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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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大和魂 1 ( No.1 )
日時: 2010/10/14 11:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

「大和魂」と言いますと戦前の思想が先入観としてあり、誤解を生むこともあるでしょう。
そうではなく「日本民族特有の心」と解してそれを探ってみたいと思います。
なお、それは今までの日本の心を探ると言うもので、これからそうあるべきと決め付けるものではありません。

この話題を続けるに際して、本当は史実、資料を積み重ねて検証するのが良いのですが私には其処までの能力はありません。

殆どが、私の思いを代弁する他の人の言葉を借りることになりますが、悪しからず。


まずは何故「大和」なのかであります。
早速、ウィキペディアの御世話になり、

「大和民族とは、日本列島に住んできた人類で構成される民族で、そこでは縄文時代から日本列島に住んできた人々(いわゆる縄文人)と、縄文末期からユーラシア大陸から渡来した人々(いわゆる弥生人)が中心となって形成したヤマト王権が、日本列島各地に散在していた様々な人的集団を勢力下に置き、同化したことにより大和民族が成立していったと考えられている(しかし大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない)。現在では日本民族(にほんみんぞく)と表されるほうが多い。戦前は天孫民族とも称された。」

ここに出てくるヤマト王権の成立過程については「古事記」「日本書紀」などの内容を繰り返すことなく省略させていただきます。
また地名としての「大和」については下記の記述によるものとします。

「大和(やまと)は、もともとは、現在の奈良県桜井市にある三輪山の西麓・南麓から西方に拡がる地域をさしたが、757年(天平宝字元)橘奈良麻呂の変の直後に「大倭国」から「大和国」と改められたと考えられている。後に使用範囲が拡がって、現在の奈良県や日本全体を指すようになった。それまでは、「倭」や「大倭」が用いられていた。」

さらに、我々が良く知る伝説の英雄にもヤマトが使われています。

「日本武尊(やまとたけるのみこと、『古事記』では倭建命と表記)こと小碓命(おうすのみこと)、またの名を日本童男(やまとおぐな)は、景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる人物。日本神話では英雄として登場する。記紀の記述によれば、2世紀頃に存在したとされる。実際には、4世紀から 6、7世紀頃の複数の大和の英雄を具現化した架空の人物(津田左右吉説)という見方もある。」

このように「大和」とは「日本」を指すことがあり、地域的にも日本全体を指すこともあるようです。
また「倭」と言う言葉も出てきました、いづれも今後度々出てくる共通の概念です。



「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」

奈良時代(700年ころ)唐へ留学生として派遣されていた安部仲麻呂が故郷をしのんで謳ったものです。
ついに帰朝できなかった彼が、思いを馳せたのが大和の風情でありました。

今日は、これまでとします。
メンテ
大和魂 2 ( No.2 )
日時: 2010/10/14 11:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『少女』帖とされている。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれ、和魂漢才と言うこともあった。漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することが大和魂とされた。

『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられていた。

具体的に下記のような意味合いが示されています。

1 世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。

2 特に各種の専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立ててゆくための才能や手腕。

3 外国(中国)の文化や文明を享受するうえで、それと対になるべき(日本人の)常識的・日本的な対応能力。やまとごころ。

4 知的な論理や倫理ではなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力・感受性。もののあはれ。

5複数の女性を同時に愛してしかもすべてを幸福にしうる、艶福とそれを可能にしうる恋愛生活での調整能力。いろごのみ。

6 日本民族固有(のものと考えられていた)勇敢で、潔く、特に主君・天皇に対して忠義な気性・精神性・心ばえ。(近世国学以来の新解釈)

イメージからは随分と離れているようですが、これが原点のようです。
逆に考えれば上記のような風情が当時の日本にはあったと言うことになります。
紫式部が何を持って「大和魂」と言いたかったのか、もしかして 5番目の複数の女性を同時に愛する能力のことなのでしょうか。
それは後日「少女(おとめ)」の巻を手に入れてからの検証にしたいと思います。

いづれにしても、これは平安朝の貴族社会の様相です。
それまでに、我が国では聖徳太子が言われている「和を持って尊しとする」についても、怨霊伝説などにも言及しなければなりません。

それは、また次回にします。
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大和魂 3 ( No.3 )
日時: 2010/10/14 11:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

聖徳太子の「和」と言う言葉が出てきました。
日本民族を語るとき、いつでも出てくるのが「和」と言う言葉です。
はじめに、それを検証することにします。

以下は下記のサイトからの引用です、「日本の心」について詳しく検証されています。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm

「和」と言えば、誰でも知っているのは、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」。この理念は、日本人のものの考え方をよく表しています。しかし、「和」の精神は聖徳太子の独創ではなく、古くから日本の国に受け継がれてきたものです。

「和」とは、もともと「わ」という音の日本語です。その「わ」にシナの漢字の「和」があてられたわけです。
作家の井沢元彦さんによると、本来「わ」には「環」や「輪」の意味しかなく、環濠集落(堀をめぐらした集落)を表す言葉でした。それが、集団や仲間の意味を表す言葉となり、シナ人に、自国の意味で「わ」と言ったところ、「倭」(背が小さい、体が曲がっているなどを意味)という文字を当てられました。
その後、「わ」は、集団的な協調の精神やアイデンティティをも意味するようにもなり、日本側の要望により、国名の文字を「倭」から「和」に代えてもらったのだろう、と井沢さんは考えています。(1)

さて、かつて日本列島に住みついた人々は、「わ」すなわち環濠集落を作って、小集団が分立していました。その小さな集団が段々と国家を形成し、より大きな国家に統合されていきました。
その過程では、戦争もあったでしょうが、統合の多くは、話し合いで決まっただろうと考えられます。というのは、日本の神話には、諸外国に比べて、戦争の話が非常に少ないからです。それは、日本列島の温和な風土の影響によるところが大きいでしょう。

そして、人々には、対立・抗争よりも調和・融合をよしとする「和」の精神が育まれ、一つの民族として融合・形成されてきたと考えられます。そのことを、私たちは、日本の神話の中に見出すことができます。

続く
メンテ
大和魂 4 ( No.4 )
日時: 2010/10/14 11:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

西洋のユダヤ=キリスト教では、男性的な神が万物を創り、神は土の塊から人間の男を創ります。そして、神はアダムを慰めるために、男の肋骨から女を創ったとされます。

これに対し、日本神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生します。これらのニ神は、人間と同じ男女の営みをし、人間はその子孫として誕生したとされます。
このように、日本では、男女・陰陽の「和」によって、国土や人間が誕生したと考えてきたのです。

さてイザナギ、イザナミのニ神から生まれた子供が、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのをのみこと)です。
須佐之男命は高天原を暴れまくりますが、弟の暴虐に対して、天照大神は争ったり、罰を下すのではなく、天岩戸に身を隠すという振る舞いをします。それによって、地上は闇の世界となります。

この時、八百万の神々は、天の安の河原(あめのやすのかわら)に集まって、話し合いを行います。思金神(おもいかねのかみ)の妙策によって、天照大神を岩戸から引き出すことに成功し、世界は再び光を取り戻します。
 須佐之男命はその振る舞いのために、高天原から追放されます。しかし、天照大神と須佐之男命は後で和解し、大罪を許された須佐之男命は、出雲の地に下り「やまたのおろち」を退治する大活躍をするのです。(2)

日本神話には、争いを避け、話し合いを重んじ、共存共栄を目指す「和」の精神が、さまざまな形で描かれています。そうした日本固有の精神を、「和をもって貴しとなす」と表現したのが、聖徳太子だといえましょう。
そして「和」は、その後の日本人と日本の精神を考える際のキーワードとなっているのです。

太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」です。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。

引用終わり。

大部分省略して掲載しましたが、大和民族が育んできた「和」と言う概念が地形的にも、民族学的にも特別の条件で自然発生的に形成されて行ったことが伺えます。
その「和」の概念を、も少し具体的に捉えると共に、他民族の特性とも比較したいと思います。

続く
メンテ
大和魂 5 ( No.5 )
日時: 2010/10/14 11:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

レスをいただく方があり、「和」の言葉自体を解説してくれました。このようなことは思いもしなかったのですが、言語学的な肉付けです。


「和(わ)」は音読みか、それとも訓読みか もし音読みなら、それは漢語だということになります。

日本語とアラビア語:

聖徳太子の時代以前からアラブ商人は今の中国の都市泉州や、揚州に来ていた。もちろんイスラーム革命以前です(聖徳太子が死んだ622年からイスラームは始まった)。揚州は隋の皇帝煬帝お気に入りの都市で、長く滞在していた。要するにアラブ人と隋の皇帝は接点を持っていた。それでアラブ人は東アジアの動向も知っていたに違いないのです。福建の漁港としての泉州の漁民からも、少なくとも日本の九州に関する情報を得ていたはず。

隋が破滅し、唐へと変る東アジアの情勢を受けて、ムハンマドによるイスラーム革命が起されたと想像することができる。唐はご承知のとおり遊牧民による王朝でした。

アラビア語で”ワタシ”を「アナー」、貴方を「アンタ」と呼びます。このうち「ア」は「ワ」と同類でです。日本語では我の”ワ”もあっちの”ア”も厳密に区別しません。だから「アナー」は「ワナー」と置き換えることもできる。大変な共通性があります。ちなみに「アンタ」の”ン”は”ヌ”の変化形です。

要するにソナタというときの”ナ”と「アンタ」というときの”ナ”は日本語とアラビア語で共通しています。”ナ”は遠いものを指し、同時に尊敬の意味がある。

アラビア語で”そして”又は”と”を意味するのに「ワ」という。日本語では”テ”に当たり、英語ではandです。この「ワ」こそ和語としての「わ」だとするならば、その使われる際の場面は日本とアラビアとで非常に似ている。

この「ワ」を使うことにより、「汝」も「我」も同じになるからです。

金印で有名な「倭之奈之国王・・・」の文字も、単に”私の貴方”という意味に過ぎなかった可能性だってある。つまり「ワ・ナ・タ」です。
詳しい書物によると、中国語にもずいぶんアラビア語起源の発音があるようです。

以上引用。

ここで出てきます「国王」の意味は当時の中国では、日本で言う大名クラスに対して使っていたようです。
だから簡単に倭国を国王と認定したのです。
実際のところ属国扱いだったと言うことです。

後漢の史書に『後漢書』孝安帝紀東夷伝に安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うてきた(「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)との記述があります。

帥升以前に日本史上の個人名は史書に見られない。そのため、帥升が日本史上に現れる最初(最古)の人物とされている。帥升の次に現れる人物は卑弥呼である。

この頃のことは、我が国では資料が乏しいのですが、中国との交易もあり、かなりまとまった社会を作り「和」の精神は十分に醸成されていたと思われます。

続く
メンテ
大和魂 6 ( No.6 )
日時: 2010/10/14 11:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

協力してくださっている方の投稿を元に、歴史の旅を続けましょう。
その中で古代の心を感じることが出来ると思います。


日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが精確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。

シュメールとは現在の南イラクのことです。そしてそこに北からヒッタイト族などがやって来た。そしてバビロニアなどの国家を建設してシュメールの文化をシリアに広めた。シリアとは、現在のシリア、レバノン、バレスチナ、ヨルダン、イスラエルを包括する地区です。シュメールはユダヤにとって先進文化地域だった。

楔形文字は、古代オリエント地区で東アジアにおける漢字と同じ役割を果たしていました。メソポタミアの共通文字だった。

シュメールには葦原が広がっていたらしい。日本もかつては”豊葦原の国”と呼ばれました。葦は筆(ペン)を作るために利用されます。粘土と葦の組合せが文を生んだ。「書く」とは引っ掻くと言う意味です。Grammarのグラムは刻むという意味。紙が発明されるまで、文字は刻んだり引っ掻いたりするしか記する方法が無かった。

シュメールの人々が東に移住し、インダス文明を築くなどしながら、南海伝いに日本までやってきた可能性は十分にあると思います。

ここまで遡れば十分でしょう。次には大和の国から見た太古の様相です。

黒潮は日本列島南方海上で対馬方面と高知方面に分かれる。対馬方面へ流れる海流に乗ると、船は九州北西部とか、或いは朝鮮半島南東部に行き着く。出雲地方もその中に含まれます。

紀伊半島もそういう意味で同じ人々が流れ着く場所でもある。そのせいか、熊野権現は出雲系の神様が祭られています。その他に、伊勢、伊豆、安房、鹿島(茨城県)など、いずれも黒潮と無縁ではない。

大和川を行き着くところまで遡ると飛鳥地方に至る。他方その先の山の向こうには、吉野を経て熊野があります。古代にそこでヤマト民とミナト民が出会ったとしても決して不思議ではありません。

このように想像すると、日本古代史は黒潮をキィ・ワードとしてヤマト民やミナト民(海民)の動向を中心にして再構築する必要があると言えるでしょう。

ヤマトとミナトという言葉が出てきました。

昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。

陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。

むかし江戸は武蔵野国にあった。軍艦でも大和の姉妹艦として武蔵が建造されました。江戸がミナト(水戸)民の土地だったことは言うまでもありません。

むかしから、我が国は南方や朝鮮系の渡来人が多くいたことは、聖徳太子の時代にも秦氏、漢(あや)氏などが良く知られています。
上記に書いた流れの中に組み込まれるのでしょう

続く
メンテ
大和魂 7 ( No.7 )
日時: 2010/10/14 11:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

大和民族とは、日本列島に住んできた人類で構成される民族で、そこでは縄文時代から日本列島に住んできた人々(いわゆる縄文人)と、縄文末期からユーラシ大陸から渡来した人々(いわゆる弥生人)が中心となって形成した。この過程は前回の大きな流れのなかでも触れています。

ヤマト王権が、日本列島各地に散在していた様々な人的集団を勢力下に置き、同化したことにより大和民族が成立していったと考えられている(しかし大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない。

そして民族の特性として、大和民族は農耕民族、あるいは島国に居住することから海洋民族と分類される場合もある。 また江上波夫が騎馬民族征服王朝説を唱えたが学術的には否定されている。

このような中で、日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立したのが神道のはじめである。

『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範とする。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られる。

また時代的に中国の影響を受けて仏教や儒教の考え方は早くから入っていたとしても不思議ではない。祖先崇拝などでは儒教の影響も大きい。それらが複合した形態をもって、一つの一貫した民俗体系が構築されている。

神道、儒教に関しては後に検証するとして、このように民族的にも精神史的にも結構多様な要素を含んで「和」の心が育まれて行ったことが解ります。

その「和」の心の概念をもう少し強くするためにも、仏教や、儒教についても考えなければならないでしょう。
これからの問題ですが、仏教も儒教もインドや中国で展開したものとは少し違っているようです。
なぜ、そうなったかも「和」に関する要素が原因なのでしょう。


「和」の心の検証は、とりあえずここまでとして次に移ります。
メンテ
大和魂 8 ( No.8 )
日時: 2010/10/14 17:39
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

神話と伝説。
人類には既知の生活圏内においても、どうしても克服できない恐怖が付きまといます。たびたび襲い掛かる地震や噴火などの天災、疫病です。昔の人は、これらの原因を科学的に理解することができず、従って解決できなかったのです。この未知なるものへの「恐怖」が、神や悪魔、亡霊や怨霊といった存在を生み出したのです。
世界中の国に神話と伝説があります。
国の成り立ちに関しても、こういう人々の恐怖心に絡めて神話により説明されていることが多くあります。
まず我が国の建国の神話の代表的なものを紹介しましょう・
日本の国土を創生した神々

太古の昔、混沌としていた天地がやっとおぼろげながら分かれたとき、高天原(たかまがはら) 《天上界》に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をはじめとする五柱(いゆはしら)の神が 生まれた。

これらの神々は国土創生の基礎固めをしたため、「別天津神」(ことあまつかみ)といわれ、 特別な神として敬われている。

神世七代までに、世界のおおよその姿はできあがった。
しかし、いまだ完全ではなかったので別天津神たち一同は、イザナギノミコト(伊邪那岐の命)とイザナミノミコト(伊邪那美の命)に世界を完成するよう命じた。

そこで、二人が国造りに励み、大八島国(おおやしろのくに)《日本列島》ができあがった。


このように、古代人は、この世の物はすべて神が作り成したものと考え、逆に、自然界のあらゆる 現象や物(山川草木など)に、神霊が宿っていると信じていたのである。



「天岩戸(あまのいわと)の神話」

イザナギノミコトが黄泉国(よみのくに)《死者の国》の穢れを祓うために禊をしたときに、 三貴子(みはしらのうずみのみこ)が誕生した。

すなわち、左の目を洗っているときに生まれた神が天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、 右の目を洗っているときに生まれたのが月読命(つきよみのみこと)で、 最後に鼻を洗っているときに生まれた神が須佐之男命(すさのおのみこと)である。

父のイザナギは、姉の天照大御神(あまてらすおおみかみ)には高天原を、次の兄の月読命には夜の国を、 そしてスサノオには海原を治めるように命じた。

二人は父の命に従ったが、須佐之男命(すさのおのみこと)は従わず、なきわめくばかりだった。
あげくのはてには、数々の狼藉を働きはじめ、しまいには天衣を織る神聖なはたやに皮を剥いだ馬を投げ込むという暴挙に出た。

これに激怒した天照大御神は、天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまう。世の中は真っ暗になり、悪神がはびこりだした。

そこで八百万(やおろず)の神が天照大御神を岩戸から引き出す作戦を練り、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が裸で、今で云うストリップをはじめると、 天照大御神はよく見ようと体を少し岩戸の外へ乗り出した。

その時、待ち受けていた天手力男命(あめのたじからおのみこと)が、 天照大御神の手を取って外へ連れ出し、すかさず布刀玉命(ふとだまのみこと)が、 岩戸の前に注連縄をはりめぐらして再び中に入れないようにした。

世の中に明るさが戻った。この時の天宇受売命の舞は神楽の起原とされ、今日のお多福面の神である。



この物語は、天照大御神が天地(日本国)の統治者であることを述べようとしたものである。

このため、須佐之男命をやんちゃ者として海の国を統治する地位から追放しただけでなく、乱暴をはたらいた者として高天原から追放した。

いかにも悪神であったかのように説いているが、須佐之男命は武勇にすぐれた英雄であり、八俣(やまた)の大蛇(おろち)退治がそれを立証している。

古代には国や豪族などの重大事にあたっては、最上位にある神が、各族(氏)の長を集めて会議を開き、事を決定していた。
出雲の国譲り以前には高天原の神にとっては出雲族は強敵でその恐怖心が天岩戸の伝説となった。

続く
メンテ
大和魂 9 ( No.9 )
日時: 2010/10/14 17:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

「大国主命(おおくにぬしのみこと)と因幡(いなば)の白兎の神話」

大国主命(おおくにぬしのみこと)と因幡(いなば)の白兎 大国主命は須佐之男命の六代目の孫で、八十神(やそがみ)《八十柱の神》といわれるほど多くの兄弟がおり、大国主命はそのいちばん末の弟だった。

あるとき、因幡国(鳥取県東部)に八上比売(やがみひめ)という美しい娘がいることを知った八十神は、そろって求婚の旅に出る。

兄弟の荷物を持たされて大きな袋を担いだ大国主命は、兄弟たちに遅れてついていった。 八十神が気多の岬にさしかかると、一匹の白兎が皮を剥がされ赤裸になって泣いていた。

兎が助けを請うと、八十神は、海水を浴び、小高い丘の上に横たわって風に当たっていれば自然に治ると、兎をからかって嘘を教えた。

兎は言われたとおりにした。 そのため、風に当たって皮膚がひび割れ、ますます痛みがひどくなって苦しんでいた。

ちょうどそこに大国主命が遅れてやって来て、兎が苦しんでいる訳を尋ねた。
兎は隠岐島に住んでいた私は、本土に渡ってみたいと思いましたが、渡る手段がありません。そこで、一計を案じて海のワニザメをだまし、「私の兎族と、君のワニザメ族と、 どちらが多いか一つ比べっこをしよう」と持ちかけました。

するとワニザメは私の言葉を真に受けて、隠岐島から対岸の気多の岬まで仲間を一列に並ばせました。
私はワニザメの背中の上を飛びながら、数えるふりをして渡ってきました。

そして渡り終わろうとしたときに『うまいこと、だましてやったぞ。私は対岸へ渡りたかったのだ!』 とつい思わず言ってしまいました。

その途端、いちばん最後に並んでいたワニザメが私に襲いかかって、このとおり皮を剥がれてしまったのです。
そこで、先に通りかかった八十神に助けを求めてその教えに従ったところ、ますますひどくなってしまいました。 」と答えた。これを聞いた大国主命は兎を憐れみ、すぐに真水で体をよく洗って、蒲の穂綿にくるまるようにと教えた。

兎は、教えられたとおりにしたところ、傷は見る間に治ってもとのような美しい姿になった。


喜んだ兎は大国主命に、「八十神は決して八上比売を射止めることはできません。
今は大きな袋を担いで下働きをなさっていますが、あなたこそが八上比売をめとるのに相応しい方でございます」と言った。

果たして兎の言葉どおり八上比売は八十神たちのプロポーズをことごとく断り、大国主命との結婚を誓う。

八十神たちはこれに激怒して、大国主命を殺そうとする。
しかし、最後には大国主命が勝利し、八上比売を娶って豊葦原中国の王、すなわち国津神の代表となったのである。

八十神とは、大国主命の腹違いの多くの兄弟を言い、大国主命に対抗する豪族である。

大国主命は、末子として生まれ、慈愛深い神であったので、八十神から常々ねたまれていたが、妻争いのことから彼らの恨みをかい、数々の迫害を受けた。

しかし、大国主命は白兎によって象徴される部族に救いの手をさしのべ、その部族は恩を感じて命の国土経営を手伝った と言うのがこの物語である。


「大 蛇 退 治の神話」

高天原(たかまがはら)を追放された須佐之男命(すさのおのみこと)は孤独な漂泊の旅に出た。
出雲国の肥河の川上で、三人の親子が嘆き悲しんでいるので、その訳を尋ねた。

老人は大山津見神(おおやまづみのかみ)の子供で足名椎(あしなづち)、老妻は手名椎(てなづち)、 娘の名は櫛名田比売(くしなだひめ)という。

この地では毎年、八俣(やまた)の大蛇(おろち)《頭が八つある大蛇》が来て若い娘を食らうと言う。
自分達には八人の娘がいたが、みな大蛇に食われてしまい最後に残ったこの娘も食われてしまう。
それで三人で泣いているのだという。

そこで、須佐之男命は八俣の大蛇を退治するから櫛名田比売を嫁にもらう約束をし、八つの樽に酒を満 たして待っていると、大蛇は酒の匂いを嗅ぐと先を争って八つの酒樽に一つずつ頭を突っ込んで酒をむさぼり飲んだ。

大蛇がしたたか酔ったところを十挙剣(とつかのつるぎ)で斬りつけ、見事に退治することができた。
そのとき、大蛇の尾から剣が出てきた。これが三種の神器の一つ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)だ。
大敵を退治した須佐之男命は約束どおり櫛名田比売と結婚して多くの神々を生んだ。
その六代目が大国主命(おおくにぬしのみこと)である。


昔は、深山にいる大きい蛇を山の精霊と考え、これをオロチ(山の霊)といっていた。
そして、この山の霊であるオロチの暴威によって、暴風や洪水も起こるものと考えていた。

この物語は、斐伊川が毎年のようにはんらんして、稲田を荒らし、採鉄作業を妨げるのを、この蛇の しわざと考えた。

須佐之男命がこの蛇を切ることによって、このような洪水がなくなり、稲田の農作や 製鉄も行われるようになり、櫛名田比売は水田の守り神、つるぎの出現は製鉄の正常化を示した。

続く
メンテ
大和魂 10 ( No.10 )
日時: 2010/10/14 17:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

このように建国の英雄は人々の恐怖を取り除くことで統治圏を認知させることになっています。
建国にまつわること以外でも人々は「未知の恐怖」と対峙し多くの伝説を生んできたのです。そうして神話や伝説の中に、宗教や哲学以前の人々の生き様を垣間見ることが出来るのではないでしょうか。
近世に至るまで、天災や疫病や精神病といった「目に見えない恐怖」は、悪魔や怨霊の仕業と信じられていました。それが西洋(キリスト教圏)では悪魔、我が国では怨霊伝説として残っています。
これから日本の神話、伝説を見るとともに、中国、インド、イスラム、アングロサクソン圏のそれと比較して我が国の古代の生活がどのようなものであったか、どのような個性を持った民族であったかを見てみたいと思います。

まず、怨霊とは何か?それは、恨みを呑んで死んでいった人の霊魂です。怨霊は、一神教世界の悪魔と異なり、個別的で具体的な存在なのです。東洋世界では、怨霊は、恨みを晴らすために仇の命を付け狙い、あるいは天災や疫病を引き起こす邪悪な存在だと考えられていました。これを退治する方法は、供養を重ねて怒りを和らげることで、成仏してもらうしかありません。あるいは、仇討ちを成就させてあげるしかありません。

歴史的に見て誰もが認める怨霊としては、崇徳上皇、菅原道真、平将門、佐倉惣五郎、西郷隆盛などがある。また、最近では、これに加えて、一部の歴史家、小説家が検証した怨霊としては、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王、藤原三代などがある。

これら、怨霊となった人々の共通点は、いずれも不慮の死を遂げていることである。しかも、これらの人々は、理想を掲げて活動していたが、政敵により殺害された人達である。そして、崇徳上皇、菅原道真のように政敵に対して深い恨みを抱き、後世に災いを引き起こしたと見られている。
 
権力者(藤原氏)は、自身の後ろめたさから、民衆と一緒に道真を「天神様」として祀りあげるのである。これにより、権力者自身、道真と民衆から、許しを請うているのである。そうすることで、怨霊も民衆もそれ以上は、権力者を憎むことはなかった。

これこそが、日本の「怨霊思想」である。一見、非科学的な、祟りの話であるが、その中身は、政治、人事に対する民衆の怒り、それに対する、権力者の贖罪、そして、新たな平和の到来、といった政治問題の解決の手段なのである。

出雲大社の謂れにしても、それはヤマト王権成立の過程で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が葦原中国(あしはらなかつくに、日本の古称)を天孫に譲った功績に対して、アマテラスオオミカミ(天照大神)が造営してやった壮大な宮殿とされているが、実際は「オオクニヌシノカミは本心から納得して素直に国譲りをしたのではない、戦いに破れて激しい怨念を抱いたままこの世を去ったというのだ。その怨霊を鎮めるため、幽事(あの世のこと)の支配者としておだて上げ、その宮殿としてアマテラスオオミカミの子孫の住まいより大きい大神殿を建ててやった」と主張されている歴史家がいます。

続く
メンテ
大和魂 11 ( No.11 )
日時: 2010/10/14 17:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

それでは日本三大怨霊伝説を紹介します。
怨霊伝説考
参照 
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/mitizane.html
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/08/post_38e9.html
「道真公怨霊伝説」
  東風(こち)吹かば 思いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ
この梅の木は道真が亡くなると主を慕って九州まで飛んできて、道真の墓の側に移ったといい、これを「飛梅」といいます。その何世代か後の梅の木が今もその地太宰府天満宮に残っています。
道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。疫病がはやり、日照りが続き、20年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子も数年後に亡くなり、人々はすべて菅公の怨霊の祟りとして恐れた。きわめつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。

これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになった。もともと教との北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものといわれる。そこで怨霊の怒りを鎮めるため、天暦元年(947)にこの地に北野天満宮が創祀されたのである。その後、永延元年(987)に勅祭(天皇が命じた特使による祭祀)が行われ、このときに正式に「北野天満宮大神」と称号されるようになった。

後に普段天神様と呼ばれて、学問、受験合格の神さまとして親しまれている神である。受験シーズンにもなると天神様は大忙しになる。受験生はもちろん、その父兄やら関係者までが神社に押し寄せるからだ。受験戦争の社会を象徴する悲しい現象とはいえ、とにかく若い世代にまで深く浸透している神さまといったらこの神をおいて他にはいない。

政敵を恨んで死んで行った道真の怨霊も結局は庶民を守る神様として広く社会に敬われています。

「平将門の怨霊伝説」

平将門の首塚というものがある。

将門の乱のあと、京で梟首にされた将門の首は歯噛みして復讐を誓った、という伝説がある。首が関東まで飛んできた、という首塚伝説もある。非業の死をとげたものが怨霊となる、という古来からの考えがあり、鎮魂するため御霊社が多いようだ。

将門の怨霊伝説はここから始まります。

京都・三条河原にさらされた首は、毎夜青白い光を放ち「わが身体はどこにある!ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう!」と叫び、いつまでたっても腐る事はなかったと言います。
ある晩、その首が空高く舞い上がり、胴体を求めて東の空に舞い上がり飛んでいきました。
そして、力尽きて落ちた場所が、東京の神田橋のたもと・・・人々は“神田明神”を建て丁重に葬ります。
やがて1307年に真教上人という僧が、将門の霊を供養し建てた石塔が、大手町のオフィス街の一角にある“将門の首塚”です。
この首塚は、この平成の世でも、動かせば祟りがあるとして恐れられています。
都では、はびこる藤原政権に民衆は不満ムンムン。
それなのに東国では、民衆のハートをバッチリ掴んだヒーローが力をつけて“新皇”を名乗りだす。

「彼を消せば何とかなるだろう」と思って、討伐してみたけれど、彼が死んでも、彼を愛する東国の人々の心はどうにもならない・・・。
死んでもなお、人気の衰えない東国のヒーローを、誰よりも怖かったのは、都にいた朝廷の人々であったに違いないと思うのです。
そして、そこに拍手を送るのは、民衆。
彼ら民衆が、死んでもなお、朝廷を怖がらせる東国の英雄に、密かに感謝していた事は間違いありません。

何故か、現代の検察による小沢叩きと重複するように思えるのは、私だけか。


「崇徳上皇の怨霊」は日本最強の怨霊と言われています。

♪瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
 われても末に 逢わんとぞ思ふ♪

「流れの速い川の水が、岩にはばまれ分かれてしまっても、やがては同じ流れに戻るように、今は離ればなれになる二人だけれど、いつか、また、会える時が来るよ」

崇徳上皇が天皇時代に読んだこのような「恋歌」を読んだ頃は良いとして、その後に起きた後白河天皇との身内による壮絶な権力争いの結果、讃岐(香川県)へ流罪となります。

「大魔王となって、この日本の国を転覆させてやる〜」と、誓文を書きつづって海に沈め、以来、髪も切らず、爪も切らず、その風貌は「生きながら天狗になった」と噂されるほどの変貌を見せます。
そして、とうとう長寛二年(1164年)8月26日、鬼のような姿のまま、崇徳さんは46歳で、この世を去ります。
生前は、「いつか都に戻りたい」と願っていた崇徳さんでしたが、死んでもなお許されず、その遺骨は、四国の白峰山に埋葬されました。
埋葬時には、一点にわかに掻き曇り、激しい風雨が襲い、突然の雷鳴も轟き、その棺からは真っ赤な血が流れ出し、その火葬の煙は都に向かってまっすぐにたなびいたと言います。
さぁ、ここから崇徳さんの怨霊伝説が始まります。
都には疫病が流行り、祟りと称される異変が次々と起こります。
平治元年(1159年)に起こった平治の乱(12月26日参照>>)でさえ、もともとは崇徳さんの怨念の仕業とまで囁かれます・・・って、そん時はまだ生きとるやんけ!
今から900年前の出来事でした。
生前に親しくしていた阿波内侍の持っていた崇徳さんの遺髪を納めた「崇徳天皇廟」や寺院を京都に建て、その鎮魂を願いましたが、養和元年(1181年)に、恐ろしいほどの熱を出して、苦しみ抜いて死んでいった平清盛の死(2月4日参照>>)も、崇徳さんの怨霊の祟りであると言われました。
鎌倉時代の動乱を描いた『太平記』には、当時の魔界ランキングで、崇徳さんを魔界の王と位置づけています。
つまり、あの南北朝の動乱(8月16日参照>>)さえも、彼の怨念の仕業というわけです。
崇徳さんの怨霊は、天皇が表舞台に立った時に現れ、国家の転覆を企てるそうで、その対象はあくまで、天皇家・・・それ以外の国家権力には向けられないというのですが、その怨霊が、史上最強と称されるのは、何と言っても、その恐怖が語り継がれた長さにあると言えます。

続く
メンテ
大和魂 12 ( No.12 )
日時: 2010/10/14 17:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

当時の日本では、
その人を不幸に追いやった人物が、少しでも「悪い事をしてしまった」と、自分の行いに反省したり、後悔したり、負い目を感じたりする気持ちが、その伝説を生み出しているのだと思います。
そう考えると、もし、他人を不幸に追いやっておいて、まったくその負い目を感じないと人がいたとしたら、それが、怨霊よりもはるかに怖い事なのかも知れません。

それに比べて中国、西欧の権力争いは、トコトン皆殺しが前提で怨霊などが徘徊する余地も残しません。

これに対して西欧の怨霊は、悪魔と呼ばれ常に邪悪で、庶民が帰依しなければならないキリストの敵として位置付けられています。
もうドラマなど入る余地がありません。

日本のそれ(心=怨霊さえも)は実に優しく人間的で、西欧の真似などすることはありません。


また世界中に「竜神伝説」と言うものがあります。我が国の竜神伝説の各地にあり大変多いのですが、その一部を紹介します。

「龍ヶ谷の龍神伝説」

その昔、龍穏寺のあたりは大きな沼でした。秩父に向かう旅人は、どうしてもこの深い沼の側を通っていかなければならなかったのですが、そこには悪龍が住んでいました。
村人達はこの沼に住む悪龍の機嫌を損ねないようにお供えをして、あちこちに龍神を祭り、荒々しい心を鎮めるように祈りました。その恐れおののく声は太田道灌さんまで伝わり、村人の切実な願いを聞いた道灌さんは、この悪龍を鎮めるために、日頃より師として尊敬している高僧の雲崗俊徳和尚(龍穏寺第五世住職)を遣わしました。

雲崗俊徳和尚は、沼を目前とする愛宕山に登って教典を読み上げ、幾日もの間、悪龍を押さえ込む闘いが続き、やがて雲崗和尚さんの霊験によって悪龍は過去の悪行を断ち切って、善龍となって奉仕することを誓いました。そして、雲を呼び竜巻にのって天に昇っていってしまったということです。その時、沼は竜巻が起きたため大嵐となり、水があふれ出て沼の底まで見え、数年経って平地となりました。あふれ出た水は現在の越辺川になったといいます。

雲崗和尚さんは、龍の心が静かになり善龍になった事を記念し、道灌さんに援助をお願いして大きなお寺を建てました。そのお寺の名前は、龍の心が穏やかになったという意味から、龍穏寺と名付けられたのです。そして龍が住んでいたということから龍ヶ谷(たつがや)という地名が生まれたということです。

「龍の棲む池」

龍神伝説なんて日本中どこにでもある。もちろん富山にだってある(城端町の縄ヶ池がそう)。もしかしたら龍神伝説のない池なんて、ダムでできた人口湖ぐらいではないだろうか?そして、その龍神伝説はここにもあった。

ひまわり畑を見た後、龍神伝説があるという池に行ってみた。
その伝説とは・・・。

ある年長い日照りが続き、村人はヒエやアワどころか水一滴なく苦しい生活をしていました。
 ある時一人の青年が食べ物を探しに出かけると、昼寝をしている龍の側に卵があるのを見つけ、 盗み出しました。村に帰り、せめて年寄りや子供にだけでも食べさせようと卵を割ると、 中から龍の子が現れ母親に助けを求めたのです。怒りに狂った母親龍が村人を食い殺そうとすると、 村人は「子供だけは助けてほしい」と必死で頼みました。龍はその心に打たれ、村人のために3日3晩雨を降らせ池を作ってやりました。 そして「この池はおまえたちの美しい心の象徴だ。しかし人の心の曇るとき、この池は涸れてしまうであろう」と言い残して消えました。 村人はこの池を『龍ヶ窪』と名付けて大切にし、龍神様をおまつりしたということです。



その他、伝説と言うものは各地に散在し数え切れないくらいあります。

「浅茅ヶ原の鬼婆伝説」

用明天皇の時代の頃。花川戸周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる地があり、奥州や下総を結ぶ唯一の小道があったが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。

老婆の殺した旅人が999人に達したある日、1人旅の稚児が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。

老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は、老婆の行いを哀れんだ浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。その後は、観音菩薩の力で竜と化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも[1]、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている[2]。

「羽衣伝説」

これは日本各地に同じような伝説が伝えられている。
これらの説話の共通点として、基本的な登場人物が

•羽衣によって天から降りてきた天女(てんにょ)
•その天女に恋する男
の2人である事が挙げられる。

ストーリー

1.水源地(湖水)に白鳥が降りて水浴びし、人間の女性(以下天女)の姿を現す。
2.天女が水浴びをしている間に、天女の美しさに心を奪われたその様子を覗き見る存在(男、老人)が、天女を天に帰すまいとして、その衣服(羽衣)を隠してしまう。
3. 1人の天女が飛びあがれなくなる(天に帰れなくなる)

ここから近江型と丹後型でわかれる。

近江型(一般型)

1.天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残す(幸をもたらす)。
2.天女は羽衣を見つけて天上へ戻る
3.後日談(後述)

丹後型

1.天に帰れなくなった天女は老夫婦の子として引き取られる
2.天女は酒造りにたけ、老夫婦は裕福となる
3.老夫婦は自分の子ではないと言って追い出す
4.天女はさまよった末ある地に留まる(トヨウケビメ)

紹介はこれくらいにしますが、下記(ウィキペディア)でも多く紹介されています。
総じて日本の伝説は人々に優しいもので結論だ出されており、其処に「和」の心の原点も存在しているのではないでしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%AA%AC

神話と伝説終わり。
メンテ
源氏物語乙女の章(原文) ( No.13 )
日時: 2010/10/15 08:19
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

次に進みます前に閑話休題。

先に源氏物語、少女(乙女)の帖で、初めて「大和魂」の言葉が文献に出てくるといいました。
その使われ方に興味がありましたので、これもインターネットの情報ですが、解りましたので掲載します。下記のサイトは源氏物語全文が読めます。現代語訳つきの懇切丁寧なサイトです。

http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/

源氏物語 乙女の帖

第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語

[第一段 子息夕霧の元服と教育論]

 大殿腹の若君の御元服のこと、思しいそぐを、二条の院にてと思せど、大宮のいとゆかしげに思したるもことわりに心苦しければ、なほやがてかの殿にてせさせたてまつりたまふ。

 右大将をはじめきこえて、御伯父の殿ばら、みな上達部のやむごとなき御おぼえことにてのみものしたまへば、主人方にも、我も我もと、さるべきことどもは、とりどりに仕うまつりたまふ。おほかた世ゆすりて、所狭き御いそぎの勢なり。

 四位になしてむと思し、世人も、さぞあらむと思へるを、
 「まだいときびはなるほどを、わが心にまかせたる世にて、しかゆくりなからむも、なかなか目馴れたることなり」
 と思しとどめつ。

 浅葱にて殿上に帰りたまふを、大宮は、飽かずあさましきことと思したるぞ、ことわりにいとほしかりける。
 御対面ありて、このこと聞こえたまふに、
 「ただ今、かうあながちにしも、まだきに老いつかすまじうはべれど、思ふやうはべりて、大学の道にしばしならはさむの本意はべるにより、今二、三年をいたづらの年に思ひなして、おのづから朝廷にも仕うまつりぬべきほどにならば、今、人となりはべりなむ。

 みづからは、九重のうちに生ひ出ではべりて、世の中のありさまも知りはべらず、夜昼、御前にさぶらひて、わづかになむはかなき書なども習ひはべりし。ただ、かしこき御手より伝へはべりしだに、何ごとも広き心を知らぬほどは、文の才をまねぶにも、琴笛の調べにも、音耐へず、及ばぬところの多くなむはべりける。

 はかなき親に、かしこき子のまさる例は、いとかたきことになむはべれば、まして、次々伝はりつつ、隔たりゆかむほどの行く先、いとうしろめたなきによりなむ、思ひたまへおきてはべる。

 高き家の子として、官位爵位心にかなひ、世の中盛りにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむおぼゆべかめる。戯れ遊びを好みて、心のままなる官爵に昇りぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、けしきとりつつ従ふほどは、おのづから人とおぼえて、やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世衰ふる末には、人に軽めあなづらるるに、取るところなきことになむはべる。


 なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。


さしあたりては、心もとなきやうにはべれども、つひの世の重鎮となるべき心おきてを習ひなば、はべらずなりなむ後も、うしろやすかるべきによりなむ。ただ今は、はかばかしからずながらも、かくて育みはべらば、せまりたる大学の衆とて、笑ひあなづる人もよもはべらじと思うたまふる」

 など、聞こえ知らせたまへば、うち嘆きたまひて、
 「げに、かくも思し寄るべかりけることを。この大将なども、あまり引き違へたる御ことなりと、かたぶけはべるめるを、この幼心地にも、いと口惜しく、大将、左衛門の督の子どもなどを、我よりは下臈と思ひおとしたりしだに、皆おのおの加階し昇りつつ、およすげあへるに、浅葱をいとからしと思はれたるに、心苦しくはべるなり」

 と聞こえたまへば、うち笑みひたまひて、
 「いとおよすげても恨みはべるななりな。いとはかなしや。この人のほどよ」
 とて、いとうつくしと思したり。
 「学問などして、すこしものの心得はべらば、その恨みはおのづから解けはべりなむ」
 と聞こえたまふ。



次に訳文を掲載します。

メンテ
源氏物語乙女の章(訳文) ( No.14 )
日時: 2010/10/15 08:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

[第一段 子息夕霧の元服と教育論]

 大殿腹の若君のご元服のこと、ご準備をなさるが、二条院でとお考えになるが、大宮がとても見たがっていっらしゃったのもごもっともに気の毒なので、やはりそのままあちらの殿で式を挙げさせ申し上げなさる。

 右大将をはじめとして、御伯父の殿方は、みな上達部で高貴なご信望厚い方々ばかりでいらっしゃるので、主人方でも、我も我もとしかるべき事柄は、競い合ってそれぞれがお仕え申し上げなさる。だいたい世間でも大騒ぎをして、大変な準備のしようである。

 四位につけようとお思いになり、世間の人々もきっとそうであろうと思っていたが、
 「まだたいそう若いのに、自分の思いのままになる世だからといって、そのように急に位につけるのは、かえって月並なことだ」
 とお止めになった。

 浅葱の服で殿上の間にお戻りになるのを、大宮は、ご不満でとんでもないこととお思いになったのは、無理もなく、お気の毒なことであった。
 ご対面なさって、このことをお話し申し上げなさると、
 「今のうちは、このように無理をしてまで、まだ若年なので大人扱いする必要はございませんが、考えていることがございまして、大学の道に暫くの間勉強させようという希望がございますゆえ、もう二、三年間を無駄に過ごしたと思って、いずれ朝廷にもお仕え申せるようになりましたら、そのうちに、一人前になりましょう。

 自分は、宮中に成長致しまして、世の中の様子を存じませんで、昼夜、御帝の前に伺候致して、ほんのちょっと学問を習いました。ただ、畏れ多くも直接に教えていただきましたのさえ、どのようなことも広い知識を知らないうちは、詩文を勉強するにも、琴や笛の調べにしても、音色が十分でなく、及ばないところが多いものでございました。

 つまらない親に、賢い子が勝るという話は、とても難しいことでございますので、まして、次々と子孫に伝わっていき、離れてゆく先は、とても不安に思えますので、決めましたことでございます。

 高貴な家の子弟として、官位爵位が心にかない、世の中の栄華におごる癖がついてしまいますと、学問などで苦労するようなことは、とても縁遠いことのように思うようです。遊び事や音楽ばかりを好んで、思いのままの官爵に昇ってしまうと、時勢に従う世の人が、内心ではばかにしながら、追従し、機嫌をとりながら従っているうちは、自然とひとかどの人物らしく立派なようですが、時勢が移り、頼む人に先立たれて、運勢が衰えた末には、人に軽んじらればかにされて、取り柄とするところがないものでございます。



 やはり、学問を基礎にしてこそ、「政治家としての心の働き」が世間に認められるところもしっかりしたものでございましょう。


当分の間は、不安なようでございますが、将来の世の重鎮となるべき心構えを学んだならば、わたしが亡くなった後も、安心できようと存じてです。ただ今のところは、ぱっとしなくても、このように育てていきましたら、貧乏な大学生だといって、ばかにして笑う者もけっしてありますまいと存じます」

 などと、わけをお話し申し上げになると、ほっと吐息をおつきになって、
 「なるほど、そこまでお考えになって当然でしたことを。ここの大将なども、あまりに例に外れたご処置だと、不審がっておりましたようですが、この子供心にも、とても残念がって、大将や、左衛門督の子どもなどを、自分よりは身分が下だと見くびっていたのさえ、皆それぞれ位が上がり上がりし、一人前になったのに、浅葱をとてもつらいと思っていられるので、気の毒なのでございます」

 と申し上げなさると、ちょっとお笑いになって、
 「たいそう一人前になって不平を申しているようですね。ほんとうにたわいないことよ。あの年頃ではね」
 と言って、とてもかわいいとお思いであった。
 「学問などをして、もう少し物の道理がわかったならば、そんな恨みは自然となくなってしまうでしょう」
 とお申し上げになる。

(おわり)


正解は、大和魂とは「政治家としての心の働き」と言う意味で使われたようです。

複数の女性を愛する手練手管ではなくてほっとしました。
なお、前後の長文は、当時の教育方針として御照覧くだされば幸いに存知申し上げます。
メンテ
大和魂 13 ( No.15 )
日時: 2010/10/15 08:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

「和」の心の追求はひとまず休みとしまして、ここで他の民族の状況を見てからさらに「和」に戻りたいと思います。

今まで検証してきた中で、「漢委奴國王印」が作られ時期が我が国と中国の歴史の接点として出てきます。

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。

それより300年前に秦の始皇帝がなくなり、劉邦と項羽の争いの結果、実質的に中国で始めての長期の統一国家としての漢が出来ています。
四面楚歌とか背水の陣などと、今でも使われている言葉が出てきたのもこのころです。

その当時の様相として、秦の時代で、すでに韓非子などが出ており法治国家を作ろうとしています。群、県の行政単位も出来ていました。
思想的には、さらに遡ること300年、紀元前550年には「論語」を著した孔子が出ています。

同じころ中国の三大思想(仏教、儒教、道教)の祖と言われる老子が出ています。
ですから漢委奴國王印が作られた時代の日本は後に大和民族と言われる集団がまだ九州にいたころですが、中国では学問も盛んで国家の形態が整っていました。
また、紙の発明もそのしばらく後のことであり、世界的な先進国であったと思われます。

ついでに紀元前5世紀のころと、紀元1世紀の世界の出来事を閲覧しておきましょう。

・紀元前5世紀頃が弥生時代の始まりと考えられていたが、紀元前10世紀まで遡る可能性が高まってきた。それにつれて、縄文土器時代の終わりも遡ることになる。

・紀元前500年頃 - ペルシアとギリシアの間でペルシア戦争(〜紀元前448年)
・紀元前490年 - マラトンの戦いで、ミルティアデス率いるギリシア軍がペルシア軍を破る。
・紀元前461年 - 第一次ペロポネソス戦争勃発
・紀元前434年 - エピダムノスとケルキュラの紛争
・紀元前431年 - 第二次ペロポネソス戦争が起こる( - 紀元前404年)。
・紀元前413年 - アテネ、シチリアで敗北。
・紀元前403年 - 趙、韓、魏が周王より諸侯として認定される。これより中国は戦国時代に入る。

司馬光の『資治通鑑』はこの年より記述が始まる。

続いて1世紀の出来事です。

・紀元前後 - 倭は百余国に分かれており、その一部は前漢の楽浪郡に朝献をする。(『漢書』地理志)
・4年 - ナザレのイエス出生。
・9年 - トイトブルクの戦いでローマがゲルマン諸民族に敗ける。
・25年 - 劉秀(光武帝)が皇帝に即位する。後漢王朝の成立(- 220年)。
・30年ごろ - イエス、パレスティナで処刑される。このころ、キリスト教が成立する。
・36年 - 後漢の光武帝、中国を統一する。
・57年 - 倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる。(後漢・建武中元2、丁巳;後漢書光武帝紀、同東夷伝)
・79年 - ベスビオ火山の噴火によりポンペイが埋没。
・80年 - ローマにコロッセウムが完成。
・1世紀末 - 弥生文化が東北地方に波及する。


その中国の歴史をさらに遡ることにしましょう。

続く

メンテ
大和魂 14 ( No.16 )
日時: 2010/10/15 08:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

中国の歴史は次ぎのように始まっている。

黄河、長江文明期
三皇五帝時代
夏(紀元前2070〜紀元前1600年)
殷(紀元前1600〜紀元前1046年)
周(紀元前1046〜紀元前256年)
周時代の後期は春秋戦国時代とも言い小豪族が入り乱れて覇権を競っていました。
秦・漢時代(紀元前256〜紀元220年)
漢の後半は三国志の時代に入ります。

(三皇五帝時代)

天皇・地皇・泰皇(人皇) - 前漢・司馬遷『史記』秦始皇本紀において皇帝という称号を定める文脈でこの三皇が挙げられており、泰皇の泰を除き、「帝」号をつけて皇帝としたとある。ただし、ここでは「三皇」という語でまとめられていない。注釈である唐の司馬貞『史記索隠』では泰皇=人皇としたり、天皇・地皇・人皇を三皇としてその前に泰皇がいたとしたりする。司馬貞が補った『史記』の三皇本紀(補三皇本紀または補史記という)では三皇を伏羲、女媧、神農とするが、天皇・地皇・人皇という説も並記している。

三皇五帝とは次の様な人物のながあげられています。

伏羲・神農・太昊・炎帝・黄帝・少昊・顓頊・嚳・尭・舜・禹・湯
実際は三皇として 黄帝・堯・舜 がほぼ特定されているようです。

夏王朝の始祖となる禹は、五帝のひとり顓頊の孫である。彼は舜帝に命じられて、黄河の治水などの功績をなし、大いに認められた。また、禹の人柄を愛する人も多かったので、舜は禹を自分の後継者にしようとした。禹は舜の死後、3年の喪に服した後に、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めず彼の下に行かなかったため、禹が帝位に就いた。陽城に都したと言われている。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、まもなく彼が死んだので、かわって益に政治の補佐をさせた。

なお遺跡としては殷の時代のものはかなり発掘されているようですが、夏時代のものはまだまだ少ないようです。

これに対して我が国では紀元前660年即位の神武天皇から日本の国が始まっていることになっている。最もそれまでにさらに伝説の人物(神)が存在しますが。

天照大御神→天忍穂耳尊→瓊瓊杵尊→彦火火出見尊→鵜葦草葦不合命→1神武天皇→2綏靖天皇→3安寧天皇→4懿徳天皇→5孝昭天皇→6孝安天皇→7孝霊天皇→8孝元天皇→9開化天皇→10崇神天皇→11垂仁天皇→12景行天皇→13成務天皇→14仲哀天皇→15応神天皇→16仁徳天皇・・・仁徳陵墓もある実在の天皇が出てきましたのでこれくらいにしておきます。

日本尊がでてきて実質的に大和を統一したのは13代成務天皇のころです。
中国では、秦というよりも周の時代があっているようです。
 
続く
メンテ
大和魂 15 ( No.17 )
日時: 2010/10/15 08:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

「中国古代の人々の生活」

中国古代の人々は、人間の霊魂は永遠不滅であり、墳墓がこの霊魂の住まいであると考えていました。また、死後の世界は、現実世界の延長で、そこでの暮らしぶりは、現世となんら変わるところがないとも考えました。そのため、墓の主が満ち足りた生活が送れるように、現実世界のさまざまなものを明器(めいき)や俑(よう)に作って墓に副葬したのです。明器とは死者が生前の生活で必要としたものを死後の世界でも使えるように模造したもので、建物や儀式に使う器、飲食器、人間、動物など、実に多様な器物や生き物が陶製や木製、青銅製などで造られます。

戦国時代後期、紀元前3世紀の終わり頃に著された、「藍より出でし青は藍より青く、・・」の書き出しで有名な『荀子(じゅんし)』の「礼論篇(れいろんへん)」に、墓に供える明器について書かれた部分があり、そこには、酒を容れる甕や「ほと」(無+つくりに瓦)は空のままとし、楽器の笙や「う」(竹かんむり+于)はならべても吹奏せず、琴や「しつ」(王王の下に必)も弦は張っても調律しない、などと記されています。実際、前漢初め頃の湖南省の馬王堆(まおうたい)1号墓で発見された楽器の「う」(竹かんむり+于)は吹き口と管の部分がつながっておらず、音はでません。このように外観は似せているが実体を伴わないもの、それが明器の本来の姿なのです。

俑は明器の一種で、生き物を象ったものです。特に人物俑は、死者に対して冥府へ供奉するという役目から見て、俑の中心的な存在と思われます。そして、生前にかわいがった犬などの愛玩動物や家畜なども死後の生活を完結するための重要な副葬品としてお供に加えられます。

このように、生活空間を構成するさまざまな建物や生活道具、そこで生活する人間や動物、そして来世への憧れを表現した器物など、その内容は非常に豊富で多種多様です。こうして、地下の世界に「生きる喜び」にあふれた理想郷が創出されたのです。

これらの明器や俑は、各時代の人々の生活を生き生きと眼前に甦らせます。中国古代の人々が来世に伴いたいと願った生活情景の数々、働き、舞い踊って生活を楽しむ人々や、彼らとともに暮らす動物たちなどによって、その生活の息吹と夢をたどります。

(以上下記引用)
http://www.hum.pref.yamaguchi.jp/tokuten/H18/kenchiku/kenchiku.htm

続く
メンテ
大和魂 16 ( No.18 )
日時: 2010/10/15 08:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

中国の風土は「南船北馬」、「南稲北粟」、「北儒南道」といわれるように、黄河と長江の流域では、その文化は大きく異なっていた。北中国には畑作農民と遊牧民が混在し、南中国には稲作農民と海洋民が交じり合って生活していた。最初に河姆渡遺跡の発掘をもとにした長江中下流域の越文化を見てみよう。

中国の黄河流域の「馬の文化」と長江流域の「舟の文化」を統合した秦・漢帝国は、漢民族本位ではあったが内陸に閉じこもっていのではなく、漢武帝時代には河西回廊に西域都護府を置き、周辺諸民族に王候の爵位を与えて中国の藩国に加えて東世界を成立させた。

その東アジア世界で見落とせないのは、漢帝国の国家管理を超えた海の民の活動が、非常に早い時期から国境を越えた広がりをみせていることである。事実、中国文明の基盤になった長江流域の「舟の文化」は、今から約一万年前の縄文時代に黒潮に乗って日本に流入し、日本を含む環シナ海圏が初歩的に形成されるにいたっている。

 長江流域の「舟の文化」が、どのように環シナ海圏に伝播していったかを見てみよう。中国古代の歴史を記録した書物では、長江流域からベトナムにいたる広大な地域に居住した人々は「百越の民」として一括されている。 そこには古くには於越、南越、駱越、区呉、目深などと呼ばれたさまざまな種族が生活し、河川や海域で稲作や漁労を行い、すでに見てきたように、青銅器・鉄器・陶磁器・絹織物・漆工芸などの各種産業を発達させ、舟を操って水上交易に従事していた。

 江南地域ばかりでなく、四川や雲南、さらに江西から広東やベトナムにいたる地域に散在する、苗族・壮族・景頗族などの多くの少数民族はその末裔にあたる。稲作と操船に巧みだつた越系の人々の活動を調べてみると、この「百越の民」は非常に古くから朝鮮半島南岸や西日本の原住民といわれる倭人と海を隔てて往来し、その生活習俗を同じくしていたことが、環シナ海圏の波間に浮かびあがってくる。

中国古典の「荘子」・「韓非子」・「淮南子」などに散見される、越人の生活風俗は、河川や海原に棲息するサメやワニからの危害を避けるために「断髪文身」、つまり頭髪を短く切り、体に刺青をしていた。また、海にもぐるだけではなく、田植や草取りのためにも裸足の生活を送り、日常生活に舟は生活に欠かせない道具だった。 

 さらに『「後漢書倭伝』を見ると、朝鮮の韓族にも体に刺青をする「文身」の風があったようで、中国の古文書に登場した倭人は、日本列島西北部ばかりでなく、朝鮮南岸から渤海湾・黄海の沿海地区、さらには東シナ海にいたる広大な海域に居住する人々だった。その限り、中国の沿海に居住した「百越の民」と倭人の習俗と生業がほぼ同一であったとみてよい。

(以上下記引用)
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/kuroshio.htm

続く
 
メンテ
大和魂 17 ( No.19 )
日時: 2010/10/15 08:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

 環シナ海に広がる「百越の民」と倭人たちは、秦・漢以前からゴンドラ型の竜骨舟にのって往来していたのだろう。東シナ海の荒波にもまれてしばしば遭難したこともあったろうが、呉越の造船技術や操船技術の発達はかなりのもので、すでに春秋戦国期に外洋航海の記録がある。 船首と船尾の反り上がったゴンドラ型の船は、季節風と黒潮に乗って朝鮮や日本に到来したことは、朝鮮海峡や日本海岸に残されたこの竜骨舟の絵図からも知られている。

 この往来を通じて環シナ海の自然崇拝の観念が共有されるようになっても不自然ではない。長江中下流域の「良渚文化」から上流域の「三星堆文化」にいたるまで、越系の人々が河姆渡以来の太陽信仰・精霊信仰・鳥信仰・目玉信仰などの観念を共有していたことは、『ギャラリ−』の「長江文明のイメ−ジ」を参考にしてもらえれば、それが稲作と操船の民のどんな自然崇拝であったかを見ることができるが、朝鮮半島や日本に居住した倭人もまた太陽(女神)信仰・鳥信仰・蛇信仰などの観念を共有していたのである。 

中国の「百越の民」の信仰は、明らかに日本にも伝播して縄文時代の基層文化の一端を形成していたといってよい。そればかりではなく、この太陽神と結びつた鳥信仰も、環シナ海圏一帯に広がり、日本の稲作にもその痕跡を残している。
事実、戦国時代の楚のお墓から多数の霊鳥の作り物が出土し、田畑の耕作を鳥の助けを借りて行う鳥田伝説も残っているばかりか、広西の壮族などの越系の人々の間には田に鳥杆を立てる風習がいまでも続いている。

太陽神や鳥信仰だけではない。「百越の民」の居住する温暖湿潤な中国の沿海地方やベトナム・台湾・琉球といった地方では、稲作とともに蛇信仰も共通していた。蛇信仰に関しては、門がまえに蛇をあらわす虫の字が入っている閩越という地名があるように、この地域の山河や海原にはたくさんの蛇が棲息し、それが蛇信仰のもとになっている。 

太陽(女神)信仰や霊鳥信仰そして龍蛇信仰は自然崇拝に違いないが、それは稲作と操船の民の生活から生み出された信仰であり、南海から東海にかけて海を渡って往来した越人と倭人が共有する信仰だったのである。

この海の民の自然崇拝を基盤にして成立したのが、「舟の文化」を特色付ける道教であった。それは黒潮に乗って日本にも伝播している。日本の「古事記」の創世神話にある「天っ神」・「国っ神」・「海(わだつみ)の神」は、道教の世界観をもとにして構成されているといわれているが、天照大神が女神であったばかりでなく、神武天皇の生みの母は「海神(わたつかみ)の女(むすめ)」だったように、道教は非常に早くに、日本の稲作と深く溶け合って浸透していたに違いない。

 日本の稲作は弥生時代に朝鮮半島を経由して九州北部に定着したといわれてきたが、事実はもつと古く、中国沿岸から接に伝播したことも十分に推測される。中国の舟山群島は上海の鼻先にあり、航海の安全を祈る道教寺院が建てられているが、最近にそこからも河姆渡から呉越時代にいたる稲作遺跡が発見されているのである。

 事実、上海を間近にした日本の唐津市の采煙遺跡の最下層からも、縄文晩期の水田跡が見出されて、東シナ海から直接に海を渡ってきたル−トが大きく浮かび上がってきている。それに加えて、紀元前2000年頃のベトナムのドンソン文化に先行する遺跡からも、青銅器とともにジャポニカの籾が出土しているので、環シナ海の黒潮にのった稲作の伝来の可能性はさらに大きい。稲作の道は、渤海湾から朝鮮経由の道と、東シナ海から直接に伝わった道の二つのル−トが、古来からあったのだろう。

(以上下記引用)
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/kuroshio.htm

続く
 
メンテ
大和魂 18 ( No.20 )
日時: 2010/10/15 08:29
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

 こうして「百越の民」の太陽信仰・鳥信仰・蛇信仰などの自然崇拝は、日本の縄文文化の基層になり、日本の古事記にも、「舟の文化」の特徴をもった道教の影響がみられるようになった。大和朝が確立して朝鮮半島を経由して「馬の文化」が流入し、また漢帝国の崩壊した以後の魏晋南北朝期間は仏教も伝播されるようになり、民間の道教よりも、国家護持の仏教が信奉されるようになったが、日本における空海の真言密教の土着にみるように、仏教は縄文期に広がっていた道教を基盤にして土着化したのである。

そのことは空海の著作として伝えられている儒教・道教・仏教の三教を比較した『三教指帰』をみれば明らかだろう。いずれにしても、この道教を基盤にして根付いた真言密教の広がりのもとで、日本の奈良から平安への転換が引き起されていったのである。

インドの仏教が普及する途上で、ヒンズ−教の神々が菩薩の足元に踏み敷かれたように、日本においても国家の手による仏教の普及は、「神殺し」のドラマをともなって進展した。大和朝が繰り広げた土蜘蛛や隼人征伐の故事から推測されるように、国家の手による仏教の普及は一種の「神殺し」であり、道教と結びついていた土俗信仰は、大和朝の支配の拡大とともに血なまぐさいドラマをともなって仏教に統合されていったに違いない。

(以上下記引用)
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/kuroshio.htm
 
メンテ
大和魂 19 ( No.21 )
日時: 2010/10/15 08:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

(神話と伝説の世界)

中国の神話・伝説は日本のそれに比べて系統だっていないとされている。しかし、それは日本の神話に通じるものがあるようです。

古代中国に発祥する思想のひとつに四神思想というものがある。四神とはすなわち、青龍、白虎、朱雀、玄武(亀と蛇とがからみ合ったもの)と言われる4種の神獣を指し、それをそれぞれ東西南北に配して守護神とし、四方から中央を守るのである。古くは前1世紀頃の古代中国の経書『礼記』曲礼篇上に「朱鳥を前にして玄武を後にし、青龍を左にして白虎を右にし、招搖上に在り」 1と記されている。

また『淮南子』天文訓には五行思想に基づき、中央に黄龍を配したものが加えられている2。さらに時代は遡り、戦国時代前期、曾国の乙という名の国君の墓から出土した漆器の箱の蓋3には、中央に北斗、周囲に二十八宿にあたる星名とともに、両端に龍と虎の図案が描かれていた。その後、前漢時代末期には器物や壁画に、後漢時代に入ると四神鏡や画像石4は盛んに用いられるようになる。

 四神思想は東アジア地域にまで影響を及ぼし、5世紀前半の高句麗では、死者を守護するように墓室装飾に四神図がみられるようになる。高句麗古墳の天井壁画には星宿とともに、四神図が描かれている5。高句麗を通して四神思想、四神図が伝来することとなった古代日本でも、墓室装飾として用いられる。

奈良県に所在するキトラ古墳、1972年に発掘された7世紀末から8世紀初め頃と推定される高松塚古墳からは、ともに壁画に描かれた四神図が発見された。また墓室装飾のみならず、薬師寺如来像の台座には四神図が鋳出されており、最も古い文献としては『続日本紀』に、「文武天皇の701(大宝元)年正月に大極殿で行われた朝賀の儀において、正門の左に日像、青龍、朱雀、右に月像、玄武白虎を飾った幡を立てた」6という記載があり、この時代の日本文化に四神思想の影響をみることができる。また現在でも、四神旗は神社で祭場、社頭の装飾などに用いられている。

 古代中国には青龍、白虎、朱雀、玄武を四神として信仰の対象とするだけでなく、龍、亀、麒麟、鳳凰、想像上の動物4種を四霊とみなし信仰する思想があった。『礼記』礼運篇には「麟・鳳・亀・龍、これを四霊と謂う」7と記載があり、『家語』ではこの四霊に中央として聖人を加え、五霊と称している。また四霊は四瑞とも称される。四瑞とは聖人が出現する前兆、すなわち瑞祥として現れると考えられていた4種の神獣を指し、孔子が誕生した際には、麒麟が出現したとされている。

(以上下記引用)

 http://www.hum.ibaraki.ac.jp/kano/student/99nagai.html
メンテ
大和魂 20 ( No.22 )
日時: 2010/10/15 11:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

これからしばらくの記事は永井朋子氏の「中国古代の聖獣伝説 -龍思想に関する研究-」からの引用です。

http://www.hum.ibaraki.ac.jp/kano/student/99nagai.html

少し長くなりますが、龍伝説を題材に世界の民族の風習に言及されていて今後、民族性を比較するのに良いと思いましたので全文掲載します。

次にあげる氏の感想は、「大和魂」を探る論旨からは離れていますが、現在、まさしく考えねばならないことを指摘されています。ちなみに氏は中国文化を研究されている、新進気鋭の方であります。


「またドラゴンと龍の捉えられ方が異なるに至った理由には、古代においては生活そのものであった、それぞれの土地で行われてきた農業の状況が大きく関わっている。

東洋の灌漑水に依存する稲作・漁撈51地帯では、ドラゴンは神であり、そこでは人々は自然を畏敬し、異なるものと共生融合し、あらゆるものは再生と循環をくりかえすと考えた。」

これに対し、天水に依存するドラゴンを殺す麦作・牧畜地帯の西洋文明は、自然を支配し分析する近代科学を発展させ、人類に幸せをもたらした。

しかし、人類が発展したことにより地球の自然は壊れ始め、今日では様々な環境問題を抱えている。自然を敬い、共生してきた中国古代の思想に、今こそ立ち返り、見つめ直すときがきている」

続く
メンテ
大和魂 21 ( No.23 )
日時: 2010/10/15 11:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

第一章 世界各地に分布する龍

 第一章では、前述した通り、中国の龍に類似する代表的なものとして西洋のドラゴン及びインドのナーガを取り上げようと思う。三者ともそれぞれ想像上の動物であり、蛇に似た形態を持つという特徴がみられる。そこで中国の古代思想、自然観を考察する上で、ドラゴン、ナーガがそれぞれどのように信仰されてきたのか、相違点を比較してみたい。

(一) 悪の化身 西洋のドラゴン

 序章で前述したように、龍は古代中国において四神・四霊などの一つに数え挙げられ、神獣や瑞獣とみなされてきた。また中国では、龍は天子を意味するものであり、天子に関する事柄に用いられ、さらには英雄や豪傑をたとえるものでもあり、特に優れていることを指している。

ところがヨーロッパにおいては、伝説上の怪獣・ドラゴンは中国の龍に近い形態を持つ動物であるにもかかわらず龍とは異なる立場に位置し、強い力・暗黒・暴力を象徴するものとされている。

ヨーロッパで描かれる典型的なドラゴンは、頭に角を持ち、胴は緑や黒っぽい色の鱗におおわれた蛇、あるいはトカゲのような爬虫類のもので、西洋における龍の名「ドラゴン」はギリシア語の「ドラコーン」を由来とし、「ドラコーン」とはすなわち蛇を意味している。獅子の前脚と鷲の後ろ足、サソリの尾などを持つものとして描かれており、また特徴として、コウモリのような翼を有している。

この翼を用いて天空を飛翔し、口から火と煙を吐くとされている。また太古の昔、人類登場以前に存在していた恐竜に似た姿をしてもいる。このようにドラゴンはいくつかの動物が組み合わされた形態を持っていた。

 強い力・悪を象徴する西洋の龍=ドラゴンは、神話や物語、伝説の中では神々と対立する存在として登場する。その多くが神々の敵として悪魔視されており、その姿を変えることなく人間を襲うドラゴンは、聖人・英雄に悉く退治されてしまうのである。ギリシア神話の中ではヘラクレス、ゼウス、アポロンをはじめとする多くの神々・英雄たちによるドラゴン退治の話が語られている。

特にキリスト教では、ドラゴンは秩序を乱す悪(=異教徒)として邪悪、醜悪なものと見なされていた。『新約聖書』ヨハネの黙示録には、巨大な龍または年を経た蛇が天上で天使ミカエル等と戦った末に敗れ、全人類を惑わす者、悪魔・サタンと呼ばれ、地上に投げ落とされ、地下深くに閉じこめられたと記されている。

この中に登場する龍は、火のように赤い大きな龍で、七つの頭、七つの冠に十本の角を持ち、一度に天の星の三分の一をなぎ払ってしまうような尾を有する強大な怪物であった。聖書においてのドラゴンは、何か実在の生き物を表わす言葉として使用されているのではなく、むしろ邪悪・悪魔といったイメージの象徴的な意味を表わすものとして描かれている。

その他、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧などヨーロッパ各地の至るところに神々・英雄によるドラゴン退治の物語が残っているのみならず、数多くの絵画や彫刻などにもモチーフとして用いられてきた。

続く
メンテ
大和魂 22 ( No.24 )
日時: 2010/10/15 11:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

 ヨーロッパより以前、古代オリエント文明においても龍退治の話が存在している。龍退治は主に天地創造において語られているが、バビロニア8の叙事詩『エヌマ・エリシュ』の中においては、英雄マルドゥークが龍とされるティアマトを殺し、天と地を創造したと記している。

さらにティアマトが大蛇、巨大な龍などの様々な怪物を産み出したとも書いている。後のキリスト教に影響を与えたペルシャのゾロアスター教9の経典『アヴェスタ』には、三頭に六つの眼と三つの口を有し、千の超能力を持つ、邪悪な龍、アジ・ダハーカが登場する。ゾロアスター教は善神と悪神との対立を説いており、善神の勝利を信ずる。アジ・ダハーカは終末における善と悪の戦いで、神の敵対者であるアンラ・マンユの配下として、ともに最後まで善に抵抗する悪として登場している。さらに『アヴェスタ』においても龍を退治する英雄が、ペルシャの英雄叙事詩『シャー・ナーメ』でも勇者ロスタムが荒野に棲む龍と戦う話が書かれている。神々は強い力の象徴とされるドラゴンを退治することによって、自らの権力、力の強さを誇示することに利用したのである。

また龍であるとは断言できないが、エジプト神話においては、天の支配者・太陽神ラーとその協力者である天候神セトによって、淵ヌンに住む冥界の大蛇で暗黒の象徴とされるアポピスが征服される話が語られている。

 ドラゴンは海や川の水中を始めとし、池や泉にまで至る水際や地中、洞窟などを棲み家とする水棲の動物とされ、「水」に関連づけられることがあるが雨を降らすことはできず、神々が自らの能力を示威するかのように、ドラゴン退治を行った結果、大地に恵みの雨をもたらすことができるのだと考えられていた。その上、稲妻や大雨による洪水などの災害は龍がもたらすものと考えられていたため、嵐・天候を司る神が、最強とされる巨大な龍・イルルヤンカシュを退治する話がヒッタイト10に残っており、その話をモチーフにしたものが石灰岩に刻まれている。

 悪の象徴と否定的な存在としてみなされる一方で、古代ローマでは龍の描かれた軍旗が用いられていた。強い力を象徴する龍を軍旗に用いることは広い地域で見られるもので、東はエジプト、西ではケルト族11において特に盛んに使われていた。

船に龍頭をかたどったものや、イギリスでは、ワイヴァーンと称される二本の足と翼を持ったドラゴンが霊力を持つ聖なる動物として扱われており、旗に用いられただけでなく、現在でもロンドン市の紋章にワイヴァーンが使用されており、イギリス王室の紋章にも見られる。その他柱、鉄道会社などの紋章として彫られたワイヴァーンを至るところで見ることができる。

ドラゴンと似た形態を有してはいるが、性格は全く異なるものである。さらに古代イランにおいては、尾をくわえ輪になったウロボロス型の龍が、永遠を象徴するもの、また墓の守護者として墓石に使用されていた。


 またドラゴンは中世ヨーロッパで行われていた錬金術において、水銀と結びつく、神聖な第一物質とみなされ、「錬金術師たちが獅子、鷲、鴉(または一角獣)と併せてドラゴンを四性の一とした。」12とあり、ドラゴンはサラマンダー(火蜥蜴)とともに四元素13のうち火を象徴するものとされている。以上のように、肯定的な象徴として捉えられていたドラゴンの例がいくつか残ってはいるが、およそ西洋においてのドラゴンは邪悪な悪の化身とみなされ、神々・英雄によって退治される対象者であるという思想が主流である。

続く
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大和魂 23 ( No.25 )
日時: 2010/10/15 11:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

(二) 善悪二面性を併せ持つ インドのナーガ(龍神)

 インドのナーガは神の協力者である。ナーガは龍神または蛇神、龍蛇ともされている。ナーガは大蛇を神格化したもので、半蛇半神の姿で、時に多頭で現され、聖獣とされる。インドに棲息する毒蛇コブラの神であり、四肢はなく、角と髭いずれも有しておらず、合成獣である龍やドラゴンと違って、動物との混成はみられない。

ナーガは仏教において重要な役割を持つ。ナーガは仏法の守護神であるとともに、雨を恵む水の神でもあり、時に雲を起こし、雨を降らせて五穀豊作をもたらす。竜宮に住み、神通力を持ち、変幻自在で、人間の姿に変わることも可能とする。

ナーガとは古代インドの文章語、サンスクリット語で、蛇を指す。しかし、仏典が中国に持ち込まれ漢語に訳された際に「龍」、ナーガ・ラージャは「龍王」と訳され、ナーガが中国における龍と同一視されるに至った。

 その一方でインドにはヴリトラと呼ばれる悪龍が存在し、人々に危害を及ぼし、人畜五穀に大きな災禍を加えるものとして恐れられていた。仏教以前の古代インドでは、当時インドを支配していたバラモン族を中心とするアーリア人14によって、多神教であるバラモン教が信仰されていた。バラモン教はヒンズー教の前身とされている。バラモン教の経典の一つ、『リグ・ヴェーダ』にヴリトラ龍とインドラ神との戦いが述べられている。

その中でヴリトラ龍はアヒと呼ばれており、アヒとはすなわち蛇を指し、アヒは世界の始まりと同時にその身体に全世界の水を巻き付かせ、流れを止めてしまった。そのアヒを稲妻によって殺したインドラ神が水を穿ち、大地に雨を降らせたのである。

アヒは水の神であったにもかかわらず、それ自体が信仰されることはなく、ヨーロッパにおけるドラゴン退治を行った神々・英雄と同様に、アーリア人の主神であった武勇の神・インドラが雨を恵むのであり、人々はインドラ神に雨を祈願し、信仰の対象としていた。後にインドラ神は仏教にも取り入れられ、梵天15と並ぶ仏教の護法神・帝釈天となる。

 邪神とみなされた龍であったが、アーリア人の侵入以前にはインドの原住民によって樹木、リンガ(性器)崇拝などと併せて蛇神崇拝が行われていた。その後インドに侵入してきた異民族は蛇神を龍神信仰として取り入れ、龍王はアイラーヴァタまたはマニバドラなどと称され、龍神は尊神として信仰されるに至る。

また西北インドを征服したクシャーナ族16においても民間信仰から取り入れられた龍神は崇拝の対象とされていた。蛇神崇拝は後の仏教、主に西インドで広く信仰されているジャイナ教17の民間信仰に大きな影響を与えている。

 インドの民族宗教であるヒンズー教は多神教であり、バラモン教から多くを受け継ぐとともに、仏教や民間信仰から多くの影響を受けている。バラモン教において、さして高い地位に位置していなかったシヴァ(ルドラ)神、ヴィシュヌ神がヒンズー教では最高位の主神として迎え入れられた。シヴァ神崇拝は蛇神、特にリンガ崇拝をその中に取り入れている。

さらにインド神話には、シヴァに従わない修験者によって猛毒のコブラ蛇を投げつけられたが、シヴァはそれを恐れもせずに身体を装飾するかのように巻き付け、修験者から崇められたと語られている。シヴァ神は大自在天として仏教の中に姿を見せている。

続く
 
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大和魂 24 ( No.26 )
日時: 2010/10/15 11:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

一方ヴィシュヌ神は、七つや五つまたは九つといった頭を持つアナンタもしくはシェーシャなどと称される多頭の蛇を使者のようなものとし、モンスーンの期間中には長円形にとぐろを巻いたアナンタの上に眠り続け、雨を降らせる。その後、ヴィシュヌ神はアナンタに座し、その頭上には多頭の蛇がヴィシュヌ神を守護するかのように首をもたげる。この姿に似たものは仏教の中にも見られ、アナンタはアナンタ竜王(難陀竜王)と名を変え、仏陀の守護神として登場する。

 さらにヴィシュヌ神、アナンタと切り離せないものとして、神鳥ガルーダが挙げられる。ヴィシュヌ神は横たわり、座す時にはアナンタを用いるが、移動を行う時にはガルーダの背に乗って天空を飛翔するとされ、ガルーダも後に迦楼羅として仏教に取り入れられている。

ガルーダは鷹のような鋭い爪と嘴、大きな翼と尾を有し、悪をくじく戦いの神と信仰され、ナーガの天敵であり、蛇を喰らうといわれる。ガルーダとナーガはともにヒンズー教の中で聖獣とみなされており、一対となって正と悪、天界と冥界、東と西、男性と女性をそれぞれ象徴している。ヒンズー教の美術品として、ナーガを背にしたガルーダ像や多頭のナーガにまたがったガルーダ像が東南アジア、主にインドネシア、アンコール・ワットに残されている。

 聖獣としての龍のみならず、『リグ・ヴェーダ』のヴリトラ龍とインドラ神の戦いと同様に、ヒンズー教においても毒龍カーリヤとクリシュナ神の戦いの物語が存在している。カーリヤ龍は蛇の王とされ、ガンジス川または海に棲み、五つの頭と毒気を持ち、五つの口から炎とともに吐き出す。

クリシュナ神はヴィシュヌ神の化身のひとつであり、ヒンズー教の二大叙事詩のひとつ『マハーバーラタ』に牧童として登場する。同じく仏教の中にも悪龍が登場する。仏法に従わず、雨を呼び起こして五穀に大きな災害をもたらすとされる龍王が存在しているのである。

 ナーガ信仰はインドのみならず、東南アジアを中心とした地域にその姿をみることができる。イスラム教の伝播によりヒンズー教の衰退を余儀なくされた東南アジアでは、ナーガやガルーダをモチーフにした美術品がインドネシアやカンボジアのアンコール・ワットなどの遺跡に残されているように、以前はヒンズー教徒がその多くを占め、それとともに仏教もが取り入れられ、それぞれ独自の文化が息づいていた。

またネパールにおいてもナーガ信仰が行われており、ヒンズー教や仏教からの影響を多く受けている。首都カトマンズはナーガが住まう地といわれ、ナーガをカトマンズ盆地の守護神として祀っている。ネパールはインドからの移住者によって支配され、その王朝が栄えた。当時の王宮跡や寺院にはモチーフとなったナーガが多く刻まれており、今日でも五穀に恵みの雨をもたらす水の神として信仰の対象となっている。さらにラオスでもナーガが信仰され、やはり、昔栄えた王宮や寺院などにナーガを刻んだものが見受けられる。

ナーガは河や海、水源の支配者であり、雨を自由に操る能力を有すると考えられ、今日でもラオス、タイの龍船祭を始めとして、ネパールなど各地で降雨を祈願する祭りが行われている。

 各地でナーガを対象とする雨乞いが行われているように、ナーガ信仰は善の性質をより多く持つ。インドに棲息する猛毒コブラは人々に死をもたらす動物として恐れられていたが、古代人はそれを崇めることで危険を遠ざけられると考えていた。インドの原住民18によって行われていた蛇神崇拝などの民間信仰は、徐々に異民族の中に取り入れられていったが、当初、侵入者であるアーリア人にとって敵対する原住民の信仰は邪悪なものとして扱われていた。

そのため、悪としての性質を持つ龍も神話や伝説とともに生き続け、ナーガが善悪二面性を有するに至ったのだろう。

続く
 
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大和魂 25 ( No.27 )
日時: 2010/10/15 11:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

第二章 中国の神獣・龍

 第二章では、中国において龍がどのように捉えられ、信仰されてきたのか。第一章で西洋の龍、アジアの蛇について取り上げたと同様に、中国の龍の形態、性質、自然との結びつきを中心に考察していきたい。

(一) 皇帝のシンボル

 すでに序章で述べたことだが、中国における龍は四霊、四神思想を始めとするように、聖獣、守護神などとみなされ、信仰対象として親しまれている。中国の聖なる神獣・龍、西洋の邪悪なる怪獣・ドラゴンといった通り、対照的な性質であることを両者の相違点における特徴とする。龍とドラゴン、全く異なる性格を有しているにもかかわらず、一般的に西洋のドラゴンは龍と訳され、同一の動物として認識されている。

このことからも推測できるように、両者とも似通った形態を有している。まずここで混乱を避けるためにも、この章では西洋の龍を「ドラゴン」、中国のものを「龍」と呼ぶことに統一する。

ドラゴンと同様に中国の龍もいくつかの動物を組み合わせた複合動物である。鋭い爪のついた四本の足を持つ、鱗でおおわれた蛇のような胴体を基本とし、頭には二本の角と髭をそなえている。龍の形態に関して、「九似説」と称される鹿の角やみずちの腹、鬼または兎の眼、虎の掌など、九つの動物のある部分を併せ持つともいわれている。

当然のことながら神獣・龍も天を自由に飛翔する能力を有する。しかし、その多くの龍は胴体に翼をつけていることはない。翼を持つ龍は応龍と称され、分類される。さらに空を飛ぶ龍を飛龍ともいう。龍は飛翔できるだけではなく、水中深くに潜り、さらには自由自在に姿を変えることができるという。

複数の動物を合成し、多くの能力を持ち、吉祥とされ、人々の様々な願望を表した姿をしているのである。さきに序章で述べた『家語』においてはあらゆる生きものを虫と称し、鳳・麟・亀・龍・人を五霊と定めた上で、それぞれに中央を含めた五方位を配して諸虫の首としており、その中でも龍は鱗虫の長であると記している。

鱗虫とは魚類のことである。また、『淮南子』では龍をあらゆる生き物の祖とし、それぞれの祖を羽虫は飛龍、毛虫は応龍、鱗虫はみずちの意も持つ咬龍、介虫は先龍であると記載している。羽虫は鳥類、毛虫は獣、介虫はかたい外皮をもった動物を指す。

 龍は強い力を象徴しており、ドラゴン、ナーガ三者ともに共通していることだが、龍は神の配下である。中国の古代神話、伝説には禹の行った治水についての話が語られている。禹の父は鯀といい、父子は帝であった堯と舜に仕えていたとされている。

死んだ後三年を経ても鯀の死体は朽ちることなく、その腹の中から様々な神力を身につけ、龍となって禹が誕生したと伝えられている。黄河などの大河を抱える中国にとって、河の氾濫は生活を脅かす大問題であり、政を行う上で治水は重要なことで、そのためか、禹が治水を成功させたことにより舜は帝の位を譲ったのである。ここで中国初の王朝とされる夏王朝が幕を開ける。禹が行った治水には、その助けとして応龍や一群の大龍小龍が登場し、また龍は禹一族のトーテムとされている。

続く
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大和魂 26 ( No.28 )
日時: 2010/10/15 11:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

さらに中国神話において伏羲・女 という二人の神が天地を創造したとされるが、この神々の上半身は人、下半身は蛇の胴体を持つという。古代人にとって龍は鳳とともに重要な地位に位置していた。

同じことはその後、漢代以降の皇帝にもみられるようになる。天子の顔を例えて龍顔、龍犀と称し、龍母という皇太后の尊称、天子の即位を龍飛というように、中国では龍は専ら皇帝のシンボルとされている。

特にその中でも二つの角と五つの爪を持つ龍は皇帝を象徴するものとして神聖視されており、民間で用いることを禁じ、龍袍ともいわれるように皇帝の衣服や紫禁城の至るところ、さらには殿内に残されている皇帝の所有物とされる様々なものに二本角と五本爪の龍が使用されていた。

龍は皇帝自身そのものでもあり、皇帝もしくは王朝の守護神でもある。第二章で、仏典に記載されたナーガが中国に持ち込まれた際に、龍と訳されたと述べたが、ナーガが仏教の守護神とみなされているように、中国でも龍が似た性格を持ち、その上ナーガ、龍の両者が大蛇に似た形態をしているために龍と同一の聖獣として認識されたと考えられる。

 日本においてもよく使用されているが、「逆鱗に触れる」「画龍点睛」「登龍門」などといったように龍の字のついた言葉がたくさん存在している。上に挙げた三つは中国で生まれた言葉である。「逆鱗に触れる」は中国の故事によるもので、龍の喉の下に逆さに生えた鱗が一枚だけあり、もし人がこれに触れると、龍は必ずその人を殺したということから、君主や目上の人の激しい怒りをかう意を持つ。

「画龍点睛」は物事を完成させるための大切な一点の意味だが、やはり中国の絵の名手が描いた龍に最後に睛(ひとみ)を描き入れると、たちまち龍が天に昇ってしまったという故事から、「登龍門」は立身出世のための関門の意であり、黄河の上流にある龍門を登ることに成功した鯉が龍になったという故事によるものである。このように、中国には龍に関する説話や物語などが数多く言い伝えられている。

 聖なる獣・龍ではあるが、中国においても龍退治の物語が存在している。『淮南子』には、空に穴が開き、天地のバランスが崩れてしまったときに、女 が五色の石を練り上げて作ったものを用いて空を修繕した。それとともに大雨を降らせていた黒龍を殺し、大洪水を止め、冀州を救ったと記されている。民話には黒い龍が村の谷川の水をすべて飲み干し、涸らしてしまったためにその龍は殺され、岩に姿を変えたという。

また中国には四海や河、湖などを守護するとともに暴れ者として河を氾濫させるといわれる龍王が存在し、その龍を退治する英雄が登場するのである。とはいえ、その多くの龍は神の配下や吉兆を示す神聖なものであり、さらには長寿、円満など人々の願いを象徴した、信仰の対象としてみなされているのである。

続く
 
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大和魂 27 ( No.29 )
日時: 2010/10/15 11:31
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

(二) 龍の信仰

 第二項では、龍が実際にどのように信仰されているのかを見ていきたい。
 龍もドラゴン同様、水中や海、河川、湖などを棲処とする。ただ物語やファンタジーに登場するドラゴンは、その多くが暗いイメージのまとわりつく洞窟を棲処とするが、龍にはあまりみられない。水棲の動物であるためか、龍も「水」と結びつけられる。

西洋ではドラゴン退治を行った神々が雨を降らせる存在であるのに対して、中国では龍が雲を起こし、恵みの雨をもたらす神であり、雨乞いの対象とされる。龍は水のシンボルともいわれ、人々のみならず総ての生き物にとって死活問題である海や河川の支配者として水や雨を自在に操り雨を呼び起こし、さらには洪水の原因となると考えられている。

そのため龍を敬い、崇めるのである。仏教では龍王を祀る王廟をつくり供物を供え、ヒンズー教や密教にも雨乞いが行われているが、中国においても古くから農民によって龍の踊りや呪文を唱えることで雨を祈願したという。乾いた土に水をかけその泥で龍型をつくり、その土龍に降雨を祈り、唐の玄宗皇帝は大干魃時に、龍だけを描いている絵描きに龍を描かせ雨乞いをしたと伝えられる。

 また中国各地で龍に関する行事が行われ、一年を通してみることができる。旧暦一月龍灯、旧暦二月龍抬頭、旧暦五月分龍節、雲南省では旧暦五月に龍王を祭って供物を捧げ、旧暦七月には龍母の昇天を、旧暦の八月には龍公の昇天を見送る。ラオス、タイ同様に、中国の大河でも夏の始まる頃に龍頭祭が催される。青海省の省都西寧は、かつてのシルクロード南ルートであり、チベット族やモンゴル族、回族の人々が多く生活している。

この地には黄河という大河が流れ、青海湖がある。ここにおいても旧暦の七月に龍に関する祭祀、「海祭り」が行われている。ラマ僧によって楽が催され、海に捧げる供物が用意され、「赤、青、白、黄色の「龍達」とよばれる紙片もこの炎に向かってなげいれるや、炎のいきおいで空高く舞い上がる。うまく舞い上がると五穀豊穣や家畜の繁栄などが約束される兆しとして喜ばれる」。

その後「法舞」という舞が行われる。虎や龍、牛などの動物をかたどった面をつけたラマ僧によって舞が舞われ、護法神としての役割を持つ。チベット族でも「龍舞祭」が行われる。ここでも火が燃え、そこに龍達(ロンダー)や供物の五穀が人々の手によって投げ入れられる。

「火炎の気流にのって空高く舞い上がる龍達は、龍が天に昇るようにさえ見える」という。さらに龍舞、「大きな円形を描き龍がとぐろを巻いているように龍の舞」が舞われ、龍女を意味する女体像が登場する。また、湖南省や貴州省に暮らすミャオ族では龍王が信仰されている。秋の稲収穫後または春の耕し前に、龍を呼び出す儀式を行う。

そこには伝統的な色と方位との関係がみられる東の青龍、南の赤龍、西の白龍、北の黒龍、中央の黄龍が登場するのである。黄色は中国にとって特別な意を持つ色であり、神話に語られる禹の姿は龍であったと先に触れたが、その龍は黄龍であった。

続く
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大和魂 28 ( No.30 )
日時: 2010/10/15 11:32
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

龍は長寿または不死と結びつき、天高く飛翔することから天地を行き来することができ、天上への乗り物と考えられた。龍は春分には地上から天に昇っていき、秋分には下りてきて淵に入るという。

このことは空に瞬く星と関係しているのだろう。序章で記述した戦国時代前期の曾候乙墓から出土した漆箱の蓋には、北斗七星にあたる星名とともに二十八宿がみられ、東方と西方に青龍七宿と白虎七宿が対として表わされ、その後南方と北方に朱雀七宿と玄武七宿がそれぞれ加えられたが、四方にわけた天に四神をあてはめる思想の原型がすでにあったことを示している。

文献に関しては漢代に司馬遷によって書かれた『史記』律書には、四方に配された二十八宿についての記載がある。この東方の青龍にあたる七宿は西洋においてはサソリが連想された。その中でも一番明るい光を放ち、サソリの心臓とされるアンタレスは中国では心(なかご)とも大火あるいは火とも称されているが、特に春分のころに空に輝き、秋分のころには姿を見せなくなった故に、淵に入るとされたのではないだろうか。すなわちこの季節は農業にとって作物を生育させるために必要不可欠な恵みの雨がもたらされるために、龍と雨乞いとが関連づけられたのだろう。

「十二支は殷代にさかのぼれる」という。

その中でも唯一十二支に登場する、想像上の動物である、辰。「辰」は北極星や北斗七星を指し、また東方青龍七宿のひとつである房(そい)星のことでもあり、青龍の本体のことを指している。このことからも四神思想と星宿が密接に関わりを持っていることが推測できる。

「四神」という思想は曾候乙墓の漆箱からもみてとれるように、その原型はおよそ戦国時代に成立していた。様々な造形に表現され、現存の動物を土台にしてイメージした「四神」を象徴する神獣として青龍、白虎、朱雀、玄武が配されるのは、漢代の中期、武帝以降のことである。武帝は神秘主義的性格の強い儒教を国教とし、陰陽五行説に基づく四神図像が成立した。それ以前の漢代には四神ではなく、三神の例が多くある。

「戦国末から前漢初の図像資料のなかには、亀と蛇の交尾形である玄武が描かれていないものも多く、玄武が最後に四神の仲間入りしたことだけは明らかである」という。

四神は天体で、もともと天の四方に配された星宿の名であり、それが徐々に下へとさがり、地の四方の守り神となった。中国人は中央を加えた五方を基本として考えており、四神思想は五行思想に基づいている。また方格規矩四神鏡からは、四角い大地と円い天がその上にあるとする「天四地方」が見てとられ、大地の四方に柱=四極が天を支えているという思想が反映されている。

続く
 
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大和魂 29 ( No.31 )
日時: 2010/10/15 11:37
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

 第三章 龍の起源説

 第三章では、古代中国人がどのような思想に基づき、どのように自然と接していたのか結論を導くために、龍がどういった経緯で成立したのか、明確な答えが得られる問題ではないと思われるが、様々な起源説が存在する中でも、特に蛇、ワニ、恐竜など爬虫類を中心とする動物を起源とするもの、また河や雷など自然現象を起源とする説を取り上げる。

 (一) 龍と蛇

 現存する動物の中で、龍に一番近い形態を持つとされるものは蛇であろう。ドラゴンについて述べた項にあるように、西洋の龍・ドラゴンは一般的に緑や黒っぽい色の鱗におおわれた蛇、もしくは蜥蜴のような爬虫類の胴体を持つとされる。『新約聖書』に登場するドラゴンは年を経た蛇として書かれ、エジプト神話のアポピスは大蛇で蛇の王であった。

また「ドラゴン」の由来とされる「ドラコーン」はギリシア語で蛇を意味する言葉であるし、その多くは蛇が変化したものとして表わされている。さらにエジプトで発掘されたツタンカーメン王の黄金のマスクには蛇が装飾されており、「エジプトの象徴のハゲワシとコブラ」とあるように蛇は信仰の対象でもあった。

わたしは第一章でエジプトを地理的に捉えた上で西洋のものとして扱ったが、エジプトにはウラエウスという蛇形の聖獣がおり、「エジプトではウラエウスが中国の龍とおなじように王権のシンボルであった」とあるように毒蛇コブラを神格化し、信仰の対象としていた。

善のウラエウスと悪のアポピス、それぞれの性質を持つ蛇がエジプトには存在し、そのままの姿のコブラを信仰する文化は西洋には見られないもので、ドラゴンというよりも、善悪二面性を共有するインドのナーガに共通点が多く見られる。

同じくナーガも毒蛇コブラを神格化したものであり、インドを始め東南アジアに広く分布するナーガ信仰は、インドの原住民によって民間信仰として行われていた蛇神信仰が徐々に龍神信仰として形を変え、取り入れられた結果による。ヒンズー教の神、シヴァ神が身体に巻き付けたもの、ヴィシュヌ神が従えているものは蛇であり、ヒンズー教に登場する毒龍カーリヤも蛇の王であった。

 ドラゴン、ナーガと同様に中国の龍も基本体は蛇の胴体に似た、鱗におおわれたものとして描かれている。洪水になると、河を生きたまま流れる姿がみられたため、蛇が洪水を起こすとも考えられていた。龍の形態に関して九似説に蛇の項とみずちの腹とあるように、みずちは蛇に似た形態を持つ想像上の動物であり、龍はその身体に蛇の部位を多く持つ。さらに中国において天地の創造神である伏羲・女カの下半身は蛇であった。

続く
 
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大和魂 30 ( No.32 )
日時: 2010/10/15 11:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

蛇に関する信仰は世界各地で見られるもので、日本も例外ではない。中国の四神思想や龍信仰から多くの影響を受け、それらを吸収するとともに他地域と同様に独自の文化をも誕生させている。

日本神話においても蛇退治の話が存在する。素佐之男命(すさのおのみこと)と八岐大蛇(やまたのおろち)との一戦である。大蛇は年を経て巨大化した蛇で、ここに登場する大蛇は、身体に四肢を持たず、蛇形を保ったまま頭のみが龍と化したものとして描かれる。「この神話は、異文化の部族同士の争いを神格化したもので、大蛇の尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得たということは、一方を鉄文化を持った部族とする説もある」という。

この神話は『リグ・ヴェータ』に書かれた、インドの侵略者アーリア人によるインドラ神と原住民による蛇神崇拝がアヒとして描かれ、対立した物語に類似点があるように思われる。

 以上に示した通り龍の起源は蛇にあり、龍は正当さを主張するために用いられ、「龍は政治化された蛇である」とする説がある一方で、「蛇にあると思っていた龍の起源はまったくの誤りであった。龍は馬や猪あるいは鹿などのトーテムを中心として形成されたものであった。

蛇が龍の中に取り入れられた部分もあるが、蛇がその中心的母体となって龍になったわけではない」といった説もある。ナーガの起源は蛇であるのは明らかである。龍の起源をドラゴン、ナーガの両者と同一のものと見なすのであれば、龍の起源は蛇であろう。

しかし、ナーガは中国に伝播するにあたって、龍と類似する性質を有していたことも関係して同一のものと認識されただけであって、中国の龍とナーガは異なるものである。アジアにおける龍神崇拝は蛇神崇拝を基としたものであるが、仏法がもたらされるより以前にすでに中国には龍が存在していた。

とする一方、蛇そのままの形態を持つナーガが中国において龍と同一視されたのは、龍もナーガ同様、蛇を起源とする動物だからだろうか。また形態こそ類似するものではあるが、善と悪、全く異なった性質を持つ龍とドラゴンは同一のものではない。それぞれ独自の起源を持つのだろうか。

続く
 
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大和魂 31 ( No.33 )
日時: 2010/10/15 11:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

ここでまた、閑話休題。

以下は、トブゾー氏が寄せられたものです。

注連縄(しめなわ)は蛇が絡む様子を示しています。要するにオスとメスの絡み。蛇の生命力は強いとされており、それが注連縄で表される。
注連縄は土着の神を社内に閉じ込める意味があります。大注連縄で有名な出雲大社など、地元の勢力が強ければ強いほど、大きな注連縄で閉める必要があったわけです。

お祭りで神社の周囲に巡らされる縄に付けられたぎざぎざの白い紙は稲光を表わす。ようするに蛇や龍の登場は、稲光とともに雨をもたらすということで尊重されます。雷はアーリア人の神でもありました。
メンテ
大和魂 32 ( No.34 )
日時: 2010/10/15 11:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

Res38
引用

 (二) 恐龍とワニ

 次に挙げるのは、主に中生代に繁栄した大型爬虫類、恐龍を起源とする説である。「近代になって恐竜の化石の発見が多くなるにつれて判明したことは、この巨大な爬虫類が竜の基本形態に似ているし、その怪異な姿は西洋人の想像した竜とよく似ている」ことによる説で、その巨大な生物は様々な能力を持つと考えられ、信仰されるに至った。

「たかだか今より二千年か三千年くらい前までは、たとえ稀であっても、恐龍が出没しなかったとは言い切れないはずだ。五千年前や、一万年前には、もっとひんぱんに出現していたとしたなら、遅く登場した人類は目撃しえたはずで、人類の遺伝子へきっちりその恐怖とともにインプットされていても、おかしくはない」という。

恐龍を起源とする説においても信仰理由はそのものに対する恐れであり、畏怖によって神格化された。インドで毒蛇コブラがその危険さゆえに崇められた理由と同様であると言える。龍が恐龍であるならば、序章で十二支の中で辰は唯一の想像上の動物であると述べたが、すでに絶滅し、実在しない生物ではあるといえ、「かつては確実に存在していた故に、十二支の中に数えられ」たのである。

 同じく爬虫類のワニを龍の起源とした説がある。絶滅した恐龍に一番近い形態を持つ動物はワニであろう。特にドラゴンは恐竜に似た形態をしており、四肢を持つといった特徴が共通点としてみてとれる。とするならば、ドラゴンはワニを起源としていると言うことができる。古代エジプトでは蛇を始めとする様々な動物が神聖なものとして扱われており、ワニもその中のひとつであった。

そのエジプト文明を栄えさせたナイル川には凶暴なナイルワニが棲息している。インドやエジプトのコブラと同様に、「ナイルではワニの存在が恐怖の具現者として絶大であったために、そのまま神格化したのである」38中国にも揚子江流域あたりにワニが棲息していたとされ、龍の起源となったとも言われている。『ワニと龍』の中では、「蛟」はすなわちワニを指し、後漢時代になり気候の寒冷化が進む以前には揚子江にも棲息していたが、姿を消したために、龍へと変化したのだと述べている。

このような理由を挙げ、「ワニが「龍」であって十二支の中の動物だ」とも言っている。とすると、龍の起源が恐竜であれ、ワニであれ、全くの想像上の動物だとは言い切ることができない。実在していたからこそ、十二支のひとつに数えあげられたのだと言うことができる。

 以上のように生物を起源とするものをいくつか取り上げてみたが、その他にも同じ爬虫類では蜥蜴、ほ乳類では馬や牛、鹿、猪、または魚類など様々な動物を起源とする説が数多くある。わたしは龍の起源は、次に取り上げる自然現象から生まれたのではないか、という説が有力であるように思われる。いくつかの動物を組み合わせた形態を持つ龍は、人々の願望、あこがれの象徴であり、様々な能力を付与するためにも複合されるに至ったのだろう。

続く
 

メンテ
大和魂 33 ( No.35 )
日時: 2010/10/15 11:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

(三) 自然現象

 自然現象を起源とする説で、まず取り上げるものはその起源を河とする説であり、「中国では、蛇行する長大な河が、竜、龍のイメージを」持ったことから龍思想が生まれたという。ナイル川がエジプト文明を育んだように、中国においても中国北方を流れる広大な黄河が古代文明を築いた。河は生活や農業、人類の営みと密接に関わりを持つ。

洪水が起これば全てのものは水に流され失われてしまう。逆に河が枯渇してしまっても人間は生きていくことができない。自然は恵みをもたらすとともに、脅威でもあった。伝説の中で夏の始祖、禹が治水を行ったことから帝の地位についたように、古代の政治においては治水を成功させることが最重要課題であった。そのため、水・河の神を崇め、河が常に平穏であり、恵みをもたらしてくれることを願ったのだろう。

 大河は文明の繁栄において重要な役割を持ち、黄河文明よりも早くに誕生した、人類初とされるシュメール人が築いた古代メソポタミア文明もティグリス、ユーフラテス河と切り離して考えることはできない。やはりこの河も恵みを与えもし、氾濫も引き起こした。シュメールの印章には龍退治をモチーフにしたとされる図が描かれている。その後この神話は第一章で記した、「南メソポタミアの覇者となったバビロニアに引きつがれ」て、英雄マルドゥークと龍ティアマトとして登場している。

 次に龍の起源を雷とする、古代の人々は空に閃く稲妻から龍をイメージしたのであろうとする説である。気の遠くなるような時間を経た今日でも、自然のシステムが変化することはなく、稲妻、雷鳴と同時に雨がもたらされ、この現象は春分から秋分にかけて特に多くみられる。

雷と雨は結び付いた自然現象であり雷すなわち龍が雨を呼ぶと考えられ、稲妻の形が龍の姿を連想させ、雷鳴は龍の吠える様子とも想像されたのではないか。また雷はときに嵐と伴い、河を氾濫させる原因でもあり、自然の脅威の力は恐怖でもあった。そのため、龍は人々に恵みをもたらすと同時に畏怖の念をも抱かせる神として崇められ、雨乞いの対象、雨・水の神となるに至った。さらに雷は神鳴りの意味も持っている。

とすると、西洋のドラゴンは雷を起源とはしないのだろうか。ドラゴンは雨を降らす能力は持っておらず、そのドラゴンを退治した神々が雨をもたらすのである。バビロニアの英雄マルドゥークは雷と嵐を武器としていた。その一方、ヒッタイトでは稲妻や嵐は龍がもたらすものと考えられていた。雷が立ち去った後には、必ずといって良い程太陽が顔を覗かせる。ペルシャのゾロアスター教やエジプトでは水の神ではなく、太陽を神として信仰していた。

続く
メンテ
大和魂 34 ( No.36 )
日時: 2010/10/15 11:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

 雷と同様に、自然現象である龍巻を起源とする説では、「竜巻は雷雨にともなわれる場合が多いし、地表の地物を巻きあげたり、水面では魚類などを巻きあげて魚などの雨を降らせたりする」ことによって龍が生まれたという。

しかし、龍巻はめったに見られるものではない。また雷、龍巻と関連して、千変万化である雲を起源とする説がある。「地上の水蒸気が天上の雲を生み、雨または豪雨となって地上にもどる。この豪雨は巨大な土石流をひきおこし山野を疾駆する。雲はときに雷雲となって、稲妻を閃かせ雷鳴を轟かす。また雲は風をよび龍巻となって大地を移行する」

 次に「竜の機能すなわち、竜の天に昇り、われわれの生活にもっとも関係の深い農業に必要な雨を降らす霊物として天然現象を竜の原型として考えられる」とされる天上の星を起源とする説である。すでに第二章、龍の信仰で述べたが、四神は天の星としての守護者から地に下り、四方の守護者となった。春分から秋分にかけて姿を表わす一等星、アンタレスが古代中国では龍と連想され、農作物の生育において必要とされる雨が降雨する季節に出現する星でもあり、雨をもたらす神として雨乞いの儀式が行われるようになったという。

また人々は天上世界にあこがれを抱いていた。龍は天上への乗り物とされ、不老長寿、不死延命を願う神仙思想と結びつけられた。すなわち天に輝く星々が天上へ導くもの、龍であった。しかし、「星座を竜に見立てるには、まずその前に竜の観念がなければならない」とされ、空に輝く龍が雨・水の神となった理由としては認められるが、そこから龍が生み出されたとは言い切れず、「議論が逆である」と考えられる。

 龍の飛翔や変幻自在といった能力は自然に由来するものであり、人間を超越した自然の力が人の想像力を掻き立たせ、龍を生み出した。あらゆる生き物にとって水は生きていく上で最も重要なもので、よって信仰の対象となり得たのだろう。ここに似た形態を持つ蛇などの動物が結び付き、さらに様々な動物の形態が組み合わされていき、その動物の特徴までもが取り込まれ、現在にみられる龍が誕生したのだろう。

続き
 
メンテ
大和魂 35 ( No.37 )
日時: 2010/10/15 11:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

第四章 結論

 世界各地至るところで「龍」に関する神話や伝説、物語などが数多く存在する。ドラゴン、ナーガ、龍、三者それぞれが起源を持ち、各地で似たような形態を有する動物が想像された。ナーガおよびエジプトの蛇信仰はコブラが神格化した姿であり、ドラゴン、龍の起源が蛇やワニを始めとする爬虫類のものであれ、河や雷の自然現象であれ、すべてに共通することは、崇拝されるに至った理由はそのものに対する恐怖と畏怖が背景に存在していることである。

また強大な力を持つ動物であることも共通点であると言える。そのため、龍を退治することで西洋の神々・英雄は自らの力を示すことに利用し、中国においては皇帝を守護する者として、その存在を認められた。退治される対象であっても嵐や稲妻とともに洪水をひきおこす原因として、神獣であっても雨をもたらすものとして、水をシンボルする動物であり、水・雨と関連して考えられている。

第三章で前述した通り、人類文明の繁栄において河は重要な役割を担い、文明の栄えた地には必要不可欠なものとして大河が流れている。四大文明と定義されるメソポタミア文明にはティグリス、ユーフラテス河が、エジプト文明にはナイル川が、インダス文明、黄河文明にもそれぞれ、その文明の名を持つ大河が横たわる。

 では、なぜドラゴンは邪悪と悪魔視され、龍は神獣として、全く異なった信仰が行われるに至ったのだろう。それは西洋世界を中心とする人々と古代中国人との自然に対する考えの違いが原因である。退治されるドラゴンはすなわち、人間が自然をも支配しようとした考えの表われであり、河を象徴するドラゴンは敵対者とみなされた。

中国においても河の氾濫をひきおこす龍は恐れられてはいたが、その恐怖は畏敬の対象となり神として崇められたのである。古代中国人は、人間をはるかに超越した力を有する自然を征服しようとはせず、自然の法則に従い、自然とともに共存し生を営んできた。『老子』においては「自然の存在を総体的にとらえて、いわば自然の意味とか精神と言ってもよいような一種の自然界の理法を尊重している」、「中国では、天は自然であると共に主宰者でもあって、そういうものとしてまた人と密接に関係しているという形で、長い歴史をつらぬいてきた」、このような思想を生み出してきた中国では自然を象徴する龍が敵対者とみなされることはなかったのである。

 またドラゴンと龍の捉えられ方が異なるに至った理由には、古代においては生活そのものであった、それぞれの土地で行われてきた農業の状況が大きく関わっている。「東洋の灌漑水に依存する稲作・漁撈地帯では、ドラゴンは神であり、そこでは人々は自然を畏敬し、異なるものと共生融合し、あらゆるものは再生と循環をくりかえすと考えた」が、「これに対し、天水に依存するドラゴンを殺す麦作・牧畜地帯の西洋文明は、自然を支配し分析する近代科学を発展させ、人類に幸せをもたらした」。

しかし、人類が発展したことにより地球の自然は壊れ始め、今日では様々な環境問題を抱えている。自然を敬い、共生してきた中国古代の思想に、今こそ立ち返り、見つめ直すときがきている。

終わり
 
メンテ
大和魂 36 ( No.38 )
日時: 2010/10/15 11:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

日本の竜神伝説を2つ紹介します。

「大分県 震動の滝の竜神伝説」

昔々、震動滝の竜神が年老いてきて、神通力が年々衰えるのを苦にし
どうにかして若い人間を食いたいと願っていた。
ある日北方の釣り人に神通力を送った。それとは知らずいつもよりよく釣れるので釣り人はとうとう滝つぼまで引き寄せられて竜神につかまった。

竜神が「不老長寿の薬にお前の娘をどうしても食いたい。
差し出さねばお前を食うまでだ」と迫ったので釣り人は恐ろしさのあまり
娘を捧げる約束をして逃げ帰ったと。

しかしいつまで待っても娘が来ないので竜神はとうとう怒ってしまい
神通力で部落の底を抜いて水を抜き捨ててしまった。

田も畑も作物は枯れ、井戸水もなくなり部落は最大の危機に見舞われた。
そして竜神は最後の力を振り絞り、断崖をよじ登り部落に火を吹きつけ始めたと。

そこで娘の恋人の若者が一計を思いつき部落総出で白鳥神社に集まり
餅をつき不老長寿の祈願を受けて竜神に捧げた。
竜神も白鳥神社には一言もなく引き下がり、部落は難儀を救われた。
その後天災や大水の出るたびに部落では餅をつき、滝つぼに投げ入れて
竜神の機嫌をとるようになったと。

竜神が崖を這い上がった時の跡が今も残っていて、白崩れとか竜神崩れとかいって
白鳥神社の横に大きく口を開けていてのぞくと恐ろしいということじゃ。



津南町立芦ヶ崎小学校編  「竜ヶ窪に伝わるお話」より

ある年長い日照りが続き、村人はヒエやアワどころか水一滴なく苦しい生活をしていました。

ある時一人の青年が食べ物を探しに出かけると、昼寝をしている龍の側に卵があるのを見つけ、 盗み出しました。村に帰り、せめて年寄りや子供にだけでも食べさせようと卵を割ると、 中から龍の子が現れ母親に助けを求めたのです。怒りに狂った母親龍が村人を食い殺そうとすると、 村人は「子供だけは助けてほしい」と必死で頼みました。

龍はその心に打たれ、村人のために3日3晩雨を降らせ池を作ってやりました。 そして「この池はおまえたちの美しい心の象徴だ。しかし人の心の曇るとき、この池は涸れてしまうであろう」と言い残して消えました。 村人はこの池を『龍ヶ窪』と名付けて大切にし、龍神様をおまつりしたということです。
 
一部重複してしまいました。

続く
メンテ
大和魂 37 ( No.39 )
日時: 2010/10/15 11:48
名前: 天橋立の愚痴人間

如何でしょうか、日本の竜神伝説の優しい事が御分かりと思います。
怨霊伝説、悪魔伝説と同じように人間の恐怖心の裏返しで各種の伝説は言い伝えられています。

その恐怖とは何であったのでしょうか。

一番に考えら得ることは餓えへの恐怖、つまりは作物の不作だったと思います、狩猟や漁業の成果を祈願する面もあったと思いますが、これは古代のことである程度は安定していたでしょう。

その次には、生命の不安だったでしょう。
疫病、戦い、さらには権力者にとっては永遠の生命を求めていたかも知れません。

そう言うものの対象が水生動物としての龍(ドラゴン)へ向かったともいえます。また、荒れ狂う大河の流域の人々が大河を恐れたのかも知れません。

ヨーロッパではドラゴンは悪魔のように恐れられる存在だけであった事と、中国などでは権力の象徴としてより用いられたことなど、それぞれに民族性が感じられます。

一神教の影響が強いヨーロッパは、あくまでも善をなすものは神のみであり、全てをそれと対立して考える方向が強いようです。
ですからドラゴンはあくまでも人々に害をなす存在として恐れられ、祀られてきたと思います。

それと対極にあるのが日本で、龍をも篭絡し人々に善を成す存在に置き換えています。龍神を手厚く祀ること(自戒すること)によって豊作が得られると言うことです。

一方、中国では、人々のそんな思い(豊作祈願)よりも、為政者の威光のために龍が用いられてきたようです。

ヨーロッパや中国などでは、これから述べることになりますが、国家や群落同士が血で血を洗う闘争が続いていました。豊作よりも戦いに勝って生き抜くことの方が重要であったとも思います。

また神と個人の対話を旨とする一神教が育っている社会では、集団としての祈願などは興味がなかったのかも知れません。

勿論、何処の地方でも出発は豊作祈願から始まったのではないかと思います。
それが地域性、民族性によって別々の様式に変化していることを認識してドラゴンの項を終わりとします。
 
メンテ
大和魂 38 ( No.40 )
日時: 2010/10/16 09:18
名前: 天橋立の愚痴人間

伝説や神話などを長々と語っていますのは、それによって、思想を説いた書物などには出てこない人々の心情に触れたいからです。
ピラミッドやポンペイの遺跡などを通して、当時の人々の生き様を想像することも、興味深いものです。

今までは「竜神伝説」を介して人間界と天界(大自然の理)の関係を見てきましたが、人々から見た世界観を垣間見る伝説もあります。

それを「猿神伝説」で覗いた後、「七夕伝説」で同じテーマの伝説でも、日本、中国、韓国などでどのように異なっているかを見てみましょう。


「白猿伝。」

西暦五百三十五年〜五百四十五年頃、南朝の梁の武帝は平南将軍、蘭欽(りんきん)と別動軍の武将、欧陽糸乞(糸辺に乞と書いてこつ、おうようこつ)を南方遠征に派遣しました。

蘭欽将軍と欧は桂林(現在の広西チョワン族自治区、武宣県西南近辺)まで進みました。欧はあたりの部族をことごとく平定し、険阻な奥地にまで進軍し、そこで陣を休めました。

欧は遠征に妻、鳳仙(ほうせん)を伴っていました。鳳仙は肌のキメが細かく白く、とても美しい女性でした。

その地の部族の長が挨拶に来た時の事です。欧とその横に座る欧の妻を見た長は、非常に驚いた顔をしました。不審に思った欧は、「どうされた? 我が妻に何かご不信がおありか?」とたずねました。長は、非常に困った様子で、しばらく考え込んだ後、欧に答えました。

「この地には神がおり、若い女をさらっていくのです。特に綺麗な女は必ず狙われるのです。どうぞ、奥様に護衛をつけ御守りください。」
欧は鳳仙と顔を見合わせました。

この地の女は皆、男と同じ格好をし、髪を隠し、ほおかむりをしていたのです。部下に調べさせた所、長の言う事は本当で、もう何十人もの若い娘が消え去ったと、このあたりの者はみな同じように話しました。

欧はすぐさま家の周囲に護衛をつけ、鳳仙を屋敷の奥深くの部屋に隠し、妻の回りに、剣を持った女剣士を十余人、見張りにつけました。そして妻の部屋の回りに何重にも兵士を置き、自らも剣を携え、鳳仙の側に陣取りました。

夜になって強い風が吹き、次第に空が真っ暗となりました。一晩中、大風が吹き荒れ、戸をガタガタと叩き、屋敷を揺らし続けました。欧は鳳仙とじっと夜が開けるのを待ちました。午前三時頃、ふっと風がやみ、あたりが静かになりました。欧は鳳仙とあたりを見まわしました。その静けさはどこか異様でした。人の気配、息遣いさえ消えていたのです。

突然、欧は眠気に襲われ、目の前が真っ暗になりました。そしてハッと気がつくと妻の姿が消えていたのです。

欧は驚いて外に出ると、部屋の回りには女剣士が眠っていました。要所要所に配置した兵士も折り重なるように眠りこけていたのです。不思議な事に部屋も屋敷のどこも、すべて鍵がかかったままで、いったい妻がどう連れ去られたのかもわかりませんでした。欧は外に出て追おうとしましたが、あたりは灯さえ飲み込む深い霧に包まれ、何もかも朦朧として一歩も進む事が出来ませんでした。

夜が明けると、眠っていた者も目を覚まし、霧も消えて行きました。欧は妻を追い求め、部下を四方に放って探索を続けました。自分が鳳仙を守りきれなかった事に腹が立って仕方ありませんでした。欧は自ら深い山に入り、とうてい人の行けないような所も、くまなく探しました。

欧は妻を何ヶ月も探し続け、屋敷から百里も離れた竹やぶの中から、鳳仙の履いていたユリの刺繍の靴を見つけました。その小さな靴は、雨に濡れ汚れて痛んでいましたが、間違いなく妻の物でした。

竹やぶの向こうには切り立った険しい山が累々と広がっていました。欧は鳳仙の靴を握りしめると必ず妻を救い出すと奮い立ちました。

欧は屈強な兵士を三十人選抜し、武器と食料をもって、山の中に分け入って行きました。岩陰で夜露をしのぎ、食事を取り、十日あまり進んだ時、山の中にひときわ大きな山を見つけました。その山の回りには、川のように湖が広がっていました。欧と部下はいかだを作り、その湖を渡りました。

欧達は湖をわたり終えると切り立った岩をよじ登りました。 そしてその崖の上には、青々とした竹が生い茂り、庭園のように岩が並び、その間に見た事の無いような花が咲いていました。

欧達は高い山の上に広がる見た事もない光景に不思議に思いました。岩の門をくぐると、足下に絨毯のような緑のしとねがひろがっていたのです。 そして、その向こうには、女達が笑い声をあげながら行き来していました。

欧はその中に妻がいないかと走りよりました。

女達は、突然現れた欧に驚いた様子で、その場に立ち止まりました。欧は女達の中に鳳仙がいないのを知ると、うつむいてしまった。

女達は欧を見つめ、「あなたはどうしてこんな所に来たの?」と、訪ねました。欧は女達に妻が何者かに連れ去られ、妻を探して分け入って来た事を話しました。

女達は顔を見合わせ、「あなたの奥様はここにいらっしゃいます、ついていらっしゃい。」と言うと女達は欧を岩屋の奥へ連れて行きました。岩屋の奥は広間のように広がり、いくつもの部屋がありました。

その中の一つに欧の妻は休んでいました。
  「鳳仙!」

鳳仙は振り向き、欧を見つけると涙をぽろぽろこぼしました。欧は鳳仙の側に駆け寄り抱きしめました。女達も部下も、やっと会えた二人を、ただ見つめていました。

  「すぐにここから逃げよう。」
  しかし鳳仙は首を横に振りました。
  「あのものは人ではありません。 逃げる事など出来ないのです。」
  鳳仙はそう言ってうなだれました。

回りにいた女達も顔を覆い泣きはじめました。欧も部下もどうしていいのかわかりませんでした。女達のまとめ役と思われる女が話しはじめました。

「私たちの中には、十年以上も長い間、ここに捕らわれているものもおります。あのものは一日に何千里も駆け、不思議な技を使います。何百人もの人間が武器を以てしてもかなうものではありません。幸い、まだ戻ってきていないから急いでお逃げください。」
  
「そんなことは出来ません。 目の前に妻がいるものを、勝てないからと言う理由で、置いて逃げる事など出来ません。」欧は鳳仙の手を握りしめて言いました。

女達は顔を見合わせました。そしてしばらく相談しあうと、決心したように欧に言いました。

「あのものは酒が好きで、酔うと必ず自分の力を見せびらかそうと、五色の絹の紐で寝台の上で手足を縛らせ、その紐を引きちぎって見せます。しかし、以前紐を三本よりあわせたらちぎれなかった事があったのです。絹の紐に麻を隠したら、きっと引きちぎる事が出来ないでしょう。 十日後、麻の縄と美酒、エサにする犬を十匹用意して、正午過ぎに来てください。早すぎないように注意してくださいね。」

「わかりました。 十日後、正午過ぎ、ですね。」
欧はそう言い終わると、鳳仙の手を握り、部下と共に山を下りていきました。

それから十日後となりました。
欧と部下三十人は約束通り、麻紐とこおばしい酒、犬を連れ、正午過ぎに山を登ってきました。
  鳳仙と女達は欧達を迎え準備をはじめました。犬を竹の林の中に隠し、お酒の壺を花の中に隠しました。そして、欧達は岩の穴の中に隠れると、怪物が帰ってくるのを待ちました。
  
  午後になり、しばらくすると、空に風が舞い、何か白いものがひらひらと降りてきました。それは、白い髭を生やした王侯貴族のような男でした。女達がその男を出迎えましたが、男は暗く沈んだ顔をしていました。
  「どうなされたのですか?」一人の女が聞きました。
  その男は、「うむ、わしは山の神に訴えられた。 死刑の宣告を受けるかも知れぬ。」と言うと剣を二振り取り、稲妻のように舞い踊りました。剣は岩を裂き、空を割って、大きな音をゴロゴロと響かせ、光の円を描きました。男はひとしきり、舞い踊ると剣を置き、くんくんと鼻を鳴らしました。
  「犬の匂いがする。」
  すると女達は待っていたように、
  「はい。山犬が迷い込んできたのです。」と、ささやきました。
  「ほう、犬か。」
  男は急にうれしそうな顔をすると、鼻を鳴らして犬の匂いをかぎながら、探しました。そして犬を見つけると、身を踊らせてつかみかかり、手足を引き裂いて肉を喰らいました。その姿は、すでに人のものではありませんでした。
  女達は、酒の瓶をとり出し、その怪物の側に置きました。怪物は犬を次々と引き裂き、肉を喰らい、血をすすり、酒を瓶ごと飲み干しました。怪物は犬を食べ尽くすと、女達を連れて岩屋の中に入っていきました。
  中から怪物と女達の笑い声が聞こえてきました。
  しばらくすると岩屋の中から女が一人出てきて、欧達を呼びました。欧と部下三十人は剣を抜くと岩屋の中に躍り込みました。中には麻の仕込まれた絹の紐で縛られた怪物がいました。
  その姿は白く長い毛におおわれた大猿で、欧達を見ると歯をむき出して暴れ、縛った岩の寝台がミシミシと音をたてていました。
  「あなた、早く!」鳳仙が叫びました。
  欧は剣を怪物の頭に打ちつけました。しかし、怪物の毛は針金のように強く、体は岩のように硬く、剣をはじきました。欧は剣で何度も打ちつけましたが傷つける事さえ出来ませんでした。部下が剣を振り上げ、欧の加勢をしましたが、剣のはじかれる音がただ響くだけでした。怪物は暴れ、縛っている絹の紐がほつれて、今にも紐を引きちぎりそうでした。

鳳仙は、燭台が倒れ大きな音を出した時、怪物が慌てて自分のへその下をかばった事を思い出しました。
  「へその下よ!」
鳳仙の叫びに、欧は剣を怪物に突き立てました。その剣は怪物のへその下にブスリと吸い込まれ、怪物は大きな声を上げて動きを止めました。

私は千歳になる今まで、子供が出来なかった。今、私の子が出来たのだ。 だから私の死期が来たのだ。」
怪物はつぶやくように声を上げました。
「もし、誰かに子供が生まれたら、大切に育ててくれ。その子は大きくなり、必ず偉大な君主のもとで働き、一族をさかえさせるであろう。」
  
怪物の口からは血が流れ落ち、息絶えました。欧は岩屋の屋敷からたくさんの宝物を見つけました。そして、捕まっていた女達を連れ帰り、あるものは我が家へ、あるものは部下のもとへと嫁がせました。

鳳仙はその後、妊娠し、白い髪の子を生みました。
その子は聡明な子供で、成長後、王宮で王に仕えたと言う事です。              


 
メンテ
大和魂 39 ( No.41 )
日時: 2010/10/16 09:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

Res45
引用

もともと広大な地域で複数の民族が競争して繁栄を図っているので、例え民族単位であっても、その全てを統一して国家を考える事は大変困難でありました。現在の中国の範囲を考えても、最初に統一したのは秦の始皇帝であり、実際の王朝を続けたのは漢(紀元前250年)からです。

また、統一されたと言っても、広大な領土と多数の国民があり、極めの細かい為政が出来たとは考えられません。
中国人には公と私の認識が日本人のそれとはニアンスが少し違うように言う人がいます。

中国は長い間、公(国)は、其処ここにあり、その上、自分が属する公の、その上の公も認めざるを得ないと言うような環境にあったと思います。
それに対して日本の場合は、公といえば、領土的にも民族的にも1つであり、それを損なう外力は殆ど意識しなくてもよい環境でした。

中国人の公の概念は日本人のそれほど、強い観念となっていないのも当然と思います。

次には古代中国の思想について考えます。

時代が少し下って周(紀元前1046〜紀元前256年)、それも春秋戦国といわれるころ、中国では、その後の中国思想となるものが殆ど生まれた時代です。

諸子百家 :中国の周末から漢にかけて出現した,諸学者と諸学派の意。 前漢初期,前後して展開した諸子の学術を,陰陽・儒・墨・名・法・道の六家(りくか)に要約したのは,司馬遷の父,司馬談。さらに前漢後期,すでに国教となって儒家の尊奉した経書は六芸(りくげい:詩・書,礼・楽,易・春秋)として別格に扱われていたが,『漢書』芸文志の諸子部門は,六芸からはずされた儒家の書(53家)を筆頭に,道(37家)・陰陽(21家)・法(10家)・名(7家)・墨(6家)と従横(12家)・雑(20家)・農(9家)と小説(15家),の10家者流189家に分類された。うち六芸を補いうるものは,小説家をはぶいた9家,つまり九流(きゅうりゅう)とされた。また後に九流から独立して兵家も諸子に加えられた。
 

続く
メンテ
大和魂 40 ( No.42 )
日時: 2010/10/16 09:21
名前: 天橋立の愚痴人間

このお話は、「補江総白猿伝」というお話で、江総の作った「白猿伝」を補う、と言う意味のタイトルです。

江総は実在の人物ですが、白猿伝を作った事実は無く、この作品の製作者は不明とされています。欧とその子は実在の人物で、作中で猿の子とされる欧陽詢は父の死後、父の友人江総に育てられ、書家、文学者となりました。ただ、その容貌が醜かったため、このような作品が作られたとされています。(妻の名を鳳仙としたのは、自分の考えで加えたものです。)

作品としては、しっぺい太郎や日本の猿神伝説の源流とされ、また話の型は御伽草子の「酒呑童子」へとつながるものとされています。

なぜ中国の大猿は女性をさらうのか?というと、その猿達にはメスがいないのだとある説話は説明しています。

猿神になるには、人間から変身してなる場合と、猿が何百年も生きて猿神になる場合があるのですが、メスはならないのでしょうか?

