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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2017/06/26 13:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ZChukVGk

(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。



(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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大和魂 108(キリスト教) ( No.112 )
日時: 2011/01/02 15:19
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第5章
5:1
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:11
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
5:13
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
5:14
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
5:15
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
5:16
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
5:17
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
5:20
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
5:21
昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
5:23
だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
5:24
その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
5:25
あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
5:26
よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
5:29
もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
5:30
もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。
5:31
また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
5:32
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。
5:33
また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:34
しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
5:35
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
5:36
また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
5:37
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
メンテ
大和魂 109(キリスト教) ( No.113 )
日時: 2011/01/02 15:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第6章
6:1
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8
だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
6:9
だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
6:10
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
6:11
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
6:12
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
6:13
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
6:16
また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:17
あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18
それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
6:19
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21
あなたの宝のある所には、心もあるからである。
6:22
目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。
6:23
しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。
6:24
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
6:25
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
6:26
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
6:27
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32
これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
メンテ
大和魂 110(キリスト教) ( No.114 )
日時: 2011/01/02 15:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第7章
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
7:6
聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7:7
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
7:8
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
7:9
あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
7:10
魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
7:11
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。
7:12
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
7:13
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14
命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
7:15
にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
7:16
あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
7:17
そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
7:18
良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
7:19
良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
7:20
このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
7:21
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
7:24
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
7:25
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
7:26
また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
7:28
イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29
それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
メンテ
大和魂 111(キリスト教) ( No.115 )
日時: 2011/01/02 15:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

第8章
8:1
イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。
8:2
すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
8:3
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。
8:4
イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。
8:5
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、
8:6
「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。
8:7
イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
8:8
そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
8:9
わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
8:10
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。
8:11
なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、
8:12
この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
8:13
それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
8:14
それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。
8:15
そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。
8:16
夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。
8:17
これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
8:18
イエスは、群衆が自分のまわりに群がっているのを見て、向こう岸に行くようにと弟子たちにお命じになった。
8:19
するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。
8:20
イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
8:21
また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。
8:22
イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。
8:23
それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24
すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25
そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。
8:26
するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
8:27
彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。
8:28
それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。
8:29
すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
8:30
さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
8:31
悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。
8:32
そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
8:33
飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。
8:34
すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。
メンテ
大和魂 112(キリスト教) ( No.116 )
日時: 2011/01/02 15:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

(中略)

第18章
18:1
そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
18:2
すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
18:3
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
18:4
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
18:5
また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
18:6
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。
18:7
この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。
18:8
もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。
18:9
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。
18:10
あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔
18:11
人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕
18:12
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
18:13
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
18:14
そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。
18:15
もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。
18:16
もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。
18:17
もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。
18:18
よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
18:19
また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
18:20
ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
18:21
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
18:22
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
18:23
それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。
18:24
決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
18:25
しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
18:26
そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。
18:27
僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
18:28
その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。
18:29
そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。
18:30
しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。
18:31
その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。
18:32
そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。
18:33
わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。
18:34
そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。
18:35
あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
メンテ
大和魂 113(キリスト教) ( No.117 )
日時: 2011/01/02 15:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:DIuVJCPI

(中略)

第28章(最終章)この前にイエスの処刑と復活に至るくだりがあります。
28:1
さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:2
すると、大きな地震が起った。それは主の使が天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
28:3
その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4
見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5
この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6
もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
28:7
そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
28:8
そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9
すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
28:10
そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。
28:11
女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
28:12
祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、
28:13
「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
28:14
万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。
28:15
そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。
28:16
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
28:17
そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
28:18
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

(マタイ福音書 山上の垂訓 終わり)
メンテ
大和魂 114(キリスト教) ( No.118 )
日時: 2011/01/03 12:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

キリスト教とは、どのようなものと把握すればよいかについて、冒頭に掲げた下記の文章を思い起こしていただきたい。

「キリスト教は人間が救われるため何か条件を立てることの必要のない宗教である。何故かというとキリスト教によると天国にいく条件というのは神側から一方的なプレゼントとしてくれるわけである。人間が何かの条件を立てたのでその見返りとして神から何か恵みをもらえるということではないのである。善行は救われるためにするのではなくて、救われたから、赦されたから、愛されたからというのがその動機である。何か打算的なそれをする事によって何か見返りを期待したり、そうするところに結局は善を指向しながらもエゴイズムがあるんだとイエス キリストは指摘したのである。」

