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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2010/10/14 11:07
名前: 天橋立の愚痴人間

(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。

メンテ

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今までのまとめ ( No.159 )
日時: 2016/05/17 11:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KrDwBxyc

このサイトのサーバのトラブルにより最近の鎌倉時代の検証をして記事の多くが消失しがっかりしていましたが、気を取り直して再開します。

このスレッドは、表題の「大和魂」と言う言葉で連想されるような、民族精神を鼓舞するようなものではなく、日本に生きる人々の生き様を考えようとするものです。

日本人の特性を表すのに「和」と言う概念がよく使われます。
ある意味で正しい認識とおもいますし、多くの人がそのように思い込んでいます。

世界の各地にも、多民族に対しても、国内生活に置いても戦闘的ではない民族があります。
それは概ねブータンや東南アジアの島国の様に小さな民族です。
1億の国民を有する大国で「和」の心が、これほど息づいている民族はないでしょう。
大きな民族というのは、常に闘争を繰り返し発展してきた場合が多いのです。

「和」と言う概念が注目されたのは、1500年前に聖徳太子が取上げられた頃からです。
このスレッドでは、その頃、及びそれ以前の日本民族の様子を探り「和」の最新がどこから生まれてきたのかを検証することから始めました。

しかしながら、民族性と言うものを、単純に「優しい心」とか「争いを好まない」とは「融合の精神」とかの単語に押し込めて考えるのは軽率であり、もっと深く考える必要があります。

そこで、古代の神話、伝説のないようを通して、それを他の民族のそれと比較することによって、当時の日本人の特徴をつかむ事に随分と時間をかけました。
これは、日本民族の特徴を「和」などという単純な概念を当てはめるのではなく、当時の生活の有り様を探求することで、我々自身が感じる必要があると思ったからです。

それを調べているうちに、日本民族のルーツを見ることになり、日本民族と言うものは紀元前1万年頃から大陸や南方から渡ってきた多様な人々の集合体と言うことが解りました。

また人口的には弥生時代以降に、より多くの渡来人があり、海外の文化も多く入ってきました。
その中で、弥生時代に伝わった稲作の影響で、我が国にも大規模な集落が出来ると共に、豊作を願う信仰行事が盛んになり、そこから氏神信仰が興りました。

おそらく、神話、伝説の内容も、当時の人々が作り上げ、語り継がれたものでしょう。
このスレッドの副題「日本人の心のルーツ」を弥生時代と考えて良いと思います。

もちろん日本民族の生活も、その後大和朝廷により統一、飛鳥時代へと進み、全てが体系付けられてきました。
その中で「和」の概念が尊重されて来たのだと思います。
しかしながら「和」と言っても、実際の生活自体が「和」にかなったものであったと言うことではありません。
「和」の心が強い民族が、実際はどのように国づくりをしてきたのでしょう。
そう言うことがテーマなのです。

次に「大和魂」ですが、これは「和」の概念とは異質のものです。
「大和魂」とは、先に挙げた、

>「和」の心が強い民族が、実際はどのように国づくりをしてきたのでしょう。

この国づくりに登場する要素なのです。
統治と言うものは「和」の心だけで成り立つものではありません。
「和」と反対の機能も必要となるからです。
また、統治の問題だけではありません。
時代の文化的発展も「和」で充足出来るものではありません。

民族の生命力とは「和」以外の要素なのです。
その象徴を「大和魂」と現しています。

政治的な「大和魂」は大和朝廷成立から飛鳥、平安時代で検証し、文化的なことは平安時代から鎌倉時代に、その様相が顕著に見られると思い鎌倉時代には格別の注目を払いスレッドを続けてきました。

鎌倉時代には現代に続く大衆仏教、舞踊、工芸などが芽生えています。
遺族社会から武士社会(武士とは言ってもいわば民主国家とも言えるのです)に変遷。
海外雄飛(倭寇)など、良い悪いは別として民族の力が息づいていた時代と思います。

今後は、この活気ある民族性が、やがて徳川政権の政策、儒教精神の流布、武士道精神による束縛などで民族性を萎縮させてきた経緯を検証し、明治時代を検証し、我々日本民族の本来の姿、民族の心は何であったかを見てみたいと思います。


メンテ
鎌倉時代考証 1 ( No.160 )
日時: 2016/05/19 15:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BjMZCv6Y

鎌倉時代は我が国の民族の伊吹を感じされる時代であったと思っております。
大和朝廷成立以来、数百年続きた貴族政治から武士階級が政権をとったということは、ある意味、民主化の始まりでしょう。
思えは中国では清王朝、韓国では李氏の朝鮮王朝までは貴族政治であり、建国時代の有力部族が政権をたらい回しにしてきました。

鎌倉武士団による政権ダッシュは、中国、韓国、それに西欧の場合も含めて、数百年も古い快挙であったと思います。
これから少しの間、その鎌倉時代とは、どのようなものであったか見てみましょう。

鎌倉時代考証

(鎌倉時代の政治)

鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されているが、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切であろう。
鎌倉時代を通して京都朝廷との対立は続き、最終的には朝廷の意を受けた足利氏により鎌倉幕府は終焉を迎える。
代わって政権を取った足利氏も武士出身であるにも関わらず貴族化した政治を行う様になる。
室町幕府は200年以上続いたが、世の中は乱れ、戦国時代を経て、再び強力な武士政権が出来た。
鎌倉時代の対外関係としては、当時、中国は宋から元の支配となっていて、その戦闘的な性格から良好な交易とはならず、最終的には元の侵略対象となり2度の戦役が起きる。
国家としての交易の不振であるか否かは、分からないが、民間で「倭寇」と言われる集団が、韓国、中国での略奪を初めている。

「鎌倉時代の文化」

鎌倉時代の文化の特徴をざっくりと言うなら、武家政権が確立し、武士の力が強くなったので、武士の好む素朴で力強い文化が発達したといえる。また、武士や民衆は教養の程度が高くなかっため、わかりやすく親しみやすい文化が発達した。ただし、京都では伝統的な公家の文化が栄えたし、日宋貿易も盛んだったことから、宋の文化の影響もあるということに注意したい。
(武士の習俗)
流鏑馬の射手の狩装束
笠懸(「男衾三郎絵詞」東京国立博物館蔵)
上述したように、鎌倉時代にあっても主たる文化の担い手は公家や寺社であり、一般的に武士の文化水準は低かった。承久の乱の際、5,000を超える武士のなかにあって後鳥羽上皇の院宣を読むことができた藤田三郎は「文博士」と称されてめずらしがられるほどであった。しかし、武家政権の成立にともなう武士階級の政治的、社会的、ないし経済的成長は、おのずから彼ら自身を文化を享受する立場へと引き上げ、上述の板碑などにみられるごとく、彼らの好みや指向を反映する新しい文化の創造をうながすこととなった。この時代の仏教が新仏教・旧仏教ともに穢れ多き者の救済を掲げたことも、武士階級の地位向上と深いかかわりがある。

武家特有の文化も徐々に形成されていくこととなった。その萌芽は武士の日常生活のなかに認められる。たとえば、戦陣に備えた犬追物、流鏑馬、笠懸の修練は「騎射三物」と称されて重視されていたが、王朝国家の武人の儀式も採り入れて「弓馬の道」として体系化がすすみ、つぎの室町時代にいたっては礼の思想その他と融合して武家故実の一部となった。狩猟行為であると同時に軍事演習の意味も有した巻狩は、山の神を祭る聖なる行事でもあり、富士野・那須野でのものが有名である。巻狩の獲物はイノシシやシカであり、貴族や仏僧が宗教上の理由で忌み嫌った獣肉も、武士にとっては重要な食糧となった[25]。工芸の面でも、甲冑や刀剣の名品がつくられている。

