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[35] 新しい日本のかたち
日時: 2009/08/03 07:48
名前: 天橋立の愚痴人間

政権交代後を睨み、50年100年先までの構想を探りたいと思います。

抽象的な紹介で申し訳けありませんが、此処も皆様の御意見で埋めていただきたいと思います。

私も、そのうちに力を入れて書き込みをしようと思います。
メンテ

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Re: 新しい日本のかたち ( No.1 )
日時: 2009/08/03 10:28
名前: 天の橋立の愚痴人間

>閲覧されている方もおられるようですので、旧掲示板から、初めのものを転載させていただきます。



現在、我が国のみならず多くの国で直面している問題は

資本主義経済の発達に伴う経済的矛盾に関するものであり

物質と情報の氾濫のなかで人間性が見失われている現象であります。

我が国でも、いろいろな問題が噴出しております。

それを政権争いの面で取り上げているだけでは根本的な解決は得られないと思います。

経済のグローバル化を否定するのではなく、民主主義も大切にして、何が考えられるのでしょう。

副題として「身の丈に合った環境つくり」を挙げて、意見を展開して行きたいと思います。

多くの皆様の御意見が得られますように御願い申し上げます。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.2 )
日時: 2009/08/03 10:33
名前: 天の橋立の愚痴人間

>同じく一部の転載ですが、記事が飛んでいるので見苦しいところがあります。


「新しい日本のかたち」を表題にして、経済的だけでなく精神的にもグローバル化の一途をたどり、そのために現れ始めている歪な人間性に焦点をあてる事で将来の社会を考えようとしています。

その発端は、投稿蘭の掲載しています「人類の環」と題した小文からスタートしています。

グローバル化で忘れかけている、小規模の生活圏での生活の有り様、身の丈に合った生活の有り様などの概念を取り戻し見直す事の大切さを言おうとしています。
そして、その小さな環が重なりあい、重複し合いながら大きな環の中に入って行く。
経済の事も、世界中の人々の精神の事もその様に認識されねばならないと思っています。

貴方が言われている南洋諸島での戦時中の出来事は、旧日本軍が地域の環を大切に扱ったことになるように思います。

このトビの目的は、戦時中の美談的な発想から一歩進み、グローバル化による弊害に対応するために、その様な社会を取り戻さなければならないと謳っています。

グローバル化の問題は経済的な面だけではなく、科学技術の発達で人間の精神が随分と人間離れしたところまで行ってしまっていることに対する警鐘も唱えなければならないと思います。

資本主義と民主主義をリードしてきた欧米風の価値観が世界中に蔓延していますが「人類の環」の発想からは、それだけではうまく行かないでしょう。

我が国古来の心の文化は、それを矯正するのに非常に有効な手段であると認識しています。
その我が国の心の文化がどの様なものであったか、あるのか、まずはこのことをもう少し鮮明に把握したいものです。

こんなところから初めていますので、このトビが結実を得るのは何時になるかわかりません。其処まで行き着けるかどうかも解りません。

しかし、貴方があげられた構想は、このトビのおおらかな結論のようなものです。
これを、経済の面を含み論理的に整理して多くの方が共通の概念として認識できるような資料を作りたく思っています。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.3 )
日時: 2009/08/07 07:33
名前: 天の橋立の愚痴人間

つい最近、私の知っている若者が自殺した。私の息子の1才年上で22才でした。
御両親も良く知っている方で、特に御父さんの落胆はかける言葉もありませんでした。

専門学校を卒業し、社会人となって1年あまり、小学校の時から野球が好きで高校生までやり通しました。

地元の小さな小学校の同級生、20名あまりにも、良く慕われ人気者でスポーツマン、何があったかは知りませんが、突然のことで全く信じられません。

他にも、閉じこもりの子供を持った家庭の話しも、テレビなどではなく、身近に入ってくる話でも、2つや3つの家庭ではありません。

子供が自殺をすると、すぐに苛めの問題が取りざたされますが、そんな範疇で考えられないものが進行しているのではないでしょうか。

我々年配のものは、それなりに生活の変遷を体験しています。
生きると言うことも、希望と言う事も、幸せの意味もある程度心に思い浮かべる事が出来ます。

民主主義の意味も、自由の意味も、その反対のことを思い浮かべられるだけ理解できております。

しかし、生まれて以来、不幸も絶望も不自由も真から体験することなく、身近に見ることなく育った若者が、生きる事をどの様に捕らえているか、彼らにとって希望とは何であるのか、こんな事を思い浮かべるとき、私は暗惨たる思いに駆られます。

我々が育った環境よりも、今の若者の方が人生を考える上に実に厳しい条件の下に育っているのです。

我々は弁当のおかず一つでも喜びを感じ、数少ない玩具を大切にし、社会で働く大工さんや瓦屋さんを見て育ちました。

大人になれば自分も働いて、欲しいものを買うことが出来るようになりたい。都会に行けばどんなことがあるのだろうと、いろいろな希望を持つことが出来ました。

知らず知らずの内に人生の設計図のようなものが出来あがって行ったのです。

我々は、子供達の環境の違いを良く理解しているのでしょうか。
我々と同じ人生観を、幸福感を、希望を子供達が感じることが出来ているのでしょうか。

しかしながら、このように設定しても、問題が解決する訳ではありません。

人類の歴史はいろいろ言われていますが、仮に 300万年と仮定して、今日ほど物質や情報に恵まれ、社会保障の制度も発達し、生きる事の苦しさから開放されてきたのは、たかだか50年であります。

99.999%の時間を、人間は自然の摂理と葛藤して生きて来たのです。
人間は大自然とも戦い、自身が生きる努力をしなければ生きて行けない環境で生活してきました。

そのような概念すら、環境の変化はあっと言うまに稀薄にしてしまっていると言うことです。
ここは心理学の分野となります。
人間が特定の異常な環境におかれたとき、どれほど脆いものなのか、そんなことに興味を惹かれます。

一方で、人類の環の中で述べました、増大する余暇の問題も同時に影響していると思います。

長くなりますので今回はここまでとします。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.4 )
日時: 2009/08/07 07:36
名前: 天の橋立の愚痴人間

若し人三世一切の(もしひとさんぜいっさいの)

仏を了知んと欲しなば(ほとけをしらんとほっしなば)

法界性を感ず応し(ほっかいしょうをかんずべし)

一切唯心造なりと(いっさいゆいしんぞうなりと)

普く衆生を観ずるに(あまねくしゅじょうをかんずるに)

各々仏性具しぬれば(おのおのぶっしょうぐしぬれば)

一念不生に至る時(いちねんふしょうにいたるとき)

忽ち仏性現前し(たちまちぶっしょうげんぜんし)

男女上下の隔てなく(なんにょじょうげのへだてなく)

其儘即ち仏なり。(そのまますなわちほとけなり)

偶々一念迷い初め(たまたまいちねんまよいそめ)

自凡夫となるゆえに(みずからぼんぷとなるゆえに)

三毒五慾の情起り(さんどくごよくのじょうおこり)

殺生偸盗邪淫慾(せっしょうちゅうとうじゃいんよく)

悪口両舌綺語妄語(あっくりょうぜつきごもうご)

瞋り恚ち愚痴我慢(いかりはらだちぐちがまん)

貪り惜しみて嫉み妬み(むさぼりおしみていみねたみ)

憎愛執着誉め譏り(ぞうあいしゅうちゃくほめそしり)

悪業罪を造りては(あくごうざいをつくりては)

地獄や傍生餓鬼となり(じごくやぼうしょうがきとなり)

千生万劫沈淪し(せんしょうまんごうちんりんし)

受る苦患ぞ怖しき。(うくるくげんぞおそろしき)

夫れ人間の身を受けて(それにんげんのみをうけて)

此世に生まれ来る事は(このよにうまれくることは)

爪の上端に置ける土(つめのうわはにおけるつち)

三悪道に堕入りて(さんあくどうにおちいりて)

苦患に沈む輩は(くげんにしずむともがらは)

大地の土のごとくなり。(だいちのつちのごとくなり)

況て尊き仏法の(ましてたうときぶっぽうの)

教えに親しく遭う事は(おしえにしたしくあうことは)

百千劫にも遭いがたし。(ひゃくせんごうにもあいがたし)

斯る時節を失わず(かかるじせつをうしなわず)

必ず出離を求むべし。(かならずしゅつりをもとむべし)

人々賢き智慧あらば(にんにんかしこきちえあらば)

春は万の種を蒔き(はるはよろずのたねをまき)

秋の実登をまつのみか(あきのみのりをまつのみか)

衣服家宅に至るまで(いふくかたくにいたるまで)

遠き覚悟のありながら(とおきかくごのありながら)

今をも知れぬ後の世の(いまをもしれぬのちのよの)

永き冥路を打忘れ(ながきやみじをうちわすれ)

空しく過るぞ愚なり。(むなしくすぐるぞおろかなり)

老若貴賎も諸共に(ろうにゃくきせんももろともに)

無常の風に誘われて(むじょうのかぜにさそわれて)

忽ち此世を終る時(たちまちこのよをおわるとき)

耳も聴えず目も見えず(みみもきこえずめもみえず)

一生作し置く罪過が(いっしょうなしおくつみとがが)

聚り来たって責るゆえ(あつまりきたってせむるゆえ)

臨命終の苦しみは(りんみょうじゅうのくるしみは)

百千万の鋒に(ひゃくせんまんのほこさきに)

突き悩さるるごとくなり。(つきなやまさるるごとくなり)

其時何をか頼むべき(そのときなにをかたのむべき)

田畠数多有とても(でんぱたあまたあるとても)

冥土の用には成らぬもの(めいどのようにはならぬもの)

金銀財宝持つ人も(きんぎんざいほうもつひとも)

携え行くべき道ならず。(たずさえゆくべきみちならず)

妻子眷属有りしとて(さいしけんぞくありしとて)

伴い行事更になし。(ともないゆくことさらになし)

偕老比翼の契ひも(かいろうひよくのかたらひも)

少時浮世の夢にして(しばしうきよのゆめにして)

出入りの息の絶えぬれば(でいりのいきのたえぬれば)

野辺の送りを営みて(のべのおくりをいとなみて)

老も若も仇野の(おいもわかきもあだしのの)

空の煙と消え失て(そらのけむりときえうせて)

朝夕撫し黒髪も(あさゆうなでしくろかみも)

蓬が根の塵となる。(よもぎがもとのちりとなる)

造悪人の最後には(ぞうあくにんのさいごには)

壁も柱も戸障子も(かべもはしらもとしょうじも)

獄卒の姿に見えければ(おにのすがたにみえければ)

始めて何れも後悔し(はじめていずれもこうかいし)

斯かる憂目に有るならば(かかるうきめにあるならば)

後生菩提もねがうべし(ごしょうぼだいもねがうべし)

悪しき心も持つまじに(あしきこころももつまじに)

我が身に悪行するのみか(わがみにあくぎょうするのみか)

人に膽性を傷めさせ(ひとにきもせをいためさせ)

倶に作りし罪過の(ともにつくりしつみとがの)

我が身一つに報い来て(わがみひとつにむくいきて)

己と作りし地獄ゆえ(おのれとつくりしじごくゆえ)

免れ遁るる方ぞなき(まぬがれのがるるかたぞなき)

此の悲しさを誰に告げ(このかなしさをたれにつげ)

又誰をかを恨むべき(またたれをかうらむべき)

思い遣るべし其時の(おもいやるべしそのときの)

苦患の程は幾ばかり(くげんのほどはいかばかり)

因果の道理を辧えて(いんがのどうりをわきまえて)

悪しき心を矯直し(あしきこころをためなおし)

後世の大事を覚悟して(ごせのだいじをかくごして)

善根功徳に心ざし(ぜんこんくどくにこころざし)

親に孝行君に忠(おやにこうこうきみにちゅう)

兄弟夫婦睦じく(きょうだいふうふむつまじく)

親族他人も夫々に(しんぞくたにんもそれぞれに)

長幼尊卑の義を守り(ちょうようそんぴのぎをまもり)

無礼不実のなきように(ぶれいふじつのなきように)

己を捨てて人を立て(おのれをすててひとをたて)

人の善からぬ罪過を(ひとのよからぬつみとがを)

仮令我が身に受るとも(たとえわがみにうくるとも)

人をば罪に落とすまじ(ひとをばつみにおとすまじ)



続く
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.5 )
日時: 2009/08/07 07:37
名前: 天の橋立の愚痴人間

飢寒に苦しむものを見ば(きかんにくるしむものをみば)

身の分限に及ぶほど(みのぶんげんにおよぶほど)

施し恵みを致しつつ(ほどこしめぐみをいたしつつ)

鳥類魚類に至るまで(ちょうるいぎょるいにいたるまで)

情けをかけて救うべし(なさけをかけてすくうべし)

尚ぶらくは人間の(たっとぶらくはにんげんの)

受くる形は其侭に(うくるかたちはそのままに)

仏の姿にかわらねば(ほとけのすがたにかわらねば)

心ひとつを改めて(こころひとつをあらためて)

慈悲仁譲になりぬれば(じひじんじょうになりぬれば)

男も女も諸共に(おとこもおんなももろともに)

此の身が即ち仏にて(このみがすなわちほとけにて)

仏が仏を念ずれば(ほとけがほとけをねんずれば)

一聲唱うる?名も(ひとこえとなうるしょうみょうも)

諸仏の浄土に通徹し(しょぶつのじょうどにつうてつし)

無始劫来の罪障も(むしごうらいのざいしょうも)

一時に消失果てぬれば(いちじにきえうせはてぬれば)

尋常仏に近づきて(よのつねほとけにちかづきて)

礼拝恭敬を慇懃に(らいはいくぎょうをいんぎんに)

香花燈燭採りささげ(こうはなともしびとりささげ)

粥飯茶菓等供えつつ(しゅくはんさかとうそなえつつ)

身口意三業清浄に(しんくいさんごうしょうじょうに)

称名念仏経陀羅尼(しょうみょうねんぶつきょうだらに)

坐禅観法修しぬれば(ざぜんかんぽうしゅうしぬれば)

浄土は元より我が身にて(じょうどはもとよりわがみにて)

心が即ち仏なり(こころがすなわちほとけなり)

熟々衆生を観ずるに(つらつらしゅじょうをかんずるに)

生生世世の父母や(しょうじょうせせのちちははや)

六親眷属師長まで(ろくしんけんぞくしちょうまで)

其の恩愛の深き事(そのおんあいのふかきこと)

各々現世に異ならず(おのおのげんせにことならず)

然るに六趣に輪廻して(しかるにろくしゅにりんねして)

種々の苦患に浮き沈む(しゅじゅのくげんにうきしずむ)

其の有様を察するに(そのありさまをさっするに)

身の毛も寒竪ばかりなり(みのけもよだつばかりなり)

皆々悲願を企てて(みなみなひがんをくわだてて)

無明の眠りを覚ましつつ(むみょうのねむりをさましつつ)

行住坐臥に怠らず(ぎょうじゅうざがにおこたらず)

一心勇猛に修業して(いっしんゆうもうにしゅぎょうして)

六衢の衆生の愍念し(ろっくのしゅじょうのみんねんし)

菩提の道に趣かせ(ぼだいのみちにおもむかせ)

本有の衆徳を発露して(ほんうのしゅとくをほつろして)

不報の恩を報ぜんと(ふほうのおんをほうぜんと)

般若の船に掉さして(はんにゃのふねにさおさして)

涅槃の岸に到るべし(ねはんのきしにいたるべし)



禅宗聖典より

メンテ
心の問題 ( No.6 )
日時: 2009/08/07 07:37
名前: 天の橋立の愚痴人間

前回で長い経典を読んでいただいたのは、

「夫れ人間の身を受けて

此世に生まれ来る事は

爪の上端に置ける土」

が言いたい為でありました。

人間が生きると言う事は、大自然の前では、ほんの一瞬、極小な場所の事であります。

その認識の中で、人は生きているのです。
全てを受け入れ、全てを認識しているからこそ、運命を受け入れ観念して精一杯生きられるのです。

科学文明の発達は、お釈迦様が2000年をかけて訴えられていた経典の世界も朧なものに変えてしまいました。

若い人たちだけとは言わず、我々も含んで、我々は希望の可能性を拡大してきました。

それ自身は良いのですが、際限なき希望は希望としての目的ではなくなり、その分、自らの足元を見失っている事になるのではないでしょうか。

人生を掴みきっていない若者が輩出しているのではないでしょうか。
苛めの横行も、多発する信じられないような凶悪事件も、その根幹には生きる事の意味が捕らえきれない人たちの叫びのような気がします。

そうは言いましても、対症療法がある訳ではありません。
また、科学の発展も、経済の発展も、これも人間性、自らの自然の流れ出あります。
それを止めることは出来ませんし、止めて解決できるものでもありません。

直ちに結論に行くことは出来ませんが、このような事もこれから考える大切なことであり、見ようによっては、何にもまして困難な課題であります。
 
メンテ
心の問題 ( No.7 )
日時: 2009/08/07 07:39
名前: 天の橋立の愚痴人間

現代の人の心の問題は、人間自身が人間性を見失っていることからきているものと言っていたことの続きです。

200年以上前、ヨーロッパで民主主義の思想が勃興したころ、人々が考えた自由とは、個性とは、今から思えば随分と謙虚なものであったと思います。

それまで続いたキリスト教の影響からルネッサンスで人間性を取り戻した人々は、折から起こった市民革命などで、政治的にも封建君主から自立できたのです。

その自由は、集会の自由であり、引越しの自由であったり、仕事を選ぶ自由などであったと思います。

また人々の希望は、美味しいものを食べたり、小旅行を楽しんだり、趣味の時間を楽しむことであったと思います。

それらは誠実に働く事で叶えられ、殆どの人がそれを目指し、着々と手に入れることができました。

人々は自分のやるべき事、他人がやっている事を容易に理解してました。
同じような価値観を持っている人達の間では自然とルールも生まれ、皆がそれに習う事は自然でありました。

