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[35] 新しい日本のかたち
日時: 2009/08/03 07:48
名前: 天橋立の愚痴人間

政権交代後を睨み、50年100年先までの構想を探りたいと思います。

抽象的な紹介で申し訳けありませんが、此処も皆様の御意見で埋めていただきたいと思います。

私も、そのうちに力を入れて書き込みをしようと思います。
メンテ

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Re: 新しい日本のかたち ( No.28 )
日時: 2011/09/22 20:16
名前: 満天下有人 ID:QvYLG6tY

・・・全くです、政治デモにならないのが不思議です・・・

しっかりされた新たな方の参加は、望むところですね・・・。
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Re: 新しい日本のかたち ( No.29 )
日時: 2011/09/23 07:42
名前: グッキー ID:uv.ADpEc

自由な市場経済は維持したい。
私は自由が好き。

しかし市場経済を自由にすると弱肉強食が起き格差が広がる。

格差に一定指標(経済が好調だった時くらい)を設け、その指標を上回らないように、
政治が富の再配分をするシステムを創りたい。
これが目標なんだけどね。

人間とは欠陥のある生物。
欠陥と付き合っていく方法を学ばねば。
完全を求めるとろくなことは無い。
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Re: 新しい日本のかたち ( No.30 )
日時: 2012/03/25 22:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UuyyUY9c

新自由主義経済論の理論的元祖とされているハイエクについて、ケインズとの絡みを含んで書いてみたいと思います。
とは、言いましても、下記のサイトの転写に近いものです。

www.i.hosei.ac.jp/~hayashi/hayek.pdf#search='ハイエクと新自由主義'

1 はじめに
 ケインズ経済学の危機と新自由主義的経済学の台頭。

1970年代の二度に渡る石油ショックの発生以来、インフレと景気停滞・高失業率が
並存するスタグフレーションが顕在化するなど、従来のケインズ経済学では説明しがたい現象が起こり、ケイジアンのマクロ有効需要政策では景気変動の適切な制御が困難になってきた。
そうした時代状況を背景に、HicksやTobinなど有名なケイジアン自身により「ケインズ経済学の危機」が叫ばれ、ケイジアンのマクロ経済学・経済政策の有効性に対する疑問や批判が高まってきた。

そこで新しい理論と政策を掲げて登場したのが、新自由主義も哲学に立脚する経済学の一群であった。それらはマネタリズム、合理期待学派及び新しい古典派、公共選択学派などに大別される。
経済理論的には短期的には不均衛の存在を認めるにせよ、長期的には均衡の相で市場を捉える分析アプローチをベースとしている。

哲学的には、夜警国家や非干渉主義を旨とする古典派の自由放任ではなく、また国家介入を積極的に是認するケイジアンの自由主義とも異なり、個人の尊厳、自由権を最重要視しつつも社会権も斟酌する新自由主義を共通の基盤としている。

Harrodの言う「ハーベイロードの前提」に立脚して、知的エリートである政府が積極的に経済介入を行うべきだとするケインズ主義的政策は、財政支出の膨張、租税負担の増大、政府規制の拡大などにより「政府の肥大化」、「大きな政府」をもたらし、民間経済のダイナミックな発展活力を萎縮させ、経済成長率の低下をもたらす懸念を強めた。

こうした介入主義に基づくケインズ経済学に対抗して、新しい潮流は新自由主義の哲学に立脚し、財政支出の削減、減税、政府規制の緩和などにより「小さな政府」を目指し、ルールに基づく安定的通貨供給政策などにより中央銀行による裁量的金融介入を規制し、民間活力を蘇生させる政策提言を行ってきた。

他方でケイジアンや新古典派の理論経済学の中からは、ケインズ経済学あるいはマクロ経済学のミクロ的な基礎付けを目指して、理論的な再構築を試みる研究が輩出してきた。おの流れは1970年代後半からArrow流の位相数学による一般的均衡理論のフレームワークを用いて、固定価格の制約下での数量調整機構による均衡点の存在や安定性を証明する所謂「ケイジアン不均衡分析」から始った。

こうしたミクロ理論の研究動向は、マクロ理論研究のあり方にも少なからず影響を与えた。
新自由主義経済学の中でも、とりわけ合理的期待学派や新しい古典派は、ミクロ的な基礎付けを重視し、代表的経済主体を想定してその主体的均衡を目指す行動仮設を明示的に理論化しつつ、マクロ論を展開した。
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Re: 新しい日本のかたち ( No.31 )
日時: 2012/03/25 22:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UuyyUY9c

新自由主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
新自由主義(しんじゆうしゅぎ、英:neoliberalism、ネオリベラリズム)とは、市場原理主義の経済思想に基づく、均衡財政・福祉および公共サービスの縮小・公営企業民営化・経済の対外開放・規制緩和による競争促進・情報公開・労働者保護廃止などをパッケージとした経済政策の体系、競争志向の合理的経済人の人間像、これらを正統化するための市場原理主義からなる、資本主義経済のレジームをいう。

