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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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大和魂 116(キリスト教) ( No.120 )
日時: 2011/01/03 12:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

後先になりましたがキリスト教からみた中世史を概略しておきます。

イエスキリストの死後、キリスト教圏においてキリストを裏切ったユダヤ人を迫害する風潮が長く続いた、ユダヤ人が職業において差別され続けていたことは前述のとおりです。

また、そのキリスト教もローマへ向かって浸透して行くと共にローマ帝国からの激しい迫害を受けるに至っているが、数次にわたる迫害にもかかわらずキリスト教の広まりは衰えることなく、4世紀にはキリスト教を公認する国が現れるようになった。301年にはアルメニア王国が初めてキリスト教を国教と定め、次いで350年にアクスム王国(現在のエチオピア)でも国教化された。
そうして中世と言われる時代が始まるのであるが、ローマ帝国の国教となったキリスト教の変節が始まることになる。


http://charm.at.webry.info/200803/article_9.html

古代ヨーロッパ世界の政治秩序は、皇帝(アウグストゥス)を頂点とするローマ帝国によって形成されていましたが、大波のようなゲルマン民族の侵攻とローマ市民としてのアイデンティティの崩壊、農業経済の基盤崩壊によってローマ帝国は瓦解します。ユリウス・カエサルの登場以来、蛮族の侵入を阻止してきた安全保障の防衛ラインを踏み破られた永遠の都ローマは、無抵抗のままに西ゴート族やヴァンダル族に蹂躙され略奪の要求に屈して滅亡しました。西暦476年、ゲルマン族の傭兵隊長オドアケルによって幼帝ロムルス・アウグストゥルスが廃絶されたことで、西ローマ帝国は正式な終幕を迎えますが、キリスト教を精神的支柱とする中世の時代はキリスト教を国教化したテオドシウス大帝の時代から始まっていたとも解釈できます。

ローマは『王政→共和政(元老院・民会)→帝政(専制的な君主政)』へと政体を変化させ、最終的にはローマ軍の最高指揮権を掌握するローマ皇帝に全権力が集中しましたが、ローマ帝国が滅亡した中世ヨーロッパでは『ローマ教皇(法皇・司教)の権威』と『国王(皇帝)の権力』が並立する二重権力構造が生まれてきます。ローマ帝国では、他宗教・異端思想に対して寛容な『多神教のギリシア・ローマ宗教』が信仰されていましたが、キリスト教をローマ市民統合の基軸にしようとしたコンスタンティヌス大帝(272-337)のミラノ勅令(313)から、段階的に他宗教と共存が難しいキリスト教の影響力が強まっていきます。

テオドシウス大帝(347-395)の時代には、他宗教の信仰を禁圧するキリスト教の国教化(380)が成し遂げられると同時に、ローマ世界から『信仰の自由・思想信条の自由』が急速に失われていくことになります。テオドシウス帝の時代には、ミラノ司教のアンブロシウスという人物が宗教的権威として存在感を強め、ローマ世界の最高権力者であるローマ皇帝と対等な立場に立って、悪政に対するサンクション(社会的制裁)を与える異例の状況が生まれました。宗教であるキリスト教が、俗世の最高権力者と対峙できるほどの強大な権威をまとえる時代が間近に迫っていたわけで、いかにローマ皇帝や諸国の国王と雖もキリスト教世界の権威を無視した政治を行うことが難しくなっていたのです。

古代ローマ人は異端(異質性)を受容する『寛容の精神』を持って、戦争の敗者を自分たちの社会システムに同化することでローマの勢力圏を飛躍的に拡大させ、アレクサンドロス大王の帝国に匹敵する領土を持つ世界帝国を建設しました。古代ローマの時代には、『心の中では何を信じても、何を考えても自由なのだ』という信仰・思想の自由の基盤が自明の原則として存在していましたが、中世ヨーロッパでは『ローマ・カトリックの正統な教義に反する信仰・考えを持つことは重い罪悪である』とする考え方が一般化していきます。これは当時の哲学にも非常に大きな影響を与え、精神的なものが本当に存在するという『実在論のスキーマ』で物事を考える中世では『思考と行動の境界線』が曖昧になっていったのです。これは近代以降の時代に生きる私たちにはなかなか理解し難い感覚ですが、『教会・政治権力が道徳的に悪いと定めることを、頭の中で考えているだけで実際に処罰される可能性がある』ということを示す非常に危険な状況が生まれたことを意味します。

キリスト教に限らず宗教政治や神聖国家の問題点というのは、『個人の内面の自由』に対して基本的に非寛容であり、『道徳と法律の境界線の曖昧化』が起こることで自由な発言や表現が萎縮してしまうということです。宗教教義がそのまま罰則のある法律となるような原理主義的な神聖政治では、民衆が相互に道徳的な監視をし合うような閉鎖的コミュ二ティが形成されやすくなり、『正しいことをしなければ処罰される・悪いことを考えれば制裁を受ける』という強迫観念が一般化します。無意識の概念を提起したジークムント・フロイトの精神分析では、『性的願望(エロスの欲望)の抑圧』が神経症の原因の一つとして想定されましたが、日本人をはじめとする近代社会に生きる人々が『性的願望の抑圧』に対してあまり実感が湧かないのは、『宗教的な罰則のある道徳規範』というものを日常で意識する機会がそもそもないからです。

しかし、『淫らな事柄を想像さえしてはいけない・生殖と無関係な性的快楽は罪悪である』という性的欲求の抑圧というのは、中世ヨーロッパ社会において普遍的な信仰であると同時に法でした。信仰心が高まりすぎた村落共同体は、性を罪悪視する余りに男女差別(女性憎悪)の観念を集団的に高ぶらせて、異端審問の名を借りた魔女狩りや共同体による私的制裁などへと暴走することもありました。共同体の多数者と同調しない独自の行動を取ったり、キリスト教とは異なる信仰・思想を持っているような話をしたり、異性を誘惑していると見なされるような服装や態度をすることは、同質性・信仰心の強い中世の村落においては危険なことでした。

メンテ
大和魂 117(キリスト教) ( No.121 )
日時: 2011/01/03 12:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

