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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2017/06/26 13:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ZChukVGk

(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。



(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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大和魂 40 ( No.42 )
日時: 2010/10/16 09:21
名前: 天橋立の愚痴人間

このお話は、「補江総白猿伝」というお話で、江総の作った「白猿伝」を補う、と言う意味のタイトルです。

江総は実在の人物ですが、白猿伝を作った事実は無く、この作品の製作者は不明とされています。欧とその子は実在の人物で、作中で猿の子とされる欧陽詢は父の死後、父の友人江総に育てられ、書家、文学者となりました。ただ、その容貌が醜かったため、このような作品が作られたとされています。(妻の名を鳳仙としたのは、自分の考えで加えたものです。)

作品としては、しっぺい太郎や日本の猿神伝説の源流とされ、また話の型は御伽草子の「酒呑童子」へとつながるものとされています。

なぜ中国の大猿は女性をさらうのか?というと、その猿達にはメスがいないのだとある説話は説明しています。

猿神になるには、人間から変身してなる場合と、猿が何百年も生きて猿神になる場合があるのですが、メスはならないのでしょうか?

少々納得いかないのですが、説話だし、神話だし、中国では猿に気をつけましょう、というお話でした。

http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM064.html


随分と長ったらしい話しですが、いかにも「個」に拘る中国らしい話だと思いませんか。

もう一つ「不老長寿」に拘る話を紹介します。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/soma/somatimes/soma/china_j.html

「中国魔術茸」

古代中国では、「不老不死」を求めて、様々な試みが行われた。中でも、中国錬金術、または錬丹術と呼ばれる不死の霊薬作りは、皇帝たちの心を捉えた。

そうした霊薬を作る成分の中で、「霊芝」というキノコは、たいへん重要な位置を占めていた。「列仙伝」によると、彭祖という人物は、霊芝を食べて八百歳まで長生きし、仙人となった、とある。

この霊芝の正体は、固いキノコ、マンネンタケ(マンネンタケ科)である。最近でも、マンネンタケはガンに効くと言われ、非常に高い値がつけられ、漢方薬として珍重されている。また、伝統美術・工芸作品にも、数多くその独特の姿を残している。

「聖なるキノコソーマ」著者のワッソンは、ソーマと霊芝との関わりについて論じている。古代インドの霊的物質、ソーマにまつわる伝説が中国に渡り、霊芝伝説になった、というのだ。

けれど、ソーマはリグ・ヴェーダに「絞って汁を取る」という記述があるように、柔らかく、汁にあふれているらしい。だがマンネンタケは固く、煎じて飲むことは出来ても、絞ることなどとうてい不可能である。

ソーマという柔らかいキノコが、何故固いキノコ霊芝に化けたのか?

ワッソンはそれを、中国科学史学者ジョゼフ・ニーダムを引用して、「刺激の伝播」という言葉で説明している。インドから中国へもたらされたのは、キノコそのものではなく、「不思議なキノコ」という「刺激」、言い換えると「イメージ」「情報」だった。皇帝はソーマを求めて果たせなかった。そこで、不思議な形態を持つキノコ・マンネンタケを「ソーマの偽物」として位置づけたのだ、と。

確かにそれは魅力的な説だといえる。インドから中国への情報の伝播の可能性や経路については、例えば、中野美代子著「孫悟空の誕生」で示されている(インド伝説上のサル「ハヌマーン」が、海のシルクロードを経て中国に伝わり、「孫悟空」のモデルの一つになった、とする)。さらに、中国では日本同様月にうさぎが住むといわれるが、うさぎが杵でついているのは餅ではなく仙草(霊芝)なのだと氏は著書「奇景の図像学」で書いている。そして、ソーマは月の神であり、シャシン(うさぎを持つもの・月)なる別名がある、とも述べている。

しかし、ワッソン説には一つ疑問が残る。それは、ソーマ的精神作用をもたないマンネンタケが、なぜ中国人の心を強く引きつけ、ソーマの代理をつとめることができたのか、という点である。

そのヒントとなりそうな考えが、テレンス・マッケナの「神々の糧」で示されている。マッケナは、聖餐として使われた向精神的なキノコが、人間との共生関係を失っていく段階を4つに分け、こう説明している。

一・他の植物・アルコールなどにとって変わられる

二・象徴である代用的な植物(作用のないもの)を使用する

三・象徴物(教義・儀式など)のみになる

四・神秘体験すら放棄する

つまり、ソーマが中国に受容された際、もたらされたのはその第2段階の「象徴」だったのではないか、と言うことが出来る。

それに加えて、ソーマ―霊芝の変換には、中国人のものの考え方、というものも大きく影響しているのではないだろうか。

一つには、中国人が、不老不死を追及する際、鉱物を重要視していたこととも関係があるのではないか、と私は考える。人間に不朽の生命をもたらすものは、それ自体、不朽でなければならない。朝に生え夕方しおれるような、うつろいやすいキノコに、中国人は、不滅の生命を見ることが出来なかったのではないだろうか。その点マンネンタケは固く、自然の状態で透き漆でも塗っているかのように輝いている。生命の永続性を感じさせるには、まことに都合が良かった。