フォーディズム[1]に続く資本主義経済のレジームであり、フォーディズムを支えた、国家による富の再分配を主張する社会民主主義(英:Democratic Socialism)、国家が資本主義経済を直接に管理する開発主義国家の経済政策などと対立する。計画経済で企業と個人の全てが国家の管理下である共産主義とは極対軸の経済思想である。
資金・財・労働力・技術など移動を自由化を前提するグローバル資本主義は、新自由主義を一国をこえて世界まで広げようとするものといってよい。


「評価」

「社会といったものはない There is no such thing as society」と説き、また「市場にオルタナティブはない There is no alternative to market」として市場を絶対視したサッチャーの下、自助の精神が取り戻されたという評価や、以下の各国に共通した双子の赤字の課題を残しつつも、英国が英国病を克服したこと、米国が石油危機に端を発するスタグフレーションを脱し、1990年代にはビル・クリントン政権下でインターネットなどの新産業が勃興して産業競争力を回復したこと、南米ではブラジルが1990年代までの深刻なインフレの制圧に成功しブラジル通貨危機までの安定成長を遂げていることなどは、グローバル資本主義、新自由主義の功績であると評価されている。 また、日本におけるバブル後不況の克服も新自由主義的改革の成果と評価されることもある。

「批判」

冷戦に勝利をもたらした思想として世界中に広まり、1992年頃に思想的に全盛期を迎えたが、ドイツ再統一後の経済的混乱、ロシア及びCIS諸国と東欧諸国の経済・政治的混乱、またソ連及び東欧諸国における共産主義は本来の思想精神とはかけ離れていた為に行き詰まった事が明らかとなり、また1997年のアジア通貨危機から発した世界金融危機における2001年のアルゼンチン経済危機や、新自由主義者の巻き返しとも言えるイラク戦争におけるイラク及び中東諸国の政治的混乱を契機に世界的に批判が高まっていく。

西側諸国では、労働者に対する責任転嫁は格差社会を拡大したとの批判もあり、またチリにおけるシカゴ学派の功績は事実と大きく異なることが明らかになり、ジョセフ・E・スティグリッツら公共経済学の立場からも新自由主義的な政策で国民経済が回復した国は存在しないことが指摘されている[6]。債務国の再建策として新自由主義的な経済政策を推し進めていたIMFも、2005年に理論的にも実践的にも新自由主義的な経済政策の推進は誤りだったと認めている。
南米では、1990年代初頭から米国主導による新自由主義の導入が積極的に行われ、貧富差が拡大、犯罪多発や麻薬汚染、経済危機といった社会問題が頻発、ストリートチルドレンの増加やアルゼンチンの財政破綻が起こった。また、ベネズエラのチャベス政権のような国民経済を重視する政権が相次いで誕生する原因にもなった。 また、日本においても改革の結果失業率は下がったものの、地域間格差の拡大、非正規雇用の増加などの問題を生んだとして批判される。

日本では、小泉政権による新自由主義政策の是非は定かではないとの意見もある。失われた10年ともいわれた長期不況は、欧米や南米のような供給不足による不況ではなく、需要不足による不況として生じていたものであるとの認識の下、小泉政権下での新自由主義的政策路線は、この不況を欧米と同様の構造的不況として、供給サイドの強化により著しい株価下落と失業率の増加を招いたこと、2002年から続く外需先導での経済成長は、米国の経済成長や財務省による円安介入との効果も考えられるとの評価もなされている。

韓国では、金大中政権下で20万人以上もの人々が失業し、事実上「刑死」(=失業による自殺)に追い込まれた者も多い。その後を受けた盧武鉉政権では、「左派新自由主義」の名の下に格差の解消に取り組んだが、格差が更に広がる結果となり、経済が回復しても、正規雇用が増えずに非正規雇用が増加する「両極化」が大きな社会問題となった。2008年に発足した李明博政権では、法人税減税と規制緩和を中心に新自由主義政策を徹底すると表明している。
20世紀末の西ヨーロッパでは、新自由主義の台頭を受け、イギリス労働党のトニー・ブレアが唱え、公正と公共サービスの復興を訴える第三の道に代表される「新しい社会民主主義」と呼ばれる中道左派政党を含む政権が台頭した。
また、英国保守党デービッド・キャメロン党首も党大会においてサッチャリズムとの決別を宣言した。[7]。


ハイエクは,国家の役割を増やすこと自体を自由への脅威であり,社会主義的だというようなことを主張している。こうした考えは,徴税や軍隊をも自由への侵害だとする極端なリバタリアンにも通ずるが,しかしハイエク自身は国家の役割を否定しているわけではないし,自らの自由主義は自由放任主義ではないことを強調している。また,かれは,国際関係においては,カント主義的な超国家的な国際機関の役割を認めている。

 かれの思想の源流は,オーストリー学派的な個人主義,自由主義,功利主義,主観主義,主観的心理的価値論や論理実証主義にある。そこから,社会主義・共産主義を個人主義・自由主義と相容れない集産主義・全体主義として批判するのである。