のちに武家の家訓へと発展していくものとしては、武士の子弟に対する教戒があり、北条重時家訓(極楽寺殿消息)、金沢実時教戒などが著名である。武家文書のなかに多数のこって今に伝えられる置文にも同様の内容が盛られている。

武家の学問への関心も高まり、北条実時(金沢実時)は、鎌倉の外港として繁栄した六浦の金沢(現在の横浜市金沢区)に金沢文庫をつくって和漢の多くの書籍を集めた。その子孫も文庫の充実に努め、のちに金沢氏の菩提寺であった称名寺が管理を委ねられた。収蔵されたおもな書籍は、古鈔本、宋版、元版で、『群書治要』『春秋左氏伝』『尚書正義』『律』『令』『論語正義』『春秋正義』『文選』『白氏文集』等がある。このような営為の蓄積が、室町時代にはいって武家が衰亡化する公家にかわって古典文化保存の担い手たる役割を果たしえたものと指摘される。また、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』も幕府自身によって編集された。
メンテ
鎌倉時代考証 2 ( No.161 )
日時: 2016/05/19 17:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BjMZCv6Y

鎌倉時代の文化は、今までの貴族の文化とは異なり、中国の宋の影響を受けながらも素朴で力強いものが多く、貴族や武士だけ
ではなく、一部の庶民まで広がりを見せている。

宋風文化の移入

上述した禅や宋学のほかにも宋風文化の移入は多岐にわたった。幕府もまた、京都の朝廷との対抗上、新しく確立した東国政権を宋風文化によって壮麗かつ威厳あるものにしようと意図した。陳和卿などの宋人が多数渡来・移住し、博多には大唐街(唐人町)がつくられた。肥前今津、肥前神埼荘、薩摩坊津、越前敦賀にも宋人の来住があった。日本列島の側からも重源・栄西・俊芿・道元などが渡宋したが、栄西は将軍源実朝に宋より伝来した茶に関する『喫茶養生記』を献上しており[2]、道元とともに渡宋したといわれる加藤景正も大陸の製陶技術の影響を強く受けた。

宋との往来や活発な日宋貿易は、宋銭の大量輸入をもたらし、これにより日本でも本格的な貨幣経済が進展して商業取引がさかんになった。そのことは経済や政治のみならず文化の諸相にも影響をあたえた。律令国家期の大陸文化の移入は外的には華やかさ、強さがあっても、そのおよぶ範囲は限定的であったのに対し、民衆の地位向上の進展が著しい鎌倉時代以降にあっては、外来文化の影響は必ずしも表面的に際だってはいないにもかかわらず、後世の日本人の生活様式に広汎な影響をおよぼしたといえる。

鎌倉時代に興った大衆仏教については先に書いたので省略して、

(絵画)

絵画では、前代につづいて絵巻物がさかんにつくられ、写実的性格の強い人物肖像画があらわれた。絵巻物のなかにも伝記物が登場し、肖像彫刻の隆盛と合わせ、この時代の個人および個性に対する強い関心がうかがえる。

絵巻物

院政期につづいて、絵巻物がさかんにつくられ、全盛期をむかえた。戦乱や武士の生活に題材をとったものがあらわれ、寺社の縁起や高僧の伝記、仏教説話などを題材としたものも多く描かれた。後者は、民衆に教えを広めるためにさかんに制作されたもので、社寺への報恩の意味で奉納されたものも多かった。

合戦絵

>「平治物語絵巻」

「後三年合戦絵巻」雁行の乱れ平治物語絵巻平治の乱を描写した合戦物で鎌倉中期(13世紀)の制作である。紙本著色。藤原信頼・源義朝による「三条殿夜討」の場面がとくに有名。六波羅行幸巻1巻(東京国立博物館所蔵本)は国宝に指定されている。他に静嘉堂文庫本、米国ボストン美術館所蔵本等がある。この時代の大和絵正系に属する作者による合戦物の最高峰と評される。蒙古襲来絵詞元寇のようすを描いたもので、肥後国の武士竹崎季長が子孫に自分の活躍を伝えるために描かせたもの。当時の武士気質と戦闘の実際を伝える貴重な絵画資料ともなっており、土佐長隆の筆と伝わる。私的な事項についてみずから絵巻にして記録した事例は他に類例をみない。三の丸尚蔵館蔵。前九年合戦絵詞『陸奥話記』を先行文献として前九年の役の経緯をあらわしたもので、現在は千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に所蔵されている。重要文化財。後三年合戦絵巻後白河法皇による4巻本と玄恵による6巻本があるが、後者は1347年(貞和3年)に飛騨守惟久によって描かれたものと伝わる[51]。後三年の役において出羽清原氏の内紛に介入した源義家を描く。殺戮の場面が生々しくあまりに残虐なため、宗教的意図の介在も指摘される。東京国立博物館所蔵。重要文化財。


(工芸)

工芸の面では、武士の成長とともに武具の製作がおおいにさかんとなった。陶磁器・漆器などの面でも新傾向がみられる。

染色

伝世された遺品は必ずしも多くないが、東京国立博物館の鎧直垂の錦、東寺の舞楽用具の錦などによって、この時代の力強い作風がうかがうことができる。全体的に伝統的な技術に則っていたが、鎧の威(おどし)や染皮(そめかわ)においては新しい技術・技法の発達がみられた。なかでも、鎌倉時代初期につくられた大山祗神社(愛媛県今治市)の赤糸威は優品として著名である]。この時代の武士は、合戦で目立つ赤色をことのほか好んだ。

甲冑・刀剣

甲冑では京都に住んだ明珍が名高く、鎌倉時代のはじめごろに初代が朝廷より明珍の号を賜り、以後代々この号を称したため、この流れを汲むものを明珍派(または明珍家)と呼んでいる。甲冑はまた鎌倉時代後期になると戦勝祈願のために神社に奉納する慣習が定着したため、いっそう装飾性を強め、鎌倉末期の制作になる青森県八戸市の櫛引八幡宮および奈良市春日大社の赤糸威鎧はいずれも国宝に指定されている。

刀剣は、山城、大和、相模、備前、備中などの諸国の鍛冶がそれぞれに地鉄や刃文に特色のある作品をつくった。山城の来派(らいは)、備前の長船派(おさふねは)・福岡一文字、備中の青江派などは多くの著名刀工を輩出している。個別の刀工としては備前長船の光忠、長光、京都の藤四郎吉光(粟田口吉光)、鎌倉の正宗、景光などが著名で、多くの名品を残した。これら刀剣は、日宋貿易での重要な輸出品でもあった。

陶磁器

尾張国猿投窯では、すでに5世紀頃から須恵器が生産され、平安時代前期(9世紀)には中国の越州窯青磁を範とした施釉陶器が焼造されていた。しかし、平安時代中期以降、律令制の崩壊とともに猿投窯はその製品を支配者層向けから一般庶民層向けの大量生産品へと転換させていった。それに応じ、施釉陶に代わって実用的な無釉の碗皿(山茶碗)が大量生産されるようになるが、こうした動きは12世紀に本格化し、中世全体を通じて展開される。山茶碗窯の分布は、伊勢の亀山周辺、駿河の藤枝周辺、飛騨の高山周辺におよぶ広大なものである。これら猿投窯系の山茶碗窯のなかから常滑焼と渥美焼があらわれ、無釉または自然釉(窯の中で自然に灰が降りかかって釉薬となったもの)の壺、擂鉢、甕などの日常雑器が生産された。

