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[529] 1000兆円の借金について<マクロ経済論>
日時: 2010/03/11 00:41
名前: 天橋立の愚痴人間

ヤフー掲示板より。
「21世紀の世界」トピックスで、最近興味のある意見交換をやっています。
私には、今一つ理解できない部分があります。
当サイトでも、財政の問題について同じような発想を持っておられる方がいます。
ご意見を御聞かせください。


http://profiles.yahoo.co.jp/junkangatashakai

2)内需拡大政策:国の資産を増やすような事業を国が行って、その支払いは通貨の印刷で賄う。この方法は内需拡大で景気をよくし、且つ将来に国の債務を残さないことを意味する。

国民の資産を増やすような事業を国が行って、需要を拡大する方法は、少なくともその需要分の景気浮揚効果がある。

その資金調達の方法が、国債発行に拠るのか、印刷に拠るのかによってその効果が変わるかだが、変わらないと言うのが正しいだろう。何故ならどちらの場合も通貨の増大量は同じだからだ。(貸借関係から生まれた通貨か、単に印刷して生まれた通貨かの違いはあるが、通貨の増大量は同一)

確かに通貨増大が国の借金となっているか、なっていないかの違いはあるが、もし国の借金になっていないことに意味があるのなら、買いオペをすれば実質的に同じこととなる。ところが既に述べたように、現状の日本では、買いオペは経済浮揚効果をほとんど持っていない。

国債は現状で買い手が付いているし、更には国の借金なら民間に金利分が流れる。そこにはいくらかの景気浮揚効果も期待できる。

私にはここまで、通貨の印刷による景気浮揚の道筋は見えて来ていません。もしシリウスさんが、景気浮揚効果が期待できる具体的道筋のアイデアがあるのなら、ぜひ教えてください。


以上全文転載。
メンテ

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為替相場 ( No.91 )
日時: 2010/05/09 11:04
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:f0Fkgcb.

固定相場制と変動相場制の歴史について下記の記事を引用します。
これによると変動相場制になったのが如何にも最近で、驚きました。

http://www.fxprime.com/excite/bn_ykk/ykk_bn10.html

やさしい経済講座


情報提供:FXプライム(株)

変動相場制とは?
 

変動相場制の歴史は、金本位制、そして固定相場制の時代を経て、まだ30年余りに過ぎません。さて、その歴史はどのように作られていったのでしょうか?

 
■変動相場制とは?
 
固定相場制のように通貨を一定比率に固定せず、為替レートの決定をマーケットの需要と供給に委ねる制度です。フロート制ともいいます。

ただ、現在の変動相場制は、市場で通貨の交換レートを決めますが、中央銀行が市場介入による為替レート操作を行う場合もあるため、完全なフロート制とは言い難い面もあります。
各国の貿易収支不均衡の問題をはじめ、多くの課題に直面していますが、協調介入や各国のマクロ経済政策の協調などで対応し、何度も崩れかけそうになったこの変動相場制のシステムを支えています。

 
■変動相場制へのプロローグ
 
1944年にアメリカのニューハンプシャー州のブレトンウッズで国際通貨基金協定などが結ばれ、その中で、IMF(国際通貨基金)が発足します。
金だけを国際通貨とする金本位制を採用せず、ドルを基軸通貨として金とならぶ国際通貨とする制度を作りました。

いわゆる基軸通貨となった米ドルですが、その後欧州や日本の経済復興で国外への流出が起こります。又、ベトナム戦争を経てアメリカの財政も悪化するのです。
市場では価値が低くなってきた米ドルを売って、金を買うという動きが加速しました。

 
■ニクソンショックとは?
 
アメリカはそれまで唯一、金と通貨の交換(1オンス=35ドル)を認められていた国でしたが、米ドルを売って金を買う動きに耐え切れなくなりました。
そして1971年、当時のニクソン大統領が金と「ドルと金の交換停止」を表明します。
それをニクソンショックといいます。

金とドルの交換を前提に構築されていた固定相場制_ブレトンウッズ体制は、これにより終焉を迎えました。

 
■スミソニアン体制とは?

