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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.127 )
日時: 2011/08/05 10:31
名前: 天橋立の愚痴人間

聖徳太子が言われた「和を持って尊しとなす」と言う言葉は政治的な発言としても、その聖徳太子が受けられていた政治的権力争いでも、中国で見られるような政敵勢力皆殺しと言ったような凄惨なものではありませんでした。

また日ユ同祖論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96
などもあるように、極東の島国日本も始めから孤立したしたものではなく、広く海外との交流もあったようです。

「昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。」

「陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。」

この様な言い伝えから、我が国は多くの移民族により構成されているという見方があります。

極東の小さな島国であったゆえ、その後の外民族の侵略も殆ど経験せずに豊かな地で国家を営むことが日本と言う国だと思います。

その上に、一神教、多神教と言う宗教上の問題もありますが、我々自身が長年の間に慣れ親しんだ様相(和の心)は、中国、インド、イスラム、アングロサクソン圏の人々の様相と見比べて初めて実感できるものと思います。

また現在は、民族間の侵略、殺戮の時代は終わりましたが、長年培われた民族性の違いは残っています。
今後はアジアの時代と言う考え方もあるようですが、それは何を意味しているのでしょうか。
膨れ上がった人口的なものとも言えますし、多神教地域であるアジアの民族性を指しているとも考えられます。

その代表たる、日本の「和」の心を探求することが必要と思います。
次には「和」の心を世界のそれと比較してもう少し検証してみましょう。


メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.128 )
日時: 2011/08/05 17:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8olL9OgQ

先に紹介した細川氏の文章で「和」の心が賞賛されていますが、私は「和」の心を手放しで賞賛する気持ちはありません。

我が国の歴史も、天災あり、飢饉あり、血で血を洗う争いもありました。骨肉を洗う権力争いも絶えません。
士農工商、非人という社会制度も存在しました。

「和」の心がそれだけで万能薬のように思わずに「和」を検証することにしましょう。

「和」の心を、思いやり、優しい、同調の精神とするならばアングロサクソンの世界でも民衆の間に息づいています。

赤十字の運動も、生まれは違いますがマザーテレサの慈善事業も、ボウイスカウトの活動なども皆、西欧を発端に始まりました。

何よりも民主主義の考え方は西洋に興り世界を席巻しています。
私生活の面でもイタリア人の陽気さは我々も見習うべきところもあるでしょうし、スペイン人の親しみも日本のそれと引けを取るものでもないでしょう。

イギリス、フランス、ドイツの人たちに、日本のような「和」の気持ちがないと、言えるのでしょうか。

「和」と言う概念は、各国語ではどのように翻訳されるかは知りませんが、おそらく各国とも、そのような概念はあるでしょう。

で、ありますので「和」と言う文字を単なる思いやり、優しいと言う意味で捉えていては日本の「和」は理解できないのです。

他の国の民話や宗教を紹介してきましたが、その中にも「和」と言うものを感じさせる事例があったと思います。

アングロサクソン圏の項目で、聖書の内容を随分と長く書き連ねていましたが、それはキリスト教圏の人々が、日常生活の中で如何にキリストと結びついてきたかを感じていただくためです。

「和」の心と言うものは、何処の世界でも、それがなくては安穏な生活は送れません。
一方、キリスト教の影響を受けていると思われる彼の地の民は、時としてキリストを離れるか、またキリスト教を守るために大暴走も繰り返してきました。

十字軍の遠征、植民地活動、ナチの虐殺などがあります。
ジェノサイトという行為は人間社会に少なからず発生してきました。
日本でも、織田信長や中国で関東軍がやっているので西欧のそれが唯一とは言いません。

しかしながら日本とことなるのは、民衆そのものが受け入れていると思われることです。
このスレッドの題名「大和魂」は「和」の心の把握が目的ではありません。

アングロサクソン圏にも「和」お心は十分にあるものとして、その成り立ちを考えるとき彼の地のそれと日本のそれの違いに着目する必要があります。
1神教であるキリスト教の影響と、それを生み出し育んできた西欧の地政学上の民族間の闘争を考える必要があります。

彼らにとって「和」の心は自然発生的に体得したものではなく、それによって個人の生活はともかく集団として国家として、それだけでは安穏を得られない環境で生きてきたのだと思います。

それ故に「和」の心は時として跡形もなく踏みにじられるのです。
その上で、彼らの集団、国家が安定すれば慈善事業も始まるということです。
彼らの根本は、それで贖罪としているのでしょう。
いかにもキリスト教的な発想ではありませんか。

メンテ
「和」についておさらい 3 ( No.129 )
日時: 2011/08/08 21:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xlgVngco

とりあえずイスラムの社会へ戻りましょう。
最初の頃のイスラムへの旅で説明したように、イスラムと言ってもそれはチグリスユーフラテス両川の流域で豊かな土壌に恵まれ発達した農耕民族の話から始まります。

シュメール人が現れて、くさび形文字、暦などを発明してシュメール文化が興隆しました。
旧約聖書のエデンの園の物語もシュメールの影響が強いと思われています。
ノアの箱舟の伝説も、この時代の風潮を現しているようです。

何処の地域でも、農耕の豊作を願う呪術などが発達し、近代の宗教的な意味ではないが神を意識した時代の精神がありました。
それが、エデンの園の物語やノアの箱舟など雄大な背景を持った物語を構成していったことに意味は何であったでしょう。

それは国家のような大集団が構成されていたからと思います。
同じ頃、インダス文明の地でも「ラーマヤーナ」と言う抒情詩が生まれています。
これもヒンズー教が興る前の様子を示していて、シュメールの場合も含めて人々が自らの存在の意味を体系的に模索し始めたことがわかります。

同じ大河流域の農耕文明の地、エジプトと中国にはそれが見られません。
翻って、メソポタミアとインドにそれがあり、後にイスラム教、ヒンズー教、仏教が起きたことを注視したいと思います。
ユダヤ、キリスト教について言えば、元はメソポタミアのシュメールに同根があるとすれば、それなりに理解は出来ますが、その発展過程はイスラムとは異なっています。

さて、本題に戻り、イスラム世界の「和」の心ですが、ハムラビ法典やイスラム教の世界を見てみましょう。
「目には目を、歯には歯を」で知られるイスラムの考え方は、酷薄なものを感じさせます。
イスラム教の女性差別や、過激な原理主義も同様の激しい気質を感じさせます。
イスラム教やユダヤ教が興った背景に、その地域の部族間、国家間の闘争が激しくなってきたことを考えねばなりません。
モーゼの十戒ではありませんが、ユダヤの民も迫害に苦しんでいました。
そういう気持ちが救世主=神を求めるようになったのでしょう。
そうして、その神、宗教はアジアの多神教のような抽象的な存在では彼らの要求を満たせなく、もっと実利的な救世主、身近な救世主を求めたと思います。

それが一神教と言う形で現れ、キリスト教もイスラム教も、共通して神と信者の個人的対話を重要視した宗教となって行きます。
イスラム教の信者が日に5回の礼拝を欠かさないのも、ラマダンの風習も、それを物語っていますし、キリスト教の聖書を見ても、こと細かくイエスと信者の交流に触れています。

さて、問題の「和」のこころのことですが、この宗教の信者にとって、信者同士の「和」の問題の前に、神と子の関係があり、この方が優先するのです。
先に言ったイスラムの女性差別の戒律も、イスラム教の考えでは差別ではなく、実際にそれを承知でイスラムの世界を垣間見れば女性がしっかりと保護されていることがわかります。
キリスト教の聖書の世界でも、隣人を思う優しい気持ちが謳われています。
信仰生活に置いてあるかぎり、それぞれの宗教の世界では、言葉の通りの和の世界は満ち満ちています。
日常生活に置いて、それは我々も考える「和」の心と差があるものではありません。
以前、紹介した各地の旅の世界の様相を思い出していただきたい。
それぞれの地に民族に、それぞれの神話、伝説、民話があり、それぞれの歴史を物語っていたはずです。
そうして、後世になり人間社会のありようが変化したとき、その環境に応じた宗教が起こり、国家が興り「和」と言う心の変遷が始まったのです。

続いて述べようと思います、多神教世界での「和」の変遷を言う前に、イスラム、アングロサクソン圏の「和」のありようを以前の旅の文章で、今一度思い出して頂きたく思います。
そうして、それに同感を感じられると共に、それらが宗教的理由で、思いもよらない変革も遂げることもあわせて認識していただきたく思います。

そうです、十字軍の遠征、宗教戦争、イスラムとユダヤの対立、イスラム原理主義世界の主張など、我々が思う「和」の心とは似ても似つかない変貌を遂げることも合わせもっているのです。