一方、猿投窯の流れをくむ尾張の瀬戸窯では、宋や元の舶来陶磁器の強い影響を受けながら、13世紀から施釉陶器の生産が発展した。瀬戸の施釉陶は、道元とともに入宋した加藤藤四郎景正が、宋の製陶法を学んで帰国したのち創始したものという言い伝えが残るが、こんにちでは、その伝承には裏づけがないとされている。ただし、古瀬戸焼の製品には器形などに宋・元の製品の強い影響がみてとれることも確かである。古瀬戸は中世の日本で唯一の人工的に施釉した陶器として珍重された。器種は中国白磁を模した梅瓶、四耳壺、水注が多くつくられ、経筒などの仏器もあり、前代に比較して器種の増加が著しい。釉薬は当初灰釉が用いられ、後に精製した灰釉で黄色に発色した黄釉、鉄分を混入して飴色に発色した飴釉、天目釉などが用いられた。

12世紀から13世紀にかけては、常滑窯系列から常滑焼、信楽焼、丹波焼、越前焼など全国を流通先とする地方窯(じかたよう)がつぎつぎに生まれ、それに前述の瀬戸焼と須恵器系の備前焼とを加えて、世にいう「六古窯」の名称が後世生まれた。「六古窯」という用語は小山富士夫が昭和30年代に使用し始めたものである。その後の研究の進展により、中世の日本には「六古窯」以外にも多数の窯場が存在したことが判明しているが、中世から今日まで製陶が継承される窯の代表的なものが「六古窯」であるといえる。当時広く流通したものの今日では廃れた地方窯もまた数多い[62]。これら陶器は日本列島に広く流通し、京都・鎌倉をはじめとして、各地の湊や宿などの都市遺跡から出土している。

日本において磁器が製造されるのは近世以降のことで、中世においては青磁・白磁・青白磁などいずれも宋・元および高麗からの輸入品であり、もっぱら上層階級により珍重された。院政期から鎌倉時代の前半では白磁が多くの遺跡より出土するのに対し、鎌倉時代中期以降はとくに龍泉窯(中国浙江省竜泉市)の青磁が重んじられた。なお、古代の土師器の流れを汲む素焼きの土器は「かわらけ」と称されて祭祀を目的として大量に使用された。1回限りの使用ですぐに廃棄されるという独特の使用がなされたため、中世の遺跡からは大量のかわらけが確認される。

漆器・漆製品

漆器は、前代にくらべて器形が端正になり、文様も従来の象徴的な自然描写から写実的な絵画表現へと変化した。また、歌絵、葦手絵にならった意匠も用いられた。技法としては、平蒔絵、高蒔絵も出現した。

鎌倉時代前葉では、畠山記念館所蔵の蝶文手箱、出雲大社秋野蒔絵螺鈿箱、輪王寺蒔絵手箱、中葉では、鶴岡八幡宮籬菊文硯箱、サントリー美術館浮線綾文手箱、後葉では三嶋大社梅文蒔絵櫛笥、大倉集古館の扇散文蒔絵手箱などがある。

なお、この時代の螺鈿技術の進展も著しく、ことに、螺鈿のみで巧妙に絵画的模様を示した永青文庫所蔵の時雨鞍は、その妙技を示す逸品として名高い。

金工

鎌倉時代の金工品として知られているのが、安芸国厳島神社(広島県廿日市市)の密教法具および近江国神照寺(滋賀県長浜市)の透彫金銀鍍華籠である。また、三嶋大社の手箱(梅文蒔絵櫛笥)には数種におよぶ美麗な和鏡が内容品として納められている。

舎利信仰の高まりとともに多くの舎利塔が造られたが、なかでも透かし彫りの美麗さで知られるのが西大寺(奈良市)の金銅透彫舎利塔である。梵鐘には鋳物師物部重光による建長寺鐘、同じく物部国光による円覚寺鐘があり、鎌倉時代の二大梵鐘となっている。それぞれ建長七年(1255年)、正応三年(1290年)の紀年銘が刻されている。


書道

書道では、平安時代に藤原行成が創始した世尊寺流はしだいに公家社会で衰え、かわって宋・元の書風が伝えられたのを受けて鎌倉時代末に伏見天皇の第6皇子で京都青蓮院 の尊円入道親王 が青蓮院流をひらいた。青蓮院流は、和様(世尊寺流)をもとに宋(とくに南宋の張即之)の書風をとり入れたもので、江戸時代には朝廷・幕府・諸藩の公文書に採用され、御家流と称された。庶民間でもひろく普及し、習字の手本などにもなっている。有名な『鷹巣帖』は、同じ持明院統で兄後伏見天皇の孫にあたる後光厳天皇のために、尊円が漢字と仮名で詩歌を一巻に書きついだものである。


古典研究

鎌倉時代に入ると、日本の古典研究(和学)が顧みられるようになった。日本書紀の民間初の注釈書である卜部兼方の『釈日本紀』のほか、鎌倉の僧仙覚が万葉集の諸本を校訂して注釈書『万葉集註釈』(別名『仙覚抄』)を著し、源氏物語の研究では、源光行・源親行父子が『水原抄』を著して注釈を加えた。

歴史研究

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮による序文
執権政治のもとでの合議制への参加や成文の法典などを定めるようになった鎌倉武士たちも、ようやく内外の文化や学問への関心をいだくようになり、幕府の歴史を編年体でしるした歴史書『吾妻鏡』が編纂された。執権北条時頼の命令によって書かれた公的日記であり、全52巻、頼朝挙兵から1266年(文永3年)までを記述している。鎌倉時代の政治史を知る上での根本史料となっている。

鎌倉時代の史論書として名高いのが、天台座主で九条兼実の弟、また『新古今和歌集』の歌人でもあった慈円の『愚管抄』である。転換期の世相を深い思索をもとに記しており、歴史をつらぬく原理をさぐり、「道理」による歴史解釈をこころみた。『愚管抄』は、一貫して慈円自身が歴史の瞬間に我が身を置き、歴史を追体験するかたちで叙述されており、人間の理解やはからいを超越した歴史の不思議が歴史を動かす力ともなっていること、あるいは、歴史が動くときの軸ともなっていることを「道理」の語で表現しようとしている、との指摘がある。そして、公家社会の人びとにはどうしても理解できない「武者ノ世」の出現を、道理のしからしむるところと考え、幕府との協調を説こうとした。この著は、承久の乱の直前に後鳥羽上皇の挙兵を知って記されたもので、慈円はこの挙兵を道理に合わないとしてひとつの思想的立場から批判したのであり、また、現実の政治論としての意味ももっていた。

上述の日本書紀の注釈書『釈日本紀』のほか歴史への関心は仏教史におよび、日本最初の仏教史として臨済宗の僧侶虎関師錬によって『元亨釈書』が著述された。


※ 文化の対象が、貴族の趣味から、現実に即したものとなっています。
メンテ
鎌倉時代考証 3 ( No.162 )
日時: 2016/05/20 14:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Y9Y2S9E2

(文学・文芸)

鎌倉時代の文学は、軍記物の隆盛など武家の成長をあらわす新しい傾向とともに、公家がそれに対抗して伝統に傾斜してその集大成を指向する傾向が強く、すぐれた和歌集があらわれた。また、転変する時代の移りかわりを冷静に受けとめて思索し、それを書きとめた人びともいた。

この時代の文学の特徴に無常観がある。『平家物語』冒頭の「諸行無常」は有名であるが、無常観にもとづいて人生を観照しようという態度ですぐれた随筆や評論があらわれた。鴨長明の随筆『方丈記』が代表的であるが、武士出身の西行が諸国を遍歴して詠んだ歌を集めた『山家集』もその所産といえる。卜部兼好『徒然草』にも無常観はみられるが、長明よりも兼好の方が現世に対する距離が近い。上述した慈円の『愚管抄』も、歴史の移りかわりに無常をみて、その転変の原因などについて思索した著作である。

隠棲した人びとの手になるものに優れた作が多いのも、この時代の特徴である。公家の手になるものの多くが創造性や現実主義・写実性を欠き、文学上の新展開を主導できなかったのに対し、隠者は、より自由な立場にあって、客観的な批判精神によって新興階級たる武士の台頭の意味に一定の認識をなし得たことが、その理由として考えられる。