少々納得いかないのですが、説話だし、神話だし、中国では猿に気をつけましょう、というお話でした。

http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM064.html


随分と長ったらしい話しですが、いかにも「個」に拘る中国らしい話だと思いませんか。

もう一つ「不老長寿」に拘る話を紹介します。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/soma/somatimes/soma/china_j.html

「中国魔術茸」

古代中国では、「不老不死」を求めて、様々な試みが行われた。中でも、中国錬金術、または錬丹術と呼ばれる不死の霊薬作りは、皇帝たちの心を捉えた。

そうした霊薬を作る成分の中で、「霊芝」というキノコは、たいへん重要な位置を占めていた。「列仙伝」によると、彭祖という人物は、霊芝を食べて八百歳まで長生きし、仙人となった、とある。

この霊芝の正体は、固いキノコ、マンネンタケ(マンネンタケ科)である。最近でも、マンネンタケはガンに効くと言われ、非常に高い値がつけられ、漢方薬として珍重されている。また、伝統美術・工芸作品にも、数多くその独特の姿を残している。

「聖なるキノコソーマ」著者のワッソンは、ソーマと霊芝との関わりについて論じている。古代インドの霊的物質、ソーマにまつわる伝説が中国に渡り、霊芝伝説になった、というのだ。

けれど、ソーマはリグ・ヴェーダに「絞って汁を取る」という記述があるように、柔らかく、汁にあふれているらしい。だがマンネンタケは固く、煎じて飲むことは出来ても、絞ることなどとうてい不可能である。

ソーマという柔らかいキノコが、何故固いキノコ霊芝に化けたのか?

ワッソンはそれを、中国科学史学者ジョゼフ・ニーダムを引用して、「刺激の伝播」という言葉で説明している。インドから中国へもたらされたのは、キノコそのものではなく、「不思議なキノコ」という「刺激」、言い換えると「イメージ」「情報」だった。皇帝はソーマを求めて果たせなかった。そこで、不思議な形態を持つキノコ・マンネンタケを「ソーマの偽物」として位置づけたのだ、と。

確かにそれは魅力的な説だといえる。インドから中国への情報の伝播の可能性や経路については、例えば、中野美代子著「孫悟空の誕生」で示されている(インド伝説上のサル「ハヌマーン」が、海のシルクロードを経て中国に伝わり、「孫悟空」のモデルの一つになった、とする)。さらに、中国では日本同様月にうさぎが住むといわれるが、うさぎが杵でついているのは餅ではなく仙草(霊芝)なのだと氏は著書「奇景の図像学」で書いている。そして、ソーマは月の神であり、シャシン(うさぎを持つもの・月)なる別名がある、とも述べている。

しかし、ワッソン説には一つ疑問が残る。それは、ソーマ的精神作用をもたないマンネンタケが、なぜ中国人の心を強く引きつけ、ソーマの代理をつとめることができたのか、という点である。

そのヒントとなりそうな考えが、テレンス・マッケナの「神々の糧」で示されている。マッケナは、聖餐として使われた向精神的なキノコが、人間との共生関係を失っていく段階を4つに分け、こう説明している。

一・他の植物・アルコールなどにとって変わられる

二・象徴である代用的な植物(作用のないもの)を使用する

三・象徴物(教義・儀式など)のみになる

四・神秘体験すら放棄する

つまり、ソーマが中国に受容された際、もたらされたのはその第2段階の「象徴」だったのではないか、と言うことが出来る。

それに加えて、ソーマ―霊芝の変換には、中国人のものの考え方、というものも大きく影響しているのではないだろうか。

一つには、中国人が、不老不死を追及する際、鉱物を重要視していたこととも関係があるのではないか、と私は考える。人間に不朽の生命をもたらすものは、それ自体、不朽でなければならない。朝に生え夕方しおれるような、うつろいやすいキノコに、中国人は、不滅の生命を見ることが出来なかったのではないだろうか。その点マンネンタケは固く、自然の状態で透き漆でも塗っているかのように輝いている。生命の永続性を感じさせるには、まことに都合が良かった。

もう一つは、中国人がキノコの持つ精神作用にさほど強い関心を持たなかったのではないか、という可能性である。

「二本足のものは親以外なんでも食べる」と言われてきた中国で、インドのソーマや、南米のテオナナカトルのような、向精神的な植物やキノコなどを、シャーマニズムに利用した記録をあまり耳にしないのはなぜだろう。あえて記録に残さなかったとも考えられるが、「人間食べたときの味」といった、ダークな記録も残っているのである。漢民族は、非常に記録を尊ぶ民族であるのだ。そもそも、霊薬というものは、薬(ドラッグ)の最たるものではないか。

確かに、中国には、キノコ王国日本に比べてキノコの種類はそう多くないと聞く。しかし、中華料理にはしいたけ・きくらげ・きぬがさたけといったキノコたちが豊富に使われている。とりわけ中国南部ではイグチ類などを含めた、豊富なキノコが利用されている。

かりに、ソーマ的マジカルマッシュルームが当時の中国で入手不可能であったとしよう。もしソーマの「効能」が中国人を刺激したのであれば、例えば大麻やけしなどに読み替えられてもいいはずだ。しかし実際は、中国人が求めたのは「キノコ」であった。つまり、ソーマの「効能」は、中国人の求めてやまないものに読み替えられたのではないか。

中国皇帝は、地位・財産など現世的欲望を満たした後は、肉体を永続させるさせることに執着した。徹底した現世礼賛である。そもそも、不老不死を願うなんて、よほどこの世に満足していなければ成立しない思想ではないだろうか。(韓国の歌謡「恨(ハン)五百年」も、本来は「恨み」という意味ではなく、「五百年くらいは生きたいのに(出来なくて悔しい)」という意味らしい。)

中国人、そしてその影響を強く受ける日本人の前には、酒も、キノコも、大麻も、同じ「酔い」であったのではないだろうか。精神作用などというものに無関心であっても、不思議はない。

このことは、今日にも続く、「マヤク」はすべていけない、と言う論理とも、関係があるように思われる。

注・彭祖(ほうそ)…それにしても、この彭祖って人、「抱朴子」によると「人間の理想としては、旨いものを食い、軽くて温かい着物を着、男女の交わりをし、高禄を食み」と仙人にしちゃえらい生臭い人なんだが、仙人が霞食ってるてえのは日本人の考えで、中国仙人はおおむね現世的快楽に意欲満々のようである。(だいたい、房中術ってSEXの方法やし…)

「恨(ハン)五百年」…日本では、チョー・ヨンピルの歌唱によるものが有名。そういえば、漫画家根元敬氏が見た韓国のシャーマンは、強力ドリンク剤でトランス状態に入るそうです。(アッパーだ!)

メンテ
大和魂 41 ( No.43 )
日時: 2010/10/16 09:23
名前: 天橋立の愚痴人間

「中国の七夕伝説1  「述異記」 中国」

天の川の東の岸に、大変美しい仙女が住んでいた。彼女は天帝の娘で、機を織るのが仕事だったので、織女と呼ばれていた。

織女は朝も昼も機を織りつづけて、雲か霧かと見まごう薄くて綺麗な布を織り出していた。その仕事に専念していたので、他に何の楽しみもなく、身なりに気を遣うことさえなかった。

天帝は娘のこんな様を哀れみ、天の川の西の岸に住む牽牛という男に嫁がせた。

ところが、結婚すると織女は機織りをぱったりとやめてしまった。夫との楽しい生活にすっかり夢中になってしまい、機の前に座ることさえなくなった。天帝はついに怒り、織女を東の岸に追い返してしまった。

この時から、牽牛と織女は年に一度しか会えなくなってしまったのである。


「中国の七夕伝説2  中国 広東省 陸安」

天に、牛郎と織女という美しい男女がいました。牛郎は牛を飼い、織女は機を織って、毎日毎日、自分の仕事に精を出して暮していました。この様子を見ていた天帝が、二人の仲をとりもって夫婦にしました。

ところが、結婚すると二人は互いに夢中になって、仕事を怠けるようになってしまいました。天帝は怒り、カラスに命じて「二人は河の両岸に別れ、七日に一度しか逢ってはならない」と伝言させました。

しかし、このカラスは言葉を上手く話せなかったのです。カラスは二人のところへ飛んで行くと、こう伝えました。

「二人は河の両岸に別れ、毎年七月七日に一度しか逢ってはならない」

こうして、牛郎と織女は年に一度しか逢えなくなってしまったのでした。


「中国の七夕伝説3  中国 泉州」

昔、織女という娘がいた。裕福な家の娘でたいそう美しかったが、選り好みして十八にもなって結婚していなかった。彼女は七尺二寸ものとても長い髪の毛を持っていて、毎日梳かすのも大変だった。

ある月の夜、織女は月に願った。

「私は、生まれてから一度も笑ったことがありません。もしも私を笑わせる者があるなら、きっとその人と結婚しますわ」

あくる朝、織女がいつものように髪を梳いていると、向かいに住んでいる牛飼いの牽牛郎が、頭に毛が数本しかないのに織女の髪梳きの真似をしておどけた。それを見ると、織女はおかしくて吹き出してしまった。

笑ったものの、織女はすぐに泣き出した。昨夜の月への誓いを思い出したからだ。けれど自分の立てた誓いだからと、父親に相談してみた。当然ながら、父親はとんでもないことだ、と相手にしなかった。織女は思い悩み、思いつめてついに病の床に就いた。牽牛郎は織女の侍女からこのことを聞いたが、何をすることも出来なかった。

そんなある日のこと。悲しむ織女にカササギが話し掛けてきて、伝令役を勤めようと言った。織女は喜び、「彼に、これから毎月七日に私の庭に逢いにきてと伝えて欲しいの」と言って、カササギの足に手紙を結びつけた。

ところが、カササギは手紙をなくしてしまい、仕方なく牽牛郎に口頭で伝えた。

「これから、毎年七月七日に逢いに来て下さいと仰せでした」

気まずく思ったのか、カササギは織女の元には帰らなかった。牽牛郎は七月七日に織女に逢えると思って楽しみにしたが、織女の方はカササギが戻らないので絶望し、病が重くなって死んだ。それを聞いた牽牛郎も嘆き悲しんで死んでしまった。

死んだ牽牛郎と織女は、天に昇って牛郎星と織女星になり、夫婦になった。そして毎年七月七日に逢うのである。

続く
メンテ
大和魂 42 ( No.44 )
日時: 2010/10/16 10:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

「韓国の七夕伝説1  韓国」

陰暦七月七日を、七月七夕という。この日には、牽牛と織女の切ない伝説が語り伝えられている。

天の国の牧童・牽牛と、玉皇上帝の孫娘の織女が結婚した。彼らは結婚しても遊んで食べて怠け暮していた。上帝は怒り、牽牛は銀河水(天の川)の東方に、織女は西方に別れて住まわせることにした。それで、夫婦は切ない気持ちのまま、渡れない河を間に置いて暮さねばならなかった。

その話を伝え聞いたカラスとカササギたちが、毎年七夕に天に昇り、二人のために銀河水に烏鵲橋をかけた。それで、牽牛と織女は七夕にこの橋を渡って一年の寂しさを語り合い、また別れるのである。

こんなわけで、七夕には地上にはカラスやカササギは一羽もいないといわれる。いるとしたら、病気で飛べない者である。また、自身を橋にして踏まれるため(あるいは、橋の材料を頭に載せて運ぶため)、この時期のカラスやカササギたちは みんな頭の羽根が抜けるらしい。

なお、七夕前後には雨が降ることが多いが、これは牽牛と織女が逢瀬の準備に車の埃を洗い流すからで、これを"洗車雨"と呼ぶ。また、七夕の夕方に雨が降れば二人が逢えた喜びの涙とし、翌日の夜明けに降れば別れの悲しみの涙とする。よって、これらを"灑涙雨"と呼ぶ。


「韓国の七夕伝説2  韓国」
 
ある星の国に美しい姫がおり、王は別の星の国の王子を婿に迎えた。しかし、この王子はたまによからぬ事をしていた。王は怒り、王子を天の川の北岸の彼方に追放した。しかし娘の気持ちを思い、一年に一度、七月七日にだけ天の川のほとりで逢う事を許した。

一年も離れ離れなので、夫婦は悲しみ、その涙は雨となって地上に降り注いで、ついには洪水になった。地上の王の命により、カササギが選ばれて天に昇った。そうして沢山のカササギが天の川の北の岸から南の岸まで頭と羽をそろえて並んだので、王子はこの橋を渡って姫に逢うことが出来、地上の雨もピタリとやんだ。

そんなわけで、七月七日の朝に雨が降ると「嘆きの雨」、昼に降ると「逢えた喜びの雨」、夜に降ると「別れの悲しみの雨」という。また、七月七日にカササギを見かけることがあると、橋をかけに行かない怠け者だとて、追い払ったりするそうだ。

メンテ
大和魂 43 ( No.45 )
日時: 2010/10/16 10:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

「ベトナムの七夕伝説1  ベトナム」
 
天のヤーデ王の娘、チュク・ヌは銀河の岸辺で機を織り、対岸ではヌグン・ランという牧童が羊の群れの番をしていた。二人はやがて相愛の仲になり、王に結婚を願い出た。王は二人の決心が固いことを知り、一つの条件を出して結婚を認めた。

「お前たちの結婚を認めよう。ただし、結婚しても自分の仕事を怠けるようなことがあってはならない。一年のうち七月だけは仕事を休んでもよいが、その他の月は仕事に精を出すのだ」

しかし、ヤーデ王が危惧した通り、新婚の二人は幸福に酔いしれ、仕事もせずに二人で天空を歩き回るばかりだった。ヤーデ王は激怒し、二人に銀河の両岸に分かれて住むように厳命した。

「お前たちはそれぞれ、自分の仕事をするがよい。ただし、七月にだけは逢うことを許そう」

こうして、チュク・ヌとヌグン・ランは銀河に隔てられて暮し、七月にだけ逢えることになった。この月になると、カラスたちは大地を離れ、見当たらなくなる。というのも、カラスたちは銀河に飛んで行って、二人のために橋をかけてやっているからだ。チュク・ヌはこの橋を渡って、愛しいヌグン・ランの元へ駆けて行く。

ほら、七月になると毎日雨ばかり降るだろう。それは、二人が一緒にいる時には喜びの涙を落とし、別れる時には悲しみの涙を落とすからなのだ。この涙雨は大地を潤し、私たちに豊かな実りをもたらしてくれるのだよ。

「ベトナムの七夕伝説2  ベトナム」

むかしむかし、ある寂しいところに池があった。その池へ行く道は誰も知らなかった。そこではいつも天女たちが水浴びをしていた。

ある日のこと、一人の樵[きこり]がそこに来て、天女が水浴びしているのを見つけた。天女たちは着物を池のほとりの木の根元に脱いでいた。水浴びが終わると着物を着て飛び去っていったが、樵は最後に一人の天女だけが残ったことに気付くと、彼女の着物に飛びついてそれをとってしまった。天女は泣きながら樵に付いてきて、着物を返して、それがないと天に帰れないのと訴えたが、樵は聞こえないふりをした。天女を自分の妻にしたかったからだ。彼女は樵に付いていかざるを得なかった。樵は家に着くと、天女の着物を米蔵の米の下に隠した。

天女は二、三年 樵と共に暮らして、もう三歳の男の子がいた。ある日のこと、天女は夫の留守の間に米の蓄えを全部売ってしまった。すると米の下に昔の着物があるのを見つけた。彼女はとても喜んでそれを着たが、自分の櫛だけは外して、子供の着物の襟にしっかりとくっつけた。そして子供に言った。

「お前はここにいなさい。お前の母は天女で、お前の父は人間なのです。これ以上一緒に暮らすことは出来ません」

そして暫く泣いていたが、やがて飛び去った。

樵が家に帰ってくると、息子が泣いているのが聞こえた。それで自分の母に、妻はどこにいるのかと尋ねた。母は、今日は一日中嫁を見なかったと答えた。樵は何が起こったのかを悟った。そして急いで米蔵に行ってみたが、蔵は空っぽで天女の着物はなくなっていた。息子の着物に櫛が付けられているのを見て、妻は自分たちを捨てていったのだとはっきり分かった。

それ以来、樵の心は晴れることがなかった。息子を連れてあの池に行ってみたりもしたが、天女はもう水浴びに降りて来ることはなかった。ただ、天女の侍女たちが水を汲みにやってくるだけだった。

樵は侍女に「喉が渇いたので水を飲ませてくれ」と頼み、自分たちの哀れな身の上を語った。その間に、小さな男の子の櫛が水がめの中に落ちた。

侍女たちが家に帰って水がめの水を空けると、かめの底に櫛があった。天女が「この櫛はどうしたの」と訊ねたが、侍女たちにはどうしてそんな物が入っているのか分からない。そこで「池の側で誰かに会ったのですか」と天女が訊ねると、侍女たちは答えた。

「私たちは子供を抱いた男に出会いました。その人は水を一杯飲ませてくれと頼んできました。妻を探しているのだけれども見つけられないのだと言っていましたよ」

天女はハンカチに魔法をかけて侍女たちに渡し、こう言いつけた。

「その池にもう一度行きなさい。そしてその男に会ったら、このハンカチを頭に巻いて私たちに付いていらっしゃい、と言うのですよ」

侍女たちは言われたとおりにして樵を連れてきた。

夫婦は再び一緒になれて嬉しくてならなかった。しばらく経って樵は「どうして自分たちを捨てていったのか」と訊ねた。天女はこう答えた。

「人間と天国の住人との結婚は長く続けることは出来ないのです。だから私はあなたを捨てて帰ってきました。けれどあなたがあまりにも悲しんでいることを知ったので、その苦しみを慰めるためにあなたをここに連れてこさせたのです。けれど今はもう、あなたは地上に帰らなければなりません」

樵は深くため息をついて、お前から離れたくないと言った。すると天女は言った。

「先に地上に降りていてください。しばらくしたら私は仏陀[ファト・バ]からお許しを得て、またあなたと一緒に暮らしましょう。今はまだそうできないのです。なにしろ私がここに戻ってからほんの少ししか経っていないのですから」

樵は重い心ではあったが帰ることに同意した。天女は召使たちに、夫と息子を太鼓に乗せて、縄で地上に降ろすようにと言いつけた。そして樵に子供のための米を渡しながらこう言った。

「地上に着いたら太鼓を二度叩いてください。そうすれば召使たちは縄を切りますから」

二人は泣きながら別れた。そして召使たちは縄をしっかりと太鼓に結びつけた。ところが半分くらい降りていったところで、ワタリガラスの群れが飛んで来たのだ。カラスは小さな男の子が米を食べているのを見つけて、太鼓の上に舞い降りると散らばった米粒をつつき始めた。太鼓はカラスのくちばしでドンドンと鳴り響き、縄は切られて、父子は海に墜落して溺れ死んだ。カラスたちはこれを見て大きな声で啼いて飛び去った。

女神 仏陀[ファト・バ]がこの悲痛な声を耳にし、天女たちを集めて「誰がその父子を死に導いたのか」と尋ねた。その天女を罰するため、女神は天女を明けの明星にし、父子を宵の明星にした。召使たちは毎年七月十五日に葬儀を行わなければならなくなった。同じ日に、ワタリガラスは家族が再会できるように橋を作る。ワタリガラスの頭が禿げているのはこのためである。

 

この日、あちこちの村でも罪滅ぼしの供物が捧げられると言う。明けの明星は明け方に現れ、宵の明星は夕方に現れる。この二つの星は、天で互いに求め合いながらついに一緒になることの出来なかった、あの夫婦なのである。


続く
メンテ
大和魂 44 ( No.46 )
日時: 2010/10/16 10:45
名前: 天橋立の愚痴人間

「日本の七夕伝説1 七夕女[たなばたつめ]  日本 『為相古今集註』」

昔、唐[もろこし]に乾陸魏という長者がいた。その下女が水辺で洗い物をしていると、大蛇が出て、口から結んだ手紙を出して、長者に渡せと言う。長者の三人の娘のうちどれか一人をよこせというのだ。さもなくば長者一家はおろかその一族眷属全てが破滅するだろう、と。もし娘をくれるならば、これより東の山中に七間四面の屋敷があるので、その中に姫を乗せた輿を置いて、他の者は帰せ、と。

下女は恐ろしく思いながら報せに行き、長者が見に行くと、長さ二丈七、八尺ばかりの大蛇だ。見るからに、本当に恐ろしい。蛇が先に下女に語ったように言うので、「分かった。三人の娘に話してみよう」と言って屋敷に帰ると、蛇も帰った。

さて、長者は家に帰ってから物も食べないで寝込み、嘆いた。娘たちは理由を知らないで、父の病気を何とかしようと部屋に見舞いに来た。長者が「一人も娘をやらないでいれば親子五人、親類縁者数万人が一度に滅んでしまう。それが嫌だから娘を一人やろうと思っても、どの子をやることもできない。みんな私の子供だ。そう思うと病気になり、物も食べられないのだ」と言うと、長女は「嫌だわ。相手がどんなでも人間ならお父様の言いつけに従いますが、そんな恐ろしいことには、たとえ一日でみんな死んでしまうことになっても、進んで従う気にはなりません」と言って帰った。その後 次女が来て病状を訊いてくるので、さっきのように答えた。この次女も、さっきの姉のように答えて帰った。もっともなことで恨むこともできず、思い煩った。

末の娘はことに幼く、まだたったの十三歳である。どんなに怖がるだろうと思うと、父母もなかなか言い出せずにいたが、父が物も食べられないのを悲しんで、自分で父のところに理由を尋ねに来た。しょんぼりとかくかくしかじかと説明して、「お前の姉さん二人は嫌だと断ったが、もっともで恨めないことだ。ましてお前は幼いのだから、どんなに怖がるだろうと思うと、力も出なかった。わしらの子供がみんなが滅ぶ宿因になるのだ。約束の日も近い。それにしても、わしら一族、牛や馬にいたるまで失われることを思えば、心細くて悲しくてたまらない」と語った。

末娘はじっと話を聞いて、涙を流して言った。

「私がこうして楽しい日々を送ったのも、お父様とお母様のおかげです。だから、たとえ火や水に入り、鬼に食べられ神に取られようとも、お父様とお母様のために言いつけに従うことを嫌がったりしません。ましてや、私が行かなければみんな死ぬと言うのでしょう。私一人が蛇に食べられて、家族から使用人のみんなまで助けることができるなら、それはとてもいいことです。死んだ後はきっと極楽に行けます。……さぁ、安心して、早くご飯を食べてください」

これを聞いて、両親はもとより、使用人にいたるまでみんな袖をしぼって泣いた。

すぐに、明日は約束の日、という日になった。娘は人に形見を渡したり別れの挨拶をしたりし、行水して身を清めて、守り仏の金銅の観音像をしっかり肌身につけた。観音経を持って輿に乗り、家族や使用人がお葬式のように泣きどよむ中、「早く連れて行ってください。約束に遅れたら、蛇が来てみんなに災いをなすかもしれません」とキッパリした様子である。輿は急いで出発し、父母は、せめて自分たちの命の代わりに、と珍しい宝を添えて送った。

例の蛇が指定した山里に行ってみると、忌まわしい感じの御殿がある。その中に輿を置いて、送りの者たちは泣く泣く帰った。娘はたった一人残って観音経を唱えていると、長さ二丈ばかりの大蛇が這い出てきた。目は月日のごとく、口は獅子のそれのようである。輿の側まで這い寄って、舌をちろちろと出している。暫くそうしてから蛇が言うには、

「小刀を持っていますか。私の背を尾まで割ってください」

嫌だと思ったが、硯の小刀を取り出して、言われた通りに割った。すると、蛇の中から、十七、八ばかりの、色が白く、辺りが照り輝くように麗しい男が出てきた。綺麗な服に宝石の冠をつけて、全てこの世の人とも思えない。例の蛇の皮を身に巻き、娘と夫婦になって、めでたいと言うばかりである。男の眷属もどこからともなく現れて、使用人として働き始めた。

それから十七日経って、娘の家族は、もしや蛇の食い残した骨などあるかもしれない、拾って供養しようと思って、人を使いに出した。すると、死んだりしないで、立派に富み栄えているではないか。夫も蛇ではなく美男子だし、やってきた人々は思いがけなくて、嬉し涙を流した。

さて、このことを長者夫婦に伝えると、喜んで大声を張り上げて、急いで見に行った。すると、後園の倉は数え切れないほど、庭の砂まで金や宝石を敷いてある。まるで生きながら仏の国に来たようで、嬉しくてたまらなかった。婿を見れば蛇どころか辺りが光り輝くような美男子。両親は手を合わせて拝んだ。

これを見て、蛇のところに行くのを嫌がった二人の姉は口惜しくねたましく、私が行けばよかった、私が行けばよかったと、悔しがった。

ある日、夫は娘に言った。

「私は四王天の梵天王の子で、彦星という者です。あなたと前世の縁があったので、あなたと夫婦になるために下界にこの三年間住みました。今度、天の父の用で天に帰り昇ります。決してあの朱の唐櫃[からびつ]を開けないでください。来年三月には必ず戻ります。けれど、もし、この朱の唐櫃を開けたら、どんなに願おうとも帰る事はできないでしょう」

続く
メンテ
大和魂 45 ( No.47 )
日時: 2010/10/16 10:49
名前: 天橋立の愚痴人間

そして、唐櫃の鍵を「身から放さないでください」と言って預けて、天へ昇った。

娘の両親と姉たちが、夫の留守の寂しさを慰めようと訪ねてきた。後園の倉を開けて、見たことも無いような宝が沢山あるのを見ては誉めて騒いだ。例の朱の唐櫃の中身を知りたがったが、「これは開けてはいけないものです」と、どうしても開けようとしなかった。そうなると、あんな素晴らしい宝物の入った倉は開けたのにこの唐櫃は開けないなんて、きっともっと素晴らしい物が入っているに違いないと、そわそわして気になって、「鍵はどこにあるの」と末娘をくすぐって言わせようとしたが、「開けません」としっかりしている。ところが、姉は力が強く、なんと箱の錠をねじ切って唐櫃を開けてしまった。けれど、中からは細い煙が一筋立ち昇るばかり。「なんてことないわ、つまらない」と、唐櫃を投げ出して、また別のものを物色し始めた。末娘はとても悲しくなって泣いてしまったが、今となっては無駄なことだった。

夫の約束した月が来たが、帰ってこなかった。悲しんでいると、実家にいた頃から可愛がって飼っていたつがいのカササギが、羽を並べてこの上に娘を乗せ、遥かに天を指して舞いあがった。四王天に至り、天人に「梵天王の御子、彦星はどちらにおいででしょうか」と尋ね、教えられて尋ね着いた。夫が言った。

「私が約束の日に降りようとしても、私が拠り所にした物を入れた唐櫃を、開けて人に見られてしまったので、中身は煙となって昇ってしまいました。こうなっては、何を拠り所にして降りたものか。そう思いながら三年を過ごしてきましたが、嬉しいことです。ただし、ここは人間の来ないところです。私の親にこのことを説明せねばなりません」

しかじかと説明すると、梵天王は「とんでもないことだ」と叱った。

「ただし、その女がわしに天の羽衣を織って渡すなら、お前と逢うことは許そう。彦星よ、お前はわしの千頭の牛を七日の間引き連れて世話をするのだ。そうすれば、その女と逢うことを許そう」

夫は娘にこのことを伝えた。

「織り方を習ったことはありませんが、仏に任せて一生懸命織ってみましょう」と言って、娘が羽衣を織ると、仏が哀れんで、簡単に織ることができた。よって、彼女を織女と書いて「たなばた」と言う。

夫の彦星は、七日の間千頭の牛を引いて世話をした。よって、彼を牽牛と言う。

梵天王は、こうなっては仕方が無い、と、二人が逢うことを許した。「ただし、月に一度逢え」と言って、瓜を持って投げ打った。瓜がつぶれて天の川となった。今、牽牛と織女が年に一度逢うのは、月に一度と言うのを年に一度と聞き違えたからだという。

七月七日に梵天王の許しを得て、彦星と織女が逢うとき、天の川が深くて渡ることができないならば、あのカササギのつがいが羽を並べ、紅葉を食べて橋となし、渡らせるというので、天の川に紅葉の橋、カササギの橋と言う事がある。

 

天河[あまのがわ] 紅葉[もみじ]を橋に渡せばや 七夕女[たなばたつめ]の秋をしも待つ


「日本の七夕伝説2  天人女房  日本 熊本県 天草」

昔のこと。天女さんが何人か連れ立って天から降りてきて、美しい着物を川のほとりに脱ぎ捨てて水浴びをしていなさった。そうすると、通りがかった若者がこれを見て、一番美しい着物を、そろっと隠してしまった。

そしてその辺に隠れて様子を見ていると、天女さんは次々上がってきて、めいめい自分の着物を着ては天に舞い上がっていった。ところが、一番美しい天女さん一人、自分の着物がないと言って、座り込んで泣いていなさった。若者が何も知らぬげに出て行って、親切そうに訊ねると、天女さんは、着物がなければ天に帰れないと言って大声で泣き出してしまった。

若者は気の毒になって、もういっそ出してやろうかとも思ったが、あんまり天女さんが美しいので知らんふりをしていた。天女さんは仕方なく、若者に付いてその家に行って、お嫁さんになりなさった。

若者の家には、犬が一匹飼われていた。二人は睦まじく暮らして、一年経ち二年経ち、三年経った。そこで若者は、もう着物を見せても天に昇ろうとはすまいと思って、あの着物を出してやった。ところが、天女さんは嬉しそうに着てみたかと思うと、そのまま天へ飛んで行ってしまいなさった。

若者は、どうかして天まで追って行きたいとと考えて、夜も眠れなかった。そのうちに顔も青ざめて、病人のようになってしまった。

そこへ訪ねて来た人が、若者の様子を見て驚いて訳を訊ねた。そこで若者は、始めから終わりまで話して聞かせた。するとその人は、

「一日百足の草履を作って、一本のへちまのぐるりに埋めれば、一晩のうちにそのへちまが伸びて天に届く。それを伝って天に昇れ」と教えて、姿を消してしまった。

若者はもう喜ぶの喜ばないの、すぐに草履を作り始めた。ところが、やっと九十九足まで作ったところで、もう日が暮れてしまった。そこで仕方なく九十九足の草履をへちまのぐるりに埋めておいたら、一晩のうちにそのへちまが、それはそれは高く伸びていた。若者は喜んで、すぐにそれを登り始めた。そうすると、飼っていた犬も後からするする付いて登ってきた。

ところが、天まであと一歩というところまで来たら、へちまがそこでおしまいになっていて、もう登れない。草履が一足 足りなかったからだ。けれども付いてきた犬がぴょいと天に跳び上がって、若者の方へ尻尾を下ろしてやった。それで若者はそれに掴まって、ようよう天に登ることが出来た。

その天女さんが七夕星で、若者が犬飼星になったんだそうな。


七夕伝説出典

http://suwa3.web.fc2.com/enkan/minwa/seisin/9_01.html

紹介しました七夕伝説もその国により内容(人情)の違いが出ています。
日本のそれは純愛を根底において物語が構成されていますが、他国のそれは戒律を基調に構成されています。

このようなところにも「和」を尊ぶ気質が現れていると思います。

メンテ
大和魂 46 ( No.48 )
日時: 2010/10/16 11:05
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

それでは最後に古代中国の歴史についてたどることにします。

夏(紀元前2070〜紀元前1600年)の時代は余り知られていませんが殷(紀元前1600〜紀元前1046年)の時代は文字があり遺跡も多く発見されていますので比較的様子がわかります。

その発見は時代が下って紀元1900年のころ「竜骨」と言うものが薬と(粉末にして飲むとマラリヤに効く)して売られていましたが、良く見ると文字が書いてある事が解りました。所謂、甲骨文字です。卜辞(占い)から司馬遷の史記に書いてある事が証明されました。

当時は狩猟の成果、作物の採れ具合などを天候を占うことによって予想したり、祈願していたようです。そのほか王室の世系についての記述が多く見られます。

戦いのこともそれにより解ります。
生活は農耕が中心となり、牧畜、狩猟により成り立っていたのですが、さらに戦争により他の集団からの略奪も国を豊かにする手段と考えられていました。作物、機具を手に入れる他、人間も奴隷として収奪しました。

王などが死んだときには、王の死後の世界でも使えさせるように、奴隷の首を切って王の墳墓に回りに配置したり、呪術の生贄に奴隷を殺したり、そのために奴隷狩のために他国を侵略したり、人間の命に関する認識は随分と過酷なものでした。

この傾向はさらに後代へも続き、周(紀元前1046〜紀元前256年)の時代でも国といえば城壁で囲われたものを指し、国は民をそっくり守らなければなりませんでした。戦争で負けると言う事は、王族は勿論のこと、民も命を含めて全てを失うことを意味します。

所謂、ジェノサイトが頻繁に行われ、秦代以降でも、項羽などは、戦争で降伏した敵国の兵士を十万人単位で殺してしまっています。
王族の継承の過程も悲惨なもので、継承の対象となり親族は実質の継承者により皆殺しにされるような場合がしばしば登場します。
王などに謀反の疑いを持たれると九族まで罪を問われ殺されるなどはかなり後代まで行われています。

また国の為政に関しては、たまに出る名君と時々出てくる暴君と無能の君主の下に権力を貪る官僚の腐敗の連続のようでありました。
民は王の持ち物であり、王が民の幸せを望んだような記述は見当たりません。

「高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり」と仁徳天皇が謳ったような趣とは随分と異なります。

それでも民の間では、生産力が進んだことにより、夏の時代の後半からは財産の私有化が進み、貧富の差も出ていました。
技術的には優れた青銅器を作っています。
メンテ
大和魂 47 ( No.49 )
日時: 2010/10/16 11:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

もともと広大な地域で複数の民族が競争して繁栄を図っているので、例え民族単位であっても、その全てを統一して国家を考える事は大変困難でありました。現在の中国の範囲を考えても、最初に統一したのは秦の始皇帝であり、実際の王朝を続けたのは漢(紀元前250年)からです。

また、統一されたと言っても、広大な領土と多数の国民があり、極めの細かい為政が出来たとは考えられません。
中国人には公と私の認識が日本人のそれとはニアンスが少し違うように言う人がいます。

中国は長い間、公(国)は、其処ここにあり、その上、自分が属する公の、その上の公も認めざるを得ないと言うような環境にあったと思います。
それに対して日本の場合は、公といえば、領土的にも民族的にも1つであり、それを損なう外力は殆ど意識しなくてもよい環境でした。

中国人の公の概念は日本人のそれほど、強い観念となっていないのも当然と思います。

次には古代中国の思想について考えます。

時代が少し下って周(紀元前1046〜紀元前256年)、それも春秋戦国といわれるころ、中国では、その後の中国思想となるものが殆ど生まれた時代です。

諸子百家 :中国の周末から漢にかけて出現した,諸学者と諸学派の意。 前漢初期,前後して展開した諸子の学術を,陰陽・儒・墨・名・法・道の六家(りくか)に要約したのは,司馬遷の父,司馬談。さらに前漢後期,すでに国教となって儒家の尊奉した経書は六芸(りくげい:詩・書,礼・楽,易・春秋)として別格に扱われていたが,『漢書』芸文志の諸子部門は,六芸からはずされた儒家の書(53家)を筆頭に,道(37家)・陰陽(21家)・法(10家)・名(7家)・墨(6家)と従横(12家)・雑(20家)・農(9家)と小説(15家),の10家者流189家に分類された。うち六芸を補いうるものは,小説家をはぶいた9家,つまり九流(きゅうりゅう)とされた。また後に九流から独立して兵家も諸子に加えられた。
メンテ
大和魂 48 ( No.50 )
日時: 2010/10/16 11:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

諸子百家出現の背景

孔子の直後に戦国の諸子百家の時代が始まる。諸子百家とは何か。相次ぐ弱小国家の興亡の結果,亡国の大夫や士が失職し,大量のインテリ浪人が発生した。彼らは再就職の機会を求めて,諸侯の間にみずからの理想を遊説した。

いわば国家経営を専門とするコンサルタントの群れである。これが諸子百家にほかならない。儒家の道徳政治説,墨家の兼愛説,法家の法治説,兵家の兵法説,道家の無為自然説など,その説くところは多彩を極める。このように変化に富む思想が一時に現れたのは,以後の中国史にもその例がない。そこには戦国の無秩序による思想の自由があった。

孔子の思想(儒教)

孔子は天に全幅の信頼を寄せて,自らの天命の実現に全力を尽くした。聖王の道(尭,舜,周公の教え)を総合大成し,(周)を理想とする(徳治)主義を強調した。晩年,教育と著述に専念した。孔子の人柄や思想を伝える,もっとも確実な資料は『( 論語 )』。

仁:孔子の思想の核心。人と人の間に自然に発露する血縁関係を軸にした。『論語』にも数多く説かれているが,孔子は定義を限定せず,忠恕,孝悌,克己復礼など様々に論じている。

( 忠恕 ):忠(まごころ)と恕(おもいやり)。
「(曾子の曰く,)夫子の道は忠恕のみ」
「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」
孝悌:孝(子の親に対する敬愛)悌(弟の兄に対する従順)
「(有子曰く)…孝悌なる者はそれ仁の本たるか」
克己復礼:己のわがままにうちかって,社会的規範たる礼に従うことが仁である。

( 礼 ):仁が外面的に現れた社会的規範
徳治主義:為政者が法や権力ではなく,道徳により治めるのが政治の根本だとする思想。
「政を為すに徳を以てせば,譬(たと)えば北辰のその所に居て,衆星のこれに共(むか)うが如し」

( 修己治人 ):わが身に道徳的修養をつみ,それによって人を治める。
修身⇒斉家⇒治国⇒平天下
( 君子 ):学識,人格ともにすぐれた,道徳的にりっぱな人物。〈野人(やじん)〉あるいは〈小人(しようじん)〉の対。《論語》には,〈仁〉字と匹敵する100余例の〈君子〉の語が見え,そこでは礼楽文化に身をおき,孝悌秩序をわきまえ,仁・義といった思いやりのある,人として実践すべき積極的な教養を身につけた,士人の〈君子〉の出現をねがっている。儒家思想理想の人間像。


老子の思想(道教)

( 道 )tao:老子の思想の根本概念。一切万物を生成消滅させながらそれ自身は生滅を超えた超感覚的な実在ないしは宇宙天地の理法。無・一・大・玄ともいう。

( 無為自然 ):一切の人為をなくし自然のままに生きる。 「道は為すなくして,而も為さざる無し」(〈無為〉とは人為の否定を意味するが,けっして何もしないということではない。それはいっさいの人間的営為を〈偽〉として否定したうえで,天地自然の理法にそのまましたがった真の〈為〉を実現することであり,正確には〈無為の為〉なのである。)

⇒「大道廃れて(仁義)あり,智慧出て(大偽)あり」 儒学批判 。
( 柔弱謙下 ):柔和で弱々しくへりくだった態度で他と争わない。理想の生き方。 「天下の柔弱は水に過ぐるものなし」「上善は水の如し。水は万物を利して,而も争わず」

( 小国寡民 ):老子の説く理想社会。無知無欲な少数の人民が互いに争わず自給自足する小国家。

続く
メンテ
大和魂 49 ( No.51 )
日時: 2010/10/16 11:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

ここで少し目を遠くにやり、古代ギリシャではどのようなことが言われていたか覗いて見ましょう。紀元前350年頃、プラトンは彼の国家論で次の様なことを言っていました。

プラトンの対話編『国家』の主題は「正義とは何か」である。対話編の主人公で、プラトンの立場を代弁するソクラテスは、「それぞれの人に、借りているものを返すのが、正しいことだ」というシモニデスの説に対して、友人から武器を借りた場合、たとえその友人が発狂しても、その武器を返すことが正しいのかと問題提起をする 。

また、友には良いことをし、敵には悪いことをするのが正義という当時のギリシャの社会通念に対しても、ソクラテスは、敵に悪いことをするためなら、盗むことすら正義なのかと反論する。エゴイズムを個人から集団へ拡張しても、普遍性を持たないことにはかわりがないので、正義に反する。

(中略)

このような、ややこしい問答を繰り返し

結論として、プラトンは個人には、欲望的な部分、気概の部分、理知的部分の三つがあり、それに対応して、国家にも、一般大衆、戦士、統治者の三つの階級がある。それぞれが、節制、勇気、知恵という徳を守り、全体として調和がとれているとき、すなわち、「金儲けを仕事とする種族、補助者の種族、守護者の種族が国家においてそれぞれ自己本来の仕事を守って行う場合」 に、正義が実現するとしている。

プラトンの理想とした国家像は原始共産制的階級社会というべきものであった。原始的とはいえ、共産主義と階級社会とは相容れないもののように考えられがちであるが、プラトンはこれらを融合させて、究極の超国家主義的な社会のありかたを理想のものとして夢見たのであった。

続く
 
メンテ
大和魂 50 ( No.52 )
日時: 2010/10/16 11:14
名前: 天橋立の愚痴人間

プラトンの考えによれば、すべての人間が平等ということはありえなかった。人間には能力や資質において歴然とした差がある。だから国家社会は、人間のこの差を前提にして運営されなければならない。思慮に欠けた人間たちは、統治に与らせるべきではなく、国を守るべきものは、それに相応しい勇気を持たねばならない。

プラトンがこのような考えを抱くに至った背景には、貴族の生まれであるという彼自身の出自と、当時のアテナイに行われていた民主政治への反発があった。彼の師匠ソクラテスを死に追いやったのは、ほかならぬアテナイの民主政治であった。民主政治は衆愚政治をもたらす。その結果高貴なものは排除されて、俗悪なものがはびこる。こうプラトンは考えたのである。

一方隣国のスパルタにおいては厳格な階級制度が敷かれていて、人びとは生まれと能力に応じて、統治するもの、戦うもの、統治されるものへと区分されていた。しかも統治階級や戦士階級の内部においては、原始共産制的な共同生活が徹底されていた。この新興の国家は、著しいエネルギーに満ち、あらゆる点でアテナイより優れているように見えたばかりか、ペロポネソス戦争以後のヘラスの世界において、覇者としての実力を蓄えつつあった。

プラトンはこのスパルタの国家のあり方に、強い感銘を受けたに違いない。彼の国家論はある意味で、スパルタのそれを理想化したものとも受け取れるのである。

プラトンは、理想国家の成員は三つの階級に区分されなければならないと主張する。統治者、戦士、普通の人である。そしてそれぞれが己に課せられた徳を実践することで、全体としての徳つまり公正が実現される。統治者の徳は智恵であり、戦死の徳は勇気であり、普通人の徳は節制である。これら各階級に固有の徳と国家全体としての徳との関係においては、国家の徳が優先される。国家が正しく運営されてはじめて、それに属する各個人の徳も正しいものになるのである。

このようにプラトンの国家論は、国家優位の考えに立ったものであり、そこには個人の意味は最低限においてしか認められない。諸個人の徳の総和が国家の徳を構成するという考えではなく、国家の徳が諸個人に反射的に及ぶのだという、全体主義的な色彩が強い考えに立っているのである。

中国にしろギリシャにしろ、現存する、その思想は国家のかたち、為政者の有り様を説くことが主体であり、其処からは民族の心の本音を探ることは難しくなっています。

孔子の論語も詰まるところは為政者から見た秩序を強調しています。
現代の我々から見ても、庶民の生活にとってなじみ深い忠孝の精神も、元はと言えば、君主が為政をなしやすいように考えて言われたものです。

最後の方は、中世にまで飛んでしまいましたが、長く続けてきた文章の中で、中国の民というものの認識にすこしでも役立てていただければ幸いです。

また、ここでは触れませんでしたが、宗教と言う側面からの検証も大切と思います。
宗教といえば大別して一神教と多神教の世界観がありますが、中国では、そのどちらも根付かなかったように思います。

これについては後ほど考えたいと思います。

中国への旅はこれで御終いとします。
メンテ
大和魂 51 ( No.53 )
日時: 2010/10/18 12:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ijv0VBCI

さて、下記のサイトの助けをかりて古代インドへ向かいます。
http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/lecture/ancient_muslim_india.htm

インドはヨーロッパと同じくらいの面積があります。「ヨーロッパ人」が、たくさんの民族を含んでいるように、「インド人」も決して一つの民族ではありません。北インドに住むアーリヤ人は、ヨーロッパ系の民族で、南インドに住むドラヴィダ人とは、顔付きがまったく違います。19世紀にインドを植民地支配したイギリス人は、アーリヤ人の言葉とヨーロッパの言葉がよく似ていることから、ヨーロッパ人とアーリヤ人は同じ祖先を持つインド=ヨーロッパ語族だという仮説を立てました。そして、南ロシアからインドにやってきたアーリヤ人がインドに文明をもたらしたのだ、と考えました。

ですから、ハラッパーやモエンジョ=ダロでアーリヤ人の侵入以前のインダス文明の遺跡が見つかったとき、これがどの民族が残したものなのかが大問題になりました。ドラヴィダ人説が有力ですが、はっきりした証拠がありません。出土した印章(ハンコ)には文字が刻まれていますが、単語ばかりで文法がわからず、解読できないからです。最近発見されたドーラヴィーラ遺跡からは、都市の周囲を囲む巨大な貯水池と、インダス文字で書かれた都市の入り口の看板?が見つかっています。


インダス文明滅亡の原因はわかりません。おそらく、何か大きな気候変動によるもので、同じ原因でアーリヤ人の移動がはじまったと考えるべきしょう。カイバル峠からパンジャーブ地方(パキスタン北部)に入り、遊牧生活をしていたアーリヤ人の生活については、聖典『リグ=ヴェーダ』で知ることができます。ヴェーダとは神々への賛歌のことですね。彼らは自然を神々として崇拝し、ヴェーダを唱えて神々を祭る祭司階級をバラモン、この自然崇拝の多神教をバラモン教といいます。同じような多神教(オリンポス12神)を信仰したギリシア人が、専門の祭司階級を持たなかったのとは対照的です。インドの過酷な自然へのおそれが、自然をコントロールするバラモンの権威を高めたのでしょう。

バラモンの下には、貴族(クシャトリヤ)・平民(ヴァイシャ)・奴隷(シュードラ)がいました。先住民が奴隷とされたのはギリシア人と同じです。この四つの身分を種姓しゅせい(ヴァルナ)といい、のちに細分化されて、いまも残るインド独特の身分制度(ジャーティー、またはカースト制度)となりました。起源前1000年ころ、鉄器の伝来とともに、ガンジス川流域に入ったアーリヤ人は、森を切り開いて農業をはじめます。紀元前1000年っていうのは…

たとえばオリエントでは、ダヴィデ王・ソロモン王の時代、ギリシアではドーリア人が侵入した後の暗黒時代、中国では周が殷を滅ぼした頃のことです。超先進地帯のオリエントは別として、ギリシア・インド・中国の古代史は、ほぼ同時進行で展開していきます。まず、鉄器による開墾がすすみ、領土争いから都市国家の間の戦争となり、新しい思想が生まれてくるのです。中国の春秋戦国時代にあたるのが、インドの十六王国時代です。戦乱の日々が繰り返され、人々にとって恐ろしいのは自然ではなく人間となったのです。バラモンに代わってクシャトリヤ、ヴァイシャが台頭し、自然へのおそれに代わって、人間とは何か、人間としていかに生きるかが驍ラきしょう。カイバル峠からパンジャーブ地方(パキスタン北部)に入り、遊牧生活をしていたアーリヤ人の生活については、聖典『リグ=ヴェーダ』で知ることができます。ヴェーダとは神々への賛歌のことですね。彼らは自然を神々として崇拝し、ヴェーダを唱えて神々を祭る祭司階級をバラモン、この自然崇拝の多神教をバラモン教といいます。同じような多神教(オリンポス12神)を信仰したギリシア人が、専門の祭司階級を持たなかったのとは対照的です。インドの過酷な自然へのおそれが、自然をコントロールするバラモンの権威を高めたのでしょう。

バラモンの下には、貴族(クシャトリヤ)・平民(ヴァイシャ)・奴隷(シュードラ)がいました。先住民が奴隷とされたのはギリシア人と同じです。この四つの身分を種姓しゅせい(ヴァルナ)といい、のちに細分化されて、いまも残るインド独特の身分制度(ジャーティー、またはカースト制度)となりました。起源前1000年ころ、鉄器の伝来とともに、ガンジス川流域に入ったアーリヤ人は、森を切り開いて農業をはじめます。紀元前1000年っていうのは…

たとえばオリエントでは、ダヴィデ王・ソロモン王の時代、ギリシアではドーリア人が侵入した後の暗黒時代、中国では周が殷を滅ぼした頃のことです。超先進地帯のオリエントは別として、ギリシア・インド・中国の古代史は、ほぼ同時進行で展開していきます。まず、鉄器による開墾がすすみ、領土争いから都市国家の間の戦争となり、新しい思想が生まれてくるのです。中国の春秋戦国時代にあたるのが、インドの十六王国時代です。戦乱の日々が繰り返され、人々にとって恐ろしいのは自然ではなく人間となったのです。バラモンに代わってクシャトリヤ、ヴァイシャが台頭し、自然へのおそれに代わって、人間とは何か、人間としていかに生きるかが問われるようになりました。ちょうどギリシア哲学や中国の諸子百家が生まれた頃に、仏教などのインド哲学が生まれたのです。

仏教の源流となったのは、ウパニシャッド哲学です。バラモン教の聖典ヴェーダの理論書である『ウパニシャッド』はこう説きます。肉体は衰え、やがて土に戻るが、魂であるアートマン(我が)は不滅である。死とは魂が肉体を脱ぎ捨てることにすぎない。魂は再び肉体を得る。あなたは、生まれてくる前に別の人生を送っていたし、死んだ後にも別の人生がある。魂は、何百、何千と人生を繰り返し、そのたびに肉体という衣服を着たり脱いだりしているだけのことだ。永遠に生と死とを繰り返すことを輪廻転生りんねてんしょうといい、これでは魂の平安は得られない。輪廻の悪循環を断ち切って、宇宙の中心にある魂のふるさとであるブラフマン(梵ぼん)に回帰して、一切の苦しみから解放されること(解脱げだつ)を目指すべきである。ブラフマンとアートマンとは一体であること(梵我一如ぼんがいちじょ)を知れ、と。

続く
メンテ
大和魂 52 ( No.54 )
日時: 2010/10/18 12:47
名前: 天橋立の愚痴人間

インドの古代社会を訪れる前に、インドの宗教のことに触れておきましょう。

◎日本の仏教は、インドの仏教と、どうつながるんですか?

マウリヤ朝までの仏教を上座部じょうざぶ仏教と呼びます。ブッダのように家族を捨て、財産を捨て、名前を捨て、頭を丸めて寺に入り、ひたすら自己の解脱のために修行を続けるのです。このような修行者(出家者)は上座部と呼ばれて、社会生活を営む在家ざいけの信者とは区別され、尊敬されました。スリランカから、ビルマやタイに広まったのはこの上座部仏教です。タイの男性は今でも、一生に一度は頭を剃り、3か月くらい寺で修行する習慣があります。在家信者のまま救ってもらおうとする中国や日本の仏教(大乗仏教)とはまったく違います。

クシャーナ朝の時代、在家の信者も救済するという大乗だいじょう仏教が生まれます。万人救済の「大きな乗り物」という意味です。自分たちは日々の生活に追われ、家族を捨てることもできない。修行者にはなれないから、ブッダや、ブッダの弟子となった修行者たちを神(菩薩ぼさつ)として崇拝し、救済してもらおうというわけです。ナーガールジュナは『中論』を著し、大乗仏教を理論化しました。また、崇拝するには偶像が必要になるので、仏像(ブッダや菩薩の像)が作られるようになりました。クシャーナ朝の都プルシャプラがあるガンダーラ地方からは、おびただしい数の仏像が発掘されています。ガンダーラ美術と呼ばれるそれらの仏像は、同じ時代のローマ帝国でさかんに作られた神々の像とよく似ており、ともにヘレニズム文化の影響下にあったことがわかります。

この大乗仏教は,シルクロードを経て西域から中国へ伝わり、仏図澄ぶっとちょう・鳩摩羅什くまらじゅうが、五胡十六国時代の中国で布教します。ですから、中国・朝鮮・日本に伝わった仏教は、すべて大乗仏教です。なお、大乗仏教の側では上座部仏教のことを小乗仏教(小さな乗り物)と呼んでいます。ちょっとばかにした言い方ですね。使わないほうがいいでしょう。

続く
メンテ
大和魂 53 ( No.55 )
日時: 2010/10/18 12:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ijv0VBCI

◎ヒンドゥー教って何ですか? 仏教とどう違うんですか?

仏教の考えでは、「この世」は幻のようなものです。死は避けられず、人間は滅びゆくものである。「この世」における財産や幸福に何の価値があろうか…。そんなものは捨て、「あの世」での解脱を求めるべきではないか、と。こういう悲観的な思想は、戦乱の世には流行します。しかし、社会が安定し、人々がそれぞれ人生の目標に向かってがんばれるような時代には、むしろ「この世」を積極的に肯定するような、楽観的な思想が求められます。「金儲けしたい」「いい学校に入りたい」「素敵な人と結婚したい」など、現世の欲望(現世利益げんせりやく)をかなえてくれる神さまを人々は求めるのです。学業成就や交通安全や縁結びのお札ふだを、あなたはどこでもらいますか? 仏教のお寺ですか? 神社ですよね?

そう、日本人は「あの世」のことは仏教に、「この世」のことは神社に、と使い分けていますね。日本の神社信仰(神道しんとう)は、このような現世利益の信仰で成り立っているのです。インドにも神社信仰にあたるものがあり、これをヒンドゥー教というのです。日本の神道、中国の道教と同じく、ヒンドゥー教は特定の開祖や教義をもちません。神さまは、古代バラモン教の神々とドラヴィダ人の神々をあわせて星の数ほどいますが、特にシヴァ神(破壊、嵐、舞踊の神)、ヴィシュヌ神(秩序、太陽の神)が人気者です。

ヒンドゥーの教えでは、欲望も権力も、現実に存在するものは肯定的に考えます。輪廻転生の思想もありますが、解脱を目指すより、よりよい来世(次の人生)を迎えることを願うのです。前世(前の人生)での自分の行い(業ごう、カルマ)が、現世の運命を定めたのであり、これを変えることはできない。だから、社会を変えるのではなく、与えられた運命を受け入れ、その中でベストをつくす。そうすれば来世でよりよい運命に転生できるであろう、と説くのです。実は、このような思想がインド独特の身分制度、カースト制度の容認につながったのです。

ヒンドゥーの聖典『マヌ法典』は、神々が人類の始祖マヌに与えた法という形で、身分ごとの職業・結婚・食事に関する細々した規定を定めています。この点で、現世否定の仏教やジャイナ教が、カースト制度をはっきり否定したのとは対照的ですね。

ヒンドゥー教が民衆の間に広まっていったグプタ朝の時代、仏教の僧侶たちは大学の中で、学問的研究に没頭し、民衆への布教を軽視しました。草の根の支持者を失った仏教は、国家の保護を失えば衰退する運命にありました。イラン系遊牧民エフタルの侵入によるグプタ朝の衰退、古代最後のヴァルダナ朝が短期間で崩壊したあと、インドはたくさんの地方政権に解体し、仏教を保護しようとする政府はなくなりました。こうして仏教寺院は荒れはてた遺跡となり、インドはヒンドゥー国家となっていったのです。

ついでに現在騒動が起きているチベット密教について触れましょう。
仏教の一派が、ヒンドゥー教の現世利益も取り入れて、勢力挽回をはかったのです。さまざまな祈祷(まじない)や秘密の儀式で現世の望みをかなえてくれます。唐代の中国で真言宗として確立し、空海(弘法大師)が日本に伝えました。○○大師というのは、真言宗(密教)の寺、という意味です。密教はチベット(吐蕃とばん)にも伝わり、チベットの民間宗教と融合して非常に発達しました。これがラマ教(チベット仏教)です。モンゴルのフビライ=ハンを夢中にさせたのがこれです。ラマ教の教主ダライ=ラマは、事実上チベットの支配者になります。

続く
メンテ
大和魂 54 ( No.56 )
日時: 2010/10/18 12:50
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ijv0VBCI

11世紀初めには、イスラム系のガズナ朝のマフムードによって、はじめてインドはイスラム系勢力の侵入を受けることになります。ここにインド地方におけるイスラムとヒンズーの宿命的な対立が始まります。

イスラム教とヒンズー教の違い。

イスラムの教えでは、全知全能の唯一神が宇宙を作り、人間を作った。この恐るべき神は、いつか最後の審判を下し、全人類を裁き、歴史を終わらせる。絶対的な神の前では人間は小さな小さな存在であり、人間同士が差別しあうのはばかげている。神の前では人間は平等である、と説きます。

ところが、ヒンドゥーの教えでは、神々は自然の中に無数に存在し、人間に恩恵を与える。神々の姿が多様であるように、人間の姿も多様であり、身分の違いがあるのは当然である。人間は、生と死を永遠に繰り返す。よりよき来世のため、神々に祈れ、と説きます。

この対立が、現代のインドとパキスタンの対立、核実験やミサイル開発という形でかなりヤバイところまでいっているという現実につながるわけで、「仕方ない」では済まされません。

水と油みたいな2つの宗教が、仲良くやっていくことはできないのか? 実は、仲良くやっていた時代もあったのです。ムガル帝国3代皇帝アクバルの時代です。彼は、2つの宗教が共存できる国を目指しました。ヒンドゥーに対する異教徒税(ジズヤ)を廃止、自分もラージプート族の娘と結婚し、新しい都アグラにはヒンドゥー様式の宮殿を建てます。ヒンドゥー、イスラムの学者に、キリスト教の宣教師も加えて討論させたり、すべての宗教を統一する“神聖宗教”をつくろうとまで考えました。

インドには平和が訪れました。税金は十分に集まり、国の財政をうるおしました。皇帝シャー=ジャハーンが、亡き王妃のために作った白大理石の巨大な墓、タージ=マハルは、ムガル帝国の豊かさと、文化融和の象徴なのです。本来、イスラムには人間のためにあのような巨大建造物を作るという発想はありません。形はイスラムのモスク風ですが、考え方はヒンドゥーです。このように、いままで考えられなかったような、文化の融合が起こりました。言葉では、ヒンディー語(北インドの言葉)の文法にアラビア語・ペルシア語の単語を取り入れ、アラビア文字で表記するウルドゥー語が生まれました。現在も、パキスタンや北インドで使用されています。宗教ではイスラム教とヒンドゥー教が融合してシク教が生まれました。

ヒンドゥー教のヴィシュヌ神は、太陽のようにすべてを包み込む優しい神さまです。同時に、さまざまな姿に化身(けしん)する神でもあります。『マハーバーラタ』の英雄クリシュナや、『ラーマーヤナ』のラーマ王子は、ヴィシュヌの化身なのです。

このヴィシュヌ神=ラーマ・クリシュナ神に帰依することで救いを得ようとする一派が生まれました。さまざまな神が、実は一人の神である、という考えは、限りなく一神教に近くなります。神への帰依(きえ、バクティ)という考えも、神への服従(イスラム)という考えとほとんど同じです。ムガル帝国の初期、イスラム教徒の織工として生まれ、ヒンドゥーのヴィシュヌ派の教育を受けたカビールは「ヒンドゥーもイスラムも、同じ!」と説きました。続いて下級カースト出身のナーナクは、ヴィシュヌもアッラーも同じ唯一神の二つの姿である、と考え、唯一神への帰依、偶像の否定、カーストの否定を説くシク教の教祖となりました。

しかし、「正統的な」イスラム教徒、ヒンドゥー教徒から見れば、このようなごちゃまぜ宗教は「異端」とされ、迫害されます。シャー=ジャハーンの子、アウラングゼーブは、正統イスラム教徒でした。ムガル帝国の不幸はここから始まります。彼は、異端の父を幽閉し、ジズヤ復活を宣言し、これに従わないヒンドゥー教徒を武力討伐しはじめます。デカン高原のヒンドゥー教徒はマラータ同盟を結成して激しく抵抗し、インドは再び戦乱の中に沈んでいきます。混乱のインドを、イギリス人が征服するのはたやすいことでした。

ところで、宗教融和の考えは20世紀によみがえります。イギリスからのインド独立と、ヒンドゥー・イスラムの融和を説いたガンディーは、熱心なヴィシュヌ派の信者でした。彼は『マハーバーラタ』を終生手放さず、クリシュナ神が説く宗教融和の考えを、実行しようとしたのです。そういう意味で、彼はアクバル皇帝の後継者でした。宗教対立が激化する中で、インド・パキスタンが分離独立し、これに反対して融和を解くガンディーは、その翌年、「正統」ヒンドゥー教徒の凶弾に倒れます。


引用終わり。
メンテ
大和魂 55 ( No.57 )
日時: 2010/10/18 18:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ijv0VBCI

しばらくは、インドの神話の世界です。

〜古代インド大叙事詩『ラーマーヤナ』より〜
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mizuta/mizutasekaisi/4rama.htm

ヒンドゥー教の聖典は?
 キリスト教は『聖書』、イスラム教は『コーラン』、ではヒンドゥー教の聖典は? 実はヒンドゥー教には聖典はありません。しかし、ヒンドゥー教徒には、聖典ともいえる心のよりどころになっている書物があります。それは、紀元前数世紀から語り継がれている『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』という二つの大叙事詩なのです。

 『ラーマーヤナ』は、インドや東南アジアのヒンドゥー教徒の世界では、祭りなどの時に芝居・舞踊劇・紙芝居などで上演され続けています。また『ラーマーヤナ』は、二千数百年間、親から子さらに孫へと語り継がれてきました。字が読める読めないということと関係なく、すべてのヒンドゥー教徒の心の中で、今も『ラーマーヤナ』は生きているのです。

作者ヴァールミーキはインドのホメロス
 『ラーマーヤナ』は24000シュローカの大叙事詩です。シュローカというのは、二行を一つの対にした詩の単位でのことです。『ラーマーヤナ』は48000行の長大な詩なのです。

 この叙事詩はヴァールミーキという詩人の作とされています。ヴァールミーキはガンジス川流域のコーサラ国(紀元前6世紀頃)の人であったといわれています。インドのホメロス(古代ギリシアの大詩人)ともいえる人です。

『ラーマーヤナ』の舞台
 現在、北インドで多数を占めるアーリア人がインドに侵入したのは紀元前1500年頃です。その頃、古代インダス文明は衰退期に入っていました。アーリア人は、インダス文明の残滓から諸要素を吸収しつつ、のちのヒンドゥー教につながる宗教観・宇宙観を生みだしていきました。

 アーリア人がインド北部を東進して肥沃なガンジス川流域に入ったのは、紀元前1000年頃です。やがて、ガンジス川流域に16の王国が生まれます。その中にコーサラ国(紀元前6世紀頃)という王国がありました。これから紹介する大叙事詩『ラーマーヤナ』はこのコーサラ国の王子ラーマとその妃シーターを中心に展開される愛と冒険の物語です。北はコーサラ国から南はマイソールさらにスリランカまで、インド全体がその舞台となります。

主人公ラーマ
 ラーマはコーサラ国の都アヨーディヤーで、ダシャラタ王とその一番目の妃との間に生まれました。ダシャラタ王には三人の妃があり、二人目の妃との間に生まれたバラタ王子、さらに三人目の妃との間に双子の王子がおりました。長男ラーマはこの異母兄弟三人とともに育ちました。

 実は、この四人兄弟はヴィシュヌ神の生まれ変わりでした。ヴィシュヌ神は万物に化身して世界を救う神です。ラーマたちは、この世の災厄のもとになっている魔王ラーヴァナを退治するために、人間の姿をしてこの世にあらわれたヴィシュヌ神の化身だったのです。

ラーマ王子の妃シーター
 同じ時代、ガンジス川流域にミティラーという国がありました。ある時、その国の王が鋤(すき)で土を掘り起こしていると、土の中から幼女が現れました。王はこの幼女にシーターと名づけ、王女として育てたのです。シーターとは田の畝(うね)という意味です。

 王は神の大きな強い弓を引くことのできる者にシーターを嫁がせることにしました。美しいシーターを求めて多くの男たちがやってきましたが、だれもこの弓を引けるものは現れませんでした。そこへ、ラーマがやってきました。ラーマはその弓をやすやすと持ち上げ、弦をつけようと曲げはじめたとき、たちまち百雷のごときとどろきとともに弓は真二つに折れたのです。こうして、土から生まれたシーターはヴィシュヌ神の化身ラーマと結婚することになりました。その後12年の間、二人は幸せな日々を都で過ごしました。

続く
メンテ
大和魂 56 ( No.58 )
日時: 2010/10/18 18:55
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ijv0VBCI

少しだけストーリーを追ってみて、その世界の様子を見たいと思います。

ラーマ、森へ追放される

 コーサラ国のダシャラタ王が引退して、ラーマが王位を継ごうとした時のことです。異母弟バラタの母が悪い侍女にそそのかされて陰謀をはたらきます。その陰謀のために、気の進まない弟バラタが王位につき、ラーマは14年間、森に追放されることになってしまいました。

 ラーマは一人で森に行こうとします。しかし、シーターは「森にお連れくださいませ。さもなくば毒を仰ぐか火に入るかでございます」と嘆願します。妃シーターのことばを聞いたラーマは、シーターを連れていく決心をしました。さらにラーマを慕っていた弟ラクシュマナ(双子の一人)も一緒に行くことを願います。ラーマはシーター、ラクシュマナとともに森の中へと入っていきます。森の生活は厳しいながらも、三人は力を合わせて生きていきます。

魔王ラーヴァナ

 ラーマは、魔王ラーヴァナを退治するためにこの世に現れたヴィシュヌ神の化身でした。魔王ラーヴァナは、ランカー島(今のスリランカ)にいました。魔王にはシュールパナカーという妹がいます。ある時、その妹がラーマたちのいる森に遊びに来ました。魔王の妹はラーマに恋をします。そして、ラーマを誘惑しようとするのですが、ふられてしまいます。魔王の妹は、開き直ってラーマの妃シーターに襲いかかるのですが、逆にラーマ兄弟に耳と鼻を切り落とされてしまうのです。この話を聞いた魔王ラーヴァナは、シーターを奪い取ることを決心します。魔王ラーヴァナは、魔法師を強引に説き伏せてシーター誘拐計画を実行するのです。

金色の鹿

 魔王に説き伏せられた魔法師は、金色の鹿に化けてシーターの前にあらわれます。シーターはこの金色の鹿に魅了されてしまいます。そして、ラーマにその鹿を捕らえて欲しいと強くねだるのです。ラーマはシーターのために逃げ去る金色の鹿を追いかけていきます。遠くまで追いかけた末、ついにラーマは金色の鹿を射止めました。すると、鹿は魔法師の本性を現しました。そして、ラーマの声を真似て「ああシーター!ああラクシュマナー!」と叫びながら死んでいきました。

 遠くから聞こえるその声を聞いたシーターは、弟ラクシュマナにラーマを助けに行って欲しいと懇願します。弟ラクシュマナは、シーターを守っておくようにというラーマの命令との間で激しく葛藤します。しかし、「ラーマをうしなうならば、私は火にも入り…、いかにしても命を絶つ。他の男に身をまかせることなどあろうか」というシーターことばにおされて、弟ラクシュマナはシーターをおいてラーマの方へ向かうのでした。
 魔王ラーヴァナは、計画通り、一人になったシーターを捕らえてランカー島に連れ去ってしまうのです。

猿の王スグリーヴァ

 ラーマ兄弟は、必死になってシーターを探します。その捜索中に、キシュキンダー(南インドのマイソール)の森で、シーター誘拐を目撃していた猿の王スグリーヴァとその重臣たちにであいます。猿たちは、シーターが残していった装身具と肩掛けを保管していました。
 この猿の王スグリーヴァは、猿の国の王位を兄に奪われていました。兄が戦いで死んだと誤解して王位についていたスグリーヴァのもとに、生きていた兄が遠征から帰ってきたのです。兄は弟から王位を取り返すだけでなく、弟の妻ターラーまで奪い取ったのでした。
 その話を聞いたラーマは、妃シーターを失っている自らの身の上から、強く猿の王スグリーヴァに同情します。そして、王位奪還の戦いを助ける約束をします。一方、スグリーヴァは、兄を倒して王位に復したのち、猿王国の軍団でシーターを探し出す約束をするのです。

猿の王位争い

 スグリーヴァは兄に戦いを挑みました。激しい一騎打ちの末、スグリーヴァが倒されかけた時、ラーマは影から弓を放って兄を倒します。スグリーヴァはラーマの助けにより勝ちました。敗れて死に瀕した兄は、ラーマの攻撃を「ルール違反の罪深い攻撃」であったと非難します。ラーマは、弟の妻ターラーを掠奪した兄の罪に対する処罰を与えたのだと言ってこれに答えました。

 兄は亡くなります。兄の妃になっていたターラーは、同じ弓で自分も殺して欲しいとラーマに懇願します。しかし、ラーマはターラーを殺しませんでした。そして、倒された兄は、一人で火葬されたのです。

続く
 
メンテ
大和魂 57 ( No.59 )
日時: 2010/10/18 18:57
名前: 天橋立の愚痴人間

快楽に耽る猿たち

 兄を倒したスグリーヴァは猿の王に復帰します。戴冠式が行われました。その後、宴会が延々と続き、王スグリーヴァ、再び妃となったターラーをはじめ、猿たちは快楽に耽る日々を過ごしてしまうのです。王スグリーヴァは、シーター捜索の約束をなかなか実行しません。

 その猿たちの都へ、ラーマの弟ラクシュマナがやってきます。ラクシュマナは快楽に耽る猿たちの様子を見て怒りに燃え上がるのです。怒るラクシュマナに対し、猿王の妃ターラーは答えます。「私はラーマがなにゆえに立腹しておられるのかということも、遅延の原因も知っております。私はまた、現在いかなることがなされるべきかも知っております。私は、肉の欲望の力にさえ無知ではありません。

…王は、色情におぼれながらつねに私のかたわらで過ごし、恥を知る心も忘れてしまいました。…しかし、王はすでに兵を召集するよう命をくだしております。…」さらに続くおだやかなターラーの思慮深いことばによって、ラーマの弟ラクシュマナは心をなごませるのでした。ターラーは、友情を大切にしなければならないことを忘れていませんでした。ターラーは、酒と快楽の中にありながらも自己を見失っていなかったのです。兄王の葬儀の時に、殉死するというターラーをラーマが殺さなかったからこそ、このようなターラーがあったのだと思います。

 そして、剛勇な猿たちが集結するのでした。

猿王の重臣ハヌマーンの大活躍

 猿王の重臣ハヌマーンはシーター捜索のため、集結した猿の軍勢をひきつれてランカー島に向かいました。そしてついにシーターを見つけだしました。シーターは魔王ラーヴァナのいうことをすべて拒否して、監禁されていたのです。

 ハヌマーンたちは満身創痍になって戦います。が、ハヌマーンは捕らえられてしまい、しっぽに油を注がれて火をつけられてしまいます。しかし、シーターの祈りが火の神アグニに通じます。ハヌマーンは火の熱さを感じませんでした。逆にその火でランカー島に火を放ち、島は火の海となるのです。ハヌマーンはシーターの所在を知らせにラーマの元へと帰るのです。
 知らせを聞いたラーマはランカー島へ行き、魔王ラーヴァナを壮絶な戦いの末に倒しました。

ラーマの疑いと怒り

 そして、ラーマはついにシーターと再会します。しかし、彼は
「余が戦争を完遂したのは、おんみのためではなかった。…いま余は、夷狄の家に長く滞留したことについて、おんみの徳性を疑うものである。余の前に立つおんみを、余は見るに耐えないのである。…いずこへと好むところへおもむくがよいであろう。」
とシーターの純潔を疑うとともに、シーターに怒りをぶつけるのです。
炎の中のシーター

 ラーマに疑われたシーターは、

「誓って申しますが、私は潔白であります。…ラーヴァナは私の意識がないとき、私の肢体に触れたかもしれませんが、それは私の罪でしょうか。…葬送の火を私のためにおつくり下さい。…この非難を受けては、生きる心はありません。…私は身を焔に投じます。」
と言います。ラーマの弟ラクシュマナは葬送の火を準備しました。シーターはラーマのまわりを一度あるき、火に近づき、火神アグニに呼びかけました。

「もし私のラーマへの愛がまったく純潔でありますならば、私をこの火焔より守らせたまえ」
 シーターは火を一巡し、その火に身を投じました。すると、その炎の中から火神アグニがシーターを膝に置いてあらわれました。シーターは真紅の衣裳をまとい黒髪をなびかせ、燦然とあらわれたのです。火はシーターを焼きませんでした。

 こうして、ラーマはシーターを再び迎えることになるのです。ラーマはシーターとともにコーサラ国の都アヨーディヤーに凱旋します。弟バラタは、父王ダシャラタの死後、ラーマのサンダルを玉座に置いて帰りを待っていました。ラーマは弟バラタの差し出すサンダルをはいて玉座にのぼりました。
 こうして壮大な『ラーマーヤナ』の物語は終わるのです。

メンテ
大和魂 58 ( No.60 )
日時: 2010/10/18 19:10
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ijv0VBCI

如何でしょう。日本の神話に登場する神々たちも、親族間の争いを経て、建国の神が現れています。

中国には、このような神話はありません。これから訪れるイスラムの世界の成り立ちも、そんなに人間的なものではありません。
ただインドと日本の違いは、倒した政敵の扱いです。
日本では、怨霊伝説となって倒された神々にも思いを馳せております。


話は少し飛びますが、インドには“サティ(寡婦殉死)”と言う風習があります。

 ヒンドゥー教の世界では、夫に先立たれた妻が、夫の火葬の火で殉死する風習がありました。これをサティといいます。この風習の背景には、『ラーマーヤナ』の物語があると考えられます。しかし、サティを行う人間の女性はシーターのように炎の中からは現れません。インドでは、多くの女性がサティの犠牲になってきたのです。サティは1829年に禁止されました。しかし、その後もサティは散発的に行われてきています。

ループ・カンワルさんのサティ

 1987年1月17日、インド北西部のラジャスタン州デオララ村で、18才の娘ループ・カンワルさんは24才の医者をめざしていたマン・シンさんと結婚しました。しかし、夫マン・シンさんはその年の秋に亡くなってしまいました。葬儀はその日に行われました。若妻カンワルさんは赤い結婚式の衣裳に身を包みました。

村人が見守る中、遺体を焼くために積み上げられた薪の上に座ったのです。喪主である夫の弟が火をつけました。1987年9月4日、カンワルさんはそのまま焼死しました。カンワルさんは炎の中で笑みを浮かべていたと村人はいいます。

 カンワルさんは神になりました。その後、神になったカンワルさんを崇(あが)める盛大な儀式が行われました。人口1万人に満たない村に30万人以上の人々が集まったといいます。

カンワルさんは微笑んだか?
 この話を知ったとき、私はカンワルさんの炎の中での微笑みが信じられませんでした。彼女の微笑みは村人たちの幻想だったのではないでしょうか。私は、カンワルさんがシーターのように熱さを感じなかったとは考えられないのです。カンワルさんは生身の人間です。サティは、「死」への恐怖とともに、身体的に大きな痛みを伴う残虐な儀式なのです。

 カンワルさんは死後、神になったかも知れません。しかし、炎に包まれていた時は、神ではなく生身の人間だったはずです。

神々の過ち

 『ラーマーヤナ』のシーターのお話はとても純粋で美しい物語です。ただし、シーターは土から生まれた神さまであったことを忘れてはなりません。その純粋さ・美しさは神ゆえのものなのです。生身の人間に神さまの純粋さを求めてはいけないと思います。

 『ラーマーヤナ』をよく読んでみると、神々でさえいろいろな過ちを犯しています。シーターは金色の鹿に目を奪われてしまってラーマにしつこくねだりました。ラーマは猿の王位争いで、弓を影から放っています。ラーマがシーターを疑ったのも大きな過ちでした。人間の姿をしているというだけで、神々もいろいろな過ちを犯してしまうのです。

猿たちの過ち
 『ラーマーヤナ』では、猿たちもいろいろな過ちを犯しています。王位争いは誤解から始まっています。弟スグリーヴァの戴冠後、猿たちは快楽に耽る日々を過ごしました。そして、ラーマとの約束をなかなか果たしませんでした。ターラーは、兄王の死後に自分も殺して欲しいと言ったすぐ後から、弟王と快楽に耽る生活を送っていました。

しかし、ターラーは自らの過酷な運命に負けませんでした。怒るラーマの弟を冷静になぐさめ、猿たちに約束を果たさせたのです。その時のターラーの様子は次のようでした。

「艶冶(えんや)なターラーは、酔顔のまま、よろめく足どりに帯をならしながら、豊満な胸の重みから体をいささか前に傾けて、ラクシュマナ(ラーマの弟)に進みよった。…ターラーは酔いのゆえに羞恥を忘れ、…媚(こび)をたたえながら大胆に話しかけた。」

過酷な運命に翻弄され、酒と快楽の中にありました。しかし、ターラーは自己を見失うことなく、冷静に思慮深いことばを語りだしたのです。ターラーは友情の大切さを忘れませんでした。

シーターからターラーへ

 「猿の世界」と「ラーマたち神々の化身」の世界とは大きな違いがあります。それは、ラーマたちが、猿の世界にはない「完璧な純粋性」を求めていたということです。そこに『ラーマーヤナ』の美しさがあります。その神々しい美しさは炎の中のシーターに結晶します。シーターのような神々しい美しさを求める心は大切かも知れません。

ただ、神の求める「完璧な純粋性」を生身の人間に求めてはいけないのではないでしょうか。『ラーマーヤナ』は、神々でさえ人間の姿をしている時は、過ちを犯すものだと教えているではありませんか。


ラーマヤーナの項、終わり
メンテ
大和魂 59 ( No.61 )
日時: 2010/10/20 14:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:O0eqDvis

インドの伝説を一つ紹介します。
http://chaichai.campur.com/indozatugaku/ganesha.html

「ゾウの神様ガネーシャ伝説」

インドでもっとも人気のある神様ガネーシャ。その強烈なキャラクターは数ある神々のなかでも異彩を放っており、一度見た人は決して忘れることは出来ないだろう。



ガネーシャの特徴はその顔にある。写真を見ていただけば分かるように、見事なゾウ顔なのだ。ユーモラスな顔という人もあるが、目付きは結構怪しい。

それは例えるなら、マリファナのやりすぎみたいな恍惚の表情のようでもあるし、またじっさいのゾウにも似ていなくもない。見れば見るほど不思議な気分になる神様でもある。

ところで、ガネーシャの足元にはいつもネズミの姿がある。じつはこのネズミ、ガネーシャの乗り物である。じっさいに乗っている絵はまだ見たことがない。

また、ガネーシャの牙の片方は必ず折れていなければならない。伝説によると。…とある月夜の晩にふらふらとガネーシャが出歩いているとき、目の前を横切った蛇にネズミが驚き、主人のガネーシャを振り落としてしまった。牙はその衝撃でポキリと折れてしまった。ガネーシャは怒って、蛇を捕まえ、腰に巻きつけてしまったのだとか…。また、その場面を見ていた月が大笑いしたため、ガネーシャはまたもや癇癪をおこして折れた牙を投げつけてしまった。それで結局、折れた牙は今も行方不明のままだ。まったく神様らしくない話だが、ガネーシャ誕生譚はさらに奇想天外なものだ。


元祖ガネーシャ?

ことの始まりはシヴァ神(破壊の神)の妻パールヴァティーが自分の垢で人形を作ったことにあった。多分、これも気まぐれに違いないが、すっかり気に入った彼女はその人形に魂を吹き込み息子にしてしまった。そしてまず、この息子に自分が入浴中の門番の役割をいいつけた。

そんなこととは知らずにこの家に戻ってきたのが夫のシヴァだった。でも、シヴァとこの息子は初対面、お互い「入れろ入れない」の押し問答になってしまった。すっかり激昂したシヴァはこの息子を殺そうとしたがなかなか歯が立たない(史上最強の神様のはずなのに…?)。そこでビシュヌの助けも借り、ようやくこの息子の首を切り落とすことに成功した。

しかし、問題はパールヴァティーである。まさか自分の夫が息子を殺してしまうなどと想像もしていなかったから、この事態に激しく動揺し、嘆き悲しんだ。シヴァはもともと同情心の強い神様だから何とかしなければ、という訳で、とにかく家来の悪鬼たちに「すぐに何でもいいから首を用意してこい」と命令した。そこで悪鬼たちが慌てて出発し、ようやく見つけたのがゾウだった。ゾウは哀れにも首を切り落とされ、その首を死んだ息子の胴体につけて生き返らせた。こうして生まれたのがガネーシャである。

ガネーシャの一般的な説明を読むと、「富をもたらす現世利益のおだやかな神様」といった説明がよくあるが、そんなつまらない神様はインドには存在しない(存在できない)。ガネーシャもまた、かなり癖のある神様である。ずるがしこいし癇癪持ちだし何より嫉妬深い。信者たちは、その嫉妬を恐れて、寺院に行くとまずガネーシャの祠へ行ってお祈りをする。まあ、かなり我がままな神様だと思って間違いない。

ところで、毎年夏、8月から9月の10日間、ガネーシャの誕生を祝う祭りが西インドを中心に行われる。粘土で作られたガネーシャの巨大な像が街を練り歩き、最後は川や海に流される。とくに有名なのはムンバイとプネ、いつかは行きたい祭りの一つだ。

−−−−−−−−−−−−−
ガネーシャは日本にもやってきている。おそらく平安時代、空海あたりによって連れてこられ、長いあいだ門外不出であったのが、中世あたりに一般に出回った。いわゆる「聖天さん」がそうだ。正式名称は「大聖歓喜天」である。ゾウ頭の男女が抱き合うような怪しい格好をとる姿で知られている。あまりに怪しかったためか、お稲荷さんや弁天さんのようにはメジャーにはならなかったが、その分、謎めいている。


如何でしょうか。
日本の穏やかな話と違い、逞しい創造性が見られるでしょう。
これがインドの特徴で、全体の流れよりも個人の恣意が尊重されます。
メンテ
大和魂 60 ( No.62 )
日時: 2010/10/20 14:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:O0eqDvis

「月の模様になったうさぎの伝説」

昔から日本では月にはうさぎが住んでいて、お餅をついていると伝えられて
いますが、そのルーツをたどるとインドの伝説が元になっているようです。
インドではこのような伝説が伝わっています。
 昔ウサギとキツネとサルの三匹がとても仲良く暮らしていました。ある時三匹は、
自分たちが何故獣の姿をしているのかを、真剣に話し合いました。

   「きっと前世の行いが、悪かったからだろう」
   「それならばこれからは、人の役に立つような行いを、しようじゃないか」

まもなくそのチャンスが訪れました。三匹の前に、ひとりのみすぼらしい老人が
現れたのです。彼らはさっそく老人の世話をすることにしました。サルは木に登り
木の実を集めてきました。キツネは野山を走り回って、果物を集めてきました。
しかし、ウサギには何もすることがありませんでした。そこで彼は自分自身を
食べてもらおうと、燃えさかる炎の中に身を投じてしまいました。これを見た老人は
びっくりしてしまいました。実は老人は神様の仮の姿だったのです。

   「お前たちの優しい気持ちは良くわかった。来世ではきっと人間にしよう。
   それにしてもウサギには可愛そうなことをした。月の中にウサギの姿を
   永遠に残してやろう。」
月の黒い模様は、ウサギが喜んではねている姿なのである。



「狩猟の神アルテミスの伝説」

月の女神アルテミスは、芸術の神アポロンの双子の姉です。アルテミスは
処女の女神としても知られていて、他に狩猟と弓の技をつかさどりました。
いつも弓矢を持ちニンフに囲まれて、野山を駆けめぐりました。野生の動
物や子供、弱者達の守護神でもあったのです。

しかし少女のような純粋さゆえか、異常なまでに潔癖で、しばし冷酷な一面
もみせました。彼女が池や川で水浴をしているところを覗いた男達は、ひど
い報復を受け、その罰として女に変身させられた者もいるほどです。

 その中でも悲惨な処罰を受けたのが、優れた狩人であったアクタイオン
でした。彼は狩りの途中で、偶然にアルテミスの水浴中の裸身を見てしまい
ました。アルテミスはこの偶然を許そうとはしませんでした。アクタイオンは
ポロンの孫であり、人間の世界で言えば、アルテミスは大伯母に当たります。
それにも関わらず、アクタイオンを鹿に変えてしまいました。彼の50匹の猟犬
は、その鹿が主人であることも知らないままに飛びかかり、主人を貪り食って
しまったのです。
メンテ
大和魂 61 ( No.63 )
日時: 2010/10/20 14:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:O0eqDvis

次は民話です。

「人の運命」

 ある国に貧乏な爺さんと、婆さんと、その息子がいた。三人はたいへん信心深くて、毎日神に祈りを捧げながら日を送っていた。けれどいっこうにその御利益もなくて、二晩に一晩は飯をぬいて寝る、というふうだった。それでも三人は神の祭礼だけは欠かした事がなかった。
 ある日、天で幸福の女神のラクシュミーが夫のナーラーヤナ神に言った。
「ねえ、あなた。あの三人は毎日わたしたちをこれほど熱心に拝んでいるのに、あんなに不幸だなんて」

「そんな事を言っても、彼らの運命は現世ではこういう事になっているのじゃ」
ナーラーヤナがこう答えるとラクシュミーは、
「いいえ、あなた。それは嘘ですよ。わたしは幸福の神ラクシュミーですよ。あなたは偉大なナーラーヤナ神じゃありませんか。ああしていつもわたしたちの事を拝んでいるのですから、ひとつ行って望みを叶えてやろうじゃありませんか」と言った。

 そこで二人の神は連れ立って下界へ下りていった。そして三人の住む家の庭に立ち、家の者を呼ぶと中から爺さんが出て来た。
「われわれは天から来たナーラーヤナとラクシュミーじゃ」
ナーラーヤナ神がこう言うと、爺さんはびっくりして、
「こんな貧乏人の家になんでまた来られましたか」と言って、いそいそと家の中から破れたカンタ(刺し子布)を出して来た。二神はそこに坐って言った。
「お前達はたいへん信仰があつい。そこで今日はお前達の望みを叶えに来たのじゃ。何なりと望みを申すがよい」

「それは本当ですか」
「本当じゃ。明日から毎朝ひとりずつ池に行って身を清め、そのあとで自分の望みを言うがよい。財宝でも何でもやろう。もし大国の王になりたいというなら王にもしてやるぞ」
こう言って、二人の神は天に帰っていった。

 これを聞いた爺さんと婆さんと息子は喜んだ。そしてそれぞれ自分の願いごとを考え、誰がはじめに望みを叶えてもらうかその順番を決めた。
まず婆さんが初めに望みを叶えてもらう事になった。婆さんは翌朝早く池へ行き、体や手足を洗って身を清めると、どんな望みを言おうかと考えた。
「わしはこんなに黒くて醜い。村の連中もわしを見てはバカにしおる。爺さんは財宝が欲しいと言っていたから、うん、そうじゃ。それならわしは...」と言って神にこう願った。
「神様、わしを美人にして下さいな。インドで一番美しい女に、いやそれより世界で一番美しい女にして下さいな」

 するとたちまち婆さんはこの世にまたとないほどの美女になった。
 そして池から上がり、さて家へ帰ろうかと思っているところへ、ある国の商人が通りかかった。そして美女になった婆さんを見た。
「わたしのような金持ちの家にもこんなに美しい女はいないのに、こんな辺ぴな田舎の池のほとりにこんな美女がいるとは...」

 商人はこうつぶやくと、美女になった婆さんを馬に乗せてさらっていってしまった。
 これを見た爺さんはたいへん悲しんだ。
「わしの婆さんがいなかったら、この所帯も意味がない。いくら財宝を得て王になったところで婆さんがいなくては何になろう。それならいっそのこと...」

爺さんは翌朝池に行き、身を清めてから神にこう祈った。
「神様、さらわれてしまったわしの婆さんをどうか豚にして下さい」
 商人は美女になった婆さんをさらっていって家の一室にかくまい、翌日結婚式をあげる事にしていた。ところが一日たってみると驚いた事に美女が豚になっている。
「これはどうした事だ!わたしは豚などさらってきた覚えはなかったが...」

 商人は豚をひっぱたいて追い出した。
 豚は家に帰って来たが、豚になってしまっては仕方がない。爺さんも豚をたたいてはあっちへ追ったりこっちへ追ったりしていた。これを見て息子は、
「ああ、母さんが豚になってしまっては、いくらおれが財を得たところで何になろう」と思って、

翌朝池に行くと神様にこう願った。
「神様、どうかおれの母さんを元通りの姿にして下さい」
 すると婆さんは黒くて醜い元の姿に戻った。これで三人の願いは聞き届けられた。
 天でナーラーヤナ神は言った。
「どうだね、ラクシュミー。わしが言った通り、彼らに運はなかったのじゃ」-おわり-



我々にも、そのまま当てはまるような話しです。
しかし、日本ではこの種の民話はありません。
倫理、道徳の間に埋没しているのでしょう。
メンテ
大和魂 62 ( No.64 )
日時: 2010/10/20 14:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:O0eqDvis

今度は、現代にも生きている、ことわざの類です。

インドのことわざ 言い伝え
http://www.namasute-mumbai.com/kotowaza.html

日本語がご堪能なギータ・ナイアルさんにインドのことわざや
日常生活での言い伝えについてうかがいました。
ギータ先生は、印日協会で日本語講師を勤めるかたわら、
日系企業の通訳としてご活躍です。
英語、ヒンディー語、カルナータカ語など5つ以上の言語を習得されてます。
美術の造詣も深くムンバイのJJアートスクールで学ばれました。

 皆さんこんにちは、今回のテーマをいただいた時に、最初に考えたのは、子供の時に聞いた物語です。その事からお話します。

 夜、泥棒が、街一番のお金持ちの家に忍び込み、荷物を持って逃げ出そうとした時、足の指の爪を剥がして家の中に落としてしまいました。泥棒は大急ぎで戻って爪を拾おうとしたが、爪はなかなか見つからず、仕方なく電気をつけたら見つかってしまいました。

この泥棒が、どうして爪などにこだわったかといえば、インドでは、古くから「爪を落としたところは滅びる」といわれていました。泥棒にしてみれば、大事な仕事場(お金持ちの家)がなくなっては困るので、爪を必死になって探していたという笑い話です。

インドの社会背景には、『小さなものでも大きなものへのつながりがある。』という考え方があります。カルマ(因縁)と言いますが、常に、自分の言った些細な言葉や考え方も、大きなものにつながっている、だから思慮の足りない言動を慎む様にという戒めが、この物語にはあります。もちろん先のとがった爪は危ないので切った後の始末の戒めでもあるわけですが。

Q.爪の話が出ましたが、日本では、夜のタブーがあります。例えば、夜に爪を切ってはいけない。

夜に、塩を買ってはいけない。夜に、新しいものを使い始めてはいけな
い。それと反対に、祝事は、朝の方が良いとされています。インドには、朝・夜の時間によるタブーがありますか。

インドでも時間に関するいろいろな観念があります。日没の時間は、1日の中で、とても大切な瞬間です。サンスクリットの考えから来ていますが、日没と日の出の時間は精神的にも大変敏感になる時間で、この時間には、お線香をたき空気を清めてお祈りをします。日が暮れて家に灯をともす時、私も今日1日の無事を感謝しながら敬虔な気持ちでお祈りをします。

この時間をサンジャ(サンスクリット)と言い、女性の名前にもよく使われています。日の出は、ウシャ(サンスクリット)といい、これもよく女性の名前として、使われています。ウシャには、ヒンディーの聖人にとっても大事な時間で、早朝4時頃からお祈りをします。太陽に水を奉げて祈る時間です。

インドでも夜、爪や髪の毛を切ってはいけないといわれています。夜、暗いところで刃物を使うと事故になることへの戒めでもあると思いますが…。また、夜は、塩、ヨーグルトは、貸してはいけないとされています。鍋などの調理器具の貸し借りもいけなくて、結婚式や、人寄せで、大なべを借りに来た時は、担保に小さな鍋を預かるというしきたりもあります。また、夜の戒めとして、新しいものをおろして使わない、お金を貸さない、新しいものを買わないという、戒めもあります。

 ボンベイのような都会では、このような時間の戒めを全部守っていくには、忙しすぎるし、合理的ではありません。インドでもゆったりとした時間があった時の戒めが多いのですが、私自身、若い頃はあまり気にしなかったことも、歳をとるにしたがって、何か、生活上に意味のある決まりなのではないかと思うようになりました。

夜遅くまで外出していて、日没をかなり過ぎてから電気をつけるような時もスイッチを入れながら、心の中で、お祈りしています。夕方の時間は、とても大切な時間と、意識しています。また、女性は、家の運を守る役割があるとも言われていて、灯をともし、スイッチを入れるのは、守り神の女性の仕事でもあります。

続く
 
メンテ
大和魂 63 ( No.65 )
日時: 2010/10/20 14:31
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:O0eqDvis

Q.日本では、「茶柱が立つ」(お茶の中に茶の芯が浮く事)と縁起が良いとか、「雨降って地かたまる」という、縁起の良い前触れについても良く言われます。良い事のまえぶれについてインドにも言い伝えがありますか。

 商店などでは、朝1番のお客さんを大切にします。何も買わずに帰られてしまうと、1日商売がうまくいかないという考えから、たとえどんなにお客に値切られても買ってもらいたがります。以前は、私の母が朝早くクレープ(布地)を買いに行き、その店では買わなかったけど、母が再び戻ってきたら店主が店の前で母を待っていたそうです。

母が店を出てから1時間あまりの間に大変な客入りで、大繁盛。母は、ただで、クレープを貰ったそうです。母が、商売繁盛をもたらしたと思ったそうです。一番最初のお客は大事にされます。

また、仕事場に入る時、そこの床に手をついてその手を自分の額に持っていき拝んだりします。今日1日仕事が上手くいきますようにという気持ちですね。舞台に上がる時もそうですね。

 インドでは、朝一番に目に、入ったもので、その日の運を占ったりします。それは、いつも嫌われていたり疎まれているもので、生肉、お酒、痛いもの(刺とか、出掛けにどこかをぶつけて、痛い思いをする)、ヒジュラ(インドのオカマの人たち)などです。こういうものに、朝一番に出会うと、今日は、これ以上嫌なことはない、転じて、良い事があるとなるわけです。

 ヒンディー教の新年(4月14,15日ごろ)には、朝、母に4時ごろに起こされます。この時目は目隠しされていて、祭壇の前に行くまで目を閉じていなければなりません。祭壇には、お盆に花、カジョル、鏡、ランプ、米、ビンディーの赤い粉、金貨など美しいものが入っています。新年に先ず目に入るものが美しいものであり、これを見ると1年間良い事があると思われています。またこの日は、子供たちは少しだけお金を貰います。お年玉と同じです。新年のお花には、ハルディーという金色の花が使われます。藤のような花で黄色です。

(この花は、日本名で金くさり、英名ゴールデン・シャワーというそうです。イギリスでもよく観られるそうです。4月頃、マニ・バワンの通りが見事だそうで、この通りは、ハルディー・レーンというそうです。)
カジョルとは、ギー(インドのバター)を煮詰めてその煤を銅版に受けて作った黒い粉です。子供が厄除けで目の下につけています。

Q.カジョル(子供が目の下につける黒い墨)について教えてください。

インドでは、あまりむやみに子供を誉めてはいけないと言われています。なぜなら、可愛い、綺麗といわれて、人の妬みを買うと子供に災いが起こるといわれているからです。だからよく子供が器量を誉められるとお母さんは急いで子供を家に連れて帰り、塩とチリをつかんで、子供の前で、ぐるぐる3、5、7回まわして、口の中で、小さな声で呪文を唱えてチリと塩を火に投げ捨てて清めたりします。

そのために、目の下にカジョル(黒墨)をつけて人の妬みをかわない様に厄除けにします。子供の食べっぷりを誉めてもいけません。赤ちゃんなどが、よく食べますねといわれると病気になるともいわれています。しかし、親ならばわがこを誉められて、悪い気はしないのでこの言い伝えについてはあまり神経質になることはありませんが。
メンテ
大和魂 64 ( No.66 )
日時: 2010/10/20 14:32
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:O0eqDvis

Q.方角についても日本では、南や東は、良い方角ですが、北や西は、あまり良くあり
ません。インドはどうですか。

インドでは死んだ人は、南向きに寝かせます。普通は、東を頭にして寝るのが良いとされていますが、北についてはあまりタブーはありません。西は、好ましくない方位です。

Q.左右の使い分けについても教えてください。

基本的には、上半身は、右手で、下半身は左手で。物を手渡す時は、必ず右手で。厳格な人は、顔は右手で、腰から下、足は左手で洗いますが、これはとても不便なので、気分的にそう守ろうと考えている程度で…しっかり分けては暮らせませんから。

Q.アジアの女性には、タブーはたくさんあると思うのですが、女性のタブーで今でも厳しく守られている事があれば教えてください。

一番強く言われているのは、妊娠中に月食を見てはいけない、月食中の外出です。これは、子供に障るといわれていて、どんなに、西洋的教育を受けて、進歩的なインドの女性も頑なに守っています。

Q.日本では、3や、8が昔から良い数字といわれています。また、贈り物をする時などは、4(し)は、死に通じるので、嫌われます。奇数は、これ以上半分にできないので、壊れないという意味から、祝事に使われます。数字についても教えてください。

奇数はよい数とされています。結婚のお祝い金は、10,001ルピーというように奇数を包みます。また、0(ゼロ)は、インドで発見された数字ですけど、何もない、空虚であるということから良い数字とされています。かたちも輪なので、完全無欠で良い数です。

おでこにつけるビンディーは○。実はここから来ています。
また、ビンディーは、第三の目、心の目でもあるわけですが。
4についてのインドでの考え方は、社会の規範は、4で表されます。方角、ヴェータ(ヒンドゥー教の聖典)は、4つあります。カーストも4つですね。

 話が横にそれますが、ヒンディー教のヴェータ(聖典)というのは、4つあって、これには、人間はなぜ生きるのか、生きる目的について書かれています。1はダルマ(人間らしさ)ダルマのために働く、人が人のために働く、人の役に立つということ。2つ目は、アッタ(物、お金)の為に働くということ。3つ目は、カーマ(愛)ですね。もちろん、子供や隣人への愛も含まれますよ。4つ目はモクシャ(悟り、自分の魂の開放)です。

5は5つの金属を合わせたものは、体に良いとされていて、5種類の金属をバングルなどにして身につけていますね。
7は、サンスクリットでも大事な数です。7つの世界、7つの大陸、7つの海、7つの惑星、インドの音階も7つですね(サ・レ・ガ・マ・パ・ダ・ニ・ラ)=(ド・レ・ミ…)。結婚式で、火の周りを回るのも7回ですし、大事な人が来た時にお清めで、お盆に載ったお供え(花、ランプ、カジョルなど8品目)を、ぐるぐる回すのも7回です。
8は、このお供えが8品目ですね。


まだまだ書いてありますが以下は省略します。
メンテ
大和魂 65 ( No.67 )
日時: 2010/10/20 14:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:O0eqDvis

インド古代への旅は一段落させておいて現代インドの様子も見ておきましょう。

インドの社会と言えば、現在も残るカーストの制度とIT産業分野を発達させた高度な知識集団の存在を思い浮かべます。

歴史的に見ても、イスラム圏との宗教戦争や独立戦争はあったとしても覇権を争う大きな戦争は体験していない大国であります。

その他に、宗教的な考え方を大切にしている国民性などが感じられます。
そう言うものを、限られた情報ですが少し検証してみます。

インドのカースト制
http://www.indochannel.jp/society/class/01.html

日本では一般的に、インド独特の身分制度であるカースト制度とは、バラモン(僧侶)、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(隷属民)という四階層で構成される身分制度であると思われています。この区分はすでに紀元前数世紀頃、古代インドのバラモン教(ヒンドゥー教の母体となった民族宗教)の聖典『リグ・ヴェーダ』の中に見ることができます。この区分はインドでは「ヴァルナ」と呼ばれ、本来は肌の色に由来するものでした。当時インドに侵攻したアーリア人の肌が、土着のドラヴィダ民族に比べ白かったため、自らの肌色を頂点として作り上げた階級制度です。

日本語では四姓制度としても知られるヴァルナですが、実際にはこれらの制度に入ることのできないアウトカースト(不可触民・アチュート・ダリット)も存在するため、インドの社会は大きく五つに区分されるということもできます

このヴァルナに加え、職業別の階級制度(身分差別)であるジャーティという区分も存在します。サブ・カーストとも呼ばれるジャーティの種類は、一説には2,000とも3,000とも言われます。インド社会を現実的に構成するのは、数え切れないほど細分化された世襲制度ジャーティです。各ジャーティは伝統的な職能集団で、地域社会内ではジャーティ間での分業体制が成り立っています。これに加え、ジャーティの特徴として内婚制(同ジャーティ内での結婚)が挙げられます。この内婚制度は現在でも厳格に守られており、異カースト(異宗教)間の結婚は少数です。このように、インドのカースト制度とは、「ヴァルナ・ジャーティ」制度ということができます。

 この身分制度の根幹を成す考え方として、ヒンドゥー教独特の浄・不浄の概念があります。もっとも身分が高い階級は最高に清浄であり、身分が下がるに従ってケガレも増すという考えです。そして浄・不浄の概念は、これもヒンドゥー教の根幹を成す業・輪廻の概念と抜きがたく結びついています。つまり、現世の身分を決定するのは前世の行いであり、現在の自分に与えられた身分(職業)に没頭することで、来世のよりよい身分が約束されるというわけです。この考え方の枠組みによれば、下の階級が上層階級へ尽くすことこそが、自らを救済する道であるということになります。このことが、いわゆるカースト制度がなかなか消えない理由でしょう。

 独立後のインド憲法ではカースト差別を禁止しており、政府は最下層に置かれた不可触民や先住民の地位向上のため教育、公的雇用、選挙での留保制度といった保護政策をとっています。また近代化や都市化が進みつつあるため、新たな職業への進出等で地域の伝統的な分業関係が崩れ、カースト制度はゆるやかに解体の方向に進みつつあるといってもいいでしょう。しかし村落社会を中心に依然として根強い影響を持っています。   

インドの大家族制

インドでは、伝統的にジョイント・ファミリーと呼ばれる一族郎党が一ヶ所に集まって暮らす大家族システムが一般的でした。これは、大量の労働力を確保する必要がある農村地帯でとくに発達したスタイルです。現在都市部では核家族も増えてきてはいますが、依然としてジョイント・ファミリーは一般的なインド人の理想とする暮らし方であるということは間違いないでしょう。今でも農村部では、100人以上の家族を抱えるジョイント・ファミリーも存在します。 大家族制度の影響を示すひとつの例として、親族の名称の複雑さが挙げられます。インドでは、父方の祖父(ダーダー)、父方の祖母(ダーディー)、母方の祖父(ナーナー)、母方の祖母(ナーニー)それぞれに名称があります(カッコ内はヒンディ語での呼称)。このように、父母どちらの血統かで呼び名が異なっており、おじやおばに当たる呼称も10種類に分類されるそうです。

続く
メンテ
大和魂 66 ( No.68 )
日時: 2010/10/20 14:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:O0eqDvis

IT産業の発展と「〇」の概念を生み出した国。

インドではヒンドゥー教をベースに頭脳労働が尊いとされており、初等教育よりも高等教育に重点がおかれていることも特徴です。

インド工科大学(IIT、Indian Institute of Technology)やインド科学大学院大学(IISc、Indian Institute of Science)など、世界のトップクラスの大学や大学院があります。IITなどは、ここに落ちた学生で、米国のマサチューセッツ工科大学に入るとまで言われているほどです。
もともとインドの数学の発達は早く

特に、インドの数学は古代ギリシャの数学の影響を多大に受け、古代インドで発展した数学は8世紀ころにはイスラム世界に伝わりアラビア数学に影響を与えた歴史があります。
有名な「ゼロ」の概念も当時のインドで発見されています。

「ゼロ」の発見の意味

ゼロの数字「0」は、インドで生まれたといわれています。インドでは夜空に輝く星は、地球から眺めると点や小さな円に見えることから、それを「・」や「○」で表していました。これを無を意味する概念、「シーニャ」と呼びました。

ゼロという数字は、まず、「何もない」ということを示すためにある、といえます。私たちは、モノの数を数えるときに数字という概念を使い始めましたが、何個あるかということの他に、「何もない」ということを表現しなければならなくなったのです。

私たちは普段、十進法の数字を使います。これは、数が十個目になったら、次のケタにあがるというものです。

 1 2 3 4 5 6 7 8 9

 その次は、十個のかたまりが1つという意味で、十の位が「1」になります。つまり、こうです。

 1

 わかりましたか?これが十を表したつもりです。一の位は何もないので、何もかかなかったのですが...この表現方法では、とても分かりにくいので、ゼロが必要になったのです。つまり「ケタ」を表す必要があったのです。当然、正しくはこうなります。

 10

 日本や中国では、漢数字で数を表すことができます。一、十、百、千、万、億...ですから、言葉にするときも、ゼロを意識せず言うことができます。

 「三百五」

 しかし、ときどき聞き間違えることがあるので、丁寧にいうときは、

 「三百とんで五」

 と言うこともあります。この「とんで」がゼロを意味しているのです。
 ゼロの存在に慣れてしまった今では、ありがたみが薄いかもしれませんが、ゼロの発見はとても偉大です。何もないことを最初に表現しようと考え付いたのは一体誰なのでしょうか?まさに暗号を解くような発想です。


インドではもともと、哲学と宗教の境目がなく、哲学者といわれる人が衆人の前で白熱した持論を戦わせる、それが時には数日に及ぶようなことがあったそうである。

見方を変えれば哲学が大衆の中に溶け込んでいると言えるでしょう。これはヒンズー教が一神教ではなく、また先に言いましたようにインドの宗教は日本で言う仏教よりも神道信仰に近いものであり、現世のあり方と結びついていることと無縁ではないと思います。

そう言う観念力が発達した社会がカースト制度を受け入れていることも、西欧の合理的精神から見れば不思議なことです。

メンテ
大和魂 67 ( No.69 )
日時: 2010/10/20 14:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:O0eqDvis

最後にリグ・ベーダの一章を紹介してインドへの旅を終えようと思います。
私の好きなこの詩は、現代インドの人々の底流に今も生きているのではないでしょうか。
不思議の国、インドであります。

「リグ・ベーダ」

そのとき、無もなく、有もなかった、
空界もなく、その上の天もなかった。
世界を庇護したのはだれか、それを包んだのはだれか。
あの底知れぬ深遠はどこにあったのか、あの海はどこに。

そのとき、死もなく、不死もなく、
夜と昼とがさだかでなかった。
かの唯一者は、息なく呼吸し、
そのほかには何ものも存在しなかった。

全世界は暗黒におおわれ、
光なく、夜の中に消える大洋であった。
そのとき、おおいの中に隠れていたもの、
かの(唯一者)が灼熱の力によって生まれた。

これから出て、はじめに現れたのが、
知の種子なる意欲であった。
有の根底を無のなかに見いだしたのは、
心の動きにしたがい、探し求めた聖賢たちであった。

彼らが測素を横にずっと張ったとき、
何がその下にあって、何がその上にあったのか。
種子をもつものが存在し、活動する力が存在した。
自存力が下に、あふれそうな力が上に。

