ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[35] 新しい日本のかたち
日時: 2009/08/03 07:48
名前: 天橋立の愚痴人間

政権交代後を睨み、50年100年先までの構想を探りたいと思います。

抽象的な紹介で申し訳けありませんが、此処も皆様の御意見で埋めていただきたいと思います。

私も、そのうちに力を入れて書き込みをしようと思います。
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

心の問題 ( No.8 )
日時: 2009/08/07 07:40
名前: 天の橋立の愚痴人間

前回は少しややこしく述べすぎたかも知れません。

千年も前の事は言わないとしても、人間の心の歴史を鳥瞰しましょう。

西洋を例にするとキリスト教の教義と封建体制が、人々を抑圧していた時代、それに対抗して起こったルネッサンスの運動。それに続く民主主義社会の繁栄。

現在は、科学技術の驚異的な発達と、豊富な物量などが人間の精神に挑戦を突きつけています。

何にもまして多くなりすぎた余暇の時間の問題は、我々人類の文明に容赦ない課題を突きつけています。

トインビー流に言えば応戦が必要なのです。
我々は人間性を取り戻さなければならないのです。

ですが、人間性って何でしょうか。
それも意識しなければなりません。

ルネッサンス以降、西欧哲学は隆盛し、パスカル、ホッブス、マキャベリ、デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲル、ニーチェ、サルトル、メルロポンティ、フロイト・・と数多の思想家が出現し。

経験論、観念論、唯物論、実存主義、実証主義・・とこれもいろいろな角度から人間探求が行われた。

哲学隆盛の最終局面で登場した、実存主義は究極に自己を探求し結果、個に拘る傾向があった。
やがて哲学は、実証主義と言われる科学的認識と融合する事になり、逆に哲学の隆盛期を終えるようになる。

その頃から現代の病が始まったと言える。
先哲の多くの教えが間違いとは言わない、現実に人は自身を考えるとき、誰か先哲の教えに身を委ねているのです。

しかしながら、それを凌駕する力に苛まされることになる。
それが物流と余暇なのです。
近世の大思想家の思想は物流と余暇の増大の中で埋没してしまっているのです。


もう一度、歴史をかえり見てみましょう。
ルネッサンス期にそれ以前の困難に応戦したのは何だったのでしょう。
唯、人間性の復活を求める気概が充満していたのではないですか。

そして、ミメシスを引き起こす先駆者とは誰をさすのであろうか。
勇気を持って教会の戒律に挑戦した人であり、勇気を持って君主に反抗した人たちと、それを啓蒙する人たちがいたことでしょう。

時代の先駆者は我々の中にいるのです。
大思想家の出現が応戦のスタートでも無かったのです。

多くの思想家の例を挙げましたのも、思想が必ずしも、挑戦に対する応戦の端緒になるとは限らない事を言いたいのです。

思想は新しい世代の理論的スポンサーではあっても、最初の勇気を持った行動は、直感的に起こさねばなりません。
神の助けを求めるような意識でいては、社会の変革は出来ないのです。

現代、我々が置かれた、挑戦されている事態には、我々自身が応戦しなければならない事を悟るべきなのです。

「物流と余暇」の挑戦から人間性をとりもどさねばなりません。
それは、高度な哲学的恣意よりも、より始原的な人間性を考える事だと思います。

その意識を醸成すること、意識できる環境を作りだす事。
中身は、こんな簡単なことなのです。
実現するのは大変ですが。


今夜も、またまたややこしくなりました。
いい加減で心の問題を終えたい心境です。
メンテ
心の問題 ( No.9 )
日時: 2009/08/07 07:41
名前: 天の橋立の愚痴人間

物流と余暇」の挑戦から人間性をとりもどさねばなりません。
それは、高度な哲学的恣意よりも、より始原的な人間性を考える事だと思います。

いいままで言ってきた結論であり、心の問題のスタートであります。


「余暇」とは、
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

暇な時間、空いた時間、仕事をしなくても良い時間。その時間をどう自分のレクリエーションに使うかという事で、余暇の創造という事が語られる。その意味では、余暇は、人が自分自身を取り戻し、また活発に仕事や家庭での雑事に立ち向かうための活力を養うためのものである。ただ、仕事を定年退職した高齢者にとっては、毎日が日曜日、即ち、余暇であり、その余暇に何か自分の出来る事を見つけられるか、あるいは見つける事によって人生に生きがいを見出す事が出来るかどうかという事が、重大な問題になっている。
(以上)

