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[3484] 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?
日時: 2022/05/07 17:45
名前: スメラ尊 ID:hljhk4o.

1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?


中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため



▲△▽▼


中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E8%AA%B0%E3%81%AE%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E9%9B%A8%E3%81%8C+


誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている
黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている
眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも
すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は
されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと
早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を
沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと
跣(はだし)の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ


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70年代過激派の醜い内ゲバを描いたキツネ狩りの歌

中島みゆき キツネ狩りの歌 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D%E7%8B%A9%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%AD%8C


中島みゆき は高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか


2017年06月05日 中島みゆき 『生きていてもいいですか』 キツネ狩りの歌
 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。

 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。

 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。

最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、
70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。



中島みゆきさんの「結婚」につながりそうな噂

現在は独身とのこと。結婚歴もなくずっと独身ですって。
なぜ結婚しなかったのでしょうね。

そういえば、松山千春さんと熱愛したんじゃなかったっけ?〔中略〕

某ギタリストの彼氏とホテルから朝帰りする写真を撮られたことあるし。

高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか。

某プロデューサーと不倫関係で、同棲してるとか。

もっと深刻なのが、同〇愛〇だとか。


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森田童子 - (best)僕たちの失敗 ベスト・コレクション
https://www.youtube.com/watch?v=qEMhYL6E2xA

0:00 ぼくたちの失敗
3:24 蒼き夜は
7:30 雨のクロール
9:30 蒸留反応
15:23 哀悼夜曲
18:38 孤立無援の唄
24:24 さよならぼくのともだち
28:26 逆光線
31:06 サナトリウム
35:48 男のくせに泣いてくれた
39:08 春 漫
41:50 G線上のひとり
45:26 ラストワルツ


森田童子は、1975年、太宰治の絶筆と同名のファーストアルバム『GOOD BYEグッドバイ』でデビューしたシンガーソングライター。
フォーク全盛期にライブハウスを中心に活動を開始し、いまにも消え入りそうな儚い歌声と、弱さや淋しさを肯定する歌詞の世界観は学生運動に挫折した若者の共感を呼び、いつしか「地下のカリスマ」「地下の女王」などとも呼ばれはじめる。

しかしその活動期間はわずか8年にすぎない。6枚のオリジナルアルバムと1枚のライブアルバムを世に問うた後、1983年12月26日のライブを最後に、森田童子は人前から姿を消す。残されたのは、多くの逸話と伝説。カーリーヘアに色の濃いサングラスという特徴的ないでたち、出身地はおろか、年齢や家族構成など、プライバシーを語らない姿勢も伝説化に拍車をかけた。
歌うのをやめた10年後の1993年にはドラマ『高校教師』の主題歌になった「ぼくたちの失敗」が話題を集めた。楽曲は100万枚に迫る大ヒットを記録するが、森田童子が私たちの前に姿を現すことはなく、さらに25年後の2018年4月に世を去った。



森田童子が高校を辞めたきっかけは学生運動をしていた友人が警察に「パクられた」からで、歌い始めたきっかけは友人の死だったらしい。

「ぼく」は彼女自身だ。

なぜ「ぼく」になったのかというと、

「女系家族に育ち、女の嫌な部分、ドロドロした部分を見過ぎてしまって、女を感じさせる女性は苦手になってしまった」

(1983年ラジオインタビューより)

のだという。


伝説のまま逝った森田童子は全共闘世代の挫折感を癒す存在だった

「森田童子が登場したのは全共闘運動が挫折して、少し経った頃。彼女の歌はその全共闘世代の心情、挫折感に寄り添うものでした。たとえば、仲間がパクられた日曜の朝、といったことを歌ったり、高橋和巳の『孤立無援の思想』から来ている『孤立無援の唄』、爆弾教本の『球根栽培法』から来る『球根栽培の唄』といった歌があったり。彼女自身は全共闘世代より少し若くて、運動のピークの頃はまだ高校1〜2年でしたが、東京教育大(現筑波大学の前身)の紛争に関わっていたという話もあった。どこかのセクトに入ってるとか、高校全共闘みたいなかたちでやっていたというのはないとは思うけれど、その文化や気分はすごく色濃く共有しているアーティストでしたね」

 全共闘世代の心情を代弁し、支持を集めているミュージシャンはたくさんもいたが、森田がほかの誰とも違っていたのは、彼女の歌が"弱さ"に光をあてていたことだった。

「森田さんのライブって客が泣くんですよ。死んでいってしまった友人を歌にした『さよなら ぼくのともだち』って歌で、泣き出す人も出てくる。歌っている森田さんも歌いながら涙をぬぐう。全共闘世代って、強がったり過激ぶったりするのが習性で、自分の弱さをさらけだせない人が多かったんですが、森田童子の歌を聴いていると、その弱さを隠さなくてもいい気がしてくる。たとえば(映画監督の)高橋伴明さんは早稲田大学の学生運動出身で、すごい武闘派だったんですが、森田童子が好きだと言っていました。そういう人でも森田さんの歌に感動するんです」


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かぐや姫 神田川 1973年9月20日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB++%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D


2018.10.03
【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!
やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!

1970年代前半に隆盛を極めたフォークソング。その筆頭格に挙げられるグループ「かぐや姫」の代表曲が「神田川」です。肩を寄せ合い同棲生活を送る男女の純愛を描いた歌詞は女性目線と思われていますが、実は、知られざる事実が。「やさしさが怖かった」理由には、当時の若者を取り巻いていた驚きの時代背景があったのです。

フォークソングの代表曲

「かぐや姫」最大のヒットソング

1973(昭和48)年9月、3人組のフォークグループ「かぐや姫」がリリースした「神田川」。

リーダーの南こうせつが、ラジオ局の放送作家だった喜多條忠(当時の表記は喜多条忠)に作詞を依頼しました。

喜多條は学生時代に同棲していた彼女との思い出をモチーフに、わずか30分ほどで書き上げたといいます。

出来上がった歌詞を喜多條からの電話で聞いた南は、その場でメロディーが浮かんだそうです。

「神田川」は、同年7月発売のアルバム「かぐや姫さあど」に収録されました。

南がDJを担当していたラジオの深夜番組でオンエアしたところ、リスナーからリクエストが殺到。

哀愁漂うバイオリンの音色も印象的な「神田川」はシングル曲としてリカットされ、ミリオンセラーを記録しました。

70年代の若者文化のシンボル的な曲で、神田川に架かる東京都中野区の橋のたもとには歌碑が建立されています。


切なくも美しい歌詞と旋律を併せ持った名曲をお聴きください。透き通るハーモニーも聴きどころです。

「四畳半フォーク」の代名詞

「神田川」の代名詞でもあるのが「四畳半フォーク」という言葉。

1960年代に米国で広がったフォークソングは、ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーなどに代表される若者の音楽でした。

人種差別反対やベトナム反戦のメッセージを込めた、プロテストソングと呼ばれるフォークです。

同時代の日本もまた、日米安保闘争や東大・日大闘争をはじめとする学生運動が盛んでした。

プロテストソングは社会派フォークのミュージシャン、作品を生み、若い世代の閉塞感や憤りを代弁します。

しかし、国家権力にねじ伏せられた学生運動は70年代に入ると行き詰まり、リアリティーを失いました。

「虚無」に陥った若者たちの心をつかんだのは、個人のささやかな生活や恋愛を歌ったフォークソング。

生活派フォーク、私小説フォークと呼ばれる、歌詞も旋律も日本的なウェット感に包まれた音楽です。

こうした曲はやがて「四畳半フォーク」と称されるようになります。

地方の親元を離れ、東京や大阪などの大都会に出てきた当時の学生の平均的な住まいが、四畳半一間の安アパート。

彼らの生活感を象徴したキーワードが「四畳半」だったのです。

ちなみに、「神田川」の歌詞には「三畳一間の小さな下宿」というフレーズが登場します。

J-POPの源流

時代を反映する力


「四畳半フォーク」という言葉を初めて使ったのは、松任谷由実(当時は荒井由実)だったとも言われています。

貧乏じみた生活のわびしさを追憶する暗い雰囲気の曲を、揶揄(やゆ)するニュアンスが含まれています。

1972(昭和47)年に発売された、ある週刊誌には「四畳半フォーク」をプロテストソングと対比した、こんな記述が。

「去勢されたロック・フォーク」

「四畳半ムードのいかにも男女のカッタるい感じの歌」

しかし、当時の若者にとって「四畳半フォーク」の世界にこそ、リアリティーがあったことは否めません。

他愛のない日常をありのまま切り取って表現する手法は、後のJ-POPに脈々と受け継がれます。

「何でもない毎日にこそ、その時代を生きる人々の息遣いがある」という事実。

若者たちの等身大の世界を歌って共感を集めたのが「四畳半フォーク」でした。

その時代の空気を作品として永遠に残せる音楽の素晴らしさを、見事に証明してみせたといえます。

古い社会への抵抗


「四畳半フォーク」の定番と言える恋愛の舞台が「同棲」です。

婚前交渉などもっての外だったのはもちろん、自由恋愛さえ憚(はば)かられていた当時。

日本社会の古く、息苦しい価値観を打ち壊そうという若者たちの行動が「同棲」という形で顕在化したのです。

「神田川」がリリースされる前の1972(昭和47)年には、漫画「同棲時代」が大ヒットします。

時に傷付け合いながらも、深く愛し合う恋人たち。

しかし、精神的にも経済的にも未熟なカップルを待ち受けていたのは、破滅的な別れでした。

「四畳半フォーク」で歌われる2人の暮らしも困窮を極め、未来の明るさなど感じられないものがほとんど。

爪に火を灯すような生活で味わう惨めさや葛藤が、ディテールまで赤裸々につづられています。

あまりにも刹那的な純愛に全てを捧げた情念は、時代を隔てたリスナーの胸にも響くのです。

「神田川」の歌詞が意味するもの

女性目線の歌?

貴方は もう忘れたかしら
赤い手拭 マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私の 身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ

出典: 神田川/作詞:喜多條忠 作曲:南こうせつ


「神田川」もまた、貧しさの中で営まれた同棲生活を追憶した曲です。

神田川が流れる、都心の「三畳一間の小さな下宿」。

男女の暮らしが貧しいものであることは、容易に想像できます。

寒空の下、首に手拭いを巻いて銭湯に出掛ける2人。

相手が出てくるのを外で待つ間に、すっかり冷え切った湯上がりの髪。

凍えた身体が震えるのに合わせて箱の中で鳴る、使い古された石鹸。

そんな身体を抱くしか術がない切なさ。

貧しさゆえの。何とも言えない悲哀が伝わる描写です。

ところで、この歌詞の語り手は男性、それとも女性でしょうか。

冒頭の「忘れたかしら」という言葉遣いから、女性を連想するのが自然なように思えます。




「やさしさが怖かった」理由

実は男性目線だった?

若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった

出典: 神田川/作詞:喜多條忠 作曲:南こうせつ


曲が進むにつれ、歌詞からは別の疑問も湧いてきます。

それは「貴方のやさしさが怖かった」という告白。

「やさしさ」が怖いとは、何を意味するのでしょう。

想像されるのは「相手が何か隠し事をしているのではないか」という疑念。

あるいは、経済的に困窮する中で「相手の『やさしさ』が、いつまで続くのだろうか」という不安です。

しかし、喜多條自身は後の新聞対談で、驚くべき真相を明かしています。

学生運動の最中、機動隊と衝突する激しいデモ活動に明け暮れていた自分。

疲れ果てて帰ると、学生運動と無縁の彼女は穏やかにカレーライスを作っている。

そんな彼女を見ていると、平穏な暮らしについ心を奪われそうになる。

しかし、それは活動家としての自分の信念を揺るがせることに他ならない。

自分のために料理を作る彼女の「やさしさ」こそが、自分にとって最も怖いことなのだ。

つまり、「神田川」のサビは、男性の視点で書かれた歌詞だったのです。

男女の目線が入り混じった歌詞


新聞対談の中で、喜多條はさらなる真相も明かしています。

横丁の風呂屋の外で待たされていたのは、自分でもあるということ。

当時の若い男性の間で流行していたのは、女性と見紛うような長髪。

喜多條は「神田川」の歌詞の語り手が男性であるか女性であるかは「よく分からない」とも発言しています。

過ぎ去った同棲生活を振り返る中で、濃密な時間を共にした男女の思いが交錯した曲。

それが「神田川」だったのです。

時代の記憶

「ニューミュージック」へ

一世を風靡した「四畳半フォーク」の終焉は、あっけないものでした。

その理由は、世の中が急速に豊かになったから。

国民的規模でもたらされた経済的余裕は、若者の関心を消費生活、つまり物欲の充実に向かわせます。

若者たちは消費生活を犠牲にする「同棲」をしてまで、社会に抗(あらが)うことをやめました。

過去に追いやられた学生運動に郷愁を感じることもない彼らが熱を上げたのは、都会的な「ニューミュージック」。

重苦しい生活感を排した、ファッショナブルな歌詞とサウンドが特徴です。

荒井由実が1stアルバム「ひこうき雲」をリリースした75年、「かぐや姫」は解散します。

受け継がれる精神


21世紀の現代に「四畳半フォーク」はそぐわないでしょう。

しかし「平凡な毎日」の素晴らしさを歌い、若者の心に寄り添うフォークの精神が消えることはありません。

例えば「ゆず」「19」「コブクロ」「うたいびとはね」。

90年代後半ムーブメントを起こしたネオ・フォークのアーティストたちは、J-POPの主流であり続けています。

アコースティック・ギターを抱えた彼らの曲に、奇をてらった過激なメッセージはありません。

「四畳半フォーク」の精神は、今の音楽にしっかりと受け継がれているのです。

まとめ

70年代フォークの旗手、吉田拓郎も


「かぐや姫」と並ぶ70年代フォークの代表選手といえば、吉田拓郎。

彼もまた、激動の時代を生きた若者の代弁者でした。

60〜70年代フォークソングの代表格・吉田拓郎。井上陽水などとレコード会社を設立したり、楽曲を森進一に歌ってもらったり、と何かと大反響を呼んだ超有名人です。こんな素晴らしいアーティストを時代の流れとともに風化はさせぬ!ということで吉田拓郎の珠玉のフォークソング集をご覧いただきましょう。


「神田川」の歌詞の謎 2010-01-07

『神田川』という歌をご存知だろうか。俊郎でなく、南こうせつとかぐや姫が1973年に発表した歌だ。1970年代を代表する歌といってもいいだろう。おそらく、ご両親が口ずさむのを聴いた方もおられるだろう。私自身も、父母から教えられて、自分でもよく歌っていた。

 〜〜〜〜
貴方はもう忘れたかしら
赤い手ぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた 

洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私のからだを抱いて
冷たいねって言ったのよ
若かったあの頃何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった
 〜〜〜〜


さて、この歌詞の最後の部分、「ただ貴方のやさしさが 恐かった」が、謎めいているように感じないだろうか?私は子供のときから、意味が分からず、ただ何となく、「女性の複雑な心情でも表しているんだろう」とぐらいにしか思っていなかった。母も、「好きでたまらないと、もし裏切られたらなんて不安がふとよぎる」というようなことを言っていたと記憶している。

皆さんは、この「ただ貴方のやさしさが 恐かった」の本当の意味をご存知だろうか?数年前私は、テレビか雑誌かで偶然この意味を知って衝撃を受けた。


ところで、母は別の部分も変だといってた。それは、

「一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて・・・」

の件である。母が言うには、「普通、風呂の時間が長いのは女の方で、待っている男がイライラさせられるもん」だそうだ。日常的に銭湯を利用したことの無い世代に属する私には、・・・まして一緒に銭湯に行く女性もいない私には・・・実感がないことではあるが、確かに女性の方が長風呂、というステレオタイプが無根拠でなかろうとは想像に難くない。

・・・実は、この母の何気ない感想が、謎を解く鍵であったのだ。

1960〜70年代は、学生闘争や革命の理想に燃えた若者たちの時代で、南こうせつたちも、革命の理想や世の矛盾を多く歌に乗せていた。

ヘルメットを被って覆面をして、機動隊のバリケードに突っ込んでいく、そんな無骨な男たちにとって、家に帰って同棲する愛する女性と過ごす、ひと時の安らぎ・・・歌の二番に描かれている、貧しくても小さな幸せ・・・

 〜〜〜〜
貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレパス買って
貴方が描いた私の似顔絵
うまく描いてねって言ったのに

いつもちっとも似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ
悲しいかいってきいたのよ
 〜〜〜〜

この静かな幸せは、当時の騒然とした学生闘争とは全くの異質だった。闘争に明け暮れる男は、この小さな幸せに一息をつき、ああ、このまま時が止まればいいのに・・・・・・と、

革命の理想も、正すべき世の矛盾も忘れてしまいそうで、

そんな風に、自分の生きがいを捨てて家庭に安住してしまいそうになるのが

「怖かった」

そうなのである。

お分かりになるだろうか?そう、この歌は、女性の心情を詠んでいるのではなく、革命に生きる男性の心情を詠んでいるのである。この歌の主人公は、男。作詞者、喜多條忠は自分の心情を詠んでいたのである。語り口が女性的なので騙されていたが・・・くどいようだが、「ただ貴方のやさしさが 恐かった」というのは、「ただ貴女のやさしさが 恐かった」というのが本当で、


「やさしい貴女との幸せな日常に、自分の使命を忘れてしまうのが恐い」

という意味なのだ。


とすると、歌の第二の謎の部分、「一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて・・・」で、待っていた「私」は男性ということになる。やっぱり女性は長湯というステレオタイプに沿った歌だった。

それにしても、「洗い髪」っていうと、普通の感覚では女性の長い髪を連想するのではないか?・・・と思われることだろう。1970年代・・・上に挙げたYou Tubeにあるレコード・ジャケットからも分かるように、当時は 男も長髪にするのが流行っていたんだよ。

「大丈夫、俺も今、上がったところだから」と、見栄をはる男の、湯冷めした身体をぎゅっと抱きしめて、「冷たいね」という女

萌えまくるじゃねぇか、畜生め。リア充氏ね!!

こういう事実を知ると、歌の印象、ぐっと変わってくるでしょう?

・・・・ごめんなさい、嘘つきました。

いえ、百パー嘘じゃないんです。「あなたのやさしさが恐かった」ってのは、学生闘争に明け暮れる男の心情吐露が元々なのは事実なんですね。作詞者、喜多條忠がこのフレーズを思いついたのは、上に述べた背景からです。

でも、歌自体は、男が主人公でも、女が主人公でもなく、両者の目線が渾然としているそうです。だから、銭湯の外で待ってた人、似顔絵を描いた人、「悲しいかい」って聞いた人、どれが男でどれが女か、どれが同一人物で、どれとどれが違う人なのか、分からないんだそうです。

分からないってのは、作詞者自身が、「わたしにも分かりません」といってるからなんですね。当時長髪だった作詞者は、風呂屋で待ったことも待たせたことも経験しているそうです。

ある意味、歌の聞き手が自分の経験に照らし合わせて、勝手に補い、勝手に解釈でき、十人十色に共感できる、そういう自由さが、この歌が広く売れた理由かもしれません。

だから、「女性の複雑な心情でも表しているんだろう」というような私の単純な解釈も、「好きでたまらないと、もし裏切られたらなんて不安がふとよぎる」という母の恋の駆け引き的解釈も、間違いとは言い切れないわけで。

歌謡曲でも、詩でも、和歌でも、だいたい広く親しまれているのは、オープンなんだよね。情景が頭にすぐに描けるような、詳細で緻密な表現があるのに、個人個人の心に描かれる情景は、それぞれ違っているような・・・・個性的で且つ、普遍的な性質が、求められているんだろうね。



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右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


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山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする



ang********さん 2009/6/22 07:16:49
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


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GHQ が終戦後に日本に導入した共産主義体制が「日本の強さ」 の秘密だった
共産主義者ばかりだった GHQは日本を意図的にインフレにして資本家の資産を奪い、一億総中流社会を作り上げた

一億総中流社会を作ったのは共産主義者のGHQ, 一億総中流社会を壊したのがグローバリスト
日本のバブル崩壊以前の一億総中流社会は共産主義者ばかりの GHQ が意図的に作ったものだった

ソ連・中共・東欧も含めた世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです。
特に自称社会主義国のソ連や中共は極端な階級社会で、下の階級の人間は絶対に上に上がれない社会でした。
戦後の日本が理想の共産社会に近い一億総中流社会になったのは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

何もやらなければ現在のアメリカみたいに、マルクスの預言通りの階級社会になるに決まっています。
平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。
ユダヤ国際金融資本と GHQ は日本を共産化しようとして農地改革と人為的インフレ生成・金融封鎖を行った
フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようと計画していた。

それで平等主義的な日本国憲法を制定、
農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後の人為的なインフレはそういう背景で起こされた 

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。
メンテ

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革マル派の歌姫 中島みゆき ( No.1 )
日時: 2022/05/06 17:38
名前: スメラ尊 ID:9QYRMUxQ

革マル派の歌姫 中島みゆき


2006年08月10日 革マルの支柱逝く

革マル派の最高指導者死亡 黒田寛一・元議長

 過激派「革マル派」の最高指導者だった黒田寛一元議長(78)が
6月下旬、埼玉県内の病院で死亡していたことが10日、関係者の話で分かった。

 関係者によると、黒田元議長は1963年、日本革命的共産主義者同盟(革共同)
が分裂して、革マル派が結成されて以来、議長を務めていた。

 「クロカン」の通称でも知られ、同派の理論的指導者として執筆活動を続け、
96年に開かれた同派の政治集会で議長を退くことを表明したが、詳しい消息は
長年不明だった。

 議長辞任後も最高幹部として組織を指揮し、絶対的な存在だったとされる。

(2006年08月10日 11時44分)


あれ、まだご存命だったのね。

死に損なった吉本隆明が、長生きしているから不思議。
黒田寛一の葬儀には、中島みゆきは駆けつけたのだろうか。
革マル派の歌姫が、紅白歌合戦に出てきた時には仰天した。


▲△▽▼


紅い皇帝毛沢東と狂爛の文化大革命【东方红】 - YouTube 動画

東の空より紅い太陽が昇る如く
中華に毛沢東が現れた
彼は人民に勇気と幸福と希望を与える
彼こそが偉大なる救世主、大いなる明星也

東方紅,太陽昇,
中国出了個毛沢東。
他為人民謀幸福,
呼児咳呀
他是人民的大救星。

即ち、中島みゆき「世情」の

「変わらない夢を 流れに求めて時の流れを止めて 変わらない夢を見たがる者」

というのは毛沢東とその世界中の同志を指しています:


中島みゆき「世情」(1978年4月10日)

1 世の中はいつも 変わっているから
  頑固者だけが 悲しい思いをする

  変わらないものを 何かにたとえて
  その度 崩れちゃ そいつのせいにする

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


2 世の中はとても 臆病な猫だから
  他愛のない嘘を いつも ついている

  包帯のような 嘘を 見破ることで
  学者は 世間を 見たような気になる

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため



▲△▽▼


■学生運動をした芸能人〜吉永小百合、坂本龍一

11革命的名無しさん2006/02/24(金) 10:25:08

所属も分かる範囲で。

芸能人じゃないんだけんどナベツネ、戦前日共東大細胞。
坂本は新宿高校→中核派と聞いた。
糸井も法大チュン。佐世保闘争で中核メットかぶりHNKからインタビューされてた。
宮崎美子は熊大の労働青年団、

中島みゆきは北海道時代、革マルシンパ。

吉永小百合は早大馬術部だろーが!
加橋かつみはマリファナだろーが! 

後は知らんなあ。

209革命的名無しさん2006/09/03(日) 11:15:54

浜田省吾

高校時代、広島でデモに参加してた

中島みゆき
藤女子大時代の彼氏が札医大の革マル派学生(現在も現役)

316革命的名無しさん2008/02/05(火) 10:40:11

中島みゆきって学生運動でバリケード作って大学に泊り込んでるときに
自分の好きだった男と友達の女がセクロスしてるのを目撃してショック受けて
そのまま運動やめて家に帰ったんだよね。


▲△▽▼


159 :Track No.774:2013/01/02(水) 08:45:06.11

「誰のせいでもない雨が」について思う所を聞かせてくれないか?

以下は私の意見。

黒い飛行機=在日米軍戦闘機
怒りもて石を握った指先、罪をうがった唇という歌詞から

歌の主人公はかつて日米安保条約に反対していたが
今は平穏な生活を送っている元活動家で
3番の歌詞は回想であり

私たちの船は計画を意味するのかも知れない
それを警察が知って実行前に乗り込まれた
早すぎるというのは誰かがその情報を教えたから

滝川と後藤は計画前に
仲間の元に帰らなくなり
燃える船の中にはいない
だから寒いだろうと

自分と泣いている女は
船の外の同じ場所に立っている

裏切りとは船に乗らずに普通の生活を選んだこと
もしくは仲間を警察に売ったことではないだろうか

674 :Track No.774:2014/02/10(月) 19:06:12.90

ひさしぶりにきたら
なんでも答えてくれる方がいらっしゃるようなので

「誰のせいでもない雨が」は何をあらわした曲なのか解釈をお聞かせください!


676 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:54:25.98
>>674
 世情という曲があります。みゆきさんは自分がやっている曲は元々ロック
だと答えたそうです。体制や不条理に対する抵抗者である、そんな曲を作って
来たという意思表示かも知れません。

 雨が誰かのせいで降るわけじゃないのはあたりまえですが、雨が降ったり
夜が濡れたりするのは、自身の今が誰のせいだとも言えない、生きて行く上で
止むを得ない結果なのと同じだと感じているのです。

 しかし、その成り行きに忸怩たるものが有り、時が早く過ぎれば全ての憤り
を忘れる事が出来るかも知れない、そんな感情を「癒せ」という言葉で表して
いるのだと思います。


677 :Track No.774:2014/02/10(月) 20:55:01.74
>>674
「誰のせいでもない雨が」の歌詞はすべて比喩で表せていますね。

非常に難解な比喩で表されている一つ一つの比喩を説明していたら、ここでは解釈や説明が、出来ません。かなりのインテリでも無理です。

簡潔に解釈したいと思います。歌の主人公の心理状態、状況の説明から入っても解説が非常に難しい。
個人的で勝手な解釈ですが、学生運動などの活動家の心情が歌われているように感じます。

七五調の文学的表現を使っているが何のことか、一見分かりにくい。難しい、とりあえず勝手な解釈で
元活動家の過去を想い志半ばで挫折した己の現在の心情風景が垣間見れる。過去の回想。

哀れな己の姿を思い浮かべ早く忘れたい。すべて比喩語で描かれているので、最後に言えることは
「ファイト!」とは違う密かなエールを送っている。早く忘れろ、すべては終わったんだ 
終わったことは一刻も早く忘れろ 一刻も早く忘れろ 

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ

早く月日のすべての悲しみを癒せ 月日のすべての悲しみを癒せ

726 :Track No.774:2014/02/13(木) 01:25:34.77
>>676 >>677
「誰のせいでもない雨が」について答えてくれた方、ありがとうございます。
でももうちょっと具体的に聞きたいです。

たとえば1、2番の歌詞は日常から過去を語っていますが、

3番「船は港を出る前に〜」からの歌詞がかなり緊迫した状態になりますが
これは日常自体が緊迫した状況へ変化したのでしょうか?

それとも過去の映像がフラッシュバックしてるような感じでしょうか?

738 :536:2014/02/13(木) 21:05:59.41
>>726
 私たちの船は永く火の海を沈みきれずに燃えている
が、前の文章を解く根拠となるでしょう。倒置法です。
怒りや憤りや後悔を引きずっているという感じです。

 つまり、伝令とは体制に抵抗する者たちに警告を与える存在です。
学生運動なんかやると碌な事はないぞ、人生の航海を始められず、
後悔する事になるという警告です。

 かつての同士である滝川と後藤の噂を悲しみながらも、彼らを裏切り
家庭を持ち安住している主人公は、やり切れない気持ちを癒せるのは
月日が過ぎる事以外にはないと考えている、そういう詩だと思います。
 

741 :人力飛行機:2014/02/14(金) 10:58:51.74  

「誰のせいでもない雨が」。

60-70年代ならば新左翼運動、90年代ならオウム真理教事件。のように、人間疎外を訴え、闘おうとし、でもそのなかで家族からも離れ、警察から追われ、就職もできず、社会の片隅で隠れるように生きていく人がいる。

彼らにも恋人がいたり、恋人は彼らを助けたいけどどうしようもないことがあったり。恋人との別れがあったり。かつて平和を訴え政治家を弾劾した唇はいつしか離れた恋人の名前を呼んでいる。

 ちょうど二年前だったか、オウムの菊池という女性逃亡犯が同棲していた
男性に説得されたか、出頭したような記憶が・・・。彼らも思想だけじゃなく
恋も生活もある、そこでいろんな想いはあるでしょうし、自分の人生を
思い返したりね。でももう引き返せない。殺人の容疑者や協力者になって。
いろんな想いがある。始まりは正義であり不正や差別や貧困の存在や、
真理の希求や、当然なものがある。そこから始まり、気がついたら遠い場所
で家族や友人からも離れ、逃げるように生きている自分がいる・・・。

 それが誰のせいでって自問しても答えはない。

 そういう心の風景が浮かぶんですけどね。僕とかあの歌の心の風景が
浮かんでくる。周りに左翼もいたし、新宗教の人もいたし、オウム教団の本
も読んでます。そういう人たちの姿が浮かんできます。

 中島みゆきは大学時代にやはり内ゲバで恋人が死んだ女性と関わりが
あり、その女性は歌も歌ってて、中島がプロになったあとに家にまねかれ
たことを『女歌』(ふたつのうちのどっちか)に書いてます。

彼女は家庭をもち、幸せそうだった、とか。

751 :Track No.774:2014/02/14(金) 22:01:18.13
>>738>>741
よくわからないんですが
つまり「誰のせいでもない雨が」の3番は1、2番以前の回想という意見ですか?

752 :Track No.774:2014/02/15(土) 12:08:14.01
>>751
 >>738です。>>741さんの解釈はかなり過激で僕の意見とは少し違います。(笑)
決してオウムを容認するような詩ではなく、学生運動、政治活動の主な対象は
日米安保だと特定していいと思います。黒い飛行機がそれを示しています。

 一番から三番まで同じ時間の思いです。伝令があったのは過去です。デモを
止めるように拡声器で警告した警察とか、大学教授などの大人たちからの将来
に関する注意です。

 その過去と今日までの自分の生活を、船の航海(想念)によって喩えているんです。
滝川と後藤は昨日捕まった、或いは死傷したので、回想ではありません。


779 :Track No.774:2014/02/17(月) 23:09:28.44
>>752
「私たちの船」というのは日米安保に対する思いみたいなもの?で
それは過去から現在まで「燃えている」ということですか?

滝川と後藤は現在における昨日まで活動家をしていた
つまり主人公は子供が生まれて活動家を止めたけど
そんなに時間はたっていなくて、仲間との連絡も取り続けていたってことですか?


781 :Track No.774:2014/02/18(火) 18:37:04.29
>>779
 >>752です。そうです。炎は赤いので、或いは赤軍派だとか共産党を
示す象徴かも知れません。

 そうです。滝川と後藤は同志でしょう。連絡はどうかわかりません。
別の同志から噂を聞いたんです。


928 :Track No.774:2014/03/02(日) 15:04:08.05

>>676 >>738 >>781が僕のレスです。

 伝令は命令を伝えるだから、「沈んだと」が指すのは私たちとは別のグループでしょう。
当局、警察、大学などからの私たち(の活動)への警告や命令です。
 しかし、火は消えず、沈みきれずに燃えているのだから、仲間からの連絡や
グループ自体は存続していて、潜伏しているというところでしょうか。
 滝川と後藤は過去ではなく、現在のきのう帰らなかったんだと思います。
それで、女は(誰のせいでもない)雨の中で泣いているんです。

 船に乗り続けているんだと思います。


935 :Track No.774:2014/03/02(日) 18:54:54.78
>>928
沈んだ船と沈みきれずに燃えている船は別の船という解釈ですか。
たしかにその可能性もあるかもしれませんね。

私は「さむかろうね」という言葉と「燃えている船」は対照的だと感じました。
だから滝川と後藤は船から降りた者だと考えました。
一般的にはやはり滝川と後藤は船に乗っていて
女はどちらかの恋人という解釈なんですかね。


31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 22:39

>元革マル?ほんとですか?
みゆきが10数回堕胎したという話は聞いたことある。
子供が産めない体らしいね。小説にも書いていたけど

32 :名無しさん:2001/07/11(水) 22:43

>>31
その小説って「寒雀」のこと?
みゆきさん、産婦人科医の娘なのに
本当に堕胎したことあんのかなぁ・・・?

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 22:57

>そうです。寒雀ですね。
それからエッセイでも、書いてますよ。
子供を持ってる友達と対比して
自分ことをWITHOUT BABYと言って、子供が作れない
女としての人生感を語っていました。
まだ30代の頃の話で結婚願望の強い人なのに
かわいそうですよね

34 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/11(水) 23:06

旦那が英国人の女友達だったっけ?

子供が作れないじゃなくて
子供が居たら仕事や恋愛に差し障るから
作ろうとはしなかったと思ってたよ。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 23:25

そうです。旦那が英国人の友達のこと。
しかしあなたも相当のみゆきファンですね。
私も自他共に認めるみゆきファンですけどね。
彼女のCDも本のできる限り集めてますよ。
理想の女性ですからね。
今好きな女もみゆきにそっくりですがね。顔が。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 23:46

すごいねここ。
あることないこと・・・
あぁ、噂板だからいいのね。
でも、小説と現実を一緒くたにする人っていったい・・・(それもうろ覚えの)
(歌と現実を一緒にする人と同類?)

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 23:53

ごちゃごちゃうるせいな。
私は、みゆきのことは、だいたいわかってるんだよ。
行間を読めということだな

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 00:03

あぁ、ごめんね。
ネタだったのね。それは、失礼しました。
でも、小説をネタ元にするのは、噂じゃなくって、妄想でしょ?

39 :ななし:2001/07/12(木) 01:00

》37  おいおい(藁 それだけ強気の発言をする程のみゆきオタなら、かって某対談で「わたしの中に『私小説』なんて言葉は無い」と言ってた事を、まさか!?知らない訳じゃ、ないだろに。(藁藁

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 01:18

いずれにせよ、貞操観念は堅そうだね。
よって、ロストヴァージンも遅そう。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 01:26

新曽根崎心中とか聴いてると、年下の男を調教するのが上手そう。
あの歌もなんか筆下ろしを連想させる。(w

42 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/12(木) 06:23

噂じゃなくて妄想じゃん・・・。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 06:29

>>42 文句いうならネタだせやゴルァ

44 :禁断の名無しさん:2001/07/12(木) 11:24

憶測でも妄想でも何でも良い
面白ければ許す。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/12(木) 20:09

>
37  おいおい(藁 それだけ強気の発言をする程のみゆきオタなら、かって某対談で「わたしの中に『私小説』なんて言葉は無
い」と言ってた事を、まさか!?知らない訳じゃ、ないだろに。(藁藁

もちろん知ってるよ。その対談。私の歌は、すべて自分の体験ですと言ったのを
私小説と書かれたという話だったよ。つまり私小説ととらえてもらって
結構だという事だ

46 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/12(木) 20:14

某サイトで話題になった
さ○○○雨 って
囁く雨だったんだね。

47 :ななし:2001/07/13(金) 01:35

》45     だめだコリャ(藁  いいから、もういっぺん過去のインタビュー記事を読み返しに逝っといで。      あの対談の後からも、もう何べんも「いちいち歌の数ぶんの経験なんて実際にしてたら、とても身がもたないわよね(笑)」という趣旨の事を言ってるだろが!

勝手な思い込みはヤメマショネ(藁

48 :36=38:2001/07/13(金) 03:02

>>44 面白ければな。
つまり、ネタ作るんならもっと上手くすれってこっちゃ。
ちなみに、42とは、別人だからな。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 06:47

お前こそ、もう一回あのインタビューを読めよ。
俺は、ちゃんと確かめて書いてるよ。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 08:01

この人のオナニー観って聞いてみたいね。
かなり身近なテーマと思われるのに、
そういうようなことしゃべった記憶なし。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 12:51

オナニー観って・・・(w
誰か、ほかにそんな観しゃべっている人いるのか?

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 18:03

>>51 江角マキコ

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 18:23

ひとり上手はオナニーの歌なの?

54 :ななし:2001/07/14(土) 00:28

》49  なにを確かめたんだか。(藁

本人が聞いたら、のたうち回りそーだ。(大藁

ついでになんだが、アナタに『おまえ』呼ばわりされるすじあいは、無いと思うが?

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 01:11

>>51
江角マキコか・・・。何て言ってんだ?
でも、個人的には、みゆきと江角マキコを一緒にして欲しくなかったりして・・・。

56 :革マルみゆき:2001/07/14(土) 08:32

みゆきが卒業した大学を含め
北海道の大学は北大中心に革マル派が牛耳ってたらしいね。

革マル:日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派
中核派:日本革命的共産主義者同盟全国委員会マルクス主義学生同盟中核派

もともと同じ母体らしい。

57 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 19:49

>>56

お前さん、ひょっとして
懐柔吐かせなんかじゃないよね!?

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 19:53

柳美里は中島みゆきの大ファソ。小説はみゆきの歌そのまま逝ってるな。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 21:54

本名は中島美雪。医者の娘で藤女子大・・・。典型的お嬢ですな。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 22:47

お嬢だったのね。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/15(日) 02:52

お嬢だよ。
おじいさんは、北海道でも名士。
中島公園は、そのおじいさんの名前を取って名付けられた。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/15(日) 02:57

この人って結婚してるのですか?

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/15(日) 03:04

天理教

64 : :2001/07/15(日) 03:52

age

65 :名無しさん@お腹いっぱい:2001/07/15(日) 08:53

みゆきさんは結婚はしてないよ。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 22:56

革マルってのは、本当か?
北大軽音に出入りしていたのは、本当だが

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 22:58

振られる歌ばかり歌うのでブス扱いされるが、
よく見ると美人ですよね。そそる顔と体をしている。
もてる歌を歌いたがるユーミンの100倍は美人だ。
育ちの良さも感じるし。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:06

学生の頃、バイト先の同僚のオバチャンに聞いた話。
オバチャンが学生の頃、北大近くのアパートに住んでたらしいんだが、
隣が中島みゆきの彼氏の家だったらしい。
相当の修羅場があったらしく、ドアをガンガン叩いて暴れたりとか、
廊下で寝てたりとか、すごいことになってたらしい。
さすがあんな歌詞書く人よね〜と
しみじみ語っておりました、オバチャン。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:13

>>68 それすごい。デビュー前のことか。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:19

>68
ほんとすごい。
情が深そうな顔しているものね。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/07/16(月) 23:39

中島みゆきに惚れられたら、地獄の果てまで追いかけてくると思われ。
ある意味スッポン。(w

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 23:56

今の気分的にはそれもいいかもとか思っちゃうぜー。
なんか誰かにめちゃくちゃ愛されたい。愛したいって感じなのさ。最近(w

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/17(火) 00:04

『 愛していると云ってくれ 』ってやつ?

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/17(火) 00:08

しかし、情念は諸刃の剣だからね・・・
「愛したい」って叫ぶ人は、結局は自分が好きなだけかも。

75 :68:2001/07/17(火) 00:20

私は中島みゆきさんをそんなに存じてないのでわからないのですが、
当時彼女は藤女子大の学生だったと思われます。
なので、もしかするとデビュー前でしょうか?

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/17(火) 18:26

デビューは、卒後だが、大学時代からアマで活動してたよ

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/18(水) 19:49

68さん。中島の彼氏は、北大生のはずだが、そのおばさんも
北大生なの?

78 :68:2001/07/19(木) 22:55

>>77
いや、そこまでは知りません。
68で書いてるように、北大近くのアパートで、中島みゆきの彼氏の
隣の部屋に住んでたって話だけですから。
でも、年齢的なことを考えると、大学生とか短大生だったとおもいますよ、
おばさんも。

79 :名無し愛もーど:2001/07/24(火) 16:13

椎名和夫氏以前のブロデューサーで仲良かった人っていたの?

80 :名無しさん:2001/07/25(水) 10:05

プロデュ−サー でっすよん。



▲△▽▼

71 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 19:58 ID:MsxWbGRD
ここにも、みゆきファンが多いね。
私も彼女を見つづけている一人ですが、
彼女の隠されたキーは、彼女が共産主義者だったということです。
学生時代は、バリバリの活動家でアジっていたらしい。革マル派。

きのう、滝川と後藤が帰らなかったてねえ
今ごろ寒かろうね つらかろうねえ


74 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:03 ID:MsxWbGRD

握りこぶしのなかにあるようにみせた
夢を遠ざかる誰のために振りかざせばいい?
歌姫 スカートのすそを
歌姫 潮風に投げて
夢も悲しみも欲望も歌い流してくーれー

それとなく共産主義運動の挫折を歌っている個所が
ずいぶん出てきます。
私は歌姫が好きです。


77 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/26 20:23 ID:MsxWbGRD

彼女は、共産主義は捨てたんだよ
80年代に東欧諸国を旅をして
その現実に幻滅したことをある本に
書いている。


85 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 05:34 ID:reMFs4D2
>>77
それ、人違いじゃなくって?何て本?


86 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 07:13 ID:UoaOFwBi

ほんとほんと。
彼女は、80年代東欧諸国を旅行しているよ。
その旅の目的は、共産主義思想を捨てるためだ。
昔から東欧諸国を旅行することで共産主義思想の現実を把握し共産主義嫌いになるということが ひとつのパターンになっている。
安部公房もそうだ。
みゆきも、自分へのけじめとして旅行したかったんだろうね。

87 :  :03/09/27 08:19 ID:VAhdzvbS

歌で稼いで、共産主義なんてダメだわ!と気づき、
私は資本主義の世の中で、がっぽり稼ぐのよ〜って感じ?

立場が変われば思想も変わるクズ?


89 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 08:32 ID:Qitq5+Ff

中島みゆきの書く詩が共産主義思想についての詩だったのかと思うとなんだかな。
もっと人間の弱さと強さとか普遍的な人間というものを歌ってたのかと思ったよ。


92 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 11:20 ID:NzBGVwNR

私も共産主義思想の詩だとは思わなかった。。。
でも、もうその考えは捨てたんだよね。
そのことが書いてある本、読んでみたい。


93 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:02 ID:UoaOFwBi

彼女の歌に通奏低音のように響いているのは、 共産主義だ。
まあ、日本の映画作家や作家とかには、かなりいるけどね。
トラさん映画もそうだし、宮崎駿のそう。


94 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 12:47 ID:vABnYv7w

>共産主義どうこう

根拠をあげてくれればいいのに


98 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/27 19:22 ID:JSJjYWgC

根拠は、上げた。いくつも。
彼女が学生運動を激しくやっていたのは藤女子大の先生その他複数の証言がある。

歌詞もいくつもあげた。
彼女自身が書いた本もある。
極めて熱心なファンは知っている。
俺がそう。俺は彼女の容姿が好きなんだ。
彼女の顔も体も特に体の線がいいね。
あの腰からケツにかけたラインがすばらしい。
50になってもきれいだ。
昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

334 :^^:03/12/18 00:10 ID:a7z7WtIt

みゆきが、革マルだったのは有名な事実だが
新事実が出てきました。
なんとヤマハ会長の愛人だったって

109 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 13:14 ID:IV4TWm0U

>50になってもきれいだ。 昔はブスで有名だったが、俺にはブスにはみえなかった。俺は正しかったよ。

50くらいで整形したんでしょうか。
北海道にいるころは垢抜けないお姉さんだった。


110 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 18:48 ID:m0tO8Hh/

歯を矯正して、化粧を変えただけ。
元々、目鼻立ちの整った顔をしていた。


111 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:04 ID:+stqq9hU

もともと、スタイルは、抜群だしね。
身長は、165センチ前後らしい。


114 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 21:11 ID:+stqq9hU

医者の娘でしょう。母親はミス札幌
ブスなわけないじゃん。

121 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/28 23:43 ID:hHB+4UEQ
>>114
なるほど、医者の娘でないと母親がミス札幌でないと成功なんかできないんだな。
共産主義には走れないんだな。


122 : :03/09/29 00:45 ID:e4gAmVwF

俺の好きな宮沢賢治に通じるものがあるな。

129 : :03/09/29 01:04 ID:e4gAmVwF

賢治もみゆきも金持ちの生まれで弱者の味方。
欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている・・・


137 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 13:57 ID:GrAKVIOA

ローリングエイジ寂しさを
ローリングエイジ人に言うなあ
軽く軽く傷ついてゆけえ


90年代に入って彼女の歌は、あんまりよくなくなったね、
70年代が一番だし続いて80年代、そして今はあんまりよくない。
しかしポップスとしては他とくらば傑出しているのは、確かだ。
柳美理も彼女の大ファンだし、大岡正平も大ファン。
こんなポップス歌手ほかにいない。


140 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 15:48 ID:lu3ub98Y

中学高校と施設にいたんだけど「ホームにて」聞くと盆暮れ正月に帰省
したとき思い出して涙がでますわ。


144 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 18:45 ID:GrAKVIOA

ホームにて
 
あれは、帰ろうとするふりをするけども
なぜか、帰ることができない歌なんだよね。
実家に帰ることができない歌です。

145 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/29 18:57 ID:eVdb70tj

ふるさとへ 向かう最終に
乗れる人は 急ぎなさいと
やさしい やさしい声の 駅長が
街なかに 叫ぶ
振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰り人が笑う

走り出せば 間に合うだろう
かざり荷物を ふり捨てて
街に 街に挨拶を
振り向けば ドアは閉まる


振り向けば 空色の汽車は
いま ドアが閉まりかけて
灯りともる 窓の中では 帰りびとが笑う
ふるさとは 走り続けた ホームの果て
叩き続けた 窓ガラスの果て
そして 手のひらに残るのは
白い煙と乗車券

涙の数 ため息の数
溜まってゆく 空色のキップ
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券

たそがれには 彷徨う街に
心は今夜も ホームにたたずんでいる
ネオンライトでは 燃やせない
ふるさと行きの乗車券


151 :三年寝たろう ◆lr.SvCnhCc :03/09/30 01:46 ID:qqpb7Zlw

中島みゆきさんのコンサートってどんな雰囲気なんですかね?
もしかしたら、あのラジオ番組のノリでやってるんですかね?
ちょっと気になります。

152 :名無しさん@毎日が日曜日:03/09/30 05:59 ID:ZMd9+vBs

昔はよく泣きながら歌ってたみたいよ。
客を冗談で笑わしたかと思うと、次はしみじみ思い出を語りつつ泣きながら歌ったり(「まつりばやし」とかね)。

これは 70 年代の話だから、今はちょっと分からない。
「歌暦」はあるけど、あれが日常のライブの姿だったのかどうかもよく分からないしね。

233 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/19 05:25 ID:YaM57bRa

生きていてもいいですか?


235 :^^:03/11/19 06:11 ID:IP+ZDD1F

まさに、みゆきは、このアルバムを発表した1980年
生きていてもいいですか?と日本中に問いかけたのである。
もっといえば生きていてもいいことありますか?と問いかけたのである。
実際、その後の日本の状況はひどいもので、ますます人間が住んでいくことには、不可能なほどの生き辛い社会
いきぐるしい社会に変わっていく1980年という其のときに生きていてもいいですか?と問いかけた。

その後のみゆきの出すアルバムは、気の抜けたコーラのように味気ないものに変わり、みゆき自身も生きていないような歌に変わっていきます。

それに日本人も生きているのか死んでいるのかわからない状況で生きているのである。


260 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/26 05:56 ID:Hgd3QL82

根雪を始めて聞いた時に好きになった。25年位前だったと思う。
何か変わったような気がしてファンクラブもやめたのは日WING、月WING あたりからかな。
昔のアルバムは今でも聞く。


261 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/26 17:50 ID:NAm82bzX

アルバム買わなくなったの10年位前からかな・・・
みゆきも変わったんだろうけど、自分が変わったんだろう。
・・・同じく口ずさむのは昔の歌だなー


262 :名無しさん@毎日が日曜日:03/11/26 23:10 ID:Q+n4RJk5
>>261
漏れも EastAsia 以降買ってないなあ。

> みゆきも変わったんだろうけど、自分が変わったんだろう。

うんうん。


677 :名無しさん@毎日が日曜日:04/02/19 09:23 ID:MOIbSfZK

昔は心にしみる歌が多いね。
今はひどいね。
声が高くて早口で歌ってるだけだもんな。
歌詞も薄いし。




▲△▽▼


2010年11月17日
民主党、隠れ革マル派の見分け方・・・中島みゆきだった!


 中島みゆきが、警視庁の「革マル派シンパ」リストに名前があがっていることを知っているのは、限られた人だけだった。

 ほぼ同年代で、中島みゆきと同じ北海道出身のボスによると、

「ま、北海道は革マル派の牙城というか、学生運動=革マル派という時代があったから、その手の集会に顔をだしたら、革マル派シンパと認定される可能性があった。高校の後輩が、道警に就職したが、こいつも革マル派シンパか?と査問されたことがある。つまり、北海道では日教組、ロシアのスパイの次ぐらいに前職、元職をいれて革マル派が多い」

 と、のんきなことをいっている。
 こんなことだから、北海道はロシアの植民地にされかねないのだ。

 さて、民主党に革マル派が浸透しているという話だ。
 平沢勝栄先生が国会で追及したJR総連出身の参院議員のことだけをいっているのでない。秘書なのだ。民主党国会議員の秘書に革マル派が増殖中。
 どれくらい増殖中かというと、゜「自民党に浸透した統一教会・勝共連合出身の秘書にせまる勢い」(公安調査庁の担当者)
 という。

参考:JR総連・「松崎明」の運転手兼ボディガードでしられる「田城郁」 民主党から参院比例は難航・・・

 ところで問題は、
 以下の中島みゆきの「世情」である。

「シュプレヒコールの波・・」で有名になって、「革マル派のテーマソング」といわれていた時期がある。

 市民団体主催の反戦運動や集会で、この曲がでたら、「革マル派主催」といわれたものらしい。



▲△▽▼


474 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:18
あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の音音は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。

475 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:19

あと中島みゆきがカクマルだったとか
松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマルだったといはなしが
あるが本当でしょうか。


476 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24
>>475
中島みゆきは、いろんな説がある。
当時の彼が北大マルだったとか。

松任谷由実自身もマルだったという話もあるが、それはさすがにガセでしょう。
当時、彼女が通っていた多摩美はマルの拠点校ではあったが。数なんて、しれてる。

477 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:24

松任谷のほうは本当のようです。


479 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:29

坂本龍一や根津じんぱちが中核派だったということは本当だし
猪瀬もそうだし、中村敦夫参議院議員もそうだったときく。

カクマルも、舛添とか松任谷の弟もいたわけだから
松任谷由実が弟のオルグをうけて支持したことはあるでしょう。

だって、学生運動に挫折したような世代にもぞくしてるでしょ
あの人たち。

彼女のうたにもそれをかもしだす歌がありますからね。

480 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:31

      いちご白書をもう一度

 いつかきみと行った映画がまたくる
     授業を抜け出して二人で出かけた
     悲しい場面では涙ぐんでた
     素直な横顔が今も恋しい
     雨に破れかけた街角のポスターに
     過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度

    僕は無精ひげと髪を伸ばして
     学生集会へも時々出かけた
     就職が決まって髪を切ってきた時
     もう若くないさと君に言い訳したね
     君も見るだろうか、『いちご白書』を
     二人だけのメモリー どこかでもう一度

481 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:32

中核にはそのほか、糸井重里や梨本茂もいたらしい。
新谷のり子は、中核の選挙を支持していましたね。

また、いちご白書をもう一度をつくった杉田らは
立命民青だしね。

482 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:39

いちご白書をもう一度をつくった杉田<???


483 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:41

なしもとだけは嘘であってほすぃ


484 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

いちご白書をもう一度というアメリカの反戦運動
をモチーフにした映画が当時流行していました。

立命民青の杉田らが、それをふまえていちご白書をもう一度
をつくったわけです。
あと戦争をしらない子どもたちという歌も、彼等がつくりましたね。

485 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:44

梨本は、法政社会学部だけどチュンではないよ


486 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

杉田とばんばひろふみのバンドですよ。


487 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:45

荒井由美だよ<いちご白書

488 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:46

>戦争をしらない子どもたち

それのある意味アンチとして
パンダが「戦争しか知らない子供達」を作り、熱狂的な支持を受けていきます

489 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:50

梨本民青説をふいている人がいますが、それはうそです。

梨本は学生部を追求したことがあるらしく
学生部とはそりがあわなかったといっています。
当時法政大学は当局そのものが共産党色がつよく
学生部は共産党といえます。

法大生協が共産党だったために、学生会館には設置
できなかったらしいですね。

梨本が共産党であれば、共産党の学生部を追求するよりも、追求する
学生を排除する活動をいうはずです。

共産党民青は当時は今よりも相当セクト主義だったのですからね、

490 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 20:50

ということは杉田と有田と穀田はつながっているのか
立命の3田か

491 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:53

荒井由実時代はおそらく、カクマルにカンパしていたとおもわれますね。

ところで琉球カクマルの松任谷由実の弟は足をあらったのでしょうか。

492 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

立命館民青全盛の時代ですね。

493 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:54

中島みゆきは、内ゲバの周辺にいたことは明らかだね。
「まつりばやし」は学生運動へのレクイエムだろうか


495 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:58
>>493
学生運動へのレクイエムでいえば「世情」でしょう

494 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:57

荒井由実には、カクマル臭は全く感じないが。


496 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 20:59

松任谷由実の初期を聴いても、
どう考えても
マルとは対極のセンス。w

497 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:00

パンタですか、懐かしい。

498 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

「まつりばやし」の方が表現が間接的な分、意味深長に読める。
「世情」は、一度はなれてから、客観視してる印象。

499 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:01

おそらく中島みゆきは北海道全学連共闘シンパだつたのでしょう。

また松任谷由実の弟は沖縄マル学同でしたね。

500 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:04

まだ現役なのだろうか、松任谷由実の弟は。

501 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 21:38

ちゃうちゃう。中島みゆきはノンポリ。全く関係ない。

502 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:04

北大の音楽サークルらしいから、当事者だったかどうかは知らないが、いろいろ見てるよ。


503 : 名無しさん@3周年[sage] 投稿日:04/02/08 22:05

地上の星ってまさか…

504 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:10

昔、「中島みゆきの弟が、革マルの(元)活動家で、その弟への『仕送り』的な意味で革マルのシンパである」という噂を耳にしたことがあります。

あ、あと松任谷由美は、学生時代革マルの活動家だった、とか。

『卒業写真』は、活動をやめたころの彼女の心境を歌っている、なんて言われてました。
真偽のほどは定かではありません。

505 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:22

ちゃうよ。

松任谷由実の弟は琉球大学医学部のカクマル派。
仕送りしていたのは松任谷由実。

中島みゆきのほうが、カクマル活動家だったらしい。

いちご白書が弟のことをおもったもので、
世情などがカクマル時代の中島みゆきをうたったものだと
いわれています。

504さんは意図的にすりかえていますね。

中島みゆきは北大ではありません。
ただ北大のサークル連合はカクマルが掌握し
シンパもいたといえます。

みゆきは全学連北海道共闘系だったということでしょうか。


507 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:33

実は、内ゲバのテーマソング?

 キツネ狩りの歌

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
あとは君のその腕次第

もしも見事射とめたら
君は今夜の英雄
さあ走れ夢を走れ

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね

キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず
見事手柄たてたら乾杯もしたくなる
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
仲間たちとグラスあけたら

そいつの顔を見てみろ
妙に耳が長くないか
妙にひげは長くないか

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
グラスあげているのがキツネだったりするから
君と駆けた君の仲間は
君の弓で倒れてたりするから

キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら、ね

508 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:34

話題が松任谷の弟になったからですか、カクマルよ。

現役かどうかはしらんが転向していたとしたら、
いい資金源をうしなったわけですがね。

509 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:50

また、趣味者相手にカクマルですか。マル厨が涌きますので止めてください。


510 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/08 22:58

元カクマルの趣味者かな


511 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:04

マルがマルネタで面白がってもな。

つ・ま・ら・ん


512 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 01:09

コケマル趣味者か・・・
ほんと、つまらん。


515 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:49

あのね、中島みゆきは違うんですよ。(キッパリ)

516 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 09:56

もともと北海道には「中島みゆき=革マル(シンパ)説」なんてなかったんです。
今は、本州からその「説」が流れ込んできていますが。

北海道の、その年代のいろいろな潮流の活動家に聞いても「そんな説は知らん」
といいますよ。

北大は革マルがおさえていましたが、「北大祭」と言えばそんなことは関係なく
地元では大きなイベントなんです。そのイベントに、隣の大学(藤女子大)にいた
彼女が参加しても何の不思議もないのです。

517 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 11:08

黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
足並揃えた幻たちの場面
それを宝にするには あまり遅く生まれて
夢のなれの果てが転ぶのばかりが見えた
Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ
Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる

518 : 名無しさん@3周年[] 投稿日:04/02/09 12:23

北大祭は革マルがやってんだろ。
動労とか総動員してさ。

早稲田祭のように動労を動員させて、記念集会みたいのやっていたわけだろ


▲△▽▼

革労協スレッド31

186革命的名無しさん2017/10/28(土) 07:37:19.79
>>182
お前のようなモノには、革命も解放も永遠に理解できないだろうな。
関係無いけど、中島みゆきの歌を思い出したよ。

「闘う君のことを、闘わない奴がわらうだろ。冷たい雨の中を、、、」だったかな。


187革命的名無しさん2017/10/28(土) 12:33:46.54
>>186
解放派が、中島みゆきを賛美しちゃダメでしょ。
革マルなんじゃなかったの。


189革命的名無しさん2017/10/28(土) 17:17:26.00
>>187
おい、中島みゆきは本当に革マルなのか?
証拠は?

190革命的名無しさん2017/10/28(土) 17:21:11.93

ないが、趣味者界隈じゃ常識だろ。


192革命的名無しさん2017/10/28(土) 18:30:17.08

中島みゆきは革マルじゃないよ。
あんないい歌を創る人が革マルであるはずが、ないじゃないか。

194革命的名無しさん2017/10/28(土) 18:41:13.56

内田樹が元革マル  解る
中島みゆきが元革マル  嫌

195革命的名無しさん2017/10/28(土) 18:51:35.50>>204

いや、中島みゆきは元革マルだ!
なぜなら北海道出身だからだ!
北海道は革マルの牙城なので、
ゆえに中島みゆきも革マル派以外の何者でもない!ww

それにしても「世情」は、
いつ聞いてもいい曲だな!
党派や時代を超えて、
人々の胸を打ち続ける!


200 195 2017/10/28(土) 19:51:19.78>>202

今、YouTubeで「世情」を改めて聞いてみた!

「シュプレヒコールの波、通り過ぎて行く、
変わらない夢だけを、流れに求めて」

この部分は、
新左翼各派の人間が共通に抱く感情!


だが、しか〜〜〜〜し!
その後の…

「時の流れを止めて、変わらない夢を、
見たがる者たちと、戦うため〜〜♪」

なんじゃ、こりゃ!
新左翼各派と対峙してきた、
公安or革マルのことかいな?!(?_?;


202革命的名無しさん2017/10/28(土) 20:12:17.28
>>200
世情のその歌詞は、私も以前から疑問でした。みゆき本人にきかないと分かりませんね。
ところで、私が歌詞を間違って紹介したのはファイトのほうです。
別に屈折したエリート主義の歌じゃないですよ。
力弱き人たちが世の不条理と闘う、そのことへの応援歌ですよ。
革マルと正反対じゃないですか。

203革命的名無しさん2017/10/28(土) 20:22:39.99

ンダ、ンダ。解放派への応援歌だ。

204革命的名無しさん2017/10/29(日) 01:49:21.93
>>195
すげえな。それなら北海道出身者は全員革マルだな。
解放派にも拠点大学がいつくかあったが、
ではそこの学生はみんな解放派の活動家かシンパなのかといえば違うだろ。

と、ネタにマジレスしてみる。

205革命的名無しさん2017/10/29(日) 02:20:45.59
>>204
そうだよ!
あの松山千春も鈴木宗男←(ってこの字だったかな?!(-_-;))先生も、
隠れ革マル派シンパだよ!
ってなわけねうだろうが…(ノ`△´)ノ

ところで確か小樽水産大学←(でしたっけ?!)も、
かつては解放派の拠点大学とか書いてあったけど、
まあ、昔々大昔のことなんでしょうねえ!

2061952017/10/29(日) 04:47:03.55>>207

深夜に目が覚めてしまい暇だったので、
中島みゆきの「世情」の歌詞の解釈について、
いろいろとググってみた!


皆さん一様に、
「この歌は難解だ」「その歌詞に二重性がある」と感じているようだ!


でもやっぱり自分としては、
昔から趣味者界隈で流布されている←(自分の思いこみや記憶違いかもしれないが)、
「中島みゆきの世情は革マル派の応援歌」といった説が、
今のところは一番しっくりくるのだが…(-_-;)


207革命的名無しさん2017/10/29(日) 06:39:59.78
>>206
革マルを応援するモノなどいない。みゆきは、もちろん、誰も革マルなど応援しない。
革マルを応援するのは、革マル自身と国家権力、ヤツラノ反革命性を知っているファシストくらいのものだ。

208革命的名無しさん2017/10/29(日) 07:28:44.27

現実に戻ると(笑)。

「世情」は、「3年B組金八先生」の第2シリーズ(1980年10月〜1981年3月放映)の第23話の

「加藤優(直江喜一)」が不当に刑事に連行されるシーンのバックに流れた曲として有名らしい。

つまり、1981年に10代であった1960年代後半以降生まれの人たちにも、とても良く知られた曲らしい。彼ら彼女らは、「世情」に涙ぐむ。

209革命的名無しさん2017/10/29(日) 08:29:36.92>>210>>212

中島みゆき=革マル説の根拠は、せいぜい歌詞にある「ライフ」という店が革マルのたまり場だった
ということ以外は、聞いたことがない。

しかし、革マルって特定の店をたまり場にする習性があったっけ?

彼女が北海道にいたころは、革マル一色ではなく、旧三派いずれも北海道でそれなりに勢力を持っていた。

中核などは「北大戦争」と称して数十人の竹竿部隊をだだっ広い北大に投入して、丸一日構内を彷徨っても、遭遇せずに帰ったなどというのを数次にわたり実施した。
(このあたり、早稲田に登場して革マルを蹴散らした解放派とは違うな)

70年夏の例の一件以降、中核の学生部隊は北大などから一掃。されど、アゲハが71年の沖縄闘争に40〜50上京して、他の府県の高校生より多かったという話もあるから、それなりに残存していたらしい。

ブントも中央の日向対12.18の分裂に際し、独自の立場に立っち、「北海道戦旗」を名乗って活動。

解放派については、ここの住人の方が詳しいでしょ。
ようするに、いろんな人たちがいたんだから、革マルであると限らない。
 

ちなみに、清歌手で革マルなのは、松任谷由美。
100万もの金をカンパしたとか、三里塚闘争に賛同した長谷川きよしや山崎ハコを恫喝した話は有名。

松任谷と中島の作風を考えれば、中島が革マルであるという説は信用しがたい。


210革命的名無しさん2017/10/29(日) 09:08:32.92
>>209
中島みゆきが革マルでないことは、最早、明確になった。

しかし、ユーミンが革マルと云うのも、眉つばではないか?
プロレタリア統一戦線戦闘団の服務規律をまとめた書物の名称は「ルージュの伝言」だぜ。
ユーミンが革マルだと、非常にまずい。


212革命的名無しさん2017/10/29(日) 12:43:04.83
>>209

丁寧なコメントをいただきありがとうございます。
その頃までには北海道には さまざまな党派が現れていたのですね!

自分は

「たまたまみゆきさんが、革マル派の主催した集会か何かに、それとは知らずに呼ばれて歌ったところ、それ以来、革マルシンパの話が生まれた」

みたいなことを、かつてどこかで聞いたような覚えがあります!

ユーミンが革マル派だったのですか?!
いや、ほんと、このスレは、いろいろと勉強になります!







メンテ
中島みゆき名曲集 ( No.2 )
日時: 2022/05/06 17:39
名前: スメラ尊 ID:9QYRMUxQ

中島みゆき名曲集


春なのに 柏原芳恵 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%98%A5%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AB++%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E8%8A%B3%E6%81%B5


わかれうた・・中島みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6wzsb5


中島みゆき − エレーン - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32317926


雨が空を捨てる日は Miyuki Nakajima / 中島 みゆき - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6rphak


時代 -ライヴ2010〜11- (東京国際フォーラムAより)
https://www.youtube.com/watch?v=Ry_bpaKDcAo&t=4s
メンテ
1970年代の日本の名歌は学生運動の挫折を歌ったものが多い ( No.3 )
日時: 2022/05/11 03:39
名前: スメラ尊 ID:7p9rFF4M

1970年代の日本の名歌は学生運動の挫折を歌ったものが多い


「22才の別れ」 作詞・作曲:伊勢正三 リリース 1975年2月5日
https://www.youtube.com/results?search_query=22%E6%89%8D%E3%81%AE%E5%88%A5%E3%82%8C

イルカ なごり雪 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB++%E3%81%AA%E3%81%94%E3%82%8A%E9%9B%AA



なごり雪の世界観は70年代当時の学生たちの心境の変化や風潮を反映しています。その頃は学生運動が盛んで、学生は髪を伸ばし、ある者は闘争に走り、またある者はギターを弾いて反戦歌を歌っていました。

1969年に東大安田講堂事件が起こり、1971年にはジョンレノンが「イマジン」を発表し、1972年には浅間山荘事件が起こります。学生運動は下火になり、長髪の若者は髪を切って就職します。夢から覚め(あきらめ)、現実の中に組み込まれていくわけです。1975年に発売されたバンバンの「『いちご白書』をもう一度」にこのあたりの風潮が反映されています。

一方で、音楽で自己表現していた若者の中には、就職せずに音楽で生活しようとプロを志す人たちもでてきます。そういった時代背景を基に、1974年に「なごり雪」が発表されます。

この歌が単なる男女の別れだったら彼女は汽車に乗って東京を離れる必要はありません。彼女が彼と別れる理由と東京を離れる理由は、彼以外の別の男性と結婚することになったからです。両親の勧めで縁談か何かで地元に戻ることになったのかもしれません。彼には彼女をつなぎとめるほど経済的自立はできていません。まだ就職をせずに、なにか別の道を夢見ている若者なのでしょう。音楽で生きていこうとする伊勢さん自身が投影されているのかもしれません。

「ふざけすぎた季節」は二人で「夢を見ていた季節」です。そして「時がゆけば 幼い君も 大人になると 気づかないまま」とは知り合った頃は幼くみえた彼女が、いつのまにか現実を直視する大人の女性になっていたことに気づけなかった自分に対する後悔の念を表現しています。そんな自分のふがいなさに彼女の心変わりを責めることは出来ず、彼は精一杯のエールを心の中で彼女に対して送ります。それが、「今 春が来て 君はきれいになった 去年よりずっと きれいになった」の部分です。

春は季節以外にも人生の春、つまり結婚を表します。そして結婚という現実を選んだことは別にやましいことではなく、成長して大人になった君は去年よりずっときれいだと表現しています。表面的なきれいさだけを表現したわけではありません。一緒になれないのは自分のせいで、君の心に曇りはないと、彼なりに精一杯のエールを送っているわけです。

私は「なごり雪」の世界観をこういう風に解釈していましたが、「22才の別れ」を聴いたときにそれは確信できました。元々、かぐや姫のアルバム「三階建の詩」に収める曲を提供するために伊勢さんは「なごり雪」ともう1曲用意していました。しかしレコーディング当日、その曲が気に入らず、1日だけ待ってくれと言い、徹夜で作り上げたのが「22才の別れ」です。たった1日で名曲を作り上げる伊勢さんの非凡さもさることながら、この曲の歌詞は「なごり雪」と対になっていることに気づかされます。以下は「22才の別れ」の歌詞です。

22才の別れ作詞/作曲:伊勢正三

あなたに「さようなら」って言えるのは今日だけ明日になって またあなたの暖かい手に触れたらきっと言えなくなってしまうそんな気がしてわたしには鏡に映ったあなたの姿を見つけられずにわたしの目の前にあった幸せにすがりついてしまったわたしの誕生日に22本のローソクをたてひとつひとつがみんな君の人生だねって言って17本目からは一緒に火をつけたのがきのうのことのように今はただ五年の月日が長すぎた春といえるだけですあなたの知らないところへ嫁いでゆくわたしにとってウウウーウウウウウ・・・ひとつだけこんなわたしのわがままきいてくれるならあなたはあなたのままで変わらずにいてください 

そのままで歌詞を読むと、このカップルは17歳の頃から付き合っていることが分かります。そして5年の月日が流れ22才になります。22才は大学4年生。学生が就職活動し、社会人を目指す歳です。22才の誕生日の頃はまだ彼に希望を持てた。幸せだった頃です。でも大学を卒業した後、彼は就職もせず、将来が不安になります。そんな中、経済的に自立できている別の男性との結婚話がもちあがり、選択を迫られる中、彼女は彼がまだ現実を見つめずに夢を追っていることに付いていけなくなります。そして、別の男性と結婚することを選択します。

それが、「わたしには鏡に映った あなたの姿を見つけられずにわたしの目の前にあった 幸せにすがりついてしまった」という部分です。歌詞の後半にはそれがはっきりと書かれています。

「あなたの知らないところへ 嫁いでゆく わたしにとって」

これでこの曲の主題ははっきりしてきました。「長すぎた春」は「ふざけすぎた季節」でもあります。そして最後に彼女から彼へのエールがあります。「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」

「なごり雪」の中で「動き始めた汽車の窓に 顔をつけて 君は何か言おうとしている 君のくちびるが さようならと動くことが こわくて 下をむいてた」とあるので、彼は彼女の言葉を知りません。実際に「さようなら」と言ったのかもしれませんが、彼女は「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」というエールを送っていたとも受け取れます。

このように「なごり雪」は「22才の別れ」と一緒に聴くことで、その世界観がはっきりしてきます。「なごり雪」はあるカップルの別れを男性側の視点から描いた歌で、「22才の別れ」は女性側の視点から描いた歌だということが分かります。だからぜひ、「なごり雪」は「22才の別れ」と一緒に聴いてください。


▲△▽▼


いい日旅立ち Kyoto vol.1 山口百恵編 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA&feature=related

鬼束ちひろ - いい日旅立ち・西へ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xPZXIQdHaZ0


谷村新司
「歌詞をよく見て下さい。
『いい日旅立ち』は決してそんな祝いの席に歌うような、いい意味の曲ではありません」



いい日旅立ち
これは、普通に国語がわかれば、別れを振り切るために一人旅にでる心境を表した歌でしょ。


「帰らぬ人達」の幻影を求めて、旅に出る。
「日本のどこか」でその大切な人に会えるかもしれない。
そんな強烈な願望が「熱い胸をよぎる」。

でも、決して出会えることはない。
大切な人は、「夕焼け」であり、「羊雲」であり、もう決して出会うことのない存在だから。

そして、

「想い出を創るため砂に枯木で書く」
「“さよなら”と」


これは失恋と言うより死別では?
とてもいい曲だけど。




「いい日旅立ち」について桑田さんが 
 
「死の匂いがする・・」 

って言っていたのを聞いて「あ・・ すごい」 と思ったのと同時に 急にゾッとしてね。僕は今まで 普通に
 
「恋に破れた女が 傷ついたこころを癒すために新しい出会いを求めて ひとり旅に出る・・」 
 
・・そういう詞だと思って聴いていたんだ。 だけど 桑田さんは 


「死地への旅路・・   死に場所を求めてさまよう女の歌」 


だと・・・ そういう風に捉えておられるんだよね・・。


▲△▽▼


聖母たちのララバイ 岩崎宏美 2000 昭和の歌
https://www.youtube.com/watch?v=8stEnG7VVCE


『聖母(マドンナ)たちのララバイ』の原曲・元ネタ

『聖母(マドンナ)たちのララバイ』は、1982年5月にリリースされた岩崎宏美のシングル。作詞:山川啓介、作曲:木森敏之(共作扱い)。 曲前半のメロディが1980年のアメリカ映画「ファイナル・カウントダウン」サントラからの盗作が発覚し、日本レコード大賞の対象から除外されている。

映画「ファイナル・カウントダウン」(The Final Countdown)とは、1980年に公開されたアメリカ映画。原子力攻撃空母ニミッツが太平洋戦争中にタイムスリップする架空戦記(歴史改変SF)。

曲の前半部分が、ほぼそのまま『聖母たちのララバイ』のそれと共通している。ここまで大胆な引用もなかなか珍しい。

元ネタとされる映画「ファイナル・カウントダウン」との共通点は、メロディだけではなく、歌詞の一部にも見られる。該当部分を次のとおり引用する。

この都会(まち)は 戦場だから
男はみんな 傷を負った戦士

<引用:山川啓介『聖母たちのララバイ』歌詞より>

「戦場」「戦士」といったキーワードが、タイムスリップ戦争映画である「ファイナル・カウントダウン」と偶然にも内容的に近接しているのが興味深い。
ttp://www.worldfolksong.com/songbook/sokkuri/madonna-lullaby.html?msclkid=3b29fae2d08e11ec978b8278ebbe67a9


『聖母(マドンナ)たちのララバイ』の元ネタ
ユングの元型論と変容論 影とアニマ

ユングの言う「アニマ」は男性の中にある未熟な女性である。男性が眺める女性は多かれ少なかれ理想化されている、つまりアニマが投影されている。このアニマの観念は「影」と並行して考える事でより良く理解される。影が同性として現れる事が多いのに対しアニマ、アニムスは異性である所が異なるが、心理的機能は影と同じ様に考えられているからだ。

(1)まず「影」は人間が幼児期のある段階で無意識の中に抑圧した自分自身の一部である。それは表の人格と反対の性格を持つ「自分が否定したい自分」「受け容れられない価値観」である。
影は普段は抑圧され社会的鍛錬を経ていないため、暗く未熟で原始的、情動的であり、反社会的である場合もある。

アニマも同じである。幼児は両性具有的であり、その後多くは社会的ジェンダーの圧力により女性性が抑圧され隠される。そして影と同様にまずは「否定的エネルギー」として作用する。

(2)影とアニマは「投影」される点でも共通している。
自分自身の影を他人の中に見る事をユングは「投影」と呼んだ。投影は激しい感情、多くは怒りを伴う。例えば或る人の陰湿な面に理不尽とも言える激しい怒りを感じる時、それは自分の奥に同じ陰湿さが隠されている事を否定したいためかもしれない。

アニマの場合、投影は対象の中に自分の理想化された異性像を見る事である。ユングはそれを4つの発展段階論に整理した。

@ 生物的アニマ
性的、肉体的な色彩が強く、性格、心情より容姿が優先される。アプロディテがこの代表だろう。

A ロマンチックなアニマ
性的な面を残すが、性格も顧慮され、美的で恋愛の対象である。「ロミオとジュリエット」など悲恋物語に出て来る女性。

B 霊的アニマ
無償の愛、無限の慈悲などの癒しを求める。乙女の清浄さと母親の暖かさを併せ持つ。聖母マリアや観音菩薩が例として挙げられる。

C 叡智的アニマ
近づき難い神聖さと知恵を持つ。性的要素は完全に消える。女神アテナやモナリザの微笑がもたらすもの、また河合隼雄氏は弥勒菩薩を挙げている。

一方アニムスの発展段階論はユングの死後、妻のエンマによって提案されたが、ユング自身はアニムスはアニマと比べて不定形で捉えがたいものと考えていて、ユング派の中でも彼女の説を認めない学者もいる。ここではユング心理学の中心になる影とアニマに限定しアニムスの段階論は参考資料を挙げるにとどめる。比較神話の中で必要になったら再考したい。

徹底解説!ユング心理学 : アニムスの変容で女性の心の成長度がわかる
ttp://blog.livedoor.jp/brgj/archives/925859.html

(3)影は社会と断絶しているのではなくむしろ意識よりも周囲の雰囲気に影響され易く集団ヒステリー的な状態になり易い。伝染性のエネルギーを持っているのである。
ユングの弟子、マリー=ルイス・フォン・フランツは例として悪魔に取り憑かれた修道女や現代アメリカのKKKなどを挙げている。もちろんナチスもその良い例となるだろう。

これは意識よりも無意識の方が他者と繋がっているとするほとんどの神秘主義者の説と一致する。ダイアン・フォーチュンによれば「呪い」は相手の無意識に働きかける事であり、その秘訣は相手の「裏庭の鍵を握る」事である。

アニマも同様に人の運命を左右するほどのエネルギーを持つ。恋愛は時には人間に死を恐れない強さを与える一方、時には悲惨なほど堕落させる場合もある。僕が日本思想史の記事で書いた「政治と恋愛の相似」はユング的に言えば「影とアニマの相似」という事になる。

(4)従って影やアニマに対し正面から向き合い、対決し、同化する事が最良の対処法である。

「影の同化」によって人間は影の強力なエネルギーを使いこなしギリシャ神話的英雄となる。ヘラクレスの12の功業がその例として挙げられている。
逆に影が意識と切り離され孤立するほど不可解な魔術的な形で意識に危険な作用を及ぼす事になる。影は無視され誤解されることにより敵対的なものとなる。影は表の人格に対して毒にも薬にもなりうる両義性を持っているわけである。

アニマも同様に両義性を持ち、(2)の4段階を経て表の人格に統合されるとユングは考えた。アニマの両義性はグレイトマザーの両義性に繋がっている。これについてはまた次回に。
ttp://bashar8698.livedoor.blog/archives/15686973.html
メンテ
日本の共産主義者は戦後の日本が既に階級が無い共産社会になっているのに気付かなかった ( No.4 )
日時: 2022/05/10 07:14
名前: スメラ尊 ID:neEbeIso

日本の共産主義者は戦後の日本が既に階級が無い共産社会になっているのに気付かなかった


昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。

1970年代は科学的社会主義とかいうのが流行っていて、唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホ左翼が沢山いたのです。


赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでましたからね。


当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。


因みに、現在の日本共産党は親米保守で反動極右勢力に変わっていますね。

昔から民青の学生は事大主義で

大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど

会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名でした。


民青や共産党員にまともな人間は一人もいませんでした。

つまり、20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのは
GHQ の教育方針が反映していただけで、自律的で自然な現象ではなかったのですね。

戦前に極右で米英鬼畜とか言ってた極右は終戦後に殆ど日本共産党員に転向しています。
反対に、全学連の闘士は年取ってから大半が極右になっています。

つまり、

極右=極左

で、環境によって極右になったり、極左になったりするだけなのですね。


▲△▽▼
▲△▽▼


日本共産党はマッカーサーが創設した
ttp://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more


マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:ttp://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig


日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。


▲△▽▼


醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:ttp://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:ttp://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
ttp://www.thutmosev.com/archives/72011631.html

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2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面

マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:ttp://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
ttp://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


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2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
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マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

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日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」


この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
ttp://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html


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NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945−1946 - YouTube
ttps://www.youtube.com/results?search_query=%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB+1945%EF%BC%8D1946


初回放送 2017年8月20日(日) 午後9時00分〜9時59分

終戦直後の東京を記録した鮮明な映像が、次々に発掘されている。さらには、極秘扱いだった10万ページに及ぶCIA文書が情報公開法によって続々と公開され、敗戦直後の東京をめぐる新たな真実が明るみに出てきた。浮かび上がってきたのは、ヒト・モノ・カネをブラックホールのようにのみ込んでふくれあがる東京の姿。

焼け跡に最初に出現したブラックホールは「闇市」だった。日本軍や米軍のヤミ物資が大量に横流しされ、大金を手にした野心家が、新しいビジネスを興す。六本木や銀座には、治外法権の「東京租界」が生まれた。占領軍を慰安するショービジネスから、戦後の大衆文化を担う人材が生まれた。

連合軍による占領からはじまった戦後ゼロ年の東京。それは、今の東京を生み出した原点である。俳優の山田孝之が、21世紀の若者にふんし、時空を超えて当時のフィルムの中に入り込み、東京ゼロ年を追体験していく。それは、まもなくオリンピックを迎える東京の足下を照らし出す、確かな道しるべとなるはずである。


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朝鮮戦争は八百長だった

ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ


ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。


<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


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ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!


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2018年12月14日
日産の本当の問題は政府の過干渉 GHQからフランスまで

プリンス自動車乗っ取りに成功した日産は、人気車を利用しプリンス社員は下請けや派遣のように扱った

今同じことをルノーにやられている


画像引用:ttps://pbs.twimg.com/media/C9nhPEGVwAAasKg.jpg


日産はなぜ混乱するのか

日産のゴーン逮捕から企業統治問題が発生し、フランス国営化するか独立かということになっています。

最初に国営化をしかけたのはフランスのマクロン大統領で、今後半年以内に国営化の手続きをするつもりだった。

ゴーンは当初反対していたものの、自分の地位の保証と引き換えに、ルノー日産国有化に合意しました。

こうしたタイミングで日産が東京地検に告発して逮捕した事は、やはり関係があると推測します。

ところで日産は90年代に経営破綻してルノーが買収したが、どうしてこうなったのでしょうか。

1991年から98年にかけて確かに日本は不況だったが、他の自動車メーカーは破綻していません。


有名な逸話として日産では社長や経営陣にモデルチェンジの決定権がなく、工場長が決めていました。

座間工場など有力な工場長は労働組合幹部を兼ねていて、労働組合の合意がないとモデルチェンジできませんでした。

日産マーチは8年間モデルチェンジしないと労組と約束し、他の車も老朽化したまま放置されました。


トヨタは4年ごとにモデルチェンジしていたのに日産は6年か8年ごとなので、その差は販売に現れました。

こうして日産はホンダにも抜かれて国内3位メーカーになり、海外でも売れず経営破綻に至りました。

日産の労働組合が強大な力を持つに至ったのは、GHQ(連合軍総司令部)の命令で、日本軍に協力した懲罰でした。


各国政府が都合よく日産を利用した

日産は戦前満州や朝鮮の軍事輸送に深くかかわり、陸軍の軍用車の大半を生産していました。

GHQはこれを問題視して財閥解体したうえに、自動車の生産を禁止しました。

禁止しただけでなくGHQは日産を「戦犯企業」と定義し、戦前の逮捕者や共産党員、在日韓国人を経営に参加させるよう強要しました。


この強要は戦前軍部に協力した朝日新聞などの新聞にも行われ、日本の新聞は共産党員や左翼活動家らが支配することになりました。

日産の自動車生産は数年後に許されたがトヨタと大差がついていて、本格的に再開されたのは1950年の朝鮮戦争以降でした。

皮肉なことに米軍は朝鮮での戦争協力を日本に依頼して、日産にも軍事協力を求めてきました。


戦前は日本軍べったりだったが、戦後も米軍の軍事企業として再開を許されたのです。

朝鮮戦争は終わったが続いて高度成長時代になり、日産の自動車生産は順調に増えました。


ここで襲い掛かったのはオートバイや自動車メーカーの乱立で、日本政府はメーカー統合を強要しました。


GHQは日産労組や幹部に共産党や左翼活動家を採用させ、大混乱に陥れた

GHQが指名した人物なので日産は絶対に解雇できない


1953_Nissan_Labor_Dispute
引用:ttp://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


フランス対日本になった理由

スカイラインなどを生産していたプリンス自動車を日産が吸収合併したのが、これが後に禍根となった。

プリンス側は対等合併と聞いていたのに実際は合併すると日産側の社員が威張り散らし、プリンス社員は解雇されたり苛めで辞めされられた。

日産はスカイラインという美味しいブランドだけを利用し、GTRなどの人気車を生み出しました。


このプリンス統合も労組や経営陣に激しい対立を生み、経営破綻につながっています。

1990年に日本はバブル崩壊し車の売れ行きが急減、日産が得意とした若者向けスポーツカーは全滅しました。

ここでまた日本政府とフランス政府がちょっかいを出してルノーに買収させ、事実上ルノーの子会社になりました。


ルノーは実は日産以上のダメ会社で、フランス政府は手を焼いて「日産とくっつけて国営化しよう」と考えました。

これがマクロンのルノー日産三菱国営化で、工場も本社も日本から奪い取ってやると宣言していました。

いわば日本への宣戦布告であり、日本側はゴーン逮捕という「真珠湾攻撃」で報復しました。


ここまで見てきて日産を混乱させている本当の原因は、戦前から続いている政府の過干渉だと考えられます。
ttp://www.thutmosev.com/archives/78424019.html

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ユダヤ国際金融資本と GHQ は日本を共産化しようとして農地改革と人為的インフレ生成・金融封鎖を行った

フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようと計画していた。


それで平等主義的な日本国憲法を制定、

農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後の人為的なインフレはそういう背景で起こされた


 

株も不動産も奪われる! 預金封鎖よりも怖い「財産税」の傾向と対策=東条雅彦 2016年9月25日
ttp://www.mag2.com/p/money/23235


メルマガのQ&Aコーナーで「過去に不動産や株式に資産課税が実施された事例がありましたか?」という質問を受けました。「はい、あります!」……それは日本です。

以前に解説したキプロスの預金封鎖では銀行預金だけが対象でしたが、我が国で起きた1946年の預金封鎖・財産税では、株式も不動産もあらゆる資産が課税の対象となりました。

本稿では、できるだけ歴史的・客観的な事実をベースに、様々な諸事情で新聞、テレビ、他メディアでは積極的に報道しにくい領域に踏み込んでいきます。特に財産税の課税手順については、どこよりもわかりやすく解説したつもりです。2013年に発生したキプロスの預金封鎖との違いに注意しながら、読み進めてください。

一体いくら奪われる? 資産課税の手順を知り危機を乗り越えよ

預金封鎖、2つの目的

預金封鎖の目的は、「資産課税」と「取り付け騒ぎを起こさせないこと」の2つです。2013年のキプロスの預金封鎖では、10万ユーロより多い預金が没収されました。

もし預金封鎖の情報が事前に漏れると、取り付け騒ぎが発生します。

銀行の経営者は少しの現金を手元に置いておけば、十分だということを知っています。預金残高の一定比率の金額しか保有していなくて、この比率を「預金準備率」と呼びます。

預金準備率は預金の種類や金額によって様々ですが、概ね1%程度です。残りの資金は企業への貸し付けや債券や株式への投資に回しています。そのため、大勢の人々が一気に預金の引き出しをしようとすると(取り付け騒ぎが起きると)、その銀行は倒産してしまいます。

預金封鎖の情報が事前に漏れて、国民全員が一気に銀行に押し寄せて、預金を引き出そうとすると、その国の銀行が全て破綻するリスクがあるのです。取り付け騒ぎになる前に、預金封鎖を実施しなければいけません。

銀行休業日が危ない

キプロスでは2013年3月16日に預金封鎖が発表されました。この日は土曜日で銀行は営業していません。預金封鎖の発表は土曜日、日曜日、祝日など、銀行の窓口が営業していないタイミングを狙います。

土日に営業している銀行でも、現金の取り扱いはどこも行っていません。365日、休みなしで銀行に営業を許可している国はありません(営業時間が最も長いと言われている米国でも、日曜日はお休みです)。どの国も過去の歴史から、預金封鎖・資産課税に備えて、銀行には休業日が必要であることを知っているからです。

日本でも1946年に預金封鎖が実施された!

1946年2月17日、日本で預金封鎖、新円切り替えが実施されました。政府が発表したのは、前日の2月16日土曜日でした。

キプロス預金封鎖と同じで、やはり銀行の窓口が休んでいる時に発表されます。繰り返しになりますが、事前に情報が漏れて取り付け騒ぎが起こると全てが水の泡です。

1946年の日本の預金封鎖も、2013年のキプロスと同様、事前に情報が漏れずに実施できた、預金封鎖の成功例となりました。

預金封鎖では引き出しが完全にできなくなるのではなく、引き出し額を大幅に制限されました。銀行預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円でした。

預金封鎖と呼ぶより、「出金制限」と言う方が実態に沿っています。

1946年の国家公務員大卒初任給が540円だったので、現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が11万円前後、世帯員が1人各4万円弱まで引き出せました。

そして、封鎖預金中に引き出されたお金は全て「新円」でした。このとき、1946年3月3日からは「旧円」の市場流通を停止すると、同時に発表されていました。

これが「新円切り替え」と呼ばれる政策で、その目的は市場でのお金の流通量を制限して、急激なインフレを抑止するためだとされていました。

ところが、国民は逆に3月3日までに旧円を使い切ろうとしたために、インフレが加速してしまいました。

インフレを抑制するという意味では、預金封鎖&新円切り替えは大失敗でした。しかし、実は、この預金封鎖の目的はインフレ抑制ではなかったことが明かされたのです。


69年後に明かされた預金封鎖「真の目的」とは?

2015年2月16日、NHKの報道番組「ニュースウオッチ9」にて、「『預金封鎖』もうひとつのねらい」という特集が組まれました。(※参考動画 – YouTube)

放送では、当時の大蔵大臣である渋沢敬三氏と、大蔵官僚である福田赳夫氏(後、総理大臣)の証言記録が公開されました。

福田氏:「通貨の封鎖は、大臣のお考えではインフレーションが急激に進みつつあるということで、ずっと早くから考えていられたのでございますか?」

渋沢大臣:「いや、そうではない。財産税の必要からきたんだ。まったく財産税を課税する必要からだった」

証言記録では、「インフレを抑制させるためですか?」という質問に対して、渋沢大臣は「そうではない(インフレ抑制ではない)」と明確に否定しています。

しかし、当時、政府は国民に向けてインフレ抑制のためだと説明していました。やむを得ないことですが、こういうことは往々にして起こります。

財産税を課税するには出金制限(預金封鎖)が必須だった

日本では1944年、日本国債の発行残高が国内総生産の2倍に達したために、償還が不可能となっていました。

1945年に第二次世界大戦が終わり、その翌年の1946年、政府は最後の手段、資産課税(財産税)で国債を償還する(借金を返済する)しか方法がなかったのです。

今、日本では「国債は国の借金ではなく政府の借金である」「国民は政府の債務者ではなく債権者だ」と主張する論者もいます。

残念ながら、それは俗論です。

政府が財政破綻した場合、国内の個人も法人も、政府に対して請求権はありません。一方、政府は国内の個人、法人への徴税権を持っています。このことは日本だけではなく全世界共通のことなので、俗論に惑わされずに、正確に把握しておくことが重要です。

結局、この預金封鎖(出金制限)は1948年6月まで続きました。2年以上も出金制限が続いたのです。銀行預金から出金を制限することが極めて重要でした。

1946年2月17日から約2週間後の3月3日に財産税が実施されます。それは、1946年3月3日午前0時における個人の財産全額を対象に課税するというものでした。

財産全額なので、銀行預金だけではなく、株式、不動産、ゴールド(金)等も含まれます。

3月3日午前0時において、政府が把握できる国民の銀行預金を減らさないため、預金封鎖をして、出金制限をかけておく必要があったのです。

月額あたり世帯主で300円、世帯員1人につき100円までの出金制限は、当時「500円生活」と呼ばれていたそうです。500円は現在の貨幣価値で25万円前後です。

一見、十分な金額に見えますが、インフレが急激に進行しており、当時の生活はかなり厳しい状況になりました(1946年の物価上昇率は300%強でした)。


いくら奪われたのか?「最高税率90%」財産税の中身

財産税の税額は次の通りです。

<財産税 当時の課税価格と税率>

課税価格 税率
10万円超-11万円以下 25%
11万円超-12万円以下 30%
12万円超-13万円以下 35%
13万円超-15万円以下 40%
15万円超-17万円以下 45%
17万円超-20万円以下 50%
20万円超-30万円以下 55%
30万円超-50万円以下 60%
50万円超-100万円以下 65%
100万円超-150万円以下 70%
150万円超-300万円以下 75%
300万円超-500万円以下 80%
500万円超-1,500万円以下 85%
1,500万円超 90%

「ええーっ、1500万円を持っていたら、85%も取られちゃうの?」とビックリしてしまった人もいるでしょう。ところが、この財産税には2つの誤解があります。
1.上記の課税価格は当時の資産価値であり、今の価値とはまったく異なる
2.各段階でスライスされた資産に対して課税される

つまり実際には、1500万円を超えた金額に90%、500万円を超えた金額に85%、300万円を超えた金額に75%…というように、段階的に課税されました。

上記の課税価格のままでは、当時の状況が少しイメージにくいので、これを現在の価値に換算して説明していきましょう。

当時の財産税を現在の価値に換算すると

終戦直後は激しいインフレに見舞われており、1946年の貨幣価値を現在の価値に換算する際に何を基準にすべきかには諸説あります。

1946年の大卒初任給は400〜500円程度なので、今の大卒初任給20万円から計算すると、400〜500倍ぐらいの物価上昇が発生しています(計算しやすいように本稿では500倍を採用します)。

当時の財産税を現在の価値になおすと、次のようなイメージになります。

<現在の価値に置き換えた課税価格と税率>

課税価格 税率
5000万円超-5500万円以下 25%
5500万円超-6000万円以下 30%
6000万円超-6500万円以下 35%
6500万円超-7500万円以下 40%
7500万円超-8500万円以下 45%
8500万円超-1億円以下 50%
1億円超-1億5000万円以下 55%
1億5000万円超-2億5000万円以下 60%
2億5000万円超-5億円以下 65%
5億円超-7億5000万円以下 70%
7億5000万円超-15億円以下 75%
15億円超-25億円以下 80%
25億円超-75億円以下 85%
75億円超 90%

次ページではこの表を元に、さらに詳しく資産課税の手順を説明します。


資産課税の流れ

財産税は、次の手順で確定されました。

<Step1>

各個人が保有する資産額(銀行預金、株式、不動産、ゴールド等)を合算する。この金額を課税対象価格とする。一緒に住んでいる家族全員の課税対象価格を合計する。

<Step2>

合計の課税対象価格に応じて、段階的に上記の税率を適用する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円、母の資産額:1,800万円、合計の資産額(=これが課税対象価格となる)が6000万円だった場合:

5000万円×25%=1,250万円
1000万円×30%=300万円

課税対象価格6000万円に対する財産税額は、1,550万円となります。

<Step3>

Step2で算出された財産税額を、家族の保有資産額に応じて按分して各個人が納税する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円 按分率70%
母の資産額:1,800万円 按分率30%

財産税額1,550万円×70%=1,085万円…父の財産税額
財産税額1,550万円×30%=465万円…母の財産税額

このように、財産税のポイントは「同居家族の資産を合算して、後で各個人に按分する」という点にあります。現在の価値では最低ボーダーラインが5000万円ほどとなりますが、同居家族の合計資産額がこの金額に達していれば、課税されていたのです。


キプロスと日本、預金封鎖の共通点と相違点

キプロスの預金封鎖との相違点を探っていくと、我が国で起きた預金封鎖がより鮮明にイメージできるようになります。

<共通点>

いずれのケースでも、少額預金者は保護された。
キプロス:10万ユーロ(当時のレートで約1130万円)未満の資産には課税されなかった。
日本:現在の価値で5000万円未満の資産には課税されなかった。

<相違点>

キプロス:資産課税の対象は銀行預金だけだった(株式、不動産等は関係なし)。
日本:銀行預金だけではなく、不動産、株式、ゴールド(金)等の資産も対象になった。また、個人毎の資産ではなく、同居家族の合計資産が対象になった。

日本の国債は「内国債だから安心」という俗論に要注意!

日本政府の負債は、1941年3月の310億円から、1946年3月には2,020億円に膨張しました。当時のGDPの2倍を超えたあたりで、事実上のデフォルトとなったのです。

現在の政府財務残高対GDP比は、230%を超えています。戦後の状況と今の状況は、とても似通っていると言えます。

キプロスの場合、EUとIMFから10億ユーロの支援が約束されていたため、銀行預金のレイヤーを侵食するだけで済みました。

銀行預金は資産額の査定が簡単で、最も浸食されやすいレイヤーです。このレイヤーに多額のポジションを取っていると、被害が大きくなります。

内国債を抱えて財政破綻に向かう場合、対外的な支援者がいないことが、逆にデメリットになりえます。1946年に起きた日本の預金封鎖&資産課税では、銀行預金のレイヤーだけではカバーできませんでした。

対外的な支援者がいない場合、銀行預金レイヤーを突き破って、純資産レイヤー(株式、不動産、ゴールド)まで侵食されてしまうという見本になってしまったのです。

「日本の国債は内国債だから安心」というのは俗論です。むしろ逆で、ギリギリまで財政ファイナンスができるため、政府の負債額が大きくなって、ダメージも増幅される側面があることを忘れてはなりません。
ttp://www.mag2.com/p/money/23235  

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戦後の日本のインフレは戦時中の借金とは何の関係もない

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

 当時の我が国の供給能力は、戦前と比較して実に2割の水準にまで落ち込んだと考えられている。供給能力の8割を喪失してさえ、インフレ率が500%程度で済むわけだから、日本国の生産力や技術、さらには「人材」の蓄積は凄まじい限りだ。


戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではないですね。


戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したと語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、アメリカの占領政策によるもの。

終戦直後は大したインフレは起きなかった。

円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからだ

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。


戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えたんだ。 だからハイパーインフレとは全く違う。
その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。

ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ


因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収


が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配したんだ

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね

損したのは預金を没収された資産家と農地改革で農地を昔の地価と同じ額面のままインフレで安くなった新円札で売らされた大地主だけ

農地を地主からタダ同然で買わせて貰った小作人は一気に土地持ちの資産家になって、それ以降自民党とアメリカの支持者になった

それが自民党一党独裁が今迄ずっと続いた理由

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戦後のインフレと言われているのはアメリカの指示で戦時国債を返さなくても良くする為に、意図的に円の価値を下げて、借金の額面だけ据え置いただけの話
デノミの逆をやって資産家の財産を取上げたんだ

インフレは供給より需要が大きい場合にしか起きない
日銀がいくら金融緩和しても株式市場や海外投資に廻るだけで物価は上がらない


そもそも日本は常に供給過剰な国でハイパーインフレになった事は一度もない

ハイパーインフレーションとはフィリップ・ケーガンにより、「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義されている。毎月のインフレ率50%が継続すると、一年後には物価が130倍に上昇することになる。すなわち、インフレ率13000%である。


戦後の日本は確かにインフレ率が高まったが、別にハイパーインフレになどなっていない。

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではない。

戦時中も終戦後しばらくも大したインフレにならなかったんだから、農業が再開されれば食料不足は有り得ない、

従って戦後のインフレはアメリカが意図的に作った偽りのインフレという事

元々日本は供給能力が高かったから輸入と上手く組み合わせればインフレになる訳ないんだよ

米軍は食料の流通と配給制度を破壊した上で、ララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとったんだよ。

GHQは小麦や脱脂粉乳などのアメリカの余剰農産物を大量に日本に輸出したかったので、日本の農業を壊滅させる占領政策を取ったんだ。
それが農家には食料が有り余っていたにもかかわらず餓死者が出た理由

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。


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日本の農地改革
一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。

もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

不在地主の小作地の全て

在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等

また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。

しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。

この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。

この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。

また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府や GHQ もその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。

従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである

(当時の共産主義諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみがコルホーズの協同組合経営として認められ、残りはソフホーズとして国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9

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旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
ttp://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html 
 
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2020年07月08日
PTA大きな転換期 元は占領軍による学校支配組織
カテゴリ社会問題・環境など歴史・できごと・謎
日本を占領したマッカーサーは学校と父兄を支配するため、PTA創設を命令した。
子供を通して親を支配する方法は、ナチスやソ連も使った。
引用:ttp://fcmfcm.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_d54/fcmfcm/IMGP0091.JPG


PTA退会や廃止の動き

いじめ問題への無責任な対応や運営の不透明さ、一部の人の利権になっているなどPTAへの批判が強まっている。

PTAを退会したり活動を拒否する動きも出ているが、PTAが何なのかもう一つ分かりにくい。

嫌われている理由は「地域パトロール」などの負担、会議が長く出席が義務、強制加入で個人の事情を認めないなどがある。

父兄としての何らかの義務はあると思うが、PTAは理不尽で非合理的な押し付けが多いと言われている。

PTAは戦後創設されたが、その頃は専業主婦が多かったので、暇な主婦が大勢居るという前提になっている。

見回り、広報誌作成、花壇の手入れのような学校の手伝いなど、TPAの義務は際限なく増やされ続け、減ることは無いとされている。


PTAでは主婦の2分化が進んでいて、専業主婦はPTA活動を押し付けられて、就労主婦に不満を抱いている。

就労主婦は自分たちは「暇な人達」と違って忙しいのに、仕事を休んでPTA活動させられるのに不満を持っている。

数年前に有名な野球選手の息子夫婦と、有名女優の間で「ランドセルをどうするか」を巡って激しく対立し、女優はついに芸能界を辞めてしまった。


対立点は子供のカバンをランドセルにするか、肩掛けタイプにするかという、これ以上無いほどくだらない事だったと言われている。

PTAの主婦達で意見が2分してしまい、野球選手の息子夫婦の意見が通ったが、対立はその後も尾を引いてしまった。

PTAに参加する保護者の多くは母親で、父親は辟易して係わり合いを避けるケースが多い。

PTAを作ったのはGHQだった

PTAは文字を見れば分かるように英語圏で発祥し、日本では1947年(昭和22年)発足しました。

PTAは表向き自主的なボランティア組織だが、実際には1946年(昭和21年)連合軍総司令官マッカーサーの命令で創設された。

当時の日本におけるGHQ(連合軍総司令部)の権力は大変なもので、昭和天皇の方から司令部を訪問し、謝罪したと言われている。(公式記録は無い)


有名な写真ではマッカーサーは両手を腰に当てて見下すような姿勢を取り、昭和天皇は直立不動で写っている。

戦犯裁判の前であり、マッカーサーは昭和天皇を逮捕することも、勝手に処罰することも可能な状況だった。

昭和20年9月以降の日本は無法社会で、ただGHQだけが絶対権力として君臨し、憲法すら米軍の意のままに変更させた。


こうした状況でGHQが問題視したのが戦前の日本教育で、戦前も父兄の活動や隣組のような地域活動があった。

母親達は大日本連合婦人会のような組織に加盟し(加盟させられ)、お国の為の活動として出兵兵士の支援や見送りなどしていた。

いわばGHQ版の大日本連合婦人会としてPTAを創設したのであり、間違っても子供の為や教育のため等ではなかった。


GHQは当時「日本人に罪悪感を植えつける政策」なるものを進めていて、学校教育を通じて子供に戦争の罪悪感を植え付けようとした。

長崎だか広島の平和資料館が以前「アメリカに原爆を投下して頂いたお陰で侵略をやめる事ができました」とアメリカにお礼を述べていたが、そういう人間を作る教育をしていた。

PTAが目指したものは謝罪する日本人の大量生産で、そのためには母親達を組織化して子供を教育させる必要があった。


GHQの政策は大成功を収め、1970年代には学生運動で全国的な大暴動が起こり、多くの左翼活動家を生み出した。

PTAは教育のためや子供の為の組織ではないので、虐めに加担する側に立つのも当然なのでした。
ttp://www.thutmosev.com/archives/70072307.html
メンテ
若い人は何故そんなに簡単にアホ理論に洗脳されるのか? _ 精神病の感染 フォリ・ア・ドゥ ( No.5 )
日時: 2022/05/10 06:00
名前: スメラ尊 ID:neEbeIso

若い人は何故そんなに簡単にアホ理論に洗脳されるのか? _ 精神病の感染 フォリ・ア・ドゥ


フォリ・ア・ドゥ folie à deux
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html


@ 精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。

 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。
 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。


A 宇宙語で会話する夫婦

 まずは精神医学1995年3月号に掲載されている堀端廣直らによる「Folie a deuxを呈し“宇宙語”で交話する一夫婦例」というものすごいタイトルの論文から紹介してみよう。

 鍼治療の仕事を営む夫婦の話である。

 夫婦は「温和で物静かな夫婦」とみられていたが、1986年8月中旬から、妻の方が「宇宙からの通信」を受け始めた。その内容は「病気はこうしたら治る」「宇宙から素晴らしい人がやってくる」といったものだった。また、それと同時に近所の人々によって嫌がらせをされるといった被害妄想も感じるようになった。

そして約1ヶ月後には夫も同様の被害妄想をもつようになり、宇宙からの通信を受け始めたのだという。妄想が感染したのだ。二人は治療を求める客に対して「あなたは価値のない人間だから」などといって断るようになる。昼間から戸を締め切り夜は部屋の電灯を一晩中ともして「宇宙からの使者を待つ」生活をして周囲から孤立していった。

 そして約二年後のこと。今度は夫の方から「宇宙語」と称する言葉をしゃべりはじめ、半年後には妻も同調して二人は「宇宙語」で会話するようになったのだという。近所に抗議に行ったり通行人を怒鳴り追いかけるときにも「宇宙語」を発して近所の人々を驚かすこともあった。

宇宙語は中国語やスペイン語に似た言葉のように聞こえたとのこと。子供が3人いたが、感化されることもなく宇宙語も理解できなかった。

1991年、妻が通行人に暴力をふるう行為があったので妻のみが入院。妻は、医師に対して「宇宙語を喋るのがなぜいけないのか。人間のレベルが高くなったからしゃべるのだ」と反論し、同席した夫と宇宙語で会話。しかし入院翌日からは落ち着きが見られ話も通じるようになった。

入院3週間後より夫との面会を許可したが、笑顔で落ち着いた様子で宇宙語は話さなかったという。退院してからは「あのときは自分は一生懸命だったのです。今となっては過去のことです。通らねばならない過程だったと思います」と冷静に振り返ることができたという。

 これは春日武彦『屋根裏に誰かいるんですよ。』にも紹介されている症例だが、おそらくこれは「愛」の物語だ。フォリアドゥの成立条件に「2人の親密な結びつき」がある以上、フォリアドゥの物語は、多くの場合、愛についての物語なのである。

 この症例で興味深いのは、もともとの妄想の発端は妻だったのにも関わらず、「宇宙語」を話し始めたのは夫の方からだというところ。最初妻が妄想を語り出したとき、当然夫はとまどったことだろう。その時点で病院に連れて行ったり誰かに相談したりすることもできたに違いない。しかし、結局夫はそれをせず、妻の妄想世界を受け入れる。それはつまり、二人の間にはそれほどまでに深い結びつきがあったということだ。それから二年後、夫は、世界を与えてくれた妻に対し「宇宙語」を伝え、さらに二人の世界を広げるのである。

 「宇宙語」はつまり、夫から妻へのプレゼントだったのかもしれない。


B 行者と女工

 もうひとつ、篠原大典「二人での精神病について」(1959)という古い文献に載っている事例も紹介してみよう。72歳の女行者と25歳の女工の話だ。

 まずは行者の方である。老婆は若い頃から信心に凝り、夫や子を捨てて住みこみ奉公をし、金がたまると神社仏閣を遍路するという生活を繰り返していた。いつのころからか病人をまじないし、狸がついているなどというので、昭和31年夏、I病院に入院させられた。病室の隅にお札やお守りで祭壇をつくり大声で祈り、ときどき気合いをかけたりしていた。

医師には「お稲荷さんもこの病院は嫌だといっておりますわ。いろんなことがありますが、いうと気狂いだといわれますさかい」と言っていた。

 一方、女工は18歳で母を亡くし、継母とはうまくいかず、郷里を出て工場を転々とし、苦労を重ねていた。入院1ヶ月前、3年間つきあっていた男性から別れ話を持ち出された。

その後、ほかの人が彼女には無断で男から手切れ金を取ったり、すぐあとで別の男から結婚を申し込まれるなどの事件が重なり、発病。「不動さんの滝に打たれていると自然に首が振れだし、止まらなくなりました。不動さんが私に乗り移り問答できるようになりました。故郷に帰れとお告げがあったので荷物をまとめていると、手切れ金の噂をする声が聞こえてきました」。彼女は昭和31年秋に入院した。

 1年後にこのふたりは同じ病棟で移る。すると2人はすぐさま一日中話し込み、ともに祭壇を拝み、女工は行者のお経を写すようになる。

このころ、女工は「私の病気の原因を知っていて治してくれたのです」「不思議な風が私をおさえつけもがいているときに○○さん(行者の名前)のお守りで楽になりました」と話している。

女工は、男に裏切られて以来始めて、信頼できる人に出会ったのである。このころの2人はまさに教祖と信者の関係であった。

しかしその関係は長くは続かなかった。いったんは救われたものの、行者の方が「腹の中にいる生き物がはらわたを全部食ったらおまえは死ぬ」「人を犯す霊がお前についている」などと女工を脅すようなことをいうようになり、女工は行者に不信を抱くようになる。

彼女は行者とは別に祈るようになったが、するとますます行者は怒る。結局3週間で2人は争い分かれてしまった。女工は言う。「○○さんは私を計略にかけたのです。○○さんは身寄りがないから私を治して退院させ、退院した私に引き取ってもらおうとしたのです」

 その後1ヶ月して面会させたが、語り合わずまた争うこともなかった。行者はその後も変化はなく、女工は症状が消え3ヶ月して退院、故郷に帰っていった。

 孤独な2人の、出会いと別れの物語である。


Cフォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。

もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。

「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。

万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。2人は同じ妄想を共有していたのだった。

 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。

私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。
1.
今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


D古いタイプの感応精神病 ← 幸福の科学信者はこのケース

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。

悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。
 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。

青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いたこっくりさんの例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。

 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。
 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。

どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師Kに祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。

その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。

こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、ものもいえず苦しげにもがいているものなど憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」と提案した。

すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。
これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。

集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。


E 家庭内幻魔大戦

 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。
Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。

この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。

 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。

昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。
昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。

「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。

長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」
「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。

「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」

「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには

「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。

 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。

体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。
きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。

入院3日目より陽子は「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」

などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」と語り合っていた。

 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」

と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」と逃げ出した。

主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、
「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。

 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。
入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、
「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には「先生! オールマイティになってください」と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。

しかし飛べずに興奮し始め、

「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。


F フォリアドゥと家族


 さて最後にちょっと違った視点からフォリアドゥを見てみよう。共同生活をしている家族などの中で狂気が伝染していくというのは、確かに気味の悪い現象ではあるのだけれど、ある意味、感染して同じ狂気を共有するようになった人は幸せといえよう。

抵抗をやめて吸血鬼(or屍鬼orボディスナッチャーorボーグ)になってしまえば楽になるのと同じようなものだ。

 それでは、狂うことができなかった家族はどうなるのだろう。
 家族を正気に戻すために戦う? 家族を捨てて逃げる? 

映画ならともかく、現実にはどちらもよほどの覚悟がないとできそうにない。それに、もし、戦うことも逃げることもできない無力な子どもだとしたら? 