この文章を別の角度から解釈すると、
キリスト教徒が行う善行はキリスト教徒として当然の行いであるということ、すなわち善行を積むことは神の御意思に沿うものである。

これによりキリスト教は熱心な信徒、聖職者により、世界に飛躍的に展開をして行くことになる。
世界史的に見れば同時に興ったとも言える仏教、イスラム教を合わせて布教の対象を不特定多数に想定した世界宗教を高等宗教の出現とアーノルド・トインビーは指摘している。

キリスト教信者 20億人、イスラム教信者 11億人、仏教信者 4億人。

キリスト教の教義と言うか、キリスト教を信仰すると言うことは下記のようなことを言う。
三位一体とは、キリスト教の奥義の一つで、神には、父・子・聖霊という異なった三つの位格(persona)があるが、神は実体(substantia)としては同一であるという考えである。
聖書によれば、イエス・キリストは、神が受肉した、つまり人の姿をして現れた、神の子である。

では、イエスは、人間ではなくて神なのか。
結論が出ない弁証法的解釈に拘るよりも、実際には前述の聖書のイエスの言葉をとおして人々は神を意識することになる。
そこには事細かに神が望む生き様が書かれている。

その教えに従うこと(イエスキリストを信じる事)により人々は自立を得るのである。
他方、多くの信徒が陥る、聖書の教えに違背した場合、教えを踏み外した場合に対する救済の道(信仰の道)が用意されている。

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めることとある。

キリスト教でも「懺悔」と言う言葉があるが正式には告解戸と言い、その行為を秘蹟と称している。
カトリック教会での秘跡は「赦しの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。

その赦しの秘跡に必要な部分は
1.内的後悔(痛悔と遷善の決心)
2.天主(神)の代理者の前に告白すること
3.罪の償を果たすこと
4.天主の全権に因る赦免
以上四点であり、これら全体を赦しの秘跡と呼ぶ。

仏教で言う懺悔が、己を悔い改めることを表現するにとどまることに対して、キリスト教の懺悔は神との契約に対する違背を神に許していただくための具体的な儀式と位置つけられている。
この懺悔に対する微妙な軽重が仏教とキリスト教の違いとなって、懺悔をした人のその後の言動に影響しているのではないかと思う。

イスラム教もそうであるが、一神教の場合、信徒と神の関係は概ね一対一の契約関係に近いものがある。
多神教の場合は神が多すぎて特定の神との関係を強く意識することなく、神は抽象的な存在でしかないのが普通である。

こうした神と信徒の関係は、ローマ時代の初期、アウグスティヌスによって語られており、これが初期のキリスト教のあり様であった。

アウグスティヌス自身はプラトン・新プラトン主義(プロティノスなど)・ストア思想(ことにキケロ)に影響を受けていた。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいたが、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要な業績である。またラテン教父の間にあったストア派ことにその禁欲主義への共感を促進したことも、キリスト教倫理思想への影響が大きい。

アウグスティヌスの思想として特に後世に大きな影響を与えたのは人間の意志あるいは自由意志に関するものである。その思想は後のアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えている。一言でいえば、アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。しかし、忘れてはならないのはこのようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌスの悔悟と、原罪を否定し人間の意志の力を強調したペラギウスとの論争があったということである(ペラギウス論争といわれる一連の論争はキリスト教における原罪理解の明確化に貢献している)。

ここで言う、個人の自由意志を尊重する趣旨は、後のローマカソリックにおいて著しく抑圧され、ルネッサンスの運動に結びつくことになることを覚えておいていただきたい。
メンテ
大和魂 115(キリスト教) ( No.119 )
日時: 2011/01/03 12:46
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