広義に考えると、家事から解放された主婦や、祭日や週休2日制で休む事が多くなった労働者、失職で働くことの出来ない労働者のそれも含みます。

人類の歴史は、生きる事への緊張感が人間性を制御してきました。その緊張感から開放された人間は、やがて生きること自身への問いかけをするようになり、結論のない際限なき問いかけは、あるいは自暴自棄の行動となり、あるいは新しいものを求めてとんでもない行動を試みる。

最近になって原始共産社会を彷彿させるカルト教が次々と興っているのも関係あると思います。

また物流の増大、情報の氾濫は科学技術の発展の成果でもありますが、これは人間の価値観を物やお金に集約する事になりがちです。
また世界中のあらゆる情報が廻りに飛び交い、人々の存在感は居場所を越えて放浪しています。
その昔、多くの人たちにとって生きる希望や目的はすぐ目の前に描く事ができました。現在のそれは、誰にとっても可能性が増大し、増大した分だけ確実性に欠けることになりました。
科学技術の進歩と経済的な豊かさの果実として、その方向性は好ましく思いますが、民主主義の思想と相まって自由すぎる自由な発想は、人々の数だけある価値観は反って人間性を見失う事につながっています。
この場合の人間性とは、人間が持つ動物としての宿命的なものを言います。
動物の生命には限りがあります、かつ、大自然の前には所詮は無力な存在です。共に生きるためには共生の心が必要なのです。

我々は見失いがちになった人間性を回復しなければなりません。
それが時代の挑戦に対する応戦であります。
この応戦をする事によって人類は更なる展開を始められるのです。

 
メンテ
心の問題 ( No.10 )
日時: 2009/08/07 07:52
名前: 天の橋立の愚痴人間

我々は見失いがちになった人間性を回復しなければなりません。
それが時代の挑戦に対する応戦であります。
この応戦をする事によって人類は更なる展開を始められるのです。

その意識を多くの人たちが合わせ持ったとき、人類はまた新しい方向へ進む事が出来ます。
現在、我々がすることはその為の環境を作る事です。持つ事です。
人間は頭脳でいろいろ考えますが、科学技術の世界はさておき、自らの行動はいつでも周囲の環境に左右されるものなのです。
難しい理論の問題ではなく、生活の環境を見直す事により、人々の生活に関する考え方などは影響されるのです。
心の問題シリーズのとりあえずの結論として「身の丈に合った生活環境の回復」が現代の社会に必要であることを申し上げることにします。

「身の丈に合った生活環境」とは単純な事を言っております。
生きる為の糧として、農業、漁業、林業に励む人々の生活がある事と、その存在を敬虔にみる民がある事です。
人々の余暇の過ごし方で山登りや魚釣りなどを好む人が多くなる事、特に少年期の人間がより自然に親しむ事も必要でしょう。
さらに、衰退しがちな、豊作祈願の村祭りなどが息を吹き返すことであります。

具体的な言い方をすれば、第一次産業の保護育成を意識的に国家の命題とすることです。資本の論理に任せずに、人間性の維持のための分野と割り切ることも、ずっと長い将来を見たとき必要なのではないでしょうか。

少年期に自然に親しむ経験をさせるには、長期の林間学校制度を教育に取り入れる事です。現在は地方に住みながらもその環境に目も向けない子供たちがいます。都市部、地方に関わらず、集団で自然と対面する期間をある程度提供する事は、人間性の醸成に役立つ事と思います。

地方の村祭りは現在の細々と残っています。世話役不足の関係で中止の憂き目にあっているところもあります。
大概の村祭りは数百年の伝統を持っています。やめる事は簡単です。現在続けられている祭りでも、意味も稀薄なまま仕方なくやられている場合もあります。
村祭りは実質的な豊作祈願があったとしても、地域社会の共生の為の確かな生活の知恵と思います。