だが、だれがうまく尋ね当てたのか。
創造がどこから生じたかを、だれか認めたものがいたのか。
神々も、この創造よりのちに生まれ出た。
では、創造がどこから生じたかを、だれが宣言するのか。

創造を生み出したもの、
彼はいと高き天の光でそれを総覧し、
彼はそれをつくりなし、あるいはつくりなさず。
彼はそれを知り、あるいはまたそれを知らないか。
メンテ
大和魂 68 ( No.70 )
日時: 2010/10/23 15:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

さてイスラムの社会です。
ここはメソポタミア文明発祥の地で、これまでの中国、インドに比べて入り乱れた民族間の抗争の地です。
何を持って古代イスラムとすればよいのでしょう。
とりあえずは、メソポタミア文明というものに近づいてみましょう。

http://www.geocities.jp/timeway/kougi-1.html
上記は金岡新氏が高校生の授業のために書かれた「世界史講義録」です、紹介する以外に実に広範な内容を書かれています。
しばらくは、この文章によって話を進めます。
最初に、論旨には直接関係はありませんが「人類の誕生」と言う内容について書かれていることを紹介します。
以前に「人間の歴史」(イリン著)と言う書物を読みました。其処では原始人たちが、火や道具を用いるようになったきっかけ等が書かれていました。
そういう時代から人間が社会を構成するようになるまでの経緯を述べたものです。
その要約とも言うべき氏の文章を紹介します。

「人類の誕生」

進化論
 歴史が始まるには、人類が誕生しなければなりません。どのように人類が誕生したか。今でこそ進化ということは常識になっているけれど、この考えが発表された当時は大きな抵抗がありました。
 進化論で有名な学者、知っていますか。そう、ダーウィンですね。イギリス海軍の測量船「ビーグル号」に博物学者として乗り込み、南半球の各地を調査した。各地の動植物を観察するなかで進化論を確立します。
有名なのがガラパゴス諸島。小さな島がたくさん集まっていて、ここにしかいないという動物がたくさんいるんですが、ダーウィンが観察してると、あることに気づく。ちょっと隣の島に行くと、同じ種類の鳥でもくちばしの形が少しづつ違う。ガラパゴスゾウガメというカメがいるのですが、これも隣の島に行くと甲羅の形が違っている。こういう体験と自然淘汰という考えを結びつけて、『種の起源』という本を出版したのが1859年でした。進化論をとなえたのはダーウィンがはじめてではないのですが、この本が一大センセーションを巻き起こしたんですね。

 何が問題だったかというと、ダーウィンはイギリス人ですね。イギリス人を含めてヨーロッパ人はみんなキリスト教を信じている。

続く
メンテ
大和魂 69 ( No.71 )
日時: 2010/10/23 15:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

聖書には神がアダムとイブをつくったと書いてあって、人類はみんなその子孫だと信じていたわけですよ。私みたいにあまり信心深くない者にはそういう気持ちはわからないですけどね。ダーウィン自身は『種の起源』では人類については直接書いていないのですが、進化論を人間にあてはまれば、ヒトの祖先はサルの仲間ということになり、聖書の記述を否定することになる。

 信仰と科学の対立、ということだね。ヒトは神がつくったんではなくて、サルから進化したという考えは、未だに論争になります。アメリカでは、公立学校で進化論を教えるのに反対する人がいて、進化論を教えるなら、同時に聖書の人類創造説も教えるべきだと裁判が起こされたりします。

続く

今から20年も前になりますが、高校生だった私はラジオの深夜放送を聞いていた。受験勉強しながらね。「ノックノック○○」という番組だった。ディスクジョッキーがアメリカのどこかの砂漠で奇妙な化石が発見されたと言ってたんです。
 その化石というのは恐竜の足跡の化石で、それだけならどうということはないんだが、その恐竜の足跡のすぐ横にヒトの足跡も残っていた、というんだね。それも現生人類の足と同じモノが。
 これ、本当だったらすごいです。今までの進化の定説が覆るからね。これは、ビッグニュースだと思って、私は翌日の新聞を隅から隅まで読んだけど、どこにもそんな記事がない。ちょっと前の発見かもしれないから、その後、いろいろ本など注意深く見ていたのですが、やっぱり無いわけ。

 ずっと、変だなと思いつづけて何年かして、ハッと思いあたった。
 その番組、キリスト教関係団体の提供だったのね。「ノックノック〜」という番組名も「たたけよ、さらば開かれん」のことだったと思うよ。DJも、時々聖書の話なんかしてた。その化石のニュースはいわゆるガセネタだったんだね。
 DJが意識して嘘をついたとは思わないけど、恐竜とヒトが同時代に存在していれば、少なくともヒトに関しての進化論、人類学の現在の学説は否定できるからね。
 テレビやラジオで言っていたからといって、簡単に信じてはいけませんね。

 今でもそんなことがあるくらいだから、100年以上昔のダーウィンがキリスト教の本場で、どれくらい強い非難をうけたかは想像できるでしょう。

 さて、進化論を証明するには、証拠が見つかればよい。化石です。サルとヒトのあいだをつなぐ生物の化石が見つかれば。

続く
メンテ
大和魂 70 ( No.72 )
日時: 2010/10/23 15:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

ヒトとは
 ダーウィンの時代から現在まで、多くの人類学者が化石人類の発掘をしています。ところで、発掘して出てきた骨が、ヒトなのか、サルなのか、どうやって見分けるんでしょうね。要するに、人間とは何か、がわかっていなければいくら化石を掘り出しても、いつ頃人類が地球上に登場したかは決められないです。

 ヒトと他の動物を分ける決定的なポイントは何だと思いますか。
 はい、道具を使う、そうね。他には、…言葉、立つ、うん。
道具を使うのはヒトだけでは無い。かつては道具を「つくる」のがヒトだとも言われていましたが、チンパンジーも道具をつくる。
 サル学というのがあって、日本ではサルの研究が世界的にみても進んでいます。たくさんの本がでていますから、興味があったら読んでみてください。これが非常に面白い。

 ある日本の研究者がアフリカでチンパンジーの群をずっと観察していて、面白い行動を発見した。
 ある一頭のチンパンジー、ある朝目覚めると、木の枝を拾いはじめたんだ。拾ってはいじくりまわして、どうも枝を選んでいるようなんだね。何をしているのか、観察を続けていると、一本選んでその葉をちぎり取って、ちょうど釣り竿みたいな形にした。そして、それをひょいと肩に担いでトコトコと歩き出した。

 その研究者は不思議におもってつけていった。数キロ歩いたチンパンジー、蟻塚に到着した。蟻塚というのは蟻の巣で、日本みたいに地下に穴を掘った巣ではなく、1メートルくらいの高さに山みたいに土を盛り上げて、カチンカチンに固めてその中が巣になっているんです。出入り口は、小さいな穴になっている。
 で、チンパンジー君は、担いで持ってきた枝を蟻塚の巣穴に突っ込んだ。そして、それを引っぱり出すと、枝に蟻がたくさんくっついてくる。その蟻をぺろぺろ食べ出したんだね。何回もその動作を繰り返した。やがて蟻喰いに飽きてようやくその枝をほっぽらかして、別の行動に移った。

 これが、のちに非常に有名になる「蟻釣り」という行動です。
 これは、二つの意味ですごいことだ。
 ひとつは、明らかに、このチンパンジーは道具をつくっている。枝を選んでいるように見えたのは、蟻釣りにちょうど良い長さと太さ、そして、しなり具合の良い枝を探していたんだ。
 二つ目にすごいのは、蟻塚を見つけてから、釣り竿を作りはじめたのではないことです。かれは、始めからそこに蟻塚があることは知っていた。朝、目覚めて、かれは「今日は何しようかなあ」と考えた。「天気はいいし、木の実は食い飽きた。久しぶりに、あそこの蟻塚で蟻喰おうか」
 そう考えて、釣り竿を準備して出かけているということです。計画を立てていることは確実です。
 人間との差はほんのわずかです。実際ヒトとチンパンジーの赤ちゃんを一緒に育てると3歳くらいまでは、全く同じように成長するそうです。精神的にもね。サルの仲間でも、チンパンジー、ゴリラ、オラウータンの3種類は類人猿と呼ばれていて、非常にヒトに近い。DNAの98%はヒトと同じだそうです。

 どのくらいの知能をチンパンジーは持っているのか。アメリカでは、手話を覚えたチンパンジーがいる。数百の言葉を覚えた。このチンパンジーに別のサルを見せたら、「オマエ、キタナイ、サル」と言ったそうな。

 夕日を見つめるサルというのもある。これも、日本の研究者の観察ですけれど、あるチンパンジーの群のなかに、決まって夕暮れ時になると群から姿を消す個体がいた。
どこで、何をしているのか。研究者がつけていくと、そのチンパンジーは崖の端まで出かけていって、そこからサバンナの地平線に沈んでゆく太陽をじっと見つめているんだって。
 ぐーっと沈んでいくでっかい太陽を、身じろぎもせず…何を想っているのだろう。感動しませんか。
 夕日を見つめるチンパンジー…。

 野生動物というのは、決して意味のない行動、無駄な行動はしないものらしい。肉食獣もいるわけで、無意味な行動は生命の危険に直結する。群から離れて一匹で崖っぷちまで行く、非常に危険です。しかも、崖っぷちで夕日、これは無意味な行動で、本来ありえない。

 サルの話を続けているとキリがないのでこの辺でやめておきますが、言葉をしゃべるというのも、ヒトだけとは限らない。イルカや鯨の言葉を研究している人いるでしょ。ホントに言葉といえるモノがあるかはわかりませんが、今の段階でヒトだけが言葉を持つとはいいにくい。

続く
メンテ
大和魂 71 ( No.73 )
日時: 2010/10/23 15:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

結局、ヒトと他の動物を分けるポイントはこれ。漢字6文字。直立二足歩行。
 これはヒトだけです。チンパンジーもゴリラも歩くときは、普通は手をつきます。
 直立二足歩行は、二つの結果をヒトにもたらしました。ひとつは、手が自由になったこと。二つは、脳が発達できたこと。ヒトは他の動物と比較して体重に対する脳の比率がとりわけ大きい。
 その大きな脳を、直立することによって支えることができるようになります。たとえば、このボールペンが背骨として(水平に持つ)、この先端にこの黒板消しをくっつけようとしても、まあ、ボンドを使ってもすぐ落ちてしまうでしょう。でもこうして(ボールペンを垂直に持つ)立てれば、ほら、何も使わなくてもこの黒板消しが乗りますね(そっと乗せてみる)。ね。同じ理屈です。脳が大きくなれるのです。

 ただ、直立二足歩行というのは、かなり無理がある姿勢みたいで、ヒト独特の苦労も生みました。
 たとえば、出産の時にヒトほど苦痛をともなう動物はいないそうです。直立しているから妊婦さんのお腹から赤ちゃんが落ちないように、子宮の出口がものすごく固く閉まっているわけ。そこを、無理矢理こじ開けて子どもを生まなければならない。これが出産時の痛みの原因です。
 あと、腰痛もヒトだけの病気らしいです。

 脳が大きくなるには、手が自由になることが影響したようです。手で、何か作業しますね、これが脳を刺激する、するともっと複雑な作業もできるようになる、で、脳がもっと刺激される。こんなふうに相互作用が手と脳のあいだに生まれました。すべてのもとは、直立二足歩行。

 どんな化石が見つかればヒトか、ということでしたが、直立二足歩行の化石だったらヒトなのです。頭蓋骨、大腿骨、骨盤、こんな部分が見つかれば解るようです。

 ところで、カンガルー、あれは直立二足歩行ですか。そしたらヒトですか。じゃあペンギンは?答えは言いませんから、みなさん自分で考えてごらん。

続く
メンテ
大和魂 72 ( No.74 )
日時: 2010/10/23 15:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

化石人類の発見
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 さて、ダーウィンの時代以後、ヒトの祖先の化石はいろいろ発見されました。整理しておきましょう。

 ヒトがはじめて地上に登場したのが、いまから400万年前。もっとも原始的なこの段階のヒトを、「猿人」と呼びます。猿人にはいろいろ種類があって「アウストラロピテクス」と呼ばれるものがもっとも有名です。これ以外にも別の名前を与えられている猿人もいます。別種がいて、同時に何種類か存在した時期があったようです。どれがわれわれの直接の祖先かは、定説はありません。

 「アウストラロピテクス」類が、たくさん発掘されて有名な場所が、タンザニアの「オルドヴァイ峡谷」です。東アフリカのモザンビークからエチオピアにかけて、東アフリカ大地溝帯と呼ばれる地球の割れ目があります。オルドヴァイ峡谷もここにあって何百万年も前の地層が露出していて化石発掘には絶好です。
 最初にここに目を付けて、猿人を発掘した人がルイス・リーキー。1959年のことです。その後、この峡谷で画期的な発見が相次ぎます。こんなふうに言うと、いとも簡単に発掘できたみたいですが、リーキーは最初の発見まで、実に28年間ここで調査を続けていたんですよ。先駆者というのはすごいね。
 ルイス・リーキーは1972年に亡くなっていますが、息子のリチャード・リーキーという人が、現在も発掘を続けて成果をあげています。どう、みなさんもアフリカへ行って30年くらい我慢して穴を掘り続けたら、ひょっとして画期的な発見で教科書に載るかもしれないよ。

 猿人が発掘されるのはアフリカだけなので、人類の故郷はアフリカといわれます。猿人の時代が200万年前まで続き、その後登場するのが「原人」です。40万年くらい前までが原人の時代です。

 原人は二つ覚えてください。「ジャワ原人」と「北京原人」です。

 ジャワ原人の発見者は、デュボアというオランダ人です。1891年のことです。かれはもっとも早い時期に化石人類を発見した人で、先駆者の悲哀を味わいます。
 デュボアは、ダーウィンの本に刺激され、ヒトとサルを結ぶ化石の発見を志します。医者として将来は大学教授の地位も約束されていたんですが、その地位をなげうって、オランダ軍の軍医に志願します。23歳の時でした。
 軍医になったのはインドネシアで化石を発掘するためでした。インドネシアは当時オランダの植民地で、軍人になればインドネシアに行けたんだね。ただ、インドネシアに化石があるなんて保証は何もない。ただ、ヒトの祖先は熱い地域に住んでいたに違いないと思っただけです。オランダ人が行ける熱い所がインドネシアだった、ただそれだけの理由です。
 実にいいかげんといえば、いいかげんだね。

続く
メンテ
大和魂 73 ( No.75 )
日時: 2010/10/23 15:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

 ところが、インドネシアに行って4年目、化石を発見してしまうのです。場所も覚えておこう。ジャワ島のトリニールという所です。ソロ川という川の土手で頭骨の一部と、大腿骨を見つけた。頭骨は丸みが少なく、類人猿に近いが、大腿骨は明らかに直立歩行していたモノだったんだ。
 先ほど話した猿人の化石が発掘される遙か以前のことで、かれの発見は、賛否両論を巻き起こします。

 実は、頭骨と大腿骨の発見された場所が同じではなく、15メートル離れていたの。だから、大腿骨はあとの時代のモノが紛れ込んだとか、いろいろ疑問がでて、結局かれの発見は受け入れられませんでした。
 デュボアは、完全に偏屈な人になってしまって、やがては自分の発見した化石を金庫に入れて、さらに自宅の床下にしまい込んで誰にも見せなくなってしまう。

 あとで北京原人が発見されて、それがジャワ原人とそっくりだったことから、かれの発見は認められるようになるのですが、そのころのデュボアはもう誰にも会わないような拗ねた性格になっていたそうです。

 北京原人は20世紀になって発見されます。北京近郊の周口店という場所です。
 洞窟跡からたくさんの動物の骨とともに見つかりました。骨に燃やした痕があったので、北京原人が火を使用したことがわかっています。
 それと、見つかった北京原人の化石の多くが割られていました。骨の髄を食べるためと思われます。つまり、食人の風習があって、仲間の肉を食べたらしい。これを否定する学者もいて、飢饉の時だけ食べたとか、呪術的な意味があるとか、いろいろな意見が出されていますが、どれも推測にすぎない。食人の風習を否定する研究者には、自分たちの祖先に汚名を着せたくないという身びいきな判断があるような気がします。

 ちなみに、完全な北京原人の頭蓋骨は第二次大戦時、日本軍が北京を占領した時のどさくさに紛失してしまいました。状況から見て、誰かが持ち出してどこかに隠しているんだと思う。見つかったら大スクープになりますよ。

 次にでてくるのが旧人。約20万年前です。ネアンデルタール人が有名。これはもう脳の大きさはわれわれよりも大きいほどです。この種類は旧大陸の至る所で発掘されます。かれらは、かなり高度な精神文化を持っていたらしい。たとえば、手足を折り畳んだ化石がたくさんでます。埋葬がおこなわれていた証拠です。

続く
メンテ
大和魂 74 ( No.76 )
日時: 2010/10/23 15:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

イラク北部で発見(ザクロス山中シャニダール洞穴)された男の化石などは、その上の土を取って顕微鏡で観察したら、ヒヤシンスやヤグルマギクの花粉が大量に発見された。

 かれが死んだときに、母親か恋人か友人かわからないけど、野花をいっぱい摘んできて、その亡骸にかぶせたんですよ。
 今でもそこには5月から6月にかけて、丘の上一面に野生のヒヤシンスが咲くそうです。ちょうどその季節にかれは死んだんだね。

 死後の世界に対する想いとか、花を見て美しいと思う、大げさにいったら芸術感覚があったということです。

 また、先天的に片手、片目のつぶれた40代男性の化石もありました。40歳といえば当時なら相当な年のはずです。障害を持ちながらも、仲間の助けを得ながら天寿を全うしたわけです。宗教的儀礼をおこなうとか、火の番とか、何かの役目を持っていたのでしょう。単純に障害者を切り捨てる社会ではなかったということがわかります。

 その後にでてくるのが、いよいよわれわれの直接の祖先です。新人といいます。その代表としてクロマニヨン人と、上洞人(じょうどうじん)を覚えておくこと。
 今から4万年くらい前に登場します。遺跡はたくさんあるけれど、かれらの残した洞穴壁画は覚えましょう。

 スペインのアルタミラ洞穴、フランスのラスコー洞穴の壁画は有名。1万5千年くらい前に描かれましたが、躍動感、色彩、どれをとってもすばらしい。
 馬や、牛の絵が多いでしょ。なぜこんなのを描いたのか実はよくわかっていない。猟でたくさん獲物が捕れるように願って描いたという説もあるが、当時の獲物はトナカイで、馬・牛ではなかったらしい。
 しかも、どこの壁画も洞穴のものすごく奥の方の、這っていかなければはいれないような所の天井とか、とにかく描きにくい所に描いている。何か宗教的なモノだともいわれますが、結局わかりません。
 志摩スペイン村パルケ・エスパーニャにはアルタミラ洞穴壁画と同じモノがつくられているそうです。一度見てみたいね。

 言い忘れていました。道具ですが、猿人の時代から石器がでます。打製石器です。新人の時代、1万5千年くらい前までは打製石器が続きます。ただ、原人、旧人、新人となるに従って精巧な石器になってきます。

 猿人、原人、旧人、新人と人類は進化しているんですが、一つだけ注意しておきたいのは、たとえばネアンデルタール人がクロマニヨン人に進化したかどうかは、不明です。
 同じ地層から旧人と新人が見つかる時期もあるんだね。
 同じように、猿人と旧人の関係、原人と旧人の関係もまだ、不明です。本によって書いてあることが違うのです。
 まだまだ、われわれの直接の祖先については研究途上です。

* 追記:2002年2月19日
細胞中のミトコンドリアのDNAを分析すると特定の人物の母系をさかのぼることができる。この方法によると、ネアンデルタール人はわれわれ現世人類の祖先ではないという。(「イヴの七人の娘たち」ブライアン・サイクス、ソニーマガジンズ、2001)


考古学的な、人類の誕生を終わり、次には文明の誕生へ向かいます。
メンテ
大和魂 75 ( No.77 )
日時: 2010/10/23 15:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

「文明誕生」

 さて、約1万年前、旧石器に代わって、新石器時代が始まります。磨いて加工した石器、磨製石器が登場します。こんなのですね。(石器の写真を見せる)

 打製石器に比べて持ちやすいのはわかるね。
 しかし、打製石器も馬鹿にならんよ。
 打製石器持ってきました。あ、これは○○先生がつくったの。奈良と大阪のあいだの二上山でサヌカイトという石器のいい材料がでるのですが、それを割ってつくった。ほら、こんなものでもよく切れるでしょ。(板の上で、新聞紙をシャキシャキと切り裂く)
次に農耕の起源です。メソポタミア地方で最初の農耕が始まったというのが従来の定説でしたが、最近いろいろな発掘調査で、中国の長江流域ではそれより遙か以前、1万3千年前くらいから稲作が始まっていたことがわかってきました。
 長江流域で定住生活が始まったのはさらにさかのぼって、1万6千年前といわれています。人は定住して土器を作成しはじめます。先日(4月17日)朝日新聞に載っていましたが、日本でも1万6000年前の土器が出土しています。
 これからも世界各地で、さらに古い遺跡が発見される可能性は充分あります。農耕の起源、発生地については、今のところ不明です。

 メソポタミア地方では、約7000年前には麦作と牧畜が始まります。イラクのジャルモ遺跡が有名です。

 農耕牧畜によって、食糧の収穫が予想できるようになる。うまくすれば、食べる以上に生産できる。その日その日を狩猟・採集で生活していたのに比べれば、どれだけ生活に余裕ができたことか。これを、食糧生産革命といっています。革命というのは、世の中がひっくり返るような変化に対する呼びかた、と考えておいてください。

 ここから、ちょっと難しい話です。
 さっき、食べる以上に生産できた、と言いました。これ、難しい言い方で余剰生産物という。農業技術も改良されていきますから、余剰生産物は増加します。この余剰生産物が文明を生んだとってよい。

 余分な食糧ができると、働かなくてもよい人々がでてきます。
 
 以前ならみんなが同じ仕事をしていたのに、違う役割で生きていく人たちが出現する。これを、階級の発生といいます。
 どんな人たちかというと、まずは神に仕えるような人たち、神官です。たぶん、農耕がうまくいくように天候を神に祈る人々が最初にでてきた農業をしない人たちだ。
 邪馬台国の卑弥呼も一種の神官です。彼女は、奥にこもってみんなには顔も見せずに神に祈っている。特殊な能力があると信じられていたんだろう。
 神官は、一般の人たちからその能力を恐れられるでしょう。そして、権力を持つようになるんだね。
 
 権力を持つ者は、必然的に自分が生きていくのに必要以上の土地や家畜を持つようにもなります。私有財産という。
 
 神官以外に、戦士も生まれてくる。他の集団から自分たちの集団を守るためにかれらも農耕を免除されて、特権階級になっていく。職人も、農業以外の仕事だけをする人々だ。

 マジカルな能力、人並みはずれた体力や体格、技能、あるいは人格的統率力、そういう力を持つ人々がリーダー層になる。階級分化です。
 やがて、指導者が支配者となって国家が生まれます。
 国家といっても、村がそのまま国になる、小さなものです。吉野ヶ里遺跡なんかは、そんなものの一つでしょう。
 この小さな国家を歴史学では、都市国家といいます。自分たちの集落を守るため集落の周りには城壁をめぐらせます。都市国家はみな、城壁を持っています。
 国家の支配者は租税を集める。誰からどれだけ税を徴収したか記録する必要がでてくる。文字はそのために発明されたともいわれます。

 階級、私有財産、都市国家、そして文明が生まれてきます。

続く
メンテ
大和魂 76 ( No.78 )
日時: 2010/10/23 15:52
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

「四大文明」

 農耕が世界各地で始まるのですが、その中で文明と
呼べるものを生み出した地域が四つあります。すべて、大河の流域に生まれました。
 メソポタミア文明---ティグリス・ユーフラテス河
 エジプト文明---ナイル川
 インダス文明---インダス川
 黄河文明--------黄河

 古い順に列べてあります。
 長江文明を言う人もいますが、まだ評価が定まっていませんから、ここでは覚えなくてもいいです。
 それぞれの話は次回以降にやります。
 今日はこの四大文明の共通点を確認して終わろう。

 写真を見てもらうとよく分かります。みんなよく似た風景でしょう。
 この四つの地域はすべて年間平均気温が20度前後、どちらかといえば雨が少なく乾燥地域です。しかし、水があれば農耕可能なんだ。そして、大河が流れている。水があるわけね。しかし、この大河の水をコントロールするには、多くの人が知恵と力を合わせる必要がありました。
 努力をすれば生きていける土地だったんだね。
 その、努力をするということが文明を生み出したんではないか、と私は思うのです。
 熱帯、亜熱帯の植生豊かな土地に生きている人々は、同じ農耕をするにも、ぼちぼちで生きていける。人々を組織して、自然に対して必死に取り組まなくてもやっていける。そういう土地では、文明は生まれなかったし、生まれる必要もなかったのでしょう。

 やがて、厳しい環境の中で生きていくために生まれた文明が、周りの地域に影響を与えはじめます。文明のあるところにはたくさんの食糧と高い技術があるわけだから、周りの民族はそれを欲しくなります。文明地域に武力で侵入する集団もある。徐々に技術が広がって文明化していく民族集団もあらわれる。いよいよ、歴史が動き始めます。

続く
メンテ
大和魂 77 ( No.79 )
日時: 2010/10/23 15:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YwJjsl9g

「メソポタミア文明」
シュメール人

 世界で最初に生まれた文明がメソポタミア文明です。
 紀元前3500年くらいには都市国家が成立して、文明といえるものになったといっていいでしょう。

 メソポタミアとは川のあいだという意味で、ティグリス、ユーフラテスの二つの川にはさまれた地方をさします。現在の国名でいうとイラクです。今はサダム・フセイン大統領で有名。昨年末(1998)にもアメリカとイギリスに空爆されて大きなニュースになりましたね。

 このメソポタミア地方の川下、河口付近にはじめての文明ができます。
 文明をつくりあげたのはシュメール人。民族系統不明です。残された彫刻などを見ると、目がくりくりと大きくて、波打つ立派な長いあごひげが特徴的ですね。

 今、この地域はイスラム教徒、アラブ人の世界ですが、男たちはみんなひげを蓄える風習がある。ひげがないと子どもかオカマだと思われるらしい。アラブ社会の民俗を研究している人の講演を聞いたことがありますが、その先生は帰国直後で、ヤギみたいなちょび髭を一所懸命のばしていました。「こんなヒゲでも、はやしていないと一人前として扱ってもらえないので」とぼやいてました。
 ひげ等のファッションは、時代、文化によって変化するものですが、ひょっとしたらこの地域ではシュメール人以来5000年間ずっとひげを伸ばしていたのかもしれないね。(注:シュメール人はひげを剃るのが一般的らしいが、使用していた資料集の写真にもとづいて、このような説明をしていました)

 メソポタミアに最初に文明が生まれたのは、農業生産性が非常に高かったかららしい。
 まず、麦と羊の原産地だった。そして、この麦の収穫量が非常に高かった。1粒の麦を播いて、20倍から80倍の収穫があったといわれています。
 これが、どのくらいすごいかというと、19世紀のヨーロッパで麦の収穫は播種量の5、6倍くらい、現代でもヨーロッパで15倍から16倍、アメリカで23倍という数字があります。
 だから、現代と同じかそれ以上の収穫があったというわけだ。たくさん穫れれば、余裕も生まれる。その余裕が、後世に残る文明を生み出したのでしょう。
 ちなみに、日本の米はどうかというと、江戸時代は30から40倍、今は110倍から144倍です。

 シュメール人はメソポタミア地方にたくさんの都市国家を築きました。ウル、ウルク、ラガシュなどという都市が有名です。しかし、都市国家どうしの抗争が激しく、統一国家ができることはありませんでした。政治は、神殿を中心に神権政治がおこなわれていたらしい。

続く
メンテ
大和魂 78 ( No.80 )
日時: 2010/10/29 22:50
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:2DYRbETw

シュメール人の文化
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 かれらの残した文化は後世に大きな影響を与えているからこれはしっかり覚えておきましょう。

 まずは、暦(こよみ)。世界初の暦。月の満ち欠けで、年月をはかる太陰暦です。

 数字は60進法でした。これは、現在もある分野で日常的に使われるね。何ですか。そう、時間です。一時間はなぜか60分。なぜかというとシュメールなの。多くの小学生が、時間の計算でつまづく。君たちも苦しんだでしょ。シュメールだね。
 なぜ、シュメール人が60進法を採用したかははっきり判っていません。

 土器は彩文土器というのがでます。土器に赤い模様が描かれていますね。

 文字は、くさび形文字を発明しました。紙はまだない時代、粘土板に葦を切ったものでくさび形に字を刻み込んでいきました。細かい文字でたくさん書いているね。シュメール人が歴史から消えたあとも、メソポタミア地方では長いあいだこの文字を使っていました。今のアルファベットの役割を果たしたわけだ。

 シュメール人の時代から二千年もあとですが、アケメネス朝ペルシアという国が大帝国をつくります。この国もくさび形文字を使っていて、ダレイオス大王という王が、自分の功績を刻んだベヒストゥーン碑文というのを残しました。これは三つの言語をくさび形文字で刻んだもので、くさび形文字解読のきっかけとなった重要な碑文です。解読したのははローリンソンというイギリス人。覚えておきましょう。
 この碑文は地上100メートル以上の絶壁に刻まれていて、ローリンソンは今でいうロッククライミングみたいなことをして、まあ命がけで碑文を模写したんです。19世紀のことです。

 それからハンコ、印章です、これもシュメール人が最初。円筒印章というのがあって、絵が刻んである。これを粘土の上をコロコロと転がすと長い絵が浮かび上がるわけです。円筒印章は中心にひもを通して首に懸けるようになっていた。これを身につけているのが高い地位の象徴だったらしいです。

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エデンの園
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 シュメール人の文化、暮らしはいろいろな伝説や物語に、大きな影響をあたえています。

 たとえば、旧約聖書にはシュメールの影響がかなりあります。

 旧約聖書の最初の話、神が世界と人間を創造する話があります。
 神が「光あれ」といって光ができる。これが一日目。二日、三日といろいろ造って、六日目に人間を造って、七日目にお休みします。これは、シュメールの七曜の影響。

 それからアダムとイヴの話。
 神が泥からつくりあげた最初の人間がアダム。一人じゃ寂しかろうと、神はアダムの肋骨を一本採って、これで女イヴを造る。二人は、裸のままの姿でそれを恥ずかしいとも思わずに、働かなくても暮らせる地上の楽園、エデンの園に住んでます。
 さて、神は二人に一つの約束をさせるんだ。エデンの園の真ん中に知恵の木がある。その実だけは、絶対に食べてはならないという約束です。ところが、なぜか蛇がでてくるのです。その蛇がイヴを誘惑する。知恵の木の実を食べても死にませんよ、ほら、こんなにおいしおっませ。食べなはれ、と言う。イヴはついつい食べてしまう。おまけにアダムにも勧めて、結局二人とも食べてしまった。すると、急に知恵がついてしまってかれらは互いに裸であることに気がつき、葉っぱで腰蓑をつくって、局部を隠します。

 約束を破ったことが神に知られ、その怒りに触れて二人はエデンの園を追放されました。追放されたのがエデンの東。そこでは、地にはいつくばって厳しい労働をしなければ生きていけないんです。ジェームズ・ディーン主演の「エデンの東」という映画があります。楽園のすぐ隣だけれどそこは楽園ではない、それがエデンの東。そう思って見るとこの映画また一段と深いよ。

 エデンの園の話がシュメールとどんな関係があるかというと、エデンの園はシュメール人が住んでいた実在の場所らしい。
 ラガシュとウンマという二つの都市国家が、前2600〜前2500年頃に「グ・エディン」(平野の首)という土地をめぐって戦争を繰り返しているんです。どうもこのグ・エディンがエデンの園のモデルらしい。

 話が後先になりましたが、旧約聖書をつくったのはヘブライ人という人たちです。かれらは前10世紀頃に自分たちの国家を建設するんですが、それ以前は部族ごとに分かれて牧畜などをしながらメソポタミア地方からエジプトにかけて放浪生活をしていた。豊かなシュメールの土地に住みたいけれど、そこに入り込むだけの勢力がなかったんだろう。なぜ、自分たちはあの豊かな土地に住めないのか、という不満・不運を自分たち自身に納得させるため楽園追放の物語がつくられたのではないかと思います。人間というのは納得さえできれば不運に耐えられる生き物なんだと思う。エデンは、豊かなシュメールの地の、その中でももっとも豊かな土地の象徴だったんだろう。

 それから、バベルの塔の話です。これは知っていますか。
 人間が天まで届きそうな高い塔を建てる。これを知った神が、この塔を打ち壊すんだね。
 「神に届こうとする不届きな振る舞いだ」と神様が怒ったと一般にいわれていますが、聖書を読むとそんなことは書いていません。理由は解らないがとにかく神は塔を壊し、人々はちりぢりになり、お互いに話す言葉が通じなくなった、という話。
 で、このバベルの塔のモデルがやはりシュメールにあるらしい。
 シュメール人たちが建設した神殿にジッグラトというものがあります。高い塔の形をした神殿で、その遺跡はたくさん残っています。これがバベルの塔のモデルといわれています。

続く
メンテ
大和魂 79 ( No.81 )
日時: 2010/10/29 22:52
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:2DYRbETw

大洪水
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 極め付きの話は、ノアの箱舟でしょう。
人々が神に対する信仰を失って、自堕落な生活を送っているときに、ノアという男だけが信仰を守って敬虔な生活をしていた。神は、信仰を忘れた人類を滅ぼそうと思ったけれど、まじめなノアだけは助けようとするんですね。ある日、箱舟をつくれと、ノアにお告げをする。なんだかわからないままにノアはお告げに従って、家族みんなして箱舟をつくります。長さこれだけ、幅これだけとか、神は結構細かいお告げをする。で、そのとおりにつくります。他の人たちはそんなノアを馬鹿にするんだけど。
 ところが大洪水がやってきて、舟に乗り込んでいたノアの家族だけが生き残ったという話。
 このとき、ノアはあらゆる動物をつがいで舟に乗せていて、これも助かる。

 このノアの箱舟の話も、シュメール人の話に元ネタがあるのです。
 シュメール人が残した粘土板に『ギルガメシュ叙事詩』といわれる物語があって、そこにノアの箱舟とそっくりの話が載っていたのです。
 プリント見てください。少し読んでみよう。

 まず、神のお告げです。
「シュルパックの人、ウパラ=トゥトの息子よ、家を打ち壊し、舟を造れ。…すべての生きものの種を舟に積み込め。おまえが造るべきその舟は、その寸法を定められた通りにせねばならぬ。…
六日六晩にわたって、嵐と洪水が押し寄せ、台風が国土を荒らした。七日目がやってくると、洪水の嵐は戦いに敗れた。…そしてすべての人間は泥土に帰していた。…舟はニシルの山にとどまった。…七日目がやってっくると、私は鳩を解き放してやった。鳩は立ち去ったが、舞い戻ってきた。…私は大烏を解き放してやった。大烏は立ち去り、水が引いたのを見て、ものを食べ、飛び回り、かあかあ鳴き、帰ってこなかった。そこで私は…、生け贄をささげた。」(ギルガメシュ叙事詩の洪水物語、高橋正男訳)

 聖書にも大嵐がおさまったあと、ノアが鳥を飛ばして陸地が現れたかどうか確かめる場面があるんですが、こんな細かいところまでそっくり。

 キリスト教を信仰するヨーロッパ人たちは聖書に書いてあることは真実の物語と考えていたのですが、『ギルガメシュ叙事詩』が発見されることによって、旧約聖書が成立する1000年以上前に、その元の話があったことがわかった。

 洪水神話はメソポタミア地方全域で広く普及した物語だったのだろうということです。古代の説話のひとつとして、聖書が相対化されたという意味で、ヨーロッパ人にとってギルガメシュの物語は大発見だったのです。

実際にシュメール人の遺跡発掘がすすんでいくと、シュメール人の都市国家が大きな洪水にみまわれていることもわかってきた。

 『ギルガメシュ叙事詩』には、こんな一節もある。
 ある時ギルガメシュは太陽神ウトゥに訴える。
「…
 心悲しいことに、わたしの町では、人はすべて死ぬ。
 …
 わたしは城壁の外を眺めていて
 死体がいくつも河面に浮いているのを、
 見てしまったのだ」

 洪水で苦しんでいたんだね。
 ティグリス・ユーフラテス河の氾濫の記憶がしだいに大洪水の神話物語に発展したのだといわれています。

続く
メンテ
大和魂 80 ( No.82 )
日時: 2010/10/29 22:53
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:2DYRbETw

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「もののけ姫」
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 ギルガメシュ叙事詩の話をもう一つ。聖書の元ネタといったんだけど、映画の元ネタにもなってるんだ。
 「もののけ姫」見ましたか。私、4回見ました。大流行したから見た人も多いんじゃないかな。
 あれの元はギルガメシュ叙事詩ですよ。5000年前のシュメール人の物語が現代人に訴えるパワーを持ってるんだね。

 ギルガメシュ叙事詩の前半にこんな話がある。
 当時からメソポタミア地方は森林資源は乏しかったらしい。
 英雄ギルガメシュは町を建設するために木材が欲しい。そこで、レバノン杉、このレバノン杉はまた後々でてきますからよく覚えておいてください、そのレバノン杉の森に木を採りに出かける。ギルガメシュは親友のエンキムドゥという勇士とともに旅立つんです。祟りがあるから止めとけ、という周囲の制止を振り切って。
 ギルガメシュとエンキムドゥはレバノン杉の森にやってきて、その美しさに立ちつくす。
 美しさに圧倒された二人は呆然と森を見続けます。
 しかし、ギルガメシュは気を取り直してこう思った。

 「この森を破壊し、ウルクの町を立派にすることが、人間の幸福になるのだ」

 森の中に入っていくとそこには森の神フンババというのがいて、森を守るためにギルガメシュたちと闘うんですが、最後には森の神はエンキムドゥに殺されてしまう。フンババは頭を切り落とされて殺され、エンキムドゥは「頭をつかみ金桶に押し込めた」。
 その後、エンキムドゥは祟りで別の神に殺されてしまうんですがね。

 「もののけ姫」と同じでしょ。
エンキムドゥが「たたら場」のエボシ様、フンババがシシ神、首を落として桶に詰めるところまで同じ。
 ギルガメシュ叙事詩では、フンババが殺されたあと「ただ充満するものが山に満ちた」と書かれている。
 「もののけ姫」では、シシ神の体から流れ出たどろどろのものが山を焼き尽くす。宮崎駿の解釈なんだろうな。
 エンキムドゥは祟りで死にますが、エボシ様は、狼の神モロに片腕を食いちぎられるだけですんでいますがね。この辺、優しい解釈だね。

 人間が文明を発展させれば、必ず自然を破壊する、森を破壊しなければ生きていけない。
 しかし、森を殺せばそれは必ず人間、人類といっていいかな、にそのしっぺ返しは来る。どうすればいいのか。森とともに生きる道はないのかと「もののけ姫」ではアシタカが苦悩するまま、解答なしで終わります。

 5000年前にすでに、自然破壊の問題が起こっていたということは、しっかり覚えておいた方がよい。

 レバノン杉は、地中海東岸のレバノン山脈から小アジアにかけて広く分布していました。
 しかし、シュメール人の時代にすでにレバノン山脈東側の、メソポタミア地方に面している方はほとんど切り尽くされていたらしい。現在では西側地中海に面した地域もわずかに残っているだけです。現在のレバノン国旗の真ん中には、レバノン杉が描かれています。

 森林資源が乏しいために、メソポタミア地方ではインダス川流域からも木材を輸入していた。レバノン山脈から運ぶよりも、インドから海上輸送した方が簡単だったらしい。そのインダス川下流地域も今は森林資源は枯渇しています。

続く
メンテ
大和魂 81 ( No.83 )
日時: 2010/10/29 22:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:2DYRbETw

アッカド王国
 前2400年頃、シュメール地方にはじめて統一国家ができます。
 これがアッカド王国。
 建国したのはシュメール人ではなく、メソポタミア北部の山地に住んでいたアッカド人。
 民族系統はセム系といいます。残された言語で民族系統を判断するのですが、セム系というのは現在のアラブ人と同じです。念を押しておきますが、シュメール人は民族系統不明ですよ。

 アッカド王国の王の名前を覚えておきましょう。

 サルゴン1世。
 史上最初の大王といっていいでしょう。アッカド王国はサルゴン1世だけ覚えればいいからね。

 ここからはサルゴン1世のおまけの話。
 サルゴン1世の伝説を記した粘土板も発見されている。サルゴン1世のお父さんはアッカド王、ところがお母さんは尼さん。
 その尼さんがサルゴンを妊娠、出産してしまう。
 尼さんが子どもを産むのは許されていないので、彼女は生まれたばかりのサルゴンを籠に乗せて川に流すんです。まあ、捨てたわけね。
 サルゴンは灌漑人に拾われ、かれの息子として育てられます。成長したあと、イシュタル女神がかれを愛し、そして王として君臨した、というんです。

 英雄というのは一度は捨てられ、成長してから別の世界から異様なパワーを身につけて帰ってくる。そして、本来あるべき地位につく。こういうパターンの話を英雄流離譚というそうです。
 世界各地に似たようなパターンの神話や物語が残されています。前の授業でしたアーサー王の出生の話や、旧約聖書のモーセも同じです。

 それから、お母さんが尼さんというところ、イエスの母が処女マリアという話を連想しませんか。ここは、きわどいですが考えはじめると面白いところですよ。
 もっと、大胆に連想を飛躍させると、川に流すところ、逆に流れてくる側から描けば、これは桃太郎ですね。桃太郎は鬼退治して英雄になりますが、一体誰がどこから流したんでしょうね。桃太郎の原型の原型もひょっとしたらこれかも知れませんね。考えはじめたらキリがないね。

 アッカド王国のサルゴン1世によって統一されたメソポタミアも、200年ほどたつと、山岳民族の侵入によってまた分裂します。

 豊かで、文化の高いメソポタミア地方は周辺の蛮族にとってはかっこうの略奪対象です。あわよくばそこを支配できればこれに越したことはない。
 メソポタミアの歴史は次から次へと、この地に侵入する諸民族の歴史といってもよいくらいです。

 アッカド王国滅亡後、一時はシュメール人のウル第三王朝というのが栄えますが、これもエラム人とかアムル人とかいうのが侵入し崩壊。

--------------
バビロニア王国
--------------
 次にメソポタミアを統一したのがセム系アムル人が前19世紀に建てた古バビロニア王国です。別名バビロン第一王朝。前17世紀までつづきます。
 都は有名なバビロン。
 王も一人覚えてください。ハンムラビ王です。

 この王は、シュメール時代からこの地方におこなわれてきた法律を集大成したので有名。
 ハンムラビ法典。超重要です。

 ハンムラビ法典の説明します。

続く
メンテ
大和魂 82 ( No.84 )
日時: 2010/10/29 23:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:2DYRbETw

ハンムラビ法典の説明します。
 特徴二つ。
1,同害復讐の原則
「目には目を、歯には歯を」ですね。
  「もし人が自由人の目をつぶしたときは、かれの目をつぶす。」(第196条)
誰かに危害を加えたら、同じことをされるということだ。
 非常に厳しい法律のように感じますね。でも、この同害復讐の原則は復讐に合理的な限度を定めたという点で社会が発展したことを示しています。
 多くの民族が侵入し、戦を繰り返したメソポタミア地方は、生きていくうえで常に緊張していなければいけなかったと思います。
 古バビロニア王国の支配者はアムル人でしょ、支配されているのはシュメール人、アッカド人、そのほかいろいろな民族がいたと思う。違う言葉をしゃべって、違う風習で暮らしている。争いがおきたときどうやって仲裁するか、合理的なルールが必要だったんだね。
 そういう中で生み出されたのが同害復讐の原則。

2,身分差別的刑罰
 「もし奴隷が自由人の頬を殴ったときは、かれの耳を切り取る。」(第205条)
奴隷が自由人に危害を加えたら、それ以上の重い刑をうけるわけだ。逆に身分の高い者が奴隷を傷つけても罰金ですみます。厳しい身分差別があったことがわかります。

 この、「頬を殴ったときは」、という表現、頭の隅の方に残しておいてください。これに関する話をまたいずれします。
 以上二つの特徴を見ると現代的感覚からはやはり残酷な感じがします。

 しかし、ハンムラビ法典のあとがきに、こんな文がある。

 「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」この法をつくったと。

 単純に古い時代は野蛮だったとか遅れていたとか、考えないようにしてください。



以上で「世界史講義録」の紹介を終わります。

 エジプト文明---ナイル川
 インダス文明---インダス川
 黄河文明--------黄河
などの紹介は割愛しますが、上記サイトには書かれていますので興味のある方はサイトを御覧ください。

さて、随分と長い引用をしてきましたが、ここで感じていただきたいのは、キリスト教圏の場合も同じですが、この地域は中国、インド、ましてや日本などと異なり、民族間の相克が激しい地でありました。
このような地域で一神教は発達してきたことと無関係ではないように思います。
これからイスラムと言う概念の発祥がどの時代、どの地域を中心に起きてきたか、からはじめたいと思います。

http://www.geocities.jp/timeway/kougi-1.html

金岡新氏が高校生の授業のために書かれた「世界史講義録」からの引用を終わります。

さて、大和魂 NO 6でシュメールと日本との関係に触れていました。

(再掲)

日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが精確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。

シュメールとは現在の南イラクのことです。そしてそこに北からヒッタイト族などがやって来た。そしてバビロニアなどの国家を建設してシュメールの文化をシリアに広めた。シリアとは、現在のシリア、レバノン、バレスチナ、ヨルダン、イスラエルを包括する地区です。シュメールはユダヤにとって先進文化地域だった。

楔形文字は、古代オリエント地区で東アジアにおける漢字と同じ役割を果たしていました。メソポタミアの共通文字だった。

シュメールには葦原が広がっていたらしい。日本もかつては”豊葦原の国”と呼ばれました。葦は筆(ペン)を作るために利用されます。粘土と葦の組合せが文を生んだ。「書く」とは引っ掻くと言う意味です。Grammarのグラムは刻むという意味。紙が発明されるまで、文字は刻んだり引っ掻いたりするしか記する方法が無かった。

シュメールの人々が東に移住し、インダス文明を築くなどしながら、南海伝いに日本までやってきた可能性は十分にあると思います。

再掲終わり。

ノアの箱船、バベルの塔、エデンの園、最近は、もののけ姫などもアニメでとりあげられるなど、日本人にも自然と理解されやすいものがあるようです。

最も、金岡氏も書いておられるように、民族間の相克が激しい地であったことは我が国とは随分と違います。

イスラムとは、そういう世界なのです。
メンテ
大和魂 83 ( No.85 )
日時: 2010/10/30 22:19
名前: 天橋立の愚痴人間 メールを送信する

前回でイスラムとは、そういう世界ですと書きましたが実は、まだイスラム教は生まれていません。
チグリスユーフラテス河の流域の興ったメソポタミア文明圏に6世紀の中ごろマホメッドが今のサウジアラビアのメッカに生まれました。
今日メッカはイスラム教最大の聖地とされており、当地へは体力と財力が許す限りあらゆるムスリム(イスラム教徒)が一生かけても巡礼することを目指しています。
世界最大の宗教イスラム教は西アジア、北アフリカ、西アフリカ、東アフリカ、中央アジア、南アジア、東南アジアなどの57か国、オブザーバーが5ヵ国がイスラム諸国会議機構を構成し、イスラム教を信仰する人口は世界で13億人と言われています。
さて、ここでマホメッドのことについて触れておきましょう。

http://www.b-family.org/public_html/public_html/omoi/010/mahmeddoc.htm

神の啓示

時は西暦610年。日本では推古天皇と聖徳太子の時世です。場所はアラビア半島の中ほどにそびえ立つヒラー山の頂上。一人の男が頂上にある洞窟で瞑想にふけっていると、いきなり凄まじい衝撃に見舞われました。超自然的な何者かが彼の身体を抑え込み、「読め!」と鋭く迫ってきたのです。それは、まことに衝撃的な出来事でした。抑え込まれて息絶え絶えになった男は、今にも死ぬかと思いながら、「何を読めばいいのか」と必死になって尋ねるのですが、その何者かはひたすら彼に強く迫ります。「読め、さあ読め!」と。男は再び死ぬ思いをしながらも、この恐るべき者の来襲に耐え忍びます。そして、三度「読め!」と迫られ、たまりかねて再度問い直しました。「一体何を読めばいいのか」と。そこで、その何者かは初めて答えました:

読め、「あなたの主は最高の尊貴であられ、
筆によって(書くことを)教えられた御方。
人間に未知なることを教えられた御方である」

(コーラン 96章1〜5節 )

マホメッドはそれをひたすら復唱しました。どのくらい経ったでしょうか?何者かはそれをじっと聞いていると、ふっと姿をかき消してしまいました。意識が戻り、まどろみから目が覚めました。しかし、心に刻み込まれたその章句は生々しく存在していました。と、洞窟から出たマホメッドに、再び何ものかの声がしました。「マホメッドよ、汝は神の使徒である…」思わず顔を上げてみました。それは、壮絶な光景でした。その何者かは、両足で地平線をまたぎ、すっくと立っているではありませんか!眼を背けました。その場を逃れようと試みました。しかし無駄でした。得体の知れぬ何者かは、行く先々に現れ続けたのです。マホメッドは、ただ立ち尽くしてそれを見つめていました…。これが『預言者伝(スーラ・ナバウィ−ヤ)』の伝える啓示の際の光景です。そしてこれ以後、マホメッドのもとへは神の啓示が頻発します。そしてここに、ユダヤ教、キリスト教と続いてきたセム系一神教最後の分派『イスラムの預言者マホメッド』が誕生しました。マホメッド40歳の時のことでした。

ユダヤ教・キリスト教との訣別

メディナ遷行からメッカ入城に至る8年間、マホメッドが敵として闘ったのはクライシュ族だけではありませんでした。当初、マホメッドは、ユダヤ教徒に対して自分の教説が受け入れられるのではないかとの強い期待を抱いていました。同じ啓典の民として、メッカの多神教徒と共同して戦えると思っていたからです。彼が、メッカとエルサレム(ユダヤ人の聖地)の双方をキブラ(礼拝の時に向かう方向)としていたことは、そうした思いが働いてのことでした。ところが、ユダヤ教徒はみなマホメッドの敵に回ってゆきました。いや、メッカの多神教徒以上にマホメッドに抵抗してゆきます。

いかに苛酷な拷問を受けても、どんな惨烈な禍難の裡に投げ込まれても、絶対に父祖の信仰を守り通そうとするユダヤ人の宗教性は、マホメッドが考えていたような甘いものではありませんでした。彼らは、マホメッドの聖書に対する知識の欠如を嘲りました。そして、その解釈の誤謬を鋭く突くのでした。さらには、マホメッドが多数の女性を妻に迎えたことに対して、公然と揶揄嘲笑しました。「この好色の偽預言者が!」と。彼らの視線は限りなく冷ややかでした。このため、マホメッドも急速に反発を強めてゆき、メッカ側に勝利して自己の地歩を築くと同時に、これらユダヤ諸部族を次々と追放・粛正していったのです:

あなたがた信仰する者よ、
ユダヤ人やキリスト教徒を、仲間としてはならない。
かれらは互いに友である。
あなたがたの中誰でも、かれらを仲間とする者は、
かれらの同類である。
アッラーは決して不義の民を御導きになられない。

(コーラン第5章51節 )

マホメッドにとって、キリスト教徒も彼の期待を裏切った背信の輩でしかありませんでした。こうして、唯一の心頼みだったキリスト教とも決然と袂を分たなければなりませんでした。とりわけマホメッドは、キリスト教の三位一体説を徹底して批判し、神の子イエスの存在について難詰します:

「神が子をもたれただと?」
「唯一絶対の神が、自分と並び称される者を持たれているだと?」
「いったい、神に対してこれほどの冒涜があるだろうか!」
マホメッドは、神の唯一性・絶対性・全知全能性を犯す多神教的な傾向を断固として排除しようとします。その最大の根拠となったのが次の一節でした:

彼はアッラー、唯一のお方であられる。
アッラーは自存され
産み給わず、産まれたまわぬ。
彼に比べうる何ものもない。

(コーラン112章1〜4章)

この短い宣言の中に、イスラムの神の概念が見事に塗り込められています。イスラム教の宗派的自立です。イスラム教は、メッカの多神教との抗争、メディナでのユダヤ教・キリスト教との闘争を経て、ついにアラビア半島の一角に産声を上げたのです。そして、彼らとの戦いに勝ち抜きながら、630年にメッカ入城を果たしました。ラクダでカーバ神殿に入ってきたマホメッドは、そこに祀られていた一切の神々を打ち壊しながら、新たなるイスラムの時代の到来を宣言します。8年前、石をもて追われるようにメッカから逃亡した預言者は、アラビア半島を統一した勝利者として帰還したのです。彼の一生のなかで、最も晴れがましい瞬間でした:

(引用おわり)
メンテ
大和魂 84 ( No.86 )
日時: 2010/10/30 22:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yYb25.VU

イスラムの神、アッラー

アッラーとは、「崇められるもの」または「神そのもので」であり、全知全能で唯一絶対であり、すべての超越である。そして、「目無くして見、耳無くして聞き、口無くして語る」とされ、姿形を持たない、意思のみの存在であるため、絵画や彫像に表すことはできない。イスラーム教がイメージを用いた礼拝を、偶像崇拝として完全否定しているのも、このためである。
同時に、アッラーは人格神として人々に直接語りかける。

アッラーは創造者であるとともに立法者でもある。
それがイスラムの戒律となって、イスラム教徒はコーランにしたがって生活するが、コーランには宗教的な話だけではなくて、日常生活のルールもいろいろ定めている。
実際に一日五回の「礼拝」とか一年に一ヶ月断食月の習慣は現在でも生きている。


 コーランはマホメットがアッラーから啓示を受けた経典で、アラブもイラン(ペルシャ)もイスラム世界では共通の経典です。
「左手にコーラン、右手に剣」という言葉がありますが、これは後世にアラブを恐れた欧州人が言った言葉で、実際のイスラム教徒は他の宗教に対しても寛大で、キリスト教や、ユダヤ教も認めています。

コーランはイスラム教徒の生活全般を規定しており、豚肉や酒を禁止しています。イスラム教の始った7世紀当時の環境では理由のあることだったかも知れませんが、イスラム教では現在もこれを遵守しているわけです。

イスラム教では一夫多妻や、女性の就業を制限するとか、顔を隠させる、車の運転も許さないなど、女性を差別するような規制が沢山ありますが、後で触れますが、決して女性を見下している訳ではありません。
西欧民主主義的な観点ではないのです。
種々の戒律にしても弱者については免除されていますし、アッラーを中心として、相互扶助の心が強い宗教です。
元々、ユダヤ教、キリスト教圏で、分派として生まれたイスラム教が同じ一神教でありながら、その発展過程は随分と異なってきました。

その一端の死生感について比べてみましょう。

「イスラム教における天国」

イスラムにおける天国は、信教を貫いた者だけが死後に永生を得る所とされる。イスラム教の聖典『クルアーン(コーラン)』ではイスラムにおける天国の様子が具体的に綴られている。
イスラムでは男性は天国で72人の処女(フーリー)とセックスを楽しむことができる。彼女たちは何回セックスを行っても処女膜が再生するため、永遠の処女とされる。
また決して悪酔いすることのない酒や果物、肉などを好きなだけ楽しむことができるとされている。

そのためこのような天国での物質的快楽の描写がジハードを推し進める原動力となっているという指摘もある。実際に過激派組織が自爆テロの人員を募集する際にこのような天国の描写を用いている場合が少なくないとされ、問題となっている。
反イスラーム主義者からはこの事を厳しく批判されており、『このような天国描写は単なる売春宿である』という主張[3]もなされてきた。またムハンマド風刺漫画掲載問題でもイスラームを侮辱するためにこの事がネタとして取り上げられている。



メンテ
大和魂 85 ( No.87 )
日時: 2010/10/30 22:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yYb25.VU

「カトリックの天国」

キリスト教では「死」を人間の原罪がもたらした刑罰と見なしている。
新約聖書には来世に関する具体的な表現はないが、教会での教説が精密化するにつれて、天国、地獄・煉ごくの区別がつくられてきた。天国では祝福された魂が無上の喜びを永遠に享受するが、地獄に堕ちた魂は神の領域から閉め出され苦しみを味わうとされる。
イエスは十字架を背負うことで人類の罪をあがない、復活したことを信じる者は、すべての死者が復活する最後の審判の場面において、永遠の生命を与えられる。
「私の父の御心は、子(キリスト)を見て信じる者は皆、永遠の命を受け、終の日にはその者を復活させる」(ヨハネ福音書)

死後の5つの世界

死者は死後、次の5つの場所に行く。(1)地獄:邪悪の人間が行く。(2)天国:キリストを信じ、徳に生きた人が行く。ここには肉の復活の希望がある。(3)辺獄:キリスト以前に生れた義人、徳高い異邦人たちは父祖の辺獄に行く。(4)幼児の辺獄:洗礼を受けないで死ん だ幼児は、幼児の辺獄に行く。リンボは天国と地獄の中間にある。ここでは地獄の苦しみはないが、神を見ることはできない。(5)煉獄:キリストを信じたが、罪を犯しその償いが果たされていない人間が、浄化のために行く。
ここはリンボと地獄の中間にある。ここにいる人間は、罪悪感の為、火に焼かれるよ うな苦しみを味わう。もはや行為によって償いをすることができないので、苦悩によって償うのである。生者が死者に代わって功徳を積む場合、そのとりなしによって罰や苦痛が軽減されるという。祈り、喜捨、ミサはそうした役割をもつ。

肉の復活のための埋葬

カトリックでは、臨終の時を大切にする。この時に罪を告白し、懺悔することによっ て罪を拭い取り、聖別された油を塗ることで、霊的な健全さを回復する。これは7つの秘跡のうちの「終油の秘跡」という。
亡くなるとまずその故人を偲び、故人のために祈り、遺族を慰めるために通夜を行な う。次に葬儀はミサ(聖餐式)で行なう。このミサがレクイエムで始る。レクイエムとは安息を意味するラテン語である。ミサが終ると告別式を行なう。葬列では、イン・パラディスム(天国ヘ)が歌われる。この葬列は普通日本では行なわれない。キ リスト教では、遺体処理は、肉の復活との関わりから土葬が普通である。墓地では、信仰的にさらに希望に満ちた歌が用いられる。こうして徐々に生者も死者も、悲嘆の状況 から未来の救い、再会への希望へと尊いかれていく。追悼は死後3、7、30日。そして年ごとの命日に行なう。この時に追悼のミサを行なう。

「プロテスタントの天国」

あらゆる人間は生れながらにして罪人であり、死後永遠の地獄行きが定められている。ただキリストを信じ、「義」とされた人々だけが永遠に天国に入ることができる。死後の状態は自分の力によらず、キリストの死と復活のゆえに、この恵みに対する信仰によって決定され、死後は神の御手に委ねられている。カトリックとは異なって浄罪界、煉獄もなく、引導や追善供養も無駄であるとプロテスタントでは説明している。これは無慈悲な世界観だという感じがするが、それにたいして、死後に救いの手を差し伸べたいという気持があるのなら、なぜその人が生きている間に、その人を愛し、救いの手を差しのべなかったのか。それをしなかった埋め合わせとして、死んでから祈っても無駄であると考えている。信仰をもつ者にとっては、死は神の祝福であり、プロテスタントの葬儀は生者のためのものであり、そこに集う者が信仰を深めるためのものである。

最後の審判を持つ死後の魂

人間の生涯は3段階に別れる。第1はこの世の生れてから死ぬまでの肉体をもった存 在である。第2は死んでから復活するまでの中間状態で、肉体のない不完全な段階である。第3はキリストの再臨後の復活した体における生活で、永遠に続く段階である。こ の間、ずっと意識は持ち続ける。誰も決して死後永眠することはないのである。不信心者は死後黄泉(ハデス)に入り、苦しみながら最後の審判を持っている。キリストの再 臨のとき、体の復活とともに永遠の苦しみである地獄に入る。信者は死後パラダイスに入り「神の御座にいて、聖所で夜も昼も神に仕え」(黙示715)て喜びと安らぎのなかで、 復活を待ち望んでいる。キリストの再臨とともに、故人の体が復活し、永遠の喜びである天国に入る。黄泉とパラダイスの間には大きな深淵があって、行き来することはでき ない。


如何でしょうか、死生感として、そんなにかけ離れているとは思いませんが、これくらいの違いで深刻な宗教闘争を生んでいるのです。
メンテ
大和魂 86 ( No.88 )
日時: 2010/10/30 22:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yYb25.VU

イスラムの最後に、過激なテロを行う民族、宗教性の強い生活をおくる民族として一般的に認識されるイスラムとは、どのような社会であるのか、現代から覗いて行くことにしましょう。

ここでも、ネットにより収集した資料を紹介することになります。少し長くなりますが、この機会にイスラムの人たちの様子を垣間見てください。



http://www.aii-t.org/j/maqha/magazine/islamsociety/20061121.htm

【サウジ・イスラーム社会における家族の存在の必要性】

サウジアラビアの法源であるイスラームは、家庭を幼児の保護と世話、肉体的・精神的育成、そこで愛情や慈悲という感情や必要な責任感を身につける働きをもつ自然の保育所とみなしている。そして人間の仕事が偉大なもので、地上におけるその役割が最も大きな役割であるゆえに、人間の幼児期は将来のための準備と教育をよりよくするために他の生き物のそれより延長された。

また両親と共にある必要が非常に大きくなり、静かな安定した家庭が人間のシステムに必要不可欠になり、またこの人生における人間の本質とその形成、及びその役割には欠かせないものとなった。そして家庭以外のいかなる組織もその代わりにはならず、それどころか幼児の成長と教育にとってむしろ有害であることは既に科学的実験によって確証されている。

 サウジ社会において家庭は子供に対して最高の責任者であり、子供の性格と素行に最も大きい影響を与え、彼らの行動を公然と監視するものと見なされている。そして正しく建設的な世代が社会に育まれるために、夫婦という家庭の支柱に最も大きい関心が払われている。

それゆえイスラームの教えに基く諸習慣は、結婚前に払うべき様々な注意の必要性を強調している。つまり結婚前の最初の義務は、男は宗教的にしっかりした良い女性を探すことで、女性はといえばその保護者が彼女のために良い男性を選ぶことである。それは彼らが互いに良い暮らしを営み、彼らの間に愛情と慈しみが芽生えるためである。そして良い男性と良い女性が1つになれば、それは良い社会の核である良い家族の形成につながる。そこで生まれた子供たちは彼らから身体的、知的、精神的教育を受け、その模範的環境の中で彼らの将来の人生における活動や素行、方向性などが大方において決められる。

幼少時に精神的に培ったものや家庭において両親から育まれたものは、通常成長後もそれを変えるのは難しいほどに確固として根付く。このような理由から、両親は理論的指導や教育とともに、その行いにおいて子供たちの良い模範とならなければならない。悪い模範が行う教育に利益はないのである。また行いというものは言葉よりも強く心に訴えかけるものであり、それが子供が両親に日常的に認めるところのものであればそれは尚更である。

そして家庭における両親の悪い模範は、子供が家の外で目にする悪事と助長し合う。子供はそのような中で悪事を好み、良いことを嫌うように育ってしまう。実際のところ子供の父親と母親に対する諸権利は沢山あり、非常に重要なのだ。しかし両親は物質的な意味において子供の存在の直接の原因であるから、両親の子供に対する権利についてまず話そうと思った次第である。

あなたの存在の原因である者のあなたに対する権利は、他のいかなる者の権利よりも重要であることは当然であろう。それどころかその権利は、あなたが彼に対して有する権利よりも重要なのである。もしこの意見に同意されるのなら、ムスリムの啓典クルアーンはこれらの権利を確証するために偉大なる主アッラーの御許から下されたということを述べるのは今私にとって容易くなる。

読者は至高のアッラーが偉大なるかれの権利に、子供に対する両親の権利以外のものを並置しなかったことを知って驚くであろう。主アッラーはクルアーンの中でこう仰られている。「アッラーを崇拝して何ものをもかれに並置してはならない。そして両親に孝行するのだ・・・」(女人章:36)また別の箇所ではこうも仰られている。「言え、“来なさい。あなた方の主があなた方に禁じられたことを語って聞かせよう。かれに何ものをも並置してはならない。

そして両親に孝行せよ・・・”」(家畜章:151)主アッラーが人々にかれを崇拝するというかれの権利を命じ、その逆のこと―つまりシルク(訳者注:多神教。アッラー以外のものを崇拝すること)―を禁じ、そして両親の権利を命じているこのようなクルアーンの句というのは、何度も反復されている。そして両親の権利とは孝行されることであり、その逆の事―つまり親不孝―の禁止である。

続く
メンテ
大和魂 87 ( No.89 )
日時: 2010/10/30 22:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yYb25.VU

またクルアーンの別の箇所では、両親の優越性や子供が彼らを気遣い奉仕すること、そして彼らに良い返事をすべきことについても言及されている。母親は子供の妊娠、授乳、その世話と配慮ゆえの不眠などに疲労し、父親はといえばその教育や躾け、生活の糧の獲得などに奔走する。これらのことにより子供は、彼らに感謝し、彼らへの善行や強い絆を保つこと、奉仕、慈しみ、彼らを喜ばせ、幸せな気分にさせることなどの諸権利を果たさなくてはならない。

両親への世話や奉仕は、特に彼らが老齢に達した時により必要なものとなる。なぜなら彼らは老齢による障害により幼少のような状態に逆戻りし、様々な配慮が必要になるからである。両親は彼が不能の時代に彼らの彼に対する権利を果たしたのであるから、彼もうんざりしたり嫌悪感や不潔感などを抱いたりせず、彼らから言われる前に子供の両親に対する権利を果たさなければならない。

むしろ率先してそうしなければならないのだ。また両親は子供の大小便やよだれ、吐しゃ物などの汚物を厭わなかったのだから、子供はそのことを念頭に置き、どのような場合にでも彼らに良い返事をし、そして彼らの権利の遂行が主の崇拝行為であることを知らなければならない。この件について最も詳細に渡って言及されたクルアーンの章が、次に示すものである:

「われら(アッラーのこと)は人間に両親への孝行を命じた。母親は子を辛い思いをして懐胎し、苦労して分娩した。そして懐胎から分娩までは30ヶ月間要するのだ。子は成長し、40歳にも達すればこう言う。“主よ、私と両親にあなたがお与え下さった恩恵に感謝させて下さい。そして私にあなたがお悦びになる行いをお許しになり、私の子孫において私を正して下さい。私は実にあなたに悔悟しました。私はムスリム(服従した者)です。”われら(アッラーのこと)は彼らの行った善行を受け入れ、天国の住民として彼らの悪行を大目に見る。彼らに約束されていたところの、真実の約束ゆえに。

一方、両親にこう言う者もいる。 “全くうんざりするなあ、(死んだ後に)蘇らされるって!?何世紀も前に死んだ奴らはどこに行ったって言うんだよ?”そして彼の両親は主に助けを求めてこう言う。“何ということか、信仰しなさい。主の約束は真実なのですよ。”すると彼は言う。“そんなのは大昔の作り話に過ぎないんだよ。”このような者たちこそ、彼ら以前の時代の人間とジンからなる諸社会を滅ぼしたところの御言葉が実現するところの者たちである。彼らこそは損失者であるのだ。」(砂丘章:15〜18)

 そして子供に彼らを扶養する能力がある限り、両親、あるいはそのどちらかを彼らの生活費捻出のために働かせることは、例え彼らにその能力があったとしても、親孝行に真っ向から衝突することである。アッラーはこの親孝行ということにおいて、いかなる人的社会システムを創り出した者の脳裏にも浮かばないような事を定めた。つまり親孝行の内でも最も孝行な行為を、両親の死後に彼らが親しくしていた友人と絆を保つこととしたのだ。またイスラームという教えが両親の権利を重要視していることにおいて、前出した全てのことよりも更に驚くべき、素晴らしいことを申し上げれば、読者の皆さんは驚かれるかもしれない。

つまりムスリムはその宗教においてとても排他的と言われているが、イスラームの教えは両親の権利を特別な重要性を持って強調し、どのような教えを信じていようと両親への孝行を命じているのである。それゆえ例え両親がムスリムでなくても、彼らを遠ざけたり手ひどく扱ったりすることは、ムスリムのすることではないのだ。一体家族の相互保障や一体化の維持という面を徹頭徹尾に渡って目的としたこのシステムを上回るものがあるだろうか!?

(以下省略)

 
続く
メンテ
大和魂 88 ( No.90 )
日時: 2010/10/30 22:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yYb25.VU

【サウジイスラーム社会における個人の諸権利 1】


 家庭はいくつもの個人から成り、社会はいくつもの家庭から成る。これまでの文章で示してきたように、私はサウジ社会において個人と家庭が学ぶところの道徳や特質の多くを説明してきた。疑念の余地のないことだが、健全なる教育を受けてきた個人と家庭から成立する社会は、互助性が強い、正しく良い社会になる。というのもそこにおいて各個人は義務と権利をわきまえ、自らの義務を果たすことに満足し、生命と財産と尊厳において安心していられるからである。それゆえ社会全体も平和と安定の下にあることが出来るのだ。

それでは各個人が全ての面において一丸になって助け合うことが出来るようになるため、社会に堅固さと安定を供給する原因と手段とは何であろうか? アッラーがそのしもべたちにお与えになった恩恵の中でも最も偉大なものの1つである、イスラーム兄弟愛がそのうちの1つであろう。この兄弟愛は愛情、平安、相互扶助、結束といったものをもたらす、ムスリム共同体の基本なのである。そして相違や争いといったことは、それが起こったら即その基本に立ち返らなければならないところの例外なのである。

 これから私がこの文章を通じて行おうとしていることは、サウジ社会が個人にインプットし、そしてその実践に努力するところの道徳意識かつ特質を読者の皆さんに説明することである。そしてそれらは人々の間に兄弟愛を芽生えさせるがためなのであり、かつ社会に平安と堅固さと幸福を実現させるがためなのである。そして読者の皆さんは、私が述べていくこれらの項目―私が「個人の他人に対する諸権利」と呼ぶもの―が決して真新しいものではないことにお気づきになられるだろう。

というのもサウジ・ムスリム社会も他の多くの民と同様、平和を望む社会であるからだ。ただ何がサウジ社会を際立たせるかと言えば、それは彼らが実践しようとしているそれらの特質が国民の心に深く根付いた宗教的・信仰的なものであり、かつ人間の健全な性質にそぐっていることであろう。それゆえこれらの特質を実践しようとする彼らの衝動は強力になるのであり、イスラームの教えがもたらしたものの実践によって現世と来世の幸福が実現するという彼らの信仰は非常に固いのである。

 このテーマを説明するにあたり、読者の皆さんに分かりやすく読んで頂くため、話を2分割することにした。前半ではそれを実践することで社会に兄弟愛が芽生える特質を取り上げ、後半では兄弟愛を損ない、かつ社会からの平和と幸福の喪失と社会の退廃をもたらす禁じられた要素を取り上げようと思う。


1.主アッラーにおいて愛し合うこと

 それはつまり、社会に属する個人が互いに愛し合うことである。そしていずれ消えゆく現世的な目的ではなく、アッラーの御顔を意図した愛でもって愛し合うことである。アッラーゆえの愛はかれが永遠であるゆえに、永続する。しかし物質的な目的ゆえの愛は、物質が消えゆく性質であるゆえに消滅するのである。愛し合う者たちは互いに安らぎを得る。それゆえアッラーは人間に、愛する者には「愛しています。」と明言するよう命じた。

それはより互いの親近感が増し、また相手の心に平穏をもたらすがためである。このようにして人々の間には愛情や寛容さ、他者優先の精神などが生まれる。そして誰もが住みたいと夢見るような、素晴らしい社会が世界に出現するのだ。しかし残念ながら、物質主義が人々の心と理性を支配してしまった。そしてムスリムもまたイスラームが命じる義務を忘れ、他の民と同様に物質主義の中に埋もれ、憎しみと嫉妬の社会の中に溺れているのだ。

続く
 
メンテ
大和魂 89 ( No.91 )
日時: 2010/10/30 22:37
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yYb25.VU

2.お互いに訪問と連絡をもつこと

 ムスリムがアッラーの御許での報奨を望んでその同胞を訪問することは、アッラーが最もお悦びになるところの良い行為の1つである。ただ訪問者はそのタイミングをよく見計らなければならず、相手が訪問されることで喜びそうな場合は訪問を重ね、一緒に時を過ごす。しかし相手が忙しそうだったり、あるいは1人で居たそうな場合は訪問を控え、彼の邪魔をしないようにする。

病人のお見舞いも同様で、病人がそう望むのでなければ、長居はしない。尚病人のお見舞いは預言者ムハンマドが強く推奨したことの内の1つで、病人とその家族、お見舞いする者たちの間の愛情を深めるものである。それによって病人は気遣いの気持ちを感じ、心が癒され、訪問する側は彼の安否を知り、かつ病状の回復を望むことにつながる。

預言者ムハンマドは、病人のお見舞いをムスリムの同胞に対する義務の1つに数え上げている。お見舞いや訪問の真価は、1人きりで誰からも気遣われずに病気や孤独と戦ったことのある者にしか分からないだろう。そしてこのような状況は、不信仰の国や、イスラームの作法から遠のいてしまったイスラーム諸国になんと多いことだろうか。

 しかしサウジ社会に暮らしたことのある者なら、各人の中にこの特質が根付いていることを明白に知ることが出来るだろう。1週間に1度も訪問者のない家はなく、訪問や集まりが幾度と繰り返されることについては前にも述べた通りである。病人のお見舞いも気軽かつ頻繁に行われ、お見舞い客のない病室は皆無に等しい。数年前私の祖母が病気になった時、私たちは数ヶ月間に渡って彼女を病院に入院させなければならなかった。

そして当時その病院が提供してくれていた高度のサービスと、祖母がほぼ意識不明の痴呆的状態であった事実にもかかわらず、私は彼女が一晩として一人で夜を過ごしたことを覚えていない。私たちは毎晩彼女に交代制で付き添い、奇妙にも誰が付き添い役を獲得するかを争っていたほどだったのだ。実際のところ、彼女の病状は重かったにもかかわらず、私は彼女が私たちにいつも囲まれて幸せだったのではないかと感じている。このようにサウジ社会では病人も障害者も、生きている者も死んでいる者も互いに隔離されることはない。墓地もまた死人の訪問者で溢れているのだ。

(中略)

続く
メンテ
大和魂 90 ( No.92 )
日時: 2010/10/30 22:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yYb25.VU

4.困窮者と弱者の援助

 アッラーはその創造物をその強さや弱さにおいて多様にお創りになり、そしてある者をその糧において他の者より優遇された。そして通常弱者は強者を、貧者は富者を必要とし、病人は健康な者を、ある事に無知な者はそのことについての知識を持つ者を必要とする。

 またアッラーは善行と敬神の念において援助しあうことを命じ、罪悪と敵対心のもとに援助し合うことを禁じられた。そして今日同志が必要としているものは、明日は自分自身が必要となるかもしれない。必要を満足させることはイスラームの兄弟愛の求めるところのものである。そしてイスラームにおける社会教育は善行を勧め、悪行を禁じることなのである。全世界が求めている平和とは、実にこのことなのだ。そしてそれは孤児の援助や貧者の救済、無所有者に衣食を与えることなどを命じているイスラーム教育の他にはない。もとより困窮している者を援助するのは社会がそうでならなければならないところのもので、それは特定の個人や場所、時間に限定されてはいない。それどころか特定の宗教だけに向けられてもいない。逆に人間は宗教や国籍、時間や場所などに制限されることなく、困窮者を援助しなければならない。

 親愛なる読者の皆さんに向けてもう一度強調するが、イスラームという教えはムスリム以外の人々に対して邪険に振舞うことなど命じてはいない。その反対に、彼らへの奉仕はムスリムに対する奉仕と同様のものである。もし彼らが私の言うことと矛盾することをしているのを見たら、あなたはムスリムが真のイスラームから遠くかけ離れた所にいることを確認するだろう。

この項、以下略
 
続く
メンテ
大和魂 91 ( No.93 )
日時: 2010/10/30 22:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yYb25.VU

9.他者優先の精神

 他者優先とは、この世の何らかの物事において自らが必要としているところのものを、他人に優先させて譲ることを言う。その逆は独占だが、それは人が何かを占有して他人にそれを渡さず、あるいは力をもって他人をその占有物から閉め出す事である。他者優先の精神は人の品行のうちでも最も優れたもので、順番としてその後に正義が来る。前にも触れたように、正義とは各人が自らの権利を有する状態である。一方独占は人の品行のうちでも最も悪いものだ。この他者優先の精神は、社会を平和の頂点にまで到達させる。というのも各人が自らの現世的チャンスから身を引き、他人にそれを優先させるからである。彼は独占や占有などということを考えることは言うまでもなく、彼自身の権利を全て享受しようとすることすらしない。

 正義は社会に平安をもたらす。それは個人が互いに不正を犯すということを考えず、自らの権利を全て獲得しようとはせず、かつ他人に不正を働かないからである。それゆえ不正を働くこともなければ、不正を味わうこともない。一方独占は社会から平安を根こそぎにしてしまう、死をもたらす伝染病である。というのもそこにおいて各人は、それが権利に基いていようとなかろうと、自らに最高の現世的利益をもたらすことしか考えないからである。そして力を有する者が、独占者であり占有者である。こうした私欲に基いた社会は、現世の虚栄を追い求めて競争する社会であり、各人や各党は自らを強化し、その力でもって独占と占有を求める。その結果社会には心配や争い、戦争や反乱が続発し、平安が乱されて家庭と個人の関係は恐怖で満ちる。人間というものは私欲が強いほど、神への服従から遠のくものである。というのも人間が真に神への服従に徹したならば、現世的欲望や独占欲は減少し、神が彼に与えた以上のものを得ようとする野望なども薄れるからだ。

 ゆえにアッラーは、人を高徳へと誘った。それこそ神のもとにあるものを求めるということから生じる、吝嗇の念を捨てた他者優先の精神である。そしてこの高徳とは稀にしか見られないものであるが、決して不可能なことではない。自らの内で奮闘する者は、奮闘しただけのものを他者優先の精神の形で実現できるだろう。ここで、私が今まで耳にした中で最も素晴らしい他者優先の精神に関わる話をしよう:ある昔のこと、ムスリムの一団が外国に向けて旅に出た。そして彼らの何人かしか食料を携えておらず、しかもそれは僅かなものだった。後に日が暮れ、腹を減らした一行は休憩し食事を取ることにした。しかし食料は少ししかない。それである者が提案し、食料を持っている者はそれを出し、持っていない者たちに恥をかかせないよう、明かりを消して皆一緒に食べることにした。一同はもぐもぐ音を立てて食べ出し、その音が途絶えた時に食事が終わったこと印となった。彼らが明かりを点けると、何とした事だろうか、食べ物は手付かずのまま残っているではないか!?そこにいた全員が友人に気を遣わず食べてもらおうと、ただ音を立てて食べる振りをしていたのだった。これが彼らのしたことだった。それに比べ、盗みや自分に何の権利もないものにまで手を伸ばそうとして明かりを消す人々の、なんとあさましいことだろうか。

(中略)

続く
メンテ
大和魂 92 ( No.94 )
日時: 2010/10/30 22:42
名前: 天橋立の愚痴人間 メールを送信する

16.義務と権利の遂行

 社会の個人には他人に対する義務があり、また彼らには他人に対する権利がある。そして各人は他人に対する義務を遂行しなければならない。例えばイスラームの5柱の1つであるザカート(喜捨)は、神が富裕な者に義務付けたものであり、それを喜捨の受領の権利を持つ者たちに付与することにおいて遅延することは不正である。これは借金などについても同様である。

以下省略。



長々と、このような話が続きます。
そこで言われていますのは、人々の日常生活においてアラーの神の名の下に多くの具体的な規範があると言うことです。

我が国古来の宗教を神道としてみても、インドのヒンズー教にも神との関係において、このような規範はありません。
おなじ一神教のキリスト教との違いについてはこれから述べることになりますが、その様な意味でこの項を御覧になって欲しいと思います。
ついでに申しますと、ユダヤ教はまた少し異なる考え方となります。

続く
メンテ
大和魂 93 ( No.95 )
日時: 2010/10/30 22:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yYb25.VU

「女性の男性に対する権利」

1.満足のいく結婚相手の選択:

 女性を気に入らない相手に無理矢理結婚させることは、許されない。それは平穏な生活や精神的な安らぎ、愛情、平静、慈悲の念などを失わせてしまうだろう。そしてこれらは、イスラーム法における結婚生活の目的の中でも、最も重要な要素なのである。それゆえ結婚に際しては女性の同意が条件付けられ、初婚の女性の場合は「沈黙」が同意の証しとされる。というのも初婚の女性というのは大方羞恥心が強く、はっきりと同意の言葉を言えないからだ。一方初婚でない場合は、言葉によるはっきりとした結婚への同意が条件となる。

2.女性の後見人が彼女のために良い夫を探し、縁談を作る権利:

3.花婿として問題ない者の申し出を拒否しないこと:

 花婿として問題のない者が女性に結婚の申し出をしてきた場合、その後見人は彼女自身が拒否しない限り、それを拒否すべきではない。むしろ適当な男性が申し込んできたら、それを受け入れなければならず、財産や地位などの理由で彼をはねのけてはならない。

4.男性は、相手の女性を気に入ったことを確認してから結婚の申し込みをする:

 それは結婚をして初めて、彼女への嫌悪感を募らさないためである。そしてそれにより女性が不幸な人生を送り、離婚へと至る可能性を抑えるためである。

5.可能な範囲での婚資金の譲渡:

 そして花婿は花嫁に婚資金を払う義務があるが、その金額は適度に控えるべきである。しかし花婿にそれだけの経済力があるならば、金額をそれに見合った高額に設定してもよい。 セクション2:結婚する際の女性の権利:3つの主な権利にまとめられる。

1.婚姻のお披露目

2.晩餐への招待

3.複数の妻がいる夫は、妻たちと一緒に過ごす日を特定しなければならない

 夫は花嫁が初婚であった場合は1週間、そうでない場合は3日間、彼女と一緒に暮らさなければならない。その後はまた他の妻たちと代替制で定期的に過ごす。この新婚期の特別期間の規定の意味はアッラーこそがよくご存知だが、おそらく新居地に移転してきた新妻が落ち着くようにとの取り計らいではないか。そしてこの期間新郎新婦が互いに満足し合うため、という意味も含まれているように思われる。。

セクション3:結婚生活における女性の権利

1.結婚・家庭生活において権利や義務とされる宗教的教えを、妻が学習する権利:

 そこには子供の権利と義務、両者の親類の権利、隣人の権利など、妻が知るべき諸権利が含まれる。そして妻の教育は、家庭の各人の教育の基礎を意味する。というのも母の教育は、その言葉やよき模範的行為をもって子供らへと受け継がれるからである。そして男性が最も重視すべきことは、家庭の幸福がそれによって成就するところの、妻の宗教教育である。そしてそれは特に彼女が若くして結婚した場合、あるいは無教育である場合に留意しなければならない。

2.妻が夫からよく扱われ、粗暴ではなく優しくされる権利:

 夫が妻とよい関係であり、彼女を優しくいたわりかつ優れた道徳をもって接することは、互いの愛情と親愛を結び、家庭の平安と妻の心の安らぎと静寂を生じることにつながる。そして夫婦は最も多く接触する者同志であるゆえ、2人の間には沢山の問題が生まれ、時には視点の相違も生じることもある。それゆえ夫婦は互いに辛抱し合い、互いの過ちを許し合わなければならず、そして互いの権利をおろそかにしてはならないのである。そしてそうすることにより、夫婦生活における恒常的な分裂や不一致を防ぐことが出来るのである。


3.必要なものを十分なだけ扶養される権利:

 妻に対する十分な扶養、そして彼女に回りの者と同じような程度の衣服を身につけさせることは、夫の義務である。そしてもし夫が裕福であるなら、彼は吝嗇と浪費をすることなく、妻に余裕をもった扶養をするべきである。預言者ムハンマドは、施しを始めるのは自らが扶養している者たちからであることを命じたが、妻こそは最もその優先権を持つ者であることに疑念はない。

4.必要時に外出する権利:

 妻が夫の家に留まり、外出するのに夫の許可を要するというのは、夫の妻に対する権利の1つであることは既に述べた。そしてアッラーは必要に応じ、女性が外出することを認められた。

 これが女性が必要に応じて外出することへの、アッラーとその預言者からの許可である。しかし妻はその際、夫の許可を得なければならない。


他にもいろいろと規範が続きますが省略します。

http://www.aii-t.org/j/maqha/magazi
 


以上で、イスラムへの旅を終わり、次にはユダヤ教、キリスト教が展開したヨーロッパへ行きたいと思います。

退屈な、長話が続いていますが、民族の心を話の中から感じ取っていただきたいためです。
完結に表現された文章からは、我が国の「和」の心を検証出来るような本当のことが解りません。

なお、これから先は書き溜めたものがありませんので、ゆっくりとなります。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.96 )
日時: 2010/11/09 09:53
名前: イントゥイッション ID:ofzpIXZk

お久しぶりですぅ。。。 URAの前がイ○○ディですぅ。。。
 
とても興味深く拝見させていただいています。

イスラム社会の男女のつながりについてもです。。。 ところでサウジなどは、税金が無く、王宮は、年に一度、貧しい人たちの要望に応えて、車などを買い与えたりしているそうです。。。
資源が豊富な国は、それはそれで良いところがたくさんあるものでしょうか。。。気候が違うことも関与しているかもしれません。
ところで、
↓です。

>さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

現代は、もうネットの世界に浸っている人が多く見受けられます。 ネット社会のつながりとでも言いますか、それによって、社会に貢献できる人もいれば、闇の中に閉じ込められてしまう人もいます。 

特に最近は自殺サイトという奇妙なものまで生じ、いじめにあった女子学生が、そのようなサイトで自分の悩みの相談をする。。。。 それも時間帯が夜中まで。。。

そして出会うのが、16歳も年上の、まだ結婚していない(今、日本では30代、40代の男子の人口半分以上が結婚していない状況ですが。。。)ので、そのようなサイトで時間をつぶすしかないのでしょうか。。。 

そしてその男性は、悩みのサイトにはいってくる女性を見つけては、どのような容姿か聞いて、自分の好みに合った女性なら、すぐに恋愛感情を生じさせるように好きだと何度も何度も念仏のようにその女性に対してつぶやき、最後は会いたい、会いたいと相手に何度もつぶやき、セックスを迫る! セックスぐせのある女性とそのようになって、その男はセックスを断ったと言うが、世間ズレしていない16歳も下のかわいい女子学生なら、もうほうっておきたくないでしょう。。。

すぐに会ってセックスを迫り、その女子学生は、断って、初めてそんな雰囲気を体験したものだから、いじめで悩んで相談に乗ってもらっていたはずなのに、なぜか悩みの対象が今度はその男になり、その女子学生は母親や学校の保険の先生に相談するはめになってしまった。。。同級生も、その女子学生は、本当に素直で世間ズレしていないので、放っておけなく、その親に電話をかけてきた。。。。

母親はその男に携帯で連絡すると、女性が成人になったら性行為は自由だ! 訴えるなら訴えてみろ! と言うしまつ! 日本では、法的という言葉が、どんなに悪い行為であっても、その悪い行為を逆に保護してしまい、そうだからしかたがない! と思う人が多く存在してしまう! 真実は、そのような行為はネット犯罪なのに、その男は認識していない! 


メンテ
イントゥイッション さんへ ( No.97 )
日時: 2010/11/09 12:48
名前: 天橋立の愚痴人間 メールを送信する

イントゥイッション さん、はじめての御訪問(此処へは)ありがとうございます。
これからの、ユダヤ、キリスト教国といいますか、アングロサクソンの考え方を探るのが一苦労です。

論理的なアプローチではなく、肌で感じる彼らの特徴を覗いてみたいのですが、何よりも参考になるのは、彼らと実際に接触された方の経験です。

日常の細かなことでも御知らせください。
この文章は、掲示板ではなじまない長文ですが、2年くらい前から何度か挑戦しています。
掲示板でやっていますと、何回かコメントをいただきこともあり、大変参考になり、文脈を変えるようなこともありありがたく思っております。

今続けているとりとめもない話ですが、日本人の心の基と言われている「和」の概念は、やさしいとか、和やかなどと言う平易な概念よりも深いものとして捉えたいのです。

各国の伝説、神話や生活ぶりを覗くことによって、少しはそれを感得していただけないかと長々とやっているのです。
メンテ
大和魂 94 ( No.98 )
日時: 2010/12/05 02:50
名前: 天橋立の愚痴人間

さて、次に取り組みますのはアングロサクソンの歴史です。
アングロサクソン系の古代を遡ることは今までと違い大変複雑な様相を呈しています。
どちらかと言えば、現在問題としているアングロサクソン系の思考方法の源を辿ることにおいて、表題のアングロサクソン人の歴史を検証するだけでは目的を達することは出来ません。
此処で使っている「アングロサクソン」の言葉の意味を特定しておく必要があります。

民族的な背景は、3〜5世紀にかけて行われたゲルマン民族の大移動に伴い、イングランドへ移住したゲルマン人が基になりアングロサクソンと言う言葉が使われるようになりました。
その後のイギリスの歴史は彼らによって彩られています。
ピューリタン革命を経てアメリカへ移住した人々も含めて、アングロサクソン文化の有様は現代民主主義、資本主義の思想の源流となっています。

アングロサクソン的な発想を見てみますと、大航海時代以降の植民地獲得戦争、近代国家における帝国主義による侵略戦争などたぶんにエゴを受容した考え方が目立ちます。
結果から見ての発想ですが、現代資本主義も下記のように分別して言う場合もあるようです。

ライン型資本主義(ドイツ・日本型)

メイン・バンク制,間接金融型で,企業の利害関係者(stake holder)全体,つまり経営者・株主だけでなく従業員の利害をも重視し,終身雇用,小さい賃金格差,従業員との協議による経営,愛社精神などを特徴としている。格差の小ささが共同体意識を生み,社会は安定している。

アングロサクソン型資本主義「米英型」(米英型)

金融市場依存型(直接金融型)であって,企業は主として証券市場において株式や社債を発行して資金を調達する。株主(share holder)の価値を最上位に置き,株主が気に入らない経営者は罷免されるので,経営者は常に株価を最重要視せざるをえない。業績が悪化すると,最後に雇用されたものから順にレイオフされ社員は職を失う。
これからしばら続けますのは、現在、世界中の国々で広く受け入れられているアングロサクソン流の思考方法を検証するための試みであります。

まずはアングロサクソンとは何を指す言葉なのか述べてみます。
そこで解るのは、アングロサクソンと言う言葉では、この文章の目的である民族の心には行き着かないことが解ります。

アングロサクソンの項でその民族の心まで遡るためには、宗教革命を通して変質したキリスト教の歴史、キリスト教を通してユダヤ教の有様、要するにユダヤの民がどのようにアングロサクソンと関わりを持っているかなどに思いを馳せねばなりません。
厄介なテーマをとき解くことが出来ますか、否か、やってみることにします。
メンテ
大和魂 95 ( No.99 )
日時: 2010/12/05 03:30
名前: 天橋立の愚痴人間

アングロサクソンとは、

ゲルマン民族の大移動とは、4世紀から5世紀にかけてヨーロッパと北アフリカで起きたゲルマン人の大移動のこと。この大移動をもって、ヨーロッパの古代と中世の画期とされる。
ゲルマン人は古代時代にはローマ帝国を脅かす蛮族として活動し、中世にはローマ人(ラテン人)・キリスト教文化との混合によって中世ヨーロッパ世界を形成した。現代においては、ドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク等に住む人々、イングランドのアングロ・サクソン人、ベルギーのフランデレン人、フランスのアルザス人、イタリアの南ティロル人がこの集団の系譜を引いているが、何れの勢力も長い歴史の中で複数の部族間の離合集散や異民族との混血を繰り返しており、古代のゲルマン人とは同質ではない。

当時、現在のデンマークやドイツに住んでいたアングロ人、シュート人、サクソン人などがイギリスに渡りアングロサクソンと呼ばれるようになった。
アングロサクソンのことを「プロテスタント系白人」と言うが、これはその後に起きたキリスト教の宗教改革と密接に関連し存在してきたからであり、その経緯も触れておかねばならないでしょう。
プロテスタント系白人は、アングロサクソン以外に、ドイツ系、オーストリア系、オランダ系などがあります。またスコットランド系も、プロテスタント系白人ですが、アングロサクソンとは言わないことを添えておきます。

ウィキペデイアによる宗教改革の概論。

ルターの宗教改革

ルターは、1517年にローマ教会の堕落に抗議して95ヶ条の論題を打ちつけ、この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。宗教改革は各地に拡大し、ローマ教皇の絶対主義に嫌悪していた周辺の諸侯の支持を得た。農奴制からの解放を求める農民も反乱を起こし、神学者であったトマス・ミュンツァーがこれに呼応し、闘争が激化するとルターはこれを批判するようになり、鎮圧された(ドイツ農民戦争)。カトリックを支持する神聖ローマ皇帝と、ルター派の諸侯の間で戦闘が続いたが、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれ、諸侯はカトリックと新教(ルター派)を選択する権利が認められた。
ルターの貢献は、聖書の自国語(ドイツ語)訳にある。当時、カトリック教会では、ラテン語がミサにおいて使用され、一般大衆には理解できなかった。ルターは聖書を、学者の手から一般人の手に取り戻したのである。また、音楽を好むルターは賛美歌の作詞・作曲をしたことにおいても知られている。

カルヴァンの宗教改革

カルヴァンはすでにファレルによって宗教改革が始まっていたジュネーヴに立ち寄った際に、請われて留まりそこで活動するようになった。ルターの宗教改革が信仰の改革に徹していたのに対し、カルヴァンは礼拝様式と教会制度の改革に着手した。礼拝式文を整え、ジュネーブ詩篇歌を採用し、信仰告白・カテキズム・教会規則を整備し、教師職の他に(彼らの理解によれば)初代教会以来の信徒の職務である長老職と執事職を回復し、長老制の基礎を作った。またカルヴァンは聖餐を重んじ、毎回の礼拝でこれを執り行おうとしたが、それは市当局の反対により実現しなかった。

イングランドの宗教改革

イングランドでは、ヘンリー8世の離婚問題が改革の直接原因で、政治的・経済的な動機も強い。ヘンリー8世は、教皇権と分離したイギリス国教会(アングロ・カトリック)を設立し、新たに教会組織を作ろうと図った。これに反対した大法官トマス・モアは処刑された。のちヘンリー8世はローマ・カトリックの修道院を多数廃止し、その財産を没収して、国庫へと入れた。
ヘンリー8世のあとを継いだエドワード6世 は、1552年にジョン・ノックスの影響を受けたカルヴァン主義的な42箇条に署名し、エドワード6世の時代にプロテスタントの宗教改革が進められたが、メアリー1世はローマの教皇を中心とするカトリック教会を復活してプロテスタントを迫害し、女性子供を含む約300人を処刑したため、ブラッディ・マリー(血まみれマリー)と呼ばれた。処刑された中にはトマス・クランマー、ヒュー・ラティマー、ニコラス・リドリーらがおり、彼らは今日プロテスタントの殉教者として知られている。

これは、ローマ教皇を中心とするカトリック教会の考えによれば、修道院解散で富を得た者たちが反発したにすぎないとしている。それ以前、ローマ教会は英国に膨大な土地、財産を所有していた。
メアリー1世の後を継いだエリザベス1世は再びイングランド国教会を国教とし、イングランドにおける国教会の優位が確立した。しかし、政治的・経済的な動機が強かったイングランドの改革を不十分とみなし、更に改革を推し進めたのが清教徒たちであった。
1605年にローマ・カトリック教徒が英国議会を爆破しようとする火薬陰謀事件が起こったが、事前に発覚した。

(宗教改革概要おわり)
メンテ
大和魂 96 ( No.100 )
日時: 2010/12/05 03:33
名前: 天橋立の愚痴人間

清教徒(ピューリタン)の語源は、 
清潔、潔白などを表すPurityに由来する(Puritanで厳格な人、潔癖な人を指すこともある)。

そのピューリタン(Puritan)は、イギリス国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタントの大きなグループ。市民革命の担い手となった。

16-17世紀にイギリス国教会の中にカルヴァンの影響を受けた改革派(ピューリタン)が勢力を持つようになった。その中には国教会から分離せずに教会内部を改革しようとする者と、国教会から分離しようとする者(分離派)までがいた。

ピューリタンの中には祖国での弾圧を逃れ、1620年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住した者もいる。オリバー・クロムウェルの清教徒革命(ピューリタン革命、1642年〜議会と国王派の内乱状態になる)の母体にもなった

ピューリタン革命とは人文主義者による聖書研究が進んだために起こった「原始キリスト教精神に帰るルネサンス的運動」として捉える立場もある。すなわち、同じルネサンス的運動が、イタリアにおいては、ギリシア・ローマの古典文化への復帰として表れ、ドイツにおいては、聖書への復帰と言う形で現れたとする考え方である。
16世紀は近代国家の萌芽の時代で、それまで各地域からの教会税はバチカンの収益となっていた。近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを可とせず、自国内に止めておくことをむしろ歓迎し、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押しした。

宗教上の運動が、そのうちに民主主義、資本主義の思想に結びついて行ったことは自然の成り行きと思われる。
その象徴的なのがアメリカ建国であろう。
アメリカとは何か、と言うことを考える場合、一つ、頭の隅にでも入れておくべき基本的なことがあります。それは、アメリカは移民の国であり、ヨーロッパからアメリカへの初期の移民は宗教難民だったということでしょう。

その中でヨーロッパからアメリカへの移住の先頭をきったのが、ピューリタン(清教徒)だったのです。そしてそれに続いたバプチスト、クェイカー、アーミッシュなどその他のローマカトリックや国教的プロテスタントと対立したキリスト教少数グループが、自分たちの信仰にそった生き方ができる地を求めて、続々とアメリカへ渡ってきて、そして自分たちの理想郷造りに汗と血を注ぎ込んだのです。

またピューリタンという言葉と共に、 ピューリタニズムと言われている言葉がある。
色々と錯綜した概念の中で、この意味を正確に把握することは困難と言われているが、歴史的な背景からも正しい認識が必要であろう。


以上は、現代から見たアングロサクソンの話しですが、これからは元に戻ってアングロサクソンと結びついたキリスト教的な古代社会の探索に入るとしましょう。


メンテ
大和魂 97 ( No.101 )
日時: 2011/01/01 01:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4a8cTSBU

前回までアングロサクソンと言う言葉で現す概念を探ってきましたが、さらにその源流を確かめるためにユダヤ民族及びユダヤ教の古代を見てみましょう。

旧約聖書によると、民族の始祖アブラハムが、メソポタミアのウル(現在のイラク南部)から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。彼らは「移住民」という意味の「ヘブライ人」と呼ばれた。この付近で遊牧生活を続けたヘブライ人は、紀元前17世紀頃カナンの地から古代エジプトに集団移住するが、やがてこの地で奴隷とされる。

その後、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす(「出エジプト」)。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)に辿り着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人(いずれもフェニキア系民族と考えられる)を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。この頃から「イスラエル人」を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。

紀元前10世紀頃、古代イスラエル人はヤハウェ信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする古代イスラエル王国をカナン(パレスチナ)に建国したが、ソロモン王の死後、紀元前930年頃、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ(失われた十支族)、さらに南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアの侵攻により滅亡、多くの人民が奴隷としてバビロンに囚われた(バビロン捕囚)。

彼らはユダ王国の遺民という意味で「ユダヤ人」と呼ばれるようになった。アケメネス朝ペルシアによる新バビロニア王国滅亡に伴い、捕囚のユダヤ人は解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で自治国として統一イスラエルが復興された。ユダヤ教の教義も、この頃にほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、古代マケドニア王国、セレウコス朝シリアなどに宗主国が引き継がれ、最終的にはローマ帝国領のユダヤ属州とされる。この頃にはヘブライ語は既に古典語となり、日常語としては系統の近いアラム語にほぼ取って代わり、のちに国際語としてギリシャ語も浸透した。また、ヘレニズム諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民(ディアスポラ)の活動も、この頃に始まる。ローマ支配下の紀元20年代頃、ユダヤ属州北部ナザレの民から出たイエス・キリスト(ナザレのイエス)が活動したと伝えられる。

紀元66年からローマ帝国に対し反乱を起こすが(ユダヤ戦争)、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来する「パレスチナ」という地名があえて復活された。以来ユダヤ人は2000年近く統一した民族集団を持たず、多くの人民がヨーロッパを中心に世界各国へ移住して離散した。以降ユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、各地への定着が進む。その後もパレスチナの地に残ったユダヤ人の子孫は、多くは民族としての独自性を失い、のちにはアラブ人の支配下でイスラム教徒として同化し、いわゆる現在の「パレスチナ人」になったと考えられる。
最盛期の人口は2億5000万人である。

余談であるが、前近代のキリスト教圏においてユダヤ人(ユダヤ教徒)は政治家、農民など土地の保有と公的な職業に就くことを認められなかった。逆にキリスト教が禁じている金貸しを営むことが可能であったため、伝統的に金融業や商業に従事するものが多かった。また世界的に散らばり独自の情報ネットワークを持っていた。そのため現在でもユダヤ人には商人やメディア関係が多いとされる。アルトゥル・ショーペンハウアーは『フランクフルトでユダヤ人の足を踏んだらモスクワからサンフランシスコまで情報が行き渡る』と指摘していた。
メンテ
大和魂 98 ( No.102 )
日時: 2011/01/01 01:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4a8cTSBU

さて、ユダヤ教についてであるが、上記にも出てきた「モーゼの十戒」から形を成してゆくことになる。

そのモーゼの十戒を下記に現す。

1.主が唯一の神であること
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと
9.偽証してはいけないこと
10.隣人の家をむさぼってはいけないこと

1から4までは神と人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)である。

ユダヤ教は『タナハ』 (tanakh)、『ミクラー』 (miqra') とよぶ書を聖典とする。これはキリスト教の『旧約聖書』と同じ書物である。ただし、成立状況が異なるので、キリスト教とは書物の配列が異なる。イスラム教でも『モーセ五書』は『コーラン』に次いで重要視される。ユダヤ教では、この他にタルムードをはじめとしたラビ文学も重視する。

しかし、ユダヤ教はキリスト教やイスラム教と違い、信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視する。例えば、ユダヤ教の観点からは、信仰
一方、形式的に考えれば初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったのであり、「ユダヤ人キリスト教徒」という矛盾を含んだ呼称も成立する。

世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうるのであり、ユダヤ人は他宗教に改宗することによってもはや狭い意味での「ユダヤ人」ではなくなってしまう。これは民族の定義を血縁によるのか、宗教によるのか、「ユダヤ教」が「民族宗教」なのか、あるいは「宗教民族」ともいえるのか、といった問題につながる。

このように、内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在(maqom)すると考える傾向(特にハシディズムに良く現れる概念)があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない。
また「モーゼの五書」がイスラム教で「コーラン」についで重要視されているように、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同根から出ていると言える。現代まで続くイスラム教とキリスト教の対立が近親相克の歴史であった即面も興味を引くところであります。
メンテ
大和魂 99 ( No.103 )
日時: 2011/01/01 01:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4a8cTSBU

ユダヤ教徒の特性を少し紹介していきます。

ユダヤ教徒はタルムードと呼ばれる教典に従って行動すると知られているが、これはラビ的ユダヤ教徒に限られる。タルムードは2世紀頃からユダヤ人の間で幾たびも議論の末に改良を重ねられてきた生活および思想の基礎であり、家族やユダヤ人同士でタルムードの内容について討議する事もある。

(教育)

ユダヤ教において最も特徴のある分野は教育でユダヤ教徒は教育こそが身を守る手段と考え、国を守るには兵隊を生み出すよりも子供によい教育を受けさせるべきとされている。そのため一般大衆の殆どが文盲だった紀元前からユダヤ人のコミュニティでは授業料が無料の公立学校が存在していた。平均的なユダヤ教徒は非常に教育熱心で、子供をいい学校に行かせるためには借金をすることも当然と考える。家庭では特に父親の存在が重要で、先導して子供に勉強、タルムードなどを教え、子供を立派なユダヤ人に育てたものは永遠の魂を得ると信じられている。また子供が13歳に達するとバル・ミツワー(成人式)の儀式が行われ完全に大人と同様と扱われる。

(死生観)

ユダヤ教は死を現実的なものと捉えており、一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。

(労働)

労働は神の行った行為の1つであるため、神聖な行為と考えられている。そして、安息日と呼ばれる休日を週1回は必ず行うべきであり、安息日の間は労働はしてはならず、機械に触れてもいけない。自分自身を見つめ、自分と対話したり、家族と対話したりする。

(性)

ユダヤ教では性衝動や性行為は自然なもので、必要悪とはみなさない。姦淫は罪であるが、夫婦の性行為はそれを捻じ曲げることがむしろ罪であるとされる。また、快楽を伴わない性交も同様に罪とされる。

さて、話しは古代に戻りまして、エーゲ海周りの歴史を紐といてみることにします。
紀元前6千年紀から5千年紀には、北アフリカには農業生産を主体とする定住文化集落や都市の原型が確認されており、これらを継承して紀元前3千年紀となってエジプト統一帝国(古王国)が成立したとも考えられる。小アジアには、北アフリカと同じぐらいに古い定住文化集落が存在しており、紀元前2千年紀頃にはヒッタイト帝国が成立するが、それ以前にも多数の都市国家が存在した。

西欧領域では、紀元前3千年紀頃より印欧語族の進出が著しくなったが、考古学的資料等からは、印欧語族以前にこの領域には先住民族の文化が存在したことが知られている。その為、例えばギリシアでは、ギリシア人は紀元前2千年紀頃より数度にわたり波状に南下して行ったが、すでに先住民族とその文化が存在しており、この古い文化は古代ギリシア文化のなかに取り込まれた。

しかし、紀元前2千年紀となると地中海世界では陸路を通じてではなく、むしろ海路を通じての文化的政治的な相互作用が活発となり、エジプトはクレータのミノア文明と交流を行っており、また古代ギリシア人は地中海世界のヴァイキングのような形で、各地に遠征し略奪戦争を行った。その一つはホメーロスがうたった「トロイア戦争」であると考えられる。ただし、トロイエは東西の交流の要衝にあった為、考古学的に、幾度も戦役に見舞われ、都市は破壊され、再度構築されてきたことが確認されている。
メンテ
大和魂 100 ( No.104 )
日時: 2011/01/01 03:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pZT5uw6.

東にチグリスユーフラテス文明と西にエジプト文明という世界の4大文明の狭間でキリスト教世界の萌芽が育てられていたと言うことになります。
チグリスユーフラテス文明については先に少し触れました、ここでエジプト文明についても触れてみたく思います。

(エジプト文明)

チグリスユーフラテス、黄河、インダス文明と同じように、ここもナイル河流域に発達した農業を中心として興った文明です。
そうしてこれら4大文明の発祥の地では、他の文明の地よりも、それぞれ大きな王国が出現しています。

農業生産を背景に強大な王国が出来たことにより人々にとっては安定した環境があったのでしょう。
より小さな王国では常に侵略による興亡にさらされ、事実ユダヤの民も国土を持たない流浪の民となってしまったのです。
特にエジプトの王権は極めて強くピラミッドなどの遺跡を今に残しています。

そのエジプトの成り立ちですが、エジプト人は自分たちの国をケメト(「黒い土」の意)と呼んでいました。ナイルの洪水によって堆積する黒土にちなんだものでした。

ナイル川と太陽は対を成す力と考えられ、ナイルの氾濫による大地の草木の再生、そして朝晩に死と再生を繰り返す太陽は、オシリス神の神格や様々な宗教的意識に影響を与えた。

エジプトの歴史は古く長い。先王朝時代(紀元前BC3400年頃)は死者はナイルの洪水の及ばない、耕作地でない場所、沙漠に葬られた。沙漠で遺体が乾燥していったことで人工的な遺体の保存の思想がでてきたと考えられています。

紀元前BC3100年頃のエジプト統一まで、多数の都市、国家の神々がいました。

古王国時代の紀元前BC2480年頃には太陽神ラーが神々の最高位になり広く信仰され、その後も大きく影響し続け、後にアメンと習合した神格にもなりました。

紀元前2600年頃には、神官たちは神々を体系化し、いくつかを家族としてまとめた。ヘリオポリスの9柱神、ヘルモポリスの8柱神などです。

この頃から紀元前BC400年頃まで遺体の人工保存処理が行われました。

また紀元前BC2700-2200年と中王国時代の紀元前1980-1786年にはほとんどの王のためにメル(ピラミッド)が建てられたと言います。


エジプトはその後ローマやアレキサンダー大王の侵略をうけエジプト文明としての歴史は終わることになります。
エジプトに伝わる神話、伝説は主に王権を確立するためのものが多く驚くほど多くの神話が語られています。
それに引き替え、庶民の生活の様子を伺う民話などは乏しいのですが、ネットで検索できた一つの話を現代に近いものですが、紹介します。


(ゴハおじさん・・・)

『ゴハおじさん、市場へいく』ロバに乗るゴハおじさんが自分の背中にかごをかついだ理由。『ゴハおじさんとくつ』昼ごはんに招かれたと来た6人の悪戯者にゴハおじさんがした見事な仕返し。『ロバは何頭?』ロバの頭数が合わず悩むゴハおじさんの変な納得の仕方。『おやしきのえんかい』悪ガキ達を上手い嘘で追い払ったゴハおじさんですが・・・・。

『ネコはどこへ?』折角買った羊の肉を奥さん達に全部食べられ猫の仕業と言われて悩むゴハおじさん。『水あび』川で泳いだ時服を盗られたゴハおじさんが考えた変な対策。『クマ狩りにいったゴハおじさん』ゴハおじさん流クマ狩りの変な喜び方。『ゴハおじさん、強盗にであう』道で二人の強盗に出会ったゴハおじさんの見事な知恵。

『二十羽のガチョウ』近所の人から預かったガチョウが一匹足りない事実を絶対に認めないゴハおじさん。『だんまりのゴハおじさん』喋らないと賭けをしたら何が起きても意志を貫く頑固なゴハおじさん。『また、どろぼう』真夜中家に入られた泥棒に言い訳してかわすゴハおじさん。『ゴハおじさん、おふろ屋さんにいく』公衆浴場に行ったゴハおじさんは見かけで態度を変える世話係を戒めます。

『むすこに世の中をおしえるゴハおじさん』他人が自分をどう思うかを気に病む息子に教え諭すゴハおじさん。『あたらしいロバ』年寄りのロバを若いのに換えたくなったゴハおじさんでしたが・・・・。『ゴハおじさんと三人の賢者』遠くの国から来た三人の賢者が出す難題にとんちで答える「一休さん」の様なゴハおじさん。

とりとめのない話の中で、お人よしで、したたかな「ゴハ」おじさんの生き様が風刺されています。

これは次に紹介します、現在エジプト旅行記の風情にも共通するものであります。
メンテ
大和魂 101 ( No.105 )
日時: 2011/01/01 03:02
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pZT5uw6.

これとは別に現代エジプトを旅した方の日記のような文章を紹介します。

http://www.h6.dion.ne.jp/~euroman/index.htm

1.カイロへ

この旅の始まりは、空港の前の駐車場でひとり夜明けを待つという、非常に静かなものであった。空港といっても地方都市の鉄道駅のような簡単な造りである。同じ飛行機でやって来た数十名の人たちはいつの間にかどこかへ行ってしまって、とにかくザックをかつぎ、タクシーやホテルの客引きを振り切って外に出る。広い駐車場の中で適当に居場所を見つけて腰を下ろす。先進国以外の国を本格的に歩くのは初めてのことで、少し神経がぴりぴりしていた。そして夜明けと共に赤白ツートンカラーのなるほどさすがにこれはアフリカだな、という埃まみれのオンボロバスが現れ、恐ろしく乱暴な走り方をするこのオンボロバスが僅か1時間で僕をあの喧騒と混乱の街カイロにほおりこんでくれたのである。

右も左も分からない状態でホテル探し、航空券のリコンファーム、夜行列車の予約等々やらなければいけないことがあったし、とにかくこの街に慣れることから始めようと手当たり次第に歩き回ったが、その疲れること疲れること。道にあふれる人と車、ひっきりなしの車のクラクション、フルボリュームのコーラン、砂埃、暑さ、僕に集まる視線、悪臭、細かく書くときりがないのだけど、やかましさ、異様さ、無秩序さ、いちいち人の神経を逆なでするようなものばかりで、睡眠不足の僕は歩きながら吐き気すら覚えた。こんな町は明日すぐに出てしまおうと思いながら歩いていた。


2。カイロの男達

カイロには、その後四日間滞在した。やはり慣れるもので、イライラさせられることは度々であったが、圧倒されるばかりでなく、その異様さを面白いと感じられるようになった。特に、そこに歩いていたり、つっ立っていたり、座っていたり、物を売ったり、怒鳴り合ったり、とにかくそこら中に大勢いる人間が面白い。モロッコを旅行して、皆が俺を狙っているような気がする、と言った人がいたそうで、僕もタンジールに入ったときに成る程うまいことを言うもんだな、と思ったことがある。

ヨーロッパを歩いていてもアラブ人というと何となくうさんくさい印象をもってしまう。ところがここの連中は同じアラブ人でもちょっと違っている。視線もそうきつくないし、どことなく表情や行動に愛嬌がある。男たちの大半は鬚を生やし、大変に立派な、俺は何々族の末裔だぞといっているような威厳のある顔立ちをしているのだが、よく見るとそれぞれに少し間のびしたとぼけた顔をしている。カイロのような都会だと洋服を着ている人も多いが、たいていガラベーヤというあのアラブのひらひらした衣装を着て歩いている。水たまりを渡る時とかバスのステップを上がる時など、女の子がスカートを持ち上げるようにひょいとそのひらひらをつまみ上げるのが見ていて何ともおかしい。

この街の異様さのひとつは圧倒的に男だらけであることだ。女性はもちろん見かけないわけではないが、そう多くないしことに若い女性は少ない。男が目立ちすぎるのである。例えばそこら中にある喫茶店、シャーイと呼ばれる紅茶を飲み、水煙草を喫んで時間を潰しているのは皆、男である。そこに女性の姿を見ることは殆どない。ましてテーブルをはさんで恋人同士語り合うという図は絶対にない。イスラムの伝統で街なかでもアベックというものにお目にかからない。その代わり(という訳でもないだろうけど)男の二人連れというのがやたらと多く、手をつないでいたり腕を組んでいたり、日本人の感覚からするとどうも普通ではない。

別にホモという訳ではないそうなのだが、小指をからませていたり、いきなり立ち止まって見つめ合っていたりするのを見るとかなり気持ち悪い。そういえばルクソールでこんなことがあった。夕方ナイルのほとりの石のベンチにこしかけ、西岸に沈む夕日を見ていた。エジプトに来て見たいもののひとつであったし、ここまではしつこい物売りも来ないので静かに雰囲気にひたっていたら、そこに二人連れの男がきて僕のとなりに座る。いろいろと話しかけてくるので、適当に返事をしていると、そのうち話しが“ひとりで旅行していて寂しくないか”とか“自由な人生を求めてみないか”といった妙な具合になってきた。かわるがわる話しかけてくる二人のしゃべり方といい目つきといい、ねとっと甘ったるく、さすがに鈍い僕でも気がついて、表現がもっと直接的になったところで立ち上がってベンチを離れた。

こういうのは極端にしてもここの男達はベタベタとして仲が良い。ドライバーがしつこくクラクションを鳴らして怒鳴り合っているのも夫婦げんかでもやっているように見える。短い滞在での印象で本当かどうか分からないけれど、ののしりあうばかりで手は出さないのではないかと思う。もし血でも流れることがあれば、やった方がびっくりして事の重大さにオロオロし、さっきまでの怒りはどこへやら、相手を抱き起こしたりするのではないだろうか。旅行者にとってみれば真理は一つとばかりに我が道をつきすすむ欧米人社会に較べると、何だかよく解らないけど、ネトネト・ベタベタのカイロ社会の方が、身の安全に神経質にならなくて済む分楽である。但しこれは女性にとってはそうでもないようで、話をきくと体中触られたとか、後をつけられた、とか大変だったようだ。自分の国の女の子が自由にならない分、外人に目が行く訳で、考え様によってはここの男たちも可哀相だ。女の子と遊べないわ、酒も飲めないわで、男同士たむろしてシャーイを飲んでいる。

メンテ
大和魂 102 ( No.106 )
日時: 2011/01/01 03:05
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pZT5uw6.