王権神授説と近代を生むことになった、社会契約論の面からキリスト教を見てみましょう。

古い文明の一つメソポタミア文明では、王は「神の代理人」とされ、これは同じ古代オリエント文明でも現人神であるエジプトのファラオとは対照的であった。よく知られた『ハンムラビ法典』では王ハンムラビが神シャマシュより王権の象徴の輪と聖杖を授ける図が描かれている。その下に彫られているのが「目には目を、歯には歯を」で有名な条文である。このように法治を託された(あるいは為政者が仮託した)という面もあるが、代理人たる王を通した神への民衆の信仰心が大きかったことがうかがえる。

上記のように古代社会は自然発生的に王権は神より与えられたもの、ないしは神の代理人として王権を主張してきた。
それとキリスト教が宗教として起こり、後にローマ帝国の皇帝との関係を築いた経緯は別の様相を呈する。

神聖ローマ皇帝の皇帝権は、800年のカール大帝の戴冠により西ヨーロッパにおける覇権的君主権として成立し、またキリスト教と密接に結びついた。962年のオットー大帝の戴冠以降は、皇帝権はドイツ王権と不可分なものとなり、中世を通じてヨーロッパの世俗支配権の頂点に君臨した。特にオットー大帝以後13世紀のシュタウフェン朝断絶にいたるまでの、いわゆる「三王朝時代」は皇帝権は教皇権とともに西ヨーロッパのキリスト教世界の権威と権力を二分していた。ただし「神聖ローマ皇帝」という称号が実際に用いられたわけではない。実際に用いられた称号には様々なものがあった。たとえば、カール大帝の称号は「至尊なる尊厳者、神により戴冠されし、偉大にして平和的な、ローマ帝国を統治する皇帝」である。

ここに今で言う政教融合が始まり、政治的にも宗教的にも矛盾を抱えた中世が始まる。
結果は歴史の証明するところであり、あらゆる面で国民を抑圧する社会が現出することになる。
これに対して、ローマ帝国の衰退と共にルネッサンスという運動があらゆる分野で起こり、直接の意味は古代への回帰であるが、実際は中世社会に対しての反抗であり、近代社会への幕開けであった。

その一環として、王権を含む社会の有り様に付いて社会契約説が説かれ始めた。
トマス・ホッブズに始まりジョンロック、ジャン・ジャック・ルソーに続くものである。

ホッブズが『万人の万人に対する闘争』と呼んだ自然状態を形成する本能的で野蛮な人間は、絶えず他人からの攻撃や略奪を心配して『死の恐怖』に怯えることになります。その為、自然状態における個人は、無秩序な闘争を調停して安全を保障する『国家権力(絶対王政)』に自然権(生存と生活を保持する為に権力を行使する権利)を移譲する契約を結ぶことになると言います。ホッブズは、自然状態を猜疑心に駆られた人間相互の闘争・略奪の状態と考え、自然的存在としての人間は悪であると想像しました。

ジョン・ロックの性善説的な人間観に基づくものです。ロックは、人間は国家(社会)の成立していない自然状態において、自由で平等な独立した存在であったといいます。自由主義者でもあるロックは、『個人の自由・財産・健康の保持』を所有権としてこれらは自然権(自然状態で持つ自己保存の為の権利)の一つとしていますが、個人が権力を移譲して打ち立てる国家は所有権の調整と保護を行う責務を持ちます。自由主義者ロックは、個人の自由を最大限に尊重し、国家は他者の権利や自由を侵害する不正な犯罪行為に対してのみ、権力を行使して刑罰を与えることが出来ると説きます。ロックは国家権力の中心に『立法権=議会政治』を考え、『執行権(行政権)』と『連合権(外交権)』は立法権を持つ議会の決定に従わなければならないとしました。

平たく言えば、両者とも人間の利己心を神及び国家から開放することを前提としていて近代民主主義の基礎となっています。
その社会契約説が最も先鋭化したものに以前に述べたピューリタニズムというものがあり、その後の資本主義の発展の精神的根拠となり、近代社会の骨組みともなってきました。
それがどのようなものか、純粋なピューリタニズムとは何か、あまり明確は説明は無いのですが下記の文章を紹介します。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0620.html