現代は様相が違うのです。
物質的にすでに豊かな生活の中で昔の人が希望とした殆どの希望はすでに叶えられ、溢れる情報の前に、価値観は多様化し孤独の中で自分の希望を(生きがい)探さねばならなくなっています。単純に家族的連続性の上に自己を認識できないのです。

人類の一部の英知がリードしてきた科学技術の発達に伴う生活環境に心がついて行けていないのです。
荒唐無稽な例えをしますが、

SF映画の宇宙船の中や小惑星で人生を送っている様子を見て、皆さんどの様に思われることでしょう。
殆どの方は、あんな生活よりも現在の地球の生活を望まれると思います。
あの方達は、精神そのものが未来用に変身しているものと思います。

ところが現代の科学は、200年か300年後にはあのような事が現実に起こせるようなスピードで進んでいるのです。

一方で、資本主義経済のシステムも、グローバル化と言って、巨大資本の力は、人間の幸せを基準とするような判断の付け入る余地をなくして進んでいます。

国家も資本をコントロールを出来なくなっていて、逆に資本の論理で動いています。
このように世界は、物質的、精神的な両面で一個の人間の背丈をはるかに越えて流れて行こうとしています。

突然ですが、アーノルドトインビーの文明論の一部を紹介します。

(文明の発生)
ここで、彼はまるでプラトンの洞窟の話しのような仮定をする。巨大な岩山の中腹の岩棚に横になっている人類の状況を、文明発生直前の様態と規定する。彼らが再び岩山を登ろうとするとき文明がスタートしたと言います。

これだけでは、解らないと思います。そこで登場するのが、ミメシス(模倣)と言う行為の内容を説明しております。文明発生以前のミネシスは、時代を遡る方向へ向いていた、つまり、長老などを通して過去の崇拝を主眼としていた。そのミメシスが、時代の先駆者を追うようになったとき、文明はスタートすることになったと言う。要するに社会が前進を始めたと言うことです。ここで最初に文明発生直前の社会が中腹の岩棚にあったと言う事は、文明とは言わない。
(以上)

その後、彼は挑戦と応戦と言う言葉を使い文明の発展を説明しています。
挑戦も応戦も、その時代の文明を襲う、人的災難や自然の災難とそれを切り抜ける人々の様子を言っています。

突然、何でこのような文章を紹介したかと言いますと、数百万年の歴史において人類は常に複数の先駆者(リーダー)がでて、それを人々が追っかけて行くと言う形を繰り返してきた。そして文明を襲う困難(挑戦)とは、他民族の侵略や、大自然の猛威であった。その都度人類は先駆者を頼り彼らを真似ることで行動を起こし文明を維持し発展させてきたと言うことです。

そして現代社会で人類に挑戦してきているものを、先に話した科学技術の発達と巨大資本の猛威とすれば、今、我々の前に先駆者はいるのであろうか。
今回の挑戦は共に人類自身が作り上げた挑戦であることは、今までとは質が異なっているのである。

紙面の関係で今晩はここまでとします。
メンテ
心の問題 ( No.8 )
日時: 2009/08/07 07:40
名前: 天の橋立の愚痴人間

前回は少しややこしく述べすぎたかも知れません。

千年も前の事は言わないとしても、人間の心の歴史を鳥瞰しましょう。

西洋を例にするとキリスト教の教義と封建体制が、人々を抑圧していた時代、それに対抗して起こったルネッサンスの運動。それに続く民主主義社会の繁栄。

現在は、科学技術の驚異的な発達と、豊富な物量などが人間の精神に挑戦を突きつけています。

何にもまして多くなりすぎた余暇の時間の問題は、我々人類の文明に容赦ない課題を突きつけています。

トインビー流に言えば応戦が必要なのです。
我々は人間性を取り戻さなければならないのです。

ですが、人間性って何でしょうか。
それも意識しなければなりません。

ルネッサンス以降、西欧哲学は隆盛し、パスカル、ホッブス、マキャベリ、デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲル、ニーチェ、サルトル、メルロポンティ、フロイト・・と数多の思想家が出現し。

経験論、観念論、唯物論、実存主義、実証主義・・とこれもいろいろな角度から人間探求が行われた。

哲学隆盛の最終局面で登場した、実存主義は究極に自己を探求し結果、個に拘る傾向があった。
やがて哲学は、実証主義と言われる科学的認識と融合する事になり、逆に哲学の隆盛期を終えるようになる。

その頃から現代の病が始まったと言える。
先哲の多くの教えが間違いとは言わない、現実に人は自身を考えるとき、誰か先哲の教えに身を委ねているのです。

しかしながら、それを凌駕する力に苛まされることになる。
それが物流と余暇なのです。
近世の大思想家の思想は物流と余暇の増大の中で埋没してしまっているのです。


もう一度、歴史をかえり見てみましょう。
ルネッサンス期にそれ以前の困難に応戦したのは何だったのでしょう。
唯、人間性の復活を求める気概が充満していたのではないですか。

そして、ミメシスを引き起こす先駆者とは誰をさすのであろうか。
勇気を持って教会の戒律に挑戦した人であり、勇気を持って君主に反抗した人たちと、それを啓蒙する人たちがいたことでしょう。

時代の先駆者は我々の中にいるのです。
大思想家の出現が応戦のスタートでも無かったのです。

多くの思想家の例を挙げましたのも、思想が必ずしも、挑戦に対する応戦の端緒になるとは限らない事を言いたいのです。

思想は新しい世代の理論的スポンサーではあっても、最初の勇気を持った行動は、直感的に起こさねばなりません。
神の助けを求めるような意識でいては、社会の変革は出来ないのです。

現代、我々が置かれた、挑戦されている事態には、我々自身が応戦しなければならない事を悟るべきなのです。

「物流と余暇」の挑戦から人間性をとりもどさねばなりません。
それは、高度な哲学的恣意よりも、より始原的な人間性を考える事だと思います。

その意識を醸成すること、意識できる環境を作りだす事。
中身は、こんな簡単なことなのです。
実現するのは大変ですが。


今夜も、またまたややこしくなりました。
いい加減で心の問題を終えたい心境です。
メンテ
心の問題 ( No.9 )
日時: 2009/08/07 07:41
名前: 天の橋立の愚痴人間

物流と余暇」の挑戦から人間性をとりもどさねばなりません。
それは、高度な哲学的恣意よりも、より始原的な人間性を考える事だと思います。

いいままで言ってきた結論であり、心の問題のスタートであります。


「余暇」とは、
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

暇な時間、空いた時間、仕事をしなくても良い時間。その時間をどう自分のレクリエーションに使うかという事で、余暇の創造という事が語られる。その意味では、余暇は、人が自分自身を取り戻し、また活発に仕事や家庭での雑事に立ち向かうための活力を養うためのものである。ただ、仕事を定年退職した高齢者にとっては、毎日が日曜日、即ち、余暇であり、その余暇に何か自分の出来る事を見つけられるか、あるいは見つける事によって人生に生きがいを見出す事が出来るかどうかという事が、重大な問題になっている。
(以上)

広義に考えると、家事から解放された主婦や、祭日や週休2日制で休む事が多くなった労働者、失職で働くことの出来ない労働者のそれも含みます。

人類の歴史は、生きる事への緊張感が人間性を制御してきました。その緊張感から開放された人間は、やがて生きること自身への問いかけをするようになり、結論のない際限なき問いかけは、あるいは自暴自棄の行動となり、あるいは新しいものを求めてとんでもない行動を試みる。

最近になって原始共産社会を彷彿させるカルト教が次々と興っているのも関係あると思います。

また物流の増大、情報の氾濫は科学技術の発展の成果でもありますが、これは人間の価値観を物やお金に集約する事になりがちです。
また世界中のあらゆる情報が廻りに飛び交い、人々の存在感は居場所を越えて放浪しています。
その昔、多くの人たちにとって生きる希望や目的はすぐ目の前に描く事ができました。現在のそれは、誰にとっても可能性が増大し、増大した分だけ確実性に欠けることになりました。
科学技術の進歩と経済的な豊かさの果実として、その方向性は好ましく思いますが、民主主義の思想と相まって自由すぎる自由な発想は、人々の数だけある価値観は反って人間性を見失う事につながっています。
この場合の人間性とは、人間が持つ動物としての宿命的なものを言います。
動物の生命には限りがあります、かつ、大自然の前には所詮は無力な存在です。共に生きるためには共生の心が必要なのです。

我々は見失いがちになった人間性を回復しなければなりません。
それが時代の挑戦に対する応戦であります。
この応戦をする事によって人類は更なる展開を始められるのです。

 
メンテ
心の問題 ( No.10 )
日時: 2009/08/07 07:52
名前: 天の橋立の愚痴人間

我々は見失いがちになった人間性を回復しなければなりません。
それが時代の挑戦に対する応戦であります。
この応戦をする事によって人類は更なる展開を始められるのです。

その意識を多くの人たちが合わせ持ったとき、人類はまた新しい方向へ進む事が出来ます。
現在、我々がすることはその為の環境を作る事です。持つ事です。
人間は頭脳でいろいろ考えますが、科学技術の世界はさておき、自らの行動はいつでも周囲の環境に左右されるものなのです。
難しい理論の問題ではなく、生活の環境を見直す事により、人々の生活に関する考え方などは影響されるのです。
心の問題シリーズのとりあえずの結論として「身の丈に合った生活環境の回復」が現代の社会に必要であることを申し上げることにします。

「身の丈に合った生活環境」とは単純な事を言っております。
生きる為の糧として、農業、漁業、林業に励む人々の生活がある事と、その存在を敬虔にみる民がある事です。
人々の余暇の過ごし方で山登りや魚釣りなどを好む人が多くなる事、特に少年期の人間がより自然に親しむ事も必要でしょう。
さらに、衰退しがちな、豊作祈願の村祭りなどが息を吹き返すことであります。

具体的な言い方をすれば、第一次産業の保護育成を意識的に国家の命題とすることです。資本の論理に任せずに、人間性の維持のための分野と割り切ることも、ずっと長い将来を見たとき必要なのではないでしょうか。

少年期に自然に親しむ経験をさせるには、長期の林間学校制度を教育に取り入れる事です。現在は地方に住みながらもその環境に目も向けない子供たちがいます。都市部、地方に関わらず、集団で自然と対面する期間をある程度提供する事は、人間性の醸成に役立つ事と思います。

地方の村祭りは現在の細々と残っています。世話役不足の関係で中止の憂き目にあっているところもあります。
大概の村祭りは数百年の伝統を持っています。やめる事は簡単です。現在続けられている祭りでも、意味も稀薄なまま仕方なくやられている場合もあります。
村祭りは実質的な豊作祈願があったとしても、地域社会の共生の為の確かな生活の知恵と思います。


村祭りなどに言及しましたが、そうかと言って伝統的なものの保存を言っているのではありません。
人類が歩んできた自然の発想を見失ってはならないと言うことです。
どのような形になるかも知れませんが、我々はそう言う領域を大切にしなければならないと言うことです。


以上で、一旦「心の問題」については離れる事にします。
メンテ
経済のこと ( No.11 )
日時: 2009/08/07 07:54
名前: 天の橋立の愚痴人間

始めにグローバリゼーションについての認識を確認したいと思います。

グローバリゼーションとは「国際化。特に、経済活動やものの考え方などを世界的規模に広げる事とあります。

経済のグローバル化は、世界の潮流となっているが、その背景としては、

(1)輸送・通信分野の技術進歩による時間的・空間的距離の短縮、
(2)規制緩和や市場開放など自由化の進展、
(3)旧社会主義圏の崩壊と新興工業国の台頭により市場が世界的規模で拡大 (市場経済規模は27億人から55億人に一気に倍増) したこと、が挙げられる。また、今後は、
(4)インターネットを代表とする情報通信ネットワークの拡大、
(5)NGOの国際的な活動の活発化等が世界経済の一体化を促進していると考えられています。

また企業活動のグローバル化には、大きく分けて5つの段階があるといいます。
第1段階は輸出、
第2段階は海外販売網の整備、
第3段階は天然資源、低廉な労働力、海外マーケットを目的とする生産や技術開発拠点の海外移転、
第4段階は事業推進のために必要な経営資源の移転、
第5段階は世界的規模での経営戦略の展開となる。企業が現地生産等の海外直接投資を増やし、多国籍化していくにつれ、モノ、カネ、ヒトの国境を越えた移動が活発化し、国境の制約が相対的に薄れ、相互依存関係が深化していく。

現在は第5段階に進みつつあり、世界を一つの市場として各国の企業が激しい競争を繰り広げるメガ・コンペティション(大競争)が始まり、提携や買収など競争力強化を目的とした世界的規模での企業の再編成が進んでいる。国境を越えたM&A(企業の合併・買収)の急増、大型化している。一企業内でも、部品供給と完成品組み立てを複数の国で分業する企業内貿易が、国際貿易に大きな割合を占めるようになっている。
また、貿易の拡大、金融取引に関する規制緩和の推進、情報通信ネットワークの拡大により、世界の金融市場の一体化が急速に進展している。

我が国の現状に当てはめてみると、第一第二段階は30〜40年前に経験したように思います。
各種商品の増産に継ぐ増産のために日本各地に工場が進出しました。

第三段階は、20〜30年前の状況を省みれば納得が行くと思います。
輸出が好調で日本各地に展開していた大企業の地方の工場は、安価な労働力を求めて生産のシフトが海外に移ったため、次々と閉鎖されて行きました。
同時に、国内向けの商品の生産も海外で行う流れも始まりました。
これも、国内におけるグローバル化の一連の様相です。

第四段階は、各企業の企業活動の本格的な海外移転が始まりました。
生産拠点の移転だけでなく、企業そのものが海外へ移ったのです。
ここ20年の企業のすさましい海外進出です。
企業は輸出の概念から開放されて、真に多国籍企業となって行きました。

第五段階は現在進行中との事ですが、文字通り企業は国境をものとも思いません。
巨大資本は、関係するそれぞれの国家の意志を凌駕して展開しています。
本来、国家が拠って立とうとする基本的な社会の生産システムも企業の論理の中で昇華されてゆきます。
国家の国つくりの構想も、資本の力の前に蹂躙されてしまいます。
巨大化した資本の動向を無視して国家の戦略も立てられなくなってしまっています。
全てがこのような極端に走っているとは言いませんが、十年くらい前からはこのような傾向が強まっているのが現代の特徴といえます。

今まで述べてきた事が、不都合と決め付ける事も出来ません。
経済のグローバル化が進んだ御蔭で、我々は安価で豊富な物資を手に入れられるようになりました。
発展途上国と言われていた国が、思わぬ繁栄を遂げられるようにもなりました。
世界経済の規模も飛躍的に膨れ上がったといえます。

かつ、この傾向は資本主義経済体制の究極の流れに沿っているのです。
その中で、我々は手放しで喜んでいるだけでは済まされない事態にも遭遇しているのです。
メンテ
経済のこと ( No.12 )
日時: 2009/08/07 19:00
名前: 天の橋立の愚痴人間

(資本主義経済論)

これからしばらく資本主義の展開する様相を説明しますが、何分に素人ですので、自分話しの都合の良い部分だけの抜書きになります、専門知識のある方は加筆訂正してくださるよう御願いします。

今から250年も昔、ヨーロッパで起こった産業革命により活気つく経済活動は、やがてアダムスミスなどにより資本主義経済の理念を醸成して行く事になる。
当時の想定する理想的経済人とは、「自らが最も優位性を持つただひとつのモノを生産することに特化する人間」であり、「分業によって技術革新がおこなわれ、労働生産性が上昇することによって富(生産物の増大)は生まれる」と考えた。

この点、よく統治された社会ではその最下層まで富裕が広く行き渡るが、それを可能とするものは分業に他ならないとスミスは語っている。
分業によって支えられている労働はすべてのものの価値の根源でもあり、その尺度でもある。
そして、人間の利己的本能と利他的本能は全能の神が人間創造のとき、人間の幸福のために与えたもの。これらを発揮することによって人間は最も幸福になる。言い換えると自分の利益を追求した経済活動(競争)はみんなを幸せにするという「公共の善」をもたらす。しかもそれは自然に実現する。→「神の見えざる手」と言う言葉で現されている。
また政府は余計な介入をしてはならない。市場を「自由放任」の状態にしておかねばならないと経済自由主義を唱えた。

その後の資本主義の研究はまず「需要と供給の関係」について色々と分析が進んだ。競争市場では、需要と供給が一致することにより市場価格と取引数量が決定される。
最初で一番単純な需要と供給の法則。

(1) 価格が下がると需要は増える。
(2)価格が上がると供給は増える。
(3) (1)と(2)より、需要と供給がバランスしたところで価格が決まる。

ところがこの方式は、現代社会では色々と矛盾を含んでいることに気がつきます。
少し先走ったところまで行きますが、
最初に考えられた、需要と供給の法則’は、農業が産業の中心で、製造業、サービス業が未発達で市場経済も未成熟だった19世紀以前には、説得力がある原理だったかもしれません。
かつては供給(農作物の収穫量)は、気象条件など人間が制御できない要素で決まってしまいました。また、不足した物資をとなり町や隣国から取り寄せるということもなかなかできませんでした。

しかし、これを21世紀の今、グローバル競争の中、流通網の発達と共に市場は途方もなく拡大しそのまま「市場経済の根本的な原理」としておく事は出来なくなっている。
つまりは、自由な経済活動が「公共の善」をもたらすと言う「神の手」が信じられなくなってきている。