 
ニクソンショックの後でも通貨制度の破綻を回避する方法が模索されました。
1971年12月、ワシントンのスミソニアン博物館で先進10ヶ国蔵相会議が開かれ、ドルの切り下げと為替変動幅の拡大が決定されました。金とドルの交換率は、1オンス=35ドルから38ドルへ引き上げられ(ドルは7.89%切り下げ)、円は1ドル=360円から308円(16.88%切り上げ)となりました。また、為替変動幅は、上下各1%から上下各2.25%へと拡大されました。この新たな固定相場制をスミソニアン体制と言います。

しかし、スミソニアン体制下においても、米国の国際収支の悪化は続き、1972年6月に英国がこの体制を放棄し変動相場制に移行すると、1973年3月までには主要国は変動相場制に移行しました。

 
■キングストン合意とは?

 
前述のように主要先進国は、1973年には変動相場制に移行しました。
1976年1月、ジャマイカのキングストンで、IMFの暫定委員会が開かれ、変動相場制の正式承認を含む、IMFの第2次協定改正が決定しました。

ここで金の廃貨が決まりました。
この制度は、1978年4月1日に発効となり、これをキングストン合意といいます。ここに現在まで続く国際通貨体制が確立されたのです。

 
■管理された中での変動相場制
 
1977年にIMF(国際通貨基金)理事会で、中央銀行の為替政策のガイドラインが決められました

●加盟国は不公正な競争上の優位を守るために為替相場を操作しないこと
●輸出を伸ばすために意図的に為替相場を操作(為替介入)してはいけないこと
●介入は短期的に乱高下し秩序が保てないときのみ認められること

が原則として定められました。


〜1978年11月1日 カーターショック・ドル防衛策

当時、アメリカでは貿易収支の大幅な赤字によって経常収支が赤字に転落し、インフレが加速していました。このアメリカのファンダメンタルの悪化を背景に、米ドルは主要通貨に対して急落、例えばドル円は5月の230円レベルから10月31日には175円台まで下落しました。
半年で55円のドル安円高です。

そこで、カーター米大統領は、

●日本、西ドイツ、スイスの中央銀行とのスワップ枠拡大等による為替市場への協調介入の強化
●300億ドルの介入資金調達
●公定歩合の引上げ(8.5%→9.5%)
●預金準備率の引き上げ

からなるドル防衛総合対策を発表したのです。

それを受けて11月1日、ドル円は1日で10円以上もドル高円安になり、その後もその流れは続きました。

〜1985年9月22日(日)プラザ合意・ドル高是正

レーガン大統領の時代のアメリカは財政赤字と貿易赤字(双子の赤字)が構造的に定着し、第一次世界大戦後初めて純債務国へと転落しました。
そして、ドル安によって米国の輸出競争力を高め、貿易赤字を減らすことを主目的として、1985年9月22日(日)、過度なドル高の対策のためにアメリカの呼びかけで、ニューヨークのプラザホテルに先進国5カ国(日・米・英・独・仏=G5)の大蔵大臣(米国は財務長官)と中央銀行総裁が集まり、会議が開催されました。この会議で、

●為替レートの調整によって対外不均衡の是正が可能であり、また有効である
●為替レートは各国のファンダメンタルを反映すべきである 
●為替レートの調整は主要通貨の対ドルレートの上昇によって行なわれ、各国が直ちに介入によってこれを実現する

この会議は秘密裏に行なわれ、マーケットではまさに寝耳に水の状態でしたので、翌23日(月)には、合意が明らかになって最初に迎えたオセアニア・東京市場からドル売りが殺到し、1日で1ドル=240円レベルから10円もドル安円高になりました。

(引用終わり)

一つ一つの検証の前ですが、ここ30年間の変動相場制のありようが、金融のデリバティブ部分を巨大に押し上げ、リーマンショック、サブプライムローン、ギリシャ、ドバイ問題などで常に不安定な環境をもたらせたのではないでしょうか。

軍事評論家の意見は大切であるが、それだけでは沖縄基地問題は解決できないように、この問題は経済の専門家だけでは解決できないのではないでしょうか。

1000兆円の借金の問題に近づくのは、まだ程遠いようです。
メンテ
UP ( No.92 )
日時: 2010/07/20 09:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:I6KA8xCk

満天下さん、ひさしぶりでこのスレッドをUPします。
前回、話し合った頃から、1500近いアクセスがあります。

政治では誰も、本当の改革、新しい国の形のことを言及しません。
その方向性があることを、可能なことを何とか証明してみたいものです。

新しい国の形は経済面だけを追っていても成らないことと思いますが、何せ経済の問題はその中心を占めるものです。

今までは、貨幣の性格、兌換紙幣、不換紙幣についての概念に始まり、貨幣の供給のありようを追ってきました。
そこでは、貨幣の対価としての、労働ないし、商品の総量に対して流通する貨幣の量が比例しなくなっている。