メンテ
「和」についておさらい 4 ( No.130 )
日時: 2011/08/10 14:37
名前: 天橋立の愚痴人間

アジアへ行く前に、アングロサクソン圏の「和」の心を以前に書いた聖書の世界で、もう少し具体的に検証してみましょう。

(マタイによる福音書山上の垂訓から抜粋)
5:1
イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
・・・

・・・
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
(聖書引用終わり)


キリスト教でも「懺悔」と言う言葉があるが正式には告解戸と言い、その行為を秘蹟と称している。
カトリック教会での秘跡は「赦しの秘跡」と呼ばれ、正教会での機密は「痛悔機密」と呼ばれる。

その赦しの秘跡に必要な部分は
1.内的後悔(痛悔と遷善の決心)
2.天主(神)の代理者の前に告白すること
3.罪の償を果たすこと
4.天主の全権に因る赦免
以上四点であり、これら全体を赦しの秘跡と呼ぶ。

仏教で言う懺悔が、己を悔い改めることを表現するにとどまることに対して、キリスト教の懺悔は神との契約に対する違背を神に許していただくための具体的な儀式と位置つけられている。

この懺悔に対する微妙な軽重が仏教とキリスト教の違いとなって、懺悔をした人のその後の言動に影響しているのではないかと思う。
また、この様なことも書いてきました。

今まで述べてきましたように、キリスト教的な生き様とは、一方で神に誓いを立て、一方で我が身の自立を担保すると言う生き様です。
それ故に神の啓示を受けていない領域では、まったく自由であり、場合によっては神のためと言う名目で自己の利益を追求することを当然のことと了解します。
その論理の中に彼らの「和」の内在している傾向があります。
要するにキリスト教圏ではキリストを介在して「和」が説かれているのです。

アングロサクソンの世界では、贖罪という観点から、富者による寄付、施しが賞賛され、ボランティア活動など社会奉仕の精神が重宝されていることにもつながっています。

それが本当の「和」の心であるか否かは、今後の検証に譲りたいと思います。
また、このことが次に書きます、イスラム世界の「和」の発想と、すこし異なっていることに留意していただきたいと思います。
メンテ
「和」についておさらい 5 ( No.131 )
日時: 2011/08/10 14:50
名前: 天橋立の愚痴人間

イスラム世界の「和」について

【サウジイスラーム社会における個人の諸権利 1】

家庭はいくつもの個人から成り、社会はいくつもの家庭から成る。これまでの文章で示してきたように、私はサウジ社会において個人と家庭が学ぶところの道徳や特質の多くを説明してきた。疑念の余地のないことだが、健全なる教育を受けてきた個人と家庭から成立する社会は、互助性が強い、正しく良い社会になる。というのもそこにおいて各個人は義務と権利をわきまえ、自らの義務を果たすことに満足し、生命と財産と尊厳において安心していられるからである。それゆえ社会全体も平和と安定の下にあることが出来るのだ。

それでは各個人が全ての面において一丸になって助け合うことが出来るようになるため、社会に堅固さと安定を供給する原因と手段とは何であろうか? アッラーがそのしもべたちにお与えになった恩恵の中でも最も偉大なものの1つである、イスラーム兄弟愛がそのうちの1つであろう。この兄弟愛は愛情、平安、相互扶助、結束といったものをもたらす、ムスリム共同体の基本なのである。そして相違や争いといったことは、それが起こったら即その基本に立ち返らなければならないところの例外なのである。


4.困窮者と弱者の援助

 アッラーはその創造物をその強さや弱さにおいて多様にお創りになり、そしてある者をその糧において他の者より優遇された。そして通常弱者は強者を、貧者は富者を必要とし、病人は健康な者を、ある事に無知な者はそのことについての知識を持つ者を必要とする。

 またアッラーは善行と敬神の念において援助しあうことを命じ、罪悪と敵対心のもとに援助し合うことを禁じられた。そして今日同志が必要としているものは、明日は自分自身が必要となるかもしれない。必要を満足させることはイスラームの兄弟愛の求めるところのものである。そしてイスラームにおける社会教育は善行を勧め、悪行を禁じることなのである。全世界が求めている平和とは、実にこのことなのだ。そしてそれは孤児の援助や貧者の救済、無所有者に衣食を与えることなどを命じているイスラーム教育の他にはない。もとより困窮している者を援助するのは社会がそうでならなければならないところのもので、それは特定の個人や場所、時間に限定されてはいない。それどころか特定の宗教だけに向けられてもいない。逆に人間は宗教や国籍、時間や場所などに制限されることなく、困窮者を援助しなければならない。

 親愛なる読者の皆さんに向けてもう一度強調するが、イスラームという教えはムスリム以外の人々に対して邪険に振舞うことなど命じてはいない。その反対に、彼らへの奉仕はムスリムに対する奉仕と同様のものである。もし彼らが私の言うことと矛盾することをしているのを見たら、あなたはムスリムが真のイスラームから遠くかけ離れた所にいることを確認するだろう。


ここで御分かりのように、イスラム教圏では、同じ一神教であるアラーの神の下で信者同士助け合い、仲良く生きることを奨励しています。
多神教圏と異なる点は飽くまでもアラーの神の下でという条件付ですが。

このレス全体は、以前にイスラムえの旅で書いたものですが、そこでのある旅行者が書かれたエジプトレポートをかりて民情を紹介します。


3カイロの子供達

驚くほど大勢の男達が、昼間からすることもなくぶらぶらしている。ルクソールで会ったタイヤという男もそうであったが、一日の大半ブラブラするのが仕事のような男も多い。その代りスークや駅で、小学生位の子どもが学校にも行かず、物を運んだり売ったり、よく働いていた。結構一人前に大人とやりあっていたりして生活力を感じさせる。

エジプトの子供達のたくましさを知りたかったら、王家の谷へ行くのにタクシーでなく、貸し自転車で行くと良い。道の両側から貧しい格好をした子供達が走り出してきて、これ買ってとか、バクシーシ(お金、頂戴)とか、次々に声をかけてくる。自転車の後を追いかけてくる子もいる。毎日観光客が通る度にあれをやっているのである。日本なら社会問題になりそうなものだが、彼らにとって教育よりも生活が大事なのだろうし、皆無邪気で明るい。そういえば、走ってゆく自転車の前でパッとスカートの前をめくって、ケケケと笑う妙なのもいた。

僕はどちらかといえば子どもは好きな方ではないと思うのだが、エジプトの子はカイロの街角で唇を歪めてバクシーシと手を出すガキも含めて皆可愛かった。カイロの喧騒を逃れてムハマンドアリモスクの回廊の柱の下に座って本を読んでいたら、遠足で来たらしい小学生の一団が僕を見つけ、あっという間に彼らにとり囲まれてしまった。“ハロー”“ハロー”口々に叫んで手を差し出す。一つ握ってやると私も私もという感じで、目の前にいくつも手が並ぶ。殆ど全員と握手するまで輪がとけなかった。こういう無邪気さがそのまま大きくなって、あの親切仲良しエジプト人になるのだなと思った。

4。タハリール広場に

ニューカイロのミダン・エル・タハリールは常時数十台のバスやミニバス、それにタクシーが発着する巨大な広場である。多量の人と車の混乱振りはカイロの象徴のようなところである。ここで慣れぬ旅行者は、いかに目当てのバスに乗るか苦労することになる。バスはあちこちで次から次へと発車しているのだが、どこで待ったらいいものやら、またそれが解ってもバスの行き先や系統番号がアラビア語で書かれているので途方に暮れる。70と書いてあるのは70ではなく、65だというのだからかなわない。大体、来るバス来るバス人でギッシリで、はみ出て手すりにぶら下がっている奴もいる。止まらぬうちにワッと飛び降り、乗ろうとする連中ともみ合い、走り出しても尚何人も飛びおり、また元と同じギッシリの状態になって、どうにか出発していく。異邦人は喧騒と混乱の中、ア然として立ちつくしている。

そこで登場するのが親切エジプト人である。いかにエジプト人が親切かということは、ここで自分のバスを尋ねれば良く解る。たとえ英語が解らなくても、ついて来いという仕草をし、車の洪水を横切るのに手を貸してくれ、あちらの乗り場で尋ね、こちらで尋ね、それでも解らないでいると、たいてい“俺も手伝おう”という男がもうひとりふたり現れ、それぞれ自分の予定が遅れるのもおかまいなしに、驚くべきことに僕がちゃんと目当てのバスに乗り込む迄見届けてくれる。

ホッサム君という男もそうであった。立派な体格でヒゲも薄く生やしているが、多分高校生ぐらいと思う。このホッサム君僕が乗るカイロ旧空港行きのバスを15分ほど一緒に待っていてくれた。学校へ行く途中とみえて英語の教科書を持っていた。僕はこの日ルクソールへ行くところであったが、ホッサム君は自分の家の住所と行き方をエジプト語、英語の両方で書いて、カイロに戻ってきたら是非遊びに来てくれと言う。バス乗り場を聞いただけでこういう展開になるところがおもしろい。“きっとだよ”というホッサム君の無邪気な笑顔が印象に残る。