また、音楽や文字・映像など情報産業の生産物はそれぞれCDや本・ビデオなどに記録されて販売されています。そしてCDメディアや紙・ビデオテープには需要に応じていくらでもコピー、印刷できます。その結果他の生産物のようには需要と供給の関係が成り立たない。
メンテ
経済のこと ( No.13 )
日時: 2009/08/07 19:03
名前: 天の橋立の愚痴人間

結論を先に言ってしまいましたが、需要と供給の関係だけでも下記のような理論が模索されていました。

「セイの法則」
セイの法則とは、「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される経済学の法則。あらゆる経済活動は物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行われるということを前提に、供給が増え供給超過になっても、かならず価格が下がるので、結果として、需要が増え、需要と供給は一致する。それゆえ、需要(あるいはその合計としての国富)を増やすには、供給を増やせばよいという考えである。

「限界効用」
ある財の消費を1単位増加した場合の消費者の効用(満足)の増加分。限界効用学派によって初めて唱えられた概念。古典派経済学においては,水のように貴重であるが安価なものと,宝石のように生活に不可欠ではないが非常に高価なものの相違を説明するのに価値と価格の二元論を用いていたが,この限界効用の概念を用いることによって一元的に説明されるようになった。すなわちこの相違は,財全体から受ける効用と財がさらに1単位増加したときに増加する効用(限界効用)の違いであり,財の需要価格は限界効用により決ると考えた。このような限界概念の発見はそれまでの経済学に革新的な変化を与え,近代経済学の基礎となった。(→限界効用均等の法則。限界効用逓減の法則)

ある種の財何単位かが一定の欲望充足のために消費される場合,最後の1単位の財から得られる追加的な心理的満足(効用)。marginal utility▽財そのものの特質だけできまるのではなく,財の種類や消費者の趣好,さらに消費者のもつ各種の財の量的な割合などによって決定される。一般に,財貨所有量が大きいほど効用は小さくなる。
以下 ウィキペディア(Wikipedia)からの引用を書きますが、読み飛ばされるのが宜しいかと思います。

(限界効用逓減の法則)
投機的な目的を除けば、人が消費できる財の消費量には限度があるのが普通である。(最初の1杯のビールは美味いが、飲みすぎれば飲みたくなくなる。空腹時には1杯の白飯も美味いが、いずれ他のおかずも欲しくなるだろう。)
一般的に、財の消費量が増えるにつれて、財の追加消費分から得られる効用は次第に小さくなる。これを限界効用逓減の法則(げんかいこうよう ていげんのほうそく)、又はゴッセンの第1法則という。

(限界効用均等の法則)
人は、効用を最大にしようと合理的に行動(効用の最大化)するものと仮定されている。(上の例では、人が白飯よりもおかずが欲しくなるのは、限界効用逓減により、白飯の限界効用がおかずの限界効用を下回ったためと解釈できる。)人は少しでも限界効用の大きい方を選択(選好)し、その財の限界効用はより小さくなる。結果として、各財の限界効用はすべて均等化されることになる。
財は貨幣で購入されるため、貨幣1単位で購入できる財の量は価格により異なる。(即ち、価格の逆数''になる。) 貨幣1単位で得られる各財の限界効用は、財の限界効用 × 価格の逆数(即ち、財の限界効用と価格との比、加重限界効用)になる。人は少しでも(加重)限界効用の大きい方を選好し、結果として、各財の(加重)限界効用はすべて均等化されることになる。これを、限界効用均等の法則(げんかいこうよう きんとうのほうそく)、又はゴッセンの第2法則という。
メンテ
経済のこと ( No.14 )
日時: 2009/08/07 19:05
名前: 天の橋立の愚痴人間

今まで述べてきた中で、最初の方のものを古典派経済学と言うそうです。
限界効用説を挟んで後の方を新古典派経済学と呼ぶそうです。
新古典派経済学は現在でも有効な理論の一端を担っているようですのでも少し説明しておきます。

「新古典派経済学」
経済学における学派の一つ。新古典派の考え方は、一言で言えば自由放任主義
(レッセフェール)である。価格の調整速度が速いということを前提として理論を展開している。競争原理が第一と考えており、「小さな政府」を主張する。
新古典派の経済理論の世界観はミクロ経済学の考え方と基本的に同じで、各経
済主体の合理的行動と均衡的な市場機構を前提とする。理論的には、数学的極めて緻密なのが特徴である。

新古典派の議論の前提は瞬間的な価格調整メカニズムですから、た
とえ金融恐慌で失業者が街に溢れていてもすぐに賃金が下がったり
して完全雇用が回復すると考えます。
またアダム・スミスが考えたような『神の見えざる手』という概念は、
どちらかというと新古典派の主張に近いもといえます。

それでは新古典派とこれから述べるケインズ経済学の違いから述べますと、決定的な点は需給の不均衡が存在するときに価格が瞬時にそれを調整し
て均衡状態に戻してくれるか否かという点です。

新古典派の議論の前提は瞬間的な価格調整メカニズムですから、たとえ金融恐慌で失業者が街に溢れていてもすぐに賃金が下がったりして完全雇用が回復すると考えます。
一方、ケインズ経済学の前提は価格の調整速度が遅いため、たとえ失業者がたくさんいても完全雇用が達成されるほど賃金は下がらないため、財政支出をはじめとする経済政策が必要とされるのです。

需要と供給の関係からマクロ経済的な分野まで述べましたが、いよいよケインズの経済学です。
メンテ
ケインズの経済学 ( No.15 )
日時: 2009/08/11 15:50
名前: 天の橋立の愚痴人間

「ケインズの経済学」

此処も長くなるので興味のない方は読み飛ばしてください。本論はケインズ以降の事を述べたいために長々と続けています。

ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)はイギリスの経済学者。1929年の世界大恐慌から始まる30年代「大不況」のさなかの1936年に、主著『雇用、利子、貨幣の一般理論』(通称『一般理論』)を発表し、それまでの主流派経済学であった新古典派経済学をつくがえす新しい経済理論を打ち出した。

30年代大不況では、失業率がアメリカで25パーセント、ドイツで40パーセントを記録するなど、先進工業国全体が長期にわたる深刻な不況に見舞われた。従来の新古典派経済学の常識では、民間人の自由な競争に任せれば市場メカニズムが働いて自動的に均衡がもたらされるはずであった。失業者がたくさん出たならば、失業者達も今雇われている労働者達もみな雇用のために競争して安い賃金を受け入れるので、賃金が下がっていき、企業は前よりもうかるようになって雇用を増やすので、やがて失業は解消されるはずであった。

ところが実際には「大不況」の中でいつまでたっても失業はなくならなかったのである。
そんな中でケインズは、市場に任せたままでは財やサービスの全般的な需要不足が起こり、失業者が大量に出たまま経済が落ち着いてしまうと言いだした。財やサービスの全般的な需要の水準によって、経済全体の生産水準が決まり、経済全体の雇用水準も決まると言うわけだ。これを「有効需要の原理」と言う。だからこれによれば、政府が公共事業などの政策をとって財やサービスへの需要を増やしてやれば、雇用も増えて失業はなくなっていくということになる。

 それまでの新古典派経済学によれば市場は民間人の自由に任せておくべきで、政府が手出ししてはならないということになっていた。それに対してケインズはこのように政府による経済への積極的介入政策を提唱したわけだから、これは従来の経済学上の常識からの大きな転換であった。


【ケインズ理論の間違った解釈】

ケインズは第2次大戦後間もなく死去したが、彼のこの考え方はたちまち世界中に広がり、「ケインジアン」と呼ばれるその信奉者達によって現実の政策に影響を与えていくようになる。すなわち、民間の自由に任せる「小さな政府」ではなくて、不況になったら不況対策を取る「大きな政府」があたりまえのことになったのである。

ところが実は彼らケインジアンのケインズ解釈は決定的に間違っていた。
彼らの誤解によれば、有効需要不足で失業がなくならずに経済が落ち着いてしまうのは、価格がスムーズに動かないから、とりわけて賃金がスムーズに下がらないから(「貨幣賃金率の下方硬直性」)というのが原因だと言うのである。需要不足でも価格が下がれば、安くなったなら買おうと需要は増えてくるだろうし、失業が出ていても賃金が下がれば、企業は雇用を増やすだろう。価格や賃金が下がらないから悪いと言うわけだ。

ケインジアン達は、価格や賃金は下がらないものだと受け入れて、政府支出の増加や貨幣供給の増加で有効需要を増やして失業を無くす政策を推進したのである。
ところが彼らのこの前提からくる政策が失敗してしまったのが、1970年代のスタグフレーション(不況下のインフレ)であった。普通は好況のときにインフレ(物価上昇)になり、不況のときにはデフレ(物価下落)になる。ところがこのころは、不況なのにインフレになるという奇妙な現象に見舞われたのである。すると、不況で失業者が増えたからと言って有効需要拡大政策をとっても、ちっとも失業は減らず、インフレが悪化するばかりになってしまった。

こうしてケインジアン達の信用は失墜し、新古典派の流れをくむ、マネタリスト、サプライ・サイド・エコノミスト、合理的期待形成学派といった反ケインズ派の理論が力を持った。彼らは、政府は経済のことから手を引き、市場メカニズムに任せるべきだとして、再び「小さな政府」を主張した。そして現実の経済政策も、1980年代以降、規制緩和、民営化、財政削減といった反ケインズ的路線が世界中で進められていったのである。これを「新自由主義」路線と言う。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.16 )
日時: 2009/08/11 15:54
名前: 天の橋立の愚痴人間

ここらで御断りしておきますが、私は経済の専門家ではありません。ですから此処で述べていることは、殆どネットで得た資料です。
記述の引用元を一々紹介してませんが、宜しく御了解ください。


【ケインズ理論の本当の本質は流動性選好】

しかし、賃金がスムーズに下がらないから失業が起きるなどという解釈は、ケインズ以前の新古典派が30年代大不況を見て言っていた説明とまるっきり同じである。新古典派は、だから賃金引き下げに抵抗する労働組合を攻撃して賃金がスムーズに下がるようにしろと主張していたのである。まさにこの通りのことを80年代以降の新古典派式の政策もやったわけだ。

ケインズはこのような説明を批判して自己の学説を打ち出したはずではないのか。
ケインズが本当に言っていたことは、価格や名目賃金がどんなにスムーズに下がっても失業はなくならない、いやその方が事態はむしろますます悪化するということである。なぜなら、有効需要が不足して物が売れないのである。もし名目賃金が下がってコスト面で余裕ができたならば、企業はどうするだろうか。自分のところだけは製品が売れるように売り値を下げるだろう。ところがライバルもみんな同じことを考えて売り値を下げるから、結局市場価格の水準が下がるだけで売れる量はちっとも変わらない。名目賃金がスムーズに下がっても売り値が同じ分スムーズに下がるのだからもうからないことは依然と同じである。雇用は増えはしない。失業も減らない。

こんなことを聞くと新古典派ならこのように答えるだろう。モノが売れ残ったり失業が出たりするのは、人々が収入を使い切らずに貨幣で残している結果なのだから、それを他人に貸して利子を稼ごうとするだろう。すると、おカネを貸そうとする量が借りたいという量より多くなるので、利子率が下がるはずである。利子率が下がれば、企業の設備投資はじめ、おカネを借りてモノを買おうという動きが起こってくる。しかも、物価が十分下がれば、設備投資はじめおカネを借りて買う買い物にかかる額が少なくなるので、ますますおカネを貸そうとする額がおカネを借りようとする額に比べて大きくなる。だから利子率の下がり方はすごいものになるだろう。かくして設備投資などでモノへの需要がどんどん起こってきて、需要不足は解消される。失業もなくなる。
ところがケインズはそうはならないと言ったのである。ここがケインズ理論の本当のキーポイントである。

新古典派は、人々が貨幣を欲しがるのは何か買うためであって、買うものがなければ利子を稼ぐために他人に貸すと考えていた。しかしケインズはそうではなくて、人々は何も買うものがなくてもとりあえず手もとに貨幣を持ちたいと欲するものだとみなした。これを「流動性選好」と言う。
もしそうだとするとどうなるか。人々が収入を使い切らず貨幣で残したとしても、その全部を他人に貸そうとはしない。一部は貨幣のまま手もとに置いておこうとする。そうすると利子率は十分には下がらない。最初はおカネを貸そうという額が借りようとする額より大きくて利子率が下がっていっても、ある程度まで下がったならば、こんなに利子率が低いのなら他人に貸すなんて危ないことはもうやめて、みんな貨幣で持ってしまおうとする。だとすると利子率はもう下がらなくなる。物価が下がって浮いた分も、使わず貸さずにそのまま貨幣で持つ。

こうなるともうそれ以上設備投資が起こってくることはない。需要拡大は頭打ちになり、大量の失業者を残したままでも経済は落ち着いてしまう。ケインズは1930年代当時の状況をこのようにとらえ、この状況を「流動性のわな」と呼んだ。(ケインズ自身の表現に従えば「絶対的流動性選好」である。「私はその例を知らない」としつつ、1932年のアメリカの例をあげている。『一般理論』第15章p.207。──07年1月17日補足)

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.17 )
日時: 2009/08/11 15:56
名前: 天の橋立の愚痴人間

【現代のケインズ理論の登場】

このようなケインズ理論の正しい解釈は特に、1930年代大不況同様の長期にわたる不況に苦しむ1990年代の日本で台頭してきた。この現代のケインズ理論は、方法論的には、現代の新古典派達がケインジアンを批判して打ち出した枠組みを基本的にすべて丸のみして受け入れている。新古典派達は、価格や名目賃金がスムーズに動くとみなしたり、家計や企業は現在から将来までの自分の利益を合理的に計算して行動するとみなしたり、財や資産の市場が均衡するとみなしたり、将来起こることを平均的に予見できるとみなしたりして理論を作り上げてきた。旧来のケインジアンは、これらの仮定こそが、民間の自由に任せれば市場調整がスムーズに働いて失業もなく調和するとする資本主義弁護論の土台になっているとみなした。だからこそ彼らは、企業も家計も合理的でなく、市場もぎくしゃくした状況を前提して理論を組み立て、その結果経済が不安定で失業が生じる結論を出して、これこそが現実の資本主義の姿なのだと言っていたのだ。

ところが大量失業が出てしまう最も重大なポイントは、そんなところにはなかったのだ。
価格や名目賃金がスムーズに動くとみなしたり、家計や企業は現在から将来までの自分の利益を合理的に計算して行動するとみなしたり、財や資産の市場が均衡するとみなしたり、将来起こることを平均的に予見できるとみなしたりして理論を作っても、人々が何も買いたいものがなくてもとりあえず貨幣を欲しがるというただそのことを前提するだけで、経済は大量の失業を出して流動性のわなに落ち込んでいくことが説明できるのである。

とりわけて現代のケインズ理論が問題にするのがデフレの深刻な影響である。
新古典派なら、上記の「流動性のわな」論を批判してこのように言うだろう。不況で需要不足で大量失業が出て、しかも名目利子率がもう下がらなくなっても大丈夫。この結果、名目賃金や物価がドーンと下がったら、あんまり下がると人々は、いくらなんでもここまで下がれば将来は少しは元に戻るだろうと予想するはずである。ということは、将来物価が今より上がるのだから、安い今のうちに買っておいた方がトクだということになる。かくして消費や設備投資が起こってきて、需要不足は解消され、失業もなくなっていく。すると、需要が増えたのだから本当に予想通り物価が戻ったということになる。

つまり、実質利子率が下がって調整されるというわけである。
ところが現代のケインズ理論から言わせれば、人々の予想のたて方いかんでは次のようなストーリーもあり得る。つまり、不況で物価が下がったら、この調子で将来はもっと下がるだろうと予想する場合である。こうなったら調整は逆に働いてしまう。将来もっと安くなるのだから今は買うのをやめておこうというわけだ。借金なんかしたら将来返すのが大変になるのでなるべくしない。むしろため込んだ方がトクである。貨幣で持ったままでも将来今よりたくさんモノが買えるのだから、わざわざ他人におカネを貸すなんて危ないことをすることもない。
というわけで、ますます需要は落ち込んで、不況は悪化する。需要が減ったのだから本当に予想通り物価が下がる。つまり、デフレのせいで実質利子率が高止まりして、「流動性のわな」がひどくなるというわけだ。

これは、企業や家計が不合理だからもたらされているわけでもなければ、市場が不完全でぎくしゃくしているせいでもたらされているわけでもない。市場の需給にあわせて価格も名目賃金もスムーズに変動し、人々は将来にわたって自分の利益を合理的に計算し、しかも将来予想をぴったり当てている。にもかかわらず経済はとめどなく大不況に突入していくのである。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.18 )
日時: 2009/08/11 16:00
名前: 天の橋立の愚痴人間

【現代のケインズ理論の唱える政策】

ケインズ自身ともケインジアンとも異なり、現代のケインズ理論の結論によれば、政府支出を増やすことによる景気対策の効果はあまりないということになっている。なぜなら政府支出の増加で増えた人々の所得は、流動性のわなのもとではすべて貨幣のまま持たれてしまうので、消費需要の増加として広がっていくことはないからである。金融政策についても、金融引き締めなどして貨幣供給を減らせばますます不況が悪化するという意味では影響があるが、逆に金融緩和で貨幣供給を増やしても、全部人々がそのまま持ってしまい世の中に出回らないので何の効果もない。つまり旧来のケインジアン以上に深刻な不況の存在を説きながら、新古典派をもしのぐ政策無効命題を導きだしているのである。