村祭りなどに言及しましたが、そうかと言って伝統的なものの保存を言っているのではありません。
人類が歩んできた自然の発想を見失ってはならないと言うことです。
どのような形になるかも知れませんが、我々はそう言う領域を大切にしなければならないと言うことです。


以上で、一旦「心の問題」については離れる事にします。
メンテ
経済のこと ( No.11 )
日時: 2009/08/07 07:54
名前: 天の橋立の愚痴人間

始めにグローバリゼーションについての認識を確認したいと思います。

グローバリゼーションとは「国際化。特に、経済活動やものの考え方などを世界的規模に広げる事とあります。

経済のグローバル化は、世界の潮流となっているが、その背景としては、

(1)輸送・通信分野の技術進歩による時間的・空間的距離の短縮、
(2)規制緩和や市場開放など自由化の進展、
(3)旧社会主義圏の崩壊と新興工業国の台頭により市場が世界的規模で拡大 (市場経済規模は27億人から55億人に一気に倍増) したこと、が挙げられる。また、今後は、
(4)インターネットを代表とする情報通信ネットワークの拡大、
(5)NGOの国際的な活動の活発化等が世界経済の一体化を促進していると考えられています。

また企業活動のグローバル化には、大きく分けて5つの段階があるといいます。
第1段階は輸出、
第2段階は海外販売網の整備、
第3段階は天然資源、低廉な労働力、海外マーケットを目的とする生産や技術開発拠点の海外移転、
第4段階は事業推進のために必要な経営資源の移転、
第5段階は世界的規模での経営戦略の展開となる。企業が現地生産等の海外直接投資を増やし、多国籍化していくにつれ、モノ、カネ、ヒトの国境を越えた移動が活発化し、国境の制約が相対的に薄れ、相互依存関係が深化していく。

現在は第5段階に進みつつあり、世界を一つの市場として各国の企業が激しい競争を繰り広げるメガ・コンペティション(大競争)が始まり、提携や買収など競争力強化を目的とした世界的規模での企業の再編成が進んでいる。国境を越えたM&A(企業の合併・買収)の急増、大型化している。一企業内でも、部品供給と完成品組み立てを複数の国で分業する企業内貿易が、国際貿易に大きな割合を占めるようになっている。
また、貿易の拡大、金融取引に関する規制緩和の推進、情報通信ネットワークの拡大により、世界の金融市場の一体化が急速に進展している。

我が国の現状に当てはめてみると、第一第二段階は30〜40年前に経験したように思います。
各種商品の増産に継ぐ増産のために日本各地に工場が進出しました。

第三段階は、20〜30年前の状況を省みれば納得が行くと思います。
輸出が好調で日本各地に展開していた大企業の地方の工場は、安価な労働力を求めて生産のシフトが海外に移ったため、次々と閉鎖されて行きました。
同時に、国内向けの商品の生産も海外で行う流れも始まりました。
これも、国内におけるグローバル化の一連の様相です。

第四段階は、各企業の企業活動の本格的な海外移転が始まりました。
生産拠点の移転だけでなく、企業そのものが海外へ移ったのです。
ここ20年の企業のすさましい海外進出です。
企業は輸出の概念から開放されて、真に多国籍企業となって行きました。

第五段階は現在進行中との事ですが、文字通り企業は国境をものとも思いません。
巨大資本は、関係するそれぞれの国家の意志を凌駕して展開しています。
本来、国家が拠って立とうとする基本的な社会の生産システムも企業の論理の中で昇華されてゆきます。
国家の国つくりの構想も、資本の力の前に蹂躙されてしまいます。
巨大化した資本の動向を無視して国家の戦略も立てられなくなってしまっています。
全てがこのような極端に走っているとは言いませんが、十年くらい前からはこのような傾向が強まっているのが現代の特徴といえます。

今まで述べてきた事が、不都合と決め付ける事も出来ません。
経済のグローバル化が進んだ御蔭で、我々は安価で豊富な物資を手に入れられるようになりました。
発展途上国と言われていた国が、思わぬ繁栄を遂げられるようにもなりました。
世界経済の規模も飛躍的に膨れ上がったといえます。