所謂、信用取引、デリバブルの領域が大きくなり、貨幣の流通原理が当初考えられた資本主義経済のそれとは異質なものになってきている。

また、国単位で見ると、経済的な格差が大きく、その交換比率の齟齬が、純粋な経済活動の原理を歪なものとしています。
所謂、為替の世界で、これを利用する金融資本の暗躍が、経済そのものを変質させている(純粋な経済活動による生計を立てることを損なっている)。

このような面を、全て悪と葬ることが良いのか、否かさえ解りません。
さて、前回までは、この為替について触れ始めたところです。

一般的な為替の原理と共に「経済鎖国論」まで踏み込んだ議論をしたいものです。

今日は、とりあえず、このスレッドのUPとします。
メンテ
経済学の勧め <基礎を振り返る ( No.93 )
日時: 2010/07/20 13:19
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:I6KA8xCk

(資本主義経済論)

これからしばらく資本主義の展開する様相を説明しますが、何分に素人ですので、自分話しの都合の良い部分だけの抜書きになります、専門知識のある方は加筆訂正してくださるよう御願いします。

今から250年も昔、ヨーロッパで起こった産業革命により活気つく経済活動は、やがてアダムスミスなどにより資本主義経済の理念を醸成して行く事になる。

当時の想定する理想的経済人とは、「自らが最も優位性を持つただひとつのモノを生産することに特化する人間」であり、「分業によって技術革新がおこなわれ、労働生産性が上昇することによって富(生産物の増大)は生まれる」と考えた。

この点、よく統治された社会ではその最下層まで富裕が広く行き渡るが、それを可能とするものは分業に他ならないとスミスは語っている。

分業によって支えられている労働はすべてのものの価値の根源でもあり、その尺度でもある。
そして、人間の利己的本能と利他的本能は全能の神が人間創造のとき、人間の幸福のために与えたもの。これらを発揮することによって人間は最も幸福になる。言い換えると自分の利益を追求した経済活動(競争)はみんなを幸せにするという「公共の善」をもたらす。しかもそれは自然に実現する。→「神の見えざる手」と言う言葉で現されている。

また政府は余計な介入をしてはならない。市場を「自由放任」の状態にしておかねばならないと経済自由主義を唱えた。
その後の資本主義の研究はまず「需要と供給の関係」について色々と分析が進んだ。競争市場では、需要と供給が一致することにより市場価格と取引数量が決定される。

最初で一番単純な需要と供給の法則。

(1) 価格が下がると需要は増える。
(2)価格が上がると供給は増える。
(3) (1)と(2)より、需要と供給がバランスしたところで価格が決まる。

ところがこの方式は、現代社会では色々と矛盾を含んでいることに気がつきます。
少し先走ったところまで行きますが、

最初に考えられた、需要と供給の法則’は、農業が産業の中心で、製造業、サービス業が未発達で市場経済も未成熟だった19世紀以前には、説得力がある原理だったかもしれません。
かつては供給(農作物の収穫量)は、気象条件など人間が制御できない要素で決まってしまいました。また、不足した物資をとなり町や隣国から取り寄せるということもなかなかできませんでした。

しかし、これを21世紀の今、グローバル競争の中、流通網の発達と共に市場は途方もなく拡大しそのまま「市場経済の根本的な原理」としておく事は出来なくなっている。
つまりは、自由な経済活動が「公共の善」をもたらすと言う「神の手」が信じられなくなってきている。

また、音楽や文字・映像など情報産業の生産物はそれぞれCDや本・ビデオなどに記録されて販売されています。そしてCDメディアや紙・ビデオテープには需要に応じていくらでもコピー、印刷できます。その結果他の生産物のようには需要と供給の関係が成り立たない。


つづく。
メンテ
経済学の勧め <基礎を振り返る 2 ( No.94 )
日時: 2010/07/20 13:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:I6KA8xCk

前のレスでいささか結論を先に言ってしまた部分があります、古典的な段階で、需要と供給の関係だけでも下記のような理論が模索されていました。

「セイの法則」

セイの法則とは、「供給はそれ自身の需要を創造する」と要約される経済学の法則。あらゆる経済活動は物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行われるということを前提に、供給が増え供給超過になっても、かならず価格が下がるので、結果として、需要が増え、需要と供給は一致する。それゆえ、需要(あるいはその合計としての国富)を増やすには、供給を増やせばよいという考えである。

