_JYYcBP2Q&feature=emb_title


モモ
1986年 西ドイツ・イタリア
監督:ヨハネス・シャーフ
主演:ラドスト・ボーケル

▲△▽▼


FMシアター秀作シリーズ「モモ」 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=0gd0zMfwZTI&feature=emb_title
https://www.youtube.com/watch?v=l4EqBATBI_w&feature=emb_title


モモ:宮城まり子、マイスター・ホラー:森繁久彌、観光ガイドジジ:橋爪功




『モモ』(Momo)は、ドイツの作家ミヒャエル・エンデによる児童文学作品。1973年刊。1974年にドイツ児童文学賞を受賞した。各国で翻訳されている。特に日本では根強い人気があり、日本での発行部数は本国ドイツに次ぐ。
1986年に西ドイツ・イタリア制作により映画化された。映画にはエンデ自身が本人役で出演した。

日本では、1987年に女優・歌手の小泉今日子が朝日新聞のインタビュー記事で本作の大ファンであることを公言し、話題になった[1]。

あらすじ

この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。あらすじの書き方を参考にして、物語全体の流れが理解できるように(ネタバレも含めて)、著作権を侵害しないようご自身の言葉で加筆を行なってください。(2015年11月)(使い方)

イタリア・ローマを思わせるとある街に現れた「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たちによって人々から時間が盗まれてしまい、皆の心から余裕が消えてしまう。しかし貧しくとも友人の話に耳を傾け、その人に自信をとりもどさせてくれる不思議な力を持つ少女モモが、冒険のなかで、奪われた時間を取り戻すというストーリー。

物語は、「円形劇場に住むモモと友だちの平穏な生活」から「時間泥棒の出現」そして「マイスター・ホラとの出会い」と進行する。「時間貯蓄銀行」を名乗る灰色の男達は、「時間を貯蓄すれば命が倍になる」と偽り、人々から時間を奪う。その魔の手がついにモモにまで及ぶ。モモをターゲットとした「時間泥棒BLW553号」は、モモの「時間泥棒も愛されている」という言葉に自失し、時間泥棒の秘密を話してしまう。組織は、「時間泥棒BLW553号」を裏切り者として裁判にかけ反逆罪により死刑を宣告。彼は煙のように消される。と続き、最後にモモは盗まれた時間を解放する。


題辞

物語の前にイギリスの詩人ジェイン・テイラー(en:Jane Taylor (poet))が1806年に発表した『ザ・スター』が引用されている[2]。エンデはこれを「アイルランドの旧い子どもの歌」とし、テイラーの名は記していない[3]。岩波書店版(大島かおり訳)の詩そのものは武鹿悦子による有名な日本語訳詩『きらきら星』ではなく独自の訳である。

解釈

ストーリーには、忙しさの中で生きることの意味を忘れてしまった人々に対する警鐘が読み取れる。『モモ』という物語の中は、灰色の男たちによって時間が奪われたという設定のため、多くの書評はこの物語は余裕を忘れた現代人に注意を促すことが目的であると受け止めた。編集者の松岡正剛は、「エンデはあきらかに時間を『貨幣』と同義とみなしたのである。『時は金なり』の裏側にある意図をファンタジー物語にしてみせた」と評した[4]。

「時間」を「お金」に変換し、利子が利子を生む現代の経済システムに疑問を抱かせるという側面もある。このことに最初に気が付き、エンデ本人に確認を取ったのはドイツの経済学者、ヴェルナー・オンケンである[5]。

評価

哲学者のDavid Loyと文学教授のLinda Goodhewは、「20世紀後半の最も注目すべき小説の一つ」であり、1973年出版されたにもかかわらず、見事に現在の悪夢的な状況を予言していると高く評価している[6]。

一方、寓意や思想が強すぎるという意見もあり、松岡正剛は、出版当時に最初に読んだときは「時間泥棒というアイディアにはなるほど感心したが、全体に寓意が勝ちすぎていておもしろくなかった」と評した[4]。

またファンタジー作家の上橋菜穂子、荻原規子はエンデ作品が苦手であると述べており、上橋は『モモ』について、思想やイデオロギーを語るために物語が奉仕してしまっており、自分の好きな物語ではないと述べている[7]。

舞台化

1975年にドイツの作曲家マーク・ロタール(ドイツ語版)のためにエンデ自身がオペラの台本を執筆している。これを収録したものは同年KARUSSELLレーベルからLPレコードとして発売された。その他にもミュージカル化されており、児童劇団などで『モモと時間どろぼう』のタイトルでの上演例も少なくない。

モモと時間泥棒
劇団四季のファミリーミュージカル。1978年上演。

Momo og tidstyvene
オペラ。スビトラーナ・アザロワ作曲。デンマーク語。2017年初演。


メンテ
利子付き国債の発行はこれだけ貧富の差を拡大し、国民経済を破壊する ( No.2 )
日時: 2020/04/20 07:32
名前: 777 ID:zNFagbA2

利子付き国債の発行はこれだけ貧富の差を拡大し、国民経済を破壊する



2020年04月19日
バブル崩壊で勝ったのは国債だけだったという事実
http://www.thutmosev.com/archives/68138564.html

投資
危険を煽ってもっと危険な投資や移住を勧めると、どこかから報酬が貰えるのだろうか

引用:http://utel.jp/792-8939/blog/%E9%80%9A%E8%B2%A8%E3%81%A8%E5%9B%BD%E5%82%B5.jpg


最も「勝ち組」の投資は日本国債だった

投資をしている人は「日本国債が危ない」「国債が破綻する」「国債を買うな」という情報を、今までに数多く聞いてきたと思います。

ニュースを見れば国債破綻、投資コラムでは国債を買うなという具合で、悪い投資の筆頭に上げられることが多い。

だが現実に1990年台バブル崩壊で「1円も損をせず」「元金が7倍以上になった」のは日本国債を買った人だけだった。


バブルの頃は色々な投資がブームで、金銀、土地、ゴルフ会員権、株やピカソの絵、ハワイや湯沢の別荘が人気でした。

これらの投資はその後のバブル崩壊で全て損をした筈で、保険や年金商品ですら政府の方針でカットされていました。

そんな中で唯一バブル崩壊の影響をまったく受けなかった投資商品が「日本国債」で、日本国債が危ないという定説とは真逆の結果です。


バナナ売りみたいな投資アナリスト達は毎日毎日「あぶないよあぶないよ、さあ国債が破綻するよ」と道端で「国債が危ない」と言い続けています。

彼らがそう言っている理由は国債以外の投資商品を売って稼いでいるからで、国債が売れたら困るのです。

日経先物とかFXとか株とか土地とかピカソの絵を売って初めて「カモ」から金を取れるので、日本国債が売れたら儲からなくなるのです。


1980年に日本国債を購入した人は、30年後の2010年に7倍に増えていて、もし最初に1000万円なら7000万円、100万円でも700万円に増えていたのです。

バブル崩壊も阪神大震災も福島原発もリーマンショックもすべて無関係で、1980年台に買っていさえすれば誰でも7倍になったのです。

では日本国債を買う以外でこの30年間に投資で資産を7倍にした人がどれだけ居たか、聞くまでもなくほとんど居ないはずです。


日本国債より危険な投資に手を出す人々

「そんなのウソだ。日本国債はゼロ金利じゃないか」というもっともな意見がありますが、それでも30年間毎年金利が付くことで、5倍とか7倍に増えるのです。

考え方を変えれば本当に「金利ゼロ」だったとしても、デフレで物価が下がると実質的にお金が増えるのです。

「経済専門家は皆日本が破産すると言っている」というもっともな意見もあるが、逆に日本政府が破産した後に残る安全な物って何なんでしょう?


例えば土地は消えませんが、戦前日本最大の資産家だった本間家(ローソク足を発明した本間宗久の子孫)は敗戦でアメリカ軍に土地を没収され、ただの釣具屋になり今は中国に買収されて消滅しました。

有名企業の株を保有しても日本政府が倒産するほどの事態なら、三菱や三井やトヨタだって倒産するでしょう。

金などの貴金属は物質として目減りしませんが、あの手のものは長期的には必ず物価上昇率より価値が目減りしていきます。


日本国債がデフォルトするほどの危機なら、どんな資産も無価値になる可能性が高く、それらより危険ではありません。

例えば沖縄県知事のアホは「中国に統一してもらって日本から独立しよう」と言っていますが、中国は共産国家で個人の土地所有が認められていません。

米軍基地が中国軍基地にかわり、土地は政府の所有になり、住民は政府から借りた借地に住む事になります。(中国人民はそうしている)


日本国債より安全な投資って何?

日本国債が無効になるほどの衝撃というのはこれほどの事が起きると推測でき、こんな事を考えるよりは自衛隊に税金を払ったほうが幾らかマシです。

「日本国債がアブナイから他に投資しよう」という考えは一見合理的にみえて、相当におかしいのが分かると思います。

例えていえば「巨大隕石が地球に落下するから地球の裏側に逃げよう」みたいな話で、恐竜より頭の働きが鈍いです。


日本国債ではなく米国債など外国政府に投資しようという人も居て、こちらの方は理にかなっています。

円高が進んでも日本よりアメリカの金利が高いので、最終的に日本国債を買うよりも、数十年後に元本が増える可能性は高いです。

だがしかし日本の証券会社から米国債を買って、日本政府が倒産したときにその証券会社は存在し、銀行は投資した元本を保証してくれるのか甚だ疑問です。


日本が破産したとき自分が買った証券会社が倒産していて、資産保全しているメガバンクも倒産したら、買っておいた米国債も消滅するでしょう。

アメリカの証券会社から米国債を買うという方法もあるが、おそらく日本からだと余計なコストを取られたり不利になるかも知れません。

このように考えると「日本国債があぶない」から色々な投資を試みるのは、結局どれも日本国債そのものより危険な投資に手を出すハメになります。
http://www.thutmosev.com/archives/68138564.html
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国債1千兆円は返さなくて良い 日銀国債購入で分かった事 ( No.3 )
日時: 2020/04/20 15:26
名前: 777 ID:zNFagbA2


国債1千兆円は返さなくて良い 日銀国債購入で分かった事


大西つねきの週刊動画コラムvol.8_2018.1.8:政府の借金=お金の発行
https://www.youtube.com/watch?v=qLvW0rPcuUg&feature=emb_title

今週のテーマは「政府の借金=お金の発行」。巷の財政議論がいかに間違っているか、そして、政府の借金を税金で返す選択肢など存在しないことを説明しています。


【政府の借金を税収で返すなんてこと、ありえない!】
れいわ新選組公認候補 大西つねき(全国比例) 参院選 2019
https://www.youtube.com/watch?v=P_ueNBa_RmM&feature=emb_title




▲△▽▼





2020年04月20日
国債1千兆円は返さなくて良い 日銀国債購入で分かった事



日銀が購入した国債は償還時期が来ると、返済した事にして消してしまう。
auto-Ryt3i8
http://www.life-advisor.biz/swfu/d/auto-Ryt3i8.gif





借金は返さなくて良い


日本の借金が1000兆円以上あるという話は耳にタコができるほど聞かされてきました。

ところがその殆どを、返済しなくて良いのが分かったのです。


安倍首相が政権について以来、日銀の金融緩和を行い大量の日本国債を購入してきました。






日銀の国債保有残高は約500兆円で、政府が発行した長期国債約600兆円の8割も保有しています。


国債を発行したのは日本政府で、買い取った日本銀行も日本政府の所属機関です。

自分の借金を自分が買い取り、自分に利子をつけて返済しています。


政府は日銀保有500兆円を償還によって返済するが、日銀はまた同額を買い取っています。。

ならばこれからもずっと日銀が国債を買えば、いいのではないか?と想像すると思います。

ゼロにならないまでもゼロ金利で日銀が買い取れば、実質的に国民は支払わずに済みます。


実はこの通りで、国債1000兆円と言っても、返済する必要は無いのです。

これが安倍政権が金融緩和した結果、分かった事でした。



国債買取りで日本崩壊?