家族は狂気を共有することを強要するだろう。暴力も振るうかもしれない。狂うこともできない子どもは家族からの虐待に耐えつつ、ただひとり孤立するほかあるまい。狂気に陥っている集団の中では、正気を保っている人物こそが狂人なのである。

 これは、狂気に感染した家族よりもはるかに悲惨なんじゃないだろうか。しかし、どういうわけか、これまでの文献は、感染した家族には興味を示すのに、狂気に陥らなかった家族についてはほとんど触れていない。「宇宙語」の論文でも、感染しなかった子どものことはほとんど書かれていないし、「家庭内幻魔大戦」の論文でもそうだ。無視しているといってもいいくらいである。

 このへん、精神医学という学問の偏りがよく現れていますね。派手な精神病症状には興味を示すくせに、狂気を耐え忍んできた人の心にはまったく無関心。今でこそPTSDなどが話題になってきているけれど、つい最近までの精神医学はこんな具合だったのだ。
フォリアドゥそのものではなく「狂えなかった家族」に焦点をあてた文献はあまりないのだが、それでも皆無というわけではない。酒井充らによる『いわゆる被虐待児症候群の事例化』(社会精神医学1987年12月)という論文から事例を引いてみる。

発端者は母親であったらしく、結婚前の18歳ごろから

「近所の人たちが自分のことをバカにして笑っている」

とくってかかるなどの行動があったという。21歳で結婚するが、しだいに夫も妄想を共有するようになり、次男Kが生まれた頃には、夫婦そろって近隣といざこざを起こし転居を繰り返していた。

 次男のKは4歳のときに幼稚園に入園したが、両親はKが保母に不当にいじめられているという被害妄想を抱き、中途退園させてしまう。またその頃父から「家族は家族だけでやっていくから、もう二度と外の人とは遊ぶな」と言われ、子どもたちは外出を禁じられるようになる。

 6歳でKは小学校に入学するが、やはり父は担任の家に電話してどなりつけたり、教育委員会に抗議に行ったりしていた。まもなく両親はKの登校を禁止。Kが登校しようとすると、両親、ときには兄も加わってベルトで鞭打つ、金槌で殴りつける、煙草の火を押しつける、鉄パイプで眼を突くなどの身体的虐待が加えられた。そのため、小学3年生以降はほとんど学校に出席できなくなった。

 他の兄弟は親に従ったがKだけは抵抗したため、Kは親の言うことを聞かない子として、兄に行動を監視され、他の家族員から仲間はずれにされていた。Kは自宅内で一人で教科書や本を読みながら過ごすようになる。

12歳、中学校に進学したが一日も出席できず、学校から自宅に届けられた教科書で勉強し、父に命じられて自宅の敷地内の草取りをしたり、自宅内で飼っている豚の世話をしたりしていた。

この頃から、両親の近隣に対する被害妄想はますます強くなり、両親は自宅周囲をトタン板で囲い、月に一、二度のリアカーでの買い出し以外外出をしなくなる。

外出のときには両親はカメラやテープレコーダーを持ち歩き、「いやがらせの証拠」を探していたという。その際にもKは外出を許されず、父から訪問者の声の録音を命じられていた。

 15歳ごろより、Kはマンガ家になりたいと思うようになり、マンガの添削教育を受け始める。しかし両親は「マンガなど描くのはやめろ。豚の世話をしろ」と反対し、Kの描いたマンガを破き、届いた郵便物を焼き捨てる。反抗すると、両親はKに暴力を加えた。

Kは両親の妨害を避けるため、自宅の隅に家具やガラクタを積み上げて「バリケード」を築き、その中に閉じこもってマンガを描くようになった。Kの態度に父は逆上、バリケードに灯油をぶちまけて火をつけ、自宅は全焼、Kは右半身に火傷を負い、翌日外科病院に入院した。

 入院したKは病院で植皮術を受ける。しかし、手術痕の回復に従い、問題行動が始まった。看護婦の体に触る、夜間徘徊して眠らない、注射・服薬を拒否するなどの行動を繰り返し、病院側から治療半ばにして退院させられてしまう。

病院は通院治療を勧めたが、父は「一旦家から離れた者は家族ではない」といって、Kを父の信奉する宗教施設に預けた。

しかしKはそこでも問題行動を起こし、自宅に帰された。両親はやむなくKを家に置くことを許したが、やはり自宅外への外出を禁じたため、Kは再びバリケード内にこもった生活を続けることになった。

痛ましい話である。Kにとってはまさに地獄のような家だったに違いない。15歳で入院し、家から離れたときになぜきちんと助けを求めなかったのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、それは無理な話だろう。

それまで家族以外との接触がほとんどなかったKには、他者とうまくコミュニケーションをとることができなかったのだろう。

 さてこのあと、Kは意外な方法で地獄からの脱出を図る。

17歳頃になると、Kは両親が話しかけても「あなたは誰でしゅか」などと幼児語しか話さなくなり、昼夜かまわず奇声を発するようになった。

また布団の上や鍋の中に大小便をしたり、糞尿を身体をなすりつけて転げまわるなどの異常行動が徐々に激しくなり、両親も対応に困り、翌年11月、救急車で精神病院に入院することになった。

 入院したKは、主治医の質問も待たず一方的に喋りだし、

「親から離れて入院できたのは本当にラッキーでした。でも僕は本当のことは言いません。狂気を装っているんです。催眠療法してもだめでしょう」

とうれしそうな表情で話した。入院前の異常行動については

「親が鉄パイプで殴ったり、僕のものを燃やしたりするのが鬱積して、精神病の方へ出ちゃったんです」

「虐待ばかりで学校へも行かせてくれず、訴訟ばかりしている親に反抗して、家から脱出したいと思って、親の方から僕を嫌いにさせようとして狂うふりをしたんです」という。

また「これは父にやられた、ここは母にやられた」と体中の傷痕や火傷痕についてしきりに説明した。
病棟では他の患者や看護婦に一方的に話しかけ、苦情が出るほどだった。また自分の要求が通らないと大声でわめきちらし、逆に強く注意されるとその場で土下座して謝ったりと、周囲の人たちとどのように接したらよいのかわからない様子だった。

 両親への憎悪は強く、「もう自宅には戻りたくない。親戚に連絡して引き取ってもらいたい」と要求。入院が長引くにつれ、

「自分の親は被害妄想狂です。だから僕ではなく親のほうを入院させて下さい」と攻撃的な口調で退院を要求した。

 一方両親は、入院時「一生退院させない」と言って面会にも現れなかったが、月に2、3回の手紙は必ず送って来た。

Kは両親が「被害妄想狂」である証拠として、主治医に手紙の一部を見せた。手紙は、警察や近隣、福祉事務所などへの被害的内容が主で、当初は病院に対して好意的だったが、徐々に

「病院も警察とグルになって一家をバラバラにしようとしている」

と被害妄想の対象になっていった。そして、それとともにしだいにKの退院を認めてもいいとも書くようになっていった。

 翌年7月、突然父が病院を訪れ、Kを自宅に引き取りたいと申し入れ、即日退院となった。その後もKは以前のように自宅に閉じこもった生活を続けているようだが詳細は不明だという。
こうして、Kは結局地獄の家に帰ってしまうのである。おいおい、そりゃないだろ、と思うのは私だけではないはずだ。

 Kが本当に狂気に陥っていたのか、それとも本人の言う通り狂気を演じていたのか、この論文でははっきりとした結論は出していない。

それでも、Kは、両親の狂気に対して、それを上回る狂気という奇策によって脱出を図り、必死に助けを求めてきたわけだ。そんなKを、父親に言われるままにあっけなく自宅に引き取らせてしまっていいんだろうか。いくらなんでもこの結末はないだろう。

 確かにこの患者は未成年でもあることだし、普通は親が退院させたいと言えば、法的には退院させるほかはない。たとえ親の方がおかしいと思おうが、この両親を無理矢理入院させるわけにはいかない。でも、このような場合には何かほかの方法があったんじゃないかなあ(例えば親戚に介入してもらうとか)。

 この論文は、「今後はさらに、本事例児のみならず、他の兄弟の発育についても、慎重に経過を追う必要があると思われる」と結ばれているのだが、本当にそれだけでいいのか?
 その後この家族がどうなったのか、気になって仕方がないのだが、残念ながら続報は発表されていない。
ttp://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html
 



2020年04月19日
プラシーボ効果だけでハイになってサイケデリックな体験ができることが判明
ttps://gigazine.net/news/20200419-placebo-psychedelics/
病気の治療や臨床試験では、全く効果がない「偽薬」を効果のある薬だと思わせて処方することがあります。偽薬を使っているにも関わらず患者や被験者に効果が現れることをプラシーボ効果といいますが、新たな研究では幻覚剤の偽薬を処方された人が「自分はハイになっている」「絵が動いた」「重力が強くなっている」と回答したことがわかりました。

Tripping on nothing: placebo psychedelics and contextual factors | SpringerLink
ttps://link.springer.com/article/10.1007/s00213-020-05464-5

The placebo effect and psychedelic drugs: tripping on nothing? | Newsroom - McGill University
ttps://www.mcgill.ca/newsroom/channels/news/placebo-effect-and-psychedelic-drugs-tripping-nothing-321373

People Can Experience Psychedelic Effects From Taking a Placebo, Study Shows
ttps://www.sciencealert.com/people-can-experience-psychedelic-effects-from-taking-only-placebos-study-suggests

カナダにあるマギル大学の研究者はイプロシンと呼ばれる幻覚剤が人のクリエイティビティにどう作用するのかを調べるという名目のもと、33人の被験者をリクルートしました。被験者は、壁にサイケデリックな絵画が飾られ、アート系の映画が上映され、カラフルなライトで照らされ、床にはビーズクッションが置かれた部屋に集められ、幻覚剤を渡されたとのこと。そして、白衣を着た研究者が側で観察する部屋の中で、「トリップ」を体験してもらいました。

ただし、このとき、全ての被験者に手渡された薬は実際には効果のない「プラシーボ薬」でした。研究者が白衣を着ていたのも演出の1つで、部屋にはドラッグパーティーを装うべく役者が集められていたとのこと。


何もかもがうそという状況の中で行われた実験ですが、実験中のアンケートで被験者の61%が立ちくらみや絵画の変化、リラックス感、高揚、吐き気といった「薬物の効果を感じる」と回答。ある被験者は「重力が強くなり私は押さえつけられ、頭の中に誰かがいました。具体的にいうと、後頭部にいました」とかなり詳細に自分の体験を語っています。

また「この絵を見るまでは何も感じていなかったのですが、絵が動いていたのです。色が変わるだけではなくて、動いていました。形を変えていたのです」と語る人も。


もちろん、全ての人が「自分は幻覚剤でハイになっている」とだまされたわけではありません。全体の40%は「実験中、ほぼ何も感じなかった」と回答しています。

ただし、研究者は多くの人々がハイになっているとだまされたことを「注目に値する」と評価。「私たちの知る限り、プラシーボ薬を使ったトリップ体験についての報告のうち、これが過去最高の変化です」とのことです。

今回の研究の目的はプラシーボ薬で被験者をだますことではなく、「接触陶酔」と呼ばれる現象を調べることにありました。接触陶酔とは、ドラッグを摂取した人に接触した平静状態の人が、心因性の「トリップ」を経験することをいいます。接触陶酔は今回の研究で示されたプラシーボ効果と近く、物理的・社会的設定によってもたらされたものだという可能性があります。

近年は精神的な病気の治療にこのような薬物が用いられることがありますが、今回の研究結果を発展させれば、プラシーボ効果もまた治療に用いることが可能であると考えられています。


研究を行ったジェイ・オルソン氏は「うつや不安の治療として幻覚剤が使われるようになってきた状況を鑑みると、物理的・社会的設定といった要素を利用することで、薬を非常に低量で用いることから治療をスタートできます。これにより薬をより安全に使うことが可能です」と語っています。

なお、研究の参加者たちは実験の後に種明かしされると、ショックを受けるのではなく、笑い声を上げたとのこと。「確実にハイになっている」と答えた被験者は、「このプラシーボ薬はどこで手に入れられるのか」と尋ねたそうです。
ttps://gigazine.net/news/20200419-placebo-psychedelics/
メンテ
共産主義者とはどういう人間なのか? ( No.6 )
日時: 2022/05/10 07:02
名前: スメラ尊 ID:neEbeIso

共産主義者とはどういう人間なのか?

亀井静香とチェ・ゲバラ 2005年10月25日

保守政治家の亀井静香は連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。

今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。

自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

総選挙前の8月10日に私が書いたエントリー記事「亀井派と社民党の合併は如何?」のコメント欄に下記のようなコメントをいただきました。

保守政治家の亀井静香氏がチェ・ゲバラを尊敬しているというのは、多くの人々にとって大変に興味深い事実のようです。ちょっと私的に分析してみたいと思います。反小泉左右共闘を考える上でも、警察出身の亀井静香と革命家のチェ・ゲバラの共通点を探るというのは興味深いと思われるからです。


 >>ちなみに亀井氏が尊敬する人物は、私も好きなチェ・ゲバラです。

 >これホントですか?警察官僚出身の亀井氏がそんな発言をするとは。
 >私はゲバラも亀井氏も好きなので(笑)、出典などを教えてくれればうれしいです。


 亀井さんが自民党総裁選に立候補したときは、マスコミの取材に答えて「私が尊敬するのは、貧困に苦しむ民衆のために死を選んだチェ・ゲバラと大塩平八郎だ」と公言していました。 

 私の手元にある亀井さんの著書は『ニッポン劇的大改造』(扶桑社)ですが、その中でも以下のように語っています。

「私はゲバラの写真を事務所に掲げてあります。アメリカのベーカー大使が、永田町の私の事務所にやってきて、そのゲバラの写真を見て驚かれていましたが、私はゲバラを尊敬しているのです。

 (中略。ゲバラのグァテマラでの活動、キューバ革命への参加などの事績を紹介する)

 そうして、(ゲバラは)自分の人生を、圧政と貧困のなかで苦しんでいる人たちの救済に捧げました。自分の人生を全部捨てて、人の痛みを少しでも和らげようとしたわけです」(亀井静香、前掲書、150〜151頁)
 
 自民党の機関紙の『自由民主』でも今年の3月8日号で、亀井さんは鉄人・衣笠祥雄さんと対談して、ゲバラに対する想いを語っています。亀井さんのHPに紹介されています。
 ttp://www.kamei-shizuka.net/media/2005/050308.html

 その衣笠さんとの対談の中で、亀井さんは連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

 私は、亀井さんが死刑制度廃止を叫び続けるのは、獄中で心の底から改心している永田氏のような人々を、死なせたくないからだと思います。

 警察の内部事情を知り尽くした亀井さんが、「冤罪は絶対に避けられない。無実の人間の命を国家が奪ってはならない。だから死刑には反対だ」と訴えているのです。冤罪が避けられないことは、他ならぬ警察の中にいる方々がもっとも良く知っていることでしょう。

 「共謀罪」などという治安維持法を思わせる法律が審議されている現在、亀井さんの訴えはますます重みを増しています。私も読者の皆さんも、全くの冤罪によって罪を着せられて死刑になってしまうというようなことすら、今後は発生するかも知れないのです。共謀罪が可決されれば、市民の誰もが冤罪の犠牲になってもおかしくないような状況が発生すると思います。警察官僚だった亀井さんの訴えに、私たちは耳を傾けるべきでしょう。
 
 それにしても興味深い事実は、暴力革命を目指した連合赤軍の摘発に敏腕を振るった警察官僚である亀井静香氏が、キューバで暴力革命を成功させたチェ・ゲバラや、大阪町奉行所の役人でありながら幕府の悪政に抗議して武装蜂起を行った大塩平八郎を「尊敬」しているという事実でしょう。

 亀井さんの頭の中では、この問題はどのように処理されているのだろう、と私も非常に不思議に思います。いまでもちゃんと回答は出せません。本人に直接聞いてみるのが一番ですね。

 私が思うに、民主主義国であった70年代初頭の日本において武力革命など全くのナンセンスであるが、米国傀儡のバティスタ独裁体制下で、言論の自由も集会結社の自由も制限されていたような状況下において、カストロやゲバラが行った選択は、亀井さんから見ても支持できるということでしょうか。しかし、そう考えると米国傀儡の小泉独裁体制も、当時のキューバのバティスタ体制に近づいているような・・・・・。

 大塩平八郎も町奉行所の与力という、いわば警察官の立場にありながら、反政府武装蜂起をしたわけです。大塩が抗議したのは、奉行と悪徳商人が結託してコメの値段を釣り上げ、庶民を苦しめながら、暴利を貪るという不正義でした。

 ちなみに大阪の商人が行っていたのは、今日でいうデリバティブ取引の原型でした。社会を混乱させながら暴利を貪るハゲタカファンドやヘッジファンドと結託して郵貯の資金を投機に流そうとする小泉の不正義に、公然と反逆した亀井さんの心境も、大塩と重なるものがあったと思います。残念ながら、大塩も亀井さんも敗北してしまいましたが・・・。

 亀井さんは東大時代は、駒場寮に住んでバイトしながら学費を払った苦学生でした。駒場寮にあった『マルクス・エンゲルス全集』は、「全部読んだ」そうです。

 亀井さん本人は学生運動をしていたわけではないみたいですが、全学連の活動家学生が退学処分を受けそうになったとき、抗議のハンガーストライキをしたそうです。ドクターストップがかかるまで、1週間もやったそうです。

 小泉のような、苦労知らずの親の7光ボンボン3世議員とは、心が根本的に違います。

 私も以前は、マスコミによる「ミスター公共事業」というレッテル貼りの宣伝に騙されて、亀井さんをただの「利権政治家」と誤解していました。亀井さんの書いたものなど読んでみて、全くの誤解であり、自分がマスコミに騙されていたのだと気付きました。

 亀井さんは政調会長のとき、中海干拓を中止し、吉野川可動堰を凍結するなど、総額2兆円以上もの公共事業費を斬りました。利権政治家にこんなことができるでしょうか?

 小泉を見てください。官僚のメンツを守り、ムダな公共事業など一つも止めていません。川辺川ダムや八ッ場ダムのような究極のムダすら止めることができないのです。それで予算総額だけ減らすので、生活関連の本当は必要な事業ばかり削られて庶民を苦しめているのです。
ttps://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/739472309fb34190d4e7768d8e002ba6


2005年7月2日 亀井静香
警察官僚亀井静香を政治家に転向させた「浅間山荘」事件の背景


定刻より15分ほど前に因島市民会館へ到着した俳優菅原文太さん。この日、飛騨の山里からJRを乗り継いだ新幹線の車中で目にした文藝春秋6月号。「三島由紀夫自決からあさま山荘事件まで」の特別企画の証言に亀井静香代議士が登場、当時、警視庁警備局公安第一課課長補佐として「あさま山荘」事件の作戦に加わっていたことに衝撃を受けた。

この事件があった72年といえば文太さんが「人斬り与太」でスターの仲間入り、その翌年に主演映画「仁義なき戦い」がシリーズ化され大ヒットした。昭和元禄といわれた六十年代の総決算ともいえる大阪万博は6422万人が押しかけた。ヤクザ映画は股旅物の様式美から実録ヤクザ映画がヒット。完全にサラリーマン化した大衆には仁侠映画でレトロ趣味を満たすことができなくなってきていた。

その一方で71年に警察庁は凶悪化した極左集団を取り締まるため警備調査官室を設置した。警視庁、神奈川、千葉の両県警をまたぐ重要事件について警視庁が直接指揮をとるための臨時措置だった。弱冠33歳の亀井静香氏が直接指示をした。72年2月には極左集団が金融機関を襲う連続強盗事件を起こし、銃砲店を襲った彼らの足跡をつきとめることができた。

地元民の通報で群馬県警が山狩りをして迦葉山山中で丸太小屋の山岳アジトを発見した。亀井氏も現場へ急行した。男女二人が不審自動車に立て籠もったが、引きずり出す容疑が見つからない。そこで窮余の一策として思いついたのが山小屋を作ったのだから無断伐採したはず。そこで「氏名不詳の窃盗罪」で逮捕礼状を請求した。逮捕した2人は京浜安保共闘の奥沢修一と杉崎ミサ子だった。妙義山山中=写真=ではリーダーの森恒夫と永田洋子を逮捕した。妙義から逃亡した連合赤軍を追い、軽井沢で4人を捕まえたものの5人逃がし、あさま山荘に逃げ込まれた。

「だから、私が彼らを取り逃がさなければ、あさま山荘事件は起きなかった。私にとって大恥というしかない」と、亀井代議士は回顧する。事件は解決したが。警視庁と長野県警が協力して死力を尽くしたからで、けっして威張れるような作戦でなかったとも言う。

しかし、同僚の警察官を殺した犯人グループに対して一方的な憎しみを感じなかった。彼らのやったことは明らかに間違っている。だが、恵まれない人民をどうにかしたいという強い思いが取り調べでその気迫が伝わってきた。六〇年代後半から七〇年代にかけ東アジアはどの国も文化大革命の中国が発する情報に目を注いでいた。志ある若者が、なぜ誤った道に足を踏み入れたのか。そこに政治の責任を感じ、亀井氏は警察庁を退職。衆院選出馬を決意する起爆剤になったことはまちがいない。

こういう亀井さんが大好きだという日本を代表する映画俳優の菅原文太さん。気を緩ませた時の笑顔が魅力的。若い男優がビビってしまう大スターの風格は厳しく怖いという印象とは別に一般聴衆たちが「文太ちゃん」という感じで接する様は闘将亀井静香の「亀ちゃん」の愛称と共通した一面もうかがえる。
ttp://0845.boo.jp/times/archives/6122


因みに、現在の日本共産党は親米保守、極右反動勢力に変わっていますね。

昔から民青の学生は事大主義で

大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど

会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名でした。


民青や共産党員にまともな人間は一人もいませんでした。

つまり、20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのは
GHQ の教育方針が反映していただけで、自律的で自然な現象ではなかったのですね。


戦前に極右で米英鬼畜とか言ってた極右は終戦後に殆ど日本共産党員に転向しています。
反対に、全学連の闘士は年取ってから大半が極右になっています。

つまり、

極右=極左

で、環境によって極右になったり、極左になったりするだけなのですね。

しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。

世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

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日本共産党の七不思議…不破哲三前議長の大豪邸住まいと”芸名使用”が話題に

不破哲三日本共産党前議長(88)が時事通信のインタビューに応じ、天皇制や元号問題について語るも、なぜかSNS上では前議長の大豪邸と芸名疑惑に興味が集中、明らかになった超ブルジョアぶりに騒然となっている。

不破氏が久々にメディアに登場、3月24日の時事通信のインタビューの中で、天皇の政治関与を禁止した憲法4条について「昭和天皇の時代には、ほとんど守られなかった」「現天皇は心得ている」とする自論を述べた。また元号問題についても「時代が区分される時代ではない。やめた方がいい」とする提言をみせ、カリスマの健在ぶりを示した。

だが、この不破氏のインタビューに対し、作家・百田尚樹(62)が(内容とは無関係に)「共産党の不破哲三前書記長の邸宅がどれほど凄いものか、末端の共産党員は知っているのだろうか。門から屋敷に辿り着くまで、車で森の中を走る大邸宅なんて、滅多に住めない。凄い蓄財力だ。要するに、これが共産党。ちなみに『不破哲三』というかっこいい名前は芸名で、本名は上田健二郎」といったツイートを投稿して、これが反響を呼ぶ大盛り上がりをみせている。

百田氏の発言へのリツイートの中には「こうした人物が平等を標榜するのだから無茶苦茶」「この中で専属シェフによる高級フレンチを食べてるわけですね。『なぜ差別は無くならないのか?』とか言いながら」「中国共産党と同じ構図ってことですね。知らぬは末端の支援者だけ…」「格好いい名字には小学生の頃憧れましたね」などと平等を説きながら桁外れのブルジョアを謳歌する日本共産党指導者の暮らしぶりに興味が集中した。

■用心棒と運転手、料理人が常駐する小学校よりデカい大豪邸

不破氏の大豪邸は、16年7月の週刊文春(文藝春秋社)の「引退後も特権享受不破哲三は『赤い貴族』」なる記事で紹介されている。場所は神奈川の別荘地・津久井の山中深くにあり、広さは3265平米(約九百八十八坪)。航空写真でみると近所の小学校と変わらぬ大きさを誇っている。

敷地の所有者は不破哲三こと上田健二郎氏ながら、敷地内にある4棟の建物の内、2棟は日本共産党の所有物という公私の線引きのない形態となっている。そして建物には「不破氏の秘書、ボディーガード兼運転手、料理人が常駐していた」と関係者は語っている。

だが、なぜ不破氏は日本共産党のトップといえど、このような大豪邸が建てられたのだろうか。日本共産党の元党員・篠原常一郎氏による月刊正論(16年11月号/産經新聞社)の「幹部の収入を暴露!」という記事によれば、2つの秘密があるという。1つには、一般の党職員と幹部の給与格差がある。日本共産党でエリートといわれている常任幹部会委員で最低年収1000万円以上が保証されている。若い職員や地方の党職員の給料とは雲泥の差があることは言うまでもない。

2つ目は著書の印税に秘密があった。党内では「幹部の印税は中央財政に繰り入れられる」と説明しているがそれはウソだというのだ。幹部が出した出版物は党機関紙のしんぶん赤旗で宣伝しまくり、末端党員に購買をすすめつつ、少なめに刷った最初の「一刷分の印税」を党に寄付した後、二刷分以降の印税すべてを著者の懐に入れるという巧妙な稼ぎのテクニックがあるという。

平等を訴える共産党指導者の、桁外れのブルジョアぶりは世界共通のようである。ただし、名誉のために付記するが、同党の志位和夫委員長(63)のご自宅は慎ましやかな公団分譲マンションなんだとか。くれぐれも志位委員長や小池晃副委員長(57)には庶民の味方という立場を貫いてもらいたいものだ。
ttps://news-vision.jp/article/188154/


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共産主義者とはどういう人間なのか?


1) 共産主義者は正義の味方 


ダメダメ家庭においては、「正しい」という言葉がよく出てきます。

それこそ、以前に取り上げた魯迅の「狂人日記」という作品においても、「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」なる記述があります。自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、そんな「正しい」と言うことにこだわりを持つわけ。かと言って、

じゃあ、その「正しい」って何?
どういう意味なの?
その「正しさ」を、どうやって証明するの?

そんな話になりますよね?

数学の問題だったら、その正しさの証明だって可能でしょう。あるいは、物理学などの自然科学だったら、豊富なデーターを元にすれば、「この考え方が正しい。」ということが言えるでしょう。

逆に言うと、データーを取らないで、「正しい」なんて言えるの?

「正しい」という言葉は、排他的な意味を持つ言葉と言えます。
「正しく」ないものは、存在が許されないものでしょ?

「1たす1は2である。」という考えは正しい。だから、その考えと相反する「1たす1は3である。」という考えは存在が許されない。

そう言うものでしょ?

別の例だと、「地球が太陽の周りを回っている。」という考えが正しいのだから、「太陽が地球の周りを回っている。」という考えは存在が許されない。そんなものですよね?

間を取って、

「1月から6月までは、地球が太陽の周りを回っていて、7月から12月の間は、太陽が地球の周りを回っていることにしよう。」

と妥協しようとしても無理がありますよ。「正しさ」は排他性をその特徴としているわけです。


地動説なり天動説の「正しさ」の証明の際には、データーを取る事によって証明することが可能です。
しかし、一般社会における「正しさ」となると、その証明は簡単ではないでしょ?

「消費税率は、5%が正しいのか?10%が正しいのか?」

そう言われても、どうしようもない。むしろ、このようなことを考えるにあたって、「正しい」という言葉を使うことが不適切でしょ?

それらの考え方を取り入れた場合はどのようなことになるのか?それぞれをシミュレーションして、そのメリット,デメリットを考慮し取捨選択すればいいだけ。言うとしたら、

「消費税率は、5%と0%のどちらが適切なのか?」

という、「適切」とか「有効」とかの文言を使う方が、それこそ適切でしょ?
人間社会において、「正しい」ということは簡単ではない。だって人間なんて色々なタイプが居るわけでしょ?

「自分の考えはこれこれで、自分はこれで行く!」

ということならそれでいいじゃないの?
その考えが気に入らなければ、その人を避ければいいだけですよ。

「オマエの考えは正しくないからケシカラン!」

なんて言ってもしょうがない。だったら、その考えが「正しくない」という証明ができるの?

まったく面白いことに、「正しくないからケシカラン!!」なんてことをよく言ったりするような人間は、その「正しくない」証明って、決してしないものでしょ?

そんな人が往々にしてやるのは、

「権威者の○○先生がこう言っているのだから、これが正しいんだ!!」

そんなものですよね?

「正しい」という言葉は、権威主義と結びつく例が多いわけ。主張や要求が問答無用なんですね。双方の合意に基づいたものにはならない。そんな問答無用の権威主義者が、周囲から好意的に評価されたりする際に、よく使われるのが、「彼は正義感が強い!」というもの。

この言葉は、以前にこのメールマガジンで取り上げた民主党の(故)永田議員が、「偽メール事件」の際に、言われていました。彼の上司とも言える鳩山さんによると「永田議員は正義感の強い人」なんだそうです。

へぇ・・・そうなの?

しかし、

「自分は正しいことをやっている。」・・・だから、「自分と違っている人間は間違っている。」・・・

「彼らは存在すること自体が罪だ!」・・・だから、「彼らを抹殺すべきだ!」。


そのような発想の流れは、まさに「正しさ」なり正義感の「裏面」としては典型的なものと言えます。おまけに

「存在すること自体が罪」の相手を抹殺するために、多少「いかがわしい」方法も使うことが許される・・・

そう考えてしまうわけ。そんなものでしょ?

正義感が強いと、そのようないかがわしい方法も許容する精神的な土台ができてしまうんですね。それこそテロリストなんて典型でしょ?

「存在すること自体が罪」と判断したら、どんな方法も取っていいんだ!!

だって、「自分たちは正しい」のだから。

正義感というものは、ある種の「非人間的」な面を持っているんですね。だって、「正しい」ということは、どんな人間にも適用される考えでしょ?

個々の人間を超えた概念ですよ。人によって適用されたり、適用されなかったりしたら、「正しい」とは言えない。逆に言うと、

「正しく」ないことをしているものは、人間ではない・・・
「正義感」が強い人はそう考えたりするもの・・・

現実にそうでしょ?

民主党の永田議員は「正義感が強い」とのことでしたが、まさしく「それにふさわしい」行動のスタイルだったでしょ?

あのガセメール事件に限らず、様々な問題を起こしていたそうですが、

「自分以外のものは認めない!」

という意味では極めて正義感を持った人だったわけです。正義感の持つ排他的な部分を強く持っていたわけ。


話が変わりますが、よく援助交際のようなマターになって、

「無理強いはよくないけど、お互いの合意があればいいんじゃないかなぁ・・・」

と言っている人がいたり、逆に

『ルールはルールだ!そんなことはケシカラン!!』

と言っている人もいますよね?

まあ、確かにルールはルールでしょう。未成年を相手にするのは問題ありでしょう。だって、相手は判断能力が未発達なんですからね。しかし、面白いことに、現実社会で話をすると、「お互いの合意があればいいんじゃないの・・・」と、小声で、言ったりする人の方が、それ以外の話をしていて面白い。これって、ある意味当然のこと。

だって、「合意があればいいじゃないの・・・」と言えるということは、当人が「合意を取れる」何らかの能力があるということでしょ?話がやたら上手かったり、まあ、お金を持っていたり・・・と、色々なケースはあるでしょう。しかし、それなりに何かを「持っている」から、言えるわけ。世の中って、そんなもの。もちろん、実際にそんな行為をするかどうかは別問題ですよ。

逆に言うと、「ルールはルールだ!」と言ったりする人の方が話をしていて、つまらない。

そんな人は、往々にして問答無用だったりする。確かに正義感はあるのかもしれませんが、逆に言うと、「相手から合意を取れる人」ではないんですね。

「合意があればいいじゃないか。」と言う人は、現実的には、合意しなければ、何もしない。

「ダメなものはダメ。」と言う人は、他者との合意など平気で無視をする。


抑圧的な人は、そもそも合意というものに価値を見いださない。自分のやりたいことについて考えることから逃避し、何かを始めても最後に総括する習慣もない。そもそも判断というものから逃避しているんだから、判断の結果としての合意などは、むしろ「相手から判断を要求された」という形で、自分が被った被害として認識してしまう。

と言うよりも、合意の土台となる個々の判断や思考こそが、悪や罪に近いものと認識している。

それこそ、その代表例として、宗教改革のマルティン・ルターの言葉を引用してみましょう。


「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・

言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」

このルターの言葉で示されているように、抑圧的な人間にしてみれば、人間の判断と正義と言うものは、対立し、いわば排他的な関係となっているわけです。

人間が判断したがゆえに、正義から逸脱し、人間にとっての罪であり、天国から遠くなってしまう・・・
そんな発想の人にしてみれば、合意などは、どんな分野においても、罪になるわけ。

判断や思考を抑圧しているんだから、人の気持が分からなくなり、一般論的な正義しか語るものがない。個々の人間の思考に依存するものではやり取りができない。非人間的なものを持ち出さないと、対応ができない。

達成したいものがなく、最後を締めるという発想がないので、語り続けることそれ自体が目的化されてしまう。それはまさに典型的なクレーマーの様相となる。クレーマーというのは、相手を嫌がらせしようとしてやっているのではなく、ただ自分の正義を狂信的に主張している、まさに正義感の強い人と言えるでしょ?

正義だからこそ妥協する必要もない。というよりも、自身が判断した時点で、それは罪であり悪となってしまう。逆に言うと、「どの点で妥協すればいいのか?」判断することから逃避するためにも、自分なりの正義を主張し続けることになる。

「あの人は、正義感があってすばらしい人だ!」

そのような評価は、ある意味において、もっともなことなんですが、その人の持っている考えと、別の人が持っている考えの間に不一致が起こった場合、その手の正義感の強い人は、逆上し、相手を攻撃するだけなんですね。
パステルナークの小説「ドクトルジバゴ」に登場していた正義感の強い人は、そんな感じだったでしょ?

正義というものは、問答無用の状態の反映であり、新たなる問答無用を作り出すもの。


たとえば、独裁体制において、自分の親の罪を告発する子供の例が、いわば美談として登場したりするものです。

それって、それだけ家族の間に会話がないということでしょ?

子供が主張したいことがあれば、それを親が聞いて、議論して、親なりの判断を示し、子供を説得すればいいだけ。逆に言うと、親を告発するのは、そんな対話もないことがわかるでしょ?

まあ、だからこそ告発されてしまうわけです。

ダメダメ家庭の子供としては、非人間的な概念である正義しか頼るものがない。
現実逃避の方法論としての精神論なんですね。権威主義的で問答無用の親に対する不満を、より大きな権威でやり返しているわけ。そして、そのまま成長してしまったら、どんな人間になるの?

正義というのは、基本的に「北の発想」と言えます。ヨーロッパの芸術作品だと南北問題をテーマにした作品が多くあります。それこそドイツでも、イタリアでも、スペインでも、精神的な北と、享楽的な南の間の対立が起こっているもの。北は戦争をすると南には必ず勝つけど、だからと言って人々が幸福かというと別問題。北の住人は、日々ノンキに暮らしている南の住人を見ると、憧れと侮蔑が入り交じった不快感を持ってしまう。

北の住人は、精神的だけど、それが「殻」になってしまって、人生を楽しめない。自分で作り上げた「殻」からどうやって脱却するのか?そんなことに悩んでしまう。だから放埒に生きる南に対して密かに憧れを持っている。その憧れを認めたくないものだから、なおのこと、南を侮蔑し、それを自分たちの成果や倫理で正当化する。
そんな北の住人を描いた作品は、結構あるんですよ。

精神的な豊かさも、ある種の閉塞感につながってしまうこともある。
自分の信念なり倫理観は、それ相応に誇ればいいでしょう。
重要なことは、それを相手にわかるように説明することでしょ?

正義というのは、倫理的に汚れがない状態といえます。
それはいいことなんでしょうが、そんな状態で人は生きられるの?
そもそも汚れなきキレイな状態の極限が死となることは誰でも分かること。
正義を突き詰めれば死になってしまう。曇りなき世界を追い求める宗教原理主義者が、死に近いことは、歴史上で常に起こっていること。

そして、その死も往々にして悲劇的な死であって、充足感に満ちた死ではない。充足感に満ちた死は、キレイなものでも純粋なものではない。ヘルマン・ヘッセの小説「ナルチスとゴルトムント(邦題 知と愛)」で、

「君には母がない。だから死ぬことができない。」

という言葉があります。文芸的に言うと、母親というものは、死を受け入れ、生を生み出す存在。だからその存在は、キレイなものとは言えない。母親というものは、心理的には「汚れ」を体現する存在と言えます。だから心理的に母親が不在の人は、汚れとの付き合い方がわからずに、実に純粋な人になってしまう。これは例えばパスカルなんてその典型でしょう。

罪を受け入れることによって、その罪を浄化する。そして再生へとつなげる存在となる。母親は、そういう意味で正義ではない。罪を受け入れる存在は、正義とは言えないでしょ?

正義感が強い人は、罪を受け入れてくれる大地から離れているがゆえに、必死で「いい子」としての存在証明をする。しかし、その必死さゆえに、実際にトラブルになってしまう。そして、そんなトラブルを受け入れてくれる存在を探し求め、周囲に更に要求し続ける。しかし、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから自分の罪はまったく浄化されないまま。

正義感が強い人は、純粋に正義の中だけで生きているの?

そんな人は自分の中の不正義とどのように付き合うの?

当人は、その正義感ゆえに、自分の「不正義」な面を見つけて苦悩する。そしてそれを、全部破壊しようとする。正義感は破壊衝動と隣り合わせ。

歴史的に見ると、正義の名のもとに、数多くの殺戮が行われましたよね?
正義とは、個々の人間を超えた普遍的な観点であるがゆえに、問答無用で非人間的。だからこそ抑圧的な人間が頼りにする。

人の気持ちがわからないがゆえに、正義しか頼れない。

正義というものは、人の世に属していながら、人の世を超えたもの。本質的に矛盾を抱えた存在と言えます。
芸術だったら、もともと人の世を超えていて、人の世をさらに超えようとしているもの。ただ、その「おき場所」が、人の世だというだけ。

「正しい」という言葉は、芸術の、特に創作の領域では使われない。
音楽における演奏の分野では使われることもあります。しかし、作曲では使われないでしょ?

まあ、「正しさ」という言葉が飛び交う領域はそれだけ、創造から遠いわけ。


正義感が強いことが、悪いわけではありませんが、正義感が強いがゆえに、その排他性から

「アイツは存在すること自体許されない!」

なんて発想になってしまう。

正義とは「存在すること自体が許されない。」という危険思想と隣り合わせ。

それが他者に向くだけでなく、自分自身にも向いたりもするもの。

それは現実に生きる当人自身にとっても、周囲の人にとっても、見極めが必要な事態を暗示しているものなんですよ。正義感が強いといわれる人で、幸福そうに見える人って、あまりいないでしょ?

ttp://space.geocities.jp/estrelladelsur010/09-09/09-09-16.html


3) 共産主義者は悪を憎む


社民党の福島党首がおっしゃった発言である、

「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」

という発言を取り上げたます。私は別に、社会主義という理念云々を問題にしているわけではありませんよ。

というか、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」って、具体的にどんな社会なの?

現実的なイメージが私にはわからない。それとも福島党首は自分で説明できるとでも言うの?

そんな自分でもわかっていないようなことを「べき論」を使って相手に要求する・・・
こんなスタイルがダメダメの典型だと申し上げているだけです。

さて、その発言に接して以来、私は福島党首に注目していました。

「次はどんなボケをかましてくれるのかなぁ・・・」

「まったく、あの人はネタの宝庫だねぇ・・・」

福島党首は立場のある有名人なんだから、彼女が発する折々のコメントは、ニュースなどに登場したりしますよね?
そして気がついたのは、「悪(あく)」という言葉が実によく使われること。

憲法改悪阻止!悪法!悪政!

1分間の発言のうちに、3回くらいは、この「悪」なる言葉を使っている。皆さんも、今後は注目してみてくださいな。

ある人の考えや行動が気に入らないということはあるでしょう。自分だったらそうはしない、そう思うことだってありますよね?
しかし、自分と違うからと言って、それをいきなり「悪」なんて断定する・・・そんなことをする人って、いったいどんな人なの?って思うでしょ?

自分と違うから気に入らない・・・のはいいとして、じゃあ、自分の考えなり行動の方が、他の人にとっても適切なものなんだ!と、周囲の人にもわかるように説明するのが先でしょ?

たとえば憲法の問題だって、今までの憲法のいい点はこれこれだ、憲法の改訂をして、この点を取り入れると、このあたりが問題になってくる・・・だからワタシの考えの方がいいんだヨ!
そうやって、他者にわかりやすく説明することが重要でしょ?

「この私が『悪』だって言っているんだから、黙って従えコラっ!」

そんな感じでいきなり価値判断を押し付ける必要なんてないじゃないの?

さて、以前にこのメールマガジンで韓国の歴史教科書を取り上げました。あの教科書も、事件の具体的記述はそっちのけで、価値判断だけが書いてあった世にも珍妙な教科書でした。大きな事件があったのなら、「いつ」「どこで」「だれが」「なんの目的で」「どうやって」と、そんなことを記述するのが先でしょ?事件の価値判断は人それぞれですよ。

しかし、ダメダメ人間は、自分自身で考えたりはしない。権威者認定のありがたいご高説を、盲目的に受け入れているだけ。自分で考えたりはしないから、事実の詳細より、価値判断が先に来るわけ。

そして、自分と違っているからということで、「悪」と勝手に認定してしまう。

しかし、自分と違っているから、あるいは、自分の言うことを聞かないから、すなわち「悪」なんて、実に恐ろしい発想でしょ?

それこそヒトラーやスターリンや毛沢東となんら変わりませんよ。ホロコーストに至る典型的な発想じゃないの?あるいは、「子供が言うことを聞かないから殴った!」と語る児童虐待する親とまったく同じ。

福島党首の発想は、価値判断が先に来て、権威主義的で、問答無用。
実際にそうでしょ?

しかし、このような発想って、別の言い方をすると、軍国主義的ですよね?

「米英は悪だ!オレの言うことを黙って聞け!反論は許さんっ!!」

まあ、福島党首の実家・・・なかんずく、両親がどんな人なのか?
簡単に見当がつくでしょ?

問答無用で権威主義的な父親。グチばかり言っている母親。そして両方とも被害者意識が強い。

「悪いのは全部政治のせいだ!」そして「
いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」

そんな環境で育ってしまうと、「ああ」なりますよね?

このような被害者意識が強い人間は、被害者意識が強い同じような人間を呼び込んでしまう。しかし、お互い「親に迷惑を掛けられない!」なんて強迫的に思っているから、根源的な思考ができない。自分たち自身の問題として捉えられないわけ。そんな連中が、一緒になって、

「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」

とグチ大会をするわけ。しかし、物事は簡単に行かない。被害者意識が強い人間は、被害者競争をしたりするもの。双方が不幸自慢をして、「どっちの側がより不幸なのか?」で競争するんですね。そして「より不幸」な方が序列が高いわけ。

「アナタより・・・ワタシの方がかわいそうな人間なんだから、ワタシの言うことを聞いてよ!」

社民党から離脱した人がいたりしますが、それって、政策論争や路線論争でもなく、このような不幸「抗争」に敗れた・・・という面もあるんじゃないの?

福島党首が何を目指しているのかはよくわかりませんが、彼女が目指しているものを彼女自身が自覚しているのかな?
その点が、そもそも、それが疑問ですし、もし、明確な目標があるのなら、今のような権威主義的で軍国主義的な手法だと、その実現は遠いだろうなぁ・・・と思っているだけです。

そもそも、じゃあ、頻繁に登場する「悪」って、どういう意味なの?

「アンタの言う、悪って、どういう意味?ちょっと教えて?」

と、こちらが尋ねたら、どう答えるでしょうか?
まあ、予想できるのは、これ。

『悪って・・・よくないこと・・・』

まさに、「ふつうって、どういう意味なの?」という問い掛けに対する回答とよく似ていますよね?

ちなみに、福島党首が掲げる「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」に似た社会というか組織があることが最近わかりました。最近言及し続けていますウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中での記述からです。その中に、第2次大戦中にナチスが作り上げた、アウシュビッツ収容所の記述があります。

アウシュビッツのスタッフには、いわゆる職業軍人はほとんどいません。一般の、それこそ「ふつう」の人たちが、あのような「作業」を行っていたわけ。あのような行為ができるためには、「考えないこと」が、絶対に必要でしょ?「考えていたら」やっていられませんよ、いくらなんでもね。だから「考えない」能力に長けている人たちが、スタッフとして集められ、「粛々と」作業したわけ。

まさに「ふつうの人が、ふつうに働いて・・・」そして、「考えない」から、自分は不幸だと思わない・・・そんな組織だったわけ。

そもそも、物言いの冒頭に「悪」なんて言葉を出すということは、それ以上は「考えなくてもいい」わけでしょ?

それこそ、アウシュビッツでも

「ユダヤ人は悪だから・・・」
「これがワタシの仕事だから・・・」

そんな言葉を持ち出し、自分で考えることに封印を施し、「粛々と」作業したわけでしょ?


悪という言葉は、倫理に直結している。

倫理というのは、言葉の上では結構なことですが、別の観点からすると、プラグマティックな視点が欠如していることと言えます。そもそも、プラグマティックに物事を見る人が「悪」なんて言葉を持ち出しますか?

プラグマティックな発想がないということは、自分で達成したい目標そのものがないということでしょ?

自分に確たる目標があれば、その実現のために、プラグマティックに行動することになりますからね。倫理的に考えているだけでは、自分の目標は達成できませんよ。目標が達成できない・・・というか、目標自体が存在しないので、むしろ、

「○○のせいで、上手くいかない。」

と犯人認定の論理を持ち出すことになる。その「○○のせいで上手くいかない。」という発想を、エーリッヒ・フロムは「○○からの自由」と記述しております。その「○○からの自由」にこだわる心理がナチスを呼び込んでしまうことになる。

「○○をする自由」を意識して、プラグマティックに発想すれば、それに協力してくれる味方がほしい。しかし、「○○からの自由」を意識して、倫理的に物事を見れば、敵がいた方がいい。「悪」を意識することによって、「善」vs「悪」の構図を作り上げるわけ。だからこそ、抑圧的な人間は、味方よりも敵が必要になってしまう。そして、自分の考えと違っている者を、「悪」と認定して、それを敵とすることになる。

敵なんだから、説得も必要はなく、一方的に糾弾するだけ。
逆に言うと、会話の能力は必要とされない。

ただ、敵を攻撃する言葉を繰り返し、権威筋認定のご高説を連呼するだけ。

あるいは、反論されにくい漠然とした言葉を持ち出すことで、説明や説得のシチュエーションから逃避する。まさに、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉に結実することになる。その言葉はいいとして、

『で、結局は、アンタはどうしたいの?』

と聞かれてしまったら、どう答えるんだろう?
彼女としては、どうしてもやり遂げたい具体的なことがあるの?


倫理というのは外部的な体系であって、その裏面として自己逃避とつながりやすい。抑圧的な人間は、自分で考え、判断することが心理的に怖いので、その物言いに「学ぶ」という言葉が頻発することになる。その「学ぶ」という言葉は、その心理的な意味としては「従う」とか「縛る」という言葉に近い。まさに自分で判断することを否定している発想なんですね。自分で考えることを否定し、自分自身を否定しているんだから、相手のことを肯定するわけがないじゃないの?

いきなり「悪」なんて価値判断を押し付ける人間って、現実にいたりするでしょ?
そもそも「悪」なんて言葉が冒頭に登場したら会話にならないじゃないの?

つまり、最初に「悪」なる言葉を使うことによって、会話や思考から逃避できるわけ。そんな人間は、今までちゃんとした会話をして来なかったことがわかるわけですし、そんな人は被害者意識も持っているものなので、スグに逆上することになる。

「ああ!アイツの悪によって、私はかわいそうな目に!」

そう思ってしまうので、暴力的な手段を取ることに躊躇しない。自分と違っている発想や行動を持っている人を、いきなり「悪」と断罪するような人が、後になってどのように評価されるのかって・・・決まっているものでしょ?

まあ、この私が、福島党首と1対1のやり取りができる機会があれば、1時間あれば必ず泣かせられる自信があります。まあ、「泣かせてみせようホトトギス」ってところ。

そもそも、彼女に対しては、

「アナタのさっきの物言い・・・アナタのお父さんの物言いにそっくりでしょ?」

なんて言葉がチェックメイトになるわけですから、その前段階で、少しづつ相手を追い詰めていけば、実に簡単に泣かせられるでしょう。ちょっと興奮したりすると、「つい」、もっとも自分らしい言葉を言ってしまうもの。
それこそ

「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言葉。

そのような言葉を多く引き出して、ニッコリ笑って、

「ああ!お父さんもそんな感じで言っていたんでしょ?」
「アナタはやっぱりお父さんの子だねぇ・・・」とやるわけ。

まあ、この時点で確実に泣くでしょうね。2時間あれば、首を吊らせることもできるでしょう。彼女はそれくらい「心が弱い」ことが歴然としています。まあ、この私が「いかにモノが見えるのか?」知っている人は知っていますので、これ以上は言いませんが・・・

だから重要なことは、自分自身で自分自身を見つめるということ。

人から突っ込まれるから逆上してしまう。自分自身で考えれば、そんな厳しいことにはならないでしょ?
普段から考える習慣を付けておけば、いざという時にも、大怪我はしないもの。

だからこそ、「悪」などの価値判断を最初に持ち出して、会話や思考から逃げるようではダメなんですね。

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3) 共産主義者は権威主義


ダメダメ家庭出身者の活躍分野 共産党員

第2次大戦中のイギリスの首相をされたチャーチルが、こんなことを言っていますよね?

「若い頃に共産主義にシンパシーを持たなかったら人間の心がない。
しかし、いい歳をして共産主義者だったらバカ。」


あるいは、私の個人的な知り合いが、よくこぼしていたものです。

「共産党の人は、勉強もしているし、正義感もあるんだけど、

『共産党員になって一緒にやらないとあなたたちには協力できない。』

と言われてしまうので、付き合いきれない・・・」


ダメダメ家庭の人間は、目の前の現実を直視して、その問題を一つずつ解決していく・・・と言った現実的な改善をしない。何かの問題に取り組む際にも、理念先行であり、
「悪いのは全部○○のせいだ!」

と、勝手に判断して、その○○への対抗心を膨らませてしまうことが多いわけ。


確かに、共産主義が掲げる「人類が皆平等で幸福」という状態は、誰も反論できませんよね?

しかし、現実にはダメダメ家庭というものが存在し、自分の子供をダメダメにしてしまう親だっているわけですから、そのようなダメダメ家庭で育てられた人間をどう扱って行くの?あるいは、どのようにサポートしていくの?

出身家庭は皆平等というか、同レヴェルというわけには行きませんよ。経済的には平等に近くなっても、まさに「心の貧しい」状態の家庭もあるわけ。そしてそのような「心の貧しい」家庭ほど、被害者意識を持っているもの。だから対抗心が強い。

そしてダメダメ家庭は、政治をあてにするもの。自分たちが当事者意識を持ってことにあたるという発想がなく、政治の力でいきなり解決してもらおうとするわけ。何かと言うと、政治の問題にしてしまい、そして、対抗心が強い家庭で育った人間が共産党に入党するのも、当然といえば当然といえます。

政治的な主義主張としてのマルクス主義がいいとか悪いとかは別として、

「目の前にいる困りごとを抱えている人間を、どのように助けるのか?」

と考えることも重要でしょ?

「困っている人が、自分と同じ共産党員だったら助ける。」

「困っている人が共産党員でなかったら助けない。」

そんな発想だったらねぇ・・・

しかし、ダメダメ家庭の人間にはグチの共有への渇望があるわけ。

「一緒になってグチを言い合いたい!」

常にそう思っている。だから一緒になってグチを言ってくれるような人間でないと、仲間とは言えないわけ。

「アンタ・・・さっきからグダグダ言っているけど、そんなことは、自分で何とかできるでしょ!?」

なんて言い出すような人間が身近にいては困るわけですね。

面白いことに、共産党のポスターが多く貼ってある地域は、空気がよどんでいる。なぜかなぁ・・・と思ったのですが、声が聞こえないんですね。何となく静か。それに風景の色自体がくすんだ感じ。ちょっと殺伐とした雰囲気なんですね。そんな環境で育ったら、やっぱり

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と考えるような人間になるのも当然でしょう。

マルクス主義を共有する集団なら、まだ救いようがありますが、往々にして共産党政権が行うのは被害者意識の共有という手法なんですね。

マルクス主義を肯定しているのか?
あるいは、現行の政治を否定しているのか?

言葉の上では共通していても、その心理の方向性は、肯定と否定で逆方向になっている。結びつきだって、肯定と否定は違うもの。
理想を共有しているのか?
敵を共有しているのか?
それによって、心理的にはまるっきり違うものでしょ?

それこそ、以前に京都府で共産党の長期政権がありました。そこでも「憎い!憎い!」と、東京への憎しみを掻き立てる政権運営がなされたそう。ちょうど今の北朝鮮と同じ手法といえるわけ。京都府民が東京への憎しみで一致団結している。当時の京都はそんな状態だったそう。だから共産党の長期政権になったわけでしょう。そんな精神風土が残っていると、確かにヘンな事件も起きちゃいますよね?

マルクス主義的な考えで取り入れられるものは、取り入れればいいでしょうし、選挙において共産党に一票入れるもの、ひとつの判断といえるでしょう。しかし被害者意識を共有する集団に入ると、抜け出すのも大変なわけです。形の上では抜け出せても、精神的には抜け出せない。ちょうどダメダメ家庭出身者が、自分の出身家庭の被害者意識から抜け出すことが難しいようなことが起こるわけ。常に自分の被害を考える習慣がついてしまうわけ。

現実で問題が起こってしまったら、自分の目で問題を認識し、人の話を真摯に聞いて、自分の頭で考える・・・現実を改善するのは、これが基本でしょ?

マルクス主義の考えを参考にするのは結構ですが、あくまで考える主体は自分自身なんですね。

しかし、共産党員になると自分で考える必要がなくなるわけ。それこそ上意下達の世界でしょ?

だからダメダメ家庭の人間には都合がいいわけ。自分で考えなくてもいいし、自分の被害者意識を満足させてくれるし、人と会話しなくてもいいし、明確な序列があり、権威主義的。

と、ダメダメ家庭の人間の「ツボ」を満足させてくれる集団といえるわけ。

面白いことに、「人類がみな平等」という主義主張のはずの共産党では、明確な序列があり、実に権威主義的でしょ?

会話ができないので、新たな縁を広げていくことができず、従来からの縁であう地縁血縁にこだわったりする。

それこそ、権威や血縁の集大成とも言える皇室に、妙にこだわったりするわけ。共産党員ほど、

「実はワタシの先祖は、遠く皇室につながっているんだ!」

などと自慢気に話したりするもの。そんな血縁自慢の共産党員って、いたりするものでしょ?

あるいは、共産党員の主義が統一されているのはともかく、その「話しぶり」も、全員同じようなものでしょ?

それってTPOに合わせた会話をしていないわけですよね?
あんな口調を聞かされたら子供はどう思うのかな?
あの話しぶりは、相手から合意を取るという発想ではなく、相手から反論を食らわないことが目的化した話しぶりでしょ?

共産主義そのものは、現在でも十分に参考になる考えでしょう。マルクスの指摘には有意義な点も多い。しかし、現実の共産党員で尊敬できるような人って、ほとんどいませんよね?

不平不満を、権威主義的な物言いで主張するだけ。結局は、会話ができない人間が、自分の被害者意識を主張しているだけでしょ?

だからダメダメ家庭の人間は、共産党員になってしまったりするわけ。
共産主義の理想というより、不平不満の体系化の方が主眼と見た方が理解しやすいもの。

それこそ読売新聞の渡辺さんが、昨年のプロ野球での騒動の際に、「たかが選手が・・・」と言ったそうです。渡辺さんは今は違っていますが若い頃は共産党員でした。まあ、「たかが選手が・・・」という物言いは「共産主義」の発想とは似ても似つかぬように思われるでしょ?

しかし、「まず最初に、自分の側の被害を考える。」あるいは、「権威主義」という「共産党」のメンタリティからは、結局は変わっていないわけ。彼もダメダメ家庭の出身なんでしょうね。

あるいは、以前に、年季が入った実際の共産党員の方と雑談をしたことがありますが、その方が「ウチの使用人が・・・」と言う言い回しをしたので、私も呆れてしまいました。「使用人」という言い方ではなく、たとえば「働いてもらっている人」とか、せめて「従業員さん」とかの言い回しの方が適切といえるのでは?
共産党の集会では、「使用人」という物言いをする人に対して、注意とか指摘はされないの?

共産党員さんも、主義主張は当人の勝手ですが、実際に働く労働者の方々に、もうちょっと敬意を持てないものなのか?

序列意識が強いダメダメ人間は、何でも序列で判断するので、逆に言うと、「格に対するセンシビリティ」がなくなってしまうことになる。格の違いというか、そもそも背負っているものが違うというか、そもそもの土俵が違うというか・・・もはや別の世界という存在もあるでしょ?

それを、格の問題ではなく、序列関係の枠組みで認識するわけ。


それこそ、皇室なんて、一般の人間にしてみれば、格が上とかの問題以上に、そもそも別の世界ですし、はっきり言ってしまうと、関係ありませんよ。だから、どうでもいい話といえるくらいでしょ?

しかし、共産党員は、格が違うというか、世界が違うという発想自体を持っていないので、それを序列関係で意識して、だから、皇室に対して妙に対抗したりする。しかし、無理に意識などはせずに、

「あの人はあの人、ワタシはワタシ。」

でいいんじゃないの?

しかし、序列意識が強く、対抗心が強いので、どうしても、意識してしまうわけです。

ちなみに、これらの記述は、基本的に「日本」の問題です。ただ、日本以外でもほとんど同じでしょ?

尊敬できる共産党員って、世界的に聞かないでしょ?


被害者意識の体系化と、組織化という点では、それこそ中国の共産党もその典型といえます。

昔の中国では、「大人(たいじん)」と称される「器の大きい」大人物がいたものでした。しかし、今の中国で、そんな大人物って聞きませんよね?

伝記を書きたくなるような大人物って、まあ、「トウ小平」さんが最後じゃないの?
あれだけ人口がいるのに、人物としてはどんどん「小さく」なっちゃっていますよね?

共産党治下の今の中国は、地縁と血縁を重視し権威主義的と、まさにダメダメ家庭の人間の「ツボ」を押さえたつくりになっているわけ。あと・・・中国人や中国政府の行動にやたら対抗心があるのも、共産主義というよりも、ダメダメ家庭のツボそのものでしょ?

私は別に共産主義に反対しているわけではありません。それこそ共産党員の問題を、以前触れた皇室の問題と同じ観点で考えているだけです。右とか左とかの分類で、わかった気分になること自体が、いかにもダメダメでしょ?

ちなみに、「被害者意識を体系化して、それを組織化する」というのは、宗教団体にも見られたりしますよね?
やたら自分たちの被害を主張する団体ってあったりするでしょ?

そんな人たちは、往々にして、自分たちが周囲に撒き散らしている「被害」については無頓着なもの。

「自分たちが一番の被害者だ!」

と、思っていると、自分以外の被害なんて無視するわけです。これもダメダメ家庭のお約束ですが。

ttp://space.geocities.jp/estrelladelsur010/05-12/05-12-23.htm


4) 共産主義者は人間の価値を社会的序列でしか判断できない

支配・被支配の構図 (統治と支配の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが命令と服従だけなので、

「どっちが命令を下すのか?どっちが命令を聞くのか?」

その立場を確定する序列が重要になってしまうわけ。序列が違うと言っても、格として見た場合には、それほど違いがありません。

「どっちが2番で、どっちが3番なのか? だからどっちが上の序列なのか?」

と言っても、順番が違うというだけ。逆に言えば、そんな「格の違いと序列の違いが区別できない」発想が問題になってしまうこともあるもの。

序列意識が強いダメダメ人間は、格の違いを序列の違いとして認識してしまうので、たとえば親子の関係も序列の違いとして認識し、格の違いとしては認識していないわけ。本来なら親子の間にある違いは序列の違いではなく、格の違いでしょ?

格の違いがあれば、「上の立場」の人間は、下の立場の存在に対し、保護したりする責務があるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、上の立場であっても、下の立場の存在を保護しようなんて考えてはいない。ただ、序列に基づいた命令の流れがあるだけ。

ダメダメ家庭においては、上の立場のものの責務として、下の立場のものを「保護し」「思いやる」なんて発想は持っていないわけ。

序列の違いと、格の違いは、質的に大きく違うもの。

このような「格の違い」以外にも、単なる順番の差で示される序列の差ということをもっと超えて、「立場が大きく違う」状況が存在する場合があります。そうなると、いわば「支配・被支配の構図」が誕生するわけ。

ここで、「支配・被支配」と言っても、支配であって、統治ではありません。

イギリスの王室を、「君臨すれども、統治せず。」なんて言われたりしますが、

ダメダメ家庭というものは、「支配すれども、統治せず。」

となっているわけ。


「支配すれども、統治せず。」となると、それこそ北朝鮮の金王朝が、まさにその典型でしょ?
金王朝は君臨して、北朝鮮の人々を支配しているけど、統治はしていないでしょ?

逆に言えば、ダメダメな人は、統治の責務を認識しないからこそ、何も覚悟もなく「支配」を目指すことになるわけ。

そして、支配を目的とすることで、自己逃避してしまう。本来なら、何かを統治というものは、その統治した人々を幸福にしたり、あるいは、統治の領域を拡張したりと、その立場を獲得すること自体は、最終目標とは言えないもの。どのように統治するのかが最重要の問題ですよ。

あるいは、統治の問題だったら「どうやって、みんなの富を増やしていくのか?」なんて問題も発生するもの。
しかし、ダメダメな地域ではそんな発想がないので、富の再生産がないことになる。それこそ、支配者が被支配者に対してワイロを要求するようになるわけ。それは支配者の役得かもしれませんが、統治者の義務からは外れているでしょ?

ダメダメな地域では、支配者は、得た地位によってお金を得て、そのお金によって、土地とか、宝石とか、お妾さんに出費しても、本来の統治者の役割である富の再生産に回すようなことはしないでしょ?
だから被支配者は貧しくなるばかり。それを指摘されると、

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と他者を犯人認定。 中国とかロシアとか、韓国・北朝鮮とか、イスラムって、そんな感じでしょ?


ダメダメな領域ほど、支配者はラクだし、儲かる。だからこそ、支配者になりたがる。そのようなプラグマティックな意味ばかりではなく、ダメダメ人間の抑圧的な傾向からも、支配欲が発生するもの。自己逃避のダメダメ人間は、支配そのものを目的化することで、あるいは支配する立場を得ることを目的とすることで、自分自身の問題から逃避してしまうわけ。

そんな人は、支配を目的化した用語を使ったりするもの。たとえば「制圧」とか「征服」とかの、一般の社会では使わないような言葉を持ち出してくる。それこそ、大阪の芸能人が、よく「東京制圧!」とか言って喜んでいますよね?

あるいは、韓国の芸能人が、「日本制圧!」とか・・・
征服とか制圧はいいとして、じゃあ、その芸人さんは、東京や日本でどんな活動をするの?
本来は、それが重要でしょ?

しかし、それを考えることから逃避してしまい、征服とか制圧そのものが目的化されてしまうわけ。

そもそもダメダメ人間は、「勝ち負け」だけで判断するもの。

「ヤツラに勝って、制圧したぞ!」

そう言いたいわけ。支配が目的化されているので、それを確認するような物言いが多くなる。それこそ、

「誰がオマエを養っていると思っているんだ?!」

なんて物言いが頻発することに。あるいは

「教えてやる」とか「恵んでやる」とか「出演してやる」

なんて恩着せがましい物言いが多くなる。あるいは、

自分の支配下にある女性に対して「ご主人さま!」と言わせるとか・・・

そんな事件が実際にありました。そんな行為は、その人の出身となったダメダメ家庭の反映なんですね。


そんな環境に育ってしまうと、まさに親譲りで、相手を「支配」することをもくろむパターンになったり、逆に、「支配」に対して過敏に反応するようになるわけ。ちょっとでも力のあるものに接すると、

「この○○は、ワタシを支配しようとしているのでは?!」

と、警戒することになってしまう。


それこそ、「日の丸」とか「君が代」などにも過剰反応することになる。そんな過剰反応も、支配されることに対する過敏な恐怖感を理解していると、簡単に理解できるでしょ?

ダメダメな環境においては、「支配すれども、統治せず。」の状況。だから支配されることは、すなわち、死につながってしまう。ダメダメな地域では、そんな「支配・被支配の構図」で物事を見る人が多いでしょ?

韓国人の訳知りコメントって、「日本が我々を支配しようとしている!」なんて警戒感を主張した文章って多いでしょ?

日本だって、本来なら、そんな「しょーもない」連中など支配しても、ジャマくさいだけ。本来は、支配する際には統治も発生するわけですから、そんな連中の統治は面倒だし、価値もありませんよ。しかし、ダメダメと言うものは、「支配・被支配の構図」で相手との関係を設定し、その支配においては、統治する義務が含まれていないことを理解すれば、そんな警戒感を踏まえた主張も理解できるようになるわけです。


本来なら、そんな「支配・被支配の構図」で見なくても、対等の関係で

「お互いが迷惑にならない範囲で自由に行動し」

「自分のやりたりことを相手に的確に伝えればいいだけ」、

別の言い方をすると、双方の合意を積み重ねながら進めていけばいいと思ってしまうのはマトモな発想ですが、会話不全で自己逃避のダメダメ人間にはできないこと。他者の支配を目的化することで自己逃避できるわけだから、そんな支配欲に浸ることはダメダメ人間には、心休まるものと言えるわけ。つまり、支配対象の他者を凝視することで、自己逃避するわけです。

ダメダメ人間にとっては、支配欲というのが、自己逃避の具現化であって、目的達成のための統治とは結びついていない。そんな人間に実際に支配されてしまったら、とんでもないことになってしまうもの。

支配しても、しょーもない連中であるがゆえに、支配されてしまうとトンデモナイ事態になるわけです。


そんな支配欲を持つ人は、そもそも個人としての尊厳がないので、自分で自分を律する発想がない。
支配だからコミュニケーションが問答無用の命令だけ。そして、その支配関係を利用して

「オレに従え!」

「ワタシを好きになれ!」

と要求するようになる。そんな要求を受けても、実際に好きになるわけもなく、そして、なりようもない。だからこそ、支配下にある存在は、自分の感情を抑圧せざるを得ない。あるいは面従腹背状態になり、臥薪嘗胆を決め込むようになる。

「支配・被支配の構図」で物事を見る人間は、対等の関係では対処できないわけだから、強引に相手を支配しようとするもの。だから、そんな発想が通用する世界に行きたがる。序列に関わる領域において、自分の序列を上げることだけに熱心の人がいるでしょ?

そして、序列を上げて、最終的に頂点にたったら、もうやることがなくなってしまう。

逆に言うと、「その後」をイメージしていないので、どんなズルイことをしても、頂点に立ちたいと思うようになるわけ。トップに立った後でやることについて、何も考えていない状態。それこそ北朝鮮の金王朝ではありませんが、政治の世界なども、やたら「支配・被支配の構図」を作ろうとする人がいるでしょ?

政治の世界だったら、ある種の支配欲が必要でしょう。しかし、抑圧的な人間は、それが最終目的になってしまって、その後の統治のイメージが出てこないわけ。先ごろ辞任された小沢さんなんて、その典型でしょ?

小沢さんは支配のための方法論とか、支配を維持するための方法論には熱心ですが、統治のイメージは何も持っていないでしょ?

支配欲が強い人は、相手を支配しようとするわけですが、逆のパターンで「支配されたい」と思っている人もいるもの。ある種のマゾヒズムを持っている人もいるわけです。
なにせ、「支配されてしまえば」、自分ではもう考えなくてもいいでしょ?

自己逃避の人間にしてみれば、自己責任から解放されて、実にラクチン。そうして、トラブルが起こったら

「アイツのせいで、こんな事態に・・・」

と支配者を恨んでいればいいだけ。まさに韓国なんてその典型でしょ?

韓国人がその典型と言えるわけですが、シェークスピアの最後の作品である「テンペスト」に出てくるキャリバンが典型的にそのパターン。いわば隷属への意思を持ち、強き者に積極的に隷属しようとし、そして不都合な事態になると、

「悪いのは全部あの○○のせいだ!」

と言い出し、そして

「どうやって、あの憎い○○に報復しようか?」

と考えることになる。そんな発想の流れは、まさにキャリバンがそうであるように、「育ちの悪い」人間には、頻繁に発現したりするものなんですよ。そんなマゾヒズム人間は、自分を縛ってくれる存在を待ち望んでいるわけ。だからこそ権威主義的な性格を持つもの。

「我々は権威ある○○に黙って従っていればいいんだ!」

と自分に納得させ、周囲の人間に命令する。あるいは、

「あ〜あ、誰か、スゴイ力のある人がワタシを支配してくれないかなぁ・・・」

と念願することになる。支配を志向する人は、結局は序列志向であって、会話の能力がない。あるいは、自分の考えを説明する意欲も能力もない。だから、人から質問されないような、「立派な大義」を掲げたりするものです。

「我々は、こんな立派な正義を掲げているんだから、オマエたちは文句を言わずに我々に従っていなさい!」

そんなスタイルに持ち込みたがる。立派な大義による、問答無用で説明不要の支配関係を形成するとなると、ボランティアの連中なんて、その典型でしょ?

「オマエに恵んでやる!」という立場を作って、弱い立場の人間を支配する。そして、「アナタは悪くないわ!」などと言いながら、その支配体制を維持しようとする。逆に言うと、反論してくるような人間、つまり当人自身で考えることができる人間は、そんな会話不全のボランティア人間の相手などはしない。というか、ボランティア人間自体が、そんな会話が必要な相手から逃げてしまう。


支配に当たっては、言葉は不要。しかし、統治に当たっては、言葉は重要になるでしょ?

だから、会話不全のダメダメ人間は、支配止まりであって、支配自体を目的化するわけ。

支配欲はまさにサディズムであって、被支配欲はマゾヒズム。


お互い同士でくっつけば、まさにベストカップルと言えるわけですが、世界はそんな2人のためだけにあるわけではない。周囲の人間にしてみれば、思考停止のサド・マゾのカップルが巻き起こすトラブルに対して迷惑するだけ。結局は、マトモな人はそんな人から離れて行ってしまうし、残された人間は同類のダメダメばかり。そんな人間が一緒になって家庭を持ったら、その家庭はどんな状態になるの?

支配関係はあっても、家族を保護し、維持し、育成していくという統治の発想がない家庭となってしまうでしょ?

前にも書いていますが、ダメダメ家庭においては、親は子供の「保護者」ではなく、「支配者」なんですね。つまり、ダメダメ家庭においては、子供は保護者不在の日々を送っているわけ。そんな日々だったら、常に切羽詰った心理状態になってしまいますよ。

支配関係というものは、いったん、その関係が崩れたら、修復ができるわけがない。むしろ、次に会うときは敵となっている。それが支配関係というもの。民主党の小沢さんが、いつも、そんな感じですし、皆様が実際にご存知のダメダメ家庭というものも、そうなっているでしょ?

逆に言うと、いったん、その関係が崩れたら修復が効かない関係だったら、その関係が、相互理解に基づいた信頼関係ではなく、「支配・被支配の関係」だったことがわかるわけ。

支配と統治は、似て非なるもの。外から見る行動とか状態においては、「重なる」ことが多いわけですが、ダメダメの領域では、しっかり区別する必要があるわけですし、その区別によって、見えてくるものも多いものなんですよ。

ttp://space.geocities.jp/estrelladelsur010/09-05/09-05-18.html

5) 共産主義者には格と序列の違いが理解できない


格に対するセンシビリティ (格と序列の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが「命令と服従」しかないので、

「どっちが命令を下す側なのか?」

そのようなことを常に意識するようになるわけ。


さて、ダメダメ家庭を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する・・・
序列に対しては過敏にこだわるダメダメ人間ですが、「格」のようなものに対するセンシビリティは、意外にも、弱いものなんですね。

人間なり物事には「格の違い」というものがあるでしょ?
それが「命令と服従」につながるわけではないにせよ、そもそも別次元のようなものもあったりしますよね?

この「格の違い」というものを、別の言葉で言い換えると、「背負っているもの」「背負ってきたもの」の違いと言ってもいいでしょう。あるいは「土俵が違う」とでも言えるでしょう。

同じ格闘技と言っても、「お相撲」と「柔道」では、そもそも別物ですよ。お相撲さんと柔道家とで「どっちが上か?強いのか?」なんて、議論をすること自体がナンセンス。

しかし、無理に序列に巻き込むダメダメ人間は、何でもかんでも序列の中に位置づけてしまう。そもそも別物だったり、格の違うものも、強引に自分の脳内序列に当てはめようとするわけです。そうして、やたら、

「どっちが上なのか?」

なんて言い出したりする。逆に言うと、そもそも格の違うものも、序列としてしか理解できないので、「格の違い」や「土俵の違い」に対するセンシビリティがないわけ。

さて、このメールマガジンでは、以前に「背景を読む力」というお題で文章を配信しております。自分で物事を考えないダメダメ人間は、他者から見解が示されても、その見解がどんな背景から出てきたのか?そんなバックボーンまで見切る力がないし、そもそもそこまで考える発想がない・・・そんな文章でした。

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきたものも違うし、背負っている義務も違う。もちろん、背負っている能力も違う。
あるいは、将来において、解決したいもの、やり遂げたいものも、違っている。

そんなに違うんだから、強引に序列に当てはめるのは無理がある。そして、やり取りをする際には、そのお互いの「背景」なり「背負っているもの」なり「やり遂げたいもの」に対する配慮がないと、議論になりませんよ。

ただ、当事者意識がないと、そもそも「自分がやり遂げたいもの」自体が存在しない。

あるいは、常に被害者意識なので、自分が「背負っている」ものも存在しないわけ。ダメダメ人間に存在するのは「背負わされているもの」くらい。自分自身が背負っているものについて、無頓着なんだから、他者が背負っているものについても無頓着となってしまう。

だから、他者からの見解に接しても、どんな背景を元に、そしてどんな目的意識を元に、そんな考えになったのかについて何も考えない。背景に対するセンシビリティがないので、「格の違い」に対するセンシビリティもなくなってしまう。

「背負っているもの」の違いの代表例は、親と子の違いでしょ?

親は、子供より、多くの義務を背負っている。だから格が違う。そんなことは当たり前のこと。

しかし、ダメダメ家庭においては、そうはなっていないわけ。

ダメダメ家庭においては、親と子の「序列」は存在しても、「格の違い」は存在しないわけです。

だって、ダメダメ家庭においては、親も子供も、背負っているものは同じなんですからね。

「いくらダメダメ家庭でも、親は子供の養育義務を背負っているだろう?」そのように思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭においては、親は子供の養育義務を「背負わされている」だけ。つまり被害と捉えている。当事者意識を持って「背負っている」のではないわけです。だから、その家庭にトラブルが発生すると、ダメダメ家庭の親と子は、同じものを背負っている同格のもの同士として、犯人探しが行われ、結局は子供が犯人と認定されてしまう。そして、ダメダメ家庭の子供は序列が低いので、親の見解には逆らえない。

本来なら、親と子では格が違うんだから、同じ土俵で議論すること自体が間違いでしょ?

しかし、格の違いに対する配慮がないんだから、何事も同格になってしまうわけ。
序列はあっても、格の違いはない。

それこそ、経済的なトラブルなどにおいても、親と子が同格で議論することになってしまう。

本来なら、親と子は経済的に格が違うものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、その家庭の経済的な苦境の解決に当たって、子供が率先してことに当たることになってしまう。だから子供が経済的な面まで「気を使う」ことになるわけ。

ダメダメな人間は、自分が被害者だと思っているので、自分自身を弱い、哀れんでもらう立場だと思っている。保護する側ではなくて、保護される側だと思っている。だからある意味において、子供と同格と思っている。だから、子供と同じ次元でケンカする。しかし、本来なら、同じ次元で親子でケンカしたら、どっちが勝つかわかりきったこと。

しかし、親子の間で、同じ次元でのケンカなんて、まさに虐待家庭では、よく起こっているでしょ?

あるいは、夫婦間においても、夫と妻では、肉体的に差がありますよ。格が違うといってもいいでしょ?
だから身体でケンカしたらどっちが強いのか?そんなことは判りきったこと。

しかし、格へのセンシビリティがないので、親子間なり夫婦間で、同格同士としてケンカして、序列を決定することになる。

このような「序列はあっても、格の違いが存在しない」状態は、ちょっとしたやり取りでも発生したりするものです。

「この人・・・ワタシに色々と言ってくるけど・・・
そもそも格が違うというか・・・土俵が違うんだから・・・
この人・・・いったい何を考えて、このワタシにこんなことを言っているの?」

そんな怪訝な思いになってしまうわけ。

「どっちが命令する側なのか?」

という序列には対応できても、

「そもそも背負っているものが違う。」
「そもそも土俵が違う。」
「目指しているものが違う。」

という格の違いに対するセンシビリティがないので、やりとりがトンチンカンになってしまう。それこそお相撲の土俵で、お相撲さんと柔道家が向き合っているようなもの。お互い、「どうすればいいのさ?」となるだけ。

格の違いは、命令とか服従には関係がない。
だからこそ、ダメダメ人間には認識されにくく、無視されやすい。

それこそ文章においても、書いている人の「背負っているもの」、「背負ってきたもの」が反映されるのは当然のこと。この私のもとにお便りのメールの文章もあったりしますが、読めば、その人の背景となっているものなんて、スグにわかりますよ。一つ一つの言葉の重みが違うものなんですね。
使われた言葉が100の言葉から選択したのか?5の言葉から選択したのか?
ちょっと話をしたり、文章を読んだりすれば、その背景がわかるものなんですよ。

よく「じっくり寝かせた文章」なんて言われたりしますが、十分に推敲をした文章と、書き流した文章は、読めばすぐわかるものですよ。文章の上手下手はあっても、背景となっている精神は、表象としての文章から見えてくるもの。ヘンな話ですが、「一気に読める文章」と、「一気に書いた文章」は、別物ですよ。

このような表現の問題ばかりではなく、ちょっとしたやり取りにおいても、その人の背景が見えてくることが多い。

当事者意識がない人間は、自分の現状や問題を見ようとしないので、自分に関係のないマターばかりに首を突っ込んだりする。他者に興味を持つのはいいとして、当人自身に解決したいことはないの?そのような当事者意識のない人からの質問を受けたりすると、

「それって、アンタが本気で解決したり、知りたいと思っていることなの?」

なんて怪訝に思ってしまうもの。そんな人は、質問の仕方なり言葉も、「ちょっとハズレて」いることが多い。だって、当人がどうしても知りたいと思っていることではないので、質問にもパワーがないものなんですね。いわば、質問のための質問に堕している。

格へのセンシビリティがない人は、そんなトンチンカンな物言いをすることが多いわけ。結局は自分自身の現状なり背景が見えていないわけ。自分が背負っているものを自覚していれば、それに伴う一貫した問題意識も発生するものですよ。逆に言うと、そんな一貫した問題意識がないということは、自らが背負っているものを意識して生きていないということなんですね。

あるいは、ちょっとした行動にも、それが反映されることになります。いわゆる貴族とか平民とかの身分においても、単に出生云々の問題よりも、背負ってきたものが反映されることになる。

「秀でたるもの義務多し」の積み重ねが、その身分の高貴さを生む訳でしょ?
単にDNAの問題ではないわけ。
背負っているものを自覚している日々だから、そんな人の行動は重みがあるわけでしょ?


しかし、バックボーンを自覚し見出す能力が、ダメダメ人間にはない。

稚拙な文章を書くのはともかく、そんな稚拙な文章の人間に限って、説教くさいもの。序列意識を元に、上からの物言いをしたがるわけ。

他者がどんな背景を背負って、その文章にしているのかわからないし、わかろうとしない。

たとえ、その分野で格が違っていても、「自分はこのようなものを背負っていて、このような目標があって、現状はこうなっていて、今はこの問題を解決したい。ワタシとしてはこのように考えている。だから、この点について、ちょっとアナタの見解を聞きたい。」とでも言えばいいだけ。

そのような問い掛けだったら、その分野での格の違いはあっても、自立した一個人同士のやり取りなんだから、スムーズに進むことになるでしょ?

まずは当事者意識が重要なんですね。当事者意識がある人なら、その分野はともかく、別の分野では「格」が高いことが推測されるわけ。

特定分野における格の違いの問題ではなく、格の違いが、そもそもわからないダメダメ人間は、持ち前の序列意識から、上からの説教くさい物言いだったり、下から媚を売るような物言いをしてしまう・・・
だからこそ、ますます人間の格が低くなる。

「序列意識」と「格の違いに対するセンシビリティ」の違いは、当人が「背負っている背景」に対する感応度の違いであって、それは自分自身が「背負っているもの」に対する自覚がないと、生まれて来ないもの。

その大元として、親と子の間で「格の違い」が存在しないダメダメ家庭の発想があるわけです。

そんな「格の違い」に対するセンシビリティがないと、それこそ学校における教員と生徒の間も、序列で捉えてしまうことになる。教員と生徒は、格が違うものであって、序列の問題ではないでしょ?

しかし、教員と生徒の間の違いも、ダメな教員は、序列で判断するし、ダメな生徒やその親も、序列で判断する。そんな学校は、どうなってしまうのか?まあ、お約束でしょ?

あるいは、以前に起こった自衛隊の船と漁船の衝突事故ですが、最新鋭の軍艦と、オンボロの漁船で、同格で議論してはダメでしょ?

それって、親子間で、同格でケンカするようなもの。

格が違いに対するセンスというものは、自分が背負っているものを自覚しているから、持っているわけ。当事者意識がないと、持てないセンスなんですよ。逆に言うと、そのセンスがないことから、自らが背負っているものを全く意識していない日々が見えてくるわけです。

「秀でたるもの、義務多し。」

という言葉でいうと、

「義務を自覚してない人」は、「秀でたる存在」ではないわけでしょ?

そんな人は、たとえ、その立場がそれなりではあっても、ダメダメな人なんですね。

格が上の人は、一般人とは、求められるものが違っていて当然。逆に言うと、その覚悟がない人は、そんな立場に立ってはダメなんですね。

本来なら、家庭内で、格上の存在であるはずの親というものも、ダメダメ家庭においては、子供と同格。逆に言うと、格上の責務について何も考えないから、簡単に親になってしまう。格上の存在として、子供を保護ずる発想もない。自分ひとりで何事も解決しようと、子供が無理をして、結果的に子供が問題行動を起こして、

「どうしてこんなことに?!」

と嘆く。ちょっと説明されれば誰でもわかることですが、何も考えないからこそダメダメ家庭ができてしまう。家庭内においては、親というものは、格上の責務があるものなんですよ。その責務を自覚してない親って、残念ながら多いでしょ?

そんな人は、別の面でも、今回の文章にある「格に対するセンシビリティ」がないものなんですね。

ttp://space.geocities.jp/estrelladelsur010/08-10/08-10-31.html

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 な.     /:l::::!::::ヽ!::ヽ:::::::ヽ:::::::\:::ヽ、::::::::ヽ:::ヽ::::::::!::i:::::::!  だ 
 ん   ハ:::l:::::、::::ヽ::::\:::::\:::::::\:::`ヽ、:::ヽ::ヽ:::::!:::!:::::l
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 い   !ハト:{:!:i:トN{、ヒ_ラヘ、{ >、{ 'イ ヒ_ラ 》\::l::!:ト!!:l::l!     :
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        / ^ヽ  ヾ!  ヽ _,,、'´    /  j/
メンテ
日本では明治以降ずっと 右翼・国粋主義=共産主義 だった ( No.7 )
日時: 2022/05/10 08:48
名前: スメラ尊 ID:neEbeIso

日本では明治以降ずっと 右翼・国粋主義=共産主義 だった

戦前の保守・右翼・陸軍軍人が戦後の左翼になった _ 右翼・保守は必ず共産主義者になる

日本では明治以降ずっと 右翼・国粋主義=共産主義 だった。
日本では明治時代から一貫して、天皇・保守政治家・官僚はグローバリスト、愛国者・国粋主義者・反米勢力は共産主義者。戦前の陸軍や226事件の青年は殆どが共産主義のシンパで反資本主義だったから、共産革命を起こさない様に憲法第九条を作って軍隊を持てない様にしたんだよ。
現在でも保守・反動・愛国政党は日本共産党一つだけで、皇族や官僚・自民党は新自由主義・グローバリストですが、それは戦前からの伝統です:
1923年9月に起こった関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼って以来、日本はアメリカの巨大金融資本の強い影響下に入った。 ウォール街の住人たちは反ルーズベルト政権のクーデター計画でも金本位制への復帰を強く求めていたが、日本政府に対しても同じことを要求、受け入れられた。JPモルガンに言われるまま、浜口雄幸政権は緊縮財政も推進する。その時に大蔵大臣を務めていたのが井上準之助だ。
 この結果、不況はますます深刻化し、東北地方では娘の身売りが増えて大きな社会問題になっている。こうした経済政策を推進した浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には井上が本郷追分の駒本小学校で射殺されている。
 1932年に駐日大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。グルーの従兄弟がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかも、グルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。
 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。敗戦後に「転向」したわけではない。

 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあった。ところが1933年から45年4月にルーズベルト大統領が急死するまでそのウォール街はホワイトハウスで主導権をニューディール派に奪われていた。ルーズベルトの死で日米主従関係は本来の姿に戻ったと言える。ウォール街が天皇制を存続させようとしたのは当然だ。その体制によって彼らは日本を支配していたからだ。それを攪乱させたのが血盟団や二・二六事件の将校たちだった。

西洋諸国は世界恐慌を受けて保護主義的に動いた。結果として日本の輸出は半減することとなり、日本経済は壊滅的な打撃を受けた。日本はこのタイミング(1930年)で金本位制への復帰を試みるが、貿易赤字を垂れ流している状態で通貨と金を結びつけたため海外に金が大量に流出、翌年には金本位制を再び停止する運びとなった。

こういう状況で国家は金の流出か為替レートの暴落か、どちらかを選ばなければならないということである。

景気後退による極右と極左の台頭


こうした経済状況の深刻化と貧富の差の拡大は政治的には右派と左派の対立に繋がった。

世界各国が政治的に不安定となったが、日本も例外ではなかった。1932年には海軍の青年将校らによって当時の犬養首相が暗殺される五・一五事件が発生し、その後の首相に海軍大将(海軍の中では穏健派だったと言われる)斉藤氏が就任することになった。軍が首相を殺して身内を新首相に据えるという現在では考えられない事態が起こった。


軍事侵攻によって必要な資源を確保するという道は、日本にとっては最良の選択肢だったということは言えるかもしれない。普通の貿易と経済活動では日本は必要なものを調達することが出来なかっただろうからである。

軍国主義化した日本

どちらにしてもこの事件を契機に正式に軍国化した日本は、海軍関係者を首相に据え、ここから外側に向かって猛烈に駆け上がることとなる。

日本は1931年に満州を侵略し、その後中国とアジアで勢力を拡大して原油や石炭、ゴムなどの天然資源や強制労働などの人的資源を確保しようとした。

一方で、アメリカはまだヨーロッパとアジアの戦争に対する姿勢を決めかねていた。1940年にはルーズベルト氏が戦争とは関わらないことを公約に3期目の当選を決めたが、中国の蒋介石政権に戦闘機を提供するなど、米国は海外の情勢に一切関わっていないわけではなかった。

実際にルーズベルト大統領はその後も戦争との関わりを拡大してゆく。1940年には日本への鉄の禁輸を決め、日本が必要な物資を入手できなくなることで既に進出したエリアからの撤退を強いられるように手配した。

1941年にはレンドリース法の制定によりイギリス、ソ連、中国に対する大規模な軍需物資の提供を決め、ダリオ氏は「このレンドリース法は、実際の宣戦布告ではないとしても、米国の中立性を終わらせた」と書いているが、それはもっと早くに失われていただろう。

日本の領土拡大は米国の太平洋における目論見に対する脅威となり、日本との対立は激化していった。1941年にはルーズベルト大統領は米国にあるすべての日本の資産の凍結を行い、日本の船舶がパナマ運河を通行できないようにし、日本に対するエネルギー資源の輸出を禁止した。

結果として日本は貿易の4分の3と原油の80%を失うこととなった。日本は2年で原油備蓄が底をつくことを計算していた。このことにより、日本は自壊するか米国を攻撃するかのどちらかを選ばなければならなくなった。

そして1941年の真珠湾攻撃に繋がってゆくのである。
 日本では戦後も天皇制が存続、内務官僚、思想検察、特別高等警察といった治安体制の中枢は戦後も要職に就いた。「国体」は護持されたのだ。護持したのはウォール街である。
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関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営
ttp://daihonnei.wpblog.jp/chiefs-of-staff-is-riddled-with-communists

近衛上奏文
このままでは日本陸軍における容共分子などによる革命が起きるかもしれない。

東条内閣打倒を図った近衛文麿は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。
帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。
戦争中、軍部に協力し反米を鼓吹した人間が戦後たちまち革命を唱え、あるいは日本の国家観念の破壊をくわだててきた。
日本赤軍派の重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

昭和天皇がマッカーサーに依頼して憲法第九条を作らせたのは、陸軍軍人が反米共産主義者ばかりで何時革命を起こすかわからなかったからなのです。
▲△▽▼

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

東条内閣打倒を図った近衛は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。

参謀本部はアカだらけ - 電脳 大本営

関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。
帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。
戦争中、軍部に協力し反米を鼓吹した人間が戦後たちまち革命を唱え、あるいは日本の国家観念の破壊をくわだててきた。
日本赤軍派の重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

昭和天皇がマッカーサーに依頼して憲法第九条を作らせたのは、陸軍軍人が反米共産主義者ばかりで何時革命を起こすかわからなかったからなのです。

▲△▽▼

東条内閣打倒を図った近衛は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。

近衛文麿公の昭和天皇への上奏文 昭和20年2月14日


国体を守るという建前より、最も危惧すべき事は、敗戦よりも敗戦に伴って起こりうる共産主義革命であります。

 よくよく考えてみると、我が国の内外の情勢は、今や共産主義革命に向かって、急速に進行しつつあると考えています。即ち国外においてはソ連の異常な進出です。我が国民はソ連の意図を的確に把握しておりません。あの1935年の人民戦線戦術、即ち二段(階)革命戦術(ブルジョワ革命の後プロレタリア革命を起こす)の採用以来、ことに最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向が顕著です。しかし、これは表面的かつ容易な見方であると思います。ソ連が究極において、世界赤化政策を捨てていないのは、最近のヨーロッパ諸国に対する露骨な策謀により明瞭となりつつある次第です。


 ソ連はヨーロッパにおいて、その周辺諸国には「ソヴィエト」的政権を樹立しようとし、着々とその工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状であります。

  ソ連のこの意図は、東アジアに対してもまた同様で、現に延安(中国共産党の本拠地)にはモスクワから来た野坂参三を中心に日本解放連盟が組織され、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇団、台湾先鋒隊と連絡し、日本に呼びかけていました。

 翻って国内を見ると、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備されていく様子が見られています。即ち生活の窮乏、労働者の発言の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親「ソ」気分、軍部内一部の革新運動、これに便乗するいわゆる新官僚の運動及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍などであります。これらの内、特に憂慮すべきは軍部内一味の(事実上国家社会主義を目指した)革新運動であります。


 少壮軍人の多数が我が国体と共産主義は両立するものであると信じているように、軍部内革新論の基調もまた、ここにあると思われます。職業軍人の大部分は、中流以下の家庭出身者であり、その多くは共産的主張を受け入れやすい境遇にあります。また彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれているために、共産分子は国体と共産主義の両立をもって、彼らを引きずり込もうとしつつあります。

一部官僚および民間有志(これを右翼というも良いし、左翼というも良い、右翼は国体の衣を着けた共産主義者です)は、意識的に共産革命まで引きずろうという意図を包蔵しています。無知単純である軍人がこれらの人達に踊らされていたと見て、大きな間違いはないと思います。このことは過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交遊をしていた私が、最近静かに反省して到達した結論であります。

▲△▽▼

「戦前に似ている」と危機感も|昭和天皇「拝謁記」 戦争への悔恨|NHK NEWS WEB
ttps://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-symbol-04.html
「拝謁記」には、昭和天皇が、東西冷戦や朝鮮戦争の勃発を背景に国内でも共産主義が勢いを増していく状況を戦争に突き進んでいった時代と重ね合わせて危機感を募らせる様子が記されています。


大学生を青年将校と重ね合わせる
昭和25年7月10日の拝謁では、昭和天皇が「共産党の大学生ニ 動機の純眞なるものがあるとの議論ニ非常ニあぶないので 永田鉄山問題でも動機云々(うんぬん)を口実ニ 刑ニハ処しても 甚しく軽きに失し 又他の場合ニハ動機のよきを口実ニ不問に附した事もあり かゝる風が遂に大平洋戦争(原文ママ)を起す事となつた事故 青年将校と大学生との差だけであつて 危険ハ同じ事だ」と述べたと記され、学生運動に参加する大学生を戦前の青年将校と重ね合わせていたことがうかがえます。

「私は実ニ心配しているのだが…」
また、昭和26年12月9日の拝謁では「所謂(いわゆる)反米思想が一般ニある程度あるは已(や)むを得ぬも それニ乗じて共産のものが共産主義の為に美名を平和とか戦争反対とかいつて色々やるのは困つたものだ、これハ丁度(ちょうど)戦前ニ軍閥者が 忠君愛国といふやうな当時ニあつては一寸 文句のいへぬ事を看板ニして戦争へと かりたてたのと同じであつて誠に困つた事だ」と語ったと記されています。

また、サンフランシスコ平和条約が発効し独立を回復する10日前、昭和27年4月18日の拝謁では、昭和天皇は「私は実ニ心配しているのだが 戦争前の状況といふか、大正末期から昭和の始めへかけての社会の有様と最近ハ非常に似てると思ふ。国会は矢張り其頃と実際少しも変りなく、国家社会より党の事を考へたやうな様子でその言論や実勢力を行ひ、政府側の答弁も責任逃れのやうな事ばかりで慨(なげか)ハしい有様ハ 先つ(さっ)きいつた頃と少しも違いない」と述べ、政治家が党利党略で動き国会で責任逃れの答弁する状況も戦前に似ているという認識を示したことが記されています。

そして、「あの頃ハ 血気ニはやる青年将校を此等の事情が刺戟(しげき)して 段々さはぎを大きくしたが、今はこれがソ連の手ニのせられて共産的ニなるか、又は反動として右翼的の戦前と同じ様なものが出現するか、世相ハ誠ニ私ニは憂慮すべきもので、その前徴は歴々あらはれてると私は思ふ」と語ったと記されています。

そのうえで、「蟻の穴から堤が切れるとか、塵もつもれば山といふ諺がある。今私ハその徴候を充分認める。これは過去の過ちを再びせぬと限らぬ徴候だ。まだ徴候の内ニ手を打たなければ、そして重病ニなつては名医も及ばぬ 今の内ニ警告して何とかすればどうかなると思ふが 時機を失しては駄目だ」と危機感をあらわにしたと記されています。

「国会の有様はどういふ事だらうネ」
独立後回復後の昭和27年5月12日の拝謁では、昭和天皇が「日本では民主主義の抽象的言葉に熱心で、何か気に入らぬことがあるとすぐ反動的といふ言葉を使ふ。丁度軍閥時代に其主張に反するものを‘非国民’とか何とか言ふのと同じだ」と述べたと記されています。


また、その翌月(昭和27年6月24日)の拝謁では、田島長官に「国会の有様はどういふ事だらうネ」と語りかけたうえで、「日本が再建する為ニは 此(この)際ハ挙国一致であるべきだと思ふに、国の前途など少しも考へぬやうな風ニ党利党略ニ専念してるやうに国会の有様は、民主化とか、憲法改正とかいふが、少しも戦前の議会のわるかつた処ハ改まつて居らない。これでは国会政治に失望する人が出るのは当然ともいへるので、それが昔は軍部の抬頭(たいとう)の結果を生んだが、それが軍人が独乙(ドイツ)にだまされたのだと同じ様に今では組織労働者や学生を共産ソヴィエツトが丁度独乙(ドイツ)と同じ立場でやつてる。之では国が亡(ほろ)んでもいゝと 国会は考へてるのかともいひたくなる位だ」と憤りをあらわにしたと記されています。

さらに「議会の現状ニ憤慨した往年の軍の一部、独乙(ドイツ)ー軍閥ー戦争ー敗亡といふやうに 今の国会の有様ニ憤慨して学生、労働者ーソ連ー共産党ー戦争ー敗亡といふ 餘(あま)りに相似的な事ニ目をさまさぬのはどうした事か」と述べ 憤りが収まらない昭和天皇を、田島長官が「陛下は政治上ニは御関係なき御立場故、陛下としてハ何も遊バす事ハ出来ませぬ」となだめると、昭和天皇は「それは分つてるが国がこんな事では亡びるのではないか」と述べたと記されています。

田島長官はこの日の拝謁記に、「何とか、陛下として手を打ちたき御心持と、それは出来ぬ現在の憲法の規定では致し方ないが国の亡びゆく経路を 傍観出来ぬとの御心持を拝して誠に恐懼(きょうく)す」と記しています。
ttps://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-symbol-04.html

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近衛文麿の上奏文と日本敗戦革命
☆近衛文麿と共産主義とスターリン☆
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東条内閣打倒を図った近衛は、1945(昭和20)年2月天皇に奉呈し、敗戦必至との認識のもとに、恐ろしいのは敗戦よりもそれに伴う共産革命であり、政府は国体護持(天皇制擁護)を絶対の課題とすべきであると主張した。それが近衛上奏文である。

現代語訳
昭和20年2月14日
近衛文麿公の上奏文

近衛文麿の上奏文
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下この前提の下に申し述べ候。

敗戦は我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までの所国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)。随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしど存候。

国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。

つらつら思うに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。

即ち国外に於てはソ聯の異常なる進出に御座候。我国民はソ聯の意図を的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存候。

ソ聯が、窮極に於て世界赤化政策を捨てざる事は、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座候。ソ聯は欧州に於て、其周辺諸国にはソヴィエット的政権を、爾余の諸国には少くも親ソ容共政権を樹立せんとて、着々其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。

ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座候。波蘭(ポーランド)に対しては、予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。羅馬尼(ルーマニア)、勃牙利(Bulgaria)、芬欄(フィンランド)に対する休戦条約を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソヴィエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。イランに対しては石油利権の要求に応ぜざるの故を以って、内閣総辞職を強要いたし候。

瑞西(スイス)がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以って親枢軸的なりとて一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。

米英占領下の仏蘭西、白耳義(ベルギー)、和蘭に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞はれつつあり。而して是等武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座候。

独乙に対しては波蘭に於けると同じく、已に準備せる自由独乙委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは英米に取り、今は頭痛の種なりと存ぜられ候。

ソ聯は、かくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居り候。ソ聯の此の意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコウより来れる岡野を中心に、日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。

かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政にも干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、共産主義者入閣・・・ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く・・・治安維持法及び防共協定の廃止等々)。

翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。

右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。皇族方の中にも此の主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候。

職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以って、共産分子は国体と共産主義の両立論を以って彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。

抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満州事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。

此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖は此の間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。

昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。

かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。

一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。

以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存候。

戦局の前途に付き、何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。

戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志此の一味と饗応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従って戦争を終結せんとすれば、先づ其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼、左翼の民間分子も声を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故に、其の本を絶てば枝葉は自ら枯るるものと存候。  尚これは少々希望的観測かは知れず候へ共、もし是等一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来英米及び重慶の目標は日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼等としても戦争継続に付き考慮する様になりはせずやと思われ候。それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。

日本敗戦革命
この近衛文麿上奏文の真意をどう読み解くか。ユダヤ問題・歴史評論家の宇野正美さんの訳によりますと...
黒幕 4/6

以下文字お越し

近衛文麿が昭和20年2月14日昭和天皇に出した「自分の考えを論じた」上奏文です。

頭はこう書いてあります
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下この前提の下に申し述べ候。」

もう日本は負けます。これに基づいて陛下あなたに申し上げます。みなさんいまの解説聞いたら、近衛さんはこの上奏文を天皇陛下に渡し嬉しくってたまらなかったと思いますよ。日本は敗戦必死で存候といってるんです。

三行目
「つらつら思うに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ聯の異常なる進出に御座候。」日本も食われますよ。こんなもん天皇陛下にいってるんですよ。

さらにもうすこし左ですね
「少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、」だから【二・二六事件】 で天皇陛下を支えていた人たちを殺しちゃったわけですわ。こいつらが悪い奴らだと...こいつらが日本国内をだめにする。こいつらが平等の社会を作らなかったとこうなっちゃったわけだ。

だから 「少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、」こういってるわけです。軍人ほど共産主義思想を受けやすいやつはいませんよといってるわけです。この連中が日本が戦争で負けたときどうやるんですが陛下といってるわけです。日本は共産主義革命でやられるよといってるわけです。

もうすこし左のほう
「抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。」自分の計画をいってるわけですよこれは。ものの見事に動いておりまするな....

そしていま読んだ、線ひっぱってある後数行
「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなると公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。」此の一味の中心人物に御座候。だれなのよ!!自分なんですよ。そう、読めばわかるでしょう。こんな文書天皇陛下に向かっていえるのが彼なんですよ。だから僕はさっき大貴族といった。公侯伯子男の内の公です。もっと遥か昔から貴族中の貴族ですよ。ちよっと一歩進んでいいですか、藤原という名前を与えたのは、藤原氏という名を与えたのは中国人なんですよ。あとで話しするけど、藤原氏はそれが大嫌いだった。藤原氏というのは早くやめたくってたまらない、中国人にもらった名前だから。だから時来て藤原をやめる。さっきいった近衛になる、一条になる、九条になる。そう名前を変えるわけです。あるとき中国人にへつらいながら、中国人に支えられたこの大貴族が、俺は日本の支配者になりたいと思ったんですよ。そして自分の苗字を変える。

上の段の終わりのほう
「是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)」彼いってるんですよ。右翼というけども共産主義者ですよって...

括弧の後は
「意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。」日本の軍人は単純だよって、ほんとうに国を思っているはずだんだけども共産主義思想がじわじわっと入ってくる。共産主義思想の怖さはユダヤ問題がわからないから。共産主義は、ええことで愛情に溢れてヒューマニズムそのものだと思うんですよ。ヒューマニズムってわかるでしょう、可哀想な人が豊かになって金持ちが落とされてこりゃいい世界だとそれを考える。それは陳列のウインドウにすぎない。その中身はユダヤ解放理論ですから....

下の段いきましょうか
「昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。」さっきいったでしょう、本土決戦で日本が大混乱になったらその後ろからごっそさんと入ってくるのが共産主義者ですよと、自分でないのこれ...

もう一ついっていい。ロシア革命から世界大恐慌・日中戦争・大政翼賛会・本土決戦まで大貴族がこんな道楽にはいってこれに侵されてしまった。近衛さんどうしたんですか、知ってますか?自分の長男をモスクワに送ってるんですよ、モスクワへ...共産主義理論を日本でやりますから、その節には息子をよろしくと。スターリンはどうしたの、終戦直後近衛の息子を殺しちゃったんですよ。覚めてますからスターリンは、さっきのゾルゲもそうよ、スターリンはゾルゲなんか信じてないですよ。結局ゾルゲはスターリンに裏切られたといって自分が取り調べのときいってるでしょう。スターリンというのはほんとうに恐ろしいほど覚めた男なんですわ。だから近衛がどんだけ自分の思想に愛着をおぼえて息子をモスクワに送って、よろしくよろしくといっても、そんなもん殺しますよ。だから自殺したんですよ、近衛は。もう一つここまで共産主義を願ってやった...マッカーサーは共産主義者でなかったんですよ。だから東京裁判に呼んだ彼をだから青酸カリを飲んだんですよ。自分の夢は破れた。もう一つは昭和天皇が御聖断なさったから、もうこれ以上戦争はしないと日本人を守ると本土決戦はありえないとだから近衛は生きていられなくなった。みなさん指導者が狂うとこんなんになっちゃう。

こっちみてください。多民族国家日本といったんです。多民族国家日本というのは、縄文時代日本にはいろんな民族が来ておったわけですわ。蒙古、朝鮮半島、中国、いろんなところから。その中に大きな集団として前からいってるけども古代ユダヤ人が来ているんですよ。国がないから。だから最近になったらあの奈良のですね、宮殿の下に石をひきつめた建物が見つかったと朝日新聞が、これはペルシャの建物だと書いてあった。ペルシャってどこだ、いまのイランなんですね。イラン人が作ったんではないですよ。それよりも前にユダヤ国家は滅びてますから、ペルシャにたくさんのユダヤ人が来ておったんですよ。シルクロードを通って中国から日本にやってきたんです。奈良時代の宝物が集まっているところ正倉院、聖武天皇の正倉院、あの中は全部中東の物なんですよ。あのガラス製品全部中東の物なんですよ。日本なんかで作ってないですよ、ということは世界の貿易商であるユダヤ人が日本にどっと来てたということなんですよ。それだけでなくってその前からユダヤの人がたくさん日本に来ていました。言葉だとかいろんなことを考えると日本にたくさん来ているということは事実です。あるとき秦氏が来たんです、中国の秦「シン」の始皇帝とは違う。秦これ「ハタ」と読む、これ中国語ではないです。アラム語ですよ。ハタ、この人たちが日本にやって来て後に藤原氏から平安の都、つまり京の都を盗られて追っ払われてしまった。おまえたちどっか行けといわれて、それまで京都を治めていたほんとうのユダヤ人の一つの群れ、つまり太秦にいた一部の群れは丹波に逃げてきたんです。その他中国山脈に逃げる、東に逃げる、四国に逃げる、散らされたんです。これが秦の流れです。丹波篠山の戦国時代の殿様は波多野、秀治はハタのユダヤ人ですよ。三木ってあるでしょう、別所、別所長治。兵庫県の三木市と丹波篠山、八上城の波多野秀治とは親戚関係です。別所、別のところに住んでいる人、ユダヤ人ですよ。そんなことで苗字だけ見ても古代ユダヤ人がたくさん日本にいたことがわかるんですが...