軍記物

この時代の文学の特色を示すものに軍記物がある。いずれも漢語や仏語、俗語とくに武士ことばをまじえた力強く簡潔な和漢混淆文でつづられた。従来の漢文体の合戦記では表現できない躍動性が発揮され、実際の武士の活躍ぶりが描かれている。

本格的な軍記物のさきがけをなすものとして、保元の乱を題材とする『保元物語』、平治の乱を描いた『平治物語』が知られる。ともに成立年代は不明だが、『平家物語』に先だって成立したと考えられ、前者は鎮西八郎源為朝を、後者は悪源太源義平を主人公とし、両乱を題材としながらも主人公の悲壮な武運を描いている。

『平家物語』は、全編を「盛者必衰」の無常観によりながら平清盛・木曽義仲ら個性的な武士像や運命に翻弄される女たちの悲哀などを和漢混淆文によって描いており、合戦場面のきびきびとした簡潔な文体、女性の哀話における叙情的な和文体など多様な文体が駆使されている。一族の運命をみずからの運命として受容し、いさぎよく最後まで戦い抜いた武士たちを生き生きと描ききったところにこの物語の魅力があり[69]、また、「祇園精舎の鐘の声…」ではじまる韻律的な書き出しは特に有名である。

後続する『源平盛衰記』は『平家物語』読み本系の写本中の一異本と考えられ、異説・異伝も載せるなど一種の史書としての体裁をとっている。他に戦乱に取材したものとしては1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が討幕の兵をあげた承久の乱を描いた『承久記』がある。なお、そのころに著述されたと思われる『平家物語』巻十二「六代被斬」では、「承久に御謀反おこさせ給ひて」という一節がある[注釈 37]。

歴史物語

平安時代の『大鏡』『今鏡』を受けて『水鏡』が著されている。いわゆる「四鏡」の第三にあたるが、叙述の対象となっているのは『大鏡』より前の神武天皇から仁明天皇の治世54代の事績である。筆者は、平氏一門と親しく、頼朝や院ともかかわりをもった公家の中山忠親である。長谷寺に参籠した老女がその夜に出会った修験者の語った不思議な体験を書き記したという体裁を採用している。史実は『扶桑略記』をもとに編年体で叙述されており、仏教思想の影響が強いとされる。

説話文学[編集]

説話文学では、院政期文化のあとをうけて、多くの説話集がつくられた。文芸性豊かで『今昔物語集』の続編にあたる編者不明の『宇治拾遺物語』、承久の乱後、橘成季が古来の伝説を集めた『古今著聞集』はいずれも世俗的興味の多い説話集である[67]。『宇治拾遺物語』は196段中80段余りが『今昔物語集』と重複する。庶民の生活にふれた新鮮でユーモアに満ちた伝説や童話などを多くふくむ。また年少者への教訓書で儒教の影響がみられる『十訓抄』、源顕兼の『古事談』がある。仏教説話では禅僧無住が弘安の役前後に著した『沙石集』、平康頼の『宝物集』、鴨長明著ともいわれる『発心集』、西行の漂泊に仮託された編者不明の『撰集抄』、それに影響を受けた僧慶政作とみられる『閑居友』などがあり、いずれも世人を教化して菩提心をおこさせようという意図をともなっている]。

このなかで『沙石集』は125段の短編説話が仏教原理をまじえて説かれたものであるが、鎌倉に生まれ尾張国木賀崎(名古屋市東区)の長母寺に遁世したという無住自身が諸国を遍歴したため、実際にかれが見聞したものも多く、民間の挿話や伝説、童話のほか連歌の作例などのほ]、なかには当時の僧侶の生活をありのままに記したものもあり、当時の庶民の生活や思想も知られる貴重な歴史資料となっている。

随筆

鴨長明
時代の流れを冷静に受けとめ、それを随筆として書きとめた人びともいた。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」の名文で知られる鴨長明の『方丈記』は、人間も社会も転変してすべてはむなしいと説いた。最晩年に日野山(京都市伏見区)の奥に一丈四方の草庵を営み、「世の不思議」と人とのかかわりを思索するなかで、長明は「方丈」という自らが占める栖という空間の意味を見いだし、そこに自身のすべての思いを託した[70]。また、長明はわびしい生活を送りながらも信仰一途に生きた求道者でもなかった。保元以来度重なる兵乱と諸勢力の消長、福原遷都や数々の飢饉を経験した長明は、すべてを泡沫のごときものとしてあきらめるいっぽう、逃避と否定の生活に安住しようとして安住しきれなかったのであり、その苦悶が彼の諦観を文学的、人間的なものにしているのである。

鎌倉時代末期には説話文学の系譜をひく卜部兼好(兼好法師) があらわれた。その代表作『徒然草』は、「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」の序段でつとに有名で、著者の広い見聞と鋭い観察眼によって人生や世相を批判的にながめた名随筆として知られる。長明と兼好はともに遁世して隠者としての生活をおくり、『方丈記』と『徒然草』は国風文化期の清少納言『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」と称されることがある。

紀行文

散文では、国内政治が二極構造となり、京都と鎌倉の往還がさかんになったことを反映してすぐれた紀行文があらわれた。

そのなかのひとつに、阿仏尼が、藤原為家との実子(冷泉為相)と為家の嫡子二条為氏とのあいだで起こった播磨国細川荘をめぐる所領相論で幕府に訴訟するため鎌倉に赴いた際の紀行文日記『十六夜日記』がある。

『海道記』と『東関紀行』はともに著者不詳の紀行文であり、いずれも和漢混淆文で記された、中世紀行文学の嚆矢となった二作品である[71]。前者は1223年(貞治2年)に京都白河の中山に住む「侘人」が、後者は1242年(仁治3年)に京の東山に在住していた「閑人」がともに鎌倉を旅したようすを紀行文としており、『東関紀行』の作者は『海道記』を読み、それを強く意識し、かつ前提にして書かれているという要素が濃厚である[注釈 39]。『海道記』の作者については、かつては鴨長明説もあったが長明没後の作品であることが明らかであるので、こんにちでは源親行説が有力である。

日記・日記文学

平安末から鎌倉時代初期にかけては、関白九条兼実の日記『玉葉』、内大臣中山忠親の日記『山槐記』などが著名である。ともに中央政界で重要な位置にあった人物の手になるものであり、内乱期の政治史にとって重要な史料となっている。幕府編纂の『吾妻鏡』は北条時頼の命令によるものであり、それ以前の幕府創業期の記述は少なからず誤りをふくんでいるほか、『平家物語』をはじめとする軍記物で記される事実とは多くの点で異なる叙述がなされているため、『玉葉』『山槐記』はこれらを補う文献資料としてよく用いられる。

藤原定家『明月記』は、1180年(治承4年)から1235年(嘉禎元年)まで56年の長きにわたってを漢文によって克明に記した日記であり、子孫にあたる冷泉家に歌道・書道の家の家宝として相伝されたものである。『新古今和歌集』成立期の資料としては他に源家長の『源家長日記』がある。

他に、『岡屋関白記』、『勘仲記』、『三長記』、『花園天皇宸記』、『伏見天皇宸記』、『平戸記』、『民経記』などの日記・日記文学があらわれた。女性の作品には、宮仕えの記録を主とする『建春門院中納言日記(たまきはる)』、『弁内侍日記』、『中務内侍日記』や、阿仏尼『十六夜日記』があり、後深草院二条(あかこ)の『とはずがたり』は赤裸々な愛欲生活と出家後の旅の描写に特徴があり、論者によっては中世最高の自伝文学との評価がある。発見が遅く、その意味では忘れられた名作と言ってよい。