 かれは,個人は絶対であり,個人の自由は不可侵であり,競争は個人の主観的で心理的な努力を最大限に引き出すのが競争であり,その結果については,各個人が背負う偶然であり,それを運命として享受するという心理的な態度が必要だと主張する。かれの競争や市場の概念はまったく具体性がない抽象的な一般論であり,価格機構の役割についての論も同様の一般論である。かれによれば,競争は,「個人の努力を統合する手段」である。しかし,商品価格をめぐる資本主義的競争は,「各部面における生産価格が,これらの中位組成の部面における生産価格,すなわちk+kp'(費用価格プラス平均利潤率と費用価格との積)にならって形成されるように,社会資本を,相異なる諸生産部門のあいだに分配する」(『資本論』岩波文庫(6) 270頁)のである。

ハイエクは,経済諸関係や生産諸関係を,市場一般や競争一般から説いて,主観的自由主義・個人主義という心理的立場からする社会主義批判を,より正確には,集産主義・全体主義批判を展開するのである。かれは,カント主義者らしく折衷主義的に,社会主義の終局目的を完全否定しないし,国家の役割をも否定しないし,消極的には政府の介入行動の必要性をも主張している。かれにとっては自由ですら積極的なものではなく,何かからの自由というふうに消極的に定義されるものでしかない。だが同時にかれは,自由それ自体が目的であるとも言う。「ヨーロッパ近代史を通じて,社会発展の一般的方向は,慣習または法規によって日常の行動を拘束されていた個人を解放することにあった」(22頁)。かれは,「法の支配は自由主義時代に初めて意識的に発展したものであり,単に安全保障としてのみでなく,また自由の法的表現として,最大の成果の一つである」(105頁)として,カントの言葉を引いている。

すなわち,「人間に服従するのではなくて,ただ法に服従することを要するときに,人々は自由である」(105頁)。しかし法の支配についてのハイエクのご都合主義は,「度量衡制度を取り締まる国家(または他の仕方での詐欺や欺瞞を防止する国家)は,たしかに行動的であるが,たとえば,ピケによる暴力行使を許す国家は行動的ではない。国家は第一の場合においては自由主義原則を遵守しているが,第二の場合においては遵守していないからである」(104頁)と述べているところなどに現れている。ちょうど,10月8日,9月27日夜に始まったアメリカ西海岸での港湾封鎖にいたった使用者側が仕掛けたロックアウトとそれに抗議する港湾労働者の対立に対して,ブッシュ大統領は,タフトーハートレー法に基づく指揮権を発動し,港湾封鎖解除を命令した。

これは80日間の業務期間内に労使の合意による解決を目指すことを国家が強制するものである。もちろんその期間内に解決するとは限らない。10日間の封鎖期間中の損失は,194億ドル(約2兆4000億円)にのぼるとみられている。この場合について,ハイエクの考えでは,労働者諸個人が生活のために行うピケなどの闘いを鎮圧する国家行動は,自由主義原則に適っていることになる。しかしこの場合,使用者側の一方的な合理化による失業の危機に対して港湾封鎖に立ち上がった諸個人は生活を他の個人(資本家)から妨害されているのだ!

 さらにかれは,「法の支配は,立法を形式化された法として知られている一般規則の種類のものに限定し,直接に個々の人々をめざす立法,またはかかる差別のために,だれかに国家の強制権を行使させることを目指す立法を排除する。法の支配は,すべてのことが法律によって規制されるということを意味しているのではなくて,法律によって前もって決められた場合にのみ,国家の強制権が行使されうること,したがって国家の強制権がどのようにして行使されるかが予見されうるということを意味している」(107〜8頁)と言う。

続く
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Re: 新しい日本のかたち ( No.32 )
日時: 2012/03/25 22:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UuyyUY9c

続き

このような法の支配の立派な理想が,実際の階級独裁を覆い隠すベールにすぎないことは言うまでもない。国家が余計な干渉をしない限り,ブルジョアジーは自由に搾取する。あらかじめ国家の強制権の発動が予見されるので,ブルジョアジーの中には,それをあらかじめ計算に入れ,法の網をかいくぐって企業不正や脱税や不法行為を自由に行なうものもでる。支配階級は,法の支配を社会に押しつけながら,自らはその制約をできるだけ免れようとする。特定の個人を対象にしない形式的な法の支配は,どの階級が本当に支配しているのかをできるだけ見えないようにする幻想形態なのである。経済諸関係が法律諸関係を生み出すのだ。

 また,ハイエクは,価格機構による限られた情報によって生産活動が調整されることが望ましいとして,それ以上の情報は不可知でよいとしている。かれは企業秘密を,個人のプライバシーと同じようなものとして扱っているのである。それがかれの個人主義・主観主義から来ていることは明白である。企業の主体は,個人であり,一人格(法人)であり,個人に擬せられた主体として扱われているのである。これは,かれの思想が,カント同様の独立生産者としての思想的特徴をもっていることを物語るものである。かれにとって独占は悪であるが,資本主義的独占はたいした悪ではなく,競争の確保によって抑制できる程度の小悪であるにすぎない。ところが,国家社会主義や共産主義的な独占は,それ自体目的とされる自由とは両立できない。それらは,集産主義・全体主義の一種であるからというのである。