ではどうすればいいのか。
現代のケインズ理論の論者がよく唱えているのが、有名なクルーグマンの提唱した「調整インフレ論」である。「インフレターゲット論」というのは、今日の日本の状況におけるこの穏当な呼び名である。これは、中央銀行が何パーセントのインフレを必ず実現するぞと宣言して、それまで金融緩和を続けるというものである。人々にインフレが起こることを確信させることができれば、今安いうちに買った方がトクだということになり、需要が起こってくる。
これを貨幣供給量のコントロールでやることには、はたしてうまくコントロールできるのかという反対も多い。運転を間違えてとんでもないハイパーインフレになったらどうするのかというわけである。

そこで山形浩生やフェルドシュタインは消費税を使う方法を提唱している。実は私も彼らに先立ってそれを唱えていた。私の場合は彼らと異なり最初数年は消費税無税くらいにまで減税することを主張している。そして数年後に必ず今よりも高い税率に上げることを確約するのである。この場合にも、今のうちに買った方がトクだということで、需要が起こってくる。

稲葉振一郎はドーアの議論を紹介して、賃上げを手段に使う方法を提唱している。将来にわたって必ず賃上げが持続すると予想されれば、それは物価水準も上昇するということだから、調整インフレ論と同じ効果が期待される(ただし私は、貨幣供給の同率での増大がないといけないと思う)。この議論を読んだ時思い出したのだが、私が最初にクルーグマンの調整インフレ論を知った時、韓国の経済危機の際の大幅賃金カットが思い浮かんだものだった。あの時このまま切り下げられた水準で賃金が維持されると思っていた者は一人としていなかっただろう。必ず数年後には組合の戦闘性が復活して賃上げがなされると、みなが確信していたはずだ。ということは物価水準も上がることが予想されたわけで、もしかしたらそれが急回復の要因だったかもしれない。

その他、現代のケインズ理論からは、なるべく貨幣で持つことをソンにして支出させる政策が導きだされる。例えば全般的な資産課税で税引後利子率をマイナスにしてしまうなどである。現金は新札切り替えで旧札を無効にし、交換手数料を取ればいい。切り替え期間後には政府が旧札の「本物のニセ札」を大量に印刷して駅前に置いてバラまいて無価値なものにしてしまうのがいい。
以上がケインズ経済学の概念であり、
http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/yougo_keynes.html
からの引用です。

ケインジアンとして、サミュエルソンやガルブレイスがいることを追記しておきます。
ケインズの経済学の注目をしなければならないのはマクロ経済学の部分です。


次には、マクロ経済学について少しは探求して、その後、ハイエク理論を中心とした新自由主義経済論の特性を見ようと思います。


随分と長ったらしくなりますが、我々が輪絵が無意識の内に受け入れている、資本主義経済のシステム民主主義のシステムは何であったか、あるのかについて認識を新たにした上で新しいかたちをどのように考えられるかと言うことを問いたいと思います。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.19 )
日時: 2009/08/14 12:40
名前: 天の橋立の愚痴人間

「マクロ経済学」

マクロ経済学は、「政府・企業・個人という経済主体」の行為を、大きな観点から総合的に分析する学問であり、「GDP・国民所得・物価・貯蓄・消費・投資・国際収支・景気指数などの集計概念(集計データ)」を元にして研究が進められます。 マクロ経済学の目的を簡単に言ってしまえば、『将来の経済状況(景気変動,デフレ,インフレ,バブル)の予測』であり『有効な経済政策(政府の財政・金融政策)の実行のための理論構築』です。マクロ経済学は、国民の自由な経済活動のみに基づく市場原理(競争原理)を完全に信頼することは出来ないというケインズ経済学の前提に立っています。

次に経済政策としてのマクロ経済学の実態を述べます。
これは。1国あるいは世界経済の短期的な(数年単位)での経済活動の変動、つまり景気循環に関する施策です。

政府はいわゆるマクロ経済政策によって景気循環を抑制、特に不況時に産出量
の落ち込みを軽減させることができると考えられています。マクロ経済政策は財政政策と金融政策の2つに分けることができます。

財政政策は公共事業などの政府支出と租税などの収入を景気の変動に応じて
調整することで経済の生産活動に影響を及ぼそうとするものです。一般に不況
時には生産の落ち込みを抑えるため収入に比べ支出が拡大され、好況時には
逆の調整が行われます。

いっぽう金融政策はお金の流通量である貨幣供給量などを政策手段として用い
ます。一般に不況時には貨幣供給量の拡大、好況時には抑制が行われます。
これらのマクロ経済政策は景気循環の抑制にどの程度の効果があるのでしょう
か? 90年代を通じて日本の財政赤字は大きく拡大しました。 これは不況が長期
間続き、その間政府支出と比較して税収が大きく落ち込んだためです。この不況の長期化はマクロ経済政策の実施が不十分、もしくは誤った政策が採られたためなのでしょうか?それともマクロ経済政策は景気回復に効果を発揮することができなかったのでしょうか。

景気循環、そしてマクロ経済政策の問題はマクロ経済学の中心的なテーマであ
り、マクロ経済学のみがここでとりあげた様々な問いに対して満足のいく答えを提供しているといえます。ただし財政政策、金融政策の効果を考える上では制度面の理解も不可欠ですから、財政学や金融論を学ぶことも重要です。

メンテ
新自由主義経済論 ハイエクとケインズの比較 ( No.20 )
日時: 2009/08/14 13:57
名前: 天の橋立の愚痴人間

新自由主義経済論の理論的元祖とされているハイエクについて、ケインズとの絡みを含んで書いてみたいと思います。
とは、言いましても、下記のサイトの転写に近いものです。

www.i.hosei.ac.jp/~hayashi/hayek.pdf#search='ハイエクと新自由主義'

1 はじめに
 ケインズ経済学の危機と新自由主義的経済学の台頭。

1970年代の二度に渡る石油ショックの発生以来、インフレと景気停滞・高失業率が
並存するスタグフレーションが顕在化するなど、従来のケインズ経済学では説明しがたい現象が起こり、ケイジアンのマクロ有効需要政策では景気変動の適切な制御が困難になってきた。
そうした時代状況を背景に、HicksやTobinなど有名なケイジアン自身により「ケインズ経済学の危機」が叫ばれ、ケイジアンのマクロ経済学・経済政策の有効性に対する疑問や批判が高まってきた。

そこで新しい理論と政策を掲げて登場したのが、新自由主義も哲学に立脚する経済学の一群であった。それらはマネタリズム、合理期待学派及び新しい古典派、公共選択学派などに大別される。
経済理論的には短期的には不均衛の存在を認めるにせよ、長期的には均衡の相で市場を捉える分析アプローチをベースとしている。

哲学的には、夜警国家や非干渉主義を旨とする古典派の自由放任ではなく、また国家介入を積極的に是認するケイジアンの自由主義とも異なり、個人の尊厳、自由権を最重要視しつつも社会権も斟酌する新自由主義を共通の基盤としている。

Harrodの言う「ハーベイロードの前提」に立脚して、知的エリートである政府が積極的に経済介入を行うべきだとするケインズ主義的政策は、財政支出の膨張、租税負担の増大、政府規制の拡大などにより「政府の肥大化」、「大きな政府」をもたらし、民間経済のダイナミックな発展活力を萎縮させ、経済成長率の低下をもたらす懸念を強めた。

こうした介入主義に基づくケインズ経済学に対抗して、新しい潮流は新自由主義の哲学に立脚し、財政支出の削減、減税、政府規制の緩和などにより「小さな政府」を目指し、ルールに基づく安定的通貨供給政策などにより中央銀行による裁量的金融介入を規制し、民間活力を蘇生させる政策提言を行ってきた。

続く
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Re: 新しい日本のかたち ( No.21 )
日時: 2009/11/07 17:34
名前: 天橋立の愚痴人間

過去ログに入りそうなのでUPしました。

まだ続ける意志を持っております。


達磨さん、

参考になる紹介もしていただいておりますが、

紹介だけの記事は、もう少し減らしていただけませんか。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.22 )
日時: 2009/11/08 22:29
名前: 役立ちの住人

天橋立の愚痴人間さん。

大変勉強になります。

私は、経済はあまりにも通貨の動きにとらわれてしまっていると感じるのです。
もちろん通貨は非常に正確に経済を測ってくれます。
現代の経済は通貨の動きそのものです。
しかし、経済の主人公はあくまでも人間です。

私たちは、通貨のない時代から生活をしてきました。
生産、消費、分配という一連の経済の動きは、今も昔も人間の生活の糧としての核心部分であることは、は何ら変わりありません。

しかし、個人、法人、国家の全てのレベルで、利益を追求することを究極の目的として、それぞれの活動、理論、概念は作られてきました。
本来は道具であったはずの通貨が、利益という目標の下、何時しか目的に化けてしまっています。

しかし国家的な、経済目標は、あくまでもこの核心部分である、生産と分配、消費に向けられなくてはならないと思うのです。
本来は、通貨でさえもそのための道具でしかないと。

経済にまつわる多くの要素は、実際に有効な機能を持っているものが殆どですから、これらを否定するべきではなく、むしろ積極的に有効に活用して行くべきでしょうが、
立場を入れ替え、目的と手段、そして手段のための道具として、正しく認識して行く姿勢が先ず必要だと思います。

しかし、その前に分配に対する根拠を、国民共通の価値観、イデオロギーとして確立しないことには、公平性が保てません。
今まで行われてきたように、権力や多数派の都合のいいようにいくらでも解釈次第で自由に出来ます。
もちろん分配だけでなく生産にも言えることです。

何処までが正当な利得であるのか、何処からが不当な利得なのか、それはどうしてか、どういう根拠があるのか。
今までは、政治家と官僚が勝手に作った法律で、合法、違法という判断だけが、されてきました。
イデオロギーとしての確立がなされない限り、もし官僚の時代が終わったとしても、新たな権力による支配と搾取が繰り返されます。

当然、先ず人間の尊厳、そして社会全体としての生産性が、目標になってくるでしょうが、これは、互いがお互いの要素になり、どちらが欠けてもどちらも成り立ちません。
先ず思想的な根拠に基づいて、ひとつひとつ正して行かなくてはならないと思います。


たとえば、失業問題ですが、社会にあまり必要とされていない仕事に法的保護を使い、十分な利得を社会から受け取ることは、社会にとってまた本人にとって本当によいことでしょうか?
私は、仕事が見つからなければ、それよりも生活保護を受け取りながら、ボランティアなどしたほうが、社会にとっても本人にとってもよいことではないか。
とも思うのです。

世の中には、経済的な富を目標とする人もいれば、不自由ない生活だけが目標である人、精神的な安定が最大目標の人、たくさんの人たちがいます。
彼らのそれぞれが、分に応じた生活、分に応じた役割、役立ちに応じた報酬、これらが認められなくてはならないと思うのです。

現在の社会は、国民全てが懸命に働き、社会の上層部が自身の目的に応じ、その利益を分配するという構造が出来ています。
そのような社会では、失業は、どうしても解決しなくてはいけない問題です。
罪悪であるかのような扱いを受けます。
彼らは、社会の上層部の、利益を減らし負担を増やし、体制を批判します。

しかし私たちは奴隷ではありません。

もちろん考え方はたくさんあると思います。

しかし、人を支配することを前提としない立場であれば、共通のイデオロギーが持てると思います。

私たちが意識せずに行ってしまっている搾取による利得は、手放さなくてはならなくなるでしょう。
それでも、それ以上の物を得ることになると、考えています。


メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.23 )
日時: 2010/10/25 03:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yAyaBq2A

「ケインズ経済学の危機と新自由主義的経済学の台頭」の続きです。

他方でケイジアンや新古典派の理論経済学の中からは、ケインズ経済学あるいはマクロ経済学のミクロ的な基礎付けを目指して、理論的な再構築を試みる研究が輩出してきた。この流れは1970年代後半からArrow−Hahn(1971)流の位相数学による一般均衝理論のフレームワークを用いて、固定価格の制約下での数量調整機構による均衝の存在や安定性を証明する所謂「ケイジアン不均衝分析」から始まった。

こうしたミクロ理論の研究動向は、マクロ理論研究の在り方のも少なからず影響を与えた。新自由主義経済学の中でも、とりわけ合理的期待学派や新しい古典派は、ミクロ的な基礎付けを重視し、代表的経済主体を想定して、その主体的均衝を目指す行動仮説を明示的に理論家しつつ、マクロ理論を展開した。

こうして新しい潮流が勢いを増す中で、ミクロ的均衝分析アプローチに基づくハイエクの景気循環論、貨幣理論、資本理論などが再び注目されるようになり、陰に陽に新しい潮流に影響を及ぼしてきた。新自由主義的な金融、財政政策論の展開論文には、林(1989)があり、それらとハイエク経済学との関連については古賀(1983)があるが、本稿では1990年代の展開も踏まえて特に景気循環論との関係で、新自由主義的な経済学とハイエクとの関係を論考する。

そこで、まず2節ではハイエクの景気循環論の重要な特徴を整理して把握するとともに、3節以下ではハイエク理論がそうした新しい潮流とどのように関わってきたのか、学説史的に考察する。

続く

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Re: 新しい日本のかたち ( No.24 )
日時: 2011/06/26 17:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:rH3wz/nM

「新しい日本のかたち」を求めた、このスレッドも随分と休止状態でしたが、皆様の御意見を賜りまして続けたいと思います。

宜しく御願いします。
メンテ
投稿文紹介<ドイツの官僚制度 ( No.25 )
日時: 2011/09/22 15:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:85ZdXCoo

財政問題は増税で解決しない。第3回「ドイツから学ぶ官僚支配政府の克服(責任ある決裁権と政治任用制度!)」
http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/716.html
投稿者 msehi 日時 2011 年 9 月 22 日 12:14:36: MaTW.8vfzXWdQ


投稿者msehi
http://d.hatena.ne.jp/msehi/

現在の官僚支配政府は殖産興業、富国強兵を求めた明治政府誕生から既に始まっており、伊藤博文らはそのためにドイツ帝国のベルリン大学で学び、ドイツの官僚制度を模倣した。
(実際はドイツでは、ビスマルク率いる政府も議会決定なしには身動きできなかったことから、勅令などのやり方で、議会決定なしで主導できる立憲君主制をウィン大学のロレンツ・フォン・シュタイン教授から学んだ。)
すなわち二つの目的を最優先して遂行するために、勅令によって議会に左右されない官僚による専制政府を誕生させたと言えよう。
確かに議会の延々とした議論と判断に依らないことは、即効的に機能し、一丸となった統率力で、日本を短期的に飛躍的に発展させた。
しかしそのような急速な発展自体が官僚組織を肥大化させ、無責任な大本営へと変質させていき、太平洋戦争開戦によって破綻した。

そして戦後の日本もこのような官僚制度を反省することなく、核の持ち込みや核保有の密約などで明らかなように再び官僚主導の統率力のある政府によって、飛躍的な産業発展をさせた。
しかしその飛躍的な発展自体が驕りと過信を招き、官僚支配政府は無責任な大本営と化し、再び破綻へと突き進もうとしている。

これに対してドイツでは、戦前の官僚組織の一兆パーセントのハイパーインフレとナチズムを招いたことが徹底して反省され、情報公開をガラス張りに国民に開き、官僚組織は政府に尽くす以前に基本法に則って国民全体の利益に奉仕することが、あらゆる側面で求められた。
その大きな柱の一つは権限の下への委譲であり、担当した官僚が責任の伴う決裁権を持っていることだ。
すなわち日本のように稟議制といって、担当した官僚が係長、課長、局長、大臣官房長、大臣といった承認や指図に従って行政を実施し、過失があっても大臣が替わるだけで責任が問われないシステムではなく、担当者に決裁権があるかわりに、過失の際は責任が厳しく問われるシステムである。
それゆえ官僚は、官僚組織よりも国民への奉仕を優先せざるを得ない。
但し決裁権が任される官僚は、大学のディプロマー試験やマギスター試験に合格し、2年間条件付官使として勤務した後、ラウフバー試験(法文系は司法試験を兼ねていることから、弁護士資格を収得)に合格しなくてはならない。
そして3年以上の各省庁での見習い期間を経て、決裁権を持つ官僚になるが、課長以上へ昇進するためには競争も激しく、同時に厳しい責任が課せられている。
それは、日本のように国家公務員試験1種に合格すれば、キャリア官僚として官僚組織があたかも自らの共同体を守るために、上へ上へ育成昇進させていくシステムとは対極するものである。
そしてもう一つのドイツの柱は政治任用制度であり、誕生した政権が各省庁の事務次官、局長などの約400人の上級官僚を任用するシステムである。
そのため各省庁の官僚は各政党にリストされており(多くは政党に入党している)、自ずと情報公開を徹底させ、官僚組織の自己目的化を分断していると言えよう。
しかもこれらの官僚は、厳しい決裁への責任が課せられることから、政党に属すことで政党に支配されることなく、基本法に基づいて国民全体の利益を最優先して求めているのである。

それゆえ2010年メルケル政権が原発運転期間を28年間延長し、原発推進へ舵を切ろうとした際、その過ちを強く指摘し、脱原発を実現させたのはドイツの官僚たちであったと言っても過言ではない。

その証拠にドイツのZDFフィルム「大いなるこけおどし・・・政治の間違った約束」に、責任を担う官僚たちは積極的に出演し、原発運転期間延長の政策が間違った政策であることを強く指摘している。

(ヴォルフガング・レネベルク、2009年まで連邦原子炉安全局局長)
私は安全性の理由から、古い原発を設定された期間以上運転することは、無責任だと思っている。
ドイツの全ての原発は、今日申請許可が得られるものではないだろう。

(ボルフラム・ケーニヒ、放射線防護局局長)
ゴアレーベンのような一つだけの最終処分場カードを切ると、実質的には10年から15年の長いプロセスの終わりに、すなわち原子力の計画確定作業の終わりに、安全性の裏づけが得られないということが明らかになれば、対処できない。
私たちは、政治が選んだやり方を理解できない。