ちょっと話そらしますが、3月11日に大きなテロがスペインであった。後にモロッコのイスラムがやったといわれてますが、その前にバスクの連中がやったとやってたでしょう、憶えてませんか?バスクはスペインとフランスの間のピレイネイの山の中にある小さな地域なんです。そこの人たちは絶対にスペイン人にもならないしフランス人にもならない。バスクはバスクです。バスクの文化、バスクの言葉、バスクの誇り、どんなに迫害されてもバスクはバスクなんですわ。ほんとうのユダヤ人です。いわゆるアシュケナージ「ヨーロッパ白人系の偽のユダヤ人ではない」ほんとうのユダヤ人なんです。だからヨーロッパ白人系のユダヤ人とは絶対に交わらない。前にテレビでやってましたが以前の国連大使で波多野さんという人がいた。その人がアメリカにいってもヨーロッパにいっても白人たちが波多野さんの顔をじーと見るんだって、どういうかといったら、お前ははバスクだ、お前の顔はバスクだと...
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2013年8月15日木曜日
近衛上奏文現代語版(加筆しました)
 昭和20年という終戦の年の今で言うバレンタインデーに元首相近衛文麿が昭和天皇に上奏したいわゆる「近衛上奏文」です。
 私が初めて読んだ時すごくショックでした。
 これをきっかけに「太平洋戦争」が「大東亜戦争」に私の中で変わっていったのです。この内容が多くの人に触れられるように現代語にしてみました。細かい間違いはあるかもしれませんが、要旨は間違っていないと思います。


近衛文麿公の昭和天皇への上奏文
昭和20年2月14日

木戸幸一内大臣が侍立(後に近衛文麿や真崎甚三郎のグループの人が逮捕されている)

 敗戦は残念ながら、最早必至であると考えます。以下この前提の下に申し述べます。敗戦は我が国の国体(国柄、国のあり方)破壊につながる可能性があるものの、イギリスやアメリカの世論は今日までのところ、(日本の)国体の変革(を求める)とまでは進んではいません(もちろん一部には過激論もあり、また将来どのように変化するかを予測することは困難です)。従って、敗戦だけならば、国体上はそうまで心配する必要はないと考えます。国体を守るという建前より、最も危惧すべき事は、敗戦よりも敗戦に伴って起こりうる共産主義革命であります。

 よくよく考えてみると、我が国の内外の情勢は、今や共産主義革命に向かって、急速に進行しつつあると考えています。即ち国外においてはソ連の異常な進出です。我が国民はソ連の意図を的確に把握しておりません。あの1935年の人民戦線戦術、即ち二段(階)革命戦術(ブルジョワ革命の後プロレタリア革命を起こす)の採用以来、ことに最近「コミンテルン」解散以来、赤化の危険を軽視する傾向が顕著です。しかし、これは表面的かつ容易な見方であると思います。ソ連が究極において、世界赤化政策を捨てていないのは、最近のヨーロッパ諸国に対する露骨な策謀により明瞭となりつつある次第です。

 ソ連はヨーロッパにおいて、その周辺諸国には「ソヴィエト」的政権を樹立しようとし、着々とその工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状であります。
 ユーゴのチトー政権は、最も典型的で具体的な表現であります。ポーランドに対しては、あらかじめソ連内に準備していたポーランド出国者連盟を中心に、新政権を樹立し、在イギリス亡命政権を問題とせずに押し切りました。ルーマニア、Bulgaria、フィンランドに対する休戦条件を見ると、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒトラー支持団体の解散を要求し、実際上「ソヴィエト」政権でなければ、どうすることもできないようになっています。

 イランに対しては、石油利権の要求に応じないという理由によって、内閣総辞職を要求しました。スウェーデンがソ連との国交開始を提議した事に対して、ソ連はスウェーデン政府に対して、親枢軸的であると一蹴し、この理由で外相の辞職が余儀なくなりました。

 英米に占領されているフランス、ベルギー、オランダにおいては、対ドイツ戦に利用した武装蜂起団と政府との間で深刻なる闘争を続けられ、かつこれらの諸国はいずれも政治的危機に見舞われつつあります。そうしてこれらの武装団を指揮しているのは、主として共産系(の人達)であります。これは英米にとり、今日の頭痛の種となっていると思われます。

 ソ連はこの通りヨーロッパ諸国に対し、表面上は内政不干渉の立場を取っていますが、事実においては、極度の内政干渉を行い、国内政治を親「ソ」的方向に引きずりこもうとしています。

 ソ連のこの意図は、東アジアに対してもまた同様で、現に延安(中国共産党の本拠地)にはモスクワから来た野坂参三を中心に日本解放連盟が組織され、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇団、台湾先鋒隊と連絡し、日本に呼びかけていました。
 このように形勢から推測すると、ソ連はやがて日本の内政に干渉するようになる危険性が十分にあると考えられます(即ち共産党が公認した「ドゴール」政府、「パドリオ」政府に要求したように、共産主義者の入閣、治安維持法及び防共協定の廃止など)。

 翻って国内を見ると、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備されていく様子が見られています。即ち生活の窮乏、労働者の発言の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親「ソ」気分、軍部内一部の革新運動、これに便乗するいわゆる新官僚の運動及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍などであります。これらの内、特に憂慮すべきは軍部内一味の(事実上国家社会主義を目指した)革新運動であります。

 少壮軍人の多数が我が国体と共産主義は両立するものであると信じているように、軍部内革新論の基調もまた、ここにあると思われます。職業軍人の大部分は、中流以下の家庭出身者であり、その多くは共産的主張を受け入れやすい境遇にあります。また彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれているために、共産分子は国体と共産主義の両立をもって、彼らを引きずり込もうとしつつあります。そもそも満州事変を起こし、これを拡大して、遂に大東亜戦争にまで導いてきたことは、軍部内の意識的計画であったことは、今や明瞭であると思われます。支那事変当時も「事変が長引くのがよく、事変解決したら国内革新ができなくなる」と公言したのは、この一味の中心であり、これら軍部の革新論者の狙いは、必ずしも共産革命でないとしても、これを取り巻く一部官僚および民間有志(これを右翼というも良いし、左翼というも良い、右翼は国体の衣を着けた共産主義者です)は、意識的に共産革命まで引きずろうという意図を包蔵しています。無知単純である軍人がこれらの人達に踊らされていたと見て、大きな間違いはないと思います。このことは過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交遊をしていた私が、最近静かに反省して到達した結論であります。この結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らして見た時、そこに思い当たる節々が非常に多いと感じるのであります。私はこの間、三度まで(総理大臣の)大命を拝したが、国内の相克摩擦を避けようとしたため、できうるだけこれら革新論者の主張を入れて、挙国一体の実を挙げようと焦慮した結果、彼らの主張の背後に潜んでいた意図を十分に看取することができなかったことは、全く不明のいたすところで、何とも申し訳なく、深く責任を感じる次第であります。

 昨今、戦局の危急を告げたとともに、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢いを増しつつあると考えています。このような主張をしている者は、いわゆる右翼者流であっても、背後よりこれを煽動しつつあるのは、これは例によって国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達しようとする共産主義分子であるとにらんでいます。一方においては、徹底的に米英撃滅を唱える反面、親「ソ」的空気は次第に濃厚になりつつあるようにあります。軍部の一部は、いかなる犠牲を払ってもソ連と手を握るべしとさえ論じている者がいました。また延安(中国共産党)との提携を考えているものもあったとの事であります。以上のように国の内外を通じ、共産革命に進むべきあらゆる好条件が日一日と成長しつつあり、今後戦局益々不利ともなれば、形勢は急速に進展するでありましょう。

 戦局の前途につき、何ら一縷でも打開の望みありというならば別ですが、敗戦は必至の前提の下に、論じてみても勝利の見込みはありません。戦争をこれ以上継続するのは、全く共産党の手に乗るものと思われます。従って国体護持の立場より見れば、一日も速やかに戦争終結を講ずべきものであると確信いたしました。

 戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来今日の事態まで時局を推進してきた、軍部内のそれら一味の存在であると考えています。彼らは既に戦争遂行の自信を失っていますが、今までの面目上あくまでも抵抗するであろうと思われます。もし、この一味を一掃せずに早急に戦争終結の手を打とうとした場合、右翼左翼の民間有志がこの一味と対応して国内に一大波乱を惹起し、企図した目的の達成が困難になる恐れがあります。従って戦争を終結しようとすれば、まずその前提としてこの一味の一掃が肝要であります。この一味さえ一掃すれば便乗の官僚、並びに右翼左翼の民間分子も影を潜むようになるでしょう。確かに、彼らは未だ大なる勢力を結成しておらず、軍部を利用して野望を達成する以外方法がないため、その本を断てば、枝葉は自ら枯れるものと思います。

 なおこれは希望的観測かもしれませんが、もしこれら一味が一掃せられる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶(国民党)の空気が、あるいは緩和するのではないでしょうか。元来米英及び重慶(国民党)の目標は「日本軍閥の打倒にあり」と言っているので、軍部の性格が変わりその政策が改められれば、彼らとしても戦争の継続について考慮するようになるのではないかと思われます。

 それはともかくとして、この一味を一掃し軍部の立て直しを実行する事は、共産革命より日本を救う前提、先決条件であるとすれば、非常のご勇断をこそ(天皇陛下に)お願いしたいと思います。
                                     以上

 中川八洋氏は「近衛文麿こそ共産主義者であり、大東亜戦争を起こした最大の黒幕である」と主張しています。この上奏に加わったグループの人達の中の認識では近衛文麿は理知的であるがいろいろな人の影響を受けやすい優柔不断な人、そして「革新(共産主義もしくは国家社会主義)からの転向者」となっています。

 しかし、近衛文麿が首相として行ったことは、支那事変時にすぐに軍に予算を付けたり、三国同盟を結んだり、国民党政府との交渉を拒絶したり、南インドシナへの進駐を進めたりと、やっていることはあくまでも戦争を継続し拡大するという動きです。しかも近衛文麿は絶妙なタイミングで首相を辞め、東条英機らにその責任の多くをなすり付けています。もし近衛文麿が確信犯的に大東亜戦争を起こしたのであれば、スターリン並の謀略家ということになります。もしそうでも真実を知っていたのは第一次内閣時の書記官長の風見章(共産主義者)と内大臣の木戸幸一(京都大学時代からの共産主義仲間)ぐらいかもしれません。多くの共産主義者も知らなかったかもしれません。味方をも騙す天才謀略家だったのでしょうか。

 この説が正しいとなると、近衛上奏文は大事な部分が欠けていることになります。つまり、「共産主義者による敗戦革命を目論んでいた最大の黒幕は、この私近衛文麿である」という部分です。共産主義者による敗戦革命謀略を暴露し、その責任を自らは逃れ、陸軍の統制派に押し付けるという絶妙な上奏文になっています。敗戦後責任者を別に押し付け、自分が敗戦革命を最後まで完遂するつもりだったのでしょうか。今となってはなかなか証明が難しい問題です。

 近衛文麿の家に掲げられた「黙」と言う字は死んでもこの謀略を黙っているという意味だったとしたら、亡くなった300万人の人達はどう思うのでしょうか。
ttp://hiizurutokoroshinbun.blogspot.com/2013/08/blog-post.html


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昭和恐慌と子殺し 2021年03月01日
ttp://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

 大恐慌といえば1929年のニューデール恐慌だが、これが日本に波及した「昭和大恐慌」について語り継がれたものは少ない。我々の世代ですら、何が起きたのか知らない者が多い。

 昭和恐慌とは何か?
 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C

 1930年〜1932年くらいまで続いた昭和最大の不況だが、満州事変による中国侵攻の軍事特需が生まれて事実上収束した。
 しかし、この不況の本質は、台湾・朝鮮を領土化した日本政府が、1930年(昭和5年)の大豊作時に、植民地である台湾・朝鮮から米を大量に輸入したことにより、日本本土の農業が壊滅状態に陥り、農村地方の民衆生活を激しく崩壊させたことにある。

 いったい、何が起きたのか?
 ニューデール大恐慌は、生糸市場を直撃したので、日本の農村で生糸に依存した生活を行っていた土地では、ほとんど収入が失われ、維新以来最悪の貧苦に見舞われた。

 語り継ぐ戦争 貧しい漁村、子殺しの悲劇 エッセイストの川口祐二さん 2018/08/16
 ttps://www.youtube.com/watch?v=cH5SMjcYqLo&ab_channel=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE 

 「三重県の漁村の女房たちは、亭主との間に出来た子供を間引した廉(かど)で、1小隊ほども法廷に立たされた」
 この村のことと違うかな。ピンときました。

 尋常小学生のころ、母に尋ねたんです。学校で学年別に整列すると、僕らは90人いるのに、1年上の31(昭和6)年生まれだけが、半分くらいしかいない。「なんでかな」。すると、母が「実はな……」と教えてくれた。

 貧しい母親たちは、産んだばかりの赤ん坊を殺して油紙に包んで海に流した。それが波で押し返され、見つかった。産婆も関係しており、姉の同級生の母親も摘発された、と姉からも聴いた。

 その前からあったが、31年が不景気のどん底でひどかったらしい。満州事変の年ですね。当時、今と違って魚はとれたが、値段が安く、輸送手段が乏しかった。人力で荷車を引き、半日がかりで伊勢まで運んだそうだ。

 僕は何とも言えない気持ちになった。事件のころ、僕も母のおなかに入っていたわけで、もう半年早く宿っていたら、同じ運命をたどったんだろうか。何しろ僕は7人きょうだいの一番下でしたから。

 農地もわずかしかなく、都会へ働きにいくほか、海外への出稼ぎも多かった。志摩郡に仕事を紹介する会社があり、うちも姉2人と兄の3人がフィリピンへ渡った。看護師になったり、ビール会社で働いたりした。

 一番上の姉は開戦直前、2人の子どもを連れて帰国した。現地では「アメリカと戦争になるらしい」といううわさが流れていたそうだ。大戦末期、残ったその夫や兄は現地召集、2番目の姉も米軍に追われて逃げ惑った。タガログ語ができたので、イモを分けてもらい、生き延びた。

 《嬰児(えいじ)殺し事件》 1933(昭和8)年10月24日付の伊勢新聞などによると、三重県南勢地方の村で摘発され、後に18人に執行猶予付きの有罪判決があった。
 三重県警察史(66年)も「生活上の苦悩から惨忍(ざんにん)な犯行を犯す者も増加した」としてこの事件に触れ、「被疑者三十余名、三十数件の嬰児殺事件を検挙」とある。
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私が、昭和恐慌における娘の身売りや嬰児殺しの事実を知ったのは、もう半世紀以上前に夢中になって読んだ民俗学者、宮本常一のルポであった。
 宮本は全国の貧しい農漁村を歩いて、直接取材した膨大な民俗学ルポルタージュを遺した。未来社から全集が出ているが、高価なので買えず、私は図書館に通って貪り読んだ。

 今は、その内容を具体的に示すことができないが、鮮明に記憶しているのは、東北地方の農家では、戦後、1960年代くらいまで、子供を育てる見通しが立たないとき、母親が産んだ後の嬰児を川に沈めて死なせるというルポがあったことだ。
 上に挙げた伊勢地方では、戦前の1933年に30余名の嬰児殺しが摘発されているが、東北地方の奥地では、昭和30年代でも、育てられないための子殺しは普通に起きていた。

 昭和恐慌では、生糸だけが唯一の現金手段という地方の村が無数にあって、それが大恐慌で突然ゼロになり、多くの人々が途方に暮れ、子殺しをするしかなかった。
 だから1931年(昭和6年)生まれは、特別に人数が少ないということになった。

 上の説明を補完する出生数推移情報を探したが、昭和恐慌による「子殺し」を示す統計データで分かりやすいものは見つからなかった。全国の大数データに埋もれて、極度に貧しい農村の特異性を示すデータが出てこない。
 しかし、昭和恐慌を題材にした人間ドラマは少なくない。「おしん」は、とりわけ説得力をもって当時の凄惨な現実を教えてくれた。

 現在、「子殺し」は、殺人と同等の扱いとして、事情があっても情け容赦なく犯罪として扱うようになっている。
 
  ttps://news.yahoo.co.jp/articles/7f4707e3443e4428041c17003ea6837c4a22c775

  ttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/50695

 私は、これもおかしな話だと思う。子殺しをするには、必ず生活が追い詰められたという事情を前提にしている。好き好んで趣味で子殺しをする者は滅多にいないだろう。
 日本政府は、生活に追い詰められた彼らを一切支援せず、新自由主義の「自助努力」だけを押しつけて、子殺しや一家心中に向かう人々に対して、非人情で冷酷極まりない対応を行い、処罰だけ熱心だ。
 こういう思想の連中には、いつか天罰が下ることを望む。

 昭和恐慌で、冷害凶作も重なって、もっとも残酷な被害を受けたのは東北地方だが、秋田県・岩手県などで、その凄惨な状況が記録されている。
 ttp://www.pref.akita.jp/fpd/rekishi/rekishi-index.htm

 昭和恐慌とあいつぐ凶作で被害を受けた村の実態を「凶作地帯をゆく」(昭和9(1934)年10月26日付け秋田魁新聞)と題する現地レポートには次のように記されている。

 「秋晴れの鳥海は清らかな山姿を、紺碧の空にクッキリ浮かせている。
 しかし、山裾にある町村は、未曾有の凶作に悩み、木の実・草の根、人間の食べられるものは全部刈り取り掘り尽くし、米の一粒だに咽喉を通すことのできぬ飢餓地獄にのたうつ惨状、秋田県由利郡直根村百宅部落のごときは、空飛ぶ鳥類さえ斃死したかと思われ、400名の部落民からは生色がほとんど奪われ、天に号泣し地に哀訴の術も空しく飢え迫る日を待つのみの状態である。(アマ註・由利本荘市直根を調べたが見つからないので集落が消えたようだ)

 同部落は戸数100戸、作付け反別80町歩、これは冷害のためほとんど全滅だ。同分教場には90名の児童を収容しているが、欠食児童は3割に当たる30名、欠席者は非常に多く、1日平均20名、また早引きするものもかなり多い。

 これは家人の働きに出た後の留守居や、でなければ山に入って栗・トチ・山ぶどうなどの木の実、山ゆり・山ごぼう・フキなどの草の根・木の葉を集めるために欠席する。糧食なくして何の教育ぞやの感を深くさせられる。

 垢に汚れたヨレヨレのボロ着にまとった赤児をおんぶして、授業を受ける児童の多いこと、一人泣き出せば又一人、背の赤児はまだしも自分でもママ末に負えなくなって泣き叫ぶ子守りもいる。

 こうした名目ばかりの義務教育を終えて、やっと15,6になると、雀の涙ほどの前借金で丁稚とか酌婦に売り出される。
 生まれ落ちて布団もろくろくないワラの中に育ち、食うや食わずにやっと6年を終えたら、知らぬ他国に涙の生活、彼ら山間奥地の住民は、永劫に光を持たぬ運命を約束されてきた。」

売られゆく娘たち
 凶作が決定的となった昭和9年、県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。
 身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡であった。
 娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。
 しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がない限り、娘の身売りの根絶は困難であった。
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 引用以上

 私は、この記事を見て憤った。当時、満州事変を境にして、日本軍部は軍備増強に突き進み、太平洋戦争敗戦までの間、現在価値にして、実に4000兆円を超える資金を投じた。その多くが、アヘンやヘロインを諸外国に売りさばいた密売資金だったが。
 東北の悲惨な子殺しや身売りは、そのうち、わずか0.1%でも救援に回せば、瞬時に解決したものだ。

 だが、日本政府・軍部は、日本国民の窮状に背を向けて、戦争への道を突っ走っていた。だから、すでに、この段階で、第二次世界大戦の敗北は必至だったのだ。

 今、コロナ禍で、昨年1月当時の予想からすれば、ちょっと信じられないほど深刻な事態に突き進んでいる。みんな、まだ事態の深刻さを見ていても、それがどれほど恐ろしい、残酷・苛酷な事態を招くのか、ピンときている人が、ほとんどいないのに驚かされる。
 もう、数ヶ月先にも、ワクチンが普及し、事態が収まって元通りに社会が動き始めると勘違いしている人が大半なのだ。

 事実は違う。コロナ禍は、まだ始まったばかりだ。多重感染者が増えれば、ウイルスの突然変異による毒性、感染力が上がり、これまでとは桁違いの被害が出る。
 百年前のスペイン風邪のときがそうだ。
 1918年から始まったといわれるが、最初はたいした症状ではなかったが、二年目の多重感染者が著しい毒性の変異株を生み出し、集落を絨毯爆撃するほどの死者が出始めた。
 当時20億人だった地球人口の全員が感染し、うち一割が死亡した。

 RNAウイルスは、もの凄い変異を繰り返すうちに、毒性を弱めて、一種の「自家中毒」を起こして軽い病気に変わってゆくが、スペイン風邪は4年目にそうなった。
 もっとも激しい毒性の暴風は2〜3年目だ。そのときは健全な免疫を持った屈強な若者や、地の果てのエスキモーまで感染死亡させられた。
 新型コロナ禍は、まだその段階に至っておらず、これから、それがやってくる可能性が大いにある。
 日本政府・厚労省の対応が、あまりに非科学的で、愚かすぎるからだ。

 このままでは、私は昭和恐慌なみの、恐ろしい経済崩壊が避けられないと思う。金が動くには人が動かなければならない。その人が動けないのだから、金が回るはずがない。
 もう、新自由主義などという馬鹿げた迷妄思想の出番ではない。金儲けだけが人間最高の価値と決めつけたフリードマンは、もはや法王とともに地獄に墜ちている。

 変わって、この社会に登場してくる思想は、「共同体」だとくり返し書いている。「金儲け」という利己主義などに何の価値も見いださず、「人の笑顔を食べて生きる」利他主義の価値観の人々が社会の中核を占めるようになる。
 そうでなければ、日本社会は滅亡するしかない。共同体思想だけが、日本の未来を拓いてゆく。

 もしも、人が「共同」を失ったなら、昭和恐慌と同じことが起きると私は思う。もう子供たちを育ててゆけない。かといって新自由主義の政府は、自助だけを要求して、絶対に民衆を助けない。
 すると最期に犠牲になるのは、生まれてくる子供であり、「未来」そのものなのだ。
 昭和恐慌が何をもたらしたのか?
 それは太平洋戦争なのだ。日本人450万人が死亡させられたといわれる、あの戦争だ。
 
 もしも、今のまま未来への適切なビジョンが示せなければ、再び世界戦争に翻弄されるだけだろう。
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日本軍による共産革命を恐れた天皇一族が日本を非武装のアメリカの属国にして貰った

日本をアメリカの植民地にして貰った天皇一族
東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。
東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?

天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。
天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね。

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日本人の反乱に恐れおののいていた平成天皇

梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』

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真珠湾攻撃は昭和天皇がみんなの反対を押し切って独断で決断したというのが学界の定説です

昭和天皇の侍従の話では、昭和天皇は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。
彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。
どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。
また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年


1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。

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御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作りそこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ
それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけですだから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです
東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです他の連中もそういうシステムで戦争が進んでいく訳です


東京裁判で東条英機は作戦はすべて昭和天皇一人で決めたと証言しています。
そして昭和天皇の戦争責任を証言しようとした近衛文麿の運命は
牛場友彦と松本重治が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。

占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。

前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

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東條英機が語る天皇陛下

1947年の12月、戦時中の首相、東条英機は自らを弁護して証言台に立った。

彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。

中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。

ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。

裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。


 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。

そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。 だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。

彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。

木戸はまた、 刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。 二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。

彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
ttps://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。

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山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』
「昭和天皇とダレスと吉田茂」

戦後の「日米安保条約」は、どのような政治政策過程を経て決定したのか?昭和天皇と吉田茂は必ずしも同じではなかった。米軍基地の無条件延長を主張していたのは、米国側のダレスであり、日本側でそれを主張していたのは、吉田茂ではなく、昭和天皇であった。

吉田茂が、サンフランシスコ行きを逡巡していたのは、「安保条約調印式」に出たくなかったからだ。しかし、吉田茂の態度が一変する。昭和天皇との「謁見」である。昭和天皇は、吉田茂を呼びつけ、厳しく説教したと思われる。

「米軍基地無条件延長」と「沖縄切り捨て」を主張する昭和天皇の「リアリズム」を、今の時点でどう評価するか、なかなか、単純な問題ではない。大問題であろう。


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(通称)沖縄メッセージ
(昭和天皇がマッカーサー元帥に宛てた「米軍による長期沖縄占領継続を依頼するメッセージ」)

 ■ (参考) (通称)沖縄メッセージ(昭和天皇のマッカーサー元帥に宛てた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」)

 1947年9月に、昭和天皇は米軍が沖縄や琉球列島のその他の島に米軍が占領状態を50年間より更にもっと長期間継続させることを希望する天皇の考えを示し、当時、天皇の御用掛であった寺崎英成が占領軍の政治顧問のシーボルトの事務所を訪れて考えを伝え、ワシントンのマッカーサー元帥にその内容を送ってもらうように依頼したものである。  その文章の記録が残されている。


 しかし、1946年11月には日本国憲法が公布され、既に象徴天皇が確定し、天皇は政治的な権力を行使できない立場になっていたのであるが、それにも拘わらず、政府を通さずに、個人の利益のために直接アメリカ側に政策要望を出していたことになる。


 ワシントンで公文章の公開となったものが沖縄県の公文書館にコピーとして保存されている。(注)  その内容は次のようなものである。

 筆者の意訳で概要説明する。
 1947年9月20付けのシーボルトからマッカーサー元帥宛の文章を、シーボルトがワシントンの国務長官宛に「将来の琉球列島に関する天皇の考え」と題して、1947年9月22日付けで至急の封書に同封して送っている。


 尚、この後に寺崎が10月3日にシーボルトに会った際に、シーボルトは、陸軍省の意見として、沖縄をアメリカが自由にするとし、国務省の意見は定まっていないことを伝えている内容が書かれている。 (「寺崎御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著)文藝春秋 )

(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙の内容)
                                              1947年9月22日

標題:将来の琉球列島に関する天皇の考え

  国務長官宛

  拝啓

   私は、1947年9月20日付けのマッカーサー元帥に宛てた私の説明のコピーを同封致しております。そのコピーの内容は、
  天皇のアドバイザーである寺崎が、彼の要望で私のオフィスを訪れてきて、彼と話した内容の要旨を記録したものです。
   その内容は、日本の天皇は、沖縄や琉球列島のその他の島々へのアメリカ合衆国による軍事的占領を継続することを
  希望しており、その要望は、疑うべくもなく、天皇自身にとって大いに利することになることに基づくものであるという
  ことがわかるのである。天皇は、また、これらの島々の米軍による占領の継続が、長期間の賃借契約の方式によること
  を思い描いている。天皇の意見によると、それによって、日本国民は、きっと、アメリカ合衆国には下心がないと納得
  するようになり、アメリカ合衆国が軍事の目的のために占領することを喜んで受け容れることになるであろう。という  ことである。
  
                                                     敬具
                                                W.J.シーボルト

(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙に同封したメモ内容)
                                              1947年9月20日

  マッカーサー元帥宛のメモ

   天皇の顧問の寺崎英成が、将来の沖縄に関しての天皇の構想を私(シーボルト)に伝えるため訪れた。
   寺崎は、天皇が米国が沖縄や琉球列島の島に軍事占領を継続することを希望していると述べた。 
   天皇の考えは、そのような占領は、米国にとっても有益であり、日本にも防護をもたらすことになるだろうというもの。 
   天皇は、そのような行動は、広く日本国民に受け入れられると感じている。国民の間では、ロシアの脅威があり、また、
  占領が終わった後に、左翼や右翼のグループの台頭もあり、かれらが事変を起こしかねないし、それをロシアが日本の
  内政干渉のために利用する可能性もある。 
   天皇が更に考えるには、沖縄の占領(他の島の占領も必要かもしれない)が、日本の主権は残した状態で、25年や50年間、
  いや、更に長期間の賃借の形態に基づくものになるであろうということである。
   天皇は、このような占領政策によって、日本人にアメリカが琉球列島に関して恒久的な意図が無いように思わせるので
  あり、他の国、例えば、特にソ連や中国が同様な権利を要求することをそれによって止めさせることになるという。
   手続きに関して寺崎が思うには、沖縄や琉球列島内の他の島における軍事基地の権利獲得については、日本と連合国の
  講和条約の一部にする方法よりも、むしろ日米間の二国間の条約によるべきであるとする。
   寺崎が思うには、連合国との講和条約の一部にする場合は、かなり強制的な平和条約の様相になることが察しられ、将来、
  日本人のことを同情的に解するなど危機的になるだろうと。




GHQ の日本占領があれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。

対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。


マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった

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昭和天皇は対米戦争が八百長戦争だとバレない様に特攻までさせた

鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA  

戦争はすべて八百長(00:38:51)

熊毛郡田布施町 (00:00:21)

大室寅之佑 (00:03:48)

明治天皇の秘密 (00:03:55)

殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)

秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)

仕組まれた戦争 (00:15:35)

皇室スキャンダル (00:18:21)

大正天皇には、子種がない(00:18:39)

西園寺八郎 (00:19:26)

昭和天皇の秘密 (00:21:34)

昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)

死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)

住友と天皇家は、血族 (00:23:04)

秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)

天皇のための戦争(00:25:02)

戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)

昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)

真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)

海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)

パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)

天皇が内通していた(00:31:38)

スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)

天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)

終戦工作と白州次郎 (00:33:39)

ヨハンセングループ (00:34:17)

日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)

日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)

弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)

火事場泥棒なんです。(00:36:15)

こじつけ無罪論(00:36:19)

明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)

第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)

戦争はすべて八百長(00:38:51)

戦争は継続しなければいけない (00:40:48)

天皇が被爆に加担した(00:42:23)

白洲次郎の秘密(00:44:17)

吉田茂の秘密(00:46:20)

こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)


メンテ
右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた ( No.8 )
日時: 2022/05/10 07:59
名前: スメラ尊 ID:neEbeIso

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた

2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
ttps://johosokuhou.com/2018/03/30/2831/


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2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。
ttp://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html



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60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

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ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
ttp://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

ttp://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

ttp://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

ttp://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
ttp://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。
ttp://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

 
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ang********さん 2009/6/22 07:16:49
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427486559

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P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。
ttps://twitter.com/mayshigenobu/status/486330664204001280

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『未来の見えるテレビ』2011/05/23
日本の公安警察と極左団体は裏で同盟関係を結んでいる
ttp://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html

日本の街宣右翼と極左集団が裏で繋がっているという事実も大事ですが、もっと大事なのは、日本の公安警察と極左団体が裏で同盟関係を結んでいる、という事実です。


公安警察の大首領である佐々淳行のお父様の佐々弘雄は、 近衛文麿(内閣総理大臣)内閣のブレーンである『朝食会(実質はゾルゲ諜報団の下部組織)』に所属していましたが、その縁もあってか、近衛文麿の首相秘書・書生を務めていた大物右翼の四元義隆とは、共に近衛文麿を支えた同志であったことから、深い仲の友達だったそうです。

四元義隆は、極右団体『血盟団』と右翼団体『金鶏学院』に所属していましたが、四元義隆とは同郷の同志で『血盟団』(『金鶏学院』だったという説も有り)のメンバーだった男に、重信末夫という人物がいますが、重信末夫の娘は、極左集団
『赤軍派』から、極左団体『日本赤軍』の女首領になった重信房子です。


重信房子が所属していた『赤軍派』が、『革命左派』と合同して生まれた極左団体が、佐々淳行が捜査を指揮した『あさま山荘事件』を引き起こした『連合赤軍』です。

『あさま山荘事件』の最大の問題点は、佐々淳行の父親と重信房子の父親が、四元義隆を通してお仲間だった可能性が極めて高いということです。

このことからも、『あさま山荘事件』は、『9.11』と同じ、警察による内部犯行であった疑いすら見えてきます。


重信房子は佐々淳行の妹分だったのではないか?


さらに、佐々淳行の義父(妻の朝香幸子の父親)の朝香三郎は、水俣病加害企業チッソの全身である日本窒素肥料、朝鮮窒素肥料の大幹部でしたが、水俣病裁判があったのは、1970年代の真っ最中なのですが、佐々淳行が名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『東大安田講堂事件』は、1969年1月に勃発し、佐々淳行がさらに名を馳せた左翼ゲリラによるテロ事件の『あさま山荘事件』は、1972年2月に勃発しています。

少なくとも、左翼ゲリラによるテロ事件が起こったことによって、世間の注目が水俣病裁判から、左翼ゲリラによるテロ事件に移ったことで、日本窒素肥料と、その系列企業は大喜びだったはずです。

そして、最大の問題点は、朝香三郎が大幹部を務めた水俣病加害企業チッソの全身の日本窒素肥料は、 昔、朝鮮窒素肥料という子会社を構え、朝鮮半島の咸鏡南道興南(現在の北朝鮮の咸興市)に工場を持ち、そこで、核実験を行い、その核技術が、第2次世界大戦の後になると、金親子 (金日成・金正日)の手に渡ったという恐怖と、朝鮮窒素肥料に、若かりし日の文鮮明が働いていたという恐怖です。

文鮮明が、朝鮮窒素肥料の『興南工場』の跡地で、朝鮮窒素肥料の社員とその家族を洗脳していったことは、まず、間違いないでしょう。

水俣病加害企業チッソ=『統一教会』
ttp://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html

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佐々淳行
佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年12月11日 - 2018年10月10日)は、日本の警察・防衛官僚。危機管理評論家。

熊本県出身の政治学者で、後に参議院議員などを務めた佐々弘雄の次男として、東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。戦国武将・佐々成政の末裔の家系でもある。

6歳のとき自宅近くで二・二六事件が発生。その戒厳下の体験が危機管理人生の出発点となったという。その後ゾルゲ事件の際に疑われることを恐れた父の持ち物を焼き、のちの大東亜戦争になると父親が特高に怪しまれるようになる。

学生時代

旧制成蹊高等学校を経て[1]、1954年(昭和29年)3月に東京大学法学部政治学科を卒業。東京大学在学中は、学生研究会土曜会の中心メンバーとして活動し、若泉敬、粕谷一希らと交流を持った。

教授の堀豊彦からは助手として学問の道に進むことを打診されるが、朝鮮戦争や過激化する左翼運動といった世相の中、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』に感化され、国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した。若泉は保安研修所(現・防衛研究所)入りし学究の道に入った。粕谷は佐々が学者、若泉が実務家の適性を持っていると思っていたため、それぞれの選択を意外に思ったという[2]。

警察官僚として

入庁後は、主に警備警察の分野を歩み、目黒署などを経て 1950年代から1970年代の

東大安田講堂事件[3]、
あさま山荘事件[3]、
ひめゆりの塔事件

など数多くの学生運動や新左翼のテロに対する警備実施を指揮した。

瀬島龍三をはじめとしたスパイ取り締まりや亡命事件などの外事も多く手がけた。

また1956年のハンガリー動乱の際に『中央公論』(1957年3月)で「民主的警察官はどうしたらよいのか - 私はブダペストの警官にはなりたくない」という痛烈な一党独裁を批判する論文を出し、当時の「進歩的文化人(左翼)」から総批判を浴びた[4]。

1964年1月よりケネディ大統領暗殺事件調査のため渡米。

その後東京オリンピック警備などを経て、1965年より外務省に出向し香港総領事館領事の命を得て駐在。

1966年12月に起きた一二・三事件や1967年5月の香港の中共系暴動、さらに1968年1月のテト攻勢などに遭遇。テト攻勢の際はサイゴンの日本大使館に籠城を余儀なくされる。

1970年11月25日の「三島事件」の際には、「君は三島由紀夫と親しいのだろ。すぐ行って説得してやめさせろ」と土田國保警備部長から指示を受けて、警務部参事官兼人事第一課長であった佐々が警視庁から現場に駆けつけたが、三島の自決までに間に合わなかった。佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している[5][6]。

警視庁外事課長代理、大阪府警察外事課長、外務省在香港総領事館領事、警視庁公安部外事第一課長、同警備部警備第一課長、同警務部参事官兼人事第一課長等を経て、警察庁警務局監察官兼警備局付、警備局調査課長、同外事課長、同警備課長、三重県警察本部長、警察庁刑事局参事官を歴任。

防衛施設庁長官

その後、1977年より防衛庁に出向する。防衛庁では同長官官房長[7]などを経て、防衛施設庁長官に就任した[8]。しかし加藤紘一防衛庁長官に不満で辞めることも考えたが、1986年(昭和61年)6月に防衛施設庁長官で退官する。


初代内閣安全保障室長

1986年7月1日、第3次中曽根康弘内閣で初代の内閣官房内閣安全保障室長(兼総理府安全保障室長)に就任[9]。中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑の3人の内閣総理大臣に仕える。安全保障会議事務局長も務める。1989年(平成元年)2月に行われた昭和天皇大喪の礼の事務取り仕切りを最後に、同年6月に退官した。

退官後

退官後は、複数の政界有力者から、いわゆる天下りや、自由民主党からの政界入りを勧められたものの、それらを辞退して個人事務所を開設し[10]、危機管理をライフワークとしてフリーで活動する道を選んだ[11]。現役官僚時代から著書が多く、退官後は多くの著書を上梓し、そのうちのいくつかはベストセラーとなり、映画化された例もある。

1990年(平成2年)の湾岸戦争では首相閣外補佐に就いた。
1996年には新官邸危機管理懇談会のメンバーに選ばれる。

また1991年(平成3年)のソ連崩壊、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、1996年(平成8年)の在ペルー日本大使公邸占拠事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件などの際にはコメンテーターとしてテレビ番組に出演。


2006年(平成18年)7月には、日本美術刀剣保存協会の第7代会長・刀剣博物館館長に就任した。同年には、祖父に当たる佐々友房が設立した熊本県立済々黌高等学校を訪れ、あさま山荘事件などの自身の体験や佐々友房について語り、同校の図書館に自身の全著書を寄贈した。

親友であった石原慎太郎が3選された2007年(平成19年)の東京都知事選挙では、石原からの要請で、石原陣営の選挙対策本部長を務めた。このときに用いられた「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」のキャッチコピーは、佐々の発案によるものである[12]。


晩年

晩年も活発な著作活動・講演活動を続けた。2018年10月10日、老衰のため東京都内の病院で死去[13]。87歳没。

年譜


1930年(昭和5年)12月11日:佐々弘雄の次男として、東京市麻布区麻布材木町で生まれる[注釈 1]。

1954年(昭和29年) 3月:東京大学法学部政治学科卒業
4月:国家地方警察本部(現・警察庁)入庁[注釈 2]
10月:警視庁目黒警察署配属[注釈 3]

1955年(昭和30年)10月:警視庁防犯部保安課[注釈 4]
1956年(昭和31年)1月:警察大学校助教授
1957年(昭和32年) 8月:警視庁警備部警備第一課
埼玉県警察本部警務部監察官

1959年(昭和34年)7月:大分県警察本部警務部長
1960年(昭和35年)7月:警視庁公安部外事課[注釈 5]
1962年(昭和37年)4月:大阪府警察本部警備部外事課長
1964年(昭和39年)1月:警察庁警備局付(外務省研修所)[注釈 6]
1965年(昭和40年) 1月:在香港日本国総領事館副領事
4月:在香港日本国総領事館領事[注釈 7]


1968年(昭和43年)
7月:警視庁公安部外事第一課長[注釈 8]
11月:警視庁警備部警備第一課長[注釈 9]


1969年(昭和44年):東大安田講堂事件など一連の第二次安保闘争に対する警備実施を指揮。

1970年(昭和45年)9月:警視庁警務部参事官兼人事第一課長

1971年(昭和46年)11月:警察庁警備局付兼警務局監察官(極左暴力集団の犯罪、及びそれに関連する警備実施を専任的に取り扱い指揮するため階級を引き上げるための冨田朝彦警備局長の是非貰いで行われた変則・特殊な人事。

当時の人事の慣例では警視正の階級では警察庁課長職にはなれないため、たまたま空きがあった課長相当の警務局監察官職に就け、実際の任務は警備局での無任所課長として、都内から離れられない警備課長の代わりに全国で多発する極左関連事件の処理に現場へ派遣された。)


1972年(昭和47年)
2月:あさま山荘事件に派遣される(後藤田警察庁長官の指示で現地に派遣された、警察庁・関東管区警察局・警視庁等の幕僚団での警備実施及び広報担当幕僚長として)。
5月:警察庁警備局調査課長
7月:警察庁警備局外事課長[注釈 10]


1974年(昭和49年)8月:警察庁警備局警備課長[注釈 11]

1975年(昭和50年)8月:三重県警察本部長

1977年(昭和52年) 1月:警察庁刑事局参事官
8月:防衛庁出向。防衛庁長官官房防衛審議官[注釈 12]

1978年(昭和53年)11月:防衛庁教育担当参事官[注釈 13]
1980年(昭和55年)6月:防衛庁人事教育局長
1982年(昭和57年)7月:防衛庁長官官房長[注釈 14]
1984年(昭和59年)7月:防衛施設庁長官[注釈 15]
1986年(昭和61年) 6月:防衛施設庁を退職。
7月:内閣官房に新設された内閣安全保障室の初代室長に就任。安全保障会議事務局長も務める[注釈 16]

1989年(平成元年)6月:内閣安全保障室長を辞職。
1990年(平成2年)8月:湾岸危機につき、首相閣外補佐を担当。
1991年(平成3年)4月:ボランティア団体・日本国際救援行動委員会(JIRAC)を設立し、理事長に就任[注釈 17]。
1993年(平成5年)4月:慶應義塾大学法学部政治学科の非常勤講師に就任。同年9月から、「日本の安全保障行政」と題する講義を開始(この後、6年間に及ぶ)。
1994年(平成6年)4月:日米文化教育交流会議(カルコン)日本側パネル委員就任。内外情勢調査会理事と日本国際フォーラム政策委員就任。
1996年(平成8年) 3月:新官邸危機管理懇談会メンバーに就任。
4月:平成国際大学法学部政治学科非常勤講師に就任。

1997年(平成9年)8月:建設省河川審議会危機管理小委員会座長に就任。
1998年(平成10年)3月:人道目的地雷除去支援の会(JAHDS)理事に就任。
1999年(平成11年) 6月:東京都移転問題専門委員会委員に就任。
8月:ハイジャック対策懇談会座長に就任。

2002年(平成14年)7月:横浜市専門委員に就任。
2007年(平成19年)9月18日:NPO法人総合危機マネジメント協会の会長・理事に就任。
2018年(平成30年)10月10日、東京都内の病院で死去。87歳没。


系譜

戦国時代の武将・佐々成政[15]、それより下って時代劇『水戸黄門』で知られる助さんのモデルとなった佐々宗淳の兄・佐々勝朗を祖先に持つ。祖父に西南戦争で西郷軍に与し、後に済々黌の創立や衆議院議員を務めた佐々友房がいる。

政治学者で参議院議員の佐々弘雄を父に持ち、兄に朝日新聞記者で作家の佐々克明、姉に日本婦人有権者同盟代表で参議院議員の紀平悌子がいる[16]。寝具メーカー西川産業の代表取締役を務める西川康行は三男にあたる[17]。


エピソード

全共闘運動への対処にあたった佐々であるが、日大紛争の発端となった当時の大学当局の腐敗には義憤を感じており、秋田明大日大全共闘議長の演説に心を打たれることもあった[18]。

1973年にドバイ日航機ハイジャック事件が発生した際、犯人はハイジャック機を使ったイスラヘルへの「特攻」が目的であり、ドバイに駐機させられた日航機が再び飛び立てば乗客乗員の命はないとの分析が日本政府で主流を占める中で、前年に発生したルフトハンザ機615便ハイジャック事件(英語版)との類似性を見抜き、身代金要求の可能性を示唆した数少ない人物であった[19]。

土田・日石・ピース缶爆弾事件の犠牲となった土田國保警視庁警務部長の妻と死亡する十数分前に電話で会話していた(土田は佐々が就任した香港領事の先々代)[6]。

異名として、「事件を呼ぶ男[20]」「さすらいのガンマン[20]」「ダーティー・ハリー[20]」「縦社会を横に生きた男(小松万豊による)[20]」「血刀下げて裸馬に乗って単身敵陣に斬り込んでいく奴(後藤田正晴による)[21]」がある。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%B7%B3%E8%A1%8C

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 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。
2008年11月20日(木)「しんぶん赤旗」

「連合赤軍」事件とは?


 〈問い〉 36年前の「連合赤軍」事件の永田洋子死刑囚が危篤という報道の中に、日本共産党との関係をにおわせるような表現がありました。どうなのですか?(愛知・一読者)

 〈答え〉 「連合赤軍」と、日本共産党は、まったくの無関係です。反対に、彼らは日本共産党の打倒を最大の目標にかかげていた反共・反民主主義の暴力集団でした。「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東の教えを信奉して、みずからを「毛沢東の教訓をもって武装されたプロレタリア軍隊」などと称し、市民を人質にした1972年2月の浅間山荘事件をはじめ、強盗事件、無差別爆弾テロ、仲間の虐殺などを繰り返しました。

 「連合赤軍」は、名称に「赤」という字を使ったり、「共産主義」を語ったりして、蛮行をおこない、国民に日本共産党も「連合赤軍」の同類だと思わせて日本共産党のイメージダウンをはかる―これこそが、彼らの最大の“存在意義”でした。

 当時、自民党政府は、高揚するベトナム反戦と政治革新を求める国民のたたかいを抑えるために、その先頭に立つ日本共産党に打撃を与えようと、「連合赤軍」をはじめ「中核派」「革マル派」など、「共産主義」を偽装するニセ「左翼」暴力集団を泳がせる政策をとっていました。

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。中曽根康弘氏は「彼らの暴走が、反射的に市民層を反対にまわし、自民党の支持につながる作用を果している」と語りました(「朝日」69年5月3日付)。この卑劣なやり方が、彼らの蛮行を許す原因ともなったのです。

 こうした「連合赤軍」の蛮行や政府の“泳がせ”政策を最も厳しく批判し、たたかってきたのが日本共産党です。そもそも日本共産党が指針とする、共産主義=科学的社会主義は、「国民が主人公」の社会をめざし、国民の利益を守ることを何よりも大切にする考え方であり、テロや虐殺とは無縁です。(喜)

 〔2008・11・20(木)〕
ttps://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-20/ftp20081120faq12_01_0.html

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よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする
ttp://maru101.blog55.fc2.com/blog-date-201408.html
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日本の街宣右翼=朝鮮労働党日本支部だったんです。 2011/05/22


初心者の方には難しいと思いますが、日本には似非右翼と言われる下品な連中がいます。北朝鮮とつながった極左、部落極左がその実態です。棺桶左翼内閣とも水面下で提携し、311テロを実行する目的で、小沢一郎さんの首相就任を不正手段で阻止しました。

朝鮮労働党がよど号グループに指示した「日本国内の右翼民族派」結成工作のその後
ttp://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_40.html

北朝鮮右翼の起源
ttp://rkblog.html.xdomain.jp/200910/article_14.html

似非右翼暴力団の頭目が、実は、左翼過激派の偽装転向者だった。」
ttp://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_21.html

極左集団「日共左派・毛沢東派」元幹部が小沢さんを検察審査会にチクッた。
ttp://rkblog.html.xdomain.jp/201005/article_35.html

北朝鮮右翼が中国を攻撃するもう一つの理由
ttp://rkblog.html.xdomain.jp/201006/article_19.html

騙されないでください。「右翼」は看板だけです。黒幕は311テロリストと北朝鮮です。
ttp://oldrkblog.s17.xrea.com/201105/article_119.html

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日本赤軍について少し
投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 3 月 09 日
ttp://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html
日本赤軍について少し。(ユダヤ悪を追求すると、な〜ぜ〜か、北朝鮮勢力から狙われますよ。)

1.よど号グループと日本赤軍は、提携している。よって、どちらも黒幕は、北朝鮮。ボスは、重信房子だった。(北朝鮮の日本の出店は、統一教会インチキ右翼が兼任。)日本の中の北朝鮮=オウム真理教と重信の間にもつながりがある。

▼重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
細井 保(ジャーナリスト)『動向』2001年1・2月合併号より)
ttp://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

2.重信の黒幕は、ユダヤ権力・勝共右翼の朝鮮人と見たほうが良さそうです。

▼行政調査新聞 「重信房子は四元義隆と会っていた?」
ttp://www.gyouseinews.com/storehouse/jan2001/001.html

米大統領選の当選者確定の日とされた昨年十一月八日午前、大阪府高槻市の路上で赤軍派の重信房子が逮捕され衝撃が流れた。ところがその後、重信が長期にわたり北京政府と密接な関係を持っていたことなどが明らかになってきている。さらに衝撃的な噂が流された。逮捕直前に重信房子が、四元義隆、後藤田正晴と会っていたというのだ。現実には、後藤田が重信と会った形跡はない。後藤田の秘書が会ったとも言われるが真偽は不明。いっぽう四元義隆は「逮捕前に重信房子に会ったか?」とのマスコミの質問に対し否定はしなかった。彼女は幼い頃にはしょっちゅう四元の膝の上で遊んでいたと言われる(ちなみに重信房子の父親は右翼・血盟団員)。

山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。

3.重信は、アラブ・ゲリラの中心人物。重信の逮捕は、「あの」連中が計画している日本テロを「アラブゲリラによる重信奪還テロ」と思わせるため?日本でも、ビン・ラディンやアルカイダの名前が使われたインチキテロが行われるのか?(勿論、実際の犯行は、地下鉄サリン同様にCIAのユダヤ人と勝共・北朝鮮の朝鮮人。)

▼【心と宗教板 元オウム信者いない?】
ttp://mentai.2ch.net/psy/kako/973/973772995.html

4:気になるから質問!重信さん逮捕されちゃいましたけど、今後の計画は大丈夫なんですか?

13:そんなことよりも、重信さん逮捕されちゃいましたけど、今後の計画は大丈夫なんですか?上手くいかなかったらどうするんですか?平田さんの連絡先も教えて下さい。でないとタダのネタになっちゃいます。

4.元赤軍派の塩見が、結局は、朝鮮系右翼とつるんでいるわけです。つまり、日本の半島系右翼は、北朝鮮の傀儡。総元締めは、ロックフェラーの手先と北朝鮮の出先を兼任する文鮮明ということです。

▼元赤軍派議長 塩見孝也 "民族派宣言"(サンデー毎日2.27号から)
ttp://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

記者「民族派へ転向したみたいですね」
塩見「マルクス主義の脱構築です」

▼新右翼が元赤軍派を激励  法廷で3時間“会談” 96.09.03  共同

【チョンブリ(タイ中部)3日共同】日本の新右翼団体「一水会」の鈴木邦男代表(53)らが、偽米ドル札事件で裁判を受けているよど号乗っ取り犯の元赤軍派メンバー田中義三被告(48)を激励するためタイを訪問した。二日にチョンブリ刑務所で二十分ほど面会、三日は第九回公判が開かれた法廷で、傍聴席最前列の鈴木氏と木村三浩書記長が田中被告と「私語」を交わす形で三時間近く話し込んだ。田中被告は米国主導の捜査を非難し続けており、反米・民族派の鈴木氏らと「ともに闘っていけると感じました」。一方の鈴木代表も「四十歳を過ぎれば右翼も左翼もないですよ。意気投合しました」と言っていた。

▼平壌製作『よど号物語』上映
日本赤軍の塩見孝也が主体となった、よど号物語という映画の上映会に、サヨクがみんな集まった訳だけれども、「賛同人」の中にやっぱり、新右翼が混じっていたわけです。中台一雄(大悲会元会長)

5.ということで、オウム・日本赤軍・アルカイーダの連携に見せかけたインチキ日本テロを、ユダヤCIA+統一勝共似非右翼・創価学会の朝鮮人+北朝鮮が企んでいる恐れありと見ます。

日本有事情報【極秘】
ttp://jbbs.shitaraba.com/news/bbs/read.cgi?BBS=677&KEY=1038823935
2000年韓国に亡命 1975〜80年に、対日戦を想定した特殊部隊525部隊(5旅団6万人)を指揮し、100万人の一般部隊と合同で訓練をしていた。南光植によると、北朝鮮は、東京を占領することを目的とした、特別の軍隊を訓練させている。想定しているのは、東京での市街戦、化学兵器で人の脳を窒息させる、呼吸器系を麻痺させる、脳を麻痺させ手足を自由に動かなくさせる、政府関係庁舎の占領、空港の破壊、TV局や、新聞社などマスコミ関係の占領、化学兵器で市民を窒息させる等。北海道への上陸作戦の訓練も行っていた。金正日は、生物化学兵器で、東京市民を、一週間眠らせ、東京を占領するという内容の映画を作製し、軍の指揮官に見せている。

2チャンのコメント:「だからその実験がオウムのサリン事件なわけで。オウムは北鮮の破壊工作用下部組織だからね。カルト宗教などではない。」正解ですね。

↓は、私がかなり前に作ったHPです。現状は少し変わってきているので、ご参考程度にどうぞ。(2002年に起きなかった日本テロが、今年おきても不思議はないですが。)

◎オウム、赤軍派、北朝鮮は最初から一心同体。2002年の日本有事で、連携する。
ttp://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

◎東京でのテロは、重信房子奪回の名目。表向きは、イスラム過激派と赤軍派の共同作戦。実は統一・創価・北朝鮮・CIAの合同作戦。
ttp://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_5.HTM


ttp://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/495.html



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Re: 在日裏社会勢力が根を張っている社会単位の筆頭は、「宗教」と「ヤクザ」です。
投稿者 ブッシュ親子の自作自演テロの11 日時 2005 年 4 月 13 日 10:54:09: XUSllUZ/d1uKA
ttp://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/239.html


在日裏社会勢力が根を張っている社会単位の筆頭は、「宗教」と「ヤクザ」です。どちらも内部に、北朝鮮に直結した在日・帰化人のネットワークが出来上がっています。それは、「右翼宗教」でも同じことです。北朝鮮とつながっているのは「サヨク」だけだと思うのは幻想です。むしろ、『右翼』の看板に隠れて、北朝鮮勢力が日本国内で工作を進めていると見るべきです。(従って、日本の右翼の大半は、在日と部落であるわけです。日本になんら利益をもたらさない品性下劣なヤクザ右翼は、反日的な朝鮮人でなければ勤まりません。日本の国家の利益を損ない、日本民族を愚弄する役割なのですから。日本人にはできません。)右翼とヤクザはほとんど同義語であり、どちらも「朝鮮」という接頭語をつけてながめるべき対象です。

日本赤軍は、右翼を偽装した民族派組織を日本国内に網羅することで、北朝鮮のための破壊工作を準備していたと思われます。(参考@)
新右翼の中心組織、一水会の宴会に出席している連中の顔ぶれを見れば、「北朝鮮系サヨク・似非在日右翼・在日宗教」が裏で手を結んでいるのが良くわかります。勿論、朝鮮創価学会の幹部も出席しています。赤軍派の塩見も右翼の親分も宮崎学もオウムのスポンサーだった代議士、山口敏夫も同席しています。この連中みなが、結局は北朝鮮と背後のユダヤ権力の手先ということです。(参考A)

一方で、北朝鮮の日本総代理店であった赤軍派が弱体化し、北朝鮮のための工作ができなくなった後、代わりにピョンヤンの手先の役割を担ったのが、オウム真理教でした。(参考B)よって、北朝鮮の同志である創価学会と統一教会の朝鮮人が、ピョンヤンの新しい対日工作拠点であるオウム真理教に移動集結したのも当たり前なわけです。オウムが1990年から急速に膨張したのは、創価・統一の朝鮮人・帰化人が親組織の命で、偽装改宗して組織に入り込んだという理解をすべきです。

参考@ 【赤軍派は、朝鮮労働党直結の似非・右翼団体の組織を目論んだ】
「鈴木邦男と一水会とピースボートと朝鮮労働党の関係」
ttp://www.meix-net.or.jp/~minsen/information.htm
「このころ彼(よど号グループの田宮高麿)は、日本国内に「愛族同盟」と称する政治団体を結成することを考えていた。民族主義を最前面に押し出した組織だった。もちろん、この動きが朝鮮労働党の指導のもとに行われていたことは明白だった。そして、この組織化のなかで日本の民族派系組織も取り込んで運動を拡大することが画策されていた....」

参考A
【結局、こいつ等がオウムの背後にいた連中に繋がっている】
一水会を鼓舞する会 
ttp://web.archive.org/web/20000605001307/ttp://www2.neweb.ne.jp/wc/issuikai/226.html
「一水会を鼓舞する会」の発起人名簿の一部。
有田芳生     (ジャーナリスト)
井上聖志     (創価学会広報室渉外部長)
柴田泰弘     (「よど号事件」メンバー)
高野 孟     (「インサイダー」編集長)
徳田虎雄     (徳洲会理事長)
中台一雄     (大悲会前会長)
宮崎 学     (作家)
山口敏夫     (元労働大臣)
塩見孝也     (元赤軍派議長)

参考Aの2
朝鮮労働党系右翼???
石井一昌氏のHPより  ttp://www.ishiikazumasa.com/cc/messages/0117200002.html
最初は、「新右翼」という試みを、旧態依然の右翼団体が誹謗し潰そうとしているのかと腹が立ちましたが、右翼の人にもちゃんとした言い分があるそうで、その根拠は、一水会および鈴木邦男氏は、日本赤軍の末端組織で朝鮮労働党の傘下組織である
・彼等の行動の真の実体は、北朝鮮支援、テロと誘拐拉致・核開発・日本に対する誹謗中傷の手伝い、という売国行為である・朝鮮労働党の指導下にある「愛族同盟」という極左と反米右翼を合流させる目的の組織があり、ここで一水会と塩見氏らが共闘しているというものであるということや、あと、鈴木氏個人の悪評判まで色々目にしました。 右翼の方が、ここまで言い切ってしまっているものを無下に「そんなのは誹謗中傷だろ」とも僕は言えなくなってしまい少々混乱しております。
そんな折りに、石井さんのページを見つけ、石井さんが鈴木邦雄さんに並々ならぬ感情をお持ちのようだというのを読んで、その根拠と、上記のことについて石井さんは御存知なのか、それについてどう御考えになるのか、ということを聞いてみたくなった次第です。

参考Aの3
【もはや、イデオロギーは無関係。右翼も左翼も、合言葉は在日、そして北朝鮮】
元赤軍派議長 塩見孝也 "民族派宣言"(サンデー毎日2.27号から) ttp://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM

記者「民族派へ転向したみたいですね」
塩見「マルクス主義の脱構築です」

参考Aの4
新右翼が元赤軍派を激励  法廷で3時間“会談” 96.09.03  共同
ttp://www.zorro-me.com/TANAKA/TANAKA02_1.html
【チョンブリ(タイ中部)3日共同】日本の新右翼団体「一水会」の鈴木邦男代表(53)らが、偽米ドル札事件で裁判を受けているよど号乗っ取り犯の元赤軍派メンバー田中義三被告(48)を激励するためタイを訪問した。二日にチョンブリ刑務所で二十分ほど面会、三日は第九回公判が開かれた法廷で、傍聴席最前列の鈴木氏と木村三浩書記長が田中被告と「私語」を交わす形で三時間近く話し込んだ。田中被告は米国主導の捜査を非難し続けており、反米・民族派の鈴木氏らと「ともに闘っていけると感じました」。一方の鈴木代表も「四十歳を過ぎれば右翼も左翼もないですよ。意気投合しました」と言っていた。

参考B
重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
細井 保(ジャーナリスト)『動向』2001年1・2月合併号より)
ttp://www.asyura.com/sora/bd13/msg/96.htmlオウムの北朝鮮コネクション

オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。

早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

以上


全部読むなら.....◎オウム、赤軍派、北朝鮮は最初から一心同体。2002年の日本有事で、連携する。
ttp://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/main_pages_sub/OUMUNOSEIRISEITON_PAGE10_4.HTM


ttp://209.54.50.129/0502/cult1/msg/239.html


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こーれはまた面白い情報をありがとうございました
投稿者 ぷち熟女 日時 2005 年 4 月 13 日 18:00:24: WgkZZjZT3HifU
ttp://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/243.html

ブッシュ親子の自作自演テロの11様、

鈴木邦雄の妙な赤軍への擦り寄りについては、
あたくしも一部引用していただいた記事も含め、これまでに読んで知っていました。
でも、彼が在日コリアンであることを知ったのは、あなたのHPでのことです。
日本も自前の諜報機関を持てとか強化しろとか言う人もいますが、
ブッシュ親子の自作自演テロの11様ならスカウトされちゃったりして、ははは。
ほんとにすごいです。

思えば彼の『公安の手口』(ちくま書房でしたっけ?)と言い
重信メイの著作(講談社刊?)と言い、
割とメジャーな出版社からああも易々と手を差し伸べられていることが
また何とも不思議でなりませんでした。

今のところ、ぱっと見はどんなに突飛に映っても
赤軍がシオニストと組んでいるという仮説については
それをますます強化するような情報しか出て来ないように思えます。

北朝鮮と中東の関係に関連して、
レバノンからも拉致してた、なんていう情報もありましたからねえ。
重信氏はずっとレバノンに住んでたはずですから、
レバノン人の拉致にも何かしら関係があっても不思議はありません。

またお手隙の時にでも一度、
赤軍派(重信、奥平や岡本の)が起こしたことになってるテロが
ほんとに彼らの手になるものだったとお思いになるかどうか
ご意見をお聞かせいただけたらと思っております。
下に資料を添えておきます。

前にホロコースト板にも書いたのですが、
ミッション=インポシブルじゃあるまいしですね、
一体どうやってあれらのことをしでかして
捕まらないでトンズラしたり出来たというのか。
しかも、その場所たるや、
どこもむしろシオニストやメーソンリーであればこそ
水を得た魚のように動き回れる土地ばかり。

どうせ全部『モ』の字のお膳立てでイイカッコしたんでないの?
てか、アメリカやイスラエルがやりたかった工作に
名前を貸し、撹乱に協力して恩を売った、というのかしらん。

ではまた、ごきげんよう。


『無限回廊』より 日本赤軍が引き起こした主なテロ事件
ttp://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm

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1972年(昭和47年)5月30日 
テルアビブ空港事件

イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で、奥平剛士、岡本公三、安田安之の3人が、自動小銃を乱射し、26人が死亡、73人が重軽傷を負った。
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1973年(昭和48年)7月20日
ドバイ事件

丸岡修と4人のパレスチナゲリラがパリ発東京行きの日航機を、オランダのアムステルダム空港離陸後ハイジャックし、3日間に渡り、アラブ首長国連邦のドバイ空港、シリアのダマスカス空港などを経て、リビアのベンガジ空港に着陸させ、人質141人を解放後、機体を爆破して投降。
---------------------------------------------------------------------------------
1974年(昭和49年)9月13日
ハーグ事件

重信房子、西川純、奥平純三、和光晴生の4人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠して、17日、フランス当局に拘禁中の山田義昭を釈放させ、シリアに脱出。
---------------------------------------------------------------------------------
1975年(昭和50年)8月4日
クアラルンプール事件

奥平純三、日高敏彦、和光晴生、丸山修、山田義昭と思われる5人がマレーシアのクアラルンプールのアメリカとスウェーデン両大使館を占拠し、アメリカ総領事らの人質と交換に、日本で勾留中の赤軍派の坂東国男、日本赤軍の西川純、戸平和夫、赤軍派の松田久、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫を釈放させ、日航機でクアラルンプールに送り、日本赤軍は奪還した5人とともにリビア入りした。
---------------------------------------------------------------------------------
1977年(昭和52年)9月28日
ダッカ事件

丸岡修、和光晴生、佐々木規夫、戸平和夫、坂東国男と思われる5人が、日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本赤軍メンバーなど9人の釈放を要求した。犯人グループは奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映の6人と現金600万ドルをダッカに移送させたあとアルジェリアに逃亡し人質全員を解放した。
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1986年(昭和61年)5月14日
ジャカルタ事件

インドネシア・ジャカルタの日米両大使館に爆発物が打ち込まれ、同地のカナダ大使館で車が爆破されるという同時テロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義旅団」名の犯行声明が出されており、日米捜査当局は、城崎勉を犯人の1人と断定した。
---------------------------------------------------------------------------------
1987年(昭和62年)6月9日
ローマ事件

ベネチア・サミット開催中、イタリアのローマで、アメリカ、イギリス両大使館に向けた爆発物の発射などのテロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出されており、イタリア捜査当局は、奥平純三らを犯人と断定した。
---------------------------------------------------------------------------------
1988年(昭和63年)4月14日
ナポリ事件

イタリアのナポリで米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、米軍1人を含む5人が死亡した。この事件では「聖戦旅団機構」名の犯行声明が出されており、イタリアと米捜査当局は、奥平純三と重信房子を犯人と断定した。
ttp://209.54.50.129/0502/cult1/msg/243.html

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四元義隆 よつもと よしたか

四元 義隆(よつもと よしたか、明治41年(1908年)3月8日 - 平成16年(2004年)6月28日)は日本の右翼、実業家。

元三幸建設工業社長・会長。政界の指南役。
血盟団のメンバーの一人。別名「一匹狼の非利権右翼」。


近衛文麿、鈴木貫太郎首相秘書を務め、戦後は政界の黒幕的な存在として吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳、竹下登、宮沢喜一などの歴代総理、特に中曽根康弘、細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された。

鹿児島県に生まれる。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)、第七高等学校造士館(現鹿児島大学)を経て、1928年4月に東京帝国大学法科(現、東京大学法学部)入学。在学中に上杉慎吉主宰の帝大七生社の同人となる。

大学中退後、安岡正篤の金鶏学院に入ったがロンドン海軍軍縮条約の反対運動の時に安岡に四元は不満を抱いた。その頃に井上日召と知り合い、血盟団の同志となる。

血盟団事件に連座して逮捕される。
1934年11月22日に殺人罪で懲役15年の実刑判決。1940年に他の団員と共に恩赦で出所する。


権藤成卿亡き後の右翼思想の最高指導者と呼ばれ[2]、近衞文麿や緒方竹虎のブレーンとして活躍した。

1944年に翼賛壮年団理事。

戦後は公職追放となり[3]、農場経営を経て、1955年から田中清玄の経営していた三幸建設工業の社長となる。2000年、同社会長。 2003年に会長を退任した[4]。

2004年に死去。享年96。

発言

以下は『昭和・平成 日本 黒幕列伝 時代を動かした闇の怪物たち』より

「ぼくは河野一郎が嫌いでね、若いころだったら叩き殺してやるよ」

「今の日本には、そのために生き、そのために死んでもいいというものが何もない」


その他

松本礼二ら「遠方から」一派の依頼を受け、新東京国際空港(現・成田国際空港)の開港に前後して成田空港問題の解決を図り、高知空港公団理事の西村明に協力させるなど、水面下での反対派と政府の接触を取り持ったが、マスコミのリークを受けて双方が交渉の事実を否定したため成果が失われた[2][5][6]。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%85%83%E7%BE%A9%E9%9A%86

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重信房子

重信 房子(しげのぶ ふさこ、1945年9月28日 - )は、日本の新左翼活動家、革命家。元赤軍派中央委員、日本赤軍の元最高幹部である。

ハーグ事件の共謀共同正犯として有罪となり、懲役20年の判決を受けた。
現在、東日本成人矯正医療センターにて服役中。


生い立ち

東京都世田谷区で4人兄弟の次女として生まれた。父の重信末夫は四元義隆と同郷の鹿児島県出身で、第二次世界大戦前の血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生であった(血盟団メンバーと報じられることがあるが、メンバーではなく事件にも一切関与していない)。房子はこの父の影響を強く受けた。少女時代は「小さな親切運動」に熱心に取り組み、表彰を受けた[1]。また、文学少女でもあった[1]。東京都立第一商業高等学校卒業後、キッコーマンで働きながら小学校教員を目指し[2]、明治大学文学部史学地理学科の夜学に通う。大学では文学研究会で『一揆』というミニコミ誌を出していた[1]。


学生運動

大学入学後、夜学連に参加し[3]、2年次に文学研究会が属していた研究部連合会の事務長を務めていた[3]重信は学費値上げに絡んで明大闘争に参加した。この際、後に連合赤軍山岳ベース事件でリンチ殺人の犠牲となった遠山美枝子(二部法学部、麒麟麦酒勤務)と知り合う。明大闘争において全学連における立場を失墜させた共産主義者同盟(第二次ブント)の再建に協力してほしいとオルグされ、加入[4]。系列の明大現代思想研究会、二部の社会主義学生同盟の責任者として活動。神田カルチェ・ラタン闘争にも関わった[5]。その後分裂した共産主義者同盟赤軍派に創立メンバーとして加わる。塩見孝也ら幹部が逮捕され弱体化する中で主導権を握った森恒夫と対立した。


日本赤軍

重信は1971年に「国際根拠地論」に基づいて、パレスチナに赤軍派の海外基地を作ろうとする。奥平剛士と偽装結婚(奥平剛士は1972年5月、民間人ら23人を殺害、計100人以上を無差別殺傷したテルアビブ空港乱射事件のテロ行為で死亡)をし、「奥平房子」という戸籍を得て2月28日に出国した。なお重信は、後にパレスチナ人男性と結婚した。

その後、奥平剛士らとパレスチナで日本赤軍を結成し、創設当初は「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」等と称し、その名称さえきちんと定まっていなかったが、1974年以降、「日本赤軍」を正式名称とした。

重信が「最高指導者」となった日本赤軍は、レバノンのベカー高原を主な根拠地に「革命運動」を自称し1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)などパレスチナの極左過激派と連携し、一連のハイジャックや空港内での乱射事件などの無差別殺人を起こした。さらに外国公館の政府要人やハイジャックした飛行機の乗客を人質に取って、身代金や仲間の奪還を目論む事件を起こしたり、外国公館に攻撃をするなど、多数の民間人をも巻き込んだテロ事件を繰り返し世界各国から非難を受けた。


逮捕

その後重信は「ハーグ事件」への関与で国際手配を受けたものの逃亡を続け、不法に入手した偽造旅券を使って日本に不法入国し、その後しばらく大阪市西成区のマンションに潜伏していた。

2000年、日本赤軍の支援者を視察していた大阪府警警備部公安第三課は視察対象者が重信に似た女性と接触していたのを現認し視察・捜査を開始。重信はホクロが特徴となっていたが化粧でホクロを隠していたものの、特有のタバコの吸い方や、重信に似た女が某所で飲んだ際に使用されたコーヒーカップから指紋を採取、照合したところ重信の指紋と一致したことから公安第三課は女が重信であることを突き止めると、ハーグ事件から26年後の11月8日に潜伏していた大阪府高槻市において旅券法違反容疑で逮捕された。なお、大阪から警視庁への移送には東海道新幹線が用いられ、逃亡を防止する為グリーン車の個室に閉じ込めての移送となった。

重信が逮捕の際に押収された資料、それを報じた新聞などによれば、重信は1997年12月から2000年9月に、自ら他人になりすまして日本国旅券を取得し、関西国際空港から計16回にわたって中華人民共和国などに出入国を繰り返し、また1991年から日本での「武力革命」を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立。またそれを足がかりとして、日本社会党との連携を計画していたとされる。

なお「希望の21世紀」は同事件に関連し、警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが、日本赤軍との関係を否定している。また社会民主党区議の自宅なども「希望の21世紀」の関連先として同時に捜索を受けたが、社会民主党は「何も知らなかったが事実関係を調査する」とした。また、重信が残した多数の証拠品により支援組織が解明され、会社社長・教諭・医師・病院職員が次々に重信を匿った犯人隠避の疑いで検挙された。


解散

2001年には獄中から、組織として事実上崩壊していた日本赤軍の解散を発表している。2009年6月に、初めて産経新聞のインタビューに応じ、過去の活動について「世界を変えるといい気になっていた」と語った。一方で「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていたとも述べた[6]。

ハーグ事件裁判

起訴

重信は1974年9月13日に日本赤軍がフランス当局に逮捕されたメンバー(山田義昭)を奪還するために、オランダのハーグで起こしたフランス大使館占拠事件、いわゆる「ハーグ事件」への関与をめぐり、逮捕監禁罪・殺人未遂罪などでの共謀共同正犯で起訴された。

検察側は日本赤軍が実行翌日に犯行声明を出したり、その他の日本赤軍の刊行物からパレスチナ解放人民戦線(PFLP)に武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整を依頼していたこと、事件後の会議で重信が準備不足などを反省する発言をしたとする元メンバーらの供述などの証拠から、ハーグ事件について首謀者として犯行を主導したと主張し無期懲役を求刑した。これに対して弁護側は「ハーグ事件当時、日本赤軍が組織体制を確立しておらず、PFLPの作戦であったから重信が指示・指導する立場ではなかったうえ、謀議があったとされる時期にはリビアにいてアリバイがある」と無罪を主張した。

東京地方裁判所は2006年2月23日に「重信被告は武器調達や解放された仲間を受け入れる国との調整をPFLPに依頼するという重要な役割を担っていた」と認定し、さらにアリバイについては「共謀の詳しい内容や時期、場所は明らかではないが、被告がアラブ諸国の協力組織を介するなどして実行犯と共謀しており、アリバイとして成立しない」と認定した。量刑は「自らの主義や主張を絶対視し、多数の生命、身体への危険を意に介さない身勝手な犯行であり、真摯な反省がみられない」としたが、一方で「犯行の重要事項については実行犯の和光晴生が決定しており、被告は中核的立場を担ったものの犯行を主導したと断言できない」とし、検察が求刑していた無期懲役を退けて懲役20年の判決を言い渡した[7]。


懲役

これに対して重信の娘の重信メイと主任の大谷恭子弁護人は同日控訴した。控訴審では弁護側と検察側双方が、1970年代から1980年代にかけ重信と同様に世界各国でテロ事件を起こし多数の民間人を虐殺し、フランスで終身刑を受けているテロリストの「カルロス」受刑者から、「ハーグ事件」の指揮系統や武器提供の経緯についての証言を得て、裁判所に提出された。

2007年12月20日に東京高等裁判所は一審判決を支持し、控訴を棄却した[8]。重信は上告したが2010年7月15日に棄却が決定し刑が確定した[9]。重信は上告棄却決定に対する異議申し立てを行ったが、2010年8月4日に最高裁判所第2小法廷(竹内行夫裁判長)は棄却する決定をし、懲役20年とした一・二審判決が確定し重信はその後服役した。ただし、未決勾留期間の810日の3年を刑期に算入するため実質17年となり重信の出所予定は2027年となった。


その他

八尾恵(よど号グループの柴田泰弘の元妻)の『謝罪します』には、「1970年代後半に北朝鮮に在住し始めた時の夫の柴田のアルバムに、日本赤軍の重信房子がチマチョゴリを着て2歳くらいの娘と一緒の写真があった」と書かれており、重信とよど号グループとの関係が指摘されている。

和光晴生は1974年に北朝鮮当局に資金援助を求める手紙を見せられたこと、そして翌1975年に重信が北朝鮮に渡航したことと、その後、同国の「主体思想」に基づく「思想闘争」という活動形態が組織内部に持ち込まれたことを述懐している[10]。

但し、重信自身は和光の述懐の内容について「穿ち過ぎ」であるとし[11]、「思想闘争」や「自己批判」を行う「援助会」に関してはイスラエルやヨルダン政府などとの闘いの中で生まれたものだ、として否定している[12]。また、足立正生は1974年に日本赤軍に合流した際に年長者として思想や組織、革命に関しての議論を活発にさせたと述懐しており[13]、全てが北朝鮮やよど号グループの影響なのかは判然としない面がある。

公安関係者には「重信ファン」が少なからずいたという[14]。

2018年現在、東日本成人矯正医療センターにて抗がん剤の治療を行っている。


著書

『わが愛わが革命』講談社、1974年 [15] パレスチナ解放闘争史: p.260 - 263

『十年目の眼差から』話の特集、1983年
『大地に耳をつければ日本の音がする 日本共産主義運動の教訓』ウニタ書舗、1984年
『ベイルート1982年夏』話の特集、1984年
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』幻冬舎、 2001年
『ジャスミンを銃口に 重信房子歌集』幻冬舎、2005年
『日本赤軍私史 パレスチナと共に』河出書房新社、2009年
『革命の季節 パレスチナの戦場から』幻冬舎、2012年

共編著

『資料・中東レポート』1-2(日本赤軍との共編著)ウニタ書舗、1985-86年[16][17]
『重信房子の半生記』サンデー毎日連載、構成:竹中労、1985-1986年
『赤軍 1969→2001総特集』足立正生夫妻、山本万里子、中山千夏、平岡正明、松田政男、平井玄他、河出書房新社、2001年
『日本赤軍!世界を疾走した群像』和光晴生、足立正生、若松孝二、塩見孝也、小嵐九八郎、聞き手 図書新聞 2010年
『丸岡修自述―元・日本赤軍軍事指揮官告白録』 風塵社、2013年
『天皇制と共和制の狭間で』 小沢信男、日野百草、山本健治、藤田真利子、天野恵一、松田ひろむ、高橋武智、鹿島正裕他、第三書館、2018年[18]
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E4%BF%A1%E6%88%BF%E5%AD%90



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2001 年 4 月 26 日 重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係
 細井 保(ジャーナリスト)
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 重信房子とよど号犯の関係

 日本赤軍最高幹部の重信房子は、平成十二年十一月に大阪で逮捕された。これまでの新聞報道によると、重信は数年前から日本への入国を繰り返し、日本から北京などにたびたび渡航していた。北京を拠点のひとつにして、偽造旅券を使って世界各地に渡航していた。使われたパスポートの偽造には、よど号犯グループが関った可能性が高い。

 日本赤軍は昭和四十六年(一九七一年)、共産主義者同盟赤軍派(共産同赤軍派)のメンバーのうち、レバノンに出国した重信房子、奥平剛士等によって組織された。結成以降、日本赤軍はパレスチナ・ゲリラと共同し、または単独で、国際テロ組織の中でも極めて活発なテロ活動を世界各地で展開してきた。彼らが起こした事件の中で最も忌しい事件は、昭和四十七年(一九七二年)五月、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港での銃乱射事件だ。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人が自動小銃を乱射し、一般旅行者ら九十六人を殺傷(うち死亡二十四人)した。

 よど号グループは、同じ赤軍派の一つで、故・田宮高麿ら九人だ。彼らは昭和四十五年(一九七〇年)三月によど号をハイジャックして北朝鮮に渡った。彼らの“宿命”について、高沢皓司氏が著書『宿命−よど号亡命者たちの秘密工作』(新潮社刊)に描いている。北朝鮮で彼らの革命幻想は打ち砕かれ、彼らは北朝鮮の思想に思想改造され、北朝鮮の対外工作員に変じていく。よど号犯のうちには粛清された者、死亡した者もいるが、なお五名が現在、平壌市周辺で執筆業や貿易会社を営むなどしていると伝えられる。

 警察の発表によると、重信が使用していたパスポート二通のうち一通は、約三年前に取得されたものだ。これは、よど号犯グループの関係者が使用していた複数の偽造旅券と、旅券番号の一部が一致するなど、数多くの共通点がみられる。

 重信は偽造パスポートを使って、最近の約三年間に五回以上日本へ入国し、出国先はいずれも中国方面だった。そして、北京を拠点によど号犯グループのメンバーの関係者と接触を続けていたとみられる。関西の赤軍派支援グループのメンバーも北京などに渡航し、現地のホテルなどでひそかに会合を持っていたとみられる。

 平成八年(一九九六年)夏には、重信が当時滞在していた北京から、ひそかに北朝鮮に入国していた可能性がある。この夏、平壌で各国の革命を目指すグループの集会が開かれた。この集会に参加するため北京から北朝鮮に入ったとみられる。重信が集会前後に、よど号犯グループメンバーと接触していた可能性もある。この集会は、各国の革命家やグループなど数十人規模で、日本赤軍の新たな拠点づくりとも関連していたとみられる。参加者の中で重信は重要な役割を果たしていたとされ、この集会に参加する目的で北京を出国した可能性が高いとみられる。

 また平成十二年五月にも、重信が中国・北京に滞在していたことが、CIAによって確認されている。

 日本赤軍は近年、レバノンを活動の拠点とする一方、中東以外の地域に新たな拠点構築を目指し、世界各地で活動を展開していた。しかし、平成七年(一九九五年)、ルーマニアで浴田由紀子が逮捕され、平成八年、ペルーで吉村和江が逮捕、城崎勉がネパールで身柄拘束された。こうした中、平成九年(一九九七年)二月、レバノン国内に潜伏していた日本赤軍のメンバー五人(和光晴生、足立正生、山本萬里子、戸平和夫、岡本公三)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。本拠地ともいえるレバノンにおいて、政府当局によりメンバーが逮捕されたことは、日本赤軍が最も重要な拠点を失ったことを意味している。メンバーの大量検挙と合わせて、組織として極めて大きな打撃を受けたものとみられる。そこで、重信らは日本へと目を向けてきたのではないか。

 警察の捜査によると、重信の家宅捜索では、新たな組織の構想を記した文書が押収されている。文書は「人民革命党綱領」と「綱領解説」と題されていた。

 人民革命党とは日本国内で革命を実現し権力を奪取するための組織で、平成三年(一九九一年)八月、シリア・ダマスカスで結党された。重信は相次ぐメンバーの逮捕で弱体化した組織を立て直すため、国内で人民革命党の旗揚げを目指し、党綱領をまとめ、来春から活動する計画だったとみられる。同党は運動方針などで対立している国内組織や支援者を一本化して、革命で政権を奪うことを目標にしている。
 東京地裁で先に開かれた拘置理由開示の手続きで、重信容疑者は「来春、いつ司法に身をゆだねてもよい準備を完了する予定だった」と述べた。その旗揚げの準備が完了する前に、最高幹部・重信房子を逮捕したことは、日本警察の功績だろう。

 これまでの報道を通じて、重信に関して二つの疑惑が浮かび上がってくる。よど号グループとの関係、さらに北朝鮮及び中国政府との関係である。この疑惑はオウム真理教と北朝鮮・よど号犯グループの関係に関する疑惑へとつながっていく。
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金正日の極秘指令を受けたよど号犯

 重信ら日本赤軍はよど号犯グループと昭和五十年代から提携をもってきたとみられる。もとは同じ共産同赤軍派である。よど号犯には重大な事実がある。それは、彼らは北朝鮮の指令を受けて、日本国内及び国際的にさまざまな活動をしてきたという事実である。そして、そこに浮かび上がってくるのがオウム真理教との関係なのである。

 よど号犯グループと親しいジャーナリストが高沢皓司氏である。高沢氏は長年彼らを取材してきたことをもとに著書『宿命』を書いた。この本は平成十一年度の講談社ノンフィクション賞を受賞した。

 その後、高沢氏は平成十一年八月から十月にかけて、「週刊現代」に「『オウム真理教と北朝鮮』の闇を解いた」という記事を掲載した。十一回に及ぶ連載の中で高沢氏は、オウム真理教と北朝鮮の闇の中に、赤軍派、よど号犯グループの存在があることを明らかにしている。

 連載の中で、高沢氏は驚くべき事実を公表した。氏によると、昭和五十七年(一九八一年)五月六日、よど号犯は金正日から直筆の極秘指令を受けた。その指令書は実在している。指令書の内容は金日成主義によって日本革命を準備・達成せよ、というものだ。金正日は自衛隊工作や軍事クーデターの中核的人間の育成などを指示していた。よど号犯は指令に従って、対日工作を行ってきたのだという。

 よど号犯グループは金正日から指令書を受けるより前に日本赤軍と接触していた。早くも昭和五十年代(一九七〇年代後半)から、彼らは東欧等で複数回接触していた。これは今回の重信逮捕でわかってきたことである。

 よど号犯グループは日本赤軍のために、偽造旅券を手配していた可能性が高いtp見られている。昭和五十五−五十六年(一九八〇−一九八一)ごろ、日本赤軍の戸平和夫が使用した偽造旅券は、北朝鮮に拉致された疑いの強い男性のパスポートと旅券番号などが酷似していた。

 よど号犯グループは金正日のロボットとなって対日工作を行う一方で日本赤軍との連携を深めていったとみられる。当時、日本赤軍は中東での足場を次第に失い始め、新たな活動拠点を探して東南アジアなどで広域に活動するようになった。よど号犯グループとの連携は、これ以後の日本赤軍に大きな活動力を与えただろう。その背後には金正日の存在があると推測される。

 よど号犯の日本工作活動はメンバーの相次ぐ逮捕などのために、昭和六十年代(一九八〇年代後半)に挫折した。よど号犯による工作が挫折した後、北朝鮮は、ある集団を工作の対象として目をつけた。それがオウム真理教だった、と高沢氏はみている。
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なぞの多いオウム真理教事件

 オウム裁判は進んでいる。判決も続々と出ている。しかしオウム事件にはあまりにも謎が多い。ジャーナリストの一橋文哉氏は独自の取材によってオウム事件を追及している。平成七年に月刊誌「新潮45」(新潮社刊)に、一橋氏は追跡記事を数度に亘って掲載した。その原稿をもとに平成十二年七月、単行本『オウム帝国の正体』(新潮社刊)が発刊された。

 一橋氏が書いているように、一連のオウム事件は疑惑に包まれたまま真相がほとんど明らかにされていない。オウム真理教の存在が、国民に広く知られるようになったのは、平成元年(一九八九年)十一月四日の坂本弁護士一家拉致殺人事件だ。その翌年、平成二年二月、麻原彰晃は真理党を創設し、二十五人の候補を立てて国政選挙に打って出た。しかし、それは惨敗に終わり、教団は深刻な財政危機に陥ったとみられる。ところが、その年の五月には熊本県波野村に六ヘクタールの土地を購入。そして翌三年にはロシアを訪問、エリツィン大統領の側近のロボフに面会して、「ロシア日本大学」構想を打ち上げる。麻原は平成四年には信者三百人を引き連れてロシアを訪問、政権中枢に接触して本格的な布教活動を開始した。

 一体、どこからこれだけのことをする巨額の資金が出てきたのか。その背後には、オウム真理教に資金を提供した団体があるのではないかとみられている。統一教会と創価学会が、疑惑の対象として挙がっている。また「オウムは金のなる木」として、オウムに食い込んだ暴力団の存在が浮かび上がっている。

 その後、オウム真理教は平成六年六月二十七日には、松本サリン事件、七年二月二十八日には、東京・目黒公証役場事務長逮捕監禁致死事件を起こした。そして遂に、同年三月二十日、東京都心部で地下鉄サリン事件を起こす。死者十二名、被害者五千五百名以上という大事件だった。

 これは単発のテロではない。「井上メモ」が示しているのは、オウム真理教の計画には天皇陛下が国会にお出ましになっているときに、国会の周辺で、サリンを大量に散布するというものがあった。計画は未然に防ぐことができたが、もし実行されていたらどのような結果となっていたか、慄然たるものがある。

 オウムはサリンによる無差別大量テロに続いて、国家中枢テロを行って、クーデターを起こし、さらにはアメリカ、ロシアを巻き込んだ第三次世界大戦を引き起こそうとしていたともみられている。

 オウム真理教はサリン事件の十日後、三月三十一日、国松孝次警察庁長官を狙撃する。そして四月二十四日、オウム真理教幹部の村井秀夫科学技術省大臣が、オウム本部前で刺殺された。一橋氏は一連の事件の中でも三つの事件は、特に疑問が多いとしている。つまり坂本弁護士一家拉致事件、国松長官狙撃事件、村井刺殺事件だ。一橋氏は徹底した取材によって、多くの疑問点を記している。

 そこから浮かび上がってくるのは、オウムに関っていた暴力団、疑惑のある宗教団体、そして大物政治家の存在である。この方面はある段階で「上から」捜査にストップがかかった。捜査当局はオウム事件を、オウム真理教単独による犯行として処理しようとしている。また、裁判において検察は、この方面については、ほとんど何も追及しようとしていない。重要点の多くに関係する早川は、裁判において、この領域に関しては固く口を閉ざしたままだ。

 早川はオウム真理教と北朝鮮・ロシアの関係についても明らかにしていない。毒ガス、偽ドル、麻薬、銃火器、潜水艦、軍用ヘリコプターなどオウム真理教の一連の事件は、日本史上、かつてない国際的な事件である。さらには核兵器製造に関する情報がやりとりされていた可能性もある。背後には北朝鮮や暴力団とのつながり、オウムをロシアに紹介した元代議士、その背後にいるとみられる大物政治家、ロシアにおける国際的な武器商人の暗躍等々、日本の内外を結ぶ組織的な関与が見え隠れする。これが単に噂の類ではないことは、CIAがオウム事件の調査を行い、アメリカの上院で大部の報告書が出されていることを知れば、わかるだろう。

 事件の真相は日本の警察、司法によって、ほとんど何も明らかにされていない。オウム事件は深い闇に閉ざされたまま次々に判決が出されている。徹底的に事実を追求していけば、類例を見ない大スキャンダルが暴露され、また国際的な大問題となる可能性があるのだろう。
ttp://www.asyura2.com/sora/bd13/msg/98.html


よど号犯、オウム工作に関与か

 オウム真理教の一連の事件の背後には、北朝鮮やロシアの影がある。高沢氏は金正日がよど号犯を使って行っていた日本破壊・攪乱工作が挫折した後、それを「ちがう筋で見事に実行したのが、オウムではなかったのか」とみている。

 高沢氏はよど号犯グループは、北朝鮮のオウム工作に関っていたことを強調する。それを明らかにするのが、北朝鮮のオウム工作員Aの存在であると、氏は書いている。同氏によると、オウムには北朝鮮の主体思想(金日成・金正日を絶対化した思想)を身につけた工作員Aが潜入していた。その頃からオウムは急激に変質・過激化した。Aは村井秀夫科学技術省大臣に重用されて武器製造に関与していた。平成七年(一九九五年)三月二十日、オウム真理教は東京で地下鉄サリン事件を起こしたが、サリンの製造責任者は村井だった。

 Aに連なる潜入工作員は複数いたことが明らかになっている。その一人、霜島隆二は医師としてオウム真理教付属医院に入り、林郁夫の下で働いていた。霜島は共産党系の病院に医師として勤務していた時にオウムに入信した。ある日突然、都内にある北朝鮮系の病院に移り、さらにオウム付属病院へ移った。霜島は以後、林の右腕となり、麻酔剤、電気ショック、LSDなどを用いて、信者に洗脳を行っていた。

 これらの方法は、高沢氏によると「北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつ」だ。北の毒ガス等の兵器開発と「まったく同じ軌道上にあるもの」という。しかも霜島は「教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの『イニシエーション』を行える立場にあった」とみた。それゆえ、北朝鮮のオウム工作は麻原自身に及んでいたと考えられる。

 工作員Aはオウム事件でオウムの幹部が逮捕された後にオウムを脱会し、スペインのマドリッドへ飛んだ。高沢氏はマドリッドでAを取材した。Aは一連のオウム事件当時のオウム信者である。Aは高沢氏に対し、今でも主体思想は「すばらしい思想」だと言い、主体思想の作成者の黄長Yから直接指導を受けたと明かす。マドリッドは北朝鮮の工作拠点のある街。その土地は、柴田泰弘らよど号犯とその妻たちが、北朝鮮による日本人留学生を北朝鮮に拉致する等の活動拠点としていた場所だ。中でも柴田はマドリッドにしばしば滞在して活動していた。高沢氏によると、Aは柴田と同じホテルに宿泊していたことが明らかになっている。

 柴田泰弘は昭和六十三年(一九八八年)五月に、北朝鮮帰国者の偽造旅券で日本に潜入帰国をしていた時に逮捕された。しかし、平成六年(一九九四)七月に刑を終え出所している。柴田の逮捕は、対日工作を進める北朝鮮にとって打撃だったのだろう。高沢氏の著書『宿命』によると「事態を重く見たピョンヤンからは日本潜伏中の工作員に緊急の帰国指示命令が平壌放送を通じて流された」「柴田泰弘の国内での逮捕と、その後につづく一連の事態はよど号グループにとってすべての日本潜入工作が挫折したことを意味していた。…妻たちへの緊急の帰国指令は、からくも彼女たちの国内での逮捕だけはまぬがれさせたのである」という。

 柴田は出所後も、よど号グループのスポークスマン、「自主日本の会」などの活動を活発に続けている。北朝鮮及びオウム真理教との関りも持続していたとみられる。

 北朝鮮による日本人拉致事件は、なにも解決していない。日本国政府は北朝鮮に対して非常に弱腰であり、「拉致」を「拉致」として主張すらしていない。今後、この事件を解明するには、よど号犯グループによる日本人拉致の実態を明らかにされなければならないだろう。それは、金正日と北朝鮮政府の国家的な国際犯罪を暴露することになろう。

 オウム真理教へのよど号犯の関与は、偽ドルについても考えられている。偽ドルは北朝鮮が偽造して、世界に広く使用しているものだ。

 よど号犯の一人、田中義三は平成八年(一九九六年)、タイのパタヤで偽ドル札を使用したとして起訴された。この事件については、平成十一年(一九九九年)六月に無罪になり、拘留先のタイ・バンコクから昨年六月二十八日、日本へ移送された。田中が使った北朝鮮の偽ドルは「スーパーK」だった。彼が北朝鮮から出国したとき、北京を通過した可能性が高いとみられている。

 オウムの元幹部の証言によると、早川建設省大臣はドイツから精巧な印刷機を手配し、北朝鮮の偽ドル印刷に関係していたという。その一方、オウムには、外部から多額の資金提供を受けていた疑惑がある。それは、赤軍派・よど号犯の田中義三が使用して逮捕された偽ドル、スーパーKだった疑いが濃いと、高沢氏は言う。もしそうだとすれば、赤軍派・よど号犯とオウム真理教は、北朝鮮の偽ドルへの協力という点でもつながってくる。
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オウムの北朝鮮コネクション

 オウム真理教と北朝鮮の関係についてに疑惑は、多数の死傷者を出したサリンやその他の武器にも関っている。この点において、よど号犯の関与はわかっていない。

 工作員Aがサリン製造責任者の村井に重用されていたことを再確認しておこう。
 高沢氏は言う、「オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮の工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである」と。

 金日成の著作集には、毒ガスや細菌兵器についての大量の論文。教示がある。朝鮮戦争後、北朝鮮では毒ガスや細菌兵器の研究が行われている。そして麻原らにサリンなどの知識を吹き込み、オウムを北朝鮮型の組織体系に誘導した工作組織が存在すると想定されるのだ。

 オウムと北朝鮮の関係の焦点にいるのが、早川紀代秀建設省大臣と村井秀夫科学技術省大臣だ。早川は麻原と共にオウムの前身である「オウム神仙の会」を創設した人物。オウムのナンバー・ツーといわれる大幹部だ。早川は元統一教会の信者である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃と巡り合い、オウム神仙の会を作った。オウム真理教の創設後も早川は統一教会の会員と会っていたという。

 早川はロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らく、この早川によるものだろう。早川はロシアで武器の購入を行っていた。また頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、さらにそこを経由して北朝鮮に行っていたことがわかっている。

 一方、村井はサリン開発の責任者だった。オウム事件のなかで最も不透明で謎に満ちている事件の一つが、村井の刺殺事件だ。実行犯、徐浩行の背後には暴力団の存在があり、また同時に北朝鮮の工作組織の影が濃い。徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡がある。彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏はみる。

 村井はテレビで、オウムの資金は一千億円あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスはサリンではないとも証言した。とすれば、ガスの製造元はどこの国なのか。そして、さらに村井が曝け出しかねなかった秘密があったのだろう。

 その秘密は、北朝鮮と暴力団がらみの麻薬取引だった疑いもある。高沢氏は、それ以上の秘密があったのではないかと見ている。刺殺される前、村井はテレビでその秘密に触れかねない発言をしていた。そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのだ。それは、日本の原子力発電所に関するものではなかったか。
 早川は頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、またそこを経由して北朝鮮に行っていたと先に書いた。高沢氏は、早川がロシアで武器の購入だけでなく、核燃料のプルトニウムの密輸にも関係があったのではないか、とみる。

 というのも、オウムは日本の原子力発電所に関する膨大な機密書類を手に入れていたのだ。村井らが約二百人もの作業員を潜入させて収集したものだ。専門家も初めて見るようね詳細な資料だ。こうした原発の機密資料が、早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性がある。そして、早川が北朝鮮の窓口としていたのは、北朝鮮の核兵器関連物資やIC機器の調達を行う部署、「第二経済委員会」だった可能性が、最も高いと、高沢氏は書いている。

 早川は、国際的な「死の商人」風のところがある。これに対し、村井は物理学の専門家であり、原発のデータを理解することができた。村井は早川とともに北朝鮮に渡航し、関係を持っていた。村井は究極の教団武装化として核開発を考えていた。北朝鮮も核開発のために、日本の技術とデータを必要としてオウムを利用していた。両者の利益は一致していたとも考えられる。

 オウムの一連の事件への「北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた」と高沢氏は言う。しかし、その真相は謎のままだ。北朝鮮は既に核兵器の開発を進め、既に数発の核兵器を持っているのではないかという観測がある。こうした国が連合赤軍など国際的なテロ組織とつながりを持ち、いや国際的なテロ組織を領導しようとしていたとすれば、どうだろうか。そうしたテロリストが、核兵器を掌中にしたならば、世界は震撼するだろう。勿論、掌中にあるのはサリンや生物化学兵器であるかも知れない。
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赤軍派とオウムを結ぶ線

 オウム真理教が一連の事件を起こしたのか。それとも、外国の工作や国内の諸団体の関与によって操られていたのか。

 高沢氏は北朝鮮の存在を重く見る。氏はオウムは北朝鮮に「徹底して領導され、誘導され、利用され尽くしたともいえるのでは」と高沢氏はみる。「サリンをはじめとした一連のオウム真理教のテロ事件は、日本攪乱工作(クーデター工作)の、いわば予行演習でもあり得たのである」と。首都中枢の霞ヶ関を狙ったサリン事件については、北朝鮮が「日本の危機管理のずさんさと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るためにこそ、攪乱工作の第一歩は必要だった」と述べている。

 もしそうだとすると、赤軍派・よど号犯グループは、こうした北朝鮮のオウム工作にどの程度関っていたのか。そして、重信ら日本赤軍はそれを関知していたのか。

 よど号犯グループは、中国北京を重要な拠点として活動してきた。平成八年の夏、重信房子は北京からひそかに北朝鮮に入国し、平壌で開かれた各国の革命を目指すグループの集会に参加したらしい。当然、重信はよど号犯グループメンバーと接触していただろう。

 日本赤軍の重信は、よど号犯グループが北朝鮮の国際工作員となっていることを知りながら、彼らとともに活動してきた可能性がある。それは同時に日本赤軍が、北朝鮮の対日工作や世界戦略に協力する、あるいは金正日の指令に従って動いてきたということを示唆する。

 実態はまだ明らかでないが、北朝鮮という国に重信や国際的なテロリストが集まるということは、当然、北朝鮮政府・指導部は、これを承知していたとみるべきだろう。北朝鮮政府は一体、何のためにこのような国際テロリスト集会を自国で開催したのか。そして、日本赤軍に対して何を提供し、また何を求めたのか。

 重信は北京を拠点として、日本や北朝鮮などでの活動をしてきたとみられる。果たして中国政府は日本赤軍やよど号犯グループと関りはないのか。

 今後、国際的な赤軍派の活動を解明してゆけば、オウム事件とそれに関る外国勢力の存在に、ぶつかるにちがいない。そこにメスを入れるとき始めて真相が見えてくるのではないのか。これは外交問題となることは必至である。

 いずれにせよ、やがて日本の政・官界の恥部や、暴力団などの絡む闇の権力が光に曝されるだろう。日本の背骨まで蝕むガンの病巣は、皮膚の下で破裂寸前にまで膨れ上がっているからだ。

(了)

(細井 保 (ジャーナリスト) 「重信房子、よど号犯、オウム真理教の深い関係」『動向』2001年1・2月合併号より)
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馬渕睦夫 deep state の世界を語る
朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてヤラセだった

北朝鮮も中共もアメリカが作らせた

ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた


[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学ぶ] 7 (日米近代史 1-3)
「 ロシア革命」と裏で支援した人達 - YouTube 動画
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[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
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[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
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[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
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[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
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[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
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戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO

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トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党大統領である。


進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選挙では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。

1885年にブリンマー大学(英語版)で歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州のウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。

1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration )において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ(英語版)と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。

合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家のクリーブランド・ドッジ(英語版)の協力なしには得られなかった。
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フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt [ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt], 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。

民主党出身の第32代大統領(1933年 - 1945年)


世界恐慌、第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。彼の政権下でのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国の経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される[3]。

ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領でもある。

その一方、日独伊の枢軸国勢力を敵視する一方でソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった。中華民国に対しては、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた上に、同国との利権も多かったために「中国びいき」と言われた。

ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のジョージ・ワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。

アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯[要出典]を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。

ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。

保守派の中でも、ロナルド・レーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。

ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。

また、最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民に強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判をまねいただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代のジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

在任日数4422日は、アメリカ合衆国大統領史上最長の任期である。
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若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
ttps://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE
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<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
ttps://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


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連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

ttps://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
ttps://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
ttps://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
ttps://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
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【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


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しかし、昔の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

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>重信房子の黒幕は、ユダヤ権力・勝共右翼の朝鮮人と見たほうが良さそうです。
>逮捕直前に重信房子が、四元義隆、後藤田正晴と会っていたというのだ。
>彼女は幼い頃にはしょっちゅう四元の膝の上で遊んでいたと言われる(ちなみに重信房子の父親は右翼・血盟団員)。
山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


田中清玄

田中 清玄(たなか せいげん、1906年3月5日 - 1993年12月10日)は日本の実業家、政治活動家、CIA協力者[1][2][3]。フィクサーともいわれる。

戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中清玄と南方哲也(元長崎県立大教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去。


生涯

少年期

1906年3月5日、北海道亀田郡七飯村(現七飯町)で出生。清玄は後年も会津の血を引いていることを誇りにしていた。

1919年4月、旧制函館中学に入学。亀井勝一郎 や今日出海や大野一雄とは同級生だった。上級生には「丹下左膳」を書いた長谷川海太郎やその弟の長谷川四郎、海太郎の従兄弟の久生十蘭がいた。

1924年4月、旧制弘前高校入学。

翌1925年、小樽高商軍事教練を廃止をめぐる小樽高商軍教事件が起きた[4]。田中清玄は弘前で廃止を訴えるビラをまき、最初の政治活動を経験。

このあと、仙台にある東北帝国大学の島木健作・玉城肇・鈴木安蔵を中心に東北学連がつくられ、水戸高の宇都宮徳馬・水田三喜男、二高から島野武・高野信、山形高から亀井勝一郎らが集まった。清玄は島野武や宇都宮徳馬と親しくする。宇都宮はのちにミノファーゲン製薬を創業、衆議院議員、参議院議員をつとめた。田中は後年、「宇都宮は事業的にも思想的にも天才で、ずいぶん厄介になった。親父は宇都宮太郎という陸軍大将で、親父の副官がしょっちゅう来ているから情報が入るんだ。日中友好協会なんかは彼のお陰です」と回想している。

また、田中はその後、青森県津軽の車力村という農村で車力農民組合を淡谷悠蔵[注釈 1]や大沢久明らと一緒につくったり、鈴木治亮や沼山松蔵(のちのクロレラ会社重役)と北海道に於ける最初の労働組合、函館合同労働組合を創設したりもした。

共産党闘士時代

1927年4月、東京帝国大学入学。亀井勝一郎とともに新人会入会[注釈 2]。
島野武(のち仙台市長)・大山岩雄・佐多忠隆・田中稔男・武田麟太郎・藤沢桓夫、大宅壮一とであう。清玄はのち大宅にも世話になり、大宅文庫設立のときに拠出金を出した。

同年9月、日本共産党入党。
活動用のペンネームは〈山岡鉄夫〉(山岡鉄舟にちなむ)だった。

空手部にも入部。渡辺政之輔からオルグの指導を受け、東京の第3地区委員長になる。

1929年東大文学部中退。

1928年の三・一五事件、1929年の四・一六事件による党指導部の崩壊をうけ、モスクワから帰った佐野博と田中、前納善四郎(東京合同労組フラクション)が指導部を構成し、同年7月頃党を再建する。

これ以降の3者指導下の党は通称「武装共産党」と呼ばれる[5]。

1930年1月、和歌山二里ケ浜で日本共産党再建大会。

田中はこれをきっかけに、コミンテルン国際連絡機関で中国共産党を経由したオムスのルートをつかって、資金・情報収集を始め、当時のコミンテルン執行委員会書記長並びにフィンランド共産党創立者オットー・クーシネン、コミンテルン極東部長カール・ヤンソンとも連絡をつける。


資金を得た田中は、党の武装化を進め、川崎武装メーデー、東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの暴動を既遂未遂した。

同年2月26日に和歌浦で共産党と官憲が銃撃戦になった和歌浦事件が起きる。

直後、清玄の母が自決。遺書に「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。自分は死をもって諌める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」とあり、子のための諌死だった。

清玄は衝撃を受け、苦悶するも、活動を休止せずに、同年5月、田中は日本共産党代表として、バイオリストに身をなりすまし、コミンテルン極東ビューローのあった上海に渡航。

同年7月14日、治安維持法違反で逮捕。


転向

1932年5月にはコミンテルンが32年テーゼを出し、「赤旗」1932年7月10日特別号に発表される。

スターリンは日本の極左冒険主義を批判、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。

1933年6月、党委員長の佐野学と鍋山貞親が獄中で転向声明を出した。
これは、ソ連の指導を受けて共産主義運動をおこなうのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動をおこなうという内容であった。
田中は「生涯で一番ぐらつき」、煩悶する。

同年、共産党活動家の小宮山ひでと獄中結婚。
ひではその後石橋湛山の東洋経済新報社記者として上海に赴任。尾崎秀実やアグネス・スメドレーと親交した。


1934年獄中で天皇主義者に転向。
田中は後年つぎのように回想している。

「幕末に朱子学と水戸学派によって著しくねじ曲げられた天皇だけが神であるというような狭隘な神道もまた、満足できるものでなかったことは言うまでもありません。

毛沢東を絶対視した中国の文化大革命などは、私にとってはまったく気違いのたわごとにすぎませんでした。

八百万の神といいますね、この世に存在するあらゆるものが神だという信仰ですが、この信仰が自分の血肉の中にまで入りこんでいて、引きはがすことができないと。そうしてその祭主が皇室であり、わが民族の社会形成と国家形成の根底をなしているということに、私は獄中において思い至ったのです。考えて考えて、考え抜いたあげくの結論でした」

「私の転向は母の死によってもたらされた心中の疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義、共産主義という抽象的観念を追い出した[6]」。

また、佐野たちを転向させた平田勲ら思想検事の「治安維持法違反の犯人、つまり日本共産党員から一人の死刑をも出さない」という姿勢にも感銘を受けていたという[7]。

龍沢寺と終戦工作

1941年4月29日、10年1ヶ月の刑期を終え出所。身元引受け人は内務省警保局長富田健治。

田中は明治神宮と皇居を拝したのち、5月1日に三島の龍沢寺の山本玄峰を訪ね、「自分の本当のルーツを発見して、マルクス主義や惟神(かんながら)の道などという狭隘で一神教的な道ではない、自分の本当に進むべき道を発見したい」と頼んだ[8]。

五・一五事件の法廷で井上日召の特別弁護人を引き受けたこともある山本玄峰は、刑務所で田中に法話をしていた。

田中に山本を紹介したのは血盟団事件に連座した四元義隆だった。

ほか、龍沢寺には、鈴木貫太郎、米内光政、吉田茂、安倍能成、伊沢多喜男、岡田啓介、迫水久常、岩波茂雄ら多くの人士が出入りし、多くが軍部を批判していたという。また玄峰は谷中の全生庵でも法話を行い、三井の池田成彬や侍従の入江相政らも訪れた。迫水久常は東条英機が老師に会いたがっていると言ってきたが、老師はその必要はないと断ったという。

田中は玄峰の秘書・用心棒を勤めた。

また1941年井上日召が海軍の 三上卓、四元義隆、菱沼五郎らと「ひもろぎ塾」を設立し近衛文麿前首相のブレーンとして活躍するが、この塾に田中も入塾している[9]。

1944年、土木請負や造船業を始め[10]、のちの神中組の基礎をつくる。
陸軍主導で作られた軍需国策会社であった昭和通商にも友人がおり、関係があった。

1945年1月、玄峰は公案に「日本をどうするか」を出した。清玄が「戦争をとめるしかありません」と言うと、「だめだ、練り直してこい」と却下。

三日たっても答えられないでいると、「無条件で戦争に負けることじゃ」と怒鳴られた。
本土決戦や聖戦完遂は、我執にとらわれているという。

これで清玄は国を救う決意がかたまり、神中組という結社をつくる。

また終戦工作に加担する。田中清玄は枢密顧問官の伊沢多喜男に相談。

3月25日、赤阪で山本玄峰は鈴木貫太郎と会談、「事態を収拾できるのはあなただ」と言った。やがて鈴木に終戦内閣の大命が下り、日本はポツダム宣言を受諾した。

天皇への進言

1945年10月、田中は朝日新聞の高野信に頼み、「週刊朝日」に天皇制護持についての文を掲載。「諸民族の複合体である日本が大和民族を形成できたのは天皇制があったからだ」という主旨だった。

当時は禁衛府長官だった菊池盛登がこれを読み、12月21日、田中清玄は生物学御研究所接見室に招かれ、昭和天皇に拝謁した。

石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、入江相政侍従らも同席、小一時間、清玄は退位なさるべきではないことを懸命に申し上げたという[11]。

このことを聞いた安岡正篤が田中に会いたいと言ってきたが、田中は安岡や近衛文麿が嫌いだったので、断ったといわれる[12]。

実業家時代

戦後は横浜で神中組を興し[13]、三幸建設に組み替え、戦災地復興、福島県矢吹ケ原開拓、岩手県釜石ロックフィルダム建設、沖縄では米軍土木建設の下請けなどを手がけた。神中造船、沼津酸素工業、三島木材、丸和産業、光祥建設、田中技術開発総合研究所など幾つかの会社を経営。

当時は、産業の重点がセメント・肥料・農薬の“三白産業”が集中していた時期で、日本興業銀行の中山素平のアドバイスでそれらに関する事業を手がけ、収益をあげる。

なお、このような戦前右翼活動を行ったものが戦後、経済活動に転換したものには、東亜連盟の山形県における西山農場、大東塾の大和公社、国粋大衆党の銀星デパートなどがある[14]。また、下山事件との関連が論じられている矢板玄の亜細亜産業にも顔を出していた[15]。

ほかにも、おなじ転向組である水野成夫とも親交があった。
また検察官である吉河光貞とは新人会以来のつきあいもあったといわれる[16]。


1949年、中曽根康弘が反共運動の一環で、群馬の労働運動の主力になっていた日本電気産業労働組合(電産)の切り崩しを行う。

9月には、700人の青年行動隊を偽名で各発電所に潜入させ、同年末から翌1950年10月まで、東京から田中、風間丈吉、佐野学、鍋山貞親らを呼んでスト破りをおこさせたという[17]。

赤阪氷川の勝海舟の屋敷跡を借りたり、朝日新聞の編集局長だった進藤次郎の屋敷で、日銀の法王といわれていた一万田尚登、民主党幹事長の苫米地義三、大蔵大臣の泉山三六などを招くなど社交にせいを出す。

三井の池田成彬からタイやインドネシアの戦後復興協力を要求され、引き受けた。

全学連への資金提供

1960年『文藝春秋』1月号に「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」という文章を発表。このなかで田中は

「全学連の指導的立場の諸君! 諸君の殆どが、日共と鋭く対立しつつ、新しき学生共産党とも云うべき共産主義者同盟を組織し、学生大衆運動の盛り上げに腐心して居ると聞くが、自分は三十有余年前、大正末期、未だ幼年期にあった学生運動を組織したものの一人として、更に、昭和三年(一九二八年)からは、日本共産党の指導的立場に在った者として、諸君の動向を目にし耳にするにつれ、諸君に訴えずには居られぬものを感ずる。」

と呼びかけ、

「甚だ諸君には御気の毒な事だが、日本の労働者大衆は誰れ一人として君等共産主義者同盟の考え方や、そのデモ闘争を支持しているものはないのだ。君等が自分自身で労働者大衆に支持されているかの様に思い込んでいるのは、とんでもない君等の自惚れだ。」

と批判し、

「政治と経済・文化を掌握して動かして行くものは、今日では最早、資本家でもなければ、プロレタリアートでもなくて、実に技術者を含めた経営者と称するインテリゲンチャーである」

と訴え、全学連の安保闘争に共感を示しつつ、その限界を批判した[18]。


これを読んだ全学連書記長島成郎が田中からの資金カンパを思いついて田中を訪い、田中は全学連の「反代々木・反モスクワ・反アメリカ」が気に入り、これに応じる。田中は次のように回想している。

「革命運動はいいんだ。帝国主義反対というのが、全学連のスローガンだった。しかし、帝国主義打倒というのを、アメリカにだけぶっつけるのは、片手落ちじゃないかと僕は言った。「ソ連のスターリン大帝国主義、専制政治はどうしたんだ」とね。

そうしたら、そうだと。それで、これは脈があるなと思って、資金も提供し、話もした。私のところにきたのは、島成郎です。最初、子分をよこしました。いま中曾根君の平和研究所にいる小島弘君とかね。東原吉伸、篠原浩一郎もだ。」 [19]。

全学連の唐牛健太郎らはのちに田中の企業に就職する[20]。
田中の秘書で日大空手部主将だった藤本勇をデモに派遣したりもした[21]。


1963年、TBSラジオが『ゆがんだ青春/全学連闘士のその後』(吉永春子)を放送し、島や唐牛らが田中から資金援助をうけていたことが報じられる[22]。

日本共産党は『赤旗』で、「右翼と結びついていた」として全学連を連日批判した[23]。後輩の柄谷行人も同主旨で批判した[24]。

島自身は田中との関係について、次のように回想している。

「スキャンダルめいて報じられた田中清玄氏との関係も、伝えられるような決して低次元のものじゃありません。まあ、発端は金でしたけれども。経緯を少し話しますと、当時の全学連はものすごく金がかかった。事務所も、自前の印刷工場ももっていたし、宣伝カーも調達しなければならない。(中略)

その頃田中清玄氏が、『文藝春秋』に学生運動に共感を示すような文章を載せたんですね。それを見て、「お、これは金になるかもしらん」といって、出掛けていったわけです。(中略)会ってみると田中氏本人は、どこにでも飛び込んで誰とでも仲良くなれるという、唐牛みたいな性格の人で、昔の血が騒ぐというのか、あとあとまで「オレが指導者だったら、絶対にあのとき革命が起こせた」としきりにいうくらい情熱的でした。

でも案外金がないらしくて、当時奥さんの胃潰瘍の手術費用にとっておいた何十万かを回してくれたんです。大口ではあったけど、大した金額じゃありません。それで私達の運動がどうなるというものでもなかった。これがキッカケになって、のちのち家族ぐるみというか、人間的な付き合いがつづいたわけです。[25]」

田中清玄銃撃事件

背景

田中は岸信介や児玉誉士夫らとは敵対しており、当時反共体制を作ろうとしていた岸・児玉派(自民党の福田篤泰や児玉誉士夫や河野一郎なども含まれる)への対抗も含め、全学連に加担していた。

児玉は全国の右翼と博打打ちを大糾合する東亜同友会を組織し、山口組の田岡一雄や林房雄をつかって田中懐柔の手を打つが、失敗。

田中は三代目 山口組組長田岡一雄と仲がよかった。
もとは田中の身元引受け人だった富田健治に、横浜で海運業をやっていた佐藤軍次を紹介され、その佐藤から京浜一帯の沖仲仕の総元締で大親分だった藤木幸太郎を紹介された。戦後の京浜地区は鶴見の埋立てをめぐって、土建業松尾組の松尾嘉右衛門と、藤木が対抗していた。

藤木はのちに、日本海運協会、日本海運共同組合をつくる。藤木は日本海運協会会長に田岡を立てようとするが、田岡は固辞。このときに、田岡と田中は知り合い、田岡は政治は田中に任せ、自分はヤクザを取り仕切ると決めた[26]。

1963年3月のグランドパレス事件を経て、児玉と対立していた田岡は、反児玉派の田中とともに、児玉らの東亜同友会に対抗して、1963年4月、市川房枝、福田恆存、山岡荘八、菅原通済らを立て、麻薬追放国土浄化同盟[27](後の全国国土浄化同盟)を作り、キャンペーンを行った。麻薬追放国土浄化同盟の総本部は、兵庫県神戸市中央区橘通の山口組本部に置かれた。

当時マスコミは「山口組全国制覇のための巧妙なカムフラージュ」と書き立てたが、田中は「これだけ麻薬がはびこったのは、警察とジャーナリズムと、そして政治家の責任だと言いたい。

世の中に悪いことをやっているのはごまんとおります。暴力団にも警察官にもおる。しかし一番許せないのは政治家だ。

竹下、金丸、小沢と、こういう連中に牛耳られた自民党の国会議員は、いったいどうなんだ」

として後に反論している[28]。

結果、児玉誉士夫の東亜同友会構想は頓挫し、田岡一雄と稲川裕芳の対立は決定的となった。

同1963年11月9日午後4時から、東京丸の内の東京會舘で、立教大学総長の松下正寿が発起人となって、評論家高谷覚蔵の出版記念祝賀会が開かれた。田中清玄は祝賀会に出席した。

同日午後6時9分、出版記念祝賀会が終了し、田中が玄関前で、タクシーを待っていたところ、東声会組員・木下陸男に狙撃された(田中清玄銃撃事件)[29]。3発の銃弾が腹部、右腕、右手首に命中して、田中は重傷を負い、聖路加病院に搬送。ウィスコンシン大学病院で銃撃された患者を6年間に数百人手術していたという医師牧野永城の手術を受け、一命を取り留める。

詳細は「田中清玄銃撃事件」を参照


供述で木下は、「町井久之会長が、田岡一雄組長の弟分になったが、10月ごろ『田中清玄が三代目山口組を利用して関東やくざを撹乱しようとしている』との風評がたったため、町井久之会長が非常に苦しい立場追い込まれると思い、襲撃した」とのべ、丸の内警察署は背後関係を疑い、町井久之を銃砲刀剣類所持等取締法で別件逮捕した。

だが、背後関係までは立件できず、町井は起訴されなかった。田中清玄は自伝で

『木下陸男は、児玉誉士夫からの差し金で、金をもらってやった』

と述べている。

オットー大公とハイエクとの親交

田中は池田成彬の紹介で、汎ヨーロッパ主義者のリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと汎アジア主義者の鹿島守之助と親交をむすび、汎ヨーロッパ運動を推進していたハプスブルク=ロートリンゲン家家長のオットー大公を紹介された。

オットー大公は戦前にオーストリア皇位継承権を放棄して、反ファシズムを表明、戦後は欧州統合運動の推進役となった。経済学者フリードリヒ・ハイエクにはオットー大公から紹介された。

田中はオットーに勧められ、1961年自由主義運動を推進するためにハイエクが組織したモンペルラン・ソサイエティーに入会した。

ハイエクは社会主義とケインズ経済学の両方を批判していて、田中は、とくに人為的な信用によって一時的に景気を上昇させても、それによっておこる相対的な価格体系の混乱はやがて景気を反転させるという思想に共感していた。

1974年2月10日、ハイエクのノーベル賞授賞式ではパートナー役をつとめる。
メインテーブルに招かれた日本人は田中清玄だけだった。

1978年、田中は来日したハイエクを伊豆の自宅に招き、奈良に付き添って刀工の月山貞一のところを訪れたり、ハイエクと人類学者・今西錦司の対談を企画[注釈 3]。1991年12月4日にはオットーと宮沢喜一首相の会談を実現させた。

石油交渉

インドネシア

石油に含まれる硫黄による大気汚染で困っていた日本にとって、硫黄が少ないインドネシア産の石油は重要なものだった[注釈 4]。すでに岸信介・河野一郎らはスカルノと組んでいた。

田中は反スカルノ派のスハルト将軍と組もうと考え、アラムシャ中将に、インドネシア国営石油会社のプルタミナの石油を日本に売ってくれと頼んだ。

土光敏夫、中山素平、トヨタ自販の神谷正太郎らとともに「ジャパン・インドネシア・オイル」を設立した。

通産大臣の田中角栄には「あんたを支えているのは両角良彦事務次官(オイルショックを切り抜けた通産官僚)と小長啓一秘書官(のちの『日本列島改造論』の実質執筆者の一人)くらいで、まわりはこのままだと岸一派にやられるぞ」と説得したところ、事業を承諾した[30]。


アブダビの海上油田開発

アラムシャ中将の紹介で、アブダビのザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーン(シェイクザイード)首長に接触した。シェイクザイードはアブダビだけでなく同一種族のドバイ、アジマーン、シャルジャ、ウムアルカイワン、フジャイラ、ラスアルハイマ、カタール、バーレーンの湾岸一族を集結させた汎アラブ主義の共同体を考えており、そこに田中は惹かれたという(のちカタール、バーレーンは連邦結成協定に反して独立を選ぶも他はアラブ首長国連邦となる。カタールの国王とも田中は交流していた)[31]。

のち日本はアブダビの海上油田開発に参加。1967年から1969年にかけてアブダビのシェイクザイード首長と何度も会見、その後アラブ諸国を十三回にわたり訪問するなど深い親交を築きあげ、中東石油を日本に持ち込む橋渡しを為し、オイルショック時の危機を救った(カタールとアラブ首長国連邦の最大の輸出相手国は日本である)。

北海油田

田中角栄が首相になってからは、北海油田の開発に関わり、日本が北海油田に参加して採取した石油をアメリカに渡す代わりに、アラスカのノーススロープ油田と、BP(ブリティッシュ・ペトロリアム)とエクソンが掘削中の油田に日本も参加させろというスワップ方式の提案を行い、BPのアースキン卿も賛同したが、事前に情報が漏れたため破談に終わった。田中はその漏洩が日本精工の今里広記によるものと考えていた。

アジア連盟

1980年4月、50年ぶりに訪中、ケ小平と会見。

1時間半にわたって話しあい、アジア連盟の構想を提起した。
また天皇訪中を中国側にもちかけたのも田中だった(日中友好協会の孫平化会長が1992年に証言している[32])。

同年6月、インドネシア・スハルト大統領と会見。ASEANの盟主であるインドネシアと日本と中国によるアジア連盟の必要性を訴えた。その後、インドネシアと中国は大喪の礼での弔問外交を機に東京から国交正常化を始め[33]、韓国も加えて日本と中国とASEANは東アジア共同体を目指すASEAN+3を結成した。

発言

以下、すべて『自伝』による。

尊敬している右翼は橘孝三郎と三上卓だけだといい、児玉誉士夫はもちろん、赤尾敏や野村秋介は小物としてかたづけた。

右翼で最も近しかったのは四元義隆で、のちに松永安左エ門の助言で、三幸建設を譲っている。

「あんた、なんだと聞かれたら、本物の右翼だとはっきり言いますよ。
右翼の元祖のようにいわれる頭山満と、左翼の家元のようにいわれる中江兆民が、個人的には実に深い親交を結んだことをご存じですか。一つの思想、根源を極めると、立場を越えて響き合うものが生まれるんです。

中途半端で、ああだ、こうだと言っている人間に限って、人を排除したり、自分たちだけでちんまりと固まったりする」


「政治家なら国になりきる、油屋なら油田になりきる、医者ならバクテリアになりきる。それが神の境地であり、仏の境地だ」

「いま最も知りたいことはビッグバンがこの世に本当に存在したのかどうかということです。もうひとつは遺伝子工学に関すること」霊長類学者の河合雅雄の話を出して、「どうも人間だけが生物界と異なることをしているのが気になってしょうがない」

「児玉誉士夫を最初につかったのは外務省の河相達夫だろうが、それに鳩山一郎・三木武吉・広川弘禅・大野伴睦がくっついたのはどうしようもない」

「岸信介がだめになったのは矢次一夫のような特務機関屋をつかったことだ」(矢次は国策研究会の中心人物で、岸の密使として李承晩と会談した)

「後藤田正晴にはとくに魅力を感じないが、応援演説ではアジアに関心があるかぎりは応援する」

「日本はあと50年アメリカと組んでいくなどと言っている小沢一郎のような考え方と正面から対決していくべきだ」

「靖国神社に政治家が大挙して参拝するのはとんでもないことだ。まして天皇陛下の参拝を要請するなんてのは愚の骨頂だ」

(敗戦直後に、数珠を持って靖国神社に礼拝しようとした清玄に、神官が数珠は認められないと強要。清玄は一喝、二度と靖国へは行かなかったという)。


家族・親族

田中家

祖先には「田中正玄」や「田中玄宰」また「田中土佐」の名で知られる会津藩家老田中玄清。玄清は会津藩主松平容保が京都に赴いたときに従い、警備のための市中見廻り組をつくった(のちの新選組の母体となる)。

家老田中玄清の下に蝦夷地常詰若年寄の田中玄純(はるずみ)がおり、その子が田中源之進(玄直:はるなお)。

おなじく会津藩若年寄だった田中源之進は会津戦争の母成峠の戦いで大鳥圭介とともに砲兵隊長として指揮を執る。廃藩置県後は、函館市相生町七飯(ななえ)村に移り、開拓使の畑や実験農場をつくっていた。
田中清玄の曾祖父にあたる。

妻・ひで(長野県南佐久郡佐久穂町出身、元日本共産党活動家)

次男・愛治(第17代目早稲田大学総長、政治学者)


著書

世界を行動する(1983年4月、情報センター出版局)
統治者の条件―日本人は何をなすべきか(1983年10月、情報センター出版局)
田中清玄自伝(1993年9月、文藝春秋、聞き手:大須賀端夫)ISBN 4163475508 田中清玄自伝(ちくま文庫)(2008年5月8日、筑摩書房(ちくま文庫))ISBN 4480424407

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B8%85%E7%8E%84


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山下太郎 (アラビア石油)

山下 太郎(やました たろう、1889年(明治22年)4月24日 - 1967年(昭和42年)6月9日)は、日本の実業家。その業績から「満州太郎」「アラビア太郎」などと呼ばれた。

楠木正成の子孫楠木正具の子孫にあたり、「楠木同族会」の初代会長を務めた[1]。

出生・札幌農学校時代

秋田県平鹿郡大森村(のち大森町、現・横手市)に近藤正治・みつ夫妻の長男として生まれる。太郎の祖父母にあたる山下太惣吉・ひさ夫妻の養子となり、山下姓を名乗る[2]。祖父はまもなく死去し、祖母の手で育てられた。大森小学校4年を修了し、東京の実父母の元で慶應義塾普通部に通った。その後北海道帝国大学農学部(旧札幌農学校、現北海道大学)に入学、北海道に渡った。

北海道帝国大学時代、のちに北海道学芸大学(現北海道教育大学)および帯広畜産大学の学長を務めた農学者の田所哲太郎(秋田県能代の出身)と知り合い、親交を深めた[注釈 1]。明治42年(1909年)3月、北海道帝国大学農芸学科を卒業[3]。道産品のアメやバターの改良を手がけたりしながら、従兄の山下九助とともにオブラートの新しい製法を発明し、特許を得た[3]。

山下商店の発展と太平洋戦争

大正3年(1914年)、白石元三郎(日本鋼管社長)の後援を得て山元オブラート株式会社を設立する[3]。これが山下の実業家としてのはじまりであった。こののち鈴木菊次郎からオブラート製造の特許を取得、会社はキャラメル包装などで業績は良好、会社も黒字となったが、山下は海外貿易に意欲を示し、その資金調達のため5,000円で権利を売却した。

第一次世界大戦が勃発すると、ドイツから輸入していた硫安がストップしたため、アメリカからの輸入を試み成功、巨利を得た。大正5年(1916年)小島文子と結婚し、東京深川に「山下商店」を設立[3]。穀物・鉄鋼の海外貿易に目を向けて奮闘し、わずか28歳にして数百万円の財を成している[3]。同年、ロシアのウラジオストクで鮭缶の買い占めに成功するが、ロシア革命のあおりで地方新政権が船積みを許可せず、外務秘書官(当時)の松岡洋右の協力でようやく船積みの許可を得ている。

一方、大正7年(1918年)に日本国内では米価が暴騰、米騒動が各地に発生したが、山下商店は外米の輸入に取り組み上海で江蘇米を調達する。しかしその契約を密輸だとして原則論を強硬に主張する有吉総領事の妨害で輸入は失敗に終わった。大正9年(1920年)には南満州鉄道(満鉄)消費組合と5万石の納入契約を結ぶが、満鉄側が契約を一方的に破棄し大損害を被る。また友人の渋沢正雄が1トン当たり1,075円で1万トンの鉄材購入契約を行ったが、戦後恐慌で1トン当たり75円に暴落、連帯責任者として大負債を負った。ほとんど破産の状態であった。しかし、満鉄経営に新体制が敷かれ、旧知の松岡洋右や長野護が着任したことで山下商店は息を吹き返した。

大正11年(1922年)、事業家としてふたたび満鉄事業に関係し、開拓企業を助けた[3]。大正13年(1924年)、満鉄は上述の米の契約で山下に損害を負わせた代償として社宅建設管理契約を結び、山下商店は満鉄本社(大連市)の社宅2万戸の建設と管理を包括受注した[3]。これにより、山下は「満洲太郎」と呼ばれるようになり、以後、彼の事業網は日本国内はもとより満州、中国、朝鮮、台湾まで拡大した[2][3]。

昭和11年(1936年)、故郷の秋田県大森町に山下学館を寄贈している[3]。また、翌昭和12年には、楠木同族会の会長として兵庫県神戸市の湊川神社に大鳥居を寄贈した[1][3][注釈 2]。

戦前期の山下は、日魯漁業、日東化学、日本軽金属など数多くの会社に関係した[2]。しかし、昭和20年(1945年)の太平洋戦争敗戦で在外資産はすべて没収されてしまった。なお、山下は大正15年から終戦までの20年間にわたって郷里の大森町に奨学金を寄付しつづけている[3]。

アラビア石油の創立

戦後は日本の復興のために石油資源の獲得に奔走、昭和31年(1956年)、日本輸出石油株式会社を創立し、翌1957年にペルシャ湾海底油田の開発利権を獲得して1958年「アラビア石油株式会社」を創立した[3]。山下は、産業の根幹をなす石油が100%アメリカ合衆国の供給と統制に依存している現実を危惧しており、日本国政府・財界等の要路をまわり、経済発展のため日本が自前で確保するよう説いて回ったといわれている。世界の予想に反して、サウジアラビア、クウェートの両国から採掘の利権を獲得したが、とくにクウェートが数多くのライバルの中から日本に権利を与えたのは、山下の努力・人柄もさることながら、欧米諸国に対するアラブ人たちの民族感情が左右していたともみられている。

山下が苦心して採掘権を得て設立したアラビア石油は1960年1月31日、1回目のボーリングで大規模海底油田(日産1,000kl)を発見した[3]。これが、カフジ油田であり、世界第1級の大噴油について「アラビア太郎、100万ドルの笑顔」と世界中で報道された[3]。以降も順調に石油メジャーに拠らない「日の丸油田」と呼ばれる油田の発見と採掘・輸出を進めた。

山下太郎は心筋梗塞のため昭和42年(1967年)、78歳にて死去した。周囲にのこした言葉は「俺はまだやることがある」であったという。故郷の横手市大森町大慈寺に墓がある[注釈 3]。死後、民間人としてはめずらしい従三位勲一等瑞宝章が追贈された[2]。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E_(%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E7%9F%B3%E6%B2%B9)


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本赤軍のテルアビブ空港襲撃事件が世界中に大きな衝撃の理由は
イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。

従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? 

そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。


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6.日本赤軍の事件

 昭和44(1969)年11月、山梨県大菩薩峠で軍事訓練を展開しようとしていた赤軍派は、大量検挙によって潰滅状態に陥った。

 この勢力が衰えた赤軍派を、海外の軍事的反体制勢力と提携して組織を再建するため、重信房子と奥平剛士は昭和46(1971)年2月、偽装結婚してパレスチナ入りした。そしてPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の庇護、支援の下で、海外赤軍派をつくった。海外赤軍派は、当初、アラブ赤軍、赤軍派アラブ委員会といっていたが、74年以降、日本赤軍を名乗るようになった。

 1972年春、日本では連合赤軍の大量リンチ殺人事件が明るみに出て、極左武装集団に対する国民の支持は完全に失われた。そしてその頃、北朝鮮では金日成が、日本からハイジャックにより入国してきた赤軍派客人たちの利用法を考えていた。


●テルアビブ空港襲撃事件

 このような状況のもと、海外赤軍派が起死回生の思いで引き起こした事件が、テルアビブ空港襲撃事件である、と私には思われる。その結果は、世界中に大きな衝撃を与え、いろいろな意味においてこの事件は、70年代以降の反体制テロ活動の端緒となる画期になったといえる。 まず事件の経過を簡単に述べる。

 昭和47(1972)年5月30日、海外赤軍派の奥平剛士、安田安之、岡本公三らが、イスラエル・テルアビブのロッド国際空港(=現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルを自動小銃、手投げ弾などで襲撃して、死者24人を含む100人以上を殺傷した。奥平と安田はそこで射殺され、岡本は逮捕された

 このテロ事件は、いろいろな意味で世界中に大きな衝撃を与えて、日本赤軍の名を世界中に広める事になった。

 その大きな衝撃の理由の一つは、イスラエルとパレスチナの紛争に、全く利害関係を持たないはずの日本の極左組織が、命を掛けて参加した理由が分からないことである。

 彼らは宗教的にイスラム教を信奉しているわけでもないし、命をかけるほどの利益があるわけでもない。従がって、イスラエルの空港に日本赤軍と称する組織が命がけの攻撃をする理由は、西洋人は勿論、中東の人々にも理解できなかった。

 現在、中東のゲリラで一般的に行なわれるようになった「自爆テロ」という形式の第1号が、この事件である。それはさらに、日本の「特攻隊」に原型があると私は思う。

 しかし何故、日本赤軍は、自分たちの命を犠牲にしてイスラエル空港を攻撃したのか? そしてそれに輪を掛けて理解できなかったことは、日本政府がこの襲撃事件に遺憾の意を表明して、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払ったことである。

 このことは、国際的な理解からいえば、日本国が意識的に超過激派を海外に輸出したことを、国家自身が認識していることを表明したことになる。

 (そのことは、ハワイ大学の教授・パトリシア・スタイホフの著書「日本赤軍派」(河出書房新社、1991)の中の「日本人の責任意識」に詳述されている。)

 誰もその責任を指摘していないにも拘らず、日本政府は超過激派を海外に輸出した国の責任を、世界中に表明した。

 これは通常の国の政府にとっては理解不能のことであり、そのことが世界中の人々を驚かせた。

 そこで「偉大なる金日成首相」は、早速、北朝鮮に来ている日本赤軍のメンバーに、このフシギな中東の日本赤軍を自国に取り込む事を指示した。


 
●海外の日本赤軍とその事件

 国内の日本赤軍は、連合赤軍事件により壊滅し、1970年代の前半以降、赤軍派の勢力は急速に衰えていくが、海外においては、70-80年代にかけて日本赤軍によるテロ活動はかなり活発化する。その主要なものを図表-3にあげる。


図表-3 日本赤軍などによる海外での主要なテロ活動
ttp://www.araki-labo.jp/samayoe017.htm


年月 事件名 事件の主体 事件の概要

72.5.30 テルアビブ空港襲撃事件 まだ日本赤軍と名乗っていない 日本赤軍の奥平剛士、安田安之、岡本公三らが、イスラエルのテルアビブの空港を自動小銃と手榴弾で攻撃、民間人100名以上を殺傷し、岡本公三は逮捕され、残りの2名は自決した事件。このときには、未だ日本赤軍を名乗っていなかった。

73.7.20 日航機ハイジャック・ドバイ空港に着陸 PFLP 丸岡修と4人のPFLPのメンバーが、パリ発・東京行きの日航機をハイジャック。ドバイ、ダマスカスを経由してリビアのベンガジ空港へ向う。ベンガジ空港で乗員・乗客141人を解放後、機体を爆破して投降した。

74.1.31 シンガポール シェル石油襲撃事件 日本赤軍とPFLP 日本赤軍の和光晴生、山田義昭とパレスチナ・ゲリラ2名が、シンガポールのシェル石油の製油所を爆破。乗員を人質にフェリー・ボートを奪取。

74.2.6 クウェート日本大使館占拠事件 PFLP PFLPのゲリラ5人がクウェートの日本大使館を占拠。大使ら16人と引き換えに和光らシンガポールのゲリラを移送させて、合流。のちアデンで投降。

74.9.13 ハーグ事件 日本赤軍 日本赤軍の西川純、奥平純三、和光晴生の3人が、オランダ・ハーグにあるフランス、アメリカの大使館を占拠して拘束されたメンバーの解放を要求。フランスは、超法規的措置として逮捕していたメンバーを釈放した。

75.8.4 クアラルンプール アメリカ大使館占拠事件 日本赤軍 マレーシアの首都クアラルンプールのアメリカ、スウェーデンの大使館を占拠し、アメリカ総領事を人質にとり、赤軍派などの釈放を要求。日本政府は超法規的措置として日本赤軍西川純、戸平和夫、赤軍派 坂東国男、松田久、東アジア反日武装戦線 佐々木規夫を釈放。赤軍派の坂口弘は釈放を拒否。

77.9.28 日航機ハイジャック、ダッカ事件 日本赤軍 日航機がインド・ボンベイ空港を離陸後にハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸。超法規的措置と日本赤軍・奥平順三、東アジア反日武装戦線・大道寺あや子と浴田由紀子、赤軍派・城崎勉、獄中組合・泉水博、仁平映を釈放。600万ドルの身代金を支払う。

86.5.14 ジャカルタ事件 日本赤軍? アメリカ大使館にロケット弾が発射され、発射元のホテルから城崎勉の指紋が検出された。

86.11.15 三井物産支店長誘拐事件 フィリピン共産党・新人民軍 三井物産支店長がフィリピン共産党の新人民軍に誘拐され、身代金を要求された。1991年に犯人たちは逮捕されたが、そのとき日本赤軍の協力があったことを供述。

87.6.9 ローマ事件 日本赤軍 ベネチアサミットの開催中、ローマのアメリカ、イギリス大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館で車が爆破され、「反帝国主義国際旅団」の名で声明が出された。イタリア公安当局は、日本赤軍の奥平純三の犯行と発表した。

88.4 ナポリ事件 不明 イタリア・ナポリのナイトクラブ前に駐車していた車が爆破され、民間人、アメリカ兵など5名が死亡した。日本赤軍はこの犯行を否定している。


●黄昏の「新左翼」

 1960年安保反対の国民運動の中から誕生してきた「新左翼」は、70年代の内ゲバと連合赤軍事件により国民の支持を失った。

 さらに70-80年代に繰り広げられた海外の日本赤軍の事件は、独善的な「世界革命」の視野に立っていたことから国民的支持を得る事は難しく、80年代を通じて「新左翼」の運動は根無し草のような状態に落ち込んでいった。

 このような左翼勢力の後退は、80-90年代におけるソ連を中心にした社会主義体制の崩壊により、さらに決定的なものになった。そしてそれに代わって、西欧、アメリカ、日本などにおいて、新保守主義への歩みが加速していった。
 
 日本では、1960年以降、新右翼、新左翼の流れは時と共に衰退して、保守中道の自民党系の政治勢力のみが、激動する世界の中を生き延びる結果になった。それは明治政府が、自由民権を弾圧し、最後に大逆事件により反政府運動に止めを刺したが、勝ち残った政府側も明治末年には国家破産の状態に突入していたのに似ている。
 
 そこでは政治家、官僚たちの腐敗・堕落が目を蔽うばかりに広がり、戦後に作られてきた教育、福祉をはじめとする社会的システムは、すべて劣化・崩壊の危機にさらされるようになった。

 さらに国家財政にいたっては、政府の誤った国家政策の結果、国民1人あたりの負債が1千万円に達し、1945年の敗戦時よりも悪い状態に落ち込んだ。それは、最早、自力再建は不可能といえる状態にある。

 戦後、作り上げられた議会制民主主義は完全に形骸化して、日本中で支持政党をもたない人々が最大多数を占める状態になってしまった。このような状況で、左右の政治勢力が衰退したことは、国民の将来に対する政治的期待や展望を全く失わせる閉塞的な状況になってきている。
ttp://www.araki-labo.jp/samayoe017.htm

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昔の左翼の学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

1970年代は科学的社会主義とかいうのが流行っていて、
唯物弁証法とかマルクスやレーニンの理論が既に科学的に証明されたと思っていたアホ左翼が沢山いたのです。


赤軍派議長の塩見孝也なんか 2017年11月に死ぬまでずっと 世界同時革命とか叫んでましたからね。


当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。






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なぜ連合赤軍とオウム真理教は敗北したのか
ttps://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926


戦後日本における大きな反体制組織と言えばあさま山荘事件を起こした連合赤軍と、その後に登場するオウム真理教だろう。

20世紀の喧騒を象徴する2つの組織、そしてあさま山荘事件と地下鉄サリン事件という2つの事件に関与している。

21世紀になってからは同時多発テロがアメリカで起き、その後現在のISIS系のテロが欧州で頻発しているが日本からはどこかそういった反体制運動は消滅しつつある。

むしろ日本の右傾化が進み、比較的政治的にも治安的にも安定するようにはなったというのが大きな流れだ。

連合赤軍とオウム真理教の敗北というのは、左翼の敗北、そして宗教の敗北だったと見ることもできる。「反体制」で勝つことはできないということが彼らが残した歴史的な意味合いだろう。

日本で反体制勢力は大きな戦力を持つ事ができず権力を打倒できないことに気付いたため、その後大きな動きは起きなくなっている。

結局のところ自動小銃を密造しようとしたが試作品を作ることが精いっぱいだったオウム真理教、猟銃で少数の人間が訓練することしかできず内ゲバで瓦解した連合赤軍、彼らは必然的に敗北した。

またオウム真理教は選挙に出馬するが惨敗し結局地下鉄サリン事件のようなテロリズムに走っていき、日本で左派政党が政治的に勝利することは限られた回数しかない上にやはり「政権交代」はそれぞれ敗北した。

宗教アレルギーだと言われる日本でオウム真理教が勝利することは難しく、同時に「日本の左翼はレベルが低い」と言われるように高度な政権運営を行う事は出来なかった。

自民党や官僚という体制は非常に強固であり、今後何かの革命を起こそうとするならば権力者側や体制側に活路を見出さなければならないだろう。

オウム真理教にしても連合赤軍にしてもそれほど大きなことは成し遂げることができず、簡単に体制に滅ぼされてしまった。

せいぜいちょっとした反抗期だった少年が教師や親に大人しくさせられたように、その後日本から何らかの抵抗運動は消滅する。

オウムのハルマゲドンは東京上空からヘリコプターでサリンを散布する寸前まで行ったか結局その試みは阻止され、今では「ひかりの輪」が細々と存続している程度でしかない。

連合赤軍を始めとしたあの頃の極左や学生運動というのも80年代に入れば消滅していくことになる。

東アジア反日武装戦線は三菱重工爆破事件を起こしたが、こちらの知名度は非常に低く社会的なインパクトはなかった。

その後何らかの抵抗運動といえば、ネオ麦茶事件や宮崎勤、酒鬼薔薇聖斗、秋葉原加藤とやまゆり園植松が登場するが彼らの個人的な衝動は社会を変革させることができなかった。

結局そういった抵抗は個人や地下組織では限界があり、やはり政権を掌握しなければナチス・ドイツやソビエト連邦のような事はできない。

少し爆破したり、路上で誰かを刺殺したすること程度の規模で終わってしまう。

現在ISISが自動車を使ったテロを実行しており、そちらは規模が巨大化しているがそれでも数十人が限度だ。ノルウェーでも銃を乱射したテロがあり、この時は「FPSならこのキルレシオは驚異的」と言われていたが、革命に匹敵する変革を起こすことには失敗した。

秋葉原加藤は騒がれたが、やまゆり園植松は既に風化しているように、現代からそういうった反抗や反逆を賞賛するムードは消滅しつつある。

「大人しい事」や「怒られない事」が最適解になり、連合赤軍とオウム真理教が敗北したことで誰も似たような事をやらなくなった。

更に個人的な反抗ですら今では社会に大きなインパクトを与えられなくなっており、抽象的な見方かもしれないが「熱量」自体が世の中から消えている。

かと言ってそのような行動を美化するわけではない。

大東亜戦争末期の特攻作戦を美化したところで、それは軍事的に敗北だったとしか言いようがない。特攻作戦に従事した青年や、オウム真理教の信念に共感した純粋な信者や、革命による変革に社会の理想を求めた連合赤軍構成員の個人の心意気自体はもしかしたら美しかったかもしれないが軍事作戦や革命行動としては敗北している。

またISISの散発的な自動車テロでも彼らが掲げるイスラム領土の再獲得を実現できるとは思えない。

ただ単に路上で車を暴れさせて終わりではなく、「戦車戦」や「戦略爆撃」、「本土決戦」をやる領域に入っていかなければならないと自分は考えている。個人が銃を乱射して一般市民を巻き込むという事も非常にレベルが低い話であり、そもそもテロという手段が間違っているだろう。

「もっとデカいことをやりたいけど、仕方ないからテロをする」という事例が今までの出来事であり、彼らはナチスやソ連にはなることができなかった。

モンゴル帝国、オスマン・トルコ、大英帝国、オランダ海上帝国、スペイン太陽帝国、大東亜共栄圏、ソビエト社会主義共和国連邦、ナチス・ドイツ、そして超大国アメリカ合衆国、そのレベルのことをやろうとしている人間がたかが少し一般市民を攻撃するだけのテロで終わってはいけないと自分は考えている。

しょぼいテロで終わりたいわけではなく、オウムや連合赤軍程度の小さい反抗で終わりたくもない。

ソ連やナチスドイツという虐殺国家、そしてイギリスとアメリカというアングロサクソンによる二大巨悪、スペインとモンゴルという二大畜生、日本をそのレベルに到達させようとした場合大東亜共栄圏や満州国が限度だったというのはどうしても規模が小さい。

実は日本がもっとも世界的に存在感を示したのは太平洋戦争ではなく、ジャパンアズナンバーワンに始まる1980年代の好景気の時代であり軍事よりも経済で世界を制圧した。

その理論を応用するならば次なる革命は「ペンは剣より強し」という考え方に基づき「言論」による変革、そして体制側の人間を取り入れなければならない。

そういった日本の黄金期時代を経験したことが無いバブル崩壊以降のゆとり世代としてはどうしてもそのことを寂しく感じてしまう。

明治維新を実現した幕末の世代や、戦後復興を支えた世代に比べて、「最近のゆとり」というのはどうしてもやることが小さいと言われても仕方がない。

おそらく「大日本帝国越える国作ろうぜ」と考えている自分のような人間は希少であり、そうんなことすら誰も考えていないんだろうなということに疑問を感じる。

それはおそらく中二病であるが、「デカい国」を作ろうとするような若者が台頭し始めてきたのが過去の歴史でもある。

「明治維新や昭和維新をやろうとしていた時代の若者すげぇ」と思うし、戦後昭和の世代もエネルギーも半端無い。

そういう世代を見ているとゆとり世代の一人として虚無感があり、この世代って歴史において何も残らないんだろうなという諦めにも似た感情がある。

ただ単に衰退していく日本に巻き込まれ、反抗もできず、いや抵抗すらせず大人しく消えていくのがゆとり世代なのだろうか。

情熱的になることも反抗することもダサいというひたすら大人しい世代になりつつあることに寂寥感を抱かずにはいられない。

世間的には大人しいと言われていたオタクがアニメや漫画の世界だけでは派手にやっていた時代すら終わり、最近では日常アニメに代表されるように創作の中ですら大人しくなり癒しばかり求めている。

エヴァンゲリオンやコードギアスすらなくなり、日常アニメに癒ししか求めなくなった姿を見ると日本人の情熱はどこにも存在しなくなっているだろう。

アイドルも「自分でも手が届きそう感」を重視するようになり、もはや親近感のあるユーチューバーの時代になってきている。

「その辺の普通の人たち」やありふれた日常の幸せに癒しを求める時代が到来している。

日本人の夢や希望、野心や反抗意識、そういったあらゆるものが小さく大人しくなってきている。

不良も人を殴らず窓ガラスを割らず、非行に走らず、ネットユーザーも民度が高くなりオタクは創作の中ですら大人しくなり、富や発展を求めなくなっていく。

「諦めムード」があらゆるものを支配していくのが今の日本文化なのだろう。

現実では駄目だけどアニメやアイドルには華やかなものを求めようとしていた人達すら少なくなり、自由にできる世界ですら現実や日常を求めるようになった。極左も大人しくなりシールズのようにカジュアルに騒ぎたいだけであり、過激な宗教家や新興宗教も減っている。

天理教や創価ですら深刻な信者離れや二世、三世の離脱が進んでいる。

むしろ元気なのは近隣諸国や新興国であり、日本に憧れる海外のオタクや先進文化に憧れる人々も減りつつある。仕方ないからクールジャパンと宣伝し、日本スゴイデスネーの発言を求める番組が増えているが、現実には街の綺麗さや水道水の美味しさ、治安の良さぐらいしか誇る物が無くなってきている。

その一方で中国に敵うわけがないという考えが当たり前になっており、韓流も捏造だとは言えなくなっているほど浸透している。

そしてそこに悔しさを感じる人すら減り、日本がオワコンだということを誰も疑問視しなくなる段階に入り始めている。

そんなムードの時代に「革命と戦争しようぜ、大日本帝国越えようぜ」と言ってる人間がいたとしても、電波で誰も本気に思わないのは仕方がないのだろう。

反逆に憧れず、日常で満足して、もはや想像や妄想をするエネルギーすら残されていない程に日本人は疲弊し老化しているというのが日本の現実なのだ。

みんな忙しいし革命どころじゃないし、癒しを求めるのが精いっぱいでそれすら手が届きにくくなっている。

高級車や豪邸に憧れるエネルギーも無くなっている世代が「大国の建国」という壮大なものを求めなくなるのは必然なのだろう。

バイクで暴走したり車を改造したりする気力も無くなり、実際にそれを出来る経済的な余裕も無くなっている。

しかしながら大人しい若者に罪は無く、彼ら、いや僕らが悪いと言うよりも若者から元気を奪う社会のほうが圧倒的に悪い。

その一方で社会を批判する人すらもはやいなくて、目先の癒しにしか興味がない同じゆとり世代にも違和感がある自分がいる。

社会が悪いとすら思わず、それが当たり前のことだとして受け入れている世代がとうとう現れ始めてしまった。

連合赤軍やオウム真理教は社会が悪いからそれを壊してでも変えようと考えていたが、80年代に入ってそんなこと無理だしって時代になって、21世紀はとうとう社会が悪いとすら思わなくなった。社会が悪いという事にもしかしたら薄々気づいているが、それを行ったところで仕方がないしイイネ!を押しあっていれば嬉しくなって、その不満も紛らわすことができる。

そういう時代にそりゃ革命なんて起こせないわけであり、そんな情熱持ってる暑苦しい奴なんて自分以外もはやいなくなっている。

「ワルしようぜ」と思ってる不良が一人治安のいい学校にいるとそりゃつまらないわけで、自分が世の中や最近のネットがつまらないといってるのはもしかしたらその感覚に似ているのかもしれない。

皆中三になってしまって「おまえいい加減に中三になれよ、そろそろ高校生だぜ」と中二病の少年が言われているような感覚でもある。

皆誰かのタイムライン汚したくないしドン引きされたくない、そんな奴らばっかりになったら世の中は面白くない。

しかしゆとり世代はそういった空気に特化した協調性の高い世代になりつつある。

「空気読むことや怒られないことが最も上手い世代」というのがゆとり世代論の総評なのではないか。

しらけ世代以上にしらけてる、それが僕らゆとりだ。

そういう世代論を語る人がいなくなり、それを面白いと思う人すらもいない。

「俺って変なのかな」とか「世の中間違ってるよな」と言ってる奴がもう自意識過剰で中二病扱いされる空気になっているのならば、そんな時代から歴史を変えるような強力な個人が現れるわけもない。

大人しい世代や癒しにしか興味がない世代が主流になれば日本が復活する見込みがないのは必然だと言える。

明治維新を起こした世代は「日本は列強に対抗しなければならない」と思い、戦後の高度経済成長を成し遂げた世代はひたすらに「裕福になりたい」という思いが強かった。

欲がない世代とよく言われるが、何も強い衝動が無いのがゆとり世代でもある。

いや「癒されたい」という思いが強いのかもしれない。

「公務員が一番の夢になった時代って面白くないよね」とも言えるし、じゃあユーチューバーに憧れる世代はどうなのかという問いかけも必要だろう。

逆にこれだけゆとり世代が大人しいと、今度はユーチューバーに憧れる世代が主流になれば文化的には面白くなっていく可能性を秘めている。

「安定した人生を送りたい」と考えているのがゆとり世代だとすれば、「好きなことをしていきたい」というのがこれからのユーチューバー世代なのだろうか。

そう考えるとまさにゆとり世代というのは「谷間世代」であり、日本という国が変わっていくサナギの地味な時期でもあるのかもしれない。

そしてそのサナギ状態であることや大人しいと言われることに特に不満も無いのがゆとり世代でもある。

あまりにも「これだから最近のゆとり世代は」と言われすぎて、「はいはい俺らゆとり」という状態になっており逆らう意欲すらない。それ以前に大人しいことがかっこ悪い事だとも思わなくなり、やはりそういう世代が何かをする気になれないのは必然だろう。

この世代に希望があるとすれば「ゆとりつまらないと思ってるゆとり」みたいな層をどれだけ増やしていけるかにかかっているのではないか。

大事なことは空気を読むことではなく、空気を変える事だろう。

社会に対して不満があるのならばもっとガンガン発言し、「なんかおかしいよね」という雰囲気を作っていくことが最初の第一歩なのではないか。

この空気に従っていれば気付いたときには飲みこまれてしまっているだろう。

「停滞感」を感じているならまだマシで、停滞が普通になり過ぎればもはや疑問にすら思わなくなる。

自分がいじめられていることを自覚している生徒は何らかの解決策を導き出すか反抗しようとするが、もはや「おまえいじめられてるんだぜ」と言われないと気付かない人はある意味悲しくも無く幸せなのかもしれない。

徐々にゆとり世代が、上の世代にいじめられていることに慣れ過ぎて、これがいじめだと気付かない状態になっているのではないか。

「やっぱ俺らいじめられてるわ」ってことに気付きなさないといけない時期に来た。

じゃあ「いじめの主犯格誰だよ」って言ったら、それは高齢者なわけで主犯格を一回殴り倒さないといじめは終わらない。

オウム真理教や連合赤軍はある意味若者として社会と戦おうとした。

しかし今の若者世代からそういう組織が現れてくる見込みはない。SEALDsは反逆組織のようで実はただ単に身内でイイネ!を押しあうだけの集団でしかなかった。

「一緒に酒飲めば敵の上陸防げます」と言ってるような連中の勢いがなくなっていくことはある意味当然だったと言える。

「若者なら何かできる」とか「俺らエネルギッシュな若者だし」というエネルギーすらなくなり、若いってだけで自慢するの良くないよねという風潮になってきて、高齢者や中高年層が主流になってきている。

若者が多数派だった時代にあった"調子乗り感"が今のゆとり世代からは消えつつある。

ゆとり世代といういじめられっ子がこれからどう反逆するのか、それとも「俺はイジられてるだけ」とかいじめられる日常に慣れ過ぎて何も気づかなくなるのか、今の時期はまさに世の中がどうなっていくのかとい分水嶺の時期なのではないだろうか。

連合赤軍やオウム真理教でもなければ、SEALDsでもない、そんな組織を作り上げなければ革命は実現できない。

ロシア革命の時代からちょうど1世紀が過ぎようとしている、そして後にナチスの政権掌握も訪れる。

世界史の潮流が1世紀おきに変わるのであればもうすぐ何かが起こる可能性は否定できない。

ttps://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/04/150926



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今の時代やはり暴力革命は成立しえない
ttps://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

理想的共産主義社会の実現のために若者が革命を志していた「政治と闘争の季節」は1960年代までであり、70年代に入りカジュアルな文化や新しい庶民の生活スタイルが普及するようになると見限られるようになっていく。

サブカル文化を取り扱った番組を見て、70年代から現代の若者文化に近い潮流が始まったと知った。ものすごく簡単に言えば政治がそこまでかっこいいものじゃなくなったり、他にもっと楽しいことができたり、あまりにも暴力的で過激になり過ぎたことで若者から見放されていったというのが大きな流れだ。

他に楽しいことができたし、物凄く戦わなければならない理由も無くなった。

70年代ですら見限られて衰退していった暴力革命を今しようとしたら誰もついてこないだろう。

実際極左が多いイメージのある京都大学でもかつての中核派的な活動をしようとしていた学生が、一般学生に排斥されているようである。

結局日本の左翼というのはそういう活動の昂揚感にしか興味が無く何かに反対している興奮が好きな人が多いが、どう頑張っても少人数で細々とやり何も実現できない「左翼ごっこ」の領域を出ない結果にしかならない。

京大のような高学歴大学に進学すれば革命を志している凄い過激派がいるんだろうなという漠然とした幻想はは一般学生から白い目で見られて崩壊するのである。


日本の過激派「中核派」をフジテレビ・みんなのニュースが特集!その実態とは? - NAVER まとめ
ttps://matome.naver.jp/odai/2147079950621838601?&page=1


このまとめでも「反対することが多くて忙しそう」と皮肉られていたが、反安倍だの、反改憲だの反原発、反米だのやることが多すぎてしかも少数しか集まらないため結局過激な暴走に少人数だけが走るようになる。

しかしそんなものは連合赤軍が山荘において少人数が猟銃で訓練する程度にしかならず、フルオートのアサルトライフルで武装した組織には勝てないのである。

若者だけでなく多くの人が「そんなことをしてもしょうもない、第一自分の生活で忙しい」と思っており、興味もなければ情熱を抱く体力すらない程に疲弊しているのが現代日本社会だ。

更に60年代と70年代前半の極左過激派があれだけ元気だったのは、それだけ世の中が激動の時代だったという事でもある。

東西冷戦真っただ中で、いつソ連と戦争が始まってもおかしくない状況だった上にまだ沖縄も返還されていない時代だった。

沖縄に核兵器が配備されていたことに関するドキュメント番組を見たのだが、当時の冷戦の状況は今とは比較にならない程緊迫していた。

最近の若者がなぜ政治熱が無いのかといえば、状況が違うというのもあるのかもしれない。あれだけ面白い材料やニュースがあれば、それは政治熱が高まるに決まっている。

ベトナム戦争やキューバ危機が歴史の教科書に出てくる単語ではなかった時代の話なのだ。

逆に言えば今何か特別昂揚感を刺激するようなニュースがあるかと言えば、せいぜい北朝鮮がミサイルを発射するぐらいでそれすらもう日本人は感覚が麻痺して慣れ切っている。それを言えば更に日本人が血気盛んだった戦前はもっと大きな出来事のオンパレードだったため若者が情熱を持ちやすかった。

ソ連すら知らない今の世代がせいぜい北朝鮮が虚勢を張っているだけの小粒化した共産陣営に抵抗しようとも思わないし、そこに憧れを抱かないのも必然だろう。

言葉に語弊はあるかもしれないが、当時の極左は今思えば楽しかったのではないだろうか。未だに学生運動の情熱を持っている当時の世代が、今も中核派や核マル派を一応続けているらしいが当時の熱狂を忘れられない時代遅れの人々かそこに憧れる世代しかもはや存在していない。

かつて従来の既成左翼を批判した新左翼が今は旧左翼になっている、そんな皮肉もこの記事では綴られている。


高齢化し数も減少 若者から見限られる中核派・革マル派の現状|NEWSポストセブン
ttps://www.news-postseven.com/archives/20151226_369124.html?PAGE=1#container

そしてこの記事で旧世代の左翼を見限った新世代の左翼の代表格だったSEALDsですら結局は平和と叫んで心酔したいだけのお笑い集団でしかなかった。

全ては時代背景に行き着く問題で、今真剣に厚く語れる政治問題そのものが存在しないというのが大きい。

ソビエト連邦という総本山がありまだ社会主義への幻想があった時代とは全てが違う。ベトナム戦争でかわいそうなベトナムの人々が犠牲になっているという共感できるニュースも無い。

渋谷で暴動を起こしたり、大学を占拠したり企業のビルを爆破したり山荘に強奪した武器を持って立てこもるには相当なモチベーションと情熱、そして信念が必要だろう。

日本で革命が起きない理由はそういったモチベーションを掻き立てる物や反対するものが無いということが大きい。

大多数の日本人はなんだかんだで米軍が日本の防衛に役立っているという事をわかっているため、特に反対しようという気にもならないし、かと言って中国や北朝鮮もそれほど脅威には感じられないため憲法を改正しようという危機感も無い。

左右両方の方面で特別エネルギーを沸かせるような要因そのものが無い。

福島の原発の事があったとしても電力が必要だという現実路線が日本人の中で優先されるし、北朝鮮がミサイル実験を断行しても憲法まで変えようという気にはならない。自衛隊と安保、日米同盟で十分対処できるしそもそも攻撃してこないということを現実的に理解している。

イギリスがその場の雰囲気でなんとなく後先考えずEUを離脱したり、アメリカでトランプが就任したりする姿を見ると日本人って飛び抜けた方向にはいかないというか平均的に賢いのかもしれない。

つまり日本人自体が非常に現実的な思考をしている上に、日常に忙しくそして疲れている、そして特に強い衝動を引き起こすような出来事もないため何も起こらないというのが実情だ。

中核派の学生が演説しても今時一般学生からは白い目で見られるのと同じで、あらゆる政治活動、いやいろんな流行や現象が今は「盛り上がっているのは一部だけ」という目で見られるようになった。

昔はオリンピックに興味がないと言う人は現実ではなかなか共感してくれる人がいなかったが、今ではネットでオリンピックに興味が無い人でも集まれる。

ハロウィンが新しく文化現象になろうとしても、一部の馬鹿が騒いでいるだけということをネットで言いやすくなった。

「そんなことする体力よくあるなぁ、興味ないや」という意見が言いやすくなったし、実はそういう人たちがサイレントマジョリティだった。

一回立ち寄った喫茶店のマスターと少し政治の話をしたことがあるのだが学生運動全盛期ですら「左翼は頭がおかしい」と思っている人が大多数だったようである。

今の日本はそういった静かな少数派が力を持つ時代であり、多くの人が実は静かな少数派の一人であることを自覚している。

そしてそういうサイレントマジョリティの意見がむしろ今はむしろメジャーな意見になっている。

例えば「流行に興味がない」という人が増えたが、昔もおそらく何らかの流行に興味が無い人の方が多数派だったがそれを言いにくい空気があった。

今では逆転しており、流行に盛り上がる人の方が恥ずかしいという冷めた空気感が漂っているし、特にネットはそういう現象を叩く傾向にある。流行に興味が無い事や冷めていることが恥ずかしい事ではなくなった結果、特に大きなことも起きなくなったというのが今の時代だ。

既に日本は大きなムーブメントが発生しにくい土壌になっており、大多数がそれなりに満足できる妥協案が最も強いという民主主義の原則が支配的になっている。

日本というのは自ら変わる国ではなく外圧で変わる国でもある。

ペリー来航や欧米列強の脅威が迫らなければ今も江戸時代や徳川幕府が続いていた可能性も否定できないだろう。

実際徳川幕府は世界でも例を見ない程続いたある種の軍事政権の一つであり、天皇制の歴史も非常に長い。

余程変わらないといけない大きな理由、多くの場合は外圧がない限り日本で大きな変革は実現しえない。

変える理由がない時は変えないという当たり前の事であり、無難な日々や昨日と同じ日常を安全に迎えられることに幸せを見出してきた農耕民族でもある。

無計画でもなんでもとにかく行動して変えてやろうという強い衝動を持ちにくく、忍耐力のある民族であることは間違いない。

おそらく次の衆院選は政権交代には至らないが、かと言って改憲が可能な程与党が大勝するわけでもないというどちらとも言えない結果になるだろう。

現政権を打倒しなければならない強い理由もなければ、現政権を強化して憲法を変えるほどの脅威もやはりない。

当然ながら私設組織や地下組織が独自に武力革命を起こすこともないだろう。

また少し平和を叫んでいれば楽しくなったような気になる市民団体がちょっと出てきて話題にもならず選挙後消えていくだけでしかないはずだ。

革命

激動の時代を味わいたいとか、凄い変革を見たいという人はあまり期待しない方がいいだろう。

そういう雰囲気に熱狂する体力もないほど今の日本人は疲弊しており、まずそういう興味や衝動を持っている人が限られる。

貧しいなりに娯楽が充実していてそれなりに不満も紛らわせたり、ささやかな楽しみと最低限の安全は存在する。

「昔に比べてしょぼくなったがそれでも絶望的に悪いわけではないから仕方ない」と受け入れる、それが日本人の基本的な考え方になっている。

皆それぞれ不満はあるがそこまでして変えようと思わないぐらいには我慢できる忍耐力があるのが日本人でもある。ただしその堪忍袋の緒が切れたときには思ってもみなかったぐらいの行動を起こすが、それでも実は江戸城の無血開城を実現したり本土決戦を回避したりどこかで優しく大人しい部分はある。

今の日本は特に何かを起こさなければならない時期でもない平和な期間だともいえる。

江戸幕府がものすごく長く続いたのと一緒で、戦後日本という体制はせいぜい70年程度の物で体制という物は続く時は大きな変化も無く続く物なのである。

大きな変革や革命が起こるとするならばやはり何らかの外圧がなければならないだろう。基本的に和を尊び妥協案を探すか、大人しく忍耐する日本人が我慢できない程の何かが起きればそれは起きるかもしれない。

そういうエキサイティングな何かが見たければ海外に行くという手段もある。

チェ・ゲバラがキューバ革命を実現した後にボリビアにまた革命をしに行ったのはもしかしたらその昂揚感が目的だったのではないかと自分は思っている。

フィデル・カストロが現実的な政治を行い、ゲバラが理想とする更なる革命を実現しなかった姿を見て彼はボリビアに次なる戦場を求めた。その結果彼はこの世を去ることになるのだが、ゲバラ的なロマンチストは理想と闘争を求めずにはいられないのかもしれない。

実際日本人でも日本赤軍はパレスチナに軍事訓練に行ったり、よど号で北朝鮮に向かおうとした。彼らは海外で軍事訓練を受けて日本での革命のための準備をしようとしていたようだが、革命や理想のために頑張っているという充実感を欲するならばそれは海外にあるだろう。

ある意味今の日本で革命が起きなくてつまらないと思っていたりそれが不可能だと諦めている人たちの先駆けが彼らだったのかもしれない。

国内で余程大きな歪が生じるか、何らかの大きな外圧が起こる以外、今特に大きな変革を望む必要性は左右両方の面で存在しない。

「70年間戦争をしなくて済んだ」というのは平和主義者の常套句だが、日本の戦後の八方美人外交というのはある意味日本が国際社会で生き残るための最適解だったと数百年後歴史評論家に語られる時が来るのではないだろうか。

天下太平の世では革命など起こす必要が無い、江戸幕府発足後70年の頃に生きていた人たちはまさかアメリカの歴史並に長く続くとは思ってもいなかっただろう。

案外戦後日本の体制はこれから大きな変革も無く江戸幕府のように200年以上続く体制なのかもしれない。
ttps://elkind.hatenablog.com/entry/2017/09/24/145737

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竹中平蔵
派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしないといけない

マルクス主義の階級闘争というのは 1% 対 99% の階級差を解消する為ではなく、99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張なのです。

馬渕睦夫 deep state の世界を語る


馬渕睦夫 - YouTube 動画
ttps://www.youtube.com/results?search_query=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB&sp=mAEB

ひとりがたり馬渕睦夫 - YouTube 動画
ttps://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB


馬渕睦夫(元外交官)、全て暴露の理由。
全身全霊で経験学習した事を伝え残そう!
退官の時、死を目前に感じ、私はそう決意した。国際銀行家、グローバリズム、ユダヤなど、全て事実です。 - YouTube 動画
ttps://www.youtube.com/watch?v=lFg5YIM5yms


▲△▽▼


太平洋戦争も朝鮮戦争も東西冷戦もアラブの春も対テロ戦争もすべてユダヤ資本のヤラセだった

馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、ヒトラー、サダム・フセイン、カダフィ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、日本共産党

なんですね。


▲△▽▼

馬渕睦夫さんが明らかにしたのは

・ロシア革命を行ったレーニン、スターリン、トロツキー等は全員ユダヤ人とそのシンパだった

・ロシア革命に資金援助や支援していたのはアメリカやイギリス・ドイツの金融資本家だった


・毛沢東と中国共産党を支援していたのもアメリカ金融資本家だった

・ルーズベルトとその周辺の人間は全員社会主義者でスターリンと同盟関係にあった

・GHQ は戦後の日本を共産化しようとした

・ボリス・エリツィンはソ連崩壊後に国有財産を民営化して、すべてユダヤ資本に二束三文で払い下げた


要するに、ユダヤ資本は

昔は共産化によって世界各国のグローバル化を進めようとした

現在は移民を大量に受け入れさせて世界各国のグローバル化を進めようとしている





▲△▽▼

馬渕睦夫さんは唯の国際化とグローバリズムとは全く違う概念だと何度も言っています。

馬渕睦夫さんがグローバリズムと言っているのは

ユダヤ国際金融資本はユダヤ教の精神に基づいて、世界を国境の無い文化も同じ一つの国にしようとしているという事ですね。

ユダヤ教は人類で最後に救われるのはユダヤ人だけで、他民族はすべて滅ぼされるという教義です。

すべて滅ぼすのは無理なので、ユダヤ人が目指す現実性のある理想の社会は
1%のユダヤ人が資産や権力を独占して、99%の他民族は被支配者として搾取される世界なんですね。

北朝鮮みたいな共産国家なら大体その通りになっていますよね。

それから中国では都市籍の人間が農民籍の人間を支配搾取する体制になっていますよね。
中国の経済発展は都市籍の人間が農民籍の人間をタダ同然で働かせる事ができたからだというのが定説ですね。


マルクス主義で言う平等というのは 99% の被支配者の間では階級差別が全く無いというだけの話です。

竹中平蔵さんが、

派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしろ

と言っているのも 99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張ですね。


だから、ユダヤ人は最初は共産化で 1% 対 99% の世界を作ろうとしたのです。

▲△▽▼

日本共産党と新左翼を対立させる分割統治政策
2008年11月20日(木)「しんぶん赤旗」

「連合赤軍」事件とは?


 〈問い〉 36年前の「連合赤軍」事件の永田洋子死刑囚が危篤という報道の中に、日本共産党との関係をにおわせるような表現がありました。どうなのですか?(愛知・一読者)

 〈答え〉 「連合赤軍」と、日本共産党は、まったくの無関係です。反対に、彼らは日本共産党の打倒を最大の目標にかかげていた反共・反民主主義の暴力集団でした。「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東の教えを信奉して、みずからを「毛沢東の教訓をもって武装されたプロレタリア軍隊」などと称し、市民を人質にした1972年2月の浅間山荘事件をはじめ、強盗事件、無差別爆弾テロ、仲間の虐殺などを繰り返しました。

 「連合赤軍」は、名称に「赤」という字を使ったり、「共産主義」を語ったりして、蛮行をおこない、国民に日本共産党も「連合赤軍」の同類だと思わせて日本共産党のイメージダウンをはかる―これこそが、彼らの最大の“存在意義”でした。

 当時、自民党政府は、高揚するベトナム反戦と政治革新を求める国民のたたかいを抑えるために、その先頭に立つ日本共産党に打撃を与えようと、「連合赤軍」をはじめ「中核派」「革マル派」など、「共産主義」を偽装するニセ「左翼」暴力集団を泳がせる政策をとっていました。

 浅間山荘事件直後の国会で、当時の後藤田正晴警察庁長官や富田朝彦同警備局長は、「連合赤軍」のなかに「協力者」をもち「謝礼金」も渡していたと認めました。中曽根康弘氏は「彼らの暴走が、反射的に市民層を反対にまわし、自民党の支持につながる作用を果している」と語りました(「朝日」69年5月3日付)。この卑劣なやり方が、彼らの蛮行を許す原因ともなったのです。

 こうした「連合赤軍」の蛮行や政府の“泳がせ”政策を最も厳しく批判し、たたかってきたのが日本共産党です。そもそも日本共産党が指針とする、共産主義=科学的社会主義は、「国民が主人公」の社会をめざし、国民の利益を守ることを何よりも大切にする考え方であり、テロや虐殺とは無縁です。(喜)

 〔2008・11・20(木)〕
ttps://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-20/ftp20081120faq12_01_0.html

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分割統治


分割統治(ぶんかつとうち、英語:Divide and conquer、ラテン語:Divide et impera)とは、ある者が統治を行うにあたり、被支配者を分割することで統治を容易にする手法。分断統治とも。

被支配者同士を争わせ、統治者に矛先が向かうのを避けることができる。

統治者が被統治者間の人種、言語、階層、宗教、イデオロギー、地理的、経済的利害などに基づく対立、抗争を助長して、後者の連帯性を弱め、自己の支配に有利な条件をつくりだすことをねらいとし、植民地経営などに利用された[1]。


歴史
古代ローマ帝国は、支配下に治めた都市相互の連帯を禁じ、都市毎に応じて処遇に格差をつける分割統治によって、征服した都市からの反乱を抑えることに成功した。

19世紀以降の欧米の植民地経営は、この原理をよく応用した。イギリスはインドで、人種、宗教、地域の差異で分割した集団を互いに反目させることで長期の統治に成功した。ミャンマーの少数民族問題長期化も英国の分割統治がビルマ族を抑圧して少数民族を優遇したことに始まる[2]。ビアフラ戦争もイギリス植民地時代の分割統治による東部のイボ族と北部のハウサ族との部族対立が最大の原因である[3]。ベルギーやドイツは、ルワンダ・ブルンジにおいてフツとツチに格差をもうけ、少数派のツチを中間的な支配層とした。これがルワンダ虐殺の遠因となったともいわれる。

国内の例としては徳川幕府による士農工商制度、および非人等と呼ばれる階級制があげられる。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%89%B2%E7%B5%B1%E6%B2%BB


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分割統治
ttps://www.y-history.net/appendix/wh0103-023.html

古代ローマがイタリア半島の被征服都市を統治した方式。

 ローマが半島統一戦争で服属させたイタリア半島内の都市に対し、一律に支配するのではなく、与える自治権、市民権の程度によって、植民市・自治市・同盟市の三種類に分けて支配し、さらに都市間の関係を認めず個別支配をした統治形態を分割統治という。

都市間に格差を設ける
 ローマ市民権はギリシアの市民権と違って、ローマの征服地にも拡大されていったが、その付与に当たって格差が設けられた。
都市間に格差を設けたのは、共通の利害をもたせないための工夫であり、「分割して統治せよ」というい考えに基づいていた。
三種類の都市の市民権・自治権の格差は次のようにまとめることが出来る。

•植民市:
市民権はローマ人と同等に認められた。自治権は認められなかった。
ローマ市民のみが入植したローマ市民植民市とラテン諸都市出身者の入植したラテン植民市とに区分さえる。

•自治市:
ローマに併合されて自治権を認められた。市民権は民法面が認められる(上層市民のみ)。軍事・裁判を除き自治権を認められた。ただし「完全な市民権」を与えられた自治市と、「投票権のない市民権」を与えられた自治市に区分される。

•同盟市:
市民権、自治権のいずれも認められず、ローマの同盟都市のままとされた都市。
理論的には独立国だが、領土の一部を割譲され、独立した対外政策を持つことができず、ローマ軍を補助するための兵力供出を義務づけられた。


都市間の関係は認めない
 また、服属都市はそれぞれローマとの個別の条約を締結して政治関係を持つことのみが認められ、都市相互間の関係は一切許されなかった。

帝国主義時代の植民地経営にも影響
 この分割統治という統治方法は、広大な領土を持つ帝国においてたびたび用いられた。
また後にはイギリスは殖民地インド統治において分割統治によって現地人の反植民地運動の一本化を阻害しようとした。

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イギリスのインド統治での分割統治

イギリスが古代ローマを倣って植民地インドの統治に適用した政策。

 分割統治は、古代のローマが地中海世界を支配した際、征服した都市に対して個別に同盟関係を結んで、横に連携してローマに対抗出来ないようにした統治法を言うが、この場合は

イギリスのインド植民地支配において、主としてヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して、個別に対応することによって独立運動を妨害しようとした政策のことをいう

それ以外にも藩王国間の対立や、カースト間の対立をあおることも分割統治の内容であった。


藩王国間の分割統治
 イギリスは武力でインド植民地化を進めたが、1857年のインド大反乱はヒンドゥー教徒とムスリムが共にイギリスに反抗して起こったものだった。その反乱を鎮圧したイギリスは直接支配下地域以外では藩王国の自治を認めて個別の協定を結んで分割統治を進めた。

コミュナリズム
 インド固有の宗教ヒンドゥー教に対して、外来の宗教イスラーム教が征服者の宗教として入ってきたことから、インドでは一貫して宗教対立が続いていたと考えられがちであるが、ムガル帝国の17世紀までは融和策もあって、村落社会内部では多数をしめるヒンドゥー教徒と少数者であるイスラーム教徒(ムスリム)は共存していた。

インドにおけるヒンドゥーとイスラームの対立(コミュナリズム問題という)が深刻になっていくのは、むしろイギリスが宗教対立をあおった結果と見ることもできる。


宗教による分割統治
 ムガル帝国滅亡によって、それまで支配者であったムスリムは単なる少数派に転落したとき、イギリスは多数派であるヒンドゥー教徒を優遇し、その力を利用とした。1885年にヒンドゥー教徒主体のインド国民会議派の形成を促したのがそれである。

しかしインド内部で反英運動が起こってくると、その力をそぐために、こんどは1905年にベンガル分割令を策定、ベンガル地方をヒンドゥー教の多い地域とムスリムの多い地域に分割しようとした。この政策に分割統治の典型が見られる。


カーストによる分割統治
 またイギリスの分割支配の中には、インド人社会のカースト制度およびカーストとアウト=カースト(不可触民でハリジャンともいわれた)の対立を利用する側面もあった。

例えば、インドの地方自治を認めたインド統治法でも、不可触民に対してその権利を守るという口実で議席を事前に割り振るという分離選挙制を導入し、その差別を固定化しようとした。イギリスは1930年代の英印円卓会議でこの策を提唱し、ハリジャンの代表アンベードカルは賛成したが、ガンディーはインドの統一ある独立を害するものと強く反発した。

軍隊における分割統治
 インド大反乱に際して、シパーヒーの反乱を鎮圧するために動員されたのは、パンジャーブ地方のシク教から成るシク兵であった。また、インド大反乱以前の東インド会社軍にはインド人兵士約12〜13万に対し、イギリス人兵士は約3万にすぎなかったが、反乱のインド軍はイギリス人兵士を6〜7万に倍増するとともに、インド人兵士の各部隊をいろいろな地方の出身者からなる混成部隊として、結集する力を弱めている。

20世紀の帝国主義段階となり、インド周辺での軍事的緊張が高まると、それまでの軍隊制度が手直しされ、「戦争種族起用論」が導入された。それは北西辺境州のバクトゥーン人(イギリス人はバターン人と呼んだ)、パンジャーブのシク、ネパールのグルカが大量に募集された。

こうして特定の少数民族、宗教集団、カースト集団が植民地軍隊の構成単位となり、これがイギリスのインド支配の支柱となるとともに、アフガニスタン、チベット、ビルマなどへの遠征軍となった。
<小谷汪之・中村平治『変貌のインド亜大陸』世界の歴史24 1978 講談社 p.256,p.272>


分割統治の結果としての分離独立
 さらにそれに対するインド国民会議派の反対運動が強まると、イギリスはムスリムを支援して全インド=ムスリム連盟を結成させた。
それ以後、イギリスは両宗派の対立感情を煽りながら、巧妙な分割統治策を進めたのだった。

ヒンドゥー教徒であるガンディーは必死にムスリムとの連携と融和をはかったが、特にムスリム側の国民会議主導の統一独立に反発する思想(その代表がジンナー)が次第に台頭し、一本化は困難になっていった。

最終的にはイギリスがインドとパキスタンに分離独立させることを条件に独立をみとめたため、それまで一体であった「インド」は二つの国家にされてしまった。
ttps://www.y-history.net/appendix/wh0103-023.html


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世界地図を見てみよう:分割統治の怖さが見える
ttp://kaikoku-japan.net/column/2555


世界地図を広げてみてほしい。
そこには、自然が生み出した地形のほかに、人の営みの結果生まれた線、国境がたくさん引かれている。

国境というのは、自然が作り出した部分(海、川、山、沼地、森林、砂漠等)と、人間が人工的に引いたものと、二種類ある。
人間が引いた国境を見てみると、アメリカとカナダの国境のように五大湖を除けば大体まっすぐというものもあれば、アフリカの象牙海岸のようにかなり入り組んでいるものもある。

さて、質問。なぜ国境はまっすぐではないのか?

答えは二つ。

一つ目は、かなり入り組んでいるということは、そこの住民が他の住民と戦い続け、奪い奪われた歴史の産物だから。アジアでよくみられるパターンである。

二つ目は、外国人がある意図を持って勝手に国境線を引いたから。
顕著な例はアフリカだが、19世紀にヨーロッパ列強がベルリンに集まって、アフリカ分割を決めた(ベルリン会議)。
早い話、アフリカにおける列強の利害調整をして、イギリスの分、フランスの分、というように、勝手に線を引いて、勝手にアフリカ人に押し付けた。(独立を保てたのは、エチオピア。エジプトはイギリス保護領)
そのため、今のアフリカの国境線はほぼヨーロッパ産。

列強たちはそれぞれの取り分を、一つの国として統治したのか?というと全然違う。
いくつもの国として統治。
しかも、ここで編み出した知恵が分割統治。

あえて、民族や宗教等が違う人たちを少しだけ入れるように工夫して線を引く。
しかも、その反対側(隣の国)はその比率が逆になるように。


例えば、1994年大虐殺が問題になった、旧ベルギー植民地ルワンダ。
ここだと、8割強がフツ族、残りがツチ族。
そして、同じくベルギー植民地だったお隣のコンゴでは、ツチ族とフツ族の比率が逆転する。

こうしておいて、ルワンダだと少数民族のツチ族をベルギー人はわざとかわいがる。
ツチ族は鼻が高くてヨーロッパに近いが、フツ族は鼻ぺちゃだから劣っている。とか意味不明の理由で差別する。

不思議なもので、人間、外敵よりも仲間の方に恨みは強い。
そのため、フツ族はベルギー人に対して怒るより、ツチ族に対して強い怒りをもつ。
そんな状態が続いていたある日、独立することになり、民主主義を導入した。

ベルギー人に庇護されてきたツチ族は一転して不利に。そして、フツ族が政権を握り、ツチ族は微妙な立場におかれた。
それでも何とか大した問題も起きずに年月がたっていった。しかし、30年も経ったある日、フツ族はツチ族に復讐した。
しかも、大量破壊兵器はないから、フツ族がラジオで同胞たちにみんなでツチ族を殺そうと呼びかけた。みんな斧とかナイフとかを持って殺した。これが、悪名高きルワンダ虐殺。

当然、ツチ族は隣の同胞がいるルワンダ等に逃げていく。そこで武器や助っ人等を調達する。
一方、フツ側も同胞が多くいるモブツ政権下のコンゴ、ブルンジ、さらにはベルギーやフランスまでも味方につけた。
こうしてルワンダで内戦が起きたが、ツチ族側の勝利に終わった。
さらには勢い余ってコンゴでも内乱がおき、ルワンダのツチ族の支援があって、モブツ政権を打倒しよう、と紛争が紛争を呼んだ。

こうやって、アフリカ人が仲間割れしてくれている間は旧宗主国は安泰。
搾取したのは、ヨーロッパ人なのに、多少そのおこぼれにツチ族は預かっただけの話なのに、フツ族の怒りはベルギー人に行かない。

これが分割統治の恐怖である。
(植民地である時は、この国境なるものは、日本の県境程度の意味でしかないが、独立後絶大な効果を発揮する)
いつ爆発するかわからないが、何かの拍子で爆発する。まさに時限爆弾。
ミソは、一国だけ済まずに、多国間で調整しないとこの問題が解けないという仕組み。
少数民族の支援基盤は隣の国にあるのだから、手ごわい反乱軍になりうる。

こうした話は何もルワンダ、コンゴだけにとどまらず、スーダンでも起きている。

スーダンの場合、石油が取れるため、一層事を複雑化している。
国内内部分裂が長期化するのは、スーダンの戦国大名たちが武器を持ち、政府軍と戦っているからだ。戦国大名の財源は石油収益だが、当然安く売らざるを得ない。一国がまとまって外国や外国企業と交渉すればまだ強気な取引ができるが、力が弱い政府や戦国大名クラスだと価格交渉は有利にはならない。ましてや、内戦中で石油収益の多くを武器に回さざるを得ないのなら、なおさらだ。外国側はバーター取引で、石油を安く買いたたき、不良品の武器を渡せばいい。大名が文句を言ったところで、武器がほしいのはバレバレなので、完全に足元を見られている。

中東でも分割統治は機能している。
中東はもともとオスマントルコ帝国の一部だったのを、少しずつ戦争しては切り崩していったから、正式なベルリン会議なるものはなくても、列強、特に英仏の影響が強く残っている。

例えば、イラクという国自体、イラン(ペルシャ帝国)の力をそぐためにヨーロッパが作った国だ。
中東の場合は民族でなく、宗派(シーク派とスンニ派)で分けている。

ペルシャ湾沿いのバーレーンはシーク派が少数民族だけど、対岸のイランはシーク派が多数派。
だから、イラン側が今回の動乱でシーク派を支援しようとし、スンニ派のサウジがバーレーンに軍を派遣し、イラン側の影響が強まらないよう押さえ込んでいる。放置すれば、サウジとイランとの間で敵対意識が高まる。

また、アジアの場合、インド独立の際に、旧ムガール帝国を、インド、パキスタン(のちに、バングラディッシュも)に分割した。これも、インドの力をそぐため。その狙いは的中し、印パ戦争を三回も繰り返し、未だにカシミール紛争でもめている。

戦前、孫文は、日英同盟が日中間を裂く分割統治政策の一環である、と主張していた。
(済南事件までは中国の最大搾取国といえば、イギリスというのが相場だったため、中国の敵と同盟を結ぶとは何事だ。という思いがあった)

戦後日本について、連合国側は敢えてサンフランシスコ条約で日本の国境を定義しないまま独立させた、という学説もある。
(実際そうした意図があるのかについては学説が分かれるところだが、状況証拠的には限りなくクロである)

国境を設定しないことで、日本は、周辺の小島のせいで周辺諸国と領土問題を抱えさせられ、労力や資源を逸らせることで、日本の発展を妨げられる、という読みだ。
その通り、日本は未だ領土問題を一件たりとも解決できていない。

また、今世紀誕生した東チモールについても、インドネシアからの独立は欧米諸国の援助なくして実現できなかったといわれている。その下心は、そこから産出される天然資源。インドネシア政府と交渉するよりも、国家運営資金がなく、外国援助で当面やっていくしかない、新生東チモール政府との方が有利であることこの上ない。

このように国境と分割統治を見るだけでも、国際紛争の発生理由の大きな部分が見えてくる。
ttp://kaikoku-japan.net/column/2555




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2006-10-28
アメリカの国益にみる東アジアでの分割統治策。

欧米には、古代ローマ帝国以来の分割統治策という概念があります。

読んで字の如く、他民族を支配する場合に、分割して統治するという意味です。
そして、それは、実に驚くほど、機能します。


イギリスが、


欧州大陸において、フランスとドイツの対立を煽り、

インドを支配する際にイスラム教徒とヒンズー教徒の対立を煽り、

パレスチナを支配するに当たっては、ユダヤ人とアラブ人の双方にいいことを言った・・・


というのが、その好例でしょう。
その結果が、今日の混乱の原因を作り出しているわけですが・・・。


ちなみに、この分割統治策は、驚くほどに巧妙で、民族同士の対立軸に限らず、オランダのインドネシア支配や、フランスのベトナム支配で実際に地元民を支配したのは、彼らに「雇われた中国人」であったわけですし、インドでの統治にはネパール人を使ったわけです。

つまり、搾取の恨みは、直接、白人に返らずに、それらの「代官」に向けられるわけですね。

他にも、同様の例は、ミャンマーでのビルマ族支配の為のカレン族、ルワンダでのフツ族支配の為のツチ族などにも見られます。

悲惨な内戦で記憶に新しいユーゴスラビア紛争も、ルワンダでの大虐殺も、上述したパレスチナ紛争も、インド・パキスタンの紛争も、全部、元を辿れば、欧米列強の植民地支配の延長線上にあるわけです。


で、それはさておき、遠国が、その地域を支配するにおいては、その地域に並び立つ二つの民族、国家があった方がいいわけで、

その公式をアジアに当てはめたならば、

かつて、日本が強大になってきたときには、中国を支援し日本を敗戦に追い込んだわけですが、

今や、それが、今度は中国が強大になろうとしているわけですよね。

とすれば、アメリカとすれば、米中が仲良くするという選択肢はないと仮定したならば、日本というのは、台湾と同じくらいに大事な支援国になるわけですよね。
とすれば、近隣諸国に限らず、遠国であるアメリカとしても、日中が仲良くすることは望んでないといえるわけで、

「遠交近攻」「分割統治」・・・それに、先般、平太郎独白録 「脱亜入欧ならぬ、脱亜入「オ」の合従連衡論。」の中で申し上げました「合従連衡」といった、どれをとっても、日中が仲良くすることは国家原理としては基本的に有り得ないという結論に繋がるわけで・・・。


となれば、逆に言えば、これら外交原理、もっと、平たく言えば、「周辺諸国の思惑」というものを、為政者の方々は、頭の片隅に絶えず置いておくべきではないかと思います。
ttps://heitaroh.exblog.jp/4431834/


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2016年01月27日 インドとパキスタンはなぜ対立してきたのか?
ttps://blogos.com/article/157320/


インドとパキスタン、両国は独立から現在まで対立を続けている。

最大の理由は宗教間の対立だが、中東などと同様に、宗主国イギリスが民族対立や宗教対立が起きやすくして強国にならないようにしたのも大きな理由の一つだ。では具体的にどう対立が起こり、現在まで続いているのか、その経緯を見ていきたい。


イギリスがインドを植民地化

イギリスによって資産が搾取され、大飢饉が発生

15世紀末にポルトガル、オランダがインド亜大陸(インド、パキスタン、バングラデシュなどがある地域)に進出、17世紀後半にはイギリス・フランスが植民地を巡って争い、1757年プラッシーの戦いでイギリスが勝ち、東インド会社を通じて植民地化に成功する。東インド会社は「会社」といっても今の会社とは異なり、兵器や兵隊を備えた軍隊のようなものである。

そして武力によって植民地化されたインドは、イギリス向けの綿花や茶、中国向けのアヘンなどの生産を強制され、インドの綿織物産業は破壊、自分たちが食べる穀物も買わなければならない状況に追い込まれる。さらに、地主に土地の所有権を認める代わりに、「地税」を徴収、インドから資産を吸い上げた。

こうした状況下で、たびたび大飢饉が発生し、1877年には大飢饉で約500万人が餓死したと言われている。

一方、こうした植民地支配に不満を持った住民が何度も反乱を起こし、1857年にはインド人兵士が大反乱を起こした。この反乱はイギリスによって制圧されるが、これをきっかけに、インドの支配が東インド会社からイギリスの直接統治に変わった。イギリスの内閣には「インド担当国務大臣」が設けられ、インドにはイギリス国王の代理人であるインド総督が派遣された。これによって、植民地支配は完成された。


イギリス、宗教間の対立を利用して支配

ヒンズー教徒を中心とする「インド国民会議」、イスラム教徒を中心とする「全インド・ムスリム連盟」を結成

インド亜大陸にはインド以外に数多くの藩王国が存在したが、重要な場所はイギリスが直接統治し、藩王国はそのまま藩王に支配させる分割統治を行った。一方、イギリスに対してインド国民の不満が向かないように、ヒンズー教とイスラム教の信者が互いに対立するよう仕向けた。

そもそも、ヒンズー教とイスラム教は考え方が大きく異なる。ヒンズー教は多神教で、偶像崇拝を行い、牛は神聖な動物で牛肉を食べることは禁止されている。一方、イスラム教は一神教で、偶像も禁止、牛肉は食べるが、豚肉は不浄な動物だとして食べることを禁止されている。

そして、急増する反英勢力への緩和策として、1885年にインドの知識人・中産階級を集めて、穏健的な団体「インド国民会議」をインド総督の承認のもと設立した。しかし、元々4日間だけの活動予定だったが、インド国民会議は反英運動へと展開した。これに対し、イギリスはヒンズー教が中心的であったインド国民会議に対抗する組織を作ろうと、1906年に全インド・ムスリム連盟を結成した。だが、この連盟も次第に反英に変わり、自治政府の樹立運動へと展開していく。


インドとパキスタンに分かれて独立

ガンディー率いる「インド国民会議」は統一国家を目指したが、対立する「全インド・ムスリム連盟」はイスラム教徒の国を作ることで決議

第一次世界大戦後、インド国民会議に加わったマハトマ・ガンディーを中心に非暴力の抵抗運動を進め、ガンディーはヒンズー教徒・イスラム教徒で一つの国家として独立させようとした。一方、全インド・ムスリム連盟は1940年にイスラム教徒の国を作ることで決議し、1947年、インドとパキスタンに分かれて独立した。

だが、地域によってはヒンズー教徒、イスラム教徒が混在したままであった。こうした状況に対し、相互理解を深めようとしたガンディーは、ヒンズー教過激派から反感を買い暗殺されてしまう。ヒンズー教徒はインドへ、イスラム教徒はパキスタンへ、それぞれ迫害を逃れて移動しようとするが、その間に各地で衝突が起こり、約100万人が亡くなったと言われている。これによってさらに対立は深まることになる。


第一次インド・パキスタン戦争が勃発

イギリスが国境を定めず、藩王と住民で宗教が異なるカシミール地方で対立が続く
インドの北西部にあるカシミール地方は、藩王(マハラジャ)がヒンズー教徒、住民の77%がイスラム教徒という複雑な状況にあったが、藩王はインドへの所属を決めた。だが、パキスタンは自国の領土だと主張し、1947年に義勇軍をカシミールに送り込む。これに対し、藩王はインドに助けを求め、インドも軍を送り、カシミールで両軍が衝突することになった。これが第一次インド・パキスタン戦争である。この戦争は1949年国連が仲介し、停戦となったが、この時カシミール地方の3分の2をインド、3分の1をパキスタンが支配するようになった。

アメリカや中国が介入

中国・インド国境戦争が勃発、インドの核開発のきっかけに

一方、冷戦の中で中立の立場をとっていたインドに不満を抱いたアメリカは、パキスタンに近寄り、1954年にはパキスタンと相互防衛援助協定を結ぶ。また、1959年にはチベットで大規模な反乱が起き、ダライ・ラマ14世をインドに亡命させたことに対して中国が激怒し、1962年には中国がカシミール地方のチベットと隣接したラダク地域を占領する。その後、中国・インド国境戦争にまで発展、中国の勝利に終わった。侵攻を始めた時はちょうどキューバ危機が起こっている最中であり、大国が介入してこないタイミングを狙ったものだと思われる。

この後、アメリカはソ連・中国に対抗するためインドに軍事援助することになり、中国はパキスタンを援助することになった。結果的に、この中・印戦争はインドの核開発のきっかけになったと言われている(1974年にインドは核保有を宣言)。


東パキスタンがバングラデシュとして独立

経済格差が激しく、民族も異なっていた東西パキスタンが第三次印パ戦争をきっかけに分離

1965年には中国の侵攻に影響を受けたパキスタンが停戦ラインを越え、第二次印パ戦争が勃発し、アメリカやイギリスの停戦圧力などで停戦する。

一方、パキスタンは東西で経済格差が激しく、西はアーリア系パンジャブ人(イラン系に近い)、東はモンゴル系ベンガル人と、民族も異なっていた。こうした状況で、東パキスタンでは、西パキスタンの中央政府の支配に対して自治権獲得運動が激化、1969年にパキスタン中央政府軍が鎮圧に出動し、東パキスタンと武力衝突。東パキスタンはインドの援助を得て全面戦争(第三次印パ戦争)に発展し、パキスタン中央政府軍は完敗、1971年に東パキスタンがバングラデシュとして独立する。


インドとパキスタンが核を保有、緊張が高まる

インドは中国に対抗するために核を保有し、パキスタンはインドに対抗するため核を保有

その後もカシミール地方を中心に対立は続き、1974年と1998年にはインドが核実験を行い、パキスタンも中国の支援を受けて1998年に核実験を行うなど、緊張は高まり続けた。1980年代には、インドでヒンズー至上主義が台頭し、ナショナリズムを掲げたインド人民党(BJP)が1998年に政権を獲得している。さらに、パキスタンがカシミールの反乱勢力を支援したことで、その支援を受けようと、ラシュカレトイバやジェイシモハメドなどのイスラムテロ組織がカシミールへと流れ込む。その後、こうしたイスラム過激派がカシミールでのテロの主役になっていく。さらに、非常に厄介なことに、こうした過激派組織に集まってきたのは、カシミールにおけるイスラム教徒の自治政府確立という大義に共感を抱く人物ではなく、残虐性や宗教的狂信主義に駆られた若者たちだった。こうして徐々に現地住民からの支持も失われていく。

しかし、核保有によって自信をつけたパキスタンは、1999年に再びインド側に侵攻し、印パ間の衝突(カルギル紛争)が発生。また、パキスタンでは何度もクーデターが起きるなど、内政も不安定な状態である。2001年にはイスラム過激派がインド国会議事堂を襲撃、2002年にもイスラム過激派がカシミール地方で停戦を越えてインド側を襲撃、核戦争の瀬戸際までいった。この時、インドとパキスタンに駐在していた外国人は退避勧告を受けて国外に逃れている(日本の外務省も日本人に退避勧告を出した)。そして、この頃からアルカイダがパキスタンに逃れ、カシミール地方の過激派組織に合流している。オサマ・ビンラディンが殺害されたのもパキスタンである。


衝突は未だに相次いでいるが、関係改善に向けた動きも

2015年12月には12年ぶりにインドのモディ首相がパキスタンを電撃訪問
その後は停戦ラインを行き来できる場所もでき、関係が改善したかに見えた。しかし、2008年に約170名が殺害されたムンバイ・テロ事件が起き、パキスタン政府はテロリスト集団への支援を否定したが、インドとパキスタンの緊張関係を再び悪化させることとなった。また、2006年にアメリカがインドに原子力技術を供与する協定を結ぶ一方で、パキスタンはウラン型原爆だけではなくプルトニウム型原爆の開発を進めていると言われている。

だが、関係改善に向けた機運も高まっている。2015年12月、12年ぶりにインドのモディ首相がパキスタンを訪問し、シャリフ首相と会談した。また両国の国家安全保障担当者がタイのバンコクで会談するなど、武力衝突はありながらも対話は続けている。モディ首相はヒンズー至上主義者で就任当初は関係悪化が懸念されたが、今後は改善していくかもしれない。
ttps://blogos.com/article/157320/

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権力闘争 【分断して統治せよ】
ttp://ronri2.web.fc2.com/game05.html


分断統治とは、支配階層が世の中を統治し易くするため、支配される側の結束を分断して、反乱を未然に防ぐための統治法です。

支配される側を一級市民と二級市民に分けて、扱いに差をつけます。すると生活に不満があっても、一級市民は二級市民を見下すことで不満のはけ口にします。「自分はまだあいつらよりもマシだ」。とうぜん、二級市民は一級市民を敵視するようになります。支配される側の人々は仲たがいをし、小さな利害でも対立するようになるのです。

支配される側の人々は互いに争うので、支配階層に対する批判の矛先を逸らすことができるのです。分断統治は、人々が持つ差別意識や優越意識を利用しています。

たとえば、江戸時代の身分制度も分断統治といえます。身分制度とは、出身などにより生まれつき身分が固定されている制度のことで、江戸時代には士・農・工・商という身分制度がありました。支配階層である武士階級の下に、被支配階層の商人・職人・農民という序列が存在しました。

しかし、農民の下にもっと身分の低いえた・ひにん(部落)という賎民階級が存在していました。賎民(せんみん)とは、ふつうの民衆よりも下位に置かれた身分を指す言葉です。教育用の資料から引用してみましょう。

(『江戸時代後半の民衆の不満をそらす差別強化 別の身分から下の身分へ(PDF)』より引用。)

江戸時代中頃から、幕府や藩は一揆や打ちこわしの増加に対して、えた身分やひにん身分への差別を強めることで、不満をそらしたり、農民と対立させたりした。そうした中で、世代を経るにつれ、えた身分やひにん身分を百姓・町人より下に見る差別意識が強くなっていった。それに対して渋染一揆のように立ち上がった人もあった。

部落の民は、藩から差別的な制限を強制されており、例えば、水害の危険性の高い河原などの決められた場所にしか住むことを許されませんでした。また農民や町人との交際も禁止、職業や服装も制限されていたため、姿を見ただけで部落民だと判別できるようになっていました。さらに、部落の身分は法律により親子代々に受け継がされました。江戸幕府は身分制度をうまく利用して、武士による厳しい支配への不満を逸らし、民衆の結束を阻止したのです。

ではなぜ、民衆はこうも容易く分断されて、下を見て生きていくのか、そのヒントが


自己評価の心理学―なぜあの人は自分に自信があるのか – 2000/9/1
クリストフ アンドレ (著), フランソワ ルロール (著)
ttps://www.amazon.co.jp/gp/product/4314008776?ie=UTF8&tag=dayswingtrade-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4314008776


という本に載っています。「自己評価」とは、自信のようなもので、自分自身に対する評価のことです。


【自己評価と人種差別】

心理学の実験で、被験者になってくれた人たちにわざと難しい仕事をさせて失敗させたり、自分の死のことを考えさせて自己評価を下げさせてやると、そうされた人々は他人の悪口を言うか、そうでなければ犯罪に厳しくなったり、自分の文化とはちがう文化からの攻勢に不寛容になる(11)。たとえば、このような方法で自己評価を下げられたアメリカの市民たちは、自分の国の悪口を言う人間に対して厳しい判断を下す傾向にあった。また、別の実験を見ても、自己評価を下げられた人間は容易に人種差別的な偏見を口にするようになるという結果が報告されている。

もちろん、人種差別の原因は、自己評価が低いことばかりではないだろう。だが、自己評価が下がっている人間にほんの少しイデオロギーが手を貸してやれば、簡単に差別的な行為をするようになるはずである。

11.J.Greenberg et al.,>,Journal of Personality and sociar Psychology,1992,63,p.212-220
(「自己評価の心理学 」より引用。)

社会的な階級が低い人ほど一般的に自己評価も低いと思いますので、まさしく統治者が恐れている層ほど、下を見て生きる習慣があるということになります。たとえば、ホームレスを襲撃する少年たちも自己評価が著しく低いと考えられます。犯人の少年たちは同世代に比べて社会的に低い位置にいると思いますが、彼らをそうさせたのはホームレスではありません。しかし、少年たちはホームレスを見下して、正義の名の下に襲撃しようとします。

これの応用に、外交問題をクローズアップして民衆の目を内政から外交へ向けさせる統治法があります。内政に対する民衆の批判が強くなってくると、仮想敵国を演出して国の外側に攻撃の矛先向けさせるやり方です。

ほかに分断統治の手法の一つに賞を使った統治があります。

『分裂勘違い君劇場』
ttps://www.furomuda.com/

というブログにわかりやすい記事が載っているので引用します。


世界史を勉強すれば、この「抜け駆け」こそが、搾取と隷属を作り出してきたことがよく分かります。とくに、「抜け駆け」を利用した間接統治は、白人が有色人種を支配し搾取する時の常套手段です。

ラテンアメリカでも、アフリカでも、まず、現地の有色人種のうち、抜け駆けして白人に媚びを売った有色人種に特権的な地位を与えます。そして、その特権的な有色人種に、他の有色人種を支配させるのです。

そして、支配される有色人種には、「抜け駆け」して白人政権のために働けば、オマエも特権的な地位に就けてやるぞ、とささやくのです。

全文は

『分裂勘違い君劇場 プログラマの労働条件を過酷にしているのは、過酷な労働条件を受け入れるプログラマです』
ttps://www.furomuda.com/entry/20070216/1171627060

権力者に逆らわない者、命令をよく聞く者を一級市民に昇格させてやり、反抗するものは二級市民の身分とする。一級市民には賞を与える、というわけですね。

・分断統治は小さな集団の中でも効力を発揮します。スタンフォード大学がある実験を行いました。刑務所を模した実験施設に囚人役と看守役の被験者を入れて、その動向を観察する実験です。この実験のなかで、看守役は賞と罰を巧みに利用して囚人役の結束を分断したのです。ほかのサイトから記事を引用します。

二日目、早くも事件が発生した。囚人らは監獄内で看守に対して些細なことで苛立ちはじめ、やがて暴動を起こしたのである。

看守らはこの事態を重く見、補強人員を呼んで、問題解決にあたった。しかし暴動は一向に収まらず、最後には囚人に向けて消火器を発射して怯ませ、その隙に監獄内に突入、全員を裸にした上で、暴動を主導した人物らを独房へと送ったのである

更に看守らは今後の暴動を抑止するために心理的攪乱(かくらん)作戦を開始した。まず暴動に関与していない囚人のグループを”良い”監房へ収容して彼等を丁重に扱い、そして関与した囚人のグループを”悪い”監房へと送り、過酷な扱いを行うことにしたのである。そして半日程が経過すると、今度は一部の囚人を、理由を教えずにそれぞれ交代させ、囚人らを混乱に陥れた。

つまりこの交代によって悪い監房に残された囚人らは、良い監房に移動した囚人が看守に何らかの密告を行い、その褒美で良い監房へと格上げされたのではないかと推測したのだ。

そしてこの巧妙な看守側の作戦は見事に功を奏し、たった二日目にして、看守と囚人の間のみならず、囚人内部でさえ、対立が発生した。

また途中から入獄したある被験者(彼は途中まで予備の囚人として待機していた)は、看守の態度を知るなりすぐにハンガーストライキ(絶食などによる抗議行動)を行ったが、逆に罰として真っ暗な独房へと押し込められ、数時間をそこで過ごすことを強要された。そして看守らは他の囚人らに対して、彼を独房から出す交換条件として毛布を渡すこと、より粗末な囚人服に着替えることなどを要求したが、囚人らはそれを拒否し、結果、更なる囚人間の対立を生んだ。

全文は

『情況の囚人 ― 1971年”スタンフォード監獄実験”とは』
ttps://www.furomuda.com/entry/20070216/1171627060

分断統治には内集団バイアスが関係していると考えられます。これは自分の所属する集団が他の集団よりも優れていると錯覚する現象です。リンク先で詳しく解説しているので、よろしければご覧ください。


【まとめ】

支配者チームが勝利するためには、いかに民衆チームの結束を分断するかがカギになります。民衆チームが数で勝っているときに団結されると逆襲される恐れがあるためです。逆に、民衆チームが勝利するためには、いかに分断統治を見破って団結するかがカギになります。

★分断統治は、学校や家庭で、子供を管理する方法として使われることもありますが、そのように育てられた子供は民主的なコミュニケーションを覚える機会を失ってしまうので、権力闘争でしか物事を判断できなくなります。
ttp://ronri2.web.fc2.com/game05.html

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日本に浸透してくるアングロサクソンの支配情念 2015年5月18日
ttp://www.news-pj.net/news/21035

資本主義と共産主義は、かって相反するもののように考えられていた。

前者は自由を、後者は平等を、それぞれ表看板の理念として掲げていた。

平等を表看板にかかげたソ連の共産主義国家はスターリンの独裁国家となり、やがて崩壊していった。

冷戦はおわった。

一方の対立軸を失った状況のなかで、現在は「自由」を表看板に掲げて、新自由主義と称する金融資本主義が、コンピュータの技術に援護されながら、国境と各国の伝統に貪着無く、大手をふって世界の政治と経済を支配しているようだ。

***

しかし、現状をみると両者は元々コインの両面である。

コインの表が自由の観念にもとづく金融資本主義で、裏が平等の観念にもとづく支配情念としての共産主義である。

その支配のイデオロギーに潜むのは、いわゆる「分断統治 (divide and rule)」である。

非支配の国民や民族を単に分断するのだけではなく、相互に対立させ誤解させ敵対関係にさせる戦略である。

対立するそれぞれの組織においても、さらに支配と非支配の構造を作り上げるのが、政治戦略としての分断統治の基本構造である。

***

分断統治の巧妙な戦略は、組織の末端においても戦術的に機能する。

大英帝国領のビルマ(現ミャンマー)に警察官として勤務していた G.オーウェルのエッセイに「絞首刑 ( A Hanging(1946) 」がある。

絞首刑を執行される犯罪者はヒンズー教徒のインド人、彼が収容されている刑務所の看守たちもインド人、看守の長はドラヴィダ系インド人、死刑囚の首に縄をかけて落下のレバーをひく者は刑務所の囚人で、ビルマ人の判事が立ち会っている。

死刑囚の落下後に刑務所長(オーウェルはあえて記述していないが大英帝国のイギリス人役人)があらわれ、わずかに揺れてぶら下がっている死体をステッキで突いて、「完全に死んでいるな ( He’s all right )」とつぶやいてから、腕時計を見ながら「やれやれ、これで今朝の仕事は完了だ ( Well, that’s all for this morning, thank God.)」という。

処刑後、 ヨーロッパ人との混血の若い看守は、即死しなかった囚人の脚を引っ張って死亡を確認した話をする。刑務所長は耳を傾ける。

さらに、その若い看守は、「でも、反抗する囚人は、もっと悪いですよ。」と、六人掛かりで独房から引きだすのに手間取った囚人の話をつづける。

若い看守「おまえが俺たちに引き起こしている手間ひまを考えてくれよ、といったが、もちろん聞き分けてくれませんでしたが。彼はほんとにやっかいだった」と、芝居がかった媚びた冗談を刑務所長にいう。

ビルマ人の判事は、突然笑い出す。周りの者たちもみんな同調して刑務所長を囲んで笑いだす。 オーウェルも笑った。

刑務所長は鷹揚な態度でにんまり笑い、愛想良く関係者らにウィスキーの提供を申し出る。

「われわれは、みんな一緒になごやかに一杯やった、現地人も欧州人もだ。死体は100ヤード先にあった。」でエッセイは終る。

***

同様の状況において、旧日本陸軍が中国で現地人を処刑をした場合、どうしていただろうか。

アングロアメリカンの米国もアングロサクソンの支配の構図は受けついでいるだろうが、大英帝国の役人ほどの熟達した対応を囚人たちにはしないだろう。

***

オーウェルの父親は、大英帝国のインドに駐在してアヘン局に勤務していた。

今日アヘンといえば麻薬であり、犯罪にかかわる危険物質であるが、アヘン局は、アヘンの栽培の管理をおこなう部局であり、それを中国に売りつけていた。

インドー中国ーイギリスの三国間で、インドの麻薬を原資として綿製品と茶が回転する魔の三角貿易である。イギリスはインド人には製品を作らせず綿製品をインドに売りつけ、アヘンと綿花を中国人に売りつけ、その金で茶を買い付けていた。

当時は、国家的な規模の麻薬貿易が国際的非難も受けずにまかり通っていたのである。

***

表現の自由に寛大なイギリス人であり、女王陛下の戯画を描いても問題にならない英国であるが、アヘンの話題だけはタブーに近いようだ。

権力や偽善に対して呵責なく批判するオーウェルであるが、ことアヘン( opium )に関してだけは彼の著作を調べてもどこにも言及が見当たらない。

今日のイギリス知識人の間でも、これだけはタブーのようである。(後藤春美『アヘンとイギリス帝国――国際規制の高まり1906〜43』参照)

ここに西欧人のいう「歴史認識」については、ある種の深い欺瞞があるだろう。

***

1993年、S.P.ハンチントンは「The Clash of Civilizations」を『外交問題』誌に発表した。

これに対してG. ピッコ氏が鋭く批判を加えた。

冷戦が終わって世界は平和を望むべきであるが、米国は「新たな敵が必要だった」と指摘している(・・・The Soviet Union was no more; civil war had erupted in the Balkans, the Caucasus region and Africa. There was a need for a new enemy. His theory was the first of many to offer one.・・・ (Giandomenico Picco: ’A dialogue of civilizations’; Special to Japan Times ;10/10/1998)。

結果的に、ハンチントンの論文は現代おこなわれている中東の混乱の枠組みを提示してしまっている。

彼は、分断統治派に格好の戦闘舞台の設計図を提供してしまった。

2004年にハンチントンは遺作となる「我々とはだれか――アメリカ国家のアイデンティティ」を発表して、合衆国がラテン系グループと非ラテン系の二つのグループ、二つの文化、二つの言語に分断されることに警告している。

しかし、「アメリカ国家のアイデンティティ」に危機感をいだいたハンチントンは、アングロアメリカンの底深い支配情念にとっては、いまだ善良なるアメリカンのようだ。

「アングロサクソン」の支配情念には「連合王国」という実体的伝統のある本拠地があるが、「アングロアメリカン」へと肥大化したグローバリズムの支配情念は、あたかもアメリカ政府さえも利用機関とみなしているように思えるからだ。

「アングロアメリカン」の支配情念には、国民的アイデンティティや民族的な伝統は支配の障害である。

アングロアメリカン的支配情念にとっては、「資本主義と共産主義」は結局、支配力というコインの両面に過ぎない。

なぜなら本家アングロサクソンの分断統治には、その内部に二重思考が隠されているからだ。

***

『マクベス』の最初に三人の魔女たちが歌う――Fair is foul, foul is fair (公正は邪悪、きれいはきたない、快適は不快、などなど、 なんとも多義的な表現で訳しようがない)

シェークスピアの全作品のなかで「マクベス」をもっとも評価するオーウェルは、彼の『1984年』で、魔女たちの言葉を転用する。

戦争は平和 自由は隷属 無知は力(war is peace;freedom is slavery; ignorance is strength)

つまり被支配者の言語内に二重思考を埋め込むのが言語支配の戦略であり、これが様々な行動とシンボルの使用にもかかわってくる。

この二重思考は、極度に抽象化された言語操作であるから、一般の人々は、実感をもって理解できにくい。

しかし、その抽象化された意図は知られることがなくても、具体的な行動で現実世界に影響をあたえことができる。

来客を迎えるにこやかなホストの笑顔は、獲物を得る前の隠された喜びである場合がある。

西欧人の、特に知識人における人生のゲーム化は、彼らの生活の様々な場面で観察できることであり、ゲームとはプレーであるが、同時に獲物をも意味する。

アングロサクソン的支配情念とは、結局のところ、戦略的言語操作に帰着する。

世界史を動かしているのは、言葉、言葉、言葉だ。

***

「カオス理論 (「Chaos Theory and Strategic Thought」)」という戦略理論を最近知った。

1992年にアメリカの戦略家 Steven R. Mann が発表した論文である。

これに対して批判的な指摘がある――「最近の出来事は完全に米国によって発明された「管理化された混乱 (manageable chaos) 」に合致している。それを創作した者たちに、Z. ブレジンスキー、G.シャープ、S. マンがいる。

S. マンは、「カオス理論と戦略思想」を著し、彼自身はかってのソ連の一部の共和国における「カラー革命」の陰謀に関わっている。

「管理化された混乱」理論の主要な原則は――

1 現体制に反対する様々なグループを合体させる

2 一国の指導者たちに、自分自身と軍隊の忠誠に対する自信を徐々に減退させる

3 攻撃的な反対者たちと犯罪者らを援助して、現状を不安定化される

などである。

特に、2)はターゲットにされた指導者に対する心理的攻勢である。

これはロシア側の一部の論評であるから、この指摘の妥当性については、各識者の見解に委ねる。

しかし、スターリンの共産主義と決別したロシアは、いまだに西欧において信用がないが、かってマルクス共産主義に多くのイギリス知識人たちは賛同していたのではないか。

***

本日、朝日新聞(5月14日)の夕刊の一面をながめていた。「安保11法案 今夕閣議決定」の大見出し。

紙面の左側には、「南シナ海 中国、数年後に滑走路」の記事。

両方の見出しを交互にながめていると、なんだか「安保11法案」を肯定したくなるような気分になってきた。

紙面の中央には横書きで「銀座・官邸前で抗議の声」があるが、その「声」がかすんでいる。

他の読者はどうだろうか。

自分も、すでに二重思考の言語操作に溶け込まされているのか。

安倍政権には、日本の伝統の本質と国益について、そして世界史的観点からアングロサクソン、アングロアメリカンの支配情念について、今一度深い歴史的洞察をおこなっていただきたいと願う者である。

もちろん、この支配情念は、一般のイギリス国民やアメリカ国民の国民性とは別個のものである。
ttp://www.news-pj.net/news/21035

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分断統治・分割統治
人々を地域・民族・宗教・身分などで分断・対立させ支配する統治方法
Divide-and-conquer, 2016.5.13, 2018.9.7,
ttp://www.geocities.jp/hksssyk/Divide-and-conquer.html

分割統治の歴史

 分割統治ともいいますが、他国や他勢力の地域や組織を支配するときに、内部対立を誘発し、支配しやすいいずれかの勢力を支援することで、その地域や組織の全体を支配するという支配方法です。

 歴史的には、ローマ帝国が支配下の都市同士の間に格差を設け、人々の不満を都市同士に向かわせることで、征服した都市同士が連携して反乱することを抑えることに成功した、というあたりが起源のようです。

 19世紀中盤から20世紀中盤まで約90年に渡り、イギリスがインドを支配していましたが、このときも分断統治が使われました。このときはイスラム教とヒンズー教の対立が支配に利用されました。

 イギリスのインド支配以降、分断統治は様々な国家や組織の支配に積極的に利用されるようになり、それが現在まで続いています。

 分断統治は、現在でもテロ・紛争などの宗教や民族対立、また、格差社会という国家内部構造を不満のはけぐちにすることで、国民を支配しやすくするという方法に利用されています。しかしながら、現在では、格差社会は政治の失策という認識が広がっており、人々の不満が政府に向かうことを防ぐことは難しくなってきています。

 人々は政治によって格差社会を是正できると考えるようになってきていますので、実際に格差社会を改善できる可能性は日増しに高まっていると言えるでしょう。2016.5.13


大規模な横割り分割と小規模な縦割り分割

分断や分割、両建の例
 あれもこれも対立誘発作戦だった

 一見すると分からないようになっていますが、分断して対立させコントロールして支配しようという戦略に使われている対立を挙げてみます。私たち一般人や組織同士の対立を誘発する印象操作が疑われる分断は思いのほか多いです。マスコミ報道レベルでは私たちの関心や悪意・善意などを誘導する報道が多くなっています。

ハラスメント・イジメ問題 … 暗黙の分断工作
セクハラ問題 … 暗黙の男女対立
パワハラ問題 … 暗黙の上司部下の対立
他国のイメージダウン報道 … 国家対立
オリンピック … 愛国心の強化 国家対立へ誘導 そもそも国別対抗戦にする必要はない
犯罪報道 … ごく少数の犯罪者と市民の分断 防犯利権のための危険偽装
学歴社会 … 学歴という隠された身分による市民分断
市民監視政策 … 共謀罪・通信傍受法などで監視・被監視という基準で市民を分断
マスコミ報道全般 … 利益誘導のための印象操作が目的 無から利益や必要性という有を生み出す大衆洗脳 対立構造の悪用が多い
右翼左翼 … 保守・革新の政治機能が機能しているという偽装
与党野党 … 左右翼より具体的な政治機能偽装
在日批判 … 日本人・朝鮮人対立
自国や自民族の美化 … 他国や他民族と優劣をつける分断
イスラエルとアメリカのシリア攻撃 … 国家対立・戦争などの誘発
アメリカ・ロシア … 二大軍事国家の対立 軍事危機の偽装 軍需利権の維持拡大
イギリス・フランス … 表世界の支配の実行犯の対立
ユダヤ人批判 … ユダヤ・非ユダヤ人対立
民族批判 … 社会や国家よりも多くの人たちをまとめて対立へ誘導
南北朝勢力 … 日本の分断支配 イエズス会系とメーソン系の分断説も
イエズス会・イルミナティ … 秘密結社対立
陰謀論 … 庶民と富裕層の対立 富裕層は超富裕層の身代わりの悪者役
血統支配 … 限られた血族にだけ富や権力を与え支配者層と市民を分断


大規模な横割り分割と小規模な縦割り分割

民族・国家・大勢力などの広範囲分割と組織内の上下関係を強める小規模分割

 タイトル名とサブタイトル名でほぼすべて説明してしまいましたが、分割統治には大規模な横割りパターンと小規模な縦割りパターンがあります。

 縦割り分割では上下の立場が違う人たちの間では争いが起こりにくいので対立を偽装する分割統治感は弱いので一般的には分割統治には含まれていませんが、支配のために分割していることはたしかですから、分割統治に含めても問題ないだろうとこのサイトでは考えています。

 実際に支配層は縦割り分割も好んで使っていて、イルミナティなどは33階層とも99階層とも言われる細かい階層に分割して支配されています。

 さらに大規模と小規模の間の中規模な分割統治としては、経済格差で序受け関係を作る社会階層や、政治家・軍人・警察官・市民といった職業毎に権力や実力で上下関係を作るというやり方もあります。社会階層や職業毎に生まれる上下関係は自然発生した部分もあるでしょうが、これも支配層が好んで分割統治に使っています。

 少数の特定の民族や部落、血族などをエリートとして特別扱いする代わりに従わせ、さらにそれらの人々を使って一般の人たちを間接支配するというのが分割統治のやり方です。これを社会階層や職業に応用して、一部の階層や職業に過度な特権を与えエリート化し一般人の支配するという支配方法になっています。

 このサイトが追っている集団ストーカー問題でも、同じ仲間だったはずの日本人を加害者・加害協力者・被害者などに立場を分割することで支配しようとしています。

 分割統治や支配層戦略の全体は牧畜がモデルになっています。羊飼いが羊を飼うために番犬を飼って、若いリーダー羊を何頭か残してそれ以外の羊を去勢して管理するような牧畜と同じパターンが私たちの人間の支配に悪用されています。

 支配者と支配される一般人というのは支配や管理のために意図的に作られた強者と弱者であるとも言えます。

 それぞれ分割された勢力は表向きは争ったりけん制しあったりしているように見えます。しかし、分割統治の本質はグループの頂点だけを支配層などの権力ネットワークで支配することで、末端の人たちを権力で従わせる点にあります。

 そのため分割統治の仕掛け人たちは本当はあまり争うことはないとみられています。主に争っている、あるいはそう見えるのは仕掛け人が使っている作業員や一般人である私たちなのです。

 秘密ネットワークを使って隠れて談合し、争わずに楽に支配し富や権力を得るというのが分割統治や支配層戦略のやり方です。2018.5.25


分割統治の目的

 分割統治の目的を簡単にまとめると次のようになります。


対立による社会混乱
 人種・民族・宗教・その他の勢力を対立させ、争わせることで社会を混乱させる。


真犯人の隠蔽
 偽の犯人勢力をあえて作っておくことで、真犯人、真の首謀者勢力の隠蔽を行い、人々の批判の矛先を変える。


反対勢力への監視と統制の強化
 人種や民族、地域などで人々を分断し、互いに争わせることで、互いの監視や各勢力の権力バランスのコントロールを行う。助力がないと活躍できないような小勢力に助力しつつ借金などで支配することで、全体を支配させ利益を得る。2017.5.29, 2018.1.21


選択肢の制限
 政治の左右翼など意図的に分断された、あるいは対立が偽装された勢力が出す意見のどれを選んでも支配層が得をする、あるいはあまり不利益にならないよう選挙などでの人々の選択肢を制限する。2017.5.29, 2018.5.26


社会的なルール変更
 各勢力を争わせた後は、その反省として支配層に都合のよい新たルール作成やルール変更を行い、さらなる利益の拡大を行う。

まとめ
 社会的な混乱は、社会全体のモラルを低下させ支配層である、多国籍型の秘密エリートネットワーク(*1)の得意な詐欺・洗脳犯罪の成功率を高める土壌となります。モラルの低い社会のほうが詐欺洗脳犯罪を行う上での協力者も作りやすくなります。また分断された各勢力は互いに監視し合いますので、エリートネットワークが支援し、利用している勢力やそれに敵対する勢力の情報も手に入れやすくなります。反対勢力だからといってつぶしてしまうよりも残しておいたほうが、友好勢力への監視に使えるというのが支配層戦略です。情報を管理しつつ各勢力へのコントロールを強化し詐欺洗脳犯罪を永続するという戦略です。2017.5.29, 2018.1.21


両建戦略の目的

争いの発生と解決による利権の創造

 両建戦略とは二つの勢力を作り、争い事を起こしたり解決させたりして利権を拡大する支配層戦略(*2)のことです。陰に隠れて他人を動かすことで利益を得るシオニストネットワーク(*1)お得意のフィクサー型支配戦術です。両建戦略と分断統治(戦略)は似ていますが、色々ある分断統治の方法のうちのひとつが両建戦略です。

 両建戦略が行われる理由は、本質的には争い事を意図的に引き起こすこと自体が目的となっています。人は一般的に喧嘩や争い事を起こすものではありますが、自然状態では互いを強く傷付け合うような過剰な争い事は起こさないものです。戦争が代表的な例ですが、特に大きな争い事というものはわざと起こるように仕向けないことには、なかなか起こりません。人間同士は大きなくくりでみれば同属であり仲間ですから自然状態では無闇に殺しあうようなことはしないように出来ているのです。

 それではあまり儲からないので、争い事を意図的に引き起こす、というのがシオニストネットワークの戦略です。社会を混乱させ争いを起こし、そこで利益を得て、争いが終わると自分たちの都合のよいようにルールを変更するというのが、長年行われてきた彼らの詐欺支配戦略です。


両建戦略は継続型分断統治

 分断統治では2大勢力を作り争わせるという方法がよく使われています。歴史的にみればイギリスとフランスが何百年もその2大勢力を演じています。政治の与党と野党なども両建戦略のひとつと見ることが出来ます。その時々の支配層の都合で、利益が出る場合は協力させ、利益に反するときは争わせるということが日本でも何十年も繰り返されています。

 今の社会で起きている出来事、特に政治的な出来事の多くはヘーゲル弁証法の正反合の発展思想に基づいて仕組まれた争い事であって、大きな事件の多くが意図的に起こされた争いだったとみられてます。

 私たちは政府やマスコミが流す情報によって世界が動いているように思わされていますが、実際には結果の決まったお芝居を見させられているような状態にあります。何十年も前にケネディ大統領が“すべてのニュースには流す目的がある”といったことを言っていますが、あの言葉は今も真実を示しています。

 補足しておくと、現在ではマスコミの発信出来る情報量自体が増えてしまっているので、あまり意味のない情報、つまり支配層からするとうまく大衆誘導出来ていないようなニュースも増えているようです。2018.1.21


日本と特亜の分割統治

 大局的にみると、日本の嫌韓思想誘導や韓国の反日教育なども、英米超富裕層などによる日韓支配のための不和や対立構造の意図的な構築であろうことが疑われます。

 日韓はともに海を隔てた外国同士ですから、嫌いになる理由も、好きになるきっかけも、もともとの自然状態ではそれほど存在しません。日韓友好は国益を見込んだ日韓両政府の意向であり、日韓対立はそれを拒む勢力の思惑とみるべきでしょう。

 日中友好に関してもアメリカは以前から強く反発しており、親中政策を打ち出した政治家、田中角栄や小沢一郎などは、政治的失策というよりも、強引な妨害工作によって失脚させられたとみられています。2016.5.13, 2016.5.24

 これに対して米中は友好関係を深めて国益を拡大していますので、直接的にはアメリカ勢力が主導する、日本と特亜(中・韓・北朝鮮)との分断政策が、現在も行われていることが予想されます。2016.5.13

 日本と特亜の不和は、アメリカの都合で、アメリカ主導で行われているマクロ的な分断統治とみられており、日本国民が忌み嫌う核兵器の実験を何度も北朝鮮に行わせている理由もここにあるとみてよいでしょう。

 日本と特亜の友好関係が築かれた後は、ロシアとの関係も改善されることになるでしょう。日本が中東から輸入している石油は、タンカーで運ぶだけでも燃料費が2千万円などと莫大な費用がかかり効率が悪いのですが、ロシアと北海道の間に海底石油パイプラインを通してしまえば、輸送コストは劇的に下がり、エネルギー問題も一気に改善に向かいます。

 ロシアは世界一の石油産出国ですから、価格の交渉もしやすく、安定した供給も見込めます。また、ヨーロッパ諸国の石油の多くもロシアが供給しています。

 ちなみにISISテロが攻撃している地域も石油パイプラインが通っている地域ですので、石油利権をめぐる水面下での様々な戦いが存在することが予想されます。2016.5.13, 2016.5.24


日本の領土問題はすべて分断統治工作、逆に共有化で解決可能

 分断統治の分かりやすい例が領土問題です。北方領土はロシア、尖閣諸島は中国、竹島は韓国、それぞれ日本との間に領土問題という外交問題を発生させ、互いに争わせるという100年の計が実行されています。

 中韓は国策として政府が反日思想誘導を行い、政治に利用していますので、しばらく解決は難しいでしょう。しかし、ロシアであれば、特に反日という訳でもありませんので、比較的解決しやすいでしょう。

 領土問題で問題となっている島は、島自体はどれも大した価値のない島や岩ですので、つまらない紛争のきっかけとして残すよりも、早く分割なり、買取などして決着をつけてしまうほうがよいでしょう。

 理想的な解決策としては、所有権紛争地域(?)は両国共有の自由貿易地域などにすれば、平和的な解決が可能で、さらに両国のさらなる発展も見込めるでしょう。

 レジャー施設を充実させていけば、領土問題解決の成功例として、歴史に輝かしい名を残すことも夢ではありません。日本だけでなく世界の紛争地域も共有地化してしまい、税収や資源などの利益を公平に分配すれば健全な運営も可能となることでしょう。

 インターネットで人々がつながってしまった現在の世界で、その土地がどの国の名義であるかといった問題は、ささいな問題のようにみえます。2016.5.30

< 追伸 2016年10月18日 >

 日本とロシアの領土問題、北方領土問題への解決策として、共有方式の共同統治案が検討されていることが、日経新聞の記事となっていました。

 共同統治案は菅官房長官が否定しているように、現在の日本の政治方針では、表向きは否定されています。政府としては2島返還という2島の譲渡を求める方針で話を進めたいようです。2016.10.18


< 関連 >
新領土問題 日本の土地がイギリスに取られていた
 天皇陛下が危ない! 皇居のとなりのイギリス大使館はイギリスの土地に建っている


コラム : 分断統治は個人でも使えるがリスクが高い詐欺術

 余談ですが、分割統治・分断統治・対立工作などは、ここであげた大きな勢力同士でなくても使うことができます。最少人数はたったの2人です。上司が2人の部下に、それぞれ異なる情報を与えることで対立させ、自分に有利な方向へ事態を変化させるような使い方ができます。

 たとえば、お互いに対して、別の人はもっと頑張っているとか、影であなたの悪口を言っていたとか伝えることで対立させる、自分に有利な状況を作り出すことができます。これは姑が嫁たちに対して使っているというのがフジテレビで放送されていたことから、今後、庶民レベルでも悪用される危険があります。

 分断工作は詐欺洗脳術ですから、本当はこんなことを書くと情報が広まってしまうので、紹介すべきではありません。しかし、そうではありますが、日本も心理戦が家族や交友関係・ビジネスなどでの、人として求められるメインスキルとなるような社会に変わりつつありますので、対処するためにはいたし方ないことでしょう。

 心理戦というのは誰かが始めてしまうと、それに対抗するためほかの人たちも使わざるをえないものですから、偽ユダヤなどが日本に心理戦を持ち込んでしまった以上は、これを理解することで対処していくしかないでしょう。

 対立や争いが起きているとき、これは分断統治や対立工作かもしれない、と考えられる視点を持つことが大切です。

 みなさんは、なるべく悪用しないよう注意してください。分断統治を個人レベルで顔見知りの人たちに行うと嘘がバレやすいうえに、バレてしまったときは自分の信用を大きく傷つけるというたいへんリスクの高い詐欺戦略となっています。

 分断統治や対立工作はあくまで人をだます詐欺術、洗脳術の一種であることをよく心得ておいてください。

 このサイトのテーマとなっている集団ストーカー問題でも、被害者の周囲の人たちへ、被害者の悪評を振りまく風評被害というのがあります。これも分断統治の理論を民間レベルで悪用したかたちになっています。2017.5.29
ttp://www.geocities.jp/hksssyk/Divide-and-conquer.html


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世代間闘争論、あるいは団塊の世代の精神的病理について 2008年03月30日
ttps://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3acf222a439537072916d8c0c85a3fe5

 このブログの今年の1月9日の記事で赤木智弘さんの「希望は戦争」について触れ、私も「もうこうなったら世代間戦争だとでも言いたくなってくる」と書いたことがありました。

 月刊『創(つくる)』の今月号を読んでいたら作家の雨宮処凛さんが、「『世代間闘争』問題」という記事を載せていました。その記事に触発されて、「世代間闘争問題」を再度論じてみたいと思います。

 いま全国でロスジェネ世代のフリーターや派遣・非正規労働者の労働組合が次々に設立されていくという感動的な現象が進行しています。各地で立ち上がった人々に対して心からの声援を送ります。皆さまがんばって下さい。心から応援します。

 さて、雨宮さんの記事は、京都の若者向け労働組合「ユニオンぼちぼち」のパネルディスカションの際に起こった「事件」を書いたものでした。パネルディスカッションは、反貧困そして生存のため、若者がどのように連帯していけばよいのか真剣に話し合うものだったそうです。その際、フロアーにいた団塊の世代の学生運動経験者らしいオジサンが、「甘えるな」「一人一人がしっかりしていない」「戦略意的に生きてこなかった結果」などと、すごいケンマクで「フリーター=自己責任論」をまくしたて、あげくの果てには会場にいた生活保護受給者に対し、「生活保護を受けられるだけでも有り難いと思え」などと暴言を吐いたというのです。

 雨宮さんは、「そんな言葉を聞くたびに、猛烈に胃が痛くなる。人に責められる前に、当事者は死ぬほど自分を責めている。責めに責めて、私の周りでも多くの人が命を絶った。そのたびに、思うのだ。言葉は簡単に人を殺せるのだ」と書いていました。

 団塊の世代には確かにこの種の人間が多い。残念なことですが。私自身、長い間「フリーター研究者」として過ごしてきて、団塊の世代の人々からその種の言葉をもらって傷ついた経験があります。このブログにも、団塊世代とおぼしき人からその類のことを書きこまれてすごく傷ついたことがありました。もちろん団塊の世代すべてがそういう人なわけではありませんが、残念ながら、かなりの割合でこういう人々が存在することも事実です。

 なぜ団塊の世代の人にはこういう人が多いのだろう? 基本的に社会科学のイロハも分かっていないとしか思えない。社会科学の「イ」の字でも分っていれば、以下のことはすぐに分かるでしょう。

 ロストジェネレーションの悲劇は、日本企業が土地ころがしのバブル生成に狂奔し、日本政府がそのバブルを放置し、ついにそれを崩壊に追い込んだことによって生み出されたこと。その背後にはプラザ合意から日米構造協議と続いた米国による市場原理主義イデオロギーに基づいた一連の内政干渉があること。バブルに踊らされたのは団塊の世代の人々であり、ロスジェネ世代の人々には何の責任もないこと。それなのにバブル崩壊の被害をロスジェネ世代が一身に背負っていること。

 いわば犯罪者たちがそのまま食い逃げし、無罪の人々が冤罪で牢獄につながれているようなものです。こうしたことが分かれば、まずは団塊の世代として、ロスジェネ世代に謝罪の一言もあってもよいと私は思うのです。なぜハレンチにも自己責任論をまくしたてて、若者を傷つけ、死に追いやっているのか。あまりにもひどい。
 
 彼ら・彼女らが社会科学の「イ」の字も分っていないのは、彼らが学生時代ゲバルトばかりして暴れ回っていたため、全く基礎的な教養がないことと関係があるのでしょうか?
 彼・彼女らはマルクスぐらいちゃんと読んでいたと思っていたのですが、暴れるのに忙しくてマルクスもちゃんと理解していなかったのではないですか? 

 私は、いわゆる「全共闘運動」というものに対して決定的に嫌悪感を抱いています。全共闘が掲げた「大学解体」「自己否定」などという全く訳の分らないスローガンには怒りを覚えます。運動の目的も何も分らない。甘ったれもいいところだ。そんならアンタたちがトットと大学を退学すればよいだけじゃないですか。何で勉強したい人々の邪魔しながら大学をバリケード封鎖などしなければならないのですか?