5。ギザにて

ギザのピラミッドは、エジプトの中でも有数の観光地である。タハリールから乗った乗り合いタクシーは、ピラミッドの少し手前で地元の乗客が皆降りて僕ひとりになると、さっそく、ピラミッドまで行くならあと1ポンドとここまで十数キロ来たその4倍の料金をふっかけてくる。すぐにこれである。“バカ言え”と言って降りて歩いて行く。ピラミッドから1キロ離れているが、もう物売りやらくだ引き、ガイドが声をかけてくる。この手の連中は結構しつこいのでうんざりさせられるが、タンジールの自称ガイドに較べるとここの人達はそうひどくない。

ノー、と言って通りすぎてもしばらくはついてくるが、こちらも立ち止まって、もう一度はっきりノーといって歩き出すと、大体あきらめるようである。それでも僕の後ろで、半ば泣き声のような声で、“何で俺に値段を聞かないんだ”“たった1ポンドだよ1ポンド”“オーイ、この品物を見てくれよォ”といつまでも叫んでいるのを背中で聞いていると、芝居がかった大げさな言い方に吹き出してしまう。観光客相手にぼろうとする連中も、ここでは善人エジプト人の気質が見えかくれする。

うるさい連中から逃げるようにして歩いていたら道に迷ってしまって、またまた地元の人に助けてもらった。エジプト独特の丸いパンをモグモグ食べながらやって来た20才位の男である。英語をしゃべらず、そのまま歩いていくので、こりゃ駄目かな、と思いながらついていくと十字路に来て、こっちだという風な仕草をしてまた歩いていく。

道が上りになって、ピラミッドが近いことが知れる。らくだ引きが“こっちが近道だ”などといいながら連れて行こうとするが、無視してモグモグ兄さんについていく。中にはモグモグ兄さんをつかまえて何か言うのがいる。エジプト語なので分からないが、“商売の邪魔をするな、案内なら俺がやる”とでも言っているのだろう。困ったようにこちらを見るので、その度にノーと言ってやると、兄さんはまた歩き出す。ゆるいカーブをまがると目の前にピラミッドが二つ巨大な姿を現した。兄さんは、あれがピラミッドだというようなことを言い、くるりと振り返って今来た道をスタスタ下りて行った。礼を言う暇もなかった。

6 再びカイロにて

ルクソールから夜行列車でカイロに向かった。ルクソールを深夜出て丸半日、正午を回って列車は運河に沿って走っている。夜が明けてからまるで変らぬ風景が続いている。狭く、空気の汚れた車内にいるのがしんどくなって、デッキへ行った。幅が日本の列車の一倍半程あるドアは開け放たれていて、乾いた暖かい風が吹き付けてくる。降りる駅が近づいたのか4,5人の黒人がどやどやとデッキに出てきた。きいてみると、スーダンから来たという。

カイロの南数十キロの小さな町の大学に留学するのだそうで、列車がスピードをゆるめる度に、ちがうちがうこの町じゃない、などと言い合っている。その中の一人が僕にむかって“エジプトはいい所だろう”“ウンウン皆親切でいい人たちだ”そう答えながら、明日この国を去る僕はエジプトで会ったいろいろな男たちの顔を思い出していた。親切であることは間違いないが、日本語や英語でいう親切とは少し違うような気がした。

親切エジプト人は俺は俺、お前はお前で、お互いの人格を認めつつ、博愛主義的親切を発揮するヨーロッパ人とは違う。その点では何やらエジプト全体でひとつの家族のようにお互い仲の良いエジプト人は、相手が自分と同質の人間であることを期待する日本人に近いのかもしれない。しかし絶対的親切というか、あの確信に満ちた顔付きは、行動や考え方が人からどうみられているかということに容易に左右される日本人では持ち得ないものである。歴史なのか土地なのか民族なのか分からないが、あれはもうそういう風に人間が出来ているとしか言いようがない。

スーダンの学生が僕が持ってたマイルドセブンライトを珍しそうに見るので一本ずつ分けてあげた。と、それまで黙って我々の傍に立っていた太ったエジプト人のオッサンが、何やらエジプト語を言いながら僕の煙草を箱ごと取り上げ、自分のポケットにしまいこみ、代わりにクレオパトラというこの国の人気煙草を僕に渡してよこし、ニッと笑った。遠くサッカラの階段状ピラミッドが見えてきた。列車は混乱と喧騒の町カイロに近づきつつあった。 

(おわり)

冒頭でのムスリムの紹介文と共に、エジプトの人たちの「和」の心が屈託のない自然なものであることが御分かりと思います。

その一方で彼らの善意は、キリスト教圏のそれとは異なり安定した理念的なものではないことにも気つく必要があります。

また、表面的に現れている屈託のなさが、全て善意と勘違いすることもないと思います。
それは古代から豊かなナイルに育まれたノンビリとした風情と強固な王権支配に対抗してきたしたたかさも合わせもっているのです。

ここでは。どのような「和」の心が好ましいと言っているのではありません。
その特徴を検証しているのです。

次にはインドと中国へ行って見ましょう。
メンテ
「和」についておさらい 6 ( No.132 )
日時: 2011/08/13 16:03
名前: 天橋立の愚痴人間

最初にインドの民話を紹介(再掲)します。

「人の運命」

 ある国に貧乏な爺さんと、婆さんと、その息子がいた。三人はたいへん信心深くて、毎日神に祈りを捧げながら日を送っていた。けれどいっこうにその御利益もなくて、二晩に一晩は飯をぬいて寝る、というふうだった。それでも三人は神の祭礼だけは欠かした事がなかった。
 ある日、天で幸福の女神のラクシュミーが夫のナーラーヤナ神に言った。
「ねえ、あなた。あの三人は毎日わたしたちをこれほど熱心に拝んでいるのに、あんなに不幸だなんて」

「そんな事を言っても、彼らの運命は現世ではこういう事になっているのじゃ」
ナーラーヤナがこう答えるとラクシュミーは、
「いいえ、あなた。それは嘘ですよ。わたしは幸福の神ラクシュミーですよ。あなたは偉大なナーラーヤナ神じゃありませんか。ああしていつもわたしたちの事を拝んでいるのですから、ひとつ行って望みを叶えてやろうじゃありませんか」と言った。

 そこで二人の神は連れ立って下界へ下りていった。そして三人の住む家の庭に立ち、家の者を呼ぶと中から爺さんが出て来た。
「われわれは天から来たナーラーヤナとラクシュミーじゃ」
ナーラーヤナ神がこう言うと、爺さんはびっくりして、
「こんな貧乏人の家になんでまた来られましたか」と言って、いそいそと家の中から破れたカンタ(刺し子布)を出して来た。二神はそこに坐って言った。
「お前達はたいへん信仰があつい。そこで今日はお前達の望みを叶えに来たのじゃ。何なりと望みを申すがよい」

「それは本当ですか」
「本当じゃ。明日から毎朝ひとりずつ池に行って身を清め、そのあとで自分の望みを言うがよい。財宝でも何でもやろう。もし大国の王になりたいというなら王にもしてやるぞ」
こう言って、二人の神は天に帰っていった。

 これを聞いた爺さんと婆さんと息子は喜んだ。そしてそれぞれ自分の願いごとを考え、誰がはじめに望みを叶えてもらうかその順番を決めた。
まず婆さんが初めに望みを叶えてもらう事になった。婆さんは翌朝早く池へ行き、体や手足を洗って身を清めると、どんな望みを言おうかと考えた。
「わしはこんなに黒くて醜い。村の連中もわしを見てはバカにしおる。爺さんは財宝が欲しいと言っていたから、うん、そうじゃ。それならわしは...」と言って神にこう願った。
「神様、わしを美人にして下さいな。インドで一番美しい女に、いやそれより世界で一番美しい女にして下さいな」

 するとたちまち婆さんはこの世にまたとないほどの美女になった。
 そして池から上がり、さて家へ帰ろうかと思っているところへ、ある国の商人が通りかかった。そして美女になった婆さんを見た。
「わたしのような金持ちの家にもこんなに美しい女はいないのに、こんな辺ぴな田舎の池のほとりにこんな美女がいるとは...」

 商人はこうつぶやくと、美女になった婆さんを馬に乗せてさらっていってしまった。
 これを見た爺さんはたいへん悲しんだ。
「わしの婆さんがいなかったら、この所帯も意味がない。いくら財宝を得て王になったところで婆さんがいなくては何になろう。それならいっそのこと...」