かれは,資本主義的独占が歴史的必然であることを認めないし,それが,競争を排除せず,国際独占体となって激しく競争していることを見ない。というよりもそういう現実は望ましいとして肯定しているのである。かれはこうした競争から戦争が発生することを認めない。かれの思想からは,戦争は,集産主義・全体主義が自由主義に対して起こすものだという結論が導き出される。

 かれは,集産主義の特徴として,「その集団の目的体系を共通に認めさせる必要と,その目的を達成するために最大の権力をその集団に与えることに対する非常に強い欲求であるが,そこから一定の道徳体系が発生するのである」(186頁)と述べている。つまりは,集産主義を,自己の目的を認めさせるという主観的な必要性と目的達成のための権力拡大の主観的な欲求という心理的な特徴によって規定している。かれは,意志とか心理とか欲求とかを問題にしているのであり,それが自由主義的なものであることを求めているのである。それは,中間層的な自由であり,その位置から,資本家と労働者との間の動揺的な地位を自由として礼賛しているわけである。しかしピケ問題,独占問題への態度で明らかなように,実際はブルジョアジーの立場に大きく傾いているのである。現実には,独占資本は,国内独占の次は国際独占へと向かって発展するのである。
 
 ハイエクは,その目的(社会的正義,平等,保障などの理想)だけではなく目的達成の特定の方法をも意味するとして,「社会主義は私企業の廃止,生産手段の私有制度の廃止を意味し,利潤を求めて働く企業家に代えて中央計画機関による「計画経済」体制の創造を意味する」(44頁)と述べている。それに対して,ハイエクは,計画化への反対を独断的な自由放任主義的態度と混同してはならないと注意した上で,「人間の努力を統合する手段としての競争の力を最大限に利用することを認める自由主義論は,事柄をあるがままに放っておこうとするものではない,自由主義論は競争が有効に行われるときには,他のいかなるものよりも個人の努力をよく指導するという信念を基礎としているのである」(48頁)ということを対置している。ハイエクにとって競争とは「社会の組織化の原理」(49頁)である。

かれは,競争の作用を助けるための干渉手段の必要と政府行動の必要の消極的な理由として,「第一に市場の各当事者は彼らが取り引きすべき相手を見出しうる価格で自由に売買することができること,そしてだれでも自由に生産し,販売し,いやしくも生産され販売されているものを買い入れうるということが必要である。そしてすべてのものが同じ条件でさまざまの取り引きを自由に行いうること,個人または集団が公然の力または隠れた力をもって,この取り引きを行うことを制限しようとするいかなる試みも,法律が許してはならないことが必要である。特定の商品の価格や数量を統制しようとするなんらかの企ては,各個人の努力の結合をもたらす競争の力を奪い取る」(同 49〜50頁)と主張する。このことから,かれは,当時,すでに存在していた独占資本による資源の独占やカルテル・シンジケートなどによる価格統制や独占価格,資源の独占,その他の独占に対して,「独占問題は,もしわれわれの闘うべきものが資本家的独占にすぎないならば,それほど困難ではないだろう」(252頁)と述べている。

政府が,カルテルやシンジケートを取り締まれば,競争原理が再び働いて,いい状態が簡単に回復するというのである。かれは,資本主義的独占から帝国主義が生まれ,世界大戦が起きたという歴史的事実に目をつぶる。国際独占体による世界の自由な経済的分割競争から世界規模の殺戮戦が発生したことを認めないのである。かれによれば戦争は,反自由主義から発生し,全体主義から発生する。それを防ぐのは19世紀の自由主義の理想,カント主義的理想である世界連邦,超国家的機関である。それには,自由人たる個人による国家支配が必要であり,そうした自由人によって,超国家的機関の横暴をも防止しなければならないというのである。

しかし現実の超国家的国際機関の方は,大国の利害によって恣意的に動かされる場合が多い。例えば戦争犯罪を裁く国際司法裁判機関は,アメリカ兵を犯罪者として訴追できないように特別扱いを要求するアメリカ政府の圧力によって骨抜きされようとしている。何度も強調したように,占領地からの撤退を求めた国連決議があるにも関わらず,対テロ戦争を理由にしたイスラエル軍によるパレスチナへの侵攻・占領・軍事攻撃が繰り返され,工場・農場・商店・住居などの生活手段が破壊されている。ハマスなどによる自爆攻撃ではバスや自動車などが破壊されもしたが,それに対して,イスラエル軍は,議長府のビルの破壊など,数倍数十倍の破壊行為を行っている。止めどもない殺戮戦のくり返しの中で,すでに何千人もの規模で犠牲者が出たというのに,国連は,アメリカの主張にしたがって,イラクの査察問題の方に大きな精力を注ぎ,パレスチナ問題への対応に力を十分に使っていない。