「限界効用」

ある財の消費を1単位増加した場合の消費者の効用(満足)の増加分。限界効用学派によって初めて唱えられた概念。古典派経済学においては,水のように貴重であるが安価なものと,宝石のように生活に不可欠ではないが非常に高価なものの相違を説明するのに価値と価格の二元論を用いていたが,この限界効用の概念を用いることによって一元的に説明されるようになった。すなわちこの相違は,財全体から受ける効用と財がさらに1単位増加したときに増加する効用(限界効用)の違いであり,財の需要価格は限界効用により決ると考えた。このような限界概念の発見はそれまでの経済学に革新的な変化を与え,近代経済学の基礎となった。(→限界効用均等の法則。限界効用逓減の法則)

ある種の財何単位かが一定の欲望充足のために消費される場合,最後の1単位の財から得られる追加的な心理的満足(効用)。marginal utility▽財そのものの特質だけできまるのではなく,財の種類や消費者の趣好,さらに消費者のもつ各種の財の量的な割合などによって決定される。一般に,財貨所有量が大きいほど効用は小さくなる。
以下 ウィキペディア(Wikipedia)からの引用を書きますが、読み飛ばされるのが宜しいかと思います。

(限界効用逓減の法則)

投機的な目的を除けば、人が消費できる財の消費量には限度があるのが普通である。(最初の1杯のビールは美味いが、飲みすぎれば飲みたくなくなる。空腹時には1杯の白飯も美味いが、いずれ他のおかずも欲しくなるだろう。)
一般的に、財の消費量が増えるにつれて、財の追加消費分から得られる効用は次第に小さくなる。これを限界効用逓減の法則(げんかいこうよう ていげんのほうそく)、又はゴッセンの第1法則という。

(限界効用均等の法則)

人は、効用を最大にしようと合理的に行動(効用の最大化)するものと仮定されている。(上の例では、人が白飯よりもおかずが欲しくなるのは、限界効用逓減により、白飯の限界効用がおかずの限界効用を下回ったためと解釈できる。)人は少しでも限界効用の大きい方を選択(選好)し、その財の限界効用はより小さくなる。結果として、各財の限界効用はすべて均等化されることになる。

財は貨幣で購入されるため、貨幣1単位で購入できる財の量は価格により異なる。(即ち、価格の逆数''になる。) 貨幣1単位で得られる各財の限界効用は、財の限界効用 × 価格の逆数(即ち、財の限界効用と価格との比、加重限界効用)になる。人は少しでも(加重)限界効用の大きい方を選好し、結果として、各財の(加重)限界効用はすべて均等化されることになる。これを、限界効用均等の法則(げんかいこうよう きんとうのほうそく)、又はゴッセンの第2法則という。


以上、経済を勉強されている方には、イロハの文字を教えるようなものですが、共通の認識のために復唱しました。
メンテ
? ? ? ( No.95 )
日時: 2010/07/20 14:08
名前: 天橋立の愚痴人間

続きまして、ここから古典派経済学(セイの法則重視)と新古典派経済学(限界効用説重視)へ分かれて行く過程、さらにはケインズの登場と、現在の自由主義経済論への経緯を説明しなければならないのですが、前に集めた資料が散逸してわかりません。

これは為替の発生源である、国家間の経済関係(貿易)との意味合いへつながります。
と言うことは、為替の概念自体、色々と考えられるのだはないかと思います。

このあたり、特に満天下さんに御助けを願いたいものです。
メンテ
Re:経済学の勧め・・・ ( No.96 )
日時: 2010/07/20 22:49
名前: 満天下有人 ID:w3To7.zA

・・・これはこれは大変な勉強を始められましたね、ご苦労様であると同時に、知らない分野については、やはり積み上げてみないと分かりませんから、がんばって下さい・・・

・・・現在の事象が分からなくなった時、よく古典に遡れと言われます・・・

だが文学や哲学の場合は、現代が忘れていることについて、煌めくような精神を往々にして発見しますが、経済学の場合、とくに古典学派の場合、マルクスとケインズ理論の一部をを除けば、ほとんどが現代に当てはまらないものばかりですね、与件が変わってしまいましたから・・・

・・・ただ古典派から新古典派に至る過程であれ何であれ、その理論に経済「哲学」なるものが土台に座っていないと、単なる事象の分析論に留まってしまいます・・・

アダムスミスがいみじくも富とは、継続する人間の労働によって生み出されるものであると言ったことは、現代でも忘れてはならない真理であると思います・・・経済は所詮供給と需要であると言っても、それを担っているものは誰かということです・・・