日銀による日本国債買取りには財務省を中心に反対論が大勢を占めていました。

「日本の信用が無くなる」「金利が暴騰して国家破綻する」「信用崩壊と金利暴騰によって通貨の暴落が起きる」

「1ドル500円いや、1ドル1000円にもなるだろう」などが経済専門家によって、良く言われていました。


テレビなどで聞いた事があると思います。

しかし最近これらの主張をしていた人たちは黙り込んでいます。

金利は暴騰しないし、為替レートは安定しています。


日銀の国債買取りを否定する理論は間違っていた訳です。

黒田日銀は『異次元バズーカ』によって年50兆円以上のペースで国債を買い取りました。

これはおおよそ、毎年発行する新規国債にも近い金額です。


破産しそうな会社が1000億円の借金を抱えていて、毎年50億円の借金をしている。

もう末期症状でどうしようもありません。

ところがこの会社はお金の印刷を自由にできて、毎年50億円印刷しては返済に充てることができる。


もう借金は返さず、お金を印刷すれば良いと気づいた。

これが『アベノミクス』の根幹で、実は景気浮揚とかとは別の狙いがあったのです。

日銀が国債を買い取ることで借金を返済するので、日本が財政破綻する可能性はゼロです。

日本は外国から借金をしていないので、外国からの借金で破綻する可能性もゼロです。


新型ウイルスで緊急経済対策を行う必要があるが、こんなものは100兆円でも1000兆円でも国債を発行して日銀が買い取ればいいのです。


「そんな事をしたら大変な事になる」というのが財務省の飼い犬麻生氏だが、彼はリーマンショック時に何もせず「大変な経済危機」を引き起こした。
http://www.thutmosev.com/archives/28760982.html
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安倍政策がGDP低下を招いた  円安と外国人観光客 ( No.4 )
日時: 2020/05/04 02:31
名前: 777 ID:8B8dq/2k


2020年04月29日
安倍政策がGDP低下を招いた(1) 円安と外国人観光客

安倍首相の逆噴射政策がマイナス成長の原因

引用:http://p.twpl.jp/show/large/23iQi


成果がなかったアベノミクス

日本のGDPは安倍政権誕生後もその前と変わらず、年1%程度の成長率にとどまっています。

日本経済の後退は、安倍首相が「成果を上げた」としている円安そのものが悪影響になっています。

安倍首相が就任した1年目の2013年は公共事業を重視した成果で、実質2.1%の経済成長しました。


しかし2年目の2014年は-0.9%に止まり、3年目以降もゼロか1%成長にとどまってきました。

1年目の安倍首相は大胆な公共事業で国内需要を掘り起こし、あっという間に経済を急回復させました。

だが2年目になると「緊縮財政」「財政均衡」と言い出して公共事業費や福祉予算、医療費などを削減しました。


政府が支出を減らしたらGDPは減るに決まっているが、安倍首相は理解できなかったようで次々に経済を悪化させた。

安倍首相はアベノミクスを打ち出しましたが、公共事業と金融緩和以外の政策は、全てダメと言えるほど酷いものでした。

まず安倍首相が自らの最大の手柄としている円安と外国人観光客増加が、経済の足を引っ張りました。


外国人観光客は600万人くらいだったのが3000万人になり、首相は6000万人に増やすと言っていました。

だが外国人観光客が増えても日本の成長率は前と同じで、GDPを見る限り観光効果はゼロでした。


貿易赤字、貿易黒字の誤解

外国人観光客を増やしている大きな要因は「円安」で、中国より日本のほうが安いから爆買いしました。

アメリカの場合はドル高でもドル安でも、同じように観光客が来ますが、1ドル70円になったら日本には来ません。

観光客の増加とGDP成長率の推移を比較すると、外国人観光客が日本経済にまったく貢献していないのは明らかです。


外国人が日本にやってきて金を使うのだけを見れば、日本がお金を得た訳ですが、2012年から50%も円安が進みました。

2012年に1ドル80円だったのが、2015年は1ドル124円、2020年は1ドル108円程度です。

円安で輸入品が値上がりし、日本人は輸入品を購入できなくなり消費低迷の原因になりました。


GDPの6割は個人消費なので約300兆円ですが、外国人観光客の消費は2019年に4兆円程度でした。

安倍首相は僅か4兆円を得るために300兆円を犠牲にして「観光客が増えたのはおれの手柄だ」と自慢していた訳です。

外国人観光客による4兆円など要らないので、輸入物価を下げて日本人の個人消費を回復させるべきでした。


外国人消費と並ぶもう一つの誤解は輸入品による個人消費が「GDPを下げる事になる」と思っている。

輸入代金はGDPから引かれるので、円安で輸入が減ればGDPが増えるという事が言われていました。

だが例えば石油を輸入してガソリンスタンドで売ると、2倍以上の値段に跳ね上がります


輸出で経済成長は不可能

石油を70円で輸入して140円で販売したら、差額の70円という価値が日本で生まれGDPも70円増えます。

どんな商品でも同じで、輸入価格の2倍以上の価格で国内で販売するので、輸入が増えれば増えるほど日本が儲かります。

世界で貿易黒字の国は日本の他には、先進国でドイツだけですが、アメリカは毎年貿易赤字なのに儲かっています。


日本やアメリカのような国では、輸入した以上に国内で価値を生むので、貿易赤字になるほどGDPは増えるのです。

反対に輸入を減らして輸出で金を稼ぐのは先進国にはまず不可能で、中国やインドと価格競争で勝たないといけません。

インドには一日1ドルで働く人が居るのに、どうやってそれより安く生産できるでしょうか?


日本の貿易黒字はGDPの5%といったところで、微々たる金額と言ってもいいです。

ところが輸出せず国内で消費したら販売の付加価値が付くので、もっとGDPが増えるのです。

自動車でも時計でも、外国に輸出する輸出価格より、国内の販売店で消費者に売ったほうが遥かに儲かります。


輸出でGDPを増やすのは不可能で、輸入でGDPを増やす方が簡単なのです。

安倍政権でGDPが増えなかったのは、円安にして輸出を増やしたから、それ以上に国内消費が減ったのです。

日本政府が外国人観光や輸出重視を続ければ、これからも消費は減り続け経済の低迷は続くでしょう。


円安にはもう一つ頭の痛い問題があり、50%円安になった事で、ドル換算の日本のGDPが50%下がってしまいました。

世界の人は円ではなくドルで生きているので、実際には安倍政権の1年目の2013年もドル換算ではマイナス成長でした。

衝撃的な事実があり、ドル円が130円以上の円安になり韓国がウォン高になると、韓国人のGDPが日本人を上回ります。


300兆円の個人消費を犠牲にして「外国人消費が4兆円に増えた」などと言うのは、本当に辞めて欲しい。
http://www.thutmosev.com/archives/48075259.html