3カイロの子供達

驚くほど大勢の男達が、昼間からすることもなくぶらぶらしている。ルクソールで会ったタイヤという男もそうであったが、一日の大半ブラブラするのが仕事のような男も多い。その代りスークや駅で、小学生位の子どもが学校にも行かず、物を運んだり売ったり、よく働いていた。結構一人前に大人とやりあっていたりして生活力を感じさせる。

エジプトの子供達のたくましさを知りたかったら、王家の谷へ行くのにタクシーでなく、貸し自転車で行くと良い。道の両側から貧しい格好をした子供達が走り出してきて、これ買ってとか、バクシーシ(お金、頂戴)とか、次々に声をかけてくる。自転車の後を追いかけてくる子もいる。毎日観光客が通る度にあれをやっているのである。日本なら社会問題になりそうなものだが、彼らにとって教育よりも生活が大事なのだろうし、皆無邪気で明るい。そういえば、走ってゆく自転車の前でパッとスカートの前をめくって、ケケケと笑う妙なのもいた。

僕はどちらかといえば子どもは好きな方ではないと思うのだが、エジプトの子はカイロの街角で唇を歪めてバクシーシと手を出すガキも含めて皆可愛かった。カイロの喧騒を逃れてムハマンドアリモスクの回廊の柱の下に座って本を読んでいたら、遠足で来たらしい小学生の一団が僕を見つけ、あっという間に彼らにとり囲まれてしまった。“ハロー”“ハロー”口々に叫んで手を差し出す。一つ握ってやると私も私もという感じで、目の前にいくつも手が並ぶ。殆ど全員と握手するまで輪がとけなかった。こういう無邪気さがそのまま大きくなって、あの親切仲良しエジプト人になるのだなと思った。

4。タハリール広場に

ニューカイロのミダン・エル・タハリールは常時数十台のバスやミニバス、それにタクシーが発着する巨大な広場である。多量の人と車の混乱振りはカイロの象徴のようなところである。ここで慣れぬ旅行者は、いかに目当てのバスに乗るか苦労することになる。バスはあちこちで次から次へと発車しているのだが、どこで待ったらいいものやら、またそれが解ってもバスの行き先や系統番号がアラビア語で書かれているので途方に暮れる。70と書いてあるのは70ではなく、65だというのだからかなわない。大体、来るバス来るバス人でギッシリで、はみ出て手すりにぶら下がっている奴もいる。止まらぬうちにワッと飛び降り、乗ろうとする連中ともみ合い、走り出しても尚何人も飛びおり、また元と同じギッシリの状態になって、どうにか出発していく。異邦人は喧騒と混乱の中、ア然として立ちつくしている。

そこで登場するのが親切エジプト人である。いかにエジプト人が親切かということは、ここで自分のバスを尋ねれば良く解る。たとえ英語が解らなくても、ついて来いという仕草をし、車の洪水を横切るのに手を貸してくれ、あちらの乗り場で尋ね、こちらで尋ね、それでも解らないでいると、たいてい“俺も手伝おう”という男がもうひとりふたり現れ、それぞれ自分の予定が遅れるのもおかまいなしに、驚くべきことに僕がちゃんと目当てのバスに乗り込む迄見届けてくれる。

ホッサム君という男もそうであった。立派な体格でヒゲも薄く生やしているが、多分高校生ぐらいと思う。このホッサム君僕が乗るカイロ旧空港行きのバスを15分ほど一緒に待っていてくれた。学校へ行く途中とみえて英語の教科書を持っていた。僕はこの日ルクソールへ行くところであったが、ホッサム君は自分の家の住所と行き方をエジプト語、英語の両方で書いて、カイロに戻ってきたら是非遊びに来てくれと言う。バス乗り場を聞いただけでこういう展開になるところがおもしろい。“きっとだよ”というホッサム君の無邪気な笑顔が印象に残る。

5。ギザにて

ギザのピラミッドは、エジプトの中でも有数の観光地である。タハリールから乗った乗り合いタクシーは、ピラミッドの少し手前で地元の乗客が皆降りて僕ひとりになると、さっそく、ピラミッドまで行くならあと1ポンドとここまで十数キロ来たその4倍の料金をふっかけてくる。すぐにこれである。“バカ言え”と言って降りて歩いて行く。ピラミッドから1キロ離れているが、もう物売りやらくだ引き、ガイドが声をかけてくる。この手の連中は結構しつこいのでうんざりさせられるが、タンジールの自称ガイドに較べるとここの人達はそうひどくない。

ノー、と言って通りすぎてもしばらくはついてくるが、こちらも立ち止まって、もう一度はっきりノーといって歩き出すと、大体あきらめるようである。それでも僕の後ろで、半ば泣き声のような声で、“何で俺に値段を聞かないんだ”“たった1ポンドだよ1ポンド”“オーイ、この品物を見てくれよォ”といつまでも叫んでいるのを背中で聞いていると、芝居がかった大げさな言い方に吹き出してしまう。観光客相手にぼろうとする連中も、ここでは善人エジプト人の気質が見えかくれする。

うるさい連中から逃げるようにして歩いていたら道に迷ってしまって、またまた地元の人に助けてもらった。エジプト独特の丸いパンをモグモグ食べながらやって来た20才位の男である。英語をしゃべらず、そのまま歩いていくので、こりゃ駄目かな、と思いながらついていくと十字路に来て、こっちだという風な仕草をしてまた歩いていく。

道が上りになって、ピラミッドが近いことが知れる。らくだ引きが“こっちが近道だ”などといいながら連れて行こうとするが、無視してモグモグ兄さんについていく。中にはモグモグ兄さんをつかまえて何か言うのがいる。エジプト語なので分からないが、“商売の邪魔をするな、案内なら俺がやる”とでも言っているのだろう。困ったようにこちらを見るので、その度にノーと言ってやると、兄さんはまた歩き出す。ゆるいカーブをまがると目の前にピラミッドが二つ巨大な姿を現した。兄さんは、あれがピラミッドだというようなことを言い、くるりと振り返って今来た道をスタスタ下りて行った。礼を言う暇もなかった。


メンテ
大和魂 103 ( No.107 )
日時: 2011/01/01 03:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pZT5uw6.

6 再びカイロにて

ルクソールから夜行列車でカイロに向かった。ルクソールを深夜出て丸半日、正午を回って列車は運河に沿って走っている。夜が明けてからまるで変らぬ風景が続いている。狭く、空気の汚れた車内にいるのがしんどくなって、デッキへ行った。幅が日本の列車の一倍半程あるドアは開け放たれていて、乾いた暖かい風が吹き付けてくる。降りる駅が近づいたのか4,5人の黒人がどやどやとデッキに出てきた。きいてみると、スーダンから来たという。

カイロの南数十キロの小さな町の大学に留学するのだそうで、列車がスピードをゆるめる度に、ちがうちがうこの町じゃない、などと言い合っている。その中の一人が僕にむかって“エジプトはいい所だろう”“ウンウン皆親切でいい人たちだ”そう答えながら、明日この国を去る僕はエジプトで会ったいろいろな男たちの顔を思い出していた。親切であることは間違いないが、日本語や英語でいう親切とは少し違うような気がした。

親切エジプト人は俺は俺、お前はお前で、お互いの人格を認めつつ、博愛主義的親切を発揮するヨーロッパ人とは違う。その点では何やらエジプト全体でひとつの家族のようにお互い仲の良いエジプト人は、相手が自分と同質の人間であることを期待する日本人に近いのかもしれない。しかし絶対的親切というか、あの確信に満ちた顔付きは、行動や考え方が人からどうみられているかということに容易に左右される日本人では持ち得ないものである。歴史なのか土地なのか民族なのか分からないが、あれはもうそういう風に人間が出来ているとしか言いようがない。

スーダンの学生が僕が持ってたマイルドセブンライトを珍しそうに見るので一本ずつ分けてあげた。と、それまで黙って我々の傍に立っていた太ったエジプト人のオッサンが、何やらエジプト語を言いながら僕の煙草を箱ごと取り上げ、自分のポケットにしまいこみ、代わりにクレオパトラというこの国の人気煙草を僕に渡してよこし、ニッと笑った。遠くサッカラの階段状ピラミッドが見えてきた。列車は混乱と喧騒の町カイロに近づきつつあった。 

(おわり)


このようにエジプト人の気質が、豊穣の地ナイルで育ったおおらかさと共に、厳しい王権に耐えて生き抜いてきエジプト人のしたたかさの両方を受け継いでいるというのは早計でしょうか。

考えますと中国の民族性も、大陸的といわれるような大らかさと、厳しい個人的エゴが内在しているように見えます。
大きな文明が展開した地域は、作物に恵まれ人々の心が安定して発達してきた反面、中国では蒙古が略奪を常套手段とした様に呵責のない民族性が顕著であります。

落ち着ける土地に恵まれなかったユダヤの民や、農業でなく牧畜に生活を頼った地域、または小国家間で抗争が絶えなかった地域では、民族の移動が盛んに行われ、4大文明が発達した地域に比べて大らかさにかけた民族性となったことも事実でしょう。
そうして、これから辿るユダヤ、キリスト於いてはアングロサクソンの世界は、その4大文明地の対極にある社会の検証となります。
メンテ
大和魂 104(キリスト教) ( No.108 )
日時: 2011/01/02 15:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

西欧(アングロサクソン)の世界を知るのに、どうしてもキリスト教をはずして考えることはできません。
そのキリスト教の世界を見てみることにしましょう。

http://www.ijournal.org/world/christ.htm

キリスト教の前身のユダヤ教は神からあたえられた戒め、戒律、掟、聖書でいえば十戒、仏教でいえば五戒、そういう戒めを守り、その守った度合いに応じて義とされるということで、人間の自力が強調されている。すなわち人間の徹底的な自力本願の宗教である。それに対し、キリスト教はイエス キリストの十字架というかたちでもって罪の赦しが与えられるわけである。信仰生活はただ一方的に神の愛と恵みと恩寵によって成立する。これがキリスト教、特にプロテスタント神学の立場である。そういう点において、キリスト教は徹底した他力本願の宗教であると言える。

ユダヤ人たちは神から要求された律法の箇条というものを何とか全うしようとした。律法を遵守している人はおうおうにして律法を行っていない人と比較して、優越感にひたるという過ちに陥ることがある。イエス キリストはそのような人たちを痛烈に批判した。律法を遵守するという行為の動機が自分が救われたいとか自分が優越感を感じたいということにあることを痛烈に批判したのである。

キリスト教は人間が救われるため何か条件を立てることの必要のない宗教である。何故かというとキリスト教によると天国にいく条件というのは神側から一方的なプレゼントとしてくれるわけである。人間が何かの条件を立てたのでその見返りとして神から何か恵みをもらえるということではないのである。善行は救われるためにするのではなくて、救われたから、赦されたから、愛されたからというのがその動機である。何か打算的なそれをする事によって何か見返りを期待したり、そうするところに結局は善を指向しながらもエゴイズムがあるんだとイエス キリストは指摘したのである。
(引用終わり)

上記の文章を検証するまでにキリスト教の経典「新約聖書」を紹介します。

『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の聖典。また、イスラム教でもイエスを預言者の一人として認めることから、その一部(福音書)が啓典とされている。『

新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた手紙(書簡)、黙示文学(『ヨハネの黙示録』)からなっている。「旧約聖書」「新約聖書」の「旧」「新」という言い方を避けるため、旧約聖書を『ヘブライ語聖書』、新約聖書を『ギリシア語聖書』と呼ぶこともある。

福音書には下記のものがあります。

マタイによる福音書 (マタイ書、マタイ伝) 税吏出身の使徒マタイ
マルコによる福音書 (マルコ書、マルコ伝) ペトロとパウロの弟子であったマルコ
ルカによる福音書 (ルカ書、ルカ伝) おそらくパウロの弟子であったルカ
ヨハネによる福音書 (ヨハネ伝) 使徒ヨハネ

そのうちのマタイの福音書の一部を転載します。
メンテ
大和魂 105(キリスト教) ( No.109 )
日時: 2011/01/02 15:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

マタイによる福音書
山上の垂訓

全体の1/3くらいに省略してますが、それでもずいぶんと長いので適当に割愛して読んでいただクコとで、初めての御方に聖書の世界を感じていただきたく思います。

第1章
1:1
アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2
アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、
1:3
ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、
1:4
アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、
1:5
サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、
1:6
エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、
1:7
ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、
1:8
アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、
1:9
ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、
1:10
ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、
1:11
ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。
1:12
バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、
1:13
ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、
1:14
アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、
1:15
エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、
1:16
ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。
1:17
だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。
1:18
イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19
夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20
彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21
彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22
すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。
1:24
ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
1:25
しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。
メンテ
大和魂 106(キリスト教) ( No.110 )
日時: 2011/01/02 15:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第2章
2:1
イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2
「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3
ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4
そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5
彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6
『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8
彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9
彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10
彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11
そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12
そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
2:13
彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。
2:14
そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、
2:15
ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
2:16
さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
2:17
こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
2:18
「叫び泣く大いなる悲しみの声が
ラマで聞えた。
ラケルはその子らのためになげいた。
子らがもはやいないので、
慰められることさえ願わなかった」。
2:19
さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、
2:20
「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。
2:21
そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。
2:22
しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、
2:23
ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。
第3章
3:1
そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、
3:2
「悔い改めよ、天国は近づいた」。
3:3
預言者イザヤによって、
「荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』」
と言われたのは、この人のことである。
3:4
このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
3:5
すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、
3:6
自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
3:7
ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
3:8
だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
3:9
自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
3:10
斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
3:11
わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
3:12
また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
3:13
そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
3:14
ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。
3:15
しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3:16
イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
3:17
また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
メンテ
大和魂 107(キリスト教) ( No.111 )
日時: 2011/01/02 15:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第4章
4:1
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
4:5
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6
言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。
4:7
イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
4:8
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9
言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:11
そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
4:12
さて、イエスはヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ退かれた。
4:13
そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。
4:14
これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。
4:15
「ゼブルンの地、ナフタリの地、
海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、
異邦人のガリラヤ、
4:16
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
4:18
さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
4:19
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
4:20
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
4:21
そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、
4:22
すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
4:23
イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
4:24
そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。
4:25
こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。
メンテ
大和魂 108(キリスト教) ( No.112 )
日時: 2011/01/02 15:19
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第5章
5:1
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:11
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
5:13
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
5:14
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
5:15
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
5:16
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
5:17
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
5:21
昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
5:23
だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
5:24
その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
5:25
あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
5:26
よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
5:29
もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
5:30
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
5:31
また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
5:32
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
5:33
また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:34
しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
5:35
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
5:36
また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
5:37
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
メンテ
大和魂 109(キリスト教) ( No.113 )
日時: 2011/01/02 15:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第6章
6:1
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8
だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
6:9
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
6:10
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
6:11
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
6:12
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
6:13
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
6:16
また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:17
あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18
それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
6:19
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21
あなたの宝のある所には、心もあるからである。
6:22
目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
6:23
しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
6:24
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
6:25
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
6:26
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
6:27
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
メンテ
大和魂 110(キリスト教) ( No.114 )
日時: 2011/01/02 15:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第7章
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
7:6
聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7:7
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
7:8
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
7:9
あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
7:10
魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
7:11
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
7:12
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
7:13
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14
命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
7:15
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
7:16
あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
7:17
そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
7:18
良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
7:19
良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
7:20
このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
7:21
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
7:24
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
7:25
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
7:26
また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
7:28
イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
メンテ
大和魂 111(キリスト教) ( No.115 )
日時: 2011/01/02 15:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第8章
8:1
イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。
8:2
すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
8:3
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。
8:4
イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。
8:5
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、
8:6
「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。
8:7
イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
8:8
そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
8:9
わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
8:10
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。
8:11
なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、
8:12
この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
8:13
それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
8:14
それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。
8:15
そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。
8:16
夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。
8:17
これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
8:18
イエスは、群衆が自分のまわりに群がっているのを見て、向こう岸に行くようにと弟子たちにお命じになった。
8:19
するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。
8:20
イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
8:21
また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。
8:22
イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。
8:23
それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24
すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25
そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。
8:26
するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
8:27
彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。
8:28
それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。
8:29
すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
8:30
さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
8:31
悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。
8:32
そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
8:33
飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。
8:34
すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。
メンテ
大和魂 112(キリスト教) ( No.116 )
日時: 2011/01/02 15:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

(中略)

第18章
18:1
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
18:2
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
18:3
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
18:4
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
18:5
また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
18:6
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。
18:7
この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。
18:8
もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。
18:9
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
18:10
あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔
18:11
人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕
18:12
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
18:13
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
18:14
そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
18:15
もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。
18:16
もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。
18:17
もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。
18:18
よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
18:19
また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
18:20
ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
18:21
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
18:22
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
18:23
それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。
18:24
決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
18:25
しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
18:26
そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。
18:27
僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
18:28
その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。
18:29
そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。
18:30
しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。
18:31
その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。
18:32
そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。
18:33
わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。
18:34
そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。
18:35
あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
メンテ
大和魂 113(キリスト教) ( No.117 )
日時: 2011/01/02 15:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

(中略)

第28章(最終章)この前にイエスの処刑と復活に至るくだりがあります。
28:1
さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:2
すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
28:3
その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4
見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5
この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6
もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
28:7
そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
28:8
そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9
すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
28:10
そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。
28:11
女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
28:12
祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、
28:13
「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
28:14
万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。
28:15
そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。
28:16
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
28:17
そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
28:18
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

(マタイ福音書 山上の垂訓 終わり)
メンテ
大和魂 114(キリスト教) ( No.118 )
日時: 2011/01/03 12:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

キリスト教とは、どのようなものと把握すればよいかについて、冒頭に掲げた下記の文章を思い起こしていただきたい。

「キリスト教は人間が救われるため何か条件を立てることの必要のない宗教である。何故かというとキリスト教によると天国にいく条件というのは神側から一方的なプレゼントとしてくれるわけである。人間が何かの条件を立てたのでその見返りとして神から何か恵みをもらえるということではないのである。善行は救われるためにするのではなくて、救われたから、赦されたから、愛されたからというのがその動機である。何か打算的なそれをする事によって何か見返りを期待したり、そうするところに結局は善を指向しながらもエゴイズムがあるんだとイエス キリストは指摘したのである。」

この文章を別の角度から解釈すると、
キリスト教徒が行う善行はキリスト教徒として当然の行いであるということ、すなわち善行を積むことは神の御意思に沿うものである。

これによりキリスト教は熱心な信徒、聖職者により、世界に飛躍的に展開をして行くことになる。
世界史的に見れば同時に興ったとも言える仏教、イスラム教を合わせて布教の対象を不特定多数に想定した世界宗教を高等宗教の出現とアーノルド・トインビーは指摘している。

キリスト教信者 20億人、イスラム教信者 11億人、仏教信者 4億人。

キリスト教の教義と言うか、キリスト教を信仰すると言うことは下記のようなことを言う。
三位一体とは、キリスト教の奥義の一つで、神には、父・子・聖霊という異なった三つの位格(persona)があるが、神は実体(substantia)としては同一であるという考えである。
聖書によれば、イエス・キリストは、神が受肉した、つまり人の姿をして現れた、神の子である。

では、イエスは、人間ではなくて神なのか。
結論が出ない弁証法的解釈に拘るよりも、実際には前述の聖書のイエスの言葉をとおして人々は神を意識することになる。
そこには事細かに神が望む生き様が書かれている。

その教えに従うこと(イエスキリストを信じる事)により人々は自立を得るのである。
他方、多くの信徒が陥る、聖書の教えに違背した場合、教えを踏み外した場合に対する救済の道(信仰の道)が用意されている。

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めることとある。

キリスト教でも「懺悔」と言う言葉があるが正式には告解戸と言い、その行為を秘蹟と称している。
カトリック教会での秘跡は「赦しの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。

その赦しの秘跡に必要な部分は
1.内的後悔(痛悔と遷善の決心)
2.天主(神)の代理者の前に告白すること
3.罪の償を果たすこと
4.天主の全権に因る赦免
以上四点であり、これら全体を赦しの秘跡と呼ぶ。

仏教で言う懺悔が、己を悔い改めることを表現するにとどまることに対して、キリスト教の懺悔は神との契約に対する違背を神に許していただくための具体的な儀式と位置つけられている。
この懺悔に対する微妙な軽重が仏教とキリスト教の違いとなって、懺悔をした人のその後の言動に影響しているのではないかと思う。

イスラム教もそうであるが、一神教の場合、信徒と神の関係は概ね一対一の契約関係に近いものがある。
多神教の場合は神が多すぎて特定の神との関係を強く意識することなく、神は抽象的な存在でしかないのが普通である。

こうした神と信徒の関係は、ローマ時代の初期、アウグスティヌスによって語られており、これが初期のキリスト教のあり様であった。

アウグスティヌス自身はプラトン・新プラトン主義(プロティノスなど)・ストア思想(ことにキケロ)に影響を受けていた。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいたが、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要な業績である。またラテン教父の間にあったストア派ことにその禁欲主義への共感を促進したことも、キリスト教倫理思想への影響が大きい。

アウグスティヌスの思想として特に後世に大きな影響を与えたのは人間の意志あるいは自由意志に関するものである。その思想は後のアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えている。一言でいえば、アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。しかし、忘れてはならないのはこのようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌスの悔悟と、原罪を否定し人間の意志の力を強調したペラギウスとの論争があったということである(ペラギウス論争といわれる一連の論争はキリスト教における原罪理解の明確化に貢献している)。

ここで言う、個人の自由意志を尊重する趣旨は、後のローマカソリックにおいて著しく抑圧され、ルネッサンスの運動に結びつくことになることを覚えておいていただきたい。
メンテ
大和魂 115(キリスト教) ( No.119 )
日時: 2011/01/03 12:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

王権神授説と近代を生むことになった、社会契約論の面からキリスト教を見てみましょう。

古い文明の一つメソポタミア文明では、王は「神の代理人」とされ、これは同じ古代オリエント文明でも現人神であるエジプトのファラオとは対照的であった。よく知られた『ハンムラビ法典』では王ハンムラビが神シャマシュより王権の象徴の輪と聖杖を授ける図が描かれている。その下に彫られているのが「目には目を、歯には歯を」で有名な条文である。このように法治を託された(あるいは為政者が仮託した)という面もあるが、代理人たる王を通した神への民衆の信仰心が大きかったことがうかがえる。

上記のように古代社会は自然発生的に王権は神より与えられたもの、ないしは神の代理人として王権を主張してきた。
それとキリスト教が宗教として起こり、後にローマ帝国の皇帝との関係を築いた経緯は別の様相を呈する。

神聖ローマ皇帝の皇帝権は、800年のカール大帝の戴冠により西ヨーロッパにおける覇権的君主権として成立し、またキリスト教と密接に結びついた。962年のオットー大帝の戴冠以降は、皇帝権はドイツ王権と不可分なものとなり、中世を通じてヨーロッパの世俗支配権の頂点に君臨した。特にオットー大帝以後13世紀のシュタウフェン朝断絶にいたるまでの、いわゆる「三王朝時代」は皇帝権は教皇権とともに西ヨーロッパのキリスト教世界の権威と権力を二分していた。ただし「神聖ローマ皇帝」という称号が実際に用いられたわけではない。実際に用いられた称号には様々なものがあった。たとえば、カール大帝の称号は「至尊なる尊厳者、神により戴冠されし、偉大にして平和的な、ローマ帝国を統治する皇帝」である。

ここに今で言う政教融合が始まり、政治的にも宗教的にも矛盾を抱えた中世が始まる。
結果は歴史の証明するところであり、あらゆる面で国民を抑圧する社会が現出することになる。
これに対して、ローマ帝国の衰退と共にルネッサンスという運動があらゆる分野で起こり、直接の意味は古代への回帰であるが、実際は中世社会に対しての反抗であり、近代社会への幕開けであった。

その一環として、王権を含む社会の有り様に付いて社会契約説が説かれ始めた。
トマス・ホッブズに始まりジョンロック、ジャン・ジャック・ルソーに続くものである。

ホッブズが『万人の万人に対する闘争』と呼んだ自然状態を形成する本能的で野蛮な人間は、絶えず他人からの攻撃や略奪を心配して『死の恐怖』に怯えることになります。その為、自然状態における個人は、無秩序な闘争を調停して安全を保障する『国家権力(絶対王政)』に自然権(生存と生活を保持する為に権力を行使する権利)を移譲する契約を結ぶことになると言います。ホッブズは、自然状態を猜疑心に駆られた人間相互の闘争・略奪の状態と考え、自然的存在としての人間は悪であると想像しました。

ジョン・ロックの性善説的な人間観に基づくものです。ロックは、人間は国家(社会)の成立していない自然状態において、自由で平等な独立した存在であったといいます。自由主義者でもあるロックは、『個人の自由・財産・健康の保持』を所有権としてこれらは自然権(自然状態で持つ自己保存の為の権利)の一つとしていますが、個人が権力を移譲して打ち立てる国家は所有権の調整と保護を行う責務を持ちます。自由主義者ロックは、個人の自由を最大限に尊重し、国家は他者の権利や自由を侵害する不正な犯罪行為に対してのみ、権力を行使して刑罰を与えることが出来ると説きます。ロックは国家権力の中心に『立法権=議会政治』を考え、『執行権(行政権)』と『連合権(外交権)』は立法権を持つ議会の決定に従わなければならないとしました。

平たく言えば、両者とも人間の利己心を神及び国家から開放することを前提としていて近代民主主義の基礎となっています。
その社会契約説が最も先鋭化したものに以前に述べたピューリタニズムというものがあり、その後の資本主義の発展の精神的根拠となり、近代社会の骨組みともなってきました。
それがどのようなものか、純粋なピューリタニズムとは何か、あまり明確は説明は無いのですが下記の文章を紹介します。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0620.html

ピューリタン革命の経緯は省略したい。オリバー・クロムウェルの革命だ。
本書ではそのクロムウェルに先行したジョン・リルバーンという興味深い自由人に宿ったクリスチャン・ソルジャーの感覚や、なぜ「王」(チャールズ1世)を殺すことがピューリタン革命の頂点にならざるをえなかったかということを、端的な調子で描き出している。ぜひ読まれたい。

ここではその頂点を説明する代わりに、この時期にピューリタニズムが派生させた決定的な価値観を、3つだけあげておきたいとおもう。

 第1には、多様な「コングリゲーショナリズム」が生まれたことである。日本では「会衆派」と訳され、その活動は独立派とか組合教会となって、それが日本では新島襄の同志社系になっているなどと理解されている活動形態だが、ここにはもうすこし重要な意味が隠れている。
 かつてのカトリシズムが「回勅の宗教」であるとすると、コングリゲーショナリズムは新たに「会議の宗教」をつくったということなのだ。いまでも“the sence of meeting”とよばれて、アメリカ人やイギリス人と仕事をするとその思想が前面に躍り出る。日本人が欧米の真似をしてミーティングのルールやディベートのルールをおぼえようとしたのは、ほとんどコングリゲーショナリズムにもとづいている。

 第2に、このコングリゲーショナリズム(信者の集まり)の波及から、社会における“人間向上のプログラム”の変質が実質的におこっていったことがあげられる。
 それを簡潔にいえば、さしずめ「コンヴァージョン」(回心)から「エデュケーション」(教育)へという転換だ。
 これでだいたいのことの見当がつくだろうが、「信仰と会議と教育」はピューリタン精神のなかでは、ひとつながりのものなのであり、このひとつながりの途中にそれぞれ介入してくるのが「ディシジョン」というものなのだ。

 第3に、ピューリタン革命がまさにそうだったのであるが、ピューリタンたちがコモン・ロイヤーと結び、ピューリタニズムの社会のなかに契約社会をつくっていったことが特筆される。すでにメイフラワー契約にもそれはあらわれていたが、クロムウェルの革命そのものが契約革命の推進だったのである。このモデルをプロテスタンティズムに拡張し、さらにそれが資本主義の起源になっていると指摘したのがマックス・ウェーバーだった。

ピューリタニズムはたいへん妙な思想であり、運動である。その起源には王を殺した宗教運動があり、その後は、つねに父を喪失した状態の宗教思想でありつづけている。

つねに移住先を求めるし、どこかに定着したらしたで、移住者の再編成を課題にせざるをえなくなっていく。ノーマッドな思想に似ていて、まったくノーマッドではない。脱出する地点が必要な旅立ちなのである。しかも旅先には目的地があって、そこに“建国”と“会議”が待っている。
しかし、これがヨーロッパのキリスト教社会が「近代」を生むにあたってつくりあげた最も合理的な実験装置だったのである。その合理装置からは思いがけないほどの副産物がもたらされた。たとえば、ピューリタニズムこそが「霊的」(スピリチュアル)という言葉に対して、初めて「内的」(カーナル)という言葉を持ち出したのだったし、「自由」と「デモクラシー」と「信仰」とを矛盾なき状態で実践する前提を拵えたのだった。


メンテ
大和魂 116(キリスト教) ( No.120 )
日時: 2011/01/03 12:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

後先になりましたがキリスト教からみた中世史を概略しておきます。

イエスキリストの死後、キリスト教圏においてキリストを裏切ったユダヤ人を迫害する風潮が長く続いた、ユダヤ人が職業において差別され続けていたことは前述のとおりです。

また、そのキリスト教もローマへ向かって浸透して行くと共にローマ帝国からの激しい迫害を受けるに至っているが、数次にわたる迫害にもかかわらずキリスト教の広まりは衰えることなく、4世紀にはキリスト教を公認する国が現れるようになった。301年にはアルメニア王国が初めてキリスト教を国教と定め、次いで350年にアクスム王国(現在のエチオピア)でも国教化された。
そうして中世と言われる時代が始まるのであるが、ローマ帝国の国教となったキリスト教の変節が始まることになる。


http://charm.at.webry.info/200803/article_9.html

古代ヨーロッパ世界の政治秩序は、皇帝(アウグストゥス)を頂点とするローマ帝国によって形成されていましたが、大波のようなゲルマン民族の侵攻とローマ市民としてのアイデンティティの崩壊、農業経済の基盤崩壊によってローマ帝国は瓦解します。ユリウス・カエサルの登場以来、蛮族の侵入を阻止してきた安全保障の防衛ラインを踏み破られた永遠の都ローマは、無抵抗のままに西ゴート族やヴァンダル族に蹂躙され略奪の要求に屈して滅亡しました。西暦476年、ゲルマン族の傭兵隊長オドアケルによって幼帝ロムルス・アウグストゥルスが廃絶されたことで、西ローマ帝国は正式な終幕を迎えますが、キリスト教を精神的支柱とする中世の時代はキリスト教を国教化したテオドシウス大帝の時代から始まっていたとも解釈できます。

ローマは『王政→共和政(元老院・民会)→帝政(専制的な君主政)』へと政体を変化させ、最終的にはローマ軍の最高指揮権を掌握するローマ皇帝に全権力が集中しましたが、ローマ帝国が滅亡した中世ヨーロッパでは『ローマ教皇(法皇・司教)の権威』と『国王(皇帝)の権力』が並立する二重権力構造が生まれてきます。ローマ帝国では、他宗教・異端思想に対して寛容な『多神教のギリシア・ローマ宗教』が信仰されていましたが、キリスト教をローマ市民統合の基軸にしようとしたコンスタンティヌス大帝(272-337)のミラノ勅令(313)から、段階的に他宗教と共存が難しいキリスト教の影響力が強まっていきます。

テオドシウス大帝(347-395)の時代には、他宗教の信仰を禁圧するキリスト教の国教化(380)が成し遂げられると同時に、ローマ世界から『信仰の自由・思想信条の自由』が急速に失われていくことになります。テオドシウス帝の時代には、ミラノ司教のアンブロシウスという人物が宗教的権威として存在感を強め、ローマ世界の最高権力者であるローマ皇帝と対等な立場に立って、悪政に対するサンクション(社会的制裁)を与える異例の状況が生まれました。宗教であるキリスト教が、俗世の最高権力者と対峙できるほどの強大な権威をまとえる時代が間近に迫っていたわけで、いかにローマ皇帝や諸国の国王と雖もキリスト教世界の権威を無視した政治を行うことが難しくなっていたのです。

古代ローマ人は異端(異質性)を受容する『寛容の精神』を持って、戦争の敗者を自分たちの社会システムに同化することでローマの勢力圏を飛躍的に拡大させ、アレクサンドロス大王の帝国に匹敵する領土を持つ世界帝国を建設しました。古代ローマの時代には、『心の中では何を信じても、何を考えても自由なのだ』という信仰・思想の自由の基盤が自明の原則として存在していましたが、中世ヨーロッパでは『ローマ・カトリックの正統な教義に反する信仰・考えを持つことは重い罪悪である』とする考え方が一般化していきます。これは当時の哲学にも非常に大きな影響を与え、精神的なものが本当に存在するという『実在論のスキーマ』で物事を考える中世では『思考と行動の境界線』が曖昧になっていったのです。これは近代以降の時代に生きる私たちにはなかなか理解し難い感覚ですが、『教会・政治権力が道徳的に悪いと定めることを、頭の中で考えているだけで実際に処罰される可能性がある』ということを示す非常に危険な状況が生まれたことを意味します。

キリスト教に限らず宗教政治や神聖国家の問題点というのは、『個人の内面の自由』に対して基本的に非寛容であり、『道徳と法律の境界線の曖昧化』が起こることで自由な発言や表現が萎縮してしまうということです。宗教教義がそのまま罰則のある法律となるような原理主義的な神聖政治では、民衆が相互に道徳的な監視をし合うような閉鎖的コミュ二ティが形成されやすくなり、『正しいことをしなければ処罰される・悪いことを考えれば制裁を受ける』という強迫観念が一般化します。無意識の概念を提起したジークムント・フロイトの精神分析では、『性的願望(エロスの欲望)の抑圧』が神経症の原因の一つとして想定されましたが、日本人をはじめとする近代社会に生きる人々が『性的願望の抑圧』に対してあまり実感が湧かないのは、『宗教的な罰則のある道徳規範』というものを日常で意識する機会がそもそもないからです。

しかし、『淫らな事柄を想像さえしてはいけない・生殖と無関係な性的快楽は罪悪である』という性的欲求の抑圧というのは、中世ヨーロッパ社会において普遍的な信仰であると同時に法でした。信仰心が高まりすぎた村落共同体は、性を罪悪視する余りに男女差別(女性憎悪)の観念を集団的に高ぶらせて、異端審問の名を借りた魔女狩りや共同体による私的制裁などへと暴走することもありました。共同体の多数者と同調しない独自の行動を取ったり、キリスト教とは異なる信仰・思想を持っているような話をしたり、異性を誘惑していると見なされるような服装や態度をすることは、同質性・信仰心の強い中世の村落においては危険なことでした。

メンテ
大和魂 117(キリスト教) ( No.121 )
日時: 2011/01/03 12:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

王権が衰退して政治権力が地方で分権化した中世には、そういった私刑を抑止するような集権的な法権力が多くの場合機能していませんでしたし、地方領主自身が率先して神聖裁判や魔女狩りを行うこともありました。その為、絶対王政(専制君主国家)が発展する以前の中世封建社会では、地方領主の権力は絶大であり、国王と雖も各地方の領主(諸侯となる有力貴族)に対して『強制力のある命令』を発動することは非常に難しい状況にありました。ローマ的な実利優先の法治主義は、キリスト教の聖書・教義や敬虔な信仰に基づく慣習法よりも劣るものと見なされ、『内面(思想)の自由』は被造物(人間)が神(創造主)の御意志を否定する許されない自由だと解釈されていました。

個人の内面の自由と性的な想像力が徹底的に抑圧された中世期にも独自の哲学(スコラ哲学)が発展しましたが、中世の哲学は『神学の婢女(はしため)』であり、キリスト教の正統性と権威性を証明するという方向性を持った制限の多い哲学でした。スコラ学自体は、文献学や理性的な討論を重視した学問の方法論や態度を意味しますが、スコラ学的方法論から生まれたのは神学を論理的・実在論的に補強する目的論的な哲学でした。

批判精神や懐疑主義、自由意志を自由に発揮できないという意味では、哲学であって哲学ではない営為であり、『最終的な答え』の決まった命題を証明するために文献学的・論理学的な証拠をかき集めるという性格を濃厚に持っていました。しかし、キリスト教とスコラ学(スコラ哲学・スコラ神学)は中世ヨーロッパの分断を押し留めた精神的秩序の礎石であり、アリストテレス哲学によってキリスト教の実在論(実念論)を論証したトマス・アクィナスによって、スコラ哲学は『神の実在性』を論理的・文献学的に証明することに成功しました。

トマス・アクィナスの『神学大全』によるスコラ哲学の完成という意味は、キリスト教の正統教義に対する反論・疑問・異説に対して、そのすべてを『想定内の問題』として処理することができるような『質疑応答のマニュアル(文献学的な事例集・権威主義的な判例集)』が体系的に確立されたということです。しかし、このスコラ哲学を基盤とした壮大かつ煩雑な回答の事例集は、『精神的な普遍性(概念・観念)』が『物理的な事物(実際のモノとしての個物)』に先行して独立的に存在するという実在論によって支えられていましたから、ウィリアム・オッカムが実在論を論駁する唯名論(名目論)を提起したことでスコラ哲学の論理性の足場が揺らぎます。

オッカムの唯名論によって導かれる『普遍的な概念(内面の思考)』を『単なる記号(ことば)』と見なす認識が広まり、人間中心主義の人文主義などの影響もあってスコラ哲学・神学の権威性は少しずつ衰微していきます。これは結果として、信仰(宗教)と哲学(学問)の分離を促し、『主観的な思考(内面)』と『客観的な行動』の境界線が思想的に明瞭化していくことになりました。精神的な想像物(概念としての普遍性)が実在するという『実在論』は、理性的な思考によって導かれたイデア的な真・善・美の規範から、被造物である人間は逸脱してはいけないという行為規範を導きました。これは、『普遍的な知性に対する意志の従属』という結論を導き、宗教的に善(正しい)とされる知識に反して、行動することも考えることも決して許されないという世界観を作り上げました。
メンテ
大和魂 118(キリスト教) ( No.122 )
日時: 2011/01/03 12:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

中世ヨーロッパでは、人間が自分の行動を自由に選択できるという自由意志の存在を認めず、人間は、イデア(神の実在)のような普遍的な観念の実現に向けて行動するだけの『受動的知性』として定義されていました。しかし、オッカムがオッカムの剃刀(実在しない観念や余剰を切り捨てるシンプルシンキング)を駆使して、人間を従属させていた『普遍的な観念』は、具体的な事物を言葉で表現するために用いる『記号(名目)』に過ぎないと論じたことで、中世の実在論(普遍主義)による自由意志の呪縛がほどけてきました。人間は『普遍的とされる知識(イデア)』に無条件に従うだけの受動的知性ではなくて、自分の人生を自分の善悪観に従って選択できる『自由意志』を持つ主体的存在(能動的知性)であるという認識が、内面の自由を拡大して過剰な性の抑圧を開放し始めました。

そして、古典主義的な文芸とエロスに根ざした人間観(フィギュア)を取り戻そうとするイタリア・ルネッサンス(文芸復興)の隆盛によって、キリスト教的な禁欲や魂(精神)の実在を前提とするヨーロッパ世界の普遍主義は、世俗世界における強制的・精神的な支配力を大幅に失うことになるのです。中世哲学は、キリスト教の教義を学問的に確立しようとする教父哲学やグノーシス主義、アレクサンドリア学派から始まり、スコラ哲学の形成期・最盛期・衰退期を経て、『神』ではなく『自己(自我)』を理性的思考の始点に置く人文主義・啓蒙思想が誕生し、市民社会形成の思想的基盤となる近代哲学の流れへと接続していきま


十字軍と東方教会

西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は東ローマ帝国の影響下に置かれたが、神聖ローマ帝国(フランク王国)が成立したことで、教皇は東ローマ帝国から政治的に独立するようになる。しかし、世俗権力の介入の問題は解決せず、聖職者の叙任権をめぐって神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世が争ったカノッサの屈辱で有名な叙任権闘争問題で神聖ローマ帝国の皇帝や君主との対立が生じた。この対立は第1ラテラン公会議におけるヴォルムス協約の承認により、世俗介入を否定する教皇側の勝利で解決する。またこの公会議によって十字軍が承認される。
こうしてドイツ・フランスの諸侯を中心とした第1回十字軍はエルサレムの占領に成功(エルサレム攻囲戦)。パレスチナとシリア地方を侵略して、エルサレム王国など十字軍国家とよばれる一群のキリスト教国家を建設した。このとき、正教会のエルサレム総主教は追放され、カトリック教会のエルサレム総大司教が立てられた。

十字軍将兵の従軍理由はしばしば領地や褒賞目当てだけであったかのように語られることが多い。たしかにそれも原動力の一つであっただろうが、当時の人々にとって聖地への憧れなど宗教的情熱も強かったことを忘れてはならない。ただ、一部の十字軍将兵による略奪や暴力、虐殺行為が行われたこともまた事実である。このような暴力の対象はイスラム教徒だけでなく、中東のギリシャ正教徒・シリア正教徒、ヨーロッパ在住のユダヤ人たちも含まれた。例えば十字軍の出発時、ドイツのヴォルムスで約800人が、マインツで約1000人が殺害された。エルサレム攻囲戦でもユダヤ人やアラブ人の非戦闘員を虐殺しており、エルサレム市民の犠牲者数は約7万人と伝えられる。

十字軍国家はイスラム教徒の巻き返しに会い、14世紀初めまでに全てが滅ぼされ、ヨーロッパ人は西アジアを追われた。最終的に十字軍の「聖地をキリスト教徒の手に」という目標は達成されなかった。一方、その過程で、聖地巡礼者を防衛する騎士修道会、イスラム教徒に伝道を行う托鉢修道会、捕虜交換と傷病者治療の修道会が誕生して、西欧キリスト教世界の文化的変革の触媒となった。そのひとつであるドミニコ会は、アラビア語文献の輸入と翻訳を通してアリストテレス哲学を再発見し、スコラ学を開花させた。


魔女狩りの発生と終焉

しばしば異端審問の一部として語られることが多い魔女狩りであるが、実際にはその時期・地域ともに異端審問と重なる部分がほとんどないことがわかっている。というのも異端審問が盛んに行われたのは12世紀から13世紀の南フランスおよび北イタリアであったが、魔女狩りは16世紀から17世紀にかけてドイツ、フランス、イングランド、スコットランドなどで起こっているからである。魔女狩りは本来、農民や一般市民の間で私刑のかたちで行われていたが、15世紀の終わりになって魔法を用いるものは悪魔と契約していると考えが広まったことで聖俗両権力者たちも迫害に乗り出すようになった。

魔女狩りが行われた理由や急速に衰退した理由については多くの説が提示されているが、確実とされるものはまだない。19世紀には金銭目的、あるいはひそかに生き残っていた古代宗教への弾圧といった説も出されたが、現在では受け入れられていない。魔女狩りはカトリック・プロテスタントを問わず行われたが、ヨーロッパ全域で長期にわたって起こったわけではなく、実際には特定の地域で、特定の時期に集中して発生したことがわかっている。また異端審問所が魔女狩りを推し進めたという言い方も不正確で、15世紀の終わりに設立されて16世紀に盛んに活動したスペイン異端審問では魔女は審議の対象にならず、同じく16世紀にローマに教皇庁直属の異端審問所が設けられたにもかかわらず、イタリアではほとんど魔女狩りは起こらなかった。

魔女狩りは中世というよりはむしろ近世初期に突如として沸騰した社会現象であった。かつて魔女狩りでは数百万人が虐殺されたといわれた時期もあったが、現代の歴史家たちの研究によって全期間を通じての犠牲者数は多くて四万人と見積もられている。
メンテ
大和魂 119(キリスト教) ( No.123 )
日時: 2011/01/03 12:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

ローマ帝国の弱体化に伴うようにキリスト教の有り様を問う運動が起きた。
宗教改革(しゅうきょうかいかく)とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、プロテスタントの分離へと発展した。

ルターによるルーテル教会、チューリッヒのフルドリッヒ・ツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立した。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。
人文主義者による聖書研究が進んだために起こった「原始キリスト教精神に帰るルネサンス的運動」として捉える立場もある。すなわち、同じルネサンス的運動が、イタリアにおいては、ギリシア・ローマの古典文化への復帰として表れ、ドイツにおいては、聖書への復帰と言う形で現れたとする考え方である。

16世紀は近代国家の萌芽の時代で、それまで各地域からの教会税はバチカンの収益となっていた。近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを可とせず、自国内に止めておくことをむしろ歓迎し、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押しした。
また、宗教改革の理念が拡大・浸透するうえでは、グーテンベルクによる印刷技術が大きな役割を果たした。

宗教改革はルターとカルヴァンによるものが著名であるが、その後の経緯は、アングロサクソンに言い及んだ最初の記述に続くものとしたい。
要するに、これらの動きは民主主義、資本主義の思想に結びつき近代の夜明けとなったのです。

さて、ここでまた、アングロサクソン的生き様の概念を検証することに戻ります。
以前にキリスト教的生き様は、神との契約説であると言ってきました。


メンテ
大和魂 120 ( No.124 )
日時: 2011/01/03 13:19
名前: 天橋立の愚痴人間

今まで述べてきましたように、キリスト教的な生き様とは、一方で神に誓いを立て、一方で我が身の自立を担保すると言う生き様です。
それ故に神の啓示を受けていない領域では、まったく自由であり、場合によっては神のためと言う名目で自己の利益を追求することを当然のことと了解します。

それが十字軍の遠征であり、植民地争奪戦争につながっています。
現代資本主義の資本の論理は、まさに神に隠れた領域で利己心を発揮することを善としています。
そこには神との何の契約も無いのです。
ユダヤ民族の論理が、そのまま入ってきていることも何の不思議も無いでしょう。

不思議なことに紀元前5000年を遡っても、アングロサクソンを構成している民族に、中国やインド、イスラムを見てきたとき出会った神話、伝説、民話の世界の印象が全く少ないのです。
そういう悠久のものがなく、常に契約、合理性の精神に満ちているように思います。
それは彼らが土地に根ざした文化を持つことが無かったからではないでしょうか。

別の言い方をすれば、何事も人間的過ぎる生き様をしてきたと言うことでしょう。
人間的過ぎると言う意味の反対に、多神教社会で見られる自然との共生の意識が希薄であると言うこともできます。

このことについて、現在のローロッパの農業は耕作地を転々とする農業であり、為政者となるものが統治するためには彼らとの人間関係を重要視する必要があった。
それは主従関係という契約であったと言うことを書いておられる方がいます。

このような土壌もあり、西欧では個人主義が発達してきたと言われています。
それが、キリスト教に影響したのか、一神教であるキリスト教にあっていたのか、結果として現在の西欧個人主義というものが展開してきたと思います。

また個人主義を中心とする故に社会契約がしっかりとしてないと共生が出来なかったのでしょう。
しかしながら、契約すなわち法律と言うものの宿命的な欠陥は、法に触れなければ規制を感じないと言う逆の問題が出てきます。

長い時間をかけてアングロサクソンの社会を書いてきましたのは、契約は尊重するが契約外(法に触れない領域)でユダヤ的な利己主義が繁栄する余地を残していると言うことです。
それがキリスト教を表にかかげたたアングロサクソン流(ピューリタリズム)の正体であると思います。
また、その法さえも都合の良いように作られていることも指摘しなければなりません。

これと悠久の大地に根ざした多神教世界の共生の有り様とはずいぶんと異なることは、今までの記述から少しは垣間見られたことと思います。

アングロサクソンの部分は、古代の検証と言うよりも現実問題に焦点をあてましたが、これで世界各地の民族の心を探索する旅を終わります。
これからは、日本の古代の「和」の心と言うものを再び取り上げて見たいと思います。
メンテ
「和」についておさらい 1 ( No.125 )
日時: 2011/08/05 09:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8olL9OgQ

冒頭でも紹介した細川一彦氏の文章で「和」についておさらいします。

http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm#

■「和」の精神は、宇宙法則の現われだ


 日本人の精神は、しばしば「和」の精神といわれます。「和」というと、妥協やなれあいをイメージする人もいるでしょう。しかし、真の「和」の精神には、生命と宇宙の法則が現われているのです。

 聖徳太子は、十七条憲法の第1条で「和を以て貴しとなす」という趣旨を説きました。太子のいう「和」とは、単に仲間うちで仲良くやっていく事ではありません。太子の憲法の第1条は「上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときは、則ち事理自ら通ふ。何事か成らざらむ」という言葉で結ばれます。すなわち、「和」の心をもって、お互いに話し合えば、そこに自ずから物事の「理」が通うのだ、できないことなどあろうか、というのです。「人の和」は「宇宙の理法」に通じるという信念を、太子は持っていたと思われます。



 「和」ということを、スポーツで考えてみると、グループで行うスポーツでは、チームワークが重要です。つまり、チームの調和です。チームがまとまっていると、メンバー個人個人の能力以上の力が出せます。メンバー各自が優秀でも、チームがばらばらでは、力は出せません。チームの呼吸が合っていると、1+1=2ではなく、3にも5にもなります。呼吸が合っていないと、2どころか、0.5にもなりません。つまり、「和」が大切なのです。チームが「和」をもって団結していると、想像できないほどの潜在能力が発揮されます。奇跡的なほど、絶妙なプレーが出てきます。信じられないほどのグッド・タイミングで、すべてがうまくいきます。言わば、集団による至高体験(peak experience)、高シナジー効果です。ここに、調和という状態が持つ不思議なパワーがあります。(1)



 職場においても、「和」が大事です。一つの目的に向かって、職場のみんなが心を合わせて考えると、一人では思いもつかないような発想が、次々に湧き出てくるものです。何かの計画を実行するとき、互いを信じて取り組んでいると、初めは不可能かと思えたような課題でも、信じられないほどうまく解決できてしまうのです。調和は、集団を一体化し、単なる要素の総和を越えた、創造力を生み出すのです。



 こうした「和」が見られる見事な実例が、あなたです。自分の身体について考えてみてください。あなたの身体は、約60兆個もの細胞で成り立っています。60兆とは銀河系の星の数にも匹敵するといわれます。

 それらの細胞は、父母の結合による、たった一つの受精卵が分裂・分化したものです。その細胞は、脳・目・胃・腸・手・足など、それぞれの目的・役割に応じて成長します。そして、様々な器官・組織・細胞の働きによって、呼吸や血液循環や消化などの活動が、休むことなく営まれています。なんという、見事な調和でしょう! まるで60兆人ものメンバーによるオーケストラが、壮大なシンフォニーを奏でているようです。その指揮者のはずのあなたは、そんなことを何も意識せず、パソコンを打っています。呼吸もしています。心臓ももちろん、動いています。

 この驚くべき不思議が、あなたなのです。あなたという存在は、60兆個もの細胞の調和によって存在しているわけです。そのことに気づくなら、調和の原理とは、あなたを超えて、あなたをあらしめ、あなたを生かしている根本原理だと理解できるでしょう。



 日本人は、こうした生命や社会を貫く「調和」の大切さを、深く感じてきた民族だといえましょう。そして、自然の様々な現象に調和を見出し、自然と調和して生きるように心がけてきたのが、日本人の生き方だといえましょう。日本人が「和」を重んじるのは、生命や宇宙の法則に基づいて生きる、知恵の働きです。そして、「和」の精神には、生命と宇宙の法則が現われているのです。

 生命と宇宙に根ざす「和」の精神、真の日本精神を取り戻しましょう。(2)
(ページの頭へ)


(1)至高体験とは、心理学者A・マズローの用語です。詳しくは、以下をご参照下さい。
「人間には自己実現・自己超越の欲求がある」
(2)真の日本精神については、「基調」をご参照下さい。
オピニオンの「日本精神」のページもご参考に願います。









■日本の自然の中で「和」の精神は発達した


 「和」の精神は、日本列島に移住した人々を融合させ、日本民族を形成した原動力でした。この世界にもユニークな精神は、日本の自然の中で発達したものと言えるでしょう。



 日本の気候は、温暖・湿潤なモンスーン型です。日本列島は四季の変化に富み、雨量が多く、照葉樹林を中心とする森林に覆われています。海・山の食糧が豊かで、猛獣が少なく、大変生活しやすい自然環境です。こうした風土が長年のうちに人々に影響し、「和」を好む性格が形成されたと考えられます。

 この性格は、人間だけではなく、日本の動物にも見られる特徴です。例えば、日本蜜蜂の群れの中に西欧蜜蜂の一群を放すと、日本蜜蜂は平気で西欧蜜蜂と一緒に同じ蜜を集めて、共存共栄します。しかし、西欧蜜蜂の一群の中に日本蜜蜂の一群を入れると、西欧蜜蜂は襲いかかって日本蜜蜂を全滅させてしまいます。日本の風土は温暖・湿潤で花が多く、蜜を集める対象が豊かです。したがって、蜜蜂は新来者とも共存共栄ができます。ヨーロッパの場合は花が少ないので、共存していたら、蜜が足りなくなって冬が越せなくなってしまいます。同時に、熊蜂など天敵がひじょうに多いので、用心が要り、攻撃的です。日本では天敵が少なく、受容的です。こうした風土の違いが、日本の蜜蜂の性格を温和にしているのでしょう。



 日本文化に深い理解を示したアンドレ・マルローは、「日本以外の美術は必ず何らかの形で闘争が表れているが、日本美術だけは闘争を表していない」と指摘しています。マルローの研究家・竹本忠雄氏は、この違いを「大陸的〜コンチネンタル」と「非大陸的〜ノンコンチネンタル」の違いと表現しています。竹本氏は「日本だけがノンコンチネンタルなのです。コンチネンタルなものの考え方の特徴は、ものを対立的にとらえることです。それは西洋に限らず日本以外の国はほとんどそうである。一方、日本人は対立よりは和合をという国民性なのです」と言っています。(1)



 「非大陸的〜ノンコンチネンタル」とは、海洋的ということです。日本民族の性格への自然の影響では、海洋の存在が見逃せません。日本は、四方を海に囲まれた島国であり、太平洋、日本海、東シナ海などに全体を包まれています。このことが、日本列島のユーラシア大陸とは異なる自然環境となっています。陸地が固定的であるのに対し、海は、常に躍動して変化に富んでいます。船に乗るとわかるように、海では波が休むことなく上下動し、潮流が刻々と変化して流動しています。また、海は生命発生の場所であり、海には生命のエネルギーがみなぎっているのです。特に日本列島付近では、暖流と寒流がぶつかりあい、豊かな漁場が生み出されています。ユーラシア大陸から日本列島に移住してきた諸民族は、こうした海洋の影響を受け、大陸型の性格から、海洋型の明るく、陽気で、平和的な性格に変化していったと考えられます。



 このように、日本の自然は人間の性格に影響を与え、独自の民族性を育んできました。日本精神の特徴は、「和」の精神と言われるように、共存共栄・大調和の精神です。この精神は、今日の地球で求められているものです。地球は、人類にとってかけがえのない星であり、地球という限られた環境で様々な人種・民族・国民が、一緒に暮らしていくためには、戦争や対立ではなく、共存共栄していかなければなりません。私たち日本人は、世界にもユニークな精神的特徴を発揮し、世界の平和と発展に貢献したいものです。(ページの頭へ)



参考資料

(1)『日本の息吹』平成11年2月号(日本会議)







■ 「和」の精神を神話に見る


 「和」と言えば、誰でも知っているのは、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」。この理念は、日本人のものの考え方をよく表しています。しかし、「和」の精神は聖徳太子の独創ではなく、古くから日本の国に受け継がれてきたものです。



 「和」とは、もともと「わ」という音の日本語です。その「わ」にシナの漢字の「和」があてられたわけです。

 作家の井沢元彦さんによると、本来「わ」には「環」や「輪」の意味しかなく、環濠集落(堀をめぐらした集落)を表す言葉でした。それが、集団や仲間の意味を表す言葉となり、シナ人に、自国の意味で「わ」と言ったところ、「倭」(背が小さい、体が曲がっているなどを意味)という文字を当てられました。

 その後、「わ」は、集団的な協調の精神やアイデンティティをも意味するようにもなり、日本側の要望により、国名の文字を「倭」から「和」に代えてもらったのだろう、と井沢さんは考えています。(1)



 さて、かつて日本列島に住みついた人々は、「わ」すなわち環濠集落を作って、小集団が分立していました。その小さな集団が段々と国家を形成し、より大きな国家に統合されていきました。

 その過程では、戦争もあったでしょうが、統合の多くは、話し合いで決まっただろうと考えられます。というのは、日本の神話には、諸外国に比べて、戦争の話が非常に少ないからです。それは、日本列島の温和な風土の影響によるところが大きいでしょう。

 そして、人々には、対立・抗争よりも調和・融合をよしとする「和」の精神が育まれ、一つの民族として融合・形成されてきたと考えられます。そのことを、私たちは、日本の神話の中に見出すことができます。



 西洋のユダヤ=キリスト教では、男性的な神が万物を創り、神は土の塊から人間の男を創ります。そして、神はアダムを慰めるために、男の肋骨から女を創ったとされます。

 これに対し、日本神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生します。これらのニ神は、人間と同じ男女の営みをし、人間はその子孫として誕生したとされます。

 このように、日本では、男女・陰陽の「和」によって、国土や人間が誕生したと考えてきたのです。



 さてイザナギ、イザナミのニ神から生まれた子供が、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのをのみこと)です。

 須佐之男命は高天原を暴れまくりますが、弟の暴虐に対して、天照大神は争ったり、罰を下すのではなく、天岩戸に身を隠すという振る舞いをします。それによって、地上は闇の世界となります。

 この時、八百万の神々は、天の安の河原(あめのやすのかわら)に集まって、話し合いを行います。思金神(おもいかねのかみ)の妙策によって、天照大神を岩戸から引き出すことに成功し、世界は再び光を取り戻します。

 須佐之男命はその振る舞いのために、高天原から追放されます。しかし、天照大神と須佐之男命は後で和解し、大罪を許された須佐之男命は、出雲の地に下り「やまたのおろち」を退治する大活躍をするのです。(2)



 日本神話には、争いを避け、話し合いを重んじ、共存共栄を目指す「和」の精神が、さまざまな形で描かれています。そうした日本固有の精神を、「和をもって貴しとなす」と表現したのが、聖徳太子だといえましょう。

 そして「和」は、その後の日本人と日本の精神を考える際のキーワードとなっているのです。



 私たちは、こうした「和」の精神を発揮し、今日の世界の諸問題を、調和のある解決に導けるように努めたいものです。(ページの頭へ)



関連掲示

・神話と関係の深い神道については、拙稿「日本精神の宗教的表現としての神道」をご参照下さい。

参考資料

(1)井沢元彦著『逆説の日本史@ 古代黎明篇』(角川文庫)

(2)『古事記』『日本書紀』

メンテ
「和」についておさらい 2 ( No.126 )
日時: 2011/08/05 09:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8olL9OgQ

■神話と歴史を貫く「和」の精神


 日本は「大和の国」と言われ、日本人は「和」を重んじる国民です。そのことを、私たちは、日本の神話や歴史の中に見出すことができます。

 日本神話には、天照大神の子孫がこの国を治めるようになる前に、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国を治めていたことが書かれています。大国主命とは、天照大神の弟で出雲に住みついた須佐之男命の子孫であり、「いなばのしろうさぎ」の物語の主人公でもありす。大国主命が治める国は、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、豊かで住みよい国でした。天照大神は、この国は自分の子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治めるべきだと考え、大国主命に国を譲るよう求めます。大国主命はこれに従い、「国譲り」が行われます。この日本の国の起源を伝える話に、日本人の「和」の精神を見ることができるのです。



 天照大神は、話し合いによる「国譲り」を試み、建御雷神(たけみかずちのかみ)を使者として送ります。これに対し、大国主命は「私の一存では決められません。子供の事代主命(ことしろぬしのみこと)に聞いてください」と言います。親である大国主命は独断で物事を決めずに、子供の意見を尊重しているわけです。長男である事代主命は、国譲りを承諾します。しかし、弟の建御名方命(たけみなかたのみこと)は反対し、建御雷神に力比べを挑みます。結局、建御名方命は諏訪湖まで逃げたところで敗れ、国譲りに同意します。子供たちが同意したと聞いた大国主命は「私には何の異存もありません。この国を高天原の神にお譲りしましょう」と言い、「国譲り」は行われました。



 このように、「国譲り」は、話し合いを主として行われ、部分的に抵抗はありましたが、双方の合意という形で実現したと描かれています。しかも、単なる併合ではなく、譲り受けた側が譲った側に対し、最高の礼を尽くしています。国を譲ったとはいえ、おそらく大国主命には恨みが残ったことでしょう。それに対し、天照大神は、天日隅宮(あめのひすみのみや)という大宮殿をつくり、自分の第二子の天穂日命(あめのほひのみこと)を大国主命の霊に仕えさせます。この宮殿が、出雲大社の起源です。そして天穂日命の子孫は、出雲大社の宮司の職を今日まで継承しています。(1)



 神話の話など、空想か、都合よく美化された作り話だろうと考える方もいるでしょう。しかし、興味深いことに、「国譲り」の物語と明治維新とは、よく似ている点があります。幕末の日本で、朝廷と幕府は徹底的な争いを避け、交渉を重ねた末に、徳川慶喜は、天皇に大政を奉還します。慶喜はこのことを独断ではなく、家臣や諸大名の意見を聞いたうえで決定します。また、西郷隆盛と勝海舟が話し合い、江戸城は無血で開城されます。その後、部分的には会津藩や榎本武揚などが抵抗しましたが、全体的に見ると話し合いを主として、日本国の権力の移譲は行われます。

徳川慶喜は、大国主命のように祀られこそしませんでしたが、明治天皇から貴族に叙され、徳川家は名誉ある形で存続しています。初代将軍・徳川家康を祀った日光東照宮は、壊されることもなく、今日も多くの参拝者を集めています。こうした歴史上の出来事と、神話の物語が似ているということは、そこに一つの民族性が現れていると見ることができるでしょう。



 日本ではこのように遠い神話の時代から、「和」が重んじられてきました。私たちはこうした世界に希な「和」の精神を発揮し、世界の平和に貢献したいものです。(ページの頭へ)



参考資料

(1)古事記、日本書紀







■聖徳太子の「和」の精神


 「日本の心」の形成に大きな影響を及ぼした人物の一人が、聖徳太子です。 とりわけ太子が制定した十七条憲法は、日本人の考え方に大きな影響を与えてきました。

 十七条憲法は、憲法といっても今日のような国家の基本法ではありません。むしろ官僚の職務心得であり、同時に人間の踏み行う道徳基準を示すものともなっています。そのキーワードが「和」です。



 十七条憲法の第1条は、「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まります。「和」を説く条文が、最初に置かれていることは、聖徳太子が、いかに「和」を重視していたかを示すものです。第1条には、次のようなことが記されています。

 「和は貴いものである。むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。人々が上も下も調和して、睦まじく議論して合意したならば、おのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」。

 太子は、「和」という言葉で、単なる妥協や融和を説いているのではありません。「人々が調和すれば、どんなことでも成し遂げられる」という積極的な理念を説いているのです。



 また、続く条文において、太子は「和」を実現するための心構えを説いています。すなわち、第10条では人への恨みや怒りを戒め、第14条では人への嫉妬を禁じ、第15条では「私」を超えて「公」に尽くすように説いています。

 そして、最後の第17条には、「独り断ずべからず。必ず衆とともに論ずべし」と記されています。つまり、「重大なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである」という意味です。これは第1条に通じるものです。



 このように聖徳太子は、十七条憲法で「和」を理念として打ち出しています。これは、古代においては驚くべきことでした。世界的に、強権による専制政治が当然の時代だったからです。そうした時代に、聖徳太子は、私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を説きました。これを「民主的」と言うならば、日本では、約1400年も前から「民主的な政治」が理想であったわけです。

 太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」です。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。



 古来、日本人は、人と人、人と自然の調和を心がけてきました。国名を「わ」と呼んで「和」の字をあて、「やまと」には「大和」という漢字を使用したのは、「和」を重視してきた印でしょう。聖徳太子は、その「和」を憲法に明文化し、理念として確立しました。このことによって、日本人は「和」の精神を一層発展させてきたのです。

 近代日本の出発点となった「五箇条の御誓文」にも、聖徳太子の「和」の精神が生きています。第1条の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」がそれであり、第2条の「上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸(けいりん)を行ふべし」も同様です。聖徳太子の説いた「和」の理念は、千年の時を超えて、近代日本の建設にも生かされたと言えましょう。



 日本精神は、「和」の精神です。共存共栄の大調和の精神です。私たちは、こうした自己本来の精神を大切にしましょう。(ページの頭へ)



参考資料

・聖徳太子について詳しくは、以下の拙稿をご参照下さい。

「聖徳太子に学ぶ政治・外交・文化のあり方」







■人を許し、人を生かす「日本の心」
2006.10.06一部修正



 日本人は今日、一部の人から残虐非道な国民と思われていますが、そこには大きな誤解があります。むしろ日本人は、人を許し、人を生かして、共に調和して生きようとする心を大切にしてきました。日本史においては、政敵や逆賊であっても、外国のように殺されることが少なく、許されている例が多いのです。また、新政権において生かされている例すらあります。そうした例を通じて、日本の国民性を考えてみましょう。



 日本の歴史には、権力を極めた者であっても天皇の地位を奪って自ら天皇となろうとはしなかったという不思議な伝統があります。蘇我馬子、藤原不比等、平清盛、源頼朝、北条泰時、足利尊氏、織田信長、徳川家康など、みなそうです。わずかな例外の一つとされるのが、弓削の道鏡です。道鏡は、女帝孝謙天皇の寵愛をもとに、自ら帝位につこうと企んだとみなされ、失脚しました。外国であれば殺されて当然のところです。しかし、道鏡への処罰は、左遷されて、関東の辺地・下野(しもつけ)の寺の別当(寺務統轄官)にするという、ゆるやかなものでした。



 こうした「許し」の例は、明治維新の時にも見られます。最後の将軍・徳川慶喜は、朝廷との内戦を避け、政権を天皇に返す道を選びます。世にいう大政奉還です。朝敵であるにもかかわらず、明治新政府に許された慶喜は、その後21人の子供をつくり、長寿をエンジョイしました。これは、フランス革命において、ルイ16世がギロチンで殺されたことに比べると、実に寛大な処置です。

 勝海舟も、維新後の時代を生きた一人です。海舟は、慶喜の下で大政奉還を推進し、幕府に自ら幕を引かせました。しかし主君・慶喜に対し、そのことを非常に申し訳なく思っていました。そして徳川家が名誉を回復できるよう、尽力しました。その効あって、明治31年、ついに慶喜は、明治天皇の拝謁を許され、温かいもてなしを受けました。慶喜は公爵に叙され、養子・家達(いえさと)は貴族院議長、孫・喜久子は高松宮妃となり、徳川家は今日も繁栄しています。このことも、王族・貴族が子供まで惨殺されたフランスやロシアの革命とは、大きな違いです。



 勝海舟と意見を異にした榎本武揚は、官軍に最後まで抵抗する道を選びました。本州から北海道に渡った榎本は、蝦夷共和国を作って日本から独立。函館の五稜郭に立てこもって抗戦しました。しかし結局、敗れ、榎本は降伏しました。彼と戦った官軍参謀・黒田清隆は、榎本を「日本の将来に欠くべからざる人物」として、助命に奔走しました。その効あって釈放された榎本は、抜群の能力を生かして、新政府で外務・農商務などの大臣を歴任し、新国家建設に活躍しました。

 維新最高の英雄・西郷隆盛は、一時は新政府の中心となりましたが、その後、政府官僚の腐敗を憤り、郷里の鹿児島に帰って、西南戦争を起こしました。それは明治政府最大の危機となりました。敗れた西郷は、「明治の逆賊」と言われました。しかし西郷は死後、明治天皇の思し召しにより、正三位を追贈され、その功績を称えられました。上野には銅像が建てられ、西郷さんは今日も国民の尊敬を集めています。



 日本の歴史にはこのように「人を許し、人を生かす」例が多数見られます。それは日本人が、本来、深い思いやりと優しさを持った国民であることを示すものと言えましょう。

 こうした国民性は、文化や歴史の中に、様々な形で表われてきたものです。

例えば、節分の際に「鬼は外」と豆をまきますが、これは鬼やらいという行事です。たとえば、京都の吉田神社の場合、鬼やらいの行事は、鬼をやっつけるのではなく、鬼を説得して本来の住み家に帰ってもらうためのお祭りだといいます。そこには、シナの道教の「追儺(ついな)」という悪魔を追い払う儀式とも、西洋の悪魔祓いや魔女狩りとも根本的に異なる考え方が見られます。

わが国では、古代より保元の乱に至るまで約三百年の間、死刑が行なわれませんでした。元寇襲来の後、執権北条時宗は、筑前に高麗寺、鎌倉に菩提寺を建て千体の仏像を造って、敵味方の別なく戦死者の冥福を祈りました。島原の乱の後には、薩摩藩主・島津義久は敵味方双方の戦没者を弔うため、高い卒塔婆を建てて盛大な法会を開きました。日露戦争の後には、日本軍兵士の表忠塔よりも2年も前に、ロシア兵の慰霊塔建立がなされています。

わが国では、極悪非道の人間までも、死ねばすべて救われるという寛容と慈悲の思想も生まれました。死者はみな善人も悪人も仏と称して許されるのです。これは仏教というより、日本独自のもので、インド・シナ等の仏教には見られない考え方です。



人間の社会には争いはまだまだ無くなりそうもありません。自尊自衛のためには、戦わねばならない時もあります。しかし、世界平和を実現するためには、裁きと殺し合いではなく、寛容と共存が必要です。私たちは、「人を許し、人を生かす」日本の国民性に目を向け、良い伝統を世界のために生かしましょう。(ページの頭へ)

(紹介終わり)
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.127 )
日時: 2011/08/05 10:31
名前: 天橋立の愚痴人間

聖徳太子が言われた「和を持って尊しとなす」と言う言葉は政治的な発言としても、その聖徳太子が受けられていた政治的権力争いでも、中国で見られるような政敵勢力皆殺しと言ったような凄惨なものではありませんでした。

また日ユ同祖論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96
などもあるように、極東の島国日本も始めから孤立したしたものではなく、広く海外との交流もあったようです。

「昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。」

「陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。」

この様な言い伝えから、我が国は多くの移民族により構成されているという見方があります。

極東の小さな島国であったゆえ、その後の外民族の侵略も殆ど経験せずに豊かな地で国家を営むことが日本と言う国だと思います。

その上に、一神教、多神教と言う宗教上の問題もありますが、我々自身が長年の間に慣れ親しんだ様相(和の心)は、中国、インド、イスラム、アングロサクソン圏の人々の様相と見比べて初めて実感できるものと思います。

また現在は、民族間の侵略、殺戮の時代は終わりましたが、長年培われた民族性の違いは残っています。
今後はアジアの時代と言う考え方もあるようですが、それは何を意味しているのでしょうか。
膨れ上がった人口的なものとも言えますし、多神教地域であるアジアの民族性を指しているとも考えられます。

その代表たる、日本の「和」の心を探求することが必要と思います。
次には「和」の心を世界のそれと比較してもう少し検証してみましょう。


メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.128 )
日時: 2011/08/05 17:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8olL9OgQ

先に紹介した細川氏の文章で「和」の心が賞賛されていますが、私は「和」の心を手放しで賞賛する気持ちはありません。

我が国の歴史も、天災あり、飢饉あり、血で血を洗う争いもありました。骨肉を洗う権力争いも絶えません。
士農工商、非人という社会制度も存在しました。

「和」の心がそれだけで万能薬のように思わずに「和」を検証することにしましょう。

「和」の心を、思いやり、優しい、同調の精神とするならばアングロサクソンの世界でも民衆の間に息づいています。

赤十字の運動も、生まれは違いますがマザーテレサの慈善事業も、ボウイスカウトの活動なども皆、西欧を発端に始まりました。

何よりも民主主義の考え方は西洋に興り世界を席巻しています。
私生活の面でもイタリア人の陽気さは我々も見習うべきところもあるでしょうし、スペイン人の親しみも日本のそれと引けを取るものでもないでしょう。

イギリス、フランス、ドイツの人たちに、日本のような「和」の気持ちがないと、言えるのでしょうか。

「和」と言う概念は、各国語ではどのように翻訳されるかは知りませんが、おそらく各国とも、そのような概念はあるでしょう。

で、ありますので「和」と言う文字を単なる思いやり、優しいと言う意味で捉えていては日本の「和」は理解できないのです。

他の国の民話や宗教を紹介してきましたが、その中にも「和」と言うものを感じさせる事例があったと思います。

アングロサクソン圏の項目で、聖書の内容を随分と長く書き連ねていましたが、それはキリスト教圏の人々が、日常生活の中で如何にキリストと結びついてきたかを感じていただくためです。

「和」の心と言うものは、何処の世界でも、それがなくては安穏な生活は送れません。
一方、キリスト教の影響を受けていると思われる彼の地の民は、時としてキリストを離れるか、またキリスト教を守るために大暴走も繰り返してきました。

十字軍の遠征、植民地活動、ナチの虐殺などがあります。
ジェノサイトという行為は人間社会に少なからず発生してきました。
日本でも、織田信長や中国で関東軍がやっているので西欧のそれが唯一とは言いません。

しかしながら日本とことなるのは、民衆そのものが受け入れていると思われることです。
このスレッドの題名「大和魂」は「和」の心の把握が目的ではありません。

アングロサクソン圏にも「和」お心は十分にあるものとして、その成り立ちを考えるとき彼の地のそれと日本のそれの違いに着目する必要があります。
1神教であるキリスト教の影響と、それを生み出し育んできた西欧の地政学上の民族間の闘争を考える必要があります。

彼らにとって「和」の心は自然発生的に体得したものではなく、それによって個人の生活はともかく集団として国家として、それだけでは安穏を得られない環境で生きてきたのだと思います。

それ故に「和」の心は時として跡形もなく踏みにじられるのです。
その上で、彼らの集団、国家が安定すれば慈善事業も始まるということです。
彼らの根本は、それで贖罪としているのでしょう。
いかにもキリスト教的な発想ではありませんか。

メンテ
「和」についておさらい 3 ( No.129 )
日時: 2011/08/08 21:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xlgVngco

とりあえずイスラムの社会へ戻りましょう。
最初の頃のイスラムへの旅で説明したように、イスラムと言ってもそれはチグリスユーフラテス両川の流域で豊かな土壌に恵まれ発達した農耕民族の話から始まります。

シュメール人が現れて、くさび形文字、暦などを発明してシュメール文化が興隆しました。
旧約聖書のエデンの園の物語もシュメールの影響が強いと思われています。
ノアの箱舟の伝説も、この時代の風潮を現しているようです。

何処の地域でも、農耕の豊作を願う呪術などが発達し、近代の宗教的な意味ではないが神を意識した時代の精神がありました。
それが、エデンの園の物語やノアの箱舟など雄大な背景を持った物語を構成していったことに意味は何であったでしょう。

それは国家のような大集団が構成されていたからと思います。
同じ頃、インダス文明の地でも「ラーマヤーナ」と言う抒情詩が生まれています。
これもヒンズー教が興る前の様子を示していて、シュメールの場合も含めて人々が自らの存在の意味を体系的に模索し始めたことがわかります。

同じ大河流域の農耕文明の地、エジプトと中国にはそれが見られません。
翻って、メソポタミアとインドにそれがあり、後にイスラム教、ヒンズー教、仏教が起きたことを注視したいと思います。
ユダヤ、キリスト教について言えば、元はメソポタミアのシュメールに同根があるとすれば、それなりに理解は出来ますが、その発展過程はイスラムとは異なっています。

さて、本題に戻り、イスラム世界の「和」の心ですが、ハムラビ法典やイスラム教の世界を見てみましょう。
「目には目を、歯には歯を」で知られるイスラムの考え方は、酷薄なものを感じさせます。
イスラム教の女性差別や、過激な原理主義も同様の激しい気質を感じさせます。
イスラム教やユダヤ教が興った背景に、その地域の部族間、国家間の闘争が激しくなってきたことを考えねばなりません。
モーゼの十戒ではありませんが、ユダヤの民も迫害に苦しんでいました。
そういう気持ちが救世主=神を求めるようになったのでしょう。
そうして、その神、宗教はアジアの多神教のような抽象的な存在では彼らの要求を満たせなく、もっと実利的な救世主、身近な救世主を求めたと思います。

それが一神教と言う形で現れ、キリスト教もイスラム教も、共通して神と信者の個人的対話を重要視した宗教となって行きます。
イスラム教の信者が日に5回の礼拝を欠かさないのも、ラマダンの風習も、それを物語っていますし、キリスト教の聖書を見ても、こと細かくイエスと信者の交流に触れています。

さて、問題の「和」のこころのことですが、この宗教の信者にとって、信者同士の「和」の問題の前に、神と子の関係があり、この方が優先するのです。
先に言ったイスラムの女性差別の戒律も、イスラム教の考えでは差別ではなく、実際にそれを承知でイスラムの世界を垣間見れば女性がしっかりと保護されていることがわかります。
キリスト教の聖書の世界でも、隣人を思う優しい気持ちが謳われています。
信仰生活に置いてあるかぎり、それぞれの宗教の世界では、言葉の通りの和の世界は満ち満ちています。
日常生活に置いて、それは我々も考える「和」の心と差があるものではありません。
以前、紹介した各地の旅の世界の様相を思い出していただきたい。
それぞれの地に民族に、それぞれの神話、伝説、民話があり、それぞれの歴史を物語っていたはずです。
そうして、後世になり人間社会のありようが変化したとき、その環境に応じた宗教が起こり、国家が興り「和」と言う心の変遷が始まったのです。

続いて述べようと思います、多神教世界での「和」の変遷を言う前に、イスラム、アングロサクソン圏の「和」のありようを以前の旅の文章で、今一度思い出して頂きたく思います。
そうして、それに同感を感じられると共に、それらが宗教的理由で、思いもよらない変革も遂げることもあわせて認識していただきたく思います。

そうです、十字軍の遠征、宗教戦争、イスラムとユダヤの対立、イスラム原理主義世界の主張など、我々が思う「和」の心とは似ても似つかない変貌を遂げることも合わせもっているのです。

メンテ
「和」についておさらい 4 ( No.130 )
日時: 2011/08/10 14:37
名前: 天橋立の愚痴人間

アジアへ行く前に、アングロサクソン圏の「和」の心を以前に書いた聖書の世界で、もう少し具体的に検証してみましょう。

(マタイによる福音書山上の垂訓から抜粋)
5:1
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
・・・

・・・
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
(聖書引用終わり)


キリスト教でも「懺悔」と言う言葉があるが正式には告解戸と言い、その行為を秘蹟と称している。
カトリック教会での秘跡は「赦しの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。

その赦しの秘跡に必要な部分は
1.内的後悔(痛悔と遷善の決心)
2.天主(神)の代理者の前に告白すること
3.罪の償を果たすこと
4.天主の全権に因る赦免
以上四点であり、これら全体を赦しの秘跡と呼ぶ。

仏教で言う懺悔が、己を悔い改めることを表現するにとどまることに対して、キリスト教の懺悔は神との契約に対する違背を神に許していただくための具体的な儀式と位置つけられている。

この懺悔に対する微妙な軽重が仏教とキリスト教の違いとなって、懺悔をした人のその後の言動に影響しているのではないかと思う。
また、この様なことも書いてきました。

今まで述べてきましたように、キリスト教的な生き様とは、一方で神に誓いを立て、一方で我が身の自立を担保すると言う生き様です。
それ故に神の啓示を受けていない領域では、まったく自由であり、場合によっては神のためと言う名目で自己の利益を追求することを当然のことと了解します。
その論理の中に彼らの「和」の内在している傾向があります。
要するにキリスト教圏ではキリストを介在して「和」が説かれているのです。

アングロサクソンの世界では、贖罪という観点から、富者による寄付、施しが賞賛され、ボランティア活動など社会奉仕の精神が重宝されていることにもつながっています。

それが本当の「和」の心であるか否かは、今後の検証に譲りたいと思います。
また、このことが次に書きます、イスラム世界の「和」の発想と、すこし異なっていることに留意していただきたいと思います。
メンテ
「和」についておさらい 5 ( No.131 )
日時: 2011/08/10 14:50
名前: 天橋立の愚痴人間

イスラム世界の「和」について

【サウジイスラーム社会における個人の諸権利 1】

家庭はいくつもの個人から成り、社会はいくつもの家庭から成る。これまでの文章で示してきたように、私はサウジ社会において個人と家庭が学ぶところの道徳や特質の多くを説明してきた。疑念の余地のないことだが、健全なる教育を受けてきた個人と家庭から成立する社会は、互助性が強い、正しく良い社会になる。というのもそこにおいて各個人は義務と権利をわきまえ、自らの義務を果たすことに満足し、生命と財産と尊厳において安心していられるからである。それゆえ社会全体も平和と安定の下にあることが出来るのだ。

それでは各個人が全ての面において一丸になって助け合うことが出来るようになるため、社会に堅固さと安定を供給する原因と手段とは何であろうか? アッラーがそのしもべたちにお与えになった恩恵の中でも最も偉大なものの1つである、イスラーム兄弟愛がそのうちの1つであろう。この兄弟愛は愛情、平安、相互扶助、結束といったものをもたらす、ムスリム共同体の基本なのである。そして相違や争いといったことは、それが起こったら即その基本に立ち返らなければならないところの例外なのである。


4.困窮者と弱者の援助

 アッラーはその創造物をその強さや弱さにおいて多様にお創りになり、そしてある者をその糧において他の者より優遇された。そして通常弱者は強者を、貧者は富者を必要とし、病人は健康な者を、ある事に無知な者はそのことについての知識を持つ者を必要とする。

 またアッラーは善行と敬神の念において援助しあうことを命じ、罪悪と敵対心のもとに援助し合うことを禁じられた。そして今日同志が必要としているものは、明日は自分自身が必要となるかもしれない。必要を満足させることはイスラームの兄弟愛の求めるところのものである。そしてイスラームにおける社会教育は善行を勧め、悪行を禁じることなのである。全世界が求めている平和とは、実にこのことなのだ。そしてそれは孤児の援助や貧者の救済、無所有者に衣食を与えることなどを命じているイスラーム教育の他にはない。もとより困窮している者を援助するのは社会がそうでならなければならないところのもので、それは特定の個人や場所、時間に限定されてはいない。それどころか特定の宗教だけに向けられてもいない。逆に人間は宗教や国籍、時間や場所などに制限されることなく、困窮者を援助しなければならない。

 親愛なる読者の皆さんに向けてもう一度強調するが、イスラームという教えはムスリム以外の人々に対して邪険に振舞うことなど命じてはいない。その反対に、彼らへの奉仕はムスリムに対する奉仕と同様のものである。もし彼らが私の言うことと矛盾することをしているのを見たら、あなたはムスリムが真のイスラームから遠くかけ離れた所にいることを確認するだろう。


ここで御分かりのように、イスラム教圏では、同じ一神教であるアラーの神の下で信者同士助け合い、仲良く生きることを奨励しています。
多神教圏と異なる点は飽くまでもアラーの神の下でという条件付ですが。

このレス全体は、以前にイスラムえの旅で書いたものですが、そこでのある旅行者が書かれたエジプトレポートをかりて民情を紹介します。


3カイロの子供達

驚くほど大勢の男達が、昼間からすることもなくぶらぶらしている。ルクソールで会ったタイヤという男もそうであったが、一日の大半ブラブラするのが仕事のような男も多い。その代りスークや駅で、小学生位の子どもが学校にも行かず、物を運んだり売ったり、よく働いていた。結構一人前に大人とやりあっていたりして生活力を感じさせる。

エジプトの子供達のたくましさを知りたかったら、王家の谷へ行くのにタクシーでなく、貸し自転車で行くと良い。道の両側から貧しい格好をした子供達が走り出してきて、これ買ってとか、バクシーシ(お金、頂戴)とか、次々に声をかけてくる。自転車の後を追いかけてくる子もいる。毎日観光客が通る度にあれをやっているのである。日本なら社会問題になりそうなものだが、彼らにとって教育よりも生活が大事なのだろうし、皆無邪気で明るい。そういえば、走ってゆく自転車の前でパッとスカートの前をめくって、ケケケと笑う妙なのもいた。

僕はどちらかといえば子どもは好きな方ではないと思うのだが、エジプトの子はカイロの街角で唇を歪めてバクシーシと手を出すガキも含めて皆可愛かった。カイロの喧騒を逃れてムハマンドアリモスクの回廊の柱の下に座って本を読んでいたら、遠足で来たらしい小学生の一団が僕を見つけ、あっという間に彼らにとり囲まれてしまった。“ハロー”“ハロー”口々に叫んで手を差し出す。一つ握ってやると私も私もという感じで、目の前にいくつも手が並ぶ。殆ど全員と握手するまで輪がとけなかった。こういう無邪気さがそのまま大きくなって、あの親切仲良しエジプト人になるのだなと思った。

4。タハリール広場に

ニューカイロのミダン・エル・タハリールは常時数十台のバスやミニバス、それにタクシーが発着する巨大な広場である。多量の人と車の混乱振りはカイロの象徴のようなところである。ここで慣れぬ旅行者は、いかに目当てのバスに乗るか苦労することになる。バスはあちこちで次から次へと発車しているのだが、どこで待ったらいいものやら、またそれが解ってもバスの行き先や系統番号がアラビア語で書かれているので途方に暮れる。70と書いてあるのは70ではなく、65だというのだからかなわない。大体、来るバス来るバス人でギッシリで、はみ出て手すりにぶら下がっている奴もいる。止まらぬうちにワッと飛び降り、乗ろうとする連中ともみ合い、走り出しても尚何人も飛びおり、また元と同じギッシリの状態になって、どうにか出発していく。異邦人は喧騒と混乱の中、ア然として立ちつくしている。

そこで登場するのが親切エジプト人である。いかにエジプト人が親切かということは、ここで自分のバスを尋ねれば良く解る。たとえ英語が解らなくても、ついて来いという仕草をし、車の洪水を横切るのに手を貸してくれ、あちらの乗り場で尋ね、こちらで尋ね、それでも解らないでいると、たいてい“俺も手伝おう”という男がもうひとりふたり現れ、それぞれ自分の予定が遅れるのもおかまいなしに、驚くべきことに僕がちゃんと目当てのバスに乗り込む迄見届けてくれる。

ホッサム君という男もそうであった。立派な体格でヒゲも薄く生やしているが、多分高校生ぐらいと思う。このホッサム君僕が乗るカイロ旧空港行きのバスを15分ほど一緒に待っていてくれた。学校へ行く途中とみえて英語の教科書を持っていた。僕はこの日ルクソールへ行くところであったが、ホッサム君は自分の家の住所と行き方をエジプト語、英語の両方で書いて、カイロに戻ってきたら是非遊びに来てくれと言う。バス乗り場を聞いただけでこういう展開になるところがおもしろい。“きっとだよ”というホッサム君の無邪気な笑顔が印象に残る。

5。ギザにて

ギザのピラミッドは、エジプトの中でも有数の観光地である。タハリールから乗った乗り合いタクシーは、ピラミッドの少し手前で地元の乗客が皆降りて僕ひとりになると、さっそく、ピラミッドまで行くならあと1ポンドとここまで十数キロ来たその4倍の料金をふっかけてくる。すぐにこれである。“バカ言え”と言って降りて歩いて行く。ピラミッドから1キロ離れているが、もう物売りやらくだ引き、ガイドが声をかけてくる。この手の連中は結構しつこいのでうんざりさせられるが、タンジールの自称ガイドに較べるとここの人達はそうひどくない。

ノー、と言って通りすぎてもしばらくはついてくるが、こちらも立ち止まって、もう一度はっきりノーといって歩き出すと、大体あきらめるようである。それでも僕の後ろで、半ば泣き声のような声で、“何で俺に値段を聞かないんだ”“たった1ポンドだよ1ポンド”“オーイ、この品物を見てくれよォ”といつまでも叫んでいるのを背中で聞いていると、芝居がかった大げさな言い方に吹き出してしまう。観光客相手にぼろうとする連中も、ここでは善人エジプト人の気質が見えかくれする。

うるさい連中から逃げるようにして歩いていたら道に迷ってしまって、またまた地元の人に助けてもらった。エジプト独特の丸いパンをモグモグ食べながらやって来た20才位の男である。英語をしゃべらず、そのまま歩いていくので、こりゃ駄目かな、と思いながらついていくと十字路に来て、こっちだという風な仕草をしてまた歩いていく。

道が上りになって、ピラミッドが近いことが知れる。らくだ引きが“こっちが近道だ”などといいながら連れて行こうとするが、無視してモグモグ兄さんについていく。中にはモグモグ兄さんをつかまえて何か言うのがいる。エジプト語なので分からないが、“商売の邪魔をするな、案内なら俺がやる”とでも言っているのだろう。困ったようにこちらを見るので、その度にノーと言ってやると、兄さんはまた歩き出す。ゆるいカーブをまがると目の前にピラミッドが二つ巨大な姿を現した。兄さんは、あれがピラミッドだというようなことを言い、くるりと振り返って今来た道をスタスタ下りて行った。礼を言う暇もなかった。

6 再びカイロにて

ルクソールから夜行列車でカイロに向かった。ルクソールを深夜出て丸半日、正午を回って列車は運河に沿って走っている。夜が明けてからまるで変らぬ風景が続いている。狭く、空気の汚れた車内にいるのがしんどくなって、デッキへ行った。幅が日本の列車の一倍半程あるドアは開け放たれていて、乾いた暖かい風が吹き付けてくる。降りる駅が近づいたのか4,5人の黒人がどやどやとデッキに出てきた。きいてみると、スーダンから来たという。

カイロの南数十キロの小さな町の大学に留学するのだそうで、列車がスピードをゆるめる度に、ちがうちがうこの町じゃない、などと言い合っている。その中の一人が僕にむかって“エジプトはいい所だろう”“ウンウン皆親切でいい人たちだ”そう答えながら、明日この国を去る僕はエジプトで会ったいろいろな男たちの顔を思い出していた。親切であることは間違いないが、日本語や英語でいう親切とは少し違うような気がした。

親切エジプト人は俺は俺、お前はお前で、お互いの人格を認めつつ、博愛主義的親切を発揮するヨーロッパ人とは違う。その点では何やらエジプト全体でひとつの家族のようにお互い仲の良いエジプト人は、相手が自分と同質の人間であることを期待する日本人に近いのかもしれない。しかし絶対的親切というか、あの確信に満ちた顔付きは、行動や考え方が人からどうみられているかということに容易に左右される日本人では持ち得ないものである。歴史なのか土地なのか民族なのか分からないが、あれはもうそういう風に人間が出来ているとしか言いようがない。

スーダンの学生が僕が持ってたマイルドセブンライトを珍しそうに見るので一本ずつ分けてあげた。と、それまで黙って我々の傍に立っていた太ったエジプト人のオッサンが、何やらエジプト語を言いながら僕の煙草を箱ごと取り上げ、自分のポケットにしまいこみ、代わりにクレオパトラというこの国の人気煙草を僕に渡してよこし、ニッと笑った。遠くサッカラの階段状ピラミッドが見えてきた。列車は混乱と喧騒の町カイロに近づきつつあった。 

(おわり)

冒頭でのムスリムの紹介文と共に、エジプトの人たちの「和」の心が屈託のない自然なものであることが御分かりと思います。

その一方で彼らの善意は、キリスト教圏のそれとは異なり安定した理念的なものではないことにも気つく必要があります。

また、表面的に現れている屈託のなさが、全て善意と勘違いすることもないと思います。
それは古代から豊かなナイルに育まれたノンビリとした風情と強固な王権支配に対抗してきたしたたかさも合わせもっているのです。

ここでは。どのような「和」の心が好ましいと言っているのではありません。
その特徴を検証しているのです。

次にはインドと中国へ行って見ましょう。
メンテ
「和」についておさらい 6 ( No.132 )
日時: 2011/08/13 16:03
名前: 天橋立の愚痴人間

最初にインドの民話を紹介(再掲)します。

「人の運命」

 ある国に貧乏な爺さんと、婆さんと、その息子がいた。三人はたいへん信心深くて、毎日神に祈りを捧げながら日を送っていた。けれどいっこうにその御利益もなくて、二晩に一晩は飯をぬいて寝る、というふうだった。それでも三人は神の祭礼だけは欠かした事がなかった。
 ある日、天で幸福の女神のラクシュミーが夫のナーラーヤナ神に言った。
「ねえ、あなた。あの三人は毎日わたしたちをこれほど熱心に拝んでいるのに、あんなに不幸だなんて」

「そんな事を言っても、彼らの運命は現世ではこういう事になっているのじゃ」
ナーラーヤナがこう答えるとラクシュミーは、
「いいえ、あなた。それは嘘ですよ。わたしは幸福の神ラクシュミーですよ。あなたは偉大なナーラーヤナ神じゃありませんか。ああしていつもわたしたちの事を拝んでいるのですから、ひとつ行って望みを叶えてやろうじゃありませんか」と言った。

 そこで二人の神は連れ立って下界へ下りていった。そして三人の住む家の庭に立ち、家の者を呼ぶと中から爺さんが出て来た。
「われわれは天から来たナーラーヤナとラクシュミーじゃ」
ナーラーヤナ神がこう言うと、爺さんはびっくりして、
「こんな貧乏人の家になんでまた来られましたか」と言って、いそいそと家の中から破れたカンタ(刺し子布)を出して来た。二神はそこに坐って言った。
「お前達はたいへん信仰があつい。そこで今日はお前達の望みを叶えに来たのじゃ。何なりと望みを申すがよい」

「それは本当ですか」
「本当じゃ。明日から毎朝ひとりずつ池に行って身を清め、そのあとで自分の望みを言うがよい。財宝でも何でもやろう。もし大国の王になりたいというなら王にもしてやるぞ」
こう言って、二人の神は天に帰っていった。

 これを聞いた爺さんと婆さんと息子は喜んだ。そしてそれぞれ自分の願いごとを考え、誰がはじめに望みを叶えてもらうかその順番を決めた。
まず婆さんが初めに望みを叶えてもらう事になった。婆さんは翌朝早く池へ行き、体や手足を洗って身を清めると、どんな望みを言おうかと考えた。
「わしはこんなに黒くて醜い。村の連中もわしを見てはバカにしおる。爺さんは財宝が欲しいと言っていたから、うん、そうじゃ。それならわしは...」と言って神にこう願った。
「神様、わしを美人にして下さいな。インドで一番美しい女に、いやそれより世界で一番美しい女にして下さいな」

 するとたちまち婆さんはこの世にまたとないほどの美女になった。
 そして池から上がり、さて家へ帰ろうかと思っているところへ、ある国の商人が通りかかった。そして美女になった婆さんを見た。
「わたしのような金持ちの家にもこんなに美しい女はいないのに、こんな辺ぴな田舎の池のほとりにこんな美女がいるとは...」

 商人はこうつぶやくと、美女になった婆さんを馬に乗せてさらっていってしまった。
 これを見た爺さんはたいへん悲しんだ。
「わしの婆さんがいなかったら、この所帯も意味がない。いくら財宝を得て王になったところで婆さんがいなくては何になろう。それならいっそのこと...」

爺さんは翌朝池に行き、身を清めてから神にこう祈った。
「神様、さらわれてしまったわしの婆さんをどうか豚にして下さい」
 商人は美女になった婆さんをさらっていって家の一室にかくまい、翌日結婚式をあげる事にしていた。ところが一日たってみると驚いた事に美女が豚になっている。
「これはどうした事だ!わたしは豚などさらってきた覚えはなかったが...」

 商人は豚をひっぱたいて追い出した。
 豚は家に帰って来たが、豚になってしまっては仕方がない。爺さんも豚をたたいてはあっちへ追ったりこっちへ追ったりしていた。これを見て息子は、
「ああ、母さんが豚になってしまっては、いくらおれが財を得たところで何になろう」と思って、

翌朝池に行くと神様にこう願った。
「神様、どうかおれの母さんを元通りの姿にして下さい」
 すると婆さんは黒くて醜い元の姿に戻った。これで三人の願いは聞き届けられた。
 天でナーラーヤナ神は言った。
「どうだね、ラクシュミー。わしが言った通り、彼らに運はなかったのじゃ」-おわり-



我々にも、そのまま当てはまるような話しです。
しかし、日本ではこの種の民話はありません。
倫理、道徳の間に埋没しているのでしょう。

次の話しです、これは現代に近い話です。


夜、泥棒が、街一番のお金持ちの家に忍び込み、荷物を持って逃げ出そうとした時、足の指の爪を剥がして家の中に落としてしまいました。泥棒は大急ぎで戻って爪を拾おうとしたが、爪はなかなか見つからず、仕方なく電気をつけたら見つかってしまいました。

この泥棒が、どうして爪などにこだわったかといえば、インドでは、古くから「爪を落としたところは滅びる」といわれていました。泥棒にしてみれば、大事な仕事場(お金持ちの家)がなくなっては困るので、爪を必死になって探していたという笑い話です。

インドの社会背景には、『小さなものでも大きなものへのつながりがある。』という考え方があります。カルマ(因縁)と言いますが、常に、自分の言った些細な言葉や考え方も、大きなものにつながっている、だから思慮の足りない言動を慎む様にという戒めが、この物語にはあります。もちろん先のとがった爪は危ないので切った後の始末の戒めでもあるわけですが。



爪の話が出ましたが、日本では、夜のタブーがあります。例えば、夜に爪を切ってはいけない。

夜に、塩を買ってはいけない。夜に、新しいものを使い始めてはいけな
い。それと反対に、祝事は、朝の方が良いとされています。インドには、朝・夜の時間によるタブーがありますか。

インドでも時間に関するいろいろな観念があります。日没の時間は、1日の中で、とても大切な瞬間です。サンスクリットの考えから来ていますが、日没と日の出の時間は精神的にも大変敏感になる時間で、この時間には、お線香をたき空気を清めてお祈りをします。日が暮れて家に灯をともす時、私も今日1日の無事を感謝しながら敬虔な気持ちでお祈りをします。

この時間をサンジャ(サンスクリット)と言い、女性の名前にもよく使われています。日の出は、ウシャ(サンスクリット)といい、これもよく女性の名前として、使われています。ウシャには、ヒンディーの聖人にとっても大事な時間で、早朝4時頃からお祈りをします。太陽に水を奉げて祈る時間です。




日本では、「茶柱が立つ」(お茶の中に茶の芯が浮く事)と縁起が良いとか、「雨降って地かたまる」という、縁起の良い前触れについても良く言われます。良い事のまえぶれについてインドにも言い伝えがありますか。

 商店などでは、朝1番のお客さんを大切にします。何も買わずに帰られてしまうと、1日商売がうまくいかないという考えから、たとえどんなにお客に値切られても買ってもらいたがります。以前は、私の母が朝早くクレープ(布地)を買いに行き、その店では買わなかったけど、母が再び戻ってきたら店主が店の前で母を待っていたそうです。

母が店を出てから1時間あまりの間に大変な客入りで、大繁盛。母は、ただで、クレープを貰ったそうです。母が、商売繁盛をもたらしたと思ったそうです。一番最初のお客は大事にされます。

また、仕事場に入る時、そこの床に手をついてその手を自分の額に持っていき拝んだりします。今日1日仕事が上手くいきますようにという気持ちですね。舞台に上がる時もそうですね。

 インドでは、朝一番に目に、入ったもので、その日の運を占ったりします。それは、いつも嫌われていたり疎まれているもので、生肉、お酒、痛いもの(刺とか、出掛けにどこかをぶつけて、痛い思いをする)、ヒジュラ(インドのオカマの人たち)などです。こういうものに、朝一番に出会うと、今日は、これ以上嫌なことはない、転じて、良い事があるとなるわけです。

(民話の紹介終わり)

如何でしょうか、キリストやアラーと対話する中で生きている世界に比べれば、何と悠長な世界でしょう。

もちろんインドにも宗教はあります。
よく知られている、リグ・ヴェーダなどの世界を始原とするバラモン教、ヒンズー教、仏教です。
その内容は、ここでは省略しますが、所謂多神教の宗教です。

この様な地域での「和」とはどのような性格のものでしょう。
メンテ
「和」についておさらい 7 ( No.133 )
日時: 2011/08/14 21:30
名前: 天橋立の愚痴人間

http://homepage2.nifty.com/michimichi/irpt.htm
上記のサイトに拠って現代インド人の様子を見ましょう。

インド政府観光局はインドへの外国人観光客誘致のために、"Incredible India"というキャッチフレーズでキャンペーンを行っている。このキャッチフレーズをインド観光局は「素晴らしきインド」と日本語に訳していたが、インドに一度でも行った人ならば、きっと「信じられないインド!」という訳の方がふさわしいと感じられると思う。それくらいインドは外国人には信じ難い驚きに溢れた国である。私は2004年10月より1年間大学より在外研究の機会を得てインドに滞在したが、その1年も驚きに満ちた日々であった。

(牛の大国)
インドにやってきて最初に驚くのは町で見かける多くの牛であろう。シヴァ神の乗り物である牛はヒンドゥー教徒の間で神聖視され、彼らがいたるところで寝そべったり歩き回るのを許容している。片側2車線、3車線の主要道路を悠々と集団で歩き、車の通行を遮断することもしばしばである。またあちこちに牛糞を落とすので、地面に気をつけながら歩かなくてはならない。さらに牛も時には怒って大きく突き出た角で人間を刺し殺したり傷つけたりすることもある。デリーでもこのような牛の行動を問題視する人も多く、本当に実行するかどうかは別として、牛にICチップを埋め込んで、持ち主が特定できない牛や持ち主が管理しない牛は郊外に移動すべきであるという提案が政府のどこかの委員会でなされたようである。

(信じがたい道路マナー)
牛の次にインドで驚かされるのは道路上のマナーの悪さであろう。自分の乗り物が入る隙間を見つけようものなら容赦なく入りこむ。そのため道路に車線が引いてあってもほとんど意味をなさず、対向車線も含めて自由に走っている。中央分離帯があり車線がはっきり区分されている道路でさえ平気で逆走する車がたくさんあるので、右を見て車が来なければ道路をわたり始めればよい(一応日本と同じで左側通行である)などという甘いものではない。油断していると逆走する車に衝突されてしまう。しかもバイクや小型車が申し訳なさそうにこそこそ逆走するくらいならまだしも、大型バスが豪快に逆走していく。もっとすごいのは高速道路でラクダが悠々と進行方向と逆向きに歩いてきたことがあった!一度カンプールという町で橋が大渋滞して、乗っていた車が身動き取れない状態になったことがあった。橋は2車線でどちらも我々と同じ進行方向を向いた車で一杯になっていたので、当然一方通行の道だと思いこんでいた。ところが、実際には前の車を追い越そうとする車が大量に対向車線に流入して、ずっと先の方でまったく動きがとれなくなってしまって大渋滞が起きていたのであった。

(動物も含め様々な輸送手段)
インドの道路では日本では見かけない様々なものを見ることができる。オートリクシャーと呼ばれる3輪の小型タクシー、車輪付き座席を自転車で引っ張るサイクル・リクシャーと呼ばれる乗り物(日本ではその昔リンタクと呼ばれていたらしい)、ベンガル地方のコルカタ(旧カルカッタ)では今も人力車が健在である。そのほか首都デリーの道路でさえ、馬や牛が輸送手段として使われ、時に象までも大通りをのっそりのっそりと歩いている。デリーの南方へ2,3時間のラジャスターン地方まで行くと、ラクダが多くなる。これらに通常のトラック、バス、乗用車、バイク、自転車、人力荷車、人人人が道路にあふれかえっている。そして、とどまることなく鳴り続けるクラクションの音と排気ガスで、インドに初めて来たころは道路にいるだけで頭がおかしくなりそうになったものだが、今ではすっかり慣れてしまった。道路で遭遇する珍しい体験といえば、一度だけ中年の男性が20名くらいの集団で道路を行進していた中に数名全裸で堂々と歩いている人たちがいた。彼らはジャイナ教徒だったのではないかと思う。インドにはジャイナ教徒の人々が400万人以上いるらしいが、彼らは大きく2つの派に分かれ、そのうちの1派は服も身にまとわないという教えを守っているのだ。

(横入り王国)
道路上のマナーの無さと共通項を持っていると思われるのは、インド人の横入りである。インド人は列を守らないことでは世界一だと思う。電車のチケットや入場券などを購入するために列を作らなければならない時、インド人は次々と横入りしてくる。それを力づくで押しとどめ、周りのインド人の声に負けずに自分のほしいものを大声で主張し続けなければ手に入れることはできない。近所のインド菓子屋でさえ祭り時になると人々が殺到し、ちょっとしたお菓子を買うためだけに10分以上戦う羽目になる。ある時もやっと次は自分の注文を店員に取らせることができるだろうと思った瞬間に、ターバンを巻いたシーク教徒のおじさんが割り込もうとしたので怒鳴り散らして遂にお菓子を買うことができた。

(規範にとらわれない人々)
インド人は自分の言動について相手や周りの人々がどのように感じるかについて気を遣う程度が極端に少ないと思う。大まかな社会的ルールを除いては、自分の考えや欲求、本能にしたがって「とりあえずやってみよう」というのが彼らのスタイルであるように見受けられる。そのため、手に持っているものが邪魔になったら道端でも車や電車の窓からでもどんどん捨てていく。便意をもよおせばところかまわず立小便をするし、時々大をする人さえ見かける。人前でおならやげっぷをすることはいうまでもないだろう。万事がそんな感じである。ヨガで瞑想をしていて無我の境地に達しようとする瞬間に隣でおならのブッという音が聞こえると台無しである。

(あてにできない約束)
そんなインド人だから約束してもあてにならない。家に食事に招待するといってくれていても、いざ当日になって何時くらいに行ったらいいかと確認の電話をすると、「今日は忙しい」といわれることなどごく普通のことである。また、近所のコピー屋(コピーは自分でとらせてもらえないのだ)に本のコピーを頼んで2時間後くらいに約束しておいてその時間に取りに行ってもやっていないし、道端のアイロン屋(シャツ1枚5円くらいでやってくれる)に午前中にアイロンがけを頼んで、午後出かける間際に取りに行ってもまだアイロンをかけてないなんてことはごく当たり前のことである。私がいた研究所では電話をするとチャーイ(インドのミルクティー)を研究室まで持ってきてくれるのだが(なんと1杯6.5円)、頼んでも来ないことが結構あった。デリーで働く日本人の会計士の方も部下のインド人に実際の締め切りより2,3日前に締め切りを言っておくといっていた。レストランでウェイターに注文しても彼ら(ちなみにインドではウェイトレスはほとんど見かけない)が注文を紙に書かないと不安になる。案の定何分もしてから注文は何だったか聞きに来ることもあるし、注文したものが来ないことも多い。幸い私は注文したものと違う料理を持ってこられた経験はないが、ウェイターが間違った料理を持ってきて、「違うじゃないか」と文句を言ったらウェイターが「これを食え」といったらしく、ウェイターの襟首をつかんで怒り狂ったという日本人の話も聞いたことがある。

(寛容なインド)
こんな話をしていると、インド人はとんでもない人々だと感じるかもしれないが、こうしたインド人の性格やインドの雰囲気が、私も含めて多くの外国人の心をとらえてしまうのだと思う。日本にいるといつも周りの人たちの視線や気持ちを気にしていなければならない。言動に関してもいろいろな規範がわたしたち日本人を縛っている。それに比べ、インド人は大らかで異質のものに寛容である。いろいろな人たちが混じり合って生きているので、寛容にならざるをえないのだと思う。一度、早朝に公園で行われたヨガの大集会でグル(先生)が尊いお話をしている最中に乱入者が現れ、グルのマイクを奪って何かを訴えようとした。グルの弟子たちが舞台に駆けつけ、乱入者をなんとか公園の外に追い出し収まった。ヒンディー語でやり取りが行われたのでなにが起きているのかよくわからなかったのだが、あとで一緒に集会に行った初老のインド人の方に聞いたら、「ああ、なにか話したかったんじゃないの?」と特に驚いた様子もなく淡々としていた。日本で何百人の大集会に乱入者があったら、参加者もかなり驚き動転すると思うのが、こちらでは別に驚くほどのことではないらしい。

(インド結婚事情)
インドの結婚事情は日本人にはきわめて興味深いと思う。大都市を除いて今でもお見合い結婚がほとんど全てである。都市でも依然としてお見合いが主流であることは変わりない。村ではかなり幼児婚も残っていて、これをやめさせようとした政府の役人が反感をいだいた村人に両腕を切断されるという恐ろしい事件が私の滞在中に起きた。通常、親戚、友人を介して親が息子や娘の結婚相手を捜す。その場合もまず家族の一番下っ端の末娘などが相手の家族とコンタクトをとり、次に男兄弟、母親の順で相手本人や家族と会って、よさそうだという話になると、やっと本人同士が会う。それでうまく行きそうだということになって初めて父親に会い、最終的に父親が決定するというものらしい。もっともこの話は一友人のケースなのでどれくらい一般的なパターンか分からないが、少なくとも父親が息子・娘の結婚に大きな決定権を握っていることは間違いなさそうだ。

新聞広告
親戚、友人を介さない場合にはインドには面白い方法がある。それは新聞に花嫁・花婿募集の広告を載せるのである。日曜の主要紙にはmatrimonialという、このような広告だけを載せた10ページ近い折込紙が挟まっている。数行の広告にはまず自分のカーストが書かれ、その他に自分の職業や学歴、趣味、嗜好、相手に求める希望などが書かれている。これらの広告は家族ぐるみで掲載する大真面目な広告である。

ホロスコープ
きっかけはどうであれ、いよいよいい結婚話ではないかとなってから、インドではもう一つ大きなハードルがある。それはホロスコープ(ある本は「天宮図」と訳していた)である。インド人は生まれた生年月日と時刻によってその人のホロスコープが決まる。2人のホロスコープの相性がよくなければ結婚はすることができない。友人の友達は恋愛をして双方の家族とも互いにいい相手だと認めてさあ結婚という段階になって、二人のホロスコープの相性がよくないということがわかり破談となった。本人たちは狂わんばかりだったらしいが、それでもホロスコープが合わなければ2人は結婚できないのである。

持参金
さて、結婚する段になってもインドではいろいろ大変である。インドでは花嫁の家族から花婿の家族にダウリー(持参金)を渡さなければならない。この持参金の額をめぐって、結婚後に嫁が殺されたり、ハラスメントを受けて自殺に追い込まれることもある。持参金はかなりの高額で娘を何人も持つと家族が破産するほどである。そのため、インドでは女の子が生まれるとわかると中絶する人が結構いるらしい。そのためデリーでは生まれてくる男の子1000人に対して、870人の女の子しか生まれてこない。私の住んでいた南デリーではなんと男の子1000人に対して女の子が780人しかいない。都市部では男性の数が女性の数をはるかに上回り、結婚できない男性もかなりの数に上ると思われる。そのため、デリーのような都市では、女性を狙った犯罪も多く危険である。

(信心深い人々)
行動を見る限り一般にインドの人々の信仰心は大変深いようである。大家のグプタ家も家の中にヒンドゥー教の神棚を作り一日に何回かプージャ(お祈り)をしている。屋上の小部屋に住む大家のお手伝いさんたちも毎日近所のヒンドゥー寺院にお祈りに行くことを欠かさない。近所からもプージャに用いる小さな鐘の美しい音が聞こえてくる。各地のヒンドゥー寺院や聖地には、平時にもかかわらずたくさんの巡礼者たちが訪れている。祭り時になると、神様の像を数秒間拝むために数時間も長い列を作って信者が待つような寺院もある。

(お祭り大国)
インドはやたらと祭りが多い。地方によって、祭りもまたその祝い方も違うらしいのだが、デリーでは秋にあるディワリの祭りの迫力が格別だ。日本では危険物取り扱い者の資格が無ければ打ち上げることができないような強力な花火を一般の人が市場で購入することができる。ディワリの夜にはそのような花火をデリー中で打ち上げる。映画のだけでしか見たことがない空襲のような爆音が町中でとどろき、恐怖感さえ感じるくらいである。招待してくれたインド人の家でもかなり強力な花火を次から次へと住宅街の真ん中で打ち上げていた。その1つが誤って、向かいの家の3階のベランダに突っ込みベランダで大爆発した。幸いそのとき人はいなかったが、もしあの時人がベランダにいたら、死傷者が出ていたと思う。とにかく、日本の祭りでは味わえないようなスリルが満点である。

(紹介終わり)

一気に紹介しましたが「インド人も吃驚」と言う言葉の意味が解かったような気がします。
個々の観念の強いインドでは、宗教は自らが宗教であるように極端に実践し、個々の生活に置いては国家、宗教から受けるはずの規範などに素直に従うつもりはない。

そのインドで今なをカースト制度が生きているという。
彼らにとっての唯一の規範、公はカーストなのであろう。
独立のときのガンジーの無抵抗主義は、こうした環境で民族、国家として結束が難しかった故でもあると思われる。

仏教を生んだインドの地で、仏教が大乗仏教の性格を得る事が出来なかったことも理解できる。
ゼロの概念を生み出すインド人にとっては、1神教はありえず、多くの神も単純に受容すべきとはならないのであろう。

生の人間の共生社会を見るようである。
メンテ
「和」についておさらい 8 ( No.134 )
日時: 2011/08/15 20:25
名前: 天橋立の愚痴人間

いいよ中国人の話しをしましょう。
ネットで得た情報です。

「中国人男性の性格で、一般的によく言われることは以下の通りである。」

(自信過剰)

中国人男性の性格は、一言で言うなら「自信過剰」である。できないことでも「できる」と言う。経験がなくても「心配ない」という。
例えば、中学校1年生レベルの英語力しかなくても、中国人男性は「英語ができる」と言い張る。作ったことがなくても見たことがあれば「大丈夫(作れる)」という。メンツがあるから「ムリ」とは言えないし、また、何事も簡単に考えるので、本当にできると思っている。
中国人男性は「自信過剰」ではあるが、大抵の場合、その自信には何の根拠もない。中国人男性の自己PRは常に自信満々であるが、実力はその4〜5割程度しかない。そして、なにごとも「没関係」(大丈夫)で済まそうとするが、大丈夫でないことは多い。ただし、当の本人は本当に「大丈夫」だと思っているので、自信喪失につながることはない。


(メンツが大切)

中国人はメンツを重んじる。どんな時でもメンツは大切にする。職業も女性もメンツで選ぶ。
女性に優しい
中国人男性は女性に優しいと言われる。とにかく女性にはよく尽くす。結婚してからもよく尽くす。亭主関白など絶滅危惧種に等しい。特に上海の男性は徹底的に女性に尽くすことで知られる。しかし、北京人女性達からは「上海男は女のいいなり」とか「女にシッポを振りすぎ」などと言われ、あまり評価は高くない。もっともこれは「北京は首都である」という誇りを持っている北京人が、国際都市として豊かに発展した上海という都市、そこでオシャレな生活を堪能している上海人に対する嫉妬の部分が多いとも言われる。

(マザコン)

中国人男性はマザコンの傾向が強いと言われる。中国人は家族を大切にする気持ち、家族の絆がとても強いので、母親のことをとても大切にする。しかし、これが少々いきすぎた感じがある。そのため、中国人男性は就職や結婚など自分の人生の一大事にまで母親の意見に左右される。恋人や妻より母親のほうが大事という男性も多い。このため、他国の女性からは「中国人男性はマザコン」と評されることが多い。

(友達を大切にする)

中国人男性はメンツや家族だけでなく、友達をとても大切にする。したがって、何か相談したりすると「大丈夫、俺に任せろ」と言うが、その「大丈夫」は、やはり根拠のない自信であることが多く、「まあまあ大丈夫」とか「そこそこ大丈夫」といったレベルの結果になってあらわれる。しかしそれは、けっして"手抜き"の結果ではない。日本人の細かい性格と、中国人の大雑把な性格の差でしかない。それで十分なのだ。友達のために頑張るという姿勢は高く評価したい。素直に感謝しよう。
中国人男性の自信過剰はメンツからくるものが多い。時には困らせてくれる厄介な性格だが、家族や恋人、友達のために発揮してくれる自信過剰はなんとも憎めない。


「中国人女性の性格で、一般的によく言われることは以下の通りである。」

(性格がキツい)

中国人女性の性格はキツいと言われる。もちろん気弱な女性もいるが、一般的にはキツい。ケンカになれば男にも負けないくらい汚い言葉で相手を罵り、男相手に殴りあいのケンカをする女性も多い。街中でもバスの中でも病院でも、ところ構わず凶暴化する女性は珍しくない。
わがまま
中国人女性はわがままである。中国人女性の辞書に「謙虚」や「淑やか」といった言葉はない。そして、金持ちになればなるほど、わがままになる。お嬢様であっても、他国のお嬢様のように淑女としての教育は受けていない人が多いので、レディーではなく、ただの金持ちのわがまま女である人のほうが多い。したがって、金持ちになっても、人を思いやるといった余裕の心は生まれない。つまりは自己中。