かつ、この傾向は資本主義経済体制の究極の流れに沿っているのです。
その中で、我々は手放しで喜んでいるだけでは済まされない事態にも遭遇しているのです。
メンテ
経済のこと ( No.12 )
日時: 2009/08/07 19:00
名前: 天の橋立の愚痴人間

(資本主義経済論)

これからしばらく資本主義の展開する様相を説明しますが、何分に素人ですので、自分話しの都合の良い部分だけの抜書きになります、専門知識のある方は加筆訂正してくださるよう御願いします。

今から250年も昔、ヨーロッパで起こった産業革命により活気つく経済活動は、やがてアダムスミスなどにより資本主義経済の理念を醸成して行く事になる。
当時の想定する理想的経済人とは、「自らが最も優位性を持つただひとつのモノを生産することに特化する人間」であり、「分業によって技術革新がおこなわれ、労働生産性が上昇することによって富(生産物の増大)は生まれる」と考えた。

この点、よく統治された社会ではその最下層まで富裕が広く行き渡るが、それを可能とするものは分業に他ならないとスミスは語っている。
分業によって支えられている労働はすべてのものの価値の根源でもあり、その尺度でもある。
そして、人間の利己的本能と利他的本能は全能の神が人間創造のとき、人間の幸福のために与えたもの。これらを発揮することによって人間は最も幸福になる。言い換えると自分の利益を追求した経済活動(競争)はみんなを幸せにするという「公共の善」をもたらす。しかもそれは自然に実現する。→「神の見えざる手」と言う言葉で現されている。
また政府は余計な介入をしてはならない。市場を「自由放任」の状態にしておかねばならないと経済自由主義を唱えた。

その後の資本主義の研究はまず「需要と供給の関係」について色々と分析が進んだ。競争市場では、需要と供給が一致することにより市場価格と取引数量が決定される。
最初で一番単純な需要と供給の法則。

(1) 価格が下がると需要は増える。
(2)価格が上がると供給は増える。
(3) (1)と(2)より、需要と供給がバランスしたところで価格が決まる。

ところがこの方式は、現代社会では色々と矛盾を含んでいることに気がつきます。
少し先走ったところまで行きますが、
最初に考えられた、需要と供給の法則’は、農業が産業の中心で、製造業、サービス業が未発達で市場経済も未成熟だった19世紀以前には、説得力がある原理だったかもしれません。
かつては供給(農作物の収穫量)は、気象条件など人間が制御できない要素で決まってしまいました。また、不足した物資をとなり町や隣国から取り寄せるということもなかなかできませんでした。

しかし、これを21世紀の今、グローバル競争の中、流通網の発達と共に市場は途方もなく拡大しそのまま「市場経済の根本的な原理」としておく事は出来なくなっている。
つまりは、自由な経済活動が「公共の善」をもたらすと言う「神の手」が信じられなくなってきている。

また、音楽や文字・映像など情報産業の生産物はそれぞれCDや本・ビデオなどに記録されて販売されています。そしてCDメディアや紙・ビデオテープには需要に応じていくらでもコピー、印刷できます。その結果他の生産物のようには需要と供給の関係が成り立たない。
メンテ
経済のこと ( No.13 )
日時: 2009/08/07 19:03
名前: 天の橋立の愚痴人間

結論を先に言ってしまいましたが、需要と供給の関係だけでも下記のような理論が模索されていました。

「セイの法則」
セイの法則とは、「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される経済学の法則。あらゆる経済活動は物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行われるということを前提に、供給が増え供給超過になっても、かならず価格が下がるので、結果として、需要が増え、需要と供給は一致する。それゆえ、需要(あるいはその合計としての国富)を増やすには、供給を増やせばよいという考えである。