 連帯などはじめから求めていないから、各個人がバラバラに孤立していくしかなかったのです。彼らは破壊しか知らず、創ることなど何もできなかった。信州大学全共闘で破壊活動ばかりしていた猪瀬直樹が、小泉政権による日本破壊政策の片棒を担いだのは、象徴的なことだったと思います。

 いや、全共闘の中でも評価できる運動もあります。日大全共闘です。私から見て日大の運動は評価できますが、東大含めそれ以外の大学の運動は全く評価できません。日大全共闘は、「学園の民主化」というきわめて正当で具体的な課題を掲げて闘い、運動の目的がハッキリしていたと思います。そして皆が共通目標に向かって連帯し、協力することによって確かな成果を勝ち取っていったと思います。

 だから日大全共闘OBは、学生運動経験を人生における輝かしい出来事としてポジティブに評価でき、その後の人生においても運動経験を前向きに活かしている方が多いと思います。それは人間同士が連帯して何かを生みだすことの素晴らしさを、彼・彼女らが運動の中で学んだからだと思います。

 その他の大学の全共闘が掲げた「大学解体」「自己否定」などという運動の目的も何もサッパリ分らないメチャクチャなスローガンからは何も生まれません。目的が分からないから連帯などしようがない。「自己否定」から「自己責任」へ。連帯のすばらしさも経験することのできなかった彼らは、アトムへと分解し、徹底的に個人主義的な思考になってしまったのではないでしょうか。

 運動の中で何も得るもの、誇れるものも何も得られなかった彼・彼女らは、「運動なんかバカがするものだ」みたいなことを自分の子どもたちに平気で言って、人々が生きやすい社会をつくるために力をあわせて政治を変えていこうとする努力そのものも否定するようになりました。彼らは極度のニヒリズムに陥って個人主義的になり、自己責任論をまくしたてるようになってしまったのではないでしょうか。

 彼らは学生時代に暴れていただけで勉強していないにも関わらず、社会に出て自分が努力したから、個人の力で頑張ったから何とか成功してきたと勘違いしているのです。勘違いしてナルシズムに浸っている。それでロスジェネ世代に対して、「努力が足りない」「頑張らないのが悪い」「甘えるな」などと暴言を吐くのです。

 あなたたちが社会人になった70年代は、頑張ればどうにかなる時代だったのですよ。個人の力でも何でもない。90年代には個人の力で頑張ってもどうにもならなようない社会構造ができあがってしまったのです。派遣労働の自由化などによって。

 10%の経済成長を遂げている時代の失業者者も「自己責任」、マイナス成長の時代の失業者も同じく「自己責任」なのですか? バカも休み休み言いなさい。
 
 全共闘の人々が犯罪的だと思うのは、彼らがバカげた運動をしたせいで、その後の日本人の大多数が社会運動そのものに決定的にネガティブなイメージを持つようになってしまったこと。そして民衆が歴史を動かすという具体的イメージを日本社会が失ってしまったことです。学生運動が実際に社会を動かしてきたフランスや韓国などの活力比べて、日本がここまで硬直してどうしようもなくなっているのも一重に全共闘運動の責任だと思うのです。すでにして彼らは、こうして後の世代に多大な負債を残しているというのに、あろうことかこの期に及んで、貧困に苦しむ若い世代の新しい運動に対して、「自己責任」と罵倒しながら冷水を浴びせかけるなんて、私には断じて許せない。彼・彼女らに対しては断固として闘わねばならないと思います。
 
 いま全国で起ちあがっているロスジェネ世代は、団塊ジュニア世代でもあります。ぜひ両親の世代をギャフンと言わせるだけの成果を勝ち取りましょう。そして「団塊の世代の呪い」による日本の社会運動の沈滞を、創造的に乗り越えていきましょう。
ttps://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3acf222a439537072916d8c0c85a3fe5


分断統治への反撃 ―こんどはこっちが分断する番だ 2008年04月25日
ttps://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/e41b39579770bca33cadde5f17c8faa6


 まず、一つ前の記事がだいぶ物議をかもしだしたようですので、続きを書きます。なぜあんなことをを書こうと思ったのかを説明します。

 あの記事は、少なからぬ団塊の世代の方々を傷つけてしまったようです。私は、あの記事で「ニヒリストかつナルシスト」という精神的傾向を持つ全共闘崩れの一群の方々を批判しました。もちろん私は、前向きにポジティブに生きておられる元全共闘の団塊の世代の方も少なからず知っています。ですので、心の中では「ああ、ステレオタイプなこと書いちゃってすいません」と謝りながらも、なおかつ敢えて書きました。

 というのも、「俗流若者論」で若者が攻撃され、若者が打ちひしがれているという現状があり、それに対するささやかな抵抗として「俗流団塊論」で少しくらい言い返してやったって、バチは当たらないだろうと思ったのです。レッテル貼りにはレッテル貼りで対抗し、レッテル貼り攻撃してきた上の世代の方々に自省を促したかったという点があります。

 赤木智弘さんの『若者を見殺しにする国 −私を戦争に向かわせるものは何か』(双風社、2007年)の第1章は「強大な敵としての俗流若者論」でした。それは、上の世代から放たれる「最近の若者は・・・・」という不当なレッテル貼りに対する抗議の文章です。それを読んで、共鳴したというのも、あれを書いた動機の一つです。

 私は、このブログを始めてからというもの、若者たちとの論争をだいぶしてきました。中国・韓国に対する差別的バッシングにあけくれる若者たちとの論争です。私もカーッとなって「差別はやめろ」などと口泡飛ばすような論争をしてきました。

 しかしながら、最近になって、「自分は分断の罠にはまっていただけなのではなないだろうか?」と自省するようになったのです。中国・韓国を叩いてウサを晴らそうとする、絶望的な状況に追い込められた若者の気持ちも分かります。絶望的な状況に置かれて未来が見えない中、しかも自己責任論で上の世代からバッシングされる中、「自分よりダメな人々」を求めて、韓国・中国に攻撃の矛先を向けてしまっているのでしょう。人間は弱いものです。これだけ格差が増大したら、そうなってしまうのも仕方ないです。

 市場原理主義のグローバル化によって絶望的な状況に追い込まれた若者のやるせない不満のはけ口として、中国・韓国を利用しようとしているのは、『諸君!』や『正論』などに寄稿するご老人方です。そしてその背後には、アジア諸国を分断して混乱させながら、日本の従米状態を恒久化させようとする米国の戦略があります。日本人に「中国は怖い」というイメージを徹底的に刷り込むことによって、日本が米国の半植民地状態にあることを恒久化させ、日本を米国とって便利なATMマシーンとして機能させ続けようというわけです。ちなみに、『諸君!』という雑誌は、そもそもCIAの工作資金で創刊されたものです。

 西洋帝国主義のお得意は分断統治戦略。大英帝国はインドを植民地統治するにあたって、イスラム教徒とヒンドゥー教徒が互いに争うように仕向けさせ、彼らの怒りの矛先が英国に向かわないようにしました。そのせいでインドとパキスタンの分裂とその後の抗争の悲劇が生まれたわけです。

 日本国内で、米国のエージェントのようになって反中・反韓論を威勢良く展開しているご老人方、豪邸に住んで何不自由なく暮らしている方々は、いまの若者の絶望的な状況に共感できる一片の感性も持ち合わせていない。彼らは、自分たちの世代の責任でここまで日本をダメにしてしまったという、その犯罪を覆い隠そうとするかのように、若者の目を国内矛盾からそむけさせようと、意図的に中国・韓国に対する敵意を煽りたてようとしているのです。だから右派雑誌ときたら、中韓批判やら民主党批判やら朝日新聞批判の特集ばかりで、格差社会批判の特集など組もうとしないのです。それで「日本の格差など中国に比べればはるかにマシだ」などという、およそ反論にもなっていないハレンチな開き直り論を展開するのです。

 あれらの雑誌に寄稿する人々は、中国・韓国批判の一方では、自己責任論をあおりたて、市場原理主義を礼賛する人々でもありました。宮台真司氏の言うところの「ネオリベ右翼」です。「ネオリベ右翼」は、方法論的個人主義を大前提とする市場原理主義を礼賛しながら、なおかつ国家主義を煽りたてるという、とてつもなく矛盾した人々です。

 それで、市場原理主義を正当化するところの新古典派経済学がどんな学説なのか分かっているのかといえば、彼らは不勉強で全然知らない。知らないままに、ただただ米国に迎合して資本主義万歳、構造改革万歳を唱和してきただけ。だから、自分の思想がとてつもなく矛盾しているという事実そのものにも気付かない。救いようのない愚かな人々です。

 しかも、ああした反中・反韓雑誌に寄稿している方々の少なからぬ人々が、元左翼活動家だったりするで唖然とします。そのような無節操な人々が信用できるわけないでしょう。「左翼はバカだ」という若者の皆さん。少なくとも日本の左翼は本当にバカだと私も思います(ただ、外国の左翼はあまりバカでない人たちも多いですが・・・)。そのバカな左翼思想にかぶれていたような浅薄な人々なんて、右翼になった今も変わらずバカなのだと思いませんか?

 絶対にあの無節操な元左翼右翼たちを信頼してはいけません。若者たちを、彼らバカな元左翼右翼の影響下から引き離すにはどうしたらよいのだろう、私たちが分断されるのではなく、彼らを分断するにはどうすればよいのだろう、それがあの文章を書いた主要な問題意識です。手始めに全共闘崩れの構造改革礼賛論者の精神的病理の分析をしようと思ったのです。
  
 「分断統治戦略」とはよく言ったものです。私なんか、まんまと支配層の策謀に引っかかって、分断の罠にはまりこんでいたのかも。私は、格差社会を批判する、中国だけでなく米国もちゃんと批判するような右派の方々は好きです。いままで、私たちが分断されてしまっていた。これからは彼らを分断してやりましょう。まずは政治的ヌエのような存在である「ネオリベ右派」を社会的に孤立させ、その思想的影響力を消滅させることだと思います。
ttps://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/e41b39579770bca33cadde5f17c8faa6

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マルクス主義で言う平等というのは 99.99% の被支配者の間では階級差別が全く無いというだけの話です。

竹中平蔵さんが、

派遣社員と正社員と待遇が違うのは平等の精神に反するから、正規社員も非正規社員と同待遇にしろ

と言っているのも 99.99% の被支配者の間では階級差別が有ってはいけないという主張ですね。


だから、ユダヤ人は最初は共産化、今は移民の大量受け入れで 0.01% 対 99.99% の世界を作ろうとしたのです:

世界の超富裕層26人、世界人口の半分の総資産と同額の富を独占
2019年1月21日 14:19 発信地:ダボス/スイス
  

【1月21日 AFP】世界で最も裕福な26人が、世界人口のうち所得の低い半数に当たる38億人の総資産と同額の富を握っているとの報告書を、国際NGO「オックスファム(Oxfam)」が21日に発表した。拡大する一方の貧富の差を是正するため、裕福層への増税が必要だと各国政府に強く求めている。

 スイス・ダボス(Davos)で開かれる世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)を前に発表された最新報告によると、資産額10億ドル(約1100億円)以上の裕福層の人々が世界各地に保有する資産の総額は2018年、毎日25億ドル(約2700億円)ずつ増加した。

 世界一の富豪である米アマゾン・ドットコム(Amazon.com)の創業者ジェフ・ベゾス(Jeff Bezos)氏の資産は昨年、1120億ドル(約12兆2800億円)に増えた。オックスファムによればベゾス氏の総資産のわずか1%が、人口1億500万人のエチオピアの保健医療予算全額に匹敵するという。

 一方、世界人口のうち経済的に恵まれない半数に相当する38億人の資産総額は昨年、11%減少した。

 オックスファムは、拡大する格差によって貧困対策の効果が損なわれ、経済は打撃を受け、人々の怒りをあおる結果になっていると強調。各国政府が保健医療や教育といった公共サービスに割く予算を削減する一方で、富裕層に対する税制優遇を続け、経済格差をさらに深刻化させていると警告した。

 報告書は、富裕層や大企業に課税して「底辺への競争」をやめるよう各国に強く要求。最富裕層がたった0.5%多く税金を払えば、「現在教育を受けられずにいる子どもたち2億6200万人に教育を授け、330万人の命を救えるだけの保健医療を提供しても、余りある資金を確保できる」と指摘している。(c)AFP

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因みに、赤軍派もカンボジアのポル・ポト政権も毛沢東をそっくりそのまま真似しただけなんですね:

東の空より紅い太陽が昇る如く
中華に毛沢東が現れた
彼は人民に勇気と幸福と希望を与える
彼こそが偉大なる救世主、大いなる明星也

東方紅,太陽昇,
中国出了個毛沢東。
他為人民謀幸福,
呼児咳呀
他是人民的大救星。
メンテ
赤軍派 浅間山荘事件 ( No.9 )
日時: 2022/05/10 06:27
名前: スメラ尊 ID:neEbeIso

2011-02-27 連合赤軍って何?

実は私、連合赤軍とよど号ハイジャック事件とかテルアビブ空港乱射事件を起こした日本赤軍って同一組織だと思ってたんですが、違うんですね(そもそも名前が違う)。正確には、母体は同じだけど違う組織。では連合赤軍とはどういう成り立ちで、どういう思想を持っていたのか。

赤軍派

名前からも推察されるように、この組織は二つの過激派組織が合わさってできたものです。ひとつはもちろん赤軍派。1969年9月結成ですが、前身はもう少しさかのぼれます。思想の基本は、創立者で後に議長となる塩見考也の「過渡期世界論」つまり世界同時革命、そして権力の象徴である機動隊の殲滅が基本にあります。後に連合赤軍の最高指導者となる森恒夫はこの赤軍派にいました。彼らは、69年に首相官邸突入を企てたときも「わからないけどとにかく最後までやるしかないんだと」くらいの考えしかありませんでした(もちろん失敗)。70年のよど号ハイジャック事件でも、もともと彼らは北朝鮮を支持していないにもかかわらず結局北朝鮮に亡命するのですが、「俺らの心意気を見たら必ずキューバまで送り出してくれるだろう」などと言っていたらしいですし、重信房子がパレスチナに出国しても、あまりにも知識がなく理念先行に過ぎかつ首相官邸占拠とか言っているのでパレスチナの活動家に「ザッツ チャイルディッシュ レフティスト」と言われる始末でした。要するに考えなしだったのです。

そんな赤軍派も、当初は全共闘運動のゆきづまりなどから武装闘争論が人気を集めてはいたのですが、幹部が逮捕されたり出国したりで、結果的に森が「押し出されるようなかたちで」最高指導者になってしまいました。彼はやさしいが小心者で、強く言われると迎合しやすいたちでした。また内ゲバ(他の組織との暴力を用いた争い)でも逃走したことがあり彼自身負い目を感じていたのですが、このことも後の事件に作用します。

革命左派

連合赤軍を構成するもうひとつの組織は革命左派です。ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループで、もともとは労働運動を行っていました。後に連合赤軍の最高指導者になる永田洋子はこちらに所属していました。彼女の小学校時代からの友人によると、彼女はものごとを突き詰めて考える人で、(共立薬科大の学生だったが)薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいが、そのためにはまず社会を変えないと、と話していたとのことです。私は彼女に「リンチを主導した冷血女」というイメージを持っていましたが、もともとは生真面目なヒューマニストだったようです。

しかし、創立者の一人川島豪が権力を持ち、他の組織に対抗しようと武装闘争路線に進み始めたことで、組織は変わっていきます。いきなり軍事パンフレットを渡されたメンバーは戸惑いました。またこのころ、川島は妻が外出中に永田をレイプしますが、永田は組織のためにそれを秘密にします。

以後革命左派は、「反米愛国」をスローガンに(ただしこれは50年代にはやった思想で、当時はもう時代遅れだった)、過激な行動をとることで目立つ組織となっていきます。例えば川島は、愛知外務大臣のソ連訪問を阻止するため決死隊に空港で火炎ビンを投げさせた際、作戦が失敗しても空港突入を知った段階で「やったぜベービー」と破顔一笑したらしいです。作戦の成否よりも目立てるかどうかを大事にしていたようです。彼はその後も、新聞社のヘリコプターを奪って首相の乗る飛行機にダイナマイトを投下しろとか(新聞社にヘリがあることも調べず、しかもメンバーにヘリを操縦できる者がいないにもかかわらず)荒唐無稽な作戦を指示します。逮捕されても獄中からこれを続けました。

このため、赤軍派同様、逮捕者が続出、組織の崩壊が進行します。こんな中、森と同様、押し出されるようなかたちで最高指導者になったのが永田洋子でした。選挙で3票集めての結果でした。資質(人格・理論力)だけでなく健康にも問題(バセドー氏病で頭痛持ち)があったため、周囲にも本人にも意外な結果でした。

なお、このような状況でも、組織は「救対」(逮捕されたメンバーへのサポート)部門がなく同志をほったらかしでしたが、そんな状況を見かねて行動したのが金子みちよでした。彼女は武装闘争路線に疑問を持ち一時期脱退を考えましたが、恋人の吉野雅邦に説得されてとどまります。彼女は後にリンチで殺害されることになります。

また、同じく武装闘争路線に疑問を持っていた大槻節子も脱退を考えましたが、自分が逮捕された時の自供がもとで逮捕された恋人の渡部義則に説得されとどまります。彼女も後にリンチで殺害されます。

赤軍派と革命左派を比べてみると

さて、両組織を比較してみましょう。()内は、前者が赤軍派、後者が革命左派についての記述です。

共通点: 深く考えずに行動する、暴力を用いた活動を行う、指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない、逮捕者等が多く組織が崩壊にひんしている

相違点: 思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)、女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


こんな組織が一緒になって物事がうまく進むはずがありません。なのになぜ両者は合同したのでしょうか。また、「同志」への凄惨なリンチはどのようにして始まり、進行していったのでしょうか。次回はそのあたりをメモしてみます。
ttp://www.yoshiteru.net/entry/20110227/p1

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2011-03-04
連合赤軍はなぜ「同志」を12人もリンチ殺害したのか
ttp://www.yoshiteru.net/entry/20110304/p1

このメモでは、連合赤軍事件最大の悲劇、いや、日本の「学生運動」「社会運動」中最大の悲劇である、連合赤軍が「同志」12人をリンチ殺害した事件について、小熊英二さんの大著「1968」をもとに整理します。


1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産 – 2009/7/1
小熊 英二 (著)
ttps://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4788511649/gardenmemo-22/


連合赤軍はどのように誕生したのか、また「同志」へのリンチはどのようにして進行していったのか。そしてそれはなぜ起こったのか。

連合赤軍の母体−「一緒になってはいけない二つの組織」


連合赤軍は、そもそも一緒になりそうにない二つの過激派「革命左派」(ルーツは66年4月結成の「警鐘」というグループ)と「赤軍派」(1969年9月結成)が合同してできた組織です。


両者の共通点: ◦深く考えずに行動する
暴力を用いた活動を行う
指導者になった人物は周囲からの評価が高いためその地位についたわけではない
逮捕者等が多く組織が崩壊に瀕している

相違点: ◦思想(世界同時革命、毛沢東支持の反米愛国)
女性観(女性蔑視、婦人解放で女性メンバー多数)


これって、「一緒になってはいけない組織」そのものだと思うのですが・・・なぜそんな両者が一緒になってしまったのでしょうか。


連合赤軍誕生の経緯

簡単に言えば、両者が壊滅の危機に瀕していた頃、革命左派創立メンバーの一人・川島豪の指示があり、仕方なく一緒になったのです。

経緯の詳細は以下の通りです。

革命左派は、逮捕された川島豪を奪還するため民間の鉄砲店を強盗し銃を奪います。彼らが信奉する毛沢東が「人民のものは針一本、糸一筋とってはならない」と言っているのにです(毛沢東が実際にどんな人物だったかは別として。※このメモの末尾で関連メモをご紹介しています)。これで革命左派は世間に知られるようになりました。

赤軍派もこれに影響を受けて「M(マフィア)作戦」を開始します。要は金融機関強盗です。

両者、悪いことは真似するんですよね・・・彼らはこのようにして武器やお金を集めました。

一方警察は、こういった過激派摘発のためにアパートや旅館25万か所を4万5000人の警官でしらみつぶしに捜索するようになり、結果彼らからは多くの逮捕者が出ました。

対する革命左派の永田らは冬の札幌などで息を殺し続ける生活に疲弊していき、都市部から出て山にこもるようになります。これがアジト・山岳ベースの発端です(なお、この山岳ベースができた背景には、永田が批判者を都市にばらけさせずに集めておきたがっていたからではないかという元「同志」の回想もあります。これが、後の悲劇の遠因になります。)。

赤軍派も同様に組織が壊滅状態に陥ります。

そんな中、川島が獄中から赤軍派との合同を示唆します。そして71年夏に連合赤軍が誕生。

このように、つぶれかけの集団が仕方なく一緒になったのです。しかし、この相容れないはずの両者が一緒になることで、悲劇は進行していきます。

処刑開始のきっかけは「大言壮語」と「生真面目」

連合赤軍は山岳ベースにこもり続けます。そんな中、革命左派の山岳ベースからは脱走者が出ます。

これに対し赤軍派の森は「処刑すべきではないか」と発言。すると革命左派は脱走者2名を殺害します(印旛沼事件)。

それを聞いた森は「頭がおかしくなったんじゃないか」と言ったそうです。

え?自分が「処刑すべき」と言ったのでは??

赤軍派の森が「言うだけ言ってみた」ら、革命左派が「決めたことは実行すべき!」と後先考えずに殺害に走る・・・もともと「大言壮語だが実行力のない」赤軍派と「生真面目」な革命左派の相違が生んだ悲劇と言えます。

また森は、この事件から革命左派への政治的な負い目を感じ、革命左派より優位に立つには赤軍派による殲滅戦しかない、と考えるようになります。

両者は悪影響を煽りあうようになっていくのです。

この印旛沼事件をきっかけに、リンチ事件へまっすぐ伸びるレールのような原理が構築されてしまいます。

それは、「自分が逮捕される危険を逃れるため逃亡者を処刑し、自分の地位を追い落とす危険のある者を共犯者にして犯行を封じる」という原理です。

もはや、曲がりなりにも「武装闘争で革命を起こし世の中をよくする」という建前すらも実質的にはなくなり、エネルギーは上層部(森と永田)の保身のために燃焼されるようになっていくのです。

それがこの山岳ベースでの「同志」12名のリンチ殺害です(ちなみに私はこのリンチもあさま山荘で行われたと思っていました・・・)。

ところでその山岳ベースは、どんな状況だったのでしょうか。


山岳ベースの環境もリンチ発生を後押しした

先に山岳生活を始めていた永田が、まだ都市にいた森を訪ねたとき森が肉を食べているのを見てショックを受けている記述があります。肉を食べているだけでショックを受ける生活環境だったというわけです。

その後、ベースは警察に見つからないために次々変わっていきますが、例えばリンチが多発した榛名ベースは次のようなすさまじい環境でした。


•居住空間は横4メートルに縦2.5メートル

•ここに革命左派約20名と赤軍派約10名が居住

•そして夜は氷点下15度

•トイレは満足に機能しない

•風呂はまれなので体臭がひどい(買い出しに行った際体臭が原因で通報され逮捕されたメンバーがいるくらい)

•これに重労働(薪割り等)の疲労

•逮捕の恐怖


以上をあわせて考えると、本書の著者小熊さん曰く「判断能力も正常でなくなるのは無理もない。事件の描写はこれを念頭に読む必要がある。」


榛名ベースがあった群馬県榛名山 地図
ttps://www.google.com/maps?ll=36.470667,138.847954&z=9&t=h&hl=ja&gl=JP&mapclient=embed&q=%E6%A6%9B%E5%90%8D%E5%B1%B1+%E3%80%92370-3348+%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%B8%82%E6%A6%9B%E5%90%8D%E6%B9%96%E7%94%BA

山岳ベースでの「同志」リンチ殺害

71年12月下旬〜72年2月、ここで何が起こったのか。

森と永田が「同志」に言いがかりをつけてリンチしていくのです。

目的は「共産主義化(意味は誰にもわからなかったとの証言あり)」。

詳細に書いても気分が悪くなるだけなので端的にメモします(小熊さんも同じ理由でこの箇所を簡潔に書いたとのことですが、その分実態が明確にあぶりだされている感がありました)。


■リンチされ始めたきっかけ

•夕食会で「私の中にブルジョア思想が入ってくること闘わねばならない」と告白→森「入ってくるというのはこの闘いを放棄したもの」→リンチ

•「交番襲撃のさい日和った(学生運動中、権力に対し怖じ気づいた)」と告白→「日和見主義克服」→リンチ

•「ルンペン的」→リンチ

•「すっきりした、という発言がまじめではない」→リンチ

•「女学生的」→リンチ

•「主婦的」→リンチ

•リンチ殺害の輪の外でうろうろしていた→リンチ

•運転の不手際を叱咤され「革命のお手伝いをしに来ただけだ」と反論→リンチ

•カンパ集めに失敗→リンチ


■リンチの内容

•殴打(主に全員で)

•自分自身による殴打強要

•緊縛し氷点下の屋外に放置→飢えと寒さで死亡

•アイスピックで心臓を刺したが死ななかったので絞殺

■被害者のプロフィール(一部)

•赤軍派の人数が足りないので数合わせに連れてこられたもともと忠誠心のない人物

•メンバーでなくシンパで、妻子を連れてピクニック気分で来ていた人物(妻子は無事)

•妊娠8ヶ月の女性(金子みちよ。殴打された際も「何をするのよ!」と叫ぶ、リンチ中抗議したのは彼女ただ一人、リンチに10日間も耐えたのも彼女だけ。本事件を裁いた石丸裁判長が金子の友人に送った手紙には「36年間の裁判官生活で・・・金子さんはもっとも感慨深い心にしみこむ『被害者』でした」と記述)

■リンチ死を「敗北死」と呼ぶことの「効果」

有名な話ですが、これらのリンチは「総括」と呼ばれています。「共産主義化」を達成するための反省・自己批判の一環らしいのですが、実態は完全にリンチですよね。

そして、このリンチによる死亡については、森が「敗北死」という名前をつけました。死亡した人間は、総括しきれずに敗北して勝手に死んだ、という理屈です。行為の実態は単なるリンチでも、このように特別な名称や理屈付けを行うことで、集団の感覚麻痺が一層進んでしまったものと思われます。

実際、永田は取り調べで「なぜ殺したのか」と訊かれて初めて自分は人を殺していたのだと自覚できた、と語っています。


■川島豪

なお、革命左派メンバー天野勇司によると、後日革命左派創立者の川島豪にこのリンチ事件について問うと「ゲリラノ鉄則ドオリニシタノデハ」との電報が返ってきただけで、まったく反省していなかったようです。そしてこの事件の全責任を永田に転嫁していたといいます。

この人物、森や永田ほど言及されませんが、個人的には、この悲劇に及ぼしている彼の影響はかなり大きいと見ています。生真面目な労働運動団体だった革命左派が暴力を使い始めたのも、赤軍派との合同を促したのも彼ですからね。ちなみに1990年に死去しています。


■個人的な感想

私はこのリンチ事件を初めて耳にしたときは「どうせ狂信的政治思想の持ち主が同じように狂信的な人間を殺したんだろう。殺された人は気の毒だけど自業自得な面もあるんじゃないか」などという感想を持ちましたが、今回この本を読んで自業自得と切り捨てるのは相当不適切で思考停止だと強く感じるようになりました。そして反省。

リンチ殺害が行われた理由

なぜこんなことが起こったのか。私もそれが大変気になっていました。


■これまで論じられた理由

著者小熊さんによれば、関連書籍を渉猟し整理した結果、これまで論じられた理由は主に4つに分類されるそうです。


•外部の敵と戦えなかったので内に向かった

•異なる両派がどう新路線を作ろうとするかを議論しようとすると森は個々人の共産主義化(リンチ理由)に問題をそらした(永田の回想による)

•高校時代に剣道部主将だった森の体育会系気質

•永田が気に入らない人間を総括し森がそれを合理化

■小熊英二さんの挙げた理由

しかし、小熊さんは、以上の理由は潤滑油程度のものでしかなく、本質は「指導部が逃亡と反抗の恐れを抱いたのが『総括』の原動力だった」と指摘します。理由は次の通りです。


•リンチは反抗か逃亡の怖れがあった人物に集中

•メンバー全員に被総括者を殴打させたのも「全員共犯にし脱走させなくする」ため(傍証多数)

•買い出しの場合、人選が慎重に行われた。上層部がいかに逃亡を恐れていたかの例と言える。 ◦まず関係の弱い者同士で行かせる(相談して脱走しないため)

◦また、ベース内に恋人や身内がいれば必ずどちらかをベースに残す(人質)。


とはいえ、上層部はこれを計算していたわけではなく、当初は勢いでやっていたがそうした計算が半ば無意識的に入って固定化したというのが実態ではないか・・・これが小熊さんの考察です。

私はこれを読んで、え?それって新しい説なの?むしろ、それ以外考えにくいんじゃないの?と思いました。それくらい、様々な資料で描かれている状況と「指導部の保身」のつながりが明確だったからです。


なぜこんなシンプルな理由が今まで出てこなかったのでしょうか。小熊さんはそのわけをこうではないかと推測しています。


•実は連合赤軍関係者の回想記などが出揃ったのはここ数年で(永田の回想記はずっと前から出ていたが、やはり記憶の改変があるし、あくまで永田視点の記述であるため完全に依拠できるものではない)、今までは分析しようにも材料が少なかった

•世の中、特に日本の社会運動に大きな影響を与えたこの事件の理由が「保身」のような矮小なものであってほしくないという思いも影響していたのでは


なるほど。時間がたってはじめてわかったこともあるし、時間がたってやっと客観的に分析できるようになった、ということなのですね。


■よしてるの感想−ポル・ポトとの類似

ちなみに今回、リンチの経緯を知って私が真っ先に連想したのはカンボジアのポル・ポトのやり方です。


井上 恭介・藤下 超「なぜ同胞を殺したのか―ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢」
ttp://www.yoshiteru.net/entry/20060209/p1


彼らも、規模は異なるものの(170万人を処刑したという説*1もあります)、以下の点が連合赤軍に類似しているように思います。この点からも、私にとっては小熊さんの「連合赤軍の同志リンチ理由は保身」説が納得しやすくなっています。


•リンチは共産主義の名の下行われたがその意味の説明はなかった

•言いがかりをつけて人をどんどん殺す(眼鏡をかけている→知識人→処刑、など)

•攻撃されることを極度に恐れ、疑心暗鬼になっていた(政権をとるとすぐ首都にいた200万人を全員地方に移住させたが、その理由のひとつは「そうしないと暴動が起こって政権を覆されるから」など)。


1つ目の共通点について。ポル・ポトも革命革命と連呼していましたがその意味を人民に説明することはなかったらしいです。

2つ目と3つ目の共通点からは、小熊さんのいう「保身」というキーワードが浮かび上がってきます。

人間、保身に走ると、我が身を守るためには何でも −同志をリンチで殺害したり国民を100万人以上処刑したり− してしまう生き物なのかもしれません。逆に言うと、人間、居場所があって安心できることがとても大切な生き物、とも言えるのでしょう。

まとめ

連合赤軍はなぜ「同志」を12人もリンチ殺害したのか?


•そもそも、連合赤軍の母体となった2グループは仲間割れをし互いに暴力をふるう背景があった(「深く考えず行動する」「暴力を用いる」点が共通している反面、思想面では相容れなかった)

•そんな「一緒になってはいけない組織」を革命左派の創立者・川島豪が一緒になるよう指示した

•彼らのアジト「山岳ベース」のコンディションが劣悪なため、判断能力が正常でなくなっていった

•リンチによる死亡を「敗北死」と称することで「死亡した人間は敗北して勝手に死んだ」ということになり、集団の感覚麻痺が一層進んでしまった

•そして最も根本的な理由は、連合赤軍指導部が他のメンバーの逃亡と反抗の恐れを抱いたため


(参考)この事件をモデルにしたまんが

上記の小熊英二さんの本は非常に興味深いですが分厚く値段もかなりします。この事件のことをもう少し手っ取り早く知りたい方には、連合赤軍をモデルにしたまんが「レッド」をおすすめします。

モデルといっても組織と人物の名前が変えてあるだけで、非常によく調べてありほぼ実録といっていい内容です。

たとえば、このメモに登場した人物と作中の人物はこんなふうに対応しています。

•森恒夫 → 北(大阪弁をしゃべっているリーダー)
•永田洋子 → 赤城(一番髪が短い女性)
•金子みちよ → 宮浦

また、混乱しがちな多数の登場人物に番号をふって判別をつきやすくしてある点も理解の助けになります。

以下の8巻では、榛名ベースで最初の犠牲者が出るところまでが描かれています。グロテスクな画は(まだ)出てきません。空虚な理論のもとに同志を殴り続ける様子は読んでいて精神がこたえるものの、この事件の現場イメージを理解するには非常に適した作品といえると思います。なお、Kindle版は単行本の半値近くで入手しやすくなっています。

レッド 1969〜1972(8) (イブニングコミックス)
山本 直樹 講談社 2014年02月
ttps://www.amazon.co.jp/dp/B00IXC9MHO?tag=maftracking222142-22&linkCode=ure&creative=6339

ttp://www.yoshiteru.net/entry/20110304/p1

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2011-03-10
連合赤軍リンチ殺害事件をどう受け止めていくのが適切か
ttp://www.yoshiteru.net/entry/20110310/p1

1回目のメモでは「連合赤軍とはどういう集団だったのか」を、2回目のメモでは「リンチはどのようにして進行し、『同志』12名の殺害に至ったのか。そしてそれはなぜ起こったのか。」についてメモしてみました。今回は、最後に、この事件をどう受け止めるのが適切なのかを考えてみます。

これまでの受け止められ方

1994年の「全共闘白書」には、元活動家に1970年前後にあれほど活発だった学生運動をどういう理由で離脱したのかを問うアンケートが掲載されています。1位は「内ゲバ」(暴力による組織抗争)、2位は「連合赤軍」となっています。この事件が、学生運動にとどめを刺すものであったことがよくわかります。実際には、この事件の起きた1972年頃はすでに学生運動は下火になっていたのですが、それに決定打を与えたのは間違いなさそうです。

その後はどうかというと、私も、1989年(平成元年)に大学に入学するときには、親から「せっかくなので好きなことをすればいいが、学生運動だけはやめてほしい。まあそんな時代でもないけれど。」と言われた記憶があります。また私自身も、学生運動=「子どもっぽい正義感を振りかざす狂信的な人々のごっこ遊びで、最後は仲間をリンチする」という印象を強く持っていました。連合赤軍事件について詳しく知っていたわけではないけれど、学生運動とこのリンチ事件をかなり強く結びつけていたのです*1。

当時のバブル末期という世相も影響していたのかもしれませんが、とにかくその頃は、個人的な皮膚感覚ではありますが、社会運動、特に政治に関わるものは「まともな学生はやらない」「危険」「狂信的」というイメージがかなりありました。これらすべてを連合赤軍事件に結びつけるのはやり過ぎかもしれませんが、ある程度の影響力はあったのでは、とは思います。少なくとも政府はそれを望んでいたようです。

政府による「演出」

まず、あさま山荘事件について。警察庁長官後藤田正晴は犯人を射殺し「殉教者」とすることは避け、必ず生け捕りにするよう厳命。そして、機動隊の突入は2月28日月曜日に行われましたが、「夕刊の出る平日なら新聞が2回この事件を報道し事件がより大きくなる」との判断があったそうです。そして長官の命令通り犯人全員を生きたまま逮捕した後、今度はリンチ事件が明るみに出ると、いっそうの「演出」が披露されます。

警察は被害者の埋められた死体を発見後また埋め戻し、それからマスコミを呼び「公開捜査」の名の下「死体発見」を見せるようとりはからいます。当時のマスコミもなぜ必ず死体が出てくるのか不思議に思ったそうですが、一方でこれほどの「ネタ」もないわけで、報道は過熱していきます。しかも警察は犠牲者全員を一気に「発見」するのではなく、何度かに分けてマスコミに公開。警察側の言い分では検視する医師の数が不足していたためとのことですが、ショッキングな「死体発見」を複数回報道させるための「演出」と捉えたほうが自然に思えます。これらの「演出」が日本政府と警察の「政治運動にネガティブイメージを植え付けさせる」意図のもと行われたとしたら、これは大成功だったと言えるでしょう。

事件をどう受け止めていくのが適切か

著者小熊英二さんは、多くの文献を例に挙げ、この事件はこれまで「党組織の問題」「理想・正義」の限界などのような普遍的なテーマで論じられてきたことを示しています。しかし、これまでの検証結果から判断すると、この事件の本質は「幹部の保身という矮小な理由」に集約されます。このギャップの理由の一つとして、小熊さんは当時この事件にショックを受けた人々が「あれほど自分たちに衝撃を受けた事件は普遍的なテーマにつながっている大きな問題であるはずだ、という先入観があったのでは」と指摘しています。

このような同時代人の「せめてこうであってほしい」という先入観と政府の巧みな演出により、この事件はいびつなかたちで捉えられてきたようです。それは平成の大学生にも一定の影響を与えていました。そんな普通でないバイアスがかかったこの事件、いったいどう受け止めていくのが適切なのでしょうか。

小熊さんは、この事件を記述した章を次の言葉でまとめています。

感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に「あつものに懲りてなますを吹く」ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜け出すべき時期にきているのである。


私もまったく同感です。この事件は、その残虐性のみならず、その後の社会運動を停滞させたという点でも非常に大きなマイナスの影響を日本社会に与えてきました。しかし今世紀に入ってから、多くの当時の関係者が証言を始めるようになったことでこれまでメモしてきたような「この事件の本質」が明らかになってきました。この事件のもたらした呪縛から解き放たれるには十分すぎる時間が過ぎました。「社会運動に熱心にかかわるとろくなことにならない」というイメージは完全に捨て去るべきときに来ているのではないかと思います。

最後に、私がこの事件から学んだ、身近に起こりうること2点についてもメモしておきます。ひとつは「身体的に不快な環境は精神を病ませる」ということ。連合赤軍メンバーの証言から、彼らが食事・住環境において悲惨な状態にいたことがどれほど人間性を抑圧し思想行動に影響を与えたかをつぶさに感じました。出発点がいくら精神的に高尚なものであっても、厳寒の狭い山小屋に押し込められ貧しい食事と不潔なトイレが続く毎日を送っていると道も踏み外しやすくなるということを痛感しました。

もうひとつは、組織がおかしな方向に進んでいっても、メンバーがそれを察知して制御できる段階は限られており、それを過ぎると組織メンバーは制御するより逃げ出すようになり、それが崩壊を加速させるということ。連合赤軍も、もとの組織のひとつは革命左派、さらにその前身は労働運動を生真面目にやる組織「警鐘」だったわけです。永田洋子は、共立薬科大で学ぶうち薬が患者のためよりも病院やメーカーのために使われている現状を変えたいと思いこの「警鐘」(正確にはその前身となる組織)に入ったものの、最終的には12名リンチ殺害の首謀者に変わり果てている。このような組織の変容に彼女がどこまで自覚的だったのかはわかりませんが、変容の段階を経るにつれほとんどのメンバーが組織から抜け出ています。転落していく組織は制御されるより見捨てられ、それにより転落に拍車がかかる。誰も永田(や森)の変容と暴走を止められなくなる。そんな悲劇を連合赤軍のたどった経緯から感じ取った次第です。

(参考)指導者たちのその後

リンチを主導した森恒夫は1年たたないうちに拘置所で自殺。森と共に事件を進行させた永田洋子は先月(2011年2月)確定した死刑が執行されることなく脳腫瘍で死亡。この事件の遠因を作り出した(と私は思います)革命左派元議長の川島豪(リンチ事件には直接関与していない)は1979年に出獄、1990年に死亡。
ttp://www.yoshiteru.net/entry/20110310/p1


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赤軍派 浅間山荘事件
 
紅衛兵たちが大人やかつての権力者たちに対して、

「自分の思想、価値観が間違っていたことをここで認めろ」

と、反省大会を繰り返して根拠なき暴力を繰り返していた丁度この時期、海を隔てた日本でも全く同じような光景が各所で行われていました。その最も代表的な例といえるのが、日本の浅間山荘事件です。

 この事件は山中にて、左翼過激派に属す若者たちが内ゲバの果てに仲間を集団でリンチして殺害し、その後に浅間山荘に逃げ込んで人質を取って篭城した事件です。もともとこの左翼過激派は日本を共産主義社会にするために来るべき暴力革命に備えて軍事訓練を行っていました。その訓練過程で、この事件を象徴する言葉となる「総括」が行われたのです:


総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化していった。連合赤軍のリーダーであった森恒夫は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いたが、絶対的上下関係の中でその思考は疑われることなく受け入れられていった。

総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。

後に、暴力はそれをふるう側にとっても「総括」であるとされ、自身の「総括」のためにもより一層の暴力をふるうことが要求されるようになった。リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。 「総括」にかけられたメンバーの多くはされるがままに暴力を浴び続けた。中には自ら殴られることを願い出たり暴力に対して感謝の言葉を述べる者もいた。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/山岳ベース事件


 この「総括」、内容は文字通りこれまでの自分の人生を総括、反省を行ってこれまでの自分と決別することで革命戦士として自らを完成させることを言い、それを周りの援助を以って行うことを差します。この周りの援助、というか補助ですが、ここまで言ってればわかると思いますが罵倒と暴力です。

 この総括を指揮したのは実質的に森恒夫と永田洋子の二人で、二人はこの事件が起こる以前にあらかじめ自分たちは総括を終えて革命戦士として完成しているために、まだ完成していないものを指導する義務(権利)があるとして、一方的に総括対象者を選んでは私的なリンチを繰り返しました。


総括の対象者に選ばれる人間の根拠というのは妬みとか、接吻といった不純な行為、また伝え聞くところでは女性が指輪をしていただけでも覚悟が足りないといって殺されています。

この総括の内容が恐らく、共産主義者同士とはいえそれほど交流のなかったはずの中国で紅衛兵が行った行為と不思議なくらいに酷似しております。

 基本的なやり方は逆らえないように批判対象者を集団で囲み、その対象者に対して周りが一方的に批判します。

紅衛兵なら

「お前の報告書の出し方が毛首席の指導と違う」、

総括なら

「髪を伸ばして革命戦士としての心構えがない」

などなど、何を言っても批判するネタになります。それに対して対象者は否定しようが肯定しようが、基本的に暴行されます。まず、


「その通りだ、すまなかった」と言えば「反省が足りない!」と殴られ、

「いや、そのつもりはなかった」と言えば、「まだわからないのか」と言われ蹴られます。


 両者に共通するのは、何をどうすれば自己批判、反省が達成されるかという基準がないということです。紅衛兵も何が最も理想的な毛沢東主義者で、何が毛沢東主義に反しているかは毎回変わり、総括でも既に完成したという森と永田の二人の私的な感情が満たされるかどうかで、言ってしまえば批判対象者が何をどう言っても無駄だったと言うことです。

 暴行を加える側の理論からすると、自分たちは連中に真に反省を促すために愛の鞭を振るっている(恐らく、そういう気は一切なかっただろうが)という理屈を持っており、よくこの手の史料を見ていると「お前のためを思ってやっているんだぞ」という脅し文句が見受けられます。

 紅衛兵も総括も殴打による内臓破裂や失血によって批判対象者は次々と殺されましたが、一体何故交流のなかったこの二つの集団でこれほど酷似した暴行が行われたのか、個人的には興味が尽きません。まぁその答えというのは簡単で、単にこの暴力行為を行った集団が共産主義集団だったことに尽きます。

 共産主義の集団というのは基本的に教条主義で、既に理論は完成されているのだから余計な疑問、異論を持つな、持つ人間がいれば集団の統率が崩れるからそいつは叩き潰せ……という、比喩としては中世のキリスト教組織のような価値観を持っております。そのため組織は疑問を徹底して話し合う民主主義とは真逆の体制となり、異論派は徹底的に叩き潰されていきます。

共産主義組織はこのように破綻した構造を持っており、スターリン時代のソ連や北朝鮮の例を持ち出すまでもなく権力の暴走を必然的に招きます。またその暴走は基本的に暴力を伴っており、人権というのは徹底的に無視されることが過去の歴史から言って確実です。

最近「蟹工船」ブームで共産党の入党者が若者の間で増えていると言いますが、今時の若者は本当に馬鹿揃いだと毎日せせら笑っています。何を期待して入るかまでは知りませんが、共産党は彼らの考えている組織から最も遠い組織、福祉や人権に対して一切無視する組織であることに間違いありません。今の委員長の志位和夫も、かつての委員長に対して反旗を翻そうとした東大内の下部組織の行動を防いだ事から出世して今の地位についていますし、組織として完璧にいかれています。

ttp://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_5175.html


 70年安保をひかえ、急速に過激化しつつあった新左翼に刺激された日本共産党左派神奈川県委員会から、「思想問題も実践の中で解決していくべき」と強調する旧「警鐘」グループが委員会を解散させ、新しく「革命左派」として立ち上がった中に、このリンチ殺人の首謀者である永田洋子はいた。

 1969年9月、革命左派は外相の訪ソ訪米阻止のため、「反米愛国」の旗を掲げて羽田空港へ突入。当時の指導者であった川島豪は逮捕されたが、それと入れかわるように出所した坂口弘が革命左派の党員となり、やがてリーダー格にまでのし上がる。そして彼は永田の内縁の夫でもあった。

 1971年には栃木県の猟銃店を襲い、川島奪還のため十数挺の散弾銃と大量の弾薬を入手。これにより革命左派は武装化の一途をたどる。

 赤軍派は、本来は塩見孝也と田宮高麿というふたりのカリスマ的指導者を擁していたが、塩見が破防法で逮捕され、田宮が日航機ハイジャックで北朝鮮に渡った後は、森恒夫がそのあとがまに座る形となっていた。ただし森という男は元来は田宮の腰ぎんちゃくのような存在で、デモで初逮捕された際には警察で泣きじゃくって呆れられ、わずか2日で釈放されたり、明大和泉校舎衝突事件にいたっては、恐怖心にかられて土壇場で逃亡したりしている。

 革命左派は、中国亡命の可能性を探るため、そんな赤軍派と接触した。

 赤軍派は「女ぎらい」と言われたほど、女性党員が少なかった。その中の例外が、『ブンドのマタ・ハリ』こと、美しき才女、重信房子であるが、彼女はそのとき塩見の計画に従ってパレスチナへ飛んだあとであった。

 対する永田洋子は、週刊誌に「チビでブス」、「ぎょろ目で出っ歯の醜女」と書きたてられたような面相だった(永田はバセドー氏病をわずらっていたため、目が飛び出し気味であった)が、演説の才があり、ひたむきな革命への情熱は魅力的ですらあった。森は永田に「個人的な友情」を感じ、両派は合同計画を練りはじめる。

 のちに川島の進言もあり両派は「世界革命」を目指す『連合赤軍』として再結成することになる。なおこの頃には、永田と森の間には男女関係があったようだ。 やがて彼らは亡命をあきらめ、山岳アジトの設置をはじめる。主な目的は警察の手から逃れるためと、「学習・討論・兵士の訓練」のためである。

 1971年11月、赤軍派から9人、革命左派から9人の合計18人で、榛名山中に「榛名ベース」と呼ばれるアジトを設立。実質これが彼らの最後のアジトとなった。この日からわずか100日で、この18人から8人の死者が出ることとなるが、彼らはまだ知るよしもない。

 それに先立って、革命左派ではちょっとした問題が起こっていた。 メンバーの1人である向山茂徳が女性メンバーの早岐やす子を連れ、脱走したのである。しかも

「永田のやってることは甘っちょろい『革命ごっこ』だ」

と批判し、

「テロリストとしてなら戦えるけど、もう思想のために駆けずりまわるのは御免だね」、

「おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」

とまで言った。 森はそれを聞いて

「処刑すべきだ!」

と言い放ち、

「そういえば向山のアパートの近くに警官がたくさんいた。密告する気だぞ」

と根も葉もないことを永田に吹きこんだ。 永田は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じた。メンバーたちは向山と早岐を油断させて酔わせたあげく、ロープで絞殺し、死体を茨城県山中に埋めた。

 榛名ベース完成後、連合赤軍18名は共同生活をはじめる。指導者は森、中央執行委員は坂口、永田をはじめとする7名で、彼らはほかの兵士たちとは一線を画す特権階級であるとされた。

 12月20日、幹部会議で全員の「総括」を求めることが可決され、第一回目の総括が行なわれた。 まず永田洋子が赤軍派の遠山美枝子に対し、

「化粧したり、髪を櫛でとかしたり、指輪をしたり――彼女は革命戦士としては失格だ」

と批判。だがこのときは遠山が

「この指輪は困ったときに換金しろ、として母が与えてくれたものだから」

と反論し、森が彼女に味方したため、うやむやになった。

 12月26日、革命左派のメンバーである山本順一が妻・保子と赤ん坊を連れて榛名ベースへ合流。これは永田の承認を得てのことだったが、森はいい顔をせず、

「この点でいくらか手綱をゆるめた以上、ほかの点では厳しく鞭を入れなくてはならない」

 と主張した。永田もこれに賛同し、その夜中、総括が行なわれた。 ターゲットは××能敬という22歳の学生で、彼の弟2人も革命左派メンバーであった(この2人はのちに「あさま山荘篭城」のメンバーとなる)。彼が批判された点は、

「検察で完全黙秘を通さなかった」、
「官弁以外の食物を口にした」、
「合法派と接触した」

 といったたわいもないことばかりだが、彼がそれらの批判をすべて認めたため、森が「有罪」と断じた。

 次に、××と肉体関係になったということで小嶋和子をも断罪。ふたりを正座させ、全員で

「犬!」
「日和見主義者!」

と怒鳴りながら、気絶するまで殴った。長い山ごもりと粗末な食事に鬱積していたやり場のない感情がここで炸裂したと言ってもいい。

 失神したふたりは柱に縛りつけられた。顔面は変形してしゃべることもできず、失禁するほど衰弱していたが、彼らは食事も与えられずそのまま放置された。

 28日、21歳の尾崎充男が総括の対象となる。森は「対警官の実演演習」と称し、永田の元・夫である坂口を警官役に命じて、尾崎と戦わせた。 これは坂口をなぶるためでもあったのだろうが、実戦経験で勝る坂口は尾崎を叩きのめした。しかし尾崎は手当てもされず転がされたままで、彼は鼻血と折れた歯の出血で窒息しそうになり、

「紙をとってくれ、息が出来ない」

と訴えた。それを聞いた永田が

「寝たまま人をこき使うような神経で革命戦士たり得るか!」

と激昂。尾崎は柱に縛りつけられ、絶命するまで狂気のごとき暴行を受けた。

 尾崎は「日和った敗北者」と呼ばれ埋められた。××と小嶋は「臭くなってきた」という理由で屋外の木に縛りつけられた。

 1972年1月1日、21歳の進藤隆三郎が総括される。理由は

「プチ・ブル的言動」、
「女好き」、
「幹部への尊敬の欠如」など。


 まず「女の敵」として永田をはじめとする女性メンバーが彼を殴り、つぎに男性メンバーが殴りかかった。失神すると、××と小嶋のもとへ連れていかれ、同じく木に縛られた。翌朝、進藤はもの言わぬ死体となっていた。死因は暴行による内臓破裂である。

1日午後、小嶋和子死亡。死因は内臓内出血と、凍死であった。

2日、××は屋外から小屋の中へ移された。


 2日、以前に永田が批判した遠山美枝子と、22歳の行方正時が総括される。遠山の罪状は主に

「女を捨てていない。革命戦士らしくない」

というものであるが、彼女が重信房子を崇拝していたことも永田には気にいらなかったようだ。

 行方の罪状は「日和見主義」、「警察で組織の秘密をしゃべった」等々。
彼らは暴行を受け、柱に縛りつけられた。遠山は自慢の髪まで切られ、食事もなく放置された。

 4日、××能敬、死亡。顔は土左衛門のごとく膨れあがり、生前の面影はなくなっていたという。

 6日、あいつぐ死者の数にメンバーはほとんど狂気と化していた。彼らは恐怖と罪悪感から逃れたい一心で、遠山と行方への暴行を再開し、薪でぶん殴った。
薪は遠山の性器にも押しこまれた。

7日、母の名を呼びながら遠山、死亡。

9日、行方が死亡。


 18日、幹部のひとりであった寺岡恒一が「永田批判」、「合法派との接触」を理由に総括の場に引きずり出される。ただし彼は殴殺ではなく、ナイフで胸をえぐられ、アイスピックで首と胸を滅多刺しにされた挙句、絞殺された。

 19日、21歳の山崎順が総括の的となる。理由は「幹部批判」。彼もナイフとアイスピックで刺された末、絞殺された。

 26日、赤ん坊を連れてベースに合流した山本順一が総括される。理由はもはやあってなきがごとしで、「運転を誤まった」というものである。彼は殴られず、極寒の山中で一晩中の正座を命じられた。――が、のちに寒さで失神し、倒れたことによって「態度がなってない」と暴行を受け、木に縛り付けられた。

 同日、「美人でいい気になっている」という理由で大槻節子が総括にかけられる。
また、大槻をかばったことで、金子みちよも同罪となった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが、まったく容赦はされなかった。彼女たちは髪を切られ、歯が折れ顔が腫れあがるまで殴られた末、柱に縛られた。

 30日、山本死亡。苦悶のため、自分で舌を半分以上噛みきっていた。

 永田は

「誰かを総括してないと、みんな退屈してたるんで困るわ」

と公言。それを聞きつけ恐怖にかられたメンバーは大槻へのリンチを再開した。大槻は

「目が、目がまわる。水、水」

を最期の言葉として息絶えた。


 31日、森は

「金子は裏切り者だが、腹の赤ん坊は大切な未来の闘士だ。帝王切開して赤ん坊を『奪還』しよう」

と言い出した。が、技術者もいなければ器具もない。手をこまねいているうち、金子は死んだ。腹の子の父親は同じく連合赤軍のメンバーであった(あさま山荘に篭城した吉野雅邦)が、彼女が死ぬ直前、彼は永田の命令に従って金子を殴っている。また永田は金子が死んだ、と聞かされたとき、

「ちくしょう、赤ん坊まで死なせやがって!」

 とその死体を足蹴にしたという。


 2月2日、幹部のひとりである山田孝が総括にかけられ、13日まで生きのびたものの、両手両脚の凍傷による脱水症状を起こし死亡。最期の言葉は

「水、水。なにが革命だ、ああ、俺はきちがいになってしまう」。

 ここまでの死者は14人である。「革命の理想」のためにこの14の死は必要不可欠なものであったと、この時点でメンバーの何人が信じていたかは定かではない。 たださすがに一番冷静だったのは指導者の森で、「俺たちは捕まったら死刑だ」と言い、少なくとも自分たちがしていたのが「殺人」だということはわかっていたようだ。 だがそれを聞いた永田は、

「なんでそんなことを言うのだろう」

と驚いたという。彼らが死んだのは己の弱さに負けたせいであり、自分たちが殺したわけではない、と彼女は信じこんでいたのである。

 2月4日、森と永田は「敵地調査」のため下山した。東京で彼らを出迎えた同志は、彼らがあまりに臭いので仰天したらしい。10体以上もの死体と同居していたのだから当然なのだが、ふたりはこれを、「山に住む猪の匂いだよ」とごまかしている。 一方、指導者のいなくなった榛名ベースでは3人の脱走者が出た。坂口は追っ手を出したが、誰も捕まらなかった。 そうこうしている間に、彼らの山岳アジトは警察に次々発見されていった。森、永田と合流できないままに、残る9名のメンバーは榛名ベースを放棄して逃走。そのうち4名は買出しに下山したとき逮捕された。

 2月17日、警察の決行した山狩りによって、前日に東京から帰ってきていた森と永田は捕縛される。警察は永田のことは一目見てすぐわかったようだが、森のことはなかなかわからなかったという。逮捕に際しても、バセドー氏病で小柄な永田の陰に隠れようとしたり、森は一貫して「指導者の器にはほど遠い」男であったようだ。

 一方、残る5人のメンバー(坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、××次郎、三郎)は軽井沢の別荘地に迷いこみ、2月19日、あさま山荘に篭城。のべ10日間、219時間という長期戦の末、警察の突入により完全降伏した。

森は1973年の元旦、拘置所で首を吊って自殺した。

ttp://www8.ocn.ne.jp/~moonston/lynch.htm


「我々は全ての人々が平等に暮らせる世の中をつくらなければならない! 
そのために革命を起こすのである!」

「革命は武力より生まれる! 銃のみが政権を生み出すのだ!」

「来るべき国家権力との戦いに備えて全員が革命戦士とならなければならない!」


森恒夫と永田洋子はこういった方針のもと、群馬県・榛名山ベースで厳しい軍事訓練を行った。登山でも遅れているものは殴り、射撃訓練で命中率の悪い者は容赦なく殴られ蹴られた。 この体罰が次第にエスカレートしていく。

射撃訓練で的をはずした同志に対し、

「弾丸の一発が外(はず)れて、それが原因で敗北するかも知れないのよ! 

革命戦士としての自覚が足りないわ! アンタは自己批判すべきよ!」

と永田が言うと、

「自分で自分の弱い精神を批判せえーい!」

と森も同調する。 自己批判とは、自分の過ちを自分で批判することで、大声で謝り反省の言葉を口にしても、

「本当に反省しているとは思えない。みんなで総括すべきよ!」

と永田が総括を要求する。総括とは体罰によって反省を促すことを意味する。総括にかけられた者は全員から殴られ蹴られ、気を失うまで続けられた。目が覚めた時には真の共産主義者の革命戦士として目覚めているはずだとの理論による。

暴行を加える者はみんな一様に

「お前のためなんだぞ!」

と言いながら殴り続けた。また、総括が終わった者は

「ありがとうございました。」

と礼を言う。 この総括は、最初は確かにメンバーを戦士として鍛え上げるための体罰であったかも知れない。しかし、この小さな集団の中で森と永田の権力はあまりにも強過ぎた。絶対的な上下関係が形成され、次第に些細なことでも

「総括すべきだ!」

との掛け声のもと、何人ものメンバーが総括というリンチにかけられることとなった。


総括によって初めての死者が出る


昭和46年12月31日(1人目)

連合赤軍の総括によって初めての死者となったのは尾崎充男(みちお)(22)である。尾崎はこれまで何度も総括の対象となっていた。交番を襲撃した時に積極的ではなかったとか、教えるべきではないメンバーにまで銃の隠し場所を教えたとか、他の者の総括の最中によけいなことを口走ったなどの理由でさんざんリンチを受けてきた人物である。

12月31日、この日も尾崎に対する総括がまた始まった。メンバー全員で全身を殴ったあげく、副委員長・永田洋子が他のメンバーに対して命令を下した。


「ここでやめたらまた同じ過(あやま)ちを繰り返すだけよ! 

革命戦士としての自覚が持てるまで外の木に縛りつけなさい!」


小屋の外は雪の降りしきる氷点下の世界である。木に縛りつけられ食事も与えられないまま、尾崎はこのまま凍死した。 死体となった尾崎を見て永田洋子は、

「彼は革命戦士となることが出来ずに自分から死んでいった。 敗北死したのよ!」

と、「敗北死」という言葉を使うことによって、決して決して自分たちが殺したのではないという意識をメンバーたちに持たせた。この方針は今後の殺人の際にも使われ、メンバーたちに罪の意識を持たせない人心操作であった。

総括によって次々と殺される


昭和47年1月1日(2人目)

尾崎死亡の翌日、進藤隆三郎(22)が総括のターゲットにされた。進藤が昔同棲していた女が逮捕され、今のメンバーのことを警察で喋ってしまったことや、進藤が組織の活動においていつも積極的ではないことに委員長の森恒夫が腹を立て、

「戦士として他のメンバーより遅れている! 総括すべきだ!」

と命令を下し、全員から暴行を加え、それは死ぬまで続けられた。

1月2日(3人目)

連合赤軍の中には恋人同士で参加していた者もいた。小嶋和子(22)と××能敬(22)である。二人が小屋の外で抱き合ってキスしているところを運悪く永田洋子に見られてしまった。 たちまちのうちに二人は総括にかけられる。永田洋子はメンバーの男女間の交際を異常なまでに嫌っていたのだ。


「この二人は活動の拠点を汚した! 
みんなが革命戦士となるべき場所でキスするなんて! 
二人に総括を求める!」


全員が「意義なし!」とすぐに同調した。 二人とも激しい暴行を全員から受け、小嶋和子は屋外に縛られて放置され、そのまま凍死した。

1月4日(4人目)

一方、××能敬の方もこの日本格的に総括が始まった。××には二人の弟・××倫教と××元久がおり、二人ともこの連合赤軍のメンバーだった。いわば××は自分の恋人と、二人の弟と共にこの連合赤軍に参加していたのだ。

「同士として総括の援助をする!」

と、委員長・森恒夫が叫び、蹴りを入れる。 「次!」「次!」の声のもと、全員が順々に××を殴り続ける。それは××の弟たちも同様であった。

「これは兄さんのためなのよ! 兄さんの総括をみんなで助けてやるのよ!」

と永田洋子が言い、

「総括をみんなで達成させてやろう!」

と森恒夫も叫ぶ。森と永田に逆らうことは出来ない。××の弟二人は泣きながら、そして兄さんに謝りながら兄を殴り続けた。総括は延々と朝まで続き、××は動かなくなった。死亡していた。兄に寄り添って泣きじゃくる二人の弟に永田洋子は

「兄さんは革命戦士になりきれず敗北死したのよ。頑張ってあなたたちは真の戦士になりなさい。」

と声をかけた。実の兄をリンチで殺されて正常でいられるわけがないが、ヘタなことを言えば今度は自分たちが殺される。二人の弟たちは泣くことしか出来なかった。


1月6日(5人目)

遠山美枝子が髪を伸ばしていることや鏡を見ていることなどに対して永田洋子が腹を立て、遠山の使っていた化粧道具を床にバラまき、

「こんなもの、革命戦死になるために必要ないでしょ!」


と因縁をつけ始める。

「あなた自身による総括を求めます!」

永田洋子が叫び、

「自分で自分を殴れ!」

と森も命令した。 遠山美枝子は、小屋の中央に立たされ、自分で自分の顔を何度も何度も殴らされた。それは30分ほど続き、顔は腫れ上がっていた。遠山美枝子は髪を全部切られて丸坊主にされ、身体を逆エビ状に縛られた。その上で全員から袋叩きにあい、翌日の7日夕方に死亡した。


1月9日(6人目)

1月3日の会議で、中央委員会が結成されており、序列は森恒夫・永田洋子・坂口弘・寺岡・坂東・山田・吉野の順で、この7人が、「行方正時(22)が不適切な発言を行った。」という理由で1月4日に行方を縛ることを決定した。

縛られた行方正時は連日暴行を受け、縛られてから5日目のこの日、死亡した。


1月17日(7人目)

上記の中央委員会に選ばれたばかりの寺岡恒一(24)が犠牲者となった。寺岡は、これまでの総括で次々と仲間が殺されていることに恐怖を覚え、一番親しかった坂口弘にこっそりと相談した。坂口弘はこの組織のNo.3の立場にある男で、寺岡恒一はNo.4だった。


寺岡
「総括っておかしいと思わんか? 
森と永田が因縁をつけては自分の気に入らない者を痛めつけてるだけじゃないか。」


坂口
「な、何言い出すんだお前!」

寺岡
「このままじゃ、俺たち全員あの二人に殺されるぞ。
親友のお前だからこそ言ったんだ。このままでいいのか。」

だが、「親友」とまで言ってくれた寺岡の気持ちを裏切り、No.3坂口弘はこの発言をそのまま森恒夫と永田洋子に報告した。報告を受けた森と永田は激怒し、すぐに寺岡を呼び出し、縛りつけて全員で囲んだ。


「アンタ、私たちのいないところで色々言ってるみたいね。」

と永田洋子に言われ、寺岡は、昨日相談した坂口がこの2人に密告したことを悟った。

「寺岡、俺は悲しい。同じ同士だと思ってたんだがな。」

と言いながら森恒夫がナイフで寺岡の脚を突き刺した。悲鳴を上げる寺岡。そして永田洋子が

「アンタは総括にすらかけない。死刑よ!」

と寺岡に死刑を宣告した。ここに至っては総括も死刑も同じようなものになっていたが、「死刑」とは最初から殺す目的で全員が標的に攻撃を加えるのだ。

「最後に何か言いたいことはあるか。」

と森恒夫が聞くと

「俺は最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや! 

お前らがリーダーなんてチャンチャラおかしいわい!」


と最後の抵抗を見せた。 次の瞬間、森恒夫が

「貴様は死ね!」

と叫んで寺岡の身体にナイフを突き刺した。

「全員で殺れ!」

という掛け声のもと、メンバーたちは次々とアイスピックやナイフで寺岡の身体を突き刺した。だが、なかなか死なない寺岡に対し、

「もういい! 絞殺しろ!」

と森恒夫が命令を下した。縛られている寺岡の首にロープを巻きつけ、その両端をメンバーたちが持って、綱引きのように寺岡の首を締め上げた。そしてついに寺岡は死亡した。


1月20日(8人目)

寺岡処刑の翌日18日、寺岡の処刑の時に加わらなかった山崎順(21)が森恒夫から厳しく追及される。そして翌日、そのことで山崎順も森恒夫から死刑を宣告される。

「死刑にされて当然です。」

と山崎順が反省の色を見せたため、即時の死刑は行われず、森恒夫の指示で縛られることとなった。だが、その後の暴行の最中、山崎順が「組織から逃げるつもりだった。」と発言したために、これが決定的となり、この日20日、死刑の執行が決まった。 寺岡処刑の時と同様、アイスピックなどで全身を刺され、肋骨6本を折られる暴行を加えられ、最後はロープを首に巻きつけてられて絞殺された。

榛名山ベースから新アジト「迦葉山ベース」へ


17日の寺岡処刑の後、一人の脱走者が出た。岩田半治(21)がこの榛名山ベースから逃亡したのである。脱走者とは即ち、警察に密告する恐れがある。 「この榛名山ベースはヤバイ。」と拠点を移すことに決めた。上記の山崎順の総括と並行して、森恒夫は他のメンバーにベースの移転先を探させていた。榛名山ベースは閉鎖された旅館の一部を改造して作ったものだったが、そうそう都合のよい建物が簡単に見つかるはずもない。結局新しいアジトは群馬県沼田市の山林にテントを張って、そこをアジトとすることに決まった。新アジトの名前は迦葉山ベースと命名された。

榛名山ベースで殺害した者たちの死体は、万が一警察に発見されることを考えて身元を隠すために全裸にして順次埋めておいた。そして移動の際には榛名山ベースには火を放ち、証拠品は全て燃やし、連合赤軍は榛名山ベースを後にした。この榛名山ベースは、赤軍派と京浜安保共闘が合体して連合赤軍が誕生した記念すべきベースであったが、結成当時29人だったメンバーも、総括と死刑によって8人死亡、1人逃亡で20人になっていた。

そして新しいアジトに移る際、連合赤軍はバスに乗ったのだが、これまでの山の中の生活で何日も風呂にも入らず着替えもしなかったため、彼らの放つ悪臭はすさまじかった。あまりにも異様で汚い集団であったため、同じバスに乗った人が後で群馬県警に通報している。

現地に着いてテントで生活しながらもメンバーは新しいアジトとしての小屋の建設に励んだ。完成と同時にテント生活を辞め、小屋に移る。改めて新アジト「迦葉山ベース」の完成であった。


更に総括による犠牲者は続く

1月30日(9人目・10人目)

この4日前である26日に、森恒夫が、山本順一(21)に対して

「妻の山本保子(28)に対する態度が偉そうだ。革命戦士としての意識が低い。」

などと因縁をつけ始める。山本保子とは、山本順一の妻であり、生後三ヶ月の子供を連れて夫と同じくこの連合赤軍のメンバーに参加していた。いわば山本順一は、妻と子供の三人家族でこのメンバーに参加していたのだ。

山本順一を総括することが決まり、暴行が始まった。山本順一は妻の見ている前でさんざん殴られた上に、終わると逆エビに縛られた。そのまま縛られ続け、新アジトの迦葉山ベースが完成した時には、縛られたまま運ばれ、新アジトの床下の柱につながれた。29日に山本順一は

「中央委員会の方が理論が矛盾している。」

と発言し、舌を噛んで自殺を図ったが、口に猿ぐつわを噛まされ、更に放置され、そして翌日30日に死亡しているのが発見された。

この日30日は2人死亡しているが、もう一人の犠牲者は大槻節子(23)である。大槻節子は、5日前に当たる25日に、60年の安保闘争に関する議論で、大槻が「敗北」という言葉を多用したことについて腹を立てた森恒夫から厳しく追求を受けた。そしてこれを理由に縛られることになった。縛られたのは、上記の山本順一と同じ26日である。
激しい暴行を受け、永田洋子に髪を切られ、山本順一と同様、29日に縛られたまま運ばれて床下の柱につながれた。ここでまたもや暴行を受け、翌日30日、遺体となっていた。


2月4日(11人目)

金子みちよ(24)が死亡した。金子みちよは、前述の山本順一、大槻節子と同じ26日に縛られていた女性である。

2人と同じように縛られたまま、床下へつながれた。金子みちよは妊娠八ヶ月でお腹も大きかったが、容赦はなかった。彼女が縛られたのは、永田洋子から

「アンタ、最近、森さんの方ばかり見てるね。
女であることを使って、森さんに取り入ろうとしてるんだろ。」


などと完全な言いがかりをつけられ、

「同士とヤッた(sexした)ことがあるだろ!」

「物に対する執着が強い!そんなことでは革命戦士にはなれない!」


などと更に因縁をつけられ、ここから総括が始まった。何日にも渡って暴行は続けられ、2月4日のこの日ついに死亡した。同じ26日に縛られた山本順一と大槻節子が30日に死亡してから、金子みちよはその後、4日間も生き地獄を味わった上、お腹の中にいる子供と共に死亡したのである。


2月12日(12人目)

2月1日に「この組織を脱退したい。」と申し出た山田孝(27)が最後の犠牲者である。翌日2日に山田は雪の上に正座させられ、反省を求められた。そして森恒夫に「食事抜きでマキ拾いして来い。」と命じられるが、作業が遅かったため、全員から袋叩きに遭う。

その後、縛られ暴行を受け、食事もほとんど与えられず、ついに12日のこの日衰弱して死亡した。山田は延々と12日間もリンチを受け続けた上に死亡したのである。

これまでのリンチで殺した者の死体は、榛名山ベースの時と同じ様に順次穴を掘って埋めていた。この時点で残りのメンバーは16人となった。連合赤軍のリンチで死亡した者は12人であるが、これ以前の京浜安保共闘時代にすでに2人を殺しているので、正確にはこの組織によって殺された者は14人ということになる。

ttp://ryoshida.web.infoseek.co.jp/jikenbo/036sekigun02.htm

独裁者タイプの上司はなぜできるのか


世の中には独裁者のような上司が多くいる。しかし、彼らは果たして生まれつきそういう人たちなのだろうか。それとも、環境がそうさせるのだろうか。

私がよく聞く上司のタイプの1つに、独裁者タイプがある。このタイプの上司は、恐怖と脅迫で支配し、部下を扱う際に残酷な振る舞いをする傾向がある。

 私はいつも1つ疑問に思っている。悪い上司というのは、もともと悪い人間だからそういう振る舞いをするのか、それとも彼らは基本的にはいい人であるにもかかわらず、権威を背負ったことによって心理的に変わってしまったのだろうか。言い換えれば、悪いボスは生まれつきのものか、それとも後天的なものかということだ。Acton卿の

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」

という言葉は正しいのか。  私は以前、魅力があり話しやすい人物と仕事をしたことがある。彼は野心的な性格だったが、腹の立つようなことはなかった。しかし、一度権威のある地位についてから、彼はまるで違う性格になってしまったように見えた。彼は「言うことに従わない者は去れ」というタイプの人間になってしまった。私は、彼があるミーティングで、おおっぴらに部下を馬鹿にし、恥をかかせたと聞いた。彼はおそらく、権威を手にした瞬間から、一度も間違いを認めたことがないだろう。その後彼と社交的な会話を交わした時、彼はまだ私が以前知っていた魅力的な人物のように見えたが、彼の仕事場での顔を無視することはどんどん難しくなっていった。

 1971年に、スタンフォード大学の心理科学者がある実験を行った(スタンフォード監獄実験)。この実験では、彼らはなぜ監獄があれほど不愉快な場所になるのかを見出そうとした。具体的に彼らが知りたかったのは、そうなる理由が、監獄に集まるのがひどい人間ばかりだからか、それとも監獄が人々をひどい人間にしてしまうからかということだ。研究者たちは、「塀の中での振る舞い」の効果を調べられるような擬似的な監獄を作った。

 24人の大学生がこの実験の被験者となった。学生たちは全員、最初に面接と性格テストを受けた後、コイントスで無作為に2つのグループに分けられた。半数が看守の役を与えられ、半数が囚人役となった。看守への唯一の指示は、監獄の法と秩序を維持するために何でも必要なことをしろというものだった。

 実験は2週間の予定だったが、たったの6日間で中止された。なぜか?それは「看守役」があまりにも虐待的になり、「囚人役」が心的外傷を受けたためだった。看守役の中には、自分は平和主義者だと主張する者たちもいた。

 これは1つの実験に過ぎず、職場は監獄ではない。しかし、それでもこの結果は身も凍るようなものだ。私は、権威によって腐敗してしまう人たちの性格には、もともと心理学テストでは発見できないような、弱いところがあったのだと考えるようになってきている。私は確かにリーダーシップが人間を変えると考えているが、われわれすべての中に、権力によって芽を出す残虐さの種があるとは信じられない。

ttp://builder.japan.zdnet.com/off-topic/20379103/

権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験


権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが難しくなり、さらに、他者に厳しく自分に甘くなるようだ。

権力者が正しくない行動をするというニュースは大量にある。彼らが、自分より地位が下にある者に対して横暴にふるまい、権力をかさにとった性的行動をとったりすることは、気が重くなることではあるが、驚くことではまったくない。問題は、このようなひどい行ないはなぜ起こるのかということだ。権力はなぜ堕落するのだろう?

心理学者たちによると、権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。
ノースウエスタン大学の心理学者Adam Galinsky氏らによる最近の研究を見てみよう。研究チームはまず、自らが大きな権力を手にした経験、あるいは自分に何の権力もないと感じた経験のいずれかを、被験者たちに語らせた。

そしてその後、自分の額に「E」の文字を書くよう指示した。すると、権力を手にした経験を語った被験者のほうが、文字を(他人から見て)左右逆に書く傾向がはるかに強かった。この傾向は、権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと研究チームは主張する。権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。

さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすい。Galinsky氏の2009年の研究(PDF)では、一方のグループには、仕事の交通費を不正請求する行為は、倫理的にどの程度の悪事にあたるかを、9段階で評価させた。もう一方のグループには、さいころを使ったゲームに参加させた。[被験者は他人に見えないところでさいころをふり、]さいころの出た目に応じて、決まった枚数の宝くじを各被験者がもらえるというゲームだ。出た目の数が多いほど、もらえる券のくじも増える。

ttp://www.kellogg.northwestern.edu/faculty/galinsky/Power%20Hypocrisy%20Psych%20Science%20in%20press.pdf


前者の実験では、権力を手にした経験を事前に想起していた被験者のほうが、交通費の不正請求に対する倫理的評価は有意に厳しかった。ところが、さいころゲームのほうでは全く逆の結果が出た。権力を想起したグループの被験者に、振ったさいころで出た目の平均値を申告させたところ、偶然のレベルを平均20%上回る(統計的にはありえない)数字を申告したのだ。それに対し、無力さを想起したグループが申告した数字は、偶然をやや上回る程度だった。この結果は、前者のグループの被験者が、実際の出た目ではなく虚偽の数字を申告して、宝くじ券を余計にもらおうとした可能性を強く示唆している。

人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。


以上の研究結果については、実験室での研究にすぎず、説得的ではないという思う人もいるかもしれない。「権力者の堕落」に関するほかのs研究で私が気に入っているのは、スタンフォード大学ビジネススクールの心理学者Deborah Gruenfeld氏による研究だ。1953〜1993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした「多数意見」が実際の法律になっていくことだ。

ミシェル・フーコーが語っているように、権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる。自らの行動が及ぼす影響など気にかけず、お構いなしに実行するようになっていくのだ。

ttp://wired.jp/wv/2011/06/03/%e6%a8%a9%e5%8a%9b%e8%80%85%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%8c%e5%a0%95%e8%90%bd%e3%80%8d%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9a%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6%e5%ae%9f%e9%a8%93/

独裁者の心理


NATOがトリポリを爆撃開始しても、ムアンマー・カダフィは相変わらず権力にしがみ付いている。シリアではバシャール・アルアサードが1000人以上の市民を殺しているし、イエメンでは今週には内戦状態になろうとしているのにアリ・アブドラ・サリーは辞任しない。何故、独裁者はこれほど権力に執着するのか。サウジアラビヤやベネズエラに逃亡して豪華に余生を過ごせないのか。最悪の結果が待っているのに彼等はそうしない。

誇りより欲が先立つということであろうが、独裁者は地位の維持にこだわる。独裁者の心理分析は難しいが、過去の有名な独裁者であるスターリンや毛沢東、サダム・フセイン、カダフィ等の得られる記録から、彼等の心理をある程度研究することができる。少なくても戦略局(今のCIA)がアドルフ・ヒットラーの心理分析を専門家に依頼して以来、独裁者の心理研究は進んできた。ここに最近の研究結果をもとに、独裁者の心を調べて見る。

1) 独裁者は変質者であると言う説


この説明が最も簡単で我々にも分かりやすいが、少し無理がある。変質者とは精神障害の診断と統計の手引き(DSM)によれば反社会的人格障害と記されている。その特性は犯罪の繰り返しと嘘、衝動的行動、自責の念の欠如とある。

多くの独裁者もこの傾向を持つ。彼等は民衆をだますが同時に自分をもだます。「もしスターリンが誰かを裏切り者と呼ぶとすれば、それは他人をそのように誘導していると同時に、実は自分自身をもだましている」とオックスフォード大学の歴史学者であるロバート・サービスは言っている。カダフィは、彼の体制に反対するものは国家リビヤへの反逆と言いつつ、「全ての人民は私の側にいるし、私を守るに命を惜しまない」とも言っている。

連続殺人犯のジョーン・ウェイン・ゲーシーの例を見ても本当の変質者は嘘つきでも冷酷な人間でもなかった。ゲーシーは被害者を各種の道具を使って苦しめ、気絶するとわざわざ起こして苦しめた後に殺した。多くの独裁者はそのような残酷なことを少なくても直接自分は実行していなかった。

ミシガン大学の心理学のスコット・アトランは、20年間、世界の独裁君主を調べている。彼はハマスのリーダーであるカレド・メシャール、東南アジアで活動しているジェマー・イスラミヤの以前の司令官であるアブバカ・アシール、ムンバイでテロを行ったラシュカレタイバのハフィズ・サイード、アメリカの白人至上運動の指導者であったウィリアム・ピース等と直接話している。

アトランが引き出した結論は、衝動的道徳の追求が独裁者の性格の背後にあることであった。ヒットラーの場合、オーストリアのユダヤ人が現在のお金で数百億円を支払う意思を示しているにも関わらず、要請を拒否してガス室に送り込んでいる。イランの政府も外国からの多額の援助の申し出にも関わらず、独立を保つという聖なる目的のために、核兵器計画を維持する決定をしていた。

2) 独裁者は極端な自己愛主義者


一般の指導者は部下を持ち、部下は指導者を批判することが許されるが、独裁者の部下は生命さえも独裁者に握られているために、批判は絶対出来ない。

「私が強く印象付けられるのは、独裁者が変質者であるかどうかより、絶対権力が如何に人間の性格を変えてしまうかだ」

と香港大学のディコッター教授は言う。

「毛沢東は権力の頂上に長くいて権力の濫用は年々増し、最後は自分の作ったマユの中で生活しているような状態であった」

と彼は言う。独裁者は自分自身と他者への関わりを現実的に見る視点を失ってしまう。2003年にPsychological Review誌で発表されたカリフォルニア大学バークレーのダッチャー・ケルトナー等の報告によると、強い力を持つものはその心理体質を変えていくと指摘している。権力のあるものは他者が成し遂げた業績を自分の手柄にできるし、自分を囲む世界を単純化して考える傾向があった。

しかし我々を囲む現実を無視すると神経学的代償を払うことになる。どの脳の部位もそうであるが、余り使われないと退化してしまう。特に旁辺縁系皮質は我々の感情と自己規制の中枢で、そこを使わないと機能は退化してしまう。

カダフィは数百から数千人のスパイを張り巡らして、彼の体制に歯向かう者を探して抹殺して来た。スターリンは人民委員会を使って彼に反対する者や、特に革命以前のエリートを根絶やしにした。このように聞くべき批判を全て封じてしまうと、独裁者は自ら自分の旁辺縁系を機能不全にしてしまう。ゆえに彼等の末期には傍から見ていても狂ったように見える。


3) 独裁者とは、絶対権力により心の病を発病した人


ジンバブエのロバート・ムガベ大統領は若い頃、至って禁欲的、礼儀正しい若者であった。ピーター・ゴールドウィンの著書「ロバート・ムガベとジンバブエの苦難」の中に、ムガベが若い頃は人の話を良く聞き、朝は早起きし腕立て伏せをし、決して酒を飲まなかったと補佐官が述べている記述がある。何故そんな若者があんな怪物になってしまうのか。

ここでロード・アクトンの言葉を引き合いに出して、”絶対権力がムガベを堕落させた”とする。では絶対権力が人を堕落させるメカニズムとは何だろうか。

新しく発表された”権力はどのように人を腐敗させるか”と題する論文で、コロンビア大学の研究チームは、権力は人間の心理を変えると言うより人の生理を変えるとしている。その論文の中でダナ・カーネイーは、権力を持つと人の日常のストレス・レベルは低下するから、ストレスの刺激で分泌されるコルチゾルのレベルも低くなるとしている。確かに権力者は車を運転する必要もないし、住宅ローンの心配もないからストレスレベルは低い。

一般に不道徳な行いをすればストレスレベルは高まる。

「例えば嘘を日常言う人間は、真実、道徳、社会のルール、結果がどうなるかと色々考察しながら、言葉を慎重に選ばないとならない。ストレスが余りに高まると気持は落ち込み、コルチゾルのレベルの上昇となって現われる」

とカーネイーは述べている。しかし、独裁者はコルチゾル・レベルが低いから、いざストレスに見舞われた時にも心に十分な余裕があり、悔やむ事なく何かを実行できる。この仮説が正しいかどうか調べるために、カーネイー等は心理実験をした。


被験者を2つのグループに分けて、最初のグループには大きな事務所をあてがい、貴方は管理職ですよと言う。

するとこの管理職のグループでは難しい決定も比較的簡単にやってのけた。

これに対して第2のグループは、狭い部屋を与えられ部下であると言われるが、彼等の反応は第一グループと反対の結果が出た。

管理職グループの人達は心理的にもストレスが低かったばかりか、唾液の中のコルチゾルのレベルも低かった。


このような理由があるから独裁者の犯罪が許されると言っているのではない。我々の脳は絶対権力を行使するようには出来ていないのだ。独裁者は自分の将来には色々の選択肢があると考えることが出来なくなっている。

カダフィも全てを失う前に辞任すべきだし、ムバラクも辞任を発表する数週間前にエジプトを出国すべきであった。ヒットラーは平和へ向けた交渉が可能だったかも知れないし、サダム・フセインも処刑を避け得た。しかし独裁者は軍事力に頼りすぎ、心理的にも柔軟性が欠けているため、全滅と言う結果になる。

ttp://mui-therapy.org/newfinding/psycology-dictatorship.html


 


保守政治家の亀井静香は連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。

今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。

自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」
ttp://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/739472309fb34190d4e7768d8e002ba6



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1970年5月10日 重信房子逮捕(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10482856215.html


■1970年5月10日 赤軍派・女闘士を逮捕(朝日)

 重信逮捕といえば2000年11月の大阪府高槻市での逮捕を思い浮かべるが、この記事は明治大学時代(24歳)のこと。遠山美枝子(連合赤軍リンチで死亡)とホステスのアルバイトをやっていた頃と思われる。

よど号ハイジャック事件以来、赤軍派に対する捜査はいっそう厳しくなり、残った幹部が次々と逮捕された。そんな状況の中、まだ無名だった重信房子が逮捕された。この時代の重信については「婦人公論」に連載された「時代を創る女たち」(島崎今日子)に詳しい。


 女性活動家には男と同等に闘おうとジグザグデモの前に立つタイプと、「私は女よ、女でなにが悪い」と開き直るタイプがいた。重信は後者で「女を武器化している」とと批判されても「ブントのため」と平気だった。

 昔の週刊誌には、重信のオルグ率は98%とある。優しく笑いながら「ねえ、一緒にデモ行かない?世界が変わるわよ」。重信の「微笑外交」、またの名は「ポン引きオルグ」で思想研はみるみる膨れ上がった。そこには遠山のほかによど号ハイジャックの田中義三がいた。

 重信が目に見えて変わったのは赤軍派に入ってからだと、明大の仲間たちは異口同音に口にする。教師になるつもりだったが、高原(遠山美枝子の夫)にさそわれるまま赤軍派に加わった重信は、激しい内ゲバ・リンチの真っ最中に居合わせ、人生を変えた。「ルビコン川を渡った日です。党派の理論を知らないまま当事者になり、やるしかないとアクセルを踏みました」。

 赤軍派は男社会で、軍隊化はジェンダーの差異を明確にする。そんなとき田中美津がウーマン・リブのアジビラ「便所からの開放」を一晩で書き上げる。それに新左翼の女たちも激しく共振したが、しかし重信は「男を糾弾するより、主体的に世界を変えることに熱中していた」。

 すでに多くの逮捕者を出し、主たるメンバーは指名手配されていた。重信は神出鬼没で、運動資金を稼ぐために獄中手記を書き、テレビに出演した。彼女派赤軍は時代に公安条例違反等で3度逮捕されている。

(「婦人公論」2007年12月7日号「時代を創る女たち・重信房子 この空を飛べたら(2)」より抜粋)

 文中の「思想研」とは赤軍派の合法組織。獄中手記とは「週刊現代」1970年7月16日号「赤軍派"女隊長"初々の獄中記」のこと。サブタイトルが「日航機乗っ取り謀議の容疑で逮捕された明大生・重信房子の愛と闘争」となっている。


 赤軍派は、よど号ハイジャックで幹部が北朝鮮へ流出し、国内でも幹部逮捕が相次いだため闘争は完全に行き詰っていた。革命をあきらめるメンバーも多い中、重信は国外に活路を見出そうとしていた。そして彼女がテルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争)の奥平剛士と出会うのは、この年の秋のことである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10482856215.html


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1971年2月28日 重信房子レバノンへ旅立つ(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10656233989.html

■1971年2月28日 重信房子レバノンへ旅立つ

 ちょうど赤軍派がM作戦(強盗)を開始したころ、森恒夫と折り合いの悪かった重信房子がレバノンへ旅立った。空港に見送りに行った遠山美枝子(後の山岳ベースで死亡)は、「ふーが先に死ぬのね」と涙を浮かべたが、重信に悲壮感はなかった。


 前の年に、友人に連れられて重信は京大バルチサンの奥平剛士にカンパを求めに行ったところ、奥平が語ったゲバラやパレスチナ問題にすっかり逆オルグされてしまった。そして、彼女のほうから奥平にパレスチナ行きを持ちかけたのだった。


 2月26日、まず奥平がレバノンへ旅立つ。2月28日、奥平と偽装結婚して「奥平房子」のパスポートを取得した重信が後を追った。レバノンのベイルートで合流した2人は、PFLP(パレスチナ人民解放戦線)の庇護と支援を得ることに成功する。

 森恒夫は重信のレバノン行きを「国内で資金を集めろ」と引き止めたが、赤軍派をやめてでも行くと伝えると、「なら、赤軍派として行ってくれ」と指令が下った。森にとって重信は制御不能な存在だった。歴史に「もし」はないが、重信が日本にいたなら連合赤軍事件は起こらなかったと言う人、真っ先に粛清されたと言う人、2つの見方がある。


 森はアラブの重信にお金を送ったことで遠山美枝子に自己批判を求めている。重信は、逮捕後独房で、親友の遠山が総括の名の下で殺されていく過程をつぶさに読んだときの苦しい胸のうちを明かす。


「リーダーたるべき人が次々いなくなり、できもしないのに責任感で頑張ったのが私であり、また森さんでしょう。森さんの遠山さんへの恨みは私の分もあるという人がいます。私の、女でいいじゃないかという甘えと、ダメな男への軽蔑の流れが、遠山さんへの批判と死をもらたした気がしました・・・」


「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」

■1971年3月15日 赤軍女リーダー潜入 アラブゲリラと接触か(毎日)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-03-15 毎日ベイルートに重信潜入

 3月15日、毎日新聞に「赤軍女リーダー潜入 アラブゲリラと接触か」の見出しが躍り、クウェートにその記事が流れた。これをきっかけに、重信と奥平の短い"新婚生活"は終わりを告げる。・・・PFLPは「これでは秘密が守れない」と、重信は合法組織である情報宣伝局アルハダフに配属され、奥平は希望して軍事訓練所に赴くことになる。・・・


 映画監督の若松孝二が、後に日本赤軍のスポークスマンになる足立正生に「パレスチナに行こう」と誘われ、ベイルートに足を向けたのは5月だった。・・・その秋、『赤軍−PFLP・世界戦争宣言』のフィルムを積んだ真っ赤なバスの上映隊が日本全国を回り、若者の血を駆り立てた。その中には、テルアビブ空港襲撃でひとり生き残り、イスラエルに逮捕される岡本公三もいた。


(「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」)

■テルアビブ空港乱射事件への道


 奥平は京都パルチザンの仲間を呼び寄せる準備を始めていた。安田安之、山田修、檜森孝雄の3人がベイルートに到着、軍事訓練に入る。PFLPの指揮の下、テルアビブ空港を襲撃するリッダ作戦が動き出し、討議が繰り返された。だが、重信がこうした事実を知るのは逮捕後の2002年2月、檜森から「語っておかなければならないことがある」と差し入れられた手記を読んだときだ。重信は、奥平の下に仲間が結集しているのを知ってはいた。・・・だが、彼らが重信に軍事機密をもらすことはなかった。


 72年1月、山田が寒中水泳の訓練中、心臓麻痺で急死。奥平は、泣いて拒む檜森を強引に遺体と帰国させる。山田の死で日本人グループの存在が明るみに出ると、PFLPは作戦決行を決定。・・・間もなく、重信は奥平から「退路を断つ闘いに行く」と告げられる。重信は衝撃を受け、猛反対してPFLPに意見書を上げるが、決死作戦を願い出たのは奥平だった。


(「婦人公論(2007年12月22日・2008年1月7日号) 時代を創る女たち この空を飛べたら(3)」)


 1972年5月30日にテルアビブ空港を襲撃したのは、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3名だった。岡本公三は京都パルチザンのメンバーではなかったが、帰国した檜森に誘われた。


 檜森にどのような言葉で誘われたのかは不明だが、岡本が日本を後にしたのは、アラブゲリラと共闘しようとしたのでも、テルアビブ空港襲撃に加わるためでもなかった。逮捕後の岡本のインタビューが残されている。


−日本を出るときから、こういう計画(テルアビブ空港襲撃)に参加するつもりだったのか。
「いや、日本を出るときは単純に兄に会える期待と、軍事訓練を受けるつもりしかなかった」
(兄はよど号事件の次兄・岡本武のこと)


−その一員にどうしてなったのか。
「自分でもなぜボクに白羽の矢がたったのかわからない。たぶん、兄のせいだろう」


−その兄に会えるからといってレバノンへつれてこられて兄に会えず、だまされたとは思わなかったか。
「奥平が、お兄さんに合わせられなくて申し訳ないと謝ったので納得した」


(「週刊文春 1972年7月24日号 「テルアビブで岡本公三と一問一答」)

 このような経緯からわかるように、テルアビブ空港襲撃は京都パルチザンメンバーが主体となって行った闘争であり、重信は関与していなかったのである。また、事件当時、「アラブ赤軍」なる組織も存在しなかった。 しかし、重信は「アラブ赤軍」としての声明を出し、後に改称した「日本赤軍」を「リッダ闘争を行った組織」と宣伝したのである。


 日本赤軍コマンドだった和光晴生は、2010年の著書「日本赤軍とはなんだったのか」の中で、この宣伝を「うそつきの始まり」と辛らつに批判している。


※日本では「テルアビブ空港」と報道されたが、テルアビブの「ロッド空港」のこと。アラブ側呼称は「リッダ空港」という。日本赤軍は「テルアビブ空港襲撃事件」のことを「リッダ闘争」と呼称している。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10656233989.html

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1972年3月14日 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

■ベイルート入りの重信に赤軍派が毎月送金 青砥自供(毎日)

 青砥は「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触を深める目的で、ベイルートに潜入した幹部、重信房子(25)に対して赤軍派は毎月現金を送り続けていた」と自供した。

自供によると、赤軍派には5,6人のメンバーによる国際部があり、青砥もその構成員だった。青砥は昨年夏ごろ、森恒夫に送金の話を聞き、森の指令を受けて送金用の現金を集めたという。「わたしはある特定の人から3回にわたって30万ずつ受け取った」といい、"特定の人"については「絶対にいえない」といっている。


 森と重信はソリが合わなかった。森は重信のベイルート行きに反対したが、重信が赤軍派を脱退しても行くというと、しぶしぶ了解し、それなら赤軍派として行ってほしいと言ったという。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html

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1970年3月 塩見孝也議長逮捕(赤軍派)   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

後にパレスチナで日本赤軍を結成する重信房子は11月11日に明大周辺の無届デモで都公安条例違反で逮捕、48時間の拘置期限が切れた13日には凶器準備結集罪で再び逮捕されている(いずれも不起訴)。

「情緒的で、すぐくずれそうなのに、くずれない。
取り調べの最中にセックスについてあけすけに話したりして煙にまき、時間をかせぐ。まったく調べにくい女だった」

というのが、捜査員たちの一致した重信評であった。

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1970年3月 塩見孝也議長逮捕(赤軍派)


■1970年3月6日 武器頼まれ銃砲店襲撃を計画(朝日)

 岩手県水沢署に猟銃や散弾を盗んだ疑いで逮捕された元自衛隊員(23)が4日夜「赤軍派の武器調達を頼まれていた」と自供、警視庁に逮捕されていた赤軍活動家(23)とともに、秋田市内の銃砲店を襲う計画を立てていたこともわかった。この実行寸前に大菩薩峠で赤軍派が一斉逮捕されたため、あきらめたという。

 調べによると、昨年10月ごろ、赤軍派幹部から武器調達のために8万円を受け取り上野を出発、手始めに海上自衛隊のころ知り合った医師宅から上下2連銃と散弾68発を盗んだ。


■1970年3月16日 赤軍派委員長を逮捕(朝日)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1970-03-16 朝日 朝14 赤軍派・ 塩見議長逮捕


 塩見は田宮(後によど号)、小西(後によど号)、前田と討論をした後、前田と2人でタクシーで駒込駅へ向かったところを警官にとめられた。降りたとたん、逃亡をはかった。

 


 ところが、陸橋のところに派出所があったのが運のつきだった。そこに若い警官がいて、彼に差をつめられた。「止まれ!」なんて叫んでいるもんだから、近所の6,7人の小中学生が、泥棒か何かと間違えて、わあわあ騒ぎ一緒になって追いかけてくる。「オレは人民のためにやっているのに、なんでガキ共に追いかけれれるんだ」(笑い)・・・。警官はピストルまで抜いて追いかけてくる。追いつめられ、しゃあない、という感じで逮捕された。まあ、それから僕の「20年」というのが始まるわけです。

(「赤軍派始末記」)


 押収された塩見の手帳には「HJ」のメモ書きがあったが、警察はそれが「ハイジャック」を意味するとは気づかなかった。


 ちなみに 「ハイジャック(hijack)」 とは乗り物を占拠すること。日本では 「Hight Jack」 と誤解され(?)、航空機に対してのみ用いられ、他の乗り物の場合は、シージャックとかバスジャックという和製英語で表現される。


 このころ、内ゲバを敵前逃亡し活動をはなれていた森恒夫が赤軍派に復帰する。重信房子は独自の活動をしていたようだ。


 後にパレスチナで日本赤軍を結成する重信房子は11月11日に明大周辺の無届デモで都公安条例違反で逮捕、48時間の拘置期限が切れた13日には凶器準備結集罪で再び逮捕されている(いずれも不起訴)。「情緒的で、すぐくずれそうなのに、くずれない。取り調べの最中にセックスについてあけすけに話したりして煙にまき、時間をかせぐ。まったく調べにくい女だった」 というのが、捜査員たちの一致した重信評であった。


 大菩薩峠のあと、赤軍派は中央政治局員7人のうち、花園紀男、堂山道生、上野勝輝、八木健彦が逮捕され、作戦を練るのは、塩見孝也、田宮高麿、高原浩之の3人になっていた。政治局員の補充に塩見は森恒夫を推したが、田宮は 「あんな度胸のないやつはだめだ。ゲバ棒一本持てんやつに戦争ができるか」 と反対した。しかし塩見は 「あの男には理論がある。一平卒からやりなおさせよう」 と納得させた。12月に大阪からボストンバッグ1つで上京した森は一平卒から出直すことを承諾し、翌日からビラ配りに従事した。


 12月12日、京大全共闘議長にして赤軍国際部長の小俣昌道が、国際根拠地建設のためアメリカ、キューバに向け旅立った。アメリカではイリノイ大学の集会などで大みえをきり、極左集団に精力的に働きかけた。キューバではカストロ首相に面会しようとするが、相手にされるはずがなく、滞在期間がオーバーして200ペソの罰金をとられるありさまだった。


 1月16日、お茶の水の電通会館で再起のための政治集会「1・16赤軍派武装蜂起集会」を開き、「国際根拠地論」 を披露し、すでにキューバに1人送り込んだと発表した。この日は1500円払えば報道関係者も傍聴できたが、これは大菩薩峠の痛手からよみがえったことを印象付けるための演出だったと思われる。
(「連合赤軍・この人間失格」より要約)

 森恒夫は臆病者だといわれているが、そのエピソードは次のようなものだ。


 1965年11月11日、日韓条約批准デモで逮捕されたとき「おっちゃん、かんにん、おっちゃん、かんにん」と泣声であっさり自供した。

 1969年6月28日、内ゲバで森恒夫と藤本敏夫が監禁され、自己批判を迫られたとき、藤本は拒否したためリンチを受けひん死の重傷を負うが、森はあっさり自己批判し、「リンチにかけないでくれ」と泣きわめいた。

 1969年7月2日、赤軍派は藤本リンチの報復のため敵陣に乗り込むが、まさに乗り込もうとする直前、敵前逃亡した。そのあとしばらくして森はすべての任務を放り出して仲間の前に姿を見せなくなった。


 森が連合赤軍のリーダーになったとき、「もう2度と逃げない」 と心に誓い、それが総括をより過激にさせたと考えられている。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10361265024.html

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1971年12月  
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
 森氏は遠山さんに関して、彼女が重信房子さんに金を送ったはずだから、そのことを聞き出し、その報告文を書かせるように指示した。

森氏は重信さんがパレスチナへ行く際、森氏と意見が一致しなかったということで、重信さんにきわめて批判的だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森と重信は水と油の仲だった。
遠山は重信と親友で、パレスチナにいる重信と連絡を取っていた。
遠山への厳しい批判は、重信の分まで入っているといわれている。

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1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)


 永田と坂口が帰った後の赤軍派・新倉ベースの出来事を追いかけみる。このあと連合赤軍になるので、赤軍派単独としては最後の出来事になる。


 森は、進藤、遠山、行方の3人は、「連合赤軍メンバーとしての資格がない」 とし、新倉ベースの赤軍派メンバーを1軍と2軍に分けた。


(1軍)
森恒夫(理論家。過去、内ゲバから逃走したトラウマあり)
坂東国男(森の懐刀。酒もタバコも女もやらない硬派)
山田孝(理論家。塩見の秘書役で森より格上だが、一から出直すため森配下へ)

青砥幹夫(森の秘書。合法部との連絡役。革左女性との関係を批判される)
植垣康博(爆弾作りなど実用技術に優れる。革左女性への痴漢で批判される)
山崎順(M作戦途中で坂東隊へ入隊。女性問題で批判される)


(2軍)
進藤隆三郎(M作戦に惹かれて坂東隊へ入隊。同棲女性の問題で批判される)
遠山美枝子(救援対策から新倉ベースへ。女を利用していると批判される)
行方正時(救援対策から新倉ベースへ。消極的態度が批判される)


 こうしてみると女性問題が多いことに気づくが、別に女性とつき合ったからいけないというわけではない。それぞれの批判理由があった。


 この記事では、森恒夫が何を語り、進藤隆三郎、遠山美枝子、行方正時の3人がどのように批判されていくかに着目してほしい。


■1971年12月11日 「総括ができていない。銃の訓練を続けろ!」(森恒夫)


 森氏は、全員に、

「いいか、総括するには、それまでのことをああだったこうだったというだけではだめだ。それまでのここの実戦にどのような意識で関わってきたか、その意識は今からとらえ返せばどのような意識であったか、それを今後どのように止揚していくかを、自分ではっきりさせる必要がある」

と延べ、進藤氏、遠山さん、行方氏に対して、

「何が自分の飛躍にとって決定的な問題かは、自分で見つけ出さなければだめだ。そのためには、討論だけでは不十分だ。銃の訓練をしてよく考えろ」と命じた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森は銃の訓練をしている遠山・行方・進藤をそれぞれ呼んで、「銃を握っていて何を考えた?」などと聞いたが、森の期待する答えではなかった。結局3人とも、「総括ができていない。銃の訓練を続けろ」と却下されてしまった。


■1971年12月12日 「遠山さんにカチカチ山というあだ名をつけた」(植垣康博)

 遠山さんが山の急斜面で何度か転んだのに対して、私たちはその様子が不恰好で狸みたいだといって笑い、柴を背負った狸ということで、彼女に「カチカチ山」というあだ名をつけた。それは遠山さんを蔑視する差別的な言動だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

■1971年12月13日 「森氏への信頼は絶対的なものになった」(植垣康博)
 もうすぐ上赤塚交番襲撃事件一周年の「12・18集会」(柴野追悼集会)が行われる。そこでアピールをするため、これまでの赤軍派の闘争の総括の討論会開いた。2軍の3名は参加させてもらえなかった。


 森氏は赤軍派の総括をとうとうとよどみなく語り、私たちは圧倒されてしまった。この総括によって私たちの森氏への信頼は絶対的なものになったのである。私たちが森氏の総括に感心していると、森氏は「力量の違い」といって得意そうな顔をした。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森の語った総括は長いので省略するが、ブント以降の闘争を、「銃−共産主義化論」 の観点から、否定的に総括したものである。ところが「銃−共産主義化論」がうさんくさいと思って読んでいると、怪しい総括としか思えない。


 しかし、逆に言えば、これまでの闘争を否定的に総括することによって、「銃−共産主義化論」の正当性を主張するものになっている。つまり、「12・18集会」で、「銃−共産主義化論」をアピールするために、つじつまを合わせた、ということだろう。そういう観点でみると、やはり森の理論構築力は大したものである。なんといっても当時27歳の若者なのである。


■1971年12月14日 「ナイフと金を取り上げて隠せ」(森恒夫)

 この日、山田は12・18集会のため東京へ出発した。進藤、遠山、行方の3人は、雪の上の足跡を消してくるように命じられた。


 4人が出かけたあと、森氏は、私たちに、進藤氏たちに対する逃亡の警戒の必要性を強調し、彼らからナイフや金銭をすべて取り上げ、弾薬と金銭を隠すように指示した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 ナイフを取り上げたのは、彼らが立ち向かってくることを恐れたからである。この猜疑心は尋常ではない。


 心理分析(「ヘボ」がつくが)→ 決め付け → 常軌を逸した防衛行動、というのは、精神疾患(統合失調症)の被害妄想によくみられる。森がその種の病を発病していたかどうかはわからないが、病的なまでの人間不信(恐れ)があった。これはそのまま連合赤軍に持ち込まれる。


■1971年12月15日 「銃の訓練以外のことをさせてはならない」(森恒夫)
 この日、森と坂東は、翌日から会議のため一週間ほど革命左派の榛名ベースへ行くことをメンバーに告げた。そして、留守の間、「進藤、遠山、行方には銃の訓練以外のことをさせてはならない」 と言い残した。


■1971年12月16日 「遠山がお前をたぶらかすから気をつけろ」(森恒夫)


 森氏は、私と青砥氏に、進藤氏たち3人を甘やかしてはならず、きびしく監視するようにいった。特に、遠山さんに関して、彼女が重信房子さんに金を送ったはずだから、そのことを聞き出し、その報告文を書かせるように指示した。森氏は重信さんがパレスチナへ行く際、森氏と意見が一致しなかったということで、重信さんにきわめて批判的だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森と重信は水と油の仲 だった。遠山は重信と親友で、パレスチナにいる重信と連絡を取っていた。遠山への厳しい批判は、重信の分まで入っているといわれている。


 また、森氏は、私に対して、「遠山がお前をたぶらかして取り込もうとするかもしれないから、気をつけろ。甘い第度をとるな」といった。そんなことはどう考えてもありえないことなので、私は、森氏のそういう見方に驚いたが、そんなものだろうかと思い、遠山さんに厳しい態度で臨むことを表明した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 午後、森と坂東は、革命左派の榛名ベースへと出発した。


 この夜、植垣と青砥は、「おやじさん(森)いったいどうするつもりなんだろう?」「まったくあの3人のおかげでえらいことになってしまったなあ」と話し合った。

■1971年12月17日 「夜は総括のことを忘れて酒を飲み、歌を歌った」(植垣康博)

 午前10時ごろ、山崎氏が大変な剣幕で進藤氏たちに怒っており、私たち(植垣・青砥)に、「あいつら、みんなが出かけてから俺の言うことを少しも聞こうとしない!総括する気がないんじゃないのか!」といった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 批判されている3人にしてみれば、うんざりしていたところで、森と坂東がいなくなったので、タガがはずれたのであろう。しかし、植垣、青砥、山崎は、彼らの総括の責任を負わされていたから、甘い顔をするわけにはいかなかった。


 遠山、進藤、行方はあいかわらず銃の訓練をさせられたが、午後、遠山を呼んで、重信房子との連絡ルートや金を送った額などを紙に書かせた。


 こうして私たちは、この日以降、坂東氏が迎えに来る12月29日まで、昼は遠藤氏たちに銃の訓練をさせ、夜は総括のことを忘れて酒を飲み、歌を歌ったり雑談をしたりしてにぎやかに過ごしたのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月19日 「座禅でもはじめたのか?」(植垣康博)
 3人に銃の訓練だけさせるということは、お互いにあきあきすることだった。そこで植垣は総括討論をやることにし、行方に質問しながら総括を聞いたが、行方は答えられなくなり、行方はうなだれて正座してしまった。植垣は「座禅でもはじめたのか?」と冷やかした。


■1971年12月20日 「お前は金が目当てだ」(植垣康博)
 この日は進藤を呼んで総括討論を行った。そして彼の行動を金銭欲などで解釈した総括を押し付けてしまう。彼女と付き合ったのは、旦那から金をせしめるためであり、赤軍派に関わったのはM作戦(銀行強盗)の金が目当てだった、というものだった。そして「克服するには、共産主義化を通して銃による殲滅線に全力をあげることだ」と結論をいった。


 進藤氏は「よくわからんけど、そういうことになってしまうな。しかし、そういう総括の仕方ははじめてだ」といい外に出て行った。(中略)
 その夜、私に「おい、バロン、やっぱりあの総括はおかしいよ」といった。だが私は冷たく、「おかしくもなんともない。よく考えろ」といって、考え直そうとはしなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月21日 「最高幹部・高原の妻という特権的地位を利用した」(植垣康博)
 この日は遠山を呼んで総括討論を行った。


 私は、遠山さんのそれまでの活動を、高原氏に依存し、高原氏の妻という特権的地位を利用した活動でしかなかったと解釈した総括を押し付けた。これに、遠山さんは、「そういう風に自分の問題を考えたことがないので、よくわからない」と答えていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■1971年12月22日 「女にもてようとする英雄欲だ」(植垣康博)
 この日は再び行方を呼んで総括討論を行った。


 「市民社会から遠ざかるのが恐いといいながら赤軍派の活動に関わってきたのは、そのことによって英雄気取りをし、女にもてようとする英雄欲からではないか」と批判すると、行方氏はうなだれてしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 私たちは、その後も、進藤氏たちに銃の訓練を強制しながら総括討論を行っていったが、これによって私が彼らに押し付けた総括が、後に彼らを死に追いやっていくことになるのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 植垣の総括の押しつけは、これまでの森の批判を踏襲したものだと思われる。だが、夜になると3人を含めて酒を飲んだり歌を歌ったりしていたのだから、本気でやっていたのか疑問である。森に対するポーズだったに違いない。


 「銃−共産主義化論」はまったくやっかいな代物である。銃の訓練ばかりやらされた3人はたまったものではないし、銃を握ったところで総括が進むわけではなかった。


 「総括が進む」とは、「森の価値観に同化する」ことに他ならなかった。森は、「何が自分の飛躍にとって決定的な問題かは、自分で見つけ出さなければだめだ」といって、ヒントをくれなかったから、「正解」は闇の中であった。


 総括を要求されている3人と、そうでない3人の差はほとんどなかったのだから、指導などできるわけなかったのだが、しかし、植垣、青砥、山崎は、これまで一緒に活動してきた仲間3人に対し、次第に蔑視的な態度をとるようになった。


 森と坂東のいない新倉ベースで、植垣、青砥、山崎、遠山、進藤、行方の6名はこのように過ごしていた。そして、年の瀬も迫った12月29日に坂東と寺岡が迎えに来て、革命左派の榛名ベースへ合流することになる。


 それは墓場への招待だった。榛名ベースでは、より進化した「総括」が彼らを待ち受けていたのである。この6名のうち、生き残るのはたった2名しかいないのである。
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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
1971年12月 永田洋子の怒り爆発(革命左派・榛名ベース)
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 今回は、連合赤軍結成直前の革命左派の動向である。


 この時点でのメンバーを確認しておくと、共同軍事訓練 に参加したメンバーが、永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、前澤虎義、金子みちよ、大槻節子、杉崎ミサ子、岩田平治の9名。参加しなかったメンバーが、尾崎充男、小嶋和子、加藤倫教(次男)、加藤元久(三男)、伊藤和子、寺林真喜江、山本順一の7名である。


 山岳ベースに入るきっかけは、指名手配されているメンバーが潜伏するためだったが、永田は合法部隊も呼び寄せていた。加藤倫教の「連合赤軍少年A」によれば、それは、獄中指導者の川島豪からメンバーを引き離す目的があったからだという。川島豪の獄中からの指示や批判に対し、永田は面白くなかった。そこで、永田はメンバーを目の届くところにおき、川島豪から引き離そうとしたというのである。


 さて、この記事でのポイントは、まもなく開催される12・18集会(上赤塚交番襲撃事件 の1周年記念集会)の段取りに不満を抱いた永田たちが、集会に乱入(?)を企てるところだ。このことが後に、連合赤軍の暴力的総括の遠因となる。


■1971年12月13日「大見得を切ってきた以上、共産主義化を獲得してもらわねば困る」 (永田洋子)

 指導部会議のため赤軍派の新倉ベースに残っていた永田と坂口が、完成間近の榛名ベースに戻ってきた。永田は赤軍派との指導部会議の内容をメンバーに報告した。


 4,5日すると永田、坂口の2人が榛名に帰ってきた。2人は全員を集め赤軍派との論議について説明した。「今回の共同軍事訓練の最大の成果は、両派が共産主義化による党建設という点で一致したことである」と報告し、それに関して革命左派が主導権を持って論議を進めたことが強調された。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 実際のところは、「指導部会議はほとんど森氏が主導した」(永田洋子・「十六の墓標(下)」)のだった。


 永田は、女性解放という観点から、組織内の女性が男性メンバーと同様に、重い荷物を持ったり小屋の建設に参加したり、武力闘争でも実行部隊に入ることなどを、男女平等の実現だと考えていた。

 また、女性メンバーが活動上、必要もないのに化粧をしたり、指輪などの装飾品を身につけたがるのは、「男に媚びる女性蔑視のブルジョア思想」とみなしていた。そして、革命戦争を闘うには、これらのブルジョア思想の克服が不可欠だと語った。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 永田の考える「女性解放」とは、「女を捨てて男並みになる」ということだったが、これが後に女性への暴力的総括の原因となってしまう (ちなみに、当時の女性解放運動は男並になればそれでよいというような単純なものではない)。


 同時期、ウーマンリブ運動の中心にいた田中美津は、永田について以下のように語っている。


 他の人、男や、権力や金を持つ人、自分より力のある人が求めるもの、求めるイメージを生きようとする限り、結局は化粧も媚び、素顔も媚びになってしまう、ということに永田は気がついていなかったと思います。永田がもし毅然としている一方で、私もイヤリングをつけたい、イヤリングつけて革命して何が悪いのヨって思っていたら、あの群馬県の山中での出来事は起きなかったかもしれない。
(田中美津・「かけがえのない、大したことのない私」)


 田中は、真岡銃砲店襲撃事件 のあと、永田に誘われて革命左派の丹沢ベースを訪れたことがある。このとき彼女は、革命左派に取り込まれることを警戒して、わざと戦士にふさわしくないミニスカートで行ったそうだ。


 永田はわれわれに、「赤軍派に対して、革命左派が離脱者の問題にぶち当たり、組織のメンバーが自己分析に基づいて自分の中に巣食うブルジョア思想と闘うことによって、革命戦争を闘う党建設を進めてきたと大見得を切ってきた以上、皆が自己を革命戦士化する『共産主義化による党建設』の地平を獲得してもらわねば困る」 と話した。

 こうした説明は、一部のメンバーを悩ませることになった。特に、共同軍事訓練への参加から外された者は、深刻だった。自らが皆より遅れているから外されたのだといわれたに等しい。そう受け止めていたからだ。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 共同軍事訓練は、赤軍派のメンバーが9名だったため、革命左派も人数合わせのために9名に絞ったいきさつがあった。


 そのあと、尾崎氏が沈痛な面持で、「上京して京谷さんと会う手はずをとったけど、京谷さんは待ち合わせの場所に来なかった。そのため12・18集会の準備さえどうなっているのか聞いてくることはできなかった・・・・・全く頭にきた」と報告した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 12・18集会とは、上赤塚交番襲撃事件(柴野が死亡)の1周年の記念集会である。京谷は救援対策で、獄中のメンバーとの連絡役をしていた。

 この日の夕食は、私と坂口氏が沢山買ってきた豚の脂身を入れた雑炊であったが、これは好評だった。皆は、「脂身は安くて豚肉の香りがして脂肪が沢山とれるのだから、これからはこういう肉をたびたび買おう」といっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 このころの食事は、押麦の雑炊に中国製アヒルの缶詰かサバの缶詰、採ってきた山菜が主なメニューだった。たまに即席ラーメンを食べる程度だった。豚肉の「香り」や「脂肪」で喜んでいるのだから、当時としても極貧の食事であった。後に逮捕され拘置所で出される食事で栄養回復したという話もある。


■1971年12月14日〜16日「私は山で産む」(金子みちよ)
 14日の朝、大槻と岩田が12・18集会のアピール文を持って上京した。永田は小嶋といっしょに小屋のスキマを新聞紙で目張りしたり小屋の建設を手伝った。


 小屋建設の間、永田は杉崎ミサ子、金子みちよ、寺林喜久江など、女性たちから異性関係のことや組織活動のことで相談にのっている。永田は下部メンバーの個人的な相談にも丁寧に応じるから、相談しやすかったようだ。そういえば、赤軍派の進藤や行方も、永田をよき相談相手としていた。