(ヨアヒム・ヴィランド、法務局憲法裁判官)
脱原発合意が解約されるなら、すなわち飛行機墜落を防御できない古い原発の操業許可が延長されるなら、国家は市民を守る防御義務に違反する。

(オラーフ ホォフマイヤー、環境事務局メルケル首相政府顧問)
脱原発からの下車は、明らかに巨大電力企業に長期に渡って好意を約束したものである。
それは内容的に全く馬鹿げており、エネルギー政策的に全く間違った決定である。
私たちは脱原発を、さらに徹底して実現していかなければならない。
原発の長期運転は必然的により高い収益をもたらす。しかし必然的に安い電力料金にはならない。
もし私たちが底なしに向かう原発の運転期間を延長するというシグナルを与えるなら、それは同時に再生エネルギー源の基盤による持続的な電力供給を本質的に望まないというシグナルを与えることである。
その限りでは、このシグナルは全く致命的である。

このようにドイツの官僚たちは、官僚組織や政府よりも国民全体の利益と責任を最優先して、国民に奉仕していることは明らかである。

日本は約百年前にドイツから官僚制度を導入したが、それは明らかに機能不全に陥っており、今まさにドイツの国民に奉仕する官僚制度への転換が求められている。


財政問題は増税で解決できない。第1回「政治の過ちによる国民への復興増税というタカリ(激怒!)」
http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/620.html

財政問題は増税で解決できない。第2回「民にタカル官僚支配政府の舞台裏(審議会は「やらせメール」だ!)」
http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/656.html

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.26 )
日時: 2011/09/22 18:26
名前: 満天下有人 ID:QvYLG6tY

・・・先ほどニュースで、民主党税制調査会(座長・藤井裕久)の一部模様を見ましたが、増税は消費税、法人税及び“たばこ税”を軸に進め、所得税には極力触れないというもの・・・

・・・議員からは、オカネは空から降ってくるものではない、よって増税は避けて通れないという意見まで出て、ウンザリを通り越してヘドが出そうになりました・・・

・・・たばこ税も軸にと言う藤井・・・たばこ税がどれほど財源に寄与するのか、思えば厚労相になった小宮洋子が大臣としての初記者会見で、年金や医療費問題と言う国家の大きな政策には触れずに、いきなりたばこ税増税を財務省にお願いすると言ったことが思い出されて、藤井座長の発言も、さもありなんと・・・(笑)・・・

・・・もう既に、IMF、米国の意向を受けた財務省の、のぼせあがったかと思えるほどの売国政治様相になってしまいました・・・これに追従するメダカ政治、新しい国の形は、このようなものになってしまいました・・・

批判ばかりだとの批判もこれあり、しかし、もう批判するしか手がありません、何を希望しても、こんな有り様です、新しいことを考える気力も失せてしまいます・・・暴動が一番手っ取り早いのですが、今のこの国では、ムリもいいところです・・・ドイツ官僚のように官僚自らが転換しようとする気配も無し・・・あっても消されてしまう・・・。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.27 )
日時: 2011/09/22 18:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:85ZdXCoo

増税は時期ではないと叫んでいる民主党の馬鹿共も、自分の選挙目当てで言っている事が解かりすぎるほど解かります。

こんな連中が何十年政治をやっていても国の改革は出来ません。出来ないと言っていても政治がやらねば誰がやると言うのでしょう。

>・・・暴動が一番手っ取り早いのですが、今のこの国では、ムリもいいところです・・・

暴動どころか、僅かに存在する市民デモも、小沢、小沢と個人に頼り、自分たちが何に対して不満を持っているかも、堂々と主張することも出来ません。

反原発デモが盛り上がり、6万人の人間を集めるようになったのは、ただ「原発を止めろ」と言う単純な意思表示があるからです。

市民デモでも「こんな政治は止めろ」だけを叫ぶべきで、それに多くの人が呼応するというスタンスを取らねばなりません。

何時も言っていますように、妙に賢くなった国民が、自ら理に溺れ、大きな意思を発揮できません。
暴動などの単純明快な憤怒の気持ちに収斂することは出来ない所以が、平和ボケ、理屈ボケした大衆意識にあるのです。

一事が万事、重箱の底をつつくような考え方の蔓延に絶望を感じます。
奴等は、重箱のゴミのようなものより認めることが出来ないのです。

さて、愚痴はこれくらいにして、最近、阿修羅で下記の方に出会い、糾弾サイトへも起こし願うように頼んでおきました。

投稿者msehi
http://d.hatena.ne.jp/msehi/

この方も、自分のブログで一生懸命に我が国のありようを憂いておられます。
ドイツに関する見識が御高いようで、是非意見を聞きたいものです。



メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.28 )
日時: 2011/09/22 20:16
名前: 満天下有人 ID:QvYLG6tY

・・・全くです、政治デモにならないのが不思議です・・・

しっかりされた新たな方の参加は、望むところですね・・・。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.29 )
日時: 2011/09/23 07:42
名前: グッキー ID:uv.ADpEc

自由な市場経済は維持したい。
私は自由が好き。

しかし市場経済を自由にすると弱肉強食が起き格差が広がる。

格差に一定指標(経済が好調だった時くらい)を設け、その指標を上回らないように、
政治が富の再配分をするシステムを創りたい。
これが目標なんだけどね。

人間とは欠陥のある生物。
欠陥と付き合っていく方法を学ばねば。
完全を求めるとろくなことは無い。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.30 )
日時: 2012/03/25 22:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UuyyUY9c

新自由主義経済論の理論的元祖とされているハイエクについて、ケインズとの絡みを含んで書いてみたいと思います。
とは、言いましても、下記のサイトの転写に近いものです。

www.i.hosei.ac.jp/~hayashi/hayek.pdf#search='ハイエクと新自由主義'

1 はじめに
 ケインズ経済学の危機と新自由主義的経済学の台頭。

1970年代の二度に渡る石油ショックの発生以来、インフレと景気停滞・高失業率が
並存するスタグフレーションが顕在化するなど、従来のケインズ経済学では説明しがたい現象が起こり、ケイジアンのマクロ有効需要政策では景気変動の適切な制御が困難になってきた。
そうした時代状況を背景に、HicksやTobinなど有名なケイジアン自身により「ケインズ経済学の危機」が叫ばれ、ケイジアンのマクロ経済学・経済政策の有効性に対する疑問や批判が高まってきた。

そこで新しい理論と政策を掲げて登場したのが、新自由主義も哲学に立脚する経済学の一群であった。それらはマネタリズム、合理期待学派及び新しい古典派、公共選択学派などに大別される。
経済理論的には短期的には不均衛の存在を認めるにせよ、長期的には均衡の相で市場を捉える分析アプローチをベースとしている。

哲学的には、夜警国家や非干渉主義を旨とする古典派の自由放任ではなく、また国家介入を積極的に是認するケイジアンの自由主義とも異なり、個人の尊厳、自由権を最重要視しつつも社会権も斟酌する新自由主義を共通の基盤としている。

Harrodの言う「ハーベイロードの前提」に立脚して、知的エリートである政府が積極的に経済介入を行うべきだとするケインズ主義的政策は、財政支出の膨張、租税負担の増大、政府規制の拡大などにより「政府の肥大化」、「大きな政府」をもたらし、民間経済のダイナミックな発展活力を萎縮させ、経済成長率の低下をもたらす懸念を強めた。

こうした介入主義に基づくケインズ経済学に対抗して、新しい潮流は新自由主義の哲学に立脚し、財政支出の削減、減税、政府規制の緩和などにより「小さな政府」を目指し、ルールに基づく安定的通貨供給政策などにより中央銀行による裁量的金融介入を規制し、民間活力を蘇生させる政策提言を行ってきた。

他方でケイジアンや新古典派の理論経済学の中からは、ケインズ経済学あるいはマクロ経済学のミクロ的な基礎付けを目指して、理論的な再構築を試みる研究が輩出してきた。おの流れは1970年代後半からArrow流の位相数学による一般的均衡理論のフレームワークを用いて、固定価格の制約下での数量調整機構による均衡点の存在や安定性を証明する所謂「ケイジアン不均衡分析」から始った。

こうしたミクロ理論の研究動向は、マクロ理論研究のあり方にも少なからず影響を与えた。
新自由主義経済学の中でも、とりわけ合理的期待学派や新しい古典派は、ミクロ的な基礎付けを重視し、代表的経済主体を想定してその主体的均衡を目指す行動仮設を明示的に理論化しつつ、マクロ論を展開した。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.31 )
日時: 2012/03/25 22:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UuyyUY9c

新自由主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
新自由主義(しんじゆうしゅぎ、英:neoliberalism、ネオリベラリズム)とは、市場原理主義の経済思想に基づく、均衡財政・福祉および公共サービスの縮小・公営企業民営化・経済の対外開放・規制緩和による競争促進・情報公開・労働者保護廃止などをパッケージとした経済政策の体系、競争志向の合理的経済人の人間像、これらを正統化するための市場原理主義からなる、資本主義経済のレジームをいう。

フォーディズム[1]に続く資本主義経済のレジームであり、フォーディズムを支えた、国家による富の再分配を主張する社会民主主義(英:Democratic Socialism)、国家が資本主義経済を直接に管理する開発主義国家の経済政策などと対立する。計画経済で企業と個人の全てが国家の管理下である共産主義とは極対軸の経済思想である。
資金・財・労働力・技術など移動を自由化を前提するグローバル資本主義は、新自由主義を一国をこえて世界まで広げようとするものといってよい。


「評価」

「社会といったものはない There is no such thing as society」と説き、また「市場にオルタナティブはない There is no alternative to market」として市場を絶対視したサッチャーの下、自助の精神が取り戻されたという評価や、以下の各国に共通した双子の赤字の課題を残しつつも、英国が英国病を克服したこと、米国が石油危機に端を発するスタグフレーションを脱し、1990年代にはビル・クリントン政権下でインターネットなどの新産業が勃興して産業競争力を回復したこと、南米ではブラジルが1990年代までの深刻なインフレの制圧に成功しブラジル通貨危機までの安定成長を遂げていることなどは、グローバル資本主義、新自由主義の功績であると評価されている。 また、日本におけるバブル後不況の克服も新自由主義的改革の成果と評価されることもある。

「批判」

冷戦に勝利をもたらした思想として世界中に広まり、1992年頃に思想的に全盛期を迎えたが、ドイツ再統一後の経済的混乱、ロシア及びCIS諸国と東欧諸国の経済・政治的混乱、またソ連及び東欧諸国における共産主義は本来の思想精神とはかけ離れていた為に行き詰まった事が明らかとなり、また1997年のアジア通貨危機から発した世界金融危機における2001年のアルゼンチン経済危機や、新自由主義者の巻き返しとも言えるイラク戦争におけるイラク及び中東諸国の政治的混乱を契機に世界的に批判が高まっていく。

西側諸国では、労働者に対する責任転嫁は格差社会を拡大したとの批判もあり、またチリにおけるシカゴ学派の功績は事実と大きく異なることが明らかになり、ジョセフ・E・スティグリッツら公共経済学の立場からも新自由主義的な政策で国民経済が回復した国は存在しないことが指摘されている[6]。債務国の再建策として新自由主義的な経済政策を推し進めていたIMFも、2005年に理論的にも実践的にも新自由主義的な経済政策の推進は誤りだったと認めている。
南米では、1990年代初頭から米国主導による新自由主義の導入が積極的に行われ、貧富差が拡大、犯罪多発や麻薬汚染、経済危機といった社会問題が頻発、ストリートチルドレンの増加やアルゼンチンの財政破綻が起こった。また、ベネズエラのチャベス政権のような国民経済を重視する政権が相次いで誕生する原因にもなった。 また、日本においても改革の結果失業率は下がったものの、地域間格差の拡大、非正規雇用の増加などの問題を生んだとして批判される。

日本では、小泉政権による新自由主義政策の是非は定かではないとの意見もある。失われた10年ともいわれた長期不況は、欧米や南米のような供給不足による不況ではなく、需要不足による不況として生じていたものであるとの認識の下、小泉政権下での新自由主義的政策路線は、この不況を欧米と同様の構造的不況として、供給サイドの強化により著しい株価下落と失業率の増加を招いたこと、2002年から続く外需先導での経済成長は、米国の経済成長や財務省による円安介入との効果も考えられるとの評価もなされている。

韓国では、金大中政権下で20万人以上もの人々が失業し、事実上「刑死」(=失業による自殺)に追い込まれた者も多い。その後を受けた盧武鉉政権では、「左派新自由主義」の名の下に格差の解消に取り組んだが、格差が更に広がる結果となり、経済が回復しても、正規雇用が増えずに非正規雇用が増加する「両極化」が大きな社会問題となった。2008年に発足した李明博政権では、法人税減税と規制緩和を中心に新自由主義政策を徹底すると表明している。
20世紀末の西ヨーロッパでは、新自由主義の台頭を受け、イギリス労働党のトニー・ブレアが唱え、公正と公共サービスの復興を訴える第三の道に代表される「新しい社会民主主義」と呼ばれる中道左派政党を含む政権が台頭した。
また、英国保守党デービッド・キャメロン党首も党大会においてサッチャリズムとの決別を宣言した。[7]。


ハイエクは,国家の役割を増やすこと自体を自由への脅威であり,社会主義的だというようなことを主張している。こうした考えは,徴税や軍隊をも自由への侵害だとする極端なリバタリアンにも通ずるが,しかしハイエク自身は国家の役割を否定しているわけではないし,自らの自由主義は自由放任主義ではないことを強調している。また,かれは,国際関係においては,カント主義的な超国家的な国際機関の役割を認めている。

 かれの思想の源流は,オーストリー学派的な個人主義,自由主義,功利主義,主観主義,主観的心理的価値論や論理実証主義にある。そこから,社会主義・共産主義を個人主義・自由主義と相容れない集産主義・全体主義として批判するのである。

 かれは,個人は絶対であり,個人の自由は不可侵であり,競争は個人の主観的で心理的な努力を最大限に引き出すのが競争であり,その結果については,各個人が背負う偶然であり,それを運命として享受するという心理的な態度が必要だと主張する。かれの競争や市場の概念はまったく具体性がない抽象的な一般論であり,価格機構の役割についての論も同様の一般論である。かれによれば,競争は,「個人の努力を統合する手段」である。しかし,商品価格をめぐる資本主義的競争は,「各部面における生産価格が,これらの中位組成の部面における生産価格,すなわちk+kp'(費用価格プラス平均利潤率と費用価格との積)にならって形成されるように,社会資本を,相異なる諸生産部門のあいだに分配する」(『資本論』岩波文庫(6) 270頁)のである。

ハイエクは,経済諸関係や生産諸関係を,市場一般や競争一般から説いて,主観的自由主義・個人主義という心理的立場からする社会主義批判を,より正確には,集産主義・全体主義批判を展開するのである。かれは,カント主義者らしく折衷主義的に,社会主義の終局目的を完全否定しないし,国家の役割をも否定しないし,消極的には政府の介入行動の必要性をも主張している。かれにとっては自由ですら積極的なものではなく,何かからの自由というふうに消極的に定義されるものでしかない。だが同時にかれは,自由それ自体が目的であるとも言う。「ヨーロッパ近代史を通じて,社会発展の一般的方向は,慣習または法規によって日常の行動を拘束されていた個人を解放することにあった」(22頁)。かれは,「法の支配は自由主義時代に初めて意識的に発展したものであり,単に安全保障としてのみでなく,また自由の法的表現として,最大の成果の一つである」(105頁)として,カントの言葉を引いている。

すなわち,「人間に服従するのではなくて,ただ法に服従することを要するときに,人々は自由である」(105頁)。しかし法の支配についてのハイエクのご都合主義は,「度量衡制度を取り締まる国家(または他の仕方での詐欺や欺瞞を防止する国家)は,たしかに行動的であるが,たとえば,ピケによる暴力行使を許す国家は行動的ではない。国家は第一の場合においては自由主義原則を遵守しているが,第二の場合においては遵守していないからである」(104頁)と述べているところなどに現れている。ちょうど,10月8日,9月27日夜に始まったアメリカ西海岸での港湾封鎖にいたった使用者側が仕掛けたロックアウトとそれに抗議する港湾労働者の対立に対して,ブッシュ大統領は,タフトーハートレー法に基づく指揮権を発動し,港湾封鎖解除を命令した。

これは80日間の業務期間内に労使の合意による解決を目指すことを国家が強制するものである。もちろんその期間内に解決するとは限らない。10日間の封鎖期間中の損失は,194億ドル(約2兆4000億円)にのぼるとみられている。この場合について,ハイエクの考えでは,労働者諸個人が生活のために行うピケなどの闘いを鎮圧する国家行動は,自由主義原則に適っていることになる。しかしこの場合,使用者側の一方的な合理化による失業の危機に対して港湾封鎖に立ち上がった諸個人は生活を他の個人(資本家)から妨害されているのだ!