 この本は「1940年から1943年に至る間の余暇を縫って著した」(1976年版序言)ものであるという。戦時中の「余暇」というのはユーモアなのだろうか。ハイエクのソ連経済批判は完全にはずれた(それについてはロンドン大学の森嶋通夫教授や伊藤誠氏が指摘している)。その政治思想も多くはかれ自身が引用している先行するジョン・スチュアート・ミルなどの自由主義思想やカント思想の焼き回しにすぎない。ひどいのは,自己の主張を正当化するために,まったくいい加減なことを書いていることである。例えば,かれは,「小国の権利に関するかぎり,マルクスとエンゲルス(ENGELS)は大部分は他の首尾一貫した集散主義者よりもよくはなく,折々チェコ人やポーランド人について示している見解は,現代の国家社会主義者の意見と似ている」(183頁)と書いている。

1848年の情況と1940年の情況の違いをまったく無視し,「1848年には,革命的な諸民族は自由のためにたたかっており,その自由の主要な敵はツァーリズムであったが,チェコ人その他は実際反動的な民族であり,ツァーリズムの前哨であった」(『自決にかんする討論の決算』(国民文庫=118 152頁)ことをも無視しているのである。ハイエクは,百年前の情況で言われたこととそれとまったく情況の違う現代の情況で,同じようなことを言ったということで同じだとする適当な論証ですますというとんでもないことを平然とやっているのである。

この点については,国際労働者協会創立宣言で,マルクスが「英雄的なポーランドがロシアの手で,謀殺され,コーカサスの山塞がロシアのえじきになる」のを非難したことを指摘できる。それから,マルクスが,自由主義的な大英帝国のアイルランド併合に反対して,アイルランド人の独立運動を支持・支援したのに対して,ハイエク氏は何一つ語っていないばかりか,こういう大国による弱小民族の支配・従属化・抑圧・差別するイギリス支配階級の自由主義の欺瞞を批判することもなく,逆にアングロ=サクソン流の自由主義に賛意を表して,抑圧的大国家の味方をしたことを強調しておきたい。

 また,かれは,レーニンの言葉も,「だれが,だれを」という不正確に縮約した上で,それを「ソ連統治の初期の数年前に,人々が社会主義の一般問題を確約した格言」とやらにしてしまう。それはかれの手にかかると「だれがだれのために計画するのか,だれがだれを指導し支配するか,だれが他の人々に対して,その身分を割り当てるか,だれが他の人によって割り当てられたものをもつか,それらの問題は必然的に最高権力者のみによって決められる中心問題となる」(139〜140頁)というむなしい一般論に昇華させられてしまう。レーニンが言ったのは,「どの階級がどの階級を支配するか,全人民を指導する階級はだれか」ということである。「だれが,だれを」というのを個人や集団と解するように誘導して,ハイエク自身の望むところにもっていこうというのが,この部分の狙いである。これがこのご立派な学者のやり口である。自らの信念のためとあれば,事実も論理もねじまげてしまうのだ。

 1940年から1943年といえば,ちょうど第二次世界大戦の最中であり,1941年6月には,不可侵条約を一方的に破ったナチス・ドイツが対ソ戦を開始し,1943年にはソ連の反転攻勢が始まったという時期である。こういう時期に,「小国が生活するに適するような世界を創造する」(297頁)ことを提唱するという見事にカント主義的な独立小生産者的思想を露にしているのである。かれは,個人企業が主で独立小生産者とたいして違いがなかった資本主義の勃興期(自由主義時代)の自由主義思想を礼賛する。かれがその地位のちっぽけな独立性を絶対視しているのは,「貨幣は人によってかつて発明された自由の最大の用具の一つである」(116頁)という貨幣論に明らかである。かれは貨幣が貧しい人に広範な選択を許しているという。

選択肢は,貧しい人には小さく,しかも選択の余地のない場合が多い。貧しい人は,例えば,水道料金を節約せざるを得ないとなれば,安全な水すら諦めなければならない。それでも,「貨幣が貧しい人に広範な選択を許している」というのか? かれは,選択肢の広さを過去の富裕層と比較しているが,比較するなら現代の貧しい人と富裕層との選択肢の広さを比較すべきである。

第二の証拠は,自由論にある。かれは,「われわれは自由というものが一定の価格を払って初めて得られるものであるということ,そして個人としてのわれわれが自由を保持するためには,きびしい物質的犠牲を払う用意をしなければならないということに,目を開くことを虚心に再認識する必要がある。われわれはアングロサクソン諸国において,自由の規則が基礎としている信念,またベンジャミン・フランクリン(Bennjamin Franklin)が個人としてならびに国民としてのわれわれの生活において,われわれに適する言葉で表現した信念,すなわち「僅かな一時的な安全を手に入れるために。根本的な自由を放棄する人々は,自由と安全の両者をもつに値しない」という信念を思い起こさなくてはならない」(170頁)という。