 永田は、吉野の子供を宿していた金子みちよに、「産婦人科に行ったらどう?」とすすめたが、金子は「私は山で産む」といって、産婦人科には行かなかった。


 革命左派の山岳ベースは家族雰囲気で、問題も起きるが、楽しそうでもあった。だが、それもこのあたりまでの話である。


■1971年12月17日「永田は聴き手の心を揺さぶった」(坂口弘)
 再び京谷に会いに行った尾崎が帰ってきた。尾崎の報告によると、これまでのように京浜安保共闘(革命左派の公然大衆組織)と革命戦線(赤軍派の公然大衆組織)の主催ではなく、革命左派と赤軍派の主催になっていたということだった。そして、京谷は獄中からのアピールを尾崎に渡すとさっさと帰ってしまったという。


 組織名について解説しておくと、革命左派も赤軍派も、逮捕者の救援活動など合法活動を行う表の組織が別にあった。革命左派の場合「京浜安保共闘」で、赤軍派の場合「革命戦線」だった。新聞では革命左派のことを京浜安保共闘と報じているが厳密には正確ではない。


 もっとも、メンバーは流動的だったし、山岳ベースに合流したので、どちらも同じと思っても差し支えない。だが、12.18集会の主催名については、組織名が問題にされたのである。


 獄中からのアピールを読んで永田は激怒した。川島豪(革命左派指導者)は挨拶程度の電報文であり、渡辺正則(死亡した柴野とともに上赤塚交番を襲撃)は、「爆弾闘争ひとつもしていないじゃないか」と指導部を批判するものだったからだ。


 そこで私は、これらのアッピールと京谷氏が指導部との打ち合わせを拒否し、独断で革命左派の主催として12・18闘争を準備したことと関係があると考え、さらに京谷氏は、獄中革命左派が銃の問題を理解せず獄外革命左派に批判的であることから、12.18集会の打ち合わせを拒否したのだ、12・18集会には銃の観点はない、そうであれば12.18闘争一周年記念集会は何の意味もないと判断した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 要するに、永田は、京谷が獄中幹部とグルになって、銃による殲滅線を封じ込めようとしている、と疑ったのだ。

 永田はメンバーを前にしてアジ演説を行った。彼女には独特のアジテーションの才能があった。


 夜になると彼女は、「革命左派の主催にされた以上、銃の観点を打ち出す集会にしなければならない。そのためには軍から代表を送り、銃の観点を打ち出す発言を勝ち取る必要があると思うがどうか」と提起した。全員が「異議なし!」と答えた。それで積極的に賛成した前澤虎義君と伊藤和子さんの2人が上京して集会に参加し、軍の発言を勝ちとることになった。

 永田さんの怒りには激越さがあった。ちょっと口に出した碇でも、内心では煮えたぎっている場合が多く、切っ掛けを得ると凄い勢いで爆発した。怒りを爆発させると雄弁家になり、相手を激しく攻撃したかと思うと、ホロリとするようなことも言って、聴き手の心を揺さぶった。意識的というよりも自然にやっているので、情感に訴えた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 翌18日、前澤虎義と伊藤和子が12・18集会へ出発した。


 それにしても、革命左派を名乗ったのを口実にしてメンバーを送り込んだのは強引過ぎた。それは、集会を準備したK君らの苦労を考えず、まったく一方的にこちらの意思を押し付けるものだった。私は、この時も彼女を制しなかった。弁解めくが、彼女のアジ演説はなかなかのものだったのだ。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 そして、前澤と伊藤は忠実に責任を果たそうとした。ところが、この一件が後の暴力的総括の発端につながっていく。


■偶然集まった連合赤軍メンバー

 ここまでで、連合赤軍になるメンバーが出そろったわけだが、赤軍派にしても、革命左派にしても、連合赤軍になったメンバーは、志願したわけでも、選抜されたわけでもない。偶然そこにいただけである。


 逮捕された人とか、連絡がつかなかった人とか(当時電話はあまり普及してなかった)、山岳ベースに向かう途中ではぐれてしまった人とか、そういう人たちは、たまたまその場にいなかった。


 その場にいなかった者たちは、後日、あさま山荘の闘いをテレビでや新聞でみて拍手を送っていた。だが12名の同志殺害が発覚すると、その手は凍りついてしまった。自分がその場にいなかったのは偶然の成り行きでしかなく、彼らと自分を区別するものは何もなかったからである。


 一方、政治運動とは無縁の者にとっては、さしあたり異常者のレッテルを貼っておけばよかった。しかし後年になって、好奇心から当事者の記録を読むと、それではすまなくなった。彼らの常識や判断は、自分とさほど変わりがなかったからである。


 関係者であれ、部外者であれ、「自分と同じ」というのは都合が悪かった。自分も仲間を殺害できる人間だとは断じて認めたくない。彼らが異常者であってくれれば安心できるが、そうでないとすると、安心するための唯一の方法は、彼らがどこでどんな間違いを犯したかを見つけ出すことである。


 ここまでのところ、間もなく12名の同志殺害が起こる気配はない。しかし、実際に起こった。このあと彼らは、どこでどんな間違いを犯したのか、途中で引き返すことができなかったのか、という観点でみていくことにする。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10887076486.html

1971年12月20日 森恒夫・坂東国男が榛名ベースへ
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10909393556.html


 森と坂東が、指導部会議のため、完成したばかりの革命左派の榛名ベースにやってきた。イラストは植垣がボールペンで描いたものである。


 (山の斜面に建てられた榛名ベース 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・外観


■「遠山らは総括した」(森恒夫)
 再会した森と永田は、互いに宿題の報告を交わした。永田は正直に「共産主義化の観点から革命左派の党史の総括をやってみたけど、できなかった」といったが、森は「遠山らは総括した」といった。森がいったことはウソである。遠山、進藤、行方の3名は総括できていないどころか、2軍扱いされるまでになっていた。


 雑談のあと、赤軍派からの状況を森同志が報告しました。12・18集会を皆で祝ったことなどを。しかし、このとき、進藤同志、行方同志、遠山同志達を「2軍」とし、この集会に参加させずに、銃の訓練を科していたことは報告しませんでした。いろりのまわりで私たちが集会を祝い、酒を飲んでいるとき小屋の片すみの土間で、銃をかまえていた同志達の姿が今も目に浮かびます。自分たちを「1軍」として祝うことのうちろめたさから、彼らのほうをそっと見ました。ときどきこちらをみては、頑張らねばという建前と、しかし納得できないという晴れ晴れしない表情で、再び銃を構えるというような情景にこれでいいのかと思いました。

 しかし、そんな弱音をはいてはだめだ。これに耐えていかねばならない、そんなことでは共産主義化もできないと自分にムチうつという感じでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■坂東のアジテーション 「支離滅裂な内容だった」(坂口弘)
 革命左派のメンバーは歓迎の気持ちや決意を表明した。このとき、小嶋和子は「私の中にブルジョア思想が入ってくることと闘わなければならないと思っています」と述べたが、これがあとで問題になる。赤軍派の番になると、森は挨拶程度ですまし、坂東に代表発言を促した。


 坂東氏は身を乗り出すようにしてアジテーション調で相当長く発言したが、何をいっているのかよくわからなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 支離滅裂な内容で、何を喋ればいいのかわかってないようだった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 そのあと私が赤軍派を代表することになったわけですが、これは、「銃−共産主義化論」を未消化のまま、森同志のうけうりで、いいカッコしてアジテーション調にやったため、みんなわかりにくいなあという表情でしたね。素直に自分の感情を言うことは、何か価値の低いものでもあるかのように思っていたものですから、人間蔑視もいいところですよね。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 ずっと森の傍らにいた坂東でさえ、 「銃−共産主義化論」 をわかっていなかったのである。


■森恒夫の個人批判 「私はますます不愉快になった」(永田洋子)
 夜になると指導部会議が始まった。指導部は赤軍派が森恒夫・坂東国男、革命左派は、永田洋子・坂口弘・寺岡恒一・吉野雅邦である。指導部が会議を行う場所は、土間とカーテンで仕切られ、コタツが備え付けられていた。


 (榛名ベースでの指導部会議 「十六の墓標(下)」 植垣の作品)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・指導部会議


 森はまず小嶋発言を問題にし、「ブルジョア思想とは闘うべきなのに、自分の中に入ってくるというのはこの闘いを放棄したものであり、自己合理化だ」と批判した。このときから森は革命左派のメンバー個人個人を批判するようになっていたのだった。


 (森氏は)今度は他の革命左派の1人ひとりの評価を始めた。小嶋さんへの批判でいやな思いをした私は、驚き、ますます不愉快になり下を向いて目をつぶり、どうして森氏がこのようにいうのか考えながら聞いていた。森氏は金子さんを全面評価したが、それ以外の人、特に尾崎氏を軍人らしくないといって細かいことまで批判した。

 私は、革命左派の皆は頑張っており赤軍派にあれこれいわれることはないと思っていたので、腹が立った。しかし、森氏の批判に断固拒否することはできなかった。坂口氏らはどう思っているのだろうと思って、私は彼らのほうを見たが、彼らは姿勢正しくおとなしく聞いているだけだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 共同軍事訓練のときからずっとそうだったが、森の批判に反論するのは、常に永田と寺岡の2人だった。坂口と吉野はただ黙って聞いていた。


 私は革命左派内における個々人の評価を表明することで、森氏の批判に反対した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これでは、森の土俵に乗ってしまっただけである。もし永田が本気で個人批判をやめさせようとするなら、「革命左派内部のことに口をださないでよ」とピシャリと門を閉ざしておくべきだった。


■「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」(森恒夫)

 個人批判の問題がひとまず終わったあと、森氏は、それの延長のようにして、「今後は女性の問題についても関心を持つことにした。これまで、関心を持たなかったのは自己批判的に考えているが、生理のときの出血なんか気持ち悪いじゃん。だから、そういうこともあったのだ。もうそれではやっていけないことがわかった」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派のメンバーには女性が多かった。そこで森は「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という。だが、生理のときの出血が気持ち悪いというように、森の「女性の問題の関心」とは、ちょっとズレているようなのだ。


 森の「女性の問題の関心」とは、どんなものだったのか。永田の冴えない反論も編集して紹介する。

森「女はなんでブラジャーやガードルなんてするんや。あんなもん必要ないじゃないか」
永田「ブラジャーやガードルが必要ないとはいい切れない。私もするときがある」


森「それに、非合法の女の変装で若い女の格好をし、化粧をしたり、都会の女の装いをするのはおかしい。農家の主婦の格好をすべきや。前々から僕はそうおもっていた。山を当面の拠点にする以上はこれは大原則だ」
永田「農家の主婦や娘の格好といっても、わからないのだからすぐにはできない」


森「どうして生理帯が必要なんや。あんなものいらないのではないか」
永田「出血量は人によるけど、どの人も必要だと思う」


森「今後、トイレで使うチリ紙は新聞紙の切ったものでいいんじゃないのか。チリ紙などもったいない」
永田「生理のときは必要だし、新聞紙では困ることもある」

(永田洋子・「十六の墓標(下)」 より編集)


 どうやら森は、女性の 「母なる身体」 に対し異物感を持っていることがわかる。ブラジャーや生理帯やチリ紙を排除したところで、何か問題が解決するのだろうか? 永田はどう思っていたのか。


 「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」という森氏の発言は、明らかに女性の性そのものを否定した女性蔑視の観点を女性の革命戦士化の問題として持ち込むというものであった。しかし、それは、まず人間として生きることを掲げて、女性としての独自の要求をもとうとしなかった私の婦人解放の志向を徹底化させたものであったため、私は極端なことをいうと思っただけで、女性蔑視の観点そのものを批判していくことができなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 永田のいっていることもよくわからない。「女性の性そのものを否定」=「婦人解放の志向を徹底化させたもの」と解釈してしまうのは理解に苦しむところだ。


■毛沢東の評価 「森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた」(永田洋子)
 森は、「会議は徹夜でやろう」と張り切っていた。森は、中国の革命戦争と文化大革命の歴史的評価を通して、共産主義化の闘いを新たな次元に位置づけた。


 私は森氏の展開を目の覚めるような思いで聞いた。寺岡氏もほーうという感じでいたし、坂口氏、吉野氏も強い関心を持って聞いていた。私は、森氏が毛沢東思想を私たち以上にしっかりと理解していると思い、理論的指導者としての信頼の気持ちを深めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派は毛沢東主義であった。この日、森が毛沢東思想を持ち出して、共産主義化を正当化してみせたのは、革命左派に影響されたともとれるし、そうすることによって、革命左派と取り込んでしまおうという意図があったともとれる。


 森の意図はともかく、直前まで森に対して不愉快だったり、何かおかしいと思っていた永田は、これでコロっとイカれてしまうのである。というより、それを望んでいたといった方がいいだろう。


私は睡魔に勝てず、うつらうつらしていたが、森君は相変わらず、独りで延々と喋りまくった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


雑談はその後も続いていたようであるが、私はいつの間にか眠ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 共同軍事訓練 のときもそうだったが森はタフなのであり、それが自分の意見を通す武器にもなっているようだ。


 初日の指導部会議は森のペースで終わった。この日のポイントは、ひとつは森が革命左派メンバーに対する個人批判を持ち込み、永田がそれを許してしまったことで、もうひとつは、赤軍派が毛沢東を評価したことで、革命左派に歩み寄ったことである。


 そして2日目の指導部会議で、いよいよ「われわれ」になるのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10909393556.html

1971年12月21日 われわれになった日
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10923576600.html

 前日、徹夜で森が中国の革命について語っていたので、この日の指導部会議は昼から始まった。


(冬へ向かう榛名山 「氷解」・彼らはこの景色をみて榛名ベースに入った)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-冬へ向かう榛名山(「氷解」イラスト)


■「共産主義化の理論にすがりついた」(永田洋子)

 森は「三大規律・八頭注意」を共産主義化のモデルとすることを主張した。「三大規律・八頭注意」とは、毛沢東が制定した軍規である。


<三大紀律>
1.一切行動聴指揮(一切、指揮に従って行動せよ)
2.不拿群衆一針一線(民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな)
3.一切?獲要帰公(獲得したものはすべて中央に提出せよ)

<八項注意>
1.説話和気(話し方は丁寧に)
2.買売公平(売買はごまかしなく)
3.借東西要還(借りたものは返せ)
4.損壊東西要賠償(壊したものは弁償しろ)
5.不打人罵人(人を罵るな)
6.不損壊荘稼(民衆の家や畑を荒らすな)
7.不調戯婦女(婦女をからかうな)
8.不虐待俘虜(捕虜を虐待するな)

 つまり、党建設の機軸を路線にではなく、作風・規律に置き、両派の路線の不一致のまま、路線問題の解決よりもその問題の解決を両派の共通の課題として優先させたのである。しかし、私はこれに確信をもった。


 それは、もともと革命左派が路線よりも実践を強調していたうえ、極左的な実践の限界に直面し、もはや理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったなかで、森氏の共産主義化の理論的主張に革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えたからである。


 もっと素直にいえば、極左的な武装闘争の推進を目的として掲げられた共産主義化の理論にすがりついたということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田のいう「やっていけなくなった」ものとは何か、最後に考察してみる。


■「われわれになった」(永田洋子)


 森君は、「赤軍派と革命左派が別々に共産主義化を獲ち取るというようにするのではなく、銃と連合赤軍の地平で獲ち取っていくべきなのだ」と提起した。永田さんが直ちに賛成し、「それなら、われわれになったという立場から共産主義化の問題を追及していくべきじゃないの」と応じた。期待をこめた発言だった。

 森君はややあってから頷いた。こうして「われわれになった」こと、即ち新党の結成が確認されるのである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 永田さんは、「われわれになった」ことがよほどうれしかったとみえ、会議の途中、土間のストーブの周りにいた被指導部メンバーのところへ行って、「われわれになった」ことを伝えた。そして、指導部のところへ戻ってきて、「われわれになったのだから、革命左派のメンバーを指導してほしい」と森君に慫慂(しょうよう)した。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

この「我々になった」という表現は、革命左派の被指導部の者にはすぐには理解できなかった。意味がわからずきょとんとしている者が多かった。(中略)

 永田は私たちの反応がないのを見て、「我々になったのよ。嬉しくないの。これから赤軍派と一緒に闘っていくことになったのよ」と再度「我々になった」ことを強調した。これを聞いて、やっと被指導部の者たちは拍手した。中には雄叫びのような声を上げた者もいた。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 これまでは、赤軍派と革命左派の軍事的連合という位置づけであったが、このときから、ひとつの党としてやっておくことになった。これを永田が、 「われわれになった」 といったのである。


■「坂東さんは伊藤さんと結婚したらどう?」(永田洋子)


 そのあと指導部会議は雑談的なものになった。森氏はこのとき、坂東氏に、「坂東はどうして結婚しないのだ。結婚しても闘っていくということが指導者に必要なのではないか」といった。(中略)


 私が、「我々になったのだから、坂東さんは伊藤さんと結婚したらどう?」というと、坂口氏も、元気のよい声で、「それはいい。ぜひとも結婚すべきだ」と賛成した。森氏も勧めた。(中略)


 坂東氏は、皆から勧められて、「本来、結婚するとすれば永田さんが一番良いということになるのだろうけど、もう相手がいるからダメだし・・・。ごめんね、おちょくって・・・」といって考えていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田はさっそく伊藤に打診する。


 伊藤さんはもそもそした調子で私にいった。
「私は、日大全共闘の黒ヘルの人に行為を持っているから・・・」
「その人と結婚したいの」
「そこまでは・・・」
「もし、そうでないなら、坂東さんとの結婚を考えたらどう」
 私たちは夕食まで2人で話し合えばよいということにして、こたつを離れた。2人は何か話し合っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 まったく個人的感情を無視しているが、組織的に結婚させるというのは、革命左派の前身あたりから風習があったらしい。


■「もう永田さんと離れまいと思った」(森恒夫)
 夕食後、全体会議で、永田が、「われわれになった」ことを正式に報告した。そのあと永田に要請され、森が共産主義化と「われわれになった」ということの説明を行った。永田は森の演説を、 「うまいなー」 と感心して聞いていた。


 森氏は最後に、共同軍事訓練での遠山さん批判を評価し、「この時初めて永田さんを共産主義者と認めた。そのときから、もう永田さんと離れまいと思った」と笑いながらいい、私の方へ手を差し伸べた。また、森氏は、「革命戦士の夫婦として求められるのは永田さんと坂口君の場合だけであり、僕も含めてあとの者はそうとはいえない」ともいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 このあと、被指導部の者1人ひとりが発言した。それらは、中国革命戦争の歴史に関心を寄せ、「我々になった」ということに期待するものであった。小嶋さんも同様のことをいい、さらに「二人のときに立ち会ってうれしかった」といった。この時、それまでオブザーバーのようにしていた森氏が、急に身を乗り出して、「ちょっと待った。そんなこと言ってよいのか」と強い調子でいった。小嶋さんはビクッとし、「良くなかった」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 小嶋がいった 「二人のとき」 とは印旛沼事件(向山・早岐の処刑) のことである。小嶋は運転手役をやらされていて、その後、精神が不安定になっていた。


 前日、森が小嶋を批判したとき永田は不快感を表したが、「われわれになった」この日はもはやそうではなかった。


 森はもともと革命左派を吸収しようとしていた。だから森は水筒問題 で革命左派を責めたてたのだが、永田は遠山批判 というカウンターパンチを放った。もし森がそのまま主導権争いを続けたら、また違った展開になっていただろう。森が遠山批判を認め、永田を持ち上げたからこそ、永田は森をリーダーとして受け入れ、両派の統合が一気に加速したのである。


 この日のポイントは、ひとつは「われわれになった」ことであり、もうひとつは、政治路線は棚上げにして、内部の作風・規律を重要課題としたことである。


■永田は何を「やっていけなくなった」のか、何に「すがりついた」のか?
 永田は、共産主義化の理論 をよくわかっていなかったといっている。にもかかわらす「すがりついた」とはどういうことだろうか。細かい話になるが、永田が「確信をもった」という理由を再度引用して、深読みしてみたい。


 それは、もともと革命左派が路線よりも実践を強調していたうえ、極左的な実践の限界に直面し、もはや理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったなかで、森氏の共産主義化の理論的主張に革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えたからである。


 もっと素直にいえば、極左的な武装闘争の推進を目的として掲げられた共産主義化の理論にすがりついたということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この文章で、「やっていけなくなった」ものは、普通は「闘争」と考える。しかし、そうだとすると、「ガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなったので、もっとガムシャラな闘争精神である共産主義化でやっていくことにした」というおかしなリクツになってしまう。そもそも共産主義化とは革命左派の「ガムシャラな闘争精神」を発展させたものだったのだから。
 
 ところが、「やっていけなくなった」ものは「闘争」ではなくて「メンバーの統制」のことだと考えると合点がいく。以前から、革命左派において、メンバーの間に反永田の気運が盛り上がっていた。印旛沼事件、中国行き提案など、永田指導部の方針には、常に批判や不満がつきまとっていた。


 永田指導部への批判は、永田や坂口が強弁によって押し切ってきた。それが限界になって、「理論性のないガムシャラな闘争精神だけではやっていけなくなった」のではないだろうか。つまり、「極左的な実践の限界」とは、「メンバーを統制しきれなくなった」ことだと思われる。


 永田はメンバー統制のために、理論が必要だと考えていた。そこに現れたのが森恒夫である。


 もし森が従来の赤軍派の理論である「前段階武装蜂起」や「世界同時革命」などをふりがざしていたら、永田は興味を示さなかっただろう。なぜなら永田が必要としていた理論は、組織の外側に向いているものではなくて、内側に向いているものだったからである。


 森の提唱した「共産主義化」は、まさに組織の内側に向き、個人の内側まで達していた。永田の理想としたフォーマットだった。つまり、「革命左派の非論理性を克服し、より一層前進を可能にするかのように思えた」というのは、「メンバーを強弁によって押し切るのではなく、共産主義化の理論で説得できることを期待した」ということになる。


 永田が「すがりついた」のは、共産主義化の「理論」ではなくて、共産主義化の理論の「フォーマット」である。だからわからないのにすがりつけるのである。


 よって、理論を操ることのできる森恒夫に主導権を渡すことは、さして抵抗がなかった。むしろ、メンバーの統制をより強固にするためには、そのほうが都合がよかったのだ。


 これは推論であり、正しいかどうかはわからない。だが、もし正しいとするなら、森恒夫と共産主義化の理論は、見事に永田の「期待」にこたえることになる。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10923576600.html

1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10999833991.html

 加藤・小嶋への殴打を紹介してきたが、特筆すべきは森の暴力の導入が、革命左派の榛名ベースで行われたことだ。赤軍派は、森と坂東と山田の3名だけで、いわば完全アウェーの中、革命左派メンバーの加藤能敬と小嶋和子を殴打したのである。


 そこには、森の強い意志が感じられるが、いざ、「高い地平」(森)に到達してみると、森は、新倉ベースに残してきた赤軍派メンバーの遅れが気にかかった。そして森の心は揺れ動くのである。


 南アルプスの新倉ベースでの赤軍派メンバーの出来事は、1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース) を復習しておいてほしい。


 今回は、12月27日の夜の指導部会議の様子である。


■「南アルプスにいる旧赤軍派の者をどうするか?」(森恒夫)
 

 (森は)「南アルプス(赤軍派の新倉ベース)にいる旧赤軍派の者をどうするか?」と問うてきた。(中略)


 森氏は、さらに、「僕は加藤、小嶋をい殴ったあとだから、ここを離れることはできない。それにしても、南アルプスにいる者はここにいる者よりはるかに遅れてしまった。この差はかなりのものだ」といった。私は、これに対し実に簡単に、「それなら、榛名ベースに結集させ、共に共産主義化を獲ち取っていこう」と答えた。


 「遠山(美枝子さん)ら3名は総括できた」という森氏の発言を信じていたからである。私は、遠山さんらに厳しい総括要求が課せられていることをまったく知らなかった。そのため彼女らを榛名ベースに連れてくれば、暴力的総括要求にかけられるかもしれないという予測をすることはできなかった。私の発言に皆が同意した。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 そもそも、赤軍派の幹部(森・坂東・山田)が革命左派の榛名ベースにきたのは、新党結成のためのミーティングをするためであった。それが、とんとん拍子で、12月21日に新党に合意 したので、森が革命左派メンバーに対しても指導権を発揮するようになったのである。


 だから新倉ベースの赤軍派メンバーは、幹部の帰りを待っている状態だった。そこで、彼らをどうするか相談を持ちかけたわけだが、新党が結成されたのだから、合流されるのが当然である。


■「どこまで話すか?」(森恒夫)


 しかし、森の心は揺れ動いた。

 (森は)続いて、「どこまで話して結集させるか?」と問うてきた。私はすべて話すのが当然だと思い、「新倉ベースの人には、加藤、小嶋を殴ったことやその総括のすべてを話し、『共産主義化』による党建設」の同意を得て結集させるべきだ」と答えた。私は、すべてを話して同意を得ればおくれの差を生めることが出来ると思った。ところが森氏は、「そうか、すべてを話すのか」といって少し考え込み、「うん、そうしよう。すべてをそのまま話す」といった。


(中略・そのあと、具体的な段取りなどを打ち合わせたことが書かれている)


 この時、森氏は、私に、「遠山、行方、進藤をどうするか?」と聞いてきた。私は、意味が分からず、「どうして?」と聞いた。森氏は、強い口調で、「だってそうだろう。南アルプスの者ははるかにおくれてしまったのに、この3人は南アルプスの他の者より問題を抱えているのだ。榛名ベースの者からみれば総括できたといえないじゃんか」といった。この時、「遠山らは総括した」といったことが実は違うことを森氏はいわなかった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おそらく森が心配していたことは2つある。


 ひとつは、暴力のことまで話すと、総括中の3人(遠山・行方・進藤)が逃亡するのではないかと疑っていたことである。だから、「遠山、行方、進藤をどうするか?」ときいたのは、「3人の逃亡を防ぐにはどうするか」という意味だったと思われる。結局、3人については車で移動させることにした。


 もうひとつは、総括中の3人が榛名ベースに合流すると、3人とも暴力的総括要求を行わざるを得ないと憂慮したことだろう。加藤・小嶋への殴打を正当化し、理論化してしまった以上、3人に対しても断固とした対応をとらなければならない。


 森の歯切れが悪いのは、この時点では、さらなる暴力に対し、いくらか躊躇があったからであろう。だから永田に相談を持ちかけたのである。


 ところが、12月20日に森は永田に「遠山ら総括した」とウソをついていたので、永田は森の躊躇にまったく気づかなかった。


 だから当然の如く、総括中の3人も含めて召集することに決まってしまう。坂東と寺岡が迎えに行くことにし、山本順一が車の運転をしていくことになった。


 そして、坂東たちが彼らを連れてくる頃には、森は、断固とした態度で臨むことを決意しているのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10999833991.html


1971年12月29日 女の革命家から革命家の女へ
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11019219390.html

(金子みちよ(左)と大槻節子(右)は、理不尽な批判にさらされていく)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-金子みちよ顔写真  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-大槻節子顔写真

■12月29日時点の連合赤軍メンバーの状況 (榛名ベース)

−−− 指導部 −−−
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)

坂東国男 (赤軍) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
山田孝  (赤軍)
寺岡恒一 (革左) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
吉野雅邦 (革左)

−−− 被指導部 −−−
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前澤虎義 (革左) 中村愛子を迎えに上京
岩田平治 (革左) 中村愛子を迎えに上京
山本順一 (革左) 赤軍派メンバーを迎えに新倉ベースへ
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 逆エビに緊縛され総括中
尾崎充男 (革左) 立ったまま総括中
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 柱に緊縛され総括中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)


 夫婦関係にあるカップルは、永田洋子と坂口弘、寺岡恒一と杉崎ミサ子、吉野雅邦と金子みちよ、山本順一と山本保子の4組であった。山本夫妻を除いては、法的な婚姻ではなく、組織が認めた「夫婦関係」である。加藤能敬と小嶋和子は、組織に認められていなかったので、「恋人関係」にとどまっていた。


■「どうして美容院でカットしてきたんや」(森恒夫)

 指導部会議を終えてから、森氏は大槻さんから買い物の報告を聞いたが、その時、大槻さんが髪をカットしたことを知ると、「山でパーマをかけると決め美容院にパーマの道具を買いに行くようにいったのに、どうして美容院でカットしてきたんや。これは問題だぞ」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 その後、森は杉崎ミサ子を指導部のこたつのところに呼んで深刻そうに話し込んだ。その間、永田は手洗いに立ち、金子や大槻と雑談をしてから、指導部のこたつに戻ったが、森と杉崎はまだ話し込んでいた。

 しばらくすると、杉崎さんは、「寺岡さんと離婚し、自立した革命戦士になる」といった。森氏はこれを評価し、私や坂口氏に伝えた。私は冗談じゃないと思ったが、自立した革命戦士になるという以上反対できずに黙っていた。


 このあと、大槻さんが「星火燎源」を読んでおり、秋収蜂起から井岡山への闘いに関心を持っているというと、森氏は、「知識として読んでいるにすぎない」といった。私は欲理解できず、「えーっ」といった。森氏は、「美容院でカットしてきたのは何だ!」といったあと、強い調子で、「知識!知識!」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「あぶり出しをしているかのようだった」(加藤倫教)
 夕食後、全体会議が開かれた。

 加藤倫教は、全体会議に参加する気持ちを次のように述べている。

 まるであぶり出しをしているかのように、毎晩毎晩の発言の中で、幹部たちの、特に森、永田の気に入らないような発言をしてしまった者が、次の標的にされいくように感じられた。(中略)


 物言えばやられるのだが、物を言わないわけにはいかない。それもどのように言えば森や永田に認めてもらえるのか、誰にも分からなかった。何が基準なのかわからない「総括」要求と暴力に、森と永田以外のものは怯えていた。


 私も怯えていたが、永田は、私や弟のことをまだ一人前の構成員とはみなしていないようだった。いわば子ども扱いされていたのであり、そのおかげで「総括」させられることもなかったのである。


 その恐怖心をかろうじて押さえ込んでいたものは、革命を実現するためには、「銃による殲滅戦」を行うしかないという信念、それだけだった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 全体会議といっても名ばかりで、実態は、指導部の方針の伝達と、それに対して決意表明を行う場だった。そのときの決意表明が、「総括」するかどうかのリトマス試験紙になっていた。森や永田が気に入らなかったらおしまいというのは、メンバーの証言が一致している。


 指導部の方針は指導部会議で出されるが、それも名ばかりで、森の問題提起に対して承諾を求められ、民主的な装いをあたえる機関でしかなかった。


■「女の革命家から革命家の女へ」(森恒夫)


 全体会議の参加者はいつもより大分少なかった。メンバー状況からわかるように、被指導部のメンバーは加藤兄弟以外は女性ばかりであった。


 全体会議では、杉崎が「自立した革命戦士になるために、寺岡さんと離婚します」と宣言した。これが森と杉崎の話し合いで出された結論であった。

 森氏が、「女性兵士が自立した革命戦死になるということは、『女の革命家から革命家の女へ』ということだ。杉崎さんの離婚表明は革命家の女になるものだ」といって、杉崎さんの離婚を評価した。しかし、森氏は、『女の革命家から革命家の女へ』ということがどういうことなのか説明しなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 当時、リブ運動に、「抱かれる女から抱く女へ」というスローガンがあり、森はそのフレーズを意識していたのではないだろうか。

 その後も発言が続いたが、金子さんの番になると、彼女は、「私も、自立した革命戦士になるために、吉野さんと離婚します」と発言した。


 これを聞いて、私は杉崎さんのとき以上に驚きあわててしまった。私は、「金子さんは杉崎さんと違うのだから離婚する必要はない。離婚しないでもやっていけるし、自立した革命戦士になれる」といった。金子さんは黙ってしまったが、離婚表明は撤回しなかった。(中略)


 森氏は、私の反対に何もいわなかったが、のちに、金子さんの離婚表明への批判を独自の観点から行っていくのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻は、「革命家の女になるために努力する」と発言した。

 森氏が、半ば私に、半ば全体にいう感じで、「美容院に行ってカットしてきたことも自己批判ぜず、女の革命家から革命家の女になるために努力するということが許されるのか」と批判した。森氏は終始一貫して大槻さんに批判的であった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「少し休ませてください」(尾崎充男)


 会議の途中に、尾崎君が指導部のいる炬燵に向かって歩いてきて、「少し休ませてください」と言った。森君は怒って、「おとなしく立って総括しろ!」と叱りつけた。尾崎君は、一旦、土間の側に戻って立っていたが、しばらくするとまた炬燵のほうにやってきた。


 森君はかんかんに怒り、その場で、「眠らずに総括しろ!」と言って、尾崎君に大きな試練を課した。尾崎君は、肉体的苦痛が大きすぎて、抑制の利いた行動が取れなくなっていたのだと思う。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 この日の夜、森の指示で吉野が尾崎の見張りにつくことになった。


■「革命家の女」になるには、女を捨てなくてはならない


 永田は、「女の革命家から革命家の女へ」という言葉を受け入れたが、理論的には消化しきれずにいた。だから、離婚宣言に対して、杉崎については承認し、金子については引き止めるという中途半端な対応になった。


 「女の革命家から革命家の女へ」 というのは、 言葉通り受けとめれば、「女である前にまず革命家であれ」 ということだ。そういう意味なら、革命左派の女性たちは、とっくに 「革命家の女」 だった。以前から、女だから、などという意識はなく、あたりまえのように男女の区別なく活動してきたのである。


 ところが、森の問題意識は異なっている。12月20日 に、森は、「今後は女性の問題についても関心を持つことにした」といったが、その内容は、女性の身体や装着品についての問題提起だった。森の理想とする 「革命家の女」 になるには 、 女を捨てなければならないのだ。


 永田は、森の女性蔑視的発言に反感を抱きつつも、その後の女性メンバーへの総括要求では、森の側に身を寄せた。その動機はともかくとして、女らしさを粉砕しなければならない、という点については、永田も一致していたのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11019219390.html


1971年12月31日 「敗北死」の踏み絵
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11046343463.html

 前回は、尾崎充男が死亡し、森が「敗北死」と規定した。今回はその続きとなる。


■メンバーの状況(12月31日夜・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)
山田孝  (赤軍)
坂東国男 (赤軍) 新倉ベースから戻る
寺岡恒一 (革左) 新倉ベースから青砥と東京へ
吉野雅邦 (革左)

【被指導部】
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前沢虎義 (革左)
岩田平治 (革左)
山本順一 (革左) 新倉ベースから戻る
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 逆エビに緊縛され総括中
中村愛子 (革左)
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 柱に緊縛され総括中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)
進藤隆三郎(赤軍) 新倉ベースから合流
遠山美枝子(赤軍) 新倉ベースから合流
行方正時 (赤軍) 新倉ベースから合流

【死亡者】
尾崎充男 (革左)12月31日 敗北死(殴打による衰弱、凍死)


■「女性とばかり話している」(森恒夫) 「髪を切る必要を全く理解していない」(永田洋子)
 坂東に連れられて、新倉ベースからやってきた赤軍派の進藤、遠山、行方の3名は、榛名ベースの小屋に入るなり、尾崎、加藤、小嶋がたれ流し状態で柱に縛りつけられている光景を目にしてしまった。


 彼らは総括要求されている最中だったから、心中穏やかでいられるはずはなかった。3人は森に挨拶にもいけなかった。


 坂東は、森に3名について報告をした。坂東の手記では、3人とも総括できたと肯定的に報告したことになっているが、坂口の手記では、3人に不利な内容が報告されたことになっている。どちらにしても、森は3人を最初から冷たい目でみていたから、坂東の報告はほとんど関係なかったと思われる。


 森は、「進藤は戸口を気にしている。逃げようとしている」、「進藤と行方は、女性とばかり話している」、「行方は総括のことより、自分に出された指名手配書を気にしている」などと、さっそく批判を始めた。

 森氏のこの批判は、・・・(中略)・・・実にめちゃくちゃなものであった。あまりにもひどいものだったため、私たちは同意しなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 しかし、永田は永田で、遠山をみて、「髪を切ったとはいえ、前と同じ服装であり、非合法の為に髪を切る必要を全く理解していない」としっかり批判している。山を降りてないのだから、服装が同じなのは当然である。


■「みんなにこのことを知らせるか?」(森恒夫)
 森は、尾崎の死について、指導部に対しては「敗北死」ということで始末をつけたが、被指導部のメンバーへの対応については、弱気な面をのぞかせた。

森「みんなにこのことを知らせるか?」
永田「みんなに知らせるのは当然だ」
森「そうか。それではそうしよう」
森「誰が全体に報告するか?」
全員「・・・・・」
森「永田さんにやってもらおう」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋)


 森は自分からは言いたくないようである。

 永田さんは、向山君と早岐さんの殺害と一緒に全体の前に報告すべきだと主張したが、森君はこの提案に躊躇した。しばらく考えてから彼は、前沢君と岩田君の2人に、早岐、向山殺害の事実を教え、しかる後に全体の前に報告しようとする代案を出した。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 森、坂口、吉野は前沢と岩田を小屋の外によんだ。

 ここで森君は、「尾崎はわれわれが殺したのではない。敗北主義を総括し切れなかったために自ら死を選んだのである」と説明した。この時、私は、全身が汚辱にまみれ、下等な人間に転落していくのがハッキリとわかった。

 続いて彼は、早岐、向山を殺害した事実を明らかにした。岩田君は、「たぶんそうだと思っていました。自分は異議ありません」と言った。私は、革命左派の責任で行った殺害行為が、赤軍派の森君によって語られたことに、非常に惨めな気持ちになった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 どうして森氏が2名の処刑を全員に話すことに反対し、前沢氏、岩田氏には話すといったのか、どうして尾崎氏の死を全員に話すことを始めはためらい、さらに自分が行うことは避け、前沢氏らには自分が話すといったのか、私にはわからない。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 おそらく、森は、尾崎の死に際して、誰よりも動揺していたし、誰よりも責任を感じていた。全員(ほとんどが革命左派メンバー)に「敗北死」が通用するかどうか、自信がなかったのではないだろうか。


 メンバーには隠しておこうとも考えたが、永田にピシャリと否定されたので、革命左派のリーダーである永田の口から説明してもらうようにしたのだろう。


 遺体を埋める作業を手伝わせるため、森は、岩田と前沢の2人には、すべてを話した。もっとも信頼できる2人を選んで、森の言葉が2人に通用するか確かめたのだと思われる。逆にいえば、他のメンバーには信頼をおいていなかったということである。


 しかも、このとき、坂口と吉野を同席させて、数的優位をつくった上での説明であった。このように森は、小心な面が顔をのぞかせることがある。

 私は、みんなが尾崎の死でびっくりしたりショックを受けたりして食事ができなくなるようではいけないから、全体会議ではパンとコーヒー、コンビーフの缶詰で軽い食事をしよう」と提案した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 普段は、麦の雑炊しか食べてないので、パン、コーヒー、コンビーフは、たいへんなご馳走だった。要するに、ニンジンをぶらさげて、敗北死を認めるように迫ったわけだ。


 尾崎の遺体は、坂東、吉野、前沢が小屋の近くに埋め、山田と岩田が、加藤と小嶋を小屋の外に出した。尾崎の死を聞いてショックを受けないようにするためということだった。


■「尾崎は自ら敗北の道を辿って死んでいった」(森恒夫)

 全体会議が始まった。始めに永田さんが、「尾崎が死にました」と報告した。全員がしーんと静まり返った。彼女は、命をかけて共産主義化を勝ち取っていかなければならないことを強調し、「加藤、小嶋に敗北死させないように必ず総括させよう」と言った。全員が、「異議なし!」と答えた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 続いて森君が尾崎君の死を総括して、おおむね次のような発言をした。


「尾崎は、われわれの厳しい共産主義化の闘いの中で、最終的にこの闘いに勝利しきれず、自ら敗北の道を辿って死んでいった。われわれにとって共産主義化の獲得こそが党建設の内実であり、これを獲得するためには各個人の文字通りの命がけの飛躍が必要である。こうしたことをなし切れなかった尾崎の死は、共産主義化の獲得(=党建設)というわれわれが初めて直面した高次な矛盾であるが故に、この現実を厳しく直視しなければならない。だから彼の敗北死を乗り越えて前進する決意をわれわれ自身がより固めていかなければならず、食事が摂れないというようなことがあってはならない」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「高次な矛盾」とはいったいなんだろう。森はこの言葉を、都合が悪いときの言い訳として使っているような感じだ。


 「自己批判書」には以下のように書かれている。

 この事(前沢と岩田に敗北死の説明をしたこと)は、私自身が尾崎君の死を暴行によるものではないかと考えた事を”命がけの”飛躍という事によって合理化し、又、肉体的暴行、食事なし、寒気という異常な条件に対する指導という意味での慎重な配慮を為さなかった為に死なせてしまった事を省みず、死の責任を一方的に押しつけるものであったし、更に、その事実を食事云々ということで他のメンバーに対する踏絵にし前記の誤りの承諾を強要したものであった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 「自己批判書」は、他の人の手記と違って、逮捕直後にかかれている。つまり、山岳ベースの熱が醒めないうちに書いているのだが、「敗北死」などとは思っていなかったことがわかる。


 永田はどう総括しているかと言うと、

 もし、暴力を制裁、報復と位置づけていれば、尾崎氏の死の原因が暴力にあったことを認めざるを得ないが故に、「敗北死」という総括が出てくることはなかったと思う。


 しかし、共産主義化の思想それ自身、すべての問題の原因をまず路線や指導に求めるのではなく、個々人の資質や性格に求めていくものであったのであるから、「敗北死」という総括は暴力的総括要求の論理の必然的結論だったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 そ、そうなのかっ!?
 「死者が出た以上、暴力を援助と規定したことがそもそもの誤り」とするのが、「必然的結論」ではないだろうか。


■「尾崎の死は鴻毛のように軽い」(岩田平治)


 全体会議では、例によって決意表明が行われた。

 私は驚愕した。同志の死を「敗北死」で片付けて、悼む姿勢すら見せないことが信じられなかった。それどころか尾崎の死を受けて、再び出席者全員による総括と決意表明が行われたのである。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 皆の発言には、「敗北死」という総括に反対するものはいなかった。本当に敗北死だとか、尾崎氏は日和見主義だとか、自分は頑張っていくといった発言が相次いだ。


 遠山さんは、「私は絶対革命戦士になるんだと決めてきた」と発言した。岩田氏は、「毛沢東は『死にも泰山のように重いものと鴻毛のように軽いものがある』といっているけど、尾崎の死は唾棄すべき軽いものだ。僕は革命戦士として泰山のような重い死に方をしたい」と表明した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この岩田の発言は、森に気に入られた。岩田は、これまでも積極的に森に迎合した発言を行っていたが、しかし、内心では冷静に事態をみつめていた。なぜわかるかというと、彼は脱走者第一号になるからである。


■「小嶋は総括しようとしている態度ではない」(金子みちよ)

 各自の発言が続いている最中、金子さんが見張りから戻ってきた。金子さんは、指導部のところに来て森氏に、「とり肉とミルクをやったら、加藤は黙っておとなしく食べたけど、小嶋は食べたあと『また、あとでちょうだいね』といった。小嶋は総括しようとしている態度ではない」と報告した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 金子は、尾崎に決闘をさせたときは否定的だったが、ほかの「総括」にはむしろ積極的に関わっていたのである。

 小嶋さんは敵対的な態度をとっている私たちに同志としての態度を期待したばかりか、苦痛を強いる暴力的総括要求に圧力に屈しない自主性を持ち続けていたのである。ところが、私たちは、こうした小嶋さんの態度を総括しようとしない態度と決めつけたのである。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■踏み絵を踏んだ日


 尾崎の死は、暴力的総括から引き返す最大のチャンスだった。


 暴力に関わった者が自分の殴打によって尾崎が死んだと思い、動揺していた。それは森も同じだった。もし、森が、直後に「敗北死」といわなかったら、12名もの同志殺害はなかったはずである。


 尾崎の死が確認された直後の数分間で、森は「敗北死」という、実に効果的な言葉を創出した。「共産主義化」をイデオロギーに、入り口を「殴ることは指導」「殴ることは援助」で暴力に参加させ、出口を「敗北死」で完結させ、ステージを先へすすめてしまったのである。


 森は責任逃れの方便であることを自覚していたし、ほかのメンバーもそれはわかっていた。その証拠に、後に逮捕され、同志殺害を追求されたとき、誰一人として、「敗北死」などといわなかった。罪悪感から逃れるために、「敗北死」にすがりついたのである。


 「敗北死」の理論がまかり通ったのは、外部と遮断された閉鎖空間だったからである。もし、外部とつながっていれば、外部からの圧力によって指導方法が見直されたにちがいない。さらに悪いことには、指名手配者が多かったため、遺体を家族に返すこともなく、秘密裏に埋葬することになった。


 結局、「敗北死」の踏み絵を踏んでしまった以上、メンバーは、贖罪意識を背負って、尾崎以上に頑張り、革命戦士をめざすしかなくなった。途中下車という選択肢は、森によって、「山を降りる者は殺す」と出口を封じられていた。


 この日、榛名ベースに合流した進藤、遠山、行方の3人は、驚くことばかりであったが、次に、おのれにふりかかるであろう総括を考えると、心穏やかでいられるはずはなかった。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11046343463.html


1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11050330760.html


(進藤隆三郎は榛名ベースに殺されに来たようなものだった)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-進藤隆三郎顔写真


進藤隆三郎(享年21歳)


【死亡日】 1972年1月1日
【所属】 赤軍派
【学歴】 日仏学院
【レッテル】 ルンペン・プロレタリアート、不良
【総括理由】 金めあての闘争参加。女性関係。逃亡の意思。
【総括態度】 「縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
【死因】 殴打による内臓破裂


(加藤能敬と小嶋和子は外に出され、立ち木に縛られた)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-木立に縛られた加藤・小嶋

※横になっているのは見張りの山田孝と岩田平治


■「山谷物語を聞いてるんじゃない!」(森恒夫)


 全体会議は72年の1月1日に入っても続いたが、正月を迎えるような雰囲気ではなかった。全員の発言がすむと、森氏は進藤氏を批判し始めた。森氏の批判は激しく攻撃的なものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 進藤は、山谷や寿町の寄場で、暴力団手配師との闘争などをしていたところ、寿町で植垣と知り合い、赤軍派のシンパとして活動を共にするようになった。M作戦(銀行強盗) を行う頃には、持原好子と一緒に生活していた。森は精神的に消耗した持原への処刑命令 を出すが、実行されずにすんでいた。


 植垣によれば、進藤は、一緒に活動しているだけで、赤軍派メンバーという意識も薄かったとのことだ。そのため、森に対するリスペクトも少なく、従順というわけではなかったようである。森はそれが気に入らなかったであろう。


 森の進藤への批判は、闘争よりもむしろM作戦(銀行強盗)のために赤軍派に参加したこと、ルンペン的であること、持原との関係で自分も処刑されるかと思ったと話していたこと、などであった。


 進藤は、つきつけられた問題を1つ1つ、重苦しい感じで答えていった。

 私は寝ることを森氏らに断って、被指導部の人たちの後ろに行き、シュラフに入ってすぐ寝てしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 このやり取りの中で、森君が、「山谷物語を聞いてるんじゃない」と言って、進藤君の話をさえぎろうとすると、進藤君が、「自分が階級闘争に関わったのは山谷だから」と言って、なおも山谷を中心とした活動を話そうとした場面があった。森君に逆らって自分の意思を押し通すなどということは、容易に出来ることではないので、これは印象深い出来事であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「縛ってくれ」(進藤隆三郎)
 討論は未明まで続き、森は進藤に最終的にどう総括するのか問い詰めた。

 すると進藤君は自分から、「縛ってくれ。自分はその中で総括する」と言った。この言葉は、進藤君の最大限の誠意の表れだった。ところが森君は、「縛ってくれなどと言うのは甘えた態度だ。われわれの方で君を縛って総括を求める」と言って、これをけった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 森君は、われわれ指導部のものに向かって、進藤君を全員で殴打することを提起した。この時、尾崎君のときの殴打に触れ、「ひざで殴ったのはまずかったかも知れない。今度は死ぬ危険がないように手で腹を殴って気絶させよう」と言った。これは森君自ら”敗北死”のペテンを認めるものに他ならなかった。(中略:坂東に命じて縛らせる)

 それがおわると、非常に厳しい口調で、「みんなに殴られて総括を深化しろ!」と進藤君に向かって言った。(中略)
 「自分から縛ってくれと言えば、殴られないで済むと思ったら大間違いだ!」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 どれほど眠っていたかわからないが、ドタドタという足音が耳元にし私は驚いて起きた。皆は血相を変えて森氏のあとを追い、森氏と進藤氏を取り囲むところだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森がものすごい勢いで7〜8発、続いて山田、坂口、吉野が、腹部を殴った。進藤は、「総括します。分かりました」と言っていたが、やがて失禁をした。


■「革命戦士になるためにこんなことが必要なのか!」(進藤隆三郎)

 しばらくすると彼は、思い余って、「何のためにこんなことするのか分からない!革命戦士になるために何でこんなことが必要なのか!待ってくれ!」と叫んだ。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 「こんなことで本当に総括といえるのか?」といわれたときには、心臓がドキドキしました。彼のいうことに答えきれる内容があるのか? そんなことを考える自分はやはり森同志のいうように甘いのかもしれないなど、自分にこだわり、自分の頭の中だけが忙しいだけでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 森は、「自分で考えろ!」と突き放した。指導部が殴り終えると、下部メンバーが進藤を殴った。吉野の証言によれば、永田が下部メンバーに殴るようにいったそうである。

 女性メンバーに殴られたとき、進藤君は首を垂れて、「有難う」と言った。すると森君は叩きつけるように、「甘えるな!」と言い、女性メンバーに代わって進藤君の腹部を数発立て続けて殴った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「私には殴れない」(遠山美枝子)
 森は、行方と遠山にも殴るように指示した。彼らは殴れないでいたのである。

 行方氏は森氏にいわれてすぐ殴ったが、その殴り方は森氏ら男の人たちが殴ったときのような激しさはなかった。(中略)


 続いて遠山さんも殴ろうとした。しかし、殴ろうとした遠山さんは、その途中で森氏を見上げて、「私には殴れない」といった。皆は黙っていた。森氏は、「殴れ!」と強い口調でいった。遠山さんは必死の面持ちで進藤氏を数回殴った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 坂口によれば、遠山が殴れないでいると、メンバーは口々に「だらしがない」といって非難したそうである。

 そのうち、私は進藤同志の腹が赤くなっているのに気づきました。同じくらいに森同志も気がついたようでした。森同志は私を呼んで「大丈夫か?」といくらか心配そうにいい、私の方は、「わからないけど、早く気絶させるか、やめたほうがいいと思う。ミゾおちなら早く気絶するかもしれない」といったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 一体、何順しただろうか。このときの殴打もたまらなく長く感じた。終わりの方になると、進藤君の腹部は、赤色のかなりの部分が鮮やかな緑色に変色した。目も当てられぬ惨状であった。多分、内臓破裂したのだと思う。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「もうダメだ」(進藤隆三郎)
 森によれば30分ぐらいたったところで、中止の指示を出し、外の木立に縛っていくように命じた。

 私、坂東君、山田さん、吉野君等で、進藤君を支えながら、加藤君たちを縛ってある木の近くに連れて行った。この時、進藤君は、喘ぎながら、「自分で歩いていきます。大丈夫です」と言った。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 しかし、進藤は途中で力尽き、自分で歩けなくなってしまった。

 この時、私は、「進藤は芝居をしているんだ!」と彼に罵声を浴びせた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂東も、甘えていると腹をたてた、と証言している。

 そのあと指導部会議が開かれた。森は進藤への批判を再確認するように繰り返した。、

 指導部会議を続けていると、岩田氏が、小屋に駆け込んできて、「進藤が、立ち木に縛られてしばらくして、『もうダメだ』といって死んだ」と報告した。私はびっくりしてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は極めて冷静にこの報告を聞いた。私も冷静であった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口によれば、報告したのは岩田でなく山田ということになっている。


■「敗北死や」(森恒夫)

 森氏は、進藤氏の報告を聞くと少し考えていたが、


「敗北死や。縛ってくれといえば縛られないと思ったことが見破られ、殴られて縛られたことから共産主義化の為に闘う気力を失ってしまったんや。だからこそ、『もうダメだ』といったあと死んだんや。『もうダメだ』という気力がある位なら、共産主義化のために努力し共産主義化を獲ちとることができたはずや」


といった。この森氏の総括に、私はたしかにそうだと思った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は本当にそう思ったのかもしれないが、「敗北死」はもちろんペテンであった。

 私自身、尾崎君の時以上に彼の死が殴ったことに原因するのではないかということを考え、腹部を強く何度も連続して殴るとそのときはすぐに肉体的に表に出なくても致命的な痛手を与えることになるので、今後は絶対そうしないでおこうと思ったりした。

(森恒夫・「自己批判書」)


■「進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった」(永田洋子)


 指導部会議のあと、全体会議を開いた。このときも森の求めに応じて永田が説明した。

 続いて森が進藤への批判を繰り返したが、女性が殴ったのに対し、「ありがとうございます」といったのは、女性をバカにしたものだ、という批判も行った。非指導部のメンバーも、進藤に対する怒りの空気が充満していたようだ。

 こうして、進藤隆三郎氏は、私自身でさえ、なんだかよくわからないうちに榛名ベースで1日もたたずに、暴力的総括によって「殺害」された。進藤氏の死は、腹部への激しい殴打による肝臓破裂だったのである。進藤氏は榛名ベースに殺されに来たようなものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 こうして、同志を信頼せず、同志を自分のことのように考えきれず、おくれた人間として考える私のあり方が、榛名ベースに来て一日もたたずに、殺す事態をもたらしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 死の予感を抱きながら榛名ベースにやってきた進藤君の胸中は察するに余りある。殴打中の進藤君は、驚嘆すべき強靭な生命力を発揮し、その叫びは、総括を求めるわれわれの愚劣さと残酷さを厳しく告発していた。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 同志に対する暴力への抵抗は消えていなかったが、「暴力=援助」論 に明確な反論ができない以上、幹部の指示に従わないわけにはいかない。否、むしろ指示がなくとも積極的に振舞わなくてはならない。そんな相反する気持ちの中で、自分は弟とともに最下位の兵士なので、それほど積極的に振舞わなくても大目にみられるだろうとも考えていた。そこで、同志を殴らざるを得ない場合も、強すぎもせず、弱すぎもしないように殴るという態度を取ることにした。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 進藤君の努力を認識しつつも、人間的な感情を押し殺し、共産主義化の戦いの厳しさをのみを観念的に拡大していき、その論理に安住することによって、現実や実際的な人間的感情と乖離していった。私のこうした過程が、ほかのメンバーに巨大な影響を与え、彼らの精神的荒廃をもいたらすまでになっていたのである。
(森恒夫・「自己批判書」より筆者が要約)


■出口のない「総括」と「未必の殺意」

 進藤は榛名ベースに到着したばかりで、新たに批判されるようなことはしていない。つまり、赤軍派時代の批判 がそのまま繰り返された。


 赤軍派時代は、「銃−共産主義化」論 に基づいて、銃の訓練をする程度だったのだが、森のものさしが変わってしまったため、ここでは暴力的総括にかけられたのである。ということは、森にしてみれば、進藤・遠山・行方を榛名ベースに呼んだ時点で、暴力を加えることは、規定路線だった。それゆえ、3名を榛名バースへ呼ぶことを躊躇 していたわけだ。


 革命左派メンバーにとっては、進藤への批判は何もわからなかったはずだが、積極的に関わることが共産主義化に必要なことと信じ、進藤を殴ることにためらいはなかった。このあたりは、新たに参加した赤軍派のメンバーと、はっきりとした心理的対比をなしている。


 坂東は、進藤・遠山・行方を「3人とも総括できている」といって榛名ベースにつれてきた張本人 なのに、かばう気配もなく、森の批判に同調し、進藤を殴っている。このあともそうだが、坂東は、自分の意見を主張せず、常に森の指示を冷酷に実行するのである。


 森は、坂東に「大丈夫か?」と尋ねていることから、殺意があったとは思えないが、腹を「鮮やかな緑色」(坂口)になるまで殴って、状態を確認することもなく、極寒の中、木立に縛りつけたら、死亡するのは当然である。「死んでもかまわない」という「未必の殺意」があったと考えるのが自然であろう(もちろん彼らの手記にはそんなことは書かれていないが)。


 さて、進藤の自己批判の内容はというと、植垣に押し付けられた総括をもとに、事実以上に露悪したと思われる。しかし、露悪することは、総括を認められるどころか、逆に怒りをかう結果となった。後の被総括者もたびたび露悪することになるのだが、それはことごとく失敗に終わるのである。


 黙っていれば「隠している」、反抗すれば「総括する態度ではない」、露悪すれば「反革命だ」、などと、森は出口という出口をふさいでいる。森の手記にも、どうなれば総括したことになるのか、ひとことも書かれていないので、あとから考えても出口はみあたらないのである。


 しかも、進藤への批判は、連合赤軍はおろか、赤軍派に加わる前のことであった。榛名ベースでは、あとから法律を作って裁く 「事後法」 がまかり通っていたのである。
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1972年1月1日 小嶋和子の「敗北死」
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11060165330.html

(小嶋は何を言っても悪意に解釈された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-小嶋和子顔写真


小嶋和子(享年22歳)
【死亡日】 1972年1月1日
【所属】 革命左派(中京安保共闘)
【学歴】 市邨学園短大
【レッテル】 ヒロイズム 小ブルジョア急進主義、精神の病
【総括理由】 自己陶酔的態度、加藤能敬とキスして神聖な場をけがした
【総括態度】 「集中していない」「反抗的」「指導部を憎悪」
【死因】 凍死


■メンバーの状況(1月1日夜・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍)
永田洋子 (革左)
坂口弘  (革左)
山田孝  (赤軍)
坂東国男 (赤軍)
寺岡恒一 (革左) 新倉ベースから青砥と東京へ
吉野雅邦 (革左)

【被指導部】
金子みちよ(革左)
大槻節子 (革左)
杉崎ミサ子(革左)
前沢虎義 (革左)
岩田平治 (革左)
山本順一 (革左)
山本保子 (革左)
小嶋和子 (革左) 外の木立に緊縛中
中村愛子 (革左)
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 外の木立に緊縛中
加藤倫教 (革左)
加藤三男 (革左)
遠山美枝子(赤軍) 合流したとたん暴力を目にして落ちつかず
行方正時 (赤軍) 合流したとたん暴力を目にして落ちつかず

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)


■「小嶋は闇を恐れるから、目かくしをするといいんじゃないか」(加藤三男)

 全体会議が終わった頃、雨が降り出したので、外の木立に縛られている加藤と小嶋を小屋の床下に移すことになった。

 N・K氏が、「小嶋は闇を恐れるから、それを克服するために目かくしをするといいんじゃないか」といった。私は、小嶋さんが真夜中がこわいといっていたのを思い出し、「たしかに小嶋は闇を恐れる」といった。すると森氏が、「革命戦士としては、それは克服させねばならないことだ」といった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 このとき、小嶋が1人で歩こうとしなかったことも批判された。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-目隠しをされた小嶋和子


■「総括に集中しようと思って頭を柱にぶつけていた」(加藤能敬)

 このあと指導部会議が続けられたが、しばらくすると、床下で柱に頭を打ちつけている音がした。それはかなり長く続いた。森氏は、それに対し、「あれは小嶋や。小嶋はあんなことをして総括に集中していないんだ。総括しようとしていないのだ」と批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森と永田が見に行くと、柱に頭を打ちつけていたのは、小嶋でなく加藤だった。

 森氏が、加藤氏の体をゆさぶるようにしながら、「おい、どうした」と聴いた。それは、驚いた声ではあったがやさしいものだった。加藤氏は、「こうしていても、ボヤーとして総括に集中できなくなる。それが悲しい。総括に集中しようと思って頭を柱にぶつけていた」といった。

 森氏は、「そうか、総括しようとしているんだな。よし、おまえを小屋の中に入れよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 加藤を小屋に入れてから、森は加藤の手を湯につけて揉みほぐしたり、「総括できるのも間近だろう。それまで頑張れ」とはげますように声をかけた。柱にしばるときも、「苦しかったらいってくれ」と少しゆるく縛った。

 床下で頭を柱に打ち付ける音がした時、森氏は「あれは小嶋や」と決めつけ、それを総括に集中していない表われとみなした。ところが、打ちつけていたのが加藤氏とわかると、評価は一転して総括していようとしているとみなしたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 だが、私は、加藤君を床下から部屋の中へ移す段階ですでに加藤君に対しては総括の期待をもっていたが、小嶋さんについては恐らく総括できないのではないかという事、即ち総括できないだろうから死ぬかもしれないがそれでも最後まで可能性を追求してみようという事を思っていた。
(森恒夫・「自己批判書」)

 私は、総括を要求されたものが次々と死んでいく中、兄が総括できそうだと森らに認められたことに胸が熱くなるほどの喜びを感じた。永田は私が嬉しそうな顔をしていると言い、小屋に戻された兄の服を着替えさせようとすると、「兄さんが頑張っているのだから、あなたも頑張らなければいけない」と、私が兄に近づくことを止め、小嶋の見張りにつくよう指示した。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


■「小嶋は永田さんを恨んで死んでいった」(森恒夫)


 私と伊藤とで、小嶋の見張りをしていたが、兄が小屋に戻されてしばらくすると、様子がおかしくなってきた。私たちが見張りについたときには、顔を前に向けていたのだが、突然頭をガクンと垂れてしまった。その様子を見た伊藤が私に、「森さんたちに報告してきて」というので、小屋の中に急いで行き、小嶋の様子がおかしいと報告した。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 森や永田たちが、あわてて様子を見に行き、人工呼吸を施すが、小嶋が息を吹き返すことはなかった。

 森氏は、小嶋さんの顔を見ながら、「怒ったような顔をしている。永田さんを恨んで死んでいったんやろう」といった。私は意味が分からず、「エッ」といった。森氏は、「あたりまえじゃないか。それがわからないのか」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 最後に彼女の様子がおかしいという事で我々が床下へ行った時、彼女はすでに絶息していたが、口を大きく開けて目を見開き点をにらみつける風な感じで恐らく死ぬまで我々のことを憎悪していたと思われる程であった。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「死をつきつけても革命戦士にはなれない」(山田孝)
 そのあと指導部会議を開いたが、会議は重苦しく沈痛なものだった。森もすぐには「敗北死」とは言い出せないでいた。

 そうしたなかで、山田氏が、森氏に体を向けて指をさし、少しきつい調子できっぱりと、「死は平凡なものだから、死をつきつけても革命戦士にはなれない。考えてほしい」といった。(中略)

 山田氏は森氏をジーッと見つめ、森氏は考えるような感じで山田氏の目をはねつけていた。2人は火花が散るほど対立し合っていたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私は、山田さんに共感したが、助け船を出すことも出来ず、成り行きを見守った。2人はジーッと睨み合っていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 そのうち、森氏は、断乎とした強い調子で、「いや、そうではない。死の問題は革命戦士にとって避けて通ることの出来ない問題だ。従って、精神と肉体の高次な結合が必要である。そのために、今後は心理学と医学を学ぶ必要がある」と主張した。山田氏は、「ウーン・・・精神と肉体の高次な結合か。よし、わかった」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「共産主義化には精神と肉体の高次な結合が要求される」(森恒夫)

 森は、小嶋の死は、共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北へとつながったと説明した。

 森氏はさらに、「小嶋は最後まで総括しようとしなかった。だから、死顔は恐ろしい顔をしてにらんでいたのだ。だいたい、あの直前まで元気だったのに急に死んだのは敗北死をよく示している。小嶋は加藤が小屋にあげられ自分だけが床下におかれたため、絶望して敗北死したんだ。共産主義化は精神と肉体の高次な結合が要求されているのだ」と主張した。山田氏はうなずいた。森氏のこの主張に皆もそうかという様子になり、それまでの沈痛な雰囲気が急速に薄れていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「精神と肉体の高次な結合」とは、共産主義化しようとしていれば、寒くても凍死しないし、食べなくても餓死しないし、銃で撃たれても死なない、という荒唐無稽な精神主義である。

 それ故、暴力的総括要求による死はすべて、「肉体と精神の高次な結合」を獲ち取れなかった「敗北死」ということになるのである。(中略)しかし、共産主義化に必死になっていた私たちは、ひたすらそのために「努力」し、その荒唐無稽さを考えもしなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 現実に価値をおかず、同志の痛みを自らの痛みとしえない同志愛、人間愛の欠如が、死すら精神で乗り越えるという極端な論理を作り、これをもって同志の死を無視したのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 我々はその後前述の様に2人の死亡でどの様な違った方法を考えるべきか討論していたが、結局、具体的な回答は出なかった。ただ、今までの殴る−縛るという方法が全く間違いであったという事で問題にしたのではなかった事、革命戦士にとっての"死"の問題は必ず英雄的な気概によって乗り越えなければならない問題であり、でなければ殲滅戦はとても闘い抜けない事、従って死に対する恐怖を払拭し、いつでも権力に死を賭けた戦いを挑む準備がなされていなければならず、縛られてからでも「自分が死ぬのではないか」と考えたり「死にたくない」と思ったりする事がすでに敗北のはじまりであると確認されていった事から、2人の死亡に直面して何とかこうした方法以外の方法を見つけ出そうとすることが考え出されなかったことは当然であった。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「遠山さんは動悸が激しくなり、すっかり落ち着きをなくしていた」(永田洋子)

 全体会議では、永田が小嶋の「敗北死」を森の主張の受け売りで説明した。しかし、さすがに3人もの「敗北死」は、割り切れない思いがあったようで、全体会議は盛り上がらなかった。

 それぞれの発言は「敗北死」の規定を追認し、自分は共産主義化した革命戦士になると決意表明するものがほとんどだった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 遠山さん、行方氏は、暴力的総括要求の現実と死者の続出の緊張感にすっかり落ち着きをなくしていた。特に、遠山さんは動悸が激しくなり、すっかり落ち着きをなくしていた。行方氏は、そういうなかでも動揺してはならない、元気でいなければならないと思って必死に努力しているようであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「何の根拠ももたない残酷な制裁−憎悪に対する憎悪」(森恒夫)
 森の「自己批判書」を読むと、小嶋のいった言葉や態度をいちいち悪意に解釈して、それを解説している。「彼らの名誉回復の為に」といっているわりには、もう一度「総括」をやりなおしている感じである。


 この日も永田が指摘しているように、頭をぶつけているのが、小嶋だと決めつけ、「総括に集中していない」と悪意にとらえ、加藤だとわかると、「総括しようとしている」に変わった。


 「小嶋さんは殴られしばれても決しておとなしくはせず、毅然として自分の意見や要求をはっきり説明していた」(永田洋子)という。つまり、最後まで屈服はしなかった。それが、森にとっては、「反抗的」と映り、気に入らない存在だったのであろう。


 それを認めるように、森は小嶋について最後にこう述べている。

 彼女(小嶋和子)については・・・(中略)・・・何の根拠ももたない残酷な制裁−憎悪に対する憎悪でしかあり得ない。
(森恒夫・「自己批判書」)


 だが、この一文にしたって、「憎悪」は小嶋が先と決めつけている。その上、「でしかあり得ない」と、対岸の火事を眺めるか如きなのである。


 それに加えて残酷だったことは、メンバーのおそらく全員が小嶋を蔑視し、無視するようになっていたことである。


■またもや歯止めをかけるチャンスを逃した
 この日、山田が、「死をつきつけても革命戦士にはなれない」と、森との対決姿勢を示した。山田のほうが森より、赤軍派的には立場が上(赤軍派発足時の組織図)だから、暴力や緊縛をやめさせるチャンスだった。だが森はまたしても、「精神と肉体の高次な結合」という言葉を生み出し、イデオロギーと言葉のパワー によって、山田の抗議ををはねつけてしまったのである。


 山田がどういう気持ちだったのかはわからないが、彼は、この言葉によって、振り上げたこぶしをいとも簡単に納めてしまった。理論家の山田が納得したとは思えない。もし、誰かが山田の援護射撃をすれば、暴力と緊縛に歯止めがかかった可能性もあった。


 こうして、尾崎充男が死亡して、「敗北死」の踏み絵を踏んだときに続いて、またしても歯止めをかけるチャンスを逃してしまった。

 かくて、尾崎君の死を精神的な敗北としたことは進藤、小嶋さんの死によってますます純化され、意識的に死の恐怖に対する挑戦を要求することが必要であるという地点に迄至ったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 かくて、森の脳内理論は暴走しつづけるのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11060165330.html


1972年1月2日 植垣・山崎・青砥が榛名ベースへ
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11077808052.html

(指導部はカーテンで仕切られたコタツにこもりっきりだった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース・指導部会議
 前日(1月1日)は、進藤隆三郎、小嶋和子が相次いで「敗北死」し、尾崎充男と合わせて犠牲者は3名になった。自分たちの行動が、目指したことと、つじつまの合わない結果が出れば、そこで立ち止まり検証するのが普通である。


 しかし森は、「敗北死」や「肉体と精神の高次な結合」という言葉を放って、見事につじつまを合わせてしまった。合理的に考えれば、そんなことがあるはずがないが、それは誰にとっても免罪符になったから、メンバーは異議をとなえるどころか、進んで受け入れてしまったのである。


 ただし、それは同時に、自分が「敗北死」する可能性を受け入れるということでもあった。「敗北死」を逃れる方法はただひとつ、共産主義化を達成して、革命戦士になることであった。


 1月2日には、残りの赤軍派メンバー(植垣、山崎、青砥)が榛名ベースへやってくる。植垣が榛名ベースの雰囲気を伝えているのでそれを紹介する。


■メンバーの状況(1月2日・榛名ベース)
【指導部】
森恒夫  (赤軍) 独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左) 学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左) 永田とは夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍) 暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍) 森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左) 1月2日 東京経由で榛名ベースに戻る。
吉野雅邦 (革左) 暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左) 会計係。吉野の子供を妊娠中。
大槻節子 (革左) おしゃれ(パンタロン)や男性関係を批判される。
杉崎ミサ子(革左) 革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左) 断固とした態度で暴力に加わる。
岩田平治 (革左) 言動が森に評価される。
山本順一 (革左) 運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左) 山本夫人。子連れ(頼良ちゃん)
中村愛子 (革左) 永田のお気に入りといわれる。
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)
加藤能敬 (革左) 長男。小屋内の柱に緊縛中。
加藤倫教 (革左) 次男。兄の様子が心配。
加藤三男 (革左) 三男。兄の様子が心配。
遠山美枝子(赤軍) 死者続出に動悸が激しくなり落ち着かない様子。
行方正時 (赤軍) 死者続出に必死に動揺を抑えている様子。
植垣康博 (赤軍) 1月2日 榛名ベースに合流。
山崎順  (赤軍) 1月2日 榛名ベースに合流。
青砥幹夫 (赤軍) 1月2日 東京経由で榛名ベースに合流。


【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)


■「前沢氏になんでもない風に装った」(植垣康弘)
 赤軍派の植垣康弘と山崎順は、新倉ベースの後始末(指紋消しなど)を行った後、1月2日の昼ごろ榛名湖のバス停に到着した。しばらくして、前沢が迎えに来た。

 前沢氏は、道々、付近の地理を案内してくれたが、その際、すでに2名が死んで小屋の近くに埋められていること、その1人は進藤氏であることを語った。私は、目まいを感じるほど驚いたが、彼がそのことをこともなげに語ることにも驚いた。ある程度予感していたことが、現実のものとなったことに強い圧迫感を受けた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 前沢は「敗北死」の説明をしなかったので、植垣は、2人は総括できないため殺されたと解釈した。

 しかし、私は、これに敗けてはならないと想い、前沢氏になんでもない風に装った。というのは、彼の態度があまりにも堂々としていて、2人の死に驚いているようではダメだといっているようなものだったたうえ、前沢氏が私たちの様子を観察しているようだったからである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 大槻さんに再会できる喜びは大きかったものの、彼女に批判されるのではないかという恐れも一段と大きくなり、どういう顔をして彼女にあったらいいか困ってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、12月の共同軍事訓練のとき、革命左派の大槻節子に恋心を抱いたのだが、夜中に大槻に困ったことをしていた 。


 そのため、より総括の厳しくなった榛名ベースにおいては、彼女に批判されるかもしれないと、心配していたのである。


■「森氏が鋭い目つきで私たちの態度を観察していた」(植垣康弘)
 大槻への心配は杞憂に終わり、彼女は植垣を笑顔で迎えた。

 しかし、小屋内には張り詰めた雰囲気がみなぎり、大槻さんも共同軍事訓練のときのようなはつらつとした感じが見られなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、柱に縛られている加藤に気づいた。そして、おびえたような顔をしている遠山と行方に声をかけるが、2人には返事をする余裕もなかった。すると、森は、「こっちへ来い」と、植垣と山崎を指導部のこたつに呼んだ。

 私は、立ったまま、森氏に、「来ました」と挨拶したが、森氏が鋭い目つきで私たちの態度を観察していたうえ、ほかの指導部の人たちも同じような目つきをしていたので、その威圧的な雰囲気に圧倒されそうになった。しかし、踏ん張って何気ない態度を装った。だが、山崎氏は少し萎縮し、態度がぎこちなく、森氏の威圧的な態度に圧倒されそうになっていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は森に新倉ベースの後始末を完了したことを報告した。そして永田に促されて、メンバーひとりひとりに挨拶をした。

 この時、私は、縛られている加藤氏に挨拶しなかった。私自身のなかに総括要求されている者を差別する気持ちがすでにあったのである。加藤氏を除く全員に挨拶を終えて指導部のところに戻ると、永田さんが、「もう一人忘れてはいない?」といった。私は、加藤氏を差別したことをつかれたように思い、あわてて加藤氏のところに行って、「植垣です。よろしく頼みます。大変でしょうが頑張ってください」と挨拶した。加藤氏は、「加藤です。こちらこそ」と答えた。このやりとりがおかしかったのか、その場にいた皆が笑った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「山田氏や坂東氏も威圧的になり、永田さんもよそよそしくなっていた」(植垣康弘)


 ベース内の雰囲気には、あまり暗さはなかったが、非常に緊張しており、それが全体を重苦しくしていた。旧革命左派の家族的雰囲気はなくなり、指導部と被指導部の区別が旧赤軍派の時以上にはっきりし、指導部に近寄りがたい威圧感があった。


 森氏に進藤氏のことを聞いてみても、「そのうちわかる」としか答えず、声をかけることさえはばかられる有り様だった。山田氏や坂東氏も、それまでの気楽に話せる親しさがなくなり、威圧的な」態度をみなぎらせていた。


 永田さんも、以前にはよく被指導部の人たちと一緒に話していたのに、指導部のこたつにおさまっていて、すっかりよそよそしくなっていた。


 指導部一人ひとりの性格までかわってしまったかのようだった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「大槻さんは女まる出しだ」(森恒夫)
 夜、全体会議が始まった。

 私は、自己紹介したあと、進藤氏の死は彼を総括させられなかった自分の責任である、M作戦には反人民的行為など多くの問題があり、それを今後総括して行きたい、丹沢での痴漢行為 は女性同志を女としか見ていない女性蔑視であり、謝罪すると自己批判した後、勇気を出し、思い切って、「新たな問題として、共同軍事訓練の時、大槻さんを好きになってしまったことがあります。大槻さんと結婚したいと思ってます」といった。


 私は、この時、激しく批判されるのではないかと覚悟していたが、皆は驚いたような顔をしただけで、何もいわなかった。大槻さんはひどく恥ずかしそうにうつむいた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 森氏は、「お、いいじゃないか」といった。ところが、私は、(中略)「大槻さんには渡辺との関係の総括、向山との関係の総括が問われているのだから、これらをぬきに当面結婚は考えられない」といった。すると、森氏は、「お、いいじゃないか」といったのを忘れてしまった如く、植垣氏と大槻節子さんの結婚は当面ではなく、絶対考えられないように主張しだした。私はこの森氏の変化に面食らってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 渡辺と向山とは大槻の以前の恋人である。渡辺は上赤塚交番襲撃事件 で逮捕され、向山は、すでに処刑されていた(印旛沼事件 )。


 これまでもずっとそうだったのだが、森は、永田が厳しいことをいうと、それにかぶせるように、より厳しいことをいった。


 一般に、同じ思想を持った集団では、より過激な意見に反対するのは難しい、といわれている。森は常に一番過激な意見をいって、その場をリードした。

 続いて、山崎氏が自己紹介し、組織関係を利用して女性をはき捨てるように利用してきた。運転手の地位に安住し、それ以上のことをやろうとしなかったと自己批判した。私も山崎氏も批判されなかったので、ホッとしたものの、進藤氏したちへの非常なきびしさを思うと、批判されなくてもいいのだろうかともやもやした気持ちが残った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 続いて皆が自己紹介した。

 この自己紹介のなかで、大槻さんが、やはり恥ずかしそうに、「植垣君にはヴァイタリティがあります。植垣君の申し出を素直に受け止めたい」といった。今度は私がうつむいてしまう番だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 ところが、この時、森氏が指導部の者にいうように、「大槻さんは女まる出しであり、総括よりも男女関係の方を優先させている。総括なんて考えていない態度だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻に対する森の批判について、革命左派時代に一緒に活動した京谷明子は以下のように述べている。

 (大槻さんは)とっくの昔に「革命家の女 」なんですよ。たまたま女だっただけであって、男だ、女だと言ってない。(中略)
 大槻さんは綺麗だったから、女としてみていたのは森さんであって、大槻さんはぜんぜん自分は女だという意識はなかった。京浜安保は、女のほうがずっと勇敢だったんです」
(京谷明子・「情況2008年6月号」 京浜安保共闘の女性たち)


 「京浜安保共闘」というのは、「革命左派」の合法部隊の名称である。


■「『敗北死』という言葉がにわかには理解できなかった」(植垣康博)

 自己紹介がすむと、森氏、植垣と山崎に、「2人は圧倒的に遅れている。しばらくの間、皆から教われ」といった。そのあと、永田が小嶋の「敗北死」について総括した。

 私は、まだ死者がいることに驚いたが、「敗北死」という初めての言葉がにわかには理解できなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「スプライトを飲んだことを自己批判する」(青砥幹夫)
 全体会議の最中、寺岡と青砥が榛名ベースに帰ってきた。青砥は始めての榛名ベースである。寺岡も青砥も、死者が出たことは、このとき初めて知ったはずである。

 青砥氏は各自の発言が終わったあと自己紹介し、新党結成の指示を表明した。また、東京に行った時にスプライトを飲んだことを自己批判し、「これまで金遣いが荒く無駄な活動が多かったけど、今回、寺岡さんと一緒に東京に行って行動を共にするなかで、節約の精神を身につけることが出来た」と発言していた。


 私ははたしてスプライトを飲んだことを自己批判することが共産主義化に必要なのだろうかと思い、あっけにとられた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は青砥は、革命左派の女性との関係について自己批判すべき問題があった。だが、この時は、わざわざスプライト(炭酸飲料水)を持ち出して、さしさわりのない自己批判でやりすごしたのであろう。


■榛名ベースは異様な緊張感につつまれていた

 この日、合流した赤軍派3名は、これまで森にそれほど厳しい追求を受けていなかった。それは3人が責任をしっかり果たしていたことと同時に、それぞれの存在価値があったからだと思われる。


 植垣は爆弾製造や戦闘能力にすぐれ、青砥は合法部とのつなぎ役として、山崎は車の運転ができた。当時、まだ車が少なかった時代なので、運転免許を持っている者も少なく、このときのメンバーで、ほかに運転免許を持っているものは、山本順一だけだったと思われる(小嶋和子も運転手役だったがすでに死亡している)。


 彼らは予感していたとはいえ、榛名ベースの異様な緊張感に驚いた。ましてや、道中、進藤の死を聞かされたから、圧倒される思いだったに違いない。


 これで現状において、集められるメンバーが揃った。ということは・・・・・あとは減る一方なのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11077808052.html

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1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11099825262.html

(遠山美枝子は 「女らしさ」 を批判された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真


 今回は1月2日の続きである。


 遠山美枝子が総括要求されるのであるが、遠山への批判は、過去のものと全く変わりがない。そこで、まずは、遠山美枝子について、これまでの経緯をまとめておく。


■遠山美枝子が榛名ベースへやってくるまで

 遠山は明治大学時代、重信房子の親友になり、赤軍派で主に後方支援や救援活動を行ってきた。


 重信がパレスチナへ 旅立ってからは、『赤軍‐PFLP 世界戦争宣言』というプロパガンダ映画の上映会を行っていた。後の「テルアビブ空港乱射事件」の岡本公三がこの映画の影響を受け、事件を起こすことになる。


 遠山は、当時の赤軍派の幹部・高原浩之と結婚していたため、周りが幹部夫人として一定の敬意をはらい、特別扱いされていた。これは、遠山に限らず、赤軍派伝統の慣習的なものだった。


 その遠山が、1971年11月に、革命左派との共同軍事訓練 に参加した。軍の闘争や非合法活動に縁の遠かった彼女が、なぜいきなり共同軍事訓練に参加したのかは、はっきりしていない。森が人数合わせのために呼び寄せたという説や、救援活動に役立てるための見学のつもりだったという説がある。

(後に紹介するが、総括では、別の理由だと、決めつけられてしまう)


 遠山は、訓練にもついていけなかったし、服装や訓練に対する姿勢なども、それらしくなかった。それを革命左派メンバーに厳しく批判された。これを 「遠山批判」 という。遠山批判は、その前日に 「水筒問題」 で赤軍派に批判された革命左派が、赤軍派に対してカウンターパンチを放ったものだった。党派的な争いの手段としての批判だったのである。


 ところが、森は、遠山をかばうことなく批判をじっと聞いていた。森は、革命左派の吊るし上げともいえる集団的批判こそ 「共産主義化」 の実現方法であると考え、翌日には、森のほうから、遠山に対して、赤軍派時代の闘争へのかかわり方を糾弾 しはじめた。


 森の批判が、革命左派のそれと違っていたのは、過去の活動への批判だったことだ。これが、いわゆる 「総括」 の始まりであった。


 革命左派の批判は、指輪をしている、会議中髪の毛をとかした、服装が派手、男に指示だけして自分は動かない、といったことが、戦士としてふさわしくないということであった。


 一方、森の批判は、遠山が女を売りにして男を利用していると決めつけ、過去の活動をひとつひとつそれに結びつけていくものだった。どちらの批判も、いきつくところは、遠山の 「女らしさ」 が批判の対象だったのである。


 共同軍事訓練が終わり、森が榛名ベースへ行った後も、遠山はずっと批判され続けていた 。ただし、このときまでは 「銃−共産主義化論」 に基づき、銃の構え方の訓練をえんえんとやらされるだけですんでいた。


 森は、榛名ベースに来てから、共産主義化に、 「殴ることは指導である」 「殴ることは援助である」 という理論を組み立て、総括に暴力を取り入れた。そこへ遠山たちが榛名ベースに呼び寄せられたのである。


 遠山が、榛名ベースについてみると、すでに死者が出るほどの殴打や緊縛が行われているのを目にした。そして、遠山と一緒に榛名ベースにやってきた進藤隆三郎が、その日のうちに殴打によって死亡 してしまった。


 遠山の緊張は極限まで達し、落ち着きがなくなった。ちなみに遠山とともに榛名ベースに合流した行方正時も、革命左派による批判こそなかったものの、ほぼ遠山と同じ経緯をたどっている。


 赤軍派で2軍扱いされていたメンバー3人(遠山・進藤・行方)は、何も変わっていないのだが、森のほうが変わってしまっていたのである。


■「小嶋のようになりたくない。・・・・・死にたくない」(遠山美枝子)

 森氏は、「遠山にはちゃんと批判しなければならない」といって、遠山さんを批判していった。
  「小嶋の死を自分が総括する立場からどうとらえているんや」
  「革命戦士になろうとしなかった者の敗北死だ。私は革命戦士になって頑張る」
  「革命戦士になって頑張るというだけでは総括にならん。どう革命戦士になろうとするのか」
 遠山さんは革命戦士になることに決めているとか、革命戦士になるつもりで榛名ベースに来たなどといったことを答えたが、森氏はそう答える度に強い口調で、「違う!」「そんなのは総括じゃない!」と批判した。
 そのため、遠山さんは答えることができなくなって黙ってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 そこで、森君は、彼女が榛名ベースに来てから初めて所持金を提出したこと、髪の毛を短くカットしてこなかったこと、従来の彼女の組織活動に対する関わり方が、闘争と組織のためというより、個人的な関心によってなされていた要素が大きいこと、合法活動のなかで権力との接触によって、精神的、肉体的に大きな負担を負うようになり、とても殲滅戦を闘い抜ける力を持っていないこと、さらに合同軍事訓練のとき、腹部に衝撃を受けたと言って訓練を中止し、ずる休みをしたことなどの点を列挙して詰問した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 すると、被指導部の人たちが、口々に、「黙っていないでなんとかいえ!」「総括する気があるのか!」などといいたてた。遠山さんは、落ち着かない様子でそのようにいう被指導部の人の方をキョロキョロと見ていたが、そのうち思いつめた表情で、「小嶋のようになりたくない。・・・・・とにかく生きたい。・・・・・死にたくない。・・・・・どう総括したらいいのかわからない」といい出した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせ総括させよう」(永田洋子)


 森氏は、遠山さんの発言に強い調子で、「我々にとって生きることは、革命戦士になって生きぬくことでしかない。『死にたくない』というのは、死にたいしてのブルジョア的な恐怖心であり、そのことをいうこと自体すでに敗北死の始まりだ。柴野君のように死ぬ ことが革命戦士として生きることなのだ」と批判した。


 私はその通りだと思った。森氏はこのあともさらに追求していったが、遠山さんは、顔面を蒼白にさせて、「死にたくない」「生きたい」と答えることしか出来なくなってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私は、森氏の追及は、遠山さんを追い詰めるだけで総括させることにならない。これではまた暴力を持ち込むことになるだけだ。実践によって総括させるのが一番よいと思い、指導部の人たちにいう感じで、「遠山さんには、小嶋の死体を埋めさせる実践によって死に対する恐怖を克服させ、そうして総括させよう」といった。森氏は、「それはいい」と答えた。(中略)


 遠山さんは、それまでの追い詰められた様子とはいくらか違って、しっかりした声で、「総括できないときの敗北は死だ。これを乗り越えるために、小嶋の死体は私が埋めに行きます」と表明した。私は、これを聞いて既に半分総括できたと思い、「死体を埋める実践によって総括しなさい」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 これは、小嶋さんの敗北死を直視させて決してこういう道を選ばないという決意をさせる事によって、敗北的な傾向を払拭させる目的でそうしたのだが、(中略)彼女を本当に革命戦士にするような方法では全くなく1つの制裁にすぎなかったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


■「僕もやります。僕もそうして総括します」(行方正時)


 遠山さんが立ち上がりかけると、行方氏が、「僕もやります。僕もそうして総括します」といって立ち上がった。(中略)
 この時、寺岡氏が、「その実践が真に総括しているものかどうかを皆で確認しよう。皆で行ったほうがいい。そうして、遠山さん、行方君の総括を援助しよう」といった。すると、森氏がすかさず、「死体を埋めるのは遠山がやり、行方はそれを手伝え。他の者は手をだすな」と指示した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 皆が出かけていったときには、もう3日の午前一時になっていた。


■「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」(森恒夫)
  被指導部のメンバーも、遠山の沈黙を、「総括する態度ではない」とみなし、口々に彼女を批判した。では、何といえばよかったのかというと、おそらく誰にもわからなかった。


 なにせ、森は、「自己批判書」において、遠山に対して、「恣意的にさまざまな決め付けを行っていった」と書いている。さまざまな決め付けとは、男を手段化した、親への依存心が組織では官僚的な態度になる、男性にこびを売る、などである。


 そして、「心理的な問題を拾い上げては恣意的な判断に組みたて、精神的に彼女を縛り上げる残酷な詰問を何時間も行った」と証言しているのである。


 はじめから、「恣意的な決め付け」なのだから、何をいえばいいのかわかるはずがない。遠山は一生懸命言葉を探すが、何をいっても詰問を繰り返される運命だったのである。


 永田は、遠山への総括要求が行き詰ったと見るや、機転を利かして新たな展開に持ち込んだ。だが、小嶋の死体を埋めたからといって問題が解決するわけではない。助け舟を出したのだが、それは向こう岸まで渡れるものではなかったため、追求を一時中断させるものでしかなかった。


 そして、遠山が、小嶋の死体を埋めて戻ってきたあと、遠山を待っていたのは、目をそむけたくなるような制裁だった。


 否! 目をそむけることさえ、遠山は許されなかったのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11099825262.html

1972年1月3日 遠山美枝子が小嶋の死体を埋める
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11121005924.html


(指導部はコタツ、メンバーは土間のストーブの周りが定位置だった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・榛名ベース
 


 遠山美枝子は小嶋の死体埋葬を強要されていた。


 森と永田と、しばられている加藤能敬以外は、遠山の死体埋葬作業を見守るため、遠山に同行した。


■「こんなことをやっていいのか?」(植垣康博)

 遠山と行方は小嶋の死体を引きずるようにして沢の上まで運んでいった。他のメンバーは、懐中電灯で2人の足元を照らしながら、「頑張れ、頑張れ」と声援を送った。

 その光景はそうみても異様だった。しかし、その異様な事態のなかで、誰もが死をめぐって何の動揺もなく動いていること、遠山さんさえ死体埋めにちゅうちょしなかったこと、むしろ、私自身の方がその異様な事態に驚いてしまっていることから、なるほど私の方が遅れていると思ってしまい、山崎氏に、「俺たちのほうが相当遅れているな。本当に圧倒されちゃうよ」といった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 私は、坂東氏をつかまえて、「こんなことをやっていいのか?」と聞いた。私は、それまでの気安さで、坂東氏とよく話し合ってみたかったのである。ところが、坂東氏は、ぶっきらぼうに、「党建設のためだからしかたないだろう」としか答えなかった。私の意見に耳を傾けていたそれまでの坂東氏とまったく違っていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣は、榛名ベースにきて間もないので、死体運びに付き合うメンバーに対して違和感を感じている。榛名ベースのメンバーはすでに3人の死者を出していたから、免疫ができていたのである。


 それが、彼らの論理では、「遅れている」ということになるらしい。よく話したり、冗談をいったりした坂東も、すでに昔の坂東ではなくなっていた。


■「小嶋の死体を皆で殴れ」(寺岡恒一)


 死体を埋める場所まで運んでくると、遠山は、いきなり死体に馬乗りになり、顔面を殴り始めた。やり場のない怒りをぶつけたようだった。しかし、皆に早く穴を掘るように促された。穴を掘り終わると、死体の衣服を脱がせた。

 そのあと、遠山さんは、再び死体に馬乗りになり、「私を苦しめて」「私は総括しきって革命戦士になるんだ」といいながら、死体の顔面をしばらく殴っていた。
 この時、寺岡氏が、「よく見ろ。これが敗北者の顔だ。こいつは死んでも反革命の顔をしている。こんなやつが党の発展を妨げてきたんだ。こいつを皆で殴れ」といった。


 皆が小嶋さんの死体の顔を1,2回ずつ殴り、私も、妙な気分のまま1回殴ったが、皆が殴っている最中、寺岡氏は、「だんだん死人の顔になっていく」といっていた。


 皆が殴り終わってから、遠山さんと行方氏は、小嶋さんの死体を穴の中に入れて土をかぶせた。そのあと、皆で枯葉や枯れ枝を土の上にばらまき、小屋に戻った。その頃は、もう午前3時を過ぎていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「敗北死は反革命の死ではない」(森恒夫)

 午前3時頃、山田氏と坂口氏の2人が深刻そうな顔をして戻ってきた。そして、山田氏が、「非常に問題なことが起こった。寺岡君が小嶋の死体を皆に殴らせた」と報告した。坂口氏がこれにうなづいた。
 森氏は、「ナンセンスだなあ。もう死体になっているのだから、総括など関係ないのだ。ていねいに葬るべきなのだ」と繰り返しいっていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は、戻ってきた寺岡に質問した。

 「どうして、皆に小嶋の死体を殴らせたのだ?」
 「小嶋の死は反革命の死だと思ったからだ」
 「敗北死は反革命の死として処理することは出来ない。死んでしまえば単なる物体だから、もう総括と関係ないのだ。ていねいに葬るべきなのだ。このことはちゃんと総括しておくように」


 この時、森氏は反革命の死として処理することがどうしてできないのかを説明しなかったが、問題なのは新倉ベースから東京にまわっていたため、寺岡氏は、「敗北死」の規定についてほとんど知らなかったということである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 寺岡は、革命左派では軍のリーダーであり、連合赤軍になってからも断固とした態度をとってきた。ところが、赤軍派メンバーを迎えに新倉ベース行ったあと、東京を回っていたため、3人の敗北死に立ち会っていなかったのである。


 だから、永田が指摘しているように、「敗北死」の規定を知らなかった。そのため、小嶋の死を「反革命の死」としたのであろう。「反革命」とは、革命を目指す側の人間に対し、「反抗者」という悪い意味でのレッテル貼りに使われる言葉である。


 この一件は、あとあとまで寺岡が批判されることになる。


■「とにかく自分の力で埋めました」(遠山美枝子)

 全体会議を始めると同時に、森氏は遠山さんに、「小嶋を埋めにいったことについて総括しろ」といった。遠山さんは、「最初は怖かったし、重かったし大変だったけど、とにかく自分の力で埋めました」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 遠山はともかくやりきったということで、追いつめられた気持ちを払拭できたようだった。

 ところが、この時、遠山さんの様子に注目していた森氏が、指導部の者に、「おかしい。遠山は死体を埋めたことをそんなに恐ろしがっていない。どういうことや」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森はなぜおかしいと思ったかというと、、、

 というのも、我々が前に述べたように、総括の発展を促すといいつつ、実際的には制裁としてあの異常な作業を提起したが故に、彼女がどうしようもなく泣き出したりすることが総括の基準であると思い込んでいたり、そこではじめて極限的な精神的解体−再生のの歩みがはじまるのであり、意識的にこの精神(=古い個人)の解体を迫ることなしに人間的情愛(涙等)の獲得もないと思っていた為である。
(森恒夫・「自己批判書」)

 これは、遠山さんが、遺体運びをなし切ったものの、それによって獲得したはずの共産主義的変革(革命戦士への変革)が態度に表れないのはおかしい、と思ってのことである。この森君の観察は、私の観察と異なる。遠山さんは辛い作業をやり終えて、自信に満ちた顔をしていたのである。だが、私は森君に異議を挟むことはしなかった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私は、あわてて遠山さんに、「知り合いの人の死に接したことがあるの?」と聞いた。遠山さんは、「おばあさんの死に接しました」と答えた。
 森氏は、「それでわかった。だから、恐ろしがらなかったんだ」と指導部にいったあと、遠山さんをさらに追及していった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、「遠山は単なる死体として小嶋を見ていたにすぎない。革命戦士の敗北死として見ていたなら総括できるはずだ」と決めつけ、「遠山が死体を殴ったことも、嫌なものに対する憎悪か演技でしかない」と冷たく言った。
 自信に満ちた表情をしていた遠山さんは、一転して暗い顔になり、押し黙ってしまった。こうして”共産主義化"に基づく森君の一方的な判断によって、遠山さんの驚異的努力は、一瞬にして否定されてしまうのである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「小嶋みたいになりたくない!」(遠山美枝子)


 このあとも追求はかなり長く続き、森は遠山の総括を、「芝居をしてるんじゃないのか」「お前は自分の問題を明らかにしようとしていない」 などと、ことごとく否定していった。


 遠山は、黙ってしまった。皆は例によって、「何とかいえ!」「いつまで黙ってるんだ!」といいたてた。
 そのとき、やはり総括を要求されていた行方が、突然、「あんたの顔には表情がない!判った、あんたの顔は小嶋の顔と一緒だよ!」といった。行方の言葉は、なんとか総括してほしいという願いをこめたものだったのだが、、、

 遠山さんは、ワーッと泣き出し、
「なりたくない!なりたくない!私は小嶋みたいになりたくない!やだもん、あんな格好で死んでいくのは!・・・何を考えていいのかわからない。頭の中を死がぐるぐる回っている!」
といった。
 森氏は冷たくつきはなすように、「死にたくないなら総括せい」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■間違った「善意」と「弱者」のレッテル貼り
 「地獄への道は善意で舗装されている」という。


 榛名ベースでは、共産主義化の論理
が支配していたから、主観的には、善意で遠山を総括させようとしていたと思われる。それは、違和感を感じていた植垣でさえ、すぐに善意で舗装された道を歩みはじめたことからもわかる。


 「間違った善意」ほどたちの悪いものはない。「ストレートな悪意」なら歯止めがかかる可能性があるが、「間違った善意」は、それが正しいと信じているがゆえに、歯止めがかからないのである。


 そして、メンバーは、総括にかけられた者を、自分とは区別するために、「弱者」というレッテルを貼って、自分が総括にかけられるかもしれないという恐怖をやり過ごしていた。


 だから、森の一方的な決めつけに対し、遠山を弁護する者は誰ひとりいなかった。すべてを否定されてしまった遠山の絶望は察するに余りある。


 そして、森の次のひとことが、絶望している遠山をさらに地獄へ突き落とすのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11121005924.html


1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」−女らしさの破壊
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11121904263.html

(遠山美枝子は自分で自分の顔を殴った)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真

 今回は、連合赤軍事件の中でも、もっとも残酷で、書くのも辛い話である。


 小嶋の死体を埋めて戻ってきた遠山は、何を言っても、ことごとく否定された。

 遠山は、黙ってしまった。


■「自分で自分の顔を殴れ!」(森恒夫)


 再び遠山が黙っていると、森が強い口調でいい出した。

「どうだ、総括できるか!」
「何とか総括します」
「総括するといっているが、自分でできるんか?(後略)」
「自分で絶対に総括をやりきります」
「自分でやるというなら、援助しないぞ。援助しないということがどういうことか判るか!」
「・・・・・」
「今までの場合は、我々が殴って総括を援助してきたが、自分でやるというなら自分で自分を殴れ!」


こうして、あれよあれよという間に遠山さんにたいし、自分で自分を殴らせることが決まってしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、「援助」うんぬんではなく、森の本音は「ブルジョア的女性の解体」だった。

 彼女が意識的に涙ひとつ出さず歯をくいしばってこの異常な残酷な要求を遂行したことをこうして否定した上で、我々は彼女のブルジョア的女性の解体を迫り、自分の手で自分の顔を殴ることを要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)

 森同志は、このとき山田同志と私(それから、他にも同志がいたと思いますが)を呼び、「これまで、尾崎、進藤同志のように殴ると敗北死すること、それに遠山同志は人に頼ろうとするから、何も援助せず自分で全部でやらせろ」と言ってきたわけです。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 遠山さんは、最初は躊躇していたが、突然、両手で自分の首を絞めようとした。森君がすぐ、「それは止めろ」と言って、止めた。すると彼女は、左右の手を拳にして自分の顔を殴り始めた。(中略) 遠山さんの自己殴打の場面を描くのはつらい。それは、見るに耐えぬ残酷なものだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 遠山が両手で自分の首を絞めようとしたのは、自殺を考えたものとみられる。

 遠山さんが両拳で交互に顔を殴り、顔が腫れてくると、森君は、「唇を殴れ」と命じた。これは自分の唇に自身を持っているからとの理由で命じたと記憶している。遠山さんが唇を殴ると、唇が切れて血が飛び散り、凄惨な状態になった。みんな、口々に、「休むな!」とか「もっと続けろ!」とか言って叱咤した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 酷い話だが、「唇を殴れ」でわかるように、どうやら目的は、遠山の顔を醜くすることなのである。


■「顔はボールのように腫れ上がった」(坂口弘)


 さらに遠山さんの正面にたっていた大槻さんや、杉崎さんや、寺林さんたちが、「どうしたのさ、もうやめるの」、「どこを殴っているのさ」などといった。

 一度しゃがみこもうとしたとき、遠山さんのまん前にいた森氏は、「もっと続けろ」といいながら、遠山さんの頭を蹴飛ばした。そのため遠山さんは少しも休むことができなかった。

 その中で私は、「顔を殴れ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 革命左派の女性メンバーは共同軍事訓練 のときからの遠山に対して厳しかったが、このときも容赦なかった。

 遠山さんは約30分、唇を殴れとか、顔を殴れとか言われるまま休みなく殴り続けた。口から血が出て、床に滴り落ち、顔はボールのように腫れ上がった。ようやく森君が、中止の命令を出した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」(永田洋子)

 ここからが、皆が、「嫌な気分になった」と証言するところである。

 すると永田さんが鏡を彼女の前に突き出し、醜くなった自分の顔を見るように言った。遠山さんは怨めしそうに鏡の中の自分を見た。同性に対するこの仕打ちに私は腹が立った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 しゃがみこんでしまった遠山に、永田が鏡を見るように命じ、「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」と言いながら、鏡を見ようとしない遠山に鏡を見ることを何度も強いた。


 私は、この永田の行動に驚いた。永田が自分の容姿にコンプレックスを抱いているだろうとは以前から思っていたが、これでは、まるで白雪姫と魔女の世界ではないか。あるいは絶対的な権力を握った暴君が、非力な被支配者をいたぶるという図式ではないかと思ったが、永田に疑問を呈してもすべては総括させるためと言うに違いなかった。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)


 永田自身は、次のように証言している。

「あんた、今の顔どんなか判る。ひどい顔になっちゃったけど、それを気にせず総括しなきゃだめよ。鏡を見てびっくりするようではだめだ」といった。遠山さんは鏡を見たが、別に驚く様子もなく無表情だった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私が、遠山さんが自分で自分の顔を殴ったあと、鏡を遠山さんにみせたのは、私の意図しない形で展開した激しい総括要求にまけてはダメだという思いからであったが、それによって、私は、森氏の遠山さんへの総括の暴力化を追認し、支えてしまった。


 なお、私が鏡をみせた時、皆いやな思いをした、という証言があるが、この時、山田さんは遠山さんに、「そうして総括するんだ。」といったことを、明らかにしておく。
(永田洋子・「最終意見陳述」)


 永田は、鏡をみせたのは、 「激しい総括要求にまけてはダメだという思いから」 だというが、これでは理由になっていないだろう。

 この段階で、永田はすでに明らかにおかしくなり始めていた。しかし、私もその頃には、何が起ころうともはや永田たちについていくしかないという、半ば投げやりに近い気持ちに支配されていたのだ。
(加藤倫教・「連合赤軍少年A」)

 遠山さんがこれ程まで自己殴打したにも拘らず、森君は、彼女の総括を認めず、当然のように坂東君、山田さん、吉野君ら3人の指導部メンバーに命じて、(命じられたのは赤軍派の植垣君、青砥君、山崎君の3人だったとの証言もある)、彼女を戸口の柱に立たせたまま、後ろ手、胸、大腿部、足首をロープで縛った上、柱に括りつけてしまった。(中略)


 それからすぐ森君が、山崎君に遠山さんの髪を丸刈りにさせた。それがおわると、永田さんが誰かに縄を解かせ、遠山さんの着替えをさせてやった。この時の事であるが、リュックサックから衣類を取り出した際、「こんなセーターを持っている」などと遠山さんの持ち物を品評して、嫌な気分にさせられた。


 着替えが終わると、再び縛り、森君の指示で彼女の肩から毛布がかけられた。「遠山は冷え性だから」という”配慮”によるものだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森はもはや縛る理由を、加藤のときのように、 「総括に集中させるため」 とはいわなかった。それもそのはずで、髪を丸刈りにするなど、逃亡防止であることは明らかだった。

■白雪姫と魔女の世界か?

 遠山の女らしさを解体するきっかけが、共産主義化に基づく「善意」であったにせよ、ここまでくると、それだけでは説明がつかなくなってくる。


 森が、「女を売りにしている」ことを総括させるために、自分の顔を殴らせる(醜くさせる)という方法論を思いついた時点で、すでに常軌を逸している。


 残虐性でなければ、病気ではないかと疑うが、いまひとつ捨てがたい可能性がある。それは、永田の心情を察して、森が主導権をとって動いたということだ。


 永田に、そういう望みがあったのかどうかは定かでない。しかし、鏡をみせるくだりなどを考えると、的外れとも思えない。それに、青砥幹夫や加藤倫教は、永田が主導したかのように記憶し、証言してるほどだ。


 多くのメンバーが証言していることだが、永田は、特に女性に対して、自分より優れている者や、並びたとうとする者に対して、それを嫉妬し、粉砕せんとしたという。


 永田の場合、それがあからさまな態度となって現れたから、森がそれを察して、より過激な方法で具現化することによって、主導権を保とうとしたとしても、不自然ではない。


 もちろん、これは1つの推論にすぎない。どうしてこういう推論をするかというと、永田の証言では、心情説明に説得力が感じられないからだ。鏡をみせたのは、 「激しい総括要求にまけてはダメだという思いから」 というのがその一例である。


 いずれにしても、共産主義化の論理 に重なり合うように、森と永田の思惑が交錯していたことは確かだろう。どの角度から光をあてるかによって、連合赤軍事件は、さまざまな表情をみせるのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11121904263.html

1972年1月3日 中央委員会(CC)の発足と行方への総括要求
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11132528700.html

(行方正時は「卑怯者」とレッテルを貼られた)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 行方正時 顔写真

 遠山美枝子を柱に縛った後、指導部会議が開かれ、その後全体会議を行った。徹夜が続いているので、日付の切れ目が難しいが、1月3日夜から、1月4日未明にかけてのエピソードを紹介する。

■「異常な禁欲的秩序にとまどうばかりだった」(植垣康博)

 榛名ベースに来てからの私たちは、生活そのものに至るまでの異常とも思えるほどに統制された重苦しい禁欲的秩序にとまどうばかりだった。タバコ1人1日3本という制限に至っては、理解に苦しんだ。指導部の森氏と永田さんがそうした制限を受けずにタバコをすっていたので、よけいそうだった。

 その後、この制限は、永田さんの意見でゆるめられ、なし崩し的になっていったが、こうした秩序に誰も不満をいう者はいなかった。全体会議で永田さんは、要求があれば提案して欲しいといっていたが、現実には、とても提案できるような状況ではなかったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 1月2日に合流したばかりの植垣は、榛名ベースの異様な光景や緊張感に、とまどいと疑問をもっていたが、指導部の、「遅れている」という判断を受け入れた。そして、同化しようと頑張る過程で、最初感じたとまどいや疑問を、消しゴムで消すように払拭していくのである。

 こうした思考停止に陥る過程は、特異な宗教団体などにもみられる現象である。

■「これでスッキリした」(行方正時)

 この日(1月3日)の夜の全体会議で、森君の提案により、C・C(中央委員会)を発足させた。私が司会を命じられ、指導部メンバー7名がそれぞれC・Cに立候補して全メンバーに承認された。

 この時、森君は、集団指導を強調し、新党は一に殲滅戦、二に他党派との分派闘争のための党建設であるから、党内での分派闘争は一切禁止すると言った。また”しのぎ合い”は競争ではなく、相互に前進や意欲を促しあうことである、という説明をした。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 C・Cが承認された時、行方正時君が、「これでスッキリした」と言った。これに対して森君が、「”スッキリした”とはどういうことだ」と問い返した。これが行方君に対する総括要求の発端となる。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

「何がすっきりした!?」
「僕は南アルプスで自殺しようと思い、こめかみに銃口をあて考えましたが、それが間違っていたことがわかりうました。今、本当に革命をやらなーあかんと思っています」
「総括になっていねえじゃないか。何もすっきりしていねえじゃないか」

 行方氏は黙ってしまい、ますます落ち着きをなくすと、森氏は、「おまえのキョロキョロした落ち着きのない態度は何だ!」とどなったあと、「おまえみたいな卑怯な奴は何をするかわからん。青砥、山崎、行方のうしろについて押さえろ!植垣、行方の70年からの活動内容を聞け!」と命じた。

 当時、私はこれがどういうことかわからなかったが、行方氏が、赤ちゃんのRちゃんを楯にとって逃げようとするかもしれないからそうできないようにしろ、ということであったらしい。行方氏のうしろにRちゃんのベッドがあったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 Rちゃんとは、頼良(らいら)ちゃんのことで、山本夫妻が連れてきた赤ちゃんである。森は、行方が、頼良ちゃんを人質にして逃亡するのを警戒したようだ。

 行方は、闘争にかかわってきたものの、過激な闘争には臆病風をふかせたこと、赤軍派の極左路線にはついていけないと苦悩し、榛名ベースに合流する前に自殺しようかと考えたことを打ち明けた。


 「おまえ、ビビッたとかどうとかそういうことばかりいって、総括をひきのばそうとしてるんじゃないのか。深刻そうな顔をして悩んでいるような態度をしているが、それは総括しているかのようにみせるポーズとちゃうか」と批判したあと、「総括がなってない!青砥、山崎、植垣、縛れ!」と命じた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 行方への追求は、具体的には、常に自分を後方の安全地帯におく、弱気なくせに女性にはカッコつける、開き直った態度をとる、などであった。

■「行方を卑怯者と決めつけた」(森恒夫)

 もともとおくれた分子とかってに決めつけ、総括要求の対象に考えていたのですから、何をいっても追及の手から逃れることはできなかったのです。誤った「共産主義化」に確信がもてず、また本音を隠せる(私のように建て前や観念的でない分)人ではなかった分、追求されるたびに動揺が大きくなり、それを私たちはますます、おくれていると決めつけていったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 森は、南アルプスの新倉ベース時代、遠山や進藤に比べれば、行方は、総括が進んでいると考えていた。ところが、榛名ベースに合流してから、評価は一転したのである。


 12月31日に彼がベースに来た時には、私は彼が軽度のノイローゼにでもあるかの様にやせて神経質になり、目を異様に光らせて、1人で居る時と雑談している時の感情的な差異が余りに大きいのに驚いた。(中略)我々はこうした彼を革命戦士(連合赤軍兵士)として認めることができないと考えた。
(森恒夫・「自己批判書」)


 永田や坂口の観察では、森がいうほどひどくはない。

 行方は、森の追及にたいし、弱々しい笑みを浮かべながら、そうだと思う、とうなずいていたそうである。


 我々は、彼のこうした様子から、革命戦士として不適格な弱者→卑怯者と彼の事を判断して、それを総括して強者→戦士にさせる為にロープで縛ることにし、逆エビ状にロープで縛って柱にくくったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森はまとめてしまっているが、正確にいうと、このときは普通に縛られた。後に再び追求された時に、逆エビ型に縛りなおされることになる。

■「僕にも発言させてください。僕もCCの結成を支持します」(加藤能敬)

 行方氏を縛ったあとも、CCの承認を求める全体会議が続いた。この会議の最中、加藤氏が、縛られている土間のほうから大きな声で、「僕にも発言させてください。僕もCCの結成を支持します」と発言したことがあったが、坂口氏が、「黙れ!」とどなって加藤氏を黙らせてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 全体会議が終わったのは4日の午前3時ごろであった。このあと縛られている加藤が、目隠しを外そうとしたり、足を動かしているのを、見張り当番の植垣と山崎に目撃され、森に報告されてしまった。

 病的なほど逃亡を警戒している森が、これを知ったらただではすまないことは予想がつくだろう。

■CCは独裁に民主主義の化粧をほどこしたもの
 CC(Central Committee:中央委員会)の発足といっても、指導部の看板をかけかえたにすぎなかった。

 CC発足にあたって、「共同指導体制」とか「スターリン主義の防止」が強調されたが、その舌の根も乾かぬうちに、行方に対する追求・緊縛は、完全に森の独断専行で行われた。

 CCとは、森が、責任を分散させ、独裁に権威をつけるためのもの、すなわち、独裁に民主主義の化粧をほどこしたものと考えてよさそうだ。

 結局、赤軍派で2軍扱いされた進藤、遠山、行方の3名は、榛名ベースに合流すると、赤軍派時代の批判をそのまま持ちこまれた。つまり、赤軍派時代は許容範囲であったものが、連合赤軍においては、共産主義化の観点から見過ごせなくなった、というわけだ。

 しかも、過去の活動を事後法で裁くものだった。過去の活動暦だったら、森の活動暦こそ、ビビッたり、敵前逃亡したりの連続なのだ。

 森は、他者の中に、自分に内在する弱さをみつけたとき、それを厳しく糾弾するのである。
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1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び
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(行方が追求されているとき、遠山は 「手を切って」 と叫んだ)
 遠山美枝子顔写真

■「遠山さんは、女を意識している」(永田洋子)

 入り口の横に縛られていた遠山は立っているのがつらそうな様子でいた。それをみた永田は、座らせることを森に提案した。森はすぐに返事をしなかったが、永田の説得にしぶしぶ了解した。ところが、、、

 そのあと、縛りなおされた遠山さんを見ると、彼女は両足を崩して座っていた。その様子はボンヤリしており、総括しようとしているものとは思えなかった。私はせっかく勇気をふるい総括に集中しやすいように座って縛らせたのに、それに集中せず女を意識していると苛立った。(中略)
 私は、中央委員会の場でこの苛立ちをそのまま表明した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田が、「勇気をふるい」といっているのは、森にあまいと批判されるかもしれないと思ったからだそうだ。山岳ベースでの永田は、暴力的総括を鼓舞しているものの、縛られた者の苦痛についてはやわらげようとしている傾向がある。

 しかしながら、そのあと、中央委員会で、「両足を崩して座っていた」 からといって、 「女を意識している」 と摘発してしまうようでは逆効果であり、森の論理に味方することになった。


■「行方氏は放心したような顔をしていたが、追及にはていねいに答えた」(植垣康博)


 午後8時頃、森氏が青砥氏、山崎氏と私の3人を指導部のコタツに呼んで、「行方が権力にバラしたアジトを全部調べろ。パクられた時に何をしゃべったかも聞け」といった。(中略)
 行方氏は放心したような顔をしていたが、青砥氏の追及にはていねいに答えた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 行方への批判は、赤軍派時代のことであり、革命左派メンバーには、理解できなかった。


■「ああ、手が痛い。誰か手を切って」(遠山美枝子)


 青砥氏が中心になって追求していたが、何を追及しているのか私にはわからなかった。この最中、入り口の横に縛られていた遠山さんが、再び、
「お母さん、美枝子は頑張るわ」
「美枝子は今にお母さんを仕合わせにするから待っててね。私も革命戦士になって頑張るわ」
「ああ、手が痛い。誰か手を切って」
「誰か縄をほどいて。・・・いい、縄をほどかなくていい。美枝子は頑張る」
などと叫ぶようにいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 遠山の手には酷いしもやけによる激痛があった。縛られたメンバーはいずれも手足が動かなくなるほどのしもやけになったのである。

 しかし、私たちは、そのような遠山さんを全く無視し、行方氏を追及した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「絶対に逃亡できないように、肩甲骨と大腿部を思いっきり殴れ!」(森恒夫)


 行方氏の追及の終わり頃、森氏が、「懐中電灯で行方の目を見たら、瞳孔が開いているのがわかった。行方は死の領域に足を踏み込んでいる」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 青砥氏の追及が終わった時、行方氏はあきらめてしまったような様子であったが、それでも誠実に義務を果たそうとするかのように、これまでの事務やアジトを引き継ごうとして語り始めた。


 すると森氏は、「おまえから、そんなことを聞こうとは思わない。それはこっちで考える」といって、行方氏の発言を封じ、逃亡の意思について追及した。


「これまで逃亡しようと思ったことはなかったか」
「あります」
「いつ逃亡しようと思ったんだ」
「車で他の場所に移されるときに、逃亡しようと思ってました」

(中略)

 「逃亡してどこへ行こうとしたのだ」と追求した。行方氏は、少し黙ったあと、「実家に帰るより他にないでしょう」といくらか腹立たしげに答えた。


 そのあと森氏は、「縛る前に、絶対に逃亡できないように、肩甲骨と大腿部を思いっきり殴れ!」と命じた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 まず森が肘で肩甲骨を殴り始め、ついで山田が殴った。

 その時の私は、こうした大変な任務は指導部だけにやらせておくべきではない、私たちもやるべきだという思いだった。続いて、大腿部を手刀で殴ったが、途中で寺岡氏が、「そんなんじゃだめだ」 といって、土間からまきを持ってきてそれで殴った。私は、その激しさに驚いたものの、さすがはCCと思い、私もまきで力いっぱい殴った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 他の者も寺岡氏に続いて、まきで思いっきり殴っていた。こうした行方氏への殴打はとてもみていられない程のものであった。

(中略)

 行方氏は激しい苦痛に必死に耐えているようで、わずかにうめき声をあげただけだった。殴り終わった頃、森氏は、「逆えび型に縛っておけ」と指示した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 行方は、逆えび型に縛られ、さらに縄を床に固定されて、まったく身動きが出来ないようになってしまった。


■「精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている」(森恒夫)

 このとき森は、信じられないようなことを考えていた。

 そして彼はすでに立直る事をあきらめたかの様に、彼の活動内容をしゃべり、引継ぎが可能な様に事情を説明したりした。この間、我々が見ていて異常と思われる位夢の中でしゃべるような様子であったので、急いで彼の瞳孔を調べると、半分近くに拡大している状態だった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 行方は、1月3日から縛られたままだったのだから、「夢の中でしゃべるような様子」であってもおかしくはないだろう。そして、夜の榛名ベースでは、ロウソクの灯しかない暗闇なのだから、瞳孔が拡大しているのは正常である。

 それで我々は、彼が恐らく精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている可能性がある事、それが瞳孔の異常として表われているので彼をこの絶望の状態から何とか引き出さないと駄目だと思って、詰問調の追及を質問調に変えたところ、その時にのみ彼の瞳孔は正常にもどった。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は懐中電灯を目に当てながら質問しているので、瞳孔が縮小しはじめるのも、あたりまえのことである。

 こうした事から、我々は一方で彼が精神的に敗北する過程に入っているという判断をすると共に、もう一方逃亡の危険があると考え、彼の手足を力が抜ける程殴っておく事にし肩甲骨の裏を手拳や膝頭で殴り、大腿部を足や棒で殴ったのち、逆エビ状に再び縛ったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 「精神的に絶望して死の世界に入ろうとしている」 といいながら、「逃亡の危険がある」 とはどういうことだろうか?