・・・勿論、担い手である労働価値といえども、その供給と需要によって再生産が左右されるわけですから、セイ以降の限界効用学派がそこを重点に理論を打ち立てて来たわけですが、得てして均衡点の分析が目的化してしまい、(経済)価値の担い手とその価値実現が「社会的な」ものであるべしの視点が往々にして抜けて行くものです・・・

・・・実は私も経済理論が、マクロ経済とミクロ経済に分類されていることを知ったのは最近のことです・・・若い頃はマルクス経済か近代経済学かという分類の時代でした・・・

そして近代経済の概念は、限界効用説による需給の均衡点分析に重点がおかれ、社会関係としての経済論ではありませんでした・・・

・・・記憶に残っている部分だけで申せば、後に東大総長になられた大河内一男さんが打ち立てられた社会政策経済学などは、経済の社会関係に重点を置かれ、この系統に入る大学では東大、京大、九大・・・資本主義の前提に立って限界効用説から景気循環の分析に重点を置いたところでは、一ツ橋、阪大などでした・・・

・・・今や金融経済の時代になってしまいましたね・・・貨幣数量とその回転スピード分析が経済学の中心になってしまった観ありです・・・

その延長線上に為替があるわけですが、為替理論にも色々あるようで(笑)、
しかし理論と現実は大きくかけ離れている、それが市場における現実です・・・。
メンテ
経済学の勧め <基礎を振り返る 3 ( No.97 )
日時: 2010/07/21 15:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vSacdtyM

下記のような著作が出ています。
佐伯啓思 「アダムスミスの誤算−幻想のグローバル資本主義(上)」 PHP新書
 グローバル資本主義の祖(と思われている)アダム・スミスが実は(今日で言うところの)グローバル資本主義に批判的であったのではないか、と主張する本。政府の規制の象徴である重商主義を批判し、自由放任経済を主張した、といわれているアダム・スミス。しかし、これは貨幣に対する不信感から出てきた主張であり、彼自身は「土地と労働への投資」が自然な姿である、と主張していた、とこの本では主張する。

 「土地と労働への投資」と聞くとなんだか、日本的経営論でよく言われたの「土地神話」「従業員主権」何かをイメージしてしまうけれども、(この本で力点が置かれている)アダム・スミスはそんなバブルの勧めをしているわけではもちろんない。貨幣という「信用」の上にのみ成り立つ虚構のものよりも、確実なものとしての土地や労働に対する投資の方が自然の姿であり、望ましいと考えられていたと言うことである。この観点からすると、日本のバブルは「土地」を不確かなものとして扱ったが故の産物であるといえよう。そして「土地」に対する信用が崩れた後がまさしく現在の日本の姿だといえるのだろう。

 貨幣が信用によって成り立っているのは、確かにその通りであり、それが時として猛威を振るうのは、アジア通貨危機などをみても明らかである。ただ「信用」がないと、取引の際の費用や情報探索コストがかかって仕方ないだろう。つまり、信用はありすぎても、なさすぎても困るものなんだろうと思う。今(2000年冒頭)の株式市場を見ていると、IT関連は信用が集まりすぎ、逆に重厚長大型は信用がなさ過ぎのような気がする。まあ、ぱっとみの感想にしかすぎないけれど。

(引用終わり)

アダムスミス以降展開されてきた経済学は先に紹介した「セイの法則」や「限界効用説」を根拠に「古典派経済学」、「新古典派経済学」と言われるものに大きく分かれて行きました。

その過程で問題となっている事に、普通、我々一般人が「需要」と「供給」と言う単純な概念、それに「神の見えざる手」と言う単純な思い込みによる経済の有様とは随分と異なるものがあります。
表記の著作は、アダムスミス自身も予想してない要素があったということであり、我々が簡単に把握できるものでもないのでしょう。
その一端を「重商主義」と言うキーワードで見てみたいと思います。

続く
メンテ
経済学の勧め <基礎を振り返る 4 ( No.98 )
日時: 2010/07/21 15:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vSacdtyM

http://homepage3.nifty.com/tkubota/kotenha01.htm
松田広島大学助教授

「古典派の経済学」

 古典派の主張の中心点は、貨幣が経済の実体面に影響を持たないということである。古典派の経済学は、貨幣の不足による需要の不足を否定した。それをもっとも簡潔に示したのが「セイの法則」である。すなわち、「供給はそれ自らの需要を生み出す」という命題である。セイは需要を経済循環の視点から見た。供給をした人は何かが欲しいから供給をしたという理解が基礎となっている。生産がなされればそれと同額だけの所得が生まれているはずだとすれば、供給があればそれと同額の需要があるはずだという考え方である。