▲△▽▼

2020年05月03日
安倍政策がGDP低下を招いた(2) 構造改革を止めろ


女性が輝いて国は滅ぶ

引用:http://img.chess443.net/S2010/upload/2014121000001_2.jpg


改革する首相にはうんざり

日本はもう30年も緊縮財政でお金を節約してきたのに、やればやるほど財政悪化しました。

安倍首相はさらに財政緊縮していますが、より一層日本経済は悪化し財政赤字も増えました。

安倍首相はかっこいい言葉やキャッチフレーズが大好きで、一番好きなのが「○○改革」です。



不思議な事に日本の景気が悪化し始めたのと、日本が改革路線に転換したタイミングは一致しています。

海部俊樹首相あたりから20年以上「○○改革」をやっていますが、やればやるほど日本経済は悪化しています。

1990年頃の日本では「公共事業や土木工事のせいで日本は莫大な借金を抱えている」という言い方がブームでした。


このままでは日本は破産するというので緊縮財政を始め、あらゆる支出を切り詰めたのが「構造改革」でした。

構造改革とは社会を効支出を切り詰めることと言い換えても良く、お金をばら撒く改革はありません。

ところが1990年ごろの日本政府の借金は、今考えると微々たる物で、放置しても良いレベルでしかなかった。


1980年の債務残高は124兆円、1990年の債務残高は300兆円でしたが、2000年には730兆円になり、2010年に1000兆円を超えました。

これが1972年に総理だった田中角栄のせいだとか、1987年まで総理だった中曽根康弘のせいだとか嘘も大概にして欲しい。

日本が公共事業にお金を使っていた1990年頃まで日本財政は健全で、構造改革をやり始めて悪化しました。


構造改革で支出を切り詰めた途端、雪だるま式に借金が膨れ上がって、今では1000兆円を超えたと財務省は言っています。

財務省は「財政赤字が増えたから構造改革している」と言うが、事実は構造改革すればするほど財政赤字が悪化しています。


構造改革が日本をダメにした

政府が支出を減らせば減らすほど税収が減って財政赤字が増えたのですが、経済的には不思議な現象ではありません。

GDPは個人消費が最大で、次に民間投資が占め、ついで公共投資が占めていて、公共投資とは政府が使うお金の事です。

民間投資は政府投資に連動するので、政府が支出を増やせば増え、減らせば連動して減ります。


民間消費も民間投資に連動して上下するので、結局政府が支出を減らすと民間消費も減少します。

何故そうなるかと言うと、政府が仕事を発注して初めて企業は、生産設備や人材確保に投資します。

企業の投資は労働者の給料になるので、政府が支出を増やせば給料が増え、減らせば給料も減るのです。


こうして日本政府が緊縮財政に転換したのが原因で、1990年ごろから日本はマイナス成長を続けてきました。

政府が支出を減らすとGDPがマイナスになるので税収も減るが、財政赤字の分は赤字国債などで補填しています。

赤字国債を発行したり景気悪化で補正予算を組むので、支出を減らしたのに支出が増えたという、喜劇のような政策を30年やっているのです。


もっともこの政策を安倍首相が始めた訳ではなく、小泉首相もやっていたし、中曽根首相の頃からやっていました。

問題は歴代の首相が何も検証せずに同じ政策を続けている事で、緊縮財政の結果財政赤字が増えている現実を見ようとしません。

安倍首相は財政支出を減らすために、医療費や福祉予算、公共事業費を減らしましたが、その結果GDPは低成長を続けています。


実質賃金低下は安倍首相が原因

「政府が支出を減らせばGDPはマイナスになる」のだから、緊縮政策が上手くいかないのは当然です。

安倍首相は緊縮財政以外にも、多くの間違った経済政策を続けていて、マイナス成長の原因を作っています。

例えば女性の社会参加と外国人労働者の導入ですが、これで日本が経済成長する事はありません。


日本は未だにデフレが続いていて、その大きな原因の一つが実質賃金が低下し続けている事です。

賃金が低下する原因は政府が支出を減らしたからですが、労働者の増加も影響しています。

日本は人口が減っているのに、女性の社会参加と外国人労働者のせいで、労働人口は戦後ずっと増え続けています。


消費者の人口が減ったのに労働者だけ増やし続けている訳で、実質賃金が減るのは当たり前の現象です。

安倍首相は女性の社会参加が本当に大好きで、公務員に女性登用ノルマを設けたりしています。

だが単純な話、今まで100人で働いていた職場に毎年一人の女性労働者が増えれば、一人当たりの賃金は減るのです。


欧米諸国はサミットやG7などで、事あるごとに日本に構造改革を要求してきました。

政府の支出を減らせとか、女性を働かせろとか、公務員を民営化しろとか、自由化で価格競争しろとかです。

ところがそう言っている欧米諸国自身は、これらを何一つ実行しては居ません。


「構造改革」を辞めれば経済は良くなる

例えば不祥事を起こしたドイツのVWは、政府が経営に参加している公的企業で、フランスのルノーも同じです。

労働者の解雇は事実上禁止されていて、労働時間や労働条件も国が規制して悪化しないようにしています。

それで居ながらドイツやフランスは日本に「労働市場を自由化して解雇しやすくしなさい」と要求しています。


アメリカも同様で、世界最大の役所である米軍を絶対に「構造改革」しようとはしません。

アメリカ軍自体が膨大な雇用と経済効果を生み出しているので、下手に縮小したらアメリカ経済が自滅するでしょう。

そしてアメリカも欧州も、農家の所得の50%から90%が政府補助金ですが、日本にだけ「自由競争しろ」と要求しています。


こうして見ると欧米諸国が日本に構造改革を要求してくる理由は単純明快で「日本経済を破壊するため」です。

国際社会は競争なので、日本経済などこのまま落ちぶれたほうが都合が良く、だからIMFや世界銀行の欧米人は「構造改革」を要求します。

そんなに改革したいならアメリカ軍を解体して「自衛隊」にしたり、農家補助金を廃止すれば良いのだが、自国では絶対にやりません。


欧州も日本にだけ構造改革を要求し、VWのような公営企業や農業補助金を改革しようとはしません。

構造改革とは支出を減らす事なので、GDPを下げる作用を及ぼします。

成長している時にやればバブルを冷やしますが、デフレの時にやったら経済が自滅して日本のようになります。


構造改革で合理化をすると、長期的には社会が効率化して新たな成長が起きますが、そんなのは数十年後の話です。

日本はデフレなのに経済を悪化させる政策ばかりしたから30年不況なので、改革を辞めれば自然に回復します。

日本がやるべき事は「改革をしない」と宣言して、社会にお金をばら撒く事だけです。
http://www.thutmosev.com/archives/48092832.html

メンテ
財政出動には利子の付いた国債ではなく政府紙幣を発行するのが正しい ( No.5 )
日時: 2020/05/04 02:23
名前: 777 ID:8B8dq/2k

財政出動には利子の付いた国債ではなく政府紙幣を発行するのが正しい


政府紙幣には低レベルの誤解が多過ぎる


経済コラムマガジン 03/3/3(第287号)

軽視される高橋是清の偉業


歓迎されるデフレ主義

今日、日本経済の状態を誰でもデフレと思っている。明治以来、一般にはっきりとデフレと認識されているのは「松方デフレ」と「昭和恐慌」である。ところでIMFの基準では、2年連続して物価が下落した場合をデフレと称している。前者の「松方デフレ」はこの定義にはまらない。むしろ筆者が日頃主張しているような「大きなデフレギャップが存在している状態がデフレである」の方が当て嵌まるようである。

明治の維新政府は、税制など歳入システムが未整備のままスタートした。政府支出の大部分は、太政官札などの政府紙幣の発行によって賄われていた。当初は、デフレギャップが存在していたので、物価も上昇せず、経済も順調に拡大した。しかし明治10年の西南の役の戦費がかさんだ。このための政府紙幣が大量に発行されたことが原因でインフレが起った。流通通貨の増大でインフレギャツプが生じたのである。農産物が高騰し、農村は潤ったが、都会生活者、特に恩給暮しの者達は困窮した。

そこで政府は、増税などによって政府紙幣の回収を始めた。この結果、物価動向も落着いた。しかし新たに登場した松方政権はさらに多くの政府紙幣の回収を行った。この結果、大幅に需要が減り、逆にデフレになった。農民も農産物を売り急ぐようになり、農産物価格は大幅に下落した。物価の下落は農産物にとどまらず、全ての商品に及んだ。これが有名な「松方デフレ」である。原因は過剰に政府紙幣の回収を行ったことである。どうも松方は日頃から「農産物の値上がりで、農民は贅沢をしている」と考えていたらしい。


昭和恐慌は、第一次世界大戦時の好況の反動が発端である。1914年第一次世界大戦は起ったが、日本は戦場にならず、輸出の増大で日本経済は大いに潤った。しかし大戦が終わり、列強が生産力を取戻すにつれ、日本経済は落込んだ。1920年以降、日本経済はずっと不調が続いた。特に27年には金融恐慌が起り、取り付け騒ぎや銀行の休業が到るところで見られた。

ところがこのような経済が苦境の最中の29年に発足したのが、浜口幸雄内閣であり、蔵相が元日銀総裁の井上であった。なんとこの浜口・井上コンビはデフレ下で緊縮財政を始めたのである。ところが浜口首相は「ライオン宰相」として国民から熱狂的な支持を受けていた。前の田中義一首相が、腐敗などによって国民から反感をくっていた反動と思われる。

浜口首相は「痛みを伴う改革」を訴え、「全国民に訴う」というビラを全国1,300万戸に配布した。内容は「・・・我々は国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのいで、後日の大いなる発展をとげなければなりません」と言うものであった。実にこの首相は小泉首相と酷似している。そして国民から熱狂的に迎えられたと言う点でも両者は共通している。昔から日本ではバンバン金を使う者より「緊縮・節約」を訴え、「清貧」なイメージの指導者の方が、少なくとも当初は支持を集めるのである。最近、公共事業に反対する候補者がどんどん選挙に勝った。これもこのような日本人の心情を理解すれば納得できる。


しかし不況下でこのような逆噴射的な経済運営を行ったため、経済はさらに落込み、恐慌状態になった。当り前の話である。浜口・井上コンビは財政政策だけでなく、為替政策でも大きな間違いを犯した。「金輸出の解禁」である。

ここで為替制度をちょっと説明する。為替を変動させておけば、総合収支尻は、為替の変動によって自動的に調整される。ところが為替を固定させておくと、総合収支の決済尻をなにかで埋め合わせる必要がある。輸出が好調で総合収支が黒字の場合には問題がないが、反対に赤字の場合には国際的に価値が認められている「金」などで決済することになる。つまり「金輸出の解禁」は、変動相場制から固定相場制、そして金本位制への移行を意味する。

さらに浜口・井上コンビは固定相場に復帰する際のレートを日本の実力以上に設定した。実勢より一割も円高の水準で固定相場に復帰したのである。これは単純に以前の固定相場の時のレートを採用したからである。この二人は、蔵相や日銀総裁を経験した経済のプロと思われていた人物である。しかし頭が固い(悪い)のである。

浜口・井上コンビの狙いは、構造改革で競争力を高め、輸出を増やして、不況から脱することである。しかし設定した固定為替レートは高すぎ、逆に輸入が増えた。また貿易業者は、輸入代金を市場から外貨を調達して払うのではなく、高い円で金を買い、これを送って決済した。金はどんどん輸出され、日銀の金の保有量が減った。金本位制のもとで金の保有が減ったため、政府は財政支出を減らす必要に迫られた。これによって経済はさらに落込んだ。この結果、財政支出を削っているにもかかわらず、財政はさらに悪化したのである。

さらに29年のニュヨーク株式相場の崩壊から始まった世界恐慌の影響も日本に及んで来た。日本では街に失業者が溢れ、大幅な賃金カットが行われ、労働争議が頻発した。特に農村は、農産物の大幅な下落によって大打撃を受け、「おしん」のような娘の身売り話も増えた。

このため農村から離れる者が増えた。しかし一方、逆に街で働いていた人々が失業して、どんどん農村に帰って来た。彼等は元々農家の次男・三男達であり、帰農者と呼ばれた。帰農者は明らかに失業者である。しかし井上蔵相は「帰農者は失業者ではない」と主張している。元々彼は「失業はたいした問題ではない」と言う認識の持主である。そして失脚後の32年2月に彼は暗殺された。今日の日本政府も、失業者のほとんどは「ミスマッチ」と言っている。本当によく似ているのである。


歴史学者のマルクス主義史観


30年の5月、浜口首相は、ロンドン軍縮会議・五カ国条約の批准に不満を持った分子に襲撃された。次の首相の若槻礼次郎首相も構造改革派であった。したがって日本経済はどん底状態になった。そしてついに31年12月に政友会に政権交代が行われ、犬養毅内閣が発足した。犬養は、以前首相も経験したことのある高橋是清に大蔵大臣就任を懇請した。

高橋は矢継ぎ早に、デフレ対策を行った。まず「金輸出の解禁」を止め、さらに平価の切下げを行った。最終的には約4割の円安になった。そして積極財政に転換し、その財源を国債で賄った。さらにこの国債を日銀に引受けさせることによって金利の上昇を抑えた。実に巧みな経済運営である。

そこでまず当時の経済成長率の推移を示す。


昭和恐慌時の実質経済成長率(%)


経済成長率


1927
3.4

1928
6.5

1929
0.5

1930
1.1

1931
0.4

1932
4.4

1933
11.4

1934
8.7


32年からの経済成長は実にすばらしい。実際、列強各国はこの時分まだ恐慌のまっただ中であり、日本だけが恐慌からの脱出に成功したのである。

1932年に国債の日銀を引受けを始めたが、物価の上昇は、年率3〜4%にとどまっている。1936年までに日銀券の発行量は40%増えたが、工業生産高は2.3倍に拡大した。そしてこの間不良債権の処理も進んだのである。

今日の日本政府の経済運営はミスの連続であるが、昔は賢明な政治家もいたものである。高橋是清は日本人の誇りである。なにしろケインズの一般理論が世の中に出たのが36年の12月であり、実にその5年前に既にケインズ理論を実践したのが高橋是清である。今日でこそカルトまがいの経済学者がよくノーベル経済学賞を受賞しているが、もっと昔からノーベル経済学賞があったら、高橋是清こそこの賞にふさわしい人物である。筆者は、昔から、くだらない経済学者より、実際に経済界で活躍し、人々に貢献した政治家や実業家にこそノーベル経済学賞は与えられるべきと考えている。


しかし高橋是清の業績は、今日あまり人々に知られていないだけでなく、時には全く違う解釈がなされている。今週号を作成するに当り何冊かの本を参考にした。特に歴史学者の評価が問題である。

学者の中には高橋是清の政策を軍需インフレ政策と指摘している者もいる。たしかに軍事費は増大したが、これも当時の国際的な緊張の高まりを考えると、簡単には否定できない。また世界恐慌の脱出のために軍事費を増やしたことは列強各国に共通している。しかし本格的に軍需支出が増えだしたのは37年以降である。むしろ経済があまりにも順調に回復したので、インフレの徴候が現れ、是清は引締め政策に転換し、軍事予算を削ろうとした。このため軍部の反発をかい36年の2.26事件で殺されたのである。つまり軍事費が本当に増えだしたのは、高橋是清の死後である。