爺さんは翌朝池に行き、身を清めてから神にこう祈った。
「神様、さらわれてしまったわしの婆さんをどうか豚にして下さい」
 商人は美女になった婆さんをさらっていって家の一室にかくまい、翌日結婚式をあげる事にしていた。ところが一日たってみると驚いた事に美女が豚になっている。
「これはどうした事だ!わたしは豚などさらってきた覚えはなかったが...」

 商人は豚をひっぱたいて追い出した。
 豚は家に帰って来たが、豚になってしまっては仕方がない。爺さんも豚をたたいてはあっちへ追ったりこっちへ追ったりしていた。これを見て息子は、
「ああ、母さんが豚になってしまっては、いくらおれが財を得たところで何になろう」と思って、

翌朝池に行くと神様にこう願った。
「神様、どうかおれの母さんを元通りの姿にして下さい」
 すると婆さんは黒くて醜い元の姿に戻った。これで三人の願いは聞き届けられた。
 天でナーラーヤナ神は言った。
「どうだね、ラクシュミー。わしが言った通り、彼らに運はなかったのじゃ」-おわり-



我々にも、そのまま当てはまるような話しです。
しかし、日本ではこの種の民話はありません。
倫理、道徳の間に埋没しているのでしょう。

次の話しです、これは現代に近い話です。


夜、泥棒が、街一番のお金持ちの家に忍び込み、荷物を持って逃げ出そうとした時、足の指の爪を剥がして家の中に落としてしまいました。泥棒は大急ぎで戻って爪を拾おうとしたが、爪はなかなか見つからず、仕方なく電気をつけたら見つかってしまいました。

この泥棒が、どうして爪などにこだわったかといえば、インドでは、古くから「爪を落としたところは滅びる」といわれていました。泥棒にしてみれば、大事な仕事場(お金持ちの家)がなくなっては困るので、爪を必死になって探していたという笑い話です。

インドの社会背景には、『小さなものでも大きなものへのつながりがある。』という考え方があります。カルマ(因縁)と言いますが、常に、自分の言った些細な言葉や考え方も、大きなものにつながっている、だから思慮の足りない言動を慎む様にという戒めが、この物語にはあります。もちろん先のとがった爪は危ないので切った後の始末の戒めでもあるわけですが。



爪の話が出ましたが、日本では、夜のタブーがあります。例えば、夜に爪を切ってはいけない。

夜に、塩を買ってはいけない。夜に、新しいものを使い始めてはいけな
い。それと反対に、祝事は、朝の方が良いとされています。インドには、朝・夜の時間によるタブーがありますか。

インドでも時間に関するいろいろな観念があります。日没の時間は、1日の中で、とても大切な瞬間です。サンスクリットの考えから来ていますが、日没と日の出の時間は精神的にも大変敏感になる時間で、この時間には、お線香をたき空気を清めてお祈りをします。日が暮れて家に灯をともす時、私も今日1日の無事を感謝しながら敬虔な気持ちでお祈りをします。

この時間をサンジャ(サンスクリット)と言い、女性の名前にもよく使われています。日の出は、ウシャ(サンスクリット)といい、これもよく女性の名前として、使われています。ウシャには、ヒンディーの聖人にとっても大事な時間で、早朝4時頃からお祈りをします。太陽に水を奉げて祈る時間です。




日本では、「茶柱が立つ」(お茶の中に茶の芯が浮く事)と縁起が良いとか、「雨降って地かたまる」という、縁起の良い前触れについても良く言われます。良い事のまえぶれについてインドにも言い伝えがありますか。

 商店などでは、朝1番のお客さんを大切にします。何も買わずに帰られてしまうと、1日商売がうまくいかないという考えから、たとえどんなにお客に値切られても買ってもらいたがります。以前は、私の母が朝早くクレープ(布地)を買いに行き、その店では買わなかったけど、母が再び戻ってきたら店主が店の前で母を待っていたそうです。

母が店を出てから1時間あまりの間に大変な客入りで、大繁盛。母は、ただで、クレープを貰ったそうです。母が、商売繁盛をもたらしたと思ったそうです。一番最初のお客は大事にされます。

また、仕事場に入る時、そこの床に手をついてその手を自分の額に持っていき拝んだりします。今日1日仕事が上手くいきますようにという気持ちですね。舞台に上がる時もそうですね。

 インドでは、朝一番に目に、入ったもので、その日の運を占ったりします。それは、いつも嫌われていたり疎まれているもので、生肉、お酒、痛いもの(刺とか、出掛けにどこかをぶつけて、痛い思いをする)、ヒジュラ(インドのオカマの人たち)などです。こういうものに、朝一番に出会うと、今日は、これ以上嫌なことはない、転じて、良い事があるとなるわけです。

(民話の紹介終わり)

如何でしょうか、キリストやアラーと対話する中で生きている世界に比べれば、何と悠長な世界でしょう。

もちろんインドにも宗教はあります。
よく知られている、リグ・ヴェーダなどの世界を始原とするバラモン教、ヒンズー教、仏教です。
その内容は、ここでは省略しますが、所謂多神教の宗教です。

この様な地域での「和」とはどのような性格のものでしょう。
メンテ
「和」についておさらい 7 ( No.133 )
日時: 2011/08/14 21:30
名前: 天橋立の愚痴人間

http://homepage2.nifty.com/michimichi/irpt.htm
上記のサイトに拠って現代インド人の様子を見ましょう。

インド政府観光局はインドへの外国人観光客誘致のために、"Incredible India"というキャッチフレーズでキャンペーンを行っている。このキャッチフレーズをインド観光局は「素晴らしきインド」と日本語に訳していたが、インドに一度でも行った人ならば、きっと「信じられないインド!」という訳の方がふさわしいと感じられると思う。それくらいインドは外国人には信じ難い驚きに溢れた国である。私は2004年10月より1年間大学より在外研究の機会を得てインドに滞在したが、その1年も驚きに満ちた日々であった。

(牛の大国)
インドにやってきて最初に驚くのは町で見かける多くの牛であろう。シヴァ神の乗り物である牛はヒンドゥー教徒の間で神聖視され、彼らがいたるところで寝そべったり歩き回るのを許容している。片側2車線、3車線の主要道路を悠々と集団で歩き、車の通行を遮断することもしばしばである。またあちこちに牛糞を落とすので、地面に気をつけながら歩かなくてはならない。さらに牛も時には怒って大きく突き出た角で人間を刺し殺したり傷つけたりすることもある。デリーでもこのような牛の行動を問題視する人も多く、本当に実行するかどうかは別として、牛にICチップを埋め込んで、持ち主が特定できない牛や持ち主が管理しない牛は郊外に移動すべきであるという提案が政府のどこかの委員会でなされたようである。

(信じがたい道路マナー)
牛の次にインドで驚かされるのは道路上のマナーの悪さであろう。自分の乗り物が入る隙間を見つけようものなら容赦なく入りこむ。そのため道路に車線が引いてあってもほとんど意味をなさず、対向車線も含めて自由に走っている。中央分離帯があり車線がはっきり区分されている道路でさえ平気で逆走する車がたくさんあるので、右を見て車が来なければ道路をわたり始めればよい(一応日本と同じで左側通行である)などという甘いものではない。油断していると逆走する車に衝突されてしまう。しかもバイクや小型車が申し訳なさそうにこそこそ逆走するくらいならまだしも、大型バスが豪快に逆走していく。もっとすごいのは高速道路でラクダが悠々と進行方向と逆向きに歩いてきたことがあった!一度カンプールという町で橋が大渋滞して、乗っていた車が身動き取れない状態になったことがあった。橋は2車線でどちらも我々と同じ進行方向を向いた車で一杯になっていたので、当然一方通行の道だと思いこんでいた。ところが、実際には前の車を追い越そうとする車が大量に対向車線に流入して、ずっと先の方でまったく動きがとれなくなってしまって大渋滞が起きていたのであった。

(動物も含め様々な輸送手段)
インドの道路では日本では見かけない様々なものを見ることができる。オートリクシャーと呼ばれる3輪の小型タクシー、車輪付き座席を自転車で引っ張るサイクル・リクシャーと呼ばれる乗り物(日本ではその昔リンタクと呼ばれていたらしい)、ベンガル地方のコルカタ(旧カルカッタ)では今も人力車が健在である。そのほか首都デリーの道路でさえ、馬や牛が輸送手段として使われ、時に象までも大通りをのっそりのっそりと歩いている。デリーの南方へ2,3時間のラジャスターン地方まで行くと、ラクダが多くなる。これらに通常のトラック、バス、乗用車、バイク、自転車、人力荷車、人人人が道路にあふれかえっている。そして、とどまることなく鳴り続けるクラクションの音と排気ガスで、インドに初めて来たころは道路にいるだけで頭がおかしくなりそうになったものだが、今ではすっかり慣れてしまった。道路で遭遇する珍しい体験といえば、一度だけ中年の男性が20名くらいの集団で道路を行進していた中に数名全裸で堂々と歩いている人たちがいた。彼らはジャイナ教徒だったのではないかと思う。インドにはジャイナ教徒の人々が400万人以上いるらしいが、彼らは大きく2つの派に分かれ、そのうちの1派は服も身にまとわないという教えを守っているのだ。