 もし貯蓄がなければそれは正しいが、現実には貯蓄がある。しかし、その代わりに投資というものもある。貯蓄されたために消費されなかった分だけ需要が少ないが、その分だけ投資需要があれば作った分だけ売れることになる。セイはそこまで議論している。

 古典派は供給だけの需要が生まれると主張したが、その根拠は利子率による貯蓄と投資の一致である。縦に利子率、横に貯蓄と投資をとって図を描いてみよう。古典派は利子率が上がると貯蓄が増えると考える。将来多く消費できるのなら現在の消費をがまんするだろうという考え方である。また古典派は投資は利子が下がれば増加すると考える。返す金利分が少なくなれば、採算に合う投資が増えて来るという考え方に基づく。その貯蓄と投資が等しくなるようなところで利子率が決定されると主張するのである。

 その結果、作ったものは必ず売れるということになる。需要不足による不景気は起こりえない。では古典派の経済学では生産量を決めるのは、いったい何か。古典派は、労働市場において労働の需給が一致するところで生産がなされると考えるのである。常に完全雇用が成立し、失業は自発的失業と摩擦的失業のみ存在することになる。

 労働市場で、雇用量と実質所得が決まるこのような経済では、貨幣は経済の実体面に影響を持たない。貨幣と実物経済とは別に考えることが可能である。これを貨幣と実物の2分法という。古典派は、貨幣を経済の実物面をわかりにくくするベールであると考えた。これを古典派の貨幣ベール観という。古典派の経済学では、貨幣は物価を決める働きしかしていない。

 古典派の物価理論を貨幣数量説という。貨幣量が2倍になれば、物価が2倍になるという考え方であるが、これにはフィッシャー型とケンブリッジ型の2つのタイプがある。
 まずフィッシャー型から説明する。貨幣数量説的な考え方は非常に古くからある。フィッシャーの議論は、その歴史の最初ではなく、むしろ最後の方に現れたいわば集大成である。フィッシャーは取引の二面性に目を向ける。

 すべての取引には片一方には財・サービスが、もう一方には貨幣がある。取り引きされた財・サービスの総額=手渡された貨幣の総額という式が成立する。取り引きされた財・サービスの総額は取引量×物価水準である。貨幣の流通速度を貨幣が一年間に平均して人手をわたる回数と定義すれば、取引に使われた貨幣総額は貨幣量×貨幣の流通速度となる。
 古典派の考えでは、取引量は経済の実体面から決まってくる。貨幣の流通速度は取引慣行が変わらなければ一定と考える。そうすれば、結論として、貨幣量が2倍になれば物価は2倍になると考えられる。

 ケンブリッジ型では、そのような取引慣行ではなく、貨幣需要を考える。人々が所得に応じて、その一定割合の貨幣を保有すると考える。その割合を示す記号kを、ケンブリッジの教授の名を冠して、マーシャルのkと呼ぶ。kは一定で、生産量は経済の実物面から決まってくる。ここでも貨幣が2倍になれば物価が2倍になると結論できる。
 取引慣行が一定なら、取引量と生産量とは比例関係にあるだろう。フィッシャー型で取引量の変わりに生産量を使う型もある。そのとき貨幣の流通速度を所得流通速度という(取引量を使った場合、その流通速度を取引流通速度という)。マーシャルのkは、所得流通速度の逆数となる。

 この2つの型の貨幣数量説は、式の上ではあまり違わないように見える。しかし、ケンブリッジ型では、需要という個人の意志が表面に出ている。その点がフィッシャー型の単にそのような傾向があるという主張と違っていることに注意が必要である。

続く
メンテ
経済学の勧め <基礎を振り返る 5 ( No.99 )
日時: 2010/07/21 15:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vSacdtyM

http://www.ne.jp/asahi/british/pub/econ/neoclassic.html

「新古典派経済学」

現在米英で主流派といわれる考え方。この学派はその根源をアダムスミスにまでさかのぼることができる。競争によるパレート最適、およびそれに付随するウェルフェアマキシマムを強調する。市場原理に基づいた競争が、諸要素の適正配分を促し、かつ技術の発展をもたらすというもの。現在の世界銀行及びIMFもおおよそこの考え方に乗っている。イギリスではこの考え方が、サッチャリズム=新保守主義のもとでの規制撤廃・民営化をバックアップした。