高橋是清は、軍事予算を増やすと同時に地方での公共事業費を増やしている。学者は、これは土木業者だけが潤ったと、いつも通りのパターンの批難をする。しかしこれによって失業が減ったのは事実である。少なくとも高橋財政政策によって、有効需要が増え、設備投資も増え、都市部の勤労者は潤った。年に10%の実質成長率を達成できれば、かなりの経済問題が解決の方向に向かうのは当然である。

歴史学者は、高橋是清の政策は、インフレの目を残す政策と言っている。たしかに急速に景気が回復したため、イフンレの徴候が現れた。そこで高橋是清は一転、金融引締めに動いた。日銀が引受けた国債の90%を市中に売却し、余剰資金の回収を行ったのである。実に柔軟な経済運営である。たしかに日銀の国債引受けによる資金調達と言う手段は、軍備拡張を可能にし、インフレの種なったのは事実である。しかし先ほど申したように、軍需予算が急増したのは、高橋是清が暗殺された以降の話である。

歴史学者の中には、農村の経済が上向かなかったことを指摘する者もいる。しかし当時、農村では凶作が続いていたのであり、これを高橋是清の責任にすることはできない。どうも歴史学者は、高橋是清の政策を過少評価したり、間違った印象を与えるような記述を行いたがる。これには何か変な意図を感じるのである。

昔から歴史学者にはマルクス主義者や、これに強い影響を受けた者が多い。つまり彼等は、資本主義経済は必然的に恐慌に陥ると言う確固たる歴史観を持っている。したがってこれに対する是清が行った有効な政策に対しては、「将来にインフレの元になった」、「ダンピング輸出」そして「軍事国家への道をつけた」と言った具合にケチをつけるのである。日本の教科書も彼等の影響を受けており、高橋是清の奇跡的な偉業に対する記述がほとんどない。

とにかく日本教科書では、デフレ時にインフレ的手法を用いて経済を立直した為政者の評価が低い。逆に「わいろ」が横行したといった記述がなされたり、流通貨幣増大策を「悪貨は良貨を駆逐する」といった表現で否定する。逆にデフレ政策を押進めるような「清貧の思想」を持った政治家を持上げる傾向が強い。歴史学者は、経済がデフレに陥り、最後に民衆が立上がり、革命が起ることを期待しているのであろう。これも長い間、日本の歴史学者がマルクス主義の影響下にあったからと筆者は見ている。



来週号は、さらに時代を遡り、今週号でもちょっと触れた明治政府の政府紙幣発行を取上げる。

日本経済復活の会の活動では、小野さんが「財政政策を行ったほうが、財政再建に貢献し、失業が減る」というシミレーション結果を各方面で説明している。筆者も時々同席している。聞いている人の反応はとても良い。これまで財政再建には緊縮財政を行うのが当り前という空気が強かったが、これが間違いだということを証明したのである。

大きなデフレギャップが存在するデフレ下では、流通貨幣増大を伴う財政政策が常識の政策である。理論だけでなく、シミレーションでも確認できたのである。さらに今週号で取り上げたように、歴史的にもデフレ克服には、円安・財政政策、そして低金利政策が有効であることが証明されている。


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経済コラムマガジン 03/3/10(第288号)
政府貨幣の理解


由利公正と政府貨幣

先週号で述べた通り、明治の維新政府には、政権樹立当時、財源がなかった。そこで新政府の財政を担当していた由利公正(五箇条の御誓文の起草者)が中心となって、「太政官札」と言うお札を発行した。これは戌辰戦争の戦費にもなった。新政府は、この「太政官札」や「民部省札」を印刷し、これを歳出に充てていた。特に慶応3年12月から明治2年9月までの2年弱の間、なんと歳出の93.6%がこの政府紙幣の発行収入によるものであった。

この政府紙幣は、不兌換紙幣で、金との交換の保証はなかった。明治政府の信用で流通したのである。つまり今日の通貨と同じである。しかしこのような政府紙幣がどんどん発行されても、インフレは起らなかった。維新当時、社会の混乱もあり、経済は低迷していた。つまりデフレ・ギャップが存在していたのである。ちなみに次の表は明治初期の物価指数の推移である。


東京と大阪の物価指数(明治2年を100)


東 京 大 阪


明治1年
82 71

明治2年
100 100

明治3年
104 89

明治4年
103 66

明治5年
113 55

明治6年
114 59

むしろ政府貨幣が発行されたため、明治の初期には経済は活発化した。これも当時、世の中にデフレ・ギャップ、つまり生産余力が存在していたからである。

今日、明治維新の立て役者は西郷隆盛や木戸孝允達ということになっている。しかし筆者は、一番の功労者は由利公正だと思う。もし明治新政府が、財源を政府紙幣でなく、初めから徴税に求めていたなら、人々から反感を買い、政治の運営も難しかったと思われる。さらに当時のデフレ状態を考えれば、もし新政府の運営費を無理矢理税金で賄っておれば、デフレが一層悪化していたと考えられる。

明治政府は、世の中が落着くにつれ、税制を整備して行った。その後、西南の役の戦費が嵩んだため、政府紙幣の発行量が増え、一時インフレになった。そこで増税などによって政府紙幣を回収し、このインフレを抑えた。つまり生産力に余力がある場合には、政府紙幣の発行は優れた政策である。しかし需要大きくなり過ぎて、これが生産力をオーバーする時には、政府紙幣の発行を控えめにするか、もしくは回収する必要がある。常識と言えば常識である。

世の中には「裏付けのない通貨は発行してはならない」といった意見の人が結構いる。これは金本位制、あるいは兌換紙幣の発行の概念である。しかし筆者の知る限りでは、世界で今日兌換紙幣を発行している国は思い当たらない。金本位制では経済がうまく行かないから、管理通貨制度を採用しているのである。また「生産物があって始めて通貨は発行できる」と考える人もいる。これはマルクス経済学の労働価値説のまがいもののような考えである。このような考えでは、明治新政府は潰れていたであろう。

このように個人の道徳と、国の通貨制度を混同している人が多い。おそらく国の通貨発行を犯罪者が行うニセ札造りと同等と考えているのである。企業倒産が多発し、失業が大きいデフレ経済においては、通貨の流通量を増やすことが常識であり、反対にインフレギャップが発生するようなら、通貨を回収すれば良いのである。「裏付けのない通貨は発行してはならない」という人は、自分が今日の管理通貨制度を否定していることに気が付いていないだけである。つまりこのようなことを言って満足している人々は、自分の言っていることの意味がまるで分っていないのである。


惜しかった話

セイニア−リッジ(seigniorage)権限(政府の貨幣発行特権)についてもう少し説明する。発音は「シーニィョアーリッジ」という方が近いようだ。これは封建時代の領主の権利を意味する。つまり昔の領主はやりたい放題で、お金も自分で造り、これを流通させていたのである。たしかに貨幣を自由に造ることができるなんて、こんなに良いことはない。しかし領主の儲を別にすれば、人々がこれの価値を認め、日々の生活や取引にこの貨幣を使うなら、金の裏付けがなくとも問題はない。さらに領主が、領民を他国からの侵略から守ってやったり、領内の治安を維持したりしているなら、儲はこのコストに見合うという考えもある。

日本でも昔から藩札が発行されており、これもセイニア−リッジの一つである。明治以降の近代社会になって「太政官札」などの政府紙幣が発行されている。ちなみに日銀が創立したのは、明治15年であり、日銀が兌換紙幣を発行したのが明治18年である。また民間銀行である渋沢栄一の第一銀行が兌換紙幣を発行したのは、日銀より早く、明治6年であった。つまり明治時代は、兌換紙幣より政府紙幣の発行の方が早かったのである。

もちろん今日の政府も政府貨幣を発行することができる。「政府貨幣」の発行は、独立国家固有の権限である。日本現行法では「通貨の単位および貨幣の発行等に関する法律」(昭和62年6月1日、法律第四二号)で定められている。同法の第四条には「貨幣の製造および発行の権能は、政府に属する」と明記されている。また同法によれば「貨幣」の素材や形式などは政令で定めることになっているのである。

今日使用されている、一円玉、100円玉などの補助貨幣もこの法律に基づいて発行されている。記念コインの発行も同様である。また「貨幣」の素材や形式などは政令で定めることになっているから、コインの形ではなく、紙幣でも一向にかまわないわけである。

さらに同法には、政府貨幣発行に関しては、発行額の制限や担保の規定はない。発行は政府の自由である。ちなみに政府貨幣の額面から製造コストを差引いた額が、貨幣鋳造益となり、政府の収入になっている。


筆者達は、政府貨幣の発行政策、あるいはそれに類する政策を実現させるため、一年以上、勉強会や色々な活動を行って来た。半年前までは、もしこのような政策が実現されるとしても、相当先の話と覚悟していた。しかし最近になって、世間も徐々にこれに注目するようになった。亀井前政調会長も「政府紙幣」に言及したりしている(本人は政府紙幣ではなく金利ゼロの国債を発行し、これの日銀引受と言っている)。

しかし最近、政府貨幣の発行について財務大臣に質問を行った国会議員が現れた。自由党の西村真悟議員である。予算委員会の分科会で塩川大臣に政府貨幣を発行することを迫っている。さらに日本経済復活の会の小野さんのシミュレーション結果を紹介し、積極的な財政政策に転換した方が財政再建に良いことを主張している。そして今日のような緊縮財政を続けることが、却って財政赤字を増やすことになることを指摘している。

この西村議員と塩川財務大臣のやり取りがインターネットで聞くことができる。

これが大変面白く聞いてみる価値がある。ただちょっと長いので、ちょうど半分くらいの所から聞くことをお薦めする。

しかしパソコン環境によっては、このファイルを読めない人もいる。そこで簡単にやり取りの山場だけを紹介しておくことにする。西村議員の質問に対して、財務大臣は自らの戦前の経験から「何種類もの通貨を使うことが面倒で混乱した。この経験から政府紙幣を新たに発行するのは混乱の元と思われるので、発行は考えていない」と答えていた。そこで西村議員は「政府貨幣を発行し、これを日銀に売却するといった方法がある」とさらに追求したが、話はそこまでであった。

もしもう少し時間に余裕が有り、議員が、「政府貨幣の発行権を日銀に売却し、日銀振出しの小切手を受取れば、何も新紙幣を発行する必要がないこと」を説明し、財務大臣がこのことを理解してくれたなら局面が変わっていたかもしれない。戦前のような種類の違った紙幣が流通させる必要はなく、日常生活には全く影響はないことを解ってもらうのである。またこの方法なら自動販売機や券売機の読取り装置の修正は必要ない。もし塩川大臣がこのことを理解したなら、答弁の様子から案外「それなら良いかもしれない」と答えていたかもしれないのである。質議時間が限られていたといえ、実に「惜しい話」である。

たしかに予算委員会の分科会にはめったにマスコミが取材にこないので、この質議は世間にほとんど知られていない。しかし分科会と言え、政府貨幣(紙幣)について国会で質議が行われたことは画期的なことである。ちゃんと議事録もある。