(横入り王国)
道路上のマナーの無さと共通項を持っていると思われるのは、インド人の横入りである。インド人は列を守らないことでは世界一だと思う。電車のチケットや入場券などを購入するために列を作らなければならない時、インド人は次々と横入りしてくる。それを力づくで押しとどめ、周りのインド人の声に負けずに自分のほしいものを大声で主張し続けなければ手に入れることはできない。近所のインド菓子屋でさえ祭り時になると人々が殺到し、ちょっとしたお菓子を買うためだけに10分以上戦う羽目になる。ある時もやっと次は自分の注文を店員に取らせることができるだろうと思った瞬間に、ターバンを巻いたシーク教徒のおじさんが割り込もうとしたので怒鳴り散らして遂にお菓子を買うことができた。

(規範にとらわれない人々)
インド人は自分の言動について相手や周りの人々がどのように感じるかについて気を遣う程度が極端に少ないと思う。大まかな社会的ルールを除いては、自分の考えや欲求、本能にしたがって「とりあえずやってみよう」というのが彼らのスタイルであるように見受けられる。そのため、手に持っているものが邪魔になったら道端でも車や電車の窓からでもどんどん捨てていく。便意をもよおせばところかまわず立小便をするし、時々大をする人さえ見かける。人前でおならやげっぷをすることはいうまでもないだろう。万事がそんな感じである。ヨガで瞑想をしていて無我の境地に達しようとする瞬間に隣でおならのブッという音が聞こえると台無しである。

(あてにできない約束)
そんなインド人だから約束してもあてにならない。家に食事に招待するといってくれていても、いざ当日になって何時くらいに行ったらいいかと確認の電話をすると、「今日は忙しい」といわれることなどごく普通のことである。また、近所のコピー屋(コピーは自分でとらせてもらえないのだ)に本のコピーを頼んで2時間後くらいに約束しておいてその時間に取りに行ってもやっていないし、道端のアイロン屋(シャツ1枚5円くらいでやってくれる)に午前中にアイロンがけを頼んで、午後出かける間際に取りに行ってもまだアイロンをかけてないなんてことはごく当たり前のことである。私がいた研究所では電話をするとチャーイ(インドのミルクティー)を研究室まで持ってきてくれるのだが(なんと1杯6.5円)、頼んでも来ないことが結構あった。デリーで働く日本人の会計士の方も部下のインド人に実際の締め切りより2,3日前に締め切りを言っておくといっていた。レストランでウェイターに注文しても彼ら(ちなみにインドではウェイトレスはほとんど見かけない)が注文を紙に書かないと不安になる。案の定何分もしてから注文は何だったか聞きに来ることもあるし、注文したものが来ないことも多い。幸い私は注文したものと違う料理を持ってこられた経験はないが、ウェイターが間違った料理を持ってきて、「違うじゃないか」と文句を言ったらウェイターが「これを食え」といったらしく、ウェイターの襟首をつかんで怒り狂ったという日本人の話も聞いたことがある。

(寛容なインド)
こんな話をしていると、インド人はとんでもない人々だと感じるかもしれないが、こうしたインド人の性格やインドの雰囲気が、私も含めて多くの外国人の心をとらえてしまうのだと思う。日本にいるといつも周りの人たちの視線や気持ちを気にしていなければならない。言動に関してもいろいろな規範がわたしたち日本人を縛っている。それに比べ、インド人は大らかで異質のものに寛容である。いろいろな人たちが混じり合って生きているので、寛容にならざるをえないのだと思う。一度、早朝に公園で行われたヨガの大集会でグル(先生)が尊いお話をしている最中に乱入者が現れ、グルのマイクを奪って何かを訴えようとした。グルの弟子たちが舞台に駆けつけ、乱入者をなんとか公園の外に追い出し収まった。ヒンディー語でやり取りが行われたのでなにが起きているのかよくわからなかったのだが、あとで一緒に集会に行った初老のインド人の方に聞いたら、「ああ、なにか話したかったんじゃないの?」と特に驚いた様子もなく淡々としていた。日本で何百人の大集会に乱入者があったら、参加者もかなり驚き動転すると思うのが、こちらでは別に驚くほどのことではないらしい。

(インド結婚事情)
インドの結婚事情は日本人にはきわめて興味深いと思う。大都市を除いて今でもお見合い結婚がほとんど全てである。都市でも依然としてお見合いが主流であることは変わりない。村ではかなり幼児婚も残っていて、これをやめさせようとした政府の役人が反感をいだいた村人に両腕を切断されるという恐ろしい事件が私の滞在中に起きた。通常、親戚、友人を介して親が息子や娘の結婚相手を捜す。その場合もまず家族の一番下っ端の末娘などが相手の家族とコンタクトをとり、次に男兄弟、母親の順で相手本人や家族と会って、よさそうだという話になると、やっと本人同士が会う。それでうまく行きそうだということになって初めて父親に会い、最終的に父親が決定するというものらしい。もっともこの話は一友人のケースなのでどれくらい一般的なパターンか分からないが、少なくとも父親が息子・娘の結婚に大きな決定権を握っていることは間違いなさそうだ。

新聞広告
親戚、友人を介さない場合にはインドには面白い方法がある。それは新聞に花嫁・花婿募集の広告を載せるのである。日曜の主要紙にはmatrimonialという、このような広告だけを載せた10ページ近い折込紙が挟まっている。数行の広告にはまず自分のカーストが書かれ、その他に自分の職業や学歴、趣味、嗜好、相手に求める希望などが書かれている。これらの広告は家族ぐるみで掲載する大真面目な広告である。

ホロスコープ
きっかけはどうであれ、いよいよいい結婚話ではないかとなってから、インドではもう一つ大きなハードルがある。それはホロスコープ(ある本は「天宮図」と訳していた)である。インド人は生まれた生年月日と時刻によってその人のホロスコープが決まる。2人のホロスコープの相性がよくなければ結婚はすることができない。友人の友達は恋愛をして双方の家族とも互いにいい相手だと認めてさあ結婚という段階になって、二人のホロスコープの相性がよくないということがわかり破談となった。本人たちは狂わんばかりだったらしいが、それでもホロスコープが合わなければ2人は結婚できないのである。

持参金
さて、結婚する段になってもインドではいろいろ大変である。インドでは花嫁の家族から花婿の家族にダウリー(持参金)を渡さなければならない。この持参金の額をめぐって、結婚後に嫁が殺されたり、ハラスメントを受けて自殺に追い込まれることもある。持参金はかなりの高額で娘を何人も持つと家族が破産するほどである。そのため、インドでは女の子が生まれるとわかると中絶する人が結構いるらしい。そのためデリーでは生まれてくる男の子1000人に対して、870人の女の子しか生まれてこない。私の住んでいた南デリーではなんと男の子1000人に対して女の子が780人しかいない。都市部では男性の数が女性の数をはるかに上回り、結婚できない男性もかなりの数に上ると思われる。そのため、デリーのような都市では、女性を狙った犯罪も多く危険である。

(信心深い人々)
行動を見る限り一般にインドの人々の信仰心は大変深いようである。大家のグプタ家も家の中にヒンドゥー教の神棚を作り一日に何回かプージャ(お祈り)をしている。屋上の小部屋に住む大家のお手伝いさんたちも毎日近所のヒンドゥー寺院にお祈りに行くことを欠かさない。近所からもプージャに用いる小さな鐘の美しい音が聞こえてくる。各地のヒンドゥー寺院や聖地には、平時にもかかわらずたくさんの巡礼者たちが訪れている。祭り時になると、神様の像を数秒間拝むために数時間も長い列を作って信者が待つような寺院もある。

(お祭り大国)
インドはやたらと祭りが多い。地方によって、祭りもまたその祝い方も違うらしいのだが、デリーでは秋にあるディワリの祭りの迫力が格別だ。日本では危険物取り扱い者の資格が無ければ打ち上げることができないような強力な花火を一般の人が市場で購入することができる。ディワリの夜にはそのような花火をデリー中で打ち上げる。映画のだけでしか見たことがない空襲のような爆音が町中でとどろき、恐怖感さえ感じるくらいである。招待してくれたインド人の家でもかなり強力な花火を次から次へと住宅街の真ん中で打ち上げていた。その1つが誤って、向かいの家の3階のベランダに突っ込みベランダで大爆発した。幸いそのとき人はいなかったが、もしあの時人がベランダにいたら、死傷者が出ていたと思う。とにかく、日本の祭りでは味わえないようなスリルが満点である。

