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[3484] 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?
日時: 2022/05/07 17:45
名前: スメラ尊 ID:hljhk4o.

1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?


中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため



▲△▽▼


中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E8%AA%B0%E3%81%AE%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E9%9B%A8%E3%81%8C+


誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている
黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている
眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも
すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は
されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと
早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を
沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと
跣(はだし)の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ


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70年代過激派の醜い内ゲバを描いたキツネ狩りの歌

中島みゆき キツネ狩りの歌 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D%E7%8B%A9%E3%82%8A%E3%81%AE%E6%AD%8C


中島みゆき は高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか


2017年06月05日 中島みゆき 『生きていてもいいですか』 キツネ狩りの歌
 能天気なピッコロ・トランペットによって奏でられるファンファーレ。2.まで余韻として残っていた「うらみ・ます」の重い空気を吹き飛ばす、みゆき風大人のお伽話。でも、歌われている内容は皮肉めいた暗喩に満ちており、どこか奇妙な明暗を落とす。

 軽快なアルペジオによる爽やかな叙情派フォーク・サウンドは、このアルバムの流れでは躁病的に映る。なので、A面はノン・コンセプトの小品集なのだ。

 昔聴いた時は、単なる寓話として受け止めていたけど、後になって、様々な暗喩を含んだ解釈を知るようになった。

最終的な部分は結局、人それぞれになってしまうけど、大方の意見のように、
70年代過激派の醜い内ゲバを描いたというのが、俺的には納得の落としどころ。



中島みゆきさんの「結婚」につながりそうな噂

現在は独身とのこと。結婚歴もなくずっと独身ですって。
なぜ結婚しなかったのでしょうね。

そういえば、松山千春さんと熱愛したんじゃなかったっけ?〔中略〕

某ギタリストの彼氏とホテルから朝帰りする写真を撮られたことあるし。

高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか。

某プロデューサーと不倫関係で、同棲してるとか。

もっと深刻なのが、同〇愛〇だとか。


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森田童子 - (best)僕たちの失敗 ベスト・コレクション
https://www.youtube.com/watch?v=qEMhYL6E2xA

0:00 ぼくたちの失敗
3:24 蒼き夜は
7:30 雨のクロール
9:30 蒸留反応
15:23 哀悼夜曲
18:38 孤立無援の唄
24:24 さよならぼくのともだち
28:26 逆光線
31:06 サナトリウム
35:48 男のくせに泣いてくれた
39:08 春 漫
41:50 G線上のひとり
45:26 ラストワルツ


森田童子は、1975年、太宰治の絶筆と同名のファーストアルバム『GOOD BYEグッドバイ』でデビューしたシンガーソングライター。
フォーク全盛期にライブハウスを中心に活動を開始し、いまにも消え入りそうな儚い歌声と、弱さや淋しさを肯定する歌詞の世界観は学生運動に挫折した若者の共感を呼び、いつしか「地下のカリスマ」「地下の女王」などとも呼ばれはじめる。

しかしその活動期間はわずか8年にすぎない。6枚のオリジナルアルバムと1枚のライブアルバムを世に問うた後、1983年12月26日のライブを最後に、森田童子は人前から姿を消す。残されたのは、多くの逸話と伝説。カーリーヘアに色の濃いサングラスという特徴的ないでたち、出身地はおろか、年齢や家族構成など、プライバシーを語らない姿勢も伝説化に拍車をかけた。
歌うのをやめた10年後の1993年にはドラマ『高校教師』の主題歌になった「ぼくたちの失敗」が話題を集めた。楽曲は100万枚に迫る大ヒットを記録するが、森田童子が私たちの前に姿を現すことはなく、さらに25年後の2018年4月に世を去った。



森田童子が高校を辞めたきっかけは学生運動をしていた友人が警察に「パクられた」からで、歌い始めたきっかけは友人の死だったらしい。

「ぼく」は彼女自身だ。

なぜ「ぼく」になったのかというと、

「女系家族に育ち、女の嫌な部分、ドロドロした部分を見過ぎてしまって、女を感じさせる女性は苦手になってしまった」

(1983年ラジオインタビューより)