ところで小野さんのシミュレーションは各方面から注目を集めており、小野さんはかなりの与野党の国会議員にも説明を行っている。筆者も何回かこれらに同席して、たまには議員さんの質問に答えることがある。特に自由党の西村真悟議員は熱心で、2回は説明会に出席しておられるはずである。ただ西村議員のシミュレーションの引用が、最近の小野さんの説明とちょっと異なる。最初の頃は、小野さんは、議員が引用したように減税だけのケースを中心にしたシミュレーション結果で説明していたが、今は主に財政支出と減税を組合わせたケースを用いている。



来週号はさらに時代を遡って、江戸時代のデフレと貨幣発行をテーマにするつもりであったが、諸般の事情でこれはもう少し延期する。来週号のテーマは今のところ未定である。今週号は丹羽春喜大阪学院大学教授の著書を参考にさせてもらった部分が多かった。教授からは、さらに別の論文を送ってもらう予定なので、この時代の経済はもう一度取上げるつもりである。


最近の株価、為替さらに国債利回りの動きが奇妙である。筆者がそう感じたのは、2月24日頃からである。ちょうど日銀の総裁・副総裁の人事が発表されてからである。国債利回りを別にして、それまでは株価・為替にはかなり力強い介入があって値を保っていた。しかし24日を境に、介入は行われているようであるが、値を維持しようと言う意志が感じられない。特に株のPKOは目立たなくなっている。日銀人事も決まり、小泉政権にはもう用はないようにも感じられる。

銀行決算における持株の評価は、三菱が月末日で、他は月中の日々の終値の平均を使っている。つまりほとんどの銀行の持株の評価は既に始まっているのである。ここで各銀行が3月の株価の推移をどれくらいに想定して、決算対策を行っているのかがポイントとなる。増資額もそれを前提にしていると思われる。

竹中大臣も「ETFを買え」と言っていたくらいだから、誰もが3月の株価はかなり戻すと思っていたはずである。しかしこの竹中発言が問題になり、さらに日興ソロモンの不祥事で、これも怪しくなった。したがって今後の株価動向によっては、株価自身や国債利回りにも影響が考えられる。もちろん銀行貸出しの回収にも影響が発生すると考えるべきである。

銀行の増資や外貨建て債権・債務の減少、さらに昨年末比で為替は円高になっており(外貨建て債権・債務がさらに圧縮される)、バランスシート上では、自己資本比率を十分維持できるものと当初考えていた。しかしどうも事情が変わって来たかもしれない。いずれにしても10日からの株価動向は注目される。
http://www.adpweb.com/eco/eco288.html





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経済コラムマガジン 03/4/21(第294号)

ノーベル経済学賞受賞のスティグリッツ教授が、日経新聞の招きで来日し、シンポジウムで意見を述べている。デフレからの脱出には、円安や消費税減税に加え、政府紙幣(貨幣)発行による積極財政を主張している。ほとんど筆者達と同じ主張である。一気に政府紙幣(貨幣)発行が注目を集めている。本誌ではかなり以前から取上げていたが、日本では政府紙幣(貨幣)発行はほとんど知られていない政策である。世の中も変わったものである。

まだ政府紙幣(貨幣)については理解が十分になされていない。日銀のある理事は「日銀券が政府紙幣に置き換わるだけであり、問題を解決する方策とは思えない」と反論していた。これは全くの誤解である。政府紙幣を発行するとは、これを使って財政政策を行うことを意味する。つまり所得を発生させるようなマネーサプライを増やすことを意味しているのである。政府紙幣を使って銀行が持っている国債を政府が買上げるような政策は想定していない。

政府紙幣に対して、岩田一正日銀副総裁は「国債の日銀引受け同様に、日銀の独立性を脅かす」と反論している。これに対してスティグリッツ教授は「世界的に中央銀行の独立性があれば経済が回復するとの証拠はない」と反論している。さらに政府紙幣の発行量に制限を設ければ、問題はないといっている。全くその通りである。

だいたい内閣府出身の岩田一正日銀副総裁は「インフレ目標実現のため、日銀にETFやREITを買わせろ」と言っていた人物である。そのような人物が急に「日銀の独立性」といっているのであるから驚く。また中央銀行による国債買入れの方も、今週号で説明したように米国などが大々的にやって来たように、経済状況によって行われるむしろオーソドックスな政策である。日銀がETFやREITを買う方が、よほど異常な政策である(既に誰か関係者がETFを高値で買っているのであろうか)。筆者の印象では、この岩田副総裁自身が日銀でも浮いている存在のような気がする。

財務省もスティグリッツ教授を招いて講演会を行っている。これがどういう意味を持つのか、ゴールデンウィーク中考えてみるのも良いかもしれない。「感」の鈍いエコノミスト、政治家、官僚は世の中の流れがひょっとしたら大きく変わろうとしていることに、全く気がついていないのかもしれない。

政府紙幣(貨幣)に関して、本誌は以前、政府貨幣発行権を日銀に売却し、日銀振出しの小切手を受取る方法を説明した。これに関して知人が財務省と日銀に照会していた。財務省からの回答は「政府が政府紙幣(貨幣)を作成し、それを日銀に持ってゆき、日銀の口座である国庫(政府預金口座)に入金してもらえば、政府貨幣発行となる。」『「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」(昭和62年法律第42条)第4条3項』であった。どうもやはり政府紙幣(貨幣)の現物をまず作成(金額の制限はない)する必要があるみたいである。

スティグリッツ教授の主張通り、政府貨幣を発行し、これを財源に積極財政を行えば、日本もデフレ経済から脱却できる。銀行の不良債権も処理が簡単になり、失業も減る。政府紙幣は借金ではなく、もちろん財政は急速に良くなる。困るのはこれまで「規制緩和」や「構造改革」で日本経済が良くなると大嘘をついてきた連中である。これらの主張が虚言・妄言ということが証明されるのである。したがってその代表格である内閣府出身の岩田一正日銀副総裁などは、スティグリッツ教授の主張を否定するのに必死である。
http://www.adpweb.com/eco/eco294.html


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政府紙幣発行政策の誤解 経済コラムマガジン 03/5/5(第295号)

政府紙幣の意味

4月27日、日曜の日経新聞に「政府紙幣」に関するコラムが掲載されていた。執筆者は編集委員の滝田洋一氏である。タイトルは「太政官札の轍踏むな」である。この2週間ほど前にコロンビア大学のスティグリッツ教授が日経の招きで来日し、シンポジウムで意見を述べたり、講演を行った。

教授は、デフレに陥っている日本経済に処方箋をいくつか提案している。「円安誘導」「銀行システムの立直し」と言ったありきたりの政策に加え、なんと「プリンティングマネー(政府紙幣)の発行」をスティグリッツ教授は提案した。これは各方面に衝撃を与えており、今日波紋がひろがりつつある。これはまさに筆者達が以前から主張していた政策である。

ところが日本には、政府貨幣(紙幣)に関する文献は極めて少ない。一緒に政策を主張している小野盛司氏のところにも、あるテレビ局から、氏の著書である「政府貨幣発行で日本経済が蘇る」を至急送ってくれるよう依頼がきているほどである。やはりスティグリッツ発言の影響は大きかったのである。「政府紙幣とは一体何だ」というのが世間の印象である。お札といえば日銀券と思っている人がほとんどである。経済学者やエコノミストも日銀券と政府貨幣(紙幣)の区別がつかないようである。

この政府紙幣発行に対して色々の反論や解説がなされている。しかしそれらのほとんどが間違っているか、的外れである。このような反論を行っている人物達が、日銀の理事だったり、リチャード・クー氏なのだから、こちらも驚く。それほど日本においては政府貨幣(紙幣)に対する知識や情報が乏しいのである。


まず政府紙幣と日銀券の違いを簡単に説明しておく。日銀が発行する日銀券は日銀の債務勘定に計上される。つまり日銀の借金である。もちろん今日の日銀券は兌換紙幣ではないので、これを日銀に持っていっても金に換えてくれない。このような不換紙幣である日銀券が流通しているのも、日銀の信用があるからである。しかし日銀の信用と言っても、実際はバックにいる国家の信用である。

一方、政府貨幣(紙幣)も国家の信用で発行するお札である。政府貨幣の材質は政令で定めることになっており、金属でも紙でも良い。紙の場合が政府紙幣ということになる。また今日流通している10円玉や100円玉といったコインも政府貨幣である。つまり日本においては政府貨幣(紙幣)は、既に立派に流通しているのである。ただ日銀券より政府貨幣の方が、流通している金額がずっと小さいだけである。もちろん今日の法律でも高額の政府紙幣を発行することは可能である。要は政府の決断一つにかかっている。


日銀券と政府紙幣の違いは、日銀券が日銀の債務に計上されるのに対して、政府紙幣は国の借金にならないことである。今日のコインにもいえることであるが、額面からコインの製造経費を差引いた額が国の収入になる。たとえば500円硬貨を製造するのに50円かかった場合には、差額の450円が貨幣鋳造益として政府の収入に計上される。要するに500円硬貨が世の中で「500円玉」として認められれば良いのである。

スティグリッツ教授の主張は「この政府貨幣(紙幣)の発行をもっと大規模に行え」ということである。さらに重要なことはこの貨幣鋳造益や紙幣造幣益を『財政政策』に使えと提案しているのである。今日、国債の発行が巨額になり、政府は「30兆円枠」に見られるように、財政支出を削ろうと四苦八苦している。しかしこれによってさらに日本のデフレは深刻になっている。そこで教授は、国の借金を増やさなくとも良い政府紙幣を発行し、その紙幣造幣益を使って、減税や公共投資を行えば良いと提案しているのである。



幼稚な反論

しかしこれらの政府貨幣(紙幣)発行への反対論があまりにも幼稚過ぎる。一つはお札が、日銀券と政府紙幣ということになれば、世の中が混乱するというものである。しかし政府が政府紙幣(貨幣)を作成し、それを日銀に持ってゆき、日銀にある国庫(政府預金口座)に入金してもらえば、政府貨幣発行となる(「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」(昭和62年法律第42条)第4条3項)。財政支出を行う時には日銀券を使うのである。この方法を用いれば、世間に流通するお札は日銀券だけで済む。また日銀には政府紙幣(貨幣)という資産が計上されることになる。

しかしこれに対して、これは結果的に日銀券の増発に繋がるという批難が考えられる(ところが不思議なことに、心配されて当り前と思われるこのようなことが全く指摘されていないのである)。まず日銀券の増発、つまり通貨の増発はインフレの原因になる。しかしそこがまさにスティグリッツ教授が主張したいところである。今日の日本経済のようにデフレに陥った場合には、通貨増発といったインフレ政策が必要なのである。

スティグリッツ教授も、無闇やたらに政府紙幣を発行しろとは言っていないはずである。大きなデフレ・ギャップが存在する日本では、相当の額の政府紙幣を発行できると言っているだけだ。またこの政策によって、もし物価上昇率が限度額を越えるようならば、政府紙幣の発行をセーブすれば良いのである。もっとも経済がそのような状態になったことこそが、日本経済が相当上向いているを示す。つまり問題となっているデフレが克服されることを意味するのである。