王権が衰退して政治権力が地方で分権化した中世には、そういった私刑を抑止するような集権的な法権力が多くの場合機能していませんでしたし、地方領主自身が率先して神聖裁判や魔女狩りを行うこともありました。その為、絶対王政(専制君主国家)が発展する以前の中世封建社会では、地方領主の権力は絶大であり、国王と雖も各地方の領主(諸侯となる有力貴族)に対して『強制力のある命令』を発動することは非常に難しい状況にありました。ローマ的な実利優先の法治主義は、キリスト教の聖書・教義や敬虔な信仰に基づく慣習法よりも劣るものと見なされ、『内面(思想)の自由』は被造物(人間)が神(創造主)の御意志を否定する許されない自由だと解釈されていました。

個人の内面の自由と性的な想像力が徹底的に抑圧された中世期にも独自の哲学(スコラ哲学)が発展しましたが、中世の哲学は『神学の婢女(はしため)』であり、キリスト教の正統性と権威性を証明するという方向性を持った制限の多い哲学でした。スコラ学自体は、文献学や理性的な討論を重視した学問の方法論や態度を意味しますが、スコラ学的方法論から生まれたのは神学を論理的・実在論的に補強する目的論的な哲学でした。

批判精神や懐疑主義、自由意志を自由に発揮できないという意味では、哲学であって哲学ではない営為であり、『最終的な答え』の決まった命題を証明するために文献学的・論理学的な証拠をかき集めるという性格を濃厚に持っていました。しかし、キリスト教とスコラ学(スコラ哲学・スコラ神学)は中世ヨーロッパの分断を押し留めた精神的秩序の礎石であり、アリストテレス哲学によってキリスト教の実在論(実念論)を論証したトマス・アクィナスによって、スコラ哲学は『神の実在性』を論理的・文献学的に証明することに成功しました。

トマス・アクィナスの『神学大全』によるスコラ哲学の完成という意味は、キリスト教の正統教義に対する反論・疑問・異説に対して、そのすべてを『想定内の問題』として処理することができるような『質疑応答のマニュアル(文献学的な事例集・権威主義的な判例集)』が体系的に確立されたということです。しかし、このスコラ哲学を基盤とした壮大かつ煩雑な回答の事例集は、『精神的な普遍性(概念・観念)』が『物理的な事物(実際のモノとしての個物)』に先行して独立的に存在するという実在論によって支えられていましたから、ウィリアム・オッカムが実在論を論駁する唯名論(名目論)を提起したことでスコラ哲学の論理性の足場が揺らぎます。

オッカムの唯名論によって導かれる『普遍的な概念(内面の思考)』を『単なる記号(ことば)』と見なす認識が広まり、人間中心主義の人文主義などの影響もあってスコラ哲学・神学の権威性は少しずつ衰微していきます。これは結果として、信仰(宗教)と哲学(学問)の分離を促し、『主観的な思考(内面)』と『客観的な行動』の境界線が思想的に明瞭化していくことになりました。精神的な想像物(概念としての普遍性)が実在するという『実在論』は、理性的な思考によって導かれたイデア的な真・善・美の規範から、被造物である人間は逸脱してはいけないという行為規範を導きました。これは、『普遍的な知性に対する意志の従属』という結論を導き、宗教的に善(正しい)とされる知識に反して、行動することも考えることも決して許されないという世界観を作り上げました。
メンテ
大和魂 118(キリスト教) ( No.122 )
日時: 2011/01/03 12:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

中世ヨーロッパでは、人間が自分の行動を自由に選択できるという自由意志の存在を認めず、人間は、イデア(神の実在)のような普遍的な観念の実現に向けて行動するだけの『受動的知性』として定義されていました。しかし、オッカムがオッカムの剃刀(実在しない観念や余剰を切り捨てるシンプルシンキング)を駆使して、人間を従属させていた『普遍的な観念』は、具体的な事物を言葉で表現するために用いる『記号(名目)』に過ぎないと論じたことで、中世の実在論(普遍主義)による自由意志の呪縛がほどけてきました。人間は『普遍的とされる知識(イデア)』に無条件に従うだけの受動的知性ではなくて、自分の人生を自分の善悪観に従って選択できる『自由意志』を持つ主体的存在(能動的知性)であるという認識が、内面の自由を拡大して過剰な性の抑圧を開放し始めました。

そして、古典主義的な文芸とエロスに根ざした人間観(フィギュア)を取り戻そうとするイタリア・ルネッサンス(文芸復興)の隆盛によって、キリスト教的な禁欲や魂(精神)の実在を前提とするヨーロッパ世界の普遍主義は、世俗世界における強制的・精神的な支配力を大幅に失うことになるのです。中世哲学は、キリスト教の教義を学問的に確立しようとする教父哲学やグノーシス主義、アレクサンドリア学派から始まり、スコラ哲学の形成期・最盛期・衰退期を経て、『神』ではなく『自己(自我)』を理性的思考の始点に置く人文主義・啓蒙思想が誕生し、市民社会形成の思想的基盤となる近代哲学の流れへと接続していきま


十字軍と東方教会

西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は東ローマ帝国の影響下に置かれたが、神聖ローマ帝国(フランク王国)が成立したことで、教皇は東ローマ帝国から政治的に独立するようになる。しかし、世俗権力の介入の問題は解決せず、聖職者の叙任権をめぐって神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世が争ったカノッサの屈辱で有名な叙任権闘争問題で神聖ローマ帝国の皇帝や君主との対立が生じた。この対立は第1ラテラン公会議におけるヴォルムス協約の承認により、世俗介入を否定する教皇側の勝利で解決する。またこの公会議によって十字軍が承認される。
こうしてドイツ・フランスの諸侯を中心とした第1回十字軍はエルサレムの占領に成功(エルサレム攻囲戦)。パレスチナとシリア地方を侵略して、エルサレム王国など十字軍国家とよばれる一群のキリスト教国家を建設した。このとき、正教会のエルサレム総主教は追放され、カトリック教会のエルサレム総大司教が立てられた。

十字軍将兵の従軍理由はしばしば領地や褒賞目当てだけであったかのように語られることが多い。たしかにそれも原動力の一つであっただろうが、当時の人々にとって聖地への憧れなど宗教的情熱も強かったことを忘れてはならない。ただ、一部の十字軍将兵による略奪や暴力、虐殺行為が行われたこともまた事実である。このような暴力の対象はイスラム教徒だけでなく、中東のギリシャ正教徒・シリア正教徒、ヨーロッパ在住のユダヤ人たちも含まれた。例えば十字軍の出発時、ドイツのヴォルムスで約800人が、マインツで約1000人が殺害された。エルサレム攻囲戦でもユダヤ人やアラブ人の非戦闘員を虐殺しており、エルサレム市民の犠牲者数は約7万人と伝えられる。