(見栄っ張り)

中国人女性は見栄っ張りである。これは女性に限ったことではないが、男性よりも女性のほうに見栄っ張りが多い。一般的は「メンツ」と呼ばれることもあるが、男性に比べ、あまりにも低レベルでバカバカしい、ただの見栄であることが多い。

(品がない)

中国人女性は品がない。食事中にゲップをする女性も珍しくない。国際的レベルで見れば、中国では、まともな礼儀作法の教育がされていないので、女性といえども品がない。金持ちで頭が良くて美人でも、他国の女性に比べれば品格に欠ける。
ただし、香港人や帰国子女、国際交流の多い女性はこの限りではない。

(自立心が強い)

中国人女性はわがままではあるが、親に頼って生きていこうとは思わない。日本人女性のように、親に甘える女性は少ない。また、男に頼らなければ生きていけないという女性も少ない。
中国人女性は気が強いと言われるが、ムダに甘えることがないので、考えようによっては、付き合いが楽な人種である。ほっといても逞しく生きていく。
中国人は関係というものを非常に重視する。
もっとも強い関係は、いうまでもなく血縁である。血のつながりこそが最強の関係である。
そして友人関係。もちろん建前の友人ではなく、本当の意味での友人である。
そして故郷以外の場所では、地縁も重視される。地縁とは、同郷の縁という意味である。
中国人はこのような関係を重視するため、なんの関係もない人間はまったく信用しない。


「中国人は他人に無関心である。」

相手との関係を重視するため、目の前の赤の他人はいないも同じ、まさに石ころ同然である。
そのため、よほど道徳心のある人でもないかぎり、電車やバスで他人に席を譲ることはない。
例え相手が老人であろうと、妊婦であろうと、怪我人であろうと他人は他人、いないも同然、無関係である。
もちろん、親切な人は、なんの関係もない赤の他人でも、弱者には席を譲るが、基本的に赤の他人には無関心であり、なんの興味も示さない。赤の他人はいないも同然なのである。

「中国人は情に厚い」

赤の他人はいないも同じ、石ころ同然と考える中国人であるが、その反面、中国人は人情にとても厚く、人なつっこい性格のため、普段は他人にぶっきらぼうな顔も、きっかけさえあれば笑顔に変わる。きっかけさえあれば親切にしてくれる。
中国人は情に厚いため、一度友達などの関係になってしまえば、とても良くしてくれる。遊びに行けば暖かくもてなしてくれ、困っていればすぐに助けてくれる。とても情に厚いため、自分が苦労してでも友達を助ける。友達を助けることは苦労だと思わないし、それが当たり前だと考える。
もし貴方が困っているときに、中国人の友達が助けてくれないとしたら、それは貴方が朋友と見なされていない証拠である。

「自由奔放な中国人」

しばしば絵画や民芸品のモチーフとして登場する「八仙過海」という古くからの中国の神話がある。
これは「王母娘娘」(古代神話の中の女神。西王母仙女)の誕生日のお祝いに、八人の仙人はそれぞれの神器を使い、思い思いの方法で海を渡り、雲にのって「王母娘娘」のいる遥か遠い天宮へ行くという話。
ここから「八仙過海、各顕其能」(おのおの独自のやり方があること。また、それぞれの腕をふるって競うこと)は中国人が好んで使う言葉になった。
協調性を重視する日本人なら「みんなで行こう」となるが、そうはならないのが中国人。良くいえば独創性を発揮することであり、悪くいえば勝手な行動。
また「我行我素」は、他人がなんと言おうが、自分のやり方でやるという意味で、これも中国人が好んで使う言葉である。
これらは私生活のみならず、仕事や商売でも現れる中国人の特徴の一つで、公のルールも北京は北京流、上海は上海流、地方は地方流、さらに個人となると、その人流が当たり前、中国人は大雑把で自由奔放である。

「中国人にとってメンツは命より大切だと言われる。」

「そんな大袈裟な!」と思うことなかれ。実際に中国人と付き合ってみればわかる。本当に彼等はメンツを重んじる。時には政治や外交まで左右してしまうのだから、中国人にとってメンツがどれほど重要であるかわかろう。
だから中国人のメンツを潰してはいけない。中国人のメンツを潰して、まとまりかけてたビジネスがご破算になった話など腐るほどある。
ビジネスだけでなく、友達として付き合うときも、中国人と結婚して、その親族と親戚付き合いするときも、けっしてメンツを潰してはならない。メンツを潰すことは、相手との関係が終了することを意味する。
よく勘違いされるのは「メンツ=見栄」である。残念ながらメンツは見栄の一言では片付けられない。メンツはプライドでもあるが、もちろんプライドの一言だけでも片付けられない。
中国人のメンツについて書くと、1冊の本が出来上がってしまうほど、中国人のメンツは複雑で、なおかつ大切なものである。
中国人のメンツは、時に見栄、時にプライド、時に序列、時に情、時に礼・・・
何かと悪く言われがちな中国人のメンツだが、決して悪いことばかりではない。良い部分も多く持っている。
だから、中国人と付き合うときは決してメンツを潰すようなことをしてはならない。
それは時に恩を仇で返すことにもなりえないのだから。
メンテ
「和」についておさらい 9 ( No.135 )
日時: 2011/08/15 20:50
名前: 天橋立の愚痴人間

儒教と中華思想と国家観

(儒教)

中国人の価値観を形づくっているのは、孔子がとなえた儒教である。儒教は封建社会の思想体系であり、国教とも呼ばれている。中国人の価値観を語るとき、中国の伝統文化の核心と特徴をつくりあげた儒教を避けては通れない。

儒教思想の中枢をなすキーワードに「礼」と「仁」がある。
礼とは道徳規範のことであり、封建社会においては、階級制、身分制を維持する大きな役割を果たしてきた。 仁とは、愛や同情の気持ちである。
儒教は血縁関係を「仁」のもっとも基本的な要素ととらえてきた。
とくに父母に対する愛は、中国における倫理道徳観の基本である。

中国の長い歴史の中で、幾度となく社会的変化は起きたが、中国人の伝統的な価値観を根底から覆すことは一度もなかった。
中国人は血縁関係をあらゆる人間関係の中心に置き、その家族との絆を何よりも大切にする。さまざまな伝統的な価値観が崩れかかっている今も、血縁関係で結ばれた絆だけは強固に保たれている。

(中華思想)

中華思想(ちゅうかしそう、英語: Sinocentrism)とは、中国大陸を制した朝廷が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるものとし、朝廷に帰順しない異民族の独自文化の価値を認めず、「化外の民」として教化・征伐の対象とみなす、中国大陸に存在する伝統的な思考法。「華夷思想」「華夷秩序」などともいう。

元の時代モンゴル人が中国大陸を征服し、南宋の漢人を南蛮と呼んでいたり、清の皇帝がイギリスなどとの対等外交を拒否したりしていたように、中華思想は漢民族に限定したものではなく、東アジアの朝廷文化から生み出した一種の世界観である。

人間、国、物事の関係を水平ではなく上下関係で見るのが、中華文化の特徴である。その為、名前の前に敬称の「老」または蔑称の「小」を付けることが多く、反日デモにおいて度々用いられる「小日本」という呼称はその一例である[1]。


これは中華思想の衣だけであり、中国を理解することは出来ない。
中国という国は昔からその国内ですら統一して治世を行なえた時代は少ない。
秦、漢、隋、唐、宋、明、清と歴代の王朝はあっても、内情はとても統一国家のそれではなかった。
さらに周辺の国への侵略行為も時折されてきたが、全てその国を植民地化して支配することは出来なかった。

それでも彼らが示す驚くべき尊大さ、身勝手さ、狡猾さを劣等意識の裏返しと評する見方もあるようだ。
事実として、先の大戦後の蒋介石による我が国からの賠償放棄などは、その尊大さ故であろう。
中国にとって、日本はもともと対等の国ではなく、庇護下の小国に過ぎなかったのである。
これも中華思想の現われと認識しなければならない。

また「中華思想」と言っているが、それは冒頭の意味のことで、具体的な理念、精神には触れられてはいない。

アングロサクソン流は、その理念にキリスト教を伴っているが、中華思想には、浸透させるべき宗教も思想もないのである。
故に貢物さえ得られれば、また中国に服従の意思さえ示せば、それで侵略は終わったことになり実質的な支配はなかった。

これが「中華思想」の一側面である。
また、華僑、客家と言う言葉がある。

中国人は、家族、親族、同族的結束は強く、それ故に統一国家の概念に乏しい傾向がある。
中国共産党による国家建設がなければ、中国国民に公と言う概念は育たなかったであろうし、現在でもかなり希薄なものである事は、世界の特許権、著作権を重要視しない姿勢にも現れている。

もともと広大な地域で複数の民族が競争して繁栄を図っているので、例え民族単位であっても、その全てを統一して国家を考える事は大変困難でありました。現在の中国の範囲を考えても、最初に統一したのは秦の始皇帝であり、実際の王朝を続けたのは漢(紀元前250年)からです。

また、統一されたと言っても、広大な領土と多数の国民があり、極めの細かい為政が出来たとは考えられません。
中国人には公と私の認識が日本人のそれとはニアンスが少し違うようです。


中国は長い間、公(国)は、其処ここにあり、その上、自分が属する公の、その上の公も認めざるを得ないと言うような環境にあったと思います。
それに対して日本の場合は、公といえば、領土的にも民族的にも1つであり、それを損なう外力は殆ど意識しなくてもよい環境でした。

ある意味で「中華思想」が中国国家のよりどころでり公であるとも言えます。

また中国で宗教と言うものが栄えなかったことも、中国のありように影響を与えています。
インドの場合と同じように、1神教世界のとは異なる大衆の自由奔放さが伺えます。
しかし、それは帝国主義時代にインドと同じように西欧の列国に蹂躙されることにもつながりました。
メンテ
「和」についておさらい 10 ( No.136 )
日時: 2011/08/15 20:55
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:mHcoTvDA

中国の終わりに、以前に紹介した七夕伝説を再掲して、日本の「和」の話しへ戻ることにしましょう。

「中国の七夕伝説1  「述異記」 中国」

天の川の東の岸に、大変美しい仙女が住んでいた。彼女は天帝の娘で、機を織るのが仕事だったので、織女と呼ばれていた。

織女は朝も昼も機を織りつづけて、雲か霧かと見まごう薄くて綺麗な布を織り出していた。その仕事に専念していたので、他に何の楽しみもなく、身なりに気を遣うことさえなかった。

天帝は娘のこんな様を哀れみ、天の川の西の岸に住む牽牛という男に嫁がせた。

ところが、結婚すると織女は機織りをぱったりとやめてしまった。夫との楽しい生活にすっかり夢中になってしまい、機の前に座ることさえなくなった。天帝はついに怒り、織女を東の岸に追い返してしまった。

この時から、牽牛と織女は年に一度しか会えなくなってしまったのである。

「中国の七夕伝説2  中国 広東省 陸安」

天に、牛郎と織女という美しい男女がいました。牛郎は牛を飼い、織女は機を織って、毎日毎日、自分の仕事に精を出して暮していました。この様子を見ていた天帝が、二人の仲をとりもって夫婦にしました。

ところが、結婚すると二人は互いに夢中になって、仕事を怠けるようになってしまいました。天帝は怒り、カラスに命じて「二人は河の両岸に別れ、七日に一度しか逢ってはならない」と伝言させました。

しかし、このカラスは言葉を上手く話せなかったのです。カラスは二人のところへ飛んで行くと、こう伝えました。

「二人は河の両岸に別れ、毎年七月七日に一度しか逢ってはならない」

こうして、牛郎と織女は年に一度しか逢えなくなってしまったのでした。

「韓国の七夕伝説2  韓国」
 
ある星の国に美しい姫がおり、王は別の星の国の王子を婿に迎えた。しかし、この王子はたまによからぬ事をしていた。王は怒り、王子を天の川の北岸の彼方に追放した。しかし娘の気持ちを思い、一年に一度、七月七日にだけ天の川のほとりで逢う事を許した。

一年も離れ離れなので、夫婦は悲しみ、その涙は雨となって地上に降り注いで、ついには洪水になった。地上の王の命により、カササギが選ばれて天に昇った。そうして沢山のカササギが天の川の北の岸から南の岸まで頭と羽をそろえて並んだので、王子はこの橋を渡って姫に逢うことが出来、地上の雨もピタリとやんだ。

そんなわけで、七月七日の朝に雨が降ると「嘆きの雨」、昼に降ると「逢えた喜びの雨」、夜に降ると「別れの悲しみの雨」という。また、七月七日にカササギを見かけることがあると、橋をかけに行かない怠け者だとて、追い払ったりするそうだ。



少し長くなりますが、日本の七夕伝説の一つです。
「日本の七夕伝説1 七夕女[たなばたつめ]  日本 『為相古今集註』」

昔、唐[もろこし]に乾陸魏という長者がいた。その下女が水辺で洗い物をしていると、大蛇が出て、口から結んだ手紙を出して、長者に渡せと言う。長者の三人の娘のうちどれか一人をよこせというのだ。さもなくば長者一家はおろかその一族眷属全てが破滅するだろう、と。もし娘をくれるならば、これより東の山中に七間四面の屋敷があるので、その中に姫を乗せた輿を置いて、他の者は帰せ、と。

下女は恐ろしく思いながら報せに行き、長者が見に行くと、長さ二丈七、八尺ばかりの大蛇だ。見るからに、本当に恐ろしい。蛇が先に下女に語ったように言うので、「分かった。三人の娘に話してみよう」と言って屋敷に帰ると、蛇も帰った。

さて、長者は家に帰ってから物も食べないで寝込み、嘆いた。娘たちは理由を知らないで、父の病気を何とかしようと部屋に見舞いに来た。長者が「一人も娘をやらないでいれば親子五人、親類縁者数万人が一度に滅んでしまう。それが嫌だから娘を一人やろうと思っても、どの子をやることもできない。みんな私の子供だ。そう思うと病気になり、物も食べられないのだ」と言うと、長女は「嫌だわ。相手がどんなでも人間ならお父様の言いつけに従いますが、そんな恐ろしいことには、たとえ一日でみんな死んでしまうことになっても、進んで従う気にはなりません」と言って帰った。その後 次女が来て病状を訊いてくるので、さっきのように答えた。この次女も、さっきの姉のように答えて帰った。もっともなことで恨むこともできず、思い煩った。

末の娘はことに幼く、まだたったの十三歳である。どんなに怖がるだろうと思うと、父母もなかなか言い出せずにいたが、父が物も食べられないのを悲しんで、自分で父のところに理由を尋ねに来た。しょんぼりとかくかくしかじかと説明して、「お前の姉さん二人は嫌だと断ったが、もっともで恨めないことだ。ましてお前は幼いのだから、どんなに怖がるだろうと思うと、力も出なかった。わしらの子供がみんなが滅ぶ宿因になるのだ。約束の日も近い。それにしても、わしら一族、牛や馬にいたるまで失われることを思えば、心細くて悲しくてたまらない」と語った。

末娘はじっと話を聞いて、涙を流して言った。

「私がこうして楽しい日々を送ったのも、お父様とお母様のおかげです。だから、たとえ火や水に入り、鬼に食べられ神に取られようとも、お父様とお母様のために言いつけに従うことを嫌がったりしません。ましてや、私が行かなければみんな死ぬと言うのでしょう。私一人が蛇に食べられて、家族から使用人のみんなまで助けることができるなら、それはとてもいいことです。死んだ後はきっと極楽に行けます。……さぁ、安心して、早くご飯を食べてください」

これを聞いて、両親はもとより、使用人にいたるまでみんな袖をしぼって泣いた。

すぐに、明日は約束の日、という日になった。娘は人に形見を渡したり別れの挨拶をしたりし、行水して身を清めて、守り仏の金銅の観音像をしっかり肌身につけた。観音経を持って輿に乗り、家族や使用人がお葬式のように泣きどよむ中、「早く連れて行ってください。約束に遅れたら、蛇が来てみんなに災いをなすかもしれません」とキッパリした様子である。輿は急いで出発し、父母は、せめて自分たちの命の代わりに、と珍しい宝を添えて送った。

例の蛇が指定した山里に行ってみると、忌まわしい感じの御殿がある。その中に輿を置いて、送りの者たちは泣く泣く帰った。娘はたった一人残って観音経を唱えていると、長さ二丈ばかりの大蛇が這い出てきた。目は月日のごとく、口は獅子のそれのようである。輿の側まで這い寄って、舌をちろちろと出している。暫くそうしてから蛇が言うには、

「小刀を持っていますか。私の背を尾まで割ってください」

嫌だと思ったが、硯の小刀を取り出して、言われた通りに割った。すると、蛇の中から、十七、八ばかりの、色が白く、辺りが照り輝くように麗しい男が出てきた。綺麗な服に宝石の冠をつけて、全てこの世の人とも思えない。例の蛇の皮を身に巻き、娘と夫婦になって、めでたいと言うばかりである。男の眷属もどこからともなく現れて、使用人として働き始めた。

それから十七日経って、娘の家族は、もしや蛇の食い残した骨などあるかもしれない、拾って供養しようと思って、人を使いに出した。すると、死んだりしないで、立派に富み栄えているではないか。夫も蛇ではなく美男子だし、やってきた人々は思いがけなくて、嬉し涙を流した。

さて、このことを長者夫婦に伝えると、喜んで大声を張り上げて、急いで見に行った。すると、後園の倉は数え切れないほど、庭の砂まで金や宝石を敷いてある。まるで生きながら仏の国に来たようで、嬉しくてたまらなかった。婿を見れば蛇どころか辺りが光り輝くような美男子。両親は手を合わせて拝んだ。

これを見て、蛇のところに行くのを嫌がった二人の姉は口惜しくねたましく、私が行けばよかった、私が行けばよかったと、悔しがった。

ある日、夫は娘に言った。

「私は四王天の梵天王の子で、彦星という者です。あなたと前世の縁があったので、あなたと夫婦になるために下界にこの三年間住みました。今度、天の父の用で天に帰り昇ります。決してあの朱の唐櫃[からびつ]を開けないでください。来年三月には必ず戻ります。けれど、もし、この朱の唐櫃を開けたら、どんなに願おうとも帰る事はできないでしょう」
そして、唐櫃の鍵を「身から放さないでください」と言って預けて、天へ昇った。

娘の両親と姉たちが、夫の留守の寂しさを慰めようと訪ねてきた。後園の倉を開けて、見たことも無いような宝が沢山あるのを見ては誉めて騒いだ。例の朱の唐櫃の中身を知りたがったが、「これは開けてはいけないものです」と、どうしても開けようとしなかった。そうなると、あんな素晴らしい宝物の入った倉は開けたのにこの唐櫃は開けないなんて、きっともっと素晴らしい物が入っているに違いないと、そわそわして気になって、「鍵はどこにあるの」と末娘をくすぐって言わせようとしたが、「開けません」としっかりしている。ところが、姉は力が強く、なんと箱の錠をねじ切って唐櫃を開けてしまった。けれど、中からは細い煙が一筋立ち昇るばかり。「なんてことないわ、つまらない」と、唐櫃を投げ出して、また別のものを物色し始めた。末娘はとても悲しくなって泣いてしまったが、今となっては無駄なことだった。

夫の約束した月が来たが、帰ってこなかった。悲しんでいると、実家にいた頃から可愛がって飼っていたつがいのカササギが、羽を並べてこの上に娘を乗せ、遥かに天を指して舞いあがった。四王天に至り、天人に「梵天王の御子、彦星はどちらにおいででしょうか」と尋ね、教えられて尋ね着いた。夫が言った。

「私が約束の日に降りようとしても、私が拠り所にした物を入れた唐櫃を、開けて人に見られてしまったので、中身は煙となって昇ってしまいました。こうなっては、何を拠り所にして降りたものか。そう思いながら三年を過ごしてきましたが、嬉しいことです。ただし、ここは人間の来ないところです。私の親にこのことを説明せねばなりません」

しかじかと説明すると、梵天王は「とんでもないことだ」と叱った。

「ただし、その女がわしに天の羽衣を織って渡すなら、お前と逢うことは許そう。彦星よ、お前はわしの千頭の牛を七日の間引き連れて世話をするのだ。そうすれば、その女と逢うことを許そう」

夫は娘にこのことを伝えた。

「織り方を習ったことはありませんが、仏に任せて一生懸命織ってみましょう」と言って、娘が羽衣を織ると、仏が哀れんで、簡単に織ることができた。よって、彼女を織女と書いて「たなばた」と言う。

夫の彦星は、七日の間千頭の牛を引いて世話をした。よって、彼を牽牛と言う。

梵天王は、こうなっては仕方が無い、と、二人が逢うことを許した。「ただし、月に一度逢え」と言って、瓜を持って投げ打った。瓜がつぶれて天の川となった。今、牽牛と織女が年に一度逢うのは、月に一度と言うのを年に一度と聞き違えたからだという。

七月七日に梵天王の許しを得て、彦星と織女が逢うとき、天の川が深くて渡ることができないならば、あのカササギのつがいが羽を並べ、紅葉を食べて橋となし、渡らせるというので、天の川に紅葉の橋、カササギの橋と言う事がある。

メンテ
「和」についておさらい 最終」 ( No.137 )
日時: 2011/08/18 21:19
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:3R2ku166

聖徳太子の十七条憲法の第1条は、「和を以て貴しとなし…」という言葉を検証し始めて、随分と多くの紙面を割いてきました。

和とは、辞書で引くと下記のように記されている。
穏やか 長閑(のど)か 和気洋々 和気横溢(おういつ) 和気藹々(あいあい
最初の頃紹介したものですが「和のこころ」について下記のサイトで詳細に検証しています。

http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm

日本民族の心の原点を「和」と何気なく思っていますが、それが単なる争いを避ける、バランスの取れた人間関係を示していると思っていては和が民族を正しく解かったとは言えません。

その日本人の「和のこころ」と言うものを認識するために世界を廻ってきました。
日本人の特性を幾ら多くの言葉で綴っても肌に染み込んだ理解は出来ないと思います。
「和のこころ」に該当する観念は世界にも共通するものであります。

ただ、世界のそれに触れることによって、言葉ではなく、肌で感じていただくために世界を廻ってきました。
日本人の心の特性は、中国のそれでも、インドのそれでもイスラムでもアングロサクソンとも違いものがあるはずです。
それを比較することによって、私たちが感じるものが私たちの「和のこころ」と思います。

まとめて見ますと、民族の「和のこころ」に当たる意識は1神教が発達した地域と多神教の地域で2つに大別できると思います。
1神教の世界では、「和のこころも」神との関係の中に生きています。
多神教の世界では、個人の意思で和を求めます。
それは、どちらが良いか悪いかではなく、集団としての和のこころのありようを廻ったときに差異が出ることが多いようです。

それは国家観の違いという面に現れています。
また同じ1神教の世界でも、その民族の置かれた環境により若干の違いがあります。
多神教の世界でもインドのそれと日本のそれでは違いが見られます。
同じ多神教地域での、日本の「和のこころ」の特徴として、そのこころが個人的だけに限らず集団、国家の領域まで広がっていることと思います。

また、中国の項目で最後に上げた「七夕伝説」をみて頂いて御分かりと思いますが、日本の伝説はパッピーエンドが多く含まれているということです。
この事は、日本民族にとって「和のこころ」が民族全体、国家までを想定していることにもつながると思います。
これも日本が置かれた環境に基づいて展開してきたものと思います。

中国、インドなどの大陸では、常に民族、国家の興亡があったのに対して、日本では部族間の争いはあっても、日本民族というものが根こそぎ壊滅する危険はなかったことです。
ですので個人としての「和のこころ」を醸成しながら、社会全般、国家とての共認意識まで広めることによって安定を求めることが可能であったのです。
我々にとって、このことは自然の成り行きであり不思議ではないのですが、それが許されなかった地域の「和のこころ」の実情も理解しなければなりません。
そこで醸成された「和のこころ」のありようも参考にすべきことはあるでしょう。
しかしながら現代史を見るとき、1神教世界も多神教世界も昔ほど、その特性に生きる必要もなくなってきております。

こういう環境であるべきは、唯一神に纏わる「和のこころ」でもなく、公を軽んじる「和のこころ」でもなく、個人としての「和のこころ」を公にも当てはめる日本的な「和のこころ」のありようを展開することが求められているのではないでしょか。
いまや「世界は一つ」と言う言い方、観念も出てきました。
ですが、イデオロギーを超え、民族の利害を超えて、この様な認識を持つことは思うほどには簡単ではないのです。

それは各民族、国家が何千年、何万年培い身につけた慣習を変えることなのであり容易に賛同してくれる訳には行かないのです。
日本の「和のこころ」のありようが世界統一の参考にでもなれば良いのですが。
言葉ではこれ以上現しませんが、日本の「和のこころ」をこのように認識し、この様な日本民族の生き様を、これからは「大和魂」と言う側面から見てゆくことにします。
本題は、この「大和魂」をテーマにしていますので、今までは前段と言う事になります。

メンテ
神話の時代 ( No.138 )
日時: 2011/08/28 15:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ceabCQNk

いよいよ「大和魂」の世界へ入りましょう。
先ず始めに、日本古代の様相を頭に入れて置くことにします。

「日本古代史年表」
http://inoues.net/kodai_nenpyo.html

(旧石器時代前期) 
170万年前 ・・・ 
日本オオカミの先祖?

?万年前  ・・・ 
日本列島に人(原人)が住み始める。

60万年前  ・・・
上高森遺跡(宮城県)現時点における原人が残した最古の遺跡。きれいに並んだ石。知的・象徴的な世界を示す。
宮城県・上高森遺跡「約60万年前の日本最古の旧石器を発見」
平成7年10月、宮城県築館町にある旧石器時代の遺跡、上高森遺跡で見つか
った石器は、日本の人類史を塗り替える貴重な証拠品として、全国の注目を浴
びた。この石器を掘り当てたのが昭和25年、宮城県中新田町生まれの藤村新
一氏。発掘者仲間から「石器発見の神様」と呼ばれている。仙台育英高卒。
宮城県内の考古学愛好家らと50年に石器文化談話会、平成2年に東北旧石器
文化研究所を結成。日本最古の旧石器時代遺跡の発掘調査への貢献で平成7
年度第45回河北文化賞受賞。

10万年前 ・・・
袖原3遺跡(山形県花沢市)、中島山遺跡(宮城県色麻町)
10万年前、山脈を挟んだ異なる場所の2つの石器が同じ原石から作られていたことが
判明。

3万年前  ・・・
立切遺跡(鹿児島県中種子町)
3万年前の大量の石器、炉跡が発見された。
調理用焼き石の礫群、焼土遺構、建物や杭らしい柱跡が出土。

(旧石器時代後期)
2万5千年前 ・・・
広島大新キャンパス遺跡(広島県東広島市)
中期〜後期( 〜約2万2千年前)
住居遺構6棟、平地式住居の発見

(縄文時代草創期)
1万6千年前(BC 14000)・・・
青森で発見の土器が世界最古と判明
青森県蟹田町にある縄文草創期の大平山元遺跡で見つかった土器片が1万6500年前
に作られたものであることが、遺跡発掘団などにより明らかになった。

鹿児島で旧石器時代(縄文早期)の住居跡見つかる。
日本最古の住居跡が鹿児島県指宿市で発見された。世界でも最古か?
栫ノ原(カコイノハラ)遺跡(鹿児島県加世田市)、奥ノ仁田(オクノニタ)遺跡(鹿児島県西之表市) (約1万2千年前)
定住生活の跡(丸ノミ型磨製石斧,石皿、磨石、石鏃などが発見された。)
有肩石斧の原始的形態のものが出土する。

9千年前(BC 7000)・・・
上野原遺跡(鹿児島県)日本最古(縄文時代早期:約9500年前)の大規模な集落遺跡。住居跡46軒と蒸し焼き用炉跡が発見された。

西日本には殆どないとされていた縄文遺跡だが、鹿児島県から、しかも日本最古
の縄文集落が発見され、三内丸山遺跡に続いてまたまた古代史を塗り替えた。
弥生式土器に似た土器まで発見され、「縄文も西からか?」と騒がれている

鬼界カルデラ噴火。
中野B遺跡(北海道函館市)500軒以上の縄文早期(7〜8000年前)の竪穴住居群。
栽培型のヒエの種子が発見された。定住生活の安定化。

漆の使用始まる。木工技術が発達し、各地で丸木船が作られる。
気候が温暖化し海水面が上昇,海が内陸に入り現在の日本列島の形状が
形成される。(縄文海進)

(縄文時代前期) 
6千年前(BC 4000)・・・ 
三内丸山遺跡(青森県)5千5百〜4千年前まで約1,500年間営まれた大規模な集落跡。
北黄金貝塚。(北海道伊達市)(約5000年前)
意図的に壊された石皿やすり石を含む石敷きの作業場、池、水汲みの際の足場
などの「水場遺構」が発見される。祭祀遺構の可能性も? 
鯨骨製の「刀」も出土した。

(縄文時代中期) 
5千年前(BC 3000)・・・ 
各地で大規模な縄文集落成立。
富山・桜町遺跡     建築部材が大量に出土。
「わたりあご仕口」と呼ばれる木組み跡の柱があった。
同じ手法が、後世奈良の法隆寺の建物にも使われている。

(縄文時代後期) 
4千年前(BC 2000)・・・  
土偶・仮面・石刀などの祭祀が隆盛。
新潟県朝日村三面地区のダム予定地で発掘調査が進む奥三面遺跡群に、少なくとも
2000年続いた縄文時代後―晩期の文化が存在していたことが、9日(98年10月)
までに明らかとなった。これまで最長とされた縄文前―中期の三内丸山遺跡(青森市)
の約1500年間を上回る。国内最古の「舗装道路」跡などが出土しているものの、
同遺跡群はダムの完成に伴って水没することになっており、惜しむ声が強い。

(縄文時代後期) 
3千年前(BC 1000)・・・ 
九州北部に水耕稲作が伝わる。
佐賀県・菜畑遺跡
日本最古の水耕稲作。稲作以外に、野菜の栽培、家畜の飼育も行っていた。

(弥生時代前期) 
BC 300 ・・・ 
鉄器使用始まる。
吉野ヶ里遺跡(佐賀県)
倭、百余国に別れ分立。楽浪郡と通交。
北九州に稲作定着し環濠でムラを囲む。
北九州各地に王国。

(弥生時代中期) 
BC 200 ・・・ 
青銅器の製作始まる。
原の辻遺跡(長崎県)
内外2重の環濠をめぐらした25平方qにおよぶ集落・港湾遺跡。

日本最小の銅鐸が出土(滋賀・下鈎遺跡)
日本最小の小銅鐸(どうたく)が滋賀県栗太郡栗東町の下鈎(しもまがり)遺跡で
見つかった、と県教委が九日、発表した。通常の銅鐸を忠実に再現しており、関係
者は「古代の銅製品の使用や製造の変化を知る上で貴重な資料」と注目している。
弥生時代中期の集落の環濠(ごう)と推測される溝から見つかり、弥生時代中期後半
から後期ごろ(紀元前2―後3世紀)の製造とみられる。

平塚川添遺跡。6重の環濠をめぐらした大集落遺跡。楼閣を持った祭事建物も出現。
池上曽根遺跡 環濠集落。 (大阪符)
近畿最大の掘立柱建物と一本刳り抜き井戸が出現。
池上曽根遺跡シンポジウム大型建物は倉庫かそれとも神殿か?
池上曽根遺跡・弥生まつり弥生人の「神」への概念の有無を巡って論議。
弥生集落、全国で営まれる。

AD 1(紀元後) ・・・ 
小田原で弥生時代中期の大集落を確認
調査地から61の竪穴住居跡や500を超える土坑などが見つかった。また小田原で
はこれまで発見例のない瀬戸内海系の土器も出土した。

弥生時代のおにぎり出現。
青銅器、九州で盛んに製造される。各地で工房跡。

奴国王漢の光武帝より金印を賜る。
妻木晩田遺跡(鳥取県)
現在、日本最大の弥生遺跡。山陰に新たな王国か。

(弥生時代後期) 
AD 200 ・・・ 
倭国内乱が続く
戦いの痕跡を残した人骨が、全国各地の弥生遺跡から出土する。

卑弥呼「邪馬台国」の女王となる。
239 卑弥呼、魏に遣使を送る。
248 卑弥呼死す。
倭国再び乱れ、台与を女王となす。

古事記、日本書紀が描写する我が国古代の様相は弥生時代と酷似している。
剣・玉・鏡・鉄・蚕などは北九州から出土する遺物そのものである。
我が国の神話は弥生時代前後の事を記述していると思われる。

(古墳時代) 
AD 300 ・・・ 
前方後円墳出現
纏向遺跡(奈良県)
391 倭国朝鮮進出、高句麗と戦う。

AD 400 ・・・
河内(大阪平野)に巨大前方後円墳がつくられる。    
馬の普及 北九州に装飾古墳出現。
538 百済から仏像・教典伝来。
607 法隆寺建立。
645 大化の改新。難波宮に遷都。

(飛鳥時代) 
667 近江大津宮に遷都。
694 藤原京に遷都。藤原京跡(奈良県)・上淀廃寺跡(鳥取県)

(奈良時代)
710 平城京に遷都。平城京跡。
741 国分寺・国分尼寺建立の詔。

以上。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.139 )
日時: 2012/03/10 02:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:R4027gzk

この文章の始まりのころ、「和のこころ」と言う言葉を取り上げたころ下記の文章を書いていました。

・・・・・日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが精確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。

シュメールとは現在の南イラクのことです。そしてそこに北からヒッタイト族などがやって来た。そしてバビロニアなどの国家を建設してシュメールの文化をシリアに広めた。シリアとは、現在のシリア、レバノン、バレスチナ、ヨルダン、イスラエルを包括する地区です。シュメールはユダヤにとって先進文化地域だった。

楔形文字は、古代オリエント地区で東アジアにおける漢字と同じ役割を果たしていました。メソポタミアの共通文字だった。

シュメールには葦原が広がっていたらしい。日本もかつては”豊葦原の国”と呼ばれました。葦は筆(ペン)を作るために利用されます。粘土と葦の組合せが文を生んだ。「書く」とは引っ掻くと言う意味です。Grammarのグラムは刻むという意味。紙が発明されるまで、文字は刻んだり引っ掻いたりするしか記する方法が無かった。

シュメールの人々が東に移住し、インダス文明を築くなどしながら、南海伝いに日本までやってきた可能性は十分にあると思います。

ここまで遡れば十分でしょう。次には大和の国から見た太古の様相です。

黒潮は日本列島南方海上で対馬方面と高知方面に分かれる。対馬方面へ流れる海流に乗ると、船は九州北西部とか、或いは朝鮮半島南東部に行き着く。出雲地方もその中に含まれます。

紀伊半島もそういう意味で同じ人々が流れ着く場所でもある。そのせいか、熊野権現は出雲系の神様が祭られています。その他に、伊勢、伊豆、安房、鹿島(茨城県)など、いずれも黒潮と無縁ではない。

大和川を行き着くところまで遡ると飛鳥地方に至る。他方その先の山の向こうには、吉野を経て熊野があります。古代にそこでヤマト民とミナト民が出会ったとしても決して不思議ではありません。

このように想像すると、日本古代史は黒潮をキィ・ワードとしてヤマト民やミナト民(海民)の動向を中心にして再構築する必要があると言えるでしょう。
ヤマトとミナトという言葉が出てきました。

昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。

陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。

むかし江戸は武蔵野国にあった。軍艦でも大和の姉妹艦として武蔵が建造されました。江戸がミナト(水戸)民の土地だったことは言うまでもありません。

むかしから、我が国は南方や朝鮮系の渡来人が多くいたことは、聖徳太子の時代にも秦氏、漢(あや)氏などが良く知られています。
上記に書いた流れの中に組み込まれるのでしょう。

大和民族とは、日本列島に住んできた人類で構成される民族で、そこでは縄文時代から日本列島に住んできた人々(いわゆる縄文人)と、縄文末期からユーラシ大陸から渡来した人々(いわゆる弥生人)が中心となって形成した。この過程は前回の大きな流れのなかでも触れています。

ヤマト王権が、日本列島各地に散在していた様々な人的集団を勢力下に置き、同化したことにより大和民族が成立していったと考えられている(しかし大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない。

そして民族の特性として、大和民族は農耕民族、あるいは島国に居住することから海洋民族と分類される場合もある。 また江上波夫が騎馬民族征服王朝説を唱えたが学術的には否定されている。

このような中で、日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立したのが神道のはじめである。
・・・・・

この文章の出発点となった時代背景ですが、先に挙げた古代年表に準じてもう少し詳しく検証してみましょう。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.140 )
日時: 2012/03/10 02:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:R4027gzk

http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html

33,000年前ごろを境に汎世界的に気候の激変があり、気候が寒冷化、乾燥化したという。その結果、海面の低下が起こり、日本列島は大陸と陸続きに近い状況になった。(当然、樺太や北海道は大陸と陸続きになった。)

日本海では30,000年前から27,000年前を境に暖かい対馬暖流(黒潮の支流)が流入しなくなった。そうすると水蒸気が大幅に減少し、雪雲が出来なくなり、ますます日本海側は少雨化・乾燥化したと考えられる。
森林は後退し、草原とツガなどの樹林が散在する、今の北海道のような風景が出現していたのだろう。

ちょうどそのとき動物相にも大きな変化が現れた。北方ユーラシアの草原に生息していた大型哺乳動物(オーロックス、バイソン、あるいはヘラジカ、馬など)が乾燥化・草原化した日本列島に南下してきた。マンモスも北海道まで南下して来ていたことが確認されている。 

また33,000年前頃は、ヨーロッパも激変の時代であった。おそらく1万年間ぐらいは現生人類と共存したと思われる、ネアンデルタール人が遂に絶滅に至るのである。その原因は明らかではないが、寒冷化が関係したという見方がある。アジアでも、アジアの旧人達が同じ運命を辿ったのであろうか。

一方、ホモ・サピエンス即ち現生人類は、この時期に画期的な石刃技法を獲得し、すなわち生存能力を高め、クロマニヨン人が西ユーラシアに急速に拡散する。東ユーラシアでもアジアの新人が、中国北部からシベリアや日本列島にも拡散している。

丁度このころ、バイカル湖を中心としたところから荒屋型彫器という特徴的な細石器を持った文化が2〜3万年前に出現し1万年後には日本列島に流入していた(バイカル湖方面からの人口流入)。

発見された縄文時代の遺跡数の分析から、縄文以降、各期の推定人口から、8,000年前の縄文早期の人口は、東日本地区で17,300人、西日本地区で2,800人の計、20000人と推定している。
このうち当時バイカル湖付近からの渡来規模を、約7,000人ほどであったと考えられている。

ところで、ナウマンゾウなどを追って狩猟採集の生活をしていた当時の住人にとって、大量の渡来人は彼らの生活(食)を脅かすことになった。
落葉広葉樹林が大量に生み出してくれるクルミ、クリ、ドングリなどの堅果類やヤマノイモなどの野生のイモ類などの、植物性食料資源の本格的活用に目を向けさせ、その開発を急がせることになったであろうことは、まず間違いないと考えられる。

それまでの獣肉中心のメニューに、植物資源を加えることになるののだが、エネルギー源となる澱粉の含有量の多い植物資源、堅果類(除く、クルミ)やイモ類などは、生(β澱粉)のままでは大変消化しにくい。熱と水でその結晶を破壊してα澱粉に変えないと食用とはならない。
この加熱処理のための煮沸用の容器として、どうしても「土器」が必要だったのである。

以上のように、この時代の人々の獣肉に対する危機感と、植物資源に対するこうした欲求とが、「土器」という人類が初めて化学的変化を利用した製品を作り出すことに繋がったと思われる。
旧石器時代末期ないし縄文草創期が推定される。

氷河時代が終わり、気温が上昇して、あらゆる動物相や植物相が大きく変化した。当時の列島の人々は、そうした環境の変化に対応して、土器を発明し、槍に代って弓矢を発明した。
「土器」は先にも触れたように、人類が初めて利用した“化学的変化”であり、「弓矢」はこれも

人類が初めて利用する“物理的作用”であると言える。ホモ・サピエンスの知的能力が環境の変化に刺激されて、飛躍的に向上したことが窺える。
すなわち、まさに「縄文変革」という画期が起こり、この列島の新石器時代、縄文時代の幕が開かれたのである。

また海水面の上昇により、大陸とこの列島とが徒歩で渡れなくても、舟などの海上交通手段で旧石器時代から、比較的自由に往来出来き、
縄文時代が決して鎖国状態などではなく、タイムスケール的にはノンビリとしたものではあるが、活発な国際的な文化交流があり、国内においても、東と西の大きな文化差を乗り越えた、人および情報の交換があったと思われる。

さて、我が国への渡来人の続きであるが、稲作が伝来し弥生時代が始まったという考えから、先に挙げた古代年表では弥生時代の始まりは紀元前300年としていますが、実はそれに遡ること500年、紀元前800年くらいの稲作があったと言う遺跡が発見されています。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.141 )
日時: 2012/03/10 03:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:R4027gzk

ところで、稲作伝承を伴う弥生時代における渡来人の大襲来の前、バイカル湖方面からの人口流入と同じころより、南方(朝鮮半島経由)からの渡来人も続いていた。

中でも、ネパールのヒマラヤの麓からブータン、アッサムの一部を通って、東南アジア北部山地、雲南・貴州高地、長江流域の江南山地をへて、朝鮮半島の南端をかすめ、日本に至っている共通する樹木、所謂、照葉樹林とそれに恩恵を受けて育った人たちの流れがあります。
仮称「照葉樹林文化圏」と名付けられ。我が国では九州から東日本へ向って入って行っております。

おそらく我々が今浸かっている豊穣な稲作文化ではなくて、はるか昔の祖先から伝えられた、不作や飢饉の時には非常食物の知識として、大切にしなければならぬ文化伝統であるからこそ、それは特別に美味くも贅沢でもないのに、“ハレの日に食べねばならぬ”のであり、我々はその文化要素に触れたとき、“琴線に触れるような、密かな懐かしさ”をこの文化に感じるのではなかろうか。

この様に、稲作文化以前から根付いている思われる、私達の習俗を下記に列挙してみます。

―物質的文化―

(水さらしによるアク抜き技法)
ワラビ、クズ、ヒガンバナなどの野生芋類、カシの実など堅実類の食用化。

(絹を作る技術)
蚕をはじめ、野生のものを含め、数多くの絹糸虫の繭から糸を引く。

(漆器を作る技法)
ウルシの木や、その近縁種の樹皮を使う。

(雑穀、根菜型焼畑農耕)
アワ、シコクビエ、モロコシ、ソバ、オカボなどの雑穀類、サトイモ、ナガイモなどのイモ類。

(ハンギング・ウォールの家屋構造)
柱や梁で屋根を支え、壁は柱の間に吊ったような構造。

(鵜飼の習俗)
河川で鵜を使って行なう漁撈。

―食事文化―

(粘性に富むモチ食品嗜好)
モチアワ、モチキビ、モチ稲などのモチ種の開発、モチ、チマキ、オコワなどの食品。

(ハレの食品としての慣行)
儀礼や接待用として、あるいは贈答用としてのモチ製品の活用。

(大豆の発酵食品)
ミソ、ナットウなど。

(サトイモを用いる慣行)
正月の儀礼用にサトイモを用いたり、8月15夜に月を拝み、イモ祭りをする習俗。

(コンニャクイモという特殊な食品)
コンニャクイモの中のマンナンという多糖を糊化して固めたもの。

(ナレズシ)
蒸したモチ米と魚肉を交互に桶の中に漬け込み、十分醗酵させた食品。

(小豆を邪霊祓いに用いる習俗)
小豆に邪霊を祓う力があると考え、歳事儀礼に用いる習俗。

(芳香野菜などの利用)
柑橘類やシソ類の栽培。

(葉茶の飲食慣行)
茶の葉を穴の中で発酵させ、それを加工して食べ茶、噛み茶、飲み茶。

(醸造酒の技術)
雑穀や米を粒のまま麹を用いて発酵させ、酒を醸造する。

―精神文化―

(死体化生型神話)
オオゲツヒメやウケモチガミなどの女神が殺され、その死体から作物が生まれたとする神話。

(洪水神話)
原古の洪水から生き残った兄妹神が世界を創造する(イザナミ、イザナギの神話はその一変形)。

(歌垣の習俗)
春秋の満月の夜などに、若い男女が丘に登り、歌の交換、愛情の印を交換して求婚する。

(儀礼的狩猟の慣行)
焼畑の火入れに先立ち、村の男達が狩を行って獲物の多寡で焼畑の豊凶を占う。

(山上他界の概念)
人生は山に由来し、死者の魂は死後再び山に帰って行くという観念。

(霊魂信仰)
巨石や巨木などに宿り、時に臨んで去来する神。

(正月に訪れる異型の来訪神)
牡鹿半島のナマハゲなど。

(同じ型の昔話しや説話の伝承)
羽衣伝説、花咲爺、サルカニ合戦、炭焼小五郎、絵姿女房など。


以上、

現代社会に住みながら、想像を絶する古代の縄文人と、私達の日常からも共感出来る思いがこんなにあるとは思いもよらなかったことでしょう。

メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.142 )
日時: 2012/03/10 16:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:R4027gzk

ここで、我が国の人のルーツと渡来人ことを確認しておきましょう。
今から15000年くらい前の人口は、当時の北方よりの渡来者(7000人)を含めて20000人程度であったようです。

それから縄文時代といわれる1万年の間、自然の環境と共に増減(最大26万人)したものの縄文時代の後期には76000人と推定されています。
これが弥生時代の後期には60万人と推定され、

西暦700年(飛鳥・奈良時代)には540万人となって行きます。
このうち、弥生時代から飛鳥までの1000年間に渡来した人は100〜150万人と推定されています。
人口の自然増もありますが、人口における渡来人の割合、かつ渡来人は常に石器や農耕技術を伴って渡来していることは、我が民族文化のルーツを探るのに重要な観点となるでしょう。

さて、稲作の渡来と弥生時代のことになります。

縄文中期の繁栄も、4,000年前ごろから起きた地球の寒冷化で突然崩壊した。特に中国では3000年前の寒冷化、乾燥化は厳しく北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。
このために長江流域を追われた民族は中国の奥地ばかりではなく、東南アジアにも向かったし、台湾島にも向かった。

これらの人々によって我が国に稲作が伝えられたのは紀元前800年(弥生前ないし縄文後期)とされている。

稲作の伝来、定着と共に社会的大きな変化は環濠集落誕生と社会構成である。
最初は小さな集団から始まったのであろうが、これが段々と大規模なものとなり直径が数百メートルもある大規模なものとなり、村の概念から国の概念へと発達して行く。
また収穫物と言う財産を保持することになり、狩猟生活における獲物の取り合いとは別の、集団同士(村)の熾烈で大規模な争奪戦を生む原因ともなった。

「 クニ」の形成

弥生時代、当時の最先進地域であった北部九州では、当初、それぞれ個別の集落として存在していた「ムラ」が、農耕が基本に持つ高い人口再生産力を発揮してムラの拡大・分化を生み、近辺の生産適地を埋め尽くすように未開地を耕作地へ変えていった。

その結果増加した「ムラムラ」が、弥生前期後半ごろから小共同体(おそらく血族集団、本家と分家などから構成されたような共同体)に成長し、更にその小共同体が、指導力を持った中心的な小共同体と、そういう小共同体との共存を図ろうとする従属的な小共同体とに階層化し、それらが一つのグループとなって「クニ」を形成し始めた。
クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことにあったと思われる。

それほどにムラの数や人口が急増し、北部九州の中小河川の水量では、その効率的な利用が強く求められたからであろう。
当然、クニの内外で調整や裁定というような社会的作業や、それがうまく図れなかった場合には、争いが−すなわちこの列島において初めての戦争が−起こったであろう。
それは次第に、大リーダー(大首長)と小リーダー(小首長)、さらにその構成員というように、人々の間に階層的な関係を発生させた。
縄文時代には考えられなかった、社会構造が形成され始めたのである。

そうした日本列島の新しい鼓動は、半島や大陸の方にも聞こえ始めていた。
「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為し、歳時を以て来たり献見す、と云ふ」
これは『漢書』に記された一文の読み下し文であるが、中国の正史に「倭」が登場した最初の記述である。時代は紀元前1世紀の頃。
現代文に直せば

「楽浪郡から海路を行った先に倭人と言う処がある。(倭の人々がいる、という読み方が一般的であるが、そういう漢文の用法は見出せない、という意見もある) 100以上の国々に分かれており、毎年、四季毎に(楽浪郡政庁を)訪れて貢物を献上する、と言う話である」

これはすなわち、当時の漢(前漢)を中心とする東アジアの国際社会の中に、倭(or倭人)と呼ばれる北部九州を中心とした西日本のクニグニが、一つの勢力として登場してきたことを意味する。
そして、100余国すなわち100余クニとは北部九州だけで収まりきれるものではなく、おそらく「倭」とは西日本全体を指していたのであろう、としている。

中国は後漢の時代、倭の「奴国」が自称太夫(=大臣、長官)を遣わして朝貢をした。時の皇帝・光武帝は返礼として印綬を下賜したという。
この一文は有名な「漢委奴国王」 により証明された。

この頃、「倭」のいかほどの国が後漢と外交関係を持っていたか明らかではないが、「奴」という国が倭の代表として、ないしは倭の中でも特別な国として認められていたということであろう。 
しかしながら「奴」が国々の代表であったのに対して近隣の伊都国(福岡西方)は漢皇室との関係において特別の権威を持っていて「奴」と連携して後漢と外交関係を保っていたものと考えられる。

これらの「国」が成立するまでには、クニとクニとの間でサバイバルの戦いがあったであろうことは想像に難くないが、「国」と「国」同士が激しく対立して戦った形跡はない。
これはおそらく、当時、新興国であった倭を構成する国々が、東アジアの国際社会に於ける倭の位置を十分認識し、対立するどころか相互補完して、諸外国に伍して行こうとしたからだと推測される。

その中で紀元200年、伊都国が、その後ろ盾と頼っていた後漢の勢力が弱体化するに従って、自らの権威も衰え、倭国連合を掌握する力を削がれることになっていくのである。
従って、倭国ではもはやいずれの国も、倭国連合を掌握する力はなく伊都国の代わりに新たな連合の盟主になろうと意欲を示す国、鉄や諸々の舶来の文物、技術を求め独自の交易を展開して利益を得ようとする国、あらたな倭国のフレーム作りを画策する国などが次々と台頭し、相争ったに違いない。

魏志倭人伝にいう「倭国乱れる(倭国大乱)」とはこういう状況を語ったと思われる。
さらに倭人伝は続ける。
「 倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」  

それこそ「邪馬台政権」の樹立であり、これまでの「王」に変わる王の中の王「大王」卑弥呼の擁立であった。
この新邪馬台王権の誕生は、その後の7世紀後半の律令国家の成立という、大和朝廷の完成に向けての画期となったというのである。

しかしいずれにせよ、倭ないし邪馬台国は、中国王朝に対し朝貢を続け、冊封をうけて、東アジアにおける交易と安全の保障を求めるという卑弥呼以来の外交方針を続けたのである。

突然ではありますが、現代のアメリカ追従の腑抜け外交ぶりをみて、
「日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…」という聖徳太子による当時の大国、中国からの独立宣言と思しき宣言を心から称えたい。

一気に大和朝廷出現までの歴史を遡りましたが、弥生時代以降の渡来人についてまとめておきます。
渡来時期を4つに区分すると・・・

T 紀元前2〜3世紀 弥生時代に日本に定住した。
U 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
V 5世紀後半〜6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
W 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。

5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。

この様に我が国は縄文前期の1万年前から、多くの渡来人によって構成されてきました。
人種的には

南方系 ミクロネシア、ポリネシア
中国系 江南人
北方系 バイカル湖系、古モンゴロイド
等が、千島、樺太、朝鮮半島、南方から海を隔てて移り住んで、縄文人、弥生人、アイヌ人、本土人として定着して行きました。

メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.143 )
日時: 2012/03/15 21:17
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:c4K/7VIE

今、この文章の書き始め、NO3のレスの場所に再び立っています。
(再掲)
聖徳太子の「和」と言う言葉が出てきました。
日本民族を語るとき、いつでも出てくるのが「和」と言う言葉です。
はじめに、それを検証することにします。

以下は下記のサイトからの引用です、「日本の心」について詳しく検証されています。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm

「和」と言えば、誰でも知っているのは、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」。この理念は、日本人のものの考え方をよく表しています。しかし、「和」の精神は聖徳太子の独創ではなく、古くから日本の国に受け継がれてきたものです。

「和」とは、もともと「わ」という音の日本語です。その「わ」にシナの漢字の「和」があてられたわけです。
作家の井沢元彦さんによると、本来「わ」には「環」や「輪」の意味しかなく、環濠集落(堀をめぐらした集落)を表す言葉でした。それが、集団や仲間の意味を表す言葉となり、シナ人に、自国の意味で「わ」と言ったところ、「倭」(背が小さい、体が曲がっているなどを意味)という文字を当てられました。
その後、「わ」は、集団的な協調の精神やアイデンティティをも意味するようにもなり、日本側の要望により、国名の文字を「倭」から「和」に代えてもらったのだろう、と井沢さんは考えています。(1)

さて、かつて日本列島に住みついた人々は、「わ」すなわち環濠集落を作って、小集団が分立していました。その小さな集団が段々と国家を形成し、より大きな国家に統合されていきました。
その過程では、戦争もあったでしょうが、統合の多くは、話し合いで決まっただろうと考えられます。というのは、日本の神話には、諸外国に比べて、戦争の話が非常に少ないからです。それは、日本列島の温和な風土の影響によるところが大きいでしょう。

そして、人々には、対立・抗争よりも調和・融合をよしとする「和」の精神が育まれ、一つの民族として融合・形成されてきたと考えられます。そのことを、私たちは、日本の神話の中に見出すことができます。
(転載終わり)

「大和魂」に言及する以前の前提条件、「和のこころ」について再検証をするときが来ました。
最初は単なる「和のこころ」と言う語彙的な追求の範囲でしたが、ここに、風土的、人口構成的、慣習的、宗教哲学的側面から見ることが出来るようになりました。

今から15000〜30000年は、日本に住む人間の数は10000人程度であり、それが散在するさまは、国家、民族としての把握をする必要はないでしょう。
縄文初期といわれる時代(15000年前)から1万年の間は、気候の寒冷化の厳しい時代もあり、人口も年代に比例しては増えず、決して温暖で住みやすい地域であるとは言えなかったようです。
4000年前に寒冷化がやわらぎ、それから現代に続く温暖化の到来と共に、四方を海に囲まれた日本は、初めて住みよい国土を意識したと思います。
紀元前800年ころから、大陸から新しい文化を持った(稲作)人口の流入をみてから、我が国は確実な発展の軌道に入ったといえます。
弥生時代は総人口が60万人にもなり、環濠集落を形成するようになっていた。
大きな集落は、やがて「クニ」の意識も芽生えさせた時代と言えます。
中国などに比較して、随分と遅い国家(民族)意識の誕生と思います。
そうして、最初に探ろうとして「和のこころ」の源流も、この時代と設定して差し支えないと思います。
ところが、我が国の歴史書(古事記)などでは、このころの時代検証を全て「神話」で代弁しています。
神話の考証は別途するとして、当時のありのままの姿に立ち入ってみたいと思います。
10万年以上前から続く地球的民族移動の観点から捉えると、日本に移住して住み着くことは他の地域が通過点であることに対して一方の終着点であった。
これにより、大きな集団が定着することはなく、小さな多様な集団が寄り集まっていたと思われる。
弥生時代に入り、人口の急激な増加と共に、その中に「クニ」と言う概念が生まれるまで成長する期間は、極、短期間であったと思われる。
次々と押し寄せる新たな移住民にしてみれば、独占するというよりも、分かち合うという事の方が現実的解決方であったと思います。
倭の百余国の発生の過程で、あまり大きな争乱はなかったと記されていることが、それを示していると思います。
分かち合うに十分な恵まれた国土があったと言うことでしょう。
しかしながら、元々は独占欲も豊富な人間自身のDNAを失っているという訳でもないので、その後の勢力争いは必然と再燃することになります。
魏志倭人伝などで伝えられている紀元前から紀元後にわたる「倭国大乱」は、その結果であり、民意は、決して「和」の中に収斂されるようなことはなかったと言えます。

時を経て、大和朝廷が興り、聖徳太子が為政の方針を「和を持って尊しとする」と言うように宣言したことをきっかけに、我が国の国民性が「和」に拘るように解釈されがちですが、太子の発想はさにあらず、数百年前、仲良くやった時代を思い出せという諭しであるといえます。
聖徳太子出現の前、200年間は、権力争奪の内乱状態であり、太子自身も蘇我氏、物部氏の権力争いの被害者であったといえる。
大和朝廷が根付き、一応は平穏が訪れたと思われる時期に「和」の必要性を説いたものであり、我が国の民情が「和」を尊ぶと言ったものではないと思います。
それでは、それが何時のまにか、日本のこころのルーツのように思われている「和」の心の要素は元々なかったと言えるでしょうか。
ここで狩猟民族と農耕民族という側面から、古代日本の社会を見ることにしましょう。
元々は、全ての人間は狩猟採集から生活を始めました。
稲作を代表とする栽培農業が始まり農耕民族と狩猟民族という色分けをするようになりました。
これから見ると、紀元前800年くらいから稲作を始めた我が国は農耕民族と言えるでしょう。
それ以前の時代は、民族と識別するほどの人口を要していません。
稲作が何時から始まったと言えば、世界では1万年以上前であるといわれています。
その後に並存した狩猟民族と農耕民族という色分けで民族の特徴(性格)を示すことがあります。
要するに狩猟民族は、獲物を求めて定住することはなく、互いに猟場を求めて移動する。
そうして集団が生きて行くための獲物は性格上蓄積をすることが難しく、常に必要に応じた獲物探することが宿命であった(生存経済)。
これに対して農耕民族は、豊作であれば産物を集積し非常時に備えることが出来た。
狩猟民族が獲物を前に、他部族と譲り合いなどするような事態は殆ど考えられないのにたいして、農耕民族は、条件さえ整っていれば、他部族との共生が容易く実現できた。
一方で、収穫物の蓄積が可能と言うことは、集団の中の有力者による富の独占と言う傾向が現われる。
それが進んで他部族のそれも手に入れようと、他部族を侵略する戦いも生まれてきた。
他部族の侵略と言う意味では、狩猟民族においても、自然の獲物を狩猟で手に入れることと同じように他部族を侵略して他部族の獲物を、そのまま取得すると言うことが行なわれる。
両者共に侵略と言う行為に違いはないが、農耕民族のそれは、侵略する対象は、作物に限らず農地そのものの所有権移転も対象になりえるのに対して、狩猟民族の侵略は、全てを奪いつくすことが目的となる。
この違いの分だけ狩猟民族の侵略は、つまり性格は残酷なものとして考えられている。
ジンギスハーンなどの侵略の多くが皆殺し、都市破壊を伴っていることが、それを証明している。
最終的には農耕民族へ収斂されて行くのであるが、世界的に言えば、農耕民族は主にアジアモンスーン地帯に多く、狩猟民族はヨーロッパに多いと言われている。
これは、後に言う一神教と多神教の分布地帯とも重なり合っている。

この様な意味からでも、縄文時代から弥生時代における我が国の社会は、地域外からの大きな侵略もなく、地域に住んでいる人たちの数も少なく、部族間同士の過酷な生存競争はなかったものと考えられる。
その上に、稲作文化が発生してから、すでに1万年を経由しての到来は(紀元前800年)、文化的にも成熟したものであり、種族間のトラブルの解決方法もすでに経験済みのものとして伝わってきたと推測される。
それ故に、他地域のように、長期に渡る怨念のようなものもなく、渡来人同士、また土着民、渡来人が比較的容易に和合できたのではないかと想像する。
すでに争うよりも和合する方が互いの為であると言う環境が整っていたのである。

繰り返しますが、聖徳太子が「和を持って尊しとする」と言った、その「和」の意味と、我々がそれに重ね合わせる「和」の意味は同じとはいえないのです。
後世の、大和こころ、すなわち、和のこころと解するを否定する訳ではなく、そのようになって言った経緯を検証することが大切と思います。
その要因は、このころは仏教、江戸時代においては儒教の影響で、現在我々が思っている「和」の心があると思います。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.144 )
日時: 2012/03/16 05:06
名前: グッキー ID:34xQwfyc

http://www.google.co.jp/cse?cx=partner-pub-1703270455030379%3A5926270213&ie=EUC-JP&q=%C3%E7%CE%C9%A4%B7&sa=%B5%AD%BB%F6%B8%A1%BA%F7#gsc.tab=0&gsc.q=%E4%BB%B2%E8%89%AF%E3%81%97&gsc.page=1


仲良しだったクマに死なれた猫、ショックを受ける:らばQ
2010年11月25日 ... 動物が変わった組み合わせで仲良しになるケースがありますが、ベルリンの動物園では 猫とクマが大の仲良しで、いつも一緒に過ごしていました。 ところがクマが先に死んで しまい、残された猫はショックを受けているようです。 熊と猫01 この2匹 ...
labaq.com/archives/51526647.html

嫉妬するほど仲良しなインコと猫の写真いろいろ:らばQ
2011年6月4日 ... 嫉妬するほど仲良しなインコと猫の写真いろいろ. インコと猫00 自然界における猫と鳥の 関係は、食うか食われるかの天敵というイメージが強いですが、小さい頃から一緒に 暮らしていれば、家族のような関係が築けることも多いようです。
labaq.com/archives/51670301.html

悩ましいほど仲良し…動物と赤ちゃんが絡んでいる写真(PART2)15枚:ら ...
2011年11月29日 ... 悩ましいほど仲良し…動物と赤ちゃんが絡んでいる写真(PART2)15枚. ペットと 赤ちゃん00 人間の赤ちゃんもペットも、どちらか一方でもかわいいというのに、セットと なると、もう信じられないほどの破壊力となります。 ほほが緩むような仲良し ...
labaq.com/archives/51716181.html

その正体は…えっまさか?おじいちゃんと仲良しのダースベイダー:らばQ
2011年11月6日 ... おじいちゃんと仲良しのダースベイダー. ダースベイダーの正体00 コスプレで2ショットを 決める、おじいちゃんとダースベイダー。 おじいちゃんもスーパーヒーローの格好のよう ですが、ダースベイダーの正体がちょっと意外だったりするんです。
labaq.com/archives/51711234.html

こんなことってあるんだ…仲良し過ぎるワニと亀の友情:らばQ
2010年4月3日 ... それでは、仲良しの証拠となる写真をご覧ください。 ワニとカメ02 ワニの名前は ジョージア、亀 ... しばしば種の異なる動物同士が仲良しになることはありますが、まさか ワニのような獰猛な爬虫類で見られるとは…。自然界って不思議ですよね。
labaq.com/archives/51427189.html

風変わりな組み合わせの仲良し動物集:らばQ
2007年12月3日 ... そんな「仲良し」をテーマにした動物写真がありましたので紹介します。 仲良し動物01. 虎の赤ちゃんとチンパンジーの赤ちゃん。お互いぬいぐるみを抱きしめてるようにギュー、 和みます。 仲良し動物02. 猫とネズミ。まるでトムとジェリーみたい ...
labaq.com/archives/50847903.html

悩ましいほど仲良し…動物と赤ちゃんが絡んでいる写真20枚:らばQ
2009年10月11日 ... 赤ちゃんとペット16 どっちがかわいい? 赤ちゃんとペット17 ぶちゅううう。 赤ちゃんと ペット18 「く、苦しい」. 赤ちゃんとペット19 うさぎと少女。 赤ちゃんとペット20 これは シャレになっていないような…。 その他の仲良し画像は以下よりどうぞ。
labaq.com/archives/51279327.html

猫うっとり…仲良しの猿に毛づくろいされまくる(動画):らばQ
2010年7月20日 ... 仲良しの猿に毛づくろいされまくる(動画). 毛づくろい 犬と猿は仲が悪いと言うことわざが ありますが、とりあえず猫と猿は仲が良かったようです。 せっせと毛づくろいする猿と、 それを気持ちよさそうに堪能する猫の仲むつまじき姿をご覧ください。
labaq.com/archives/51480820.html

どうしてそんなに仲良しなのか…嫉妬するほど寄り添う犬と猫:らばQ
2009年3月20日 ... いつもぴったり寄り添う二匹をご覧ください。 ロシアの犬と猫01. 散歩も一緒。猫は寒そう 。 ロシアの犬と猫02. ご飯も一緒。 ロシアの犬と猫03. たまたまじゃなくて、本当に 仲良しなのが伺えます。 ロシアの犬と猫04. 「寒いよ〜」. ロシアの犬と猫 ...
labaq.com/archives/51181413.html

まるでライオンキング…ミーアキャットとライオンの子が大の仲良しに:らばQ
2010年9月19日 ... アニメ作品ならではの仲良しな組み合わせだと思っていましたが、実際にライオンの子と ミーアキャットが仲良しになってしまったという ... もともとはボブはかわいいものを好んで いましたが、ジンジをたいそう気に入り、大の仲良しとなりました。
ーーーーーーーーー

和の心のルーツ
元々、動物の心の中に有るものではないかな
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.145 )
日時: 2012/03/16 10:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:rGD3mJ.s

グッキーさん、レスをありがとうございます。

このところ「和」の概念を掘り下げています。
今まで各地の神話、伝説などに時間を割いてきましたにも、民族によって人の心がどのように展開しているのかを実感したいからです。

どの民族の神話、伝説もある意味、人間の生きる叫びのようなものが聞こえてきますし、「和」を大きく捕らえれば皆に共通するものがあるようです。
現代でも、欧米人もアジア人も、ただ親切な面ではあまり変わりはないのではないでしょうか。

グッキーさんが示しておられる動物界の習性とも言えるのでしょう。

それでも、心の根底に流れる発想の差異を多神教、一神教、あるいは農耕民族、狩猟民族と比較することによって嗅ぎ分けて見たいと思っています。

それと民族の時系列における影響を含んで、日本の「和」の特性を抽出できれば良いと思っています。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.146 )
日時: 2012/03/16 13:10
名前: グッキー ID:0/KIt0xY

天橋立の愚痴人間さん

>現代でも、欧米人もアジア人も、ただ親切な面ではあまり変わりはないのではないでしょうか。

中国では日本旅行をすると親日家になると言います。
欧米、その他も同じ傾向が有ります。
日本人は清潔と親切という定評が有ります。

>グッキーさんが示しておられる動物界の習性とも言えるのでしょう。

人間を含めた動物の本性ではないかと考えます。
それが争いや戦争で歪められて来たのではないかと思います。
日本は島国なので過酷な戦争が無く、和の心が多く残っているのではないかと思います
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.147 )
日時: 2012/11/07 01:06:41
名前: 天橋立の愚痴人間

日本民族の特性と言われている「和のこころ」については此れまでとして、

話は飛んで、これからしばらく鎌倉仏教の事について述べたいと思います。

今日は、とりあえずスレッドのUPに留めます。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.148 )
日時: 2013/02/17 10:13:39
名前: 遂犯無罪

天橋立の愚痴人間さん

私が服役した名誉毀損事件の新証拠は、検事面前調書の本人署名を検事が代筆した、しかしこれが誤字であった。
この異字体の間違えはこの高橋自身に纏わる知識かと、天さんの名字も確か「嶋」が付きこの辺の関心はおありかと。

我が棲むボロアパートのアル中ヤクザ達は、昨年10月を最後に5人総てが頓死、中には検察の呼び出し中の者もいた。
こいつらの死亡平均年齢は50代という無惨なもの、人間は内から死んでゆくとは実感した。

この者たちは多くの偽名を使い、また偽装の養子縁組で姓名をころころ変えて、名前まで変える奴もいた。
こうしたこともあり氏名など簡単に変えられから関心はなかった、ところが「氏」とは大変に深いものである事を認識せずにはおられない近況となりました。

ここら辺のことを論じて戴きたいのですが。
ttp://www.suihanmuzai.com/130215.jpg.html
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.149 )
日時: 2013/02/17 13:47:02
名前: 天橋立の愚痴人間

遂犯無罪 さん
こんなものにも興味を持って頂き有難うございます。
心に余裕が無いので書き続けていませんが、まだまだやるつもりでいます。
さて「氏」そのものではありませんが、最近地元の神社総代をする事になりまして、はじめの神社委員会(30名)での挨拶に下記の話をしました。
神社委員会と言いましても、殆どが順番などで指名されている人間で、特に神社に興味を持っている人ではありません。


「須津彦神社と言いますのは、須津、夕ヶ丘、浜垣、宝山地区全てを含む地域を神域とした神社であります。
神社創建の時代は解りませんが、これは、どの神社でもそのように見えます。
ですが、平安朝に書かれた縁起式(900年)に丹後65座の一つとして、その名があります。
これから言いますと千数百年の歴史があると思います。
ついでに説明しておきますと、この神社の宮司を務めていただいています宮津の山王宮宮司との関係ですが、宮司に聞きますと、ほんの一時期、代わった事があるそうですが、江戸時代から、須津彦神社の宮司を務めてきた記録があるそうです。
また、現在、奉賛会に登録されています氏子の数は、295軒でありますが、

氏子と言う概念は、その神社の神域で生活する全ての人々を指しているようです。

このような意味で、特別に宗教上の理由で否定されていない限り、当地に住まわれる全ての皆様を氏子と思うべきかと思います。
出来ますれば、会費、要するに、お札を買っていただく奉賛会員になって欲しいのは山々ですが。

氏神信仰につきましては、神道と言う形で集約される前は、地域、地域に住む人たちが祖先神として祭った事が始まりであり、このような意味で、今日のように競争、競争でバラバラになりがちな、皆様の心をつなぐものとして、将来まで守って行かねばならないと思います。」


ここで言います「氏」とは、特定の名前こそ出ていませんが、その地域の豪族を指している場合が多いです。
中には、菅原道真を祭った天満宮もあるように、後世になるほど、その傾向が強く、終局的には、天皇家を祀る国家神道にまでなりました。
このような意味の「氏」は希望しませんが、始原的な意味での氏神信仰は受け入れます。

中国で、孔子の性をもつ末裔が、200万人いるともいわれています。
儒教の教えの強い韓国では、結婚しても夫婦の性は変えないと聞きます。
これは、日本的にいえば「氏」を軽んじているとも考えられますが、韓国流にいえば、韓国こそ「氏」を大切に思っている事になるのでしょうね。

「人間の成長の限界」スレッドで、キリスト教の事に触れていますが、同様に「氏」と言う概念も使われている内に意味が変遷しているのではないでしょうか。

最初は、共生のための認識であったものが、その内に個の主張の目印になり、権力闘争や、個人間の利害の象徴になってきたと思います。

民主主義、資本主義の概念と同じように、気を許して使っていると我々自身の束縛となってしまうのでしょうね。
身近な生活の中でも、名家意識もたまに触れさせられます。
プライドは、ある意味で必要でもあり、現在、強いプライドを持ってない人でも、可能であればプライド意識の強い人に変わってしまうことも考えられます。
また、その可能性があるから、我慢して生きて行かれるとも思います。

「氏」を意識することは、必要悪と言う面もあり(それが無くなった場合のディメリットを考えれば)人間の性と言いますか、業と言いますか、哲学的ば意味で「人間の成長の限界」スレッドのテーマであると思います。

最後に、氏名の誤字について。

裁判や契約書などの場合は、間違っているでは済まされない事ですが、通常の生活の場合、私の事を誤字で表現される場合があります。
私は、私が確認されれば良いでは無いかと、鷹揚に構えていますが、そうではない人の方がずっと多いですね。
しかしながら、他人が間違えるのはともかく、自分が間違えることはありえません(生涯、一度もありません)

貴方の周囲で、虐げられてなくなって行った人々を、差し支えなければ紹介してください。
平和ボケしている人間は、そういうものを見たくない気持ちで充満しています。
民主主義でも資本主義でも、それに溺れていると社会の崩壊に結びつくことを見ようとはしないのです。

我が国の住民の多くが、何時、それに気がつくかが問題ですね。


メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.150 )
日時: 2013/02/17 17:42:45
名前: 遂犯無罪

鈍すれば貧ず・・か、貧ずれば鈍するか、まあどちらにせよ生きてゆくには希望と健康、そして適度な金銭が必要です。
刑務所では自己決定権は、悔悟教誨の参加の有無ぐらい、ここが長くなると看守に恭順に従うことに何の不満も無くなる。
洞窟の比喩というやつです、この共産党は70年代には今の4倍の国会議員を擁していた、それが景気が低迷する時代となり激減、先の見えない経済不安が要因でしょう。

ttp://2454ee8a381a1224.lolipop.jp/130217.jpg.html
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.151 )
日時: 2013/02/17 19:29:28
名前: 天橋立の愚痴人間

>鈍すれば貧ず・・か、貧ずれば鈍するか・・・

遂犯無罪さんらしい、受け止め方ですね。


平和ボケした社会で、人々を引っ張ろうとする試みは、まさに、ドンキホーテの仕事です。

ボランティアに膿んでいては勤まりません。
人間とは、犬、ネコよりも可愛げのない動物ですね。

まあ、それでもやるのがボランティ精神。

そんなところでしょうか。

しかしながら、世が世であれば、ボランティアも命がけ。
その分、幸せか、そうでないかも自分次第と言う事ですか。

共産党は、共産党である限り、信用できないと思っています。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.152 )
日時: 2013/05/01 13:33:00
名前: 天橋立の愚痴人間

さて、鎌倉仏教を語る前に、宗教の概念を俯瞰しておきましょう。

「宗教とは」ウィキペディアでは、

宗教の起源とは、古代において人類が宗教観や原始宗教を最初に持った時点・事象のことである。これは精神的起源と社会的起源に分類でき、それぞれの宗教が持つ固有の逸話的な起源である様々な創世神話とは区別される。
宗教の起源を解明する取り組みでは、人類の進化の過程で現われる宗教的行動から多くの情報が得られる。人間が初めて宗教的になった時期は明確ではないが、宗教的行為の信頼できる証拠は中期旧石器時代(5-30万年前)から見つかっている。古代エジプトとメソポタミアで宗教は成文化され、宗教史が始まる。

と書かれています。また、
「宗教とは何か」と言う問いに下記のような説明があります。

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。
この信念は、生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。

はっきりと言いまして、これでもあまり理解は出来ません。
また、宗教と言うものの形式的な象徴として、下記のものがあります。

●超越的存在、超自然現象、ヌミノースといった概念があり、通常は幽霊、悪魔と神のような存在や、魔法や占いのような行為が含まれる。
●ほとんど常に音楽や踊りを伴った儀式、式典がある。
●道徳、善のような社会的規範の指示がある。
●神話、宗教的真理 、教義がある。

更に、歴史的にみましょう。

(呪術の段階)

宗教は最初、アニミズムやシャーマニズムと言う形で、生産の為の自然崇拝から始った。やがてそれが一神教とか多神教の形で神という概念を創り出した。
この段階では、個人及び生計を共にする小集団がその不安に対応するために宗教活動を行うのが中心であり、そのうち指導者が長老とか呪術者という形で出てくる。

(古代宗教の段階)

その後社会が発達し、人間の生活単位が部族から民族へ、さらに国家と広がるに従い宗教のあり方(宗教によせる気持)も複雑化し大規模となり、部族神、国家神の形をとることになる。
古代エジプト王国などは、その究極の形である。
此処では王は宗教上の最高権威でもあり、宗教は個人及び生計を共にする小集団の宗教的願いを包括しながらも統治の為の要素も宗教活動の中に入ってくる。
この時代の国家は純粋な宗教国家と言える。

(世界宗教の段階)

古代国家の終わり、起源前、1000〜2000年のころになると、人間の生産力もあがり、国家としての集団生活も安定してくると、人々は「人間とは何か。「宇宙とは何か」と言う領域のことにも興味を持つようになり、国家の枠組みを突き抜けた思考をするようになる。
形而上学的な哲学が興り、宗教も国家を逸脱し万人を対象とする理念が現われた(アーノルド・トインビーが宗教論で言っている高等宗教)。
それが、現代まで続いているキリスト教であり、イスラム教、仏教の発祥となって、くしくも紀元前1000〜紀元年の間に一斉に現われた。

(日本の古代原始宗教→蛇信仰)

日本の縄文時代は約一万二千年前から始まり、約一万年続いた。中期から増大した縄文土器には蛇の造形が数多く見られ、単なる装飾というよりは呪術的な印象が強くあらわれている。また頭にマムシを巻きつけた女性の土偶や、男根を象った呪術シンボルとみられる石棒も、縄文中期からその数が増大している。近年の考古学によって、縄文中期に稲や稗を栽培していた痕跡がみつかったことから、縄文中期にはすでに農耕が存在した可能性が高く、新石器時代の日本の縄文時代にも、農耕文化によって世界的に伝播した主要な豊穣の呪術的シンボルである蛇・渦巻文・女性像・男根像がすべて見出される。このように日本は蛇信仰のメッカであった。
(農耕と関連する蛇信仰は世界中で見られる)

(神道について)

神道は、古来あった神々への信仰が、仏教、道教、儒教などの影響を受けて展開してきた宗教である。神道には、最初から明確な教義があったわけではなく、長い時間をかけて神学が形成され、とりわけ近世になって体系化が進められた。また、古来の伝統的な信仰や儀礼が「神道」として認識されるようになったのは、仏教の伝来以降のことと考えられる。

(現代日本の宗教信仰)

現代社会において、日本は無宗教の国とも言われていますが、消極的な信仰であっても神道を受け入れている人は1億人以上、仏教を受け入れている人もそれと同じくらいと考えられています。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.153 )
日時: 2013/05/01 14:53:15
名前: 天橋立の愚痴人間

鎌倉時代の仏教を検証する前に、ウィキペディアで概要を確認する事にします。

「仏教の歴史」

仏教は、約2500年前(紀元前5世紀)にインド北部ガンジス川中流域で、釈迦が提唱し、発生した(初期仏教)。他の世界宗教とは異なり、自然崇拝や民族宗教などの原始宗教をルーツに持たない。当時のインドでは祭事を司る支配階級バラモンとは別に、サマナ(沙門)といわれる出身、出自を問わない自由な立場の思想家、宗教家、修行者らがおり、仏教はこの文化を出発点としている。発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家、ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、とくに初期経典からそのような方向性を読み取れる。

釈迦の滅後100年頃、段々と釈迦の説いた教えの解釈に、色々の異見が生じて岐れるようになってきた。その為に釈迦の説法の地であるヴァイシャリーで、第二回の三蔵の結集を行い、釈迦の教えを再検討する作業に入った。この時、僧伽は教義の解釈によって上座部と大衆部の二つに大きく分裂する(根本分裂)。

仏教の上座部の一部は、スリランカに伝わり、さらに、タイなど東南アジアに伝わり、現在も広く残っている(小乗仏教)

一方大衆部は、単に生死を脱した阿羅漢ではなく、一切智智を備えた仏となって、積極的に一切の衆生を済度する教え(大乗仏教)が起こる。この考え方は急速に広まり、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・韓国・日本に伝わっている。


「日本の仏教史」ウィキペディアより

(飛鳥時代)

『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。
仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは厩戸皇子(後に聖徳太子と呼ばれる)が馬子側に参戦していた。厩戸皇子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。厩戸皇子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、天皇家自ら寺を建てるようになった。

(奈良時代)

中国や日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令(僧尼令)が導入された。だが、中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では「鎮護国家」の発想の下、「僧尼令」や僧綱・度牒制度が導入されて官僚組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。もっともこうした統制について国家が建立した官寺とそれ以外の貴族や民衆によって建てられた民間寺院(私寺)とでは温度差があったともされ、後者に対する統制がどこまで行われていたかについては意見が分かれている。
こうした「南都六宗」と呼ばれた、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが大勢を極めた。また、聖武天皇は位を孝謙天皇に譲り、出家した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造した。出家した聖武上皇は「三宝の奴」とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた「権現」であるという考えである本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作されることがあった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒を授けた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。

(平安時代)

その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせた。平安時代中期は釈迦入滅の二千年後にあたる。正法の千年・像法の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得ることができない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。貴族も阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って来迎図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に平等院を建立した。その鳳凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。だが、平安時代末期に入ると社会不安が増大し、広大な所領の持ち主であり裕福であった大寺院は盗賊などに狙われる危険性が高くなった。そこでこうした外部からの侵入者から防衛するために僧侶や信徒が武装したのが僧兵である。だが、次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団として社会の不安要素の1つになっていった。また、寺院内に石垣や堀を巡らせる等の一種の城塞化を進める寺院も現れた。

(鎌倉時代)

鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られていった。これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。これらの中には、「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける(称名念仏)事で救われるとする浄土宗、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや(『善人→「自力作善」の者=阿弥陀仏を頼りとせず、自分の力で善根功徳を積んでさとりを開こうとする者』でさえ往生できるのだから、悪人→我々のような煩悩を具足のように身にまとった者が往生できるのはいうまでもないことだ)」という悪人正機の教えを説いた浄土真宗(一向宗)、踊りながら念仏を唱える融通念仏や時宗があった。このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の日蓮は過激なことで知られ、他宗を非難し御題目を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし、民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。

鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗が、相次いで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを「鎌倉五山」という。また、虎関師錬が仏教史書である『元亨釈書』を著した。
更に従来の仏教の間でも現状を批判する動きが高まってきた。特に律宗やそこから派生した真言律宗などでは社会事業などに乗り出しながら民衆の救済に加わるだけではなく、自ら国家の指定した戒壇を拒否して独自の授戒儀式を開始するなど、新しい宗派よりも革新的な動きすら見せた。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.154 )
日時: 2013/06/16 17:31:07
名前: 鎌倉時代・・・天橋立の愚痴人間

「鎌倉時代」

大人しい民族といわれている日本にも「革命」があったと言えば、それは鎌倉時代を創出した勢力である。
大和朝廷の誕生で明確な国家の形を作って以来、平安朝までの天皇家を中心とする貴族社会を覆したのは武士団であり、ある意味で市民による権力奪取であった。

大和朝廷成立までの闘争は、豪族間の覇権争いであり、そうして出来た権力機構に対するはじめての反乱であった。
以後、日本では明治維新で受動的に体制が変わるまでは、一揆こそ起きても体制そのものを変える試みはなかった。
最も、西欧でも、それは市民革命と言われるものが200〜300年前に起きただけのものであり、頻繁に起こりえる現象でもなく、未だ明確な革命の現象を経験しない国家もかなりある。
このような意味では、日本民族が大人しいという定義には当てはまらない。

現時物語、枕草子などの、平安朝の女流文化が世界の先端を行っていたと言われるように、鎌倉時代を現出させた我が国の民の力は相当に評価なされるべきものと思う。
直接の政治権力争いは、平家、源氏に関わる伝承で確認することは出来る。
ここでは、そうではなく、仏教を通した民衆レベルでの革命の雰囲気を探りたい。

倉時代に新しい仏教が出てくる概略は、すでに書いています。
要するに。それまでの国家護持を目的とする一部の人間の仏教から、民衆中心の流布を目的としたものであり、厳しい修業ではなく信じることで救われるというものでした。
これによって仏教が大きく広まる反対に、純粋論理としての仏道意識は希薄化しても行きき将来に課題も残し、現代の葬式仏教の様なものになる可能性も含んでいたのです。
それは、さておき、このことは政治的な領域ではない分野(人間救済と言う)で大衆が市民権を得たという事になります。
ですので下記の新興仏教(鎌倉仏教)は爆発的に支持されて行きました。
その後に起きる一向一揆が、民衆による唯一の反権力闘争であったことも、此処に起源があると思います。
この新しいものを受け入れる鎌倉時代の民衆の心が、何処から来ているのか、それは待ち望んでいたものであったのか、新しいものを受け入れる勇気がどれほどのものであったか興味を引くところです。
同時に、その宗教を興した僧達の気概は何処にあったのか、何故、鎌倉時代のみにそれが噴出したのか。
勿論鎌倉時代の、新興仏教を興す動きは当時の権力者から弾圧を少なからず受けています。
キリスト教圏のそれ程ではありませんが。
その鎌倉仏教を簡単に説明しておきます。
(浄土宗)
開祖 法然  本山 知恩院
 南無阿弥陀仏と唱えると浄土に行ける

(浄土真宗)
開祖 親鸞  本山 本願寺
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(歎異抄)」と説いた親鸞以来、一向宗とも門徒宗とも言われ後世の激しい宗教活動を行なった。


(時宗)
開祖 一遍   本山 遊行寺
一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き「念仏踊り」を取り入れた。

(臨済宗)
開祖 鎌倉時代に中国から伝わったもので 栄西が中心で広めた     
本山 妙心寺、建仁寺、南禅寺派などに分散
問答と座禅を奨励

(曹洞宗)
開祖 道元   本山  永平寺
座禅を奨励

(日蓮宗)
開祖  日蓮   本山  身延山久遠寺
ひたすら、南無妙法蓮華経を唱える

以上のように現代につながる宗旨と名僧が、この時代に輩出している。

一方で、神道は、元々自然信仰、先祖崇拝と言う農業を主体とした我が国で自然発生的に起きたものであったが、大和朝廷の成立の過程で神話と結びつけられて政治に利用されるように変わってきた(大和朝廷成立の体系付け)。
それが鎌倉時代に以降、より体系つけられ国家存立の理念化されて行った。
しかしながら、鎌倉時代の当初のそれは、国家神道へ向かう後世のそれではなく神官の家に生まれた鴨長明が「方丈記」で示したように仏教的無常観が漂う世界からみて、決して後世の様なものではなかったと思われる。

それでは、「何故、その必要(国家神道化する)があったかと言う疑問を呈する」。
これは実権を失った天皇家が、以後も崇拝され現存していることにもつながる。
要するに、名目でも天皇家を中心とした平安朝を倒し、国家を掌握した武士階級が彼等自身の大義名分を求めたからであり、その傾向は江戸時代の神道(平田篤胤)で完成される。

この様に鎌倉時代は新しい社会の清新の意気込みにあふれていた時代であり、権威化、形式化していない生のままの日本人が垣間見られる時代である。
メンテ
大和魂を説明するのは難しい! ( No.155 )
日時: 2015/10/25 00:48
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:MB2nfb3k

このスレッドも、最近の10くらいの投稿が抜け落ちてしましました。

UPするついでに「大和魂」の概念について少し書いておきましょう。

「大和魂」と同様なものとして、

アメリカのフロンティア・スピリッツ
イギリスのジョンブル魂
ドイツのゲルマン魂を挙げています。

それぞれ、これと言った格別の意味は感じませんが、共通するところは民族の「気概」と言う概念でしょうか。
それは、どの民族にもあるとして、これらの言葉があるのは、その民族が、それを誇りに思っているせいでしょう。

但し、気概と言う概念が、結果として国家の暴走行為にも加担することがあります。
しかしながら、対象が何であれ、その集団が何かをなすばあい、そのようなものが認識できなければ、集団は、集団としては何も動かないと言うことでしょう。

特に民主主義が発達して、多くの人々は集団としての行動に、殆ど無頓着を決め込むようになりました。

>「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」
と言うチャーチルの言葉のうちに、民主主義の特性が良く表されています。

要するに民主主義は肯定はするが、問題もあるのである、と言う事です。
チャーチルが否定した独裁、専制政治と大衆のマインドコントロールの非は、現実的にありますが、そうかと言って民主主義の手法では乗り切れない問題もあると言う事です。

民族の「気概」とは、ともすれば、暴走します。
アメリカ大陸におけるアングロサクソンの暴虐も、イギリスの植民地支配も民族のエネルギーの結果でしょう。

ですが歴史は、好む、好まないに関わらず民族の気概によって動かされているのです。
これ(気概)を否定するのではなく、気概の方向性をコントロールすることが大切ではありませんか。

現代日本においても、横たわる問題点の根本を解決できる手段はありません。
少なくとも個人的レベルの問題として解決は不可能です。

これに向かう民族としての意思(気概)なくして、状況を動かすことはできないでしょう。
実際に、この掲示板でも、我々が憂いている状況は、何の打つ手もないでしょう。

方向性は何であっても、この状況を突破出来るのは民族としての気概が高まった時でしょう。
具体的には食料鎖国政策、市場主義経済体制の否定(部分的)、このよううなことは、個人的な現状の損得計算からではできません。

「大和魂」を持てば解決できると言うような単純なものでもなく、そのような都合の良い精神論など、あるはずはありません。
大和魂とは、こうした状況を憂いて何とか切り抜けようとする気概ではありませんか。

それが現代には殆どない。
選挙の投票率が年々減っていることも、何とかしようとする気概がない。
「大和魂」と言う言葉を使って、こうした状況に叱咤激励しているものとしたいですね。

このように見れば、フロンティア・スピリッツと言うものが、どのような場合に考えられているか、理解できるはずです。
糾弾掲示板に寄稿されている皆さんも、そうした思い、いてもたってもおられない思いが、そうさせているのであり。
それを「大和魂」とすることができるでしょう。

>かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂(吉田松陰)

かくしても何もならないものと知りながらやむにやまれぬ大和魂(糾弾掲示板)

※ ついでに説明します。ネットで発信されると言うことは、他の人にも訴えると言うリーダー心が、そうさせているのです。
大和魂と言う場合、それは必ずしも一般大衆を対象に言ってはいないつもりであると言う事です。

そうして、その皆様の想いは何に向いているのでしょう。
決して独裁国家や軍国主義ではなく、社会を何とかしたいと言う気持ち(気概)でしょう。

みんなの為に、より良い社会を求める、より良い政治を求める、その心が「大和魂」であり、これが凝縮されたとき社会は動くことになるでしょう。
現代日本は、そうした「大和魂」が希薄になっていると言っているのです。
皆さんは個人的満足観の代償に気概を持たねばならないと言う事を認識しないのです。

ですが、私は日本の歴史は、そんなものではなかった。
最も個人的な生活は今ほど満たされてはいなかったこともあります。
そのようなこともあり、
鎌倉時代から戦国時代を通して、否幕末の様相も、日本を思う「大和魂」が息づいていたと思います。
戦前の「大和魂」は確かに方向性が間違っていました。
軍事政権のすることが、より良い道と思わされてきたのです。

ですが結果として「大和魂」が日本のためにはならなかったのは、明治以降の一時期だけの問題です。
後の時代は、権力は権力として、民衆は従わざるを得なかったものの、決して権力に服従していた訳ではないのです。

ずっと将来は地球国家として人類は一つのシステムの中で生きていくものとしても、それまでは、やはり集団を統率する理念も必要でしょう。
地球国家となっても「大和魂」のような概念は必要でしょうが、そんな時には「大和魂」とか「ゲルマン魂」とか区別する必要はないでしょうが、とりあえずは現代、我が国が我が国としてできることはやらねばならないでしょう。

「大和魂」と呼ぶような概念なしに、やっていけるでしょうか。そのような概念の裏打ちなしにやっていけるでしょうか。

やっていけるものなら、糾弾掲示板に何も書き込まなくても、様子を見ているだけで良いことになります。
「大和魂」のような概念を具体的に現せないのは、このような概念なのです。
全体としては、何らかの色のついた「大和魂」ではいけないのです。

最後に、社会を何とかしたいと言う気概ですが、
その方法は飽くまでも日本的な発想が根底にあり、決してフロンティア・スピリッツやゲルマン魂とは同じではありません。
だから「大和魂」なのです。

メンテ
大和魂の言語学的おさらい ( No.156 )
日時: 2015/10/26 19:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:omAbr/Kw

満天下さんなどに、かなり誤解されているようなので、ここで言語学的に「大和魂」を検証して見ます。

言語はある個人の認識(認識内容や関係意識――以下同様)を他の個人に伝えるための物質的・物理的媒介物である。個人の認識そのものを直接他の個人に伝えることは不可能であるからそれをなんとか伝えるための媒介物として人類は言語や絵画などの表現を創り出した。したがって人間が自己の認識をいかにして言語(表現)という形態に変換し、また言語(表現)という形態からいかにして他者の認識――この場合の他者には自己も含まれる――という形態を再形成するのかを知るためには、人間の認識がいかなるものであるのかという科学的な研究が必要になる。(三浦つとむ著 認識と言語の理論)

要するに、言葉を用いて意思伝達をするのであるが、微妙な問題ほど、よほど神経を使わなければ、自分が思う事を相手に伝えることが出来ないと言う事です。

さて「大和魂」と言う言葉ですが、大和と言う言葉自体は地名をさし、これによって、その地方に住んでいた民族の総称と言う意味でも使います。
ですが、これを日本と言う国家を意味する事があるのです。
単なる民族の総称と、国家をさすこととは微妙に違ってきます。


また、魂と言う言葉は、通常、次の様な場合に使います。

1 生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられるもの。古来、肉体を離れても存在し、不滅のものと信じられてきた。霊魂。たま。「―が抜けたようになる」「仏作って―入れず」
2 心の活力。精神。気力。「仕事に―を打ち込む」
3 それなしではそのものがありえないくらい大事なもの。「刀は武士の―、鏡は女の―」
4 (多く「…だましい」の形で)そのもののもつ固有の精神。また、気構え。「大和(やまと)―」「負けじ―」
5 思慮。分別。
6 素質。天分。才気。

これは飽くまでも個人の人格的な内容を現しているに過ぎません。

これが組み合わされて

「大和魂」となった場合が大変です。

一般的には、以下の様に言われています。

>日本民族固有の精神として強調された観念。和魂,大和心,日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので,古くは中国に対し,近代以降は西洋に対して主張された。

いつの間にか、民族の心が国家の心となってしまっています。
国家と言う概念は、別途検証しましたが、決して地理的なものにとどまらず、国家を構成する国民の利害も含むことになります。

更には、これが国家神道とも結びつき、国家の為に死を顧みず行動する勇猛さを「大和魂」と解釈するようになりました。

どこで間違ったかと言えば、大和と言う言葉を国家と置き換えたこと。
大和魂と言うのは、飽くまでも大和に住む人たち(民族)のこころの持ちように過ぎないのです。

個人の、こころの持ち様が源泉なので、それは具体的な事象に対して結束を促す様なものではないはずです。
先にも書いていますように、糾弾掲示板で社会を憂うのも大和魂のなせる事と思います。
松陰の様な厳しい大和魂も見られますが、みんながみんな、そのように気違いじみた行動をされても困りものです。

それぞれの立ち場の人たちの、それぞれの生き様と言ってよいと思います。
その大和魂は、人の為に社会の為に必要な事があれば、それにも向かってやると言う単なる気概であり、思想的な方向性とは関係ありません。

但し、それは古くは平田篤胤などが出てから、大和と言う単語を国家と規定し、神道的な大和魂の概念を構築することになりました。
大和魂と言う言葉の意味は数種類挙げられていますが、近世以降はこの傾向が強く明治以降最悪の使われ方になりました。

これは、民族のこころとは、似ても似つかぬ概念です。
「大和魂」の概念には決して国家があってはなりません。

それを統合して何かをするのではなく、飽くまでも個人のこころの持ちようの事です。
ですが、実際には、ここまで誤解されてしまった「大和魂」を正しく受け入れさせることも大変でしょう。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.157 )
日時: 2016/02/13 11:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:El3Dbx/E

文明的転換の為のスレッドですが、後半の部分が、先のサーバのトラブルで消えてしましました。

鎌倉時代の検証ですが、思い出しながら続けて見たいと思います。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.158 )
日時: 2016/02/29 17:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:HDnb.89E

大和魂と言う言葉が、この掲示板の中でも随分と歪に捉えられています。

大和魂は、我々日本人の心のルーツとして取り上げています。

何が、大和魂でしょうか。

現代日本の困難を克服するために心を合わせましょうと言う意味で

大和魂を探っています。

随分と長いスレッドになっていますし、未だ完成していません。

興味のある部分でも垣間見てきださい。
メンテ
今までのまとめ ( No.159 )
日時: 2016/05/17 11:25
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KrDwBxyc

このサイトのサーバのトラブルにより最近の鎌倉時代の検証をして記事の多くが消失しがっかりしていましたが、気を取り直して再開します。

このスレッドは、表題の「大和魂」と言う言葉で連想されるような、民族精神を鼓舞するようなものではなく、日本に生きる人々の生き様を考えようとするものです。

日本人の特性を表すのに「和」と言う概念がよく使われます。
ある意味で正しい認識とおもいますし、多くの人がそのように思い込んでいます。

世界の各地にも、多民族に対しても、国内生活に置いても戦闘的ではない民族があります。
それは概ねブータンや東南アジアの島国の様に小さな民族です。
1億の国民を有する大国で「和」の心が、これほど息づいている民族はないでしょう。
大きな民族というのは、常に闘争を繰り返し発展してきた場合が多いのです。

「和」と言う概念が注目されたのは、1500年前に聖徳太子が取上げられた頃からです。
このスレッドでは、その頃、及びそれ以前の日本民族の様子を探り「和」の最新がどこから生まれてきたのかを検証することから始めました。

しかしながら、民族性と言うものを、単純に「優しい心」とか「争いを好まない」とは「融合の精神」とかの単語に押し込めて考えるのは軽率であり、もっと深く考える必要があります。

そこで、古代の神話、伝説のないようを通して、それを他の民族のそれと比較することによって、当時の日本人の特徴をつかむ事に随分と時間をかけました。
これは、日本民族の特徴を「和」などという単純な概念を当てはめるのではなく、当時の生活の有り様を探求することで、我々自身が感じる必要があると思ったからです。

それを調べているうちに、日本民族のルーツを見ることになり、日本民族と言うものは紀元前1万年頃から大陸や南方から渡ってきた多様な人々の集合体と言うことが解りました。

また人口的には弥生時代以降に、より多くの渡来人があり、海外の文化も多く入ってきました。
その中で、弥生時代に伝わった稲作の影響で、我が国にも大規模な集落が出来ると共に、豊作を願う信仰行事が盛んになり、そこから氏神信仰が興りました。

おそらく、神話、伝説の内容も、当時の人々が作り上げ、語り継がれたものでしょう。
このスレッドの副題「日本人の心のルーツ」を弥生時代と考えて良いと思います。

もちろん日本民族の生活も、その後大和朝廷により統一、飛鳥時代へと進み、全てが体系付けられてきました。
その中で「和」の概念が尊重されて来たのだと思います。
しかしながら「和」と言っても、実際の生活自体が「和」にかなったものであったと言うことではありません。
「和」の心が強い民族が、実際はどのように国づくりをしてきたのでしょう。
そう言うことがテーマなのです。

次に「大和魂」ですが、これは「和」の概念とは異質のものです。
「大和魂」とは、先に挙げた、

>「和」の心が強い民族が、実際はどのように国づくりをしてきたのでしょう。

この国づくりに登場する要素なのです。
統治と言うものは「和」の心だけで成り立つものではありません。
「和」と反対の機能も必要となるからです。
また、統治の問題だけではありません。
時代の文化的発展も「和」で充足出来るものではありません。

民族の生命力とは「和」以外の要素なのです。
その象徴を「大和魂」と現しています。

政治的な「大和魂」は大和朝廷成立から飛鳥、平安時代で検証し、文化的なことは平安時代から鎌倉時代に、その様相が顕著に見られると思い鎌倉時代には格別の注目を払いスレッドを続けてきました。

鎌倉時代には現代に続く大衆仏教、舞踊、工芸などが芽生えています。
遺族社会から武士社会(武士とは言ってもいわば民主国家とも言えるのです)に変遷。
海外雄飛(倭寇)など、良い悪いは別として民族の力が息づいていた時代と思います。

今後は、この活気ある民族性が、やがて徳川政権の政策、儒教精神の流布、武士道精神による束縛などで民族性を萎縮させてきた経緯を検証し、明治時代を検証し、我々日本民族の本来の姿、民族の心は何であったかを見てみたいと思います。


メンテ
鎌倉時代考証 1 ( No.160 )
日時: 2016/05/19 15:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BjMZCv6Y

鎌倉時代は我が国の民族の伊吹を感じされる時代であったと思っております。
大和朝廷成立以来、数百年続きた貴族政治から武士階級が政権をとったということは、ある意味、民主化の始まりでしょう。
思えは中国では清王朝、韓国では李氏の朝鮮王朝までは貴族政治であり、建国時代の有力部族が政権をたらい回しにしてきました。

鎌倉武士団による政権ダッシュは、中国、韓国、それに西欧の場合も含めて、数百年も古い快挙であったと思います。
これから少しの間、その鎌倉時代とは、どのようなものであったか見てみましょう。

鎌倉時代考証

(鎌倉時代の政治)

鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されているが、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷の支配との二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移っていった時代とみるのが適切であろう。
鎌倉時代を通して京都朝廷との対立は続き、最終的には朝廷の意を受けた足利氏により鎌倉幕府は終焉を迎える。
代わって政権を取った足利氏も武士出身であるにも関わらず貴族化した政治を行う様になる。
室町幕府は200年以上続いたが、世の中は乱れ、戦国時代を経て、再び強力な武士政権が出来た。
鎌倉時代の対外関係としては、当時、中国は宋から元の支配となっていて、その戦闘的な性格から良好な交易とはならず、最終的には元の侵略対象となり2度の戦役が起きる。
国家としての交易の不振であるか否かは、分からないが、民間で「倭寇」と言われる集団が、韓国、中国での略奪を初めている。

「鎌倉時代の文化」

鎌倉時代の文化の特徴をざっくりと言うなら、武家政権が確立し、武士の力が強くなったので、武士の好む素朴で力強い文化が発達したといえる。また、武士や民衆は教養の程度が高くなかっため、わかりやすく親しみやすい文化が発達した。ただし、京都では伝統的な公家の文化が栄えたし、日宋貿易も盛んだったことから、宋の文化の影響もあるということに注意したい。
(武士の習俗)
流鏑馬の射手の狩装束
笠懸(「男衾三郎絵詞」東京国立博物館蔵)
上述したように、鎌倉時代にあっても主たる文化の担い手は公家や寺社であり、一般的に武士の文化水準は低かった。承久の乱の際、5,000を超える武士のなかにあって後鳥羽上皇の院宣を読むことができた藤田三郎は「文博士」と称されてめずらしがられるほどであった。しかし、武家政権の成立にともなう武士階級の政治的、社会的、ないし経済的成長は、おのずから彼ら自身を文化を享受する立場へと引き上げ、上述の板碑などにみられるごとく、彼らの好みや指向を反映する新しい文化の創造をうながすこととなった。この時代の仏教が新仏教・旧仏教ともに穢れ多き者の救済を掲げたことも、武士階級の地位向上と深いかかわりがある。

武家特有の文化も徐々に形成されていくこととなった。その萌芽は武士の日常生活のなかに認められる。たとえば、戦陣に備えた犬追物、流鏑馬、笠懸の修練は「騎射三物」と称されて重視されていたが、王朝国家の武人の儀式も採り入れて「弓馬の道」として体系化がすすみ、つぎの室町時代にいたっては礼の思想その他と融合して武家故実の一部となった。狩猟行為であると同時に軍事演習の意味も有した巻狩は、山の神を祭る聖なる行事でもあり、富士野・那須野でのものが有名である。巻狩の獲物はイノシシやシカであり、貴族や仏僧が宗教上の理由で忌み嫌った獣肉も、武士にとっては重要な食糧となった[25]。工芸の面でも、甲冑や刀剣の名品がつくられている。

のちに武家の家訓へと発展していくものとしては、武士の子弟に対する教戒があり、北条重時家訓(極楽寺殿消息)、金沢実時教戒などが著名である。武家文書のなかに多数のこって今に伝えられる置文にも同様の内容が盛られている。

武家の学問への関心も高まり、北条実時(金沢実時)は、鎌倉の外港として繁栄した六浦の金沢(現在の横浜市金沢区)に金沢文庫をつくって和漢の多くの書籍を集めた。その子孫も文庫の充実に努め、のちに金沢氏の菩提寺であった称名寺が管理を委ねられた。収蔵されたおもな書籍は、古鈔本、宋版、元版で、『群書治要』『春秋左氏伝』『尚書正義』『律』『令』『論語正義』『春秋正義』『文選』『白氏文集』等がある。このような営為の蓄積が、室町時代にはいって武家が衰亡化する公家にかわって古典文化保存の担い手たる役割を果たしえたものと指摘される。また、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』も幕府自身によって編集された。
メンテ
鎌倉時代考証 2 ( No.161 )
日時: 2016/05/19 17:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:BjMZCv6Y

鎌倉時代の文化は、今までの貴族の文化とは異なり、中国の宋の影響を受けながらも素朴で力強いものが多く、貴族や武士だけ
ではなく、一部の庶民まで広がりを見せている。

宋風文化の移入

上述した禅や宋学のほかにも宋風文化の移入は多岐にわたった。幕府もまた、京都の朝廷との対抗上、新しく確立した東国政権を宋風文化によって壮麗かつ威厳あるものにしようと意図した。陳和卿などの宋人が多数渡来・移住し、博多には大唐街(唐人町)がつくられた。肥前今津、肥前神埼荘、薩摩坊津、越前敦賀にも宋人の来住があった。日本列島の側からも重源・栄西・俊芿・道元などが渡宋したが、栄西は将軍源実朝に宋より伝来した茶に関する『喫茶養生記』を献上しており[2]、道元とともに渡宋したといわれる加藤景正も大陸の製陶技術の影響を強く受けた。

宋との往来や活発な日宋貿易は、宋銭の大量輸入をもたらし、これにより日本でも本格的な貨幣経済が進展して商業取引がさかんになった。そのことは経済や政治のみならず文化の諸相にも影響をあたえた。律令国家期の大陸文化の移入は外的には華やかさ、強さがあっても、そのおよぶ範囲は限定的であったのに対し、民衆の地位向上の進展が著しい鎌倉時代以降にあっては、外来文化の影響は必ずしも表面的に際だってはいないにもかかわらず、後世の日本人の生活様式に広汎な影響をおよぼしたといえる。

鎌倉時代に興った大衆仏教については先に書いたので省略して、

(絵画)

絵画では、前代につづいて絵巻物がさかんにつくられ、写実的性格の強い人物肖像画があらわれた。絵巻物のなかにも伝記物が登場し、肖像彫刻の隆盛と合わせ、この時代の個人および個性に対する強い関心がうかがえる。

絵巻物

院政期につづいて、絵巻物がさかんにつくられ、全盛期をむかえた。戦乱や武士の生活に題材をとったものがあらわれ、寺社の縁起や高僧の伝記、仏教説話などを題材としたものも多く描かれた。後者は、民衆に教えを広めるためにさかんに制作されたもので、社寺への報恩の意味で奉納されたものも多かった。

合戦絵

>「平治物語絵巻」

「後三年合戦絵巻」雁行の乱れ平治物語絵巻平治の乱を描写した合戦物で鎌倉中期(13世紀)の制作である。紙本著色。藤原信頼・源義朝による「三条殿夜討」の場面がとくに有名。六波羅行幸巻1巻(東京国立博物館所蔵本)は国宝に指定されている。他に静嘉堂文庫本、米国ボストン美術館所蔵本等がある。この時代の大和絵正系に属する作者による合戦物の最高峰と評される。蒙古襲来絵詞元寇のようすを描いたもので、肥後国の武士竹崎季長が子孫に自分の活躍を伝えるために描かせたもの。当時の武士気質と戦闘の実際を伝える貴重な絵画資料ともなっており、土佐長隆の筆と伝わる。私的な事項についてみずから絵巻にして記録した事例は他に類例をみない。三の丸尚蔵館蔵。前九年合戦絵詞『陸奥話記』を先行文献として前九年の役の経緯をあらわしたもので、現在は千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に所蔵されている。重要文化財。後三年合戦絵巻後白河法皇による4巻本と玄恵による6巻本があるが、後者は1347年(貞和3年)に飛騨守惟久によって描かれたものと伝わる[51]。後三年の役において出羽清原氏の内紛に介入した源義家を描く。殺戮の場面が生々しくあまりに残虐なため、宗教的意図の介在も指摘される。東京国立博物館所蔵。重要文化財。


(工芸)

工芸の面では、武士の成長とともに武具の製作がおおいにさかんとなった。陶磁器・漆器などの面でも新傾向がみられる。

染色

伝世された遺品は必ずしも多くないが、東京国立博物館の鎧直垂の錦、東寺の舞楽用具の錦などによって、この時代の力強い作風がうかがうことができる。全体的に伝統的な技術に則っていたが、鎧の威(おどし)や染皮(そめかわ)においては新しい技術・技法の発達がみられた。なかでも、鎌倉時代初期につくられた大山祗神社(愛媛県今治市)の赤糸威は優品として著名である]。この時代の武士は、合戦で目立つ赤色をことのほか好んだ。

甲冑・刀剣

甲冑では京都に住んだ明珍が名高く、鎌倉時代のはじめごろに初代が朝廷より明珍の号を賜り、以後代々この号を称したため、この流れを汲むものを明珍派(または明珍家)と呼んでいる。甲冑はまた鎌倉時代後期になると戦勝祈願のために神社に奉納する慣習が定着したため、いっそう装飾性を強め、鎌倉末期の制作になる青森県八戸市の櫛引八幡宮および奈良市春日大社の赤糸威鎧はいずれも国宝に指定されている。

刀剣は、山城、大和、相模、備前、備中などの諸国の鍛冶がそれぞれに地鉄や刃文に特色のある作品をつくった。山城の来派(らいは)、備前の長船派(おさふねは)・福岡一文字、備中の青江派などは多くの著名刀工を輩出している。個別の刀工としては備前長船の光忠、長光、京都の藤四郎吉光(粟田口吉光)、鎌倉の正宗、景光などが著名で、多くの名品を残した。これら刀剣は、日宋貿易での重要な輸出品でもあった。

陶磁器

尾張国猿投窯では、すでに5世紀頃から須恵器が生産され、平安時代前期(9世紀)には中国の越州窯青磁を範とした施釉陶器が焼造されていた。しかし、平安時代中期以降、律令制の崩壊とともに猿投窯はその製品を支配者層向けから一般庶民層向けの大量生産品へと転換させていった。それに応じ、施釉陶に代わって実用的な無釉の碗皿(山茶碗)が大量生産されるようになるが、こうした動きは12世紀に本格化し、中世全体を通じて展開される。山茶碗窯の分布は、伊勢の亀山周辺、駿河の藤枝周辺、飛騨の高山周辺におよぶ広大なものである。これら猿投窯系の山茶碗窯のなかから常滑焼と渥美焼があらわれ、無釉または自然釉(窯の中で自然に灰が降りかかって釉薬となったもの)の壺、擂鉢、甕などの日常雑器が生産された。

一方、猿投窯の流れをくむ尾張の瀬戸窯では、宋や元の舶来陶磁器の強い影響を受けながら、13世紀から施釉陶器の生産が発展した。瀬戸の施釉陶は、道元とともに入宋した加藤藤四郎景正が、宋の製陶法を学んで帰国したのち創始したものという言い伝えが残るが、こんにちでは、その伝承には裏づけがないとされている。ただし、古瀬戸焼の製品には器形などに宋・元の製品の強い影響がみてとれることも確かである。古瀬戸は中世の日本で唯一の人工的に施釉した陶器として珍重された。器種は中国白磁を模した梅瓶、四耳壺、水注が多くつくられ、経筒などの仏器もあり、前代に比較して器種の増加が著しい。釉薬は当初灰釉が用いられ、後に精製した灰釉で黄色に発色した黄釉、鉄分を混入して飴色に発色した飴釉、天目釉などが用いられた。

12世紀から13世紀にかけては、常滑窯系列から常滑焼、信楽焼、丹波焼、越前焼など全国を流通先とする地方窯(じかたよう)がつぎつぎに生まれ、それに前述の瀬戸焼と須恵器系の備前焼とを加えて、世にいう「六古窯」の名称が後世生まれた。「六古窯」という用語は小山富士夫が昭和30年代に使用し始めたものである。その後の研究の進展により、中世の日本には「六古窯」以外にも多数の窯場が存在したことが判明しているが、中世から今日まで製陶が継承される窯の代表的なものが「六古窯」であるといえる。当時広く流通したものの今日では廃れた地方窯もまた数多い[62]。これら陶器は日本列島に広く流通し、京都・鎌倉をはじめとして、各地の湊や宿などの都市遺跡から出土している。

日本において磁器が製造されるのは近世以降のことで、中世においては青磁・白磁・青白磁などいずれも宋・元および高麗からの輸入品であり、もっぱら上層階級により珍重された。院政期から鎌倉時代の前半では白磁が多くの遺跡より出土するのに対し、鎌倉時代中期以降はとくに龍泉窯(中国浙江省竜泉市)の青磁が重んじられた。なお、古代の土師器の流れを汲む素焼きの土器は「かわらけ」と称されて祭祀を目的として大量に使用された。1回限りの使用ですぐに廃棄されるという独特の使用がなされたため、中世の遺跡からは大量のかわらけが確認される。

漆器・漆製品

漆器は、前代にくらべて器形が端正になり、文様も従来の象徴的な自然描写から写実的な絵画表現へと変化した。また、歌絵、葦手絵にならった意匠も用いられた。技法としては、平蒔絵、高蒔絵も出現した。

鎌倉時代前葉では、畠山記念館所蔵の蝶文手箱、出雲大社秋野蒔絵螺鈿箱、輪王寺蒔絵手箱、中葉では、鶴岡八幡宮籬菊文硯箱、サントリー美術館浮線綾文手箱、後葉では三嶋大社梅文蒔絵櫛笥、大倉集古館の扇散文蒔絵手箱などがある。

なお、この時代の螺鈿技術の進展も著しく、ことに、螺鈿のみで巧妙に絵画的模様を示した永青文庫所蔵の時雨鞍は、その妙技を示す逸品として名高い。

金工

鎌倉時代の金工品として知られているのが、安芸国厳島神社(広島県廿日市市)の密教法具および近江国神照寺(滋賀県長浜市)の透彫金銀鍍華籠である。また、三嶋大社の手箱(梅文蒔絵櫛笥)には数種におよぶ美麗な和鏡が内容品として納められている。

舎利信仰の高まりとともに多くの舎利塔が造られたが、なかでも透かし彫りの美麗さで知られるのが西大寺(奈良市)の金銅透彫舎利塔である。梵鐘には鋳物師物部重光による建長寺鐘、同じく物部国光による円覚寺鐘があり、鎌倉時代の二大梵鐘となっている。それぞれ建長七年(1255年)、正応三年(1290年)の紀年銘が刻されている。


書道

書道では、平安時代に藤原行成が創始した世尊寺流はしだいに公家社会で衰え、かわって宋・元の書風が伝えられたのを受けて鎌倉時代末に伏見天皇の第6皇子で京都青蓮院 の尊円入道親王 が青蓮院流をひらいた。青蓮院流は、和様(世尊寺流)をもとに宋(とくに南宋の張即之)の書風をとり入れたもので、江戸時代には朝廷・幕府・諸藩の公文書に採用され、御家流と称された。庶民間でもひろく普及し、習字の手本などにもなっている。有名な『鷹巣帖』は、同じ持明院統で兄後伏見天皇の孫にあたる後光厳天皇のために、尊円が漢字と仮名で詩歌を一巻に書きついだものである。


古典研究

鎌倉時代に入ると、日本の古典研究(和学)が顧みられるようになった。日本書紀の民間初の注釈書である卜部兼方の『釈日本紀』のほか、鎌倉の僧仙覚が万葉集の諸本を校訂して注釈書『万葉集註釈』(別名『仙覚抄』)を著し、源氏物語の研究では、源光行・源親行父子が『水原抄』を著して注釈を加えた。

歴史研究

『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮による序文
執権政治のもとでの合議制への参加や成文の法典などを定めるようになった鎌倉武士たちも、ようやく内外の文化や学問への関心をいだくようになり、幕府の歴史を編年体でしるした歴史書『吾妻鏡』が編纂された。執権北条時頼の命令によって書かれた公的日記であり、全52巻、頼朝挙兵から1266年(文永3年)までを記述している。鎌倉時代の政治史を知る上での根本史料となっている。

鎌倉時代の史論書として名高いのが、天台座主で九条兼実の弟、また『新古今和歌集』の歌人でもあった慈円の『愚管抄』である。転換期の世相を深い思索をもとに記しており、歴史をつらぬく原理をさぐり、「道理」による歴史解釈をこころみた。『愚管抄』は、一貫して慈円自身が歴史の瞬間に我が身を置き、歴史を追体験するかたちで叙述されており、人間の理解やはからいを超越した歴史の不思議が歴史を動かす力ともなっていること、あるいは、歴史が動くときの軸ともなっていることを「道理」の語で表現しようとしている、との指摘がある。そして、公家社会の人びとにはどうしても理解できない「武者ノ世」の出現を、道理のしからしむるところと考え、幕府との協調を説こうとした。この著は、承久の乱の直前に後鳥羽上皇の挙兵を知って記されたもので、慈円はこの挙兵を道理に合わないとしてひとつの思想的立場から批判したのであり、また、現実の政治論としての意味ももっていた。

上述の日本書紀の注釈書『釈日本紀』のほか歴史への関心は仏教史におよび、日本最初の仏教史として臨済宗の僧侶虎関師錬によって『元亨釈書』が著述された。


※ 文化の対象が、貴族の趣味から、現実に即したものとなっています。
メンテ
鎌倉時代考証 3 ( No.162 )
日時: 2016/05/20 14:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Y9Y2S9E2