 さらにかれは,「法の支配は,立法を形式化された法として知られている一般規則の種類のものに限定し,直接に個々の人々をめざす立法,またはかかる差別のために,だれかに国家の強制権を行使させることを目指す立法を排除する。法の支配は,すべてのことが法律によって規制されるということを意味しているのではなくて,法律によって前もって決められた場合にのみ,国家の強制権が行使されうること,したがって国家の強制権がどのようにして行使されるかが予見されうるということを意味している」(107〜8頁)と言う。

続く
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.32 )
日時: 2012/03/25 22:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UuyyUY9c

続き

このような法の支配の立派な理想が,実際の階級独裁を覆い隠すベールにすぎないことは言うまでもない。国家が余計な干渉をしない限り,ブルジョアジーは自由に搾取する。あらかじめ国家の強制権の発動が予見されるので,ブルジョアジーの中には,それをあらかじめ計算に入れ,法の網をかいくぐって企業不正や脱税や不法行為を自由に行なうものもでる。支配階級は,法の支配を社会に押しつけながら,自らはその制約をできるだけ免れようとする。特定の個人を対象にしない形式的な法の支配は,どの階級が本当に支配しているのかをできるだけ見えないようにする幻想形態なのである。経済諸関係が法律諸関係を生み出すのだ。

 また,ハイエクは,価格機構による限られた情報によって生産活動が調整されることが望ましいとして,それ以上の情報は不可知でよいとしている。かれは企業秘密を,個人のプライバシーと同じようなものとして扱っているのである。それがかれの個人主義・主観主義から来ていることは明白である。企業の主体は,個人であり,一人格(法人)であり,個人に擬せられた主体として扱われているのである。これは,かれの思想が,カント同様の独立生産者としての思想的特徴をもっていることを物語るものである。かれにとって独占は悪であるが,資本主義的独占はたいした悪ではなく,競争の確保によって抑制できる程度の小悪であるにすぎない。ところが,国家社会主義や共産主義的な独占は,それ自体目的とされる自由とは両立できない。それらは,集産主義・全体主義の一種であるからというのである。

かれは,資本主義的独占が歴史的必然であることを認めないし,それが,競争を排除せず,国際独占体となって激しく競争していることを見ない。というよりもそういう現実は望ましいとして肯定しているのである。かれはこうした競争から戦争が発生することを認めない。かれの思想からは,戦争は,集産主義・全体主義が自由主義に対して起こすものだという結論が導き出される。

 かれは,集産主義の特徴として,「その集団の目的体系を共通に認めさせる必要と,その目的を達成するために最大の権力をその集団に与えることに対する非常に強い欲求であるが,そこから一定の道徳体系が発生するのである」(186頁)と述べている。つまりは,集産主義を,自己の目的を認めさせるという主観的な必要性と目的達成のための権力拡大の主観的な欲求という心理的な特徴によって規定している。かれは,意志とか心理とか欲求とかを問題にしているのであり,それが自由主義的なものであることを求めているのである。それは,中間層的な自由であり,その位置から,資本家と労働者との間の動揺的な地位を自由として礼賛しているわけである。しかしピケ問題,独占問題への態度で明らかなように,実際はブルジョアジーの立場に大きく傾いているのである。現実には,独占資本は,国内独占の次は国際独占へと向かって発展するのである。
 
 ハイエクは,その目的(社会的正義,平等,保障などの理想)だけではなく目的達成の特定の方法をも意味するとして,「社会主義は私企業の廃止,生産手段の私有制度の廃止を意味し,利潤を求めて働く企業家に代えて中央計画機関による「計画経済」体制の創造を意味する」(44頁)と述べている。それに対して,ハイエクは,計画化への反対を独断的な自由放任主義的態度と混同してはならないと注意した上で,「人間の努力を統合する手段としての競争の力を最大限に利用することを認める自由主義論は,事柄をあるがままに放っておこうとするものではない,自由主義論は競争が有効に行われるときには,他のいかなるものよりも個人の努力をよく指導するという信念を基礎としているのである」(48頁)ということを対置している。ハイエクにとって競争とは「社会の組織化の原理」(49頁)である。

かれは,競争の作用を助けるための干渉手段の必要と政府行動の必要の消極的な理由として,「第一に市場の各当事者は彼らが取り引きすべき相手を見出しうる価格で自由に売買することができること,そしてだれでも自由に生産し,販売し,いやしくも生産され販売されているものを買い入れうるということが必要である。そしてすべてのものが同じ条件でさまざまの取り引きを自由に行いうること,個人または集団が公然の力または隠れた力をもって,この取り引きを行うことを制限しようとするいかなる試みも,法律が許してはならないことが必要である。特定の商品の価格や数量を統制しようとするなんらかの企ては,各個人の努力の結合をもたらす競争の力を奪い取る」(同 49〜50頁)と主張する。このことから,かれは,当時,すでに存在していた独占資本による資源の独占やカルテル・シンジケートなどによる価格統制や独占価格,資源の独占,その他の独占に対して,「独占問題は,もしわれわれの闘うべきものが資本家的独占にすぎないならば,それほど困難ではないだろう」(252頁)と述べている。

政府が,カルテルやシンジケートを取り締まれば,競争原理が再び働いて,いい状態が簡単に回復するというのである。かれは,資本主義的独占から帝国主義が生まれ,世界大戦が起きたという歴史的事実に目をつぶる。国際独占体による世界の自由な経済的分割競争から世界規模の殺戮戦が発生したことを認めないのである。かれによれば戦争は,反自由主義から発生し,全体主義から発生する。それを防ぐのは19世紀の自由主義の理想,カント主義的理想である世界連邦,超国家的機関である。それには,自由人たる個人による国家支配が必要であり,そうした自由人によって,超国家的機関の横暴をも防止しなければならないというのである。

しかし現実の超国家的国際機関の方は,大国の利害によって恣意的に動かされる場合が多い。例えば戦争犯罪を裁く国際司法裁判機関は,アメリカ兵を犯罪者として訴追できないように特別扱いを要求するアメリカ政府の圧力によって骨抜きされようとしている。何度も強調したように,占領地からの撤退を求めた国連決議があるにも関わらず,対テロ戦争を理由にしたイスラエル軍によるパレスチナへの侵攻・占領・軍事攻撃が繰り返され,工場・農場・商店・住居などの生活手段が破壊されている。ハマスなどによる自爆攻撃ではバスや自動車などが破壊されもしたが,それに対して,イスラエル軍は,議長府のビルの破壊など,数倍数十倍の破壊行為を行っている。止めどもない殺戮戦のくり返しの中で,すでに何千人もの規模で犠牲者が出たというのに,国連は,アメリカの主張にしたがって,イラクの査察問題の方に大きな精力を注ぎ,パレスチナ問題への対応に力を十分に使っていない。

 この本は「1940年から1943年に至る間の余暇を縫って著した」(1976年版序言)ものであるという。戦時中の「余暇」というのはユーモアなのだろうか。ハイエクのソ連経済批判は完全にはずれた(それについてはロンドン大学の森嶋通夫教授や伊藤誠氏が指摘している)。その政治思想も多くはかれ自身が引用している先行するジョン・スチュアート・ミルなどの自由主義思想やカント思想の焼き回しにすぎない。ひどいのは,自己の主張を正当化するために,まったくいい加減なことを書いていることである。例えば,かれは,「小国の権利に関するかぎり,マルクスとエンゲルス(ENGELS)は大部分は他の首尾一貫した集散主義者よりもよくはなく,折々チェコ人やポーランド人について示している見解は,現代の国家社会主義者の意見と似ている」(183頁)と書いている。

1848年の情況と1940年の情況の違いをまったく無視し,「1848年には,革命的な諸民族は自由のためにたたかっており,その自由の主要な敵はツァーリズムであったが,チェコ人その他は実際反動的な民族であり,ツァーリズムの前哨であった」(『自決にかんする討論の決算』(国民文庫=118 152頁)ことをも無視しているのである。ハイエクは,百年前の情況で言われたこととそれとまったく情況の違う現代の情況で,同じようなことを言ったということで同じだとする適当な論証ですますというとんでもないことを平然とやっているのである。

この点については,国際労働者協会創立宣言で,マルクスが「英雄的なポーランドがロシアの手で,謀殺され,コーカサスの山塞がロシアのえじきになる」のを非難したことを指摘できる。それから,マルクスが,自由主義的な大英帝国のアイルランド併合に反対して,アイルランド人の独立運動を支持・支援したのに対して,ハイエク氏は何一つ語っていないばかりか,こういう大国による弱小民族の支配・従属化・抑圧・差別するイギリス支配階級の自由主義の欺瞞を批判することもなく,逆にアングロ=サクソン流の自由主義に賛意を表して,抑圧的大国家の味方をしたことを強調しておきたい。

 また,かれは,レーニンの言葉も,「だれが,だれを」という不正確に縮約した上で,それを「ソ連統治の初期の数年前に,人々が社会主義の一般問題を確約した格言」とやらにしてしまう。それはかれの手にかかると「だれがだれのために計画するのか,だれがだれを指導し支配するか,だれが他の人々に対して,その身分を割り当てるか,だれが他の人によって割り当てられたものをもつか,それらの問題は必然的に最高権力者のみによって決められる中心問題となる」(139〜140頁)というむなしい一般論に昇華させられてしまう。レーニンが言ったのは,「どの階級がどの階級を支配するか,全人民を指導する階級はだれか」ということである。「だれが,だれを」というのを個人や集団と解するように誘導して,ハイエク自身の望むところにもっていこうというのが,この部分の狙いである。これがこのご立派な学者のやり口である。自らの信念のためとあれば,事実も論理もねじまげてしまうのだ。

 1940年から1943年といえば,ちょうど第二次世界大戦の最中であり,1941年6月には,不可侵条約を一方的に破ったナチス・ドイツが対ソ戦を開始し,1943年にはソ連の反転攻勢が始まったという時期である。こういう時期に,「小国が生活するに適するような世界を創造する」(297頁)ことを提唱するという見事にカント主義的な独立小生産者的思想を露にしているのである。かれは,個人企業が主で独立小生産者とたいして違いがなかった資本主義の勃興期(自由主義時代)の自由主義思想を礼賛する。かれがその地位のちっぽけな独立性を絶対視しているのは,「貨幣は人によってかつて発明された自由の最大の用具の一つである」(116頁)という貨幣論に明らかである。かれは貨幣が貧しい人に広範な選択を許しているという。

選択肢は,貧しい人には小さく,しかも選択の余地のない場合が多い。貧しい人は,例えば,水道料金を節約せざるを得ないとなれば,安全な水すら諦めなければならない。それでも,「貨幣が貧しい人に広範な選択を許している」というのか? かれは,選択肢の広さを過去の富裕層と比較しているが,比較するなら現代の貧しい人と富裕層との選択肢の広さを比較すべきである。

第二の証拠は,自由論にある。かれは,「われわれは自由というものが一定の価格を払って初めて得られるものであるということ,そして個人としてのわれわれが自由を保持するためには,きびしい物質的犠牲を払う用意をしなければならないということに,目を開くことを虚心に再認識する必要がある。われわれはアングロサクソン諸国において,自由の規則が基礎としている信念,またベンジャミン・フランクリン(Bennjamin Franklin)が個人としてならびに国民としてのわれわれの生活において,われわれに適する言葉で表現した信念,すなわち「僅かな一時的な安全を手に入れるために。根本的な自由を放棄する人々は,自由と安全の両者をもつに値しない」という信念を思い起こさなくてはならない」(170頁)という。

ハイエクは,自由は金で買うものであるという。人々は,自由を得るためには稼がなければならない。そして個人が自由を保持するためには,きびしい物質的犠牲がいる。自分で自分の自由を保持するには他からの保障などはないのであるから,危険を堪え忍んで,自分自身でなんとかしなければならない。つまりは自己責任である。そのための出費が必要であり,それだけまた稼がなければならない。いずれにしても自由は買うものであり,そのために貨幣が多く必要である。それは,市場で得られるものであるから,市場競争を妨げてはならない。保障はそれと相容れないから,どうしても必要な保障は市場の外で競争の邪魔をしないように与えられなければならない。

しかし,そんな一時的な安全を確保する保障のために,根本的な自由は失ってはならないのであって,そんなことをする人は自由と安全の両者をもつに値しないというのである。つまりは,ジョン・スチュアート・ミルと同じ自由主義的社会保障論であり,自由主義経済のもたらす貧困などについては,市場経済を守ることを絶対的な限界にして,その限界内での最低限の社会保障を認めるということを言っているのである。自由であるべきは競争・市場であって,それが個人の自由の源泉として絶対的であり,そこから生まれる悪については,厳しい限界を設けた上で最小限に止めるべきだというのである。かれは,そのことを具体的に語らず,自由だの安全だのという一般的概念を使った抽象的論理でごまかしているが,きちんとその意味内容を読んでみれば,貧しい人に極めて厳しく冷淡であることは明白である。

続く
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.33 )
日時: 2012/03/25 22:32
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UuyyUY9c

続く

 それから,ハイエクの社会主義の合理的経済不可能論は,伊藤誠氏が『現代の社会主義』(講談社学術文庫)で明らかにしているように,戦時経済下のソ連経済の現実を一般化したもので,歴史的現実によって破綻している。『隷従の道』では,ハイエクは,社会主義批判を集産主義批判として展開し,それを全体主義と結びつけて批判している。かれによれば,社会主義は集産主義の一種なのであり,それは全体主義とも共通するというのである。かれの批判は,スターリン個人独裁現象を社会主義と頭の中で結びつけ,それと全体主義を強引に結びつけたものである。かれは個人的・主観的・直観的な心理的印象を強引に理論化するということをやっているのである。こういうやり方は,分析による正確な問題の把握という共通土台から理論を展開し,個人的認識を社会的認識に発展させるという知識発展の当然の手続きを無視するものだ。もちろん弁証法もない。

 ソ連論についてはここでは詳しく展開する用意がないが,私は,ソ連・東欧は,過渡期社会で終わったと考えている。したがって,ハイエクが,過渡期の現象をそのまま社会主義とみたてて,それを批判することで社会主義の一般的批判をやっているのは間違っている。かれの定義する中央計画経済というのは,唯一の社会主義経済策などではない。

 問題は,伊藤誠氏が前掲書の中でも指摘しているが,生産手段の共有制の下で,消費手段のみが個人の所有にうつされるが,その場合,個々の生産者の個人的労働量(個人的労働時間)分の給付証明書をもって,消費手段の社会的貯蔵から等量の消費手段を受け取り,個人的労働時間を別の等量の個人的労働時間と交換するという商品交換と同じ等価交換という交換を規制する原則が支配するのである(『ゴータ綱領批判』)ので,この段階では,資本主義への逆転を防ぐための自動的で完全な保証などはないということである。

この共産主義の第一段階では,「諸等価物の交換とはいっても,商品交換のもとではそれはたんに平均してみれば成立しているということであって,個々の場合にも諸等価物の交換が成立しているわけではない」(同上 岩波文庫 36頁)のであり,要するに,消費手段の分配に関しては,商品等価物交換と同じ原則が支配するのである。ところが,ソ連の場合は,事実上,生産手段の共有制が,国家官僚の専有物化によって後退したり,この消費資料の分配が特権的部分とそれ以外の一般の部分との間で不平等に分配されたりした。

つまり,過渡期には,平等な行政・政治参加などのプロレタリア民主主義の前進その他の革命的諸方策の実現が必要であったのに,そのように前進せず,後退したので,国家官僚と特権部分に対する一般の人々の不満の爆発を通じて資本主義の復活へと導かれたのである。だが,それは,自由主義的資本主義の優位性を証明するものではない。資本主義の下での生産手段の私有者の利潤の取得のための資本への従属化はひどいし,搾取による利潤を収入とする富の一部の資本家への集中による相対的な貧富の格差は大きい。労働者は,肉体的精神的磨耗や諸種の妨害によって,行政・政治参加などの民主主義からも遠ざけられている

終わり。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.34 )
日時: 2012/03/26 19:18
名前: グッキー ID:Rg6jCegA

>1970年代の二度に渡る石油ショックの発生以来、インフレと景気停滞・高失業率が
並存するスタグフレーションが顕在化するなど、従来のケインズ経済学では説明しがたい現象が起こり、ケイジアンのマクロ有効需要政策では景気変動の適切な制御が困難になってきた。

こんな簡単なことが分からないと書いている人が居るの???