十字軍国家はイスラム教徒の巻き返しに会い、14世紀初めまでに全てが滅ぼされ、ヨーロッパ人は西アジアを追われた。最終的に十字軍の「聖地をキリスト教徒の手に」という目標は達成されなかった。一方、その過程で、聖地巡礼者を防衛する騎士修道会、イスラム教徒に伝道を行う托鉢修道会、捕虜交換と傷病者治療の修道会が誕生して、西欧キリスト教世界の文化的変革の触媒となった。そのひとつであるドミニコ会は、アラビア語文献の輸入と翻訳を通してアリストテレス哲学を再発見し、スコラ学を開花させた。


魔女狩りの発生と終焉

しばしば異端審問の一部として語られることが多い魔女狩りであるが、実際にはその時期・地域ともに異端審問と重なる部分がほとんどないことがわかっている。というのも異端審問が盛んに行われたのは12世紀から13世紀の南フランスおよび北イタリアであったが、魔女狩りは16世紀から17世紀にかけてドイツ、フランス、イングランド、スコットランドなどで起こっているからである。魔女狩りは本来、農民や一般市民の間で私刑のかたちで行われていたが、15世紀の終わりになって魔法を用いるものは悪魔と契約していると考えが広まったことで聖俗両権力者たちも迫害に乗り出すようになった。

魔女狩りが行われた理由や急速に衰退した理由については多くの説が提示されているが、確実とされるものはまだない。19世紀には金銭目的、あるいはひそかに生き残っていた古代宗教への弾圧といった説も出されたが、現在では受け入れられていない。魔女狩りはカトリック・プロテスタントを問わず行われたが、ヨーロッパ全域で長期にわたって起こったわけではなく、実際には特定の地域で、特定の時期に集中して発生したことがわかっている。また異端審問所が魔女狩りを推し進めたという言い方も不正確で、15世紀の終わりに設立されて16世紀に盛んに活動したスペイン異端審問では魔女は審議の対象にならず、同じく16世紀にローマに教皇庁直属の異端審問所が設けられたにもかかわらず、イタリアではほとんど魔女狩りは起こらなかった。

魔女狩りは中世というよりはむしろ近世初期に突如として沸騰した社会現象であった。かつて魔女狩りでは数百万人が虐殺されたといわれた時期もあったが、現代の歴史家たちの研究によって全期間を通じての犠牲者数は多くて四万人と見積もられている。
メンテ
大和魂 119(キリスト教) ( No.123 )
日時: 2011/01/03 12:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:vED06pkA

ローマ帝国の弱体化に伴うようにキリスト教の有り様を問う運動が起きた。
宗教改革(しゅうきょうかいかく)とは、16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、プロテスタントの分離へと発展した。

ルターによるルーテル教会、チューリッヒのフルドリッヒ・ツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立した。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。
人文主義者による聖書研究が進んだために起こった「原始キリスト教精神に帰るルネサンス的運動」として捉える立場もある。すなわち、同じルネサンス的運動が、イタリアにおいては、ギリシア・ローマの古典文化への復帰として表れ、ドイツにおいては、聖書への復帰と言う形で現れたとする考え方である。

16世紀は近代国家の萌芽の時代で、それまで各地域からの教会税はバチカンの収益となっていた。近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを可とせず、自国内に止めておくことをむしろ歓迎し、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押しした。
また、宗教改革の理念が拡大・浸透するうえでは、グーテンベルクによる印刷技術が大きな役割を果たした。

宗教改革はルターとカルヴァンによるものが著名であるが、その後の経緯は、アングロサクソンに言い及んだ最初の記述に続くものとしたい。
要するに、これらの動きは民主主義、資本主義の思想に結びつき近代の夜明けとなったのです。

さて、ここでまた、アングロサクソン的生き様の概念を検証することに戻ります。
以前にキリスト教的生き様は、神との契約説であると言ってきました。


メンテ
大和魂 120 ( No.124 )
日時: 2011/01/03 13:19
名前: 天橋立の愚痴人間

今まで述べてきましたように、キリスト教的な生き様とは、一方で神に誓いを立て、一方で我が身の自立を担保すると言う生き様です。
それ故に神の啓示を受けていない領域では、まったく自由であり、場合によっては神のためと言う名目で自己の利益を追求することを当然のことと了解します。

それが十字軍の遠征であり、植民地争奪戦争につながっています。
現代資本主義の資本の論理は、まさに神に隠れた領域で利己心を発揮することを善としています。
そこには神との何の契約も無いのです。
ユダヤ民族の論理が、そのまま入ってきていることも何の不思議も無いでしょう。

不思議なことに紀元前5000年を遡っても、アングロサクソンを構成している民族に、中国やインド、イスラムを見てきたとき出会った神話、伝説、民話の世界の印象が全く少ないのです。
そういう悠久のものがなく、常に契約、合理性の精神に満ちているように思います。
それは彼らが土地に根ざした文化を持つことが無かったからではないでしょうか。

別の言い方をすれば、何事も人間的過ぎる生き様をしてきたと言うことでしょう。
人間的過ぎると言う意味の反対に、多神教社会で見られる自然との共生の意識が希薄であると言うこともできます。

このことについて、現在のローロッパの農業は耕作地を転々とする農業であり、為政者となるものが統治するためには彼らとの人間関係を重要視する必要があった。
それは主従関係という契約であったと言うことを書いておられる方がいます。

このような土壌もあり、西欧では個人主義が発達してきたと言われています。
それが、キリスト教に影響したのか、一神教であるキリスト教にあっていたのか、結果として現在の西欧個人主義というものが展開してきたと思います。

また個人主義を中心とする故に社会契約がしっかりとしてないと共生が出来なかったのでしょう。
しかしながら、契約すなわち法律と言うものの宿命的な欠陥は、法に触れなければ規制を感じないと言う逆の問題が出てきます。

長い時間をかけてアングロサクソンの社会を書いてきましたのは、契約は尊重するが契約外(法に触れない領域)でユダヤ的な利己主義が繁栄する余地を残していると言うことです。
それがキリスト教を表にかかげたたアングロサクソン流(ピューリタリズム)の正体であると思います。
また、その法さえも都合の良いように作られていることも指摘しなければなりません。