(文学・文芸)

鎌倉時代の文学は、軍記物の隆盛など武家の成長をあらわす新しい傾向とともに、公家がそれに対抗して伝統に傾斜してその集大成を指向する傾向が強く、すぐれた和歌集があらわれた。また、転変する時代の移りかわりを冷静に受けとめて思索し、それを書きとめた人びともいた。

この時代の文学の特徴に無常観がある。『平家物語』冒頭の「諸行無常」は有名であるが、無常観にもとづいて人生を観照しようという態度ですぐれた随筆や評論があらわれた。鴨長明の随筆『方丈記』が代表的であるが、武士出身の西行が諸国を遍歴して詠んだ歌を集めた『山家集』もその所産といえる。卜部兼好『徒然草』にも無常観はみられるが、長明よりも兼好の方が現世に対する距離が近い。上述した慈円の『愚管抄』も、歴史の移りかわりに無常をみて、その転変の原因などについて思索した著作である。

隠棲した人びとの手になるものに優れた作が多いのも、この時代の特徴である。公家の手になるものの多くが創造性や現実主義・写実性を欠き、文学上の新展開を主導できなかったのに対し、隠者は、より自由な立場にあって、客観的な批判精神によって新興階級たる武士の台頭の意味に一定の認識をなし得たことが、その理由として考えられる。

軍記物

この時代の文学の特色を示すものに軍記物がある。いずれも漢語や仏語、俗語とくに武士ことばをまじえた力強く簡潔な和漢混淆文でつづられた。従来の漢文体の合戦記では表現できない躍動性が発揮され、実際の武士の活躍ぶりが描かれている。

本格的な軍記物のさきがけをなすものとして、保元の乱を題材とする『保元物語』、平治の乱を描いた『平治物語』が知られる。ともに成立年代は不明だが、『平家物語』に先だって成立したと考えられ、前者は鎮西八郎源為朝を、後者は悪源太源義平を主人公とし、両乱を題材としながらも主人公の悲壮な武運を描いている。

『平家物語』は、全編を「盛者必衰」の無常観によりながら平清盛・木曽義仲ら個性的な武士像や運命に翻弄される女たちの悲哀などを和漢混淆文によって描いており、合戦場面のきびきびとした簡潔な文体、女性の哀話における叙情的な和文体など多様な文体が駆使されている。一族の運命をみずからの運命として受容し、いさぎよく最後まで戦い抜いた武士たちを生き生きと描ききったところにこの物語の魅力があり[69]、また、「祇園精舎の鐘の声…」ではじまる韻律的な書き出しは特に有名である。

後続する『源平盛衰記』は『平家物語』読み本系の写本中の一異本と考えられ、異説・異伝も載せるなど一種の史書としての体裁をとっている。他に戦乱に取材したものとしては1221年(承久3年)に後鳥羽上皇が討幕の兵をあげた承久の乱を描いた『承久記』がある。なお、そのころに著述されたと思われる『平家物語』巻十二「六代被斬」では、「承久に御謀反おこさせ給ひて」という一節がある[注釈 37]。

歴史物語

平安時代の『大鏡』『今鏡』を受けて『水鏡』が著されている。いわゆる「四鏡」の第三にあたるが、叙述の対象となっているのは『大鏡』より前の神武天皇から仁明天皇の治世54代の事績である。筆者は、平氏一門と親しく、頼朝や院ともかかわりをもった公家の中山忠親である。長谷寺に参籠した老女がその夜に出会った修験者の語った不思議な体験を書き記したという体裁を採用している。史実は『扶桑略記』をもとに編年体で叙述されており、仏教思想の影響が強いとされる。

説話文学[編集]

説話文学では、院政期文化のあとをうけて、多くの説話集がつくられた。文芸性豊かで『今昔物語集』の続編にあたる編者不明の『宇治拾遺物語』、承久の乱後、橘成季が古来の伝説を集めた『古今著聞集』はいずれも世俗的興味の多い説話集である[67]。『宇治拾遺物語』は196段中80段余りが『今昔物語集』と重複する。庶民の生活にふれた新鮮でユーモアに満ちた伝説や童話などを多くふくむ。また年少者への教訓書で儒教の影響がみられる『十訓抄』、源顕兼の『古事談』がある。仏教説話では禅僧無住が弘安の役前後に著した『沙石集』、平康頼の『宝物集』、鴨長明著ともいわれる『発心集』、西行の漂泊に仮託された編者不明の『撰集抄』、それに影響を受けた僧慶政作とみられる『閑居友』などがあり、いずれも世人を教化して菩提心をおこさせようという意図をともなっている]。

このなかで『沙石集』は125段の短編説話が仏教原理をまじえて説かれたものであるが、鎌倉に生まれ尾張国木賀崎(名古屋市東区)の長母寺に遁世したという無住自身が諸国を遍歴したため、実際にかれが見聞したものも多く、民間の挿話や伝説、童話のほか連歌の作例などのほ]、なかには当時の僧侶の生活をありのままに記したものもあり、当時の庶民の生活や思想も知られる貴重な歴史資料となっている。

随筆

鴨長明
時代の流れを冷静に受けとめ、それを随筆として書きとめた人びともいた。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」の名文で知られる鴨長明の『方丈記』は、人間も社会も転変してすべてはむなしいと説いた。最晩年に日野山(京都市伏見区)の奥に一丈四方の草庵を営み、「世の不思議」と人とのかかわりを思索するなかで、長明は「方丈」という自らが占める栖という空間の意味を見いだし、そこに自身のすべての思いを託した[70]。また、長明はわびしい生活を送りながらも信仰一途に生きた求道者でもなかった。保元以来度重なる兵乱と諸勢力の消長、福原遷都や数々の飢饉を経験した長明は、すべてを泡沫のごときものとしてあきらめるいっぽう、逃避と否定の生活に安住しようとして安住しきれなかったのであり、その苦悶が彼の諦観を文学的、人間的なものにしているのである。

鎌倉時代末期には説話文学の系譜をひく卜部兼好(兼好法師) があらわれた。その代表作『徒然草』は、「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」の序段でつとに有名で、著者の広い見聞と鋭い観察眼によって人生や世相を批判的にながめた名随筆として知られる。長明と兼好はともに遁世して隠者としての生活をおくり、『方丈記』と『徒然草』は国風文化期の清少納言『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」と称されることがある。

紀行文

散文では、国内政治が二極構造となり、京都と鎌倉の往還がさかんになったことを反映してすぐれた紀行文があらわれた。

そのなかのひとつに、阿仏尼が、藤原為家との実子(冷泉為相)と為家の嫡子二条為氏とのあいだで起こった播磨国細川荘をめぐる所領相論で幕府に訴訟するため鎌倉に赴いた際の紀行文日記『十六夜日記』がある。

『海道記』と『東関紀行』はともに著者不詳の紀行文であり、いずれも和漢混淆文で記された、中世紀行文学の嚆矢となった二作品である[71]。前者は1223年(貞治2年)に京都白河の中山に住む「侘人」が、後者は1242年(仁治3年)に京の東山に在住していた「閑人」がともに鎌倉を旅したようすを紀行文としており、『東関紀行』の作者は『海道記』を読み、それを強く意識し、かつ前提にして書かれているという要素が濃厚である[注釈 39]。『海道記』の作者については、かつては鴨長明説もあったが長明没後の作品であることが明らかであるので、こんにちでは源親行説が有力である。

日記・日記文学

平安末から鎌倉時代初期にかけては、関白九条兼実の日記『玉葉』、内大臣中山忠親の日記『山槐記』などが著名である。ともに中央政界で重要な位置にあった人物の手になるものであり、内乱期の政治史にとって重要な史料となっている。幕府編纂の『吾妻鏡』は北条時頼の命令によるものであり、それ以前の幕府創業期の記述は少なからず誤りをふくんでいるほか、『平家物語』をはじめとする軍記物で記される事実とは多くの点で異なる叙述がなされているため、『玉葉』『山槐記』はこれらを補う文献資料としてよく用いられる。

藤原定家『明月記』は、1180年(治承4年)から1235年(嘉禎元年)まで56年の長きにわたってを漢文によって克明に記した日記であり、子孫にあたる冷泉家に歌道・書道の家の家宝として相伝されたものである。『新古今和歌集』成立期の資料としては他に源家長の『源家長日記』がある。

他に、『岡屋関白記』、『勘仲記』、『三長記』、『花園天皇宸記』、『伏見天皇宸記』、『平戸記』、『民経記』などの日記・日記文学があらわれた。女性の作品には、宮仕えの記録を主とする『建春門院中納言日記(たまきはる)』、『弁内侍日記』、『中務内侍日記』や、阿仏尼『十六夜日記』があり、後深草院二条(あかこ)の『とはずがたり』は赤裸々な愛欲生活と出家後の旅の描写に特徴があり、論者によっては中世最高の自伝文学との評価がある。発見が遅く、その意味では忘れられた名作と言ってよい。

評論

日本最古の物語評論書『無名草子』が1201年(建仁元年)ころに成立している。筆者は藤原俊成女ではないかとされている。『源氏物語』など28編の物語や歌集・歌人などを批評しており、文学史的意義が高い。『源氏物語』を最高傑作とし、上述した擬古物語の評価は低い。散逸した物語を知る資料にもなっている。小野小町や清少納言など女性についても論評している。

慈円『愚管抄』は、歴史を「道理」と末法思想の観点から眺め、独特の歴史哲学を展開した歴史評論書である。


和歌

鎌倉時代初期の公家社会では、ことに和歌がさかんであった。歌人としては藤原定家が名高く、平安時代の伝統に学んで、技巧的な表現をこらしながら、妖艶で情趣豊かな歌をよんでおり、また、観念的な美の境地を生み出そうとした。こうした新しい歌風と歌論は、当時の歌壇の中心となり、後鳥羽上皇を中心とする貴族たちのあいだに広く受け入れられて多くのすぐれた歌人を生んだ。

勅撰集

1205年(元久2年)後鳥羽上皇の命で、『新古今和歌集』が編纂された。撰者は藤原定家と藤原家隆、源通具、藤原有家、藤原雅経、寂蓮の6人である。後鳥羽院自身も撰歌の配列などに大きく関与した[注釈 40]。八代集の最後にあたり、当時の歌人の歌を中心に約2,000首がおさめられ、勅撰和歌集でも傑出したものの一つとされ、優美で技巧的な歌風は、のちに新古今調とよばれた。前代の『千載和歌集』を継承し、さらに感覚的・絵画的ないし色彩的に追究した作風が多い[68]。いっぽうでは、『古今和歌集』へのあこがれと古代王朝国家の盛時を回顧する指向が強く、従来の和歌の伝統を集大成したと評される反面、新鮮さではもっぱら掛詞、縁語、畳語など技巧の点に集中したとも評価される。この時代のおもな歌人には、後鳥羽院、慈円、藤原良経、藤原俊成、式子内親王、藤原定家、藤原家隆、寂蓮、藤原俊成女、


百人一首の成立

百人一首は、1235年(嘉禎元年)、宇都宮入道蓮生(宇都宮頼綱)が京都嵯峨野小倉山に建設した中院山荘の障子(現在の襖)に貼る色紙形のために、宇都宮蓮生より色紙染筆の依頼を受けた藤原定家が、上代の天智天皇から当代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものが原型といわれる。なお、蓮生は定家にとって子息藤原為家の岳父にあたる。カルタ遊びとなったのは後代のことであるが[注釈 43]、定家著『近代秀歌』とは若干の異同があり、これについては、公式の著述には鎌倉幕府の権力をはばかったものの私的な染筆に際しては定家はみずからの美学に忠実たろうとしたのではないかという見解がある[72]。百人一首、『近代秀歌』ともに古来、王朝和歌の入門として人びとに親しまれてきた。

連歌

この時代の後期になるにつれ、和歌は衰えていったが、かわって和歌の余技から発生した連歌が、武士や僧侶、庶民のなかで流行した。長連歌(鎖連歌)は平安時代にさかのぼり、院政期に流行して、鎌倉時代には連歌の会が催されるとともに連歌の規則(式目)が整えられていった[注釈 46]。後鳥羽上皇の時代には平安以来の機知を中心にすえた滑稽な無心連歌と和歌的情趣を重視する有心連歌とに区分された。しだいに有心連歌が優勢となっていくが、「無心」であること(情趣にはずれて滑稽であること)は和歌においては低評価にとどまるものの、無心連歌・俳諧連歌[注釈 47] においては文芸としての連歌の本質であるとして積極的評価がなされた。


※ このように貴族文化にはなかったものが次から次へと興っていて現代に続いている。
メンテ
鎌倉時代考証 4 ( No.163 )
日時: 2016/05/20 14:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:Y9Y2S9E2

(芸能と芸道)

今様と朗詠

芸能では、前代に引き続いて今様や朗詠が愛好された。水辺にあって小舟で客を求めた遊女や陸上に拠点を設けた傀儡(傀儡子)などの最も得意とした芸であり、当初は巫女の間でさかんとなり、のちに貴紳も加わった。

早歌と和讃

今様を受けて鎌倉武士たちに愛唱されたのが、早歌(宴曲)と呼ばれる長編歌謡である。早歌は、『源氏物語』や『和漢朗詠集』など日本の古典や仏典・漢籍を出典とする歌謡で七五調を基本としたもので、1296年(永仁4年)以前に成立した『宴曲集』は歌謡作者明空の編纂による歌謡集である。

仏教賛歌である和讃もさかんにつくられた。浄土真宗系の『浄土和讃』など「三帖和讃」や時宗系の:『別願讃』、『浄業和讃』があり、その影響は旧仏教系の『高僧讃』・『神祇讃』などにおよんだ。

語りものと唱導・説経

古代にあっては音声による言語的伝達の営みを意味していた「語り」は、鎌倉時代以降は節回しをもった声と楽器が一体化したものをも含むようになった。これが「語りもの」であり、代表的なものに『平家物語』を琵琶にあわせて語る平曲がある。鎌倉時代後半には平曲が琵琶法師全体にひろまり、城一(じょういち)・城玄(じょうげん)・如一(にょいち)などによって当道座と称する座が組織された。

唱導は、仏法を説いて衆生を導く語りの芸能で、平治の乱のとき惨殺された信西の子で天台宗の僧澄憲は、その名手として知られた。澄憲の子の聖覚も唱導の名人で、聖覚が安居院に住したことから彼の家系は安居院流として唱導の本宗の地位をしめた[3]。13世紀末葉には『普通唱導集』が編まれた。

説経は、鎌倉期から室町期にかけて唱導から発生した芸能で、やはり仏教の経文や教義を説いたが、これにもやがて節(メロディ)がつけられて後世説経節が生まれている。

猿楽と田楽

院政期に大流行した滑稽な舞踊である猿楽、元来は農耕神事芸であった田楽は、鎌倉時代以降、演劇的な要素が加わって、それぞれ猿楽能、田楽能となった。田楽や延年舞は、法師や稚児などによって演じられる法楽(神仏を楽しませる芸能)であったが、宇治・白河など京都の近在では勧進田楽もさかんで、専業者が複数の座を組織して演技をきそうこともあった。

田楽、猿楽のほか、神楽や舞楽、一物(ひとつもの)、王舞(おうのまい)、細男、獅子、呪師、八乙女などは渡物(わたりもの)として神社の祭礼の際に奉納された。
田楽は室町時代に入り、能、狂言のを生み出した。

遊芸民と白拍子

白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)
傀儡子には男性も女性もあり、操り人形などもおこなったが、女性はときに売春に身をおとすこともあった[3]。ただし、1249年(建長元年)、駿河国宇都谷郷今宿の傀儡が久遠寿量院の雑掌を相手に訴訟し、幕府の法廷において勝訴していることから、少なくとも中世前期の遊女・傀儡は供御人や神人と同じ立場であり、必ずしも後代のように卑賤視の対象ではなかったことが知られる。これは、白拍子も同様であった[75]。一方、この訴訟は、漂泊の遊芸人であった傀儡が定着し、田地の耕作をおこなうこともあったことを示している。

鎌倉時代には、「漂泊の世紀」にふさわしく、多種多様な旅芸人の活躍がみられた。鎌倉幕府成立を祝賀し、その存続を祈念する行事として位置づけられた1193年(建久4年)の富士の巻狩においては、有名な曾我兄弟の仇討ちがおこっているが、この経過は「大磯の虎」とみずから称した女芸人(虎御前)によって語り広められたものである[76]。社寺や道々には、猿に芸をさせる猿引、紅白の衣装をつけて舞う曲舞、古い散楽の系統をひく呪師(のろんじ)、陰陽師を流れをひく唱聞師、風流(ふりゅう)など遊芸の人びとが集まった。

遊女と傀儡は一括して呼称されることも多かったが、白拍子は両者から区別され、水干に袴姿の男装で鼓を伴奏に謡い舞うものである。元来は仏教の声明道における用語で、大寺院の延年舞などの際に童僧が素声(しらごえ)すなわち日常に近い音声で謡ったものである。権力者との関係も知られ、平清盛と祇王・仏御前、源義経と静御前、後鳥羽上皇と亀菊などが知られる。源頼家と微妙のあいだにも悲恋があった。白拍子は、当初は都で流行し、やがて鎌倉や地方へと広がっていった。

(芸道)

蹴鞠
芸道としては、上述した騎射三物や競馬(くらべうま)、相撲、十列(とおれつ)などがあり、これらは多く神事渡物として神輿・神木や御幣、また、神楽など上述した諸芸能とともに神社祭礼の際に奉納された。

この時代、芸道として規則が整備されたものに蹴鞠がある。蹴鞠はシカの皮でできた鞠を一定の高度まで蹴り上げてその回数をたがいに競うもので、遊戯的な要素を多分に含みながらも元来は儀式の一環としておこなわれるものであった。10世紀に貴族のあいだで流行したが、後白河法皇の時代にあらわれた藤原頼輔が蹴鞠の名人として知られ、「蹴鞠長」の異名をとった。頼補の孫にあたる藤原宗長・藤原雅経の兄弟は、鎌倉期にあってそれぞれ難波家・飛鳥井家の祖となって蹴鞠の口伝・故実を子孫に伝承した。なお、雅経は、幕府の重鎮大江広元の女婿にあたることから将軍源実朝とも親しく、当時すでに世評高かった50代の鴨長明を実朝に引き合わせるのに功績のあった人物でもある[78]。鎌倉時代にはいると、公家や神官のみならず天皇や将軍、武家や民衆のあいだにも蹴鞠に興じる人が広まった。

(服飾)

直垂(京都市の時代祭より)
公家の直衣・狩衣に対し、武士の平服としては直垂が知られるが、しだいに正装として認められるようになり、室町時代には武家の礼服となった。また、上級武士の正装としては水干があったものの、それも含めて武士の服飾は全体に庶民的なものであった。水干ももとは公家に雇われた庶民の服装であった。源頼朝の家臣岡崎義実が頼朝より水干を拝領した際、上総広常は義実のような老齢の家臣ではなく自分こそが水干を賜るべきであると主張しているが、これは、平素の武士の衣服がいかに質素なものであるかを物語る逸話であるといえる[79]。また、武士が狩りをするときの装束としては狩装束があった。

院政期から鎌倉時代前期にかけて公家社会の女性のあいだで小袖がたいへん流行した。また、この時代、身分ある女性が外出する際には、被衣(かずき)という一種の小袖を頭からかぶって頭部を隠した。より一般的には、市女笠のまわりに「むしの垂衣」という薄い布を垂らすことによって顔を隠して外出することが多かった。



※ この様に、鎌倉時代は現代に続く我が国の文化の起点としての要素が花開いた時代であった。
当時の武士階級(一般人)が政権を取ったということが庶民にとって、どのように思われていたかが解ります。
その後の紆余曲折はあっても、一旦庶民の間に広がったこの気持ちは衰退することなく、日本の文化を作っていきます。

メンテ
大和魂 ( No.164 )
日時: 2016/05/24 23:55
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:dlamdXdw

鎌倉時代の様相を俯瞰してみました。

日本民族は「和」の民族などと言う言葉で纏めてはいけない。
なるほど、古代日本は、温暖で多民族の侵略を受けない豊かな国土で「和」の精神を重んじ民族としては平穏に暮らしていたと思います。
大和朝廷は、そのようない時代の帰結で政治的に初めて全国統一された時代でした。
日本の政治形態は、それまでに影響を受けていた中国などをシステムを真似、朝廷を中心とする貴族社会として発展していきました。

当時の文化は、貴族の文化であり庶民は生きるために必死で、文化などと言う発送は持たなかったでしょう。
ところが武士階級のクーデターにより、喜速以外の階層が政権を担うことができ、庶民は政治、文化をより身近なものに思えました。
もっとも、生産の面でも安定してきて、文化のようなものにも庶民が目を向けられる時代でもありました。

その鎌倉時代に、見てきたように、大衆武侠をはじめ、文学、工芸、芸能など、あらゆる分野で庶民の活動が始まり。それも貴族の趣味を満たすと言うよりも、庶民の思いを対象にしたものでした。
現代に続く日本の文化が芽吹きだした時代であったのです。

日本民族の心は、単に「和」の精神ではなく、このような民族としての気概、意気み、生き様があってこそ、開花した文化であると思います。

その後の歴史において、こうした日本民族の生き様は、時代の権力の様相に準じて紆余曲折するものがありましたが、根の深いところでは脈々と生き続けてきました。

日本民族の心を語るとき、鎌倉時代の民族の生き様を忘れてはいけないと思います。
民族の心と言っても抽象的で、それが何かと簡単に説明できるものではありません。


イギリスには、ジョンブル魂と言う言葉があります、 一言で言えば、不屈の精神のことのようです。
ドイツにもゲルマン魂と言う言葉があり、意味はジョンブル魂と同じようなもののようです。
これに対してアメリカのフロンティアスピリット(開拓者魂)は、より具体的に表現しています。

(フロンティアスピリット)
特に米国の西部辺境における開拓者たちの精神。剛健・忍耐・創意、また闘争性・現実性・利己性などを特色とする。
発端は西部の開拓ですが、アメリカ人の気質を現す言葉となっています。

さて、このスレッドの表題の「大和魂」ですが、
一般的な概念は、ジョンブル魂やゲルマン魂と同じように、不屈の精神、勇敢さなどを現すものとされています。
それも純粋に勇敢であればよいのですが、明治時代以降の影響で、天皇の為に勇敢であることが「大和魂」様に言われています。
天皇ではなく、庶民の為に命をかけるような「大和魂」であれば問題はないのですが。

さらに言いたいのは「大和魂」の中に、もっと深遠な意味を持たせたく思います。
民族の気概、生き様の源のような力、精神を「大和魂」としたいのです。

「大和魂」と言う言葉を初めて使ったとされる紫式部も「大和魂」と言う意味を、当時影響がつよかった「漢様」の考えに対して日本独自の精神を強調して、そのやりたたで政に当たるように貴族の青年に教育した言葉です。

ここでは、統治者の持つべき精神として取り上げられているのです。
別の話をします。

歴史学舎アーノルド・トインビーの言葉ですが、文明が興きる時の状況を予想する中で、集団が動き出すとき、だらかの先導から始まると言っています。
古代の人間は、情報などはなく、周囲の人間の中の様子を見ていて、自分や、仲間にとって好ましい動きをするものがいれば、それを習うようにして、集団全体が発展してきたと言います。

平等が使命感の様に言われている現代ですが、人間にもはっきりとした能力の差があります。
先見性に優れたものがいて、それに倣う人間がいて、初めて社会は動く、文明は進展すると言います。
もちろん、文明の発祥における一度の問題ではなく、文明も時代時代の困難に対応して、先見者により、それを切り抜けることが連綿と続くと言うものです。

トインビーの例を出したのは、文明と言うような大げさな問題ではなく、社会を進展させるには牽引車となる先見者が必要であり、常に存在していると言う事を言いたいのです。

その先見者が政治家であるとは言いません。
政治家でも庶民の中でも、民族を引っ張って行こうとする、その危害を持った人間を先見者言いたい。
また庶民を引っ張ると言っても、それは軍事的、政治的なものと限りません。

文化、芸術の面でも先見者はいるでしょう。
私は、そう言う先見者たる人間がもっているはずの心を「大和魂」と言いたいのです。
このような面から言えば、鎌倉時代は「大和魂」が彷彿とされる時代であったと言えましょう。

ゲルマン魂、ジョンブル魂の事を不屈の精神と呼ぶよりも「大和魂」を以上のような意味で捉え、日本民族のバックボーンとしたいと思います。

要するに、新しいものを捉える能力、時代に必要なものを考える能力、勇気をもって正義にあたって行く能力・・・
具体的に誰が先見者になるか知らないが、そう言う能力を持った先見者者を生み出す社会の力、それが「大和魂」と言っても酔うのです。

源氏物語で紫式部が、当時の「漢様」に対して「大和」を強調したように、現代社会では「西欧風に対して「大和風」を主張する気持ちなど全くない不甲斐ない現状を悲観しています。

それは「大和魂」と言う概念がないからです。
あっても「大和魂」は、戦前の特攻精神の様にしか思っていません。

明治以来の西欧化で目覚しい発展をしてきたことは事実ですが、あまりにも日本らしいものを捨て去ってきました。
否、実際に無くなったとは決して言いません。
日本民速の心は連綿と続いているのですが、それを自覚していないのです。

それに気が付けば、現実の問題に対しても、もう少し別の思案もできるのですが。
まずは、日本民族とは、どのような民族であるのか。
「大和魂」とは、何を言っているのか。

それ反芻することからはじめようではありませんか。

既に結論じみた事を言いましたが「大和魂」を、より理解する為に、このあと明治時代まで検証を続けていきたいと思います。
メンテ
大和魂 2 ( No.165 )
日時: 2016/05/25 13:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TfgbMkNk

次へ進む前に、一般的に言われている「大和魂」論の一部を紹介します。

http://www11.plala.or.jp/yamamotokenta/column.files/shinto.files/62.html

「大和魂」というと、神風特攻隊の精神に結び付けられてしまいがちですが、 元々の大和魂は平安時代の「もののあわれ」を歌った四季を愛する女心で あったようです。

四季折々の大自然を受けとめ、明るく、清清しく自然と調和している生き方 を示し、寛容で大いなる和(調和)の精神が「大和魂」だったのです。

心穏やかな和の心で相手を上下関係で見ることなく、お互いに和するにはどう すればいいかを感じ合い、そして支え合って生きていくための学びあう精神で もあったようです。

そして、漢学に代表される外来の知識人的な才芸に対して、日本古来から伝わる 伝統、生活の中の活きた知恵、教養のすばらしさを強調したものでもありました。


平安以後、「大和魂」は死語となった言葉でしたが、本居宣長によって、自然で 清浄な精神性(生き様が美しいとされる心性)という思想から国粋主義に用いら れていったようです。

古来より日本人は桜を愛でており、満開になるやいなやさっと散る桜花は、 絶好の<潔さ>の象徴であり、日本人はこの<潔さ>を美徳としていました。

このいさぎよく散る桜を尊ぶ精神は、武士道にもあったのですが、その精神が 明治以降の皇国日本への愛国心、忠誠心を第一とすることに受け継がれ、その 心を「大和魂」として解釈されるようになっていったのではないかと思います。

吉田松陰の
「かくすれば かくなるものと知りながら 已むにやまれぬ 大和魂」
の心意気は、
「自分に危険が及ぶことは分かっていてもどうしてもそうせざるを得なかった」
という義勇心からくるものですが、それだけの志と覚悟があったからこそ、松陰 の大和魂は、心ある志士たちに受け継がれ、永遠のものとなったのでしょう。

このように命をかけて何かを成し遂げる気迫は、その誠意が天に通じるものです。

リスクマネージメントはもちろん重要ですが、危険を犯そうとも志を貫く気迫も 時には必要であって、周りから何と言われようが、やると決めたらやる!という ある意味、阿呆になってこそ、志が成就していくと思うのです。


http://yamato81.hatenablog.jp/entry/2015/03/15/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82%E3%81%A8%E3%81%AF

大和魂の語の初出は、源氏物語とされていおります。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあったのです。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて政治や生活の場面で発揮することなのです。源氏物語が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代でございますが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられます。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられました。

大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されていったのです。 このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなったのです。明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていたのです。日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになりました。戦後はGHQの占領政策により、国粋主義的な思想や、軍国主義に使われた大和魂という語の使用が忌避されるようになり、広く使われることが避けられていったのです。しかし今後の本来の日本を取り戻すことを目指す場合、必ず国体と民族のアイデンティティとして復活させることが必要になると考えます。

http://www.tatsu.ne.jp/yamato/kokoro.html

日本の心、それは大和 

私たち日本人は戦後、自分たちの心を見失ってしまいました。
それが今日のさまざまな、本当にさまざまな、個人から社会レベルに至るまでの問題を生んできました。

それでは一体、私たち日本人の心とは何だったのでしょうか。
和洋折衷、和式、和風といわれるように、「和」は日本そのものを指していう言葉です。
しかし、それと同時に「和」は日本の心を表していたのです。
つまり和の精神です。
平和の和、調和の和。「和を以て貴しとなす」の和。

しかし、多くの人はここで一つの誤解をしています。
和とはまるで自分の個性を抑えて、控えめにすることで、全体を丸く収めて、互いに関わり合うことだと考えていることです。しかし、これは消極的な和であって、和の本義ではありません。

大きく和すること。
つまり「大和」(やまと)。
これこそが和の神髄なのです。

大きく和するとは、一人一人がまず自らの個性を最大限に発揮して、自立することです。
つまり一人一人が大きな存在となること、その上でそうした者達が互いに和すること、それが大和です。
決して自分の個性を抑えて、歯車のように自らの存在を小さく押し殺すものではありません。

しかし、自らを最大限に発揮するということは、同時に自己主張をして、我を張ることにも通じます。

そして世界の民族紛争、宗教戦争などは、この互いの我の張り合いによるものです。

それではどうすれば、大きく和することが出来るのかといえば、それが「愛」の力なのです。

しかし、それぞれに違った個性の者同士が和するためには、生半可な愛では到底叶いません。
強い愛、つまり強い精神力に裏打ちされた愛が必要です。

つまり、大和とは、強い精神力に裏打ちされた愛によって、大きく和するという、
極めて積極的で前向きな力強い精神のことなのです。
それが日本人の本来の心、「大和魂」の真意です。

そして大和とは大自然そのもの、宇宙そのもののことです。
なぜなら「あの栄光栄華を極めたソロモンでさえ、この野に咲く一輪の花ほどにも着飾っていなかった」という、イエス・キリストの言葉にもあるように、この自然界のすべての存在は、自らの個性を最大限にアピールしているにも関わらず、見事に調和しているからです。
そしてこのことが成されるために、この宇宙は目に見えない、強く大きな愛の力で貫かれているのです。

だから、私たちの先祖たちはこの自然や宇宙から、大和の精神を学ぼうとしてきたのです。
それが、神ながらの道、即ち、神道です。そして、これが日本の心そのものであり、大和魂なのです。

そして、数学のゼロを発見したのがインド人ではあっても、それがインド人のためだけの発見ではなかったように、またイエスの尊い教えがクリスチャンたちのためだけではなく、全人類にとっての尊い教えであるように、日本が生んだこの大和の精神は一つの民族や宗教のためだけのものではなく、これからの時代の指針として、世界に指し示すべき普遍性を持った思想なのです。

しかし、それを私たち日本人自身が失ったがために、その精神性は戦後五十年のうちに見る影もなく、転がり墜ちるように崩れていってしまったのです。

日本の心、それは大和。

もう一度そのことを思い出さなければいけない時期に、私たちは来ているのではないでしょうか。


(引用終わり)

如何でしょうか。「大和魂」とは、単純に蛮勇を示すことではないことは解ると思います。
その解釈も人によってそれぞれであることも解るでしょう。

私が言いたい「大和魂」とは、これらの方とも少し変わります。
私は「和」の精神は「大和こころ」。
これは民族の生まれながらの性質の様に考えています。
「大和魂」は、物事を実践する時の気概、性質と言うものに対して「性格」と思います。
「性格」とは、人間が生きていくに従い身に付けるものです。
「和」の心に従い、実社会を導く原動力を大和魂と考えたいと思っています。
しかしながら、そのような大層な概念を一般庶民に求めるのは理想的過ぎます。
ですので、庶民の中から出てくる先見者に「大和魂」を期待します。
庶民の中の先見者と言っても、それは英雄を指すのではありません。
あらゆる分野で、必要な進化、変化を感受し、その方向を示してくれる人たちの事を言います。
そのような人たちが多く出て、社会は変わっていくと思います。
鎌倉時代に、それを見ています。
「大和魂」とは、そのように思います。
日本人は鎌倉時代の生き様を理解することです。
もちろん、現代社会に置いても、分野によっては果敢に挑戦を続けている人がいます。
ですが我々の身近な問題について、我々は何かを忘れてはいないでしょうか。
なかなか具体的に示し難い概念ですが、とりあえずは大雑把な概念として見ていただけば幸いです。


それでは次に移ります。
メンテ
大和を詠んだ和歌解析 ( No.166 )
日時: 2016/07/26 15:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:y9DXcgvI

柿本人麻呂
■敷島の 大和の国は 言霊の 幸はふ国ぞ 真幸くありこそ
本居宣長
■敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花

吉田松陰
■かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
■身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめおかまし大和魂

明治天皇の御歌
■あさなあさ なみおやの神に いのるかな わが国民を まもりたまへと
■開くべき 道はひらきて かみつ代の 國の姿を 忘れざらなむ
■よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

作者不明
■末の世の 末の末まで 我が國は よろずの國に すぐれたる國
■なにごとの おわしますのは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる
■国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ
■わがくには 神のすゑなり 神まつる 昔のてぶり わするなよゆめ

大西瀧治郎中将
■くにのため いのち捧げし ますらおの いさを忘るな 時うつれども

緒方 襄命(桜花 特別攻撃隊)
■死するとも なほ死するとも 我が魂よ 永久にとどまり 御国まもらせ

弓野 弦命(海軍水兵長)
■身はたとへ 千尋の海に 散り果つも 九段の社に さくぞ嬉しき

神楽歌
■心だに 誠の道に 叶いなば 祈らずとても 神は護らん

上は「大和」ないし「大和魂」を想定して読まれた歌です。
最初の柿本人麻呂以降、その訴えるところが変わってきています。

ついでに紹介しておきますと、

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
     三笠の山に 出(い)でし月かも

これは留学生として唐へ渡ったが、望郷の思いも虚しく異国で没した阿倍仲麻呂の歌です。

「大和」とは、そう言う心の故郷であり、平穏な社会を示す概念である。

そのようなものを冒頭の和歌の様に、勝手に恣意的に使うものではない。
右翼、皇国思想の生みの親。本居宣長の歌を検証してみよう。

>敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花

直接の意味は、大和心を単に美しい自然と捉えたものであるが、
「大和魂」に繋がる「大和心」を、そのように捉えるのは欺瞞も良いところ。

美し自然を強調するだけで、社会は維持できないのである。
「大和魂」とは、鑑賞するだけの無味無臭の存在ではないのである。

それを、このように押し付けることにより、将来、皇国の為に無条件で魂を捧げる事が美しいことであると言う観念に結びつけているのである。

その結果が、後に続く、読むも汚らわし和歌となって現れている。
本居宣長以来「大和魂」はこのように解釈される様になってきた。

本居宣長は、日本民族を誤った方向に導いた、元凶である。
故に現代日本人が行くべき道を見失っているとも言える。

「大和魂」とは何であろう。

否!

何であるべきであろう。


メンテ
大和魂<形而上学的解説を試みる ( No.167 )
日時: 2016/08/02 15:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:lkRUz7H.

>「大和魂」とは何であろう。

最近、一つの概念を知らされることになった。
別スレッドの寄稿者「倭人の叫び」氏のハンドルネームである。

その方向で議論に及んだが、当人は私が期待した対応はされなかった。
しかしながら、彼が訴えておられることは、まさに、私が思うところの、こころの問題である。

観点が視点が違うだけで、なんに対して義憤を感じておられるかは、私と変わりはないのである。
まさに、その言葉、

「倭人の叫び」は私が求める「大和魂」に近いもの。
同じような言葉に
アメリカの「開拓者魂」
イギリスの「ジョンブル魂」
ドイツの「ゲルマン魂」があるが

それが熱狂的に作用した場合は、碌なことは起きてはいないのも事実である。
日本でも「大和魂」と言う言葉が国民の間に彷彿した時代、それは権力者側による、恣意的で歪な概念にすり替えられていたが、大きな不幸をもたらせた。

しかしながら、同時に民族が持っている底力は、そうした共通の思いもなければ発揮されることもない。
特に現代社会は、民主主義の影響で、猫も杓子も自分の権利の主張に走り、天国のような自由社会が実現できると勘違いしている。

人間の我欲は神様さえも制御できないものであり、キリスト教の想定は、もともと人間は天国に住んでいたのであるが、自分勝手な行動で天国から追い出されたとなっている。

逆に言えば、人間から見れば、天国こそ地獄であり、我欲を持った人間社会こそ理想の世界であるとも言える。
だから、人間の我欲は否定しないが、全てを放任していては弱肉強食の世界となり、理想社会を作ることも出来ない。
そのために統治機構があり政治がある。

行き過ぎた民主主義と資本主義のシステムは、まさにこれに関することであり、徐々に弱肉強食のルールなき世界へ逆戻りしようとしているのである。

限りなき自由、平等を求める心、限りなく富裕を求める心を自らコントロールする精神を身につけなけらばならない。
それは単純な倫理道徳では決してない。

人間の向上心も保たねけらばならない。
向上心をなくした人間は、それはそれで、別の意味で地獄の社会へ向かうことになり。
人間社会に必要な概念とは何か!


言葉では、簡単な概念ではあるが、これが難しい。

(芥川竜之介の蜘蛛の糸、あらすじ)

釈迦はある日の朝、極楽[9]を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(&#29325;陀多)という男を見つけた。カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだ。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。

暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れるだろう。カンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。下りろ。」と喚いた。すると蜘蛛の糸がカンダタの所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちてしまった。

無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

(紹介終わり)


芥川龍之介が、私が言いたいような概念を想定していたかは、とても解らない。
だが、人間社会に必要な精神の片隅には、蜘蛛の糸の様な心情がなければならないのではなかろうか。

それが民族毎に言われる、「開拓者魂」であり「ジョンブル魂」「ゲルマン魂」そうして「大和魂」ではなかろうか。
それが正常に機能している状態こそ、その社会の発展であり、平和で安定した社会と言える。

芥川竜之介は、一個人について語っているが、それを人類と読み替えれば如何なものであろう。
そうして、蜘蛛の糸とは決して天国へ行くためのものではなく、人間社会を維持するための方策と考えれば良いのではないかと考える。

それほど人間社会の有り様は難しい。
私の言っていることも難しい。

だが、それが完全でなくとも、そうした方向も視野に入れておかねばならない。
日本人は本当の「大和魂」に少しは心を寄せるべきなのである。
そう言う概念を、持つべきなのである。

今回は、形而上学に走り、ちょっと理解していただけないかな。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.168 )
日時: 2016/12/25 21:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KNWgpDp2

UP
メンテ
鎌倉時代 ( No.169 )
日時: 2017/06/05 12:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:nC3pfdaU

ひさしぶりにUPします。
鎌倉時代の総括として、対外関係を見てみましょう。


遣隋使

遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(&#20416;國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)〜618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。

607年(推古15年)は、小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと『日本書紀』にある。
その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。

遣唐使

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では619年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。現在では中国側において派遣された遣唐使の墓が発見されたりしている。

この時代は、日本から中国王朝に朝貢(ちょうこう)する関係であったが、日本からも中国文化を学ぶために勇躍し中国へ渡った人がいた。

遣隋使、遣唐使の時代(600〜894年)に日本から中国へ渡った日本人。
小野妹子   役人
高向玄理   役人
旻      僧
南淵請安   学者
阿曇比羅夫  軍人
犬上御田鋤  役人
道昭     僧
道慈     僧
山上憶良   役人
安倍仲麻呂  歌人・役人
吉備真備   学者
玄ム     僧
最澄     僧
空海     僧
円仁    僧

などがいます。


御朱印船

朱印船(しゅいんせん)は、16世紀末から17世紀初頭にかけて日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て、海外交易を行った船を言う。朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。
遣唐使の時代から遅れること、600年であるが、このころになると国家間の交易ではなく民間人の活躍が中心となってきて、次のように活動範囲も東南アジアにまで拡大されている。

(朱印船の渡航先)
安南 当時のベトナムの正統な王朝・黎朝を擁立していたハノイの鄭氏政権である。東京(トンキン)ともいう。
交趾 当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権(広南国)のこと。その主な交易港はホイアン(會安)及びダナンであった。
占城 ベトナム人勢力によって、現在のベトナム南部の一隅に押し込められていたチャンパ王国である。
暹羅 タイのアユタヤ王朝である。アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍する。アユタヤからも交易船が長崎に来た。
柬埔寨 メコン河流域のウドンを首府とするカンボジア王国である。
太泥 マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国である。当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港であった。
呂宋 スペインの植民地ルソン島である。首府マニラが新大陸とのガレオン貿易の要港で、中国船の来航も多かった。
高砂 当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾である。台湾も中国商船との出会いの場であった。

山田 長政(やまだ ながまさ、天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。

遣唐使がなくなり御朱印船が登場するまでの600年の間に、実は倭寇が活躍した時代がある。
倭寇とは、
南北朝時代や戦国時代には九州・瀬戸内海方面の武士や海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわり、倭寇と恐れられた。
倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。

鎌倉時代、蒙古相手に戦った、元寇の役(1274〜1281年)があり、そのころから倭寇の進出も高まった。
今から見れば海賊であり他国への侵略であるが、日本人が海外へ雄飛したしい姿でもある。
この様に鎌倉時代と言うのは、宗教、文芸の面で庶民が飛躍した時代であったが、海外進出と言う発想も目覚めた時代であった。
日本人の日本人としての意識の高まりが生じた時代と言えよう。

この様に、飛鳥時代、平安時代を通して日本人は決しておとなしい、内向的な民族ではなかったのです。
この性格は戦国時代まで続きますが、江戸時代に儒教が広まり(幕府が推奨した)、礼節を尊ぶ一方で武士道によって忠義心が求められ、すっかり内向きなおとなしい民族に代わって行きました。
今後は、このようなことを中心に見てみたいと思います。

メンテ
室町時代 ( No.170 )
日時: 2017/06/12 16:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kxWIWdiE

さあ鎌倉時代を抜けて室町時代へ入りましょう。

室町時代と言うのは鎌倉時代の終わりに足利尊氏が建てた政権です。
その経緯は、蒙古による元寇の役いらい、御家人に対して鎌倉幕府の財政的支援がなかったことで御家人に不満が出ていたその時期に、幕府自体の権力争いで政治が乱れていて、武家政権から政権奪取を望んでいた後醍醐天皇などのクーデター計画もあり幕府の権力は不安定になっていた。
楠正成などの反幕府、親天皇制を企んだ動きなど、種々の反幕府行動があった。
足利尊氏はそれに乗じて決起したもの。
始めは後醍醐天皇を名目上で支持し、決起して倒幕に成功するも、その後は後醍醐天皇を排斥するなど武家の本性をあらわし、その後の歴史において自分の利益の為に天皇制をないがしろにした極悪人と非難される結果となっている。
また鎌倉時代の末期には、徳政令が出されているが、それは御家人などの救済の為であり大衆にとっては、それによって経済の根幹、通貨の信用を害し迷惑な話であり政権内部の不安定と共に民衆の生活も不安定になっていた。

こうして成立した武家政権も、京都に都を定めた結果、そのうちに風雅を好む貴族化してしまった。
足利義満などが花の御所の造営をし、金閣、銀閣などを作っていたころが最盛期で、やがて足利幕府の全国支配のタガが緩み、各地の守護大名などが自立を企むようになる。
足利幕府が成立したのは1336年であるが、1400年代の後半には幕府により全国統治は有名無実となり下克上の戦国時代となり関ヶ原の戦いの1600年まで続く事になる。

それでも室町時代の意義は十分にある。
第一に下克上にあるように、身分の違いが一掃され、誰でもが政権争いだけではなく、どの分野でも頂上が狙える時代となった。
その室町時代の特徴をウィキペディによって概略を見てみましょう。

農業

鎌倉時代から農業生産力が向上する。西日本から関東地方に波及した二毛作の技術や牛馬耕、水車などを利用した灌漑施設の整備や肥料の発達などは生産力を向上させ、さらに農業技術の進歩で集約的・多角的な農業を行い、自立農民の成長を促して郷村制の成立をもたらす。なお、稲に関しては室町時代に今日のベトナムから占城米(当時は中国からの流入であったため「大唐米」等と呼ばれていた)が伝来した点が特筆される。この品種はそれ以前のものより虫害や旱害に強く、結果的に収穫量が多くなった。

室町時代後期になると荘園領主や戦国大名が広域を支配することにより、中世を上回る政治権力と経済力による広範囲の灌漑工事や治水事業などが行われ、新開地の増大や低湿地帯の安定化などにより、生産力が飛躍的に向上したことも大きい。

また、この時期から手工業原料となる胡麻や桑、楮なども栽培される。それまでは輸入に頼るのみであった木綿の栽培も16世紀頃から三河地方において栽培されはじめる。この木綿の生産は帆布としての用途があり、海運事業の面でも多くの利益があった。このほか、枇杷・梨・柿・瓜などの果実類の流通が発展したため、産地名を冠して呼ばれるようになったのも室町時代からである。

手工業

農民の自立が進むと、それまで宮廷に属していた工人も解放されて自立し、手工業が一般的に行われ市場が成立する。日用品や農具、織物や紙など。今日各地方の特産物と呼ばれるものは室町時代が起源であるものも多く、京都の西陣では明から輸入した生糸を利用して高級織物である西陣織がつくられた。

そのほか、日明貿易の関係上、堺、山口、博多などの港湾都市近辺で高級織物が生産されるようになったほか、社寺の建立が地方にも拡大したため、製紙業が大きく発展した事と、製陶業が応仁の乱前後から地方にも広まった点が室町時代の特徴である。

また室町時代前期には大寺社の改修や建立により、後期には戦国大名の城郭・軍船などの建設の関係上、鎌倉時代よりも林業が発達、流通も行われた。天文初年の本願寺修築に土佐国にもとめているほか、天文年間の京の材木座には美濃や飛騨の材木が取り扱われている。

商業

農業生産力の向上や手工業の独立は市場を成立させ、都市や交通の要地とされる場所では市場が発達した。鎌倉時代の三斎市から月に6回定期的に開かれる六斎市など定期市や、都市部での見世棚をもった常設の店舗に、特定商品のみの卸売市場、卸売業を営む問屋も発生する。行商人は連雀商人と呼ばれた。平安時代あたりから公家や寺社を本所として販売の独占権や関税の免除などの特権を得る座と呼ばれる閉鎖的な商業独占体制は、成長する戦国大名によって自営営業を許す楽市楽座によって廃止の方向へ向かう。

経済

永楽通宝
標準貨幣は永楽通宝であったが、室町幕府は貨幣を鋳造せずに日明貿易で明銭を輸入して流通させていた。東日本に貨幣経済が浸透しつつあり通貨需要が増大したことで流通貨幣が不足した。勝山記によると1514年・1515年・1516年・1519年・1525年・1529年に銭飢渇という状態に陥ったと記録されている。(要因として10代将軍足利義稙派と11代将軍足利義澄派による政情不安と大永3年(1523年)の寧波の乱による私貿易拒否や密貿易取締強化が考えられる。)代替通貨として私鋳銭など鐚銭が大量に流通したが、受取拒否により商取引決済に支障をきたすようになると有力守護大名や幕府は度々撰銭令で規定割合の悪銭の受取拒否を規制した。東日本では永楽銭が好んで流通されたが西日本では明銭は劣化して鐚銭となることから鐚銭同様に嫌われた。特に商人の間では数百年間の流通実績がある宋銭が最も信用され、宋銭を蓄えつつ支払いに明銭や鐚銭を利用して押し付けあうグレシャムの法則が見られた。

都市

市場の成立や交通の整備は都市の発展を促す。農業生産量の向上が余剰生産物が商品として市場に出回り、それに伴い農村にも商品経済と貨幣経済が浸透していくのが室町前期から中期の傾向である。また、この時代には伊勢詣や西国33ヵ所など寺社参りが流行し、人々の往来が活発になるにつれ宿(しゅく)を中心とした宿場町と言うべき都市が街道沿いに発生し始めた。これら交通の発展はそれに従事する交通業者の発達を促し、宿場町は徐々に大きくなっていく。さらに応仁の乱の戦火などは各種都市の発達をもたらした。

その後、守護大名は城下町を整備。同時に支城を地域支配の拠点とし、本拠地と支城を結ぶ街道を整備することにより、街道沿いの宿場も保護され拡大していくことになる。これらの宿場には通行税である関銭を徴収する一面もあったが、領国内の必要物資の中継・流通拠点ともなり、それに伴う人口の増加は分国経済の一部となったのである。同時に、鎌倉時代にはあいまいな部分もあった都市と農村が区分され、封建社会における身分制の発生の端緒となった。

堺(大阪府堺市)や博多(福岡県福岡市)などでは会合衆を中心に自治的な都市運営を行っており、応仁の乱以後は武装して防衛をしており自治的性格を持っていた。中世の代表的自治都市である堺は宣教師も「東洋のベニス」と評価する文書を残しており、織田信長に屈服するまで自治を行う。同じく自治的性格を持っていたのは、一向宗の寺院を中心に形成された寺内町である。代表的寺内町には摂津国石山(大阪府)や越前国吉崎(福井県)、富田林(大阪府富田林市)などがある。同じく信長による一向一揆平定で解体する。

鉱山事業

室町時代、特に戦国時代に入るにつれ、鉱山開発が日本中で積極的に行われた。特に金山・銀山の開発が戦国大名により積極的に行われたほか、史料上初見となる天文二年(1533年)に博多の商人神谷寿禎が石見銀山で行った灰吹法による生産量の向上が特筆される。この灰吹法は、銀山でも有効であったが、それまでは砂金から取るのが普通であった金鉱山の開発にも大きく貢献した。

交通

貨幣経済の浸透や庶民の成長による地方都市の発達、遠隔地の商品流通や年貢輸送のために街道が整備され、地方文化の交流も活発になる。陸上交通では馬借、車借などの陸上輸送業者、海上交通では廻船を用いて輸送や委託販売を行う中継業者の問丸が活躍する。これには鎌倉時代末期頃から行われていた貨幣経済が地方にも浸透して行ったことが大きい。港や街道の要所には幕府や寺社、地方領主らにより関所が設置され、関銭や津料を徴収していた。京都七関など。

対外関係[編集]

倭寇と西洋人来航[編集]

室町時代には倭寇(わこう)と呼ばれる無国籍海上勢力が活動し、14世紀の倭寇は前期倭寇、15世紀の倭寇は後期倭寇と呼ばれる。倭寇は朝鮮半島や中国沿岸部、東南アジアにわたる東アジア地域で活動し、海賊行為や密貿易などを行った。さらに世界史的には大航海時代を迎えており、ポルトガルやイスパニアなどのヨーロッパ人も東アジアで活動を広めていた。

日明関係

勘合貿易で倭寇と区別 博多、堺、坊津(鹿児島県南さつま市坊津町)から出航し、寧波で勘合符を照査させる。 足利義持が一時停止するが、足利義教が再開。細川氏と大内氏が実権を巡り衝突(寧波の乱)して、以後大内氏が貿易の実権を握った。

日朝関係

朝鮮王朝との国交と貿易。足利義満は倭寇を取り締まり朝鮮との交易。
朝鮮通信使 - 足利義満からの使者と国書に対する返礼で1375年に足利義満に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ごろまで続いた。
応永の外寇 - 1419年(応永26年)におきた朝鮮による対馬襲撃
三浦の乱 - 三浦(乃而浦(鎮海市)、富山浦(釜山市)、塩浦)に定住する日本人が反乱。

「日朝関係史」を参照

琉球

1429年に中山王尚氏が三山を統一して琉球王国を建国すると、明朝の冊封を受けた。国家の経済を貿易に頼る琉球王国は明のほか、朝鮮、マラッカ王国やパタニ王国、安南やアユタヤー王朝などの東南アジアにも及ぶ広範囲で独自の中継貿易を行っていた。1414年には将軍足利義持が琉球王の献上物に対する返礼の書状を贈っており、室町時代には琉球が「日本」として認識されていた。

北方世界

鎌倉時代末期には蝦夷の反乱が鎌倉幕府を揺るがし、幕府滅亡後には蝦夷管領・安東氏が十三湊を本拠地に栄えるが、やがて南部氏の興隆により北州(蝦夷地、北海道)に逃れる。北州においては和人(大和民族)の居住勢力が広まり、土着のアイヌ民族との衝突が起こる。1457年にアイヌの酋長であるコシャマイン率いる部族が蜂起して、蠣崎氏や武田信広らと戦う。

メンテ
室町時代 2 ( No.171 )
日時: 2017/06/12 16:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kxWIWdiE

文化・芸術

北山文化・東山文化

室町時代は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化・東山文化と呼ばれることがある。南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。応仁の乱での京都の荒廃を機に地方伝播し、惣村や都市の発達により成長していた庶民にも文化が浸透していった。

室町時代後期、戦国時代になると城郭建築が発展する。初期のものは戦争のための軍事施設としての用途が主目的であったが、領国が広がるにつれ豪壮華麗になっていく。鎌倉時代には寺社のみで使用されていた瓦が城郭に使われるようになり、やがて町屋にも広がることとなった。同時に茶の湯・能楽・書院造など今日、文化の原型と考えられているものがこの時代に確立された。

建築・庭園

建築では、義満が北山に建造した鹿苑寺金閣は寝殿造と禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。義政の建てた慈照寺銀閣は禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、楼閣建築もこの時代の特徴と言える。また慈照寺内の東求堂同仁斎は四畳半の座敷で、初期書院造といわれ、今日の和風建築の原型になっている。このほか、商工業の発展に伴い、洛中洛外図屏風などには庶民の邸宅にも2階建ての家屋が描かれるなど、富裕層の増加を見ることができる。

連歌・茶の湯

上句と下句を連ねていく和歌である連歌は鎌倉時代から発達し、室町時代に最盛を迎える。宗祇や二条良基、宗長や心敬らの連歌師が出現し、大名や公家僧侶が寺社に集まり連歌会が催された。連歌は貴族から一般民衆の間にまで広まった。茶の湯は、南北朝時代に行われていた闘茶や茶寄合が、東山時代に村田珠光により侘び茶が開始され、戦国時代に千利休が完成させる。この茶道の流行は同時に陶磁器の発展を促した。美濃焼や楽焼など、中世六古窯とは別の、新たな窯業を発生させた。

絵画・彫刻

絵画では足利将軍家の部下である同朋衆から能阿弥、真阿弥らによる山水画や、東山時代に画僧である明兆・如拙・周文らを経て雪舟が水墨画を完成させる。これには文化の担い手に宮廷や公家だけではなく、武家の台頭や武家との関係が強い禅宗寺院の存在が影響している。

狩野元信は水墨画と大和絵の技法を融合させ、のちに狩野派と呼ばれる。これらは仏絵などの宗教画と異なり、世俗的、あるいは芸術的な側面としての絵画の発生と言える。同時に、庶民階級の富裕化により、風俗屏風図や遊楽図など、風俗画というべき絵画も発生している。また、交易の発展による海外の絵画技術の影響が見られる。

彫刻ではそれまでの仏教彫刻に加えて、能面彫刻が作られるようになる。他方、鎌倉時代と比べると仏像彫刻が衰退した。旧仏教寺院と禅宗による新仏教寺院との思想の変化や、公家と異なり、武家政権では新たな寺社の建立数が減ったなど、複数の要因があると考えられているが、いずれにしてもこの時代の仏像は慶派のような流派ではなく、個人の仏師が手がけた作例のほうが著名であり、全体としては少ない。その一方、城郭や書院の発達に伴い、建築の装飾彫刻は発展期にあたり、後の桃山建築を特色付ける木彫装飾の原型が室町時代後期に発生した。

また漆工にも高蒔絵や肉合研出蒔絵、切金の技法を蒔絵に応用されるなど、伝統的な蒔絵技法のほかに新しい試みが行われた。蒔絵師の幸阿弥道長は土佐光信の下絵を使ったといわれており、絵画との融合も行われている。

また、武士階級の富裕化に伴い、刀剣の装飾などに使われる鍔の彫金など、金工業も独特の発展を遂げた。八代将軍足利義政に使えた後藤祐乗に始まる後藤家など、一般需要の町彫りとは別種の家彫りと呼ばれる流派の発生である。また、武具には七宝を用いた平田派などが知られるほか、冑の明珍派など、新たな一派が多く発生した。

能楽・狂言

足利義満の保護を受けた観阿弥・世阿弥元清の親子が鎌倉時代から行われていた猿楽・田楽を能楽として大成させる。世阿弥は「風姿花伝」で芸道論を著す。対話劇である狂言も成立した。

民衆文化

室町時代は惣村の成立や都市の発達により、農民とは別の都市部に住む庶民が文化の担い手になってくる時代でもあった。庶民の間では短編の読み物集である御伽草子が読まれ、狂言や小唄、幸若舞などの庶民芸能が流行する。食文化では、味噌、醤油、豆腐など日本料理の基本要素が出揃った。醤油を除き、中国から伝わっていた要素で、室町時代の商工業発達によって普及した(醤油の普及はやや遅れ、関西では江戸時代初期、江戸では中期)。

学問と思想

学問

室町時代の学問の担い手は主に禅僧や公家である。京都の五山を中心に禅僧の間で漢文学や朱子学の研究が行われ、五山文学と呼ばれる。五山は幕府の保護を受け、日明貿易を行う足利義満の外交的顧問役でもあった。無力化した公家は有職故実や和歌、古典の研究を行い、一条兼良や東常縁、三条西実隆などの公家より古典文化が守られた。応仁の乱で京都が荒廃すると、公家や禅僧は地方に移り、学問や文化の地方波及や庶民化が進む。関白一条兼良は越前国朝倉氏のもとへ身を寄せ、子は土佐国中村に土着して土佐一条氏となる。桂庵玄樹は肥後国及び薩摩国に招かれ、現地で朱子学の一派である薩南学派を開くが江戸時代には衰亡した。大内義隆に仕えていた南村梅軒は土佐に招かれて、同じく朱子学の一派の海南学派を開く。

また、この頃関東では、上杉憲実により足利学校が再興される。大内氏や堺、奈良の商人の間でも独自の出版が行われた。

「日本の中世文学史」を参照

宗教・思想

禅宗は武家層にも広く広まり、武家の保護を受けた禅の五山が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。都市部では日蓮宗が広まり、京都では日親が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。1536年には日蓮宗は比叡山延暦寺と衝突して天文法華の乱と呼ばれる騒動となる。庶民の間では曹洞宗が広まる。

浄土真宗の蓮如が再興した本願寺教団は、講と呼ばれる信徒集団を形成し、応仁の乱の後には守護大名に取って代わった戦国大名に匹敵する勢力になり、一向宗とも呼ばれるようになり、信仰の下に団結して守護大名の勢力と対抗する。加賀国一揆や山城国一揆等の一向一揆は守護大名を打倒し、織田信長などは徹底的に弾圧し、大坂の本願寺が落とされて以降は沈静する。信長は日蓮宗の僧と浄土宗の僧と論争をさせる(安土宗論)。

神道では、吉田兼倶が吉田神道を創始する。

1549年にはヨーロッパからキリスト教がフランシスコ・ザビエルなどによってもたらされている。

「日本の仏教#南北朝・室町時代」を参照

史書

「増鏡」は四鏡の最後の史書で、後鳥羽天皇の即位から1333年に配流となっていた後醍醐天皇が京都に帰還するまでの宮廷社会の動向を記している。「太平記」は後醍醐天皇の即位から細川頼之が管領に就任するまでの南北朝時代を扱っており、軍記物語の性格が強く室町時代から江戸時代にかけて太平記よみと呼ばれる物語僧によって庶民にも語られていた。「梅松論」は足利尊氏の正当性を強調して書かれた史書であるが、成立は太平記よりも早く、資料性は高い。「神皇正統記」は、南北朝時代に南朝の北畠親房が関東で勢力を集めるために南朝の正統性を神代から記した所で、のちの皇国史観に繋がるイデオロギー的性格の強い史書であった。「難太平記」は今川貞世が著した史書で、太平記の誤りを訂正しつつ、今川氏の事績を中心に書かれている。「明徳記」は1391年の明徳の乱の経過が書かれている、「応永記」には1399年の応永の乱や南北朝合体の記述が、「永享記」には永享の乱を中心とした関東の情勢が、「応仁記」には足利義政の治世から応仁の乱の様子が記されている。また、江戸幕府が幕末に編纂した史書として「後鑑」があり、1333年から1597年に至るまでの史実を編年体で記し、各項目に出典となった各種資料を直截採録する形式となっている。

(ウィキペディア終わり)

さあ、如何でしょう。
政治的には何の変哲もない室町幕府でしたが、庶民の生活の面では鎌倉時代に芽生えた庶民の力、開放がいよいよ息づき成果を見せ始めた時代です。
後世に伝わる庶民文化のほとんどが、この時代に産声を上げています。

私は鎌倉時代以降のこの精神を日本のこころ、大和魂の発露であると思います。

ところで、この日本のこころ、大和魂の源泉に、このスレッドの最初のころに描いた日本民族の根底に流れる「和」の心が存在していることを見逃さないでください。

メンテ
室町時代 ( No.172 )
日時: 2017/06/14 20:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4ZVowqEc

ここで日本の年代別人口の推移を見て置きましょう。
(我が国の人口の推移)
縄文時代(1万年)        2〜20万人
弥生時代(600年)        20〜60万人
古墳時代〜飛鳥時代(450年)   60〜450万人
奈良時代(100年)        450〜550万人
平安時代(400年)        550〜700万人
鎌倉時代〜安土桃山時代(400年) 700〜1800万人
江戸時代(250年)        1800〜3400万人
明治時代(50年)         3400〜5500万人
大正時代(15年)         5500〜6400万人
昭和時代(60年)         6400〜1億1700万人
平成時代(30年)         1億1700〜1億2800万人

室町時代の事はざっと概観しました。
鎌倉・室町時代は、基幹産業の農業は技術的な発展があり食料の生産が増えて最初の人口の爆発が起き、大国家としてのかたちが形成されていった時代です。
人口の増加は町づくりを促し、同時に市場の改革も起き全国で市場がたち、貨幣経済も発達しました。
このように大衆が大衆の求めに応じて社会を作り上げて行った時代と言えましょう。
それに対して中央政府は無力で室町幕府などは形だけの支配と化していたのでしょう。
その代わりに、守護大名などは領地経営に精をだし、力をつけてきて、後の戦国時代と言われる元を作っていきました。
大衆の力は経済だけではなく、手工業、建築、絵画、歌舞伎、茶の湯などの文化も発揚し、後世に伝わる日本文化のほとんどの源を作り上げていきました。
対外的にも御朱印船貿易など、海外に飛躍したのもこの時代です。
政治的には、この気風は下克上を生み、戦国時代を経て日本の実質的な再統一へ向かいました。
また権力に対する不満から庶民が一揆を起こすようにもなりました。
戦国時代と言われている頃からは一向一揆と言われているように宗教と結び付いて大きな一揆がおきています。
江戸時代の武士道は忠義一筋で主君の為なら何時でも命を投げ出す、と言ったものですが、この時代の武士道は、飽くまでも一族郎党を養うための武士の覚悟の事を言い、一族郎党を守る為なら何時でも敵方へ寝返る事を正当化するような激しいものでした。
江戸時代を経て儒教の影響で大人しくなった日本人からみれば、信じられない奔放さを持っていたのが日本人です。

私はこの時代(鎌倉・室町)を日本を作った日本人の時代と思います。
この後、神道などを中心に、もう少し詳しく見てみる事にします。
メンテ
神道の話 1 ( No.173 )
日時: 2017/06/14 21:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4ZVowqEc

さて、ここで神道について触れておきましょう。

どの民族においても始原的な信仰心と言うものは、アニミズム、トーテミズムと言う形であったものと思います。
日本の場合の氏神信仰の発祥は、それが、もう少し進んで集落の五穀豊穣を願う儀式が形式化された弥生時代と言えましょう。
それ以前は、神話、伝説の世界であると言えます。
これについては、このスレッドの最初の方でかなりのスペースを割いて言及しています。

神社に祀ってある神様と言うのは次の様なものです。

1. 自然物や自然現象を神格化した神
2. 思考・災いといった抽象的なものを神格化した観念神
3. 古代の指導者・有力者などを神格化したと思われる神(エウヘメリズム)、氏の集団や村里の守り神とされるようになる神々
4. 万物の創造主としての神(ここにおいてはthe Godである)
5. 万物の創造主・主宰者としての全能の天皇

八百万の神(やおよろずのかみ)と言うのは、自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(厠神 かわやがみ)、台所の神様など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから八百万の神と言われるようになったと考えられる。八百万とは無限に近い神がいることを表しており、数ある多神教の中でも、数が多い考え方であると言える。 またこういった性格から、特定能力が著しく秀でた、もしくは特定分野で認められた人物への敬称として「神」が使われることがある。

大和朝廷成立後には神社に祀る神として
大圀主命(おおくにぬしのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)などの伝説の人物の名前であったり
隼総別命(はやぶさわけのみこと)
誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと=応神天皇)など天皇、皇族など有力者の名が出てきます。

最初の頃の神道の神様は、地域、地域に根付いた神様で日本中に無数にありました。
大和朝廷成立に至る過程で、地域を支配した豪族などを神とするようになり、それが氏神信仰の謂れともなりました。
その氏も次第に大権力者、大和朝廷につながるものを神として祀るようになってきたのです。
我が国固有の宗教としての神道の面白いところは、統治の有力者だけではなく、有力者に恨みを残して亡くなった人物を『神』として祀り、祟りを避けようとした例も数多くあります。中でも菅原道真を祀る天満宮は亡くなった人間を神として扱う顕著な例です。 また、一人ひとりはそれほど有力な人物でなくとも、数多くの人々が亡くなった場合にも神として祀られ、これは靖国神社等が例として挙げられます。

次第に国家権力と結びつく神道に対して、それ以前の民衆の信仰の対象であった神道を古神道と言います。

古神道は「原始宗教の一つである」ともされ、世界各地で人が社会を持った太古の昔から自然発生的に生まれたものと、その様相はおしなべて同様である。その要素は、自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム)、またはその延長線上にある先祖崇拝としての命・御魂・霊・神などの不可知な物質ではない生命の本質としてのマナの概念や、常世(とこよ・神や悪いものが住む)と現世(うつしよ・人の国や現実世界)からなる世界観と、禁足地や神域の存在と、それぞれを隔てる端境とその往来を妨げる結界や、祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念とその結果による政(まつりごと)の指針、国の創世と人の創世の神話の発生があげられる。

神道の神様の始原的な概念は、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)と言う2つの側面を持って捉えられています。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっています。

荒魂・和魂の概念は、我が国の伝説の中にも現れています。
各地にある竜神伝説は、恐ろしい竜ではあるが、大切に崇めると雨を降らせてくれる人々の守り竜でもある。河童伝説もキツネ伝説も大概は、その動物の二面性を説いています。
菅原道真の様に恨みを残して死んでいった人を祀る気持ちも同じように禍を転じて福としたい気持ちの現れです。西欧にも竜神伝説はありますが、西欧のそれは、飽くまでも人間に禍する竜としてのみ描かれています。
日本の神道と言うよりも神社信仰のこの概念こそ日本的であり大切な想いであると思います。

村祭り、初詣、七五三、宮参りなど現代まで受け継がれている神社行事は、この古神道の心が現代まで永遠と受け継がれてきたことを表します。

メンテ
神道の話 2 ( No.174 )
日時: 2017/06/15 10:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xuCVLJQs

氏神信仰について
当地の氏神神社である須津彦神社に対する想いは、皆様それぞれであると思います。少し長文になりますが、私たち神社を預かる者として、神社の側からの気持ちを述べさせていただきます。
前半は、趣旨説明のための長文ですので興味のない方は、読み飛ばしていただけば良いかと思います。

始めに土地の神様の話しをします。

「神道」と言えば右翼がこのむ言葉の様に思われがちですが、「大和魂」と同じ様に随分と歪な解釈がなされるようになりましたが、本来は以下のようなものなのです。


(氏神)

本来の氏神は、古代にその氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かった。例として、中臣氏は天児屋根命、忌部氏は天太玉命を祀った。
中世以降、氏神の周辺に住み、その祭礼に参加する者全体を「氏子」と称するようになり、氏神は鎮守や産土神と区別されなくなった。同じ氏神を祭る人々を「氏子中」、「氏子同」といい、その代表者である氏子総代を中心に神事や祭事が担われている。氏神を祀る神社の周辺には住んでいないが、その神を信仰する者を「崇敬者(すうけいしゃ)」といい、氏子と併せて「氏子崇敬者」と総称する。
中世以降の例としては、源氏の八幡神(八幡宮)、平氏の厳島明神(厳島神社)などが挙げられる。別格として皇室の祖神を祭った伊勢神宮は、近世までは皇室のみの氏神であったが、今日では日本人全員の総氏神とされている。

(鎮守)

鎮守(ちんじゅ)は、その土地に鎮まりその土地やその土地の者を守る神のことである。平安時代以降になると荘園制が形成され貴族や武士、寺院などの私的領地が確立され、氏族社会が崩壊し氏神信仰も衰退するが、荘園領主達は荘園を鎮護する目的でその土地の守護神を祀るようになる。これが鎮守であり、室町時代の頃に荘園制が崩壊すると信仰は衰退し、氏神に合祀され今日に至っていることが多い。

(産土神)

産土神(うぶすながみ)はその者が産まれた土地の神であり、その者を一生守護すると考えられている。生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、ほとんどの場合産土神と鎮守は同じ神であった。ただし、現在は転居する者が多いため産土神と鎮守神が異なる場合も多い。
この氏神信仰は七五三などで見ることが出来るが、生まれて間もない子供のお宮参りは本来氏神神社にお参りして、その土地の一員になることを認めてもらうための儀式の一つだった。

氏神は「古代にその氏人たちだけが祀った神であり」と言われています様に、元を糾せば、あらゆる事物や現象に霊魂,精霊が宿ると信じる観念、いわゆるアニミズムと、以下に説明する、トーテミズムが融合した形で原始宗教と思われるものの延長にあると思われる。

(トーテミズム)

日本の神道を含めた自然崇拝の信仰形態において、部族や血縁に対し、生きる縁を与えるものとして、「自分と似たようなもの」が祝福あるいは生命力を与えると考えられた。彼らは、部族ごとに石、光線、動物、植物とさまざまな形で表され、異なる世界から来るマナ(神秘的な力の源とされる概念)を、共有していると考えられた。
そうして、その概念は、狩猟生活が中心であった長い縄文時代を経て、稲作が始まった弥生時代になって定着したといえます。


極、小単位ではじまった氏神信仰が、変質し始めたのは、生活集団が、より大きなものへと変わって行ったことと関連します。

稲作の伝来、定着と共に社会的大きな変化は環濠集落誕生と社会構成である。
最初は小さな集団から始まったのであろうが、これが段々と大規模なものとなり直径が数百メートルもある大規模なものとなり、村の概念から国の概念へと発達して行く。
また収穫物と言う財産を保持することになり、狩猟生活における獲物の取り合いとは別の、集団同士(村)の熾烈で大規模な争奪戦を生む原因ともなった。

「 クニ」の形成

弥生時代、当時の最先進地域であった北部九 州では、当初、それぞれ個別の集落として存在していた「ムラ」が、農耕が基本に持つ高い人口再生産力を発揮してムラの拡大・分化を生み、近辺の生産適地を埋め尽くすように未開地を耕作地へ変えていった。
その結果増加した「ムラムラ」が、弥生前期後半ごろから小共同体(おそらく血族集団、本家と分家などから構成されたような共同体)に成長し、更にその小共同体が、指導力を持った中心的な小共同体と、そういう小共同体との共存を図ろうとする従属的な小共同体とに階層化し、それらが一つのグループとなって「クニ」を形成し始めた。
クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことにあったと思われる。
それほどにムラの数や人口が急増し、北部九州の中小河川の水量では、その効率的な利用が強く求められたからであろう。
当然、クニの内外で調整や裁定というような社会的作業や、それがうまく図れなかった場合には、争いが−すなわちこの列島において初めての戦争が−起こったであろう。

大和朝廷による国家の統一とともに、氏神信仰も随分と様相が変わってきました。

神道の元になったもの、すなわち、大和政権の中で信奉された神を祀っていたのは、物部氏であり、中臣氏でした。これらの氏族は、神を祀ることを生業としていた氏族です。一方の蘇我氏は朝鮮半島からの文化の受入に積極的であったと言われています。日本書紀の欽明天皇の条には、天皇が譲り受けた仏をとうしたものかと問うた時、蘇我稲目は受容することを進言し、物部尾輿と中臣鎌子は180いる日本の神(国神)怒りを買うと言って反対します。所謂、崇仏廃仏論争です。一時期、物部・中臣が勢力を持ち、仏像の廃棄や寺の焼却を黙認します。次の世代である蘇我馬子、物部守屋になると、次の敏達天皇は廃物希釈を実施しますが、次の用明天皇から大きく流れが変わります。そして、武力で、蘇我馬子が物部守屋を倒すに至り、完全なる仏教の時代がやってきます。

天武天皇の時、天皇中心の国家体制が整備されます。この時、天皇家の氏神である天照大神が日本民族の代表の神として位置づけられます。この後、作られた記紀の中でも天照大神を祀ることの重要さが記載されています。この時、仏教の中においても神様の格上げが行われます。そして、菩薩になった神があらわれます。代表的なのが、応神天皇こと八幡神は、八幡大菩薩となりました。現在の宇佐神宮も、延喜式に記載されている名前は、八幡大菩薩宇佐宮です。

(仏教の伝来)

仏教が日本に伝わったのは、現在、552年と538年の説があります。
当時の仏教は、仏教自身が鎮護国家の思想をもち、神道による国家体系とは別のものであった。

(鎮護国家)

仏教の教義に基づき、仏・菩薩や諸王が国家を鎮め護るという思想と、それによってもたらされる効果。7世紀、日本の律令体制構築に際し、朝廷は中国の王朝に倣って護国の思想を受容し、国家の中心に位置する国王(天皇)の擁護や、国情・社会の安定、他国からの防衛といった効果を祈念すると同時に、仏教の教義を通じて諸地域住民の感情・思想面での統制を図ろうとした。

そのために、鎌倉時代になると「本地垂迹説}などが現れることになる。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

(続く)
メンテ
神道の話 3 ( No.175 )
日時: 2017/06/15 14:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xuCVLJQs

氏神信仰の形で始まった日本の信仰が、どのように変わって行ったかの歴史です。

(神道の確立)

鎌倉時代になると、まずは仏教ありきの中でも、本地垂迹説を日本において、また、各仏教宗派の中で整理しようという気運が生まれてきます。天台宗系の山王神道、真言宗系の真言神道(両部神道)などが確立していきます。日蓮宗では、法華神道がおこり、日替わりの神様である法華三十番神が祀られるようになりました。また、それと同時に伊勢神宮の外宮では、古くからの儀礼を体系化した度会神道(外宮神道、伊勢神道という言い方をされる本も見受けられるが、江戸時代の同名のものとは異なっている)がおこります。

(吉田神道)

室町時代に入ると、ようやく仏教とは別次元で、日本における神の道なるものを確立しようする動きが表れます。それを成し遂げたのが、吉田兼倶(よしだかねとも)です。彼の起こした教義を、元本宗源神道といい、仏教ありきの両部神道や山王神道にではなく、反本地垂迹説を唱え、本地で唯一なるものが神であるとして森羅万象を体系づけた世界観をあらわすようになります。そして、『唯一神道名法要集』の中で、神道の考え方を整理し、仏教に依存する本迹縁起神道、両部習合神道、元本宗源神道の三種に分けられとし、最後の、元本宗源神道こそが、吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた正統的神道であると主張しました。また、仏教、儒教との関係を、仏教は「花実」、儒教は「枝葉」、神道は「根」と表現し、仏教や儒教が神道の上に成り立つ物であると示しました。吉田家は、兼倶の父の代まで卜部家であり、古来の神道を引き継いでいた家柄であることは間違い有りません。しかし、兼倶以降、皇室の白川家に変わって吉田家が神道の家元になり、権限を持つようになりました。

(本居宣長)

江戸時代に入り、本居宣長は、賀茂真淵の古道説を継承し、『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究をした結果、古事記が独自の価値を持った史書としての評価を獲得していくことになった。

(平田篤胤)

本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義から逸脱した神秘学的なものに変貌していった。篤胤の学説は水戸学同様幕末の尊皇攘夷の支柱となった。
平田篤胤の神道を復古神道と言うが、それはやがて明治維新の思想的側面を形成し、神仏分離、廃仏毀釈の運動となり、神道国教化を推進したとある。

それは大和朝廷からつながる天皇家の存在を国体の中心に据えると言うものであり。
天皇家の氏神、伊勢神宮を国家神道の頂点とするものであった。

(明治政府における神社の統合)

明治4年に、神社を「国家の祭祀」として社格制度を決めたのである。
それによると伊勢神宮を頂点とする神道系の宗教団体として、約8万社ある日本の神社のうち主要なものなど7万9千社以上を統合した。
後の9000社は、何かの理由で伊勢神宮の傘下には置けなかったものである。
この国家神道の考え方が、どのように展開していったかは、記憶に新しいものである。

ですが、神道を考えるとき、この国家神道の思想が人為的政治的に作り上げられてものであり、信仰の対象と言う意味では価値を置く必要のないものであることは明白です。

(参考に日本の神社の概要を紹介します)

神明神社・皇大神社(お伊勢さん) 伊勢神宮内宮 天照大御神
(この中に79000社があります)
八幡神社 宇佐神宮 八幡神(応神天皇)
天満宮・天神神社・北野神社・菅原神社 太宰府天満宮
北野天満宮 菅原道真
宗像神社 宗像大社 宗像三女神
厳島神社 厳島神社 宗像三女神
八坂神社・祇園社 八坂神社 素盞嗚尊
津島神社・天王社・須賀神社 津島神社 素盞嗚尊
氷川神社 氷川神社 素盞嗚尊
諏訪神社 諏訪大社 建御名方神
日吉神社・日枝神社(山王さん) 日吉大社東本宮 大山咋神
松尾神社 松尾大社 大山咋神
熊野神社 熊野三山 熊野神
白山神社 白山比盗_社 菊理媛神
熱田神社 熱田神宮 熱田大神(草薙剣)
浅間神社 富士山本宮浅間大社 木花咲耶姫命
鹿島神社 鹿島神宮 武甕槌命
香取神社 香取神宮 経津主命
春日神社 春日大社 武甕槌命・経津主命
愛宕神社 愛宕神社 迦具土神
秋葉神社 秋葉山本宮秋葉神社 迦具土神
金毘羅神社・琴平神社(こんぴらさん) 金刀比羅宮 金毘羅神(現在は大物主神)
住吉神社 住吉大社 住吉大神
多賀神社 (お多賀さん) 多賀大社 伊邪那岐命・伊邪那美命
貴船神社・貴布祢神社 貴船神社 闇淤加美神・高淤加美神
出雲神社 出雲大社 大国主命
塩竈神社 鹽竈神社 塩土老翁神
賀茂神社 賀茂別雷神社(上賀茂神社)
賀茂御祖神社(下鴨神社) 賀茂別雷神
大鳥(鷲・鳳)神社 大鳥大社(西日本) 日本武尊・大鳥連祖神
鷲宮神社・大鷲神社(東日本) 日本武尊
大神神社・三輪神社(三輪明神) 大神神社 大物主命
稲荷神社 伏見稲荷大社 宇迦之御魂神・保食神ほか穀物神
淡嶋神社 淡嶋神社 少彦名命(淡島神)
猿田彦神社・佐田神社・大田神社・白髭神社
賽神社・道祖神 椿大神社 猿田彦神
恵比寿(恵比須・戎)神社 西宮神社 蛭子命(ひるこ・えびす)
美保神社 事代主命
大山祗神社 大山祇神社 大山祇神
三島神社 大山祇神社 大山祇神
三嶋大社 大山祇神・事代主命
御嶽神社・御岳神社 御嶽神社 造化三神
阿蘇神社 阿蘇神社 健磐龍命(阿蘇十二神)
山神社 大山祇神(山神)
メンテ
神道の話 4 ( No.176 )
日時: 2017/06/16 10:35
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:tIVq0bOg

神道に拘っていますが、私は神道でも飛鳥時代以前の古神道(氏神信仰)の中に日本の日本らしい心の存在を見ているからです。
そこのところをもう少し検証してみます。

そもそも宗教とは何かという問いに対して

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。

この様に形式的で、堅苦しい説明がありますが、これでは宗教の外見上(教団の存在)の概念については理解できるが、宗教そのものについての説明には乏しい。

概略すぎて申し訳けないが、歴史的に宗教のことを追ってみよう。

(呪術の段階)

宗教は最初、アニミズムやシャーマニズムと言う形で、生産の為の自然崇拝から始った。やがてそれが一神教とか多神教の形で神という概念を創り出した。
この段階では、個人及び生計を共にする小集団がその不安に対応するために宗教活動を行うのが中心であり、そのうち指導者が長老とか呪術者という形で出てくる。

(古代宗教の段階)

その後社会が発達し、人間の生活単位が部族から民族へ、さらに国家と広がるに従い宗教のあり方(宗教によせる気持)も複雑化し大規模となり、部族神、国家神の形をとることになる。
古代エジプト王国などは、その究極の形である。
此処では王は宗教上の最高権威でもあり、宗教は個人及び生計を共にする小集団の宗教的願いを包括しながらも統治の為の要素も宗教活動の中に入ってくる。
この時代の国家は純粋な宗教国家と言える。

(世界宗教の段階)

古代国家の終わり、起源前、1000〜2000年のころになると、人間の生産力もあがり、国家としての集団生活も安定してくると、人々は「人間とは何か。「宇宙とは何か」と言う領域のことにも興味を持つようになり、国家の枠組みを突き抜けた思考をするようになる。
形而上学的な哲学が興り、宗教も国家を逸脱し万人を対象とする理念が現われた。
それが、現代まで続いているキリスト教であり、イスラム教、仏教の発祥となって、くしくも起源前1000〜起源年の間に一斉に現われた。

最初に述べた「宗教とは何か」と言う問いにたいして、キリスト教については、教父と言われているアウグスティヌスの次の言葉で総括することにする。
「告白』という書物の冒頭で、「(主よ)、私たちの心は、あなたの内に安らうまで、安らぎを得ません」と述べ、キリストの教えを信じて初めて魂の安らぎを得たと告白している。
その前提に彼は「人間は貴方(神)に似せられて造られている」言っている。
言い替えれば、キリスト教の教義は、人々は、キリストの教えに学ぶ(キリストに近づく)ことで心の安寧を得るということに集約できる。

一方、同じ一神教であるイスラム教では、アラーの神に忠誠を求める。人々はそのアラーの戒律をひたすら守ることで心の平安を得ることとされている。
そのためにイスラム教の社会は、信仰という領域で中央集権的な様相が強く、ために宗教と国家が結ぶ付くことが多くなる。
イスラム教を信仰する国民の比率が多くなると、結びつかざる要素があるのである。

これに対して多神教社会で発達してきた仏教の世界では少し様相が異なってくる。
起源前5世紀に現われた仏陀の教えは「この世を苦しみ・迷いの世界と見、苦行にも悦楽にも偏らない正しい実践によってそこから脱け出ること、さらには迷いに沈む生きとし生けるものを救うことを目ざす」ことであった。
仏陀の教えの境地に達することを「解脱」と言い、それによって「涅槃」の世界へ導くことが教義とされている。
要するにキリスト教、イスラム教がひたすら神との関係を強調するのに対して仏教では各自の修練を求め、それによって各自は平安が得られるというものである。
また、仏教の世界観では「輪廻転生」を言う。これも先の2宗教とは根本的に異なり、生(人性)を宇宙の流れの中に位置づけている。
人々は個人であって個人でないのである。

このように我々が宗教と言う概念で捉えるのは世界宗教(アーノルド・トインビーは高等宗教と名づけている)のことであって、2000年の間、人類はこれに基づいて輝かしい発展の歴史を作ってきた。
ところが、この間の科学技術の発達と、それに伴って結実した経済の発達は人間社会自身の悩みを変質させることになった。

次に日本の様子を伺ってみることにしましょう。

メンテ
神道の話 5 ( No.177 )
日時: 2017/06/16 10:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:tIVq0bOg

以下の文章は、このスレッドの前の方に出てきて重複するかもしれません。



信仰心の文化人類学的考察

古代日本の世界 「怨霊伝説」

人類には既知の生活圏内においても、どうしても克服できない恐怖が付きまといます。たびたび襲い掛かる地震や噴火などの天災、疫病です。昔の人は、これらの原因を科学的に理解することができず、従って解決できなかったのです。この未知なるものへの「恐怖」が、神や悪魔、亡霊や怨霊といった存在を生み出したのです。

人類は、これらを敬い供養を重ねることで、「未知の恐怖」を克服できると信じるしかありませんでした。近世に至るまで、天災や疫病や精神病といった「目に見えない恐怖」は、悪魔や怨霊の仕業と信じられていました。それが西洋(キリスト教圏)では悪魔、我が国では怨霊伝説として残っています。

まず、怨霊とは何か?それは、恨みを呑んで死んでいった人の霊魂です。怨霊は、一神教世界の悪魔と異なり、個別的で具体的な存在なのです。東洋世界では、怨霊は、恨みを晴らすために仇の命を付け狙い、あるいは天災や疫病を引き起こす邪悪な存在だと考えられていました。これを退治する方法は、供養を重ねて怒りを和らげることで、成仏してもらうしかありません。あるいは、仇討ちを成就させてあげるしかありません。

歴史的に見て誰もが認める怨霊としては、崇徳上皇、菅原道真、平将門、佐倉惣五郎、西郷隆盛などがある。また、最近では、これに加えて、一部の歴史家、小説家が検証した怨霊としては、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王、藤原三代などがある。

これら、怨霊となった人々の共通点は、いずれも不慮の死を遂げていることである。しかも、これらの人々は、理想を掲げて活動していたが、政敵により殺害された人達である。そして、崇徳上皇、菅原道真のように政敵に対して深い恨みを抱き、後世に災いを引き起こしたと見られている。
 
権力者(藤原氏)は、自身の後ろめたさから、民衆と一緒に道真を「天神様」として祀りあげるのである。これにより、権力者自身、道真と民衆から、許しを請うているのである。そうすることで、怨霊も民衆もそれ以上は、権力者を憎むことはなかった。

これこそが、日本の「怨霊思想」である。一見、非科学的な、祟りの話であるが、その中身は、政治、人事に対する民衆の怒り、それに対する、権力者の贖罪、そして、新たな平和の到来、といった政治問題の解決の手段なのである。

出雲大社の謂れにしても、それはヤマト王権成立の過程で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が葦原中国(あしはらなかつくに、日本の古称)を天孫に譲った功績に対して、アマテラスオオミカミ(天照大神)が造営してやった壮大な宮殿とされているが、実際は「オオクニヌシノカミは本心から納得して素直に国譲りをしたのではない、戦いに破れて激しい怨念を抱いたままこの世を去ったというのだ。その怨霊を鎮めるため、幽事(あの世のこと)の支配者としておだて上げ、その宮殿としてアマテラスオオミカミの子孫の住まいより大きい大神殿を建ててやった」と主張されている歴史家がいます。


「西欧の悪魔」

これに対して悪魔は、主にキリスト教やイスラム教といった一神教世界に登場する存在であり、唯一神と対立する概念です。神=善、悪魔=悪と考えるのが一番簡単なのですが(ゾロアスター教ではそうなっている)、キリスト教世界などでは、神と悪魔はしばしば混然としています。人間の態度いかんで、神が悪(=天罰)を為すこともあるからです。

欧州のキリスト教会では、悪魔は人間の心の弱さに付けこんで、心を腐らせる邪悪な存在であると教えていました。庶民は、教会に縋り正しい信仰を守ることを怠れば、弱い心が悪魔に食われてしまい、神の御許に辿り着けなくなるというのです。つまり悪魔は、個人の信仰を揺るがせる「恐怖」なのです。天災や疫病は、むしろ、人間が悪魔に負けて正しい信仰を失ったことに対する「神が下した天罰」と考えるのです

ゲーテの『ファウスト』は、悪魔を描いた傑作です。主人公の学者ファウストは、老齢になって「本当の人生の満足」を得ていないことに気づきます。悩み苦しんだ彼は、悪魔メフィストと、ある契約を結びます。悪魔が彼に「本当の人生の満足」を与えてくれるのなら、魂を悪魔に献上するというのです。様々な冒険を経て、ついに本当の幸せを知ったファウストは、心からの満足とともに地獄に落ちるのです。

ウイリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1974)は、悪魔祓いの物語です。主人公のカラス神父は、少女リーガンの体内に巣食う凶悪な悪魔を撃退するのですが、自らは命を落とします。ショッキングな悪魔描写が話題を呼び、1970年代のホラーブームを生んだ傑作です。

他にも沢山ありますが、悪魔が登場する物語は、人間の実存を巡る哲学的なテーマが多いようです。そして、ほとんどの物語がアンハッピーエンドです。悪魔は退治されず、主人公は堕落するか命を落とすのです。

このように一神教世界の悪魔は、神と表裏一体の概念となっていて、神の世界を守護するために使われます。

ヤマト民族が、お互いの生活の平穏のために怨霊を祀り「和」を望んだことと随分と異なるようです。
これは後に記述する、アングロサクソン、ゲルマン民族との性格の比較にも通じることになってきます。


次に「日本の龍神伝説」を2つ紹介します。

「大分県 震動の滝の竜神伝説」

昔々、震動滝の竜神が年老いてきて、神通力が年々衰えるのを苦にし
どうにかして若い人間を食いたいと願っていた。
ある日北方の釣り人に神通力を送った。それとは知らずいつもよりよく釣れるので釣り人はとうとう滝つぼまで引き寄せられて竜神につかまった。

竜神が「不老長寿の薬にお前の娘をどうしても食いたい。
差し出さねばお前を食うまでだ」と迫ったので釣り人は恐ろしさのあまり
娘を捧げる約束をして逃げ帰ったと。

しかしいつまで待っても娘が来ないので竜神はとうとう怒ってしまい
神通力で部落の底を抜いて水を抜き捨ててしまった。

田も畑も作物は枯れ、井戸水もなくなり部落は最大の危機に見舞われた。
そして竜神は最後の力を振り絞り、断崖をよじ登り部落に火を吹きつけ始めたと。

そこで娘の恋人の若者が一計を思いつき部落総出で白鳥神社に集まり
餅をつき不老長寿の祈願を受けて竜神に捧げた。
竜神も白鳥神社には一言もなく引き下がり、部落は難儀を救われた。
その後天災や大水の出るたびに部落では餅をつき、滝つぼに投げ入れて
竜神の機嫌をとるようになったと。

竜神が崖を這い上がった時の跡が今も残っていて、白崩れとか竜神崩れとかいって
白鳥神社の横に大きく口を開けていてのぞくと恐ろしいということじゃ。



津南町立芦ヶ崎小学校編  「竜ヶ窪に伝わるお話」より

ある年長い日照りが続き、村人はヒエやアワどころか水一滴なく苦しい生活をしていました。

ある時一人の青年が食べ物を探しに出かけると、昼寝をしている龍の側に卵があるのを見つけ、 盗み出しました。村に帰り、せめて年寄りや子供にだけでも食べさせようと卵を割ると、 中から龍の子が現れ母親に助けを求めたのです。怒りに狂った母親龍が村人を食い殺そうとすると、 村人は「子供だけは助けてほしい」と必死で頼みました。

龍はその心に打たれ、村人のために3日3晩雨を降らせ池を作ってやりました。 そして「この池はおまえたちの美しい心の象徴だ。しかし人の心の曇るとき、この池は涸れてしまうであろう」と言い残して消えました。 村人はこの池を『龍ヶ窪』と名付けて大切にし、龍神様をおまつりしたということです。

これに対してヨーロッパのそれは、

「悪の化身 西洋のドラゴン」

 序章で前述したように、龍は古代中国において四神・四霊などの一つに数え挙げられ、神獣や瑞獣とみなされてきた。また中国では、龍は天子を意味するものであり、天子に関する事柄に用いられ、さらには英雄や豪傑をたとえるものでもあり、特に優れていることを指している。

ところがヨーロッパにおいては、伝説上の怪獣・ドラゴンは中国の龍に近い形態を持つ動物であるにもかかわらず龍とは異なる立場に位置し、強い力・暗黒・暴力を象徴するものとされている。

ヨーロッパで描かれる典型的なドラゴンは、頭に角を持ち、胴は緑や黒っぽい色の鱗におおわれた蛇、あるいはトカゲのような爬虫類のもので、西洋における龍の名「ドラゴン」はギリシア語の「ドラコーン」を由来とし、「ドラコーン」とはすなわち蛇を意味している。獅子の前脚と鷲の後ろ足、サソリの尾などを持つものとして描かれており、また特徴として、コウモリのような翼を有している。

この翼を用いて天空を飛翔し、口から火と煙を吐くとされている。また太古の昔、人類登場以前に存在していた恐竜に似た姿をしてもいる。このようにドラゴンはいくつかの動物が組み合わされた形態を持っていた。

 強い力・悪を象徴する西洋の龍=ドラゴンは、神話や物語、伝説の中では神々と対立する存在として登場する。その多くが神々の敵として悪魔視されており、その姿を変えることなく人間を襲うドラゴンは、聖人・英雄に悉く退治されてしまうのである。ギリシア神話の中ではヘラクレス、ゼウス、アポロンをはじめとする多くの神々・英雄たちによるドラゴン退治の話が語られている。

特にキリスト教では、ドラゴンは秩序を乱す悪(=異教徒)として邪悪、醜悪なものと見なされていた。『新約聖書』ヨハネの黙示録には、巨大な龍または年を経た蛇が天上で天使ミカエル等と戦った末に敗れ、全人類を惑わす者、悪魔・サタンと呼ばれ、地上に投げ落とされ、地下深くに閉じこめられたと記されている。

この中に登場する龍は、火のように赤い大きな龍で、七つの頭、七つの冠に十本の角を持ち、一度に天の星の三分の一をなぎ払ってしまうような尾を有する強大な怪物であった。聖書においてのドラゴンは、何か実在の生き物を表わす言葉として使用されているのではなく、むしろ邪悪・悪魔といったイメージの象徴的な意味を表わすものとして描かれている。

その他、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧などヨーロッパ各地の至るところに神々・英雄によるドラゴン退治の物語が残っているのみならず、数多くの絵画や彫刻などにもモチーフとして用いられてきた。
メンテ
神道の話 6 ( No.178 )
日時: 2017/06/16 10:37
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:tIVq0bOg

如何でしょうか、日本の竜神伝説の優しい事が御分かりと思います。
怨霊伝説、悪魔伝説と同じように人間の恐怖心の裏返しで各種の伝説は言い伝えられています。

その恐怖とは何であったのでしょうか。

一番に考えら得ることは餓えへの恐怖、つまりは作物の不作だったと思います、狩猟や漁業の成果を祈願する面もあったと思いますが、これは古代のことである程度は安定していたでしょう。

その次には、生命の不安だったでしょう。
疫病、戦い、さらには権力者にとっては永遠の生命を求めていたかも知れません。

そう言うものの対象が水生動物としての龍(ドラゴン)へ向かったともいえます。また、荒れ狂う大河の流域の人々が大河を恐れたのかも知れません。

ヨーロッパではドラゴンは悪魔のように恐れられる存在だけであった事と、中国などでは権力の象徴としてより用いられたことなど、それぞれに民族性が感じられます。

一神教の影響が強いヨーロッパは、あくまでも善をなすものは神のみであり、全てをそれと対立して考える方向が強いようです。
ですからドラゴンはあくまでも人々に害をなす存在として恐れられ、祀られてきたと思います。

それと対極にあるのが日本で、龍をも篭絡し人々に善を成す存在に置き換えています。龍神を手厚く祀ること(自戒すること)によって豊作が得られると言うことです。

割愛しましたが、中国では、人々のそんな思い(豊作祈願)よりも、為政者の威光のために龍が用いられてきたようです。

ヨーロッパや中国などでは、これから述べることになりますが、国家や群落同士が血で血を洗う闘争が続いていました。豊作よりも戦いに勝って生き抜くことの方が重要であったとも思います。

また神と個人の対話を旨とする一神教が育っている社会では、集団としての祈願などは興味がなかったのかも知れません。


一神教の世界と多神教の世界を一部の事例で検証して見ました。
日本は良い国の形をしていると思いませんか。

この延長で出てきたのが日本の信仰、氏神信仰なのです。
繰り返しますが、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)という神の概念が解りやすくなったでしょう。

神道の神様の始原的な概念は、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)と言う2つの側面を持って捉えられています。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっています。


現在、普通に言われている神道は、鎌倉時代以降、国体を考えることと関連して根源の信仰心から離れた歪なものになっているのです。
しかしながら、日本の心のルーツを探ると言う面では大切な概念であり、また、この根源的な信仰心は現在でも民衆の中に伝わり生きているのです。

大和魂の概念とともに、我が国の精神文化の上で大切な要素となっています。
これで、神道の話は一旦終わります。

メンテ
神道の話 7 ( No.179 )
日時: 2017/06/22 22:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FdLlezlU

少し時代は飛びますが、神道に関して先走っておきます。


国家神道と言う言葉があります。
これは、このスレッドで追及している日本の心の源泉を神道(古神道)に求めながら何かのきっかけで神道を天皇の権威つけにする事に利用し、次第に信仰としての神道からはみだした結果の神道なのです。

その経緯について検証してみましょう。
国体を論じる風潮は、鎌倉時代から大きな動きになってきました。
外国の例では一つの王朝が滅びると、前の王朝の影響のあるものは、その後継者ともども徹底的に排除されるのが普通でした。
しかしながら日本においては、実質の天皇支配はすでに平安朝初期までであったのですが、その後は天皇は名目に代理人が統治をする様式が定着していきます。

平安時代は、それでも政治の中心は御所でやられたいたものが、武家政権である鎌倉時代以降は幕府を設けて幕府が統治するようになりました。
幕府は天皇から統治を委託されていると言う形を取っていました。
何故かこの形式は江戸時代が終わるまで700年も続きました。
そういえば、日本の歴史では時代の権力者(幕府を開いた者)で実質日本全土を武力によって制圧したものはなく、長く江戸幕府ですら、遠征の途中で和解をし、者に従っています。
その大義名分に天皇家の存在があったのでしょう。

その為にも天皇家側にも実際の統治者の側にも天皇家の存在を権威つける必要があったのではと思います。
その動きは鎌倉時代から活発になり、天皇家の権威つけに古事記の研究が始まったのではないかと思います。
我が国の正史とされている日本書紀とは違い、古事記には神代の時代からの伝説が書かれており、それが神武天皇から始まる天皇家の系図(皇紀2600年説)を造るようになったのでしょう。

それでも室町時代までは、単純に天皇家の権威つけで終わっていましたが、江戸時代にはいり様相が変わってきます。
江戸雄時代には賀茂真淵や本居宣長が出て、日本人のこころのルーツの様なものに関心を持ちました。
当時は仏教や儒教などいろいろな教えが広まっていて、彼らは日本的なものを検証しようとしたのでしょう。
両名とも、相当な博学で、四書五経など中国の古典、儒教、仏教、それにキリスト教の教えすら精通していたようです。
賀茂真淵は荷田春満を師とし、『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿であるとしていました。

一方、宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。
同時に、本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。
最初の国学と言われるものは、こうして始まったのですが、平田篤胤の登場によって様相が変わってきます。

平田篤胤は、本居宣長の死後に登場し、実際には本居宣長に師事した訳ではないのに宣長の弟子と称していました。
平田篤胤も宣長と同じように博学であり当時の最大の思想家であったのですが、篤胤と宣長の違うところは、宣長が日本的な心は飽くまでも氏神信仰(古神道)の域をでなものであったのに対して、篤胤のそれは、同じ様な日本の心を天皇家を権威つけするための神道に関連付けたことです。

後で詳しく説明しますが、具体的に簡単に言いますと、
日本的なこころ、素朴な信仰心は最終的には神様の体系の大元、大国主命(伊勢神宮)につながり、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとした。

子の思想が、国家神道を生む基になった。
平田篤胤の怪しからん摩り替えであったが、その影響は幕末から明治時代の社会へ大きな影響を及ぼす事になった。

それでは平田篤胤の思想を、もう少し詳しく説明してみましょう。

篤胤は、他の学者のように他界を現世と切り離して考えたりはしなかった。黄泉の国の存在は認めたが、死者の国ではないとした。篤胤は、現実の習俗などから類推して、死者の魂は、死者の世界に行くが、その異界は現世のあらゆる場所に遍在しているとした。そして、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まるものだと考えた。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界にいて、現世のことをみており、祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした。
これは近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる。逆に言えば、民俗学は、国学の影響を強く受けているということでもある。

現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。

(大国主命の主宰神説)

篤胤によれば幽界は、大国主命が司る世界だという。大国主命は死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課すとしているが、死者が受けるその懲罰について、篤胤は詳細を述べていない。これは、篤胤の関心があくまで、この世における人生の不合理性の解決・救済にあり、為政者が望むような倫理的な規範の遵守を説くものではなかったことを示している。
この大国主命の幽冥界主宰神説は、篤胤以降復古神道の基本的な教義となり、近代以降の神道および政教関係を大きく方向付けることとなった1881年(明治14年)の祭神論争の出雲派の敗北で、公的には否定されるが、現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。

(引用終わり)

この前半の部分は良いとしても、それを大国主命の主宰神説に結びつけたのが大きな間違いであったのである。
宗教(信仰心)と政治は別物でなければならない。
神道をアラーに神を信じるような一神教にする事など、もっとも日本の精神に反している。
平田篤胤は、そこまで理解してなかったとしても、水戸学以降の存在が歪な思想を生んでしまった。

>アラーの神のためなら命まで捧げる
>天皇のために死んで来い

同じことでしょう。
日本の古神道(氏神信仰)は、決してそのようなものではなかったはず。

平田篤胤は悪い!
メンテ
神道の話 8(おまけ)  日本会議とも ( No.180 )
日時: 2017/06/22 23:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FdLlezlU

現在日本には8万社の神社があると言いました。
そうして、明治政府は平田篤胤が唱えたように大国主命を祀る伊勢神宮を頂点とする神道系の宗教団体として、約8万社ある日本の神社のうち主要なものなど7万9千社以上を統合した。
それを管理する為の神社庁なる役所もどきの宗教法人を作り、全国の神社を管理している。
私の地区の神社も、その傘下で、京都府神社庁に届けを出しており、神社総代は地元の氏子が選んだ者を任命すると言う形を取っている。
そんな事を知らずに私は神社総代に選出され、大変ではあるが地元に為には力を尽くす積りであったが、就任早々神社庁に総代変更の届けを出せと言う。
これは何だ!と思いながらも総代を続けるうちに解ったことが、伊勢神宮系列に入っているために毎年、伊勢神宮の御札を購入するよう割り当ての数と共に請求された。
ヤクザ組織の上納金である。
ここまでは歴代総代もやってきた事としたがって来た。
しかしながら、神社庁の割り振りで、当地周囲の各神社が集まり支部を作っているそうで、その支部の総会に出なければならないらしい。
その支部の総会にでて、私は切れてしまった。
その総会の初めに、80人ほど集まった私と同じような総代に、伊勢神宮の方を向いて礼拝しろと言う。
これもイスラム教と同じ仕草。
もちろん、私はそんな事に応じるはずはない。
さらに、そのあとに、君が代を斉唱しろという。
完全に切れた私は、任期中のその後の5回の総会はすべてボイコットした。
何が悲しくて天皇の為に我が身を犠牲にして神社を守らねばならないか。

ですが実際の神社の管理は、そんなものとは違います。
初詣の世話に始まり、村祭り、厄年祈願祭、節分祭、村祈祷など、地域の人が喜んでくれる行事の世話なのです。
これが氏神信仰で当地の神社も1300年の昔から、これを続けているのです。
ここに本当の日本の心が宿っているのです。
国家神道など、クソ喰らえなのです。
そんな事を言っていたら、誰も協力はしてくれません。

ところで、ここに出てきた神社庁、その総本山えお神社本庁と言います。
どれくらいの金をせしめているかと言えば、79000×上納金(当地の様な小さな神社でも20万円)=160億円。
おそらく500〜800億円はあるでしょう。
話は飛びますが、次に「日本会議」の事に触れましょう。
日本会議は、1997年に設立された、日本の民間団体である。2016年現在、会員は約38000名、全国都道府県に本部があり、また241の市町村支部がある。会長は、田久保忠衛(2016年7月現在)。
日本会議国会議員懇談会と日本会議地方議員連盟は、日本会議の関連団体。

設立の経緯
1997年5月30日に日本を守る会と日本を守る国民会議を統合して設立された。
日本を守る会は1974年4月に、円覚寺貫主・朝比奈宗源が神道・仏教系の新宗教に呼びかけて結成、政治課題に対して様々な保守的な政治運動を行っていた。
日本を守る国民会議は1981年10月に設立。 最高裁判所長官を務めた石田和外らの呼びかけによって財界人・学者中心で、元号法制定を目的に1978年7月に結成された「元号法制化実現国民会議」をもとに、これを改組してつくられた。

要するに宗教団体の影響が強い団体で、統一教会、成長の家などの影響もありますが、何と言っても神社本庁の影響か、国家神道としての神道の影響が強くあります。

全体的に保守系の思想が強い団体ですが、奴等に本当に日本を憂う哲学(思想)などないことは明白であり、だから手っ取り早い国家神道に拠ったのです。
「日本会議」などと仰々しい名前を付けていますが歴史も40年間余りと浅く、内容は街宣右翼と変わらない軽薄なものです。
ただね、宗教票が欲しいクソ議員と、利権絡みで集まりたい輩が中心に集まる集団です。
ところが御本尊、神社庁はもともと(明治以来)日本各地に支部を置く全国組織のお上、資金はふんだんにある。
その世話だと思うが「日本会議」全国に支部をもち、その支部毎に同じ様によからぬ事を企む輩があるまり数の上では大組織となっている。

「日本会議」をつぶすなら神社本庁をつぶせば良いのだが、この神社本庁と言う奴は、平気で日本中の神社から上納金を平気であつめるヤクザ。なかなかつぶれない。
私の地域の神社の例で言ったように、全国79000の神社は神社庁に何の恩恵も受けてない。
神社庁などなくても変わらず、なくした方は日本の文化の為にも良い。
繰り返すが「日本会議」とは、そんなごろつきが牛耳っている組織である。
そういう事を間違いなく、しっかりと認識されることである。
そういう認識が広まれば「日本会議」など屁、みたいなものである。
メンテ
神道と天皇家 1 ( No.181 )
日時: 2017/06/24 13:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:saPMkyLI

ところで神道国家などを目指す思想が何処から来たのか検証してみる事にしましょう。
これは、大和魂の前提となる和の心の発祥と定着の時期と関係あるので、少し後戻りしますが書いてみます。


日本書記
http://nihonsinwa.com/column/novel/22.html
以下は日本書記の目次です。古事記も同じような項目で編纂されているので比較されれば面白いでしょう。

日本書紀神代上
日本書紀神代下
神武天皇(日本書紀)
綏靖天皇〜開化天皇(日本書紀)
崇神天皇(日本書紀)
垂仁天皇(日本書紀)
景行天皇(日本書紀)
成務天皇(日本書紀)
仲哀天皇(日本書紀)
神功皇后(日本書紀)
応神天皇(日本書紀)
仁徳天皇(日本書紀)
履中天皇・反正天皇(日本書紀)
允恭天皇(日本書紀)
安康天皇(日本書紀)
雄略天皇(日本書紀)
清寧天皇(日本書紀)
顕宗天皇(日本書紀)
仁賢天皇(日本書紀)
武烈天皇(日本書紀)
継体天皇(日本書紀)
安閑天皇・宣化天皇(日本書紀)
欽明天皇(日本書紀)
敏達天皇(日本書紀)
用明天皇(日本書紀)
崇峻天皇(日本書紀)
推古天皇(日本書紀)
舒明天皇(日本書紀)
皇極天皇(日本書紀)
孝徳天皇(日本書紀)
斉明天皇(日本書紀)
天智天皇(日本書紀)
天武天皇(日本書紀28)
天武天皇(日本書紀29)
持統天皇(日本書紀30巻)

ここで日本書紀神代上の内容を少し紹介します。
我が国の創生神話です。
その名前は知っていても、余り日本書記、古事記を読まれることがないので興味があるかと思います。

「日本書紀神代上」
(第一段本文 世界のはじまり)
昔、まだ天と地が分かれておらず
陰と陽が分かれておらず
混沌としていて鶏の卵のようでした。

そこにほんのちょっと兆しがありました。
その澄んで明るいものは
薄く広がって天となりました。
重く濁ったものは地となりました。

天となるものは動きやすく
地となるものは固まりにくかったのです。
なので天が先に生まれ、
次に地が固まりました。
その後、その中に神が生まれました。

世界が生まれたとき
国は漂っていました。
それは魚が水に浮かんでいるようでした。

天地の中に一つのものが生まれました。
アシの芽に似ていました。
国常立尊(クニノトコタチノミコト)です。

(とても尊いものを「尊(ミコト)」と書きます。そのほかは「命(ミコト)」と書きます)

次に国狹槌尊(クニノサツチノミコト)、次に豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト=トヨクモノミコト)が生まれました。

これらの三柱は対となる配偶者の居ない男神でした。

(第一段一書(一)天地が分かれて、その虚空に)
天地が分かれて、その虚空に何かがありました。その形を表現することは難しいようなものでした。

その中に神が現れました。

国常立尊(クニノトコタチ)です。
別名を国底立尊(クニノソコタチ)と言います。

次に国狭槌尊(クニノサツチ)。
別名を国狭立尊(クニノサタチ)です。

次に豊国主尊(トヨクニヌシ)です。
別名を豊組野尊(トヨクムノ)です。
またの別名を豊香節野尊(トヨカフシノ)です。
またの別名を浮経野豊買尊(ウカフノノトヨカヒ)です。
またの別名を豊国野尊(トヨクニノ)です。
またの別名を葉木国野尊(ハコクニノ)です。
またの別名を見野尊(ミノ)です。

(第一段一書(二)葦の芽が生えるように)
昔、国も地も出来上がっていないときは、例えるならば水に浮かぶ油のように漂っていました。

その時、その国の中から、葦の芽が生えるように、一つの物が生まれました。そうして生まれた神を可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)と言いました。

次に生まれたのが国常立尊(クニノトコタチノミコト)。
次が国狹槌尊(クニノサツチノミコト)。
葉木国(ハコクニ)を「播舉矩爾(ハコクニ)」といい、
可美(ウマシ)を「于麻時(ウマジ)」という。

(第一段一書(三)初めに「神人」が居ました)
天地が混沌としていたとき、初めに「神人」が居ました。名前は可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)です。
次に国底立尊(クニノソコタチ)です。
彦舅(ヒコヂ)を比古尼(ヒコジ)と言います。

(第一段一書(四)高天原に生まれた神)
天地が初めに別れて、神が生まれた。
それが国常立尊(クニノトコタチノミコト)。
次に国狹槌尊(クニノサツチノミコト)。

また、高天原に生まれた神が天御中主尊(アメノミナカヌシ)です。次に高皇産靈尊(タカミムスビ)。次に神皇産靈尊(カミムスビ)です。
皇産靈(ミムスビ)は美武須&#27607;(ミムスビ)といいます

(第一段一書(五)海の上で根づくところが無いでいる浮雲)
天と地がまだ区別がつかないときのこと。それは例えるならば、海の上で根づくところが無いでいる浮雲のようだった。

そこにひとつの物が生まれた。

葦の芽が初めて泥の中から生えて来たようだった。やがて人の形となった。

それが国常立尊(クニノトコタチノミコト)です。

(第一段一書(六)空中に葦の芽と脂)
天地が分かれて何か物がありました。

葦の芽が空中に生え、これが神となりました。
これが天常立尊(アメノトコタチノミコト)です。
次に可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂノミコト)が生まれました。

また物がありました。
脂が空中に生まれ、それが神となりました。
それが国常立尊(クニノトコタチノミコト)です


次に現れた神は泥土煮尊(ウヒジニ)です。
別名を&#22527;土根尊(ウヒジネ)と言います。

次に現れた神は沙土&#29009;尊(スヒジニ)です。
別名を沙土根尊(スヒジネ)と言います。

次に現れた神は大戸之道尊(オオトノジ)です。
一説によると大戸之邊(オオトノベ)とも言われます。

次に現れた神は大苫邊尊(オオトマベ)です。
この二柱の神は別名を大戸摩彦尊(オオトマヒコ)と大戸摩姫尊(オオトマヒメ)と言います。また別名を大富道尊(オオトミヂ)と大富邊尊(オオトミベ)と言います。


次に現れた神は面足尊(オモタル)・惶根尊(カシコネ)といいます。
別名を吾屋惶根尊(アヤカシコネ)、忌橿城尊(イミカシキ)、青橿城根尊(アオカシキネ)、吾屋橿城尊(アヤカシキネ)と言います。

(第二段本文・第三段本文 神代七代)
次に現れたのが伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)です。

これらの八柱の神は天の道と地の道が交わって生まれました。それで男女となっています。国常立尊(クニノトコタチノミコト)から伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)までを神代七代と呼びます。

きりがないので、人格神→おなじみの神代七代が登場した所で省略します。
この後、神武天皇編の冒頭に以下の文章があります。


(追申)

日本の創世神話がインドのそれと非常に似通っていることに驚かされます。

リグ・ヴェーダ    インド哲学の祖

そのとき、無もなく、有もなかった、
空界もなく、その上の天もなかった。
世界を庇護したのはだれか、それを包んだのはだれか。
あの底知れぬ深遠はどこにあったのか、あの海はどこに。

そのとき、死もなく、不死もなく、
夜と昼とがさだかでなかった。
かの唯一者は、息なく呼吸し、
そのほかには何ものも存在しなかった。

全世界は暗黒におおわれ、
光なく、夜の中に消える大洋であった。
そのとき、おおいの中に隠れていたもの、
かの(唯一者)が灼熱の力によって生まれた。

これから出て、はじめに現れたのが、
知の種子なる意欲であった。
有の根底を無のなかに見いだしたのは、
心の動きにしたがい、探し求めた聖賢たちであった。

彼らが測素を横にずっと張ったとき、
何がその下にあって、何がその上にあったのか。
種子をもつものが存在し、活動する力が存在した。
自存力が下に、あふれそうな力が上に。

だが、だれがうまく尋ね当てたのか。
創造がどこから生じたかを、だれか認めたものがいたのか。
神々も、この創造よりのちに生まれ出た。
では、創造がどこから生じたかを、だれが宣言するのか。

創造を生み出したもの、
彼はいと高き天の光でそれを総覧し、
彼はそれをつくりなし、あるいはつくりなさず。
彼はそれを知り、あるいはまたそれを知らないか。
メンテ
神道と天皇家 2 ( No.182 )
日時: 2017/06/23 20:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:q4dP6evM

神武天皇が生まれる→生年月日は不承。
15歳:太子と成る。
●以下の年齢は1月1日に1歳増えるとした場合。
45歳:東を目指すことを宣言し、出発。
45歳の10月:筑紫国の菟狹へ到着。
45歳の11月:筑紫国の岡水門に到着。
45歳の12月:安芸国の埃宮に滞在。
46歳の3月:吉備国の高嶋宮に入る。
49歳の2月:浪速国へ。
49歳の3月:河内国の草香邑の青雲の白肩之津へ。
49歳の4月:長髄&#24421;との最初の戦い。
49歳の5月:茅淳の山城の水門に到着。五瀬命が死亡。
49歳の6月:稻飯命と三毛入野命が軍から離脱。軍が神の毒により病むが、高倉下の助けによって回復する。ヤタガラスによる道案内。
49歳の8月:兄猾と弟猾との争い。来目歌。
49歳の9月:八十梟帥(ヤソタケル)との戦いと誓約。
49歳の10月:八十梟帥(ヤソタケル)を撃破。宴会をして他の敵も殺害。
49歳の11月:兄磯城(エシキ)と弟磯城(オトシキ)との戦い。
49歳の12月:長髄彦との再戦。長髄彦を殺害。
50歳の2月:土蜘蛛を破り、土地を磐余と改名する。
50歳の3月:都を開く。
51歳の9月:媛蹈&#38875;五十鈴媛命を皇后に迎える。
52歳の1月:帝位につき、神武天皇となる。
53歳の2月:東征の論功行賞を行う。
82歳の4月:国褒め。
93歳の1月:神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)を皇太子に。
127歳の3月:崩御。

この間に、天照大御神の天岩戸伝説、大国主命、国譲り伝説、やわたのおろち伝説など多くの伝説が継承されています。

さて天皇家の家系図の筆頭、神武天皇の実態に迫って見ましょう。
ものの本に依れば神武天皇は紀元前660年に即位したことになっていますが、これは皇紀2600年から逆算した明治政府が書いたものでしょう。
また資料で確認できる天皇は15代、応神天皇からで即位は270年となっています。

270年と言えば大和朝廷が成立した時代に当たります。
大和朝廷成立と言っても現在まで確たる実証はされていません。
が、1〜3世紀の日本の状況は中国の史書にも出てきます。その一つ卑弥呼の記述は信頼できるものと思います。
邪馬台国は240年〜249年頃に卑弥呼がなくなり、その後男性が王に即位したものの政治が乱れたため、壱与という女性が王になったところ、争いが鎮まったと言われています。しかし、その後の邪馬台国がどうなったかは定かではありません。そして3世紀頃になると、奈良には大和朝廷の象徴もされる大規模な古墳が出現します。592年には飛鳥時代がはじまる一方で、600年以降はこうした古墳は見られなくなります。
ウィキペディアによると、

(ヤマト「王権」の成立時期)

ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしても、ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる。
3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。

大化改新の時代までは天皇と言えども絶えず豪族の謀略により入れ替わっていたようです。
本当に中央主権を握ったのは天智天皇くらいからわずかの間ではなかったのではないかと思います。

天皇家の始めは、3世紀であったはずです。
それを日本書紀が書かれた時点で初代、神武天皇から14代仲哀天皇までを作り上げた。
日本書紀には、その架空に天皇の存在した年表はつけていなかったが、明治政府が強引につけてか、平田篤胤がそのような時代を想定していたかである。

ですが、いじれにしても我が国の弥生時代の状況を創世記の根底においていることになる。
日本書記でも古事記でも、そこに出てくる創世神話はあまりにも空想的であるが、それは他の国のそれとは大差のあることではない。
それよりも、創世神話が想定した時代検証としては弥生時代の我が国の実情に即しているように思われる。

弥生時代に入り稲作が発展し、ムラが出来、そのうちに国という形ができ、人々の生活も民話、伝説で語られているような暮らしぶりであったと思われる。
数々の創世神話にも、それが汲み取られるのではないかと思われる。

メンテ
創世神話の世界 ( No.183 )
日時: 2017/06/23 20:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:q4dP6evM

蛇足の様ではあるが、天照大御神と大和タケルの関係について検証しておきましょう。
天照大御神と大和朝廷を作ったとされる大和タケル=神武天皇は同一人物となっても不思議ではない記述がある。


天照大御神→天忍穂耳尊→瓊瓊杵尊→彦火火出見尊→盧茲草葺不合尊→神武天皇

(天照大御神)

神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武&#40469;&#40383;草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。
『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘&#27506;(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。
神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。
神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。
神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。
神武天皇76年、127歳で崩御

※ 天照大御神は東征し我が国を統一したとされている。


歴史の検証はこれくらいにして創世神話を少し紹介しましょう。


天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)は、太陽神である地上の最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩屋に隠れて岩戸を閉じ、地上が暗闇の世界に成ってしまった事に始まる伝説である。

そもそもの天岩戸伝説に拠ると、陸地を支配する「天照大神」が岩戸に籠もった原因は、海を支配する弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)の度重なる悪行に拠る」とされている。

この事は、我が国・日本列島に於いて、農耕民族系・加羅族(天孫族・山の民))と海洋民族系(呉族・海の民))の覇権争いを伝えているのである。

平穏な世界に災いをもたらす弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)」は、何を暗示しているのか?