のだという。


伝説のまま逝った森田童子は全共闘世代の挫折感を癒す存在だった

「森田童子が登場したのは全共闘運動が挫折して、少し経った頃。彼女の歌はその全共闘世代の心情、挫折感に寄り添うものでした。たとえば、仲間がパクられた日曜の朝、といったことを歌ったり、高橋和巳の『孤立無援の思想』から来ている『孤立無援の唄』、爆弾教本の『球根栽培法』から来る『球根栽培の唄』といった歌があったり。彼女自身は全共闘世代より少し若くて、運動のピークの頃はまだ高校1〜2年でしたが、東京教育大(現筑波大学の前身)の紛争に関わっていたという話もあった。どこかのセクトに入ってるとか、高校全共闘みたいなかたちでやっていたというのはないとは思うけれど、その文化や気分はすごく色濃く共有しているアーティストでしたね」

 全共闘世代の心情を代弁し、支持を集めているミュージシャンはたくさんもいたが、森田がほかの誰とも違っていたのは、彼女の歌が"弱さ"に光をあてていたことだった。

「森田さんのライブって客が泣くんですよ。死んでいってしまった友人を歌にした『さよなら ぼくのともだち』って歌で、泣き出す人も出てくる。歌っている森田さんも歌いながら涙をぬぐう。全共闘世代って、強がったり過激ぶったりするのが習性で、自分の弱さをさらけだせない人が多かったんですが、森田童子の歌を聴いていると、その弱さを隠さなくてもいい気がしてくる。たとえば(映画監督の)高橋伴明さんは早稲田大学の学生運動出身で、すごい武闘派だったんですが、森田童子が好きだと言っていました。そういう人でも森田さんの歌に感動するんです」


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かぐや姫 神田川 1973年9月20日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB++%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D


2018.10.03
【神田川/かぐや姫】隠された歌詞の意味を紐解く!
やさしさが怖かったと歌う2人の関係性を考察!

1970年代前半に隆盛を極めたフォークソング。その筆頭格に挙げられるグループ「かぐや姫」の代表曲が「神田川」です。肩を寄せ合い同棲生活を送る男女の純愛を描いた歌詞は女性目線と思われていますが、実は、知られざる事実が。「やさしさが怖かった」理由には、当時の若者を取り巻いていた驚きの時代背景があったのです。