これと悠久の大地に根ざした多神教世界の共生の有り様とはずいぶんと異なることは、今までの記述から少しは垣間見られたことと思います。

アングロサクソンの部分は、古代の検証と言うよりも現実問題に焦点をあてましたが、これで世界各地の民族の心を探索する旅を終わります。
これからは、日本の古代の「和」の心と言うものを再び取り上げて見たいと思います。
メンテ
「和」についておさらい 1 ( No.125 )
日時: 2011/08/05 09:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8olL9OgQ

冒頭でも紹介した細川一彦氏の文章で「和」についておさらいします。

http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm#

■「和」の精神は、宇宙法則の現われだ


 日本人の精神は、しばしば「和」の精神といわれます。「和」というと、妥協やなれあいをイメージする人もいるでしょう。しかし、真の「和」の精神には、生命と宇宙の法則が現われているのです。

 聖徳太子は、十七条憲法の第1条で「和を以て貴しとなす」という趣旨を説きました。太子のいう「和」とは、単に仲間うちで仲良くやっていく事ではありません。太子の憲法の第1条は「上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ひぬるときは、則ち事理自ら通ふ。何事か成らざらむ」という言葉で結ばれます。すなわち、「和」の心をもって、お互いに話し合えば、そこに自ずから物事の「理」が通うのだ、できないことなどあろうか、というのです。「人の和」は「宇宙の理法」に通じるという信念を、太子は持っていたと思われます。



 「和」ということを、スポーツで考えてみると、グループで行うスポーツでは、チームワークが重要です。つまり、チームの調和です。チームがまとまっていると、メンバー個人個人の能力以上の力が出せます。メンバー各自が優秀でも、チームがばらばらでは、力は出せません。チームの呼吸が合っていると、1+1=2ではなく、3にも5にもなります。呼吸が合っていないと、2どころか、0.5にもなりません。つまり、「和」が大切なのです。チームが「和」をもって団結していると、想像できないほどの潜在能力が発揮されます。奇跡的なほど、絶妙なプレーが出てきます。信じられないほどのグッド・タイミングで、すべてがうまくいきます。言わば、集団による至高体験(peak experience)、高シナジー効果です。ここに、調和という状態が持つ不思議なパワーがあります。(1)



 職場においても、「和」が大事です。一つの目的に向かって、職場のみんなが心を合わせて考えると、一人では思いもつかないような発想が、次々に湧き出てくるものです。何かの計画を実行するとき、互いを信じて取り組んでいると、初めは不可能かと思えたような課題でも、信じられないほどうまく解決できてしまうのです。調和は、集団を一体化し、単なる要素の総和を越えた、創造力を生み出すのです。



 こうした「和」が見られる見事な実例が、あなたです。自分の身体について考えてみてください。あなたの身体は、約60兆個もの細胞で成り立っています。60兆とは銀河系の星の数にも匹敵するといわれます。

 それらの細胞は、父母の結合による、たった一つの受精卵が分裂・分化したものです。その細胞は、脳・目・胃・腸・手・足など、それぞれの目的・役割に応じて成長します。そして、様々な器官・組織・細胞の働きによって、呼吸や血液循環や消化などの活動が、休むことなく営まれています。なんという、見事な調和でしょう! まるで60兆人ものメンバーによるオーケストラが、壮大なシンフォニーを奏でているようです。その指揮者のはずのあなたは、そんなことを何も意識せず、パソコンを打っています。呼吸もしています。心臓ももちろん、動いています。

 この驚くべき不思議が、あなたなのです。あなたという存在は、60兆個もの細胞の調和によって存在しているわけです。そのことに気づくなら、調和の原理とは、あなたを超えて、あなたをあらしめ、あなたを生かしている根本原理だと理解できるでしょう。



 日本人は、こうした生命や社会を貫く「調和」の大切さを、深く感じてきた民族だといえましょう。そして、自然の様々な現象に調和を見出し、自然と調和して生きるように心がけてきたのが、日本人の生き方だといえましょう。日本人が「和」を重んじるのは、生命や宇宙の法則に基づいて生きる、知恵の働きです。そして、「和」の精神には、生命と宇宙の法則が現われているのです。

 生命と宇宙に根ざす「和」の精神、真の日本精神を取り戻しましょう。(2)
(ページの頭へ)


(1)至高体験とは、心理学者A・マズローの用語です。詳しくは、以下をご参照下さい。
「人間には自己実現・自己超越の欲求がある」
(2)真の日本精神については、「基調」をご参照下さい。
オピニオンの「日本精神」のページもご参考に願います。









■日本の自然の中で「和」の精神は発達した


 「和」の精神は、日本列島に移住した人々を融合させ、日本民族を形成した原動力でした。この世界にもユニークな精神は、日本の自然の中で発達したものと言えるでしょう。



 日本の気候は、温暖・湿潤なモンスーン型です。日本列島は四季の変化に富み、雨量が多く、照葉樹林を中心とする森林に覆われています。海・山の食糧が豊かで、猛獣が少なく、大変生活しやすい自然環境です。こうした風土が長年のうちに人々に影響し、「和」を好む性格が形成されたと考えられます。

 この性格は、人間だけではなく、日本の動物にも見られる特徴です。例えば、日本蜜蜂の群れの中に西欧蜜蜂の一群を放すと、日本蜜蜂は平気で西欧蜜蜂と一緒に同じ蜜を集めて、共存共栄します。しかし、西欧蜜蜂の一群の中に日本蜜蜂の一群を入れると、西欧蜜蜂は襲いかかって日本蜜蜂を全滅させてしまいます。日本の風土は温暖・湿潤で花が多く、蜜を集める対象が豊かです。したがって、蜜蜂は新来者とも共存共栄ができます。ヨーロッパの場合は花が少ないので、共存していたら、蜜が足りなくなって冬が越せなくなってしまいます。同時に、熊蜂など天敵がひじょうに多いので、用心が要り、攻撃的です。日本では天敵が少なく、受容的です。こうした風土の違いが、日本の蜜蜂の性格を温和にしているのでしょう。



 日本文化に深い理解を示したアンドレ・マルローは、「日本以外の美術は必ず何らかの形で闘争が表れているが、日本美術だけは闘争を表していない」と指摘しています。マルローの研究家・竹本忠雄氏は、この違いを「大陸的〜コンチネンタル」と「非大陸的〜ノンコンチネンタル」の違いと表現しています。竹本氏は「日本だけがノンコンチネンタルなのです。コンチネンタルなものの考え方の特徴は、ものを対立的にとらえることです。それは西洋に限らず日本以外の国はほとんどそうである。一方、日本人は対立よりは和合をという国民性なのです」と言っています。(1)