もちろんこの場合には、過度の物価上昇を抑制するためインフレターゲット政策を行うことも一案である。インフレ目標政策は、英国などでうまく行っているのであるから、日本ではうまく行かないと考えることはない。むしろ物価が上昇するような経済活性策がないのに、インフレ目標政策と言っている今日の政府の方がおかしい。彼等は念力で物価を上げるというのか。また物価だけが上がれば良いという考えも根本的に間違っている。物価上昇は、遊休設備が稼動し、失業が解決し、設備投資が生まれる結果として起るべきである。むしろ小泉政権に見られるように、単に物価が上がれば良いという感覚が異常である。


もう一つの大きな誤解は、政府紙幣が発行されても、日銀券が政府紙幣に置き換わるだけであり、経済に何の影響を与えないという意見である。たしかに公務員の給料支払いを日銀券ではなく政府紙幣で行ったり、国債の買いオペを政府紙幣で行えば、そのようなことになる。もっともその分だけ国の借金は増えないが。しかしそのようなばかげたことを主張するため、わざわざスティグリッツ教授が来日し、政府紙幣に関した発言を行うはずがない。

当然、今日行われている経済政策にプラスして、政府紙幣を発行による財政政策を行えと言っているのである。今日、日本には巨額のマネーサプライ残高が存在している。しかしその大半は凍り付いている。金が動かないのである。巨額のマネーサプライが存在するのに、人によっては金不足になっている。経済がこのような状態になれば、政府が財政政策を行う他はない。財政政策によって、所得の発生を伴うマネーサプライを増やすことが肝腎である。これこそが教授の言いたいことである。

ところで政府紙幣を造幣し、それを日銀に入金し、それを財政政策に使うとなれば、先ほど述べたように、当然日銀券を増発することになる。場合によっては、日銀券の大増発である。たしかに以前ならこれは問題になった。しかし平成10年4月から施行されている改正日銀法では、旧法で課されていた日銀券発行に対する保証条件がすべて撤廃された。つまり日銀は、自由かつ無制限に日銀券を発行できるようになっているのである。まるで今日の状況を予見していたような法改正がなされていたのである。


しかし筆者は、スティグリッツ教授の提案に対して、経済の専門家からこのような初歩的で的外れの疑念や批難が続くこと自体を危惧する。このような状況では、いきなり政府紙幣発行はちょっと無理かもしれない。このように混乱している議論に対して、黒田東彦内閣官房参与(前財務省財務官)が「日銀がもっと大量に国債を購入することが現実的」と発言している。これは穏当な意見であり、筆者もこれに同感せざるを得ない。ちなみに黒田前財務省財務官は、以前からリフレ(穏やかなインフレ)政策を主張している。

政府紙幣の発行も、日銀による国債購入も実質的に国の借金にならない。そこで政府紙幣への理解が進まないようなら、まず日銀の国債購入によって積極財政政策のための資金を賄う他はない。ただ日銀による国債購入には難点がある。日銀は国債購入の限度を日銀券の発行額と一応定めているのである。これがネックとなる可能性がある。したがって日銀がどうしても限度額にたいして柔軟な姿勢を示せないなら、最後の手段として政府貨幣(紙幣)のオプションは取って置くべきである。




前段が長過ぎ、本題に入れなかった。来週号は滝田洋一氏の「太政官札の轍踏むな」へ徹底的な反論を行う。

岩田一正日銀副総裁の「日銀の独立性うんぬん」の意見は論外にして、それにしても政府紙幣に対して、経済の専門家と言われている人々の認識が低すぎる。おそらくスティグリッツ教授もあきれはてて米国に帰ったと思われる。今日の日本の経済がどのような状況にあり、このままだとどこまで落込むのか、スティグリッツ教授に食って掛かっていた人々には全く認識がないと言える。教授は真摯に日本のことを考えて、アイディアを提供しているのである。

教授も「政府紙幣発行」なんてとてもオーソドックスな政策とは考えていない(実際、教授も博士号を剥奪されるかもしれないと冗談を言っているくらい)。しかしあえてそのような政策が必要な段階まで、日本経済は窮地に追込まれている。教授に反論していた人々は、政府紙幣に関してほとんど知識がないなら、もっと謙虚になるべきである。教授は日本人に対して「単に物づくりに異常に長けているだけであり、こと経済理論や経済政策に関しては小学生」という印象を持ったはずである。経済の混迷が10年以上続いているのに、いまだ経済政策が迷走しているのを見ていると、日本はどうしようもない。

14日のシンポジウムの様子が30日の日経に掲載されていた。しかし議論は錯綜しており、日本のエコノミストはほとんどスティグリッツ教授の言っていることを理解していない。せっかくフィッシャー理論を持出して、資産デフレの悪影響に言及しているのに、これに対する反応が全くない。日本のエコノミストはあいかわらず「規制緩和」「生産性の向上」「金融政策の浸透」と言った、実現性がないだけでなく、効果もはっきりしない(効果の測定さえ困難)な政策を訴えている。教授が指摘しているように、まず必要な政策は大胆な需要政策である。これによって経済が活性化し、うまく資産デフレが止められるかがポイントである。

5月4日のサンデープロジェクトは、日本のデフレがメインテーマであった。それにしても経済学者・エコノミストそして政治家達の意見は実に悲惨であった。それにしても「徹底した規制緩和」「予算の組替えで経済が回復する」「銀行の経営者をくびにしろ」はいい加減に止めてもらいたい。何もアイディアがないのなら、テレビ出演を断わるべきだ。特に「銀行の経営者をくびにしろ」は出来の悪い若手の銀行員がよく言っていることである。彼等は上がくびになれば、自分達の出世が早くなると考えているだけである。
http://www.adpweb.com/eco/eco295.html




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経済コラムマガジン 03/5/12(第296号)滝田洋一氏への反論


明治の政府紙幣

先週号に続き、4月27日日経新聞の滝田洋一編集委員のコラム「太政官札の轍を踏むな」を取り上げる。ところで不思議なことにどういう訳か、経済が不調になると、むしろデフレを加速させるような「おろか者」の主張が支持を受けるのである。たとえば戦前の昭和恐慌時、浜口・井上コンビのデフレ政策は、当初、大衆の大歓迎を受けたのである。最近では、橋本政権、小泉政権の「改革」という名のデフレ政策である。どうしても滝田氏の論調には、これらに通じるものがある。


最初に滝田氏のコラムで問題になるいくつかの箇所を指摘する。同時にこれらが滝田氏のコラムのポイントでもある。このコラムを読んでいない読者もいると想われるので、これらを列記する。「明治元年(1868年)から12年(1879年)まで明治政府が発行した太政官札」「お札といえど庶民からそっぽを向かれると紙切れになる」「政府と離れた中央銀行(日銀)をつくってお札の発行を任せることになったのもそうした苦労の産物」などである。つまり滝田氏のコラムの狙いは、先週号で触れたスティグリッツ教授の「政府紙幣発行政策」の提案を否定することと思われる。

まず太政官札(金札・きんさつ)が発行されたのは、明治元年と明治2年だけである。発行額の合計は4,800万両(明治4年より両という呼称は円に変更。つまり4,800万円)であった。さらに民部省札が69年から70年に750万両発行されている。これは太政官札が高額紙幣だったので、小額紙幣として発行された。当初、民部省札は太政官札との交換を予定していたが、財政難から結果的に政府紙幣の追加発行となった。

さらに明治新政府は、71,72年に大蔵省兌換証券680万両、72年開拓使兌換証券250万両を発行した。これらは二分金との兌換を約束された兌換証券であった。しかしこれは建前だけであり、事実上不換紙幣であり、現実には政府紙幣であった。

明治5年(1872年)から明治10年(1877年)の間に「新紙幣」と呼ばれる政府紙幣が1億4,679万円も発行されている。それまでの太政官札(金札)以下の政府紙幣の造作が急ごしらえで粗雑だったので、もう少し本格的な紙幣らしいものを発行したのである。これは当初、太政官札以下の政府紙幣や、当時まだ流通していた藩札との交換を目指して発行された。たしかに「新紙幣」の6割くらいは、これらに使われた。しかし残り4割は為替会社への貸付や西南の役の戦費に流用された。さらに明治14年(1881年)から明治18年(1885年)にかけて、改造紙幣と言う政府紙幣が6,440万円発行されている。これは紙幣贋造を防ぐため、印刷技術が進んでいたドイツのドンドルフ・ナウマン社に発注したものである。そして明治18年(1885年)に、初めて日銀から兌換紙幣が発行されたのである。


しかし明治初期の頃の各藩の藩札を別にして、紙幣を発行したのは政府だけではない。名前は国立銀行であるが、実体は民間銀行であったナンバー銀行も紙幣を発行した。渋沢栄一の第一銀行などである。当初、国立銀行には厳しい制限があり、発行できる紙幣も兌換紙幣だけであった。このため国立銀行は4行のみと、設立は足踏み状態であった。しかし明治9年(1876年)国立銀行条例が改正され、資本金の10分の8まで銀行券が発行できるようになった。当初、兌換紙幣発行を目的としたはずの国立銀行までが、不換紙幣を発行できるようになっていたのである。ちなみに明治15年(1882年)には143行もの国立銀行が存在していた。

このように当時は、政府だけでなく国立銀行までが不換紙幣を発行していた。しかし明治10(1877年)までは物価上昇は限定的であった。ちなみに次の表は明治初期の物価指数の推移である。


東京と大阪の物価指数((明治2年を100))

東 京 大 阪


明治1年
82 71

明治2年
100 100

明治3年
104 89

明治4年
103 66

明治5年
113 55

明治6年
114 59

明治7年
117 69

明治8年
120 66

明治9年
125 57

明治10年
112 60


これは明治の初期に大きなデフレ・ギャップが存在しており、不換紙幣の発行によって通貨が大量に発行されても、物価が上昇しなかったのである。むしろ通貨の大量流通によって明治初期の経済は活性化したと言えるのである。


兌換紙幣と不換紙幣

局面が変わったのは、明治10年の西南の役の頃からである。一説では、この戦争の戦費は4,156万円かかっている。明治5年から発行された政府紙幣の「新紙幣」の発行額は合計で1億4,679万円であり、この約20%の2,900万円が西南の役に使われている。つまり戦費の約70%を政府紙幣で賄ったことになる。たしかにこの戦費支出がインフレの一因となっている。ちなみに物価上昇率を表す金貨や銀貨に対する紙幣平均相場は、当時、次の表の通り推移している。なお数字は、金貨・銀貨それぞれ1円に対する紙幣の価格である。


紙幣年平均価格の推移

対金貨 対銀貨


明治9年
1.01 0.99

明治10年
1.04 1.03

明治11年
1.16 1.10

明治12年
1.34 1.21

明治13年
1.57 1.48

明治14年
1.84 1.70

明治15年
1.69 1.57

明治16年
1.39 1.26

明治17年
1.20 1.09

明治18年
1.21 1.06

この表を見ても明らかなように、明治10年の西南の役以降、物価が上昇し、段々紙幣の価値が下落している。ところでこれまで筆者は、この頃のインフレの原因を西南の役の戦費と説明して来た。しかしもっと調べてみると、どうもインフレの原因はこれだけではなさそうなのである。当時、明治政府は、旧体制の解体費用の捻出(旧武士階級への秩禄処分など)や殖産興業政策を行っており、どれだけでも資金が必要だったのである。特に大隈重信大蔵大臣などが、インフレ容認政策によって日本の資本主義化を急いだため、このような物価の騰貴を生んだ可能性が強い。