フォークソングの代表曲

「かぐや姫」最大のヒットソング

1973(昭和48)年9月、3人組のフォークグループ「かぐや姫」がリリースした「神田川」。

リーダーの南こうせつが、ラジオ局の放送作家だった喜多條忠(当時の表記は喜多条忠)に作詞を依頼しました。

喜多條は学生時代に同棲していた彼女との思い出をモチーフに、わずか30分ほどで書き上げたといいます。

出来上がった歌詞を喜多條からの電話で聞いた南は、その場でメロディーが浮かんだそうです。

「神田川」は、同年7月発売のアルバム「かぐや姫さあど」に収録されました。

南がDJを担当していたラジオの深夜番組でオンエアしたところ、リスナーからリクエストが殺到。

哀愁漂うバイオリンの音色も印象的な「神田川」はシングル曲としてリカットされ、ミリオンセラーを記録しました。

70年代の若者文化のシンボル的な曲で、神田川に架かる東京都中野区の橋のたもとには歌碑が建立されています。


切なくも美しい歌詞と旋律を併せ持った名曲をお聴きください。透き通るハーモニーも聴きどころです。

「四畳半フォーク」の代名詞

「神田川」の代名詞でもあるのが「四畳半フォーク」という言葉。

1960年代に米国で広がったフォークソングは、ボブ・ディランやピーター・ポール&マリーなどに代表される若者の音楽でした。

人種差別反対やベトナム反戦のメッセージを込めた、プロテストソングと呼ばれるフォークです。

同時代の日本もまた、日米安保闘争や東大・日大闘争をはじめとする学生運動が盛んでした。

プロテストソングは社会派フォークのミュージシャン、作品を生み、若い世代の閉塞感や憤りを代弁します。

しかし、国家権力にねじ伏せられた学生運動は70年代に入ると行き詰まり、リアリティーを失いました。

「虚無」に陥った若者たちの心をつかんだのは、個人のささやかな生活や恋愛を歌ったフォークソング。

生活派フォーク、私小説フォークと呼ばれる、歌詞も旋律も日本的なウェット感に包まれた音楽です。

こうした曲はやがて「四畳半フォーク」と称されるようになります。

地方の親元を離れ、東京や大阪などの大都会に出てきた当時の学生の平均的な住まいが、四畳半一間の安アパート。

彼らの生活感を象徴したキーワードが「四畳半」だったのです。

ちなみに、「神田川」の歌詞には「三畳一間の小さな下宿」というフレーズが登場します。

J-POPの源流

時代を反映する力


「四畳半フォーク」という言葉を初めて使ったのは、松任谷由実(当時は荒井由実)だったとも言われています。

貧乏じみた生活のわびしさを追憶する暗い雰囲気の曲を、揶揄(やゆ)するニュアンスが含まれています。

1972(昭和47)年に発売された、ある週刊誌には「四畳半フォーク」をプロテストソングと対比した、こんな記述が。

「去勢されたロック・フォーク」

「四畳半ムードのいかにも男女のカッタるい感じの歌」

しかし、当時の若者にとって「四畳半フォーク」の世界にこそ、リアリティーがあったことは否めません。

他愛のない日常をありのまま切り取って表現する手法は、後のJ-POPに脈々と受け継がれます。

「何でもない毎日にこそ、その時代を生きる人々の息遣いがある」という事実。

若者たちの等身大の世界を歌って共感を集めたのが「四畳半フォーク」でした。

その時代の空気を作品として永遠に残せる音楽の素晴らしさを、見事に証明してみせたといえます。

古い社会への抵抗


「四畳半フォーク」の定番と言える恋愛の舞台が「同棲」です。

婚前交渉などもっての外だったのはもちろん、自由恋愛さえ憚(はば)かられていた当時。

日本社会の古く、息苦しい価値観を打ち壊そうという若者たちの行動が「同棲」という形で顕在化したのです。

「神田川」がリリースされる前の1972(昭和47)年には、漫画「同棲時代」が大ヒットします。

時に傷付け合いながらも、深く愛し合う恋人たち。

しかし、精神的にも経済的にも未熟なカップルを待ち受けていたのは、破滅的な別れでした。

「四畳半フォーク」で歌われる2人の暮らしも困窮を極め、未来の明るさなど感じられないものがほとんど。

爪に火を灯すような生活で味わう惨めさや葛藤が、ディテールまで赤裸々につづられています。

あまりにも刹那的な純愛に全てを捧げた情念は、時代を隔てたリスナーの胸にも響くのです。

「神田川」の歌詞が意味するもの

女性目線の歌?

貴方は もう忘れたかしら
赤い手拭 マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって 言ったのに
いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私の 身体を抱いて
冷たいねって 言ったのよ

出典: 神田川/作詞:喜多條忠 作曲:南こうせつ


「神田川」もまた、貧しさの中で営まれた同棲生活を追憶した曲です。

神田川が流れる、都心の「三畳一間の小さな下宿」。

男女の暮らしが貧しいものであることは、容易に想像できます。

寒空の下、首に手拭いを巻いて銭湯に出掛ける2人。

相手が出てくるのを外で待つ間に、すっかり冷え切った湯上がりの髪。

凍えた身体が震えるのに合わせて箱の中で鳴る、使い古された石鹸。

そんな身体を抱くしか術がない切なさ。

貧しさゆえの。何とも言えない悲哀が伝わる描写です。

ところで、この歌詞の語り手は男性、それとも女性でしょうか。

冒頭の「忘れたかしら」という言葉遣いから、女性を連想するのが自然なように思えます。




「やさしさが怖かった」理由

実は男性目線だった?