 「非大陸的〜ノンコンチネンタル」とは、海洋的ということです。日本民族の性格への自然の影響では、海洋の存在が見逃せません。日本は、四方を海に囲まれた島国であり、太平洋、日本海、東シナ海などに全体を包まれています。このことが、日本列島のユーラシア大陸とは異なる自然環境となっています。陸地が固定的であるのに対し、海は、常に躍動して変化に富んでいます。船に乗るとわかるように、海では波が休むことなく上下動し、潮流が刻々と変化して流動しています。また、海は生命発生の場所であり、海には生命のエネルギーがみなぎっているのです。特に日本列島付近では、暖流と寒流がぶつかりあい、豊かな漁場が生み出されています。ユーラシア大陸から日本列島に移住してきた諸民族は、こうした海洋の影響を受け、大陸型の性格から、海洋型の明るく、陽気で、平和的な性格に変化していったと考えられます。



 このように、日本の自然は人間の性格に影響を与え、独自の民族性を育んできました。日本精神の特徴は、「和」の精神と言われるように、共存共栄・大調和の精神です。この精神は、今日の地球で求められているものです。地球は、人類にとってかけがえのない星であり、地球という限られた環境で様々な人種・民族・国民が、一緒に暮らしていくためには、戦争や対立ではなく、共存共栄していかなければなりません。私たち日本人は、世界にもユニークな精神的特徴を発揮し、世界の平和と発展に貢献したいものです。(ページの頭へ)



参考資料

(1)『日本の息吹』平成11年2月号(日本会議)







■ 「和」の精神を神話に見る


 「和」と言えば、誰でも知っているのは、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」。この理念は、日本人のものの考え方をよく表しています。しかし、「和」の精神は聖徳太子の独創ではなく、古くから日本の国に受け継がれてきたものです。



 「和」とは、もともと「わ」という音の日本語です。その「わ」にシナの漢字の「和」があてられたわけです。

 作家の井沢元彦さんによると、本来「わ」には「環」や「輪」の意味しかなく、環濠集落(堀をめぐらした集落)を表す言葉でした。それが、集団や仲間の意味を表す言葉となり、シナ人に、自国の意味で「わ」と言ったところ、「倭」(背が小さい、体が曲がっているなどを意味)という文字を当てられました。

 その後、「わ」は、集団的な協調の精神やアイデンティティをも意味するようにもなり、日本側の要望により、国名の文字を「倭」から「和」に代えてもらったのだろう、と井沢さんは考えています。(1)



 さて、かつて日本列島に住みついた人々は、「わ」すなわち環濠集落を作って、小集団が分立していました。その小さな集団が段々と国家を形成し、より大きな国家に統合されていきました。

 その過程では、戦争もあったでしょうが、統合の多くは、話し合いで決まっただろうと考えられます。というのは、日本の神話には、諸外国に比べて、戦争の話が非常に少ないからです。それは、日本列島の温和な風土の影響によるところが大きいでしょう。

 そして、人々には、対立・抗争よりも調和・融合をよしとする「和」の精神が育まれ、一つの民族として融合・形成されてきたと考えられます。そのことを、私たちは、日本の神話の中に見出すことができます。



 西洋のユダヤ=キリスト教では、男性的な神が万物を創り、神は土の塊から人間の男を創ります。そして、神はアダムを慰めるために、男の肋骨から女を創ったとされます。

 これに対し、日本神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生します。これらのニ神は、人間と同じ男女の営みをし、人間はその子孫として誕生したとされます。

 このように、日本では、男女・陰陽の「和」によって、国土や人間が誕生したと考えてきたのです。



 さてイザナギ、イザナミのニ神から生まれた子供が、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのをのみこと)です。

 須佐之男命は高天原を暴れまくりますが、弟の暴虐に対して、天照大神は争ったり、罰を下すのではなく、天岩戸に身を隠すという振る舞いをします。それによって、地上は闇の世界となります。

 この時、八百万の神々は、天の安の河原(あめのやすのかわら)に集まって、話し合いを行います。思金神(おもいかねのかみ)の妙策によって、天照大神を岩戸から引き出すことに成功し、世界は再び光を取り戻します。

 須佐之男命はその振る舞いのために、高天原から追放されます。しかし、天照大神と須佐之男命は後で和解し、大罪を許された須佐之男命は、出雲の地に下り「やまたのおろち」を退治する大活躍をするのです。(2)



 日本神話には、争いを避け、話し合いを重んじ、共存共栄を目指す「和」の精神が、さまざまな形で描かれています。そうした日本固有の精神を、「和をもって貴しとなす」と表現したのが、聖徳太子だといえましょう。

 そして「和」は、その後の日本人と日本の精神を考える際のキーワードとなっているのです。



 私たちは、こうした「和」の精神を発揮し、今日の世界の諸問題を、調和のある解決に導けるように努めたいものです。(ページの頭へ)



関連掲示

・神話と関係の深い神道については、拙稿「日本精神の宗教的表現としての神道」をご参照下さい。

参考資料

(1)井沢元彦著『逆説の日本史@ 古代黎明篇』(角川文庫)

(2)『古事記』『日本書紀』

メンテ
「和」についておさらい 2 ( No.126 )
日時: 2011/08/05 09:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8olL9OgQ

■神話と歴史を貫く「和」の精神


 日本は「大和の国」と言われ、日本人は「和」を重んじる国民です。そのことを、私たちは、日本の神話や歴史の中に見出すことができます。

 日本神話には、天照大神の子孫がこの国を治めるようになる前に、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国を治めていたことが書かれています。大国主命とは、天照大神の弟で出雲に住みついた須佐之男命の子孫であり、「いなばのしろうさぎ」の物語の主人公でもありす。大国主命が治める国は、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、豊かで住みよい国でした。天照大神は、この国は自分の子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が治めるべきだと考え、大国主命に国を譲るよう求めます。大国主命はこれに従い、「国譲り」が行われます。この日本の国の起源を伝える話に、日本人の「和」の精神を見ることができるのです。