(紹介終わり)

一気に紹介しましたが「インド人も吃驚」と言う言葉の意味が解かったような気がします。
個々の観念の強いインドでは、宗教は自らが宗教であるように極端に実践し、個々の生活に置いては国家、宗教から受けるはずの規範などに素直に従うつもりはない。

そのインドで今なをカースト制度が生きているという。
彼らにとっての唯一の規範、公はカーストなのであろう。
独立のときのガンジーの無抵抗主義は、こうした環境で民族、国家として結束が難しかった故でもあると思われる。

仏教を生んだインドの地で、仏教が大乗仏教の性格を得る事が出来なかったことも理解できる。
ゼロの概念を生み出すインド人にとっては、1神教はありえず、多くの神も単純に受容すべきとはならないのであろう。

生の人間の共生社会を見るようである。
メンテ
「和」についておさらい 8 ( No.134 )
日時: 2011/08/15 20:25
名前: 天橋立の愚痴人間

いいよ中国人の話しをしましょう。
ネットで得た情報です。

「中国人男性の性格で、一般的によく言われることは以下の通りである。」

(自信過剰)

中国人男性の性格は、一言で言うなら「自信過剰」である。できないことでも「できる」と言う。経験がなくても「心配ない」という。
例えば、中学校1年生レベルの英語力しかなくても、中国人男性は「英語ができる」と言い張る。作ったことがなくても見たことがあれば「大丈夫(作れる)」という。メンツがあるから「ムリ」とは言えないし、また、何事も簡単に考えるので、本当にできると思っている。
中国人男性は「自信過剰」ではあるが、大抵の場合、その自信には何の根拠もない。中国人男性の自己PRは常に自信満々であるが、実力はその4〜5割程度しかない。そして、なにごとも「没関係」(大丈夫)で済まそうとするが、大丈夫でないことは多い。ただし、当の本人は本当に「大丈夫」だと思っているので、自信喪失につながることはない。


(メンツが大切)

中国人はメンツを重んじる。どんな時でもメンツは大切にする。職業も女性もメンツで選ぶ。
女性に優しい
中国人男性は女性に優しいと言われる。とにかく女性にはよく尽くす。結婚してからもよく尽くす。亭主関白など絶滅危惧種に等しい。特に上海の男性は徹底的に女性に尽くすことで知られる。しかし、北京人女性達からは「上海男は女のいいなり」とか「女にシッポを振りすぎ」などと言われ、あまり評価は高くない。もっともこれは「北京は首都である」という誇りを持っている北京人が、国際都市として豊かに発展した上海という都市、そこでオシャレな生活を堪能している上海人に対する嫉妬の部分が多いとも言われる。

(マザコン)

中国人男性はマザコンの傾向が強いと言われる。中国人は家族を大切にする気持ち、家族の絆がとても強いので、母親のことをとても大切にする。しかし、これが少々いきすぎた感じがある。そのため、中国人男性は就職や結婚など自分の人生の一大事にまで母親の意見に左右される。恋人や妻より母親のほうが大事という男性も多い。このため、他国の女性からは「中国人男性はマザコン」と評されることが多い。

(友達を大切にする)

中国人男性はメンツや家族だけでなく、友達をとても大切にする。したがって、何か相談したりすると「大丈夫、俺に任せろ」と言うが、その「大丈夫」は、やはり根拠のない自信であることが多く、「まあまあ大丈夫」とか「そこそこ大丈夫」といったレベルの結果になってあらわれる。しかしそれは、けっして"手抜き"の結果ではない。日本人の細かい性格と、中国人の大雑把な性格の差でしかない。それで十分なのだ。友達のために頑張るという姿勢は高く評価したい。素直に感謝しよう。
中国人男性の自信過剰はメンツからくるものが多い。時には困らせてくれる厄介な性格だが、家族や恋人、友達のために発揮してくれる自信過剰はなんとも憎めない。


「中国人女性の性格で、一般的によく言われることは以下の通りである。」

(性格がキツい)

中国人女性の性格はキツいと言われる。もちろん気弱な女性もいるが、一般的にはキツい。ケンカになれば男にも負けないくらい汚い言葉で相手を罵り、男相手に殴りあいのケンカをする女性も多い。街中でもバスの中でも病院でも、ところ構わず凶暴化する女性は珍しくない。
わがまま
中国人女性はわがままである。中国人女性の辞書に「謙虚」や「淑やか」といった言葉はない。そして、金持ちになればなるほど、わがままになる。お嬢様であっても、他国のお嬢様のように淑女としての教育は受けていない人が多いので、レディーではなく、ただの金持ちのわがまま女である人のほうが多い。したがって、金持ちになっても、人を思いやるといった余裕の心は生まれない。つまりは自己中。

(見栄っ張り)

中国人女性は見栄っ張りである。これは女性に限ったことではないが、男性よりも女性のほうに見栄っ張りが多い。一般的は「メンツ」と呼ばれることもあるが、男性に比べ、あまりにも低レベルでバカバカしい、ただの見栄であることが多い。

(品がない)

中国人女性は品がない。食事中にゲップをする女性も珍しくない。国際的レベルで見れば、中国では、まともな礼儀作法の教育がされていないので、女性といえども品がない。金持ちで頭が良くて美人でも、他国の女性に比べれば品格に欠ける。
ただし、香港人や帰国子女、国際交流の多い女性はこの限りではない。

(自立心が強い)

中国人女性はわがままではあるが、親に頼って生きていこうとは思わない。日本人女性のように、親に甘える女性は少ない。また、男に頼らなければ生きていけないという女性も少ない。
中国人女性は気が強いと言われるが、ムダに甘えることがないので、考えようによっては、付き合いが楽な人種である。ほっといても逞しく生きていく。
中国人は関係というものを非常に重視する。
もっとも強い関係は、いうまでもなく血縁である。血のつながりこそが最強の関係である。
そして友人関係。もちろん建前の友人ではなく、本当の意味での友人である。
そして故郷以外の場所では、地縁も重視される。地縁とは、同郷の縁という意味である。
中国人はこのような関係を重視するため、なんの関係もない人間はまったく信用しない。


「中国人は他人に無関心である。」

相手との関係を重視するため、目の前の赤の他人はいないも同じ、まさに石ころ同然である。
そのため、よほど道徳心のある人でもないかぎり、電車やバスで他人に席を譲ることはない。
例え相手が老人であろうと、妊婦であろうと、怪我人であろうと他人は他人、いないも同然、無関係である。
もちろん、親切な人は、なんの関係もない赤の他人でも、弱者には席を譲るが、基本的に赤の他人には無関心であり、なんの興味も示さない。赤の他人はいないも同然なのである。

「中国人は情に厚い」

赤の他人はいないも同じ、石ころ同然と考える中国人であるが、その反面、中国人は人情にとても厚く、人なつっこい性格のため、普段は他人にぶっきらぼうな顔も、きっかけさえあれば笑顔に変わる。きっかけさえあれば親切にしてくれる。
中国人は情に厚いため、一度友達などの関係になってしまえば、とても良くしてくれる。遊びに行けば暖かくもてなしてくれ、困っていればすぐに助けてくれる。とても情に厚いため、自分が苦労してでも友達を助ける。友達を助けることは苦労だと思わないし、それが当たり前だと考える。
もし貴方が困っているときに、中国人の友達が助けてくれないとしたら、それは貴方が朋友と見なされていない証拠である。

「自由奔放な中国人」

しばしば絵画や民芸品のモチーフとして登場する「八仙過海」という古くからの中国の神話がある。
これは「王母娘娘」(古代神話の中の女神。西王母仙女)の誕生日のお祝いに、八人の仙人はそれぞれの神器を使い、思い思いの方法で海を渡り、雲にのって「王母娘娘」のいる遥か遠い天宮へ行くという話。
ここから「八仙過海、各顕其能」(おのおの独自のやり方があること。また、それぞれの腕をふるって競うこと)は中国人が好んで使う言葉になった。
協調性を重視する日本人なら「みんなで行こう」となるが、そうはならないのが中国人。良くいえば独創性を発揮することであり、悪くいえば勝手な行動。
また「我行我素」は、他人がなんと言おうが、自分のやり方でやるという意味で、これも中国人が好んで使う言葉である。
これらは私生活のみならず、仕事や商売でも現れる中国人の特徴の一つで、公のルールも北京は北京流、上海は上海流、地方は地方流、さらに個人となると、その人流が当たり前、中国人は大雑把で自由奔放である。