石油や資源、農産物などが上がれば海外に所得移転が起きる。
当然、国内の購買力が落ちるから、企業の生産が落ち込み、失業が増える。
輸入インフレならスタグフレーションに成るのは当然のことですよ。

従来のインフレは需要が増え物価が上がる。当然、企業は生産を増やすから失業も減る。
こういう景気過熱形のインフレが、通常のインフレ。

ケインズの時代には一部の資源価格の乱高下は有ったけど、全面的なコモディテイーの上昇などというのは発生しなかったからスタグフレーションが考えられなかっただけじゃないの。

スタグフレーションが起きた場合の対策は、格差の縮小が有効。
格差が縮小すれば社会に不況耐性が出来る。
輸入するものが上がるのだから、魔法の杖は無い、このぐらいの対策しか出来ない。
もっとも輸出価格に転嫁できるのなら別ですが、まず難しいでしょう。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.35 )
日時: 2012/03/26 19:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:oykSjNzU

グッキー さん

このスレッドで資本主義経済論の流れを追ってきていますが、ケインズにしろ、ハイエク以下の新自由主義の理論にせよ、結局は全体から見れば(民衆の安定)経済をコントロールできなかったことになると思います。

新自由主義は、自由経済にすることで自然と均衡が保たれると勝手に理屈付け、
ケインズは人為的に均衡を保つ方法があると錯覚し、
当初は別として、最終的には、それぞれがコントロールが出来なくなってしまいました。

原因は、それほど富を独占したい人間の性癖から来ていると思います。

多くの経済評論家は、その根源の理を無視して、持論を展開します。
評論家自身が経済のシステムの中に組み込まれているからでしょう。

グッキーさんは、最近「拮抗力 忘れられた思想 ジョン・ケネス・ガルブレイス」スレッドで

>そして現在経済の根幹をなす財産権というものについても考え直さなければ成りません。
>地球を己のものとし他者から利益を得ようとする。これが間違いの元なのです。

上記の事を言い出されました。
その内容をマルクス共産主義志向とは考えませんが、ある意味、従来の資本主義の原理的価値観を逸脱しようとされているようです。

いままで仰っていた「機会の公平性」とは違った角度の経済論へ踏み出されていると感じました。
私も、そこまでのスタンスがなくては、現状の資本主義の理念の中で、幾ら並べ替えてみても堂々巡りになるのではないかと思います。

でも、まあ、新しいものを考えるには(全く新規ではなく革命的修正でも)今までのシステムの検証も必要だと思い、このスレッドをまとめています。

先に言いました価値観の展開が楽しみです。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.36 )
日時: 2012/03/27 08:04
名前: グッキー ID:jPHxH5vk

天橋立の愚痴人間さん

>その内容をマルクス共産主義志向とは考えませんが、ある意味、従来の資本主義の原理的価値観を逸脱しようとされているようです。

財産権という経済社会が寄って立つ概念の変換です。

地球は誰のものか、誰のものでもありません。人類が利用させて貰っているだけのものです。
それをパレスチナの地は神がユダヤ人に与えられたものだ。石油はアラーの神がアラブの民に与えられたものだとか、勝手に自分のものだと考えるのが間違いなのです。

資本主義市場経済も土地や資源を財産と捉え、それにより他者から収益をえることを正当なものだとしています。
人間はおぎゃーと生まれて来たら、地代、資源代を払わなければ生きて行けません。地代、資源代はあらゆる物価に含まれています。
これが公正な社会と言えるでしょうか。搾取を正当化しているシステムと考えます。

財産とは人間が造ったものに限定すべきもので、自然にあるものを財産とすべきではないのです。
自然にあるものは利用権とすべきで、その利用権を持っていることにより収益が発生するシステムは間違いなのです。

現実的に言えば土地や資源から生まれる収益は、国が代理して税として吸収し、人間を含めた地球のすべての生物、地球のために使うべきものなのです。

北方領土の返還交渉も、領土の返還ではなく、利用権の返還交渉とすべきなのです。利用権の返還において損得が生じなければ、交渉打開の糸口になるでしょう
土地、資源、水、などの財産権が無くなれば国と国との戦争の動機も無くなります。

これを考えたのはバブルの頃で、土地の高騰に多くの人が狂奔している時代でした。今はシロアリ退治などと言う人が大勢居ますが、自分が利権を享受する立場になれば、その人たちも必死に利権を護ろうとするのではないでしょうか。
バブルの頃に土地の高騰に目が眩み狂奔していた人たちを見ればそう思えます。

これはシロアリが生まれる土壌、財産権という不公正な概念により経済社会が成り立っているからではないでしょうか。

http://www.asyura.com/12/hasan75/msg/412.html
ナウル共和国は世界一豊かな国だったのに、繁栄は長続きせず、富、文化、環境を失い、石器時代に戻ろうとしています。
ーーーーーー

地球を自分の物とし他者から収益を得ていた者の末路です。
人間は自分が付加価値を生産し、それを他者の生産した付加価値と交換し生活しなければなりません。自分が付加価値を生産せず、他者の生産した付加価値で生活しようとすれば人間は堕落します。
あぶく銭を得て良いことは無いのです。

こう言っても欲の深い人間のことですから、簡単に財産権の変更をしようとはしないでしょう。
しかし何が正しい常態かということを知れば、人間はその方向に向かって行くものだと思います。

こう考えたのは二十数年前、10年以上前からネットでも言ってます。
当時は同じように考える人がほとんど居ませんでした。
今では、地球は誰のものかと、問題として考える人がネットのブログでも出てきました。
人間が知り、人間の意識が変わることが、社会を進歩させるのではないかと考えています。

と書いてきましたが現実に行うことは簡単なことだけです。
土地、資源から生まれる収益を税で吸収し、人類を含めた生物と地球のために使えばよいことです。

問題は地球は俺のものだという考えから、地球は誰のものでもないという考えに人間が変わるかどうかです。

アラブ人は言う、石油はアラーの神がアラブの民に与えられたものだと
ユダヤ人は言う、パレスチナの土地は神がユダヤ人に与えられたものだと

神が居たら嘆いていることでしょう。
勝手に俺の名前を使うなと
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.37 )
日時: 2012/12/19 16:42:17
名前: 天橋立の愚痴人間

政権が自民党に回帰し、早速景気の良い話があふれています。

返す返す残念なのは、自民党が今言い出していることは民主党でもできたはずです。
原発に対する姿勢、TPPに対する姿勢、並びに行政改革の面で、自民党と官僚の癒着などについては民主党の方針を是としてきましたが、経済の面では民主党は自民党に代わる何も打ち出せていませんでした。

打ち出せていないということは、打ち出せなかったとも言えます。
しかしながら、で、あれば、それだけは、自民党的なものでも良かったはず。

それを自民党を否定したばかりに、何もせず、ダンマリを決め込んだ3年間でした。
それが政党として、どれくらい無責任であったか、どれほど国民の期待を裏切ったことか、それを民主党自身、民主党と考えを同じくする政治勢力は、いまなお、認識しようとしていません。

これが今回の敗因の唯一最大のものであったと思います。

さて、そのことは置きまして、民主党に手も足も出せなかった非自民党的な経済改革とは、何であったのでしょう。

それは格差にあえぎ疲弊している国民生活の現状と、今回自民党が打ち出している経済政策を検証するところから、浮んでくるでしょう。


金融緩和、円安誘導により景気浮上、公共事業増発による景気の底支えが、民主党では考えられなかった、排斥していた政策です。

この中で、金融緩和、円安誘導により景気浮上に関しては早速影響が出始めている様です。
報道番組のコメンテーターの話ですが、

それで円高で苦しんでいた輸出企業が息を吹き返すのだそうです。
その分においては、企業の業績も上がり社員の所得も増え需要を喚起するとのことです。

ディメリットとして、今度は安い商品を輸入して国内に販売している企業はたちまちにして窮し、商品の値上げをせざるを得なくなる。

これが大変で、自動車、家電、IT製品を輸出する代わりに、食料品、石油、形態電話まで値上がりし、結局困るのは一般庶民と言う事です。

斯くのコメンテーター氏が言うことには、円安で利益を受ける業種の従業員が、まず豊かになり消費を始める事で需要が増え、それ以外の国民にも浸透し、全体が豊かになるらしいです。

このような戯言が、本当にまじめに考えられているのです。
これを自由主義と言います。

簡単な数字で説明すると、100人の国民の内に10〜15人ほどは輸出企業の従業員で、なるほど輸出が好調になると所得もそれなりに増え、今までよりも消費をするとしましょう。

しかしながら、それらの人はすでに豊かであり、衣食住、どれをとっても潤沢に所持しています。この上は贅沢品であったり海外旅行をするなど、余剰資金が必ずしも他の国民が期待するような使われ方となる保証はありません。
あったとしても、数字的な問題から、せいぜい5〜10人へ富を再分配するくらいでしょう。

後の70人近い人たちは、円安のために今まで以上に困難な生活を強いられる事になります。
ここで言いました、10〜15人と言うのは、あてずっぽうで言っているのではありません。
我が国のGDPは、550兆円と言われていますが、輸出は年間50〜60兆円くらいのものなのです。

初めから、この算段(政策)は問題の解決にはなっていないことは判るでしょう。
しかしながら、不思議なもので、国民の多くは、その政策で自分にも金が廻ってくるように錯覚しています。
自分自身に自信過剰になっているのでしょう。
自分は日本と言う国家の正規の構成員と思い込んでいるのです。

非正規雇用はもう50%を超えているのですよ。
このような人々はすでに日本国憲法の埒外に追いやられているのです。
日本の政治の対象外に追いやられているのです。
自分は、まさかと言う思い込みが、竹中などの暗躍を許す事になっているのです。

経済のシステムは、本当に本当、抜本的に見直さねばならないのです。
大体、格差の問題を念頭に経済を言うならば、株価、金融、為替などの範疇で喋っていること自体がマヤカシなのです。

このような観点から、新しい日本の新しい経済のシステムと言うことを考えて見たく思います。

ここで公共事業にに関する考察を省きましたのは、公共事業は新しい経済のシステムを考える上で重要な要素であるからです。

今日は、これまでとし、考えて行きましょう。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.38 )
日時: 2012/12/19 17:26:06
名前: 天橋立の愚痴人間

「新しい日本のかたち」スレッドの目標は、現代日本の社会を省みて、日本人として、何を考え直す必要があるのか、どうすればより幸せな生活環境(国つくり)を得る事ができるかについて根本的に検証する為の書き起こしです。

しかしながら、随分と手間取っている間に論旨が訳が判らなくなっている様に思います。
最初から復唱してみますに、まずが現状のことを書き出し、そのご、国民の生き様と言う面の検証をしています。

西欧民主主義の真っ只中に生活していますが、本当に、それだけで十分であり、それ以上考えることはないのか、と言う事がテーマです。

同じように、生活の基盤である経済の面で、資本主義と言うシステムに、どっかりと寄りかかっているだけで幸せが得られるのしょうか、と言う事に言及しています。

その経済の面で、これまで資本主義の生い立ちをアダムスミスからハイエクまで俯瞰して来ました。
いよいよ、現状の問題をあぶりだす手前で止まっています。
まあ、これは一々言わなくても皆さんが感じられている事でもありますが。

今後は、いよいよ、現状を分析しながら、新しい経済のシステムとして、どのようなものが考えられるか追い求めて行く事にしましょう。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.39 )
日時: 2012/12/19 18:06:30
名前: 天橋立の愚痴人間

話を少し進めまして、新しい経済のシステムの骨格として、

1 地域循環型経済圏の構築

2 国家による直接の雇用の確保

3 新しい国民生活の様式の展開

と言う3点を考えています。

地域循環型経済圏の構築の中の地域とは、グローバル化との対意の意味であり、具体的な地域の設定において、都道府県単位とか、国別単位を決め付けているのではありません。

地域循環の地域が、東アジアであっても良いのです。
もちろん、日本1国でも良く、府県単位のことも含まれます。

その上に、小さな地域(円=地方)と中くらいの地域(円=国家)大きな地域(円=アジア)は複層的に重複して考えればよいのです。

その経済圏の設定は、それこそ地域の特性を生かしたものであるべきで、それゆえに他の地域循環型経済圏とも共生できるのです。

また地域循環とは、全ての経済活動において循環させると言う意味でもありません。
要するに現代の資本主義のシステムが陥っている需要と供給地が遠隔地にある事によって生じる流通の偏り(貨幣の流れの偏り)を是正する事が目的なのです。

たとえば、食料鎖国と言う概念を言っておりますが、食料の輸入を原則やめれば、食料の生産、売買に関する金の流れは国内にとどまります、国内で今まで売る事ができなかった商品も売れるようになります。
食料の輸入と言っても、年間で5兆円くらいです(世界第4位)。

これだけ見ていればGDPの1%で、大したようには思えませんが、食料の直接生産だけではなく、関連の農機具、肥料、流通システムを考えると馬鹿にはなりません。

なによりも、その5兆円の生産流通に携わるのは中小零細の人々あり、需要供給地を限定することで金の流れが日本と言う経済圏のなかで流れる事になります(=雇用が確保される)。
これが自働車を5兆円分輸出できたとしても、トヨタ自動車(年間売り上げ23兆円)の従業員を潤すだけと随分と違うでしょう。

実際に鎖国をすると言うことには、大きな問題が次々と出てきますが、たとえば、このようなものと言う意味です。

同じように細かく検証すれば、地域の経済を保護する方策は、色々と考えられるでしょう。

地域循環型経済圏の確保について、まだまだ言わねばならないことはありますが、とりあえず、これまでとします。

一言、追加して置きますと、このような施策(食料鎖国)を取る為には国民の了解が要ります。
食料の輸入を止めるということは、早速食料品の価格に問題が生じるからです。

詳しくは後の検証としまして、このような大きな変革は、経済の面だけではなく、国民の生き様、意識の変革も必要になってくるのです。

これは上記の3つについて共通する課題です。

しかしながら、良く考えてください、
タバコの生産も国に限定されており、必要以上に高価なものを自然と受け入れているではないですか。
麻薬の禁止も受け入れているではないですか。

国民が必要と認めたものについては、今でも資本主義の例外を認めているのです。



メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.40 )
日時: 2012/12/19 18:12:54
名前: 天橋立の愚痴人間

忘れてしまいそうなので、言っておきますと、

道州制と言うものは、先のレスで言いました、地域循環型経済圏と言うものを想定し、それにふさわしい行政の再編であるべきなのです。

単なる経費的な面の再編など、国民ヘのサービスの低下を追認させるための勝手な言い分であることは、先の平成の市町村合併で十分に知らされているはずです。

質素倹約が、問題を解決しないことは江戸時代の3大改革が証明しているはずです。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.41 )
日時: 2012/12/19 23:06:58
名前: 神の目

貧困の、ための、貧困生活をする、民の心も、貧困化する、まず、サラ金徳政令を、急いで、発動することです。
そして、正義を守れる国を、作ること、自殺殺人は法曹界の闇に隠れてる。 「国民の目覚め」
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.42 )
日時: 2012/12/20 12:35:36
名前: 天橋立の愚痴人間

地域循環型経済圏の構築について、もう少し説明したいと思います。

この地域と言う概念を、日本の地方へ当てはめることは、それだけを単純に見ていては非常に難しいのです。

先に言いました「食料鎖国」政策は、まだ具体的な方向が見えていますが、日本国内を、そのような(直接物資を特定しての)線引きは出来ないのです。

出来るとすれば、行政単位毎に自立可能な経済環境を念頭に再編し、その中でも富の再配分が図れるようにする事です。
具体的には、過疎化で悩む弱小地域と、それなりに活力が期待できる地域を組み合わせバランスをとること。
また、現況に拘らず、将来、地域の特性を促進するために国家の施策として支援するシステムを作ること。

農業に適している地域には、後で言います公共事業によって、インフラ整備を十分に実施する。
工場の設置も、国土の経済的バランスを考慮して進める施策をとる。

3つの骨格に「新しい国民生活の様式の展開」と書いておりますが、それは下記の様なことも含んでいます。

老人ホーム、豊かな人のセカンドハウス等を産業の育たない地域へ優先して設ける様に施策を講じる(強制ではなくて、メリットがあるように施策を講じる)。
平均寿命が伸びた現在、65〜75くらいまでの体力もある間のセカンドライフを楽しむために、安易に地方へ移り、後、生まれ育ったところへ帰られるというライフサイクルを可能にする環境を整備する。
要するに売買が容易なセカンドハウスを準備するか、もしくはレンタルを考える。
一方、大量の人を一時的にせよ地方へ迎えるためには医療、交通網などインフラの整備が必要です。
こうして、人口を流動化させることは、とりも直さず、国内での需要供給のバランスを保つ事が出来ます。

一部の事ですが、地方循環型経済圏が出来ると言うものです。
また、過疎化が激しく、行政にも住んでいる方にも厳しい環境を解消するためには、移住を勧めるということも手段であります。
自然の中で生活したいという人を無理やり移住せよというものではありません。

言いたいことは、国つくりを通して地域循環型経済圏と言うものを考えねば、足し算、引き算では実現できないと言う事です。
地域経済については、地域貨幣のことを言う方もいますが、地域の産物を地域で消費するように進めるためには、特定の商品に限り用いることも手段ではあると思います。

新しいエネルギーの開発が言われていますが、その施設の立地なども地域の経済環境のバランスを考慮して決めるのも良いでしょう。
このようなことを総合して進めることにより、地域の経済圏を作る事が出来るのです。
それには地方分権にこだわりすぎていると、それ自体が足かせとなり旨く行かないでしょう。

道州制による行政の再構築、地方分権は地域の経済的のバランスが取れた安定を基準にして判断すべきなのです。

もう一つ「 国家による直接の雇用の確保」と言いますのは、この過程で、インフラ整備のための公共事業を大量に発注し地域を中心に雇用を生み出す事により地域の需要を増やすと言う事です。

地域を充填にして都市部を見てないように思えますが、元々都市集中による弊害が原因であることも鑑み、逆に都市部の住民(仕事のない住民)に地方回帰を促すものです。
人口さえ、ある程度まとまれば、そこに色々な産業が生まれるのです。

景気と言うものは、必ずしも定量的に分析出来るものでもありません。
景気が景気を生むように、貨幣が順調に展開すれば、その経済圏自体が膨張すると言う事が考えられます(パイが大きくなる)。
それによってグローバル化の弊害(安い輸入品に悩まされること)も緩和されます。

しかしながら、ある程度は様子を見ていて輸入制限することは視野に入れておかないといけないでしょう。

今回は国内における、端末の地域経済圏について言いましたが、これも概念に過ぎません。
実現のためには、膨大な検証がいるでしょう。
私などが出来るはずはなく、この様なことこそ、頭だけは優秀な官僚を使えば良いのです。
あいつ等を100人ほど使い、3年も経てば、相当な試案を作ってくるでしょう。
こういうことは優秀で、頼りがいがあると思いませんか。

国家単位の経済圏、アジアなどと言う広範囲の経済圏の構想については、次にします。


最後に断って起きますが、この構想を説明すればするほど、現実離れしていると指摘される方が殆どですが、元々冒頭で断っていますように、50年100年先を睨んだものです。

5年や10年で結果が出るようなものを追っていては、何時までも社会は変わらず、資本主義のシステムと共に奈落の底へ沈むでしょう。

そうならないための施策は、全くないのか。と言う事に対する返答なのです。
最初にも断りましたが、この方向を目指すためには、我々自身の意識、価値観の転換が必要です。

いずれ、それも人々が受け入れざるを得ない事態がくるものと思っています。
メンテ
需要と供給の話し ( No.43 )
日時: 2013/09/19 01:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:18OD3CKE

最近、グッキーさんと、需要と生産の関係について議論をしてきました。

思えば、このテーマは、1年以上前に、交わした内容と関係しています。
当時、このスレッドのNo11〜33のレスで、随分と長くなりましたが資本主義経済のシステム(理論)の移り変わりの概略を説明していました。