 天照大神は、話し合いによる「国譲り」を試み、建御雷神(たけみかずちのかみ)を使者として送ります。これに対し、大国主命は「私の一存では決められません。子供の事代主命(ことしろぬしのみこと)に聞いてください」と言います。親である大国主命は独断で物事を決めずに、子供の意見を尊重しているわけです。長男である事代主命は、国譲りを承諾します。しかし、弟の建御名方命(たけみなかたのみこと)は反対し、建御雷神に力比べを挑みます。結局、建御名方命は諏訪湖まで逃げたところで敗れ、国譲りに同意します。子供たちが同意したと聞いた大国主命は「私には何の異存もありません。この国を高天原の神にお譲りしましょう」と言い、「国譲り」は行われました。



 このように、「国譲り」は、話し合いを主として行われ、部分的に抵抗はありましたが、双方の合意という形で実現したと描かれています。しかも、単なる併合ではなく、譲り受けた側が譲った側に対し、最高の礼を尽くしています。国を譲ったとはいえ、おそらく大国主命には恨みが残ったことでしょう。それに対し、天照大神は、天日隅宮(あめのひすみのみや)という大宮殿をつくり、自分の第二子の天穂日命(あめのほひのみこと)を大国主命の霊に仕えさせます。この宮殿が、出雲大社の起源です。そして天穂日命の子孫は、出雲大社の宮司の職を今日まで継承しています。(1)



 神話の話など、空想か、都合よく美化された作り話だろうと考える方もいるでしょう。しかし、興味深いことに、「国譲り」の物語と明治維新とは、よく似ている点があります。幕末の日本で、朝廷と幕府は徹底的な争いを避け、交渉を重ねた末に、徳川慶喜は、天皇に大政を奉還します。慶喜はこのことを独断ではなく、家臣や諸大名の意見を聞いたうえで決定します。また、西郷隆盛と勝海舟が話し合い、江戸城は無血で開城されます。その後、部分的には会津藩や榎本武揚などが抵抗しましたが、全体的に見ると話し合いを主として、日本国の権力の移譲は行われます。

徳川慶喜は、大国主命のように祀られこそしませんでしたが、明治天皇から貴族に叙され、徳川家は名誉ある形で存続しています。初代将軍・徳川家康を祀った日光東照宮は、壊されることもなく、今日も多くの参拝者を集めています。こうした歴史上の出来事と、神話の物語が似ているということは、そこに一つの民族性が現れていると見ることができるでしょう。



 日本ではこのように遠い神話の時代から、「和」が重んじられてきました。私たちはこうした世界に希な「和」の精神を発揮し、世界の平和に貢献したいものです。(ページの頭へ)



参考資料

(1)古事記、日本書紀







■聖徳太子の「和」の精神


 「日本の心」の形成に大きな影響を及ぼした人物の一人が、聖徳太子です。 とりわけ太子が制定した十七条憲法は、日本人の考え方に大きな影響を与えてきました。

 十七条憲法は、憲法といっても今日のような国家の基本法ではありません。むしろ官僚の職務心得であり、同時に人間の踏み行う道徳基準を示すものともなっています。そのキーワードが「和」です。



 十七条憲法の第1条は、「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まります。「和」を説く条文が、最初に置かれていることは、聖徳太子が、いかに「和」を重視していたかを示すものです。第1条には、次のようなことが記されています。

 「和は貴いものである。むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。人々が上も下も調和して、睦まじく議論して合意したならば、おのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」。

 太子は、「和」という言葉で、単なる妥協や融和を説いているのではありません。「人々が調和すれば、どんなことでも成し遂げられる」という積極的な理念を説いているのです。



 また、続く条文において、太子は「和」を実現するための心構えを説いています。すなわち、第10条では人への恨みや怒りを戒め、第14条では人への嫉妬を禁じ、第15条では「私」を超えて「公」に尽くすように説いています。

 そして、最後の第17条には、「独り断ずべからず。必ず衆とともに論ずべし」と記されています。つまり、「重大なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである」という意味です。これは第1条に通じるものです。



 このように聖徳太子は、十七条憲法で「和」を理念として打ち出しています。これは、古代においては驚くべきことでした。世界的に、強権による専制政治が当然の時代だったからです。そうした時代に、聖徳太子は、私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を説きました。これを「民主的」と言うならば、日本では、約1400年も前から「民主的な政治」が理想であったわけです。

 太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」です。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。



 古来、日本人は、人と人、人と自然の調和を心がけてきました。国名を「わ」と呼んで「和」の字をあて、「やまと」には「大和」という漢字を使用したのは、「和」を重視してきた印でしょう。聖徳太子は、その「和」を憲法に明文化し、理念として確立しました。このことによって、日本人は「和」の精神を一層発展させてきたのです。

 近代日本の出発点となった「五箇条の御誓文」にも、聖徳太子の「和」の精神が生きています。第1条の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」がそれであり、第2条の「上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸(けいりん)を行ふべし」も同様です。聖徳太子の説いた「和」の理念は、千年の時を超えて、近代日本の建設にも生かされたと言えましょう。



 日本精神は、「和」の精神です。共存共栄の大調和の精神です。私たちは、こうした自己本来の精神を大切にしましょう。(ページの頭へ)



参考資料

・聖徳太子について詳しくは、以下の拙稿をご参照下さい。

「聖徳太子に学ぶ政治・外交・文化のあり方」







■人を許し、人を生かす「日本の心」
2006.10.06一部修正



 日本人は今日、一部の人から残虐非道な国民と思われていますが、そこには大きな誤解があります。むしろ日本人は、人を許し、人を生かして、共に調和して生きようとする心を大切にしてきました。日本史においては、政敵や逆賊であっても、外国のように殺されることが少なく、許されている例が多いのです。また、新政権において生かされている例すらあります。そうした例を通じて、日本の国民性を考えてみましょう。



 日本の歴史には、権力を極めた者であっても天皇の地位を奪って自ら天皇となろうとはしなかったという不思議な伝統があります。蘇我馬子、藤原不比等、平清盛、源頼朝、北条泰時、足利尊氏、織田信長、徳川家康など、みなそうです。わずかな例外の一つとされるのが、弓削の道鏡です。道鏡は、女帝孝謙天皇の寵愛をもとに、自ら帝位につこうと企んだとみなされ、失脚しました。外国であれば殺されて当然のところです。しかし、道鏡への処罰は、左遷されて、関東の辺地・下野(しもつけ)の寺の別当(寺務統轄官)にするという、ゆるやかなものでした。