「限界効用」
ある財の消費を1単位増加した場合の消費者の効用(満足)の増加分。限界効用学派によって初めて唱えられた概念。古典派経済学においては,水のように貴重であるが安価なものと,宝石のように生活に不可欠ではないが非常に高価なものの相違を説明するのに価値と価格の二元論を用いていたが,この限界効用の概念を用いることによって一元的に説明されるようになった。すなわちこの相違は,財全体から受ける効用と財がさらに1単位増加したときに増加する効用(限界効用)の違いであり,財の需要価格は限界効用により決ると考えた。このような限界概念の発見はそれまでの経済学に革新的な変化を与え,近代経済学の基礎となった。(→限界効用均等の法則。限界効用逓減の法則)

ある種の財何単位かが一定の欲望充足のために消費される場合,最後の1単位の財から得られる追加的な心理的満足(効用)。marginal utility▽財そのものの特質だけできまるのではなく,財の種類や消費者の趣好,さらに消費者のもつ各種の財の量的な割合などによって決定される。一般に,財貨所有量が大きいほど効用は小さくなる。
以下 ウィキペディア(Wikipedia)からの引用を書きますが、読み飛ばされるのが宜しいかと思います。

(限界効用逓減の法則)
投機的な目的を除けば、人が消費できる財の消費量には限度があるのが普通である。(最初の1杯のビールは美味いが、飲みすぎれば飲みたくなくなる。空腹時には1杯の白飯も美味いが、いずれ他のおかずも欲しくなるだろう。)
一般的に、財の消費量が増えるにつれて、財の追加消費分から得られる効用は次第に小さくなる。これを限界効用逓減の法則(げんかいこうよう ていげんのほうそく)、又はゴッセンの第1法則という。

(限界効用均等の法則)
人は、効用を最大にしようと合理的に行動(効用の最大化)するものと仮定されている。(上の例では、人が白飯よりもおかずが欲しくなるのは、限界効用逓減により、白飯の限界効用がおかずの限界効用を下回ったためと解釈できる。)人は少しでも限界効用の大きい方を選択(選好)し、その財の限界効用はより小さくなる。結果として、各財の限界効用はすべて均等化されることになる。
財は貨幣で購入されるため、貨幣1単位で購入できる財の量は価格により異なる。(即ち、価格の逆数''になる。) 貨幣1単位で得られる各財の限界効用は、財の限界効用 × 価格の逆数(即ち、財の限界効用と価格との比、加重限界効用)になる。人は少しでも(加重)限界効用の大きい方を選好し、結果として、各財の(加重)限界効用はすべて均等化されることになる。これを、限界効用均等の法則(げんかいこうよう きんとうのほうそく)、又はゴッセンの第2法則という。
メンテ
経済のこと ( No.14 )
日時: 2009/08/07 19:05
名前: 天の橋立の愚痴人間

今まで述べてきた中で、最初の方のものを古典派経済学と言うそうです。
限界効用説を挟んで後の方を新古典派経済学と呼ぶそうです。
新古典派経済学は現在でも有効な理論の一端を担っているようですのでも少し説明しておきます。

「新古典派経済学」
経済学における学派の一つ。新古典派の考え方は、一言で言えば自由放任主義
(レッセフェール)である。価格の調整速度が速いということを前提として理論を展開している。競争原理が第一と考えており、「小さな政府」を主張する。
新古典派の経済理論の世界観はミクロ経済学の考え方と基本的に同じで、各経
済主体の合理的行動と均衡的な市場機構を前提とする。理論的には、数学的極めて緻密なのが特徴である。

新古典派の議論の前提は瞬間的な価格調整メカニズムですから、た
とえ金融恐慌で失業者が街に溢れていてもすぐに賃金が下がったり
して完全雇用が回復すると考えます。
またアダム・スミスが考えたような『神の見えざる手』という概念は、
どちらかというと新古典派の主張に近いもといえます。

それでは新古典派とこれから述べるケインズ経済学の違いから述べますと、決定的な点は需給の不均衡が存在するときに価格が瞬時にそれを調整し
て均衡状態に戻してくれるか否かという点です。