 そして、行方を「死の世界」から救おうとして、「詰問調の追及を質問調に変えた」はずなのに、「彼の手足を力が抜ける程殴って」「逆エビ状に再び縛った」 のである。


 森の論理は倒錯しているが、この場にいた坂口も違和感を感じていたようだ。

 私は、森君がほぼこれと同じ事を喋ったのを記憶している。瞳孔の開閉状態でそんな心の洞察ができるものだろうか、という疑問とともに、森君の表情と語り口が(彼は、行方君の目に懐中電灯の光を当てながらこういうことをいった)、何か物に取り憑かれたようで、嫌な感じがした。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「イエス」でも「ノー」でも

 加藤能敬の最期を思い出してみよう。加藤は、逃亡の意思について否定し続けたが、まったく信じてもらえず、死ぬまで追求され続けた。そして加藤が死亡したとき、「逃亡しようとしたことがばれて絶望した敗北死」と解釈されたのだった。


 いっぽう行方は、逃亡の意思をあっさり認めた。しかしそうなると、手ひどく殴られ、逆エビに縛られてしまった。 何のことはない、「逃げようと思っただろう?」と疑われたら最後、「イエス」と答えても、「ノー」と答えても、ダメなのだ。


 つまり、森の手には、あらかじめレッドカードが握られていて、イエスだろうが、ノーだろうが、瞳孔が開いていようが、閉じていようが・・・・・出されるカードの色は変わらないのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11149128241.html

1972年1月6日 遠山美枝子を逆エビに縛る
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11155422306.html

(遠山美枝子に対する追及は拷問そのものだった)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 遠山美枝子 顔写真

 森は、行方氏を追及している最中に、遠山が、「お母さん、美枝子は革命戦士になって頑張るわ」「美枝子は今にお母さんを仕合わせにするから待っててね」と繰り返しいってたことを追求し始めた。


■「そうです。芝居でした」(遠山美枝子)


 行方氏を調べ終えると、森氏は植垣氏ら3人に、「遠山の縄をほどいてこっちに連れてこい」と指示した。(中略)
 「さっき、何であんなことをいった。芝居だったんとちゃうか」
 遠山さんが黙っていると、皆が「何で黙っているんだ」といった。

 皆は、この頃から遠山さんをこずいたり殴ったりしたらしい。遠山さんをぐるりと取り囲んだ輪のうしろにいた私にはわからなかった。そういうなかで、遠山さんは答えた。
「そうです。芝居でした」
「どうして、そんな芝居をしたんだ」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 遠山は、父が自殺して母が苦労して育ててくれたこと、それでいつか母を仕合わせにしようと思って、階級闘争をやってきたことを語った。

 追求の終わりごろ、男性関係についても追及された。

「明大時代、誰がすきだったんや」
遠山さんは最初は黙っていた。すると、取り囲んだものが、「何とかいえ!」「おい、どうした。早くしゃべれ!」などといった。遠山さんは、しぶしぶという感じで、「サークルの部長です」といった。
「赤軍派に入ってからは?」
「高原です」
「合法時代はどうだったんや」
遠山さんはしばらく答えようとしなかった。そのため、周りのものから一斉にあれこれいわれ、そのうち、2人の男性と関係をもったことをいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「おやじさんが好きだったの」(遠山美枝子)


 森氏の追及が終わったあと時、遠山さんは、ポツンと、「おやじさん(森氏)が好きだったの」といった。森氏は、この発言にニヤニヤする態度をとった。
 それは、それまでの遠山さんに対しての態度とあまりにも違ったものであった。遠山さんが森氏にそのようにいうことによって総括要求を回避しようとしていると思い、また、それにたいして森氏がまじめに彼女に総括させようとしていないと思い、「やっぱりそういうのはわかっていた」と批判した。
 私は、森氏が遠山さんにたいしてただ激しい暴力的総括を果しているだけで、本当に総括させようとしているとは思えなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 ところが、森氏は何を勘違いしたのか遠山さんにたいして怒り出し、彼女を殴りながら追求した。
「おまえ、俺をいつから好きだったんだ」
「明大の寮にきた時からです」
「うそつけ!あのころはオバQだったんとちゃうか。俺よりもオバQのほうが偉かったんだぞ」
「はい、そうです」
「それなら、いつから俺を好きになったんだ」
「南アルプスからです」
「この野郎!」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 この追求は、無実の容疑者が、取調官に恫喝され、検察側のシナリオにそって「白状」してしまうケースにそっくりだ。シナリオと違えば「ウソ」であり、「正解」になるまで尋問は続けられる。


 森のシナリオは、遠山は常に権力のある者を好きになることによって高い地位を得ようとした、つまり女を売りにして男を利用してきた、というものである。だから、遠山が森を好きになったのは、森がトップである南アルプスの時点でなければならなかったのである。


 なお、このシナリオは永田も一致していたようだ。坂口によれば永田は、「あなたは偉い人ばかり好きなのね」と皮肉をいったそうである。


■「男と寝たときみたいに足を広げろ」(寺岡恒一) 「そういうのは矮小よ!」(永田洋子)

 そのあと、森氏は、「遠山も行方と同じように殴って縛れ」と指示した。私たちは遠山さんをうつぶせにし、まず肩甲骨を肘で殴り、続いて大腿部をまきで思いっきり殴った。遠山さんは悲鳴をあげたが、私たちはそれを無視した。


 殴り終わって逆エビに縛ろうとすると、森氏が、「遠山の足の間にまきを挟んで縛れ」といった。それで、まきをひざの裏に挟んで足を折り曲げさせたが、その際、寺岡氏が、「男と寝たときみたいに足を広げろ」といった。


 これに私たちは笑ったが、女性たちは一様にいやな顔をし、永田さんが、「そういうのは矮小よ!」と批判した。私たちはあわてて笑うのを止めたが、行方氏、遠山さんへの激しい暴行は、私たちの気持ちをすさませ、より残酷で下劣なものにしてしまっていたのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 なぜ、森は、「遠山の足の間にまきを挟んで縛れ」といったのかというと、「女らしい様子をさせないため」(森)だそうだ。おそらく、少し前に永田が、遠山が女らしいしぐさで足を崩して座っていたことを咎めたからだと思われる。


 このように森は永田のいったことをよく覚えていて、わりとよく 「対処」 をするのである。

 こうして遠山さんは、3日の朝に縛られて以来、水も食事も与えられないまま、ここへ来て逆えび型に縛られ全く身動きできなくされてしまった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 遠山さんも行方氏もぐったりしていた。私は、この激しい殴打に、そこまでやらなくてはならないのかといささかたじろぎ、その反面、やられっぱなしの2人がなんともふがいないものを感じ、どうして総括を放棄してしまうような態度を取るのか、もっとシャキッとできないのか、何とか頑張ってくれという思いもあったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「涙を流して泣いてみろ、涙すらない冷酷な人間だとバトウした」(森恒夫)


 この時には、彼女が私を好きだということでロープを解いてもらおうとしているということと、階級闘争の中で男性を手段としてきているということが結合して、彼女に対する怒りとして放たれ、彼女が何人かの男性の名をあげた事に対して、我々は余りにハレンチだとして彼女を殴ったり、足げにしたりした。そして、本当に自分のことを情けなく思っているのなら、涙を流して泣いてみろ、涙すらない冷酷な人間だ(彼女がかつて自分は泣けないと云ったことを押さえて)とバトウしたのである。
(森恒夫・「自己批判書」 句読点修正)


 森は、遠山に小嶋の死体を埋めさせたとき から、一貫して、「遠山がどうしようもなく泣き出したりすることが総括の基準」と考えていたのである。


 どうやら、共同軍事訓練の最終日 に、森自身が総括を述べたとき、涙を流した体験と結びつけて考えているようだ。


■「寺岡は女性蔑視だ」(森恒夫)


 このあと、中央委員会を開いたが、そこで、森氏は、「寺岡君が『男と寝たときみたいに足を広げろ』といったのは、女性蔑視だ」と「真面目」な面持ちで批判した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 「真面目」とカッコつきなのは、寺岡の言葉に男性たちはみな笑ったのに、あたかも、寺岡個人の問題であり、自分は無縁であるかのようにふるまった森への皮肉である。


 森は、永田の批判に、寺岡をスケープゴートにして面目を保とうとしたようだ。

 森氏は続いて、「殲滅戦のための準備のための活動を開始しよう」といって、井川ベースの整理、名古屋にいるF・Kさんらを連れてくること、東京での若干の活動、山岳調査などの必要をいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 F・Kとは殺害した小嶋和子の妹である。連れてこようと考えるとは、どういう神経であろうか。


■「女の革命家から革命化の女へ」(森恒夫)

 全体会議で、森は「女の革命家から革命化の女へ」という定式の説明を行った。

「共産主義化されないまま、女が男と関係をとり結ぶのは、それまでの生活を通して身に着けたブルジョア的な男性観にもとづいたものであり、こうした傾向を止揚しない限り女の革命戦士化はかちとれない」と述べた。
 この説明に私はなるほどと思った。そのあと、森氏は、大槻さんと金子さんにたいして、銃による殲滅戦を準備する闘いに向けて早く総括すべきだといった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


その後役割が決められた。


井川ベースの整理は、山崎、寺林、中村、山本保子の3人。
名古屋にF・Kを呼びに行くのは、岩田、伊藤。
東京に行くのは前沢、青砥。


■独裁体制とメンバーの思考停止

 遠山への批判は、共同軍事訓練のときからずっと続いている。いつも永田の批判がきっかけとなり、森がそのあとを引き受けて追求した。よく注意してみると、森の批判は永田のそれとは別物であるが、永田は、森の批判に同調してしまうのだから、2人の関係はややこしい。


 森の過酷な追求によって、遠山は、それに迎合する告白をしてしまった。なんとか追求から逃れようとしたのだろうが、どのように答えても、批判され、人格を破壊されていくのである。あまりに残酷で拷問としかいいようがない。


 他のメンバーは、威勢はいいものの、せいぜい、「おい、どうした」 「黙ってないで何とかいえ」 という掛け声しか発することができなかった。すでに思考停止状態であり、森と永田の側に身を寄せることが精一杯だった。すべての判断は森と永田の専権事項になっていたのである。これを独裁という。


 いったん独裁体制が確立してしまうと、独裁者が自ら踏みとどまったり、引き返したりすることはない。事実、同志殺害は、森と永田が権力の手中に落ちるまで続くのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11155422306.html

1972年1月7日 遠山美枝子の「敗北死」
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11161247154.html

(遠山は人間の誇りを破壊された)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-遠山美枝子顔写真

遠山美枝子(享年25歳)
【死亡日】 1972年1月7日
【所属】 赤軍派
【学歴】 明治大学
【レッテル】 古い赤軍派、ブルジョア的女性
【総括理由】 指輪、化粧、髪型、女を売りにして男を利用、幹部の妻としての特権的地位、死への恐怖
【総括態度】 「まだ女を意識している」
【死因】 凍死 or 衰弱死


遠山美枝子が山岳ベースに参加してから死亡するまでの経緯は以下の通りである。

1971年12月 共同軍事訓練 その3・革命左派による遠山批判

1971年12月 共同軍事訓練 その4・赤軍派による遠山批判

1971年12月 遠山・進藤・行方への総括要求(赤軍派・新倉ベース)

1971年12月27日 赤軍派メンバーを榛名ベースへ召集せよ

1971年12月29日〜31日 赤軍派メンバーが榛名ベースへ出発

1972年1月1日 進藤隆三郎の「敗北死」

1972年1月2日 遠山美枝子に遺体埋葬を強要

1972年1月3日 遠山美枝子が小嶋の死体を埋める

1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」−女らしさの破壊

1972年1月6日 行方正時への暴行と遠山美枝子の叫び

1972年1月6日 遠山美枝子を逆エビに縛る


 1月7日は、メンバーに任務が告げられ、その準備をしていた。この任務は殲滅戦を闘うための準備と位置づけられた。


井川ベースの整理に行くのは、山崎、寺林、中村、山本保子。
名古屋に小嶋史子(死亡した小嶋和子の妹)を呼びに行くのは、岩田、伊藤。
東京に黒ヘルグループのオルグに行くのは、前沢、青砥。


 そして、森の提案で、新たな山岳ベースの調査することになった。榛名ベースは久々に活気に溢れたのである。


 しかし、その準備の最中に遠山の容態が悪化した。


■「お前は薄情だ!」(坂口弘) 「謝りなさいよ!」(永田洋子)


 手洗いから戻って来た時、縛られている遠山さんを見ると、それまでの様子と違って妙にひっそりしていた。私はそっと脈をみた。脈はかすかにしか感じられなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 それで坂東君、寺岡君ら5人のメンバーが飛んでいってすぐに人工呼吸を行った。私が少し遅れていくと、森君が、「酒を飲ませてみたらどうか」と言ったので、ストーブの上にかけてあるバケツの湯の中に一升瓶を入れて燗をしようとした。すると側にいた永田さんが、「一升瓶ごと燗するなんてナンセンスよ。お酒はお銚子に移してから燗するものよ」と言って私を腐した。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 すぐそばでは人工呼吸が続いていた。永田は会議の場に戻った。

 ところが私が戻ってすぐ坂口氏が大変な剣幕で私のところに来て立ったまま大声で、「お前は薄情だ」とどなった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 「おまえの態度は真剣でない!遠山が亡くなろうとしているのにお前はどこへ行く気だ!」と、私は彼女を怒鳴りつけた。鏡の件などで、遠山さんに冷淡で、刺激的なことをした永田さんに対し怒りがうっ積していたのだ。だが、すぐに本当の敵は彼女ではなく、森君だと思った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 永田と坂口の口論中、森が、「永田さんの行動は薄情ではない」と助け舟を出したため、坂口は押し返されてしまった。

 彼女はいっそう居丈高になり、「私と森さんを侮辱したことを誤りなさいよ!会議の進行を遅らせたことを誤りなさいよ!」と言って謝罪を求めてきた。(中略)
 私は目を瞑り、腕を組んで、反抗すべきかどうか考えた。(中略)
 総括の最大の山場だと思った。自分の全人格が問われていると思った。気持ちが反抗と屈服の交互に揺れ動いた。しかし、私は、反抗の道を選択することが出来なかった。両名、とくに森君と論戦しても勝てないと悟ってしまったのである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、「CCを辞任したい」と申し出るが、驚いた森があわてて取り成した。結局、「会議の進行を妨げて申し訳なかった」と惨めな謝罪を行ない一件落着となった。

 森氏は新党維持のため、私や坂口氏を特別扱いしていた。そのため、この問題で、私か坂口氏のどちらかが総括要求されることはなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 2人は一緒に顔を洗ったりするなど仲が良かったので、このときの激しいやり取りにはとまどわされた。しかし、このあとは何事も無かったかのように仲良くしており、このことにもとまどってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「遠山さんは蘇生しなかった」(植垣康博)


 遠山さんの人工呼吸は30分以上も続けられたが、結局、遠山さんは蘇生しなかった。坂東氏たちは人工呼吸をやめ、遠山さんの死体を床下に運んでいった。会議は重苦しい気分のまま中断となった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 坂東氏たちが戻ってきた時、森氏が、坂東氏に、「どうだった」と聞いた。坂東氏は首を横に振り、遠山さんの死体を床下に置いて来たことを報告した。
 そのあと、全体会議を中断して中央委員会の会議を開いたが、この会議は重苦しいものだった。もはや討論もなく敗北死という規定をした。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「暴力は不適格な人間を間引くことだと気づいた」(前沢虎義)

 このころから、メンバーの間では、総括に対する複雑な思いが芽生え始めていた。

(なぜ死ぬと分かっているのに遠山を殴ったのか?)
 自分の死ってものをある意味では前提にしているわけです、僕ら。軍の兵隊になった時点で。自分の死を前提にしてると、同じ仲間の死というものも・・・というか、中途半端な態度をとってることに対して許せないわけですよ。なんでそういう態度をとってるんだ、と、そういう態度をちゃんと克服しろ、と。
(植垣康博・「朝まで生テレビ」2004年3月27日放送)

 加藤が死んだときは遠山美枝子が縛られ、行方も既に縛られるのを待っている状態でした。私は加藤が死んだことで、遠山も行方も、そしてその後ももし誰かが縛られれば、その人間も死ぬだろうと、はっきりと判断しました。
 それまでは総括の援助だと言われ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 前澤虎義上申書(1972年8月11日付))


 前沢はこのような思いを胸に抱いて、東京に黒ヘルグループのオルグに行くのであるが、任務終了後、榛名ベースへ戻るのをためらうことになる。

 なぜ、こんなことさせるんだという憎しみを持ちながらも、遠山さんに対する暴力行為を断れない・・・。正しいと思っているわけじゃないんだ。そう思い込もうとしているだけなんだ。そんなことみんな分かっているのに止められないんだよ。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫インタビュー『スキャンダル戦争1』2002年6月 より引用)

 僕は遠山さんの問題については、永田に非常に大きな責任があると思っています。遠山さんの「総括」の最中を思い出すたびに、本当に正視できないようなことばかりだったと思う。だって普通、女の人に顔殴らせてね、「あんたの顔こんなに醜くなった。見てみなさい」なんて、鏡を突きつけますかね。
(荒岱介・「破天荒な人々」 青砥幹夫インタビュー)


 永田が遠山に鏡をみせた経緯は、 1972年1月3日 「自分で自分の顔を殴れ!」−女らしさの破壊 を参照。


■「遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくした」(永田洋子)


 遠山さんへの批判は、彼女のすべての行動を権力欲や嫉妬心で解釈することによって、彼女の人格を徹底して侮辱し彼女を絶望させてしまうものであった。それは遠山さんの人間的な誇りを破壊しつくすものであった。


 こうした女性蔑視の排外的な批判に、遠山さんが沈黙してしまったのは当然のことであった。なぜなら、批判者自身が、そうした批判の誤りを理解しない限り、いくら違うといっても通用しないからである。


 敗北後、遠山さんに行われたのと同じような批判をされ続けてきたが、それによってやっと彼女の無念な思いが痛いほどわかるようになった。私たちの犯した誤りを利用した私への女性蔑視の排外的な批判に直結して、私はやっと同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は反省しているようでいて、「同じ女性として遠山さんと団結することのできる立場に立てた」 とはずいぶん虫のいい話である。


 遠山批判には、 「批判の誤り」 というような論理で割り切れないものを感じる人が多いだろう。


 以下のような吉野の証言もある。

 新倉共同訓練での遠山さん批判を受けた森がこうして遠山さんを縛らせるに至ったことで、森は永田からつきつけられた課題を片づけた思いになり、永田は永田で、赤軍派メンバーに対する自己地位を一応確保し、いわば赤軍派内での妨害要素を除去しえた思いで安堵したその心理が作用していたと私は見ます。


 森が苦心惨憺して遠山さんを批判していた時、傍らに座っていた永田は本当に満足そうに安堵しきった表情で、その追求ぶりを見物していたのを印象深く覚えています。


 私の認識としては、永田はとうとう森をして遠山さんを縛らせることに成功し、自分と森との統合への道の第一段階をこの時確保したのです。

(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」 吉野雅邦 1983年1月28日付手紙)


 遠山を死に至らしめたのは、直接的には、森の課した肉体的制裁であることは間違いない。だが、森をここまで動かしたものは、はたして共産主義化の論理 だったのだろうか、それとも永田の意向が働いたのであろうか。


 同じ疑問は、このあとの革命左派の女性メンバー2人への総括要求のときにも生じるのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11161247154.html

▲△▽▼

1972年1月7日 金子みちよ・大槻節子への総括要求
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11176661166.html

(金子みちよ(左)と大槻節子(右)はなぜ批判されたのか?)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-金子みちよ顔写真 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-大槻節子顔写真

 今回は、遠山美枝子が死 亡したあとの全体会議での出来事である。遠山を「ブルジョア的女性の敗北死」としたため、それを受けて永田が、金子みちよと大槻節子へ総括を要求した。


■メンバーの状況(1月7日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍)森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左)死体を皆に殴らせたこと、女性蔑視発言を批判される。
吉野雅邦 (革左)暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左)会計係。吉野の子供を妊娠中。
大槻節子 (革左)「女まるだし」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左)断固とした態度で暴力に加わるも疑問が生じる。
岩田平治 (革左)言動が森に評価される。
山本順一 (革左)運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左)山本夫人。子連れ(頼良ちゃん)
中村愛子 (革左)永田のお気に入りといわれる。
寺林喜久江(革左)
伊藤和子 (革左)

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
行方正時 (赤軍)★緊縛中★ オドオドした態度を批判された。
植垣康博 (赤軍)次第にベースの雰囲気になれる。
山崎順  (赤軍)雰囲気に圧倒されてオドオドしている。
青砥幹夫 (赤軍)合法部との連絡役でそつなく立ち回る。


【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死) 

加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)

■「もう、総括はないだろう、との希望を持った」(青砥幹夫)


 遠山美枝子さんが亡くなった1月7日夜の全体会議で、森君が、「(死んだ)5名との共産主義化の闘いを踏まえて殲滅戦を具体化する」と宣言した。(中略)
 青砥幹夫君は、のちに連合赤軍統一公判裁判の証人尋問で、このときの気持ちを問われ、「もう、総括はないだろう、との希望を持った」と、実感をこめて述べたが、これは森君を除く全面メンバーの気持ちを代表していた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「あんた、頭がよすぎるのよ」(永田洋子)


 「女の男性関係は、女の人にも問題があり常に男だけに責任があるということにはならない。女の人の場合には、身に着けるものとか動作とかに問題が表れるのであるから、そういうところをもっている人は今のうちに総括しておきなさい。そういうことがいつまでも総括できないでいると、遠山さんみたいな傾向になってしまうことになる」といって、女性たちに総括を求めた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 女性たちがそれぞれ自己批判する中、大槻節子はパンタロンを買った ことを自己批判した。だが、永田はそれでは不十分だと納得しなかった。

 私はさらに大槻さんに総括すべき問題をいった。
「あんた、よく本を読んでいるけど、知識として頭で理解したってだめなのよ。あんた、頭がよすぎるのよ。何でも頭で知識としてパーパー理解してある程度までは進むけど、それ以上は進めなくなっちゃう。あんたは頭が良すぎるのがかえってマイナスになっている」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは、以前、森が永田に、「大槻は知識として本を読んでいるだけ」と批判したとき の受け売りであった。


■「男にこびる方法を身につけてしまっている」(永田洋子)

 大槻は、永田の批判にピンと来なかった。そして、渡辺正則 との関係について自己批判した。

 「私が渡辺と関係をもったのは、渡辺のかっこよさにひかれたにすぎなかった。渡辺の私への要求は、結局、シンパ的な可愛い女にすぎなかった」


「あんた、可愛すぎるのよ。それにあんた、ずっと男ばかりの兄弟に囲まれて育ってきたから、男にこびる方法を無意識のうちに身につけてしまっている。だから、あんたは動作やしぐさなどなんでも男に気に入られるようにやってしまっている。このことを総括しなくちゃだめなのよ」


この時、寺林さんが、大槻さんに、
「私や中村さんは自慢できるものが何もないから、それだけ総括できる。大槻さんも私たちみたいに単純バカになって早く総括しちゃってよ」
と励ますようにいった。大槻さんは、「私にはまだよく判らないけれど、ちゃんと総括します」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 大槻は誠実に自己批判したものの、永田とかみ合わなかった。それえは当然で、永田は、頭がよすぎるとか、可愛すぎるとか、およそ欠点とは思われない点に批判の矢を向けていたのである。


■「あんた、まだ総括していないわね」(永田洋子)


 金子さんの番になったとき、彼女は、「私が吉野さんと別れるといったのは、私は吉野さんの足をひっぱってきたからです。私は、吉野さんとは運動にかかわる前から関係をもっていた。運動の中ではお互いを高めあうようにしてきたけど、この関係に甘えてきた。私は、完全に総括できないので吉野さんと別れたいと思います」といった。
 私は再び、「あんた、吉野さんと別れるといってるけどそうじゃないのよ。あんた、まだ総括していないわね。あんたは、離婚しなくても総括できる力があるのだから、離婚する必要はないのよ」といったが、金子さんは首をかしげ、うつむいて考え込んでいた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、金子に何を批判しているのかよくわからない。離婚表明にしたって、同じ理由で杉崎ミサ子が寺岡恒一と離婚表明したのは認めているのに、金子の離婚表明は否定するのである。

 2人とも兵士たちのなかでは活発に活動していたし、指導力もあったので、私は、どうして彼女たちが評価されないのか理解できなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 全体会議を終わることにした時、私は、「大槻さんと金子さんは総括できるのだから、早く総括しちゃいなさい」といった。私は、彼女たちの批判をはっきりと理解できないまま、こういわずにはいられなかったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「女が男に対して行う女の顕示を克服しなければならない」(森恒夫)

 遠山批判を経て、森が構築した革命家の女論 は、「自己批判書」で明かされているが、原文は長いので、永田の説明を引用する。

 森氏は、敗北したあとで作成した「自己批判書」の中で、女性問題を特に重視した理由について、次のように述べている。


 「男や女が明確な基準もなしに「好きだ」という事で関係を結ぶのは、本能的な欲望に基づいたブルジョア的な男性観や女性観によるものであり、そうした関係は男女相互の共産主義化にとって障害になる、共産主義化された男女関係のためには女が革命戦士として自立する必要があり、そのためには、何よりも女が男に対して無意識に行う<女>の顕示を克服しなければならない。」
と。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)


 早い話が、恋愛は革命の邪魔だということであり、恋愛は女が男に従属するものだと考え、そのため女が自立できないと決めつけている。


 革命家の女論を受け入れたとしても、問題は、「女の顕示」を判定する基準があいまいなことである。つまるところ、森や永田の恣意的な判断なのである。


 森は初めて革命左派のベースにやってきたとき、金子と大槻を大いに認めていた。それが、この理論を構築してから、批判に転じている。


■「不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬したのではない」(永田洋子)

 逮捕後のメンバーの多くは、金子と大槻への総括要求は、永田の嫉妬であると証言している。これに対して、永田は最終意見陳述において以下のように反論している。

 ところで、こうした大槻さんへの批判が、何か私の嫉妬から行われたかのようにいい、不美人の私が美人の大槻さんに嫉妬して、批判し、殺したというまことしやかな中傷的解説が、まかりとおっている。もちろん、こんな解釈で連赤問題の本質を解明できないのは、当然である。だが、私が不思議に思うのは、こうした森氏の大槻さんへの批判に同調した他の男性のC・Cが、そんなことがなかったかのように口をぬぐっていることである。
(永田洋子・「最終意見陳述」)


 永田が言わんとしていることは、森が大槻を批判しているとき、むしろ擁護する立場をとったのであり、他のC・C(中央委員)は、森に同調していただけだったではないか。それを今さら、私の嫉妬のせいにするのはフェアではない、ということである。


■美人であることが批判された
 大槻節子と金子みちよに対する総括要求はわかりにくい部分である。森の理論にしても、永田の言い分にしても、美人であることがいけないとしか思えない。これでは、批判されるほうも、どう総括したらよいか困惑するばかりだ。


 大槻と金子は共通点が多い。大学が同じ(横浜国大)、美人でスタイルが良い、頭が良い、積極的な活動、リーダーシップがある、などであり、多くのメンバーから認められた存在だった。


 そしてもうひとつ忘れてはならない共通点は、2人とも永田に対してイエスマンではなかったということだ。大槻は、意見書 を書いた本人であり、金子は革命左派時代からたびたび永田に意見していた。


 永田は彼女たちの能力を認めていたが、その一方で、嫉妬があったり、自分の立場を脅かすという警戒があったりした可能性が強い。森の革命家の女論にしても、これまでもそうだったように、永田の直観や感情を理論化したものだったかもしれない。


 遠山美枝子を厳しく批判していた金子と大槻は、一転して批判される立場に立たされたのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11176661166.html


1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html


(榛名ベースは道路から近いので危険と判断されたが・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名山

(そう簡単には見つからない山の斜面にあった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-榛名ベース

■メンバーが活動に出発
この日の朝、メンバーがばたばたと出かけていった。


山崎、中村、寺林、山本保子は、静岡県の旧革命左派の井川ベースに残してきた荷物をとりにいった。

岩田、伊藤は、名古屋へ行き、総括で死んだ小嶋和子の妹をつれてくることになった。

前沢、青砥は、黒ヘルグループの奥沢修一たちをオルグし入山させることと、森の夫人に会うことになった。


 指導部会議では、新たな山岳ベースの調査に行くことが決まった。坂東・寺岡は日光方面へ、吉野・寺林は赤木山方面へ、植垣・杉崎は迦葉山へ調査に行くことになった。このため大槻と加藤三男は地図を買いに行くことを命じられた。


 なぜ新たな山岳ベースを調査するかというと、榛名ベースは道路から近いため危険と判断したからである。植垣が始めて榛名ベースを訪れたときにも心配していた。

 岩田氏は元気で張り切っている様子で、とてもそのあと脱走することになるとは思えなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか」(坂口弘)


 私は、小屋上手の便所に行った帰り、便所の側で丹前を着たまま蹲り、森君はまだ総括を続けるつもりなのだろうか? そうだとしたら、われわれの組織はこの先、どうなってしまうのか? などと考えていた。
 すると、永田さんがやってきて、昨夜 とはうってかわった優しい調子で、私に話しかけてきた。それで私は、「俺はもういやだ。人民内部の矛盾じゃないか。このままでは駄目だ。一刻も早く殲滅戦を戦うべきだ」といった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 坂口は、なんとか永田を味方につけたいと思ったのであろう。しかし、、、

 私は人民内部の矛盾を認めながらも、共産主義化の闘いを絶対的に確信していたので、「総括は、私たちが前進していくためにはどうしても必要じゃないの」といった。坂口氏はうなづき、小屋に戻っていった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、坂口の件を指導部会議で報告するが、森は何もいわなかった。

 私はこの問題で、当然総括を求められるべきなのに、その後も彼から追及されることはなかった。私は、永田さんと共に、森君に特別視されていたことを認めざるを得ない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」(行方正時)


 青砥氏が出かけたあとは、私が行方氏に食事を与えたが、行方氏は、その日の午後、「夕やけこやけの赤とんぼ・・・」と唄っていたかと思うと、「ジャンケンポン、アイコデショ」といったり、「悪かったよー、自己批判するようー、許してくれようー」といったりしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 行方は1月3日に批判 され、1月4日未明に緊縛されてから、ほとんど食事を与えられていなかった。見かねた青砥と植垣が森に進言して1日1回食事をあたえていたが、あとはずっと放置されていた。


■「金子は主婦的、大槻は女学生的」(森恒夫)

 夕方、森は、金子を「主婦的」、大槻を「女学生的」と批判しはじめた。

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 永田は、森の批判に驚いたが、金子を会計から外せば、森に批判されないですむと思ったという。

 それで私は、金子さんのところに行き、「あんたを会計から外すから、持っているお金やノートを出して」といって、これらを受け取ってコタツに戻った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「行方氏はぐったりしていたが、私たちは注意を払わなかった」(永田洋子)


 夕食後、私たち兵士は土間で雑談をしていたが、8人も出かけているため、ベース内はガランとしていた。午後9時頃、見張りの順番を決め、早々に寝ることにした。行方氏がガタガタ震えていたので、指導部の誰かが行方氏に毛布をかけていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 8日の晩は、中央委員会も全体会議も無く見張りを残して寝た。見張りは被指導部の人たちが交代で行っていたが、行方氏はぐったりしたまま元気が無かったが、私たちはほとんど注意を払わなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■久々の活気も、いよいよ闘争・・・にはならなかった
 メンバーに任務を与えるとき、1人で外出ということはなく、慎重にペアが決められていた。これは、互いの行動の監視や、逃亡を抑止するという意味があったようだ。


 殲滅戦の前準備とはいえ、ようやく任務らしい任務を与えられた下部メンバーは少し元気を取り戻した。もともと彼らは、共産主義化のためではなく、闘争活動のために集ったのだから、それは当然であった。


 その一方で、行方は放置されていた。精神に異常をきたし、もはや総括うんぬんの状態ではなかった。誰もがそう思っていただろう。しかし、同情を口にすれば、総括にかけられる恐怖があり、断固とした態度でいるためには、弱者というレッテルを貼って切り捨てるしかなかった。


 森の金子と大槻に対する批判は、この日も止まらなかった。事実、金子は主婦だし、大槻は女学生なのだから、それが何か? とツッコミたくもなる。「主婦的」とか「女学生的」という言葉で批判する森のほうこそ、女を意識し、蔑視していることがよくあらわれている。


 さて、メンバーは、これで暴力的総括、すなわち、 「敗北死」 は終わりという期待をしていたようだが、そうはいかなかった。 それどころか、「死刑」 という 「新たな地平」 に連れて行かれるのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11191932078.html

1972年1月9日 何気ない日常の恐ろしさ
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11230763410.html


 今回は、行方死亡後の出来事をフォローしておく。

 メンバーは久々の任務について、活動にでかけていた。


■メンバーの状況(1月9日・榛名ベース)
【中央委員会(CC:Central Committee】
森恒夫  (赤軍)独創的イデオロギーを繰り出す理論的リーダー。
永田洋子 (革左)学級委員長的にメンバーを摘発、鼓舞。
坂口弘  (革左)永田と夫婦関係。暴力に疑問を持つが言い出せない。
山田孝  (赤軍)暴力に否定的な考えを表明するもはねかえされる。
坂東国男 (赤軍)森の懐刀として指示を冷酷・忠実に実行。
寺岡恒一 (革左)死体を皆に殴らせたこと、女性蔑視発言を批判される。

吉野雅邦 (革左)暴力に積極的に関わることで必死についていく。


【被指導部】
金子みちよ(革左)吉野の子供を妊娠中。会計係をはずされた。
大槻節子 (革左)「女まるだし」「女学生的」と批判される。
杉崎ミサ子(革左)革命戦士を目指して寺岡との離婚を宣言。
前沢虎義 (革左)黒ヘルグループをオルグするために東京へ
岩田平治 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ
山本順一 (革左)運転手役。山岳ベースに理想郷を夢みて合流。
山本保子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ(運転手)
中村愛子 (革左)荷物を回収に井川ベースへ
寺林喜久江(革左)荷物を回収に井川ベースへ
伊藤和子 (革左)小嶋和子の妹をオルグするために名古屋へ

加藤倫教 (革左)次男。指導部に疑問もついていくしかないと決意
加藤三男 (革左)三男。兄の死に「誰も助からなかったじゃないか!」
植垣康博 (赤軍)次第にベースの雰囲気になれる。
山崎順  (赤軍)荷物を回収に井川ベースへ
青砥幹夫 (赤軍)黒ヘルグループをオルグするために東京へ

【死亡者】
尾崎充男 (革左) 敗北死(12月31日・暴力による衰弱、凍死)
進藤隆三郎(赤軍) 敗北死(1月1日・内臓破裂)
小嶋和子 (革左) 敗北死(1月1日・凍死)
加藤能敬 (革左) 敗北死(1月4日・凍死or衰弱死)
遠山美枝子(赤軍) 敗北死(1月7日・凍死or衰弱死)
行方正時 (赤軍) 敗北死の規定なし(1月9日・凍死or衰弱死)


■「岩田君は僕に似ている」(森恒夫)


 岩田氏、前沢氏について森氏は、最初から評価していたが、とりわけ岩田氏を高く評価し、「岩田君は僕に似ている」とさえいっていた。しかし、森氏が高く評価した彼らがのちに脱走することになるのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は、山岳ベースで、ずっと心理学者気取りであったが、まったく的外れだった。


■「中村さんと結婚したい」(山崎順一)
 夕方、井川ベースに整理に行ったメンバーが帰ってきた。

 夕方、井川に行っていた山崎氏たちが戻ってきた。さっそくリュックを持って、大槻さんや山本氏たちといっしょに車まで荷物を取りに行った。その際、大槻さんがすすんで重い荷物を運び、私の方が驚いてしまった。(中略)
 それだけに、こんなに頑張っている大槻さんに対して「総括できていない」という指導部の態度が腹立たしかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 中村さんは、「山崎さんは、運転中に眠気止めといってタバコをのんでいたけど、帰ったらのめなくなるから今のうちに沢山すっておくんだといってスパスパすった」とさもおもしろそうに話した。
 また、山崎氏は、「車の荷台にちょこんと横になって寝ていた中村さんがかわいかったので、中村さんと結婚したいと思った」と明るい調子でいった。
 私は二人の気持ちがそういう風ならそれはよいと思い、ニコニコしながら聞いていたが、これらのことがのちに批判的に取り上げられることになるのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 夕食後、土間で一服しながら皆と雑談したとき、私は、山崎氏と、新しいベースの調査には2人で行こうと約束し合った。これは、山崎氏が運転手としての地位に安住していたと自己批判したことから、できるだけ他の任務をした方がよいと話し合い、誰か行くものはいないか聞かれたら、2人で立候補することにしていたからである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「植垣、お前の大槻に対する態度は何だ」(森恒夫)
 夜9時ごろ、遠山、行方の死体を埋める作業が行われた。坂東、吉野、植垣が行方の死体をかつぎ、坂口、山田、寺岡、山崎が遠山の死体をかついだ。


 戻ってきた時は午前零時をまわっていた。

 この時、森氏は植垣氏を中央委員のこたつの所に呼び、まず、杉崎さんと一緒に山岳調査に行くよう指示し、さらに党員にすることを伝えた。植垣氏は了解したものの、今一つ彼らしく張り切る様子はなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 植垣が気乗りしなかった理由は、ひとつは、山岳調査にいく相手が山崎ではなかったことだ。しかし、森は脱走を異常に警戒していたから、仲の良い2人組にすることはなかった。

 もうひとつは、他の党員候補が、前沢、岩田、寺林と聞いて、植垣の評価と違い、拍子抜けしたからである。

 そのあと、森氏は、「南アルプスでは、お前も大槻もすぐれていたが、ここでは違うんだ。お前の大槻に対する態度は何だ。いやらしいぞ」と批判しだした。私は、まずいことになったと思い、あわててその場をはなれた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 森が、「南アルプス」といったのは、連合赤軍になる前の、赤軍派と革命左派の共同軍事訓練 のことをさす。 森は、榛名ベースでの植垣の大槻に対する態度を 「いやらしいぞ」 と批判したが、実は、共同軍事訓練のときの植垣の態度 のほうが、批判されるべきだろう(笑)


■連続殺害は、「敗北死」の規定によってもたらされた
 今回の話は、大したエピソードではない。しかし、行方が死んだ直後なのに、何もなかったかのように時間が流れた。それが逆に恐ろしい。


 行方の死で、死亡者は6名になった。もうかんべんしてくれと言いたくなるが、まだあと6名死亡するのである。


 これまで検証してきて、はたして、「彼らはどこでどんな間違いを犯したか」 という答えがみつかったかというと、ノーと答えるほかない。ここだ、と指をさせるポイントはみあたらないのだ。

 あとから考えてみても、ここでとどまるべきだったといえる明確な地点はどこにもない。いいうることはただ、ある人間が泳ぎだし、ちょっと遠くまで泳ぎすぎたということだ。しかし、どのひとかきが余計だったのか、正確にどの地点で引き返すべきだったのか、はっきりと考えることの出来る人などいないだろう。
(パトリシア・スタインホフ・「死へのイデオロギー −日本赤軍派−」)


 ただ、引き返すチャンスはあった。最大のチャンスは、最初に尾崎が死亡したとき である。死者が出るとは想定外だったメンバーは大いに動揺し、それは森恒夫もまったく同じだった。


 ところが森は、指導方法を改める代わりに、瞬時に、「敗北死」という規定を提示した。「敗北死」は自らの指導を正当化すると同時に、メンバーに免罪符を与えるものだった。動揺していたメンバーは、「敗北死」にすがったのである。


 もし、尾崎の死を「敗北死」と規定しなければ、2人目の死者はでなかった可能性が強い。連続殺害は、「敗北死」の規定によってもたらされたのである。それゆえ、森の理論の中でも、「敗北死」の理論はもっとも罪深いのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11230763410.html

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1972年3月12日 頼良ちゃんを救え!   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10277514114.html
 森の上申書をきっかけにメンバーの自供が相次いでいる。ただしそれは断片的なものだったので、新聞はそれらを組み合わせ、ストーリーを考え、記事を創作したとしか考えられない。当時これらの情報により、彼らは自分とは違う人間なのだと思っていた。


■3日間夫は泣いた 山本保子(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-12 毎日 朝刊19


 山本保子は素直に取り調べに応じ、「私は夫が殺されるのをこの目で見た」と始めて語った。幹部に少しでも逆らうと総括を受け、リンチはしょっちゅうだった。とくに永田のリンチぶりはひどかった。リュックにおしめを入れていると夫の順一が手伝ってくれた。これが永田の目に留まり「夫婦はブルジョア趣味だ。もっと強くならなければならない」となじった。ついに夫は総括を受けることになった。1月下旬、森、永田らは突然、「これから総括する」と言って腕や手足を縛り上げ、木切れや板でなぐったりけったりした。私は駆け寄ろうと思ったが、監視がきびしく泣き声すらあげられなかった。リンチは3日3晩続いた。夫は寒かったのだろう。"オー、オー"と叫びながら助けを求めていた。3日目になると声も出なくなった。夫は死んだのだ。


 直接話法でかかれているが、事実とはまったく違う。保子はリンチの現場にはいなかったし、森、永田もリンチの現場にはいなかった。山本順一の総括は坂口が中心に行なわれた。

■処刑の跡 ロープ 無数の弾痕 暗い穴の中に焼けた布切れ(毎日)
 榛名山アジトは榛名湖から保育等に約5キロ。4畳半くらいの小屋跡にはバスローブのタオルひも、おしめのような布、クギ、カスガイなどが凍り付いている。小屋のすぐ上に深さ1メートルぐらいの穴があり、細かい布が無数にこびりついていた。すぐ下の大木には、人の背中の高さのところにロープでこすったような跡がある。小屋から5メートルぐらい下ったところに小さな小川が流れている。そのほとりに黒く焼けた木材、石などがころがっていた。ここが彼らの炊事場。炊事場に隣接するこの小川の中がトイレ。おびただしい量の排泄y物や、生理用品が、済んだ水の中に浮いている。・・・榛名山アジトの小屋周辺はすべてが焼き払われており、灰化したような土の山。それは、自分たちの犯行の血なまぐささに耐えられなくなり、その悪夢を振り払おうとして、撤退していく彼らの暗い絶望的な姿を思わせた。


■頼良ちゃんを救え! 連れていた中村手配(朝日)
 保子の供述によると頼良ちゃんは1月末、榛名山味とから、迦葉山アジトに移った直後、「夫婦、親子の関係を清算しなければ革命はできない」と幹部に指摘され、保子の手から中村愛子に移されたままという。

 中村愛子は2月7日の雪の朝、榛名湖畔でストーブにあたらせてやった食堂経営者佐藤道三さん(48)は「てっきり自殺かと思った。...こちらの心配を気にしてか、"自殺なんかしないわよ"とはじめて笑顔をみせた。あの赤ん坊はどうしているんですかねえ」という。

 身元引受人にされた高校時代のAさんも「ひどく疲れているようだった。タクシーの中でほとんど話をしなかった。"事情がある"というだけで、あとはよくわからないまま"サヨナラ"といって行ってしまった」といっている。


■前沢が出頭 リンチこわくアジトを脱走(朝日)
 11日親類2人につきそわれて東京・練馬署へ出頭した。2月7日、金を一銭ももたず、乞食のような身なりでやってきて、塗装業の栗田さんの手伝いをしていた。栗田さんは指名手配されて顔写真がいっせいにのった10日の新聞記事をみて驚き、「これではきれいさっぱり話してしまわなければいけない」と前沢を説得、出頭したという。前澤は「リンチの場面をみてこわくなり組織をやめようと逃げた」と語った。


■夫婦も兄弟もなかった  肉親でもリンチ殺人 車もたつき"総括"直前(朝日)
 奥沢修一(22)の自供によると・金子みちよの殺害には、当初吉野が不在のときといわれていたが、吉野も手を下していた。加藤には弟も殺害に参加。これは「夫婦、親子、兄弟などの関係は革命の前には放棄すべきだ」とする永田の考え方の実践で、同時に生き残る者に対する「踏み絵」としての意味を持たせた。肉親同士殺し合うという異常ぶりに「革命の精神が高められた」と総括していたという。

 山本は運転をしばしば誤って総括されたが、車をミゾに落とすことは、そのまま犯行の発覚につながる恐れがある、と重視されたという。死体搬出でスリップしてミゾに車輪を落とした山本は、味とに帰ってから森や永田に「気合が入っていないからだ」と厳しい追及を受ける結果となった。

 2月7日、奥沢は怪しまれてレンタカーを断られると、永田が「革命精神が足りなかったからだ」と総括にかけられた。奥沢は死を覚悟したが、心酔していた森から「あと1日やるから車をかりてこい」と1人だけ残った運転技術を買われて助けられた。8日に車輪を溝の落として近所の人に助けられて人目につき、16日にもぬかるみに車輪を取られて警官にみつかり、グループの破滅につながった。

 結局、山も虎の運転技術者を「運転の仕方が悪い」などの理由で次々に殺して言った最高幹部の"過剰殺人"が、奥沢のようなまずい技術者の起用につながり、壊滅的な打撃となって終わった。

 加藤は1月上旬ごろ、女性関係のもつれから榛名山アジトで人民裁判にかけられ、リンチされることになった。次男Aもそのメンバーに入れられて一緒に殴った。三男Bは兄の処刑が決まりリンチが始まると「殺される」と思い、森ら最高幹部たちに「兄さんの命だけは助けてほしい」と訴えた。この命乞いに森は「だまっていろ、兄のことは組織に任せておけ」と答え、聞き入れられなかったという。


 最後の加藤リンチの状況は事実と違う。次男Aも三男Bも、永田に促されて2人とも殴った。命乞いうんぬんのくだりは彼らの手記にはでてこない。


■「女問題・逃亡は『死刑』」 青砥が自供 山崎惨殺は見せしめ(朝日)
 山崎順(21)があまりにもむごたらしい殺され方をしていたため、青砥らを追求したところ、山崎は榛名山アジトに出入りしていた女性をめぐって他の男とトラブルを起こした。森・永田らからとがめられたことから、イヤ気がさし、逃亡しようとしたところをみつかり、人民裁判にかけられた。

 同アジトでは、少ない女性をめぐって、他にもトラブルがあったため、森・永田らは、「これ以上女性トラブルが増えると組織がもたない」と考えていた。こうした中で脱走者が出ることを厳しくチェックするようにしたり、山崎の脱走行動がヤリ玉にあがったという。このため山崎は他の処刑者と違って死刑宣告を受け、殺され方もみせしめのため、みんなの前でわざと残虐な方法がとられたという。


 山崎死刑は幹部だけで話し合われて、メンバーには死刑の理由を知らされていなかった。メンバーの自供に基づいた記事のため、事実と違う記事になったと思われる。


■永田洋子という女 森しのぐ実力 飛びぬけて激しい言動(朝日)
 永田の存在が不気味にクローズアップされてきた。アジト内の会議では議長の森を牛耳った。処刑の場では大声をあげてメンバーを動かしていた。当局の調べに対し、逮捕者が相次いで脱落、自供していく中で、彼女だけは口を割らない。「実質的な指導者は森ではなく永田ではないか」という評価も生まれつつある。


▲リンチ通し地位高める
 山本保子の供述によれば、永田はリンチのとき飛びぬけて激しい言動をみせた。集団リンチという異常極まりない行動をとるとき、病的に冷酷な人間が最低一人は必要といわれる。当局によればそれが永田だった。逮捕当時「ナンバー1」の森さえ、永田を抑えきれなくなっていたらしい。彼女はリンチを加えることによって組織内での自分の地位を高め、ついに事実上の「ナンバー1」にのしあがったといえるようだ。


▲死に行く者をあざ笑う
 最後に処刑された山田孝は妙義山のほら穴アジトで縛られ、雪の上に放置されていた。死の直前、のどのかわきをいやすためか、山田はからだを必死にねじまげて雪をなめ、そのまま死んだ。居あわせたメンバーは一瞬シーンとなった。洋子はその静けさを破るように大声で笑いながら言った。「こいつは死ぬまで食い意地が張っている」(警視庁への密告から)


 これはひどい。山田が死んだとき、永田は森とともに東京アジトにいて現場にいなかった。関係者がそんなこと供述するはずがない。全員逮捕されているのに「警視庁への密告から」というのも奇妙だ。「永田」でなく「洋子」と呼称しているのは女性を強調するためだろうか。


▲警官の心臓めがけ短刀
 永田は森恒夫と妙義山中でつかまった。登山ナイフをふりかざしながら機動隊員と取っ組む森に「やれえッ、やれえッ、殺せッ、突き刺せッ」と声を限りに叫んだ。機動隊員が雪ですべって森に組み敷かれると彼女もとがったやすりを振りかざして旨めがけて突き刺そうとした。機動隊員は防弾チョッキを着ていたので、ケガを免れた。あとで、チョッキを調べたら、刺し跡は心臓のみに集中していた。


 「十六の墓標(下)」(永田)によると、永田が持っていたのはナイフであり、すぐ取り押さえられたというから、攻撃できたとは思えない。心臓にナイフを刺したのは森。


▲不美人を気にする日常
 「色黒。ギョロ目、上歯やや突出した感じ」(手配書から)。美人とは言いがたい永田はそれを自覚してかどうか、仲のいい活動家に「私だって子供には慕われるのよ」といっていた。浅間山荘にたてこもった坂口弘と同性していたところ、わざと腕を組んで見せて「新婚なのよ」と誇らしげに話した。人目をそらすための、偽装だけではなかった、と当時を知る人たちはいう。


▲仲よい山本夫妻いびる
 坂口は心臓が弱く「夫婦仲」は必ずしもよくなかったようだ。夫婦仲のよかった山本夫婦のむつまじさにイラ立って「夫婦気取りで革命はできない」と非難した。保子が子供のおむつを味との外に干そうとすると「人にみつかる」ときつくたしなめた。群馬県警に逮捕された1人は「嫁いびりのようだった」と表現している。


▲永田とはだれの名だ
 妙義山中の逃避行の際、警官に職務質問されたことがあった。洋子は一緒にいた森ととっさにキスをして、アベック旅行者を装ったという。逮捕後、自分への手配書をみせられると泣いて悔しがったが、取調べでは一番係官を手こずらせている。自分が永田であることを認めていない。留置場につけられた「永田洋子」の名札をみて「これはいったい誰の名前だ」。取調官にたて突く。「殺人罪とはどういうことをいうのか」「刃物を持つのが悪いとはどういうことか」ダバコをすすめると「オマエらのものをすえるか」しかし、しばらくして灰皿の吸殻を拾ってすった。


 いくらなんでも職務質問中に「とっさにキス」をしたとは信じ難い。取調べの模様は「続・十六の墓標」(永田)に詳しい。それとはずいぶん違う印象だが、このようなう面もあったかもしれない。タバコの件は「タバコを権力にもらうのはよくないが、落ちているタバコを拾ってすう分には問題ない」という連合赤軍ルールによる。森も「拾って」吸った。


▲コーヒーを飲ませろ
 彼女はいま群馬県高崎署に収容されている。朝晩留置場から調べ室に警官が両脇をかかえて進行する。その警官に必ず彼女は言う。「病人だから大事にあつかいな」調べ室ではあいかわらずだんまりを決め込みプイと横を向く。そしてときどき命令する。「病気だから調べをやめな」「下着を買ってくれ」「コーヒーをのませろ」「弁護士を頼んでくれ」永田はバセドー氏病にかかっている。


 永田の感情の高ぶりがよくバセドー氏病と結び付けられるが、まったく関係はない。また「永田はバセドー氏病のため子供が生めない体だから、妊娠した金子に嫉妬していた」などとかかれる事もあるが、これも病気とは一切関係がない。事実、永田は妊娠し中絶している。この経験から、金子が妊娠したとき「今後は子供を生んで育てていくようにしよう」と提案し、祝福したから、金子は山に入ったのである。


▲大学生も恐れる論旨
 京浜安保共闘の川島豪議長が逮捕されてから「理論面」で永田に並び立つものはいなかった。アジ演説も巧みだし、論旨もそれなりに明快だった。だから議論になっても反論するものはなく、大学生のメンバーでもひたすら恐れ入ってしまったという。


 「大学生も恐れる論旨」という見出しからもわかるように、当時、大学生はエリート扱いされていた。だから赤軍派は「労働者諸君!」などと見下すようにアジっていたのである。ちなみに永田は共立薬科大卒業だ。


■13人目のリンチ殺人(毎日)
 京浜安保共闘がが独自で山岳アジトを作ったとき、リンチ殺人が行われたとみている。これは中京安保共闘の少年2人と同、寺林真喜江(23)、京浜安保共闘の伊藤和子(22)、山本保子(28)の断片的な自供から得たもの。


■その他の記事
きょう4人の死体発掘 保子が現場を案内(朝日)
37名の警官が負傷した明治公園爆弾事件は森が陣頭指揮をとったと青砥が自供(毎日)
頼良ちゃんを連れて逃亡したとみられる中村愛子(22)を森林法違反の疑いで全国指名手配(各紙)

ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10277514114.html

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1972年3月13日 破滅の魔女・永田洋子   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10279942676.html?frm=theme

 この日の紙面は永田バッシングのオンパレード。憶測(でっちあげ?)記事が多く、なんでもありの書きたい放題。新聞の間違い探しをするのが目的ではないが指摘しないわけにいかない。連合赤軍の”総括”を批判しながら、連合赤軍の"総括"とまったく同じことが行われているのだ。新聞とはかくなるものであったか、と痛感する。


■さらに四遺体 同じ穴、折り重なって(毎日)
 群馬、長野寮県警は青砥らの自供にもとづき、榛名山ろくで男3人、女1人の死体発掘作業を行い、4遺体を収容した。同本部は、加藤能敬(22)、尾崎充男(22)、進藤隆三郎(21)、小嶋和子(22)と確認した。これで9人の死体が発見された。


■隠された"ねらい"に焦点(朝日)
 連合赤軍殺人事件は13日の発掘で12人全員がみつかり、殺された人数は12人と断定した。これは8日森が前橋地裁あてに書いた上申書の内容とこれまでの捜査経過から判断されたものである。
 警察当局はこれだけ陰惨なリンチ事件を繰り返し、組織を防衛してきた背景には、何か、大きな目的があったのでは、と疑っている。その1つに妙義アジトでつかまった森恒夫と永田洋子がまっ先に捜査員に聞いたセリフ「東京で何かあっただろう」という質問がある。この永田のセリフからして、その前後に東京またはその周辺で何事かが起こるか、武器の隠し場所がわかるなどのことがあるはずだが、1ヶ月あまりたったいまもそうした動きを警察はつかんでいない。


 森や永田が「東京で何か起こらなかったか?」と聞いた、という記事は3月1日の読売新聞にもでていたが、彼らの手記を読んでみても、東京でコトを起こそうとしていた気配はない。


■恐怖の"穴掘り役" 次は自分が「総括」に 山本保子、前沢ら自供(朝日)
 遠山、行方、寺岡の死体の処分は保子が運転する車に死体をのせ、監視役として坂東か吉野がのりこみ、穴掘りは前沢だった。前沢と保子が死の恐怖を感じたのは、遠山、行方、寺岡が尾崎ら4人の死体処理に出かけたときに永田が「次の処刑予定はあの3人だ」とアジトでもらしていたのを聞いたためで、自分達も同じ運命にあると感じたという。

 前沢らが「今度は自分の番だ」と恐怖にかられていた矢先、山崎順の「脱走失敗」のハプニングがあり、死刑が行われた。森らの自供を総合すると、保子についての疑いが晴れなかったので、その長女、頼良ちゃんを人質として取り上げ、中村愛子にあずけさせるとともに、保子の身代わりとして夫の順一を総括して殺し、保子らに対する処分を先延ばししたという。


 永田は次の処刑予告などしていない。山崎は脱走失敗したわけではない。保子の身代わりとして順一を殺したということではない。


■「総括」と「死刑」は別 「死は彼らの敗北」 森の自供(毎日)
 森は自供の中ではっきりと「総括」と「死刑」2つの殺害方法があったことを明らかにした。これによると「総括」とは「ブルジョア社会の残存物を排せつして、革命戦士として自らを変えていくことであり、討論(自己批判要求のこと)の過程で"総括"しつくせないときは、暴力の援助(全員によるリンチを意味)をし、仮にその者が死しに至った場合は敗北になる」という。「死刑」については「味方を敵に売り渡す裏切り分子に対しては"死刑"を宣告した」という。しかし、森は総括にかかれば死以外にはないことも認めている。


 これは重要な記事だ。森が「暴力の援助」や「敗北死」について自供しているのがわかる。ここにリンチ殺人の本質のヒントがあったのだが、当局もマスコミも、この論理を「身勝手」と一蹴し、一顧だにしなかった。その姿勢は後の裁判においても続く。しかし、いかに身勝手な論理であっても、彼らはそれにすがってリンチ殺人を行っていたこともまた事実なのである。


■「15人を殺した」永田洋子ついに自供(毎日)
 永田は2月17日、妙義山アジトで逮捕されて以来高さ貴書に留置、取調べを受けていたが、名前も応えず、捕まったことに悔し涙を流しただけ。あとはかたくなに黙秘を続けていた。


 しかし13日になって、奥沢の自供によって山田隆や金子みちよらの発掘当時の無残な全裸死体のカラー写真と山田の引きちぎれた衣類、森が8日に書いた上申書を見せたところ、永田は動揺の色をみせた。


 始めは「この上申書はウソだ」と言い張っていたが、やがて見覚えのある森の筆跡に納得したのかカラー写真をじっと見つめた。そのうち全身を震わせはじめ、まず「永田」であることを認めた。刑事の間髪をいれぬ厳しい追及に群馬県下での連合赤軍関係の12人殺害の事実を認めた。


 さらに奥沢や11日自首した前沢、少年兄弟2人の「永田は丹沢や大井川の山岳アジトでもやっている」との供述を告げたところ「そうだ」と認めたという。


 血の粛清をした事実については「15」の数をあげているが、どこでたれを殺したのかは、まだはっきりとはいっていない。人数と場所の関係については、森、奥沢、前沢の供述を総合すると、西丹沢では男女2人、多い側では男1人になっている。


 「永田自供」のニュースは毎日だけが一面で報じた。朝日と読売は翌日の朝刊に掲載されることになる。不思議なことに毎日はたびたび他紙より1日早く記事になる。「15人」というのは何かの間違いだろう。翌日の朝日、読売では「14人」と自供したことになっている。

■永田洋子の残忍さ 女はみんな丸坊主(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 毎日 夕刊11

 12日、榛名山で発掘された小嶋和子の頭髪はわずか1センチ。迦葉山で発掘された金子みちよ、大槻節子の頭髪もほとんど同じ状態だった。これらの被害者は「イヤリングをするのはブルジョア的だ」「物質欲が強い」「コケティッシュだ」と普通の女性なら誰でももっている"本能"を「反革命的である」と決め付けられ、永田洋子の命令で徹底的に痛めつけられた。


 「総括」−。永田のツルの一声で、たちまち両手足をしばられ、なぐられ、けられ、あげくの果てに「自己批判しろ」と長い髪をつかまれて、ハサミでバッサリやられた。いわば、女性への最大の恥辱がリンチの手始め。それは組織(仲間)への見せしめなのか、不美人と言われる永田のうっぷんばらしだったのか。 永田は共立薬科大に在学中、目が飛び出るバセドー氏病にかかった。娘時代に、この突然の容ぼう変化は劣等感をつのらせ、自分より美しいものへ憎悪をかりたてたのではあるまいか。


 特に仲むつまじい男女への仕打ちはまるで嫁いびりのシュウトメのようにネチネチとしつこかった。大井川、丹沢のアジトを経て榛名山アジトに移り革命を妄信したグループの閉鎖社会の中で、数少ない女性リーダーとして仲間からチヤホヤされているうちに、うっ積していた美しい者へのネタミが一挙に爆発、それ以降は森をも押さえて"革命"の名のもとにやりたい放題だった。永田の目は1日中、女性隊員の行動をギラギラと追い続け、ちょっとでも男から声をかけられた女性は絶対に許さず、それが"任務"の話であっても永田の目には男女間の"恋愛行為"と写ったらしい。


 こうしてささいなことを取り上げては"総括"の対象者に仕立て上げ、そのリンチも髪を刈ることだけでは満足せず、被害者を雪の中に放り出したあとも、妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐり「お腹の子供をひっぱりだそうか」と森と真剣に協議していた。 サイギ心とネタミにとりつかれた心は、逮捕後もガンとして開かず、森をはじめ逮捕者が次々に自供した中で、1人"反抗"を続けている。その心は革命とはまったく無縁の"狂気の女性心理"といえる。


 金子と大槻の緊縛や暴力を主導したのは森である。髪を切ったのは「手始め」でなくリンチの後であり、逃亡を防ぐためだった。妊娠8ヶ月だった金子の腹をなぐった事実もない。金子が総括できない場合「子供を取り出すことも考える」と言ったのは森である。


■ナイフ刺し「抜くな」 永田が、とどめ(毎日)
 寺岡恒一(24)が虐殺された模様が杉崎ミサ子(24)の自供で明らかになった。寺岡は死刑の宣告を受けた1人で、森がナイフで心臓をえぐり、永田が首を絞めてとどめを刺した。森が寺岡に対して「坂口の地位をねらっていた」と詰問した。全員の厳しい追及に寺岡は「現在はそんなことは考えていない。しかし過去にそのような考えを持ったことは確かにあった」と応えた。このため森が死刑を宣告、坂東に目配せした。坂東はいきなり正座している寺岡の左太ももにナイフをつきたてた。寺岡がナイフを抜こうとすると、まわりから押さえ込んで15分間もそのままにさせた。坂口はそのナイフを抜くと、寺岡の左腕に刺し、こんども抜かずに15分間そのままにした。森はこのナイフを抜き取ると、正面から寺岡の心臓を深く刺した。
 ひん死の状態になった寺岡に、永田は杉崎にアイスピックをにぎらせ「とどめをさせ」と命令。杉崎は寺岡の首の後ろを刺した。さらに永田はヒモで首を絞め、絶命させた。


 寺岡の足にナイフを刺したのは坂東でなく森。腕に刺したのは坂口でなく坂東。「首の後ろを刺せばいいのでは」といったのは永田ではなく他の誰か。ヒモで首を絞めたのは永田ではなく他のメンバーたちである。首の後ろを刺したのもヒモで首を絞めたのも、なかなか絶命しない寺岡を早く楽にさせてやりたいという気持ちからであった。


■「七人委」が殺人儀式 指名の証人、次は被告(読売)
 これまで森らは全員が裁判に加わったと自供していたが、前言をひるがえし、7人が合議のあと森と永田が最終結論をくだしたという。"総括"とするか"死刑"とするかを宣言したのは森で"判決"があると全員が"被告"にとびかかって縛り上げ、次々になぐるけるのリンチを加えた。


 永田は、刑の執行をながめながら被告の行状を口汚なくののしり、"被告"が助けを求めても、「だれがお前の潔白を証明できるのか」と誘導尋問し、仲間の一人を名指しすると、名がたらはその名指しされた仲間にいっそう激しく暴力をふるうよう命じていた。この証人探しは森、永田にとっては、次の被告選びでもあったという。


 永田は”被告"の行状を大げさにののしったのは確か。かなり迫力があったらしい。だが、証人探しはしていないし、次の被告選びということもなかった。


■チリ紙をとって、といっただけでも(読売)
森恒夫などの自供で、児島和子ら4人の総括と称される処刑理由が明らかになった。
小島和子=●男と肉体関係を結んだ●組織の指示に従わなかった。
尾崎充男=●合法活動をしている者に銃器の保管場所を教えた●寝袋に入ったままチリ紙をとってくれといった。革命的でなく甘えている。
加藤能敬=●小島和子と肉体関係を持った●作業態度がよくない。
進藤隆三郎=●女遊びばかりして革命実践に対する意欲がみられない。


 同じ記事が3紙とも掲載されているから公式発表と思われる。こういう些細なこと(しかも過去のこと)が、総括要求となり、死へのリンチに発展した。


■兄貴も浮かばれる(読売)
 「ああ、これでよかった。兄貴もやっと家へ帰れるだろう」−加藤倫教(19)は兄、能敬の遺体が発掘されたと知ると、こうつぶやいた。「線香を立てて、兄のめい福を祈らせてください」と係官に頼み込んでいた。「リンチが終わったあと、弟のこっそり"この日を兄貴の命日にしよう"と話し合った」とポツリポツリ語った。


■森、永田は再三上京 前沢ら自供 土田邸事件とも符号(朝日)
 この自供は前沢、山本ら。森は「あの事件はわれわれではない」と土田邸爆破事件の犯行を否定したが、上京して何をしていたか、については供述していない。しかし長野県に逮捕されている被疑者の中で「あの事件をやった」としていることなどから、事件解明を急いでいる。


 「土田邸爆破事件」とは、土田国保警務部長の私邸に届けられたお歳暮に見せかけた爆弾が爆発し、夫人が即死した事件。警察はメンツにかけて犯人逮捕にやっきになったいた。これは連合赤軍の犯行ではない。後に、活動家18名が逮捕・起訴されるが、公判中に捜査当局のデッチアゲが明らかになり、全員無罪となる。

■リンチはこうして 「総括」は夜中に 理由はどうにでも 永田は手を下さず(朝日)
▼午前2時
 森の「起きろ」の声が犠牲者の出る人民裁判の開始を告げた。「だから夜中が恐ろしかった」と恐怖を語る自供が多い。裁判にかける理由はさまざまだが、異様なまで永田が嫌ったのは男女関係だった。アジト移転のときオムツを袋に入れる山本保子を手伝ったという理由で、夫の順一が殺された。死の直前に「オー、オー」と大声を上げているのを聞き、永田は生き残りの妻保子に近づいていった。「何いってんのよう」「赤ちゃんを呼んでいるのかもしれない」「違うわよ。あんたを呼んでいるのよ」。このあと保子から4ヶ月の赤ちゃんを引き離したりもしている。保子を恐怖でナマ殺しにしていたわけだ。


 理由は何でも良かった。ささいなことを取り上げて、妊娠8ヶ月の金子みちよ(24)を3日間も立ったまま屋外に縛りつけて殺してしまうのだった。女が女を憎むとき、もっとも陰惨なリンチとなって現れていた。


 山本順一が総括要求された理由は運転技術が未熟なのを認めなかった点と暴力に否定的で「物理的に手伝っただけだ」といったこと。「オムツを袋に入れるのを手伝った」からではない。


▼素手
 「総括」は立ち直りを「援助」する名目だった。処刑・リンチに幹部はナイフで「兵士」は素手で全員が参加した。


 ナイフやアイスピックは「死刑」の場合に使われたのであって、幹部以外も使っている。「総括」の場合は幹部を含めて刃物は一切使っていない。「死刑」と「総括」は区別されていた。


▼寝袋
 総括にかかりそうになって助かったのは、ただ1人の運転手だった奥沢だけ。処分が決まるとたちまち縛り上げられたり、ナイフを突き刺された。処分が出されてしまえばそれで終り。大槻と金子と山田は縛られたまま寝袋に入れられ運ばれた。..遺体解剖で胃に食べ物が入っていたものはほとんどいない。


▼罪状
 リンチのときに永田はいつも叫び続けた。犠牲者の罪状をあげて責め続けた。これが総括の集団ヒステリー的空気をさらにあおった。しかし永田自身はけっして手を下さなかった。永田は自ら実行しないことで「手が汚れていない」と言い逃れをしようとしたのか。


■これがアジトの生活 幹部はパン食、銃訓練 兵士は雑炊、たきぎ集め(朝日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊03

▼生活
 森らはパンやミルクなどうまいものを食べることが多く、大部屋組は土間で麦・野菜・魚のカンヅメを使った雑炊が多かった。森か坂口が「食べろ」と合図するまでハシに手をつけられなかった。大部屋組は「革命」のためには多少の空腹に耐えて体を鍛えよ」と幹部から言われていた。...昼間は小屋作り、たきぎ拾いが作業の中心で、永田以外の女は交代で買い物に行かされた。夜は6時に寝た。


▼人民裁判
 .いっさいの反論は許されず、他の活動家の弁護も聞かれなかった。幹部7人いても追求するのは森・永田の2人で、独裁的な"判決"が下されていた。.幹部のうち寺岡と山田も殺されたが、その理由については幹部以外には知らされなかった。


▼訓練
.. 7人の幹部は腹心の青砥と植垣をつれて9人で銃器をもち、アジトからさらに数キロもはなれた山奥へ向かっていった。留守組はアジト作りに終われ訓練らしい訓練をしていなかった。山奥に訓練に出かけた幹部は半日ぐらい帰ってこないことがあった。


 連合してから射撃訓をしたという話は彼らの手記には書かれていない。


▼学習
 .テキストやパンフレットの使用はほとんどなく、森が連合赤軍の精神について1人でしゃべりまくることが多かった。それに対して意見を述べたり討論することもあった。反対意見も許されたが武装ほう起の路線をはずれたり、批判することだけは許されなかった。


 永田はたびたびレジメうぃ作ることを森に申し入れるが、森はこれを無視し続けた。森にとってはメンバーを革命戦士に飛躍させることが最大関心事だった。


■取調べ軟化 永田洋子(朝日夕刊)
 12日、永田は係官の点呼に「ハイ」と初めて答え、永田であることを認めるなど、態度を軟化させ始めた。この点から事件の本筋についての自供も間近いとして、本部は追及に全力をあげる。また、奥沢から「ほかにもう2人ぐらい殺されている、という話を聞いている」との供述を得たため、事実かどうかの確認を急いでいる。


 群馬県内以外にも連合赤軍のリンチの被害者がいる、との情報について、警察庁は疑問を持っている。警察庁が疑問を持っているのは、(1)事実を目撃したわけではなく、幹部が話していたとの伝聞である(2)前沢虎義、寺林真喜江らは「そんなリンチがあれば次の榛名アジトなどへはこわくて参加しなかった」とはっきり否定しているなど。


 読売夕刊には以下のように報じられている。


 長野県警本部の得た自供は森恒夫の「永田洋子からの伝聞だが、京浜安保共闘だけが集結した丹沢アジトで粛清があり、男女2人が殺された」というもの。さらに青砥ら2人が「丹沢か、奥秩父、大井川上流アジトで、やはり粛清があったらしい」と供述した。


■すらすらだんまり 表情も様々"死刑執行人"(読売夕刊)
▼森恒夫(27)
 「同志の死は、ムダにはしない。殺したのは、命を捨てて革命を進めるための人柱だ」と彼ら一流の"総括"について、さる8日、上申書を書いて"殺害"の一切を自供した。さらに永田洋子が漏らしたという丹沢アジトの京浜安保共闘だけの粛清についても自供。夜中に「ウーン、ウーン」とうなされたり、大きな声で寝言をいう。しかし、都内の一連の爆破事件、土田邸爆破事件については、ひとこともしゃべらず「われわれの闘争、粛清については、法廷であきらかにする」とむっつり。殺人以外の事件については、警察を権力と敵視する態度はくずさないが検事とは対話する。


▼永田洋子(27)
 山田孝、山本順一らの死体発掘を知らされたときも、ただ頭をたれただけだったが、この日、群馬県内で最後の12体目が出たことを告げられても無表情。名前も明かさない終始完全黙秘を続けている。森の書いた上申書に「フン」といって横を向き「森さんが、こんなものを書くわけがない」といったのが口をきいた最初。朝の点呼さえ、返事もしないかたくなな態度をとり続けた。ただ13日朝午前6時の点呼で「永田洋子」と呼ばれるとはじめて「ハイ」と答え、追求に「考えさせてください」。


▼坂東国男(25)
 独房の中では食事のときだけ看守のほうを向くが食べ終わり「こっちを向け」といっても、また瀬を向けてすわり続ける。東京から来た保坂節雄弁護士(27)との面会も拒否。「知らねえ人の差し入れは受けない」とみんな断り、1食62円の食事だけ。11日夜は山崎らの遺体埋葬現場の写真を見せられ、顔は真っ青になったが、死人のように口をつぐんだまま。


▼吉野雅邦(23)
 いぜん、何を聞かれても顔をそむけ、無表情に黙秘を続けている。まだ自分の名前すら言っていない。さる10日、自分の子を身ごもっている内妻、金子みちよの死体発掘を知らされたが、表情ひとつ変えなかった。


▼坂口弘(25)
 次々と明かされるリンチ殺人を聞かされても完全黙秘を続け、表情、態度に大きな変化はない。わずかにリンチ死体が発掘されてから、ふてぶてしい態度を和らげてきている程度。雑談にも一切応じず「便所」といった必要以外の言葉は話さない。


▼青砥幹夫(23)
 調べ中、気弱そうな目でジッと一点を見つめたりする。リンチ殺人についてはほぼ供述を完了したが、山本保子の脱走についてはほかの幹部が「子供を人質にしておけば逃げないとみていたが、子供をおきざりにして逃げてしまい、計画が狂った」ともらしていたのを聞いていると言う。


▼奥沢修一(22)
 早くから自供を始めたが、1月中旬以降に合流したため、公判のリンチ殺人を目撃しただけ。迦葉山の三遺体を埋めた場所を自供、案内した。新たな自供をしそうな気配を見せているが「森さんを尊敬しているので、森さんのことはあまり言えない」としぶっている。最近は安心したのか、夜半に2、3回寝返りを打つ程度でよく眠り、よく食べている。


▼伊藤和子(22)
 入浴の介添えに当たった婦人補導員に「人間とは思われない」といわせた和子が自供をはじめたのが10日夜から。「仲間の遺体がでたぞ」と知らされると、総括にあった"同志"の名前を次々と上げるなど、これまでのつき物がおちたように語りだした。しかし、法廷に出たとき、仲間の報復を受けるのではないか−という恐怖感が強く、時々「しゃべっても大丈夫でしょうか」と取り調べ官に不安を訴えている。


■主導権争いで自滅(読売夕刊)
 殺人と言う手段がとられた裏には、丹沢ですでに殺害の実績"をもつ永田が、森ら赤軍派に革命への献身度を誇示して同じ方向をとるように迫ったためだった。同じ過激路線の赤軍派は京浜安保共闘の銃強奪事件で「遅れをとった」として強いコンプレックスを持ち、一連の金融機関襲撃作戦を始めたと言われ、当局ではこうした背景と"強固な革命軍"結成へのあせりがからみあって、森も永田に同調していったとの見方を強めている。


■破滅の魔女 脱落者は消せ 鬼のような絶叫(毎日夕刊)
 事件の全容が明らかになるにつれ、永田の残虐さが説きに際立っている。毎晩開かれる会議で「脱落した者はどうせ戦いには加われない。われわれの殺しの訓練台に使おう」とまくしたてた。「やっちまえ」と毎日絶叫する永田。シーンと静まり返ったアジトで「男だろ。もっと強く首を絞めろ」。スジ金入りの戦士をアゴで使う永田。森恒夫も坂口弘、坂東国男ら中央委員も黙々と永田の指示にしたがうだけ。


 永田の姿は都内各地のデモでもよく見られた。髪をふりみだし、ツバを飛ばし「イヌ」と警官に叫ぶ永田の姿には"女性"を見出すことはできなかった。 しかし、その永田も幼いころは成績優秀なおとなしい女の子だった。「大きくなったら薬剤師になる」が夢だった。微妙な変化が見え出したのは高校時代。世の中は"60年安保"で騒然としていた。「人生、学問とは何か」−永田は思い悩んだ。さらに共立薬科大時代、バセドー氏秒をわずらい、目が異常に突起してから過程でも激しく泣きわめいたりするヒステリックな女になった。


 丸顔、色黒、ギョロ目、上歯がやや突き出た感じ(警察庁の手配書)−異性とのつきあいも少なく、男性コンプレックスに陥っていた永田は、大学を出て病院勤めをしているうち、心臓病で悩む坂口と知り合い、ウルトラ過激派へ−狂気の殺人集団へ突っ走っていった。


 「脱落者を殺しの訓練台に使おう」「男だろ。もっと強く首を絞めろ」などと永田は言っていない。。「やっちまえ」とも言っていないと思われる。坂口や坂東はともかくとしても、森恒夫が「黙々と永田の指示にしたがうだけ」ということはなかった。


■いま"狂信"に泣く 山本保子(毎日夕刊)
 「私は夫と行動をともにしようと群馬のアジトに入った。みんな連合赤軍の同志です。やっと見つけたアジトで、きっと温かく迎えてくれるだろう、楽しい共同生活ができる、そう信じていた。しかし私をまっていたものは、あまりにも過激なオキテ、狂った倫理だった。人間無視の生活。永田のガラガラした、ヒステリックな声が毎日響き、同志が次々と殺されていった。永田がにくい。」


 永田のヒステリックな言動はメンバーの手記にもたびたび出てくる。スタインホフ氏の「死へのイデオロギー」によれば、「永田のやり方は主に個人的に批判をぶつけるというもので、あとであたたかく接することによってバランスをとっていた」。だがそれは革命左派時代までで、連合赤軍になってからは、暖かく接する余裕はなくなっていた。


■「自分が恐ろしい」 杉崎みさ子(毎日夕刊)
 「今回のような人間として許せない残酷な、目をおおうばかりの殺人行為をしてきた自分自身が恐ろしく、また、なくなった方々のめい福を祈る心境から深く反省し、哀悼し、今後自分自身もこれを機会に真人間になって新たな出発をし、両親のヒザ元に帰り、親孝行をしたいと思っている」


■(広告)週間サンケイ臨時増刊号

「連合赤軍全調査」特別付録 6インチ両面シート あさま山荘トップシーン完全録音盤


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-13 朝日 朝刊CM


ソノシートの付録つきとういうのが当時ならでは。

この時期、週刊誌は連合赤軍特集の臨時増刊号を出している。だが、それは結果的にあさま山荘までの"前編"になってしまった。各誌とも後に粛清事件を特集したもう一冊の臨時増刊をだすことになる。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10279942676.html?frm=theme

▲△▽▼

1972年3月14日 頼良ちゃんは無事 永田洋子ついに自供
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10281884901.html?frm=theme

 この日の紙面は頼良ちゃん関連の記事で持ちきり。「目がパッチリ、血色もよく、丸々と・・・」と元気な様子が大きな顔写真写真入りで報じられ、この陰惨な事件の唯一の明るい記事となった。ほかにも永田自供など見逃せない記事が盛りだくさん。


■頼良ちゃんは無事(朝日)
 迦葉山アジトから中村愛子に連れ出されたまま行方がわからなかった頼良ちゃんは無事だった。母親保子に置き去りにされたあと、2月7日、中村に抱かれて山を降りたが、消息をたってから34日ぶりに保護された。


■中村愛子も出頭(朝日)
 21時23分、警視庁に「中村です。これから自首します」と電話をしてきた。5分後に正門に来たので、中村を確認 した。自供によると先月7日から山を下りて、頼良ちゃんといっしょに都内に舞い戻り、まもなく知人に頼良ちゃんを預けた。指名手配を知り、自首しようとしたが、頼良ちゃんを預けた知人と連絡が取れずためらっていた。頼良ちゃんが13日、保護されたことを知ってホッとし、自首する決意をしたという。中村は「リンチの場面をみたか」との係官の質問にうなづいて涙ぐみ下を向いてしまった。


■預かって欲しいと中村から電話 合田さん語る
 合田さんは2月7日(8日に中村と頼良ちゃんを高崎署員がみており食い違いがある)の夜、子供を背負った中村が「今夜泊めて」と訪れてきた。2月9日、合田さんは勤めに出たが、中村から「子供を預かって欲しい」と電話があり、アパートに帰ると頼良ちゃんが一人で寝ているだけで、中村はいなかった。子供の具合が悪そうなので、知り合いの寺岡医師にみてもらい、そのまま預かってもらった。寺岡医師は11日の新聞をみて「大変だ」と思って12日、弁護士に相談、13日一緒に市川市へやってきたという。


■無心の荒旅93日間 友人の子供と中村が預ける(読売)
↓クリックすると読めます。

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972ー03-14 読売 夕刊10

■永田、ついに犯行自供 逮捕以来、25日ぶりに(朝日)
 連合赤軍の主犯格、永田洋子(27)が13日「12人の同志を殺したなかに私も加わっていた」と初めて自供した。逮捕されてから25日ぶりのことである。元"同志"の12人の遺体が発掘されたことを告げられ、"共同墓地"の遺体写真をみせられて、急に態度を変え、リンチ殺人の事実関係について口を割った。


 「オニババア」と同志からもカゲ口をされていた永田。群馬県・高崎署の薄暗い2階。この5号室が永田の独房。連行されたとき永田はまるで、野生の山ネコのような表情だった。留置場では顔は一応毎日洗う。3度の食事も警察で用意したものだけはきちんきちんと食べる。1日1本のタバコもうまそうに吸い、週1度の風呂にも入る。が、救対組織からの差し入れには「名前もわからない人からのものは受け入れない」と拒む。


 ふてくされ、ダンマリを続ける永田に手を焼いた高崎署は取調官を警備部公安担当から捜査の黒沢警部にかえた。大久保事件で名をあげた"落としの黒沢"だが、歯が立たないほどだった。


 それが8日、山田の遺体写真をみせられてから、少しずつ態度が変わってきた。スカートをスラックスに履き替えたり、髪にはくしを必ず入れた。「きょうはきれいだね」と係官が声をかけるとはずかしそうに「へへへへ・・・」。夜、寝てからうなされさかんに寝返りをうつ。独房の隅でじっと考え込むこともあった。


 「どうだい、君だけががんばってないで、もう話したら・・・」の説得に「両親と相談したい」と口を開いたのが11日。そして12日、森の上申書をみせられ、「ニセモノだ」「警察のでっちあげだ」と強がりはいってみたものの、同志の"転向"にささえを失い、ガックリしたのか、13日の朝の点呼にはじめて応じ、同志の殺害を自供した。


 この日、取調室を出てきた永田はジーパンに濃いグリーンのカーディガン姿。腰縄をされているが、髪はさほどみだれていない。フラッシュに驚いて一瞬あげた顔はむしろあどけない感じさえする。血も凍る大量リンチの「主役」とは思えないほど弱々しかった。


 永田が森の上申書を見せられたのは12日ではなく9日。上申書をみたとき、「驚愕し、わけがわからなくなり、何かがガラガラとくずれおちるように感じた」という。全面自供ではないが、殺害の事実を認めた。黙秘については著作で以下のように述べている。


 私の黙秘は、密室で第三者のいない取調べではそれが唯一の防衛であり、権利であるということを理解した上でのことではなかった。それは、黙秘すべきという観念からであった。というのは、何故黙秘が必要であり大切であるかということが語られないまま、黙秘することを絶対的原則のように強調され、黙秘したかどうかが組織員たりえたかどうかの基準、さらには転向しなかったかの基準のように扱われ、雑談でさえも黙秘に違反したことのようにみなされていたからである。(「続・十六の墓標」)


 いうまでもなく「黙秘が絶対原則」の理由は組織防衛のためである。しかし、このときすでに全員逮捕されていて、「連合赤軍」という組織はなかったから、黙秘の必要性は根本からなくなっていた。

 また"落としの黒沢警部"については好意的である。


 取り調べのある時、黒澤刑事と私の2人だけになったことがある。そのときこの刑事はポツンと「お前もかわいそうな女だな」とつぶやいた。留置場から連れ出すときも、取調室に行きたくない私がゆっくり歩いたり、途中で立ち止まって歩かなくなっても、それを黙って待ってくれた。私が菓子パンの購入希望をいうと、すぐに買いに行ってくれもした。この時買ってきてくれたメロンパンもおいしかった。(「続・十六の墓標」)


■編集手帳(読売)
 連合赤軍によるリンチ事件がここまでいやらしくなり得るという標本なら、首謀者の森恒夫が書いた上申書なるものは、人間がこうも得手勝手になることができるという見本である。上申書のように、自分たちが虐殺しながら、かれらの死をムダにせずなどとしらじらしいことをいったら軽蔑されるだけだ。


 本当に1日でも早くかれらのなきがらを家族に渡したいと言うなら、なぜ逮捕されたときにすぐいわなかったか。それをいまごろ取ってつけたようなことをいうから、何を勝手なことを・・・という気持ちにもなるのである。この期に及んで自分だけいい子になろうという魂胆が見えすいている。


 彼らの死は反革命や卑俗な人間性の問題ではなく、生死を賭けた革命戦争の主体構築のための戦いのなかの死とやらだそうだが、チリ紙を出してくれといったのがいかんなどとおよそくだらない理由で殺しながら、ずいぶんと都合のいいきれいごとがいえたものである。できることなら知らん顔で通す積もりだったのに、心ならずも自供したのでてれかくしの意味もあったろう。だがそれよりも、かれらの死を美化することによって、自分たちの殺人行為を正当化するのが上申書の狙いではなかったか。だからこそ、ひとごとみたいにいえるのだろう。


 意味ありげな「総括」と「死刑」の区別にしても、どっちみち死ぬまではやめないのだから無意味であった。総括して死んだ場合は敗北と言うのも詭弁である。まるで死んだ者に理ありといわんばかりだが、総括とはしょせん同志の首を<しめくくる>ことにすぎなかった。


■統一公判を要求 森(読売)
 森は「法廷を戦いの場として、すべてを明らかにする。このため他県で逮捕された仲間を加え、全員を同じ法廷に立たせてほしい」と13人の統一公判を要求した。「12人の遺体はオレの責任で明らかにした。ほかの事は法廷で戦うことなのでいっさい言えない」と口を閉ざし「奥沢は何をいっていますか」「永田に何もいうなと伝言してほしい」と面会人などに頼んでいるという。


そう言っておきながら森は4月13日から「自己批判書」を書き、そして法廷に立つ前に自殺してしまう。


■「私が悪かった・・・」加藤兄の父 白髪めっきりふえて(朝日夕刊)
 加害者の中にはやはり次男、三男がまじっていた。父親は悲しみと憤りをどこにぶつければよいのかとまどいながら「私はすべて自分に向かって問い直しているんです。教育者として、父親としての私に・・・」−約1時間、悲しく語った。


 ある夜、次男の部屋から日本向けの中国放送が聞こえてきた。「毛沢東語録」「ゲリラ戦教程」をみつけたときも感情をむき出しにして怒った。長兄は家を飛び出し、そのころからあわてだした。三男が長髪にしているのをとがめるとくってかかる。あのおとなしい息子が突然変わった。


 3人が家出してから私は息子達の思想を理解しようと進歩的な大学教授の本を読んだ。無責任に革命と暴力を結び付けている。それにしてもなぜもっと早く、息子らの思想を理解しようとしなかったのか、遅かった。


 ただうれしかったのは、次男と三男が坂東の父親の自殺を私と思って悲しんでいた、と警視庁の方から聞いたときだった。私は教師をやめ、2人がいつか帰ってきたら、ほんとうの父親になって息子らに接したい。


■ツキモノ落ちた対面 青砥(毎日)
 青砥は明け方必ずうなされている。大声でわめき、ガバッと起きる。「いつも同じ夢です。高校時代の友人が次々とリンチを受けて殺されていく。私はそれを黙って傍観しているのです。友人の顔が次から次に迫ってくる・・・」。


 13人のうち一番早く自供した青砥。完全黙秘に"攻め手"を考えた。そこで事件のことには一切触れず、青とのふるさと、福島の名物饅頭の話など雑談を繰り返した。依然黙秘。ただ同じ話を繰り返すと、厳しい表情でひとこと「くどい」。


 逮捕後10日たって父親が面会に来た。肉親のキズナを絶つことが革命への第一歩と思い込んでいた息子が、わずかな時間だがあった。面会後、やがてポツリ。「父親が・・・、ありがとうございました」あとは○○○(3字不明)のように自供をはじめた。父親と面会してツキモノが落ちたようになった。


■信仰化した理論(毎日)
 上申書の文中に特徴的にみられるのは、12人もの同志を殺していながら、それを「闘いの中で死亡した」「元同志たちの死」「死に物狂いの闘い」と他人事か、自然死、事故死のように片付け、「同志の死を決してムダにせず」といってのけていることである。


 呪文をとなえながら自らを縛る。他者への説得力はゼロである。うしろをむいてはならない。理論に、そして信仰に忠実に、死に物狂いの闘いを、と自分自身に言い聞かせたとき、残された道は前へ前へとまい進するだけ。その不自然さに気づかず、たどり着いた先が12人を殺し、一転して全面自供。しかし、罪の深さにおののく気配は何一つ感じられず、遺族へのお詫びの言葉ひとつない。


 革命を志した仲間がこわくなり「命助けて」と敵のはずの警察に飛び込んだり、捕まった仲間が「もうコリゴリ」と"自供コンクール"を演じているのを知っていて(森は取り調べ刑事から事件をつぶさに報道した日刊各誌を見せられている)なお「今は逮捕された同志の団結を軸に闘う」という無神経ぶり。


 指導者に必要不可欠な"冷静な状況認識"などカケラもない。わずか30人余しかいない連合赤軍の残党の3分の1以上を、自ら指揮して殺して、それでなくても減少した戦力をなぜ自滅させていったか、常識では到底、理解できない"リーダー"ぶりである。

 ナゾの男である。赤軍はそのものが発足当初からミステリーに包まれた疑惑の集団だったが、その幕引きにふさわしい男が、これまたわけのわからぬ森恒夫。「上申書」は森のカタワぶりを如実に示している。


■あと5人殺す予定 森が自供(毎日)
 森はこの日の調べで「あと5人は総括する予定だった」と自供。13番目から17番目までの殺しの順番を自供した。13番目の奥沢は連合赤軍が結成される前から杉崎と愛人関係にあったことと、寺岡の死刑に対し手加減を加えたこと、レンタカーを借りるのを怪しまれて失敗したことが理由。だが運転できるものがほかに1人しかいないので死体運搬要因に残しておいた。杉崎も次に総括の方針だったという。


 15番目は青砥。尾崎のリンチの際、手加減をしたためだが、あやまったので、死体運搬係として"一時延期"していたという。


 16、17番目は16歳と19歳の少年兄弟。長男の加藤能敬と愛人の小島和子殺害のとき、森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにしたため総括を免れていたが、兄をころしたことでかなりショックをうけ、いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていたという。この恐るべき殺人予定リストはすでに"殺人法廷"の決定機関「七人委員会」でも正式決定していたという。


 「死体運搬要員に残しておいた」「死体運搬係として"一時延期"していた」「いつ逃げ出すかわからぬため、殺害することにしていた」というのだから、総括とは名ばかりで、森ははじめから殺害目的だったことになる。もしこの記事が事実ならば。


 ところが、殺人予定リストの件は「正式決定していた」というが、森、永田、坂口、坂東の著書にもひとことも出てこない。また、本文中「森の指令で2人は、兄をメッタ打ちにした」というのは間違いで、実際は森でなく永田が「兄さんのためにも、自分のためにも殴りな」といって数回殴らせただけである。 ここ数日の毎日のすっとんだ記事から推測すると、この記事の信憑性は薄いのではないだろうか。


■ベイルート入りの重信に赤軍派が毎月送金 青砥自供(毎日)
 青砥は「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と接触を深める目的で、ベイルートに潜入した幹部、重信房子(25)に対して赤軍派は毎月現金を送り続けていた」と自供した。自供によると、赤軍派には5,6人のメンバーによる国際部があり、青砥もその構成員だった。青砥は昨年夏ごろ、森恒夫に送金の話を聞き、森の指令を受けて送金用の現金を集めたという。「わたしはある特定の人から3回にわたって30万ずつ受け取った」といい、"特定の人"については「絶対にいえない」といっている。


 森と重信はソリが合わなかった。森は重信のベイルート行きに反対したが、重信が赤軍派を脱退しても行くというと、しぶしぶ了解し、それなら赤軍派として行ってほしいと言ったという。


■永田も手を下す(毎日夕刊)
 永田の持っていたアイクチから、ルミノール反応があり、死刑にされた寺岡の血液型と一致した。これで永田が寺岡を指した疑いが強いとして追求を始めた。永田は「もっと厳しくやれ」と指示することが多かったとされていたが、永田自身も命令者としてではなく、死刑執行人として寺岡の心臓を刺した疑いが強くなった。


 これ自体はどうと言うことのない記事だが、同紙は昨日、寺岡殺害について「永田がとどめ」という見出しで「永田はヒモで首を絞め、絶命させた。」と報じたばかり。ちなみに永田は寺岡を刺していない。


■手配の岩田を逮捕(朝日夕刊)
 13日夜10時50分過ぎ、家族に付き添われて長野県辰野署に出頭した。岩田は寺岡、山崎が死刑にされるのを目撃し、恐くなって逃げ出した。2月17日大阪府のおじの家にころがりこみ「仲間につかまれば殺される」といってかくまってもらったという。


読売朝刊では「張り込み中の長野県警署員に逮捕された」と報じていたが、自首が正しい。


■頼良ちゃん 危うかった一命 時々入浴も 中村自供(朝日夕刊)
 中村も昨年11月、警視庁に逮捕されたときの態度を森や永田に問い詰められたが「完全黙秘で通した。ただトイレに行くか、といわれたときに返事をした」と答えると「権力と口を利いたのはまずい」と一晩反省させられた。頼良ちゃんの面倒をみていると「子守をさせるために呼んだんじゃない」と批判されることもあったが、「子守も革命」と自分自身に言い聞かせ、ときどきは頼良ちゃんを風呂にいれたりした。「リンチに参加しないと自分も殺される」と思って恐かったという。


 死亡した加藤能敬は、無抵抗に逮捕されたことと取調官と雑談しただけでリンチをうけた。それに比べれば一晩反省するだけなら、まだましだった。加藤論教はこのときの様子をこう述べている。


 そこへ、前沢と岩田に連れられて、中村が帰ってきた。中村は席に着くと、逮捕されて留置されている間に、刑事の出してくれた飲み物や食べ物を拒否せず、飲み食いしてしまったことを自己批判すると述べた。永田はこの発言を聞くと、その夜の総括中の者の見張りを自分と一緒にするように命じて、中村にはそれ以上の追求はしなかった。


 私にはこれはきわめて不公平に映った。それは、永田に素直に従うものには寛容で、永田に意見を言うものには厳しく応対するということだった。特に女性の同志に対して、その姿勢は顕著だった。府中の是政での逮捕時の対応において、中村は兄と同様に厳しく追及されてもよさそうなものだった。しかし、ほとんど問題にもされなかったのは、ただ単に永田に従順だったからだ。そう思うと、納得がいかなかった。(「連合赤軍少年A」)


■今さら!悔恨の涙 森「死刑」におびえる(朝日夕刊)
 「死刑がこわい」−森恒夫が13日夜の取調べでぽつりともらした。調べ官は「あれだけ冷酷無残に仲間を"死刑"にしておきながら・・・」と憮然としながらも、やっと森にまともな感情が戻ってきたとみて追求をつづける。


 森は山田の死体が発見されてからショックを受け、調べ中に泣きじゃくるなど、それまでの強い態度をくずしはじめた。ところが8日、上申書では「山田らの"総括"は革命遂行のために必要だった」と処刑の正当性を主張し、居直りをみせていた。しかし、10日以降、次々に掘り出された惨殺したいのカラー写真をみせられて再び態度が急激に変わり出した。13日夜はついに「死刑になるんでしょうか。死刑がこわい」と恐怖を訴えた。


 森は逮捕されたときからずっと動揺しつづけた。時に強気になり、時に泣き崩れる。上申書を書いたり、それを後悔したり、自己批判書を書いたかと思うと、すぐそれを撤回する。死の直前には、自己批判しなおすことが急務と手紙に書きながら、気持ちが揺れ動き、1973年1月1日についに自殺してしまう。


■羽田闘争が動機に 奥沢 赤軍加盟で自供(朝日夕刊)
 慶応大に入学した42年、第一次羽田闘争事件で学生一人が機動隊の下敷きになって死んだという記事を読み、「警察が殺したに違いない」と確信、学生運動に入った。その後森と知り合い、ひかれていった。昨年11月、下宿に森が土方ののような姿であらわれ、赤軍に入るよう説得された。12月19日夜、下宿に若い男女があらわれ「森に頼まれた」とやはり赤軍に入るよう説得した。


■その他の記事

山本順一の父秀夫さん(58)は「一度も見たことない孫だからどういっていいのか」と喜んだ。(朝日)

もし警察の手が伸びなければ、青砥・奥沢も総括のリストに入っていた。(読売)

不審なのは中村愛子のアジト脱出の供述が得られていないことだ。(読売)

青砥の自供から、12人以外の殺人は、京浜安保議長と愛人のA子の2人と確信を得た。(毎日)

岩田は吉野から「お前の目は革命の目ではない」とすごまれ、総括を恐れ逃走した。(朝日夕刊)

前沢は雑談には素直に応じよくしゃべるが、肝心な点になると口が重くなるという。(朝日夕刊)
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1972年3月15日 丹沢リンチ 永田洋子が動機自供
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■丹沢リンチ 永田洋子が動機自供(毎日)

 永田は「これまでの10年間の闘争生活は楽しいことばかりだった。こんど逮捕されたのは路線に誤りがあったためである」と、いままでになく反省の態度を見せた。さらに「丹沢アジトでは男1人女1人を殺した」と事件の事実を認め、殺害した理由については「京浜安保共闘のメンバーで1人がアジトから脱走をはかった。もし警察に寝返りをした場合、アジトは発見され、組織の機密が守れなくなると思い、このあと2人を総括にかけて殺した」と、はじめて動機について供述を始めた。


 いままでは丹沢アジトのリンチについて「森さんがそういっているのならそうでしょう」とか、森の供述を「そのとおり」とか、消極的自供しかしていなかったが、この日は、初めて自ら犯行を認めた。場所については地図で場所を示すそぶりをしたが「私は死体を運んでいないので、くわしくはわからない」と述べた。


 永田は「裁判所では私が最も信頼している森恒夫と共闘して法廷で闘う」と延べ、リンチ殺人事件を自供した森に"裏切り者"として反発していた態度を急にやわらげた。 また永田はノート数枚に「あなたと誓い合った約束は忘れていないが、こうなった以上はやむをえない。われわれは敗北した」という意味の森宛の手紙を書いた。


 2人は「総括」にかけたのではなく、騙して連れ出し、いきなり暴行を加え死亡させた。

 永田は「手紙を出す許可」は下りたものの、「学習許可」が下りなかったため、房で筆記用具を使うことはできず、手紙を書くときは別室で筆記用具を借り、30分以内に書かなければならなかった。すぐに森と坂口に手紙を出したが、坂口には離婚表明したことを謝った。「あなたと誓い合った約束」とは完全黙秘のことだろうか。

■岩田の同級生も犠牲? 丹沢アジトで総括か(朝日)
 岩田から「丹沢アジトにいた頃、京浜安保共闘の向山茂徳(21)が殺されたのではないか、という話をきかされた」との自供を得た。このため岩田は大井川アジトに移ったころ、坂口、吉野らにこの点をただしたところ「お前の知ったことじゃない」いうような意味のことを言われ、そのままわからずじまいになったという。


■寺岡が独断で許可 山本親子のアジト入り(読売)
 「七人委」のメンバーだった寺岡が死刑を受けたのは、山本夫婦がアジトに頼良ちゃんを連れてきたことが「七人委の許可をとっていない」と問題になった際、寺岡が独断で山本夫婦に許可をあたえたことがわかったため。「独断は反革命的な行為だ」と永田らが強く主導、死刑に決まったという。


 寺岡の死刑は、革命左派時代に永田・坂口をおろして自分が主導権を握ろうとした、という過去の出来事が理由だった。寺岡は詰問され暴力を受ける中で、ありもしないことを"告白"する。坂東とアジト予定地探しに行ったとき「坂東を殺して逃げようと思ったが、スキがなくて逃げられなかった」といい、みなの怒りを買った。しかし、当の坂東は、自分が寝ている間に朝ごはんを作って起こしてくれたことなどから、「おや?」と思ったという。


 寺岡同志への追及が始まり、「永田同志や坂口同志がつかまればよい、そうすれば最高指導者になれる」という告白から怒り、そのあと「私を殺そうとした」というのを聞いて、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。だから、次々と為される"告白”−金をとって王宮を作ろうとしたとか−を遠い世界の他人のことのように聞いていたのです。(「永田洋子さんへの手紙」)


■ラーメンでも総括(朝日)

 金子みちよの総括の1つにラーメンがある。アジトでインスタントラーメンを食べていたとき、「お腹の子供のためにもうひとつほしい」といったところ、永田洋子が「ブルジョア的で物欲が強い」と怒り、内縁関係の吉野の足をひっぱったことと合わせて、リンチされた。


 金子はラーメンで総括されたのではない。尾崎が坂口と決闘をさせられた際、席をはずしたことをとがめられた。「あんなことをしても尾崎君は立ち直れない」と批判的に言ったことから総括対象になった。他にも、下部メンバーに官僚的であるとか、吉野に頼りすぎているとか、総括の理由をつけられたが、実質的には「死刑」であったといわれる。事実、森は幹部に対し「金子は女の寺岡だ」「子供を取り出すことも考えなければならない」といっている。金子は幹部に対しても批判すべきことは批判し、暴力に対しても最後まで屈服しなかった。しかしその毅然とした態度さえ、森に「お腹に子供がいるから総括されないと思っているのだ」と決めつけられてしまう。


 対して、同じ時期に総括にかけられていた大槻節子は終始素直な態度だったが、森に「優等生的だ」ととがめられている。総括にかけられたら助かる道はない。


■だんまり三人男(毎日)

▼坂口弘(25)

 取り調べのために「外へ出ろ」というとくるりと背を向けてしまう。食欲はすさまじい。留置場の定食のほか、さらに必ず1回に食パン5枚を平らげる。思い出したようにはくことがある。「ミカンをくれ」「便所」−。


5月4日の読売では「房内で食べるのは実費62円の至急弁当だけ」となっている。


▼坂東国男(25)

 警官が入り、2人ががりでかかえるようにして調べ室に入れる。いすに座ると真正面を向いて目をとじたまま。なんとも攻め手がないといった状況だ。


▼吉野正邦(23)

 自分の名前すら認めていない。高校時代の話で水を向けると「そんなことは関係ない」とどなる。凍りつくような目でにらむ。ただ14日には「いい天気ですね」といいい、長い髪をつかんだりしていた。


■軍建設へ徴兵制 「銃が最高の兵士 人はいくらでも補充」 青砥自供

 青砥らの自供から軍建設のために「徴兵制」をしいていた事実をつきとめた。森恒夫らは150人近い活動家の中から、次々と「兵士」を招集、過酷な訓練についていけない「「兵士」は死の処分にするという軍律を確立していたという。「銃こそ最高の兵士、人間はいくらでも補充できる」−その軍律は人間蔑視で貫かれていた。


■この徹底的差別 革命という名で "どれい" 扱い(読売)
 寺林の自供によると、迦葉山と妙義アジトでの食事は、森、永田ら七人の中欧委員は別室でパンやミルクなのに対し、兵士は大部屋で円陣をつくり、麦や野菜をまぜた雑炊をたべさせられていた。幹部たちは「革命遂行のため、兵士は粗食に耐える訓練をせよ」と命令し、幹部が合図するまでハシを持つことさえもできず、幹部は食後にコーヒーも飲んでいた。 また、寺林は永田から会計係を引き継いだが、出納簿は1円にいたるまで、克明に記入され、森、永田は金銭の横領は「総括」の対象だと、おどしていた。


 岩田の自供によると、西丹沢では、武闘訓練が行われ、幹部だけが小屋に入り、小屋のハリには猟銃など銃が5丁乗せてあった。兵士は小屋の付近にテントを張って寝起きし、"革命戦士を育成する"ということで、夜間のタキギ取りのほか、炊飯、洗濯をさせられ、学習、討論もするというきびしい生活だったという。このため脱落者が相次いだこととから、アジトを変えることになり、点々としたあと11月末に榛名山に移った。


 革命左派時代の山岳アジトは岩田の自供と異なり、和気あいあいとしていたと証言する人も多い。連合赤軍結成前に森たちが革命左派のアジトを訪ねたとき、こんなエピソードがある。


 妊娠している金子さんが山岳で子供を生むということが話題になった。森氏が、これにたいして目を丸くして、「ムチャだ。大体予防接種なんかどうするんや。こんなところで育てられるはずがない」と言った。革命左派の女性たちは、森氏の発言にワイワイと反論し、山岳ベースでも子供を育てられるようにしてゆくのだ、そのために協力すべきであり、足を引っ張るべきではないと主張した。森氏はあくまでも「ムチャだ」といっていたが、「金子さん用に肝油を手に入れよう」といいだした。これに革命左派の女性たちは「ウァー」と歓声をあげた。(「十六の墓標(下)」)


■悪霊の世界(毎日)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ粛清事件、新聞記事)-1972-03-15 毎日 夕刊11

▼ろうそく集会
 夜の討論はろうそくをともして行われた。車座になってすわるが、山の寒さはピリピリするほどだった。その風景を、2人の少年は「今思うとぞっとするほどこわい」という。
 討論では、いつも森恒夫と永田洋子が話した。坂東国男、吉野雅邦、坂口弘なども発言をするが、他のものはあまりものはいわず、ほとんどが下を向いて聞き入っていた。 森はよく「オレは中国に行きたい」と話していた。永田はいつもヒステリックで、つねに討論の主導権を握っていた。残酷なことや他のものに対する批判は、ほとんど永田から出た。


 このあたりの様子は、永田の「十六の墓標(下)」、坂口の「続・あさま山荘1972」、植垣の「兵士たちの連合赤軍」に詳しく述べられている。それによると討論の主導権は常に森であり、永田は過激な言葉で森に同調していたようだ。永田が摘発→森が問題視し詰問→永田が同調して煽る→森が暴力指示、という流れのようだ。


▼マキ割り
 幹部たちは、銃の訓練をしに山奥へ出かけていったが、他のものは一日中マキ割りやアジトの修理、タキギ拾いなどをさせられた。しかし、必ずどこかで監視の目が光っていた。ときどき銃の訓練もさせられたが、青砥幹夫らはマキ割りで、てのひらはマメだらけになり、銃がよく持てず、ねらいが定まらないので、坂東から「モタモタするな」とどなられた。それでも言い訳は許されなかった。「総括!」と、いつ言われるかわからないからだ。永田以外の女はよく山をおりて食料や日常品を買いに行かされた。それでもお互いがつねに監視しあう方法がとられた。


▼麦と赤軍兵士
(省略。読売の記事とほぼ同じ)


▼マラソン競争
 榛名山アジトから迦葉山アジトに移るとき、忘れものをしたので、みんなアジトに走って戻った。坂口が1番で青砥が2番だった。坂口は「心臓が悪くて坂を上るのもムリ」といわれていたが、それはとんでもない間違いだった。髪をハサミできるのは坂東だった。坂東は手先が器用でハサミをうまく使った。


▼新月が羅針盤
 アジトからアジトへ移るときは新月の晩だった。月光をたよりに、暗い山道を歩いた。山登りに自信がある青砥がいつも先頭。だれもが4、5回疲れと寒さで倒れた。それでも銃だけは決してぬらしたり、放り出すことは許されなかった。


▼次のアジトは八溝山系
 ラジオで追求の手がのびたのを知り青砥が「八溝山にしよう」と提案した。八溝山のふもとに青砥の親戚があり地理にくわしい。「少なくともそこへ行くまではオレが案内役だから殺されない。八溝山へ行けば、地理に詳しいので逃げられると考えていたからだ」という。アジトを移すごとに殺されるものもふえていく。そして最後には、いったいだれが残ることになったのだろうか。


 このとき、寺岡と山田はすでに死亡していて、森と永田が逮捕されたから、幹部は坂口、坂東、吉野しか残っていなかったし、すでに総括もおこなわれていなかった。しかも山岳逃避行の最中だから、逃げようと思えばなにも八溝山までいかなくても、いつでも逃げられそうなものだ。後年、青砥は「離脱するつもりはなかった」とインタビューに答えている。


青砥「バスに乗ったままだと軽井沢に行ってしまうことは僕も植垣もわかっていた。でも見て見ぬふりだった」

 荒 「どうして?」

青砥「もう疲れきっていたんです」

 荒 「連赤を離脱しようとは思っていなかった?」

青砥「離脱しようとは全然思っていなかった」

 荒 「もうどうなってもいいとも思っていた」

青砥「というより、正常な判断力を失っていたと思う」

(「破天荒な人々」)


■その他の記事

・寺林は会計を任され、女性ではナンバー2であった。(朝日)

・この日森は取り調べには応じず、上申書に続く"執筆"を行った。(朝日)

・頼良(らいら)ちゃんの祖父は「黙っていたが名前はあまり気に入りません」。(毎日)

・寺林は京浜安保共闘の丹沢アジトで手投げ弾20個をつくったと自供。(毎日)

・森は「革命は決して間違ってはいない。その方法に誤りがあった」と自己批判。(毎日)

・森は「森」と呼んでも返事しない。「渋川21号」といえば「ハイ」。(毎日)

・発掘現場はまるで観光名所の様相を呈している。(毎日)
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連合赤軍リンチ殺人事件の報道をふりかえる(筆者)  2009-03-31 
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)


■新聞とはかくなるものであったか

 写真が一枚もなく、当事者たちは死んでいるか、留置場の中にいる。だから記者は、逮捕されたメンバーの供述のリーク情報によってしか記事を書くことができなかった。メンバーたちは断片的な供述しかしないから、それをつなぎ合わせ、足りないところは想像で補って記事をつくりあげた。もともとのリーク情報さえ、当局の想像で組み立てられたものだったから、「警察は・・・とみている」という責任転嫁の表現をせざるをえなかった。


 当時は永田や坂口の手記はなかったから、報道に接した当時の人たちは、森恒夫や永田洋子を悪魔だと思っていた。筆者もそう思っていたから「十六の墓標」(永田洋子)をはじめて読んだとき「あれれ?」と拍子抜けしたものだ。そして「どうしてまともな思考の人が、あんな常軌を逸した事件をおこしたのだろう?」と興味を持ったのである。なぜなら彼らの手記に書かれていた思考や判断は私たちのそれと別段変わるところがなかったからである。


 私たちはマスコミを通してしかニュースをしることができない。特に新聞記事は多くの人が信頼している。しかし、ときとして一線を越えてしまうことがある。それはどんなにひどいことを書いても、誰からも文句を言われない状況において起こる。連合赤軍事件もその1つだったし、オウム真理教事件のときもそうだった。逮捕されたメンバーはどのような気持ちで新聞を読んだだろうか。


 おもしろいことに、新聞がセンセーショナルに報じたのに対し、週刊誌はきちんと取材した記事が多い。おそらく新聞にお株をとられてしまったことと、新聞ほどリーク情報が得られないことによるからだろうが、周辺人物の取材をして事件を検証する、という落ち着いた記事が多いのである。


■今後の予定
さて、1972年4月以降も取調べが続き、1973年から大荒れの連合赤軍裁判へと続くことになる。その間には森恒夫の自殺もあり、坂東国男のアラブ行きもある。しかし、先へ進める前に、一度時計を戻して、赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)が誕生したころからの彼らの新聞記事を振り返ってみたい。
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(基礎知識編)赤軍派・革命左派・連合赤軍 組織関連図   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
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 連合赤軍と日本赤軍は何が違うのか、テレビカメラにVサインしていたおばさんは何者なのか、永田洋子と重信房子の区別がつかない、などなど、最近のニュースで興味を持った人にとっては、左翼運動の派閥がわかりにくい。


 そこで、連合赤軍周辺の組織について、手持ちの組織図・関連図をまとめて掲載しておく。


■赤軍マップ (「赤軍―1969→2001」より )

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-赤軍マップ

 歴史的な流れをつかむのはこの図が決定版だ。事件を中心に知りたい人は、これだけ知っていればよい。


■赤軍派発足時の組織図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-赤軍派組織図・発足当時

 赤軍派を発足したメンバーが名を連ねている。


 田宮高麿は9名でよど号をハイジャックし、北朝鮮へ渡り、そのまま亡命した。このグループを「よど号グループ」とよぶ。


 他の中央政治局のメンバーは逮捕されているので、連合赤軍メンバーの手記では「獄中幹部」などと呼ばれている。獄中幹部は森恒夫の敵前逃亡を知っているため、森に対する評価は高くない。


 後に、連合赤軍メンバーとなる山田孝の名前があるが、当時は森より地位が上だった。そのため、森に意見することのできた唯一の赤軍派メンバーであった。


■よど号グループ(2002年3月13日 朝日新聞より )


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-よど号グループの関係図


 「当時16歳少年」というのは柴田泰弘のことで、柴田は2011年6月に死亡した。


■京浜安保共闘の関係組織 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-京浜安保共闘の関連組織


 革命左派の組織図。連合赤軍メンバーの名前がちらばっている。「京浜安保共闘」は労働者を中心としたさまざまな組織を束ねていた公然組織(表の組織)である。新聞記事で組織名がさまざまなのはこのためである。なお、図には表れていないが「中京安保共闘」からも連合赤軍に参加している。


■人民革命軍関係図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-人民革命軍関係図


 上記の組織図から少したって、連合赤軍結成直前の革命左派の組織図。京浜安保共闘のメンバーも山岳ベースに集められたころである。


■連合赤軍関係図 (「連合赤軍 この人間喪失」より)

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍関連図


 組織がたくさんありすぎて、どこがどう違うのかよくわからない。左翼運動は組織分裂の歴史で、思想・闘争方針・人間関係などの要因によって分裂を繰り返した。特に赤軍派は一人一党といわれたほどである。


 共産党配下を代々木系、反共産党系を反代々木系という。名前がまぎらわしいが、永田洋子・坂口弘の「日本共産党革命左派」は反代々木系で日本共産党と対立関係にある。


■日本赤軍組織図 (ネットより)


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-日本赤軍組織図


 日本赤軍のリーダーは重信房子で、2000年9月に逮捕された時、カメラに向かってVサインをしていた人である。重信は、森恒夫と折り合いが悪く、独自の路線に舵を切り、アラブへ旅立った。


 PFLPというのは、パレスチナ解放人民戦線のことで、PLO(パレスチナ解放機構)にも参加する過激派である。


 重信は人気者で、赤軍派時代はオルグとカンパに手腕を発揮し、「微笑外交」とか「ポン引き外交」とかいわれた。アラブへ行ってからは、結集を呼びかけ、日本から多くのメンバーがアラブへ渡った。さらに、ハイジャック闘争で、連合赤軍や、東アジア反日武装戦線、はては一般刑事犯まで釈放させ、日本赤軍に結集させた。


 ごった煮集団だが、コマンド(軍事)志向のメンバーを集めたことが特徴的である。


■京大パルチザン

 赤軍マップで、日本赤軍と点線でつながっているが、これは、京大パルチザンが重信房子を手配師としてアラブへ渡り、テルアビブ空港乱射事件を起こしたからである。


 京大経済学部助手の竹本信弘(ペンネーム・滝田修)の革命理論の影響を受けたノンセクト・ラジカル(党派に属さない過激派グループ)である。


■東アジア反日武装戦線


(右翼にも愛読された腹腹時計)
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-腹腹時計(東アジア反日武装戦線<狼>)

 赤軍マップに突如現れる「東アジア反日武装戦線」について説明しておく。


、1970年代に三菱重工爆破など連続企業爆破事件を起こした独特のグループである。他の組織は民間企業をターゲットにすることはなかったので、日本中が驚いた。


 なぜ民間企業を爆破したかというと、戦後も大企業はアジアを経済侵略し、彼らを隷属させ、利益を搾取している、したがって大企業は現在進行形のアジア侵略者である、という思想にもとづいていた。この歴史観は他の左翼とは一線を画している。


  「東アジア反日武装戦線」というのは総称で、実際の組織は「狼」「大地の牙」「さそり」から成っている。大道寺将司の「狼」に共感したり、爆弾指導を受けたグループが、「大地の牙」「さそり」である。


 「狼」が出版した「腹腹時計」という爆弾製造法やゲリラの心得を書いた教本は、左翼過激派だけでなく、右翼や公安にも幅広く読まれた。


 それぞれのメンバーは以下の通りであるが、重信房子に好まれたようで、日本赤軍のハイジャックによって3名が出国した。


・「東アジア反日武装戦線・狼」

 大道寺将司(死刑確定)

 大道寺あや子(→日本赤軍・指名手配中)

 片岡利明(死刑確定)

 佐々木規夫(→日本赤軍・指名手配中)


・「東アジア反日武装戦線・大地の牙」

 斎藤和(逮捕直後自殺)

 浴田由紀子(→日本赤軍→逮捕→懲役20年))


・「東アジア反日武装戦線・さそり」

 黒川芳正(無期懲役)

 宇賀神寿一(懲役18年→2003年出所)

 桐島聡(指名手配中)


 このグループのメンバーは、他の組織でみられる様な責任の擦り付け合いがなく、とても仲が良い。この点でも他の組織とは一線を画している。
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(理論編)「イデオロギー」と「言葉」のパワー   
連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10816638091.html?frm=theme

 連合赤軍のリンチ殺人事件について、誰もが感じる最初の疑問は「なぜ12名もの仲間を殺害したのか」ということに違いない。


 永田洋子や坂口弘によれば、それは共産主義化のイデオロギーということになる。イデオロギーとは「観念の体系」と訳されるが、この事件の場合、「物事の判断を下す根拠となる思想」と理解すればいいだろう。


■統一公判一審「中野判決」

 共産主義化のイデオロギーを紹介する前に、まず、裁判でどう判断されたかを紹介しておく。1982年の統一公判の第一審判決では永田洋子に死刑、坂口弘に死刑、植垣康博に懲役20年が言い渡された。有名な「中野判決」である。


 なぜ有名かというと、永田を、「執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」と酷評するにあたり、「女性特有の」と一般化した表現を使ったため、大いにひんしゅくを買ったからである。そして、判決理由には、中野武雄裁判長の永田に対する並々ならぬ怒りがこめられていた。


 被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた。


 他方、記録から窺える森の人間像をみるに、同人は巧みな弁舌とそのカリスマ性によって、強力な統率力を発揮したが、実戦よりも理論、理論よりも観念に訴え、具象性よりも抽象性を尊重する一種の幻想的革命家であった。しかも直情径行的、熱狂的な性格が強く、これが災いして、自己陶酔的な独断に陥り、公平な判断や、部下に対する思いやりが乏しく、人間的包容力に欠けるうらみがあった。特に問題とすべきは、被告人永田の意見、主張を無条件、無批判に受け入れて、時にこれに振り回される愚考を犯した点である。


 被告人永田は、革命志向集団の指導者たる資質に、森は長たる器量に、著しく欠けるものがあったと言わざるを得ない。繰り返し言うように、山岳ベースにおける処刑を組織防衛とか路線の誤りなど、革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく、あくまで、被告人永田の個人的資質の欠陥と、森の器量不足に大きく起因し、かつこの両負因の合体による相互作用によって、さらに問題が著しく増幅発展したとみるのが正当である。山岳ベースリンチ殺人において、森と被告人永田の果たした役割を最重要視し、被告人永田の責任をとりわけ重大視するゆえんである。

(1982年6月18日 一審判決 中野武雄裁判長)


 判決を報じた新聞の社説では各紙とも、「死刑判決は当然」としつつも、「だが、12人もの殺害については・・・」とつづく。「いささか物足りなさが残る」(朝日)、「およそ考えられないことだ」(読売)、「いまだ得心のいかないことが多い」(毎日)という具合に、歯切れが悪い。12名の同志殺害について判決理由を聞いても、ピンとこなかったのである。


 判決の時点で事件からすでに10年がたっていたが、新聞各社は12名の同志殺害の原因について、納得する理由を見つけられずにいた。かといって中野判決のように個人的資質の問題だけに割り切ることもできなかった。これは39年たった現在でも同じで、だからこそ連合赤軍事件がいまなお語られるのであろう。


 もし判決の通り、森と永田の個人的資質の問題だとすると、なぜ殺された12名は、黙って殴られ、縛られ、無抵抗に死んでいったのか。なぜメンバーは森恒夫と永田洋子の2人をやっつけてしまわなかったのか。なぜさっさと逃げ出さなかったのか、という疑問がわく。森と永田以外のメンバーの行動に説明がつかないのである。


 判決が間違っているとはいわないが、十分とも思えない。中野裁判長は「革命運動自体に由来する如く考えるのは、事柄の本質を見誤ったというほかなく」として、確信犯的に革命運動の問題を切り離している。


 本件は刑事裁判であり、思想を裁くことはできないから判決にあたり考慮しない、といえばよさそうなもので、わざわざ断定的に否定する必要があったのだろうか。これでは心を裁いたことになりはしないだろうか。


■「イデオロギー」と「言葉」のパワー

 1995年、オウム真理教という団体が、地下鉄サリン事件を起こした。サリンを撒いたのは、学歴が高く分別のある人たちだった。実行者たちは大いに動揺し、迷いながらも、満員の地下鉄車内でサリンの入ったビニール袋に傘を突き立てた。実行に踏み切らせたのは「救済」という言葉だった。


 人が動揺し、迷っているときは、どのような言葉で正当化するかが決定的な役割を果たす。それが「救済」だった。とはいえ、いきなり「救済のために」といわれても、サリンを蒔けるわけではない。


 オウム真理教の「救済」という言葉は、タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗)のイデオロギーの上に盛られていた。信者がタントラ・ヴァジラヤーナを受け入れていたからこそ、「救済」という言葉が威力を発揮し、人間を反社会的行動に動かしたのである。


 「救済」を「援助」に、「タントラ・ヴァジラヤーナ」を「共産主義化」に置き換えれば、連合赤軍のリンチ殺人事件も同じことがいえる。すなわち、暴力的総括は「援助」という言葉で正当化され、それは「共産主義化」というイデオロギーの上に盛られていた、と。


 いったんイデオロギーを受け入れてしまえば、「救済」とか「援助」という言葉が、いかに詭弁であろうと、たとえ指導者が詐欺師であろうと、それは有効に機能する。


 こういうことは、別にオウム真理教や連合赤軍に限ったことではない。「教育」とか「治療」とか「矯正」とか、一見正しそうな言葉が、何らかのイデオロギーの上に盛られることによって、反社会的なパワーを発揮する例はめずらしくない。


 ただ、外部の目にさらされることによって(特に人が死亡すれば)、歯止めがかかる仕組みになっているだけだ。オウム真理教はサティアン、連合赤軍は山岳ベースで、外部の目の届かない空間で起こったため、歯止めがかからなかったのである。


■どちらが「本質を見誤った」のか

 連合赤軍の同志殺害は閉鎖空間で共産主義化の「イデオロギー」と「言葉」が猛威をふるい、メンバーがそれを受け入れていたからこそ、仲間に対して過酷な暴力をふるうことができたし、被総括者は無抵抗に暴力を受け入れたのである。


 ゆえに森恒夫と永田洋子の資質だけに原因を求め、イデオロギーを切って捨てた判決理由は、大事な部分から目を背けたというしかなく、「本質を見誤った」のではないだろうか。
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(理論編)「共産主義化」 − 死をも恐れぬ革命戦士となること −
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 山岳ベースの12人の同志殺害について、当事者たちは口をそろえて「殺意はなかった」といっている。そして「共産主義化をめざした」とも・・・共産主義化とはいったい何なのか?