 こうした「許し」の例は、明治維新の時にも見られます。最後の将軍・徳川慶喜は、朝廷との内戦を避け、政権を天皇に返す道を選びます。世にいう大政奉還です。朝敵であるにもかかわらず、明治新政府に許された慶喜は、その後21人の子供をつくり、長寿をエンジョイしました。これは、フランス革命において、ルイ16世がギロチンで殺されたことに比べると、実に寛大な処置です。

 勝海舟も、維新後の時代を生きた一人です。海舟は、慶喜の下で大政奉還を推進し、幕府に自ら幕を引かせました。しかし主君・慶喜に対し、そのことを非常に申し訳なく思っていました。そして徳川家が名誉を回復できるよう、尽力しました。その効あって、明治31年、ついに慶喜は、明治天皇の拝謁を許され、温かいもてなしを受けました。慶喜は公爵に叙され、養子・家達(いえさと)は貴族院議長、孫・喜久子は高松宮妃となり、徳川家は今日も繁栄しています。このことも、王族・貴族が子供まで惨殺されたフランスやロシアの革命とは、大きな違いです。



 勝海舟と意見を異にした榎本武揚は、官軍に最後まで抵抗する道を選びました。本州から北海道に渡った榎本は、蝦夷共和国を作って日本から独立。函館の五稜郭に立てこもって抗戦しました。しかし結局、敗れ、榎本は降伏しました。彼と戦った官軍参謀・黒田清隆は、榎本を「日本の将来に欠くべからざる人物」として、助命に奔走しました。その効あって釈放された榎本は、抜群の能力を生かして、新政府で外務・農商務などの大臣を歴任し、新国家建設に活躍しました。

 維新最高の英雄・西郷隆盛は、一時は新政府の中心となりましたが、その後、政府官僚の腐敗を憤り、郷里の鹿児島に帰って、西南戦争を起こしました。それは明治政府最大の危機となりました。敗れた西郷は、「明治の逆賊」と言われました。しかし西郷は死後、明治天皇の思し召しにより、正三位を追贈され、その功績を称えられました。上野には銅像が建てられ、西郷さんは今日も国民の尊敬を集めています。



 日本の歴史にはこのように「人を許し、人を生かす」例が多数見られます。それは日本人が、本来、深い思いやりと優しさを持った国民であることを示すものと言えましょう。

 こうした国民性は、文化や歴史の中に、様々な形で表われてきたものです。

例えば、節分の際に「鬼は外」と豆をまきますが、これは鬼やらいという行事です。たとえば、京都の吉田神社の場合、鬼やらいの行事は、鬼をやっつけるのではなく、鬼を説得して本来の住み家に帰ってもらうためのお祭りだといいます。そこには、シナの道教の「追儺(ついな)」という悪魔を追い払う儀式とも、西洋の悪魔祓いや魔女狩りとも根本的に異なる考え方が見られます。

わが国では、古代より保元の乱に至るまで約三百年の間、死刑が行なわれませんでした。元寇襲来の後、執権北条時宗は、筑前に高麗寺、鎌倉に菩提寺を建て千体の仏像を造って、敵味方の別なく戦死者の冥福を祈りました。島原の乱の後には、薩摩藩主・島津義久は敵味方双方の戦没者を弔うため、高い卒塔婆を建てて盛大な法会を開きました。日露戦争の後には、日本軍兵士の表忠塔よりも2年も前に、ロシア兵の慰霊塔建立がなされています。

わが国では、極悪非道の人間までも、死ねばすべて救われるという寛容と慈悲の思想も生まれました。死者はみな善人も悪人も仏と称して許されるのです。これは仏教というより、日本独自のもので、インド・シナ等の仏教には見られない考え方です。



人間の社会には争いはまだまだ無くなりそうもありません。自尊自衛のためには、戦わねばならない時もあります。しかし、世界平和を実現するためには、裁きと殺し合いではなく、寛容と共存が必要です。私たちは、「人を許し、人を生かす」日本の国民性に目を向け、良い伝統を世界のために生かしましょう。(ページの頭へ)

(紹介終わり)
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.127 )
日時: 2011/08/05 10:31
名前: 天橋立の愚痴人間

聖徳太子が言われた「和を持って尊しとなす」と言う言葉は政治的な発言としても、その聖徳太子が受けられていた政治的権力争いでも、中国で見られるような政敵勢力皆殺しと言ったような凄惨なものではありませんでした。

また日ユ同祖論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96
などもあるように、極東の島国日本も始めから孤立したしたものではなく、広く海外との交流もあったようです。

「昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。」

「陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。」

この様な言い伝えから、我が国は多くの移民族により構成されているという見方があります。

極東の小さな島国であったゆえ、その後の外民族の侵略も殆ど経験せずに豊かな地で国家を営むことが日本と言う国だと思います。

その上に、一神教、多神教と言う宗教上の問題もありますが、我々自身が長年の間に慣れ親しんだ様相(和の心)は、中国、インド、イスラム、アングロサクソン圏の人々の様相と見比べて初めて実感できるものと思います。

また現在は、民族間の侵略、殺戮の時代は終わりましたが、長年培われた民族性の違いは残っています。
今後はアジアの時代と言う考え方もあるようですが、それは何を意味しているのでしょうか。
膨れ上がった人口的なものとも言えますし、多神教地域であるアジアの民族性を指しているとも考えられます。

その代表たる、日本の「和」の心を探求することが必要と思います。
次には「和」の心を世界のそれと比較してもう少し検証してみましょう。


メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.128 )
日時: 2011/08/05 17:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:8olL9OgQ

先に紹介した細川氏の文章で「和」の心が賞賛されていますが、私は「和」の心を手放しで賞賛する気持ちはありません。

我が国の歴史も、天災あり、飢饉あり、血で血を洗う争いもありました。骨肉を洗う権力争いも絶えません。
士農工商、非人という社会制度も存在しました。

「和」の心がそれだけで万能薬のように思わずに「和」を検証することにしましょう。

「和」の心を、思いやり、優しい、同調の精神とするならばアングロサクソンの世界でも民衆の間に息づいています。

赤十字の運動も、生まれは違いますがマザーテレサの慈善事業も、ボウイスカウトの活動なども皆、西欧を発端に始まりました。

何よりも民主主義の考え方は西洋に興り世界を席巻しています。
私生活の面でもイタリア人の陽気さは我々も見習うべきところもあるでしょうし、スペイン人の親しみも日本のそれと引けを取るものでもないでしょう。