評論

日本最古の物語評論書『無名草子』が1201年(建仁元年)ころに成立している。筆者は藤原俊成女ではないかとされている。『源氏物語』など28編の物語や歌集・歌人などを批評しており、文学史的意義が高い。『源氏物語』を最高傑作とし、上述した擬古物語の評価は低い。散逸した物語を知る資料にもなっている。小野小町や清少納言など女性についても論評している。

慈円『愚管抄』は、歴史を「道理」と末法思想の観点から眺め、独特の歴史哲学を展開した歴史評論書である。


和歌

鎌倉時代初期の公家社会では、ことに和歌がさかんであった。歌人としては藤原定家が名高く、平安時代の伝統に学んで、技巧的な表現をこらしながら、妖艶で情趣豊かな歌をよんでおり、また、観念的な美の境地を生み出そうとした。こうした新しい歌風と歌論は、当時の歌壇の中心となり、後鳥羽上皇を中心とする貴族たちのあいだに広く受け入れられて多くのすぐれた歌人を生んだ。

勅撰集

1205年(元久2年)後鳥羽上皇の命で、『新古今和歌集』が編纂された。撰者は藤原定家と藤原家隆、源通具、藤原有家、藤原雅経、寂蓮の6人である。後鳥羽院自身も撰歌の配列などに大きく関与した[注釈 40]。八代集の最後にあたり、当時の歌人の歌を中心に約2,000首がおさめられ、勅撰和歌集でも傑出したものの一つとされ、優美で技巧的な歌風は、のちに新古今調とよばれた。前代の『千載和歌集』を継承し、さらに感覚的・絵画的ないし色彩的に追究した作風が多い[68]。いっぽうでは、『古今和歌集』へのあこがれと古代王朝国家の盛時を回顧する指向が強く、従来の和歌の伝統を集大成したと評される反面、新鮮さではもっぱら掛詞、縁語、畳語など技巧の点に集中したとも評価される。この時代のおもな歌人には、後鳥羽院、慈円、藤原良経、藤原俊成、式子内親王、藤原定家、藤原家隆、寂蓮、藤原俊成女、


百人一首の成立

百人一首は、1235年(嘉禎元年)、宇都宮入道蓮生(宇都宮頼綱)が京都嵯峨野小倉山に建設した中院山荘の障子(現在の襖)に貼る色紙形のために、宇都宮蓮生より色紙染筆の依頼を受けた藤原定家が、上代の天智天皇から当代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが原型といわれる。なお、蓮生は定家にとって子息藤原為家の岳父にあたる。カルタ遊びとなったのは後代のことであるが[注釈 43]、定家著『近代秀歌』とは若干の異同があり、これについては、公式の著述には鎌倉幕府の権力をはばかったものの私的な染筆に際しては定家はみずからの美学に忠実たろうとしたのではないかという見解がある[72]。百人一首、『近代秀歌』ともに古来、王朝和歌の入門として人びとに親しまれてきた。

連歌

この時代の後期になるにつれ、和歌は衰えていったが、かわって和歌の余技から発生した連歌が、武士や僧侶、庶民のなかで流行した。長連歌(鎖連歌)は平安時代にさかのぼり、院政期に流行して、鎌倉時代には連歌の会が催されるとともに連歌の規則(式目)が整えられていった[注釈 46]。後鳥羽上皇の時代には平安以来の機知を中心にすえた滑稽な無心連歌と和歌的情趣を重視する有心連歌とに区分された。しだいに有心連歌が優勢となっていくが、「無心」であること(情趣にはずれて滑稽であること)は和歌においては低評価にとどまるものの、無心連歌・俳諧連歌[注釈 47] においては文芸としての連歌の本質であるとして積極的評価がなされた。


※ このように貴族文化にはなかったものが次から次へと興っていて現代に続いている。
メンテ
鎌倉時代考証 4 ( No.163 )
日時: 2016/05/20 14:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Y9Y2S9E2

(芸能と芸道)

今様と朗詠

芸能では、前代に引き続いて今様や朗詠が愛好された。水辺にあって小舟で客を求めた遊女や陸上に拠点を設けた傀儡(傀儡子)などの最も得意とした芸であり、当初は巫女の間でさかんとなり、のちに貴紳も加わった。

早歌と和讃

今様を受けて鎌倉武士たちに愛唱されたのが、早歌(宴曲)と呼ばれる長編歌謡である。早歌は、『源氏物語』や『和漢朗詠集』など日本の古典や仏典・漢籍を出典とする歌謡で七五調を基本としたもので、1296年(永仁4年)以前に成立した『宴曲集』は歌謡作者明空の編纂による歌謡集である。

仏教賛歌である和讃もさかんにつくられた。浄土真宗系の『浄土和讃』など「三帖和讃」や時宗系の:『別願讃』、『浄業和讃』があり、その影響は旧仏教系の『高僧讃』・『神祇讃』などにおよんだ。

語りものと唱導・説経

古代にあっては音声による言語的伝達の営みを意味していた「語り」は、鎌倉時代以降は節回しをもった声と楽器が一体化したものをも含むようになった。これが「語りもの」であり、代表的なものに『平家物語』を琵琶にあわせて語る平曲がある。鎌倉時代後半には平曲が琵琶法師全体にひろまり、城一(じょういち)・城玄(じょうげん)・如一(にょいち)などによって当道座と称する座が組織された。

唱導は、仏法を説いて衆生を導く語りの芸能で、平治の乱のとき惨殺された信西の子で天台宗の僧澄憲は、その名手として知られた。澄憲の子の聖覚も唱導の名人で、聖覚が安居院に住したことから彼の家系は安居院流として唱導の本宗の地位をしめた[3]。13世紀末葉には『普通唱導集』が編まれた。

説経は、鎌倉期から室町期にかけて唱導から発生した芸能で、やはり仏教の経文や教義を説いたが、これにもやがて節(メロディ)がつけられて後世説経節が生まれている。

猿楽と田楽

院政期に大流行した滑稽な舞踊である猿楽、元来は農耕神事芸であった田楽は、鎌倉時代以降、演劇的な要素が加わって、それぞれ猿楽能、田楽能となった。田楽や延年舞は、法師や稚児などによって演じられる法楽(神仏を楽しませる芸能)であったが、宇治・白河など京都の近在では勧進田楽もさかんで、専業者が複数の座を組織して演技をきそうこともあった。

田楽、猿楽のほか、神楽や舞楽、一物(ひとつもの)、王舞(おうのまい)、細男、獅子、呪師、八乙女などは渡物(わたりもの)として神社の祭礼の際に奉納された。
田楽は室町時代に入り、能、狂言のを生み出した。

遊芸民と白拍子

白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)
傀儡子には男性も女性もあり、操り人形などもおこなったが、女性はときに売春に身をおとすこともあった[3]。ただし、1249年(建長元年)、駿河国宇都谷郷今宿の傀儡が久遠寿量院の雑掌を相手に訴訟し、幕府の法廷において勝訴していることから、少なくとも中世前期の遊女・傀儡は供御人や神人と同じ立場であり、必ずしも後代のように卑賤視の対象ではなかったことが知られる。これは、白拍子も同様であった[75]。一方、この訴訟は、漂泊の遊芸人であった傀儡が定着し、田地の耕作をおこなうこともあったことを示している。

鎌倉時代には、「漂泊の世紀」にふさわしく、多種多様な旅芸人の活躍がみられた。鎌倉幕府成立を祝賀し、その存続を祈念する行事として位置づけられた1193年(建久4年)の富士の巻狩においては、有名な曾我兄弟の仇討ちがおこっているが、この経過は「大磯の虎」とみずから称した女芸人(虎御前)によって語り広められたものである[76]。社寺や道々には、猿に芸をさせる猿引、紅白の衣装をつけて舞う曲舞、古い散楽の系統をひく呪師(のろんじ)、陰陽師を流れをひく唱聞師、風流(ふりゅう)など遊芸の人びとが集まった。