ピューリタン革命の経緯は省略したい。オリバー・クロムウェルの革命だ。
本書ではそのクロムウェルに先行したジョン・リルバーンという興味深い自由人に宿ったクリスチャン・ソルジャーの感覚や、なぜ「王」(チャールズ1世)を殺すことがピューリタン革命の頂点にならざるをえなかったかということを、端的な調子で描き出している。ぜひ読まれたい。

ここではその頂点を説明する代わりに、この時期にピューリタニズムが派生させた決定的な価値観を、3つだけあげておきたいとおもう。

 第1には、多様な「コングリゲーショナリズム」が生まれたことである。日本では「会衆派」と訳され、その活動は独立派とか組合教会となって、それが日本では新島襄の同志社系になっているなどと理解されている活動形態だが、ここにはもうすこし重要な意味が隠れている。
 かつてのカトリシズムが「回勅の宗教」であるとすると、コングリゲーショナリズムは新たに「会議の宗教」をつくったということなのだ。いまでも“the sence of meeting”とよばれて、アメリカ人やイギリス人と仕事をするとその思想が前面に躍り出る。日本人が欧米の真似をしてミーティングのルールやディベートのルールをおぼえようとしたのは、ほとんどコングリゲーショナリズムにもとづいている。

 第2に、このコングリゲーショナリズム(信者の集まり)の波及から、社会における“人間向上のプログラム”の変質が実質的におこっていったことがあげられる。
 それを簡潔にいえば、さしずめ「コンヴァージョン」(回心)から「エデュケーション」(教育)へという転換だ。
 これでだいたいのことの見当がつくだろうが、「信仰と会議と教育」はピューリタン精神のなかでは、ひとつながりのものなのであり、このひとつながりの途中にそれぞれ介入してくるのが「ディシジョン」というものなのだ。

 第3に、ピューリタン革命がまさにそうだったのであるが、ピューリタンたちがコモン・ロイヤーと結び、ピューリタニズムの社会のなかに契約社会をつくっていったことが特筆される。すでにメイフラワー契約にもそれはあらわれていたが、クロムウェルの革命そのものが契約革命の推進だったのである。このモデルをプロテスタンティズムに拡張し、さらにそれが資本主義の起源になっていると指摘したのがマックス・ウェーバーだった。

ピューリタニズムはたいへん妙な思想であり、運動である。その起源には王を殺した宗教運動があり、その後は、つねに父を喪失した状態の宗教思想でありつづけている。

つねに移住先を求めるし、どこかに定着したらしたで、移住者の再編成を課題にせざるをえなくなっていく。ノーマッドな思想に似ていて、まったくノーマッドではない。脱出する地点が必要な旅立ちなのである。しかも旅先には目的地があって、そこに“建国”と“会議”が待っている。
しかし、これがヨーロッパのキリスト教社会が「近代」を生むにあたってつくりあげた最も合理的な実験装置だったのである。その合理装置からは思いがけないほどの副産物がもたらされた。たとえば、ピューリタニズムこそが「霊的」(スピリチュアル)という言葉に対して、初めて「内的」(カーナル)という言葉を持ち出したのだったし、「自由」と「デモクラシー」と「信仰」とを矛盾なき状態で実践する前提を拵えたのだった。


メンテ
大和魂 116(キリスト教) ( No.120 )
日時: 2011/01/03 12:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

後先になりましたがキリスト教からみた中世史を概略しておきます。

イエスキリストの死後、キリスト教圏においてキリストを裏切ったユダヤ人を迫害する風潮が長く続いた、ユダヤ人が職業において差別され続けていたことは前述のとおりです。

また、そのキリスト教もローマへ向かって浸透して行くと共にローマ帝国からの激しい迫害を受けるに至っているが、数次にわたる迫害にもかかわらずキリスト教の広まりは衰えることなく、4世紀にはキリスト教を公認する国が現れるようになった。301年にはアルメニア王国が初めてキリスト教を国教と定め、次いで350年にアクスム王国(現在のエチオピア)でも国教化された。
そうして中世と言われる時代が始まるのであるが、ローマ帝国の国教となったキリスト教の変節が始まることになる。