ハイエクは,自由は金で買うものであるという。人々は,自由を得るためには稼がなければならない。そして個人が自由を保持するためには,きびしい物質的犠牲がいる。自分で自分の自由を保持するには他からの保障などはないのであるから,危険を堪え忍んで,自分自身でなんとかしなければならない。つまりは自己責任である。そのための出費が必要であり,それだけまた稼がなければならない。いずれにしても自由は買うものであり,そのために貨幣が多く必要である。それは,市場で得られるものであるから,市場競争を妨げてはならない。保障はそれと相容れないから,どうしても必要な保障は市場の外で競争の邪魔をしないように与えられなければならない。

しかし,そんな一時的な安全を確保する保障のために,根本的な自由は失ってはならないのであって,そんなことをする人は自由と安全の両者をもつに値しないというのである。つまりは,ジョン・スチュアート・ミルと同じ自由主義的社会保障論であり,自由主義経済のもたらす貧困などについては,市場経済を守ることを絶対的な限界にして,その限界内での最低限の社会保障を認めるということを言っているのである。自由であるべきは競争・市場であって,それが個人の自由の源泉として絶対的であり,そこから生まれる悪については,厳しい限界を設けた上で最小限に止めるべきだというのである。かれは,そのことを具体的に語らず,自由だの安全だのという一般的概念を使った抽象的論理でごまかしているが,きちんとその意味内容を読んでみれば,貧しい人に極めて厳しく冷淡であることは明白である。

続く
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.33 )
日時: 2012/03/25 22:32
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:UuyyUY9c

続く

 それから,ハイエクの社会主義の合理的経済不可能論は,伊藤誠氏が『現代の社会主義』(講談社学術文庫)で明らかにしているように,戦時経済下のソ連経済の現実を一般化したもので,歴史的現実によって破綻している。『隷従の道』では,ハイエクは,社会主義批判を集産主義批判として展開し,それを全体主義と結びつけて批判している。かれによれば,社会主義は集産主義の一種なのであり,それは全体主義とも共通するというのである。かれの批判は,スターリン個人独裁現象を社会主義と頭の中で結びつけ,それと全体主義を強引に結びつけたものである。かれは個人的・主観的・直観的な心理的印象を強引に理論化するということをやっているのである。こういうやり方は,分析による正確な問題の把握という共通土台から理論を展開し,個人的認識を社会的認識に発展させるという知識発展の当然の手続きを無視するものだ。もちろん弁証法もない。

 ソ連論についてはここでは詳しく展開する用意がないが,私は,ソ連・東欧は,過渡期社会で終わったと考えている。したがって,ハイエクが,過渡期の現象をそのまま社会主義とみたてて,それを批判することで社会主義の一般的批判をやっているのは間違っている。かれの定義する中央計画経済というのは,唯一の社会主義経済策などではない。

 問題は,伊藤誠氏が前掲書の中でも指摘しているが,生産手段の共有制の下で,消費手段のみが個人の所有にうつされるが,その場合,個々の生産者の個人的労働量(個人的労働時間)分の給付証明書をもって,消費手段の社会的貯蔵から等量の消費手段を受け取り,個人的労働時間を別の等量の個人的労働時間と交換するという商品交換と同じ等価交換という交換を規制する原則が支配するのである(『ゴータ綱領批判』)ので,この段階では,資本主義への逆転を防ぐための自動的で完全な保証などはないということである。

この共産主義の第一段階では,「諸等価物の交換とはいっても,商品交換のもとではそれはたんに平均してみれば成立しているということであって,個々の場合にも諸等価物の交換が成立しているわけではない」(同上 岩波文庫 36頁)のであり,要するに,消費手段の分配に関しては,商品等価物交換と同じ原則が支配するのである。ところが,ソ連の場合は,事実上,生産手段の共有制が,国家官僚の専有物化によって後退したり,この消費資料の分配が特権的部分とそれ以外の一般の部分との間で不平等に分配されたりした。

つまり,過渡期には,平等な行政・政治参加などのプロレタリア民主主義の前進その他の革命的諸方策の実現が必要であったのに,そのように前進せず,後退したので,国家官僚と特権部分に対する一般の人々の不満の爆発を通じて資本主義の復活へと導かれたのである。だが,それは,自由主義的資本主義の優位性を証明するものではない。資本主義の下での生産手段の私有者の利潤の取得のための資本への従属化はひどいし,搾取による利潤を収入とする富の一部の資本家への集中による相対的な貧富の格差は大きい。労働者は,肉体的精神的磨耗や諸種の妨害によって,行政・政治参加などの民主主義からも遠ざけられている

終わり。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.34 )
日時: 2012/03/26 19:18
名前: グッキー ID:Rg6jCegA

>1970年代の二度に渡る石油ショックの発生以来、インフレと景気停滞・高失業率が
並存するスタグフレーションが顕在化するなど、従来のケインズ経済学では説明しがたい現象が起こり、ケイジアンのマクロ有効需要政策では景気変動の適切な制御が困難になってきた。

こんな簡単なことが分からないと書いている人が居るの???