「中国人にとってメンツは命より大切だと言われる。」

「そんな大袈裟な!」と思うことなかれ。実際に中国人と付き合ってみればわかる。本当に彼等はメンツを重んじる。時には政治や外交まで左右してしまうのだから、中国人にとってメンツがどれほど重要であるかわかろう。
だから中国人のメンツを潰してはいけない。中国人のメンツを潰して、まとまりかけてたビジネスがご破算になった話など腐るほどある。
ビジネスだけでなく、友達として付き合うときも、中国人と結婚して、その親族と親戚付き合いするときも、けっしてメンツを潰してはならない。メンツを潰すことは、相手との関係が終了することを意味する。
よく勘違いされるのは「メンツ=見栄」である。残念ながらメンツは見栄の一言では片付けられない。メンツはプライドでもあるが、もちろんプライドの一言だけでも片付けられない。
中国人のメンツについて書くと、1冊の本が出来上がってしまうほど、中国人のメンツは複雑で、なおかつ大切なものである。
中国人のメンツは、時に見栄、時にプライド、時に序列、時に情、時に礼・・・
何かと悪く言われがちな中国人のメンツだが、決して悪いことばかりではない。良い部分も多く持っている。
だから、中国人と付き合うときは決してメンツを潰すようなことをしてはならない。
それは時に恩を仇で返すことにもなりえないのだから。
メンテ
「和」についておさらい 9 ( No.135 )
日時: 2011/08/15 20:50
名前: 天橋立の愚痴人間

儒教と中華思想と国家観

(儒教)

中国人の価値観を形づくっているのは、孔子がとなえた儒教である。儒教は封建社会の思想体系であり、国教とも呼ばれている。中国人の価値観を語るとき、中国の伝統文化の核心と特徴をつくりあげた儒教を避けては通れない。

儒教思想の中枢をなすキーワードに「礼」と「仁」がある。
礼とは道徳規範のことであり、封建社会においては、階級制、身分制を維持する大きな役割を果たしてきた。 仁とは、愛や同情の気持ちである。
儒教は血縁関係を「仁」のもっとも基本的な要素ととらえてきた。
とくに父母に対する愛は、中国における倫理道徳観の基本である。

中国の長い歴史の中で、幾度となく社会的変化は起きたが、中国人の伝統的な価値観を根底から覆すことは一度もなかった。
中国人は血縁関係をあらゆる人間関係の中心に置き、その家族との絆を何よりも大切にする。さまざまな伝統的な価値観が崩れかかっている今も、血縁関係で結ばれた絆だけは強固に保たれている。

(中華思想)

中華思想(ちゅうかしそう、英語: Sinocentrism)とは、中国大陸を制した朝廷が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるものとし、朝廷に帰順しない異民族の独自文化の価値を認めず、「化外の民」として教化・征伐の対象とみなす、中国大陸に存在する伝統的な思考法。「華夷思想」「華夷秩序」などともいう。

元の時代モンゴル人が中国大陸を征服し、南宋の漢人を南蛮と呼んでいたり、清の皇帝がイギリスなどとの対等外交を拒否したりしていたように、中華思想は漢民族に限定したものではなく、東アジアの朝廷文化から生み出した一種の世界観である。

人間、国、物事の関係を水平ではなく上下関係で見るのが、中華文化の特徴である。その為、名前の前に敬称の「老」または蔑称の「小」を付けることが多く、反日デモにおいて度々用いられる「小日本」という呼称はその一例である[1]。


これは中華思想の衣だけであり、中国を理解することは出来ない。
中国という国は昔からその国内ですら統一して治世を行なえた時代は少ない。
秦、漢、隋、唐、宋、明、清と歴代の王朝はあっても、内情はとても統一国家のそれではなかった。
さらに周辺の国への侵略行為も時折されてきたが、全てその国を植民地化して支配することは出来なかった。

それでも彼らが示す驚くべき尊大さ、身勝手さ、狡猾さを劣等意識の裏返しと評する見方もあるようだ。
事実として、先の大戦後の蒋介石による我が国からの賠償放棄などは、その尊大さ故であろう。
中国にとって、日本はもともと対等の国ではなく、庇護下の小国に過ぎなかったのである。
これも中華思想の現われと認識しなければならない。

また「中華思想」と言っているが、それは冒頭の意味のことで、具体的な理念、精神には触れられてはいない。

アングロサクソン流は、その理念にキリスト教を伴っているが、中華思想には、浸透させるべき宗教も思想もないのである。
故に貢物さえ得られれば、また中国に服従の意思さえ示せば、それで侵略は終わったことになり実質的な支配はなかった。

これが「中華思想」の一側面である。
また、華僑、客家と言う言葉がある。

中国人は、家族、親族、同族的結束は強く、それ故に統一国家の概念に乏しい傾向がある。
中国共産党による国家建設がなければ、中国国民に公と言う概念は育たなかったであろうし、現在でもかなり希薄なものである事は、世界の特許権、著作権を重要視しない姿勢にも現れている。

もともと広大な地域で複数の民族が競争して繁栄を図っているので、例え民族単位であっても、その全てを統一して国家を考える事は大変困難でありました。現在の中国の範囲を考えても、最初に統一したのは秦の始皇帝であり、実際の王朝を続けたのは漢(紀元前250年)からです。

また、統一されたと言っても、広大な領土と多数の国民があり、極めの細かい為政が出来たとは考えられません。
中国人には公と私の認識が日本人のそれとはニアンスが少し違うようです。


中国は長い間、公(国)は、其処ここにあり、その上、自分が属する公の、その上の公も認めざるを得ないと言うような環境にあったと思います。
それに対して日本の場合は、公といえば、領土的にも民族的にも1つであり、それを損なう外力は殆ど意識しなくてもよい環境でした。

ある意味で「中華思想」が中国国家のよりどころでり公であるとも言えます。

また中国で宗教と言うものが栄えなかったことも、中国のありように影響を与えています。
インドの場合と同じように、1神教世界のとは異なる大衆の自由奔放さが伺えます。
しかし、それは帝国主義時代にインドと同じように西欧の列国に蹂躙されることにもつながりました。
メンテ
「和」についておさらい 10 ( No.136 )
日時: 2011/08/15 20:55
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:mHcoTvDA

中国の終わりに、以前に紹介した七夕伝説を再掲して、日本の「和」の話しへ戻ることにしましょう。

「中国の七夕伝説1  「述異記」 中国」

天の川の東の岸に、大変美しい仙女が住んでいた。彼女は天帝の娘で、機を織るのが仕事だったので、織女と呼ばれていた。

織女は朝も昼も機を織りつづけて、雲か霧かと見まごう薄くて綺麗な布を織り出していた。その仕事に専念していたので、他に何の楽しみもなく、身なりに気を遣うことさえなかった。

天帝は娘のこんな様を哀れみ、天の川の西の岸に住む牽牛という男に嫁がせた。

ところが、結婚すると織女は機織りをぱったりとやめてしまった。夫との楽しい生活にすっかり夢中になってしまい、機の前に座ることさえなくなった。天帝はついに怒り、織女を東の岸に追い返してしまった。

この時から、牽牛と織女は年に一度しか会えなくなってしまったのである。

「中国の七夕伝説2  中国 広東省 陸安」

天に、牛郎と織女という美しい男女がいました。牛郎は牛を飼い、織女は機を織って、毎日毎日、自分の仕事に精を出して暮していました。この様子を見ていた天帝が、二人の仲をとりもって夫婦にしました。

ところが、結婚すると二人は互いに夢中になって、仕事を怠けるようになってしまいました。天帝は怒り、カラスに命じて「二人は河の両岸に別れ、七日に一度しか逢ってはならない」と伝言させました。

しかし、このカラスは言葉を上手く話せなかったのです。カラスは二人のところへ飛んで行くと、こう伝えました。

「二人は河の両岸に別れ、毎年七月七日に一度しか逢ってはならない」

こうして、牛郎と織女は年に一度しか逢えなくなってしまったのでした。

「韓国の七夕伝説2  韓国」
 
ある星の国に美しい姫がおり、王は別の星の国の王子を婿に迎えた。しかし、この王子はたまによからぬ事をしていた。王は怒り、王子を天の川の北岸の彼方に追放した。しかし娘の気持ちを思い、一年に一度、七月七日にだけ天の川のほとりで逢う事を許した。

一年も離れ離れなので、夫婦は悲しみ、その涙は雨となって地上に降り注いで、ついには洪水になった。地上の王の命により、カササギが選ばれて天に昇った。そうして沢山のカササギが天の川の北の岸から南の岸まで頭と羽をそろえて並んだので、王子はこの橋を渡って姫に逢うことが出来、地上の雨もピタリとやんだ。

そんなわけで、七月七日の朝に雨が降ると「嘆きの雨」、昼に降ると「逢えた喜びの雨」、夜に降ると「別れの悲しみの雨」という。また、七月七日にカササギを見かけることがあると、橋をかけに行かない怠け者だとて、追い払ったりするそうだ。