遊女と傀儡は一括して呼称されることも多かったが、白拍子は両者から区別され、水干に袴姿の男装で鼓を伴奏に謡い舞うものである。元来は仏教の声明道における用語で、大寺院の延年舞などの際に童僧が素声(しらごえ)すなわち日常に近い音声で謡ったものである。権力者との関係も知られ、平清盛と祇王・仏御前、源義経と静御前、後鳥羽上皇と亀菊などが知られる。源頼家と微妙のあいだにも悲恋があった。白拍子は、当初は都で流行し、やがて鎌倉や地方へと広がっていった。

(芸道)

蹴鞠
芸道としては、上述した騎射三物や競馬(くらべうま)、相撲、十列(とおれつ)などがあり、これらは多く神事渡物として神輿・神木や御幣、また、神楽など上述した諸芸能とともに神社祭礼の際に奉納された。

この時代、芸道として規則が整備されたものに蹴鞠がある。蹴鞠はシカの皮でできた鞠を一定の高度まで蹴り上げてその回数をたがいに競うもので、遊戯的な要素を多分に含みながらも元来は儀式の一環としておこなわれるものであった。10世紀に貴族のあいだで流行したが、後白河法皇の時代にあらわれた藤原頼輔が蹴鞠の名人として知られ、「蹴鞠長」の異名をとった。頼補の孫にあたる藤原宗長・藤原雅経の兄弟は、鎌倉期にあってそれぞれ難波家・飛鳥井家の祖となって蹴鞠の口伝・故実を子孫に伝承した。なお、雅経は、幕府の重鎮大江広元の女婿にあたることから将軍源実朝とも親しく、当時すでに世評高かった50代の鴨長明を実朝に引き合わせるのに功績のあった人物でもある[78]。鎌倉時代にはいると、公家や神官のみならず天皇や将軍、武家や民衆のあいだにも蹴鞠に興じる人が広まった。

(服飾)

直垂(京都市の時代祭より)
公家の直衣・狩衣に対し、武士の平服としては直垂が知られるが、しだいに正装として認められるようになり、室町時代には武家の礼服となった。また、上級武士の正装としては水干があったものの、それも含めて武士の服飾は全体に庶民的なものであった。水干ももとは公家に雇われた庶民の服装であった。源頼朝の家臣岡崎義実が頼朝より水干を拝領した際、上総広常は義実のような老齢の家臣ではなく自分こそが水干を賜るべきであると主張しているが、これは、平素の武士の衣服がいかに質素なものであるかを物語る逸話であるといえる[79]。また、武士が狩りをするときの装束としては狩装束があった。

院政期から鎌倉時代前期にかけて公家社会の女性のあいだで小袖がたいへん流行した。また、この時代、身分ある女性が外出する際には、被衣(かずき)という一種の小袖を頭からかぶって頭部を隠した。より一般的には、市女笠のまわりに「むしの垂衣」という薄い布を垂らすことによって顔を隠して外出することが多かった。



※ この様に、鎌倉時代は現代に続く我が国の文化の起点としての要素が花開いた時代であった。
当時の武士階級(一般人)が政権を取ったということが庶民にとって、どのように思われていたかが解ります。
その後の紆余曲折はあっても、一旦庶民の間に広がったこの気持ちは衰退することなく、日本の文化を作っていきます。

メンテ
大和魂 ( No.164 )
日時: 2016/05/24 23:55
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dlamdXdw

鎌倉時代の様相を俯瞰してみました。

日本民族は「和」の民族などと言う言葉で纏めてはいけない。
なるほど、古代日本は、温暖で多民族の侵略を受けない豊かな国土で「和」の精神を重んじ民族としては平穏に暮らしていたと思います。
大和朝廷は、そのようない時代の帰結で政治的に初めて全国統一された時代でした。
日本の政治形態は、それまでに影響を受けていた中国などをシステムを真似、朝廷を中心とする貴族社会として発展していきました。

当時の文化は、貴族の文化であり庶民は生きるために必死で、文化などと言う発送は持たなかったでしょう。
ところが武士階級のクーデターにより、喜速以外の階層が政権を担うことができ、庶民は政治、文化をより身近なものに思えました。
もっとも、生産の面でも安定してきて、文化のようなものにも庶民が目を向けられる時代でもありました。

その鎌倉時代に、見てきたように、大衆武侠をはじめ、文学、工芸、芸能など、あらゆる分野で庶民の活動が始まり。それも貴族の趣味を満たすと言うよりも、庶民の思いを対象にしたものでした。
現代に続く日本の文化が芽吹きだした時代であったのです。

日本民族の心は、単に「和」の精神ではなく、このような民族としての気概、意気み、生き様があってこそ、開花した文化であると思います。

その後の歴史において、こうした日本民族の生き様は、時代の権力の様相に準じて紆余曲折するものがありましたが、根の深いところでは脈々と生き続けてきました。

日本民族の心を語るとき、鎌倉時代の民族の生き様を忘れてはいけないと思います。
民族の心と言っても抽象的で、それが何かと簡単に説明できるものではありません。


イギリスには、ジョンブル魂と言う言葉があります、 一言で言えば、不屈の精神のことのようです。
ドイツにもゲルマン魂と言う言葉があり、意味はジョンブル魂と同じようなもののようです。
これに対してアメリカのフロンティアスピリット(開拓者魂)は、より具体的に表現しています。

(フロンティアスピリット)
特に米国の西部辺境における開拓者たちの精神。剛健・忍耐・創意、また闘争性・現実性・利己性などを特色とする。
発端は西部の開拓ですが、アメリカ人の気質を現す言葉となっています。

さて、このスレッドの表題の「大和魂」ですが、
一般的な概念は、ジョンブル魂やゲルマン魂と同じように、不屈の精神、勇敢さなどを現すものとされています。
それも純粋に勇敢であればよいのですが、明治時代以降の影響で、天皇の為に勇敢であることが「大和魂」様に言われています。
天皇ではなく、庶民の為に命をかけるような「大和魂」であれば問題はないのですが。

さらに言いたいのは「大和魂」の中に、もっと深遠な意味を持たせたく思います。
民族の気概、生き様の源のような力、精神を「大和魂」としたいのです。

「大和魂」と言う言葉を初めて使ったとされる紫式部も「大和魂」と言う意味を、当時影響がつよかった「漢様」の考えに対して日本独自の精神を強調して、そのやりたたで政に当たるように貴族の青年に教育した言葉です。

ここでは、統治者の持つべき精神として取り上げられているのです。
別の話をします。

歴史学舎アーノルド・トインビーの言葉ですが、文明が興きる時の状況を予想する中で、集団が動き出すとき、だらかの先導から始まると言っています。
古代の人間は、情報などはなく、周囲の人間の中の様子を見ていて、自分や、仲間にとって好ましい動きをするものがいれば、それを習うようにして、集団全体が発展してきたと言います。

平等が使命感の様に言われている現代ですが、人間にもはっきりとした能力の差があります。
先見性に優れたものがいて、それに倣う人間がいて、初めて社会は動く、文明は進展すると言います。
もちろん、文明の発祥における一度の問題ではなく、文明も時代時代の困難に対応して、先見者により、それを切り抜けることが連綿と続くと言うものです。

トインビーの例を出したのは、文明と言うような大げさな問題ではなく、社会を進展させるには牽引車となる先見者が必要であり、常に存在していると言う事を言いたいのです。

その先見者が政治家であるとは言いません。
政治家でも庶民の中でも、民族を引っ張って行こうとする、その危害を持った人間を先見者言いたい。
また庶民を引っ張ると言っても、それは軍事的、政治的なものと限りません。