新古典派の議論の前提は瞬間的な価格調整メカニズムですから、たとえ金融恐慌で失業者が街に溢れていてもすぐに賃金が下がったりして完全雇用が回復すると考えます。
一方、ケインズ経済学の前提は価格の調整速度が遅いため、たとえ失業者がたくさんいても完全雇用が達成されるほど賃金は下がらないため、財政支出をはじめとする経済政策が必要とされるのです。

需要と供給の関係からマクロ経済的な分野まで述べましたが、いよいよケインズの経済学です。
メンテ
ケインズの経済学 ( No.15 )
日時: 2009/08/11 15:50
名前: 天の橋立の愚痴人間

「ケインズの経済学」

此処も長くなるので興味のない方は読み飛ばしてください。本論はケインズ以降の事を述べたいために長々と続けています。

ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)はイギリスの経済学者。1929年の世界大恐慌から始まる30年代「大不況」のさなかの1936年に、主著『雇用、利子、貨幣の一般理論』(通称『一般理論』)を発表し、それまでの主流派経済学であった新古典派経済学をつくがえす新しい経済理論を打ち出した。

30年代大不況では、失業率がアメリカで25パーセント、ドイツで40パーセントを記録するなど、先進工業国全体が長期にわたる深刻な不況に見舞われた。従来の新古典派経済学の常識では、民間人の自由な競争に任せれば市場メカニズムが働いて自動的に均衡がもたらされるはずであった。失業者がたくさん出たならば、失業者達も今雇われている労働者達もみな雇用のために競争して安い賃金を受け入れるので、賃金が下がっていき、企業は前よりもうかるようになって雇用を増やすので、やがて失業は解消されるはずであった。

ところが実際には「大不況」の中でいつまでたっても失業はなくならなかったのである。
そんな中でケインズは、市場に任せたままでは財やサービスの全般的な需要不足が起こり、失業者が大量に出たまま経済が落ち着いてしまうと言いだした。財やサービスの全般的な需要の水準によって、経済全体の生産水準が決まり、経済全体の雇用水準も決まると言うわけだ。これを「有効需要の原理」と言う。だからこれによれば、政府が公共事業などの政策をとって財やサービスへの需要を増やしてやれば、雇用も増えて失業はなくなっていくということになる。

 それまでの新古典派経済学によれば市場は民間人の自由に任せておくべきで、政府が手出ししてはならないということになっていた。それに対してケインズはこのように政府による経済への積極的介入政策を提唱したわけだから、これは従来の経済学上の常識からの大きな転換であった。


【ケインズ理論の間違った解釈】

ケインズは第2次大戦後間もなく死去したが、彼のこの考え方はたちまち世界中に広がり、「ケインジアン」と呼ばれるその信奉者達によって現実の政策に影響を与えていくようになる。すなわち、民間の自由に任せる「小さな政府」ではなくて、不況になったら不況対策を取る「大きな政府」があたりまえのことになったのである。

ところが実は彼らケインジアンのケインズ解釈は決定的に間違っていた。
彼らの誤解によれば、有効需要不足で失業がなくならずに経済が落ち着いてしまうのは、価格がスムーズに動かないから、とりわけて賃金がスムーズに下がらないから(「貨幣賃金率の下方硬直性」)というのが原因だと言うのである。需要不足でも価格が下がれば、安くなったなら買おうと需要は増えてくるだろうし、失業が出ていても賃金が下がれば、企業は雇用を増やすだろう。価格や賃金が下がらないから悪いと言うわけだ。

ケインジアン達は、価格や賃金は下がらないものだと受け入れて、政府支出の増加や貨幣供給の増加で有効需要を増やして失業を無くす政策を推進したのである。
ところが彼らのこの前提からくる政策が失敗してしまったのが、1970年代のスタグフレーション(不況下のインフレ)であった。普通は好況のときにインフレ(物価上昇)になり、不況のときにはデフレ(物価下落)になる。ところがこのころは、不況なのにインフレになるという奇妙な現象に見舞われたのである。すると、不況で失業者が増えたからと言って有効需要拡大政策をとっても、ちっとも失業は減らず、インフレが悪化するばかりになってしまった。