開発経済にあてはめた場合、途上国の政府はその介入範囲の狭小化を迫られることになる。つまり、国家的支援や国営企業、地場産業育成のための各種補助金などを切り捨て、自由競争・自由市場をモットーとする「小さな政府」となることが要請されるのである。もちろん国際経済の中にあっては、輸出・輸入ともに開かれたものとなる。経済的側面において政府に与えられた役割は、Market Failure、いわゆる「市場機能の欠落」部分に関しての修正のみである。市場機能が欠落する分野というのは、教育・福祉などの公共財や、市場原理を取りこめない自然独占状態についてである。(独占という状態は基本的に許されないが。)また、市場原理が望ましくない結果をもたらす場合(下記郵政行為を参照)や市場原理とは関係のない外部要因(環境汚染など)について管理・規制することが認められるのみである。

ここで想定される開発経路は、外資企業による直接海外投資によってである。安い労働力はそのまま比較優位となって、外資企業を誘致する。直接海外投資は資金のみならず、技術やR&D施設、ノウハウなども包括するので、これにしたがって開発がすすむ。ただし、これは企業行為の現地化が必要事項となる。現地経済と切り離された外資企業の経済活動は、ローカル企業に技術の移転を及ぼさず、現地経済を刺激することもないからである。
この考え方を、わかりやすく説明すると下のようになる。

八百屋の主人のぼやき

「まいったね、向かいのスーパーが安売りを始めたってさ。客がとられちゃたまらん。こっちも安売り始めなきゃ。ますます利益がさがっちまう*1。こりゃ経営を見なおして、ムダを省いて*2、新たに仕入先を見つけなきゃいかんな。新たなサービスも始めるか…。こうも競争が激しいと、いつつぶれるかわからんしな*3。隣町の魚屋はスーパーに負けて店をたたんじまったっていうし。」

おばさんのつぶやき

「スーパーが安売りを始めたおかげで、八百屋さんのお野菜も安くなったわ。やっぱり競争がないとダメなのよね。八百屋さんも新鮮なものをそろえるようになったし、種類も増えたわ。もし、郵便局が民営化されたら、宅急便と競争するようになって、郵便料金も安くなるのかしら*4」

先進国企業の戦略

「まいったな〜。この国では最近、パートですらも高い給料あげなくちゃいけないから、人件費が高くついちまう。このさい、どっか給料安くすむところに工場を移すか。*5」

途上国の政府の希望

「どっかおかね持ってる外国の企業さんがうちの国に来てくれないかな。そしたら、うちの国民働かせて給料がっぽりもらうのに。ついでに機械の扱い方とか教えてくれたらいいな。だって、うちの国民まだそういうの慣れてないし。もしそれで教育してくれたら、今度はもっと高い給料もらえるようになって、また別の企業が“安くて質のいい労働力”を求めてこの国に入ってくるに違いない。*6」

*1 市場競争は売主の不当搾取を不可能にする。つまり、価格競争があるところでは下手に高い値段をつけるとほされてしまうのだ。
*2 市場競争は、恒久的に技術革新を要請する。経営の合理化と新規戦略の提案は競争力を維持するための基本的要素である。
*3 市場競争においては、つねに破産および赤字のリスクが伴う。これと対照的なのが国営企業である。例えば、林野庁の膨れ上がった赤字は有名であろう。このように赤字のリスクが破産に直結しないところでは、放漫な経営になりがちである。
*4 一時期話題になったのが郵政省の民営化である。ここでのポイントは、郵政省が黒字運営であること。および、離島・山岳奥地地帯への配達義務である。まず、黒字運営の状態ならば当面民営化の緊急性は薄い。ほとんどの場合、民営化はその放漫経営が問題化されてから議題にあがる。次に、経済的視点からすると離島・山岳奥地地帯への配達は理に適うものではない。50円のハガキ一枚のために郵便ボートを走らせたり、山奥に入っていくのは大幅な赤字原因となる。現在郵便行為が国営に限られているのも大きくはその理由による。
*5   比較優位とは、もともとリカルドが考えたもの。経済をやった人なら一度はワインと布の話を聞いたことがあると思う。
*6   政府の役割は制限的なものになるので、ここでの政府は全部希望を愚痴るだけということになる。積極的な外資企業誘致は、政府の恣意的価値観が介入するので好ましくないとされる。