石油や資源、農産物などが上がれば海外に所得移転が起きる。
当然、国内の購買力が落ちるから、企業の生産が落ち込み、失業が増える。
輸入インフレならスタグフレーションに成るのは当然のことですよ。

従来のインフレは需要が増え物価が上がる。当然、企業は生産を増やすから失業も減る。
こういう景気過熱形のインフレが、通常のインフレ。

ケインズの時代には一部の資源価格の乱高下は有ったけど、全面的なコモディテイーの上昇などというのは発生しなかったからスタグフレーションが考えられなかっただけじゃないの。

スタグフレーションが起きた場合の対策は、格差の縮小が有効。
格差が縮小すれば社会に不況耐性が出来る。
輸入するものが上がるのだから、魔法の杖は無い、このぐらいの対策しか出来ない。
もっとも輸出価格に転嫁できるのなら別ですが、まず難しいでしょう。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.35 )
日時: 2012/03/26 19:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:oykSjNzU

グッキー さん

このスレッドで資本主義経済論の流れを追ってきていますが、ケインズにしろ、ハイエク以下の新自由主義の理論にせよ、結局は全体から見れば(民衆の安定)経済をコントロールできなかったことになると思います。

新自由主義は、自由経済にすることで自然と均衡が保たれると勝手に理屈付け、
ケインズは人為的に均衡を保つ方法があると錯覚し、
当初は別として、最終的には、それぞれがコントロールが出来なくなってしまいました。

原因は、それほど富を独占したい人間の性癖から来ていると思います。

多くの経済評論家は、その根源の理を無視して、持論を展開します。
評論家自身が経済のシステムの中に組み込まれているからでしょう。

グッキーさんは、最近「拮抗力 忘れられた思想 ジョン・ケネス・ガルブレイス」スレッドで

>そして現在経済の根幹をなす財産権というものについても考え直さなければ成りません。
>地球を己のものとし他者から利益を得ようとする。これが間違いの元なのです。

上記の事を言い出されました。
その内容をマルクス共産主義志向とは考えませんが、ある意味、従来の資本主義の原理的価値観を逸脱しようとされているようです。

いままで仰っていた「機会の公平性」とは違った角度の経済論へ踏み出されていると感じました。
私も、そこまでのスタンスがなくては、現状の資本主義の理念の中で、幾ら並べ替えてみても堂々巡りになるのではないかと思います。

でも、まあ、新しいものを考えるには(全く新規ではなく革命的修正でも)今までのシステムの検証も必要だと思い、このスレッドをまとめています。

先に言いました価値観の展開が楽しみです。
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.36 )
日時: 2012/03/27 08:04
名前: グッキー ID:jPHxH5vk

天橋立の愚痴人間さん

>その内容をマルクス共産主義志向とは考えませんが、ある意味、従来の資本主義の原理的価値観を逸脱しようとされているようです。

財産権という経済社会が寄って立つ概念の変換です。

地球は誰のものか、誰のものでもありません。人類が利用させて貰っているだけのものです。
それをパレスチナの地は神がユダヤ人に与えられたものだ。石油はアラーの神がアラブの民に与えられたものだとか、勝手に自分のものだと考えるのが間違いなのです。

資本主義市場経済も土地や資源を財産と捉え、それにより他者から収益をえることを正当なものだとしています。
人間はおぎゃーと生まれて来たら、地代、資源代を払わなければ生きて行けません。地代、資源代はあらゆる物価に含まれています。
これが公正な社会と言えるでしょうか。搾取を正当化しているシステムと考えます。

財産とは人間が造ったものに限定すべきもので、自然にあるものを財産とすべきではないのです。
自然にあるものは利用権とすべきで、その利用権を持っていることにより収益が発生するシステムは間違いなのです。

現実的に言えば土地や資源から生まれる収益は、国が代理して税として吸収し、人間を含めた地球のすべての生物、地球のために使うべきものなのです。

北方領土の返還交渉も、領土の返還ではなく、利用権の返還交渉とすべきなのです。利用権の返還において損得が生じなければ、交渉打開の糸口になるでしょう
土地、資源、水、などの財産権が無くなれば国と国との戦争の動機も無くなります。

これを考えたのはバブルの頃で、土地の高騰に多くの人が狂奔している時代でした。今はシロアリ退治などと言う人が大勢居ますが、自分が利権を享受する立場になれば、その人たちも必死に利権を護ろうとするのではないでしょうか。
バブルの頃に土地の高騰に目が眩み狂奔していた人たちを見ればそう思えます。

これはシロアリが生まれる土壌、財産権という不公正な概念により経済社会が成り立っているからではないでしょうか。

http://www.asyura.com/12/hasan75/msg/412.html
ナウル共和国は世界一豊かな国だったのに、繁栄は長続きせず、富、文化、環境を失い、石器時代に戻ろうとしています。
ーーーーーー

地球を自分の物とし他者から収益を得ていた者の末路です。
人間は自分が付加価値を生産し、それを他者の生産した付加価値と交換し生活しなければなりません。自分が付加価値を生産せず、他者の生産した付加価値で生活しようとすれば人間は堕落します。
あぶく銭を得て良いことは無いのです。

こう言っても欲の深い人間のことですから、簡単に財産権の変更をしようとはしないでしょう。
しかし何が正しい常態かということを知れば、人間はその方向に向かって行くものだと思います。