イギリス、フランス、ドイツの人たちに、日本のような「和」の気持ちがないと、言えるのでしょうか。

「和」と言う概念は、各国語ではどのように翻訳されるかは知りませんが、おそらく各国とも、そのような概念はあるでしょう。

で、ありますので「和」と言う文字を単なる思いやり、優しいと言う意味で捉えていては日本の「和」は理解できないのです。

他の国の民話や宗教を紹介してきましたが、その中にも「和」と言うものを感じさせる事例があったと思います。

アングロサクソン圏の項目で、聖書の内容を随分と長く書き連ねていましたが、それはキリスト教圏の人々が、日常生活の中で如何にキリストと結びついてきたかを感じていただくためです。

「和」の心と言うものは、何処の世界でも、それがなくては安穏な生活は送れません。
一方、キリスト教の影響を受けていると思われる彼の地の民は、時としてキリストを離れるか、またキリスト教を守るために大暴走も繰り返してきました。

十字軍の遠征、植民地活動、ナチの虐殺などがあります。
ジェノサイトという行為は人間社会に少なからず発生してきました。
日本でも、織田信長や中国で関東軍がやっているので西欧のそれが唯一とは言いません。

しかしながら日本とことなるのは、民衆そのものが受け入れていると思われることです。
このスレッドの題名「大和魂」は「和」の心の把握が目的ではありません。

アングロサクソン圏にも「和」お心は十分にあるものとして、その成り立ちを考えるとき彼の地のそれと日本のそれの違いに着目する必要があります。
1神教であるキリスト教の影響と、それを生み出し育んできた西欧の地政学上の民族間の闘争を考える必要があります。

彼らにとって「和」の心は自然発生的に体得したものではなく、それによって個人の生活はともかく集団として国家として、それだけでは安穏を得られない環境で生きてきたのだと思います。

それ故に「和」の心は時として跡形もなく踏みにじられるのです。
その上で、彼らの集団、国家が安定すれば慈善事業も始まるということです。
彼らの根本は、それで贖罪としているのでしょう。
いかにもキリスト教的な発想ではありませんか。

メンテ
「和」についておさらい 3 ( No.129 )
日時: 2011/08/08 21:51
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xlgVngco

とりあえずイスラムの社会へ戻りましょう。
最初の頃のイスラムへの旅で説明したように、イスラムと言ってもそれはチグリスユーフラテス両川の流域で豊かな土壌に恵まれ発達した農耕民族の話から始まります。

シュメール人が現れて、くさび形文字、暦などを発明してシュメール文化が興隆しました。
旧約聖書のエデンの園の物語もシュメールの影響が強いと思われています。
ノアの箱舟の伝説も、この時代の風潮を現しているようです。

何処の地域でも、農耕の豊作を願う呪術などが発達し、近代の宗教的な意味ではないが神を意識した時代の精神がありました。
それが、エデンの園の物語やノアの箱舟など雄大な背景を持った物語を構成していったことに意味は何であったでしょう。

それは国家のような大集団が構成されていたからと思います。
同じ頃、インダス文明の地でも「ラーマヤーナ」と言う抒情詩が生まれています。
これもヒンズー教が興る前の様子を示していて、シュメールの場合も含めて人々が自らの存在の意味を体系的に模索し始めたことがわかります。

同じ大河流域の農耕文明の地、エジプトと中国にはそれが見られません。
翻って、メソポタミアとインドにそれがあり、後にイスラム教、ヒンズー教、仏教が起きたことを注視したいと思います。
ユダヤ、キリスト教について言えば、元はメソポタミアのシュメールに同根があるとすれば、それなりに理解は出来ますが、その発展過程はイスラムとは異なっています。

さて、本題に戻り、イスラム世界の「和」の心ですが、ハムラビ法典やイスラム教の世界を見てみましょう。
「目には目を、歯には歯を」で知られるイスラムの考え方は、酷薄なものを感じさせます。
イスラム教の女性差別や、過激な原理主義も同様の激しい気質を感じさせます。
イスラム教やユダヤ教が興った背景に、その地域の部族間、国家間の闘争が激しくなってきたことを考えねばなりません。
モーゼの十戒ではありませんが、ユダヤの民も迫害に苦しんでいました。
そういう気持ちが救世主=神を求めるようになったのでしょう。
そうして、その神、宗教はアジアの多神教のような抽象的な存在では彼らの要求を満たせなく、もっと実利的な救世主、身近な救世主を求めたと思います。

それが一神教と言う形で現れ、キリスト教もイスラム教も、共通して神と信者の個人的対話を重要視した宗教となって行きます。
イスラム教の信者が日に5回の礼拝を欠かさないのも、ラマダンの風習も、それを物語っていますし、キリスト教の聖書を見ても、こと細かくイエスと信者の交流に触れています。

さて、問題の「和」のこころのことですが、この宗教の信者にとって、信者同士の「和」の問題の前に、神と子の関係があり、この方が優先するのです。
先に言ったイスラムの女性差別の戒律も、イスラム教の考えでは差別ではなく、実際にそれを承知でイスラムの世界を垣間見れば女性がしっかりと保護されていることがわかります。
キリスト教の聖書の世界でも、隣人を思う優しい気持ちが謳われています。
信仰生活に置いてあるかぎり、それぞれの宗教の世界では、言葉の通りの和の世界は満ち満ちています。
日常生活に置いて、それは我々も考える「和」の心と差があるものではありません。
以前、紹介した各地の旅の世界の様相を思い出していただきたい。
それぞれの地に民族に、それぞれの神話、伝説、民話があり、それぞれの歴史を物語っていたはずです。
そうして、後世になり人間社会のありようが変化したとき、その環境に応じた宗教が起こり、国家が興り「和」と言う心の変遷が始まったのです。

続いて述べようと思います、多神教世界での「和」の変遷を言う前に、イスラム、アングロサクソン圏の「和」のありようを以前の旅の文章で、今一度思い出して頂きたく思います。
そうして、それに同感を感じられると共に、それらが宗教的理由で、思いもよらない変革も遂げることもあわせて認識していただきたく思います。

そうです、十字軍の遠征、宗教戦争、イスラムとユダヤの対立、イスラム原理主義世界の主張など、我々が思う「和」の心とは似ても似つかない変貌を遂げることも合わせもっているのです。

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