続く
メンテ
経済学の勧め <基礎を振り返る 6 ( No.100 )
日時: 2010/07/21 15:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vSacdtyM

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=18452
「るいネット」
スミスの批判する重商主義とは、つまり富とは貨幣であるという考え方です。そして、当時、外貨(金銀)をいかに獲得するかが重要な国家のテーマであったわけです。スミスは、国富の基盤をこうした貨幣という不確かなものに据えることを批判したかったわけです。そして、確かな富とは、土地に根ざした労働生産物であるべきだと考えたのでした。土地を所有するということは、その土地に責任を持つことを意味します。そして、そこから貴族に特有の徳、すなわち、勇気、知恵、深慮、寛容が成立していたのでした。つまり、スミスが求めたものは、市場経済の確かな基礎であったのです。

 さらに、スミスは、人はもっとも確実で安全なところにまず投資し、その順序は、農業、製造業、そして最後に外国貿易の順序になると述べています。つまり、これが自由な経済活動の帰結であり、要は、スミスは、国内経済を重視するがゆえに重商主義を批判したわけです。ここで、「神の見えざる手」のくだりについて考えてみると、つまり、スミスは、自由にすれば当然国内に投資をするだろうということを述べたかったのではないかという帰結に至るわけです。スミスにとって、貿易とは、余剰生産物の交換にすぎなかったのです。

 アダムスミスの述べた「神の見えざる手」が、当時の時代背景や思想的背景を無視して、現代において一人歩きをしているという点です。当時スミスがもっとも言いたかったのは、地に足のついた経済基盤によるべきだという点です。しかし、現代の市場は、株式市場を始めとして、ますます投機的な要素が増大し、人々の感情によって大きく変動するものとなっており、正にスミスがもっとも批判したかったものそのものとなっているわけです。現代においてスミスがいたら、まさかこんな市場に経済をゆだねるべきだとは絶対に言わないでしょう。
 近年のアメリカの好景気は、金融業やIT産業に対する過剰な期待によって支えられています。いずれの産業も不確実な要素の大きい産業です。また、経済活動においては、市場のおける自由競争の原理が強調されており、そのとき引き合いに出されるのがアダムスミスの「神の見えざる手」です。実は、不確実なものを経済の基盤に置くことを批判していたアダムスミスのの言葉が、彼の批判した経済活動のありかたを助長するための引き合いに出されているということになります。
 
 日本ではアメリカの成功(?)にならい、アメリカの後を追う形で、IT産業に活路を見出そうとしています。その期待は過剰ともいえます。また、日本では90年代に起きたバブル経済の崩壊の教訓を生かせと言われています。しかし、IT産業によせる人々の過剰な期待は、まさにあれだけ痛い目を見たバブルの再来を期待しているようにみえます。

 このような状況をみれば、アダムスミスは、おそらく「もっと地に足をつけた経済活動をしなさい。」と批判するに違いありません。

(引用終わり)

これは先に紹介した、佐伯啓思 「アダムスミスの誤算−幻想のグローバル資本主義(上)」 に関連する記事である。

言われているように、スミスが考えた重商主義批判というのは、当時の経済活動が帰結として国家の富の増加に重きが置かれているのに対して、万民による万民のための経済活動の開放を目指したものである。

それも確かな「富」とは土地に根ざした労働生産物であるべきだと言ったように、経済活動を人間社会がそれまでやってきたように始原的な「需要」と「供給」を想定していた。
勿論、それは科学技術の進歩による生産性、運搬手段の発達により、想定外の現象が生まれることは予想できなかったことは認めなければならない。

その矛盾を突いてと言うか、補って展開したのが「新古典派経済学」ぼ流れである。
しかしながら、もともと曖昧な認識である「見えざる神の手」の部分については何の検証もしてないところに「新古典派経済学」の末裔の身勝手さがある。

結果、アダムスミスが目指した経済活動の主役を国家(少数の支配者)から一般の民衆に移そうとした本来の意義をないがしろにして、経済の主役を巨大資本にすり替えたのである。
アダムスミスの頃は、自由と思われる国民の経済活動の成果が行き着くところ国家(支配者)へ集まっていた。

現在は同じように一般民衆は、それ(資本主義)を信じて経済活動に勤しんでいるが、その富の多くは、結局一部の資本家へ集まっている。
これは社会科学としての近代経済学の大きな瑕疵である。

続く
メンテ

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