■共産主義化とは「ブルジョア性を克服し、死をも恐れぬ革命戦士となること」
 国家の共産主義化ではなくて、個人の共産主義化とはどういうことなのか。明確な定義はないが、当事者たちによれば、「過去の活動における誤りや失敗をブルジョア性の現われと見なし、その克服を通して、革命のために、死をも恐れぬ革命戦士となること」ということである。


 一般的な言葉で言えば、内面から 「私」 を消し去り、命さえも革命のためにささげる、ということになるだろう。


 何がブルジョア性の現われなのか、どうすれば克服できるのか、共産主義化が達成されたとはどういう状態なのか、などすべての基準はあいまいであり、森恒夫や永田洋子の恣意的な判断だった。実は永田もよくわかっていなかったが、永田は「問題があるとみなした言動をブルジョア性の現われとみなした」のである。


 つまり、共産主義化の理論は、山岳ベースでは森恒夫の頭の中だけにあって、誰にもわからなかったのだが、わかるかどうかは大して問題にならない。重要なことは、受け入れるかどうかであり、連合赤軍のメンバーは全員受け入れたのである。


 ハワイ大学の社会学部のパトリシア・スタインホフ教授は、以下のように分析している。


 赤軍派の、闘争用語でいっぱいの難解なイデオロギーは、それが不可解に近いがゆえに、受け入れられることが多い。人びとが心情的にやりたいと思っている行動を、学問的に知的に裏付けてくれるような気がするからである。


 実際のところ、共産主義化という概念は実に曖昧で、連合赤軍の生存者たちは一様に、全く理解できなかったと述べている。しかし、彼らは、いわゆる自己変革を獲得しようという心情的呼びかけはよく理解できた。


 問題は、変革を獲得した状態とはどういうものなのか、獲得すべき変革とはいったいなんなのか、何も描き出されていないことだった。日本のプチブル学生が革命戦士への変革を獲得するということは、個人の過去から現在に至るあらゆる思考や行動をすべて否定することにつながりかねない。
(パトリシア・スタインホフ・「死へのイデオロギー −日本赤軍派−」)

■塩見孝也議長の提起した「共産主義化」
 赤軍派は、1969年12月、大菩薩峠での大量逮捕 により、大打撃を受けた。この総括として赤軍派議長・塩見孝也が「革命戦争の網領問題」の中で提起したのが「共産主義化」である。


 永田の「続十六の墓標」に植垣康博の最終意見陳述が引用されているが、それによると、


 塩見は「革命戦争の網領問題」の中で、革命戦争の客観的な要素よりも主観的な要素を重視し、「革命戦争の型は戦争の担い手の主観的要素の如何によって決まる。・・・戦争の問題とは結局"人間の問題"である」と述べ、「犠牲を恐れない、革命的な集団的英雄主義、共産主義的精神、規律が闘いの源泉となる」と主張して、「戦争に占める"人"、すなわち精神力の要素の決定的重要性」を強調した。そしてこの「精神力」の獲得の為に「主体の共産主義的改造」いわゆる「共産主義化」を提起したのである。
(植垣康博 「1983年・最終意見陳述」)


 塩見は大菩薩峠での大量逮捕において、その原因は、指導部の計画・作戦に問題があるのではなく、無抵抗で逮捕された各人の問題であると考えた。爆弾1つ、ナイフ一太刀の抵抗もないまま大量逮捕されてしまったことを問題視したのである。


 だから、「犠牲を恐れない、革命的な集団的英雄主義、共産主義的精神、規律」が必要であるとし、そのように「主体の共産主義的改造」を行うことを提起し、それを「共産主義化」といった。


 赤軍派と革命左派が共闘するようになった頃、塩見は、「党の軍人化、軍の中の党化をかちとり、革命党を建設しよう!」「軍の正規軍化、共産主義化をかちとり、『赤軍』を拡大、強化しよう!」という獄中からのアピールを出した。


 しかし、塩見は必要性をアピールしただけで、具体的な方法は示していなかった。もちろん、このとき共産主義化のために暴力を持ち込むなどとは考えていなかったはずである。


■森恒夫は塩見孝也の「共産主義化」に応えようとした

 森恒夫は塩見孝也を信奉しており、塩見の提起に忠実に応えようとした。塩見の共産主義化をそのまま引き継いでいるためか、森の手記には、共産主義化の定義や説明はでてこない。


 「自己批判書」の冒頭で「まず最初に、全体の概略を明らかにしておきたい」と述べてから、数ページ後にはもう「共産主義化」の文字が現れる。1971年12月の共同軍事訓練の革命左派による遠山批判 の話である。


 こうした討論が繰り返される過程で、私は問題が両者とも党に関する問題であり、とりわけ革命戦士の共産主義化の問題である事、要はその結果を「そうしなければならない」として受け止める事にあるのではなく、共産主義化の組織的な達成を党建設の中心的な方法の問題として確立してゆく事である事に気付いた。


 従来の旧赤軍派に於て69年の闘争時から中央軍兵士のプロレタリア化の課題が叫ばれ、大菩薩闘争の総括では「革命戦士の共産主義化」が中心軸としてだされてはいたが、その方法は確立されていなかった。私は旧革命左派の諸君が自然発生的にであれ確立してきた相互批判−自己批判の討論のあり方こそがそうした共産主義化の方法ではないかと考えたのである。


 そして、そうした相互批判−自己批判の同志的な討論の組織化を通して実践的な経験を貴重なものとして受け止め、真に"人の要素第一"の原則を確立してゆくことができると考えたのである。
(森恒夫・「自己批判書」)


 森は、遠山批判は、個人が改めればそれでいいというものではなく、共産主義化の問題であり、それを組織的に達成することが、党建設の軸になると気づいた。


 すなわち、メンバー全員を共産主義化させることを党の中心課題とし、そのためには、相互批判−自己批判を組織的に行うことが必要だと考えたのである。


 革命左派による遠山批判を引き継ぐように赤軍派による遠山批判 が行われたのは、こうした理由による。


■森恒夫は共産主義化の歴史的必然性を理論づけた


 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕−自供−逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党−世界赤軍−世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党−軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装−暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党−蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取−味方の武装−敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」−実は蜂起の軍隊建設−を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判−自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士−連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)


 漢字が多くて読みにくいが、要するに、共産主義化の総括要求は歴史的必然であった、といいたいのであろう。しかし、この理論にはかなりの飛躍がありそうだ。


 理論はともかく、気になるのは文体の方で、「問われた」「要求された」を連発して、決して「考えた」とはいわないのである。この文章の中に主体であるはずの森自身が不在なのである。


 「自己批判書」であるにもかかわらず、ここまで自己を不在にした理由は、責任の重さを引き受けられないからであり、歴史的必然を装った理論は、生身を覆い隠すための鎧のように思える。


■証言集


 私と永田さんが新倉ベースでの確認事項を伝えたとき、寺岡幸一君が、「共同軍事訓練の成果をみんなに伝えようとしたところ、何を報告すればよいのかハッキリしなかった」と当惑して言った。寺岡君等より2日長く居て森君の話を聞いていた私ですら、森君が何を話し、何を言わんとしているのか理解できなかったので、この発言は無理もなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や、文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。


 ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。


 何が「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものかと問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。


 従って私は、「共産主義化」に対する明確な規範を持たないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の表れとして批判し、その総括を要求していったのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 「新党」(筆者注・連合赤軍のこと)では、一応討論という形をとっていたものの、実際には指導部会議でも、討論をを通して問題を明確にし、物事を深めるということが一回もなかった。たとえば、「共産主義化」というもっとも肝心な問題1つとっても、その必要性が強調されながら、いったいそれは何なのかを論じ合ったことは一度もなかった。主導的な意見に、それを支持するか否かが問われるだけで、それで終わっていたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


 共産主義化の闘いの本来の目的は、それまでの活動における誤りや失敗をブルジョア性の現われと見なし、その克服を通して、革命のために自己のすべてを犠牲にすることのできる革命家を育成することにありました。


 この点で、共産主義化の闘いを推進した森氏は他の誰よりも自己犠牲的な革命家たろうとしていましたし、私たちもそうした革命家になろうと必死になりました。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」あとがき)


 大菩薩での敗北は、「殺すか、殺されるか」の政治における人の要素と、「敵を消滅し、味方を保存する」軍事における武器の要素との分離にあったとして考えていったということです。単純に言えば、本当に武器をもって闘おうとせず、福ちゃん荘でも、爆弾ひとつ投げる人間はだれもいなかったと批判することによって、自分たちがいつも銃のことを考え、身からはなさず、いつでもそれを敵に向けて使う用意があるようにすべきであり、そうなるためには、人が死をも恐れない革命戦士として共産主義化されなければならないというものです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 このとき、私を含む指導部が自己を改造する立場に立って働きかける指導制をもてず、「共産主義化」をいうとき、自己の人生観(ブルジョア性や小ブル思想−人間憎悪、人間蔑視の哲学)を絶対的な基準として下部の同志たちへの対象変革を求めることに陥っていくことになりました。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 赤軍派は、世界革命戦争というロマンを掻き立てて華やかに登場した。しかしながら、その闘争は次々と権力に圧殺され、よど号ハイジャックのほかは、たいした成果はあげられなかった。逮捕者が続出し、壊滅寸前になったところで、森恒夫がリーダーに繰り上がった。


 考えてみると、森がリーダーとなった時点で、取り得る選択肢は2つしかなかった。ひとつは敗戦処理であり、闘争を後退させ組織を温存すること。もうひとつは、闘争を飛躍させ、敗北に直面した現状を一気に飛び越してしまうことである。


 森は後者を選択し、「銃による殲滅戦」で飛び越しに賭けた。そのイデオロギーが「共産主義化」だった。しかしながら、死を覚悟するということは、敗北を意識しているということに他ならなかった。
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(理論編)「銃−共産主義化」 − 人と銃の結合 −
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 森恒夫は「共産主義化」 に銃をからめて、「銃−共産主義化」論を構築した。これが実にヘンテコなのだが、しかし、どんなにヘンテコな理論であろうと、山岳ベースでの総括を支配し、リンチ殺人事件をもたらしたのである。なお、 永田洋子や植垣康博の著書では、「銃による殲滅戦論」と表記している。


 森の書いたものの中に、「銃の物神化」とか「人と銃の高次な結合」などという言葉が出てくるが、いずれも、「銃−共産主義化」論の話で、関係式は次のような感じである。


「共産主義化」+「銃の物神化」=「銃−共産主義化」 → 「人と銃の高次な結合」の要求


■「革命左派の撤退を美化した」(森恒夫)
まず、革命左派が山岳ベースへいたるまでの経緯を復習しておくと、以下のようになる。


リーダー川島豪の逮捕
→川島豪の奪還計画を策定
→銃奪取を計画
→上赤塚交番襲撃(柴野が射殺され失敗に終わる)
→真岡銃砲店襲撃(銃奪取に成功)
→当局による革命左派弾圧
→北海道への逃避行
→永田が中国への逃避を提案するがメンバーの反対で断念
→山岳ベースへ後退


 森は共同軍事訓練最終日 に、革命左派の行動を高く評価した上で、「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」と結論づけた。いったいどういうことなのだろうか?


 「自己批判書」は難解なので、赤軍派による「12・18アピール」(森の考えを山田孝が書いたもの)と坂口の手記を参考に、大胆にデフォルメしてみると、以下のようになる。


1.上赤塚交番襲撃 では、「殺すか、殺されるか」という攻防が出現したが、威力のない武器で対抗したため敗北してしまった。「殺すか、殺されるか」という攻防には銃が不可欠である。


2.真岡銃砲店襲撃 は上赤塚交番襲撃の総括の上に立って行われたため成功を収めた。「奪取した銃」は敵の弾圧を引き出した。そして、「奪取した銃」は革命左派に銃を守る闘いを要求した。


3.「奪取した銃」によって銃を守る闘いを要求された革命左派は、山岳への退避によって、「奪取した銃」の要求に応えようとした。


4.「奪取した銃」は、銃を握る者に対し、主体の革命戦士化、すなわちメンバーの共産主義化を要求している。


5.「奪取した銃」の要求に応えようとして、革命左派は、山岳ベースで自己批判・相互批判を組織的に行なってきた。これは自然発生的ではあるが共産主義化の萌芽である。


6.「奪取した銃」にはこのように人を変革する力があるのだから、ゆえに「人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない」

(赤軍派による「12・18アピール 殲滅する銃を! 」と「あさま山荘1972(下)」をデフォルメ)


 なるほど、そうだったのか・・・と納得する人はおそらくいないだろう。奇妙な理論である。

 森は、赤軍派と革命左派との共同軍事訓練の最中、遠山批判 をきっかけに、革命左派を吸収しようという姿勢から、革命左派に学ぼうという姿勢に転じた。そして革命左派の行動を美化し、理論化したのである。


 無論これは森君が頭の中でそう考えたということであり、われわれ革命左派にはそんな意識はこれっぽっちもなかった。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


 坂口にこういわれてしまうと身も蓋もない(笑)。しかし、持ち上げられるのが好きな永田洋子だけは「そうだったのか!」と本気で信じたような気がする。


 たしかに革命左派は、敗走に敗走を重ねて山岳ベースにたどり着いたのであり、山岳ベースでも、目の前の事態に追われ続けていただけだった。もっとも森はそれを承知しているので「自然発生的ではあるが」「共産主義化の朋芽」と繕っている。


■ 「銃を物神化した」(森恒夫)
 森は、革命左派の行動を美化し、あたかも銃が導いたの如く理論を構築した。しかも銃に「奪取した銃」というように属性を持たせている。


 驚くべきことに、主体の飛躍に応じて「奪取した銃」→「味方を団結させる銃」→「敵をせん滅させる銃」→「プロレタリアート独裁の銃」というように銃が成長していくのだという。銃に超自然的な力があるかのように考えていたようだ。これを後に「銃を物神化した」と振り返っている。


 共同軍事訓練後も、森は行方正時に対し、人が銃を成長させる、だから総括すれば銃は重くなってくるはずだ、といっている。ばかばかしいようだが、赤軍派の遠山・進藤・行方の3名はこの理論を根拠にして、寒い中、ひたすら銃を構える訓練を続けさせられるのである。


 彼は、12・18闘争(上赤塚交番襲撃)が日本革命戦争の開始であり、2・17闘争(真岡銃砲店襲撃)は12・18闘争の実践的総括である。奪取した銃で殲滅戦をやろうとしたからこそ、銃を守るために退却した山岳ベースで共産主義化の闘いを組織し得た。従って、人の共産主義化は人と銃を意識的に結合させて行わなければならない、と述べた。しかし、これが何を意味し、何をみんなの上にもたらすことになるのか、私には想像もつかなかった。


 この主張の要点は、前述したように共産主義化の論理的必然性を銃の説明に基づいて明らかにしたことである。無論それは、客観的なものではなく、森君の観念に客観的装いをこらしたものに過ぎないが、彼はこれによって、共産主義化の闘いを確信をもって進めていくようになる。

 いまひとつの要点は、共産主義化の新しい方法論を見つけたことである。人と銃を結合させて共産主義化を勝ちとる、というのがそれである。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■「かなりの信頼をもった」(永田洋子)


 私は、森氏の説明を聞いていて、それが「銃を軸とした建党建軍武装闘争」をよりいっそう理論化したものであると思い、かなりの信頼をもった。そして、その中で、共産主義化による党建設の重要性を強調したことから、目的意識的な共産主義化をどうしても獲ち取っていかなければならないと思うようになった。

(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 もともと永田は、「銃を軸とした建党建軍武装闘争」を主張していたが、理論というより、直観的なものだった。「銃−共産主義化」論は、永田の直観に共産主義化をリンクさせたものという見方もできる。


 「目的意識的な共産主義化」というのは、自然発生的な共産主義化(「下から主義」)ではなく、目的意識的な共産主義化(「上から主義」)を達成しなくてはならない、と森がいったことによる。


 森は永田の直観や行動を次々と理論化したので、永田が「かなりの信頼をもった」のは当然だった。しかし、いったん思い込むと盲目的に突き進む永田は、その都度理論を繰り出す森と相互作用を繰り返して、12名の同志殺害というとんでもない結果を生み出してしまうのである。


■「『銃−共産主義化論』をでっちあげた」(森恒夫)
 森は逮捕された直後から「自己批判書」を書いた。しかし、後に森は「自己批判書」を全面撤回し、自己批判をやり直すと宣言している。したがって、逮捕直後の「自己批判書」を書いた当時の森と自殺直前の彼は総括の立場が異なっていることに注意したい。


 坂東国男にあてた最後の手紙では、「『銃−共産主義化論』をでっちあげた」と表現した上で、以下のように述べている。


 この形而上学的「銃−共産主義化論」の非科学性、反マルクス・レーニン主義、プラグマティズムに対して疑問を持ったり、反対した同志、こうした同志に対して「総括」を要求し、過去の闘争の評価等を含めてぼくの価値観への完全な同化を強要して粛清を実現していったのです。
(1973年1月1日 森恒夫が坂東国男にあてた最後の手紙)


 ひらがなの「ぼく」、「形而上学的」、「強要」、「粛清」などの言葉の用法からして、山岳ベースの狂気から醒めたような印象を受ける。そして、早急に自己批判をやり直さなければならないと書かれているが、残念ながらそれは実現しなかった。なぜなら、森はこの手紙を書いた直後に首を吊ってしまったからである。
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(理論編)「総括」と「敗北死」− 内なる革命か、私刑か −
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 事件報道当時、連合赤軍といえば総括、総括といえば処刑を意味した。学校でも「ソーカツ」がはやり言葉になったほどだ。よく「総括」とカッコつきで表すのは、連合赤軍における総括は、リンチ殺人と結びついていて、一般用語としての総括とはいささか意味が違うからである。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1972-03-11 朝日 人民裁判=総括=死刑. 連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1982-06-19 朝日 私刑に法の総括

■連合赤軍以前の総括
 一般に総括という場合は、組織内での活動において、それまで行なってきた活動の方針や成果を自ら点検・評価し、最終的には、組織としての今後の方針を打ち出すことである。


 赤軍派では、作戦行動上のミスがあったときなどに、メンバーをリーダーの前で自己批判させ、リーダーは、1ヶ月の禁酒・禁煙など禁欲的罰則を課して総括をすませていた。集団批判は行われていなかったようである。罰則は守らない者もいたようだ。


 革命左派では、総括という言葉は使わなかったが、もともと自己批判・相互批判が行なわれていた。坂口によれば、「吊るし上げに終わることが多かった」そうである。永田がリーダーになってからは、メンバーが指導部の批判を行うこともあったようだ。


■連合赤軍における「総括」
 連合赤軍では「総括」という言葉の意味を使い分けているので注意が必要だ。「総括しろ」というときは自己批判の意味で、「総括にかける」というときは集団批判の意味、「総括できていない」というときは、本来の総括の意味だったり、自己批判の意味だったりする。


 森は革命左派の集団批判のスタイルを取り入れ、より過酷な追及の場にした。それは人民裁判のようだった。被告が被総括者とするなら、裁判官が森と永田、検察官は他のメンバー全員で、弁護人は不在である。しかも法律に基づいていなかった。客観的には、集団で一方的に断罪する吊るし上げでしかなかった。


 連合赤軍における「総括」の定義を、共産主義化と合わせて考えると、「自分の内面(ブルジョア性、日和見性、敗北主義など)と誤りを徹底的に、問題点を深く掘り下げて、根本的な原因の解明と克服方法を提示すること」になる。


 森は共産主義化の方法論として、革命のためには個人の内なる革命が必要と考えた。そして、「闘争に対する姿勢やかかわり方、日常生活上の問題点を通じてブルジョア性、日和見性、敗北主義を払拭し、死をも恐れずに、肉体的限界状況下で死をも辞さない厳しい総括が必要である」と、「総括に命がけの真剣さを要求した」のである。


 森は総括の達成度を態度を観察することで判断しようとした。断固としている、能動的である、明るくふるまう、元気を出す、などが総括が進んでいる証と考えたようだ。総括を認められたメンバーは1人もいないので、認められなかった理由から逆に推測すると、そういうことになる。


 特徴的なのは、総括の目的が、組織の活動に生かすためというよりは、人の精神を変革する目的で行われたことだ。


 ともかく、ある人間が、別のある人間の精神のありようを変えようとすることは、よかれあしかれ、きわめて危険をはらんだ操作といいうるであろう。それはどこかで、他者を自分の意のままに支配する欲望と短絡する危険をはらんでいる。そして変化の目的が、教育・治療(森の述語で言えば「飛躍」)などの大義名分をもっているときに、当然必要なブレーキや他者に対する謙虚さを失う危険が大きいのである。

 教育や治療の真の目的は、他者のうちにひそむ健康な自発性や才能の自然の開花をうながし、その現存在を世界に向かって開くことを助けるものでなければならない。
(精神医学博士・福島章・「甘えと反抗の心理」)

■被総括者の選定 −誰でもよかった?
 森恒夫と永田洋子は、「闘争から逃げた」「キスをした」「運転をミスした」「風呂に入った」など、ささいな問題を、針小棒大にとりあげ、あたかも反革命的行為であるように摘発した。しかも、摘発は過去の活動にまでさかのぼるのだからたまったものではない。


 そんなささいな理由だったら、誰にでも思い当たることはある。それはすなわち、被総括者は誰でもよかった、ということになる。いくらなんでもそれはないだろうと考えるなら、別の合理的な理由で摘発が行われたと推測するしかない。


 別の理由があったと推測する人は多い。新党結成に疑問を抱いている者を粉砕しようとしたとか、軍事能力の低い者を間引いたとか、森や永田の立場を脅かす可能性のある者に先制攻撃したとか、単に気に入らない者を摘発しただけとか、・・・・・諸説あるのだが、意見の一致をみていない。共通しているのは私刑あるいは制裁の趣があったと解釈している点だ。


■総括の進捗

 総括が進んでいるかどうかは、森にしか判断ができなかった。それはあたりまえで、「総括が進む」とは、「森の価値観に同化する」ことに他ならなかった。


■「殴ることは援助である」(森恒夫)
 森は剣道部時代、気絶して目が覚めたときに生まれ変わったような気がしたそうだ。その経験から、「殴って気絶させ、目が覚めたときには、革命戦士に生まれ変わっているはずだ」といって総括に暴力を持ち込んだ。


 さらに、「殴ることは援助である」と正当化し、メンバーを暴力に参加させた。ところがいくら殴っても思惑通り気絶しなかった。この失敗が逃亡防止のために被総括者を縛ることになり、ますます衰弱させ、死に至らしめる結果となってしまう。


 ちなみに、ボクシングの試合で、鮮やかなノックアウトが生まれるのは、やわらかいグローブをつけているからである。グローブの弾性が脳を振動させ、麻痺させるから気絶する。素手で殴ったところで、ボコボコになるだけで気絶することはない。事実、被総括者は顔が球状に腫れ上がるまで殴られたが、気絶した者は1人もいなかった。


 気絶しないのなら「援助」にならないのだから、やめればよさそうなものだが、死者が出ても暴力は続いた。なぜかというと、森は殴ることによって得た新たな告白に満足し、暴力を新たな告白を得るための手段として活用することにしたからである。


 しかしその告白は、冤罪事件でよくあるように、厳しい取調べを受けた無実の容疑者が、苦し紛れに「自白」してしまうのと同質の「告白」であった。


■「盲目的に森氏に追従した」(永田洋子)
 表向きの事実経過だけをたどれば、暴力的総括は森が主導したことは疑う余地がない。しかし、気になるのは、そこに永田の意向が反映されていたかどうかである。


 永田の「十六の墓標(下)」には、暴力的総括の様子が詳しくかかれている。そこに登場する永田本人のキャラクターは、徹頭徹尾、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」である。


 だが、それは、他のメンバーの証言と大きく異なっている。永田の手記全般についていえることは、事実関係については、他のメンバーの証言とほぼ一致しているが、こと彼女自身の内面の描写については、他のメンバーの印象と大いに食い違いをみせるのである。内面は確かめようがないが、少なくとも周囲には、「盲目的に森氏に追従しただけ」の「指導者として頼りない私」には見えてはいなかった。


 永田さんの筆は、彼女の周囲の人々の動きや心理の翳を実に的確に捉えています。下手な小説家などはとても適わない筆力です。そのくせ、彼女自身の影が薄いのです。彼女の言動が一番影絵のようで生彩がありません。
(瀬戸内寂静・「十六の墓標(下)」まえがき)

 最後にあたって、永田同志の総括について、自分の問題として一言のべておきたいことがあります。「十六の墓標」を読んで感じることは、自分の感情や頭の中での問題意識を比較的正直に表現していると思いますが、しかし、そこに価値がないということをとらえかえしてほしいと思いました。客観的に映る永田同志や私の姿は、まさに、自分の誤りを保守するために、冷酷に、鬼のように同志を死に至らしめたという姿であって、まさに、その実態こそが、敗北を引き起こしたのだということに中心の問題があると思います。

 もし動揺している姿が実態であれば、同志を殺すこともなかったと思うのです。動揺していたということでは、最も動揺していたのはきっと森同志であったでしょう。それは、永田同志の書いている本にも出ているし、私自身のとらえかえしの中でも気づくことです。動揺したというのは、自分にとっての事実ではあると思いますが、客観的事実は、同志を殺したということであり、同志に映っていた「鬼」「おかみ」という姿こそ、私達の姿、本当の姿であると思うのです。その革命的でも、美しいものでもない姿を、自分の姿として認め、否定し、否定しぬくことによって初めて、総括の第一歩が始まると思います。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 こうしたことから、暴力的総括は、森が永田に引きずられた、という説が浮上する。なぜなら、森は、当初、革命左派の2名の処刑に否定的だったが、後に肯定するようになったし、山岳ベースも否定的だったのに、いつのまにか肯定に転じている。永田の影響を強く受けたふしがあるからだ。


 したがって、森は永田の意向にそって総括を行った、という見方もありえない話ではない。総括で死亡した革命左派のメンバーは、永田とそりがあわないメンバー(しかも指導者の資質を持った者)が多いことも、そうした見方を補強している。


■「総括できなかったところの敗北死だ」(森恒夫)
 普通、組織内で死者がでれば、遺体は家族に返される。もし連合赤軍が、家族と連絡をとっていたら、2人目の犠牲者は出なかっただろう。しかし、幹部はみな指名手配されていて、人目につかない山岳ベースに潜んでいたので、それはあり得ない選択だった。議論するまでもなく、山中に埋葬することになってしまった。


 メンバーは、自分たちが仲間を殺してしまったと大いに動揺した。それは森も同じだった。しかし森は直後に、「われわれが殺したのではなく敗北死した」 という解釈を披露したのである。すなわち、「同志の援助に応えられず、総括できずに敗北し、死亡した」というのだ。


 もちろん「敗北死」など信じられるはずがない。だが、この理論は動揺したメンバーたちに、救済の手を差しのべていた。彼らは、「敗北死」の理論にすがりつき、罪の意識を開放したのである。


 森は目の前の事態を正当化する能力にずば抜けていた。森がとっさに「敗北死」の理論を創造しなかったら、この時点で暴力行為は見直されたに違いない。


 1人目の犠牲者が出て、「敗北死」の理論を受け入れてから、メンバーには心情的な変化が現れた。ひとつは、次第に物事の解釈や判断を指導部にゆだね、自らは思考停止していったこと。そして指示があれば、仲間を殴ることも、殺すことも抵抗がなくなっていった。もうひとつは、自ら共産主義化(革命戦士化)を達成しなくてはならないという、贖罪意識が生まれたことである。


 同志が死んでも暴力的総括要求を続けたのは、私たちが「殺害」した事実を認めることを恐れた以上に、同志を「敗北死」させた自己批判を自分たちの闘い−死に求めたからである。(中略)

 私たちは、同志への暴力を通して自分たちはもはや死ぬ以外にないところに追い込み、同志の死への贖罪意識によって死を恐れない革命戦士となって、殲滅線を実行せんとしたのである。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)


 「敗北死」とは、死亡した者へ責任を転嫁する言葉にすぎなかった。しかし、その言葉の影響は絶大で、次々と「敗北死」を再生産していくのである。


■証言集 「永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。」(横浜国大生・S)


 短期に組織の共産主義化をかちとろう−そのために厳しい同志的援助をし合う必要があり、苛烈な暴力すら余儀なくされているそうした同志的な、かつ厳しい援助の下でなおかつ真摯な総括の姿勢を示さない場合、文字通り命がけの状況を創出して総括を迫るのがぎりぎりの同志的援助であるし、最終的には共産主義化の獲得は同志的援助ではなく、個人の力によってなされるべきものである、というのであったが、この端緒的な指導の誤りとその合理化は、当初からそうした指導に対する下からの批判が保障、確立されていなかったことから前述した過程へ突入していったのである。
(森恒夫・「自己批判書」)

 我々はこうした討論過程で常にそうしていたのだが、批判や追及に対して、ただそれを事実として認めることが総括の意味ではなく、事実を事実として素直に認めた上で、それが革命戦士になろうとする自分にとってどういう問題なのかを把みとり、そうした問題を止揚する方法、方向性、決意を確立することが大切であること...(以下略)
(森恒夫・「自己批判書」)

 新党で掲げられた共産主義化とは、武装闘争のためにいかなる犠牲も恐れない革命戦士となるために、それまでの活動上の問題を自己批判し、克服していくこととしてあった、こうした観点から、新党では、それまでの夫婦関係や恋人関係も問題にされた。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

 「共産主義化」とは、資本主義に対抗する共産主義的な思想や文化、芸術、作風、規律を現実の革命運動の中でかちとっていくことである。ところが、この「共産主義化」に対する理解となると、せいぜい「ブルジョア的な自由主義や個人主義を克服し、プロレタリア的な作風、規律をかちとる」といった認識しかなかった。なにが「ブルジョア的な自由主義や個人主義」か、「プロレタリア的な作風、規律」とはどのようなものか、と問われると、たちまちあやふやになってしまうしかなかった。

 したがって、私は、「共産主義化」に対する絶対的な規律をもたないまま、それまでの活動において問題があるとみなした言動を「ブルジョア的な個人主義や自由主義」の現れとして批判し、その総括を要求していったのである。これは、私がそれまでの革命左派の党派活動の中で経験的に見につけた作風や規律を、「共産主義化」のための規律にしたということに他ならない。
(永田洋子・「続・十六の墓標」)

 12名の同志「殺害」という自殺的行為によって敗北し、組織そのものが完全に解体したことほど、この誤りの大きさを私につきつけたものはなかった。しかし、この12名の同志「殺害」を引き起こした共産主義化が赤軍派との共同軍事時訓練を通して提起された時、このような事態に至ることを予想することはまったくできなかった。反対に、私たちは、この共産主義化によってよりいっそうの前進が可能になると多いに希望を持ったのである。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

 12名への批判の重大な誤りは、誤った闘争路線に基づいていたことにあるだけでなく、批判、総括要求に政治的な基準を与えなかったことにある。そのため、私たちの批判は、人の性格や資質を憶測や推測で批判する個人批判になってしまった。私たちは、批判を際限なく拡大させ、その人の全過去、全人格を否定し、自己批判要求された人を絶望に追い込み、どのような方向で自己批判したらいいかわからなくさせてしまった。自己批判できたと判断しえる基準もないため、いつまでたっても自己批判できたといえない状態が続き、暴力のもちこみの中で「敗北死」を続出させることになったのである。

 そして、暴力的総括要求の残酷さに対する動揺、ためらい、恐れなどの人間感情を、克服すべき「弱さ」「甘さ」として自らをおしつぶしたばかりでなく、皆にもおしつぶさせ、総括要求をより残酷なものにしていった。
(永田洋子・「氷解−女の自立を求めて」)

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)

 森君の総括要求は客観的必然性を有したものではない。それは彼の観念の産物であった。それ故、総括のマニュアルなど有るはずもなく、勢い対象者の態度で判断する恣意的なものにならざるを得なかった。こうした無茶な総括から逃れるには、森君の意に沿って、明るい顔をしたり、何のためらいもなく自分の問題を語るようにすれば良かった。つまり総括ができたふりをすれば良かった。言うまでもないが、精神的に追い詰められた時に、こういう芸当はたやすくできるものではなかった。
(坂口弘・「続あさま山荘1972」)

 森同志や永田同志がこれらの会議を主導していく(形としては)ことになったわけですが、私はその都度、二人の同志が非常によく観察していること、自分なら想像もしないような解釈を同志の行動の中に見出すことに対して、感心しさえしたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)

 尾崎同志の「政治的死」の総括によって、自然発生的に目的意識的に指導部への造反が生まれ始め、制裁に動揺示した同志、我々の絶対化を少しでも批判めいたことを主張した同志、「共産主義化」の闘いに遅れていると我々が考えた同志(実際は小ブル革命主義の反動化路線に反対した同志)を、単に「自己総括」が遅れている不徹底者とみなすだけでなく、「分派」と決め付けたり、「脱落分子」と決め付けたり、更には「権力の手の中へ逃亡し、敵権力と通ずる分子」ではないかと疑い始め、総括要求は厳しい追求・詰問に変わっていった。
(「赤軍ドキュメント」坂東国男)

 今思えば、森恒夫があの暴力的総括要求を「日和見主義や敗北主義との戦いによる主体の飛躍」、それによるメンバーの死を「主体の飛躍に失敗した敗北者の死」と理論付けることがなかったら、いくら永田さんが感情丸出しでメンバーを摘発したとしても、あのように死者が続出することにはならなかったように思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 森君本人も、自分の中の暴力回避の日和見性を払拭し切らんとする内的志向があって、あれほど苛烈に自らを駆り立て、論理で自らを縛り、袋小路にのめりこんでいったのだと僕には思えます。下部メンバーはもちろん、森君にも、けっして総括の対象者への憎悪や敵愾心は無かったと思います。森君は実に的確に、被対象者の心理を「見抜き」、批判の矢を浴びせ、暴力をエスカレートさせていきました。それは彼が、対象者の内に、自らの姿を投影して見ていたためで、彼が、被対象者に鉄拳を加える時、森君自身の内なる日和見性に鉄拳を下し、消し去ろうとしていたのだと思います。森君にとって「12名との闘い」とは即ち、「内なる12名との闘い」を彼自身闘っているつもりだったろうと思います。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 結局暴力は当初から異端者なる者、分派に傾く可能性のある者や、脱落・落伍の可能性のある者、不服従姿勢を持つ者への制裁といった色彩の強いものであったと思い返さざるをえません。...実質的には一種の統制手段としてのそれに他ならなかったということであろうと思います。(中略)追求や暴力への関与姿勢そのものが、評定・点検の観察対象となり、また被緊縛者の反抗姿勢や逃亡意思の有無が最大の評価対象となったのも、その本質の所在を示していました。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」吉野雅邦の手紙)

 僕や植垣君が「総括」の対象からはずされていたということはありません。実際、両名とも何度か「総括」を求められた。極限までいかなかったことに理由はないと思います。だから常に危機感があった。
「総括」要求の対象およびレベルに明確な基準があったとは思えません、だれでも可能性があった。一方で「真のターゲット」というような考えは、当時も今もあったとは思えません。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫公判調書)

 森と永田とは不即不離の関係にあって、永田が感情的、直感的に発言し行動することを森が理論づけしていた。永田は組織の中で、自己の地位を脅かす者とか永田のヘゲモニーを奪おうとするものとか、別の面(美人、頭がよいとか)で永田に勝っていると思われる者とかに対してはきわめて敏感であって、それをできるだけ粉砕しようという意図を持っていた。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」青砥幹夫ヒアリング)

(加藤が死亡したとき)それまでは総括の援助だといわれ、そう思ってふるっていた暴力も、実はそうではなく、不適格な人間を間引くことだったのだと思いついたわけです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 森も永田も小心性な性格であった。森と永田は、メンバーを強制的に殴打させ、あとでどう感じたかを聞いて、その答えの内容を今度はその者に対する「総括」の理由とした。永田は、自分が信用できないと思う者に順番にいいがかりをつけていったのが「総括」であった。何人目かが死んだ頃、永田はメンバーに対して、「同じ立場になったから逃げるものがいない」趣旨のことを言った。永田は指名手配になったことを相当重荷に思っていたようである。メンバーを共犯にすることによって、みんなが警察に追われる立場になったことを喜んでいたものと思われる。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義公判調書)

 (森は)いっしょに生活しているうちになんとなく「この男は気が小さいな」と感じることがありました。(中略)この森の小心性から、同志に対して不必要な疑いをかけ、敗北主義者、あるいは日和見主義者、と決めつけて殺した例がたぶんに出ております。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」前澤虎義供述調書)

 永田は、女性に対して非常に一種独特な批判の眼を持っており、特に自分を批判的に見る人に対してそういう眼を持っていた。つまり指輪をしているから革命戦士になれない(遠山の場合)というような、すごく矮小的な形から批判をもってゆく、そのようなものを根本とするものの考え方をした。非常に嫉妬深い性格である。そのことは永田の排他的性格でもあった。つまり、メンバーが自分と同等であってはならなかった。自分と対等に並ぼうとするものに対しては、常にこれを排斥しなければ自分が落ち着いていられない性格であった。とくにそれは男性面で出た。だから結局、自分に取って代わるだろうと思われる者を排斥(抹殺)した。


 榛名ベース以前では銃はわたし達が保管していたが、以降は永田や森が座る位置の後ろに必ず銃が立てかけてあって、それは我々の方に向かっていた。それは永田や森を守るために必要だったのだと思う。常に権力というものはそういうものが必要なのだと思う。「総括」要求の基準というものは何もなかった。永田と森の肝づもり1つであった。だから永田と森に逆らったらそれでおしまいだった。永田をして「女王」「絶対君主」みたいにした原因は、我々にも責任があると思う。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」寺岡の妻で横浜国大生Sの公判調書)

 ごらんのように、「総括」については、当事者たちの証言でも意見が分かれている。12名もの同志を殺害しておきながら、主導したのは森恒夫だったのか、永田洋子だったのか、真の目的はあったのか、なかったのか、あるとすれば、それは何だったのか・・・・・はっきりしないというのは、どうにもこうにも収まりが悪い。これが今なお連合赤軍事件が語られ続けている理由である。


 総括に暴力をもちこんだのは、他者を変革するための「同志的援助」のつもりであったにせよ、暴力を受けた者の内面に生まれるのは、反抗か屈服のどちらかしかない。反抗すれば「総括する態度ではない」と、より苛烈な暴力を加えられた。屈服し、反革命的行為を告白すれば、「裏切り者」とレッテルを貼られた。総括に出口はあったのだろうか。


 メンバーの心の一方には、自分が総括にかけられるかもしれないという恐怖があり、それに対しては、被総括者に弱者のレッテルを貼ることによって何とかバランスを保っていた。もう一方には、贖罪意識という死者への負債が重くのしかかっていた。死者への負債を返済するためには、自らが革命戦士となって殲滅戦を全うするしかなかった。


 森は次々と理論を創出し、適用を試みるのであるが、彼の脳内理論と現実の間には大きな隔たりがあり、それは決して埋まることはなかった。なぜなら森は指導する者ではなく、裁きを与える者だったからである。しかも、森の脳内のものさしは、事態の変化に応じて、どんどん形を変えたから、ついていけるはずがない。


 そして、「総括」によって、自分の価値観をメンバーに強要し、他の価値観を一切許さなかった。メンバーの主体はこうして解体されていくのだった。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-10856996794.html?frm=theme


(理論編)「上からの党建設」
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html?frm=theme


 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」


 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。

 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


■1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)
 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。

 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■1971年12月23日 「上からの党建設」

 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


■1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■(理論編)「総括」と「敗北死」− 内なる革命か、私刑か −

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


■(理論編)「共産主義化」 − 死をも恐れぬ革命戦士となること −

 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕−自供−逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党−世界赤軍−世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党−軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装−暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党−蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取−味方の武装−敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」−実は蜂起の軍隊建設−を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判−自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士−連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html?frm=theme

▲△▽▼

日本赤軍 
ttp://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Politics_Security/History_after_War2/Japanese_red_army.htm
 


 日本赤軍のルーツは、1960年代、学生運動をリードした共産主義者同盟(ブント)である。 当時、自分たち
の力で無理やり世の中を自分たちの考える国に変えてしまおうというグループがいろいろあった。 ブントは、
1969年、武力闘争路線をめぐって深刻な内部対立を起こし、最左派が分離して赤軍派を結成した。 この赤軍
派の中央委員兼中央組織局副局長だったのが重信房子である。 赤軍派は、日本をはじめ、世界にはよくない
国がいくつかあるので、武器を使って世の中を変えようと考えた。 そして、世界各地に拠点を作り、軍事訓練を
受けた上で日本で革命を起こすという 「 国際根拠地論 」 を唱えていた。 

 

【北朝鮮に渡った赤軍派】

   1970年3月 ――― 日航機 「 よど号 」 乗っ取り事件が起きる。


 赤軍派は 「北朝鮮は日本と仲が悪いし、軍隊もある。日本からそれほど遠くない。 北朝鮮に行って軍隊の
訓練を受けさせてもらおう。 そのためにはいっぺんに行けるように飛行機を乗っ取ろう。赤軍派がやったという
宣伝にもなる。」 と考えて、この事件を起こした。 この時、幹部ら9人が 「 国際根拠地論 」 に基づいて北朝鮮
に渡った。

 この事件が起きてから「 ハイジャック 」 という言葉が使われるようになった。 ハイジャック防止法という法律も
でき、飛行機に乗る際の所持品検査やボディチェックもこの後から行われるようになった。 彼らは政治亡命を主
張しているが、この行動は北朝鮮からはそれほど歓迎されなかった。 

メンバーですでに死亡した者もいるが、北朝鮮で妻子らとともに働いている。 2001年には、子どもたちのうち
3人が日本に来た。 娘たちの話では、メンバーは帰国を望んでいるというが、帰国すれば日本の警察に逮捕さ
れる。

 

【連合赤軍】

 赤軍派の他のメンバーは、新たな国際拠点を中東に求めた。 
   1971年2月 ――― 重信房子、奥平剛士らが、レバノンに出国した。(2人は偽装結婚して出国 )
 このグループはパレスチナ人の味方をして、世界各地で飛行機をハイジャックしたり、大使館を襲ったりした。 
彼らは、日本赤軍と呼ばれた。

 

 国内に残った赤軍派は、京浜安保共闘と連合赤軍を結成し、日本各地で銀行や郵便局、銃砲店などを襲った
りした。

   1972年2月・・・連合赤軍は、浅間山荘事件を起こす。
 連合赤軍は、群馬山中で軍隊の訓練をしているところを警察に見つかって逃げ出し、5人が軽井沢の浅間山荘
に立てこもった。 管理人の奥さんが人質となり、警官隊と銃撃戦を繰り広げた。 この時、警察官2人が死亡し
たが、5人は逮捕された。 この連合赤軍は、群馬県で訓練をしている間に、仲間を14人も殺していたことがわ
かった( 連合赤軍事件 ) 。 この事件後、連合赤軍は事実上、消滅していく。 

 

 

【日本赤軍が起こした事件】

 重信房子たちは、1972年、従来の赤軍派と決別を宣言し、 「 アラブ赤軍 」 を名乗り、海外を拠点にテロ活動
を独自に進めることになった。
 重信房子はPLOの内部組織・パレスチナ解放人民戦線( PFLP )の幹部と結婚し、PLO内でも重要な地位に
あり、アラファト議長と直接会話をする間柄とされる。 

   1972年5月30日・・・イスラエル・ロッド空港事件 ( テルアビブ空港乱射事件 ) を起こす。


 奥平剛士、岡本公三ら3人が、テルアビブのロッド空港で自動小銃を乱射したり、手投げ弾を投げたりして、
100人を死傷 ( うち24人死亡 ) させるという無差別テロ事件である。  奥平剛士は自爆死し、岡本公三は
逮捕された。 重信房子らは、この事件を日本赤軍の誕生日と位置づけた。  
 重信らは長く中東の庇護下に置かれ、旅行者を装ってレバノン入りした日本の捜査員も重信らの姿をそっと
見守るしかなかった。  彼女は、パレスチナ過激派の幹部と接触し、軍事訓練を取り仕切り、数々のテロや
ゲリラに送り込んだ。

 


   1973年7月・・・日航機ハイジャック事件が起きる。
  丸岡修とパレスチナゲリラ4人がオランダのアムステルダム上空で
 日航機を乗っ取り、リビアに着陸した。 乗客らを解放した後、日航機
 を爆破した。 犯人たちはリビア政府に投降、国外追放となった。

 ←左写真   1973年8月、ヨーロッパで日本の民放テレビ番組の
         インタビューに応じ、ハイジャック事件などについて語る
         重信房子

   1974年9月・・・ハーグ事件が起きる。


 奥平純三、和光晴生(ハルオ)らが、オランダ・ハーグのフランス大使館に手投げ弾や短銃を持って乱入した。 
パリ当局に拘禁中の日本赤軍の一人を奪還し、シリア・ダマスカス空港に逃げた。 そこでシリア政府の説得に
応じて投降したが、その後姿を消した。 

 

   1975年8月・・・クアラルンプール事件が起きる。


 奥平純三、和光晴生ら5人がマレーシアのクアラルンプールでアメリカ大使館とスウェーデン大使館を占拠し
た。 彼らの要求は、日本に勾留中の日本赤軍のメンバーらの解放だった。 日本政府は要求されたメンバー
を超法規的措置で出国させた。  

 

   1977年9月・・・ダッカ事件が起きる。


 丸岡修らがバングラデシュで、飛行機乗っ取り事件を起こす。  乗客156人らの人質と交換に超法規的
措置で奥平純三ら6人を釈放させ、身代金を奪い(600万ドル)を奪い、アルジェリアに逃亡した。 

 

【中東和平など国際情勢変化の中で・・・】

   1993年9月・・・パレスチナ暫定自治合意が達成される。(=歴史的な和解)


 これをきっかけに、中東和平が進み、日本赤軍はレバノンのベカー高原を閉鎖せざるを得なくなり、重信房子
らメンバーは他の中東地域や南米、東欧、アジアに散らばったとみられた。 実際に、ルーマニアやネパール、
ボリビアで仲間が身柄を拘束され、国際テロ組織に対する世界的な包囲網から、南米やアジアでも活動の場を
失ったようだ。 
 1997年には、それまで保護していたレバノン治安当局が、岡本公三、和光晴生らメンバー5人を逮捕し、
組織の弱体化に追い討ちをかけた。 ( レバノン政府は岡本公三に対しては 「 彼こそ真の反イスラエル闘争に
かかわってきた 」 との理由で政治亡命を認めている )  

   2000年11月・・・日本赤軍の最高幹部・重信房子が、大阪で逮捕される。


 重信容疑者は、ハーグ事件の計画立案者として国際手配されていた。 重信はテロ事件では表に出ず、陰の
黒幕的存在だった。 中東和平が進み、日本赤軍の居場所がなくなり、重信容疑者も帰国を余儀なくされたと
みられている。


ttp://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Politics_Security/History_after_War2/Japanese_red_army.htm

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11255593273.html


(寺岡恒一の不在中に厳しい総括の準備がなされていた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

■「寺岡の問題はCCに止まれるかどうかまで問われる大きな問題」(森恒夫)
 この日、指導部で残っているのは、森、永田、坂口の3人だけだった。森は、永田と坂口に、寺岡の問題を提起した。


 坂東と寺岡が日光方面へ新たなベースの調査に行っているとき、寺岡恒一に対する批判が本人不在のまま始まったのである。

 森君は、「寺岡君の総括の問題は、寺岡がC.Cとして止まるかどうかまで問われる大きな問題なので、寺岡の従来の活動を体系的に検討しよう」と永田さんと私に言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


C.C(Central Committee)とは中央委員会、つまり指導部7名のこと。


寺岡の問題点として、表向きにあげられたのは、以下の3点である。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき、皆に死体を殴らせたこと
(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと


それぞれについて擁護のコメントをしておく。

(1)小嶋和子の死を「反革命の死だ」といい、死体を埋めたとき 、皆に死体を殴らせたこと
 森は、これを「党建設の高次な矛盾を反革命として処理するのはスターリン主義だ」と批判した。「スターリン主義」とは、強権的独裁者というような意味である。

 しかし、寺岡が小嶋の死を「反革命の死だ」といったのは、この直前に東京から榛名ベースに戻ってきたばかりで、まだ、「敗北死」という言葉を知らなかったのだから無理もないことだった。


(2)杉崎ミサ子の離婚表明をまじめに受け止めなかったこと
 杉崎はさまざまな面で寺岡に依存していたことを反省し、革命戦士として自立するために寺岡との離婚を表明していた。だが、寺岡は本気とは思っていなかったようで、まじめに取り合わなかった。

 杉崎が離婚を表明したのは、「女の革命家から革命家の女へ」 という森の理論に沿ったものだったが、寺岡はこの理論も聞いていないので、離婚表明されたといっても、にわかには信じられなかったのである。

(3)遠山美枝子を逆エビ型に縛ったとき 、「男と寝たときみたいに足を広げろ」と言ったこと
 寺岡の発言に対して、男たちが笑っているのをみて、永田が「そういうのは矮小よ!」と、森を含めた男たち全員を批判したのである。森はその時は何も言わなかったが、その後の会議では、「女性蔑視だ」と寺岡個人に責任を転嫁したのである。


■「寺岡に対して体系的な批判を行う必要がある」(森恒夫)


 ところが、森の批判の矛先は、問題とされた3点ではなくて、別の方向へ向かっていった。「自己批判書」をみると、だんだん論理が飛躍していくことがわかる。


 森は、「我々」とは森と永田のこと、としているが、素直にそう読める人はいないだろう。

 こうした現実に起こった問題と共に我々はその頃から彼に対する体系的な批判を行う必要があると考えていった。
(森恒夫・「自己批判書」)

 それは彼が旧革命左派の古い政治理論を批判することを通り越して、旧赤軍派の政治理論に乗り移る様な傾向を示した事、(私から見れば一知半解と思われる)現状分析や理論を得意げに振り回し旧革命左派の同志があたかも自分よりはるかに遅れているかの様な態度をとった事、以前から旧革命左派の指導部間でそうした態度をとったことがあり、、乗り移り的路線変換やそれに伴うほかの指導メンバーのパージ等を策した事がある事、又、以前から直系的な人脈作りを行う傾向があり、概して他のメンバーに官僚的で厳しいことであった。
(森恒夫・「自己批判書」)

 こうした事から、我々は、真に同志的な”しのぎ合い”の場であるべきC.C.を競争のように彼が考えているのではないかと考え、更に軍事指導者として活動してきた彼の活動内容を検討することにした。
(森恒夫・「自己批判書」)

 我々はこうした批判を彼には12月3日頃任務で出かける前に話して、彼の政治的傾向が官僚主義的スターリン主義的であると批判したが、彼はそれを認めて自分は以前からそういう傾向があった、革命左派への参加も中核なら大きいが革命左派なら小さいしすぐ出世できるという政治的野心をもって入った、等を言った。
(森恒夫・「自己批判書」)


「12月3日頃」というのは「1月12日」の誤りだと思われる。

 その後、彼が任務から帰ってくるまでに我々は、彼のこうした問題は単なる政治的傾向というよりはもはや体質をなしている事、政治的野心競争−官僚主義−女性蔑視−等は、・・・(中略)・・・小ブルテロリズム的な冷酷さすら示しているとして彼を批判してC.C.を除名する必要があるのではないかと考え、その上で、一兵士としていわば0よりマイナスの地点から彼が実践的に総括することを進めるべきだと考えていた。
(森恒夫・「自己批判書」)


 ということは、森は、寺岡の批判を始める前の段階で、寺岡をC.Cから除外しようと考えていたわけだ。


■「それは大いに問題だ。分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ」(森恒夫)

 森氏は、「2・17(71年2月17日の真岡銃奪取闘争)後の厳粛な総括が必要だ。そのなかに寺岡君の問題もあるにちがいない。闘争後のことを詳しく話せ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、革命左派時代の寺岡君のことは知らないので、永田さんにいろいろ質問した。永田さんは躊躇する訳でもなく、積極的に答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 永田は、寺岡が改組案を出したこと にふれた。寺岡を委員長とし、永田を機関誌の編集だけに格下げする改組案だった。しかし、寺岡は改組案をひっこめ、それ以降は永田に協力的になったので、永田は何も問題はないと思っていた、と語った。

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 (森氏は)「この分派主義の問題が寺岡の問題の輪だ。寺岡に厳しく総括要求する必要がある」といった。私も坂口氏もそれにうなずいた。この時から寺岡氏への森氏の呼びつけに、私は抵抗を感じなかった。

 森氏は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ、山田君がもうすぐ戻って来るから、山田君をオルグしよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■森は、はじめから寺岡を処刑するつもりでいた
 結果を先にいえば、数日後に寺岡は「死刑」になる。筆者の結論も先にいえば、森は最初から寺岡に殺意があったと考えている。


 まず、坂東と寺岡の山岳ベース調査が唐突に追加されたのが不自然だ。これはおそらく寺岡のいない状況を作りたかったからだ。森は、革命左派幹部で、寺岡と一緒にやってきた永田と坂口に、寺岡への処刑を納得させるための時間をつくりたかったのではないだろうか。


 寺岡が出発すると、森は、永田と坂口に、寺岡批判を開始し、たてまえ上、3つの問題点をあげたが、そんなことはどうでもよかった。すぐ、過去の活動に焦点を移し、寺岡の過去を聞きだすことによって、処刑の理由になりそうな問題をみつけだそうとした。


 改組案の話を聞いて、これだと思った森は、改組案をことさら大げさにとりあげ、寺岡を「分派主義」ときめつけた。永田が擁護する発言をすると、その擁護を「下から主義」と、永田に問題があったかのように批判した。


 こうして永田と坂口の説得に成功した森は、「寺岡への厳しい総括要求は、他のCCをオルグしなければできないぞ」と、思わず「オルグ」という言葉を使った。これは、永田と坂口に対しても「オルグ」であったことを露呈したものだ。


 もちろん、森は、永田や坂口に「処刑する」とはいっていないから、2人とも数日後に寺岡が「死刑」になるとは想像もできなかっただろう。 だが、森の頭の中では、寺岡の「死刑」について、この日、お墨付きを得たのである。


 以上は、筆者の推測であることを強調しておくが、坂口も、森にはじめから寺岡に対する殺意があったと証言している。

 坂口は、「森は、...寺岡君のことを自己の権力を脅かす危険人物とみなし、彼を除くために、彼を総括することにきめた。...森は、寺岡君を総括にかける前から、除くことを考えていた・・・」と述べており、この点で、植垣の主張と一致している。
(「インパクション18」(1982年)水戸巌・「連合赤軍における『総括』とは何か」)
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11255593273.html

1972年1月15日〜17日 寺岡恒一への総括要求の根回し
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11257042583.html


(寺岡(左)は 「総括がよくわからないんだよね」 と打ち明けたが、坂東(右)は公式見解で逃げた)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真     連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真

■1月15日 「寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」(山田孝)


 1月15日の夕方、山田孝氏が戻ってきた。森氏はさっそく山田氏に寺お菓子に対する厳しい総括要求の必要性を話した。山田氏はすぐ了解し、「尾崎ら4人の死体を埋めに行った時のことで、寺岡が僕を批判したことをおかしいと思っていたんだ」といい、さらに、「小嶋の死体を皆に殴らせたことは、大いに問題だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


寺岡は「山田さんは非常に問題だ」と批判したことがあった。

■1月16日 「寺岡氏の言動をすべて分派主義として否定的に解釈した」(永田洋子)

 森氏、私、坂口氏、山田氏で寺岡氏の問題をまとめることになったが、それは寺岡氏のそれまでの言動をすべて分派主義として批判的、否定的に解釈していくものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1月16日 「アラ探しをするが如く寺岡君の問題点を列挙した」(吉野雅邦)


(吉野は寺岡が批判されていることがわかると、寺岡の問題点を列挙した)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 吉野雅邦 顔写真


 16日の午後、吉野・寺林が帰ってきた。新たなベースに適当な場所は見つからないということだった。

 そのあと、森氏の指示で、私は吉野氏に寺岡氏への激しい総括要求の必要性について話した。続いて、森氏はさらに詳しく説明した。吉野氏は、寺岡氏への厳しい総括要求の必要に躊躇することなく同意した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 私が赤木山の新ベース調査から戻ったとき、(中略)、突然永田から「ネエネエ、寺岡のことどう思う?」と寺岡君について意見を求められたのです。

 永田は興奮し、身を乗り出し私を立たせたまませき込むように聞いたのですが、何のことか判らずキョトンとしている私に永田は、さらにタタミかけるように「寺岡が、あなたから坂東さんに話し相手を変えてるでしょ。気がついてる?気がつかなきゃダメよ。あれ何でだと思う?」というようなことを説明ともなく質問をぶつけてくるので、私はなんとなく、これは寺岡君が批判されているのかもしれないという気がし、安堵しはじめたのです。

 はじめは、永田の質問をいわば私に対するテストではないかと思い内心ビクビクしていたのですが、次第に自分ではないようだと思いはじめるとともに、永田から寺岡君批判への同調を求められると完全にそれに迎合し、アラ探しをするが如く寺岡君についての「問題点」を列挙していったのです。
(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」1983年1月23日付 吉野雅邦の手紙)


 この吉野の証言は、多くのメンバーが総括にかかわったときの心境と同じである。なぜなら、総括に対する態度を観察されて、次に総括にかけられる者が選び出されるからだ。

 こうして寺岡氏への批判は、彼の全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判に発展してしまったのである。この批判は、事実関係を少しでもまじめに検討すればたちまちひっくりかえってしまうものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 それなら、寺岡をよく知る永田が、擁護してもいいと思うが、永田は、「メチャクチャな批判」 をそのまま受け入れ、寺岡に怒りを感じていたのである。


■1月16日「総括ということがよくわからないんだよね」(寺岡恒一)
 そのとき、日光方面へ坂東と共に調査に行っていた寺岡は、どんな様子だったのか。

 寺岡同志は調査中、一貫して元気がありませんでした。山岳での調査活動をやっているときには比較的元気ではあったが、夕食後、テントの中で沈み込んでいることが多く、何か話しかけるのも悪い感じがするくらいでした。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 寺岡は森から、「調査中に総括しておくように」といわれたため、考えこんでいたのである。

 しかし、いよいよ山岳へ戻るという日を明日にひかえる中で、どうしても話したいという感じで、彼のほうから質問されたのです。
 「S同志との離婚問題についてどう考えたらいいんだろうね。それから総括ということがよくわからないんだよね。坂東さんはどう考えていますか」といわれたのです。
 強気な人で、断固としてやっていたと思っていた同志のこの「弱気な」質問は、一瞬信じがたいものでした。

(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、女性差別の問題とか、個々人の革命化が必要とか、公式見解を述べ、意識的に問題を鮮明にすることを避けた。寺岡も「そうだよね」といったきり、それ以上何もいわなかった。

 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東がぐっすり寝込んでいるとき、寺岡が朝食の準備をしていた、という事実は、あとで重要な意味を持つので、記憶にとどめておきたい。


 坂東は、常にナンバー2として、リーダーの公式見解しかいわないようだ。榛名ベースにやってきたときもそうだったし、赤軍派時代、ジョークを言い合っていた植垣に、「こんなことをやっていいのか」と聞かれたときもそうだった。


 ちなみに、手記「永田洋子さんへの手紙」にしても、アラブへ行って、重信房子の配下になってから書いているため、総括内容も言葉づかいも、重信の公式見解を聞いているような印象である。


■1月17日 「坂東はやはり信頼できるな」(森恒夫)

 17日も、朝から午後にかけて寺岡氏への厳しい総括要求についての話が続いたが、森氏は、「あと、坂東をオルグしなければならん」といっていた。
 夕方、坂東氏、寺岡氏、植垣氏、杉崎さんが帰ってきた。山岳調査にいった人はこれですべて帰ってきたことになる。坂東氏はすぐ中央委員のこたつに来た。森氏は坂東氏に頭を寄せて何か言った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森が坂東に言ったことは、「永田洋子さんへの手紙」では「今日は、寺岡同志の厳しい総括要求を行う」となっていて、坂東はすぐに「いいよ」と答えた。ところが坂東の供述調書では、違っているらしい。

 さらに「供述調書」によると、(中略)、森君は、
「きょうは寺岡に厳しく総括要求する。すでに問題点は中央委員会で詰めてあるし、新党の中央委員は総括できなければ死刑もやむを得ないというぐらい厳しくやることについて意思一致している。場合によってはナイフをつきつけるぐらい厳しくやることが必要なのだ。問題はこれまで出されている官僚主義の問題であり、分派主義の問題だ」と言ったのだという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 「分派主義」 については意見一致していたといっていいが、「死刑」や「ナイフ」は申し合わせた事実はなく、森の頭の中にあっただけである。

 すると、森氏は坂東氏に、「寺岡は調査中に逃げようとしなかったか?」と聞いた。坂東氏は、「常にそれに気をつけ2人でいるようにしていたから、そういうことはなかった。寺岡が駅のトイレに入った時には、出てくるまでその前に立って待っていた」と答えた。
 森氏は、「そうか」といって嬉しそうに笑い、まんまるい目をして私たちに、「坂東はやはり信頼できるな。何を任せても大丈夫だ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 実は、坂東は、見張りをいいつけられたことさえ忘れていたという。


■寺岡はすぐに指導部のコタツのところには行けなかった
 森は、執拗に寺岡の活動に分派主義のレッテルを貼り、幹部に根回しを続けた。永田は森の解釈を聞くたびに感情的になるから、2人のコンビネーションはまことに始末が悪い。この間、坂口はどんな発言をしたのか、何を思っていたのかはよくわからない。


 寺岡は、出かける前に言い渡された3つの問題について悩んでいたが、留守中、状況はすっかり変わってしまっていた。まさか、分派主義のレッテルによって活動のすべてが否定されるとは思ってもいないだろう。


 総括を要求したときから、森の脳内ものさしが変化しているので、寺岡がどんなに頑張ったところで、総括を達成することなどできっこないのである。


 寺岡は、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11257042583.html


1972年1月17日 寺岡恒一への総括
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11263270521.html

(寺岡恒一に出口はなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

今回も寺岡の話である。1月14日から続いている。


1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判
1972年1月15日〜17日 寺岡恒一への総括要求の根回し

 寺岡は山岳ベース調査に行っていて、坂東と一緒に戻ってきたものの、すぐに指導部(CC)のコタツのところには行けなかった。厳しい雰囲気を察して足が向かなかったのである。


■「永田さんと坂口さんが逮捕されればよいと思った」(寺岡恒一)

 寺岡氏はなかなか中央委員のこたつの所に来なかった。私たちから総括を課せられ冷たい態度をされていたため、来にくかったのであろう。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 森は冷たい口調で追求を始めた。寺岡は総括要求された3つの問題 について、共産主義化を理解していなかったこと、女性蔑視だったことを認めたが、それ以上はよくわからなかったと答えた。

「そんなことで総括したとはいえない。そんなことは許されない。一体、総括要求ををどう考えているんだ」
森氏の追及は非常に長いもので、それまで問題としてあげてきたことをやつぎばやに追求していくものだった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 寺岡君は、そうした批判を認め、他のメンバーに対して、弱点を掴み、それによって自分を精神的上位に置こうとしたとか、組織の歩みに従いていけないメンバーや権力に屈服する恐れのあるメンバーいついては殺してもよいと思っていたとか、さらに真岡銃奪取闘争を1人でやったかのように言ったこともスターリン主義的傾向の表れだった、と言った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 寺岡君が認め、告白したことも、すべて森君の厳しい追求にあってしたものであり、自分から進んでしたものでないことも明らかである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 こうしたやりとりの中で、寺岡君は、「永田さんと坂口さんが出かけたとき、逮捕されればよいと思った。組織の金を自由に出来ないことを苦々しく思っていたからだ」と答えた。
 永田さんは怒った。私はまずいことを言ったと思った。吉野君が寺岡君の顔面を一発殴った。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「坂口さんは落ちた。永田さんは軽い。森さんは倒せると思っていた」(寺岡恒一)
 森は寺岡に、「おまえは、しのぎあいを競争と取り違えている」と批判したあと、「一人ひとりをどう思っていたかいってみろ」といった。

 寺岡氏は、吉野氏は自分より下だったので対象外だった、坂東氏は軍事の競争相手と見ていたといったあと、


「山田さんは当面の自分の競争相手であり、理論的にしっかりしているようだけど、尾崎らの死体を埋めに行くときにあわてたので、落ちたと思った」


「坂口さんは永田さんに追従しているけど、殴ったりする総括要求にたいして、人民内部の矛盾だからといって動揺する気持ちをもったので、落ちたと思った」


「永田さんについては、森さんが教師で永田さんが生徒のようだと思った。だから、競争相手として軽いと思った」


「森さんは倒すのが大変な奴だと思っていた。しかし、女性関係で弱みがあるから、これをつけば倒せるだろうと思っていた」


といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 無論、無理に言わされたのであり、進んで告白したなどというものではない。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私たちは、誰もこの寺岡氏による評価に苦笑しただけで、怒ったり批判したりする人はいなかった。これらの評価が一面で当たっていたからである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「殴って欲しいんだよね」(寺岡恒一)

 そのあとも森氏は追及したが、寺岡氏が急に立ち上がって、「殴って欲しいんだよね。僕は殴られることを恐れる気持ちがあるから、殴られることによって克服し、そのことによって総括したい」といった。それは思い余っての発言だった。

 森氏は冷たく、「おまえに指示されて殴りはしない。我々はもっと追及する」といってさらに追及していった。しかし、それは同じことの繰り返しであった。それで私は、「寺岡への総括要求はもはやCCだけの問題ではないから、全体で追求しよう」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森氏は、寺岡氏に、「いいか、我々はおまえのような傾向と最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」と激しい口調でいった。寺岡氏は坂口氏と吉野氏の間で正座し黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 全員が起こされた頃にはもう日が変わっていた。


■はじめから寺岡に出口はなかった
 寺岡に対する追求は、総括要求された3点の問題とは、まったく別の問題で行われていることに注意したい。森の根回しによって、そもそもフェアな場ではなくなっていた。


 「全活動を全面的に否定するメチャクチャな批判」(永田)を、寺岡は無理やり認めさせられたが、それを総括要求されるのではなく、「最後まで徹底的に闘いぬくぞ!」といわれた。はじめから寺岡に出口はなかったのである。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11263270521.html

(理論編)「上からの党建設」
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html


 手記を読んでいると、森恒夫の発言として、「上からの党建設」とか「赤軍派は上から主義」とか「永田さんは下から主義」というような言葉がたびたび出てくる。


 「上」とか「下」とか、いったい何のことだろうか。


■森恒夫が提唱した「上からの党建設」


 「上からの党建設」という言葉は、森の造語だが、基本的な説明はみあたらない。おそらく背景となっている理論は、レーニンの組織論で、それを踏襲しているからだと思われる。


 筆者は、革命理論について無知なのをお断りしておくが、レーニンの組織論をもとに、森の「上からの党建設」をまとめてみると、こんな感じになるのではないだろうか。

 プロレタリアート大衆(労働者階級)は、政治意識はそれほど高くなく、せいぜい、無秩序な労働組合を乱立する程度のものである。したがって、プロレタリアート大衆に革命を期待することはできない。


 革命を担うのは、プロレタリアートの中の一握りの革命エリートである。党建設は、革命エリートである我々が、中央委員会を結成し、「上から下へ」と整然と組織しなければならない。だから、党に対して民主的な権利(選挙、具申、異議申し立てなど)を与える必要はない。


 すなわち、我々革命エリートで構成される党が前衛となって、プロレタリアート大衆を目覚めさせ、プロレタリアート革命を達成しなければならない。


 ずいぶん傲慢な感じがすると思うが、わざとそう書いてみたのだ(笑)


 というのは、当時の大学生は、実際、世間からエリートとみられていたし、大学生側にもエリート意識があった。だからアジ演説は、「労働者諸君!」という上から目線の呼びかけで始まっていた。


 中でも、過激派と呼ばれたセクトは、大衆を解放するために革命を担っているという先鋭的かつ犠牲的意識が高かったので、「人民やシンパの人々を後方化し、自分たちの闘いに奉仕させていくものであった」(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)のである。


 森恒夫は、永田洋子を共産主義化の観点から高い評価をする一方で、「上からの党建設」という観点からは、「自然発生的」「下から主義」と批判的にみていた。


 「自然発生的」というのは目的意識がないという意味で、「下から主義」というのは、上意下達でないという意味だ。こうした批判から、森は極めて官僚的な組織を理想としていたことがわかる。


 さて、プロレタリアートを、エリートと大衆に区分したのは、エリートが大衆を引っぱっていくためであった。しかし、実際に起こったことは、2段ロケットのように、エリートの部分だけが切り離されて、はるかかなたへ飛んでいってしまったのである。


 以下に、これまでのコラムから、「上からの党建設」に関連する証言を抜粋しておく。


■1971年12月18日 12・18集会(柴野春彦追悼集会)
 集会の内容について、森は次のような批判を行っている。

 (森は)永田さんから渡された12.18集会に宛てた革命左派獄中アピールに目を通し、しばらくしてから次のようにいった。
「12・18集会は、銃による攻撃的な殲滅線や上からの党建設をあいまいにして爆弾闘争を主体にした武闘派の結集を呼びかけており、集会の眼目も逮捕されたメンバーの救済を目指したものに過ぎない。また、革命左派獄中メンバーは、教条的な反米愛国路線や一般的な政治第一の原則の強調に終始していて、革命戦争のリアリズムを否定し、党組織を政治宣伝の組織に低めている。何よりも獄中における革命戦士化(共産主義化)の闘いの放棄という致命的な誤りを含んでいる」
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)


■1971年12月23日 「上からの党建設」

 この時の話の中で、森君は、”上からの党建設”ということを強調している。これは彼の造語で、指導部による路線闘争を軸とした党建設を強調するものであり、上部による指導制を重視するものであった。
 赤軍派は、路線闘争の一貫した堅持によって、”上からの党建設”を追及してきたが、革命左派は、自然発生的であるが故に、”下からの党建設”にとどまっている。だからその共産主義化の闘いは自然発生的なものに留まり、赤軍派により目的意識的なものに発展させられた」と説明した。この”上からの党建設”の強調によって、彼は、共産主義化の戦いをさらに意識的に進めてゆくことになる。
(坂口弘・「あさま山荘1972(下)」)

 私は、たしかに、革命左派は自然発生的で、「下からの党建設」であり、それは路線闘争を回避してきたからだと思い、「最も路線闘争を回避した革命左派と階級闘争を組織してきた赤軍派が、それぞれ武装闘争を追及し銃の地平で共産主義化の獲得を問われる中で出会ったといえるんじゃないの。だから、それまでの新左翼内で繰り返し起こった野合と違い、日本の階級闘争史上初めての革命組織の統合ができるといえるじゃないの」
といった。
 革命左派の欠点が共産主義化によって克服されると思った私は、当時このように思い込み自分で感激してしまった。私は、赤軍派の「上からの党建設」がどういうことなのか考えないままそれを受け入れたのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1971年12月28日 尾崎充男への総括要求

 すると、森氏は、「前から永田さんは被指導部の者のところに行って指導部会議の内容を伝えているが、それは永田さんの自然発生性であり、皆と仲良くやろうというものであり、指導者としては正しくない。新党を確認した以上、そういうことはもはや許されない」と私を批判した。
 (中略)
 そのため、私は、被指導部の人たちの様子にますます疎くなり、被指導部の人たちは新党の内容が分からないまま一層自己批判のみを課せられていくことになってしまったのである。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 これは「上からの党建設」 に基づく批判である。もともと革命左派は、永田がメンバーによく情報を伝えていて、下部メンバーの意見も聞き、風通しは悪くなかった。森は永田のスタイルを踏襲し、理論化することが多かったが、この点については批判的だった。


■1972年1月8日 メンバーが活動に出発、金子が会計から外される

(森氏は)「金子君は、土間の近くの板の間にデンと座り、下部の者にやかましくあれこれ指図しているではないか」と説明し、さらに、「大槻君は60年安保闘争の敗北の文学が好きだといったが、これは問題だ」と大いに怒った。
(中略)
 森氏はそのあとも、「金子君は下部の者に命令的に指示しているが、これも大いに問題だ」と批判していたが、そのうち、ハタと気づいたような顔をして、「今の今まで、金子君に会計を任せていたのが問題なのだ。永田さんがこのことに気づかずにいたのは下から主義だからだ。直ちに、会計の任務を解くべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■1972年1月14日 不在中の寺岡恒一への批判

 森氏は、しばらく黙っていたが、「それは大いに問題だ。改組案を出したのは、寺岡君の分派主義である。この分派主義と闘わずにきたのは、永田さんが下から主義だったからだ。分派主義と闘う必要がある」と断定的にいった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■(理論編)「総括」と「敗北死」− 内なる革命か、私刑か −

 「新党」が「共産主義化」によって諸個人の個性を欠いた意思排除しようとしたのは、それを当時の革命戦争の遂行にとって障害とみなしたからである。「新党」は諸個人の個性を解体し排除することによって、「上からの指導」と称する激しい官僚的な統制の下に全面的に従属させ、党の指示や決定を忠実に実行させようとしたのである。
(永田洋子・「続十六の墓標」)


■(理論編)「共産主義化」 − 死をも恐れぬ革命戦士となること −

 云うまでもなく革命戦士の共産主義化の問題がこれ程迄に重要な問題としてとりあげなければならなかったのは、単に従来の闘争で多くの脱落兵士、逮捕−自供−逮捕の悪循環が産み出された為ではない。革命戦争がロシア型の機動戦ー蜂起による権力奪取の革命闘争の攻撃性の内実を継承しつつ、現代帝国主義世界体制との闘争に於てプロレタリア人民を世界党−世界赤軍−世界革命戦線に組織化してゆく持久的な革命闘争として創出されていった事実と、その中で文字通り「革命とは大量の共産主義者の排出である」ように不断の産主義的変革への目的意識的実戦が「人の要素第一」の実戦として確立されなければならない事、その端緒として党−軍の不断の共産主義化がまず要求されるという事である。


 60年第一次ブンド後の小ブル急進主義運動は、日本プロレタリア主体の未成熟という歴史的限界に規制されつつも、味方の前萌的武装−暴力闘争の恒常化によって内なる小ブル急進主義との闘争を推し進め(第二次ブンドによる上からの党建設)蜂起の党−蜂起の軍隊としてその内在的矛盾を全面開花させることによって小ブル急進主義との最終的な決着をつける萌芽を産み出した。大菩薩闘争こそ、こうした日本階級闘争の転換を画する闘いであったと云わねばならない。


 この69年前段階武装蜂起闘争(筆者注・赤軍派の大菩薩峠での軍事訓練)の敗北はH・J闘争(筆者注・赤軍派によるよど号ハイジャック事件)による上からの世界革命等建設の再提起と12/18闘争(筆者注・革命左派による上赤塚交番襲撃事件)による銃奪取−味方の武装−敵殲滅戦の開始を告げる実践的な革命戦争の開始によってはじめて日本に於るプロレタリア革命戦争へ止揚される道を歩んだ。


 旧赤軍派と旧革命左派の連合赤軍結成→合同軍事訓練の歩みは、従ってその出発当初からこうした日本革命闘争の矛盾を止揚する事を問われたし、とりわけ69年当時の「党の軍人化」−実は蜂起の軍隊建設−を自ら解体し、遊撃隊としての自己の組織化から党への発展をめざさなくてはならなかったし、そのためにこそ軍の共産主義化の実践的解決を要求されたのである。


 従って、遠山批判のみならず、相互批判−自己批判の同志的な組織化による共産主義化の過程は、すべての中央軍、人民革命兵士−連合赤軍兵士に対してこうした日本革命戦争の歴史的発展に対する自己の主体的内在的な関わり方の再点検を要求したし、かつ24時間生活と密着した闘争の中に於るその実践的な止揚を要求した。
(森恒夫・「自己批判書」)
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11266447427.html

1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その1・戸惑うメンバー
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11273531462.html


(メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真


 今回掲載するの内容は、前回 から続いているが、すでに日付は18日になっていた。

 寺岡が死刑にいたる過程は詳しくみていくので、何回かに分割して掲載する。


■「永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた」(坂口弘)

 被指導部の人たちが全体会議のため集った頃は、もう18日の午前1時頃になっていた。皆は急に起こされ、一体なんだろうという様にボンヤリとしていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君に指示された永田さんが、経過報告を兼ねてアジ演説をぶった。それを聞いて、森君への”乗り移り”(これこそ本当の”乗り移り”だろう)の鮮やかさに驚いた。寺岡君の胸中は知るべくも無いが、抵抗が無かったとは到底言えまい。
 永田さんの見事なアジ演説にも拘らず、みんな黙っていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 寺岡の「乗り移り」とは、赤軍派の理論を受け入れたとき、革命左派のメンバーに対し得意げに語ったことから、森に「乗り移り」と批判されていたことをさす。

 しかし、皆はよくわからない様子をして少しも盛り上がれず、そのため、私の話は空回りしているようだった。私は、「どうして、こんな重大な問題にみんな黙っているの」といったが、やはり皆はぼんやりとして黙っていた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 ここで吉野が、けしかけるが、やはりメンバーはピンとこない様子で黙ったままだった。

 そこで私は、「みんな判らないような顔をしているけど、考えてごらん。思い当たることがあるでしょう。みんな今まで寺岡に指導されてきたと思ったらだめよ。彼のは指導じゃないんだから」といったが、それでも誰も積極的に語ろうとしなかった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡の何が問題なのかよくわからなかった」(植垣康博)

 私は、寺岡氏が永田さんや坂口氏が逮捕されればよいと考えていたことを大変なことだと思ったものの、寺岡氏の指導が他の指導者たちのそれと特に変わっていたわけではなかったので、一体彼の指導の何が問題なのかよくわからなかった。だから、発言しなかったのではなく、発言できなかったのである。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 そうしたなかで、坂東氏が、大きな声で、「お前らひとごとのような顔をしているがなー、寺岡はなー、革命を売ろうとしたんだぞ!永田さんや坂口さんを敵に売ろうとしたんだぞ!黙っていてもしょうがない、何とかいえ!」と怒鳴った。これに、皆はびっくりし、寺岡氏を批判し始めた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 しかし、その批判の内容は、寺岡氏の指導が自分勝手で個人主義だったとか、被指導部の者への口のきき方が乱暴で官僚主義的だったというもので、寺岡氏に固有のものとはいえなかった。それは、中央委員への指導への不満を寺岡氏に集中したものであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「寺岡を真ん中に引き出して追求すべきだ」(大槻節子)

 批判が活発になっていった時、大槻さんが、立ち上がり寺岡氏を指をさして、「寺岡をそんなすみに置かないで、真ん中に引き出して追求すべきだ」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 すると、寺岡氏の両脇に坐っていた坂口氏と吉野氏が寺岡氏を私たちの方へ突き出した。寺岡氏は皆に引っ張られるようにして真ん中に引き出され、私の前に正座させられた。そのまわりを皆が取り囲んだ。私は、寺岡氏の胸倉をつかむと、寺岡氏のメガネをはずしてそばにいた山崎氏に渡し、「この野郎!ふざけた野郎だ!」といいながら、顔面と腹部を1発ずつ殴った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 植垣が殴ったのをきっかけに、被指導部のメンバーが寺岡を殴りだした。


■永田は寺岡を擁護しないばかりか、森の側に立って寺岡を攻撃した


 寺岡への批判の根回し は、森が指導部に行ったもので、メンバーには知らされていなかったし、そもそも悪意を持って決めつけるものでしかなかったから、急に言われても、メンバーは寺岡の何が問題なのかわからなかった。


 坂東の恫喝によって、ようやく批判を口にしたが、「自分勝手」「口のきき方が乱暴」「官僚的」と、指導部全員にあてはまることをいっただけで、特に寺岡の問題ではなかった。


 寺岡は、革命差派時代、永田を格下げする改組案を出したことは確かではあるが、すぐに撤回している。


 当時、革命左派は、反永田機運が漂っていた。改組案撤回後は、寺岡が永田支持に回って永田を支え、協力してきたこともまた確かなのである。


 また、連合赤軍になる直前、森の革命左派批判に、永田への援護射撃を行ったのは寺岡だけであった。坂口と吉野は黙っているばかりだったのである。


 寺岡は、森に批判されるだけならともかく、永田によって、革命差派時代の全活動と人格を否定されてしまったのだから、その悔しさたるや察するに余りある。


 メンバーは、6名の死によって、「総括」は一区切りついたと思っていたので、また始まったのかとうんざりした。だが、「総括」ではすまなかった。「死刑」という「新たな地平」に連れて行かれるとは、誰も予想していなかったのである・・・・・唯一、森恒夫を除いては。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11273531462.html


1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その2・森が足にナイフを突き立てる
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11274435877.html

(寺岡は、坂東を刺して逃げようと思ったというが・・・・・)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍・寺岡恒一顔写真

 森は、寺岡を総括にかける際、永田にアジ演説させたが、それは寺岡が革命左派の幹部だから、メンバーを同意させるには、永田のほうがよいと思ったのであろう。


 さて今回は、いよいよ森の追求である。


■「坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」(寺岡恒一)


森  「おまえは新しい組織をつくろうとしたようだが、新しい組織づくりができると思ったのか」
寺岡 「できるとは思わなかった」
森  「できなかったら、どうするつもりだったのか」
寺岡 「逃げるつもりだった」
森  「いつ逃げようと思った」
寺岡 「坂東さんと調査に行っていた時です」
坂東 「どうやって逃げようと思った」
寺岡 「テントで寝ている時に坂東さんをナイフで刺して逃げようと思った」
森  「どうして坂東を刺して逃げなかったんや」
寺岡 「坂東さんにはそういうスキはなかった」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)

 (私たちは)さらに激しく怒り、寺岡をめちゃくちゃに殴った。あまりに激しく殴るため、寺岡氏が倒れないよう胸倉をつかんでいた私まで殴られる有り様だった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「『おや?』と思った」(坂東国男)

(坂東は寺岡がウソの告白をしていることに気づき「おや?」と思った)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 坂東国男 顔写真


 ここで思い出さなければならないのは、1月16日(山岳調査の最終日) に、寺岡が坂東に、「総括ということがよくわからないんだよね」と打ち明けたときのことである。再掲載すると、、、

 その日は、1日中調査したため疲れたのと、思いがけないかたちで、私自身をとらえかえさざるをえなくなったため、肉体的にも精神的にもすっかり疲れてしまい、ぐっすりと寝込んでしまいました。彼のほうは一晩中考えこんでいた様子で、次の日、私のために朝食の準備までして起こしてくれたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 だから寺岡は、逃げようと思えば、逃げられたし、坂東を刺そうと思えば刺せたのである。それを一番よく知っていたのは坂東本人であった。

「私を殺そうとした」というのを聞いて、逆に、「おや?」と私は思ったのです。(だから思わず、「どうして逃げようとした」と聞いたのです)そんなことはないはずと思うと、なぜか怒りよりもシラーという風が心の中をとうりぬけていったのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


■「宮殿をつくって、女をはべらかせるつもりだった」(寺岡恒一)


森  「組織を乗っ取ったらどうするつもりやったんや」
寺岡 「植垣君を使ってM作戦をやり、その金を取るつもりだった」
森  「M作戦をやっても金額はたかが知れてるぞ」
寺岡 「商社から金を取るつもりだった」
森  「いくら取るつもりだった」
寺岡 「数千万円取るつもりだった」
森  「そんなに金をとってどうするつもりだったんだ」
寺岡 「宮殿をつくって、女を沢山はべらかせて王様のような生活をするつもりだった」
森  「今まで女性同志にそうしたことがあるんか?」
寺岡 「そうしたことはないが、いろいろな女性と寝ることを夢想する」
森  「誰と寝ることを夢想する?」
寺岡 「大槻さんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 M作戦とは、赤軍派時代に行った銀行強盗 のこと。

 森に「他にはだれか」といわれて、金子、伊藤、中村、寺林、永田の名前をあげたが、寺岡はそのたびに本人たちから殴られた。

森  「お前はいったいなんのために闘争に参加してきたんや」
寺岡 「革命左派は小さな組織だったので、すぐ幹部になれると思ったからです」
森  「それなら、おまえにとっては、どの組織でもよかったのとちゃうか」
寺岡 「はい、そうです。どの組織でもよかったんです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


■「ナイフを刺して追求するぞ。いいな」(森恒夫) 「うん」(永田洋子)


森  「おまえは情報を売って助かる道を確保するつもりだったといっていたが、今までに権力に情報を売ったことはなかったのか」
寺岡 「ありません」
森  「本当にないのか」
寺岡 「本当にありません」
森  「本当にないのか!」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 皆も「どうなんだ!」「隠すな!本当のことをいえ!」と追求しだしたとき、森は、皆の輪の後ろのほうにいた永田に小走りに来て、「寺岡の足にナイフを刺して追求するぞ。いいな」と確認した。永田は、「うん」とうなずいた。

森  「おまえが逮捕された時(69年の9・3、4 愛知外相訪ソ訪米阻止闘争 で逮捕された時)、おまえだけが執行猶予になったなー。これはどういうことや」
寺岡 「判らない」
森  「どうなんや」
寺岡 「叔父さんに父が手を回したのかも知れないが、そのことを僕は知らない」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 この追及の過程で、森は正座した寺岡の足にナイフを突き立てた。

 すると、森氏は、私に、「後ろで寺岡の手を持って押さえてろ」と指示した。私は、寺岡氏の後ろに回り、寺岡氏の両手を後ろ手に持ち、押さえた。森氏は、寺岡氏の前に正座すると、再び権力との関係を追及したが、その際、いきなり寺岡氏の左腿に細身のナイフを刺した。寺岡氏は、「ううっ」とうめいき声をあげて状態をよじらせた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 突然、寺岡君の表情が苦痛に歪んだ。何事が起きたのか、と思って彼の全身を見回すと、森君が左大腿部の上で、ナイフの柄を握っていた。ナイフを突き刺したのだ!息を呑んだ。ナイフを突き刺す状況ではないし、事前に相談があった訳でもない。不意打ちである。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 森君は、握った柄を時々ゆすったりした。残酷だった。寺岡君は「ううっ」と呻いたり、体を捩ったりして堪えた。こんなにされても、彼は権力との関係を否定した。私は見ていないが、この後、森君はナイフを抜いたらしい。彼の供述調書によると、ナイフの先が3センチほど曲がっていたという。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「少しも彼への憎しみがわいてこなかった」(坂東国男)


森  「おまえ、一度東京へ1人でいったことがあったなあ。あれ、何しにいったんや」
寺岡 「学生時代のサークルの友だちの所にカンパをもらいに行きました」
森  「本当にそうか」
寺岡 「そうです」
永田 「あんた、あの時、帰りがばかに遅かったじゃないの?どうしてあんなに遅かったの?」
寺岡 「慎重を期して遠回りの電車で帰ったから、遅くなったのです」
永田 「ちゃんといいなさいよ。本当にそうなの」
寺岡 「本当にそうです」
(永田洋子・「十六の墓標(下)」より抜粋編集)


 寺岡は、権力との関係についてはきっぱりと否定した。

 その時、森氏は、ナイフを抜き、坂東氏に耳打ちした。坂東氏は、寺岡氏のそばに坐ると、「この野郎、本当のことをいえ」といって、ナイフを寺岡氏の左腕の付け根に差した。それでも寺岡氏は、権力との関係を否認した。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 それは名誉を大きく傷つけられた彼の自己尊厳を守る最後の踏ん張りであった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 こうした追求のため、寺岡氏の足の下から血がしみ出して来たばかりか、腕からも血が流れて来て、私の手や袖口が真っ赤になった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 森同志が足を刺したと同時に、決意して腕を刺しました。しかし、決意してやってみても、少しも彼への憎しみがわいてこなかったのです。非常に矛盾していることではあるんですが。死刑を宣告したことに対しても、敵対矛盾だからやむをえないと思いつつ、同志達がナイフやアイスピックでで刺すのを外から眺めていたのです。
(坂東国男・「永田洋子さんへの手紙」)


 坂東は、「おや?」とか「シラー」と思ったり、憎しみがわいてこなかった、とふりかえっているが、やってることは冷酷そのものである。彼はどんな状況にあっても、常に森の命令を忠実に実行した。


■判断は森の専権事項になっていた

 森の追求に寺岡はありもしない露悪をした。これまでも、厳しい追求を受けると、ありもしない露悪をするメンバーがいたが、寺岡も例外ではなかった。


 森がナイフを刺したのは、寺岡になにがなんでも権力との関係を「自白」させようとしたものだが、そんなことをしてまで「自白」を引き出すことに意味があるとしたら、それはあらかじめ予定している「判決」を正当化するためとしか考えられない。


 森はナイフで足を刺して「自白」させることに失敗すると、次は坂東に腕を刺させることぐらいしか思いつかなかった。うまくいかないと、立ち戻って考え直すのではなくて、より苛酷な手段をとるのは、これまでの公式どおりである。


 寺岡が権力との関係を「自白」すれば「反革命」と断罪されるだろう。しかし、寺岡はきっぱり否定した。決して自暴自棄になっていたわけではないのである。


 では「自白」しないとどうなるかというと、これまでの公式では、「総括する態度ではない」と批判され、やはり「反革命」と断罪されるのである。事実も公式どおりとなる。


 こんなヘンテコな論理がやすやすとまかり通るのは、指導部もメンバーも思考停止し、すべての判断を森にゆだねるようになっていたからである。すでに判断は森の専権事項になっていたのだ。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11274435877.html


1972年1月18日 寺岡恒一の死刑 その3・「革命戦士として死ねなかったのが残念です」
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11276072162.html

(青砥幹夫のイラスト・寺岡の処刑は残酷だった)
  連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-連合赤軍 寺岡恒一の処刑

■「反革命といわざるをえない。死刑だ」(森恒夫)


 しばらくすると、森氏は、改まった大きな声で、「おまえの行為はこれまでのことと異なり、反革命といわざるをえない。これまでと違う根本的な総括を早急にやる必要があるが、おまえにそれを期待することはとうていできないので死刑だ」といった。
 皆は、「異議なし!」といった。私も皆と一緒に「異議なし!」といった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森君は、「声が小さい!どっちなんだ、ハッキリしろ!」と強い口調で、再度返事を促した。その声に威圧されて、全員が、「異議なし!」と大声で答えた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「革命戦士として死ねなかったのが残念です」(寺岡恒一)


 そのあと、森氏は、寺岡氏に静かな口調で、「おまえに死刑を宣告する。最後に言い残すことはないか」といった。寺岡氏は沈痛な、しかし落ち着いた声で、「革命戦士として死ねなかったのが残念です」と答えた。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)

 森氏はセーターとシャツをまくりあげて胸をはだけると、「お前のような奴はスターリンと同じだ。死刑だ」といって、アイスピックを心臓部に刺した。しかし、一度では絶命しなかった。すると、森氏は、全体を見まわした。おそらく、誰が自分に続くのか確かめようとしたのであろう。


 私は、どのみち殺されるのなら早く殺してしまったほうがいいと考え、また、このような誰もやりたくない任務を党のために率先してやるべきだと思っていたので、「よし、俺がやる」といって、そばにいた大槻さんとN氏に寺岡氏を支えるのを代わってもらい、森氏からアイスピックを受け取って寺岡氏の心臓部を刺した。血はまったく出なかった。私は2度、3度と刺したが、絶命しなかった。


 すると、青砥氏が私に変わってアイスピックで刺した。やはり絶命しなかった。私は、脊髄の付け根の延髄を刺せば即死すると聞いていたので、「脊髄の付け根を刺せばいいのではないか」というと、誰かが寺岡氏の首の後ろをアイスピックで刺した。それでも絶命しなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 首の後ろをアイスピックで刺したのは、杉崎ミサ子である。杉崎は寺岡の妻であった。

 彼女は、寺岡君を殺すことで早く楽にしてあげようと、進んでこの辛い行為を引き受けたのだった。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


■「寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた」(植垣康博)


 「植垣、首を絞めろ」と坂口氏がいった。私は、寺岡氏の後ろから両手を彼の首にまわして締めようとしたが、締めきれなかった。吉野氏が「ロープで締めたほうがいい」といい、誰かがサラシを持ってきた。私たちは寺岡氏を早く絶命させようと必死だった。サラシを寺岡氏の首にまいて、吉野氏や山本氏、大槻さん、長谷さんたちが両方から引っ張り上げて首を締めた。寺岡氏の体は、数分の間、けいれんしていた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 この時、輪の中から出てきた森氏は、その頃、皆の輪のうしろでウロウロしていた山崎氏をジロリと見て、私に、「問題だ」といった。そのあと再び輪の中に入って行った。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 以前から森は、総括に対するメンバー態度を、注意深く観察していた。そして、その態度によって、次に総括にかける者を選び出していたのである。

 そのうち、けいれんは間遠になり、止まった。青砥氏が寺岡氏の手首を取って脈をみていたが、しばらくして、寺岡氏が死んだことを告げた。サラシがはずされると、寺岡氏の体はくの字になって床に崩れた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 寺岡氏が絶命したのは18日の午前7時ごろで、もうあたりはすっかり明るくなっていた。森氏が、寺岡氏の死体を床下に移すように指示した。何人かが寺岡氏の死体を床下に運んでいった。寺岡氏の坐っていたシートの上には血が沢山たまっていた。私は皆と一緒にそれをふきとったりしていたが、誰も一言も発せず黙々とこれらのことを行った。誰も大変なことをしてしまったという感じで、いうべき言葉がないようであった。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


■「我々はすごく高い地平に来たのだ」(森恒夫)

 朝食後、中央委員会が開かれたが、この時ももっぱら森氏が話した。森氏は、「寺岡との闘争は、テロリズムとの闘いだった。CCのなかからテロリズムを出したのは、共産主義化の闘いが進んだからだ。我々はすごく高い地平に来たのだ」と感激したような面持ちで語った。
 そのあと、「実際に、ナイフで刺すのは大変なことだ」といって、ナイフやアイスピックで刺した坂東氏、青砥氏、植垣氏を大いに評価した。
(永田洋子・「十六の墓標(下)」)


 続いて森は、スターリン批判を展開し、寺岡をスターリン主義ときめつけて死刑の位置づけを行おうとした。スターリン批判とは、世界革命の観点がない、官僚的、粛清を行ったという批判であった。

 私は、スターリン主義に関連付けたところに疑問を感じた。その頃は、中ソ論争の影響を受け、私たちはプロレタリアート独裁を維持したという観点からスターリンを擁護していたので、寺岡君をスターリン主義と決め付けた最初の段階からずっと違和感を抱いていた。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 革命左派の永田、坂口、吉野は、スターリン主義批判に同意しなかった。かといって反対もしなかったので、森は同じ主張を繰り返すことになり、中央委員会は夕食後まで続いた。それまでメンバーは、寺岡が死刑になった理由がわからなかった。


■「森君の総括を理解できた者は1人もいなかった」(坂口弘)

 全体会議は夜9時ごろから始まった。
 森は、最初、永田にメモを渡して説明をさせたが、永田はうまく説明が出来なくて、しどろもどろになった。

 森君は次のように述べた。
「寺岡の問題は、単に従来からどういう傾向を持っていたとか、どういうことをしたとかいうことではない。革命戦争をやり抜く指導部として、この間の6名の死を生んだ苛烈な革命戦士の共産主義化を主導する立場に居ながら、自己の内在的な総括をしようとせずに、反革命という名での死んだ同志への清算、競争の中でのヘゲモニー構築というスターリン主義的な政治を持ち込んだことが、今後の党建設にとって致命的な問題を突き付けてこのような闘争をしなければならなかった。6名の死以後も共産主義化の闘い−−−党建設の闘いはより高次な地平で永続的に発展することを問われており、6名の死によって、何かしら闘争が終わったということではない」
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)


 森は、「寺岡は分派主義だ」ということも強調した。指導部に意見を言う者、つまり、イエスマンでないと分派主義者ときめつけられてしまうようだ。

 この内容を理解できた者は1人も居なかったと思う。
(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)

 私は、指導部の寺岡氏の死刑の総括になるほどと思ったが、総括要求が更に続いていくというのには、いささかげんなりする思いだった。その頃は、なにかというと行われる会議そのものが苦痛になり出した時だったので、この思いは大きかった。しかし、そのように思っても、共産主義化を必要な闘いとみなす考えには変わりはなかった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■「みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった」(青砥幹夫)

 メンバーは、理由がよくわからないまま寺岡を殴り、死刑判決に「異議なし!」といわされた。「いわされた」 というのは、総括に対する態度が断固としていないと、次の総括のまな板にのせられるを知っていたから、同意するしかなかったのだ。


 組織がここまで暴走してしまうと、もはや個人の力ではどうすることもできない。

 あの場には横のつながりが一切ないのです。いかに革命兵士として充分ではないかを自己批判要求され、それを乗り越えよということを言われた。みんな一人一人になってしまっていた。総括を要求されるときも一人だし、総括を要求するから集れと言われて集っても、一人一人がバラバラに言われるから集っているに過ぎない。

 何らかの共通の認識を持って追求するということはなかった。みんなバラバラになっていたし、バラバラにされてしまった。

(「情況2008年6月号」 『36年を経て連赤事件を思う』・青砥幹夫インタビュー)


 これは、独裁者の支配体制そのままである。

 逃れる手はただひとつ、独裁者がいなくなることであろう。
ttps://ameblo.jp/shino119/entry-11276072162.html







メンテ
連合赤軍のリンチ殺人をモチーフとした映画 熊切和嘉『鬼畜大宴会』(1998) ( No.10 )
日時: 2022/05/18 13:52
名前: スメラ尊 ID:HreHUpPo

連合赤軍のリンチ殺人をモチーフとした映画 熊切和嘉『鬼畜大宴会』(1998)

監督・脚本・編集 - 熊切和嘉
撮影 - 橋本清明
音楽 - 赤犬
製作会社 - 鬼プロ作品
配給 - 伏龍同盟、鬼プロ配給

動画
https://www.youtube.com/watch?v=eIzbKthJYp8

『鬼畜大宴会』(英題: KICHIKU )は、1997年制作、1998年公開の日本映画。
監督は熊切和嘉で、彼の大阪芸術大学芸術学部映像学科における卒業制作として制作された16mmフィルムである。

第20回ぴあフィルムフェスティバルで準グランプリを受賞し、学生の作品ながら異例の劇場公開がされ、ロングランヒット作となった。また第48回ベルリン国際映画祭にて招待作品として上映され、第28回タオルミナ国際映画祭でグランプリを受賞した。

1970年代、日本の学生運動で起きた連合赤軍のリンチ殺人をモチーフとし、左翼組織の内部崩壊による惨劇をスプラッター映画として描写した青春群像劇。

劇場公開時のレイティングはR18。熊切は以後映画監督として日本国内外の映画祭の常連となり、近藤龍人、山下敦弘、宇治田隆史ら他の参加スタッフもその後プロとして活躍している。


キャスト
雅美 - 三上純未子
岡崎 - 澤田俊輔
熊谷 - 木田茂
杉原 - 杉原敏行
藤原 - 小木曽健太郎
山根 - 財前智宏
相澤 - 橋本祐二
平 - 平良勤
メンバー1 - 東野哲也
メンバー2 - 仙田学


全世界に波紋を投げかけた、熊切和嘉監督(『私の男』『海炭市叙景』)衝撃の長編デビュー作!

◆98年タオルミナ国際映画祭グランプリ受賞作品
◆98年ベルリン国際映画祭正式招待作品
◆第20回ぴあフィルムフェスティバル/
 PFFアワード'97準グランプリ作品

『青春☆金属バット』『ノン子36歳(家事手伝い)』『海炭市叙景』『莫逆家族 バクギャクファミーリア』、『夏の終り』と、 唯一無二の作品を発表し続け、最新作『私の男』が第36回モスクワ国際映画祭コンペティション部門で最優秀作品賞、 最優秀男優賞をダブル受賞する快挙を成し遂げた、熊切和嘉監督・衝撃のデビュー作!

70年代の学生運動グループの対立と崩壊を描いた、壮絶で残虐なこの問題作は、初監督作ながら全世界の映画祭を震撼させた―。

熊切監督が大阪芸術大学の卒業制作として制作した本作は、スタッフ・キャストすべてノーギャラ!
しかしながら、『私の男』の脚本も担当した宇治田隆史、撮影を担当した近藤龍人、山下敦弘(『リンダ・リンダ・リンダ』『マイ・バック・ページ』監督)、 向井康介(『色即ぜねれいしょん』『陽だまりの彼女』脚本)など、後の日本映画界をけん引する錚々たる才能が学生時代にスタッフとして参加している。

音楽は『味園ユニバース』出演で話題の赤犬が担当。

世紀末の日本を戦慄させた狂気と暴力の世界は、公開から15年以上の時を経た今も、観る者の脳髄を激しく殴打する!!


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