少し長くなりますが、日本の七夕伝説の一つです。
「日本の七夕伝説1 七夕女[たなばたつめ]  日本 『為相古今集註』」

昔、唐[もろこし]に乾陸魏という長者がいた。その下女が水辺で洗い物をしていると、大蛇が出て、口から結んだ手紙を出して、長者に渡せと言う。長者の三人の娘のうちどれか一人をよこせというのだ。さもなくば長者一家はおろかその一族眷属全てが破滅するだろう、と。もし娘をくれるならば、これより東の山中に七間四面の屋敷があるので、その中に姫を乗せた輿を置いて、他の者は帰せ、と。

下女は恐ろしく思いながら報せに行き、長者が見に行くと、長さ二丈七、八尺ばかりの大蛇だ。見るからに、本当に恐ろしい。蛇が先に下女に語ったように言うので、「分かった。三人の娘に話してみよう」と言って屋敷に帰ると、蛇も帰った。

さて、長者は家に帰ってから物も食べないで寝込み、嘆いた。娘たちは理由を知らないで、父の病気を何とかしようと部屋に見舞いに来た。長者が「一人も娘をやらないでいれば親子五人、親類縁者数万人が一度に滅んでしまう。それが嫌だから娘を一人やろうと思っても、どの子をやることもできない。みんな私の子供だ。そう思うと病気になり、物も食べられないのだ」と言うと、長女は「嫌だわ。相手がどんなでも人間ならお父様の言いつけに従いますが、そんな恐ろしいことには、たとえ一日でみんな死んでしまうことになっても、進んで従う気にはなりません」と言って帰った。その後 次女が来て病状を訊いてくるので、さっきのように答えた。この次女も、さっきの姉のように答えて帰った。もっともなことで恨むこともできず、思い煩った。

末の娘はことに幼く、まだたったの十三歳である。どんなに怖がるだろうと思うと、父母もなかなか言い出せずにいたが、父が物も食べられないのを悲しんで、自分で父のところに理由を尋ねに来た。しょんぼりとかくかくしかじかと説明して、「お前の姉さん二人は嫌だと断ったが、もっともで恨めないことだ。ましてお前は幼いのだから、どんなに怖がるだろうと思うと、力も出なかった。わしらの子供がみんなが滅ぶ宿因になるのだ。約束の日も近い。それにしても、わしら一族、牛や馬にいたるまで失われることを思えば、心細くて悲しくてたまらない」と語った。

末娘はじっと話を聞いて、涙を流して言った。

「私がこうして楽しい日々を送ったのも、お父様とお母様のおかげです。だから、たとえ火や水に入り、鬼に食べられ神に取られようとも、お父様とお母様のために言いつけに従うことを嫌がったりしません。ましてや、私が行かなければみんな死ぬと言うのでしょう。私一人が蛇に食べられて、家族から使用人のみんなまで助けることができるなら、それはとてもいいことです。死んだ後はきっと極楽に行けます。……さぁ、安心して、早くご飯を食べてください」

これを聞いて、両親はもとより、使用人にいたるまでみんな袖をしぼって泣いた。

すぐに、明日は約束の日、という日になった。娘は人に形見を渡したり別れの挨拶をしたりし、行水して身を清めて、守り仏の金銅の観音像をしっかり肌身につけた。観音経を持って輿に乗り、家族や使用人がお葬式のように泣きどよむ中、「早く連れて行ってください。約束に遅れたら、蛇が来てみんなに災いをなすかもしれません」とキッパリした様子である。輿は急いで出発し、父母は、せめて自分たちの命の代わりに、と珍しい宝を添えて送った。

例の蛇が指定した山里に行ってみると、忌まわしい感じの御殿がある。その中に輿を置いて、送りの者たちは泣く泣く帰った。娘はたった一人残って観音経を唱えていると、長さ二丈ばかりの大蛇が這い出てきた。目は月日のごとく、口は獅子のそれのようである。輿の側まで這い寄って、舌をちろちろと出している。暫くそうしてから蛇が言うには、

「小刀を持っていますか。私の背を尾まで割ってください」

嫌だと思ったが、硯の小刀を取り出して、言われた通りに割った。すると、蛇の中から、十七、八ばかりの、色が白く、辺りが照り輝くように麗しい男が出てきた。綺麗な服に宝石の冠をつけて、全てこの世の人とも思えない。例の蛇の皮を身に巻き、娘と夫婦になって、めでたいと言うばかりである。男の眷属もどこからともなく現れて、使用人として働き始めた。

それから十七日経って、娘の家族は、もしや蛇の食い残した骨などあるかもしれない、拾って供養しようと思って、人を使いに出した。すると、死んだりしないで、立派に富み栄えているではないか。夫も蛇ではなく美男子だし、やってきた人々は思いがけなくて、嬉し涙を流した。

さて、このことを長者夫婦に伝えると、喜んで大声を張り上げて、急いで見に行った。すると、後園の倉は数え切れないほど、庭の砂まで金や宝石を敷いてある。まるで生きながら仏の国に来たようで、嬉しくてたまらなかった。婿を見れば蛇どころか辺りが光り輝くような美男子。両親は手を合わせて拝んだ。

これを見て、蛇のところに行くのを嫌がった二人の姉は口惜しくねたましく、私が行けばよかった、私が行けばよかったと、悔しがった。

ある日、夫は娘に言った。

「私は四王天の梵天王の子で、彦星という者です。あなたと前世の縁があったので、あなたと夫婦になるために下界にこの三年間住みました。今度、天の父の用で天に帰り昇ります。決してあの朱の唐櫃[からびつ]を開けないでください。来年三月には必ず戻ります。けれど、もし、この朱の唐櫃を開けたら、どんなに願おうとも帰る事はできないでしょう」
そして、唐櫃の鍵を「身から放さないでください」と言って預けて、天へ昇った。

娘の両親と姉たちが、夫の留守の寂しさを慰めようと訪ねてきた。後園の倉を開けて、見たことも無いような宝が沢山あるのを見ては誉めて騒いだ。例の朱の唐櫃の中身を知りたがったが、「これは開けてはいけないものです」と、どうしても開けようとしなかった。そうなると、あんな素晴らしい宝物の入った倉は開けたのにこの唐櫃は開けないなんて、きっともっと素晴らしい物が入っているに違いないと、そわそわして気になって、「鍵はどこにあるの」と末娘をくすぐって言わせようとしたが、「開けません」としっかりしている。ところが、姉は力が強く、なんと箱の錠をねじ切って唐櫃を開けてしまった。けれど、中からは細い煙が一筋立ち昇るばかり。「なんてことないわ、つまらない」と、唐櫃を投げ出して、また別のものを物色し始めた。末娘はとても悲しくなって泣いてしまったが、今となっては無駄なことだった。

夫の約束した月が来たが、帰ってこなかった。悲しんでいると、実家にいた頃から可愛がって飼っていたつがいのカササギが、羽を並べてこの上に娘を乗せ、遥かに天を指して舞いあがった。四王天に至り、天人に「梵天王の御子、彦星はどちらにおいででしょうか」と尋ね、教えられて尋ね着いた。夫が言った。

「私が約束の日に降りようとしても、私が拠り所にした物を入れた唐櫃を、開けて人に見られてしまったので、中身は煙となって昇ってしまいました。こうなっては、何を拠り所にして降りたものか。そう思いながら三年を過ごしてきましたが、嬉しいことです。ただし、ここは人間の来ないところです。私の親にこのことを説明せねばなりません」

しかじかと説明すると、梵天王は「とんでもないことだ」と叱った。

「ただし、その女がわしに天の羽衣を織って渡すなら、お前と逢うことは許そう。彦星よ、お前はわしの千頭の牛を七日の間引き連れて世話をするのだ。そうすれば、その女と逢うことを許そう」

夫は娘にこのことを伝えた。

「織り方を習ったことはありませんが、仏に任せて一生懸命織ってみましょう」と言って、娘が羽衣を織ると、仏が哀れんで、簡単に織ることができた。よって、彼女を織女と書いて「たなばた」と言う。

夫の彦星は、七日の間千頭の牛を引いて世話をした。よって、彼を牽牛と言う。

梵天王は、こうなっては仕方が無い、と、二人が逢うことを許した。「ただし、月に一度逢え」と言って、瓜を持って投げ打った。瓜がつぶれて天の川となった。今、牽牛と織女が年に一度逢うのは、月に一度と言うのを年に一度と聞き違えたからだという。

七月七日に梵天王の許しを得て、彦星と織女が逢うとき、天の川が深くて渡ることができないならば、あのカササギのつがいが羽を並べ、紅葉を食べて橋となし、渡らせるというので、天の川に紅葉の橋、カササギの橋と言う事がある。

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