http://charm.at.webry.info/200803/article_9.html

古代ヨーロッパ世界の政治秩序は、皇帝(アウグストゥス)を頂点とするローマ帝国によって形成されていましたが、大波のようなゲルマン民族の侵攻とローマ市民としてのアイデンティティの崩壊、農業経済の基盤崩壊によってローマ帝国は瓦解します。ユリウス・カエサルの登場以来、蛮族の侵入を阻止してきた安全保障の防衛ラインを踏み破られた永遠の都ローマは、無抵抗のままに西ゴート族やヴァンダル族に蹂躙され略奪の要求に屈して滅亡しました。西暦476年、ゲルマン族の傭兵隊長オドアケルによって幼帝ロムルス・アウグストゥルスが廃絶されたことで、西ローマ帝国は正式な終幕を迎えますが、キリスト教を精神的支柱とする中世の時代はキリスト教を国教化したテオドシウス大帝の時代から始まっていたとも解釈できます。

ローマは『王政→共和政(元老院・民会)→帝政(専制的な君主政)』へと政体を変化させ、最終的にはローマ軍の最高指揮権を掌握するローマ皇帝に全権力が集中しましたが、ローマ帝国が滅亡した中世ヨーロッパでは『ローマ教皇(法皇・司教)の権威』と『国王(皇帝)の権力』が並立する二重権力構造が生まれてきます。ローマ帝国では、他宗教・異端思想に対して寛容な『多神教のギリシア・ローマ宗教』が信仰されていましたが、キリスト教をローマ市民統合の基軸にしようとしたコンスタンティヌス大帝(272-337)のミラノ勅令(313)から、段階的に他宗教と共存が難しいキリスト教の影響力が強まっていきます。

テオドシウス大帝(347-395)の時代には、他宗教の信仰を禁圧するキリスト教の国教化(380)が成し遂げられると同時に、ローマ世界から『信仰の自由・思想信条の自由』が急速に失われていくことになります。テオドシウス帝の時代には、ミラノ司教のアンブロシウスという人物が宗教的権威として存在感を強め、ローマ世界の最高権力者であるローマ皇帝と対等な立場に立って、悪政に対するサンクション(社会的制裁)を与える異例の状況が生まれました。宗教であるキリスト教が、俗世の最高権力者と対峙できるほどの強大な権威をまとえる時代が間近に迫っていたわけで、いかにローマ皇帝や諸国の国王と雖もキリスト教世界の権威を無視した政治を行うことが難しくなっていたのです。

古代ローマ人は異端(異質性)を受容する『寛容の精神』を持って、戦争の敗者を自分たちの社会システムに同化することでローマの勢力圏を飛躍的に拡大させ、アレクサンドロス大王の帝国に匹敵する領土を持つ世界帝国を建設しました。古代ローマの時代には、『心の中では何を信じても、何を考えても自由なのだ』という信仰・思想の自由の基盤が自明の原則として存在していましたが、中世ヨーロッパでは『ローマ・カトリックの正統な教義に反する信仰・考えを持つことは重い罪悪である』とする考え方が一般化していきます。これは当時の哲学にも非常に大きな影響を与え、精神的なものが本当に存在するという『実在論のスキーマ』で物事を考える中世では『思考と行動の境界線』が曖昧になっていったのです。これは近代以降の時代に生きる私たちにはなかなか理解し難い感覚ですが、『教会・政治権力が道徳的に悪いと定めることを、頭の中で考えているだけで実際に処罰される可能性がある』ということを示す非常に危険な状況が生まれたことを意味します。

キリスト教に限らず宗教政治や神聖国家の問題点というのは、『個人の内面の自由』に対して基本的に非寛容であり、『道徳と法律の境界線の曖昧化』が起こることで自由な発言や表現が萎縮してしまうということです。宗教教義がそのまま罰則のある法律となるような原理主義的な神聖政治では、民衆が相互に道徳的な監視をし合うような閉鎖的コミュ二ティが形成されやすくなり、『正しいことをしなければ処罰される・悪いことを考えれば制裁を受ける』という強迫観念が一般化します。無意識の概念を提起したジークムント・フロイトの精神分析では、『性的願望(エロスの欲望)の抑圧』が神経症の原因の一つとして想定されましたが、日本人をはじめとする近代社会に生きる人々が『性的願望の抑圧』に対してあまり実感が湧かないのは、『宗教的な罰則のある道徳規範』というものを日常で意識する機会がそもそもないからです。