若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった

出典: 神田川/作詞:喜多條忠 作曲:南こうせつ


曲が進むにつれ、歌詞からは別の疑問も湧いてきます。

それは「貴方のやさしさが怖かった」という告白。

「やさしさ」が怖いとは、何を意味するのでしょう。

想像されるのは「相手が何か隠し事をしているのではないか」という疑念。

あるいは、経済的に困窮する中で「相手の『やさしさ』が、いつまで続くのだろうか」という不安です。

しかし、喜多條自身は後の新聞対談で、驚くべき真相を明かしています。

学生運動の最中、機動隊と衝突する激しいデモ活動に明け暮れていた自分。

疲れ果てて帰ると、学生運動と無縁の彼女は穏やかにカレーライスを作っている。

そんな彼女を見ていると、平穏な暮らしについ心を奪われそうになる。

しかし、それは活動家としての自分の信念を揺るがせることに他ならない。

自分のために料理を作る彼女の「やさしさ」こそが、自分にとって最も怖いことなのだ。

つまり、「神田川」のサビは、男性の視点で書かれた歌詞だったのです。

男女の目線が入り混じった歌詞


新聞対談の中で、喜多條はさらなる真相も明かしています。

横丁の風呂屋の外で待たされていたのは、自分でもあるということ。

当時の若い男性の間で流行していたのは、女性と見紛うような長髪。

喜多條は「神田川」の歌詞の語り手が男性であるか女性であるかは「よく分からない」とも発言しています。

過ぎ去った同棲生活を振り返る中で、濃密な時間を共にした男女の思いが交錯した曲。

それが「神田川」だったのです。

時代の記憶

「ニューミュージック」へ

一世を風靡した「四畳半フォーク」の終焉は、あっけないものでした。

その理由は、世の中が急速に豊かになったから。

国民的規模でもたらされた経済的余裕は、若者の関心を消費生活、つまり物欲の充実に向かわせます。

若者たちは消費生活を犠牲にする「同棲」をしてまで、社会に抗(あらが)うことをやめました。

過去に追いやられた学生運動に郷愁を感じることもない彼らが熱を上げたのは、都会的な「ニューミュージック」。

重苦しい生活感を排した、ファッショナブルな歌詞とサウンドが特徴です。

荒井由実が1stアルバム「ひこうき雲」をリリースした75年、「かぐや姫」は解散します。

受け継がれる精神


21世紀の現代に「四畳半フォーク」はそぐわないでしょう。

しかし「平凡な毎日」の素晴らしさを歌い、若者の心に寄り添うフォークの精神が消えることはありません。

例えば「ゆず」「19」「コブクロ」「うたいびとはね」。

90年代後半ムーブメントを起こしたネオ・フォークのアーティストたちは、J-POPの主流であり続けています。

アコースティック・ギターを抱えた彼らの曲に、奇をてらった過激なメッセージはありません。

「四畳半フォーク」の精神は、今の音楽にしっかりと受け継がれているのです。

まとめ

70年代フォークの旗手、吉田拓郎も


「かぐや姫」と並ぶ70年代フォークの代表選手といえば、吉田拓郎。

彼もまた、激動の時代を生きた若者の代弁者でした。

60〜70年代フォークソングの代表格・吉田拓郎。井上陽水などとレコード会社を設立したり、楽曲を森進一に歌ってもらったり、と何かと大反響を呼んだ超有名人です。こんな素晴らしいアーティストを時代の流れとともに風化はさせぬ!ということで吉田拓郎の珠玉のフォークソング集をご覧いただきましょう。


「神田川」の歌詞の謎 2010-01-07

『神田川』という歌をご存知だろうか。俊郎でなく、南こうせつとかぐや姫が1973年に発表した歌だ。1970年代を代表する歌といってもいいだろう。おそらく、ご両親が口ずさむのを聴いた方もおられるだろう。私自身も、父母から教えられて、自分でもよく歌っていた。

 〜〜〜〜
貴方はもう忘れたかしら
赤い手ぬぐい マフラーにして
二人で行った 横丁の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに
いつも私が待たされた 

洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸 カタカタ鳴った
貴方は私のからだを抱いて
冷たいねって言ったのよ
若かったあの頃何も恐くなかった
ただ貴方のやさしさが 恐かった
 〜〜〜〜


さて、この歌詞の最後の部分、「ただ貴方のやさしさが 恐かった」が、謎めいているように感じないだろうか?私は子供のときから、意味が分からず、ただ何となく、「女性の複雑な心情でも表しているんだろう」とぐらいにしか思っていなかった。母も、「好きでたまらないと、もし裏切られたらなんて不安がふとよぎる」というようなことを言っていたと記憶している。

皆さんは、この「ただ貴方のやさしさが 恐かった」の本当の意味をご存知だろうか?数年前私は、テレビか雑誌かで偶然この意味を知って衝撃を受けた。


ところで、母は別の部分も変だといってた。それは、

「一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて・・・」

の件である。母が言うには、「普通、風呂の時間が長いのは女の方で、待っている男がイライラさせられるもん」だそうだ。日常的に銭湯を利用したことの無い世代に属する私には、・・・まして一緒に銭湯に行く女性もいない私には・・・実感がないことではあるが、確かに女性の方が長風呂、というステレオタイプが無根拠でなかろうとは想像に難くない。

・・・実は、この母の何気ない感想が、謎を解く鍵であったのだ。

1960〜70年代は、学生闘争や革命の理想に燃えた若者たちの時代で、南こうせつたちも、革命の理想や世の矛盾を多く歌に乗せていた。

ヘルメットを被って覆面をして、機動隊のバリケードに突っ込んでいく、そんな無骨な男たちにとって、家に帰って同棲する愛する女性と過ごす、ひと時の安らぎ・・・歌の二番に描かれている、貧しくても小さな幸せ・・・

 〜〜〜〜
貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレパス買って
貴方が描いた私の似顔絵
うまく描いてねって言ったのに