こうしてケインジアン達の信用は失墜し、新古典派の流れをくむ、マネタリスト、サプライ・サイド・エコノミスト、合理的期待形成学派といった反ケインズ派の理論が力を持った。彼らは、政府は経済のことから手を引き、市場メカニズムに任せるべきだとして、再び「小さな政府」を主張した。そして現実の経済政策も、1980年代以降、規制緩和、民営化、財政削減といった反ケインズ的路線が世界中で進められていったのである。これを「新自由主義」路線と言う。

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.16 )
日時: 2009/08/11 15:54
名前: 天の橋立の愚痴人間

ここらで御断りしておきますが、私は経済の専門家ではありません。ですから此処で述べていることは、殆どネットで得た資料です。
記述の引用元を一々紹介してませんが、宜しく御了解ください。


【ケインズ理論の本当の本質は流動性選好】

しかし、賃金がスムーズに下がらないから失業が起きるなどという解釈は、ケインズ以前の新古典派が30年代大不況を見て言っていた説明とまるっきり同じである。新古典派は、だから賃金引き下げに抵抗する労働組合を攻撃して賃金がスムーズに下がるようにしろと主張していたのである。まさにこの通りのことを80年代以降の新古典派式の政策もやったわけだ。

ケインズはこのような説明を批判して自己の学説を打ち出したはずではないのか。
ケインズが本当に言っていたことは、価格や名目賃金がどんなにスムーズに下がっても失業はなくならない、いやその方が事態はむしろますます悪化するということである。なぜなら、有効需要が不足して物が売れないのである。もし名目賃金が下がってコスト面で余裕ができたならば、企業はどうするだろうか。自分のところだけは製品が売れるように売り値を下げるだろう。ところがライバルもみんな同じことを考えて売り値を下げるから、結局市場価格の水準が下がるだけで売れる量はちっとも変わらない。名目賃金がスムーズに下がっても売り値が同じ分スムーズに下がるのだからもうからないことは依然と同じである。雇用は増えはしない。失業も減らない。

こんなことを聞くと新古典派ならこのように答えるだろう。モノが売れ残ったり失業が出たりするのは、人々が収入を使い切らずに貨幣で残している結果なのだから、それを他人に貸して利子を稼ごうとするだろう。すると、おカネを貸そうとする量が借りたいという量より多くなるので、利子率が下がるはずである。利子率が下がれば、企業の設備投資はじめ、おカネを借りてモノを買おうという動きが起こってくる。しかも、物価が十分下がれば、設備投資はじめおカネを借りて買う買い物にかかる額が少なくなるので、ますますおカネを貸そうとする額がおカネを借りようとする額に比べて大きくなる。だから利子率の下がり方はすごいものになるだろう。かくして設備投資などでモノへの需要がどんどん起こってきて、需要不足は解消される。失業もなくなる。
ところがケインズはそうはならないと言ったのである。ここがケインズ理論の本当のキーポイントである。

新古典派は、人々が貨幣を欲しがるのは何か買うためであって、買うものがなければ利子を稼ぐために他人に貸すと考えていた。しかしケインズはそうではなくて、人々は何も買うものがなくてもとりあえず手もとに貨幣を持ちたいと欲するものだとみなした。これを「流動性選好」と言う。
もしそうだとするとどうなるか。人々が収入を使い切らず貨幣で残したとしても、その全部を他人に貸そうとはしない。一部は貨幣のまま手もとに置いておこうとする。そうすると利子率は十分には下がらない。最初はおカネを貸そうという額が借りようとする額より大きくて利子率が下がっていっても、ある程度まで下がったならば、こんなに利子率が低いのなら他人に貸すなんて危ないことはもうやめて、みんな貨幣で持ってしまおうとする。だとすると利子率はもう下がらなくなる。物価が下がって浮いた分も、使わず貸さずにそのまま貨幣で持つ。

こうなるともうそれ以上設備投資が起こってくることはない。需要拡大は頭打ちになり、大量の失業者を残したままでも経済は落ち着いてしまう。ケインズは1930年代当時の状況をこのようにとらえ、この状況を「流動性のわな」と呼んだ。(ケインズ自身の表現に従えば「絶対的流動性選好」である。「私はその例を知らない」としつつ、1932年のアメリカの例をあげている。『一般理論』第15章p.207。──07年1月17日補足)