しかし、『淫らな事柄を想像さえしてはいけない・生殖と無関係な性的快楽は罪悪である』という性的欲求の抑圧というのは、中世ヨーロッパ社会において普遍的な信仰であると同時に法でした。信仰心が高まりすぎた村落共同体は、性を罪悪視する余りに男女差別(女性憎悪)の観念を集団的に高ぶらせて、異端審問の名を借りた魔女狩りや共同体による私的制裁などへと暴走することもありました。共同体の多数者と同調しない独自の行動を取ったり、キリスト教とは異なる信仰・思想を持っているような話をしたり、異性を誘惑していると見なされるような服装や態度をすることは、同質性・信仰心の強い中世の村落においては危険なことでした。

メンテ
大和魂 117(キリスト教) ( No.121 )
日時: 2011/01/03 12:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

王権が衰退して政治権力が地方で分権化した中世には、そういった私刑を抑止するような集権的な法権力が多くの場合機能していませんでしたし、地方領主自身が率先して神聖裁判や魔女狩りを行うこともありました。その為、絶対王政(専制君主国家)が発展する以前の中世封建社会では、地方領主の権力は絶大であり、国王と雖も各地方の領主(諸侯となる有力貴族)に対して『強制力のある命令』を発動することは非常に難しい状況にありました。ローマ的な実利優先の法治主義は、キリスト教の聖書・教義や敬虔な信仰に基づく慣習法よりも劣るものと見なされ、『内面(思想)の自由』は被造物(人間)が神(創造主)の御意志を否定する許されない自由だと解釈されていました。

個人の内面の自由と性的な想像力が徹底的に抑圧された中世期にも独自の哲学(スコラ哲学)が発展しましたが、中世の哲学は『神学の婢女(はしため)』であり、キリスト教の正統性と権威性を証明するという方向性を持った制限の多い哲学でした。スコラ学自体は、文献学や理性的な討論を重視した学問の方法論や態度を意味しますが、スコラ学的方法論から生まれたのは神学を論理的・実在論的に補強する目的論的な哲学でした。

批判精神や懐疑主義、自由意志を自由に発揮できないという意味では、哲学であって哲学ではない営為であり、『最終的な答え』の決まった命題を証明するために文献学的・論理学的な証拠をかき集めるという性格を濃厚に持っていました。しかし、キリスト教とスコラ学(スコラ哲学・スコラ神学)は中世ヨーロッパの分断を押し留めた精神的秩序の礎石であり、アリストテレス哲学によってキリスト教の実在論(実念論)を論証したトマス・アクィナスによって、スコラ哲学は『神の実在性』を論理的・文献学的に証明することに成功しました。

トマス・アクィナスの『神学大全』によるスコラ哲学の完成という意味は、キリスト教の正統教義に対する反論・疑問・異説に対して、そのすべてを『想定内の問題』として処理することができるような『質疑応答のマニュアル(文献学的な事例集・権威主義的な判例集)』が体系的に確立されたということです。しかし、このスコラ哲学を基盤とした壮大かつ煩雑な回答の事例集は、『精神的な普遍性(概念・観念)』が『物理的な事物(実際のモノとしての個物)』に先行して独立的に存在するという実在論によって支えられていましたから、ウィリアム・オッカムが実在論を論駁する唯名論(名目論)を提起したことでスコラ哲学の論理性の足場が揺らぎます。

オッカムの唯名論によって導かれる『普遍的な概念(内面の思考)』を『単なる記号(ことば)』と見なす認識が広まり、人間中心主義の人文主義などの影響もあってスコラ哲学・神学の権威性は少しずつ衰微していきます。これは結果として、信仰(宗教)と哲学(学問)の分離を促し、『主観的な思考(内面)』と『客観的な行動』の境界線が思想的に明瞭化していくことになりました。精神的な想像物(概念としての普遍性)が実在するという『実在論』は、理性的な思考によって導かれたイデア的な真・善・美の規範から、被造物である人間は逸脱してはいけないという行為規範を導きました。これは、『普遍的な知性に対する意志の従属』という結論を導き、宗教的に善(正しい)とされる知識に反して、行動することも考えることも決して許されないという世界観を作り上げました。
メンテ

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