たしかにここまで急激に物価が上昇すると、金利も上昇し、むしろ産業の発展の障害となって来た。この頃には、デフレ・ギャップが消滅し、反対にインフレ・ギャップが発生していたのである。そこで大隈重信は一転、増税による公債・政府紙幣の償却によるインフレの抑制や、官営工場の払下による政府財政負担の軽減などを行った。しかし大隈重信は明治14年(1881年)の政変で失脚した。表の数値のようにインフレのピークも1881年であり、インフレ対策が効果を示し始めた矢先に大隈重信は失脚したのである。

大隈重信の次の大蔵大臣が松方政義である。松方は大隈重信の政策をさらに押進め、緊縮財政と紙幣整理を強引に行った。しかし世の中は、インフレから一転し、デフレとなった。これが有名な松方デフレである。しかし大隈重信時代に既にインフレ終息のメドはたっており、松方のデフレ政策は余計であったという意見がある。表を見る限り、筆者もおそらくその意見が正しいと考える。松方が何もしなくとも、なだらかにインフレは終息していたと思われるのである。インフレ・ギャップの方もそれほど大きくなかったのである。


滝田洋一氏のコラムの話に戻る。これまでの説明のように「明治元年(1868年)から12年(1879年)まで明治政府が発行した太政官札」は話にならないくらいデタラメである。太政官札が発行されたのは、明治元年と明治2年だけである。また少なくとも明治10年までは、物価は極めて安定的に推移している。

また「お札といえど庶民からそっぽを向かれると紙切れになる」も事実無根である。たしかに当初、明治維新政府に信頼はなく、太政官札も大量に発行したため、うまく流通せず、価値は正貨の40%くらいまでに一時的に暴落した。そこで新政府は、発行額を限定し、将来政府発行の新紙幣と交換することを宣言した。これは太政官札(金札・きんさつ)の造りがあまりにもちゃち過ぎたことが、ある程度影響していると思われる。

筆者も写真で現物を見たが、これは酷い。紙幣というより、何かの証文か札(ふだ)のように見える。おそらく日本で紙幣のことをお札(さつ)と呼ぶのも、このような前時代的な紙幣の影響と思われる。まん中に「金五両」「金十両」と書いてあり、判子が押してあるだけである。しかし明治政府の一連の措置によって、明治3年の中頃には、太政官札はちゃんと時価を回復している。つまり兌換紙幣でなく、極めてちゃちな太政官札でさえ、明治3年以降は立派に額面で流通していたのである。

たしかに明治5年(1872年)以降、太政官札などは「新紙幣」に少しずつ交換されていった。明治5年(1872年)から明治10年(1877年)の間に発行された「新紙幣」は体裁をある程度整えた紙幣であった。しかしこれも金と交換できる兌換紙幣ではなく、太政官札と同様に政府紙幣であり、不換紙幣であった。しかし当時はこの「新紙幣」だけでなく、太政官札も信頼され立派に流通していたのである。このこのことは上の表の数値を見ても一目瞭然である(ちなみに明治6年の数字は、それぞれ1.00と1.04と極めて紙幣価格は安定していた)。滝田氏の「庶民からそっぽを向かれ」とは一体何の話であろう。つまり滝田氏の話は全くの「大嘘」である。

さらに「政府と離れた中央銀行(日銀)をつくってお札の発行を任せることになったのもそうした苦労の産物」と言っているが、日銀が初めて兌換紙幣を発行したのは明治18年(1885年)と随分遅い。さらに日銀の兌換紙幣発行によって、政府紙幣や銀行券が過剰に償却され(兌換紙幣ということになれば金や銀の保有量の関係で、当然通貨の発行額は制限される)、逆に一段と松方デフレが進んだ。このため農産物価格は大幅に下落し、多くの自作農家が没落し、土地を手放すはめに陥ったのである。


滝田氏のコラムは、どうも完全に読者に誤解を与えることを意図しているようである。彼は、太政官札などの政府紙幣の発行が多過ぎてインフレが起ったが、日銀が兌換紙幣を発行し、これで政府紙幣を償却したからインフレは収まったというストーリを描きたかったのであろう(全く事実無根の)。しかしインフレの方は、日銀の兌換紙幣発行の4年も前に終息に向かっていたのである(上の紙幣年 平均価格の推移を見ても歴然としている)。このように表題の「太政官札の轍を踏むな」とは一体何のことであろうか。

どうも滝田氏のコラムを読む限り、兌換紙幣が正しく、不換紙幣は邪道という印象を受ける。政府紙幣は不換紙幣である。したがってスティグリッツ教授のアイディアのような不換紙幣である政府紙幣を発行したなら、インフレになるという印象を読者に与えることが目的で、このコラムを書いたと思われる。それにしても日経新聞は「日本は管理通貨制度をやめて金本位制に復帰すべき」と本気に主張するつもりなのだろうか。



スティグリッツ教授が来日し、政府紙幣の発言が行った。このため本誌も予定を変更し、先週・今週と政府貨幣(紙幣)を取り上げた。来週号は、そのまとめとして言い残したことを述べたい。さらに世間の最近の政府貨幣に対する動きについて取り上げたい。筆者も政府貨幣発行政策がすんなりと実行されるとは考えない。しかし急速に政府貨幣に対する関心が大きくなっていることは事実である。
http://www.adpweb.com/eco/eco296.html


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経済コラムマガジン 03/5/19(第297号)
政府紙幣発行の認知度


•明治の経済

先週号で、4月27日日経新聞の滝田洋一編集委員のコラム「太政官札の轍を踏むな」に反論を行った。氏の意見にどうしても反論する必要を感じたのは、このコラムが管理通貨制度の根幹に関わるからである。税制が整わず、支配地域からの年貢の徴収にも限界があり、財源に窮した明治維新政府は苦し紛れに太政官札を発行した。これは政府紙幣であり不換紙幣であった。しかし他に方法がなかったと言え、まだ兌換紙幣が主流であった世界で、一国の政府が不換紙幣を発行したことはある意味では画期的なことである。

つまり今日の世界では常識になっている不換紙幣を発行したのである。たしかに当初は、明治維新政府のこの太政官札も額面では流通しなかった。当初、打歩が打たれ交換比率は額面を下回っていた。先週号で述べたように、一時は額面の4割まで交換比率が下落したのである。しかし政府の打歩の禁止令や発行量を制限すると言った施策を行うことによって、太政官札は額面を回復する。

まさに管理通貨制度の元における通貨政策を、明治維新政府は実行していたのである。しかし太政官札が価値を回復したのは、一連の政策の効果だけではない。国民の明治維新政府への信頼感が増していたことが影響したと考える。つまり政府に信頼さえあれば、金との交換を保証しなくとも、発行する貨幣や紙幣が価値を持って流通するのである。このように明治維新政府は先進的な通貨制度を実行していたのである。

むしろ明治18年に日銀の兌換紙幣が正しいと主張する滝田洋一氏の方がおかしい。日本が金本位制に復帰した主な理由は、世界の諸国はまだ金本位制(日本は、銀本位制とのアジア諸国との関係で、この時代は銀本位制であった)が主流で、貿易の決済の際の為替変動が問題だったからである。特に明治14年までのインフレによる為替変動が貿易の障害になったことが影響していると思われる。国内の経済に関しては、全く金本位制にする必要がなかったのである。

しかしいつの世にも「裏付けのない通貨を発行してはいけない」と言った観念論者がいるものである。彼等は金や生産物の裏付けのない通貨を発行してはいけないと主張するのである。松方デフレの松方大蔵大臣もその典型的な一人であろう。つまりこのような人々は、個人の道徳と国の通貨制度と同一と見なしている。しかし物価の上昇や経済の活動レベルを勘案しながら、適正な通貨発行量を調整するのが国の本来の務めである。


明治10年以降、日本経済はインフレになった。たしかに西南の役や殖産振興のための財政支出が増え、通貨発行量が増えたことが影響している。しかしこの時代のインフレを過度に問題にすることはフェアーではない。まず当時の金融政策に関する調整技術の未熟さを考える必要がある。これを考慮せず、兌換紙幣ではなかったからインフレになったと決めつけることは、あまりにも短絡過ぎる。日銀が兌換紙幣を発行するようになって、日本は一層デフレが深刻になったことをむしろ問題にすべきである。

もう一つはこの時代の産業構造を考慮すべきである。今日と大きく違い、当時の日本は一次産品を中心にした経済である。GDPの大半が農産物などの一次産品、そして一次加工品である。ちなみに輸入品の第一位は綿製品であり、輸出品の第一位が生糸、第二位が茶であった。今日の産業構造とは全く違うのである。

一次産品の特徴は供給量の価格弾力性が極めて小さいことである。一次産品は供給量に融通性がないため(米は年に一回しか収穫できない)、需要がちょっと上回れば価格が高騰し、反対に需要が少し下回ると価格が大幅に下落する性質が強い。つまり価格の乱高下しやすいのが一次産品の特徴である。今日でもこの種の生産物の取引はあるが、GDPに占める比率は極めて小さくなっている。

たしかに過去には、日本の物価も原油価格の動向にいくらか影響を受けた時代もあった。今日では、原油代のGDPに占める比率は小さくなっており、原油代の物価に及ぼす影響は極めて小さくなっている。今日の消費物資は、電機製品や自動車に代表される組み立て加工品であり、これらは需給によって価格が乱高下することはない。さらにむしろこれらの製品は需要が増えるほど、中長期的には、逆に価格が低下する傾向が強い。またサービス消費のうち比重が大きくなっている通信費も同じ傾向にある。

滝田洋一氏は、スティグリッツ教授の提案である「政府紙幣」に対して、今日の経済には何の参考にならない初期の明治の頃のインフレをことさら引き合いに出し、根拠のない批判を行っているのである。しかも先週で説明したように、明治の政府紙幣についてもほとんど事実と違うことを言っている。反対に太政官札が明治初期の経済を活性化させたといった成果は、ほとんど無視しているのである。むしろデフレを加速させた日銀の兌換紙幣発行を評価しているのであるから驚く。


ところで滝田氏のコラムとは別に、最近、松方大蔵大臣のデフレ政策を評価する声があることに驚く。松方デフレによって食い詰めた人々が農村から都会に出たたため、これによって近代産業が発展したというのである。つまり松方デフレは構造改革だったと主張するのである。話は逆であろう。近代産業が発展し、都会に就業機会が増え、人々が都会に集まったと考えるべきである。また先週号で述べたように殖産振興したのは、松方ではなく、前の大蔵大臣の大隈重信たちであった。

このようないびつな見方をするのは、今日の改革派と呼ばれる人々である。小泉改革で建設・土木業が壊滅すれば、新しい産業が興ると言っているのと同じ発想である。そして経済政策の失敗を構造改革と呼んでいるのである(なんと浜口・井上コンビによって引き起された昭和恐慌も、彼等は構造改革と呼んでいる)。今日、小泉政権の経済政策は大失敗ということは、誰でも承知している。つまりこのようないびつな意見の持主は、小泉政権の発足時、経済改革とやらに手放しで賛成していた人々である。彼等の負け惜しみのセリフが「構造改革」である。

松方自身も、デフレ政策を構造改革なんて少しも考えていなかったはずである。たしかに明治10年以降、農産物が高くなり、自作農民は潤った。反対に都市の俸給者や旧武士階級は、米などの農産物が高くなり、生活に窮していた。そして松方は、日頃から「農民は贅沢をしており、けしからん」と言っていた。どうも松方には、農民に対して差別意識があったと思われるのである。それを松方の構造改革と呼ぶのはまさに詭弁である。