メンテ
Re: 新しい日本のかたち ( No.17 )
日時: 2009/08/11 15:56
名前: 天の橋立の愚痴人間

【現代のケインズ理論の登場】

このようなケインズ理論の正しい解釈は特に、1930年代大不況同様の長期にわたる不況に苦しむ1990年代の日本で台頭してきた。この現代のケインズ理論は、方法論的には、現代の新古典派達がケインジアンを批判して打ち出した枠組みを基本的にすべて丸のみして受け入れている。新古典派達は、価格や名目賃金がスムーズに動くとみなしたり、家計や企業は現在から将来までの自分の利益を合理的に計算して行動するとみなしたり、財や資産の市場が均衡するとみなしたり、将来起こることを平均的に予見できるとみなしたりして理論を作り上げてきた。旧来のケインジアンは、これらの仮定こそが、民間の自由に任せれば市場調整がスムーズに働いて失業もなく調和するとする資本主義弁護論の土台になっているとみなした。だからこそ彼らは、企業も家計も合理的でなく、市場もぎくしゃくした状況を前提して理論を組み立て、その結果経済が不安定で失業が生じる結論を出して、これこそが現実の資本主義の姿なのだと言っていたのだ。

ところが大量失業が出てしまう最も重大なポイントは、そんなところにはなかったのだ。
価格や名目賃金がスムーズに動くとみなしたり、家計や企業は現在から将来までの自分の利益を合理的に計算して行動するとみなしたり、財や資産の市場が均衡するとみなしたり、将来起こることを平均的に予見できるとみなしたりして理論を作っても、人々が何も買いたいものがなくてもとりあえず貨幣を欲しがるというただそのことを前提するだけで、経済は大量の失業を出して流動性のわなに落ち込んでいくことが説明できるのである。

とりわけて現代のケインズ理論が問題にするのがデフレの深刻な影響である。
新古典派なら、上記の「流動性のわな」論を批判してこのように言うだろう。不況で需要不足で大量失業が出て、しかも名目利子率がもう下がらなくなっても大丈夫。この結果、名目賃金や物価がドーンと下がったら、あんまり下がると人々は、いくらなんでもここまで下がれば将来は少しは元に戻るだろうと予想するはずである。ということは、将来物価が今より上がるのだから、安い今のうちに買っておいた方がトクだということになる。かくして消費や設備投資が起こってきて、需要不足は解消され、失業もなくなっていく。すると、需要が増えたのだから本当に予想通り物価が戻ったということになる。

つまり、実質利子率が下がって調整されるというわけである。
ところが現代のケインズ理論から言わせれば、人々の予想のたて方いかんでは次のようなストーリーもあり得る。つまり、不況で物価が下がったら、この調子で将来はもっと下がるだろうと予想する場合である。こうなったら調整は逆に働いてしまう。将来もっと安くなるのだから今は買うのをやめておこうというわけだ。借金なんかしたら将来返すのが大変になるのでなるべくしない。むしろため込んだ方がトクである。貨幣で持ったままでも将来今よりたくさんモノが買えるのだから、わざわざ他人におカネを貸すなんて危ないことをすることもない。
というわけで、ますます需要は落ち込んで、不況は悪化する。需要が減ったのだから本当に予想通り物価が下がる。つまり、デフレのせいで実質利子率が高止まりして、「流動性のわな」がひどくなるというわけだ。

これは、企業や家計が不合理だからもたらされているわけでもなければ、市場が不完全でぎくしゃくしているせいでもたらされているわけでもない。市場の需給にあわせて価格も名目賃金もスムーズに変動し、人々は将来にわたって自分の利益を合理的に計算し、しかも将来予想をぴったり当てている。にもかかわらず経済はとめどなく大不況に突入していくのである。

メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前  「名前#任意の文字列」でトリップ生成
E-Mail 入力すると メールを送信する からメールを受け取れます(アドレス非表示)
URL
パスワード ご自分の投稿文の編集、削除の際必要です。面倒でしょうが入力をお勧めします。
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存