文化、芸術の面でも先見者はいるでしょう。
私は、そう言う先見者たる人間がもっているはずの心を「大和魂」と言いたいのです。
このような面から言えば、鎌倉時代は「大和魂」が彷彿とされる時代であったと言えましょう。

ゲルマン魂、ジョンブル魂の事を不屈の精神と呼ぶよりも「大和魂」を以上のような意味で捉え、日本民族のバックボーンとしたいと思います。

要するに、新しいものを捉える能力、時代に必要なものを考える能力、勇気をもって正義にあたって行く能力・・・
具体的に誰が先見者になるか知らないが、そう言う能力を持った先見者者を生み出す社会の力、それが「大和魂」と言っても酔うのです。

源氏物語で紫式部が、当時の「漢様」に対して「大和」を強調したように、現代社会では「西欧風に対して「大和風」を主張する気持ちなど全くない不甲斐ない現状を悲観しています。

それは「大和魂」と言う概念がないからです。
あっても「大和魂」は、戦前の特攻精神の様にしか思っていません。

明治以来の西欧化で目覚しい発展をしてきたことは事実ですが、あまりにも日本らしいものを捨て去ってきました。
否、実際に無くなったとは決して言いません。
日本民速の心は連綿と続いているのですが、それを自覚していないのです。

それに気が付けば、現実の問題に対しても、もう少し別の思案もできるのですが。
まずは、日本民族とは、どのような民族であるのか。
「大和魂」とは、何を言っているのか。

それ反芻することからはじめようではありませんか。

既に結論じみた事を言いましたが「大和魂」を、より理解する為に、このあと明治時代まで検証を続けていきたいと思います。
メンテ
大和魂 2 ( No.165 )
日時: 2016/05/25 13:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TfgbMkNk

次へ進む前に、一般的に言われている「大和魂」論の一部を紹介します。

http://www11.plala.or.jp/yamamotokenta/column.files/shinto.files/62.html

「大和魂」というと、神風特攻隊の精神に結び付けられてしまいがちですが、 元々の大和魂は平安時代の「もののあわれ」を歌った四季を愛する女心で あったようです。

四季折々の大自然を受けとめ、明るく、清清しく自然と調和している生き方 を示し、寛容で大いなる和(調和)の精神が「大和魂」だったのです。

心穏やかな和の心で相手を上下関係で見ることなく、お互いに和するにはどう すればいいかを感じ合い、そして支え合って生きていくための学びあう精神で もあったようです。

そして、漢学に代表される外来の知識人的な才芸に対して、日本古来から伝わる 伝統、生活の中の活きた知恵、教養のすばらしさを強調したものでもありました。


平安以後、「大和魂」は死語となった言葉でしたが、本居宣長によって、自然で 清浄な精神性(生き様が美しいとされる心性)という思想から国粋主義に用いら れていったようです。

古来より日本人は桜を愛でており、満開になるやいなやさっと散る桜花は、 絶好の<潔さ>の象徴であり、日本人はこの<潔さ>を美徳としていました。

このいさぎよく散る桜を尊ぶ精神は、武士道にもあったのですが、その精神が 明治以降の皇国日本への愛国心、忠誠心を第一とすることに受け継がれ、その 心を「大和魂」として解釈されるようになっていったのではないかと思います。

吉田松陰の
「かくすれば かくなるものと知りながら 已むにやまれぬ 大和魂」
の心意気は、
「自分に危険が及ぶことは分かっていてもどうしてもそうせざるを得なかった」
という義勇心からくるものですが、それだけの志と覚悟があったからこそ、松陰 の大和魂は、心ある志士たちに受け継がれ、永遠のものとなったのでしょう。

このように命をかけて何かを成し遂げる気迫は、その誠意が天に通じるものです。

リスクマネージメントはもちろん重要ですが、危険を犯そうとも志を貫く気迫も 時には必要であって、周りから何と言われようが、やると決めたらやる!という ある意味、阿呆になってこそ、志が成就していくと思うのです。


http://yamato81.hatenablog.jp/entry/2015/03/15/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82%E3%81%A8%E3%81%AF

大和魂の語の初出は、源氏物語とされていおります。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあったのです。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて政治や生活の場面で発揮することなのです。源氏物語が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代でございますが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられます。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられました。

大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されていったのです。 このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなったのです。明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていたのです。日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになりました。戦後はGHQの占領政策により、国粋主義的な思想や、軍国主義に使われた大和魂という語の使用が忌避されるようになり、広く使われることが避けられていったのです。しかし今後の本来の日本を取り戻すことを目指す場合、必ず国体と民族のアイデンティティとして復活させることが必要になると考えます。

http://www.tatsu.ne.jp/yamato/kokoro.html

日本の心、それは大和 

私たち日本人は戦後、自分たちの心を見失ってしまいました。
それが今日のさまざまな、本当にさまざまな、個人から社会レベルに至るまでの問題を生んできました。

それでは一体、私たち日本人の心とは何だったのでしょうか。
和洋折衷、和式、和風といわれるように、「和」は日本そのものを指していう言葉です。
しかし、それと同時に「和」は日本の心を表していたのです。
つまり和の精神です。
平和の和、調和の和。「和を以て貴しとなす」の和。

しかし、多くの人はここで一つの誤解をしています。
和とはまるで自分の個性を抑えて、控えめにすることで、全体を丸く収めて、互いに関わり合うことだと考えていることです。しかし、これは消極的な和であって、和の本義ではありません。

大きく和すること。
つまり「大和」(やまと)。
これこそが和の神髄なのです。

大きく和するとは、一人一人がまず自らの個性を最大限に発揮して、自立することです。
つまり一人一人が大きな存在となること、その上でそうした者達が互いに和すること、それが大和です。
決して自分の個性を抑えて、歯車のように自らの存在を小さく押し殺すものではありません。

しかし、自らを最大限に発揮するということは、同時に自己主張をして、我を張ることにも通じます。

そして世界の民族紛争、宗教戦争などは、この互いの我の張り合いによるものです。

それではどうすれば、大きく和することが出来るのかといえば、それが「愛」の力なのです。

しかし、それぞれに違った個性の者同士が和するためには、生半可な愛では到底叶いません。
強い愛、つまり強い精神力に裏打ちされた愛が必要です。

つまり、大和とは、強い精神力に裏打ちされた愛によって、大きく和するという、
極めて積極的で前向きな力強い精神のことなのです。
それが日本人の本来の心、「大和魂」の真意です。

そして大和とは大自然そのもの、宇宙そのもののことです。
なぜなら「あの栄光栄華を極めたソロモンでさえ、この野に咲く一輪の花ほどにも着飾っていなかった」という、イエス・キリストの言葉にもあるように、この自然界のすべての存在は、自らの個性を最大限にアピールしているにも関わらず、見事に調和しているからです。
そしてこのことが成されるために、この宇宙は目に見えない、強く大きな愛の力で貫かれているのです。

だから、私たちの先祖たちはこの自然や宇宙から、大和の精神を学ぼうとしてきたのです。
それが、神ながらの道、即ち、神道です。そして、これが日本の心そのものであり、大和魂なのです。

そして、数学のゼロを発見したのがインド人ではあっても、それがインド人のためだけの発見ではなかったように、またイエスの尊い教えがクリスチャンたちのためだけではなく、全人類にとっての尊い教えであるように、日本が生んだこの大和の精神は一つの民族や宗教のためだけのものではなく、これからの時代の指針として、世界に指し示すべき普遍性を持った思想なのです。

しかし、それを私たち日本人自身が失ったがために、その精神性は戦後五十年のうちに見る影もなく、転がり墜ちるように崩れていってしまったのです。

日本の心、それは大和。

もう一度そのことを思い出さなければいけない時期に、私たちは来ているのではないでしょうか。


(引用終わり)