政府紙幣と政治家

5月15日、東京・六本木で第4回の「日本経済復活の会」が開催された。4名の与野党の政治家がゲストとして出席され、スピーチをしてもらった。特に民主党の副代表の岩國哲人氏には、政府紙幣発行による財政政策に関する講演を行ってもらった。岩國議員は元々「政府紙幣」発行に前向きな政治家である。先日も、岩國議員は塩川財務大臣に「政府紙幣」の発行を検討するように話しに行かれたと聞く。

自由党の西村真悟衆議院議員が予算委員会の分科会で、塩川財務大臣に政府貨幣(紙幣)の発行を迫ったことは、前に本誌でも取り上げた。しかしこれらの方々以外にもかなりの政府紙幣発行論者が日本の政治家の中にいる。もちろん自民党にも政府紙幣発行を主張している人々がいる。今回の「日本経済復活の会」に出席してもらった、静岡県選出の衆議院議員の斉藤斗志二(としつぐ)元防衛庁長官もその一人である。

政府紙幣発行政策は、これまで奇策の一つと見なされ、あまり人前で主張しにくい政策であった。しかしこれに賛成しておられる政治家は意外と多くいて、この方々はよく勉強をされている。今日のように経済政策がどんづまり状態では、このような政策が現実味を帯びるのはたしかである。


今日の「日本経済復活の会」は、政府貨幣に関する勉強会から発足した。しかし日本経済復活の会としては、政府貨幣(紙幣)に必ずしもこだわっていない。まず政府の政策が積極財政に転換する必要があることを主張し、なるべく広く賛同者を増やすことが第一と考えている。

たしかに世の中には、積極財政を唱えるエコノミストがいるが、彼等はその財源を明らかにしない。したがって彼等の主張する財政政策の規模は5兆円とか、せいぜい10兆円といった小規模なものである。しかし筆者達は、この程度の政策では効果が限られていることを承知している。我々はもっと大きな財政政策を、しかも何年も続けることが必要と訴えているのである。

我々が考えるこのための財源はまず国債の発行である。しかし国債の発行額が増えれば、金利が上昇する。したがってこの金利の上昇を一定の範囲に収めるには、日銀の国債の買増しが必要になる。都合の良いことに、日銀による国債の購入分は、実質的に国の借金にならない。

しかしこれには、日銀の協力が必要になり日銀の対応がどうしても問題になる。ところが日銀は国債の買入れに限度額を設けている。一応、日銀券の発行残高が国債の買入れ限度という内規が存在するのである。しかしこのことはあまり知られていない。日銀がこの限度額を柔軟に考えているのなら問題はない。しかしどうしても日銀が、国債の買入れの限度にこだわるというのなら話は別である。この場合には、最後の手段として政府貨幣(紙幣)という手段を留保しておく必要があると筆者は考える。

多くの人々が政府貨幣(紙幣)に賛同してくれることが理想であるが、どうしても政府貨幣(紙幣)に抵抗を示す人がいる。このような人々の多くは、国債の発行で賄えると考え、わざわざて政府貨幣(紙幣)を発行することもないと考えている。しかしこのような人々の中には、日銀の国債の買入れ限度という内規を知らない人がいる。いずれにしても、経済政策が転換するということになれば、財源の問題は避けて通れない。筆者は、その中で良い知恵が必ず生まれてくるものと考えている。まず政策転換が第一である。



りそな銀行への公的資金投入や為替の変動など経済を巡る環境がちょっと大きく変化している。来週号は、これらを取上げるつもりである。

りそな銀行への国費投入は波紋を呼んでいる。正直いって筆者も驚いた。先週の15日、霞ヶ関の4号合同庁舎の10Fに訪ねる人があり、筆者は、日本経済復活の会の会長の小野盛司氏と一緒にエレベータに乗った。ところが間違えて、9Fまでしか行かないエレベータに乗ってしまった。そして到着した9Fがまさに話題になっている金融庁である。エレベータホールにこの時沢山の人々がいたことが印象に残っている。

この前日、同様に小野さんと二人で、自民党の経済政策のキーパーソンと言われている国会議員を訪問し、我々の主張している政策を説明した。我々の政策を大変喜んでいただき、「別の議員を集めるから、そこでまた説明してくれ」と言ってもらった。

この数日の間、これらの政治家以外にも、何人かの政治家やマスコミ人に接触する機会を持った。しかしりそな銀行の件はまったく話題にならなかった。筆者は、どうも「りそな銀行」の件に、政治はほとんど関与していないという印象を持っている。たしかに一民間銀行の問題に政治家が立入ることは問題かもしれない。しかし大丈夫と言われていた銀行に多額の公的資金が投入され、経営陣が交代するのである。

りそな銀行の件は、他のメガバンクに波及することは必至である。そしてこのよう重大なことに政治が全く関与しなくて本当に良いのか疑問である。小泉首相も事後に報告だけを受けたようである。思い出すのは拓銀や山一の破綻である。この時も政治はほとんど関与していなかった。もっとも「構造改革なくして成長なし」の政治家に、何を相談しても意味がないのはたしかである。
http://www.adpweb.com/eco/eco297.html
メンテ
利子付き国債の大量発行は貨幣価値を下げて、株価だけを上昇させる ( No.6 )
日時: 2020/05/11 15:06
名前: 777 ID:2a3rg6tg

MMTは詭弁。 利子付き国債の大量発行は貨幣価値を下げて、株価だけを上昇させる。金融緩和すれば為替での貨幣価値が下がり、輸入物価上昇・実質的な賃金低下・株を所有する富裕層への富の移転が起きる。 そして貧富の差が極限まで進む。

国民の資産が変わらないのにマネーサプライが倍になったら実質的な貨幣価値は半分になる。しかし、名目賃金は変わらないから労働者はどんどん貧しくなっていく。

一方、貨幣価値が半分になれば株価は倍になる。株価の実質価値は同じだけど、名目値だけ倍になるから国民は景気が良くなったと勘違いするけど、実際には外人投資家が上昇分を持ち出すから、日本の資産は減っていく。

要するに、国債を大量発行すると外人投資家と日本の資産家が儲けて、それと同じ額だけ日本の労働者の金が減ってしまう。 相場はゼロサムだから、実質的な全資産は同じで分配の仕方が変わるだけ。

労働者への分配を減らさない為には国債ではなく無利子の政府紙幣を発行して、ベーシックインカムで金を労働者にばら撒くしかない。

資本主義というのは労働者が気付かない様に利子の形で富を資本家に移す巧妙な仕組みなんだ。  

紙幣印刷はもっとも便利で、もっとも誤解されやすく、もっとも行われやすい債務縮小の方法である。実際、紙幣印刷は債務の急な縮小を和らげ、この金融上の富を供給する代償として誰が富を取り上げられる被害者になるのかが分かりにくい(しかしそれは実際には通貨と債券の保有者全員である)。しかも大抵の場合資産価格が減価された通貨建てで上昇するので人々はリッチになったような気がする。

ほとんどの人は通貨の下落リスクに注意を払わない。ほとんどの人が心配するのは自国通貨建てで資産が増えるか減るかであって、自国通貨自体が上がるか下がるかを心配する人はほとんどいない。

1700年にはおよそ750の通貨が存在したが、今残っているものはたった20%であり、残っている通貨はそのすべてが減価している。ドイツではグルデンやターラーが使われていた。日本には円がなく、小判や両が使われていた。イタリアでは6つの通貨のうちいくつかを使っていた。それらの通貨の内いくらかはハイパーインフレになったり、敗戦や巨額の戦費で債務の支払いが不可能になったりして通貨が消滅し、別の通貨で置き換えられた。いくらかは別の通貨に統合された(ユーロのように)。ドルやポンドのようにいくらかは現在も残っているが価値は下落している。
ちなみに日本の両はいわゆる小判だったが、円に変わるまでの間に金の含有量が何度も減らされている。円ももともと金貨だったがついに紙切れになった。そして紙切れになっても誰も文句を言わないのである。アメリカでも同じことが起こっている。

いつの間にか財布の中身をなかったことにされる紙幣印刷は本質的にはもっとも不公平なのだが、面白いことに人類が負債という問題に直面した時には大抵紙幣印刷が選ばれてきたのである。こうした通貨と信用の創造に誰も文句を言っていないようだ。それどころか、政府が通貨を印刷しなければ政府は残酷だなどと悲鳴が聞こえてきそうである。政府には送り出す金などなく、しかも政府とは金持ちの誰かではなくわたしたち自身であり、それをわたしたちが支払わなければならないということを誰も理解していない。

今の状況で政府が予算とバランスを取るために支出を減らし、国民にも同じようにするように求め、不況でもたくさんの債務の不履行や減免をそのままにしたり、あるいはお金を持っている人から直接税金によってお金を持っていない人に再分配しようとしたりした場合のことを想像してみてほしい。紙幣印刷のほうがよほど政治的に受け入れられやすい。

しかし、どれだけ紙幣を刷っても円は下がらないだろうか? 
先進国であるヨーロッパにはその運命は近づいてきているのである。
ドルは既に紙くずになっている

まず金だが、ダリオ氏は主要な通貨が1600年以来金に対してどれほど減価したかのチャートを示している。見事にすべてゼロに近づいているのだが、実は通貨の価値は下落するものだということを理解するためには400年も遡る必要はない。読者は金価格の長期チャートを見たことがあるだろうか。見たことのある読者も少なくないだろう。しかし本当にその意味を実感するためにはグラフの上下を逆にする必要がある。つまり、金価格がどれだけ上がったかではなく、現金の価値がどれだけ下がったかを見るのである。

以下は過去50年ほどの間に金に対してドルの価値がどう推移したかのチャートである。https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/10645

50年の間にものの見事に紙くずになっている。50年ほど前のドルの価値を100%とすると、現在のドルの価値はその2.3%である。

そして考えてほしいのは、この50年間ほとんどの人は資産の大部分を現金のままにしており、その資産は実際に紙くずになったということである。

量的緩和により通貨と信用の供給が増加すると、通貨と信用の価値は減り、(その保有者は損害を受け、)債務の負担は減少することになる。
債務負担の減少によって通貨と信用が生産性と企業利益に流れ込む場合には株価の実質値(インフレによる株価上昇を差し引いた後の株価)が上昇するだろう。まず前提となるのはインフレは株価にとってプラスだということである。インフレとは通貨の価値の下落なので、その通貨以外のすべてのものの価格が上昇する。株価も例外ではない。


日経平均株価が上がる程、日本人はどんどん貧しくなっていく

アベノミクスがもたらした株価上昇による100兆円の損失
http://stockbondcurrency.blog.fc2.com/blog-entry-184.html  

最近は MMTとか チャンネル桜が流すデマを信じて、金が無ければ国債をどんどん発行すればいいというアホばかりになったけど、MMTというのは国際金融資本が資金に困ったから、政府に金を出させようという話です。
大昔から国債の金利や株式の値上がりで稼いでいるのが資本家なのです。
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マネーストック ( No.7 )
日時: 2020/05/11 11:28
名前: 777 ID:2a3rg6tg

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GDPと株価 ( No.8 )
日時: 2020/05/11 12:15
名前: 777 ID:2a3rg6tg

GDPと株価
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