すっかり忘れていましたが、今から思えば結構突っ込んでいたように思います。
ですが、本当はさらに検証をすすめ、現代の問題に対応する糸口でも見つかればよかったのですが、結局はこのスレッドも立ち往生の状況です。
ですが、手を変え品を変えて忘れてはいません。

参考にUPしましたので、興味のある方は、御覧ください。

メンテ
新しい日本のかたち <見本> ( No.44 )
日時: 2013/09/21 21:05
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:nG3PlehE

50年から100年前までと現在の経済の違いは、物資の生産に必要な人手が驚くほど少なく済むようになった事です。

それは、どこの先進国でも製造業を中心とする第二次産業の割合(就労者)が25%前後まで落ちでいることで現されています。
第一次産業も機械化のあおりで、第二次産業よりも酷く5〜10%の労働者より必要としません。

この認識なしに現代の経済を語れないと共に、既成の経済の理論(アダムスミスからハイエクまで)が想定している経済と言うものは、表面の通貨の動きを追うだけで成り立っていて、問題点といえば、通貨の循環の齟齬ばかりを気にかけています。

その中では人間の実際の生活と言うもの取り残されてしまっています。
経済為の経済であり、それで社会を維持しなければならないと言う観念がありません。

既成の経済の理論、方程式には、失業と言うものを、景気、不景気の概念の中で考えようとしているのです。
資本主義の実態を早くから見抜いていたマルクスさえも、このような環境を想定して資本論に取り組んでいたとはいえません。
ですので、全ての既成の経済論を、そのまま延長して乗り切ることは出来ません。

では、現代の社会が持つ、この根本的な矛盾が、どのようにすれば解決できるかであります。
一つは第一次、二次産業で必要ではなくなった労働力を第三次産業で吸収できるかと言う事です。

第三次産業と言いますと、大きく分けて次の様に成ります。

電気・ガス・熱供給・水道業
情報通信業
運輸業、郵便業
卸売業、小売業
金融業、保険業
不動産業、物品賃貸業
学術研究、専門・技術サービス業
宿泊業、飲食サービス業
生活関連サービス業、娯楽業
教育、学習支援業
医療、福祉
複合サービス事業
サービス業(他に分類されないもの)
公務(他に分類されるものを除く)
分類不能の産業

エネルギー分野は、太陽光発電、風力発電など、新しいものを求めて将来活気つくことでしょうが、それに人力が必要かと言えば、従来の石油、石炭算出の手間と、そんなに変わりはありません。
情報通信の分野は、すでに携帯電話の市場が満杯に近づいている事で判るように、もう少しは増えても大きなものは期待できません。

卸売業、小売業などは、昔のように対人販売のよさを省みる習慣が戻らなければ、ますますネット販売に傾き、縮小する方向といえましょう。

金融業、保険業について、金融立国などと言う発想は、アイスランドの危機でいかに脆弱なものであることが実証されています。
詐欺が職業として市民権を持たない限り、金融、保険業が余った労働力を吸収するとは思えません。

不動産業、物品保管業も新しい試みが伴わなければ、マンション、店舗共に十二分に在庫があります。

生活関連サービス、娯楽業については後述します。

教育、学習支援業は、人々の生活に余裕があってこそ、伸びるものであり、人々の生活を豊かにする為の起爆剤とはなりえません。

医療、福祉の分野も後述します。

複合サービス業、分類不可能の産業については割愛します。

さて、公務員については如何でしょう。公務員の世界もPCの普及で人手が足りないという事態ではありません。
むしろ財政難のあおりで縮小させる傾向がありますが、実は、ギリシャではありませんが、他に仕事がないとき、強いて公務員と言う形で失業者を吸収することも考えられます。

さて、飛ばしました、医療、福祉の分野ですが、これは老人人口の比率が増えている現在、これに携わる人間を増やす傾向は間違いなくあるでしょう。
しかしながら、この分野は不採算部門なのです。
要するに税金で保証されなければ経営が成り立たないのです。
ですので、この分野の経済を大きくすることは、それだけ大衆の負担も増える事になり、厳密に言えば付加価値を生産して、その対価として給料を支払い雇用を確保すると言うことには成りません。
富裕層が、税金として、その負担に耐えられるかと、言う問題が発生します。

最後に、生活関連サービス、娯楽業ですが、これから伸ばせる第三次産業としては、どうしても、これに期待をする訳ですが、これも金に余裕があって、始めて活性化する分野であり、ます先に金がなければ、幾ら奨励しても動かないでしょう。
この分野は、世直しが旨く言って最終的に伸びてくる分野であり、最初から期待できるものではありません。
それなのに、一足飛びに、この分野に期待すること錯覚以外の何でもありません。

今までのことを総括しますと、第三次産業の分野は、他の第一次、二次産業と異なり、集約化、グローバル化の影響が少ない分野なので、急に縮小する事はないでしょう。
それよりも、やりようによっては微増が期待できます。
医療、福祉の分野は、人数的に言って、あと300万人くらいは増えるとしてもよいでしょうが、新たに発生する人件費、年収300万円として9兆円、資材その他も必要なので実際は15兆円くらいの資金が必要です。
この資金を何処から調達すればよいのでしょう。
利用者から調達するとしても、3000万人の利用者から年間30万円を徴収するとして(それだけ払える年寄りが幾らいるかと言うことも問題)、これも9兆円です。
この9兆円が、通常の付加価値と計算することも出来るでしょう。
では、後の6兆円は富裕層から頂く事になります。
新たにこれを負担できる富裕層として3000万人を見込めば(5000万人くらいが所得税を納めています)、年間20万円の増税とまります。
医療、福祉の領域で300万人くらいは増やせると言ったのは、この程度が富裕層が負担する限界ではないかと言う事です。
ところで、生産技技術、IT技術の発達は、現在も止んでいません。
今後は、機械化、省力化でますます失業する人間が増えるでしょう。
要するに、将来は2500〜3000万人分の仕事がなくなると想定します(労働人口の半分近く)。

これに対して、医療、福祉の領域で300万人、他の領域を含めて好意的に見て、第三次産業全体で500〜600万人の雇用を生む事が限界かと思います。

それでは、他に手はないのでしょうか。

一時、森首相の時でしたか、新しい産業の興隆を言い、ベンチャー企業の事が騒がれました。
自分の智恵と才覚で、世の中に打って出ようとする人間は、本当に極僅かな人たちであり、こんな分野で労働力を吸収できるなどと考える方が間違っています。

全く新しい産業が発生する期待は期待として持っていてもよいでしょう。
この様な状況のもと、厚かましくも、最後に私の持論を述べさせていただきます。

常に主張しています「新しい公共事業」の発注と「食料鎖国政策」です。

土木、建築の分野は、まだまだ人手を多く要する分野であり、グローバル化の影響を受けにくい分野です。
また仕事も無尽蔵と言ってよいほど(100〜200年分)あると思います。
それを、どの分野からも必要とされなかった人々の受け皿として就労の場を提供できるように発注するシステムを作る事です。
このシステムは、特別に共産主義的な考えではありません。
要するに、中小零細企業中心に発注するのです。
最近は建設業に携わる人間が足りないと言われていますが、そんな事には関係なく、このような施策を10年も続けると、自然に労働者が集まってきます。

受注は飽くまでも資本主義のルールに乗っ取り競争入札ですればよいのです。
年間50兆円分の公共事業の発注を言っていますが、この中に直接含まれる(建設労働者として収入を見込む)人件費は、おそらく6〜7兆円くらいでしょう。
この場合の年収は、雇用促進事業の様なものなので200〜250万円で辛抱していただきます。
結局、建設現場で働く人は250〜300万人がそれで生活できる事になります。
先には建設現場で直接、収入を得る人と言いましたが、これに建設資材の生産、運搬などに携わる人たちを含めると、さらに150から200万人の人に仕事が増えるという事になります。
都合、年間50兆円の公共事業の発注で新たな雇用を500万人くらいは発生すると見込んでいます。

その他の方法として、農業、漁業、林業を復活させます。
復活させると言っても言葉だけでは復活しません。
そこで考えたのは食料鎖国(原則)と言う施策です。
これならば、何が何でもこの分野に力をいれねばなりません。
この分野でも、都合100〜150万人の雇用を作ります。
食料鎖国政策と共に確かな補助手段の施策が必要ですので、此処にも公的資金が随分と必要になります。

結果、最初に言いました第三次産業の増加による雇用増 500万人
公共事業の発注によるもの 500万人
農業、漁業、林業の復活によるもの 150万人

都合、1150万人の雇用増は期待できます。
ですが、先に想定した、2500〜3000万人分には至りません。
私の計算では50兆円の公共事業を発注し、他の施策も旨く言っても、あと500〜1000万人分の雇用の保証が出来ません。

ただし、1500万人くらいの雇用増が実現でき、それで10年くらい経てば、生活の安定した人々が消費に目覚め新たな需要を生み、後の1000万人くらいの人は、そこへ吸収されると言う虫のよい話です。
どちらにしても、あと500万人分くらいの雇用の確保の方策を見つけねばなりません。

それでも、現在では、まだ3000万人の人が失業していないので、今すぐ、この施策を採用すれば、それでやって行けるのではないでしょうか。

最後になりましたが、一方で、年金の改革をして殆んどの人は老後に憂いがないようにする事です。
これも消費を活性化する大きな要因です。

どれも、これも金がいる話です。
ですので、前提条件として、ヘリマネ政策を訴えているのです。
ヘリマネと言っても、実際に現金を支給するのではなく、公共事業に使うか、年金や医療、介護保険の資金として補充するのです。
これなら、インフレも起きなく、働く意欲を保ち続ける事が出きます。

このためには、通貨の概念さえも変える必要があるのです。

これを実現出来る経済のシステムを、修正資本主義と考えています。

別の言い方をすれば、ヘリマネ(通貨の増刷)さえ受け入れる事が出来れば、現在資本主義が直面している、そして最後には破綻する問題を解決できる方法があるのです。
何故、人類は、其れに踏み切らないのでしょうか。
本当に出来ないのでしょうか。

ヘリマネといっても、ベーシック・インカムには、飽くまでも反対する者です。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.45 )
日時: 2013/10/08 20:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:SzDFJTGg

UP
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.46 )
日時: 2017/04/28 12:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ecQnl6kc

忘れていたようなスレッドですが、私が一番書き上げたいスレッドです。
まだまだ途中ですが、久しぶりにUPします。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.47 )
日時: 2018/10/24 01:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:h0ag2goc

新しい国の形
http://www.pipi.jp/~exa/mazu/kuni.html

>近代国家は必ず破綻を繰り返す

 近代国家のほとんどは国民から税金を通貨で集め、それを配分する事で成り立っている。 しかしこの様なシステムでは国家はいずれ必ず破綻する。

 なぜならこの様な国家は税金を広く集め、集まった税金を政府で予算を決めて配分することになるが、 配分した先には利益となり企業や団体がそれを充てにして活動するようになる。 予算を減らされたら死活問題であるので、予算の減額にはあらゆる集団で抵抗するだろう。よって予算を減らす事は困難になる。
 しかし社会の変化や時代の変化に伴い、新規の必要性の有る事業が増えて行く。この結果国家の予算は増え続け、いずれ国が借金をするようになる。 借金が増えて行っても予算の削減は困難であり無理に実行すれば政情不安を生むだろう。 どうにもならないまま時が経ち最後には国家が財政破綻する。これは分かり切っている道筋である。

 つまり医療や福祉などを税金で補助し整備しようとすれば、予算は際限なく増え続けるだろう。関連業界は効率良く確実に補助金を得る手段を考える。 それが最も正しい経済活動だからだ。自ら減らそうとする馬鹿は存在しない。公共事業や軍事費においても同様である。 減らせば会社が倒産し失業する人が出てくる、業界は必死で予算を増やそうと死力を尽くす。
 国家予算を減らせば失業が増え税収が減る、そして社会福祉の費用は増大する。この悪循環を止める事は出来ない。

 よって現代の近代国家における税金を集め配分すると言う社会システムは、将来必ず財政破綻するシステムなのである。

>国家破綻の解決方法は戦争だった

通貨を基本にする国家システムとは、国民を馬車馬のように働かせる発展途上国向きの経済システムなのだ。そして最後は国家が破綻するのを避けられない。

 この問題を解決するため戦争を起こす必要が有った。戦争が有れば混乱に乗じてあらゆる誤魔化しが出来た。 戦争特需や戦後の復興需要により一時的に解消されたように見えるかも知れない。しかし根本は何も変化していないし解決もしていない。
 よって定期的に戦争し国家破綻を誤魔化す事が国家にとって必須になる。

 しかし何度戦争しても、やっぱり最後は破綻する運命に変わりは無い。国民は失うために努力しているのだ。
 近代国家の国民は「繰り返す大戦争を招くために日々努力して生活している。」と言えるのである。 そしてそれは「国民は国家よりも、通貨の支配者の利益の為に努力している。」事を意味している。

>国の維持管理システムを変える必要が有る

 ではどうすればいいのだろうか。これを解決するためには、税金を通貨で集めるという社会システムを変える事が重要である。

 国家にとって必要な事業は、国民や各自治体や関係企業が協力して実施する形にすれば良い。 事業の承認と実行は国が予算を付けるのでは無く、関係者が行うようにすればこの問題は解決する。
 国の役割は予算配分では無く、計画を立て指導と纏め役をする事になる。この様な国家運営は古代にも見られ長期間安定して国を維持できていた。

 基本経済MAZUも同様な発想である。これを国家として導入すれば社会福祉や公共事業が国民の社会奉仕として実現する。 予算は不要である、必要なのは国民の労働力の分配と優れた計画性である。
 国家の予算が毎年増え続ける事が必死なのと比較し、MAZU型国家事業は整備されれば後は毎年減り続ける。 それは国民が税金を渋り予算を分捕る方向を目指すのでは無く、労働力をなるべく減らす方向に努力するようになるからだ。

 インフラが完全に整備されれば公共投資は0で済む。それで十分だし国民はそれの方が満足できるのだ。 生活の心配も無いから自由に使える余暇が増えるだけである。よって無駄な公共事業をする必要性は全く無くなる。 沢山税金を払っていながら無駄な物が作られ続けると言う馬鹿な循環も無くなる。

>国は税金が無い方が発展する

 法人税や所得税の税率引き下げは経済効果も高く、これに異論を挟む人は居ないだろう。そしてMAZU経済においても通貨は否定しない。 通貨を得るために仕事する人も当然存在するし、経済にとって重要な役割を持つ。しかしその役割は少し変化する。
 国家の税金は通貨で支払う必要は無くなり、社会奉仕こそが国家が必要とする国民の義務になる。 もちろんMAZUに反対する人は、社会奉仕を拒否する代わりに今までと同じように通貨でその分を支払って構わない。 国家はこの社会奉仕を拒否して集まった資金(税金では無く反則金)を元手に事業を行える。

 もしMAZUの参加者が少なければ、これは見かけ上は今までとほとんど同じであり変化を感じる事は少ない。 よって重大な社会システムの変更だが、移行はほとんど混乱も少なくスムーズに行われるだろう。 資本主義→共産主義の様に一気に大規模に社会システムを変更すれば、大混乱が起き多くの国民は不幸になるだろうが、その心配は無い。

 しかしやがて大きな違いが生まれる事になる。最も大きな差異は国民の義務に通貨は必須でなくなっている点だ。 通貨の支配者が作った理不尽なルールの元で、通貨を得るために過酷な労働や目の色変えてマネーゲームをする必要が無くなっている事に気付くだろう。

 そして社会を維持するために必要な奉仕は、社会や技術が進歩すれば進歩するほど減少する。 更に失業者や経済的理由で進学を諦める人は存在しなくなり、福祉に落ちこぼれるような人も居なくなるだろう。 そして人々は儲けるためでなく、社会を良くするように努力し奉仕するようになる。 そのほうが自分にとって利益に繋がる事を実感するからだ。

 優れた芸術は貧困からは生まれない。むしろ安定した生活が必要である。 国民の義務を通貨による税金から労働奉仕を基本にしたMAZU経済的な国家は、国民に究極の安定した生活を与えるだろう。 なにしろ国民は税金や保険など数多くの支払いをする必要が無いのだ。最小限の社会奉仕する事で無税国家になるのである。 病気や事故や失業により公共料金の支払いにも窮し、財産や家を差し押さえられる様な事も無くなる。

 芸術家は生活を気にする必要も無くなり、事業家を目指す人は失敗を恐れず起業する事が可能になる。 その結果創作や発明が多数生まれ、萎縮した経済や文化 に活気が生まれる。よって文化も科学もずっと発展するだろう。

 税金が無く、失業者も無く、文化も科学も発展する。
 これが新しい国の形である。
 近未来に実現可能な国の形である。


(引用終わり)


この考え方に、私は賛同しない。

ただ税金に頼らない国家運営と言う発想に共感しただけである。

この考え方の一番大きな問題点は、人間は生きるためには何某かの労働を必用とする状況を捨て去る事は人間らしい精神の維持に絶対不可欠な問題と思う。

かつ自分がより豊かになりたいと言う人間同士の競争心は人間の活動に方向を与え、これも人間らしい精神の維持に必要な事である。

必要以上に平等な社会、働かなくても生きて行ける社会など、人間が本質的に持つ性(さが)に照らしあわせれば、地獄のような社会を現出することになる。

アダムとイブの話で歴史が始まった様に、人間には常に欲望がある。
そうして、人間は一つの欲望が満たされると、次の欲望へ向かう。
この人間性の際限の無さが、人間を活かすも、殺すも動機となる。
人間社会の理想を勘違いしてはいけない。

この点において、紹介した文章は致命的な欠点がある。
メンテ

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