如何でしょうか。「大和魂」とは、単純に蛮勇を示すことではないことは解ると思います。
その解釈も人によってそれぞれであることも解るでしょう。

私が言いたい「大和魂」とは、これらの方とも少し変わります。
私は「和」の精神は「大和こころ」。
これは民族の生まれながらの性質の様に考えています。
「大和魂」は、物事を実践する時の気概、性質と言うものに対して「性格」と思います。
「性格」とは、人間が生きていくに従い身に付けるものです。
「和」の心に従い、実社会を導く原動力を大和魂と考えたいと思っています。
しかしながら、そのような大層な概念を一般庶民に求めるのは理想的過ぎます。
ですので、庶民の中から出てくる先見者に「大和魂」を期待します。
庶民の中の先見者と言っても、それは英雄を指すのではありません。
あらゆる分野で、必要な進化、変化を感受し、その方向を示してくれる人たちの事を言います。
そのような人たちが多く出て、社会は変わっていくと思います。
鎌倉時代に、それを見ています。
「大和魂」とは、そのように思います。
日本人は鎌倉時代の生き様を理解することです。
もちろん、現代社会に置いても、分野によっては果敢に挑戦を続けている人がいます。
ですが我々の身近な問題について、我々は何かを忘れてはいないでしょうか。
なかなか具体的に示し難い概念ですが、とりあえずは大雑把な概念として見ていただけば幸いです。


それでは次に移ります。
メンテ
大和を詠んだ和歌解析 ( No.166 )
日時: 2016/07/26 15:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:y9DXcgvI

柿本人麻呂
■敷島の 大和の国は 言霊の 幸はふ国ぞ 真幸くありこそ
本居宣長
■敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花

吉田松陰
■かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
■身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめおかまし大和魂

明治天皇の御歌
■あさなあさ なみおやの神に いのるかな わが国民を まもりたまへと
■開くべき 道はひらきて かみつ代の 國の姿を 忘れざらなむ
■よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

作者不明
■末の世の 末の末まで 我が國は よろずの國に すぐれたる國
■なにごとの おわしますのは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる
■国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ
■わがくには 神のすゑなり 神まつる 昔のてぶり わするなよゆめ

大西瀧治郎中将
■くにのため いのち捧げし ますらおの いさを忘るな 時うつれども

緒方 襄命(桜花 特別攻撃隊)
■死するとも なほ死するとも 我が魂よ 永久にとどまり 御国まもらせ

弓野 弦命(海軍水兵長)
■身はたとへ 千尋の海に 散り果つも 九段の社に さくぞ嬉しき

神楽歌
■心だに 誠の道に 叶いなば 祈らずとても 神は護らん

上は「大和」ないし「大和魂」を想定して読まれた歌です。
最初の柿本人麻呂以降、その訴えるところが変わってきています。

ついでに紹介しておきますと、

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
     三笠の山に 出(い)でし月かも

これは留学生として唐へ渡ったが、望郷の思いも虚しく異国で没した阿倍仲麻呂の歌です。

「大和」とは、そう言う心の故郷であり、平穏な社会を示す概念である。

そのようなものを冒頭の和歌の様に、勝手に恣意的に使うものではない。
右翼、皇国思想の生みの親。本居宣長の歌を検証してみよう。

>敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花

直接の意味は、大和心を単に美しい自然と捉えたものであるが、
「大和魂」に繋がる「大和心」を、そのように捉えるのは欺瞞も良いところ。

美し自然を強調するだけで、社会は維持できないのである。
「大和魂」とは、鑑賞するだけの無味無臭の存在ではないのである。

それを、このように押し付けることにより、将来、皇国の為に無条件で魂を捧げる事が美しいことであると言う観念に結びつけているのである。

その結果が、後に続く、読むも汚らわし和歌となって現れている。
本居宣長以来「大和魂」はこのように解釈される様になってきた。

本居宣長は、日本民族を誤った方向に導いた、元凶である。
故に現代日本人が行くべき道を見失っているとも言える。

「大和魂」とは何であろう。

否!

何であるべきであろう。


メンテ
大和魂<形而上学的解説を試みる ( No.167 )
日時: 2016/08/02 15:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:lkRUz7H.

>「大和魂」とは何であろう。

最近、一つの概念を知らされることになった。
別スレッドの寄稿者「倭人の叫び」氏のハンドルネームである。

その方向で議論に及んだが、当人は私が期待した対応はされなかった。
しかしながら、彼が訴えておられることは、まさに、私が思うところの、こころの問題である。

観点が視点が違うだけで、なんに対して義憤を感じておられるかは、私と変わりはないのである。
まさに、その言葉、

「倭人の叫び」は私が求める「大和魂」に近いもの。
同じような言葉に
アメリカの「開拓者魂」
イギリスの「ジョンブル魂」
ドイツの「ゲルマン魂」があるが

それが熱狂的に作用した場合は、碌なことは起きてはいないのも事実である。
日本でも「大和魂」と言う言葉が国民の間に彷彿した時代、それは権力者側による、恣意的で歪な概念にすり替えられていたが、大きな不幸をもたらせた。

しかしながら、同時に民族が持っている底力は、そうした共通の思いもなければ発揮されることもない。
特に現代社会は、民主主義の影響で、猫も杓子も自分の権利の主張に走り、天国のような自由社会が実現できると勘違いしている。

人間の我欲は神様さえも制御できないものであり、キリスト教の想定は、もともと人間は天国に住んでいたのであるが、自分勝手な行動で天国から追い出されたとなっている。

逆に言えば、人間から見れば、天国こそ地獄であり、我欲を持った人間社会こそ理想の世界であるとも言える。
だから、人間の我欲は否定しないが、全てを放任していては弱肉強食の世界となり、理想社会を作ることも出来ない。
そのために統治機構があり政治がある。

行き過ぎた民主主義と資本主義のシステムは、まさにこれに関することであり、徐々に弱肉強食のルールなき世界へ逆戻りしようとしているのである。

限りなき自由、平等を求める心、限りなく富裕を求める心を自らコントロールする精神を身につけなけらばならない。
それは単純な倫理道徳では決してない。

人間の向上心も保たねけらばならない。
向上心をなくした人間は、それはそれで、別の意味で地獄の社会へ向かうことになり。
人間社会に必要な概念とは何か!


言葉では、簡単な概念ではあるが、これが難しい。

(芥川竜之介の蜘蛛の糸、あらすじ)

釈迦はある日の朝、極楽[9]を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(&#29325;陀多)という男を見つけた。カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだ。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。

暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れるだろう。カンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。下りろ。」と喚いた。すると蜘蛛の糸がカンダタの所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちてしまった。

無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

(紹介終わり)


芥川龍之介が、私が言いたいような概念を想定していたかは、とても解らない。
だが、人間社会に必要な精神の片隅には、蜘蛛の糸の様な心情がなければならないのではなかろうか。

それが民族毎に言われる、「開拓者魂」であり「ジョンブル魂」「ゲルマン魂」そうして「大和魂」ではなかろうか。
それが正常に機能している状態こそ、その社会の発展であり、平和で安定した社会と言える。

芥川竜之介は、一個人について語っているが、それを人類と読み替えれば如何なものであろう。
そうして、蜘蛛の糸とは決して天国へ行くためのものではなく、人間社会を維持するための方策と考えれば良いのではないかと考える。

それほど人間社会の有り様は難しい。
私の言っていることも難しい。

だが、それが完全でなくとも、そうした方向も視野に入れておかねばならない。
日本人は本当の「大和魂」に少しは心を寄せるべきなのである。
そう言う概念を、持つべきなのである。

今回は、形而上学に走り、ちょっと理解していただけないかな。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.168 )
日時: 2016/12/25 21:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KNWgpDp2

UP
メンテ

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