この須佐之男(スサノオ)の命(みこと)の「度重なる悪行」がこの物語のヒントで、異民族同士の支配地争いであれば大陸山間の稲作系民族と海洋民族の図式が成り立ち、実に判り易い。

つまり、大陸山間の稲作系民族の太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)と海洋民族・須佐之男(スサノオ)の命が、「日本列島の覇権を争そっていた」と解釈できるのである。

それにしても、部族同士の戦を何時までも続ける訳には行かない。

そこで考え出されたのが、誓約(うけい)に拠る部族の統合である。

異部族・異民族も、誓約(うけい)の性交の後生まれるのは両者混血の子供達で、この誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

天の岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、天宇受売命(あめのうずめのみこと)の胸も女陰も露わなストリップダンスの賑わいにつられて岩戸を少し開け、外を覗き見た所を天手力雄命(あめのたぢからおのみこと/手力王の尊)が岩戸を引き開けて天照大神を連れ出し、天照大神のまわりに「しりくめ縄を引き巡らした」と言う神話が伝えられている。

この「尻久米(しりくめ)縄」の略したものが「しめ縄」である。

尻久米(しりくめ)縄の久米(くめ)は「出す」を意味している事から、直訳すると「尻を出す縄」と言う事に成る。

神聖な伝承に於いて、天照大神が「しりくめ縄を引き巡らされる」・・・この意味するものはいったい何だろうか?

解釈に拠っては天手力雄命は天照大神を岩戸から引きずり出して尻を出す形で縛り上げ「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に供した」と受け取れるのである。

こんな解釈をすれば嘘で固めた良識派の「尻久米(しりくめ)縄を巡らしたのは岩戸の入り口の方だ」と反発はあるだろうが、この「天の岩戸伝説」を解するに「異民族同士の誓約(うけい)儀式の顛末伝承」と考えれば「尻久米(しりくめ)縄」に神代誓約(じんだいうけい)儀式の「リアルな意味が込められている」とも解釈できる。

つまり「尻久米(しりくめ)縄」に掛けられた天照大神(あまてらすおおみかみ)が、須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に供されて異民族同士の誓約(うけい)儀式が成立し、「異民族の和合が成立した」と言う生々しい話かも知れないのである。

この岩戸隠れの時、三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)の一つ八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)に於いて、岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すツール(道具)として使われたとされる。

我が国の「祭り(祀り/奉り)」の意味合いでは、政治を「マツリゴト」と表現し「お祭りをする」は性交の隠語でもある事の解釈であるが、これこそ天岩戸伝説を始めとする誓約(うけい)に拠る異民族統合を経験したこの国の成り立ち意味しているからである。

つまり最大の政(祭り)事(政治行動)が誓約(うけい)の性交に拠る異民族和平だったからこそ、祭事(祀り/奉り)=政治(マツリゴト)=性交(せいこう)と言う言葉への解釈に、同じ意味合いを持たせる共通認識が過去に存在したのではないだろうか?

そして神社境内は「氏神(氏上)の神域」に成り、その神域の結界を示すものが、「しめ縄(しりくめ縄)」である。





追伸です。

(紀元前660年とする根拠)

『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」(読み下し文:辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)と記述がある。海外の文献と突合せると、『宋史』日本国伝(『宋史』491卷 列傳第250 外國7日本國[14])では「&#24421;瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、即位は周の僖王(紀元前681年 - 紀元前677年)の時代の甲寅が即位元年とする。一方、三善清行は革命勘文において神武天皇即位を辛酉の年とし、これは僖王3年に当たると述べている。[15]

記紀をはじめとする歴史的資料(乃至、現代の視点からは神話)中にある、年の記述は以上のような大陸伝来の十干十二支の組合せによる表現だけで、1000年といった長期(記紀の成立から神武天皇即位まではそのくらい遡る)についての具体的な表現はない[16]。しかし、数十年以内の間隔であると考えられる記述を次々と拾ってゆけば、神武天皇即位の年まで遡って同定できる。これを最初に行ったのは渋川春海による日本初の長暦『日本長暦』(1677年(延宝5年))で、同書は日本において暦が施行された以降の全ての暦のみならず、神武天皇即位紀元まで遡り暦法を推し量って暦を掲載した。これは渋川春海の思想にもとづいたものであった。思想的には、後に「やまとごころ」を唱え中国伝来の影響のある思想を「からごころ」として退けた本居宣長は『真暦考』(1782年(天明2年))で、古来の日本にそのような日時の意識は無かったはずと批判している。[17]

ともあれ『日本長暦』に大きな修正を加える理由も無く、以後「辛酉年」は紀元前660年に相当する年に同定することが定着し、王政復古後の政治・思想状況の中で前述のように規定されることとなった(近年の長暦である『日本暦日原典』の記事も参照のこと)。

以上のような、紀元前660年を神武天皇即位紀元とした記紀の記述の神話学的な分析として古いものとしては、1870年代初期に歴史学者の那珂通世が、『日本書紀』はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた[18]。これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)ということに因む。

※ 以上の根拠に基づき明治政府が、これに飛びつき正式に制定した。
メンテ
創世神話の世界 2 ( No.184 )
日時: 2017/06/23 21:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:q4dP6evM

(出雲の国 国譲り神話)

天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先だち、高天原(たかまがはら)から国土の支配権委譲を求める使者が派遣され、大国主命(おおくにぬしのみこと)がこれを承認し、出雲(いずも)の多芸志(たぎし)の小浜に祀(まつ)られる(出雲大社)話である。『古事記』によれば、第一の使者、天穂日神(あめのほひのかみ)は大国主命に媚(こ)びて命(めい)を伝えず、第二の使者、天若日子(あめのわかひこ)も命を伝えず、問責使(もんせきし)の雉(きじ)を射たために神意によって矢に当たって死ぬ。最後の使者、建御雷神(たけみかづちのかみ)に対し、大国主命の子、事代主神(ことしろぬしのかみ)は委譲すべきと答え、建御名方神(たけみなかたのかみ)は力くらべを挑むが敗れて諏訪(すわ)湖に逃げ降伏し、かくして国譲りが決定する。

 各異伝を参照してみると、第一の使者、天穂日神は出雲臣(おみ)の祖神であり、「出雲国造神賀詞(くにのみやつこのかむよごと)」では大国主命を鎮め祀る重要な記事があり、本来、出雲臣が出雲大社の祭祀(さいし)権を掌握した伝承の主人公であった。第二の天若日子もその伝承の内容の検討から、本来は聖器の弓矢を持って降臨し、地上で再生する神であったと考えられる。第三の使者も、『古事記』では物部(もののべ)氏の剣神、経津主神(ふつぬしのかみ)を全部抹消し、他の異伝では経津主神を主とし、またこの神だけを報告者とするので、物部氏の平定戦を反映した経津主神の伝承の利用から建御雷神への改変のあったことがわかる。この改変の裏には、建御雷神を守護神とした藤原氏の関与が考えられる。事代主神は出雲の言代(ことしろ)(託宣)を反映するとしても、著名な大和(やまと)の葛城(かつらぎ)の神であり、建御名方神は諏訪湖の新しい神である。この2柱の神が、大国主神の祭祀と武力の両面を代表して国譲りを語っていることは、国譲り神話が出雲の服属神話ではなく、国津神(くにつかみ)の天津神(あまつかみ)への随順を語った神話、葦原中国(あしはらのなかつくに)奉献の神話であるととらえるべきであろう。



(八俣(やまた)の大蛇(おろち)伝説)

 記紀では、スサノオが乱暴狼藉を働いたために高天原を追放され、出雲に天降るところから物語が始まります。出雲の斐伊川のほとりに天降ったスサノオは、川を箸が流れてきたのを見て、櫛名田比売(くしなだひめ・奇稲田姫)を知り、彼女を助けるために八俣の大蛇を退治します。稲田姫を櫛に変えて自分の髪にさし、八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。オロチの腹はいつも血がにじんで爛(ただ)れていたというのですが、殺されたときには大量の血が噴き出し、斐伊川は真っ赤な血となって流れたということです。そのときオロチの体から取り出されたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。


この説話のなかに、すでに箸と櫛という百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の三輪山伝説のモチーフが登場しているのが面白いですね。魏志倭人伝によると、当時の倭国ではまだ箸を使わず、人々は手で食べていたということです。箸は文化的で珍しい一種の文化的シンボルで、神話の物語のなかにも、それらが象徴的に使われているようです。
 また、稲田姫という名がしめすように、出雲では稲作が早くから行われていたことも暗示しています。
 オロチの体からすばらしい剣が発見された話は、斐伊川の上流一帯が古くから砂鉄の産地として知られ、この地域で鉄剣が造られていたことを示唆するといわれています。オロチの腹がいつも赤く爛れており、その血によって斐伊川が真っ赤に染まって流れたというのも、鉄分を多く含んだ赤い水が流れていたことを思わせるというのです。

 考古学的には、まだ出雲から弥生時代にさかのぼる鉄の鍛造所は発見されていませんが、早くから鉄の生産が行われていた可能性はあると思います。
 でも、興味深いのは、巨大なオロチをスサノオが斬り殺しているというストーリーそのものです。蛇は呪術のシンボルです。八俣の大蛇はその代表ともいえる呪術の権化です。それを殺したスサノオは、偉大な呪術王として新たにこの国に君臨することを認められた存在ということができるでしょう。
 出雲族の始祖スサノオは、まず葦原中つ国(日本)にやってきて、呪術をコントロールできる存在として自分をアピールしたわけです。

スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、稲田姫と幸福な結婚生活を送りますが、やがて根の国(冥界)にくだってしまう。その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシです。
 オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされていますが、最初はオオナムチ(大己貴神)という名をもっています。
 このオオナムチという名は、本来、「オホナムチ」であったといわれ、「オホ」は大、「ナ」は土地、「ムチ」は貴人、すなわち「大きな土地の貴人」だといわれています。表記の上では、「大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)」、「大穴持神(おおなもちのかみ)」と記されることもあります。

 オオナムチ(オオクニヌシ)には、ほかにもじつに多くの名前があって、ざっとあげてみると、「葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」などがあります。神話のなかで物語が展開するたびに、呼び名が変わっていくのです。
 また、『出雲国風土記』によると、オオナムチは広く国造りを行ったので、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」とも呼ばれています。また『日本書紀』によると、「大物主神(おおものぬしのかみ)とも、国作大己貴命(くにつくりおおあなむちのみこと)ともいう」とあります。

 さて、英雄オオクニヌシは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けています。赤い猪に似せた真っ赤に焼けた大きな岩が、山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられたり、切った大木の間に挟まれて打たれたりする。実際、そこで2度ともオオクニヌシは死んでしまうのですが、母神の力によって再生しています。また、根の国にスサノオを訪ねていくと、そこでも蛇やムカデのいる部屋に入れられるなど、さんざんな目に遇っています。野原で火に取り囲まれたりもします。
 しかし、スサノオのもとを脱出するとき、スサノウの宝である太刀、大弓、琴を盗みだし、「大国主神」という名前を授かります。この名は国土を開き、国造りをする許可を得たことを意味しています。そして、少名彦神(すくなひこなのかみ)とともに国造りを始めるわけです。

 オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。
 葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。
 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。
 出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。
 オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。
 また、『日本書紀』の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

(因幡のしろウサギ伝説)

大穴牟遲神(おおなむぢのかみ=大国主神のこと)には兄弟(八十神)がいた。八十神は大穴牟遲神を嫌っていた。八十神は、稲羽の八上比賣(やがみひめ)に求婚したいと思い、稲羽(いなば)に出掛けた時、大穴牟遲神に袋を持たせ、従者のように引き連れた。
「気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて、痛みに苦しんで泣いていると、最後に現れた大穴牟遲神が「なぜ泣いているの」と聞いた。

菟は「私は隠岐の島からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、ワニザメ(和邇)を欺いて、『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と誘いました。すると、欺かれてワニザメは列をなし、私はその上を踏んで数えるふりをしながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は『お前たちは欺されたのさ』と言いました。すると最後のワニザメは、たちまち私を捕えてすっかり毛を剥いでしまいました。それを泣き憂いていたところ、先に行った八十神たちが『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、この身はたちまち傷ついてしまったのです」といった。そこで、大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である。

その兎は「八十神は八上比賣を絶対に得ることはできません」と大穴牟遲神に言った。そのとおり、八上比賣は八十神に「あなたたちの言うことは聞かない」とはねつけ、大穴牟遲神に「袋を背負われるあなた様が、私を自分のものにしてください」と言ったため、今では兎神とされる。


後の大和朝廷の有力氏族(臣王家)に、和邇(わに)・葛城(かつらぎ)・大伴(おおとも)・物部(もののべ)・蘇我(そが)、安部(あべ)・秦(はた)・中臣(なかとみ・後の藤原)と言った名が連なっている。

大和朝廷成立の頃は、和邇(わに)氏が最有力の氏族で、もしかすると神武朝以前に最大の王国を築いていた可能性さえある。

この和邇氏を指す様な伝説がある。

ワニ(クロコダイル)は生息地ではない為に本来日本に馴染まず、ワニが伝説に成る事が不思議だが有名な伝承が存在する。

遺されている民話伝承の類には、後の世に伝えたい真実がそっと隠されている事が多い。

葦原中国時代の出雲伝説には、ワニ(和邇)を「ずる賢く」騙した白兎(しろうさぎ・宇佐岐)が、ワニに逆襲され、大怪我をした事から、「大国主の命が、白兎を助ける物語」を描くものがある。

和邇(わに)氏とのこの一致は、氏族間の争いを描いた「独特な歴史の表現」なのか、それとも何らかの「政治的狙い」が有ったのか?

この伝承、日本でワニでは不自然なのでサメに姿を変えて現在に伝わっている。

和邇臣王は「奴国王の後裔」と言われているが、本宗家の和邇(珥)臣王家は、五百七年継体大王(けいたいおおきみ・第二十六代天皇)・(継体新朝)の頃までに絶えている。

神武朝の成立は、この因幡(いなば)の白兎(宇佐岐)伝説と関わりが在りそうだ。

或いは継体新朝には組さない旧体制の臣(豪族)王だったのか?

この因幡(いなば)の白兎伝説のうさぎ・・「宇佐岐(うさぎ)」と言う名の「百済系弱小氏族」に行き当たる。

宇佐島の神の名も「宇佐岐(うさぎ)」であり、前述した宇佐神宮と出雲神社の礼拝様式の共通性は、ここら辺りに有るかも知れない。

宇佐神宮が、限りなく神社の最高位に近い神社である事の意味に、関わりが在りそうで有る。

この日本史上有名な人物である「大国主の命」は、実は単数の人名でなく「職名(地位名)だ」とする歴史家の意見も存在する。

大国主の命(おおくにぬしのみこと)は言うまでもなく有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達を束ねる大王(おおきみ・後の天皇)の事である。

つまり、日本列島の倭の国々の多くの国主(くにぬし・地方の王)を束ねる者の名称が大国主の命(おおくにぬしのみこと=大王/おおきみ)と言う事に成る。

乱立していた小国家の国主(くにぬし/王)の統一の象徴的な存在として大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)の尊称が生まれ、武力ではなく精神世界で結束する為に、天と地下の間「中津国(中つ国)」に、日本列島は成ったのである。

大国主(おおくにぬし)が、王の中の王を意味し、葦原中国(出雲の国)統一大王を呼ぶ名であれば、地上界を中国(なかくに)または中津国(なかつくに)とするのも頷ける。

大国主が、倭の国々の統一途中の大王(おおきみ)だったのではないだろうか?

そうなると、大国主は何人居ても不思議ではない。

宇佐岐(ウサギ)氏が、実は大国主に出世し、宇佐神宮を造営する事もあるだろうし、須佐族の王が大国主を名乗っても良い事になる。

(引用終わり)

読んでいても、こんがらがるばかりです。

大体は、大和朝廷成立の過程で激しい戦いがあり残虐行為もあったはずです。
その様なものを人情はなし、否、神情話と言うべきか、最終勝ち抜く者が美化している言い訳ですが。そういう言い訳をするところに我が国にの民族性が見られるのです。

メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.185 )
日時: 2017/06/23 21:47
名前: 馬鹿者の戯言  ID:Pg0TXE4E

神話時代は勿論、日本即ち「大和の国」の統治者、天皇と言うものの「皇統記」ほどええ加減な物はおまへん。考えても見なはれ古代の天皇に100歳以上も生きはった天皇が何人も居てはりますねんで!

栄養状態も今ほどエエ事はおまへんし、医療もマジナイで病いを治す程度のもんやったくらいですよって、大した事おまへん。そんな時代にどないして長生きが出来ますねん?

日本の皇統記なんか、古事記や日本書紀を編纂した時の捏造がいっぱい入ってます。つまりフィクションの塊言うてもオカシイ事無いほどですわ。

天橋立さん、大変申し訳ないのですが、私には「大和魂」も(日本人の心のルーツ)も如何でも宜しいのです。

如何 逆立ちしても、根底に在る物は、今も昔も日本人“大和民族”のメンタリティはおなじです。

ごく大雑把に言いまして、人類がアフリカを旅立って、四方へ散らばる時、只管東へ“ロング・トレイル”した連中が枝分かれして原始日本に定着したのが「石器時代人」であったのだろうと思います。その後「縄文人」が遅れて遣って来て「石器時代人」を駆逐した。 

その後で又「弥生人」が遣って来て「縄文人」を日本本土の北と南へ追いやった。北へ追い遣られたのが「蝦夷=アイヌ人」、南へ追いやられたのが「熊襲」又は移動を途中で阻止された「琉球人」。

扨て、「弥生人」の末裔である私達は「熊襲」や「蝦夷」の様に顔の彫りが深くはありません、毛深い事もありません。のっぺりした顔で、どちらかか言いましたら「朝鮮人」に近い顔つきです。その所為かどうか知りませんが、古代日本へは半島から移民や難民がどんどん渡って来て、弥生人と混血しています。同時に色々な先端文明を持って来たんですねぇ。

更に仏教や儒教という宗教も持ってきました。とりわけ儒教は統治の心構えを説いた教えですから、支配階級にもて囃されました。

ですから、「武士道」と言いましても儒教が根底に有るので、ハッキリ言いまして中国の思想であり宗教であるので、大和魂とは一体何なんだ? と言うのが私の捉え方です。

そんな訳で、私は申し訳ありませんが、「大和魂」等と言うものを大上段に振り上げることは出来ません。
メンテ
大和魂(日本の心のルーツを探る)  馬鹿者の戯言さんへ ( No.186 )
日時: 2017/06/24 13:35
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:saPMkyLI

馬鹿者の戯言さんこんばんわ
何時もながら、貴方の言われている事は十分に理解できます。
しかしながら、説明はし難いのですが、御幣があるので、少々長くもなり、このスレッドでも初めて言いますが結論的な私の想いを書いてみます。


日本人は古代から氏神信仰で見られるように自然の中ではぐくんだ優しい心を持っていました。
もちろん日本の古代でも争いはあり薬園の様な生活をしていた訳ではありませんが、他の大陸の諸国と比べての事です。
大和朝廷成立の頃には仏教が伝来し、その中から信仰心とは別に慈悲の心が受け入れられるようになりました。
室町時代以降に入ってきた儒教からは孝行と言う家族のきずなを学びました。

このようなものが日本人の気質として政治や宗教、学問等とは異なり心の中にて定着し日本人の精神文化となりました。
念の為に断りますが、大和魂を言う場合、ただこれだけでは十分ではありません。
「大和魂」と言う場合、こうした気質に基づいて行動する意欲の事を言います。
我が国は、この大和魂と共に歩み歴史を作ってきました。
ところが明治時代の到来は、文明開化と言う名目で異なる文化が押し寄せ、それに迎合することが善しとされ、国民も喜んで受け入れました。

精神的には西欧民主主義、個人主義の世界です。
社会の西欧化は政治、学問、科学の発達は諸手を上げて喜ぶべきことであり、個人的にも民主主義の思想は、それまで束縛を強いられてきた個人の精神を大きく解放することになりました。
しかしながら、従来の日本的精神文化と、キリスト教的精神文化との違いを、どれほど意識していたのでしょうか。
キリスト教的精神文化は、倫理、道徳、形而上学的な存在意識において、神との契約が根底にあります(一神教)。
それに対して、日本の精神文化は、形而上学的には多神教、倫理、道徳も神との約束事ではなく実生活から積み上げられた普遍性です。
一見して両者は同じ様に見えるかも知れませんが、そうではない部分があると言う事は、なかなか具体的には見えません。
キリスト教的行動規範は、神との契約が根底にあり、それは聖書などに書かれている内容で示され、示されているもの以外は人々の自由な解釈が肯定されているのです。
一方で、日本古来の行動規範は、たとえば倫理、道徳面の規範でも、それは実体験から生まれた普遍性であり、人々は、どのような場合でもそれを当てはめようとします。

ここにわずかですが差異が出来るのです。
西欧的な発想と、日本的なものと、優劣をつけたいのではありませんが、その違いについては認識しておくことが必要でしょう。
このような表現では、抽象的で解りにくいと思うので具体的な例で説明しましょう。
家族制度について西欧的な考えでは核家族が当たり前で、親子同居の二世帯住宅など考えられません。
ところが伝統的な日本の考え方は、長男が家を継ぎ、その家庭は親子同居、場合によっては三世代同居が当たり前です。
どちらが良いと言えば、現代の人は100%近く西欧型核家族を選ぶでしょう。
しかしながら、実際には老人介護の問題などで核家族の問題が発生しています。

昔型のニ世代同居へ戻れと言っているのではありませんが、二世代同居の長所も理解はされているでしょう。
私が言いたいのは、西欧型核家族制度を選ぶ前に、日本的な家族制度についてしっかりと認識した上での結論が欲しいと言う事です。
この場合、家族の単位の事を言いましたが、西欧型精神文化を取り入れる前に、日本の精神文化について正しく認識すべきであったのですが、明治時代の文明開化は、そんなことには目もくれず西欧化へ走りました。
それでも明治政府の政策もあり家族制度などの西欧化は法例で抑えられていた分も相当ありました。
そういう不満がバネの役目を果たし、戦後の民主化は明治の文明開化以上に西欧化に飛びつく結果となりました。
日本的な精神文化はすっかり悪者にされ見捨てられていきました。

ですが結局は現在に至り、西欧民主主義の世界の矛盾を目の当たりにし戸惑っている状態ではありませんか。
個人の自由、自由と叫んでも結局は大した幸せ感を得ることが出来ないことも解ってきたでしょう。
司馬遼太郎が明治以降の日本文化を接ぎ木文化と言ったように、明治以降、日本の精神文化は少々歪な成長をしてきたのです。
日本の文化は、最初は「和」の心に代表されるように氏神信仰の世界の様に温厚なものでした。

その後に入ってきた仏教の教えも、儒教の教えも十分に日本の精神として受け入れ、接ぎ木と言われる様な成長はしませんでした。
仏教の教えも儒教の教えも決してそのまま人々に受けいられらた訳ではないでしょう、西欧文化も当然、日本の精神文化に合うように取り入れられるべきものではないでしょうか。
そこに問題を見出しています。

私が「大和魂」のスレッドを書いていますのは、こうしたことを問きほぐし将来社会の方向を探る為の試みです。
ですので「大和魂」と言う単語の解釈をどのようにしようとも私の言いたいことは認識できないでしょう。


ついでに読者の方にも申し上げます。
このスレッドでは、昔話や伝説など例えの文章を随分と多く記載していて辟易されている方も多いと思います。
ですが、この話は論理を追及しているのではなく、実態の精神を問題にしています。
ですので、その時代時代、項目毎の実際の様子を体験していただくことなくして、言っている事は理解出来ないと思って書いています。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.187 )
日時: 2017/06/24 18:37
名前: 馬鹿者の戯言  ID:mD834Yeg

天橋立さん、「大和魂」に付いて、色々、彼れや此れや、お書きに成りますので、論旨の焦点がぼけてしまいます。

で、もちょっと簡潔に「大和魂」とは何なのか、如何言う事なのか、教えて頂きたい。

そのご返書を以って、此のスレへの私の要らざる書き込みは終わりと致したいと思います。

如何でしょうか?
メンテ
大和魂   馬鹿者の戯言さん ( No.188 )
日時: 2017/06/25 11:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6UOUgxbg

>もちょっと簡潔に「大和魂」とは何なのか

どういえば良いのでしょう。


西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。


このスレッドは、これから江戸時代、明治を経て現代社会を検証してみたいと考えています。
10年近く書き続けていますが、このスレッドを訪ねていただいた方は、貴方を含めて3〜4人とさびしいものです。

このスレッドはA4に書けばすでに200ページを超えています。
文章の中身は、回りくどく不要なものもあり、整理し簡潔にまとめたものを出版して(自費)せっかくの思いを将来誰かに伝えたくも思っていたのですが、いまだに完成していないこともあり、その気力は怪しいものになってしまいました。

最後に、

どなたの意見も、表に現さなくても吸収して取り入れているつもりなので、私だけが一方的に喋っていて、とっつきにくいスレッドでしょうが何回も訪れてください。

馬鹿者の戯言さんの意見も、他人からは、このように見られていると思うと、非常に参考になるのです。
このコメントが書けたのも、貴方の問いかけがあったからで、改めて自分の思いを見つめることが出来ました。

メンテ
馬鹿者の戯言さんへ  最初のページに目次をつけました。 ( No.189 )
日時: 2017/06/25 12:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6UOUgxbg

馬鹿者の戯言さんへ

自分で読み返していても、その時、その時に書き綴っていたので、随分と分かりにくいものでした。
改めて目次を打ってみましたので、興味のある部分がありましたらご覧ください。

すっかり忘れていましたが、肝心の飛鳥、奈良、平安時代のことが消えてしまっていました。
この復旧には滅入ってしまいます。

最初の頃の日付は2010年10月14〜30日の投稿分、95ページは、旧掲示板で書いていたものを転載していたものです。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) 此れを以って馬鹿者からは終わりにします ( No.190 )
日時: 2017/06/26 09:35
名前: 馬鹿者の戯言  ID:gdnR9y9Y

「大和魂」と言う言葉が、その包含する意味に於いて歪曲されたのは、幕末から明治以後、特に昭和の軍国主義旺盛な時期でした。

幕末のテロリズム・アジテーター「吉田松陰」等が言った言葉、

  『斯くすれば 斯く成るものと 知りながら 已むに已まれぬ 大和魂」

と、短歌調に言って居ますが、理性より感情が先に立つ、と言うメチャクチャな物です。思わず突っ走ってしまうのです。

此れが、それ以後の日本人の指導層(長州閥でしたから)に大きな影響を与え、日清、日露、太平洋戦争、と続き、遂に1945年の悲劇、原爆投下の大惨事 を招いたのですが、戦後も70年を経過して、またぞろ「長州閥系」の“安倍低能総理”によって復活させられそうに成って居ます。 洗脳によって愚民化した 日本人 は其れが判らないのです。

考えても見て下さい。スナックなどの水商売を経営する様な、カミさんを持った総理大臣なんて前代未聞です。芸者に入れ揚げた奴は何人も居ますがね。 そんな総理ですから「オトモダチ」の法人に利益供与する事に血道を上げているのです。其れをまた必死に擁護する自民政治屋集団が居るのですから、日本人の馬鹿さ加減は世界中の笑いものです。

さて、大和魂 が最初に見えるのは、平安時代の著述家「紫式部」が著した「源氏物語」です。曰く、

 『才を本としてこそ やまとたましい の世に用いらるる云々・・」の一説が見えます。

そしてその「才」とは日本人固有の「知恵」「思慮分別」「情緒を理解する心」等を指します。

其れを箇条書きにすると、
@ 日本流の知恵
A 思慮分別
B 感情的な情緒や人情によって物事を把握し、共感する心
C 社会の中で物事を円滑に進める為の能力
等に成ります。

天橋立さん、も否定しておられる様に、
此処には、明治以後の右翼や軍閥が国民を指嗾した、“イケ、イケ、どん、どん”の軍国主義思想は有りませんね。

私がこの、「大和魂」をあまり論じたくないのは、歪められた解釈によるこの言葉が、根強く日本人の中に定着しているからです。

では此れで終わりと致します、また別のスレでお会いしましょう。失礼しました。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る)   馬鹿者の戯言 さん ( No.191 )
日時: 2017/06/26 10:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ZChukVGk

馬鹿者の戯言 さん

レスを有難うございました。
最後に一言、申し上げます。

誤解を受ける、厄介な「大和魂」などと言う言葉をあえて標題にしていますのは、
アメリカのフロンティアスピリット
イギリスのジョンブル魂

などと同じように国民の意気込みを現すのに適当な言葉として「大和魂」という言葉に目を付けたのです。
現在、多くの人に思われている「大和魂」の概念を払しょくしてこそ、私が言う「大和魂→日本のこころ」が日の目を見ると思うとともに、なんとしても、固定概念を払拭させねばならないと思った次第です。

ですので、このスレッドに注目していただけるほとんどの人とは、この様な問題は避けて通れていないのが現状です。
私も、少しよくばりすぎていると思っています。

メンテ
気質、魂、文化・・・(2) 満天さんがこの分野で面白いことをお書きになっているので、世にも不思議な物語から引用しました。 ( No.192 )
日時: 2017/06/29 17:04
名前: イントィッション ID:9FhkzI7.

日時: 2011/05/07 07:52名前: 満天下有人 ID:I08KD8W6

・・・よく言われる日本人は情緒的、精神論的、それも画一的、社会構造もそれを変えるという合理的精神より、世の歪みも自分の人生観の中に消化して自己完結させてしまう・・・毛唐は合理主義・・・こちらは強いものに弱い、毅然とした姿勢が取れない、強いものには一目置くというより迎合してしまう、しかし弱いとみると、対アジア政策に見られたように、バカにしながら懐柔策を取る・・・

西洋は強いものには一目を置く、イラク戦でフランスが反対の口火を切り、英国がそれに続きました・・・さすがのアメリカも一目置かざるを得なかった・・・、

こちらは強いものに弱いから、戦争当事者でもないのにインド洋無料ガソリンスタンドを継続した、駐米大使に面と向かって、表だって反対していたのは、小沢一郎一人であった、それに対し国民はブーイングを浴びせる・・・コアが無くて情緒的に群れてしまう・・・典型的なのが、

「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」(本居宣長)でしょう・・・

・・・大和魂というものが何なのか未だに良く分からないのですが、、他者との関係においては親切とか礼儀正しいとかいう面はあっても、それは西洋人とて持っているものだが、大和のそれは社会契約を軸にした概念というものではないから、総じて国際関係においても世の構造変革という面にまで深い考えとして到達しない・・・逆説的に大胆に言うなら、大和気質=魂がそうさせているとも言える・・・

・・・反戦さんが言われている西洋コンプレックス、珍しくこれに反発したのが対米宣戦布告となったのでしょう、それも画一的な心情=詠嘆調が軸になっていて合理性を基準にしたものでなかった・・・その反省も英霊に申し訳が立たないという精神論で情緒的に自己完結してしまう・・・独自の文化=気質、魂という側面から見ると、これも情緒的な事がコアになって、世界が見る日本文化とは異国情緒なものとしか捉えられない・・・と、ここまで考えて来るとこの国に社会関係までをも動かす独自の文化というものがあったのかなと、疑問が湧いて来るのです・・・

正しい義を軸にしたものが、大和魂の本義であったとしても、魂の別の側面=一般における気質は情緒的、精神論的なものを軸にしているから、英国におけるジョンブル精神とも質がかなり違う・・・

先日の英国ロイヤルウエデイングの模様を見ていて、彼らの文化とはどういうものであったかに思いを巡らすと、彼らの祖先も北部ドイツやデンマークあたりからブリテインに侵入したゲルマン族だから、アングロのサクソン人には侵略を軸にしてその気質が創られている・・・そこから善悪は別にしてプライド高い気質が根本にある・・・それをベースに民衆権利を確保する大憲章も生まれている・・・

・・・天橋立さんが、貧乏人にとって小金がありがたいように、戦後の教育の充実で多くの知識を得た国民が知識そのものをありがたく受け取って、本来の自分自身を見失ってしまっているのでしょうか、と疑問を投げておられるが、元々大和魂の気質なるものが情緒的なものであるとの大胆な仮定に立つと、その上に出来る文化なるもの、それも魂にまで迫れぬ(迫った所で同じものが出来るというものでもない)マネごと文化であれば、そもそもからして純粋独自の精神文化なるものがこの国に存在していたのであろうかという、大きな命題にぶつかってしまいます・・・

・・・ややこしい話を長々と書きました・・・少し肩を和らげるために小金というアメリカ学生のジョークを・・・小金を英語でチエンジと言う、つり銭もチエンジと言います・・・「オバマはチエンジ(改革)というが、我々はチエンジ(小金)が欲しいだけなのだ」・・・(笑)・・・。


メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.193 )
日時: 2017/06/29 18:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kz/EEfpk

イントィッションさん、差入れをありがとうございます。

満天下さんとは、こんなことも話していたのですね。
満天下さんも戦前の「大和魂」の被害者であり、沁み込んだ思いを捨てきれなかったでしょうに、私の話に耳を傾けていてくださった様子が解ります。

最近になって申していますように「大和魂」と言えば、どなたも大仰に構えられてしまいます。
そうではなく、もっと自然で単純な概念のつもりなのですが。

この話、まだまだ30回分ほど続けなくてはなりません。
サーバの都合で消えてしまった飛鳥時代から平安時代の大事な話を書きなおさねばならず、滅入っております。

メンテ
大和心と大和魂・・・ ( No.194 )
日時: 2017/07/02 15:52
名前: イントィッション ID:Ps5V/1Jw

もう一つ満天のおっちゃんの差し入れをしておきました。。。

日時: 2011/05/08 00:55名前: 満天下有人 ID:IdNoaKcI

・・・同じ世代の、ひょっとして同じ年の生まれかも知れない反戦さんや私にとっては、大和魂なるのものにはぞっとする現実のトラウマがありまして、これは拭い去ることが出来ません・・・

大和魂なるものが間違って大東亜戦争に利用されたとしても、古くは紫式部が詠った魂の心があったにせよ、現実では利用された者のトラウマの方がより強く、悪く、心の一角に沁みついております・・・意気高揚させるモチーフとして使われても、誰も古代における心には思いが戻らず、やはり強烈な傷を残した大東亜戦争時のそれが真っ先に出てきます・・・

・・・私が良く使う、日本人の気質には出口が無くなると止むを得ず「自己完結」してしまう所があると言うのは、例えば大和魂を吹き込まれ体当たりして散った特攻隊員など、心から止むに止まれぬ鬼畜米英の精神からと言うより、どこかおかしいなあと感じつつも、それは絶対に外に出さない、その出せない気持ちも同じく止むにやまれぬ心情でしたでしょう・・・

・・・それを黙って(いや晩年沢山の親に出した最後の手紙には真情が滲み出ていますが)実行に移せたのは自分の心の中で運命として昇華させてしまった、つまり自己完結で纏めてしまった・・・それは大和の魂というより、やさしい大和の「心」がそのように結論付けてくれた・・・その側面が勝ったからと言う風に理解しております・・・

・・・もし大和の「心」と大和の「魂」が、同列なものとすると、魂も穏やかなものである筈で、魂の方は檄を飛ばすというような手段とするなら、矛盾して来ます・・・現代において現実の大和魂がいかな使われ方をしたのか、皮膚感覚的に理解出来ない時代に入っている時、大和魂で行くべしと言っても、説明がつかなくなります・・・何故大和人としての倫理観、道徳観を表す大和心で現状を糾弾出来ないか、いやそれでは弱い、やはり大和魂だとなると、東条英機や河本大作まで出て来て、また侵略戦争かとなり混乱すると思います・・・

・・・あれは侵略戦争だったのかというテーマでもありませんのでここでストップしますが、天橋立さんが<西田幾太郎や和辻哲郎がそれぞれの立場で、日本的なものを昇華しようとしたが、日本的なものに摺り替えようとしたが成功しなかった>と言われているそこに、あなたの意図があるようです・・・(加えて無気力化した日本人のケツを蹴飛ばしたい気持ち)・・・

ならば「大和心」が軸になって来ます・・・となると大和心なるものはむしろ、国家概念から離れた村落共同体的意識であり、それはイントゥさんが持ち出されていたマイケルサンデルの「共同体主義」と共通項を持ちます・・・サンデルの場合はそれをグローバル化しようとする点で実現はかなり困難なものとなる・・・サンデルを批判する者には、共同体と言っても、諸国がそれぞれに文化歴史を持っているから、各共同体に軋みが生じる、ドイツなどで批判が多いようです・・・ただその障害を取り除く手段としてサンデルは、世界共通の問題、例えば戦争とか原子力の問題を持ち出して異国間での市民による討論を通じて、共通項の認識から世界共同体の実現を意識しているようですが、村落共同体的発想でも同じように言える「政治」という概念が抜けているようです・・・

・・・いや、そんなロクでもなかった政治など、国家単位でも不要であるとして、それで共同体がうまく動けば良いのですが・・・そうも行きますまい・・・

我が国での共同体的社会の仕組みの理想は、どこら辺に可能性があるのか、歴史文化宗教的意識が全然違い、そこから形成されて来た所謂西洋型個人主義などと言うものを、今からこさえてそれを土台にするなどは、不可能なことですし、その必要も無いとすると、穏やかな田園型村落共同体にして、反戦さんが言われていた道州制の中で、経済も循環するような仕組みが一番、実現可能かな?・・・官僚どもが抑えにかかってきたら、それこそ大和心でガンジー的抵抗をすれば成功率はかなり高くなると思えます・・・という意識も民衆にも無いなら、まさしくクタバレ日本だ・・・。
メンテ
大和心と大和魂、喪失の典型は菅民主党・・・ ( No.195 )
日時: 2017/07/02 16:13
名前: イントィッション ID:Ps5V/1Jw

日時: 2011/05/10 06:37名前: 満天下有人 ID:nEEcnlWA

・・・天橋立さんの大和心の概念は、花鳥風月、山川草木の中で、穏やかに育まれた気質ということを言われているのだろう・・・
ただ世の中が複雑化し、よく気を付けておかねば、その穏やかな心情まで虫ばまれてしまう、理不尽さに抵抗する勇気、それが大和魂であると言われ、それれを持てとて言うことであろう・・・

武士道にしても維新の時、大東亜戦争にせよ、その勇気が国家権力に利用され、外に対する勇猛心として使われてしまった、利用される側としても我が民族が持つ別の気質・画一性がそれに迎合してしまった、問題の本質がどこにあるのか、噛み砕くことをしなかった・・・

・・・時代性がそうさせたと言ってしまへば、結論は早いかも知れないが、大和心が持つ穏やかな気質が、本質的に問題意識を産まないものとするなら、いかなる時代にあっても大和魂は生まれない、時代性がそうさせてしまったというのも、弁解に過ぎなくなる・・・大容量サウンドデモで人が集まる現象というのも、理不尽さに対する問題意識が十分に認識された上での抵抗心、勇気の発露というより、むしろ大和心が持つ時流に乗る等質化傾向の表現ではないだろうか・・・

・・・目下行われているデモを否定しているのではない、大和魂が理不尽なことに対する抵抗の勇気であるなら、警官隊に誘導されて歩くようなものは、デモとも言えない・・・一人や二人くらい逮捕されて、いやむしろそれが契機となって一歩踏み込むくらいにならないと、大和魂以前の場所で群れて大和心を発散しているだけに留まる・・・菅政権にブーイングしながらそれを倒せない現象も、似たような心情がそうさせているやに見える・・・

・・・覇気のない世相を生み出したもの、それは大和心が過保護の方向に走った・・・その前に菅、仙谷、谷垣など、そして財界においても団塊の世代が世の中をリードしている、その下に団塊ジュニアが繋がる・・・彼らが置かれて育った環境は彼らの所為ではないにせよ、過保護の心情はどうやって形成されたのだろうか、独断と偏見のもの見をして見るに、外敵に対する勇気よりも、自己防御心の方が勝ってしまった・・・世の中の仕組みはこれこれしかじかとなっている、可愛い子供たちを守るには、その場で他人より優位な場所に居れるようにとの、過保護心が先に働いてしまった・・・市場原理主義を誘導する金融資本の何たるかなど、どうでも良く、その中で少しでも優位な位置に居たい・・・
権力の座についた菅民主党の豹変ぶりにその傾向が透けて見える・・・

・・・数百人の民主党議員の資質も、いわば同じ質を持つ社会の構成員の土壌の上に出来上がったものであろう・・・大和心が持つ画一性が見事にそこに反映された、そしてそこには大和魂を要する批判と打倒の対象とすべき事柄の分解と認識が大きく欠落している・・・言い換えると、では何を求めるかの未来像を描けていない・・・

ハーヴァードのサンデル教授による演繹討論から帰納を導く手法にしても、その前提となる政治と経済の視点が欠落している、これは前提として必須欠くべからざるものである・・・原発問題一つにせよ背後にあるのは、資本的生産関係の中で脱原発が可能なのかという側面にも目が行かねばならない・・・目が行かないものだから問題が供給電力の不足や、電気料金の問題に矮小化されてしまう・・・中部電力が菅の意向を受け入れると決定した途端にマスコミは、東電に援助しようとしていた分が無くなると騒ぎだす、原発止めても東電の供給能力はあったという報道は、では何だったのか・・・仮に不足してもそれを乗りきろうという誘導は微塵も無い・・・

・・・菅直人が脱原発を明確化せずに浜岡だけを停止してくれと要請を出す、仙谷が副官房長官の立場で、原発は“戦略的”に位置付けられるべきもので、廃止する積りは無いと公言する・・・原発は恐ろしい事故を起こすから、その対策・安全性を強化して行かねばならないと、問題を刷り替えて言う・・・

・・・核、戦略、恐ろしさ、この三つの言葉からすぐに連想されるのは戦略核兵器という言葉だ・・・これは実際には使用不可能なものである・・・原発は例え百年に一回のことであっても、復興不可能な危険をはらむものである本質は同じである、目の前の実例が見えないのか、多くの過去事例があるではないのか・・・思い切って現状を打破する勇気・大和魂の欠落がそこに見える・・・

・・・“戦略的”原発とは一体何なのか・・・クセの悪い過保護育ち世代が使いそうな訳の分からぬ言葉だ・・・クセの悪さは自民党にも向かい、これまた過保護世代の谷垣などウロウロするばかり・・・振り上げた内閣不信任案など、どこかへ吹っ飛んでしまった・・・どこもかしこも大和心も大和魂も無い光景である・・・

・・・古代人が日蝕をとても怖がった、御天道様が無くなったら理屈もへったくれも無い・・・御天道様さへも破壊しかねない人工技術の恐ろしさをしっかり認識すべきである・・・核廃棄物の場所をモンゴルにまで求めて何の戦略だと言うのだ・・・原発が無くなったら経済が破綻するなどと言う意見まで出る土壌って、一体、何なのだ、未来像を描けないこと自体に、未来が無くなる因子が潜んでいるというのに・・・大和心も大和魂も何もないのだ、原発に限ったことでもない、大きな矛盾にぶつかっていけないのだ・・・その心無くては、全ては空中楼閣を営々とこさえているに過ぎない・・・。
メンテ
「大和心」と「大和魂」の捉え方について一つの暗示をしていただきました。 ( No.196 )
日時: 2017/07/02 16:19
名前: イントィッション ID:Ps5V/1Jw

日時: 2011/05/10 16:06名前: 天橋立の愚痴人間 ID:oYNwY3sg

「大和心」と「大和魂」の捉え方について一つの暗示をしていただきました。
これから構想をまとめる上で参考にさせていただきます。

思えば、我が国の民は江戸時代以降、朱子学、西欧民主主義の影響を受けすぎてしまい、結果は世界一、従順で勤勉な民となってしまいました。

もちろん、それはそれで評価すべき利点でありますが、それに比例してなくしたものを「大和魂」になぞらえたく思います。

江戸時代以降の体験がなければ我が国の民も、中国には及ばなくても、せめてミャンマー、インドシナ諸国くらいの覇気(ある意味で利己心旺盛)の感じられる民族であったと思います。

覇気といいましても明治以降の軍国主義を民族の覇気とは規定はしません。

民主党議員は、仰るとおり、気持ちさえあれば、理屈さえ言えば事が成ると思う中学生的な認識より出来てない餓鬼共の集団で、非武装中立を掲げて世界の顰蹙を買っている前の社会党となんら変わりがないということです。

国を治める資質がないことは明らかであります。
今後とも言葉の上での反省など聞く気持ちはありません。

しかしながら、彼等に続く世代としては、サウンドデモを革命的行為と位置つける連中があるので、今後我が国に紫式部が言ったような「本当の大和魂」を持った政治家が現れる当てはありません。

ため息あるのみです。
メンテ
満天下有人 ( No.197 )
日時: 2017/07/02 16:24
名前: イントィッション ID:Ps5V/1Jw

日時: 2011/05/10 19:07名前: 満天下有人 ID:nEEcnlWA

・・・大和魂なるものを、独断と偏見で、歪んだことに対する批判、抵抗心と捉えてみましたが、もっと別の歴史的背景、正しい判断力の涵養のことを意味しているのかも知れません・・・

・・・紫式部の概念は、今一取り組んだこともないので、よく知りません、研究が進んでいるならまたの機会に教えて下さい・・・。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.198 )
日時: 2017/07/02 16:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0tha0rRI

イントィッション さん、有難うございます。

「大和魂」スレッドを最後まで満天下さんに見ていただけない事はさみしい限りです。

満天下さんが危惧されていたことについては、これからが本番で述べたいと思っていましたのに。

そうは言っても、私自身、何時、ぽっくりと逝くやら解らなくなりました。

まあ、せいぜい頑張ってみますが。

それから、満天下さんの事もあるかと思いますが、糾弾掲示板の維持のために気を使っていただいているのも承知しています。

多くの掲示板がありますが、糾弾掲示板ほどまじめに取り組み、荒らしなどもなく気持ちよく投稿できる掲示板はないと思います。

ですが、もう少し多くの方に参加してほしいですね。

今まで投稿していてくださった方が、疲れ果てておられるのは承知しています。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.199 )
日時: 2017/07/03 10:15
名前: イントィッション ID:iXO2d/x.

>それから、満天下さんの事もあるかと思いますが、糾弾掲示板の維持のために気を使っていただいているのも承知しています。

私は数年間アメリカで政治・経済・人類学・社会学、そして心理学をたくさんの人種と学んできました。。。

特に、ヒスパニックの人口が急激に多くなっているのを目にして、移民難民政策の社会の在り方の困難さにも出会えました。。。

また大学の入学前のESLでは、色々な国から来た人たち、色々な年代の人たちが居て、大学の先生からの最初のメッセージは、「爆弾などを発明した白人の男ほどバカなものは居ない!」と言うことでした。。。

英語が母国語の大学で、最初は「お腹すいた」から始めるのかと思ったら、「爆弾や戦争」についてだったので、平和ボケの私はびっくりしてその専門用語などを必死に学びました。。。(苦笑) 

しかし、考えてみれば日本と違ってアメリカはまだ戦時中だったんです。。。 難民センターなどでは、戦争で傷ついたり、金融戦争で職を失ったりした共産主義国の人々がたくさん来ていました。。。 私は直接その人たちと話し合える機会を得ました。。。

アメリカは大嫌いだけど、仕方なく来たというロシア人や南米の人たちがたくさん来ていました。。。

キューバーからやってきた白人風の母親と娘は、なぜかわからないけどトウモロコシしか食べるものがなくなってしまった!と。。。

私はその時、FTA(Free Trade Agreement)のことはよく理解していなかったのでなぜかなぁ?と思っていたんですが、それが満天のおっちゃんに教えていただいたので、その社会構造が理解できました。。。

これからも日本では、アメリカとFTAやるとトランプ大統領が話しているのと、この種子法廃止法案と一致しているためにとても気がかりです。。。 

アメリカでの経験と、その後帰国して、満天さんにネットを通じてたくさんのことを教えていただき、色々なことを知ってしまった私は、なんとかこの日本のたくさんの人たちがちょっとでも見て知ってくれることを願っています。。。

ですから、この掲示板は私にとってはなくてはならないもので、また満天さんが居なくなってしまったので、満天さんの重要文章や面白いちゃめっけな声をまとめることは、とても重要なことと深く思い、がんばってまとめています。。。

天橋立さんも、楽しくこの掲示板にずっと接していただいたら、きっとよい人生だと思われます。。。

本当に、もっとこの掲示板を多くの人たちに接していただきたいです。。。 

天橋立さん、お体に気をつけられてください。

メンテ
満天下有人 ( No.200 )
日時: 2017/07/03 11:05
名前: イントィッション ID:iXO2d/x.

★満天のおっちゃんもこのように発言されてます。。。


日時: 2011/06/07 16:30名前: 満天下有人 ID:I08KD8W6

・・・romさん、ご遠慮なさらず、大いに横レス入れて下さい・・・

そうするこによって、一般から見れば世にも不思議なことと思はれることでも、真相に一歩でも近づくことが出来るようになると思います・・・

何だか増税論ばかりが先行し、財政難と言うが、一体どこがどうなっているのか、さっぱり分からないことが多すぎますね・・・事業仕訳はあんな程度で終わったのか・・・

これこそネットの力を強めて、理不尽なことに迫るべきだと思います。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.201 )
日時: 2017/07/03 18:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xRRflpvY

>私は数年間アメリカで政治・経済・人類学・社会学、そして心理学をたくさんの人種と学んできました。。。

うらやましいですねえ。

私は京都北部の田舎町でくすぶっている建築士。

ネット活動をし始めてから、特に外国人がどのような発想をするか興味があっても情報がありません。

イントィッションさんの生の話は参考になります。

以前は、中国で起業しているジョンさんからも話を聞けました。

イントィッションさんは常には飛んでしまった話しぶりですが、たまにはじっくりと専門の知識も伺いたいものですね。

メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.202 )
日時: 2017/07/04 12:10
名前: イントィッション ID:EtUtqUtQ

>イントィッションさんは常には飛んでしまった話しぶりですが、たまにはじっくりと専門の知識も伺いたいものですね。

私は、母国語で専門分野の勉強をしておりませんでした。。。 ですから、専門知識はすべて英語でのやりとりしかできなくなっております。。。

そして、創造的な分野やそれぞれのカテゴリーにおさめたり、満天のおっちゃんの記載の重要部分をまとめたりする右脳の能力は働いているのですが、細部のことを追求する化学的な分野を思考する左脳の能力はドンドン老朽化?してなかなか母国語にそれを表現することは難しいです。。。

今、まさに学校教育は金融ハザールマフィアの奴隷化を狙っていますから、左脳を十分に働かせる時期に英語を使え!という命令が下っているものと思われます。。。(怒)

ただ、私は25年も前に、マックやスターバックスだらけの街で暮らし、日本からしてみれば、すべてにおいて品質がものすご〜く悪い商品が並ぶ巨大モールを週末に散歩したり、巨大スーパーで、セルフレジを使って、食品も必ず銀行のクレジットカードで買っていました。。。(その姿は、現在の日本です。。。悲しくなります。。。)

経済のグローバルな自由化は名目上で、実は巨大商社の詐欺行為のための私物化!

そのために竹中タコ蔵が使われたのでしょう。。。 

使用したカードを見れば、何を買っているかすべてわかってしまう!!!

弁護士関連の裁判に悪用されることもあり得るでしょう!!! またオレオレ詐欺集団もボスがこの巨大商社関連のカルト宗教でしょう。。。

便利で早い!と、なんの疑問も持たず、携帯カードも使う日本人。。。頭の中大丈夫???

ソーシャル・セキュリティ・ナンバーを貰うと、銀行の資産や、犯罪歴、学校や職種の経歴や入院や病気の経歴まですべてわかってしまいます。。。(今の日本のマイナンバー制度もそのようにしていくでしょう!)

国民の財産もすべて私物化してマイナンバーで支配する! これが彼らの目的なんです。。。

マイナンバーなどは、必ずそのゲイトキーパープログラムがありますから、犯罪者や別の人間にしようとすれば簡単にそこをクリックすればできてしまう。。。 今、カルト宗教集団に牛耳られているこの社会は、もっと恐ろしいものになるでしょう。。。

ところで、アメリカの生活は本当に大変でした。。。

歯が痛くなって歯医者さんへ行ったのですが、保険が無く、見てもらうだけで数万円もかかりました。。。

お金のない歯の保険が無い市民は、痛くてどうしようもないので見てもらって無料にすると、歯医者がその数倍の罰金を盗られます。。。

そして、他の日本人学生でも、歯が痛いのだけど、保険が無いのと、勉強に集中しないと単位がなかなか取得できず、歯の痛さも忘れて集中する! 一定の単位を取得できないとデポーティションされてしまう。。。 ついにその学生はその歯が自然に折れてしまいました。。。 

他には、もちろん日本人学生で学費が高いので、毎日カップラーメンだけにしていたら、卒業直前で体を壊して死亡しました。。。

アメリカはずっと戦時中ですから。。。 奇形児や戦争で足や手が無くなった人や、遺伝子組み換え甘味料ででぶでぶで歩けなくなり、糖尿病が急上昇! たくさんの人が車いすを使用し、その傍らにスーパーのベンチに座って朝早くから、一番安いベーグルをかじっているホームレス。。。 

マックに行くと、歯が一本もないヒスパニックのおばさんたち。。。 

ホームレスが登れないような丘の上には、高級車と大きな家並み!そこにユダヤのコミュニティがある。。。

どこもかしこもアメリカ国内では同じ風景! 

ところで、専門の知識用語の基本は、

アップタウンとダウンタウン!

アッパークラスとミドルクラスとロワークラスとホームレスネスです。。。

日本もこうやってお勉強していくのでしょうね〜。。。 10円の食料品もクレジットカードを使いながら。。。仮想通貨に変えやすいですね〜。。。(爆笑) 
メンテ
アメリカの生活 ( No.203 )
日時: 2017/07/04 15:39
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yNV7/LZ.

アメリカは明るい国と言う印象が一番強いのですが、格差のひどさ、貧乏人は医者にも行けない様な社会で、みんなは平気で暮らしていけているのでしょうか。
貧乏人も裕福な人も。
人種差別も深層では生きているのでしょうね。

それに比べると、何の気なしに暮らしてきましたが、私などは子供のころから社会的に不安を持って生活してきた覚えがありません。

戦前の生活や江戸時代などは実感がありませんが、アメリカ以外の国の様子を見ていても、日本と言う国の環境をありがたく、誇らしく思います。
何故でしょうね。
まあ、これは、このスレッドのテーマでもあるのですが、日本の文化は何としても守っていきたいものですね。

ところで些細な事の様ですが、テレビで樹木葬とか言う話をしていました。
最近は、墓は自分だけのものが良く、先祖や夫とも同じ墓は入りたくないような風潮が増えているようです。
墓の問題はそれ自身の問題とも言えますが、日本の文化は、このような事で守れるものでしょうか、気にかかります。


追伸です

そうですか、英語で体験されたことは日本語で表現し難いものですか。
そう言う感覚こそ私には想像できません。
メンテ
人間、色々人生経験豊富だと、他人に対して敵対心をもたないものです。。。この糾弾の掲示板はすばらしい!!! ( No.204 )
日時: 2017/07/28 22:20
名前: イントィッション ID:DikHoYdc

私は20代の若さで、一番のバブルを経験し、ヨーロッパへ行くときは飛行機はビジネスクラスで多国籍企業の一つに飛行機代もだしてもらいました。。。

でもそれもある意味、色々な努力があったからこそ。。。と、もう一つはボスの力もあったからでしょう。。。

私の30代の生活基盤はほとんどアメリカでした。。。 

もちろん、沖縄に長年アメリカ兵を経験された方にもお会いしました。。。 

私はその時、アメリカの難民センターで色々な国から来た難民と話す機会を持ち、難民が大量に流入している話をそのアメリカ兵の方に言ったら、

  「自分たちがやったことに対して、責任を持つのは当たり前!」という言葉が返ってきました。。。

この糾弾の掲示板はすばらしいと思います。。。

外国での経験を伝達することも直接できるからです!!!
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.205 )
日時: 2017/07/28 22:23
名前: 中川隆 ID:1cMjBjZU

アメリカに行って何か一つでも学んだ事有るの?

まさか皿洗いのバイトしてただけとか
メンテ
中川さんて、かわいそうですね〜。  ( No.206 )
日時: 2017/07/28 22:43
名前: イントィッション ID:DikHoYdc

そんなに他人を否定したいのですか???

本当にかわいそう。。。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.207 )
日時: 2017/07/28 22:50
名前: 中川隆 ID:1cMjBjZU

世の中には外国語ができると偉いと思ってるアホが多いからね

アフリカ人は英語力で頭の良さを評価してるしね

要するに植民地文化人という奴だな
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.208 )
日時: 2017/07/28 22:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qkc3vFZk

アッハッハ

私は客人として中川さんを少し持ち上げすぎたかな。

どうせコピペが主で自分の意見らしい意見と言えば他人を誹謗する事だけ。

でもね、人は誰でも良いところも持っているもの。

だから、私は誰でも尊重して受け入れられる。

実害をきたさない限り。

メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.209 )
日時: 2017/07/28 22:56
名前: 中川隆 ID:1cMjBjZU

そもそもコピペするというのは貼った後で読む為だからね

昔の人は本を買って読んでたけど、今はネットで同じ情報が得られる

それで勉強用にコピペしまくってるだけなんだ

ただ、ネット情報は玉石混合だからね

いかにして正しい情報を手に入れるかで進歩が決まる

だからネットでもデタラメやデマが書かれていると腹立って仕方ないんだ

メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.210 )
日時: 2017/07/28 23:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qkc3vFZk

中川さん

私はコピペが悪いとは思ってはいません。

この「大和魂」スレッドも、ずいぶんとネットの資料にお世話になり、引用も相当しています。
自分ながらもネット社会に感謝をしています。

ネットがなければ、とてもこのような文章を構築することは出来なかったでしょう。
少し長文になり、退屈な部分もありますが、是非、通しで読んでいただきたいもの。
そうして貴方の意見を伺いたいもの。

大抵の人は標題の「大和魂」だけで敬遠されてしまいます。
せっかく10年近くかけて書いたのに!
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.211 )
日時: 2017/07/28 23:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qkc3vFZk

>だからネットでもデタラメやデマが書かれていると腹立って仕方ないんだ

中川さんの文章には各所にこういう内容の言葉が入ってくる。

政治をただし、掲示板の世界をただし、ネット社会までも糺されるおつもりか。

それはいくらなんでも大言壮語!

あまりやりすぎると誰もが相手にしませんよ。

それが実際の社会であり、人生なのでは。

また、そんな無責任な社会を相手に孤軍奮闘する必要もないでしょう。

メンテ
神道論 ( No.212 )
日時: 2017/09/01 12:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:jNKFxZ4o

No 185のレスから、このスレッドには珍しく御客様の来訪があり、話が中断しましたが、このスレッドに対する皆さんの意見は大変参考になりました。

さて、久しぶりなので、おさらいから始めましょう。
平安時代は飛鳥時代から続く天皇親政の時代でしたが、藤原氏をはじめとする貴族の力が強く貴族政治であったとも言えます。
また全国の統治体制も荘園制によっていて、その分、中央集権は弱いものであり中央の軍事力も殆どなかったと言っても良いでしょう。
中央の力が無い分、文化的にはかなり自由な雰囲気がありましたが、国家が国家としての務めを果たさず、困窮する民衆が沢山出ていた事も特徴です。

続いて鎌倉時代は、大和朝廷以来、初めて、政権が天皇家から政権を武家に渡った時代です。
始めは源氏一族が支配していましたが、そうそうに豪族筆頭の北条家が実験を握り中央集権を目指していました。
鎌倉時代にも天皇家が復権を目指した乱もありましたが不発に終わっています。

次の室町時代ですが、再び起こってきた後醍醐天皇の主権回復の運動と連動した足利尊氏が鎌倉幕府にたいしクーデターを起こして成立させた足利幕府の時代です。
ですが、尊氏はすぐに後醍醐天皇と対立し天皇を排斥しています。
ですが、この時尊氏は後醍醐を追放するために別の天皇を擁立し、ためにその後、南北朝の対立と言う抗争を残しました。
これが結局は応仁の乱を呼び、実質足利幕府の崩壊をまねきました。
要するに足利尊氏も、単なるクーデターの成功者にすぎず、本当の意味での配下が少なかったと言う事になります。
事実、足利幕府は平安時代の様な貴族趣味が強い政権でした。

平安時代が、そうであった様に、庶民の文化も鎌倉時代に生れは芸能、技術の発展がみられます。
しかしながら平安時代と同じように統治が出来てない国の有り様から、庶民の困窮は強まり、政治的には下克上と言われる様な事態を招き戦国時代へと移っていきます。

ところで、この時代に注目しておかねばならないことが起こっています。

奈良時代から続いていた仏教と神道に関する受け止めかたについて、

神道のあり方を本格的に検証しようとした「吉田神道」の登場です。

吉田神道は、反本地垂迹説の立場をとります。
仏教・道教・儒教の思想を取り入れた、総合的な神道説とされる。吉田神道は、仏教を「花実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」と位置づけた。
吉田神道は、顕隠二教を以って一体となすのが特徴で、顕露教の教説を語るものとしては『古事記』『日本書紀』『先代旧事記』(三部本書)、隠幽教の教説は『天元神変神妙経』『地元神通神妙経』『人元神力神妙経』(三部神経)に基づくとするが、兼倶独自のものとは言い難く、上述のとおり、仏教・道教・儒教のほか、陰陽道等の教理や儀礼を取り入れたものといえる。また、密教の加持祈祷も取り入れている。

※ 本地垂迹説にせよ、反本地垂迹説にせよ、神道と仏教、儒教の混合を考えた事に違いはなく、その目的は民衆の為と言うよりも国家護持の観点でありました。


「本地垂迹説」

 本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)というのは、神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為を、理論付けし、整合性を持たせた一種の合理論で、平安時代に成立しました。その基礎には仏教以前の山岳信仰と修験道などの山岳仏教の結びつきがあったといいます。

 仏教の伝来は538年、あるいは552年ですが、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られています。仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からでした。これも良く知られています。
 ところが、天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にありますね。それで、やっぱり100%仏教とは行かなかったようです。そのほかの人々も同様だったのでしょう。なにせ、貴族も豪族も、みな、うちのご先祖様は何とかという神様だと言っていたのですから。
 そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきました。歩み寄ったのは神様の方でした。その一番手が八幡神だったそうです。八幡神は応神天皇のことだといいます。八幡様が「私は、元々はインドの神でした」と告白したことで、ほかの神様も右へ習えとなったようです。つまり、神様の立場を「本当は仏教の仏です(本地)が、日本では神道の神としてやってます(垂迹)」ということにして、両者を共存させたわけです。
 もっともこれは、日本人が自分に都合の良いように理論をでっち上げたということでもなくて、法華経にその根拠を求めることができるといいます。それに、仏教自体がヒンズー教から沢山の神を入れていましたから、如来、菩薩などが名前を変えて日本の神様になるということは、あってもよいことと考えていたのではないでしょうか。一方、神道の側からすれば、元々、教義も無ければ教祖もいない、八百万の神様が坐す(います)だけ、ということでしたから、さほど気にはならなかったのかも知れません。

「反本地垂迹説」

日本の仏教が説いた本地垂迹説(神の本地本体は仏・菩薩であるとする説)に対し、それは逆で仏・菩薩の本地本体こそ神であるとする主張。鎌倉の頃から出てきた。


※ ここで神道の流れを纏めておきます。

歴史的に見ますと、最初に氏神(うじがみ)や産土神(うぶすながみ)を祀る原始的な神道や、北方系のシャーマニズムのような神道があったと思われます。それが大和政権が日本全体に支配権を確立させて行く中で、神々の同一視や婚姻などが行なわれて行き、ひとつの天皇神道にまとめられて行ったものと思われます。
ここに仏教の思想が入って来ますと、神仏習合の考えが生まれ、仏を中心に据えた両部神道・山王神道などが生まれて行きます。これに対して伝統的神道側も伊勢神道・唯一神道などによって理論武装して仏教に対抗し、巻き返しを図ります。しかし江戸時代に入る頃には今度は儒学の影響で儒教色の濃い神道が生まれます。

そんな中で現在色々な要素が入ってしまった神道の元の姿を取り戻そうという動き・復古神道の考え方も江戸時代も後半頃から出てきて、これが幕末・明治になると数々の教派神道を産み出します。一方では神道を政治的に利用しようとする勢力が国家神道を作り、それによる思想統制を図りますが太平洋戦争で挫折。そして戦後は宗教の自由化に伴い雨後の筍のように沢山の新宗教が生まれ、分離統合しながら新世紀への展望を模索しています。

そんな中で幾つかのエポック的な神道を以下見ていくことにしましょう。

物部神道

古代の神道の最後の生き残りで、その命脈は587年の蘇我一族による物部一族制圧によって絶たれた。内容的には謎の部分が多いが、思想は旧事本紀から伺い知られる。十種神宝(とくさのかんだから)や、「ふるべ、ゆらゆらとふるべ」の呪文などが知られる。基本的に魂を奮い起こすことにより精神的エネルギーを高め活力を生み出す神道ではなかったと推定される。

中臣神道

物部神道が滅び、仏教が国家祭祀の中心になった時代にやがて政治的に台頭した中臣家(藤原家)が巻き返して提示した神道で、その後の日本の神道の中心になるもの。その根本は大祓詞(おおはらえのことば)に見られるような「けがれとはらい」の思想である。

山王神道

天台宗の総本山・比叡山で平安時代に生まれた神道。初期の山王神道と天海以降の山王一実神道に分類できる。山王とは霊山を守護する神霊のことで、山王権現は比叡山の地主神で日吉神社祭神の大山咋神(おおやまくいのかみ)を言う。三諦即一思想があり、「山」の字の縦の3本は空仮中を表わし、横の一画は即一と解釈して一心三観・一念三千の象徴であるとする。「王」の字も同じ。ここに空とは「仏法は一切空」、仮とは「仏法は仮にある」、中とは「仏法は空でも仮でもなく不二である」である。天海は更に山王権現は大日如来であり、また天照大神であるとした。

両部神道

真言宗から生まれた神道。鎌倉時代頃に成立。伊勢神宮の内宮を胎蔵界大日如来−日天子、外宮を金剛界大日如来−月天子に配する(二宮一光)ほか、いざなぎ・いざなみ、諏訪神社の上社・下社、なども両部になぞらえた。又古事記の天神七代は過去七仏に等しく、北斗七星にも展開されるなどとし、多くの神々を仏教により解釈していったが明治の神仏分離により壊滅的な打撃を受ける。

伊勢神道

伊勢神宮の外宮の神官度会(わたらい)氏が創始。外宮の神である豊受大神は実は天御中主神(あめのみなかぬし)=国常立神であるとし、天御中主神は海之水中主であって、海に在る神であるとする。そして海は造化の霊体であり、半日間地上を照らした太陽や月も海に沈んで休息をとるのだとします。そして、人間は神から生まれたのであるから人間の本性は神であって、その神性を損なうようなことはしてはならないとして、正直・至誠・祈祷の実践を求める。教典として「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」「豊受皇太神御鎮座本紀」「造伊勢二所太神宮宝基本紀」「倭姫命世記」の神道五部書が製作された。鎌倉時代末期に起こった。

吉田神道
吉田兼倶(1435-1511)が唱える。正式には元本宗源神道。唯一神道・卜部神道ともいう。神本仏迹・神主仏従。神とは観念的なものではなく、天地に先立って天地を定め、陰陽を越えて陰陽をなす。始めも無ければ終わりもなく、天にあっては神、万物にあっては霊、人倫にあっては心である。神は天地の根源であり神はすなわち心であるとする。儒教・仏教・道教・陰陽道の要素が合流し、伊勢神道の思想も入っている。大元宮の八卦に基づく八角形の神殿は特徴的。

法華神道
室町時代に法華宗の信徒の間に起きたもの。神の中に法性神・有覚神・邪横神の3つがある。法華経守護三十番神といって各地の三十柱の神が一日交替で人々を守護するという考えを出した。(実際にどういう神が選定されたかについては別途up)

儒家神道

神儒一致論にもとづき儒家が江戸時代にとなえたもの。林羅山の神儒一致論(理当心地神道)、雨森芳州の理論(神主儒従。神道は仁・明・武で、これが三種の神器である)、貝原益軒の理論(儒主神従)など。

吉川神道

吉川惟足(1616-1694)が唱える。吉田神道と儒教と武士道の調和をはかった。神道を祭祀を中心とした行法神道と理論的な理学神道に分類し、理学神道こそが真の神道であるとした。保科正之などに共鳴を受けて一大勢力となり、一族は幕府寺社奉行の神道方に任命される。

垂加(しでます)神道

山崎闇斎(1618-1682)が創設。垂加は闇斎が吉川惟足から贈られた号である。神道は天照大神の道と猿田彦神の教えで宇宙の根源は国常立神であるとして、天道即人道の理を説く。神の働きを造化・気化・身化・心化に分類、土金の伝(つつしみの徳)、竜雷の伝(怠惰のいましめ)、天人唯一の伝(天と人は一致)などを主張した。この門下から土御門神道の安倍泰福・橘家神道の玉木正英などが出て、復古神道・国学・水戸学などの源流となった。

復古神道

賀茂真淵(1697-1769)の万葉集による古語の研究、本居宣長(1730-1801)の古事記の研究、などに刺激を受けた平田篤胤(1776-1843)が提唱したもの。仏教や儒学などの要素を排除したいにしえの神の道を復興することを目的とする。このいにしえの道の理解には大和心を固めるべきで、神の功徳を認識し、日本が世界の中心であることを知らねばならないとした。結果、中国の医学は少彦名神が作ったものが輸出されたものであり、易の始祖伏義は大国主神であり、帝釈天も皇産霊神であるなどとして、日本は神国であるとした。

国家神道

明治維新後の政府によって推進された祭政一致的神道。復古神道や水戸学などの思想をベースに、神仏分離令によって神社から仏教色を排し、天皇家の先祖である天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の最高位に位置付け、一村一社制により既存の神社を強引に統廃合するとともに、祭神も天皇家に関わりのある神に書き変えた。神官は公務員とし、祭祀のみを執り行い布教活動をすることは禁止、一方神道は宗教ではなく民俗伝統の根幹であるとして、政府が直接管理するものとした。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.213 )
日時: 2017/09/23 21:03
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:PJXQ4hPg

最近は休み休みなので書き続けるのが厄介です。

室町時代についての総評として、文化的には鎌倉時代に興った大衆文化が、より成熟していく過程と思います。
大和魂と言う概念からも、大衆の中にそれが行き渡る過程であったでしょう。

しかしながら、同時代に神道の系統的解明が進み、思想と言う意味では本来の大和魂の色付けがなされたようにも思います。
私は大和魂は、民衆の中に自然に息づくものでなければならないと思っています。

まあ、それはそれとして政治の面、権力争いの面では非常に活発な自由心が生まれ、やがて戦国時代に突入します。
大和朝廷設立の過程でも、日本人同士の殺し合いがかなりありました。
当時の争いは天皇家を含む既成の豪速同士のものでありましたが、戦国時代の特徴は、それこそ、下克上。

応仁の乱から数えてみても、200年ほど権力争いの殺し合いが続きました。
大衆的には殺伐とした時代であり不幸な時代でもありましたが、日本人の闘争心が如実に示された時代です。
権力争いとは別に、倭寇の横行や商人が東南アジアへ向けて積極的に進出した時代でもありました。

この状況が良いと断定するものではありませんが、それと対照するに江戸時代の押しつぶされた社会の有り様、反動としての明治時代の侵略体質を考えるときに有効だと思います。

中世でも1000年もの間にキリスト教教義の中で押しつぶされてきた大衆の思いがユネッサンスとして開花しました。
中世のキリスト教による支配については、私は全く否定する立場です。
日本の場合の江戸時代300年の事は、否定はしませんが、それが何であったかの検証はしたく思います。
明治時代の反動は決して肯定できるものではありません。
が、それよりも現在日本の有り様においては、肯定できる何があるのでしょうか。

それが、このスレッドの課題なのです。

西欧思想史においてギリシャ時代は良いですね。
人間社会の有り様を正しく受け止めています。
近代社会を全くギリシャの思考法に包むことは出来ませんが、波打つ思いは妨げられません。

「大和魂」です。
メンテ
江戸時代へ ( No.214 )
日時: 2017/12/11 23:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:RufVXKqE

大和魂(日本人の心のルーツ)を探るにおいて、その様なものは無い、必要ないと言う意見も出ていました。
しかしながら、それでは個人の自由、権利を主張して家族の有り様も変わってきた現代の日本人の生き方を全面的に支持するものですか。
なにかと言えば、最近の若者は!と言う義憤の声も聞かれます。

現代の若者が、悪く昔の人間は良いと言う意味でもないでしょう。
だが、日本人が暮らしていえう社会の有り様は、考え方により少しは変っていることくらいは認められるでしょう。

この事は世界中で起きている現象で、資本主義の発達により十分な物質に恵まれている幸せ、個人権利、自由を主張できる幸せのなか、社会の有り様が変わってきているのです。

ですが人間とは、個人個人が満足させられるだけで幸せな社会を構成することが出来るのでしょうか。
現在、起きている無差別殺人、格差社会の矛盾をほおっておいて、幸せな社会が出来るのでしょうか。

人間が共に生きるということを忘れて行けるのでしょうか。
宗教の神様を必用としなくなるのでしょうか。

人間は共に生きてこそ幸せになれるという事を忘れるべきではないでしょう。
認めるべきでしょう。
であるならば、将来、人間は何を持って共生意識とすることになるのでしょう。

それを求めるのに過去の歴史を見てみる事も意味あるものではないでしょうか。
そこに何があったのか。

世界史に歴史を求めると
数千年前の世界では、王国の中で人間は暮らしていました。
王国に属さない人々は、放牧の民として集団で狩りをし生き延びていました。
その時代の庶民は、ただ生き残る事が精一杯で、それが目的で助け合いながら生きてきました。
それが共認でした。

2000年くらい前には、全ての人々を対象とする宗教が興り、その宗教圏の人々は宗教の神様に救いを求め困難に打ち勝つよう努めてきました。
それが共認の一つの追加項目です。
その宗教の神が、逆に人々を抑圧するような時代が長く続き、人々は神の有り様に懐疑を抱くようにもなりました。

その頃になると、科学技術も発達し、生きるための労働から解放された人々は、個人個人の生活にゆとりができ、自分の生き様を自分で選択できるようになりました。
それは西欧ではルネッサンス(人文復興)と呼び、個人の権利、自由を求める事に目覚めた時代です。

同時に個人個人は競争に打ち勝つことによって、より自由で、権利も獲得できる事を学びました。
その競争は、彼らにとって善であり、競争することが人生の使命の様に納得していた。

だが物質的に十分な成果をあげた現代は、競争すること以上の目標をさがし戸惑っている。
一方で、競争にも参加できなく、生きている意義も曖昧になった多くの人たちも発生している。
この人たちは、何を持って自分の精神を満足させられるのか。

競争してきたと言っても、その競争には共通の目標、ルールも介在していた。
それが共認意識として働いていた。
人々は互いにそれを見やりながら自分を見て安心して競争していた。

その様なものが人間には必要であったのである。
この意識は、単に生存競争だけでなく人々の生活全体に存在していた。
それが集団の心(共認意識)であり、民族の心である。

その民族の心と言うものは、常に一定の姿をしている訳ではなく、民族の於かれた条件によって移り変っても可笑しくはない。
そうして、その民族の心(共認)と言うものは生き様だけではなく文化にも反映される。

そう言う意味で民族の心に変遷を探っていくのも、将来社会を考える大きな糧となるであろう。
大和魂と銘打って、探している民族の心は鎌倉・室町時代のそれであり。大和魂で捉えたい民族の心とは何であろう。

しかしながら、このような抽象的な概念は、一言で現せるようなものではなく、前後の時代の様子から際立たせられるものと思っている。
という事で、鎌倉・室間時代の検証は、一旦中止して次の江戸時代へ向かおう。

その前に、ルネッサンスと言う言葉を上げたので、室町時代以降、江戸時代までの政治的な下克上の時代を、身分などに関わらない生の人間性が発露した時代としておきます。

最後に、この文章を書きながら思ったのですが、

大和魂を鎌倉・室町時代に見ようとしていますが、ある意味、すべての時代の日本の心の事を大和魂と言い、その変遷を求めているとも言えると思います。

メンテ
朱子学の登場 ( No.215 )
日時: 2017/12/18 12:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

何と言っても江戸時代の特徴は、実質的な統一国家が出来たと言うことです。
国と言うものに対する認識が国民に行きわたりました。
飛鳥、平安時代も、統一国家には違いありませんが、これは貴族国家であり、庶民の事は年貢の対象としか見られておらず、国を治める治世の概念は貴族にはありませんでした。
続く鎌倉、室町時代も、権力闘争は主体で、武力さえあれば権力を維持することが出来、国を治められる、と思い込んでいました。
江戸時代に入り、諸侯の武力をコントロールすると共に、安定した治世とするために、国民の教育が必要と思いました(それが治世の重要な要素と気が付きました)。
徳川幕府が長続きしたのも、この両面の施策が実行できていたからです。

鎖国政策の問題もありますが、国家として安定し、経済、文化面の発展がありました。
当時は、民主主義などと言う思想は無かったので、専制君主国家として、理想に近いものとも言えましょう。
それも幕末になって西欧民主主義の思想が入ってきて、当然ながら基本的な治世の原則が壊れ明治維新を迎えることになります。

治世の為の儒学(日本では朱子学)は、中国の歴史を通してさんざん言われてきましたが、江戸時代の朱子学の様に国民に行きわたり治世の根源となったものはありません。

そこが江戸時代の特徴でしょう。
ですが儒教による治世の考えは、近代民主主義のそれとは相いれる要素ばかりとは限りません。
何故ならば、儒教が教えてきたものは、飽くまでも専制国家を想定しているものだからです。
日本の国民は江戸時代の儒教精神に影響されすぎ、それが尾を引いて、上に従順な国民性となっているのでしょう。
儒教精神も大切ではありますが、現代は民主主義体制、それによって選ばれた統治者(為政者)が何時も善であるとは限りません。
儒教精神だけでは、これに異を唱える術がありません。
また為政者が、財界(資本)の傀儡となってしまう場合もあります。
この場合も、政治的に対処する術を考えつきません。考えようとしません。

これが現在の日本国民の民族性としての課題でしょう。
殆どの政治家(為政者)が善であり、資本の傀儡となるような政治をしなければ、江戸時代の朱子学だけでも良いのですが。

一気に結論じみた事を書きましたが、これを念頭に入れて、まずは江戸時代の朱子学が、どのようなものであったか見てみましょう。


儒教の登場
中国の古代史は、夏、殷と言う伝説の時代の後に周と言う国名で一応は統一のかたちを取ってきたが、紀元前700年ころから、各地の豪族が跋扈して国中が乱れていた。
これを春秋時代、後半を特に春秋戦国時代といいます。

孔子が出てきた時代は(紀元前552〜紀元前479年)、それぞれが国家の構成をめざし統一へ向かう時代で、春秋から戦国への過渡期ともいえる時期で、激動の時代でした。

政治・経済・社会のすべてが大きく変動しつつあった時代で、
それまでの伝統的な価値観も大きく揺らいでいたことが、
孔子を動かした大きな要因ともいえるでしょう。
詳しく説明すると、恐ろしく長い文章になりますので、
孔子とかかわりがある部分だけピックアップします。

春秋末期になると、いわゆる下剋上という現象がつよくなり、
孔子の住んでいた魯という国(諸侯の国)でも、
魯の君主はほとんど権力を持つことができず、
国の実権を三桓氏と呼ばれた3つの貴族が握っていました。
ちなみに、三桓氏は魯の桓公の子孫に当たり、
魯の君主にとっては親戚にあたります。
周の封建制は血のつながりによるもので、
周王が親族を諸侯に任命し、
諸侯は自分の親族を卿や大夫などにして政治を行っていました。
諸侯国では、卿や大夫などの階層が力をつけ、
君主を凌駕するようになったというわけです。
しかし、下克上の恐ろしいところはこれだけでとどまらず、
三桓氏のリーダー格の季孫氏では、重臣の陽虎という人物が
この家の実権を握っており、
魯の国を実質動かすのは、魯の君主の家臣の家臣(陪臣という)
にあたる陽虎だったのです。


孔子の教えの概略は
『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
メンテ
儒教(論語の世界) ( No.216 )
日時: 2017/12/18 18:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

孔子の論語紹介
孔子の言葉で一番記憶にあるのが、

子曰、

>「吾十有五而志于学。
三十而立。
四十而不惑。
五十而知天命。
六十而耳順。
七十而従心所欲、不踰矩」。


「吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)ふ。
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」。


[要旨]
孔子が一生を回顧して、その人間形成の過程を述べたもの。


[口語訳]
子曰く、、
「私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、
人の道を踏みはずすことがなくなった」と。
論語の名言集
子曰、學而時習之、不亦説乎、
有朋自遠方来、不亦樂乎、
人不知而不慍、不亦君子乎、
(出典:学而第一1)

書き下し文
子曰く、学びて時に之(これ)を習ふ。
亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや

通訳
孔子は言った。
物事を学んで、後になって復習する。
なんて悦ばしい事だろう。
遠くから友達が自分に合いに訪ねてくる。
なんて嬉しい事だろう。
他人が自分をわかってくれないからって
恨みに思う事なんてまるでない。
それでこそ君子というものだ。

解説
論語の中でも特に有名な一節。
中学校の授業で習った記憶がある方も
少なくないと思います。

勉強は強制されると嫌なものですが、
本来は、自分の成長を実感できる
楽しいもののはずです。
この姿勢は、大人になってからも
大事にしていきたいものですね。


>子曰、巧言令色、&#40092;矣仁、


書き下し文
子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。

通訳
孔子は言った。口先が上手で
顔つきをころころ変える人間が、
仁者であることはめったにない。


解説
仁者とは、思いやりのある人の事。
口が巧くて世渡り上手の人間に限って
案外中身が薄っぺらいものだという教訓です。

この一節は、学而と陽貨に
全く同じものが登場しています。
孔子自身の経験として、
「巧言令色」な人間をたくさん
見てきた上での教えなのでしょうね。


>不患人之不己知、患己不知也

書き下し文
子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)えず、
人を知らざるを患うるなり。

通訳
孔子は言った。
他人が自分を分かってくれない事よりも、
自分が他者の価値を
認めようとしない事の方を心配しなさい。

解説
他人が自分を理解してくれないという悩みは
人なら誰しも一度は持つものですが、
孔子はそれよりもまず、
自分から他者の良いところを知る
努力をすべきだと説いています。


>君子周而不比、小人比而不周

書き下し文
子曰く、君子は周して比せず。小人は比して周せず。

通訳
孔子は言った。
君子は誰とでも分け隔てなくつき合うが、
つまらない人物は限られた狭い関りしか
もつことができないものだ。

解説
君子とは、徳がある
立派な人物の事を指します。

徳のある人の周りには
自然と人が集まってくるものですね。


>攻乎異端、斯害也己矣

書き下し文
子曰く、異端を攻(おさ)むるは斯(こ)れ害あるのみ。

通訳
孔子は言った。
自分と異なる考えを持つ人を
攻撃しても、害があるばかりだ

解説
自分と違う意見を持つ人こそ
自分を成長させてくれる存在です。


>人之過也、
各於其黨。觀過斯知仁矣。

書き下し文
子曰く、人の過ちや、
各々其(そ)の党に於(お)いてす。
過ちを観みて斯(ここ)に仁を知る。

通訳
孔子は言った。
人の過ちにはそれぞれ癖がある。
過ちを見れば、その人が
どういうタイプかが分かる

解説
この言葉には思わず頷いてしまいました。
古代中国でも現代日本でも、
人の本質が出るポイントは
変わらないのですね。

ちなみに私はせっかちで、
よく人の言葉を早とちりして
失敗します(笑)


>朝聞道、夕死可矣

書き下し文
子曰く、朝(あした)に道を聞かば、
夕(ゆうべ)に死すとも可なり

通訳
孔子は言った。
もし朝に真実の道を知ることができたならば、
その日の夜に死んでしまってもかまわない。

解説
養老武氏のバカの壁にも引用された言葉。
孔子の真理に対するひたむきさが表れています。

真理の探究者という面では、
孔子はソクラテスにも似ていますね。


>君子喩於義、小人喩於利、

書き下し文
子曰く、君子は義に喩(さと)り、
小人は利に喩る。

通訳
孔子は言った。
よくできた人物は何をなすべきかを考え、
つまらない人物は何をすれば得かを考える

解説
自分の身を正してくれる言葉その@。
日常の忙しさにかまけていると
ついつい目先の利益を追ってしまいがちです。


>知之者不如好之者、
好之者不如樂之者

書き下し文
子曰く、これを知る者は
これを好む者に如(し)かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

通訳
孔子は言った。
ある事に知識のある人であっても、
その事を好む人には及ばない。
また、その事を好む人であっても
その事を楽しむ人には及ばない。

解説
「好きこそものの上手なれ」ですね。
スポーツであれゲームであれ、
心から楽しんでやってる人には誰も敵いません。


以上、きりがありませんが、どれをとっても現代社会にも通じるものですね。

儒教と言うのは、孔子の教えを出発点に、色々な時代に、いろいろな人たちによって継承されてきた思想全体を言います。
とりあえずは孔子以降、紀元までの数百年の流れを下に説明します。

春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[11]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
これらを合わせて儒教と呼んでいた。



メンテ
江戸の朱子学と武士道 ( No.217 )
日時: 2017/12/18 18:39
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

儒教のその後、
中国において儒教は次の様に連綿と続いていた。
ただし、はっきりとしておかねばならないのは、儒教は宗教ではないと言うこと。

紀元前後からの時代考証。

秦  法家以外の儒教を禁じた



宋  朱子学の登場




と続き、時代毎に変遷はありましたが、常に治世の学問とされていました。

(朱子学)

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。日本で使われる用語であり、中国では、朱熹がみずからの先駆者と位置づけた北宋の程頤と合わせて程朱学(程朱理学)・程朱学派と呼ばれ、宋明理学に属す。当時は、程頤ら聖人の道を標榜する学派から派生した学の一つとして道学(Daoism)とも呼ばれた。

陸王心学と合わせて人間や物に先天的に存在するという理に依拠して学説が作られているため理学(宋明理学)と呼ばれ、また、清代、漢唐訓詁学に依拠する漢学(考証学)からは宋学と呼ばれた。

王 陽明、 成化8年9月30日(1472年10月31日) - 嘉靖7年11月29日(1529年1月9日)は、中国の明代の儒学者、思想家、高級官僚、武将。思想家として朱子学を批判的に継承し、読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をもとめる実践儒学 「陽明学」 を起こした。

この陽明学は、江戸時代の日本にも伝えられ、大塩の乱を起こした元与力大塩平八郎や、倒幕運動した幕末維新の志士を育て、自らも安政の大獄に刑死した長州藩の吉田松陰らは、陽明学者を自称している。

非常に難解とされ訳されたことが無かった「公移」は、難波江通泰による詳細な訳注で『王陽明全集』第5巻(1985年、明徳出版社全10巻)にて刊行。同じ版元で岡田武彦(1908年−2004年)の『全集』にも王陽明関連の著作が半数以上ある。



儒教は5世紀のころから日本へ伝わっていますが、本格的に取り入れられたのは江戸時代からと言えましょう。

朱子学の登場

戦国時代は徳川家康が天下をとったことで終焉し、時代は江戸時代へと変化していくことになります。江戸幕府は、戦国時代へと戻らないように(つまり他の武将から謀反をおこされないように)、様々な方法で国の整備を行なっていきます。外様大名を江戸から遠い場所に配置したり、士農工商の身分制度を作り、安定した封建社会を作ったこともその一環です。

そんな中で、武士が学ぶべき学問というものも変化しました。信仰や武力ではなく、道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとする朱子学が盛んになります。

日本の朱子学は藤原惺窩によって確立され、弟子の林羅山の手によって幕府に取り入れられるようになります。

林羅山は、空は高く地は低いのように、万物には必ず上下があると考えました。これは人間社会においても同じで、父と子や主君と家来のように、上に来るものを敬わなければならないと説いたのです。この考え方は上下定分の理と言い、幕府の考える秩序と一致するものだったのです。

ちなみにこの林羅山ですが、方広寺証明事件の火付け役であるとも言われています。家康から4代将軍家綱の5代にわたって徳川家につかえ、江戸幕府の礎を築きました。

藤原惺窩、林羅山の朱子学の流れは、木下順庵(5代将軍徳川綱吉につかえる)、新井白石(6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継につかえる)、室鳩巣(8代将軍徳川吉宗につかえる)、雨森芳洲らに引き継がれ、朱子学は江戸幕府を支える学問となりました。
地方での朱子学の流れ

朱子学がさかんだったのは、江戸幕府だけではありませんでした。土佐では南村梅軒が南学(海南学派)と呼ばれる朱子学の宗派を築き、その流れが谷時中、野中兼山、山崎闇斎らに引き継がれてきました。


江戸時代の武士道は、倫理、道徳感で朱子学をそのまま取り入れたようなものです。
明治維新後、武士道と言えば日本人の基本的な思考方法の様に思われていました。

特に外国人に取っては。
メンテ
荻生徂徠と江戸朱子学の全盛期 ( No.218 )
日時: 2017/12/18 18:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

(江戸時代の朱子学)

江戸時代の朱子学は単に人々の規範である以上に治世の為というよりも政策を立案する上でも重宝され、学問としても見事に花が咲いたようです。
ここまで儒教が国民の生活に体系付けられて溶け込んだ例はない。
孔子のころの儒教とはまるで違う様相です。
この記事の後半で荻生徂徠の人物を語る際に説明します。


朱子学の教理は、仏教や道教の刺激を受けながら形成されたものである。
朱子学の重要な概念に「気」と「理」がある。「気」とは、物質であり、時にはエネルギーを表している。「理」とは、感応する世界(変化する世界)を司る「法則・秩序」のことである。

「理」は「気」がない限り自己を現せない。また「気」はそれが「物」として認識できるときは必ずそこに「理」が存在するという。
この説明を読んで、仏教でいう色即是空の、「色」と「空」の関係に似ていると感じた。さらに、仏教思想においても「理」は重要な語として現れる。「理法」や「道理」という言葉が思いつく。「理法」は「法則・秩序」に近い概念だと思われる。
本書には、儒教、仏教、道教の合一を説いた「三一教」説のことが書かれているが、これら3つの思想は互いに影響を受けながら発展したのではないかと思われる。

朱子学は極めて厳格な道徳主義を持つ。また、「一物一理」という理論を有する。
一物一理とは、1つの物(事態)には1つだけ理(秩序、法則)があるという主張である。
また、朱熹は「心」を「性」と「情」に分ける。「情」とは「気」であって、我々が経験できる形而下の心の動きである。そして、「性」とは「理」であり、心の動きの秩序・法則など形而上のものである。
朱子学の特徴は、世界の構造から心の構造までを統一的体系的に論じている点にある。
朱子学も陽明学もともに「心」を最大の関心事としていた。

もともと「心」を強調したのは禅宗である。中国においては中唐以降、禅宗と浄土宗が仏教の中心となっていく。浄土宗においても唯心浄土の思想が強くなったと言われる。このように「心」に全関心を集中させていく傾向が儒学にも取り込まれ、道学に結実していく。
ただ、ここで「心」という漢字で表現されるものが、仏教と儒教で同じものを指しているのか(即ち同一の概念なのか)は、(個人的には)少々疑問な点もある。

著者は、儒学は軍人のための思想ではなく、官僚の思想であるという。
江戸時代の武士は文武両道を標榜し、荻生徂徠は中国も古代は文武両道であったなどと言って、儒教を武家社会に適合させようとした。儒教は確かに武士を中心とする官僚社会に倫理性を賦与したのである。

ここで、朱子学と伊藤仁斎、荻生徂徠の関係を簡潔に引用する。
伊藤仁斎は朱子学を踏み台にして、反朱子学を展開していく。これは言わば仁斎学と呼ぶべきものである。
そしてこの仁斎学を超克すべく登場するのが荻生徂徠である。
心に具わる理を原理化する朱熹と、朱熹を否定することで「日常実践道徳」こそが道の本質であるとする伊藤仁斎、さらに仁斎は個人道徳しか考えていないとして、社会全体の組織や制度を見る視点を持つのが儒教の本質であるとするのが荻生徂徠である。

江戸時代の武士道は、まさに朱子学が唱える倫理、道徳感を取り入れたものであると言える。


(荻生徂徠の主張)

徂徠は、江戸の社会が綱吉の治世の頃から大きく変容しており、貨幣・商品・市場の力が浸透して、伝統的な人間関係が、人々の気付かないうちに解体を始めたことや他人に気を配ることを忌避するあり方「面々構」という印象的な言葉で表現しました。
このように現実を捉えた徂徠は、政教分離を説き、その全面的な制度改革を吉宗に訴えた訳です。

・困窮が社会の混乱の原因になるため、国を豊かにすることが治世の根本と考え、
・人と土地との結びつきを、戸籍や旅券などによって把握することを提案
・武士や百姓と土地の関係を重視する反面、商人の商売はそれとは異質であることを認め
・自然に発生する風俗と、人為によって定めた制度を区別
・誠の制度として歴史感覚や程度問題を考慮すべき
・制度においては、それによって倹約も可能となることから、各々の分限や節度を重視
・人を使う道と、人が取り扱う法は区別。人があっての法であり、その上での法による支配の重要性を説き
・人の住処をはっきりさせて、適切な制度を立てることによって、経済は適切に動いて世界は豊かになる
と考えたのでした。

では、そのエッセンスを抽出してみましょう。

【困窮と富豊】
経済を論じるためには、困窮の悲惨さを考えておくことが重要
困窮が礼儀作法の喪失につながるため、困窮を病気に例え、国家においては困窮しないのが治めの根本であるということです。
古代の聖人が立てた法制の基本は、上下万民をみな土地に着けて生活させることと、そのうえで礼法の制度を立てることであるというこです。

【風俗と制度】
武士は米を貴ぶ気持ちを無くしてお金に執着するから、商人にいいようにお金を吸い取られて困窮すると考えられています。
落ち着かない風俗においては、法律も上のものが下を思いやることなく勝手に定めるため宜しくないというのです。
制度とは、分限を立てて世界を豊かにするものなのです。
少し注意が必要なのは、風俗によって自然と成立したものは制度とは認められていないことです。

【誠の制度】
誠の制度とは、時代によって変わることない人情をもって、過去を顧みて未来を憂うことによってもたらされるのです。
さらにその制度は、質素がよくても質素過ぎてはよろしくなく、華やかであっても華やかすぎてもよろしくなく、すなわち程度を考慮すべきことが示されているのです。

【制度と人の関係】
下の者は、天下世界のために心身を労することがないと考えられています。そのため、上の者が天下世界のために心身を労して考え、末永く続き万民のためになる制度を立てるべきことが語られています。
また、徂徠は、〈総じて天地の間に万物を生ずる事、おのおのその限りあり〉という考えに立って、各人の分限に応じて、限りある資源を配分すべきことが語られています。
その上で、制度を立てることによって、分を守るようにするというのです。
国の秩序を守るには、人に道義を説いたところで何の解決にもならない、筋道だった計画、新たな制度が必要だと徂徠は断言しています。

【人材育成】
人は用いて始めて長所が現れるものなので、人の長所を始めから知ろうとしてはいけないのです。
その上で、人はその長所だけを見ていればよいし、短所を知る必要はありません。
なお、自分の好みに合う者だけを用いることのないようにし、用いる際には小さい過ちをとがめず、その仕事を十分に任せるのです。
器量をもつ人材であれば、必ず一癖あるものなので、癖を捨てず、ただその事を大切に行えばよいのです。
上に立つ者は、己の才智によらず、下の者と才能や知恵を争うことなく、その「才智」をみぬき、それを用いる力量に求めました。
良く用いれば、事に適し、時に応じる程の人物は必ずいるものです。
「言語・容貌」を慎み、下の者を大切にし、その力をふるわせる作法こそは指導者たる者が身につけておかねばなりません。

【万民と土地】
戸籍や路引などの政策から分かるように、徂徠は人と土地との結び付きを重視しています。
特に武士については、〈身貴ければ身持も自由ならず、気の詰る事がち也〉とあるように、武士の気苦労がしのばれます。
万民についても、土地と結び付けることの重要性が指摘されています。
ただし、商人は、急に大金持ちになったり、一日で没落したりして、定めなく世を渡る者だというのです。
それに対し、武士階級や百姓は、土地との結びつきが強いため、それを考慮する必要がありますが、商人は勝手に商売してろということです。

そもそも都市と田舎の境界がなくなってしまったのが、この境界ができていないため、どこまでが江戸の内で、ここから田舎という限度がなくなってしまっているというのです。
勝手に家を建てならべていった結果、江戸の範囲は年々に拡がってゆき、誰が許可を与えたというわけでもなく、奉行や役人の中にも誰ひとり気がつく人もいない間に、いつの間にか北は千住、南は品川まで家つづきになってしまった。
従って、都市と田舎の境界がなければ、農民はしだいに商人に変わっていき、生産者が減少して国は貧しくなるものであるというのです。

【法と道】
法を立てずに何でも自由にできてしまうことを戒めています。さらに、罰則を伴う法による支配を提示しています。
法と人の関係については、法は人次第であり、人が法を取り扱うところにおいて、道があらわれます。
人を知り、人をつかうことにおいて道があり、その取り扱うものとして法があるのです。
とるべき方法としては、政治の根本に立ち返って、やはり現在の柔弱な風俗をもとにし、古代の法制を勘案して、法を立て直すのが肝要ということです。
政治の根本は、とにかく人を地に着けるようにすることであって、これが国を平和に治めるための根本なのであるとしています。

【戸籍と路引】
国を豊かに富ますことが、治めの根本であると徂徠は考えています。
治めの根本は、人が土地に根付くことであり、そのために戸籍・路引の二つが必要ということです。
戸籍によって国民の所在をはっきりさせなければ、世の中は混乱するということです。
路引とは旅券のことです。人の移動を、路引によってはっきりさせよということです。
この戸籍と路引の二つによって、国民の居場所を把握することの重要性が示されています。
自由すぎると、害悪が多くなるというのは重要な指摘です。

とにかく戸籍の法を立てて、人を土地に着けるという方法が、古代の聖人の深い知恵から出たものであることをよく理解しなくてはならないということです。
根本を重んじて、枝葉末節を抑えるのが、すなわち古代の聖人の原則。
根本というのは農業であり、末節というのは工業や商業です。
工業や商業が盛んになると農業が衰えるということは、歴史上の各時代を見ても大体そのとおりで、これもまた明らかな事実であるということです。

徂徠は、結論として、国民の住処を把握し、それぞれに合った制度を立てることで、世界の流通が活発に動いて経済が正しく直り、豊かさがもたらされると説きました。
そして、天下を治める道とは、民が安心して生活できること(経世済民)であり、そのためには儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度(礼楽刑政)を用いて、人民の意見や才能を育み、発揮させることが肝要であるとしたのです。
さらに、六経に記された礼楽刑政を知るためには、古文辞(古語)を学ばねばならない(古文辞学)と唱えた人物でした。

メンテ
西欧文明による日本文明への侵略 ( No.219 )
日時: 2017/12/19 11:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:SnaWzQPk

論語の始祖、孔子が登場した時代は治世の安定を希望した群雄割拠時代の末期、江戸の朱子学が登場したのは、独川幕府の登場で戦国期を終えた時期。

儒教そのものの内容は、倫理、道徳律が主体でギリシャ哲学の、それのように人間社会の永遠の課題。
結果として江戸時代は幸せな時代であったと言える。
江戸時代の貧困は、自然災害に基づく飢饉が主な原因で、貧しくとも安定した社会が維持されていた。
最も士農工商などの身分社会であったし、大名など保護された特権階級はいたが。
かれら為政者が誠実であれば問題はなかったし、不誠実と言っても現代社会ほど悪辣な奴は出なかった。
でも、それは封建時代である事を前提としたもの。

人間社会の発達は、王権国家、専制国家を経て民主主義国家の時代となる。
そこで解放された人間の自我(欲望)は、倫理、道徳律では抱合できなくなる。
そう言う時代の流れが江戸時代の終わりには日本にも押し寄せてきた。
鎖国していると言いながら、西欧の文化は我が国にも長崎を手始めに入ってきた。
医学、科学、政治学など、ほとんどの知識が洋学として我が国にも浸透してきた。
時を経て、それが日本中に認知され価値観の転換を促した。

要するに西欧文化、文明が日本に上陸し、徐々に日本文化、文明を冒し始めたのである(置換されていった)。
歴史家のアーノルド・トインビーは、この様子を西欧文明によって日本文明が停滞したとか、休止したとか言っている(文明の衝突)。
文明の衝突と言っても南米諸国がスペインなど西欧諸国に蹂躙され破壊されたのと違い、平和裏に行われた。

その後の歴史の流れを考えて、それは日本にとって悪いことではなかった事は確かである。
ですが、西欧文明も欠陥のない文明でもなかった。
それが現代社会の矛盾として現れてきている。

実際に住んでいる社会にいると、それ以外の社会の認識は忘れてしまう。
新しい社会の有り様を模索するためには、多くの情報も得たいもの。
そう言う意味で歴史を検証する必要がある。

改めて、
江戸時代まではあったもので、江戸時代に無くしたもの。
明治維新まではあったもので、明治維新後に無くしたもの。
それは何であろうか。

このスレッドの主体は、飽くまでも日本人の心のルーツを探るもの。
日本人の心のルーツのうち、自然との協和性などは、西欧文明の影響も比較的少なく続いているものとみる。
その根拠は、宗教的なもので仏教、神道などの多神教民族の特徴と思う。
キリスト教、イスラム教などが入ってきたが、日本人の大半は、まだまだ仏教、神道を思っている。
時代と共に変遷するのは、人生を思う心情である。
これが社会、政治に作用する。

江戸時代にあって、西欧民主主義の影響で変質したものに、荻生徂徠に代表される、江戸朱子学の精神である。
最も明治時代と言われる時期は、江戸朱子学の精神も概ねは引き継がれてはいた。
現代社会が江戸朱子学の社会と異なるのは、どのような面であろう。

ここで、
荻生徂徠の主張を繰り返し、現代社会のそれと比較してみます。
(まとめ)
・困窮が社会の混乱の原因になるため、国を豊かにすることが治世の根本と考え、
・人と土地との結びつきを、戸籍や旅券などによって把握することを提案
・武士や百姓と土地の関係を重視する反面、商人の商売はそれとは異質であることを認め
・自然に発生する風俗と、人為によって定めた制度を区別
・誠の制度として歴史感覚や程度問題を考慮すべき
・制度においては、それによって倹約も可能となることから、各々の分限や節度を重視
・人を使う道と、人が取り扱う法は区別。人があっての法であり、その上での法による支配の重要性を説き
・人の住処をはっきりさせて、適切な制度を立てることによって、経済は適切に動いて世界は豊かになる

※ 荻生徂徠の基本的問題は、彼は御上(為政者)が常に善なるものである事を想定している。
  朱子学者としては、朱子学にのっとった御上は必然的に、そうなるものとして論理を進めている。
  学者の傲慢であろう。
  現代社会に置ける一番の問題は為政者と民衆の対峙の問題である。
  これに関しては、全く触れてはいないところに、単なる理想論と片づけることも出来る。

では、そのエッセンスを抽出してみましょう。

【困窮と富豊】
経済を論じるためには、困窮の悲惨さを考えておくことが重要
困窮が礼儀作法の喪失につながるため、困窮を病気に例え、国家においては困窮しないのが治めの根本であるということです。
古代の聖人が立てた法制の基本は、上下万民をみな土地に着けて生活させることと、そのうえで礼法の制度を立てることであるということです。

>荻生徂徠は朱子学の精神(礼儀、作法)を充足する為に、国民が困窮しないように為政をするように主張している。朱子学の徹底と言う観点から結果を予測するのは如何かと思う。
だが、発想としては、経済は国民の生活に寄与するものでなければならないと言う慧眼に感心する。

※ 市場主義経済は、国家単位の経済の安定を考えることなく、その国家の政治をも経済的発展の為に犠牲にしている。
※  経済は国民の為にあるのであって、経済の為に国家、国民があるのではないと言うことを高らかに宣言している。

【風俗と制度】
武士は米を貴ぶ気持ちを無くしてお金に執着するから、商人にいいようにお金を吸い取られて困窮すると考えられています。
落ち着かない風俗においては、法律も上のものが下を思いやることなく勝手に定めるため宜しくないというのです。
制度とは、分限を立てて世界を豊かにするものなのです。
少し注意が必要なのは、風俗によって自然と成立したものは制度とは認められていないことです。

>面白い事を言っている。現代で言う拝金主義を批判し、そういう心情が国民の為の経済を破壊すると言っている。
為政の為の立法作業は、表面的な事象に流されないで、朱子学の精神、自然の理にのっとり施行すべきと言っている。

※ 我々が受け入れている資本主義は、自動的に拝金主義となり、拝金主義を非難する気持ちも起きないのが現実。

【誠の制度】
誠の制度とは、時代によって変わることない人情をもって、過去を顧みて未来を憂うことによってもたらされるのです。
さらにその制度は、質素がよくても質素過ぎてはよろしくなく、華やかであっても華やかすぎてもよろしくなく、すなわち程度を考慮すべきことが示されているのです。

>誠の意味を正義とするか誠実とするか。
いずれにしても、これも時代の流れに流されないで、朱子学で言う真実を求めよと言っています。
ただし、質素すぎても、華美過ぎても良くないなどと言うくだりは、現代では通用しない考え方。
※ 西欧民主主義による個人の権利、自由の主張は「誠」と言う社会の共通概念を希薄なものとしてしまっている。

【制度と人の関係】
下の者は、天下世界のために心身を労することがないと考えられています。そのため、上の者が天下世界のために心身を労して考え、末永く続き万民のためになる制度を立てるべきことが語られています。
また、徂徠は、〈総じて天地の間に万物を生ずる事、おのおのその限りあり〉という考えに立って、各人の分限に応じて、限りある資源を配分すべきことが語られています。
その上で、制度を立てることによって、分を守るようにするというのです。
国の秩序を守るには、人に道義を説いたところで何の解決にもならない、筋道だった計画、新たな制度が必要だと徂徠は断言しています。

>人格論を言っているのであり、朱子学としては、これを言うのが使命と思うが、実際には、そうは行かないことが多すぎる。
まあ、せいぜい多くの人が朱子学を学んで身に着けることだ。

【人材育成】
人は用いて始めて長所が現れるものなので、人の長所を始めから知ろうとしてはいけないのです。
その上で、人はその長所だけを見ていればよいし、短所を知る必要はありません。
なお、自分の好みに合う者だけを用いることのないようにし、用いる際には小さい過ちをとがめず、その仕事を十分に任せるのです。
器量をもつ人材であれば、必ず一癖あるものなので、癖を捨てず、ただその事を大切に行えばよいのです。
上に立つ者は、己の才智によらず、下の者と才能や知恵を争うことなく、その「才智」をみぬき、それを用いる力量に求めました。
良く用いれば、事に適し、時に応じる程の人物は必ずいるものです。
「言語・容貌」を慎み、下の者を大切にし、その力をふるわせる作法こそは指導者たる者が身につけておかねばなりません。

>これは人生訓の類であり、何時の時代でも共通することですが、実際はこのように行かない場合が多い。

【万民と土地】
戸籍や路引などの政策から分かるように、徂徠は人と土地との結び付きを重視しています。
特に武士については、〈身貴ければ身持も自由ならず、気の詰る事がち也〉とあるように、武士の気苦労がしのばれます。
万民についても、土地と結び付けることの重要性が指摘されています。
ただし、商人は、急に大金持ちになったり、一日で没落したりして、定めなく世を渡る者だというのです。
それに対し、武士階級や百姓は、土地との結びつきが強いため、それを考慮する必要がありますが、商人は勝手に商売してろということです。

そもそも都市と田舎の境界がなくなってしまったのが、この境界ができていないため、どこまでが江戸の内で、ここから田舎という限度がなくなってしまっているというのです。
勝手に家を建てならべていった結果、江戸の範囲は年々に拡がってゆき、誰が許可を与えたというわけでもなく、奉行や役人の中にも誰ひとり気がつく人もいない間に、いつの間にか北は千住、南は品川まで家つづきになってしまった。
従って、都市と田舎の境界がなければ、農民はしだいに商人に変わっていき、生産者が減少して国は貧しくなるものであるというのです。

>面白い事に着目しています。
人間として安寧な生活を送るにおいて、自然との結びつきを無視できない事は、現代社会でも同じですが、現代人はあえて、それを理解しない人も多くなってきている。
ただし、人口が大幅に増え、大都市に集中する現代では、すべての人に、その環境を与えることが難しくなっている。

※ 土地問題の管理は、国民経済を考える上で大変大きな要素である。
考えられるのは、全国のインフラを万遍なく配置し、土地の利権を大きくしないこと。
また、それによって全国の土地を、より有効に使うべきである。

【法と道】
法を立てずに何でも自由にできてしまうことを戒めています。さらに、罰則を伴う法による支配を提示しています。
法と人の関係については、法は人次第であり、人が法を取り扱うところにおいて、道があらわれます。
人を知り、人をつかうことにおいて道があり、その取り扱うものとして法があるのです。
とるべき方法としては、政治の根本に立ち返って、やはり現在の柔弱な風俗をもとにし、古代の法制を勘案して、法を立て直すのが肝要ということです。
政治の根本は、とにかく人を地に着けるようにすることであって、これが国を平和に治めるための根本なのであるとしています。

>順法精神を説いている一方、行政による法の裁量権に言及し、法一途ではなく人をみて個別に考えることの必要性を言っています。
現代社会で冤罪が多発しているように、法の執行には十分な注意が必要であり杓子定規な運用は問題を起こすと言うことを、この時点で述べています。
ですが「法」そのものの有り様、立法の難しさについては言及していません。

※ 荻生徂徠も言っているように、古くなった法の改変が必用であるが、官僚共は己の利権確保のために、それを行わないばかりか、自分たちの利権確保の為の法律を作る有様である。

【戸籍と路引】
国を豊かに富ますことが、治めの根本であると徂徠は考えています。
治めの根本は、人が土地に根付くことであり、そのために戸籍・路引の二つが必要ということです。
戸籍によって国民の所在をはっきりさせなければ、世の中は混乱するということです。
路引とは旅券のことです。人の移動を、路引によってはっきりさせよということです。
この戸籍と路引の二つによって、国民の居場所を把握することの重要性が示されています。
自由すぎると、害悪が多くなるというのは重要な指摘です。

とにかく戸籍の法を立てて、人を土地に着けるという方法が、古代の聖人の深い知恵から出たものであることをよく理解しなくてはならないということです。
根本を重んじて、枝葉末節を抑えるのが、すなわち古代の聖人の原則。
根本というのは農業であり、末節というのは工業や商業です。
工業や商業が盛んになると農業が衰えるということは、歴史上の各時代を見ても大体そのとおりで、これもまた明らかな事実であるということです。

徂徠は、結論として、国民の住処を把握し、それぞれに合った制度を立てることで、世界の流通が活発に動いて経済が正しく直り、豊かさがもたらされると説きました。
そして、天下を治める道とは、民が安心して生活できること(経世済民)であり、そのためには儀礼・音楽・刑罰・政治などの制度(礼楽刑政)を用いて、人民の意見や才能を育み、発揮させることが肝要であるとしたのです。
さらに、六経に記された礼楽刑政を知るためには、古文辞(古語)を学ばねばならない(古文辞学)と唱えた人物でした。

>戸籍制度と言うものは権力者が年貢を間違いなく搾取する目的で作ったもの、それを国家運営の指標として取り入れるように提案しているのは、世界に先駆けていると思う。

※ ただし現代人は、戸籍によってプライバシーが侵害されるなど、これを否定する向きもある。
何でもかんでも自分中心で考える、現代人の我儘である。

(終わり)


西欧文明の流入と共に ※印で書いた様な要素が加わり、現代社会へと移り変わって行く。
メンテ
戦国時代 ( No.220 )
日時: 2018/02/13 14:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:c14jX/pY

室町時代から先に江戸時代の考証の一部へ飛んでしまいましたが、それめでの戦国時代の意義は大きなものがあります。
飛鳥・平安時代の貴族中心の社会に変り、鎌倉時代に始まった庶民の力が広まってきている事を示しています。

とりあえずはウィキペディアによって概観することにします。

日本の戦国時代は、日本の歴史において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、様々な経歴の戦国大名が登場する。

(経済と社会)

戦国時代は小氷期の到来と一致しており、一部識者はこの寒冷化による農作物の減少が戦国時代の原因という説を発表している[10][11]。東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕府体制の崩壊の一因となった。そして自国の領民を救うには他国の富・食糧を奪う必要が生じてそれが戦乱を生んだという見方もある。

戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。戦国時代初期には勘合貿易および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や南蛮貿易によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された石見銀山に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。この頃、金銀の品位改善のための灰吹法や砂鉄による鑪生産などといった新技術も導入された。金山・銀山の保持が主目的の城砦も築かれ、金山・銀山といった権益が絡む戦国大名同士の争いが繰り広げられることもあった。

1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し楽市・楽座により自由な市場取引を推奨した。その後の豊臣政権においても直轄地および全国の大名領において楽市・楽座が推進された。 市場取引の活発化にも伴い、これまでの領国貨幣から、統一貨幣の発行も秀吉により行われた。