いつもちっとも似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ
悲しいかいってきいたのよ
 〜〜〜〜

この静かな幸せは、当時の騒然とした学生闘争とは全くの異質だった。闘争に明け暮れる男は、この小さな幸せに一息をつき、ああ、このまま時が止まればいいのに・・・・・・と、

革命の理想も、正すべき世の矛盾も忘れてしまいそうで、

そんな風に、自分の生きがいを捨てて家庭に安住してしまいそうになるのが

「怖かった」

そうなのである。

お分かりになるだろうか?そう、この歌は、女性の心情を詠んでいるのではなく、革命に生きる男性の心情を詠んでいるのである。この歌の主人公は、男。作詞者、喜多條忠は自分の心情を詠んでいたのである。語り口が女性的なので騙されていたが・・・くどいようだが、「ただ貴方のやさしさが 恐かった」というのは、「ただ貴女のやさしさが 恐かった」というのが本当で、


「やさしい貴女との幸せな日常に、自分の使命を忘れてしまうのが恐い」

という意味なのだ。


とすると、歌の第二の謎の部分、「一緒に出ようねって言ったのに いつも私が待たされた 洗い髪が芯まで冷えて・・・」で、待っていた「私」は男性ということになる。やっぱり女性は長湯というステレオタイプに沿った歌だった。

それにしても、「洗い髪」っていうと、普通の感覚では女性の長い髪を連想するのではないか?・・・と思われることだろう。1970年代・・・上に挙げたYou Tubeにあるレコード・ジャケットからも分かるように、当時は 男も長髪にするのが流行っていたんだよ。

「大丈夫、俺も今、上がったところだから」と、見栄をはる男の、湯冷めした身体をぎゅっと抱きしめて、「冷たいね」という女

萌えまくるじゃねぇか、畜生め。リア充氏ね!!

こういう事実を知ると、歌の印象、ぐっと変わってくるでしょう?

・・・・ごめんなさい、嘘つきました。

いえ、百パー嘘じゃないんです。「あなたのやさしさが恐かった」ってのは、学生闘争に明け暮れる男の心情吐露が元々なのは事実なんですね。作詞者、喜多條忠がこのフレーズを思いついたのは、上に述べた背景からです。

でも、歌自体は、男が主人公でも、女が主人公でもなく、両者の目線が渾然としているそうです。だから、銭湯の外で待ってた人、似顔絵を描いた人、「悲しいかい」って聞いた人、どれが男でどれが女か、どれが同一人物で、どれとどれが違う人なのか、分からないんだそうです。

分からないってのは、作詞者自身が、「わたしにも分かりません」といってるからなんですね。当時長髪だった作詞者は、風呂屋で待ったことも待たせたことも経験しているそうです。

ある意味、歌の聞き手が自分の経験に照らし合わせて、勝手に補い、勝手に解釈でき、十人十色に共感できる、そういう自由さが、この歌が広く売れた理由かもしれません。

だから、「女性の複雑な心情でも表しているんだろう」というような私の単純な解釈も、「好きでたまらないと、もし裏切られたらなんて不安がふとよぎる」という母の恋の駆け引き的解釈も、間違いとは言い切れないわけで。

歌謡曲でも、詩でも、和歌でも、だいたい広く親しまれているのは、オープンなんだよね。情景が頭にすぐに描けるような、詳細で緻密な表現があるのに、個人個人の心に描かれる情景は、それぞれ違っているような・・・・個性的で且つ、普遍的な性質が、求められているんだろうね。



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右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


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山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする



ang********さん 2009/6/22 07:16:49
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


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GHQ が終戦後に日本に導入した共産主義体制が「日本の強さ」 の秘密だった
共産主義者ばかりだった GHQは日本を意図的にインフレにして資本家の資産を奪い、一億総中流社会を作り上げた

一億総中流社会を作ったのは共産主義者のGHQ, 一億総中流社会を壊したのがグローバリスト
日本のバブル崩壊以前の一億総中流社会は共産主義者ばかりの GHQ が意図的に作ったものだった

ソ連・中共・東欧も含めた世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです。
特に自称社会主義国のソ連や中共は極端な階級社会で、下の階級の人間は絶対に上に上がれない社会でした。
戦後の日本が理想の共産社会に近い一億総中流社会になったのは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

何もやらなければ現在のアメリカみたいに、マルクスの預言通りの階級社会になるに決まっています。
平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。
ユダヤ国際金融資本と GHQ は日本を共産化しようとして農地改革と人為的インフレ生成・金融封鎖を行った
フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようと計画していた。

それで平等主義的な日本国憲法を制定、
農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後の人為的なインフレはそういう背景で起こされた 

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。
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