こう考えたのは二十数年前、10年以上前からネットでも言ってます。
当時は同じように考える人がほとんど居ませんでした。
今では、地球は誰のものかと、問題として考える人がネットのブログでも出てきました。
人間が知り、人間の意識が変わることが、社会を進歩させるのではないかと考えています。

と書いてきましたが現実に行うことは簡単なことだけです。
土地、資源から生まれる収益を税で吸収し、人類を含めた生物と地球のために使えばよいことです。

問題は地球は俺のものだという考えから、地球は誰のものでもないという考えに人間が変わるかどうかです。

アラブ人は言う、石油はアラーの神がアラブの民に与えられたものだと
ユダヤ人は言う、パレスチナの土地は神がユダヤ人に与えられたものだと

神が居たら嘆いていることでしょう。
勝手に俺の名前を使うなと
メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.37 )
日時: 2012/12/19 16:42:17
名前: 天橋立の愚痴人間

政権が自民党に回帰し、早速景気の良い話があふれています。

返す返す残念なのは、自民党が今言い出していることは民主党でもできたはずです。
原発に対する姿勢、TPPに対する姿勢、並びに行政改革の面で、自民党と官僚の癒着などについては民主党の方針を是としてきましたが、経済の面では民主党は自民党に代わる何も打ち出せていませんでした。

打ち出せていないということは、打ち出せなかったとも言えます。
しかしながら、で、あれば、それだけは、自民党的なものでも良かったはず。

それを自民党を否定したばかりに、何もせず、ダンマリを決め込んだ3年間でした。
それが政党として、どれくらい無責任であったか、どれほど国民の期待を裏切ったことか、それを民主党自身、民主党と考えを同じくする政治勢力は、いまなお、認識しようとしていません。

これが今回の敗因の唯一最大のものであったと思います。

さて、そのことは置きまして、民主党に手も足も出せなかった非自民党的な経済改革とは、何であったのでしょう。

それは格差にあえぎ疲弊している国民生活の現状と、今回自民党が打ち出している経済政策を検証するところから、浮んでくるでしょう。


金融緩和、円安誘導により景気浮上、公共事業増発による景気の底支えが、民主党では考えられなかった、排斥していた政策です。

この中で、金融緩和、円安誘導により景気浮上に関しては早速影響が出始めている様です。
報道番組のコメンテーターの話ですが、

それで円高で苦しんでいた輸出企業が息を吹き返すのだそうです。
その分においては、企業の業績も上がり社員の所得も増え需要を喚起するとのことです。

ディメリットとして、今度は安い商品を輸入して国内に販売している企業はたちまちにして窮し、商品の値上げをせざるを得なくなる。

これが大変で、自動車、家電、IT製品を輸出する代わりに、食料品、石油、形態電話まで値上がりし、結局困るのは一般庶民と言う事です。

斯くのコメンテーター氏が言うことには、円安で利益を受ける業種の従業員が、まず豊かになり消費を始める事で需要が増え、それ以外の国民にも浸透し、全体が豊かになるらしいです。

このような戯言が、本当にまじめに考えられているのです。
これを自由主義と言います。

簡単な数字で説明すると、100人の国民の内に10〜15人ほどは輸出企業の従業員で、なるほど輸出が好調になると所得もそれなりに増え、今までよりも消費をするとしましょう。

しかしながら、それらの人はすでに豊かであり、衣食住、どれをとっても潤沢に所持しています。この上は贅沢品であったり海外旅行をするなど、余剰資金が必ずしも他の国民が期待するような使われ方となる保証はありません。
あったとしても、数字的な問題から、せいぜい5〜10人へ富を再分配するくらいでしょう。

後の70人近い人たちは、円安のために今まで以上に困難な生活を強いられる事になります。
ここで言いました、10〜15人と言うのは、あてずっぽうで言っているのではありません。
我が国のGDPは、550兆円と言われていますが、輸出は年間50〜60兆円くらいのものなのです。

初めから、この算段(政策)は問題の解決にはなっていないことは判るでしょう。
しかしながら、不思議なもので、国民の多くは、その政策で自分にも金が廻ってくるように錯覚しています。
自分自身に自信過剰になっているのでしょう。
自分は日本と言う国家の正規の構成員と思い込んでいるのです。

非正規雇用はもう50%を超えているのですよ。
このような人々はすでに日本国憲法の埒外に追いやられているのです。
日本の政治の対象外に追いやられているのです。
自分は、まさかと言う思い込みが、竹中などの暗躍を許す事になっているのです。

経済のシステムは、本当に本当、抜本的に見直さねばならないのです。
大体、格差の問題を念頭に経済を言うならば、株価、金融、為替などの範疇で喋っていること自体がマヤカシなのです。

このような観点から、新しい日本の新しい経済のシステムと言うことを考えて見たく思います。

ここで公共事業にに関する考察を省きましたのは、公共事業は新しい経済のシステムを考える上で重要な要素であるからです。

今日は、これまでとし、考えて行きましょう。
メンテ

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