その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制・職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子・作徳分が成立するようになる。戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城・大和の茶や紀伊の蜜柑などが知られるようになった。また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。

商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った堺や博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。堺の繁栄は特に顕著で、会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体に濠を巡らし、牢人を傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。他の都市としては、京都や、地方では山口・小浜・品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。

戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器や甲冑の需要を増し、刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。茶屋四郎次郎のように、いわば“死の商人”として戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。

(文化)

戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする桃山文化の発露への布石となる。

特に、千利休による茶の湯の大成は、禅の思想に基づく“わび・さび”の美意識と、豊臣秀吉の発案との言い伝えを持ち、美醜について大きく意見の分かれる“金の茶室”という極限的な豪壮さを一つに内包したものと言え、今も日本文化全体に強く影響している。

戦国時代に活動した画家には雪舟等楊、雪村周継、土佐派の土佐光信、狩野派の狩野元信、長谷川等伯らがいる。また、室町時代から文芸や画を嗜む武将が現れると、現在においても作品の美術的価値が評価される武家の人物には、『鷹図』(土岐の鷹)の土岐頼芸や、『武田信虎像』・『大井夫人像』で両親の肖像を残した武田信廉らがいる。

文化の担い手としての天皇や公家は、この戦乱の時代には、文化の相伝に存在意義を見出すことを強いられ、自らも見出していた。東常縁や細川幽斎(藤孝)といった文化人の武家をも巻き込んで有職故実や古今伝授という文化の相伝を続けた。彼らは戦乱を避けて地方に疎開することもあった。土佐の南画などはそのようにして伝わった。

武家は名家のみならず、新興の勢力も文化振興に寄与している。これは、文化を取り込んで箔付けするという面が強いが、動乱の時代に文化によって心を休めるという、安らぎを求める思いのあらわれとしても捉えることができる。周防の大名・大内義隆が京の貴族を多数招いて山口を京化することに尽力したのはその例である。

(宗教)

宗教については、日蓮宗や浄土真宗といった厭世気分と免罪への求心から発しその後救世への渇望と強い結束を見せた宗派の布教が成功している。その一方、伝来したキリスト教も広がりを見せていく。

日本は飛鳥時代の仏教伝来より、神仏習合に基づいた神や仏への信仰が篤かったが、戦国時代には、さらに天道思想が戦国武将に広がり、「天運」を司るものと認識され、仏教・儒教と神道が結合した、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を形成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透されるようになった。

(引用終わり)

戦国時代と言われる群雄割拠の時代が到来したのは、ある意味、大衆が力を得て、その力を糾合する事によって中央に対する地方の権力を創る事ができたと言う事になります。

上の説明の中にも地方経済が発達し貨幣の流通も盛んになった様子が話されています。
鎌倉時代以降、徐々に民衆が力をつけてきたことの証明であり、その気概を大和魂の発露としたく思います。

メンテ
大和魂 ( No.221 )
日時: 2018/02/23 23:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kmUQmrcA

世界中で人間の社会と言うものは、古代の集落から始まり、やがて地域の有力者が領地を構成するようになる。
その有力者同士も、強いものに統合され国家と言う形が出来あがる。
国家と言う形になれば、統治する者と、統治されるもの、要するに民との関係がシステム化され、社会規範、ルールが確立されていく。
その形は王国と言え、古代エイジプト王国など歴史的な王国である。

王国が続くと貴族も増え、やがて貴族社会となっていく。
日本で言えば平安時代がそれにあたる。
また、王国から貴族社会が出来ると言うことは、国全体が安定し、統治者、民の関係が明白に意識されることにもなる。

統治者の方は、相変わらず自分たちの栄華の為に民から搾取する事だけを考えているが、徐々に力を付け、余裕が出来た民の方は、民自身の生活に夢、希望を募らせ、可能性を貪欲に追求し始める。

古代王国などでは見られなかった民の活力が出てくる。
それが文化、技術発達を促し、社会は民が中心でることに気が付く。

政治的には封建主義が続くが、統治者側も民の能力、活力を無視して統治する事も出来なくなった。
民主主義時代までは、まだまだであるが、社会の大勢は民の活動に移り、統治者は統治の意味での主役に過ぎなくなって行った。

文化芸術の面においても貴族文化から大衆文化が主流になってきた。
平安末期、武士の中から統治者にとって代わろうとする動きがあるが、此れも既成の統治者に変ろうとする民の力の現れである。
鎌倉時代の到来は、このような意味で、産業、文化、宗教の面で、新しい勢力が台頭した時代である。

王国時代の統治者にとって、民は服従させるべきものに過ぎなかったが、鎌倉時代にもなると、民の動向を正しく捉えなければ国家の統治も出来ないようになってきた。
現代の意味での国民の誕生である。

江戸時代に入って、強力な中央集権国家になるまでは、国家としての何の束縛も感じず自由奔放に活動していた時代である。
中央集権国家になると、産業、文化、芸術、宗教の面でも統治者側の束縛を受けるようになる。
また、中央集権を確立したと言う事は、民をコントロール出来る力を、統治者側も手にしたと言う事である。

さて、鎌倉時代に始まり室町・戦国時代を経て江戸時代までの400年間は日本の民が民としての束縛もなく、自由奔放に活動した時代であった。
この間に、天候不順の飢饉もあり、国取り争いの戦乱も絶えず、環境は厳しいものであったが、民はその中でたくましく活動を続けていた。
戦国大名も、そういう強い民の集団を率いてこそ覇権に臨めるのであった。

この間、建築、絵画、歌舞、工芸などあらゆる分野で現代日本につながるものを作っていった。
倭寇など感心する事ではないが、海外雄飛にも積極的であった。
商業も発達し戦国末期では堺などの商人の助けなくしては大名が覇権を取ることも難しいくらいであった。

私は、この時代の日本の姿を、仏教、儒教の影響を受けず、統治者の規制も受けず生きることが出来た日本人の日本人らしい面と定義付けたい。
政治的には混沌の時代であったが、民の台頭と言う意味では、この400年間に勝るものはないと思う。

標題の「大和魂」と言うのは、ここに存在すると思う。
アメリカの開拓者精神、イギリスのジョンブル魂なども、当時生活していた者にとっては、その様な気持ちなど意識してはいなかったであろう。

だが、あの時は、お互いに、こうしたことに懸命であったと言う認識が「何とか魂」ではなかろうか。
「大和魂」も、そうしたことで、戦乱の400年を生き抜いた我々の祖先の生き様のことと思えば良いでしょう。

ですが、実際に鎌倉時代から江戸時代までの人々の生き様を具体的に述べよと言われても、スラスラと言えるものではありません。
歴史的な事実も一々覚えているものではありません。

とりあえずは鎌倉時代から江戸時代への変遷は、結構複雑で多様なものであったと認識していただく事です。

日蓮の布教の様子とか
一向一揆が何故起きたとか
斉藤道三の国取り物語とか
出雲の阿国の話しとか
正宗の名刀
茶の湯の発想も、当時の権力とは相い入れぬものがあった。

多くの分野で新しいもの生み出す情熱物語が多くあります。
「大和魂」について、さらに検証してみようと思います。
メンテ
鎌倉〜戦国時代(農業) ( No.222 )
日時: 2018/02/24 23:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WrvB6U.6

ここで鎌倉時代から戦国末期までの社会の様相、特に民と言う面から見てみましょう。

<農業>

奈良時代初期は、律令に基づいて中央政府による土地・民衆支配が実施されていたが、新しい農地の開墾が行われ、その土地は開墾した土地の所有者、主に豪族、貴族の私有を認めた。

民(農民)の多くは、その荘園に組み込まれ、領主の私有市民のように扱われていた。
開墾(荘園)が進むにつれて、まばらに住んでいた農民も自衛の為もあり集まって生活する様になってきた。

鎌倉時代の民衆といえば、ほとんどが荘園の中に住む農民でした。
荘園の中で、地頭やその他の武士は、多くの農民を支配し
年貢を取立てたり、いろいろな雑用をやらせたりしました。

荘園の農民の内、自分の土地を持つ地主を名主と呼びました。
彼らは農民ではありますが、戦のときは武器をとってこれらの武士に従いました。

名主たちは、自分で持っている田の一部は、自分で耕しましたが
残りは小作地として他の農民たちに耕させ、
それから地代(土地を借りたために地主に払う代金)を取立てました。

農民たちは、採れた米の三割から四割を年貢として
荘園の支配者である武士に差し出しました。

多いときには五割または、それ以上の年貢を出しました。
年貢の他に武士の屋敷な作ったり、橋をかけたり、荷物を運んだり
ただ働きの仕事も、しなければなりませんでした。

税として、米の他にも、畑からは麦・粟・大豆などを
産物として、漆・カキ・炭・薪・織物などを納めました。

重い年貢や、数々の労働は、みな小作人たちにかかってきました。

このような農民の暮らしは、たいへん苦しく
その住まいは、多くが一間きりの土間であったようで
そこに、むしろでも敷いて暮らしていたものと思われます。

農業技術は、平安時代の終わり頃から、非常に進んできました。
田や畑を耕作するのに、牛や馬などの家畜な使ったり、
くわやすきを使ったりすることは、ずっと前から行われていましたが
鎌倉時代には、農具がたんだん鋭いものになってきました。

また、今まで貴族・大社寺や豪族が、ほとんど独り占めにしていた農具や牛馬が
次第に豊かな農民たちにまで行き渡るようになってきました。

二毛作が行われるようになったことは、日本の農業史の上で大きな出来事ですが
これは、鎌倉時代に始まったと言われています。

まだ、耕されていない土地もたくさんありましたが、
農業技術が進むに連れて、開墾も次第に行われてきました。

関東平野も、幕府の指図で、その多くが開墾され田畑が増えました。
延暦寺の僧で、山の上から近江(滋賀県) の琵琶湖を眺めて
この広い湖を開拓して田をつくり、米の増産を計ったらよい、
と述べたものがいたと伝えられています。

生産力の向上は、農民にも領主にも、新規の意欲を生むことになった。

また、新規の武士階級の有力者は、荘園と言った土地所有の制度には納まらず自らの土地を増やし(領地)従来の土地所有の状況が変っていった。
その上に有力武士は戦国大名として覇権をめざし、軍役などで民を使うにも組織化していった。
随分と長く続いた我が国の土地の所有形態(荘園制度)は崩れて行くことになる。

同時に農民(民)も新しい感覚で民として生きる事にもなる。
統治者(大名・武士階級)と民との住み分けが始まったと言うか、民が社会の中で市民権を持ったとも言える。

農民(民)のこのような意識の変遷は、農業に留まらず他の分野でも興り、民衆の力となって社会を動かすようになってきたのである。

続く室町時代は、農業がさらに発展すると共に、商業の面でも新しいシステムを考え、飛躍的に発展する事になる。

メンテ
鎌倉時代〜戦国時代(商業) ( No.223 )
日時: 2018/02/24 23:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WrvB6U.6

鎌倉時代になると産業の発達と共に貨幣経済が浸透していった。

年貢なども米ではなく貨幣で納めるものも出てきた。
貨幣経済の発達は、農産物を始豊富になった商品を流通させることに関連して発達したものであり。
海路、陸路も整備されて商業の範囲も全国を視野としたものとなり、力を持った商人が出現することになる。

遠隔地への金銭の輸送を手形で行う事も、商品を直接交換するのではなく中間に問屋の機能を持った商人も出てきた。

また大きな貨幣が動く事に伴い、高利貸しなども出てきた。
さらに交通(流通)の要所では定期市が立てられ、

平安時代から商業に関する座と言う組織があり、座を通して貴族との商売をし、座を取り仕切る商人には権力があったが、戦国時代の末期には織田信長が、楽市、楽座と言う名称で、一部の特権商人を排斥することによって商業がより自由に展開できるようにした。

我が国の近代化は、商業の面で鎌倉時代から始まったとも言える。
戦国大名は、この状況を良く把握しており、大名の権力を増すためにも、商業に関与し多くの富を求めるにいたる。

室町時代になると社会には武士階級(統治者)とは別に、権力を持った階級(民衆)が現れた事になる。
力を得た大商人は、国内のみならず積極的に海外貿易にも乗り出し、大名もそれに目を付け、大商人を連携して勢力拡大を計るようになる。
豊臣秀吉などは、その筆頭であるが、秀吉に関わらず薩摩、伊達、越後の戦国大名も海外との交易を重視していた。

戦国末期には次の様な大商人が登場し政治的覇権者を肩を並べる存在になっていた。

【淀屋常安】

 大坂の豪商。豊臣秀吉が舌を巻いたと言われるほどの知恵者である。天下統一後の流通機構の変動に乗じ、天下の台所と言われた大阪市場をいち早く制して成功を収めた。豊臣秀吉に仕えるが、大坂の陣に際しては徳川家康に付く。その功績により大坂での米市場の創設と独占を認められ、淀屋橋に米の取引所を開設して諸大名の蔵米を一手に扱った。水運の良さと、蔵屋敷が近いこともあり、それまで個々の商人と売買をしていた諸大名は、挙って米市場へ米を持ち込むようになり、やがて米相場が立つようになった。
 米相場では両替業も必要とされ、淀屋常安は両替商としても成功を収めた。また、大坂市場の海産物管理権も手に入れ、莫大な運上金を得ることとなった。その資産は「百万石の大名を凌ぐ」と言われ、「土蔵七三〇箇所、船舶二五〇艘、諸大名貸付金一億両、公家貸付金八○○○貫目、家屋敷五四二軒、その他、田畑、刀剣、茶器、宝飾など一億二一八六万余両」の財があったとされる。「どんなものでも、手繰り寄せれば商売になる」が口癖であり、伏見城の工事、淀川堤の土手工事など、数々の逸話が残っている。中之島の開発など、淀屋常安の事業は大坂発展の基礎となった。

【茶屋四郎次郎】

 代々、茶屋四郎次郎を名乗っているが、二代目清延は徳川家康に従って多くの戦闘に参加し、その信任も厚かった。本能寺の変を家康に伝えたのも、清延である。四代目清次は朱印船貿易に従事するとともに、糸割符制度の創設など、幕府の経済顧問としても活躍した。また、大坂の陣の際に和睦交渉を行ったのも、清次である。


【鴻池新六幸元】

 尼子家再興に尽力した戦国武将、山中鹿之助の子と言われる。清酒の醸造方を開発。それをきっかけに、運送業や廻船問屋に進出し、巨富を得た。「十人両替商」「大名貸し」で知られた鴻池の基礎を作った人物である。



鎌倉時代から戦国時代にかけて、政治の面では覇権争いに明け暮れていただけの様であるが、社会的には商業の発達を通して生活基盤、システムが著しく整備向上した時代であった。

商業の発達と共に、工芸品等への需要も喚起され、産業全体が伸びて行った良い時代であった。

正規の商業の発達以外に、倭寇などは海外で略奪を始めたのもこの時代の事である。


メンテ
鎌倉〜戦国時代 <外交・貿易> ( No.224 )
日時: 2018/02/27 10:53
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WhScYkco

商業の事を書いたので次には交易についてみてみましょう。

以下は、 「なぜ」と「流れ」をつかむ日本史より転載します。
https://ameblo.jp/karinatatsuo/themeentrylist-10003263589.html
ここは、多方面の日本の歴史を流れから捉えて記述されていて、解りやすいです。

< 日元貿易 >
平安時代末期に平清盛が船日宋貿易をしたというお話はしました。それじゃあかお鎌倉時代にまったく中国との関係がなかったかはてなマークというとそうじゃなくて、私貿易なども続いていたし、決して関係がなかったわけじゃないんです。かお鎌倉時代といえば「元寇」のインパクトが強くて、「元は日本と仲がワルイ。だから交流なんかするはずない」と思ってるかもしれませんが、実はちょっとした交流船もあったんですね。

 文化史のお話になりますが、北条時頼が招いた蘭溪道隆(ランケイドウリュウ)がビル建長寺(ケンチョウジ)を建立(コンリュウ)します。でもお寺を建てるのってもちろんお金¥が必要ですよね。ですから建長寺を建てるための費用¥を調達するために、鎌倉幕府は1325年、元に建長寺船船を派遣します。

 時代が変わりますが、足利尊氏(タカウジ)は建武の新政に不満を持ち、後醍醐天皇(ゴダイゴ)を政権から引きずり落としましたよね。その後、後醍醐天皇は亡くなってショック!しまうわけですが、元々仕えていたこともあったんでしょう、尊氏は後醍醐天皇のご冥福をお祈りして、夢窓疎石(ムソウソセキ)のすすめで天竜寺(テンリュウジ)を建立しようとします。やはりお寺を建立するとなるとお金¥がかかるわけです。ですから、その天竜寺の造営費用¥を調達するために天竜寺船船を元に派遣するんです。

< 室町時代 >

 日本で室町幕府が成立したころ、中国や朝鮮でも権力パンチ!交代がおこっていました。

 まず中国では、漢民族の朱元璋(シュゲンショウ)という人が1368年に元を滅ぼ爆弾し、明DASH!を建国して、洪武帝(コウブテイ)として国を支配します。その当時明は、私的な海外渡航や貿易を禁止する本海禁政策(カイキンセイサク)を推進して、中国を中心とした国際秩序つまり、ひらめき電球中国を親分とした「親分子分の関係」を回復しようとしていました。

 一方朝鮮では、海賊を撃退して名声をあげた武将、李成桂(リセイケイ)が高麗(コウライ)を爆弾倒して、1392年に李氏朝鮮DASH!(リシチョウセン)を建国します。

 さて、このような中国・朝鮮国内での権力パンチ!交代が行われる時には、もちろん争いメラメラが起きますよね。つまりとても政治は乱れた状態メラメラだったんです。その政治の乱れを利用して出てきたのがプンプン倭寇(ワコウ)という、『パイカリ』にも出てくる海賊たちです。室町時代初期の倭寇のことをプンプン前期倭寇といいます。

 前期倭寇は、富士山対馬(ツシマ)・壱岐(イキ)・肥前松浦(ヒゼンマツラ)地方の住民を中心とした海賊プンプンで、この三つの場所をアジトにして、朝鮮半島や中国沿岸を襲っていました。彼ら海賊たちが乗っていた船を船「ばはん船」と呼びます。この当時、高麗や明は「倭寇をおさえなさいビックリマーク」と要求するんですが、日本では南北朝のメラメラ動乱中。とてもそんなことはできはしませんでした。

 その後、再度明は倭寇を退治するよう日本に求めてきます。「あの邪魔な倭寇を退治したら、日本と貿易してあげるビックリマーク」といってきもしたんですね。

 あんまり財政基盤がないショック!室町幕府は貿易の利益を求めて、3代将軍足利義満(ヨシミツ)の時に倭寇を取り締まります。そして、ひらめき電球僧侶の祖阿(ソア)を正使として、ひらめき電球博多の商人肥富(コイツミ)を副使として派遣し、1401年に明との国交を樹立します。

 そして1404年に、日明貿易を開始します。この貿易では将棋勘合(カンゴウ)といって、明は将棋「日字(ニチジ)勘合」を、日本は将棋「本字(ホンジ)勘合」を持参して貿易をしたので、勘合貿易ともいいます。なぜそんなものが必要だったかというと、今まで正式な貿易は倭寇などに邪魔されてきたし、日明貿易は私貿易との差が大きいですね。だから、やってきた船に勘合将棋を持たせることで、倭寇・私貿易と区別をするためだったんです。

<  日朝貿易  >

 さて、朝鮮に移りましょう。日本と朝鮮との貿易は、対馬の宗氏(ソウシ)が統制し、将棋通信符を用いた貿易でした。

 また倭館と呼ばれる貿易のための施設は、三浦船と首都ビルの漢城(カンジョウ):現在のソウルにありました。ちょうど、日本と明の貿易が始まったころに、朝鮮との貿易も始まったわけです。

貿易品

 輸出品・・・鉱産物(硫黄・銅宝石白)、工芸品、クローバー蘇木(ソボク)という染料、クローバー香木(コウボク)という香料 蘇木・香木は琉球貿易で手に入れた品物でした。

 輸入品・・・木綿・大蔵経本(オオクラキョウ、一切経ともいう)・朝鮮人参
木綿の国内生産は、室町時代から始まります。

<  応仁の乱後  >

 その後、以前お話したように、応仁の乱をきっかけに室町幕府の支配力が弱くなります。そうなると、ひらめき電球勘合貿易の実権も幕府から、有力な守護大名へと移っていくわけです。その中で、周防(スオウ)の国の大内氏と、三管領のひとつ細川氏が実権を握ります。大内氏ってなんでしたかはてなマーク そう、室町時代前期に応永の乱で勢力を削減された守護大名でしたが、その後明徳の乱で力パンチ!を回復し、このころには有力守護大名の一角にその名を連ねていました。また、細川氏は将軍の補佐をする管領としての力パンチ!を持っていました。応仁の乱も、山名氏と細川氏との争いがきっかけでしたね。

 大内氏は博多商人と、細川氏は堺商人と手を組んで、貿易を行っていきます。

 16世紀の1523年になると、メラメラ寧波の乱(ニンポーノラン)がおこります。これは、中国の寧波というところで、大内氏と細川氏が貿易の実権をめぐっておこした抗争メラメラでした。その結果大内氏が勝利グッド!し、大内氏が勘合貿易を独占することになりました。
 このように、16世紀半ばには、中国や朝鮮との正式な貿易は衰退ダウンしていくわけです。それに伴い、倭寇とよばれるプンプン海賊たちが再び活動を再開します。これをプンプン後期倭寇といいますが、ひらめき電球実際は中国人や朝鮮人の密貿易者が中心となっていました。

<堺商人>

中世、ことに室町時代から近世にかけて堺(大阪府堺市)を中心に活動した商人。摂津(せっつ)と和泉(いずみ)の国境に発達した堺周辺の漁業集落は、彼らの信仰する開口(あくち)神社が住吉(すみよし)社の別宮であったところから、古くより住吉社と深い関係を有し、魚貝類の販売に従事していた。これら魚商人には、南北朝内乱期に南朝方に通じている疑いがあるとして北朝方より売買を一時停止させられたこともあった。同じ南北朝期に堺北庄(きたしょう)住人のなかには荏胡麻(えごま)売買に従事していた者がおり、大山崎油座神人(じにん)の訴えにより商売を停止させられている。
 また、鎌倉初期より堺津を拠点として廻船(かいせん)で諸国に赴いて鉄製品その他の交易を行った蔵人所供御人(くろうどどころくごにん)の鋳物師(いもじ)がいた。港町としての堺の本格的な発展は、応仁(おうにん)の乱(1467〜77)後、兵庫港にかわって遣明船(けんみんせん)が発着するようになってからである。代表的な貿易商人に湯川宣阿(せんあ)、池永宗巴(そうは)、小島三郎左衛門(さぶろうざえもん)などがいた。またこの時期、東寺領備中(びっちゅう)新見庄(にいみのしょう)や越後(えちご)赤谷の年貢の為替(かわせ)を堺商人が扱っており、野遠屋(のとおや)、天王寺屋などの堺商人が低利の大徳寺祠堂銭(しどうせん)を借りて商業活動を行っている。
 戦国期になると会合衆(えごうしゅう)あるいは納屋衆(なやしゅう)(納屋貸(がし)衆)とよばれる門閥支配を行う有力商人たちによって都市自治が推し進められた。こうした富商は海岸に納屋(倉庫)をもって商品の保管などにあたったところから納屋衆とよばれた。これら納屋衆には鉄砲の売り込みや南方との交易により莫大(ばくだい)な利益を得る者がいた。今井宗久(そうきゅう)や呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)の異名をとった納屋助左衛門などが著名であり、小西隆佐(りゅうさ)・行長(ゆきなが)父子のように豊臣(とよとみ)秀吉によって大名にとりたてられたものもあった。そのほか、茶の湯の発達に貢献した武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休(せんのりきゅう)、津田宗及(そうきゅう)、音曲隆達節(りゅうたつぶし)で一世を風靡(ふうび)した高三(たかさぶ)隆達など安土(あづち)桃山期の文化面で活躍した人物もいた。[小林保夫]

<博多商人>

中世・近世において筑前(ちくぜん)博多(福岡市)の町を根拠に活躍した商人。室町時代、明(みん)との勘合貿易や日朝貿易の中継貿易港として博多は重要な地位を占めていた。足利義満(あしかがよしみつ)が明に国書を送ったとき派遣された「肥富(こいずみ)」をはじめ、博多商人は応永(おうえい)(1394〜1428)ころから盛んに明・朝鮮と取引し、将軍や九州大名の使者となって渡航した者もある。豪商「宗金(そうきん)」の一家や、同じく貿易商人でかつ石見(いわみ)銀山の開発・経営にも関係した神谷(かみや)(屋)氏などはその代表である。貿易都市としての繁栄を背景に博多商人は自治的団結を固め、室町末期には12人の行司(ぎょうじ)で市政を運営したこともあった。安土(あづち)桃山時代から江戸時代にかけて、封建制の確立にしたがって博多の自治もしだいに制限され、1587年(天正15)の豊臣(とよとみ)秀吉の博多復興や、その後の黒田氏の入部によって封建領主による城下町化が進み、博多商人も城下町商人の性格を強めたが、なお中世以来の伝統で朱印船貿易や長崎貿易に関係する者もあり、寛永(かんえい)年間(1624〜44)には糸割符(いとわっぷ)仲間に参加した。このころの豪商としては前記神谷氏のほか、大賀氏、島井氏らがあり、彼らも貿易に参加しつつ、領主黒田氏の御用商人として各種の特権を保持した。[村井益男]

(引用終わり)

その他に、山田長政、天正遣欧少年使節、慶長遣欧使節など、積極的に海外を目指す気風は、その後の江戸時代の鎖国政策とは別に日本人の心の中の積極性を見る事ができる。

山田 長政(天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。

天正遣欧少年使節は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。

慶長遣欧使節とは、慶長18年(1613年)に仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王・フェリペ3世、およびローマ教皇・パウロ5世のもとに派遣した使節である。
メンテ
鎌倉時代〜戦国時代(文化・芸術) ( No.225 )
日時: 2018/03/03 14:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pAlkcSzM

今までの記事と重複する所もありますが、鎌倉時代から戦国末期までの文化・芸術の推移を項目的に現しておきます。
現代日本につながる多くの文化・芸術は鎌倉時代に興り、室町文化として完成されていきます。


>鎌倉時代の文化・芸術

(文学)

新古今和歌集
私家集
金槐和歌集
山家集
随筆
徒然草
方丈記
日記・紀行文学
玉葉
海道記、東関紀行
十六夜日記
軍記物語
平家物語
保元物語
平治物語
源平盛衰記
説話集
宇治拾遺物語
十訓抄
古今著聞集
仏教説話集
沙石集
宝物集
発心集
歴史書
今鏡
水鏡
愚管抄
吾妻鏡
元亨釈書
百練抄

(仏教の革新運動)

12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教を変革する運動として鎌倉新仏教の宗派が興隆すると、南都仏教(旧仏教)の革新運動がすすんだ。大きな特徴は、平安時代までの鎮護国家から離れた大衆の救済への志向であり、国家から自立した活動が行われた。

これは保元の乱、平治の乱から治承・寿永の乱と続く戦乱の時代により厭世観(末法思想)が強まり、魂の救済が求められるようになったためである。また、仏教の一般大衆化も推進された。

平安時代を通じて鎮護国家を担う山門(比叡山延暦寺)勢力は教義の教えや体系的な学問に励む一方、加持祈祷や僧兵の武力を通じて、政治権力を持つようになった。その一方で、円仁が比叡山に伝えた念仏三昧法から源信の天台浄土教、良忍の融通念仏宗など浄土教の興隆があった。また、天台宗はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を取っていた。鎌倉新仏教の開祖たち(一遍を除く)は比叡山に学んでおり、比叡山は一切衆生の救済を説く鎌倉新仏教を生む母胎であった。

浄土信仰
浄土宗(法然)
浄土真宗(別名:一向宗)(親鸞)
時宗(一遍)
禅宗
臨済宗(栄西)
曹洞宗(道元)
法華経
日蓮宗(日蓮)
南都仏教復興運動
法相宗(貞慶)
華厳宗(明恵)
律宗(俊&#33471;、叡尊、忍性)
新仏教の台頭に対抗後、旧仏教の側は念仏批判をすると、戒律を重んじて、腐敗している旧仏教内部の革新を進めた。また、一切衆生の救済を強く志向すると、ハンセン病救済事業や、非人救済、橋の架橋を行うなど社会事業を熱心に進めた。

渡日した禅僧

蘭渓道隆
無学祖元
一山一寧
元の侵攻による南宋の圧迫と滅亡から、禅宗の知識人が日本に渡ってくることがあった。いずれも幕府の指導者に影響を与えた。

反本地垂迹説

元寇の勝利によって民族的自覚が強まり、日本は神国であるという「神国思想」が生まれた。神本仏従の習合思想が成立した。

伊勢神道
度会家行

(彫刻)

運慶
快慶
康弁

(建築)

大仏様 - 東大寺南大門
禅宗様 - 円覚寺舎利殿
和様 - 蓮華王院本堂(三十三間堂)
折衷様 - 観心寺金堂

(絵画)

縁起絵
融通念仏縁起絵巻
春日権現験記
北野天神縁起絵巻
石山寺縁起絵巻

(伝記絵)

法然上人絵伝
一遍上人絵伝
合戦絵/物語絵
平治物語絵巻
蒙古襲来絵詞
男衾三郎絵巻

(似絵)

神護寺三像(伝源頼朝像など)
後鳥羽上皇像
公家列影図
頂相
聖一国師像

(書道)

青蓮院流

(刀剣)

粟田口吉光
正宗
長船長光

(武具)

明珍一派

(陶器)

六古窯
瀬戸窯(古瀬戸様式)
常滑窯
信楽窯
越前窯
丹波窯
備前窯
渥美・湖西窯
山茶碗


>室町時代の文化・芸術

北山文化・東山文化

室町時代は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化・東山文化と呼ばれることがある。南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。応仁の乱での京都の荒廃を機に地方伝播し、惣村や都市の発達により成長していた庶民にも文化が浸透していった。

室町時代後期、戦国時代になると城郭建築が発展する。初期のものは戦争のための軍事施設としての用途が主目的であったが、領国が広がるにつれ豪壮華麗になっていく。鎌倉時代には寺社のみで使用されていた瓦が城郭に使われるようになり、やがて町屋にも広がることとなった。同時に茶の湯・能楽・書院造など今日、文化の原型と考えられているものがこの時代に確立された。

(建築・庭園)

建築では、義満が北山に建造した鹿苑寺金閣は寝殿造と禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。義政の建てた慈照寺銀閣は禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、楼閣建築もこの時代の特徴と言える。また慈照寺内の東求堂同仁斎は四畳半の座敷で、初期書院造といわれ、今日の和風建築の原型になっている。このほか、商工業の発展に伴い、洛中洛外図屏風などには庶民の邸宅にも2階建ての家屋が描かれるなど、富裕層の増加を見ることができる。

(連歌・茶の湯)

上句と下句を連ねていく和歌である連歌は鎌倉時代から発達し、室町時代に最盛を迎える。宗祇や二条良基、宗長や心敬らの連歌師が出現し、大名や公家僧侶が寺社に集まり連歌会が催された。連歌は貴族から一般民衆の間にまで広まった。茶の湯は、南北朝時代に行われていた闘茶や茶寄合が、東山時代に村田珠光により侘び茶が開始され、戦国時代に千利休が完成させる。この茶道の流行は同時に陶磁器の発展を促した。美濃焼や楽焼など、中世六古窯とは別の、新たな窯業を発生させた。

(絵画・彫刻)

絵画では足利将軍家の部下である同朋衆から能阿弥、真阿弥らによる山水画や、東山時代に画僧である明兆・如拙・周文らを経て雪舟が水墨画を完成させる。これには文化の担い手に宮廷や公家だけではなく、武家の台頭や武家との関係が強い禅宗寺院の存在が影響している。

狩野元信は水墨画と大和絵の技法を融合させ、のちに狩野派と呼ばれる。これらは仏絵などの宗教画と異なり、世俗的、あるいは芸術的な側面としての絵画の発生と言える。同時に、庶民階級の富裕化により、風俗屏風図や遊楽図など、風俗画というべき絵画も発生している。また、交易の発展による海外の絵画技術の影響が見られる。

彫刻ではそれまでの仏教彫刻に加えて、能面彫刻が作られるようになる。他方、鎌倉時代と比べると仏像彫刻が衰退した。旧仏教寺院と禅宗による新仏教寺院との思想の変化や、公家と異なり、武家政権では新たな寺社の建立数が減ったなど、複数の要因があると考えられているが、いずれにしてもこの時代の仏像は慶派のような流派ではなく、個人の仏師が手がけた作例のほうが著名であり、全体としては少ない。その一方、城郭や書院の発達に伴い、建築の装飾彫刻は発展期にあたり、後の桃山建築を特色付ける木彫装飾の原型が室町時代後期に発生した。

また漆工にも高蒔絵や肉合研出蒔絵、切金の技法を蒔絵に応用されるなど、伝統的な蒔絵技法のほかに新しい試みが行われた。蒔絵師の幸阿弥道長は土佐光信の下絵を使ったといわれており、絵画との融合も行われている。

また、武士階級の富裕化に伴い、刀剣の装飾などに使われる鍔の彫金など、金工業も独特の発展を遂げた。八代将軍足利義政に使えた後藤祐乗に始まる後藤家など、一般需要の町彫りとは別種の家彫りと呼ばれる流派の発生である。また、武具には七宝を用いた平田派などが知られるほか、冑の明珍派など、新たな一派が多く発生した。

(能楽・狂言)

足利義満の保護を受けた観阿弥・世阿弥元清の親子が鎌倉時代から行われていた猿楽・田楽を能楽として大成させる。世阿弥は「風姿花伝」で芸道論を著す。対話劇である狂言も成立した。

その前に、戦国末期には、出雲の阿国が出て歌舞き踊りをひろめたことも挙げて置かねばならないでしょう。

(民衆文化)

室町時代は惣村の成立や都市の発達により、農民とは別の都市部に住む庶民が文化の担い手になってくる時代でもあった。庶民の間では短編の読み物集である御伽草子が読まれ、狂言や小唄、幸若舞などの庶民芸能が流行する。食文化では、味噌、醤油、豆腐など日本料理の基本要素が出揃った。醤油を除き、中国から伝わっていた要素で、室町時代の商工業発達によって普及した(醤油の普及はやや遅れ、関西では江戸時代初期、江戸では中期)。

(学問と思想)

室町時代の学問の担い手は主に禅僧や公家である。京都の五山を中心に禅僧の間で漢文学や朱子学の研究が行われ、五山文学と呼ばれる。五山は幕府の保護を受け、日明貿易を行う足利義満の外交的顧問役でもあった。無力化した公家は有職故実や和歌、古典の研究を行い、一条兼良や東常縁、三条西実隆などの公家より古典文化が守られた。応仁の乱で京都が荒廃すると、公家や禅僧は地方に移り、学問や文化の地方波及や庶民化が進む。関白一条兼良は越前国朝倉氏のもとへ身を寄せ、子は土佐国中村に土着して土佐一条氏となる。桂庵玄樹は肥後国及び薩摩国に招かれ、現地で朱子学の一派である薩南学派を開くが江戸時代には衰亡した。大内義隆に仕えていた南村梅軒は土佐に招かれて、同じく朱子学の一派の海南学派を開く。

また、この頃関東では、上杉憲実により足利学校が再興される。大内氏や堺、奈良の商人の間でも独自の出版が行われた。

(宗教・思想)

日本仏教では、禅宗は武家層にも広まり、武家の保護を受けた禅の五山が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。都市部では日蓮宗が広まり、京都では日親が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。1536年には日蓮宗は比叡山延暦寺と衝突して天文法華の乱と呼ばれる騒動となる。庶民の間では曹洞宗が広まる。

座禅は平安時代から行われていたが、臨済宗、曹洞宗が広まるにつれて庶民の間にも広がって行った。

浄土真宗には本願寺派や高田派、仏光寺派、三門徒派などの宗派があったが、その中でも、本願寺派の蓮如が再興した本願寺派(一向宗とも呼ばれた)は、講と呼ばれる信徒集団を形成し、浄土真宗の宗派の中で最も有力な宗派となった。

本願寺派の信徒は、自らの宗派を守るために、信仰を基にして一向一揆を結び、団結した。本願寺派は、応仁の乱以降の戦国の騒乱の中では、加賀一向一揆を通じて加賀国を支配し、戦国大名に匹敵する勢力になり、室町幕府や様々な戦国大名と合従連衡を繰り広げた。

織田信長が上洛した際、信長は足利義昭を支持していたが、後に対立した。その際に、本願寺派は義昭を支持して信長に対抗し、石山合戦を繰り広げた。大坂の石山本願寺が落とされて以降は沈静する。

神道では、吉田兼倶が吉田神道を創始する。

1549年にはヨーロッパからキリスト教がフランシスコ・ザビエルなどによってもたらされている。

メンテ
大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.226 )
日時: 2018/03/03 14:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pAlkcSzM

如何でしょうか、鎌倉時代から戦国末期にかけての日本人のバイタリティーはこの様なものであったのです。

一つは平安時代までと異なり全体に豊かになり、強力な統治者がいなかった為に庶民が勢い付いたと言う事です。
現代日本の創世記とも言える時代であったと言えます。

江戸時代に入ると幕藩体制が確立し中央の権力が隅々まで及び、その影響で自由闊達な精神が抑えられてしまったのでしょう。
一方で江戸文化は、それまでに培ってきた数々の文化・芸術の成熟期とも言えるでしょう。

日本の歴史、日本人の歴史を考えるとき、この時代の有り様を無視する事は出来ません。
現代日本で日本人を評価する時、江戸時代に培われて勤勉、従順を論点にしがちですか、それでは本当の日本人の姿を捉えた事にはならないでしょう。
江戸時代以降の日本人の有り様を否定する訳ではありませんが、日本人とは何かを考えるとき、江戸時代を出発点にするべきではないでしょう。

鎌倉時代から戦国末期までのバイタリティーに富んだ日本人の有り様を、日本の心のルーツ(大和魂)としていますが、それには、さらに前提条件があるのです。

世界の民族はそれぞれの地で文化を醸成してきました。
それぞれの地という中に、自然環境もあり、民族間の抗争もあります。
その環境条件の違いで民族性も異なってきます。

我が国は、このスレッドの初めの部分で大きな紙面を割いて、日本人の生きてきた環境と民族性の特徴を書いてきました。
要するに「和」の心が他民族以上に発達してきたのです。

「性格」と「性質」と言うものの違いを書いたことがあります。
「性質」とは、持って生まれた人間性の事であり、
「性格」とは、後天的に、経験から身につく人間性としたいと思います。

人間は「性質」変える事は殆ど出来ないと言っても良いくらい難しいことですが「性格」が悪いなどと言う様に「性格」を非難し糺させることはあります。

鎌倉時代から戦国末期までの日本人の有り様を「性格」とすれば、それ以前の「和」の心に富んだ日本人の有り様を「性質」として、大和魂とは「和」の心に富んだ日本人が作り上げた民族性としたく思います。

しかしながら、此れで「大和魂」の概念を示せたとは思いません。
日本人に大和魂の自覚を促す場合には、同時にそれに沿って行動を求めることも意味するからです。
「大和魂」の概念に含まれるリーダー性には、まだ触れてはいません。

この後は、この事を中心に、江戸時代以降の日本人の民族性と言うものを見てみたいと思います。

メンテ
文明史的検証 ( No.227 )
日時: 2018/05/19 10:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YXzqPS3A

ここで文化と文明と言う言葉に触れてみます。


文化という言葉を辞書で引くと、

それぞれの民族・地域・社会に根付いている人間の生活様式の全体。
主に人類がつちかってきた哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動のこと。

文化という言葉は精神的な部分に重きを置いているので、機械的な発達よりも、学問や学習、人々の交流に関する事柄に用いる場合が多いようです。

英語に当てはめるのであれば

“Culture”


文明という言葉を辞書で引くと、

人知が進み世の中が開けた状態。
精神的・物質的に生活が豊かになった状態。
文采のあること。文化の行われる世。

と出てきます。

しかし現在における「文明」という言葉の概念としては、精神的な発達よりも技術・機械の発達や、社会制度の整備などに対するニュアンスの違いが強く、経済的・物質的文化の表現に用いることが多いようですね。

英語に当てはめると、人間の発達した社会状態を指す

“Civilization”

文明的生活や、機械的・科学的な発達を意味する言葉ですね。

文明と文化の違いとは?

文明という言葉は特定の地域や年代に縛られず、普遍的に使用されています。

対して文化という言葉は特定の地域、年代、歴史を表す際に用いることが多いでしょう。

また、文明という言葉は、

技術

機械

社会制度


などの発達なども含めますが、

文化という言葉はどちらかといえば精神的で、

分野

学問

芸術

宗教

などの発達や交流に使われることが多いです。

https://xn--n8j9do164a.net/archives/2960.html

とあります。

しかし、此れでは本当の概念の違いが判りません。
文明とは、ネソポタミア文明、エジプト文明、黄河文明など、大きな対象を名指しているのに対して、文化は、室町文化、平安文化、又は貴族文化などと言う用法をもち、より局所的、短期間に置ける人間社会の有り様を指しています。

先に紹介した文化と文明を規定した要素は、強いて分けられるものではなく、それらの事柄の展開の有り様の区別ではないかと思います。

別の見方、ウィキペディによると、

文明とは、人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。

(文明の発生)

文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農作物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった寒冷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期はBC5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、BC3200年ごろには楔形文字が発明された。

なぜ人類社会が高度に組織化され文明が発生するようになったのかは明確にはわかっておらず、いくつかの説がある。この中で、乾燥化や地球寒冷化などによって人々がより条件の良い土地に移住して集中するようになり、その人口を支えるために大規模な農耕がおこなわれ、文明が成立したとする説がある。

(文明のゆるやかな成立)

新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。例えば、シュメール文明は最古の文明の一つだが、BC5300年頃のウバイド文明から、ウルク期のBC3200年の文字の発明まで2000年を要している。原始的農業を経て灌漑技術を生み出し、都市を構成し、冶金技術も生まれ、神官階級が文字を生み出し、歴史時代が始まる。
また、アンデス文明は、BC1000年頃文明が発生し、AD1500年頃滅んだが、この文明において文字は存在せず、インダス文明も同様であった。冶金術はメソアメリカ文明ではあまり発達しなかった。

歴史学者、アーノルド・トインビーは、その文明論の中で文明の発祥について次の様に語っている。
文明と言われるものの発祥の前に、その集団の中に先験者と言われる者がでて、周囲の人々が、その先験者をまねる(ミメシス)事によって集団として動き出す。

この時、その集団から文明が生まれる。
そうして、文明の展開について次の様に言っている。

成立した文明社会も、やがて停滞期を迎えたり、外敵要因、自然環境によって衰退する事もある。
マヤ文明が謎の消滅をしたり、メソポヤミア文明が、過去のものとなったりする事を現している。

その過程で、文明は常に文明を衰退させる要因(挑戦)に対して常に文明を維持、発展させる力(応戦)を発揮しているのであり、応戦できなくなった文明は衰退又は滅ぶとシテいる。

先に文化と文明の定義をしたが、文明とは文化を維持する社会の力の様なものとも規定できるのではないか。
当然、成果物としての文化は残っても、力を失った文明は衰退する。

勿論、衰退、興隆と言っても明確な識別ができる訳ではない。
一方、数千年も前に衰退した3大文明に変り、現代社会には文明と言う概念はないのかと言う疑問にぶつかる。


現代社会について文明と言う言葉で説明すれば、西欧文明が世界を席巻していると言う事になる。
他にも上げるならば、それはイスラム文明であるが、残念ながら多神教に基づく東洋文明と言う概念はない。
またついでに説明すると、
マヤ、インカ文明は西欧文明によって消滅させられ、現代は西欧文明とイスラム文明が激しく衝突していると言える。

その西欧文明とは、エジプト、メソポタミア文明につづく古代ギリシャに発するものであり、中世を経て科学技術の発達した現代社会へつながるものである。

さて、その西欧文明とは、

●ギリシャ=ローマ文明と西欧文明の連続性と非連続性

 現在は世界的に近代西洋文明が広がっているので、ヨーロッパが昔から世界の中心であったかのように錯覚しがちである。しかし、今から5百年ほど前には、文明の最も進んだ地域はユーラシア大陸の主要部であるインドやシナ、イスラム地域であった。西欧は長く、こうした諸文明に対し、ユーラシア大陸の西端という辺境に位置する後進的な地域だった。
 西欧文明はギリシャ=ローマ文明の継承者というイメージを持っている人が多い。確かに継承してはいるが、単純に連続しているものではない。両文明には明らかに断絶がある。ローマ帝国は395年に、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。西ローマ帝国は、476年に滅亡した。これによって、西欧におけるギリシャ=ローマ文明は滅んだ。西欧文明は、この文明を生み出した民族とは異なる民族が中心となって、生み出した別の文明なのである。
 ギリシャ=ローマ文明は、環地中海圏を舞台として興亡した。ヨーロッパの南東部を中心とした。これに対し、西欧文明はヨーロッパの内陸部に発生し、南部または地中海地域だけでなく、むしろ北西部や大西洋地域で、独自の発達をした。この二つの文明の間には、連続性と非連続性がある。

 西欧文明の主たる担い手は、ゲルマン民族である。ゲルマン民族は、ローマ帝国の衰退期に、帝国各地に流入した。今のフランスの辺りであるガリア地方では、フランク族のクローヴィスが、481年にフランク王国を建国した。そして、496年には、自らカソリックに改宗した。王が回収した事によって、ゲルマン民族は、徐々にキリスト教化していった。
 8世紀前半になると、宣教師ボニファチウスがドイツに布教した。キリスト教は、ゲルマン民族の固有の信仰を否定した。自然崇拝・祖先崇拝を排除したのである。このことが、西欧文明に自然支配や個人主義という特徴を与えた。
 800年に、シャルルマーニュは、ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受け、カール大帝として西ローマ帝国の理念を復興した。カール大帝は、カソリック世界を統一し、また教育・文化の発展に尽力して、「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化再生運動を起こした。ここにギリシャ=ローマ文明とユダヤ=キリスト教とゲルマン民族の文化という三つの要素が融合し、西欧文明の骨格が出来上がった。

●統合力としてのユダヤ=キリスト教

 西欧文明は、文明を統合するための原理・制度・機構をギリシャ=ローマ文明に学んだ。たとえば、西欧文明は、ローマ法による国家・社会を目指した。その点で、ギリシャ=ローマ文明と西欧文明は、「親文明」と「子文明」の関係にある。親子といっても、主たる担い手となる民族が替わっており、文字通りの世代交代ではない。また、西欧文明が発生したときは、西欧ではギリシャ=ローマ文明は消滅している。そのため、「子文明」である西欧文明は、「親文明」に学びつつも、親の模倣に終わることなく、独自の文化を発達させることができた。
 とはいえ、諸民族・諸部族が一個の文化的統一体として結合するには、統一をもたらすものが必要である。その統合力として働いたのが、キリスト教とラテン語である。「子文明」としての西欧文明は、「親文明」としてのギリシャ=ローマ文明が残した文化的統合の象徴によって、緩やかな統一性を得た。西欧文明は、外来の宗教・言語以外に、固有の統合力を持たなかった。キリスト教とラテン語による統合は、弱い統合であるにもかかわらず、西欧諸社会に文明としてのまとまりをもたらすには十分であった。それにより西欧文明は、約千年にわたり分解することなく持続した。
 西欧文明は、ギリシャ=ローマ文明に対し、その周辺文明として発生したが、ギリシャ=ローマ文明の遺産を継承しつつ、地中海圏の他の主要文明から文化要素を摂取して成長し、主要文明の一つになったといえる。

 私は、西欧文明の三要素のうち、キリスト教が西欧文明の精神的中核となったことが、この文明の根本的な性格を定めたと思う。キリスト教は、ユダヤ教の中から、それへの批判として出現した。そしてユダヤ教から分かれ、異なる宗教として発展した。しかし、キリスト教の元祖はユダヤ教である。どこまで差別化しても、母体がユダヤ教であることは変わらない。
 ゲルマン民族がキリスト教化していく過程は、ギリシャ=ローマ文明を摂取していく過程だったが、キリスト教化を通じて、ユダヤ教の思想文化を間接的に摂取することでもあった。すなわち、ヘブライズムがヨーロッパの内陸部・北西部に伝播する過程でもあったのである。キリスト教を通じて西欧文明に流入したユダヤ教の要素が重要な作用をするようになるのは、貨幣経済が発達し、またプロテスタンティズムが台頭した15〜16世紀以降である。
 私は、キリスト教とユダヤ教の違いを認めつつ、西欧の宗教の基底にはユダヤ教の要素があることを強調する時には、ユダヤ=キリスト教と書くことにしている。ユダヤ教そのものについては、ここでは触れない。別稿で改めて書く予定である。
メンテ
文明史的検証 2 ( No.228 )
日時: 2018/05/19 10:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YXzqPS3A

ここで文明に触れたのは、明治維新によって日本はいきなり西欧文明の影響を受ける事になり、日本らしいものが大きく変換し始めたのを確認するためであります。

当時の社会では概ね諸手を挙げて受け入れていたもの(西欧文明)も、実は次の様な矛盾を含んでおり現代社会では、それが噴き出しているものと思う。
いきなりの結論付けの様であるが、次に紹介する文章は、西欧文明の問題点を浮き彫りにしている。
トインビーが言ったように、文明とは常に挑戦を受け、応戦してこそ発展、展開して行くものであり、その挑戦をきちんと受け止めねばならない。


http://www.alter-magazine.jp/index.php?%E2%80%95%E5%A4%A7%E8%BB%A2%E6%8F%9B%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%87%E6%98%8E%E4%B8%96%E7%95%8C%E2%80%95

1.西欧普遍主義の終焉による転換期時代の開幕
==============================================
 
「今、世界でなにがおこっているのか?」という疑問に対して、大まかに言っ
て二つの答え方がある。一つは、3・11大震災、地球温暖化から9・11事件
後の反テロ戦争、リーマン・ショックに至る天災と人災に世界諸国の政府が対応
に忙しい。しかし、しばらくしたら1990年代のままの世界に戻るだろう。と
いうマス・メディアに出ている答え方。もうひとつは、今、世界歴史の一ページ
が捲られようとしている。そういう大転換期の時代だという答え方である。この
小論は、後者の立場に立つ、あくまでも一つの見かたである。

 岩波文庫にも翻訳の出ているイマヌエル・カントの「恒久平和のために」とい
う世界的名著がある。国連がその提案の主要部分を実行している。近代主権国家
が市民の安全を保障する大構想を示している本書について、その邦訳者を含めて、
カントのユーモアが分からず、本当に永遠の平和が、このカントが描いた国際平
和構想のもとで保証されていると信じている。

 しかし、カントはこの本の冒頭で、「恒久平和のために」というのは、自分が
墓地で見かけた墓碑銘であることを記している。ユーモアをもって、自分の提案
しているのは、当時の西欧を中心にして確立されていた主権国家の協力のもとで
どのように国際平和を実現できるかについての提案であって、「恒久平和のため
に」というような墓碑銘に記すのに良い理想的な「恒久平和」など実現できない
し、そのことについて自分は関心がないことをいっているのである。

 実は、今日起こっている大転換は、このカントが当時の西欧で完成期にはいっ
ていた啓蒙主義の時代に考え出した国際平和の仕組みが、その平和を作り出す力
を出し尽くし、その正統性も次第に風化して、すでに末期的症状を呈している。

そういう時代に適した新しい「恒久平和のため」だけれども、現在の世界の条件
を計算に入れた平和の構想である。カントが想定し、国連が実現した主権国家や
その構成する国際機関つまり国連が中心になって実現される平和は決して「恒久
平和」ではなかったことが、いろいろな兆候から読み取れる時代に入っているの
である。

 カントが念を押したように、近代国際社会の「平和」は恒久ではない。つまり、
今起こっているのは、国家と市民の間に交わされているはずの安全保障契約が効
力を失われかけている状態がはっきり姿を現したということに他ならないのであ
る。
この「契約」では、国家が軍事力と警察力という「正統な暴力」、つまり
「殺人をする権利」を独占する、市民はこの「暴力」の国家による独占を認めて、
国家以外の武力を持つ団体は解体するが、そのかわり国家がその市民の安全のみ
ならず、その人権や福祉も保障するという契約だった。カントはこの契約が恒久
平和のもとになるものではないことを十分承知の上で、これを基盤とする国際平
和の在り方を示したのである。

 今、とくに開発途上諸国では、近代国家の成立とともに自分の軍事力を放棄し
たはずの「非国家」主体が、自分たちがその領域内に住んでいる主権国家が、自
分たちの人権も安全も保障してくれないことに対抗して、宗教単位、エスニック
集団単位などで、それぞれ独自の軍事力をもつようになっている。先進工業諸国
でも、反テロという名目、そして市民の安全を守る名目で、自衛組織が編成され
て、市民と認めていない移住労働者などを監視したり攻撃するなどして、マイノ
リティの不安全状況が拡大している。

 いうまでもなく今日でも、国家や国際機関の役割がなくなったわけではない。
しかし、ウェストファリア体制が16世紀に確立された西欧においても、今日で
は地域統合が進んで、主権国家のかなり多くの権限が、欧州人権裁判所など、欧
州規模の諸機関に移管されている。したがって、純粋なウェストファリア型の主
権国家は、事実上開発途上諸地域にも先進工業諸地域にも存在していない。かな
り乱暴なことをいえば、ウェストファリア型の大国は、日本くらいかもしれない。

 カントの現実主義的な国際秩序モデルが理想像を描き出しているウェストファ
リア体制のほころびは、国連の強化などの対症療法的な手当てでは到底現状回復
ができないところにまで広がっている。その意味で我々はポスト・ウェストファ
リア体制の入り口に立っているということができる。この新しい体制がどんなも
のになるのか、誰れにもわからない。しかし、少なくとも我々世界の市民がどの
ような構想を選び、どのような行動を取るかで、この新秩序の輪郭が描かれるこ
とはたしかで、そのことをわれわれは認識しておく必要がある。

 ウェストファリア体制の終焉は、しかし、上記の国家機能の減衰だけによって
生じているものではない。主権国家の国際政治・軍事秩序における機能変容とと
もに、その背景になっているグローバル市場の国際経済・国際金融的な機能の変
化についても理解する必要がある。いま、世界諸国のなかでも、平等な主権を持
っているはずの中小諸国は、グローバル政治経済の中で、自分たちより大きな経
済力を持つ巨大多国籍企業との経済競争に負け続けている。

 ウェストファリア条約のときに成立して、啓蒙思想が人権の支え手として選ん
だ主権国家は、事実上、巨大多国籍企業の利害関係にうまく取り入ることで、そ
の国際経済競争力を維持する必要が出ている。そこで、近代主権国家が、その領
域内の人々を市民としてその安全と権利、福祉を保障するとされてきたけれども、
西欧近代の主権国家も、その市民の福祉などを配慮するよりも、巨大多国籍企業
との競争・協力に力を入れる必要が出てきているのである。

 グローバル金融競争に歯止めをかけることを市場の自由競争への障害として、
国家による規制の全面撤廃をもとめる新自由主義、いわゆるネオリベのグローバ
ル支配の結果、「福祉国家」という、カント以来、かつては近代国家が目標とす
る理想的な国家など、もはや夢にも描けないようになっている。この傾向は、資
本主義経済が、生産力中心の余剰集中から、投機的な金融商品市場における独占
率拡大競争を競うというような、スーザン・ストレンジが的確に命名している
「賭博場資本主義」に変容してしまったことの結果であるといえよう。

 グローバル経済格差を埋めることが困難な世界経済の不均等成長は、すでに生
産を中心とする1970年代までのケインズ流の国際資本主義のもとで始まって
いたけれども、1980年代以来の新自由主義のもとで、回復が不可能なまでに
定着してしまっているのである。本稿は国際金融危機について論ずることを目的
としておらず、筆者も金融論の研究者ではないため、詳述は避けるが、18世紀
以来科学技術への研究投資による急速な工業化を推進してきた資本主義が今日、
息切れ状態に陥っていて、資本主義生産経済が末期的な症状を呈しはじめている
ことは疑いを入れない現実である。

 1990年代のラテン・アメリカとアジアの開発途上地域の金融危機に始まり。
2000年代には、米国に端を発するリーマン・ショック、最近のギリシャ・シ
ョックでさらに広がっている先進工業地域の金融危機、さらには現在の西欧中心
の財政危機のもとで、雇用の縮小を前提にした経済成長さえもできない。労働市
場の緊縮を前提にした先進工業諸国家の財政投資で金融危機の出現を先に引き延
ばす延命資本主義経済が世界を風靡する時代に入っている。

 国家財政が破産するデフォルトを回避するためには、新自由主義の大原則も完
全に破られている。そして、先進工業大国中心の金融統制と金融機関を中心とす
る大企業へのカンフル注射的な財政支援が金融企業中心の大企業に財政援助を集
中させている。その反作用として、援助を受けた国では、負けだしたら国のデフ
ォルトを引き起こす「勝ち組」大企業の繁栄をよそに、注入されたカネの返済の
ための緊縮財政が「負け組」市民に強制されて、「勝ち組」と「負け組」の格差
が拡大の一途をたどっている。

こうして国家の破産を先に延ばす延命策の結果、開発途上諸国だけでなく、先
進工業諸国でも貧富格差の拡大に対して、米欧諸国でも抗議デモや座り込みが多
発している。要するに、グローバル投機金融のみが拡大して、労働市場が縮小し
ているのである。

 もっとも、新自由主義グローバル経済を回復させるために、先端技術の開発に
活路を求める動きは、地球温暖化を遅らせるグリーン・エコノミーという形を取
って現れてはいる。
しかし、大量消費を前提にする大量生産が今後も続けられる
としても、遺伝子組み換えによる世界の農業をアグリ・ビジネスによって置き換
えようとする米国を中心とする巨大多国籍企業の活発化、原子力発電を維持・強
化しようとする日本財界と政府の動きなど、末期的症状のグローバル資本主義は、
環境を破壊するばかりでなく、世界の大部分のローカル共同体も破壊し、慢性的
な貧困のもとで不安全な生活を送る人々の数を増やすばかりである。

 このように、政治・軍事の面でのウェストファリア体制の崩壊現象と並行して
いる経済・金融の面での資本主義経済世界システムの崩壊現象が進行している。
このような現象は、この論考の最初で記したように、一過性の現象ではない。

 しばらくすれば、世界は1970年代までの右肩上がりの成長経済に支えられ
た国際的な安定と平和を回復するという楽観的な見通しもないわけではないが、
本稿では、そうではないという立場で今全世界で起こっていることの意味を読み
とることにしたい。なぜなら、近代国家の危機と現代グローバル金融の危機は、
16世紀以来、右肩上がりな「進歩」「近代化」に成功していた西欧中心の近代
世界が持続不能になっているしるしでしかない。

続く
メンテ
文明史的検証 3 ( No.229 )
日時: 2018/05/19 10:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YXzqPS3A

 そんなわけで、上に記した国際政治・軍事、世界経済・金融の末期的な症状が、
もっと広くまた奥の深い、西欧近代文明の終焉を意味すると考えるべきである。
このことについては、イマヌエル・ウォーラースティンの2011年2月にダカ
ールで開かれた世界社会フォーラムで行った発言によく現れている。「今日、わ
れわれは一つの時代の終焉を迎えている。過ぎ去ろうとしているこの時代は、い
ろいろな名前で呼ぶことができるけれども、そのひとつとして、西欧中心の普遍
主義の時代と呼ぶことができる」と述べている。

 そこで一つの問題が出てくる。なぜ「西欧中心の普遍主義」の時代の終焉が、
近代国家と世界市場の末期的症状という形をとっているのか、という問題である。
このことを説明するために、我々は「西欧近代」の普遍主義が近代国家と世界市
場との結びつきを前提にしていることについて考える必要がある。まず確認しな
ければならないことは、今日の日本に暮らす我々にとって、我々の生活が、西欧
近代科学技術と西欧近代法によって支えられているということである。

 我々の衣食住には、日本古来のものが沢山ある。しかし、日本古来の衣服にも
化繊製のものもあるし、西欧の技術によって大量生産もされている。日本古来の
食糧の多くは、トラックや、汽車、飛行機によって運ばれ、食卓にのる前に、冷
蔵庫に保存されたり、電気レンジで調理されるものが多い。住環境にしても、団
地のコンクリ家屋だけでなく、日本風に建てられている住宅にも、電気の照明、
ガス・上下水道も、西欧から移転された技術を利用している。

我々の生活のもとになっている生産システム・消費システム・廃棄システム・交
通システム・労働システム。教育システム・医療システム・社会保障システムな
どは、すべて西欧の普遍主義を取り入れた近代国家の基準や統制、官僚指導、法
制度に基づいている。

 その意味で「西欧発信の普遍主義」は、我々の便利な市民生活を支えている。
我々は近代法治国家のもとでの公教育を受け、民主主義的な政策決定と市民とし
ての安全を保障され、世界市場の経済原理と金融原則に基づいている生産と消費
の配分を受けたり、さまざまなサーヴィスの受給関係のなかで生活している。 
 

 日本をはじめ非西欧諸国・諸地域で「近代化」と呼ばれてきたものは、このよ
うに具体的な形で我々が西欧から伝授された科学技術と法律・政治・経済・金融
制度などの受容過程のことである。「近代化」は今、当然のように我々の生活を
支配しており、われわれはそれを有難いと考えないくらい当然の成り行きとなっ
ている。しかし、この「近代化」過程で、西欧発信の普遍的な文明を受け入れた
ことについて、ただ有難いといって感謝することのできない現象も起こっている。

 そして、そのような現象の中に、近代国家が必ずしも我々市民の安全を保障し
ているばかりでなく、脅かしている面もあるとか、世界市場の競争のために得を
するかわりに、貧困生活を強いられるワーキング・プアなどの問題が、特に最近
世界各地で噴出している。そして地球温暖化などの生態系の破壊や、原発事故に
よる被曝の危険性の問題も出てきている。

 これらの諸問題は、「近代化」を否定せず、西欧の普遍主義を承認し、近代国
家の法制度の枠や、世界市場の科学技術に基づく生産を強化することでの解決を
求めることができる。今日のメディアなどは、その方向での、環境問題、国際金
融問題、労働問題などへの対応策を議論している。筆者も、人権関係、生態系関
係の市民活動に参加しているので「西欧中心の普遍主義」にドップリ浸かってい
る日本市民の一人ではある。したがって、西欧中心の普遍主義の時代が過ぎ去ろ
うとしていることに諸手を挙げて歓迎するものではない。

 特に、西欧覇権諸国が、この「普遍主義」を非西欧世界に伝達したことは、人
類史上で西欧文明の貢献であったに違いない。科学技術の移転は人類全体の生活
水準を上げることに役だった。また、「人権」という概念を非西欧世界に伝えた
ことも、非西欧諸文明の中で差別されていた人々にとって、疑いもなく良いこと
であった。しかし、近代西欧文明が、いわゆる「啓蒙主義」の時代に形成した
「普遍主義」は、同じ時代に形成された近代国家を単位とする国際社会や世界市
場中心の資本主義経済と切っても切れない深い関係性を持っていたことを見過ご
しにしてはならない。

 それは、以下の三つの問題がその背後にあるからである。第一には16世紀の
近代化が、それ以前の基軸宗教(3000年前から2000年前にかけて、古代
帝国の専制と古代貨幣経済の出現に対して起こった創唱宗教)によって非道徳と
して信徒に禁止していた「権力慾」と「貪欲」という悪徳を近代文明の中心に据
えたことがあげられる。

 16世紀に起こった近代国家の確立は、政治人 homo politicus というもっぱ
ら権力を追求する「権力慾」の塊という人間類型を前提にしており、近代国家の
勃興と同時に成立した世界市場経済は、「貪欲」を一切の行動の動機とする経済
人 homo economicus という人間類型なしには成立しなかった。

 この二つの人間類型は、それ以前の支配的な人間類型であった、ものを「作る
人」 homo faber と「あそぶ人」 homo ludens を、権力闘争・経済競争の道具
にかえてしまったのが、今日の悲劇の始まりであった。「作る人」は職人として
の誇りを否定されて、労働者として搾取され、「遊ぶ人」は性と暴力を中心とす
るサーヴィス産業の金の卵にされてしまった。

 2011年夏、タイ国のチェンマイで、新自由主義グローバル経済にたいする
仏教とキリスト教との協力について対話がおこなわれた。そこで確認されたこと
は、仏教もキリスト教(正確にはその前身のユダヤ教も、政治的には古代帝国が
成立して、経済的には貨幣が出現した時代に、民衆特に貧しい人々の味方として
生まれている。したがって、過去2000年から4000年前に機軸宗教が生ま
れた時代と同様に、巨大な帝国と無敵の金融とが並存している。

したがって、仏教とキリスト教とは、その信仰上の相違をこえて、権力慾に支え
られたグローバル覇権体制と貪欲な新自由主義に対してともに立ち上がるべきだ
ということが決議された。

 第二に、自然の破壊と収奪が西欧覇権諸国の植民地主義に支えられて進んでき
た。西欧における資本主義の誕生は、英国のエンクロージャ−によって説明する
西欧発信の古典的な歴史解釈によって無視されてきたが、スペインによるラテン・
アメリカからの金や銅などの金属や、香料を始めとする植物の収奪に始まり、イ
ギリスなどによる綿花などのモノカルチャーによって、非西欧諸国民の植民地主
義支配と奴隷制とともに進行した。

 資源面では貧しい西欧が資本主義を発展させてきたのには、このような非西欧
世界の豊かな鉱物圏・生命圏の収奪があった。(同時に非西欧地域の民衆が安価
な労働力、貴重な消費人口となったことも忘れられない。)そのことは、201
0年、名古屋で開かれた生物多様性条約締約国会議でも南の国々によって主張さ
れた。

 第三に、ウォーラースティンが指摘した西欧の「普遍主義」には、人権など非
西欧世界が学ぶべきものが確かにあった。しかし、それと同時に、西欧による非
西欧世界の植民地化が16世紀から今日まで続いている背後には、西欧の歴史的
使命として「普遍主義」の全世界的な普及という思い上がった主張が控えている
ことも今日の問題の根になっている。そして、なによりも大切なことは、外発的
に外から押し付けられた考え方は、たとえ正しく役立つものでも人々に受け入れ
られない。内発性こそが一切の普遍性の大前提だということである。

 キプリングが言っていたとされるように、いわゆる「白人の負い目」として、
植民地主義の正統化となった西欧「普遍主義」の普及は、日本のように、自分が
植民地化されないために周辺諸国を植民地侵略する「対抗植民地主義」の例も合
わせて、近代化の名における侵略は平和に生存する諸国民の安全を脅かす支配で
あった。その大前提は、「進歩」=「開発」の概念とこれを支えた段階説、西欧
を人類歴史の頂点におく発展段階説である。

 これは、オーギュスト・コントの「三状態の法則」アニミズム(正確にはフェ
ティシズム)の未開社会、宗教の支配する中世社会、科学が支配する近代社会に
始まり、マルクスの生産手段の所有を手がかりとする原始共産制社会・奴隷社会・
封建制社会・資本主義社会・社会主義社会・共産主義社会。ロストーの反共産主
義的な停滞的な前近代社会・離陸・近代社会までいろいろな形をとってはいるが、
いずれの場合にも西欧啓蒙主義をもとにする普遍主義的な認識論と価値とをもと
にして非西欧諸社会が、やがては、いちおう普遍主義文明に編入されることを前
提にしている。

 問題は、この西欧社会を頂点とする歴史の進歩。つまり「開発」の神話の過信
性が、今や現実によって否定され始めているということである。問題は非西欧諸
国が反植民地主義の立場の延長線上で、西欧の「普遍主義」の押し付けに反対し
始め、西欧でも、この非西欧世界の問いかけに答えて、西欧と非西欧を包み込む
グローバルな問題提起の嵐が吹き荒れていることであろう。この「普遍主義」の
傲慢さに対する否定の嵐が、一方ではナチズム、ネオナチズム、反米・反西欧テ
ロリズムなどの南の右翼ニヒリズムの形で、他方では北の内部における左翼ポス
ト・モダニズムを中心にして、世界各地域で吹き荒れている。

 そのきっかけは、反テロ戦争。中東の反植民地主義独裁の限界。リーマン・シ
ョック以後の貧富の格差拡大。3・11大震災時の福島第一原発爆発事件などで
あったり、多様ではあるが、結局は「西欧」に端を発した普遍主義を非西欧に押
し付ける植民地主義の最後の形であるグローバル植民地主義、つまり新保守主義・
新自由主義のもとでのグローバル化の「成れの果て」であるという共通項でくく
ることができる。

 ところで、「西欧普遍主義」の限界は、このような社会運動においてだけでは
なく、人権という啓蒙時代以来の西欧普遍主義の最も進んだ法理念・法制度にお
いても現れ始めている。

 人権における西欧普遍主義を超える試みとして、現在国連の人権理事会で進行
中の「平和への権利」の制定過程がとくに注目に値する。この新しい人権は、ア
メリカと西欧そして日本の反対にかかわらず、とくに反植民地主義的なラテン・
アメリカ、アフリカそしてアジアの国々の支持のもとで進んでいる。そこに「西
欧普遍主義」を乗り越える新しいしい突破口になるのではないか、ということで、
かなり立ち入った形で、この「平和への権利」について考えることにする。

(引用終わり)


アーノルド・トインビーに拠れば、日本には日本文明と呼べるものがあったが、明治維新によって、それが中断された(消滅した訳でもない)と言っている。

明治維新で入ってきた西欧文明(文明開化)とは、民主主義と資本主義であった。
個人の自由、権利を保証すると共に人々の欲望追求が解放された。

人々は狂喜してこれに飛びつき社会は急速に発展していった。
その西欧文明が至上のものであれば問題は無かったのであるが、先に挙げたように、西欧文明と言えども人類史の中の一端に過ぎない。
西欧文明が内包していた矛盾が近年になって顕著になり人々は困惑してきているのが現状と思う。

私たち現代人が、社会を憂い、政治を憂いている源流もここにあります。
私が大和魂に拘っているのは、西欧文明における挑戦を乗り切る為の応戦の力として東洋的なものを考えてみたいと思っているからです。

メンテ
司馬遼太郎史観→接ぎ木文化 1 ( No.230 )
日時: 2018/05/21 13:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:aA98q2Qw

今まで私が書いて来たことと重複するものもありますが、私の独断の恐れも取り除くためにも、司馬遼太郎の史観を紹介しましょう。
江戸時代以前の考察は少ないが社会全般の事に言及しています。

司馬遼太郎『この国のかたち1』文藝春秋、1990年3月

どうして大和政権が古代日本の代表的な勢力となったのか。4、5世紀であっても大和政権は、他の諸勢力に比して比較的大きかったが、絶対的ではなかった。ところが7世紀になると、戦国乱世のような大規模な攻伐があったようには思われないのに統一性の高い国家ができた。この奇現象は、1869年の版籍奉還も同じである。
7世紀の面妖さは、5世紀の中国に隋という統一帝国が勃興したことにより説明できる。対外恐怖心が共有されたことが大きい。これは明治維新も同じである。統一国家の芯となったのは「律(刑法)・令(行政方)・格(例外的な法規)・式(細則)」である。四者は相関し法体系をなした。これらは中国から導入した王土王民制(儒教に基礎をおく)である。しかし、制度のうち宦官と科挙は入れず、儒教も学問としては導入したが民間の宗教意識としては導入しなかった。これらを導入していたら日本は中国そのものになっていただろう。
6、7世紀に日本に導入された仏教もインドのそれとは異なる。王朝や氏族を守護するものとして導入された。平安初期の天台宗・真言宗もこの点で変わりはない。日本では幸運にも、ついに、ヨーロッパ、中近東、インドあるいは中国のように、人々のすべてが思想化されてしまうという歴史を持たなかった。しかし、思想への憧れは持っており、宗教ではなく書物を通じて摂取しようとした。

○2「朱子学の作用」

明治維新の革命思想は極めて貧弱なものである。スローガンは尊王攘夷しかなかった。外圧に対する悲鳴のようなもので、フランス革命のように人類の理想を謳ったものではない。革命の思想や理想というものは遺伝子のようなもので、その後の歴史を規制したり形づけたりする力を持つ。明治維新ではここが貧弱であり、その後敗戦に至るまでの間に近代そのものがやせ衰えてしまった。
鎖国が国是としておお暴れして革命したわけだが、それが達せられるとさっさと開国してしまった。
人間はよほどでない限り、自分の生国、母校などに自己愛のようなものをもっているが、この土俗的な感情は軽度の場合ユーモアになるが、重度の場合は血生臭く、見苦しい。単なるナショナリズムは愛国という高度の倫理とは別次元のものである。
ナショナリズムは、本来、眠らせておくべき性質のものである。わざわざこれに火をつけるのは、よほど高度の政治意図から出る操作であり、歴史はこれに揺さぶられると、一国一民族は壊滅してしまうという多くの例を遺している。
ついでながら「尊王攘夷」も輸入思想である。宋(960-1279)では、征服王朝による侵略を受け続け、結局滅んでしまったが、その政権下で夷を打ち払い、漢民族の正当の王を尊ぶべしという思想を生んだ。これは危機時におけるものであり、普遍性を持つものではない。
日本の13世紀はすばらしい時代であった。新仏教、彫刻におけるリアリズム、開拓農民の政権(鎌倉幕府)により、律令制下で力を蓄えた公家・寺社勢力と対抗し、田を作るものがその土地を所有する権利を確立した。この素朴なリアリズムをよりどころにする百姓の政権ができて、日本は中国や朝鮮とは似ない歴史を歩み始めた。
宋学(尊王攘夷)はイデオロギーであったが、このとりこになったのが後醍醐天皇である。日本の天皇としてではなく、中国の皇帝のようなつもりになり大乱を起こした。
宋学は、本場中国にあっては、朱子により大成し、精密化された。朱子学の理屈っぽさと、現実よりも名分を重んじる態度は、官学化されることで弊害を生んだ。日本では、朱子学の空論性が攻撃され、江戸期の思想に好ましい効果を生んだが、一箇所朱子学が沈殿していった土地がある、それが水戸である。幕末、水戸は朱子学的尊王攘夷思想の中心的存在となった。

○3「雑貨屋の帝国主義」

日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるをえなかった。ウラジオストックに停泊し、また欧露から回航されて来る大艦隊と戦うには、やむなく大海軍であることを必要とした。応急の必要に迫られ、日本は開戦前7&#12316;8年の間に世界有数の大海軍を建設した。
本来、大海軍というものは世界各地に植民地を持つような国において必要なものであり、無敵艦隊のスペインはそうした例の代表的なものである。
日露戦争後においても日本は世界中に植民地など有していない。大海軍は必要なかったのだ。しかし、一度生まれた組織は、参謀本部という奇胎を背後に増殖を続けた。
日本における帝国主義は本当に存在したのか。たしかに日本は韓国併合を行ったが、イギリスにおける帝国主義は、過剰な商品やカネのはけ口であるが、日本ではそんな過剰な商品など存在しなかった。日露戦争の勝利が日本国と日本人の調子をくるわせてしまった。
小村寿太郎は、ぎりぎりのところでポーツマスにおける講和を結んだ。日本にはもう戦争を続けるだけの力は残っていなかった。しかし、国内では講和拒否、戦争継続を唱える新聞と大群衆を生んでいた。この狂気こそがその40年後の破滅への出発点であった。
満州へは当時無関税で商品を輸出していた。これにより現地の資本は総倒れとなったが、その商品たるや、人絹、砂糖、雑貨のようなものであった。このちゃちな帝国主義のために国家が滅ぶこととなる。一人のヒトラーも出ずに大勢でばかな40年を持った国は他にはない。

○4「統帥権の無限性」

現在と日本史上の中世、近世には十分つながりがある。しかし、近代の昭和一ケタから20年の敗戦までは、日本史の中で非連続の時代である。
自分は昭和18年当時、中国東北部にいたが、常にノモンハン事変(昭和14年)のことが頭にあった。ソ連のBT戦車は大量生産の雑な車体であったが、防御力と攻撃力に優れ、ノモンハンの日本軍は、じつに死傷率70%という世界戦史にまれな敗北をして停戦した。これは関東軍参謀の独走で行われた。
昭和前期の日本は、統一的な意思決定能力をもっていたとは思われない。
当時の参謀本部作戦課長に話を聞いたことがあったが、小石ほども実のあることを言わなかった。

○5「正成と諭吉」

維新後、尊王攘夷思想は、尊王だけが残り、イデオロギー化した。マルキシズムを含め、イデオロギーが善玉・悪玉をよりわけたり論断するようになると、幼児のようにあどけなく、残忍になる。
後醍醐天皇は、建武の中興において、ごく自然な日本的体制であった鎌倉の武家体制を否定し、中国の皇帝のような専制権を持とうとした。正成はこれに呼応して、河内金剛山のふもと赤坂に城塞を作り、1000名の手兵で幕府軍20万7600騎(太平記)の大軍に抵抗した。北条執権府がいかに無能で弱いかを天下にさらけ出し、赤坂陥落後も、ゲリラ戦や正規戦で幕府軍を大いに苦しめた。
尊氏が北朝を立ててからは、焦土作戦を企画した。京都という都市は食糧を生産せず貯蔵もしていない。いったん京都を退いて敵の尊氏を京都に呼び込み、四方を固めて敵を叩こうとした。しかし、帝の側近は帝が京都を退くこの策を受け入れず、聖運でなんとかなるのではないかとした。正成は、わずか500騎で兵庫に下り、湊川で一族とともに討ち死にする。
太平記読みは講談の源流であり、とくに江戸期、元禄のころ武士や庶民の間で隆盛を極めた。人気は正成に集中した。昭和になり、朱子の尊王論が国民教育に取り入れられ、楠木正成は思想語に近くなった。

○6「機密の中の国家」

明治憲法は明らかに三権分立の憲法であった。統帥権などという用語は存在していない。日本の歴史は一級の歴史であるが、この昭和10年から20年だけは異質な時代である。

○7「明治の平等主義」

明治維新は徹底的な革命だった。諸藩に莫大な金を貸して富裕を誇った金融業は、鴻池を残して一夜でまるはだかになり、全国300万の士族とその家族は失業し、農民は米でなく現金で年貢を払わなくてはならなくなった。
江戸時代は幕府も藩も原則として自作農主義であり小作農は少なく、自作農は自給自足を原則としており、現金など持っていなかった。このため現金の入る家業の造り酒屋にたのみこみ、自分の田の所有権を渡し、税金を肩代わりしてもらう約束で小作農になった。革命は、フランス革命やロシア革命と異なり、誰も得をせず、社会全体が手傷を負う形で成立した。
島津久光は、この革命の発端となった薩摩藩を率いていたにもかかわらず、こんなドラスティックな形での変革は望まなかった。彼は、新政府(太政官)を憎み、西郷を安禄山であると悪罵した。西郷もこれは堪えたようで、新政府を辞して鹿児島に戻っている。久光は大久保も恨んだ。まさか版籍奉還をするとは考えていなかった。
大久保は冷厳な人物であった。儒教的な思弁を好まず、軽兆さがなく、現実主義だった。

○8「日本の近代」

忠臣蔵はお侍の話である。浅野家の若い殿様が、高家(儀典課長)の吉良にいじめられる。この浅野家の経済力の裏には赤穂の塩があった。これが全国に流通していた。また、日本列島の沿岸を回船が運航し、商品流通を行っていた。
また江戸の識字率は世界一だったのではないか。文字を習わせるのは、聖賢の書を読むためではなく、農村や町方のこどもが奉公した時に帳付けをできるようにするという、きわめて経済的な動機によるものである。江戸や大坂では劇場が栄えたが、これは貴族の保護によるものでなく、大衆の木戸銭によるものである。
商品経済の盛んな世になると、モノの売買、カネの貸借すべて個人が矢面に立つようになる。モノの価値を権力でなく相場が決めるようになり、江戸時代はそうした意味ですでに近代であった。


ヨーロッパにおける近代精神は、宗教的権威の否定、科学的合理主義と人格の自律性、人間主義の3つが柱であるが、これらはすでにそれぞれ富永仲基、山片播桃、井原西鶴により江戸時代に育成されていた。


※※※ 「明治維新成立の時、この日本が育てた近代に欧米の近代を接木していれば面白いことになったのではないか。」


○9「尊王攘夷」

宋の時代、北方の女真人が金という国を興し、宋を苦しめた。金も宋ものちに蒙古によって滅ぼされる。
李氏朝鮮にとって攘夷は非常に大きな問題であり苦しめられ続けた。日本の攘夷は、明治を迎えあっという間に開国に切り替わってしまうなど単純なものでしかなかった。

○10「浄瑠璃記」

海商でありロシアに拿捕された高田屋嘉兵衛は、初等教育を受けていなかったが、浄瑠璃好きのおかげで魅力的な表現力を持っていた。最下級の町人に過ぎなかったが、魅力的な人物であり、ロシア側は将官として待遇した。捕虜であるにもかかわらず、日露の問題を解決しようと外交を行った。
浄瑠璃の曾根崎心中では、徳兵衛は、裏切られた油屋の手代九平次を、あいつも男をみがく奴と心で思う。在所から都市へ出て一人前になるには個人の倫理的修業が必要で、江戸人は町人も男を磨いていた。

○11「信長と独裁」

信長は、部下の門地を問わなかった。秀吉は浮浪児のあがりである。信長好みの気迫はあったが個人的な武芸があったわけではない。
信長は、結局人間を道具としてみており、鋭利な方がよく、使い道が多様であるほどいい。秀吉は、早くからこうした信長の性質を見抜き、我を捨て、道具としてのみ自分を仕立てた。
信長は、秀吉に経理・補給という計数の才、ついで土木の才も見いだした。秀吉は大功を立てると、その果実を惜しげもなく信長に差し出した。
信長は、いっさい資料はないけれども、中国の皇帝制のような、中央集権・郡県制を夢見ていたのではないか。
本能寺の変にみられるように、日本史は独裁者につよい反発をもった歴史といっていい。

○12「高貴な「虚」」

大概大概(テゲテゲ)という言葉が薩摩にある。上の者は大方針のあらましを言うだけでこまごまとした指図はしない、といった意味である。戊辰戦争の西郷隆盛、日露戦争の大山巌、東郷平八郎といった薩摩人はみなテゲを守った。これは薩摩の風土性というより、日本全体がそのような風である。
上の三名は、マスタープランを明示した後は、部署部署を責任者に任せてしまい、自身は精神的な象徴性を保つのに終始する。これに対し、山県有朋(長州)はこまごましたことを部下に指示した。
テゲであるには、人格に光がなければならない。そうでない人物が首領になると日本人は参ってしまう。
日本陸軍では、くだらない人物も大山型を気取り、スタッフに過ぎない参謀に大きな権限を持たせた。これら参謀は専断と横暴のふるまいをした。

○13「孫文と日本」

明治の日本には、渋沢栄一ら資本主義の興し手を見ても、民衆を見ても「公」の意識が浸透していた。福沢諭吉はそうした状況から、立国の基礎は公ではなく私なのだと諭したほどである。

○14「江戸期の多様さ」

いまの社会を見ると、行政管理の精度は高いが平面的な統一性、文化
の均質性、価値意識の単純さが目立つ。国をあげて受験に熱中しているという愚かしさである。価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むのに、逆の均一性に走り続けている。
江戸期の商品経済が商人や都市近くの農民に合理主義思想をもたらした。
三百ある藩において、たしかに礼儀作法、服制、結髪、文章表現などはほぼ一種類であったが、教育や学問は藩ごとに違った。

○15「若衆と械闘」

中国人は、とくに個人がいい。中国人はリラックスしているのに、日本人はいつも緊張している。日本人は公意識を持ちすぎている。



続く
メンテ
司馬遼太郎史観→接ぎ木文化 2 ( No.231 )
日時: 2018/05/21 13:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:aA98q2Qw

○16「藩の変化」

「藩」というが、このことばは江戸中期まで使われていない。たとえば大石内蔵助は、播州赤穂藩士とは称さない。浅野内匠頭家来であった。藩という言葉が日常語になるのはようやく幕末になってからであった。奈良時代以来、江戸期に至るまで、公というとお上のことであったが、この「藩」という言葉の普及とともに、公という言葉は、いわゆる公意識のようなものに変わっていったのである。

○17「土佐の場合」

土佐を含む南海道には平等意識が強く、過剰な敬語が発達しなかった。
薩長土肥ということばでまとめられがちだが、この四藩はそれぞれ性格がかなり異なっていた。

○18「豊臣期の一情景」

守護は、のちの戦国初期の北条早雲のように懸命な民政をするわけではなく、ただの租税のふんだくり屋であった。
地侍は、基本的に百姓である。加賀平野はもともと低湿地に過ぎなかったが、ここに13、14世紀に地侍が入植し、美田を作り上げた。守護の富樫氏は、そうした後に入ってきて年貢を要求した。入植者は、兵農不分の頃なので、甲冑も弓矢も持っていた。これら地侍の連合を「一揆」と称した。加賀一揆は、富樫氏を滅ぼし、1488年から100年間、加賀は百姓の持ちたる国などといわれた。この百姓とは地侍のことである。

○19「谷の国」

新興住宅地は丘のうえに造成されることが多いが、もともと日本人は谷に住み、農業を行ってきた。村落や城下町も谷につくられた。
様子が変わったのは、横浜開港後からで、外国人たちが高そうな丘に住むようになった。

○20「六朝の余風」

室町までの日本の貴族は呑気なものだった。北条早雲が初めて領民の暮らしを考えるようになった。

○21「日本と仏教」

本来の仏教はじつにすっきりしており、人が死ねば空に帰するという考え方で、釈迦も墓を持たない。他の宗教のような教義もなく、救済の思想もない。
解脱こそが理想であり、煩悩の束縛から放たれ、自主的自由を得ることが理想である。
一方、日本の宗教改革ともいえる鎌倉時代には、浄土真宗と禅宗が現れた。禅宗は、仏教本来の解脱的性格を備えている。一方、浄土真宗は、仏教よりもキリスト教に近く、救済の性格を持つ。
救済の性格は、本来の仏教にはなく、大乗仏教にはじめて現れるものである。
親鸞は大乗経典のなかでも『阿弥陀経』のみを自分の根本経典とした。阿弥陀仏をGODに近い唯一的存在ととらえた。親鸞の思想にはいっさい呪術性がなく、これを排除した点はプロテスタンティズムに似ている。念仏はひとのためのものではなく自分のためのものであり、鎌倉時代の個の成立と関係がある。

○22「日本の君主」

日本においては君主は君臨すれども統治せず、の姿勢を持ち続けた。江戸期に実権を持っていたのは藩主ではなく老中であった。



(引用終わり)

この中で、

「明治維新成立の時、この日本が育てた近代に欧米の近代を接木していれば面白いことになったのではないか。」

という事を言っています。

接ぎ木とは園芸用語で

2個以上の植物体を、人為的に作った切断面で接着して、1つの個体とすることである。このとき、上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という。通常、遺伝的に異なる部分から構成されている個体を作る技術として用いられるが、果樹等の育種年限の短縮化、接ぎ木雑種の育成などの目的で行われる場合もある。

柑橘類の台木にデコポンを接ぎ木した例(左は接ぎ木後に新たな葉が成長、右上は接ぎ木に失敗し枝が枯れる)
接ぎ木は、挿し木や取り木と同じく有用植物を枝単位で栄養生殖させる方法である。他の方法と根本的に異なるのは、目的とする植物の枝から根を出させるのではなく、別の植物の根の上に目的の植物の枝をつなぐことである。接ぎ穂と台木は近縁な方が定着しやすいが、実際には同種ではない組合せもよく使われる。うまくいけばつないだ部分で互いの組織が癒合し、一見は一つの植物のような姿で成長する。勿論実際にはこの接触させた位置より上は目的の植物の枝から生長したものであり、それより下は台木の植物のものであり、遺伝的に異なっている。但しまれにこれらが混じり合ってキメラや、更に遺伝子のやりとりが行われることもある(後述)。

接ぎ木の目的は接ぎ穂とする植物の増殖であることが多い。挿し木とは異なってはじめから根があることが有利な点となる。欠点は、台木となる成長した植物を準備する必要があるために、挿し木ほど効率がよい繁殖が出来ない。

接ぎ木の目的としては、このほかに接ぎ穂にする植物の根を台木の植物に置き換えることそのものである例もある。改良された農業品種は性質が弱い場合がままあり、例えば根の病害虫に対して弱い場合もある。このようなとき、より強健な野生種の根を台木にしてその品種を接ぎ木するのが有効であることがある。更に特殊な例では、葉緑体を持たなくなった品種を野生種の上に接いで育てる、というサボテンの例もある。コニファーでは、根張りの悪い品種の欠点を補うために接ぎ木での繁殖が行われることがある。

よくある失敗としては、台木の方から新芽が出た場合、こちらが元気になっていつの間にか接ぎ穂の方がなくなってしまう、というのがある。たとえばライラックを植えていたのに花が咲くと何故かイボタノキだった、というのがこれにあたる。

接木雑種(つぎきざっしゅ)とは、異なる品種の作物を接ぎ木した結果、変異などにより、生じた新種。栄養雑種(えいようざっしゅ) ともいう。

古代ギリシア人は接ぎ木によって果実の香りや色を改良するよう試みた。ソ連のルイセンコは接木のみで雑種ができると主張し、遺伝的な性質までも変化させるという学説を流布した。スターリン、ソ連政府のお墨付きによって絶対的な学説とされたが、科学的な実証性のない学説であったため、その後、接木によって新しい品種はできないとされた。



以上の様に、接ぎ木したとは言っても、その効果が一定して良いものであるとは限らない。
日本の場合、明治時代の文明開化は確かに接ぎ木されたものであろう。
しかしながら、その接ぎ木によって、望ましい文化が派生したのであろうか。
元木と接ぎ木の関係は、どのようになっているのであろうか。
いずれにしても栄養分は元木のそれに頼っているはず。

どの様な植生が期待できるのか、

勿論、短絡的に結果を望むものではないが、その検証は必要なのではないであろうか。

他の例として、内村鑑三が武士道の上にキリスト教精神を接ぎ木しようとした例がある。
これは成果が全く上がらなかった。
メンテ
時代考証のまとめ ( No.232 )
日時: 2018/05/21 18:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:aA98q2Qw

13世紀の日本は素晴らしいと司馬遼太郎氏も言っているように、鎌倉時代以降の4世紀は日本人が民族として国家として目覚めた時代であった。
私は、その活力を日本人の魂と定義し「大和魂」と言いたい。
しかしながら、その大和魂を導き出した源流(ルーツ)に和の心がある事を忘れてはならない。
鎌倉以降の民族の有り様は、他の民族にもそれぞれあること。他の民族と異なるのは、その前提となる「和」の心である。
このスレッドでは、最初のころ、大きな紙面を割いて、それに言及して来た。
それを理解せずに「大和魂」を取り上げる事は出来ない。

その日本特有の民族の心「大和魂」が、明治時代に言われるような意味に変質して来たのは何故であるか。
それをこれから解きほぐしてみたい。

江戸時代に入って何が変わったかと言えば、それは専制国家としての安定と繁栄の為の制度が完成されたことである。

それは庶民にとって幸せであっても不都合な事ではなかった。
ではあるが、専制君主による統治と庶民の有り様については別の問題が生じる。
お上に従うと言う形の下、政治と言う問題が庶民の間でも問題になる。
政治が上手く機能している場合は、ともかく、政治を、社会を変えようとする民族の力はそがれる事になる。
特に我が国の様に外国からの侵略が無い場合、庶民の民族意識は抑圧される一方であった。

あれほど平和的で活発であった民族意識が抑えられ背景には、朱子学による統治と天皇家を元首とする神道の思想の影響がある。
神道においては、古来氏神信仰として自然発生的に広まった宗教であったが、時代が遡るにつれて、特に室町時代以降、天皇家の氏神を全ての国民の氏神とすることで、天皇家の権威を確立させようとする動きであった。
それは最初は武家に奪われた政権を貴族に取り戻そうとする動きの一端であったが、時の政権、特に明治時代の政権は、これを利用し統治をする事を企んだ。

天皇家を全ての国民の氏神に置き換えるという事は、多神教の枠からはみ出す神道の一神教化であり、あってはならない、また、出来ない相談であった。
毎日天皇に対して礼拝するなど考えられないことではあったが、それに近く各家庭に天皇の写真を飾る事などは奨励された。

これが明治の神道国家思想であり、現在までも影響している国民の思いである。
それとは別に、天皇家への愛着は大和政権以来でも1500年、伝説の時代を含めると2000年以上の長きに渡り国民の間に定着し時代と共に政権が代わっても未だに天皇家が健在である事が証明している。
しかしながら、あるべき天皇の形は、日本人の心の取りどころ氏神信仰の象徴として天皇家の氏神を認めるところでなければならない。
現代の神社庁などの様に、全国の氏神を系列化されることなどあってはならない。

でも、そうした氏神信仰の系列化が室町時代にはじまり江戸時代の本居宣長などによって完成された。
江戸時代、幕府は天皇家を国民の心の代表として敬意を払って認めることで終始し、問題は起きなかった。
明治政府は、此れも司馬遼太郎が指摘している様に、明治維新は特に大義名分に基づいた革命ではなく、子供の様な現状否定から始まった。
そのために新生国家としての理念もなく天皇を担ぎだし神道国家などを求める国家となり、天皇と国民を直接結びつける結果となった。
戦争などで天皇陛下万歳と叫んで突進する様な気概を人為的につくりあげた。

もう一つの要素は朱子学である。
儒教、朱子学については別途、詳細を述べるが江戸時代に入って官学となった朱子学の大義名分論は、家臣は主に絶対的に服従すべきであるという思想を指します。つまり、君主に絶対的忠誠を誓わせるもので、支配者の江戸幕府にとって都合が良いものであり、武家政治という理念を提唱するのに理想的だったのです。また、社会秩序の維持を図ることもでき、個人と社会を統治する思想も提唱しています。そこで、江戸幕府は幕藩体制を擁護する統治思想を必要としていたこともあり、朱子学を統治思想として導入したのです。
武士道とも相まって、この思想は盤石の体制となり徳川幕府を支える事になる。

まあ、この両面から巧妙にマインドコントロールされたと言える。
この様な時代が250年続いたが、やがて外国船の来航が激しくなり西欧文化の匂いが我が国にも入ってきた。
その匂いが幕藩体制の矛盾と共に、新しい芽を生むことになり明治維新を迎えた。
その明治維新の改革(革命)も、内から湧き上がる大義名分と言うよりも外国の圧力にも乗るものであり、理念なき改革に終わり、明治政府の体制を生み出した。
もちろん、立憲民主主義など形式的には西欧化はなしたが、国民のレベルでは受動的なものであった。
現代社会はと言えば、江戸時代、明治時代に渡って巧妙にマイルドコントロールされた日本人が、西欧文明を接ぎ木され、元木の姿が解らないままに、発育して来た様なものである。
メンテ
時代考証のまとめ 2 ( No.233 )
日時: 2018/05/23 21:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

前回、

>現代社会はと言えば、江戸時代、明治時代に渡って巧妙にマイルドコントロールされた日本人が、西欧文明を接ぎ木され、元木の姿が解らないままに、発育して来た様なものである。

と言ったが、元木の姿とは何を指すのであろう。
それは文化、文明の成果の事ではなく「大和魂」で現される心の問題である。
「大和魂」と言っても、その源流である「和の心は」接ぎ木への栄養分として常に供給されていたとも言える。

ごく最近、神戸大震災でも、東日本大震災でも、被害者達の整然とした行動は世界中を驚愕させるものであった。
これが日本人なのである。

ただし、接ぎ木の部分は、別の西欧風の進化を遂げ、別の様相を呈しているのである。
日本と言う大木は、接ぎ木によって、もっと違う形に成長していた可能性もあるのである。

さすがに、司馬遼太郎は整然と日本の歴史を俯瞰している。
それによると、奈良、飛鳥の時代から明治まで、中国の影響を受けながら、それは体制的な分野の事であり、民衆レベルではなかったと言っている。

江戸時代でも一般庶民の生活は西欧に引けをとるものでは決してなかったと言っている。
士農工商と言う、幕藩体制でありながら、民衆が自由奔放に生活していた面は、箱庭の民主主義が成立していたとも言える。
戦争がなくなった250年の間、民衆が育てた社会なのであろう。

また、蒙古の襲来はあったものの、我が国は外国の侵略とは縁の遠い数千年の歴史がある。
「和の心」は、それだからこそ醸成して行ったとも言える。

しかしながら、我が国の民主主義は、本当の意味で民衆が勝ち取ったものではない。
民衆が止むにやまれず行動して勝ち取ったものではない。
民主主義の第一義は主権在民である。

「和の心」が先行して、この面が希薄なまま現代に至っている。
そのために、既に社会としては江戸時代から民主主義と言いながら明治から先の大戦に至る国家権力の暴走を止められなかった。
現代社会においてアメリカ追従に専念せざるを得ないのも、権力に対する抵抗心が弱いからである。
現代社会の専制君主は、アメリカに代表される資本の力(世界経済)である。
世界中が、その専制に疑問を持ち始めているのに、日本は未だに従順に従うつもりであるのだ。

200年前の市民革命は封建権力に対してであった。
現代社会が求められている第二の市民革命の相手は資本(世界経済)である。

「大和魂」の源流{和の心」は現代日本にも未だに息づいている。
でも、それだけでは不十分であり、必要十分条件として「和の心+○○」が必要であるのだ。
「和の心+○○」、これを「大和魂」としている。

そうして、それが認められるのが我が国の中世であると思っている。
江戸時代以降の儒教(朱子学)が潜航する統治への認識は、その「大和魂」の発露を阻害している。

「大和魂」とは、アメリカのフロンティアスピリット、イギリスのジョンブル魂の様に民衆の持つ気概の事である。
フロンティアスピリットもジョンブル魂も、それは決して対外的進攻を意味するものではない。

日本の「大和魂」だけが、戦争の道具の様に思われているが、それは戦前の軍部により押し付けであり、その様な軽薄なもので「大和魂」を理解してはいけないのである。

「和の心」も大切なものであり、民族的な心としては得難いものであるが、時代の困難を切り抜けるには、それだけでは出来ないのである。

メンテ
「大和魂」とは! ( No.234 )
日時: 2018/05/23 21:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

時代考証は終わりにして、改まって「大和魂」とは、何かと考えてみよう。

この文章の書きかけにおいて「大和魂」と言う言葉は紫式部が源氏物語の於いて、当時の貴族の青年たちに、将来、政治に関わるときの心構えとして教えていた事に始まる。

大和魂に代わる言葉として「社会正義」として見る事も出来るでしょう。

ウィキペディアによると、

正義とは、倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などにもとづく道徳的な正しさに関する概念である。 正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。

正義の言葉の中の義については東洋的な意味では、特に次の事が強調される。

人間の行動・志操・道徳で、「よい」「ただしい」とされる概念である。義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」。

言語的には問題は無いとしても、実際において、何が正義かという観点から見ると、正義の意味が往々にして変節する場合がある。
ヒットラーの登場も、当時のドイツでは正義であった。
日本の軍部の独走も多くの国民には正義と見えた。

で、あるので「大和魂」を正義と言う概念で見るだけでは問題があります。

また、ヒットラーの場合の様に暴走はしなくても、その言葉に多くの人たちが影響を受けすぎると狂信者の集団の様な弊害をもたらす。
「社会正義」と言っても、それが具体的なある方向性を示した時、一つの勢力となり他方を圧迫する。

革命が必要なとき以外は「大和魂」と言う概念を、その様なもので捉える事は問題である。
正義と言う意味では、個人個人が正義の心根を強く持っている状態としておきたい。

また、その正義とは

>倫理、合理性、法律、自然法、宗教、公正などにもとづく道徳的な正しさに関する概念である。

という意味でもない。
その様なものも超越した生き様と見ている。

人間社会に必要な向上心、助け合いの心を強く持ち、必要な時にはそれを発揮できる気概である。
決して特定の正義に組する事ではない。

その様な「大和魂」であってこそ、民衆を正しく導くことが出来るのである。
また、導くと言っても国家、民族そのものを導くなどと言っている訳でもない。

人間の集団は、幾ら民主主義を唱えても結局は一部の先験者によって導かれるもの。
これは、歴史においても、皆さんの身の回りにおいても実証されているはず。

太鼓を打つとき、大きく打てば大きく反応し、小さく打てば小さく反応するように、「大和魂」は必要に応じて発揮されれば良いのである。

昨今、安倍内閣打倒のデモが国会周辺で行われている。
デモを主宰している人、参加している人は、それぞれ止むを得ない心情(大和魂)に駆られてやっているのでしょう。
でも、それに多くの人が呼応しません。

結果、あの安倍自民党が何時までも悪政を敷いたままです。
イスラムの様な熱狂を支持する訳ではありませんが、我が国は大人しすぎる。

というか、それぞれが身勝手すぎる。
社会正義よりも、己の安全、安泰、損得を優先する。
己と言う小さな小さな入れ物に閉じこもる。

「大和魂」を謳い、熱狂せよとは毛頭言いません。
また、歴史的にも、そんな時代はありませんでした(戦前の一時期を除いて)。

時代が、そういう環境であったのでしょうが、
貴族政権から解放された日本人が、自らの可能性を求めて積極的に動き始めたのが鎌倉時代以降。
その生き様の中に「大和魂」を見る思いです。
勿論、当然の事ですが、当時は、彼らに、その様な自覚など無かったでしょう。

「大和魂」とは、その様なもの
フロンティアスピリットとは、その様なものではありませんか。


(追伸)

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んだのです。


メンテ
大和魂とは ( No.235 )
日時: 2018/08/02 16:37
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:42inf0Oo

阿修羅掲示版などでも、安倍政権批判が渦を巻いている。

批判する心は理解できる。

しかしながら、理屈が先行し、理屈に拘るばかりで、国民の切なる思い、憤怒の気持ち、何とかしたいと言う気持ちは、あまり伝わってはこない。

「大和魂」とは、国民自身が、共に良い社会を築こうとする思いではないかと思う。

「大和魂」と言う言葉を使えば、直ちに戦前までの、権力による押し付けの心の様に取り上げられる。

そうでは、無いでしょう。

権力の形態が何であろうと、国民の望む心意気ではありませんか。

格差が広まり政治は腐敗し誰もが救いの手を差し伸べないとき

国民自身が、これではいけないと想う強い気持ちを持つべきではないか。

その気持ちの総体が「大和魂」ではないかと思う。

民主主義の名の下に、希薄になってしまった連帯意識を取り戻すのが「大和魂」ではないかと思います。

「大和魂」は皆の気持ちであり、権力者に利用されるものではなく、逆に権力者に立ち向かうものであると思います。

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民族のバックボーン(大和魂) ( No.236 )
日時: 2018/09/30 14:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:yGU1Ap.Q

久しぶりに書き込みます。
最近、糾弾掲示板の意図に反して邪悪は心根から発する投稿が続いていました。
糾弾掲示板は、どのような内容に関わらず、真摯に思いを訴えるところです。
御口直しにどうぞ!

世界の民族のバックボーン

>フロンティアスピリット(アメリカ)
開拓者精神。特に米国の西部辺境における開拓者たちの精神。剛健・忍耐・創意、また闘争性・現実性・利己性などを特色とする。

>ジョンブル魂(イギリス)
言ってみれば、日本の「大和魂」やドイツの「ゲルマン魂」の英国版です。
一言で言えば「不屈の精神」ですが、意味するところは「イギリス人固有の、頑固で律儀、
こつこつと自分の思いを追求する姿勢」のことでしょう。

>ゲルマン魂(ドイツ)
ゲルマン魂とは、「不屈の精神」などと言われますが、

サッカーで言えば、最後のホイッスルまで絶対にあきらめないめない。
裏を返せば、勝利にこだわり常に敗北を恐れている魂とも言い換えられるでしょう。

ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族。
原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった[2]。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた。

>ノブレスオブリージュ(フランス)
高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方。

>中華思想(中国)
中国が世界の文化,政治の中心であり,他に優越しているという意識,思想。中国では伝統的に漢民族の居住する黄河中下流を中原と称し,異民族を夷狄 (いてき) ,あるいは蛮夷と呼んできた。異民族は東夷,西戎,南蛮,北狄に分けられ,この四夷を,中華がその徳化によって包摂しようというのである。この思想は古く周代に始り,以後近代まで連綿として引継がれ,中国人独特の世界観を形成してその歴史や文化に多大な影響を与えてきた。漢民族の優位が確保されている限りにおいては寛容で開放的な博愛主義となって現れるが,ひとたび優位が否定された場合には,きわめて偏狭な保守排外主義の傾向が示される。

>大和魂
日本民族固有の精神として強調された観念。和魂,大和心,日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので,古くは中国に対し,近代以降は西洋に対して主張された。平安時代には,和魂漢才という語にみるように,日本人の実生活から遊離した漢才(からざえ),すなわち漢学上の知識や才能に対して,日本人独自の思考ないし行動の仕方をさすのに用いられた。江戸時代に入り,国学者本居宣長は儒者の漢学崇拝に対抗して和魂を訪ね,「敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んで,日本的美意識と,中華思想に対する日本文化自立の心意気をうたいあげた。

※ 詳しい検証は、このスレッドの全てでやっています。
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悪貨は良貨を駆逐する ( No.237 )
日時: 2019/04/13 14:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:zxOrmilQ

多くの皆さんが日本人の劣化を嘆いておられます。
政治批判も民意批判もつまるところ日本人の劣化を指しています。

>「悪貨は良貨を駆逐する」と言う言葉があります。

これは以外にもイギリスで言われたことです。

十六世紀、エドワード六世・エリザベス一世のもとで財務顧問を担当した貿易商グレシャムが唱えた経済法則で、エリザベス一世に提出した意見書にあることば。
当時は通貨は金で作られており、通貨を増やすために金の含有量を減らした通貨が流通し、金の含有量が高い通貨はしまい込まれると言ったのです。

※ 現在では経済法則から離れて、悪人(物)がのさばる社会では善人(物)が追い払われるという意味で使われることが多い。

これを現代社会全般の事象に当てはめて見ましょう。

昔の日本、特に江戸時代以降の日本では儒教、仏教の影響によって倫理・道徳の思想は社会に浸透していました。
幕末から明治にかけて来日した欧米人が吃驚したほどです。
まあ、貨幣で言えば金の純度が高い人格が普通であったと言えます。

明治時代の到来とともに西欧化が進み民主主義的考え方が入って来ましたが、同時に皇国思想も押し付けられ、皇室に対する思いが国民を抱合することで、共生の要素が醸し出されていました。

戦後の民主化は、その枠も取り払われ、日本人はまともに西欧民主主義と向かい合うことになりました。
西欧民主主義というものは、同時にキリスト教社会でもあり、キリスト教の規範は、彼等の根底に息づいていました。

ところが、日本では、そのキリスト教抜きの民主主義を民主主義と捉え狂気して迎えました。
安易に手に入る悪貨は、個人の権利、自由意識と捉えることが出来るでしょう。
良貨とは、社会を守る規範の思想です。

この場合、良貨を大切にしているのではなく、しまいこんで忘れているのです。
戦前から生きている人たちは、まだ良貨の価値を知っていますが、現代人には、それが認識できない。
ことある場合には非常に脆弱な社会となっていると思います。

それに対して欧米人は、悪貨を使いながらもキリスト教を捨ててはいない。
逆に捉えれば悪の確信犯。

そりゃあ、悪に対しては、日本より強いであろう。
中国人は中華思想が根底にあり、これも極悪人の要素を持っている。
アフリカ、東南アジアの発展途上国は、悪の競争に勝ち抜くことに懸命で、それなりの緊張感がある。

日本だけが、悪の社会に埋没し、悪自身の大きな方向も知らず、悪に親しんでいる状況。
じっとしていれば、他国に追いつかれ、追い抜かれることになる。

民主主義が悪いとは言わない。
けれども民主主義だけに埋没することは危険である。

民主主義は貨幣ではあるが悪貨なのである・
良貨の存在を忘れては貨幣経済は成り立たないで、いずれ自滅することになる。

日本人にとって良貨とは何か。
それは倫理、道徳であり、和の心、同時によりよき社会を求める気概(大和魂)であろう。

悪貨の中の、のんべんだらりとした生活は、いずれ社会そのものを見失う。
民主主義とは主権在民のこと。

その民が、民主主義の中の個人の権利、自由に埋没していれば、やがて社会の恩恵は失われることになる。
それだけではなく、強力な悪貨にも打ち負かされる。

民主主義は良い。
だが、それを追い求めるばかりでは、民主主義の恩恵を享受することも出来なくなる。

スマホに興じ、ゲームに夢中の現代人にそれが防止できるのであろうか。
馬鹿を売り物にするテレビ番組の中で育った子供たちが気がつくであろうか。

日本には何かが足りない。
キリスト教的、覇権主義もなく、発展途上国の情熱もない。

民衆はともかくとしても、政治でも経済界でも、大きな理念に裏打ちされた人間がいない。




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私の大和魂! 俺の大和魂 ! ( No.238 )
日時: 2019/08/31 00:16
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KMSoEItk

NO236のレスで、フロンティアスピリット、ジョンブル魂、中華思想などと比べて、大和魂のことを次のように書きました。

>大和魂

日本民族固有の精神として強調された観念。和魂,大和心,日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので,古くは中国に対し,近代以降は西洋に対して主張された。平安時代には,和魂漢才という語にみるように,日本人の実生活から遊離した漢才(からざえ),すなわち漢学上の知識や才能に対して,日本人独自の思考ないし行動の仕方をさすのに用いられた。江戸時代に入り,国学者本居宣長は儒者の漢学崇拝に対抗して和魂を訪ね,「敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んで,日本的美意識と,中華思想に対する日本文化自立の心意気をうたいあげた。

大和に拘るのは、古代の日本で入りんで来る中国の影響に対して日本独自のものとして使われ始めていた。
しかしながら、このスレッドで求めたい「大和魂」は、中国などを意識するものではなく、日本独自の境地を求めるものである。

経緯については、このスレッドの冒頭から、随分と長い道のりで追及してきましたが、現実問題として平たく取り上げれば、次の様になります。

たとえば、この掲示板に皆さんは、止むに止まれぬ気持ちら、空しく思っても、日本のこと、国民のことを思って投稿をされています。
投稿したからと言って何の得もありません。

でも、社会のために何かをしたいという気持ちが、そうさせているのです。
その気持ちを「大和魂」と言いたいのです。

社会に貢献するということですが、
キリスト教社会でも、そうしたことはなされています。
しかしながら、それはキリスト教に基づく偽善といえばしかられますが、日本人が持つ感情とは少し違います。

インドでも、イスラム社会でも助け合いの気持ちはあるでしょう。
日本の場合、その根源にあるものは「和」の心、その民族性であり、他民族にはない、穏やかな心,善良なもので誇りに思っています。

それから出てくる助け合いの心、信念、意思が大和魂としたいのです。
また「大和魂」が花開くといいますか、求められるのは、時代性が有ります。
貴族社会から民衆社会への過渡期、鎌倉時代に「大和魂」が花開いた時代を見ています。

この場合の「大和魂」は英雄的なものですが、偉業をなす英雄でなくても、それぞれの人たちの心意気も立派な「大和魂」としたいです。

要するに日本人の心のルーツ、求めるべきルールが「大和魂」のです。
そういう意味で、何の得もないのに、日本を憂いて投稿してくださる方々は、立派な「大和魂」を持っておられると思います。
俺の「大和魂」が、そうさせるのだと、思っていただいて何の不都合があるのでしょう。

できれば多くの国民が、これに目覚めていただきたいものです。
そうすれば、安倍政権打倒の市民デモも多くの人が参加するでしょう。

でもね、私が「大和魂」を言えば、殆どの人は街宣右翼が使う、戦前の間違った認識を当て嵌めうっとおしく思われます。
それでは、皆さんが想っている社会を憂い、何とかしたいという気持ちは何なのでしょう。

止むぬ止まれぬ「大和魂」と言うことに、何の問題があるのでしょう。

明治以降の一時の様相で、伝統的な「大和魂」と言う言葉を汚されたくは無いものです。

現代日本に欠落しているのは、

民主主義の名の下に各人が身勝手になりすぎ、政治を含む公の問題を省みない、

その「大和魂」と言うものではないですか。

権力者に対して言っているのでは、決してありませんよ。

「大和魂」と言う言葉に抵抗があるなら「日本魂」でも良いのですが、同じこと。

ならば、1500年の昔からある「大和魂」で良いではありませんか。

フロンティアスピリッツといえば、インデアンを別として殆どのアメリカ人は誇らしく応えるでしょう。

日本人は、どうして「大和魂」と言う言葉に嫌悪感を抱くのか。



※ 今回のレスで、実質的に、このスレッドの結論に達してしまいました。

中世に入ってからの、儒教とか仏教の影響、国学との関係など、まだまだ、説明したいところもあるのですが。

このスレッドが、この様に長くなったのは、ひとえに「大和魂」と言う言葉に込めた日本人の心情(心のルール)を、色々な面から認識(知識で伝えるのではなく、身体で感じ取っていただきたい)していただきたい為、神話・伝説の世界まで入り込みました。

我が国の歴史で「大和魂」が溌剌として具現したのは鎌倉時代と思っています。
残念ながら、その鎌倉時代に言い及んだ投稿の多くは、掲示板のサーバのトラブルで消えてしまっています。
復活したいところですが、最近は気力を失い、ままなりません。

御長読を有難うございました。
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ひさしぶりに <保守とは国家の自立とは ( No.239 )
日時: 2020/06/30 16:01
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:3vi8mMxg

別スレッド(日本会議を甘くみてよいのか)の事ですが、

ooeyamaさんが紹介された適菜収氏の文章を巡って、保守とか日本の自立についての話がありました。
これは、まさに「大和魂」スレッドが取り上げている内容の結論であります。

●適菜収(てきな・おさむ)
1975年山梨県生まれ。作家、作詞家。著書にニーチェの『アンチ・クリスト』を現代語訳した『キリスト教は邪教です!』や『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』(ともに講談社+α新書)、清水忠史との共著『日本共産党政権奪取の条件』(ベストセラーズ)など多数。

詳しいことは、すでにこのスレッドで書いていますので、簡単に振り返ります。

>適菜氏の言う「保守思想」とは

多くの方が、明治以降、戦争までの、皇国国家のあり様を思い浮かべると思いますが、それは間違っています。
日本の歴史の中で、天皇を神と据えたり、天皇中心の社会など、大和朝廷時代にもありませんでした。

明治維新で志士達が、とりあえず構築した国体などに「本来の日本」を見る必要は無いのです。
それが日本の保守ではないのです。

それでは江戸時代の有様が、本来の日本の姿(保守)と言えるでしょうか。
なる程、江戸時代は我が国の歴史の中で安定していた時代です。

ですが、飽くまでも、封建国家の姿であり、身分制度の下に飼いならされた庶民がいたのです。
江戸時代に培われた倫理・道徳・勤勉さは、素晴らしい国民性ですが、民主主義の現代に、それを保守と肯定する訳にはいきません。

もう一つ、それは古代から戦国時代の事です。
国家としての統治は緩く、国家としての政治も適当であり、政治的には未熟な時代でした。

ですが、その中に(上からの押し付けのない状態)、民衆が何を望んでいたかと言う様相にに保守(国の形)を見出してはいかがでしょう。

しかしながら、実際には日本の歴史の中に、望むべき保守の形をとっていた政治(国家)はありません。
ですが、江戸時代、明治の政治を保守などと呼ぶならば、保守など志向することはありません。

保守とは

>保守(ほしゅ)または保守主義(ほしゅしゅぎとは、従来からの伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重し、革命などの急激な改革に反対する社会的・政治的な立場、傾向、思想などを指す用語。また、そのような政治的な立場を奉ずる人物、勢力も保守、あるいは保守主義者(英: conservative)と呼ぶ。対義語はリベラル、進歩、革新など。非社会主義国において保守主義は、左翼・右翼の政治的スペクトルでは、通常は右翼に位置づけられる。ただし、保守と保守主義では意味において若干の相違がある。

とあります。

ならば、その保守の意味をしっかり認識することが必要で、それでこそ、本当の革新(リベラル)を見つけられるのではないでしょうか。

申し遅れましたが、日本の自立とは、まず、その保守(本来あるべき日本の保守)を認識することではないでしょうか。

それに比べて、アメリカへの従属を否定すればよいでしょう。

話は変りますが、

右翼とは、保守主義・反動主義・排外主義的な思想の事を言いますが、戦前の右翼はともかく、現代の右翼は、所謂、街宣右翼と言い、単純な皇国思想を看板に何かあると自動車に乗り拡声器で相手を誹謗して歩くことが政治と思い込んでいるバカ共で、中には暴力団も絡む政治ゴロの事を言います。

日本会議も、自民党も、本当の日本、日本人のあり様を探求し、国民の為の政治を忘れた、紛い物。
街宣右翼の姿と変わらないもの。

このような奴らでは、日本は自立できない。

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