もう一つは、中国人がキノコの持つ精神作用にさほど強い関心を持たなかったのではないか、という可能性である。

「二本足のものは親以外なんでも食べる」と言われてきた中国で、インドのソーマや、南米のテオナナカトルのような、向精神的な植物やキノコなどを、シャーマニズムに利用した記録をあまり耳にしないのはなぜだろう。あえて記録に残さなかったとも考えられるが、「人間食べたときの味」といった、ダークな記録も残っているのである。漢民族は、非常に記録を尊ぶ民族であるのだ。そもそも、霊薬というものは、薬(ドラッグ)の最たるものではないか。

確かに、中国には、キノコ王国日本に比べてキノコの種類はそう多くないと聞く。しかし、中華料理にはしいたけ・きくらげ・きぬがさたけといったキノコたちが豊富に使われている。とりわけ中国南部ではイグチ類などを含めた、豊富なキノコが利用されている。

かりに、ソーマ的マジカルマッシュルームが当時の中国で入手不可能であったとしよう。もしソーマの「効能」が中国人を刺激したのであれば、例えば大麻やけしなどに読み替えられてもいいはずだ。しかし実際は、中国人が求めたのは「キノコ」であった。つまり、ソーマの「効能」は、中国人の求めてやまないものに読み替えられたのではないか。

中国皇帝は、地位・財産など現世的欲望を満たした後は、肉体を永続させるさせることに執着した。徹底した現世礼賛である。そもそも、不老不死を願うなんて、よほどこの世に満足していなければ成立しない思想ではないだろうか。(韓国の歌謡「恨(ハン)五百年」も、本来は「恨み」という意味ではなく、「五百年くらいは生きたいのに(出来なくて悔しい)」という意味らしい。)

中国人、そしてその影響を強く受ける日本人の前には、酒も、キノコも、大麻も、同じ「酔い」であったのではないだろうか。精神作用などというものに無関心であっても、不思議はない。

このことは、今日にも続く、「マヤク」はすべていけない、と言う論理とも、関係があるように思われる。

注・彭祖(ほうそ)…それにしても、この彭祖って人、「抱朴子」によると「人間の理想としては、旨いものを食い、軽くて温かい着物を着、男女の交わりをし、高禄を食み」と仙人にしちゃえらい生臭い人なんだが、仙人が霞食ってるてえのは日本人の考えで、中国仙人はおおむね現世的快楽に意欲満々のようである。(だいたい、房中術ってSEXの方法やし…)

「恨(ハン)五百年」…日本では、チョー・ヨンピルの歌唱によるものが有名。そういえば、漫画家根元敬氏が見た韓国のシャーマンは、強力ドリンク剤でトランス状態に入るそうです。(アッパーだ!)

メンテ
大和魂 41 ( No.43 )
日時: 2010/10/16 09:23
名前: 天橋立の愚痴人間

「中国の七夕伝説1  「述異記」 中国」

天の川の東の岸に、大変美しい仙女が住んでいた。彼女は天帝の娘で、機を織るのが仕事だったので、織女と呼ばれていた。

織女は朝も昼も機を織りつづけて、雲か霧かと見まごう薄くて綺麗な布を織り出していた。その仕事に専念していたので、他に何の楽しみもなく、身なりに気を遣うことさえなかった。

天帝は娘のこんな様を哀れみ、天の川の西の岸に住む牽牛という男に嫁がせた。

ところが、結婚すると織女は機織りをぱったりとやめてしまった。夫との楽しい生活にすっかり夢中になってしまい、機の前に座ることさえなくなった。天帝はついに怒り、織女を東の岸に追い返してしまった。

この時から、牽牛と織女は年に一度しか会えなくなってしまったのである。


「中国の七夕伝説2  中国 広東省 陸安」

天に、牛郎と織女という美しい男女がいました。牛郎は牛を飼い、織女は機を織って、毎日毎日、自分の仕事に精を出して暮していました。この様子を見ていた天帝が、二人の仲をとりもって夫婦にしました。

ところが、結婚すると二人は互いに夢中になって、仕事を怠けるようになってしまいました。天帝は怒り、カラスに命じて「二人は河の両岸に別れ、七日に一度しか逢ってはならない」と伝言させました。

しかし、このカラスは言葉を上手く話せなかったのです。カラスは二人のところへ飛んで行くと、こう伝えました。

「二人は河の両岸に別れ、毎年七月七日に一度しか逢ってはならない」

こうして、牛郎と織女は年に一度しか逢えなくなってしまったのでした。


「中国の七夕伝説3  中国 泉州」

昔、織女という娘がいた。裕福な家の娘でたいそう美しかったが、選り好みして十八にもなって結婚していなかった。彼女は七尺二寸ものとても長い髪の毛を持っていて、毎日梳かすのも大変だった。

ある月の夜、織女は月に願った。

「私は、生まれてから一度も笑ったことがありません。もしも私を笑わせる者があるなら、きっとその人と結婚しますわ」

あくる朝、織女がいつものように髪を梳いていると、向かいに住んでいる牛飼いの牽牛郎が、頭に毛が数本しかないのに織女の髪梳きの真似をしておどけた。それを見ると、織女はおかしくて吹き出してしまった。

笑ったものの、織女はすぐに泣き出した。昨夜の月への誓いを思い出したからだ。けれど自分の立てた誓いだからと、父親に相談してみた。当然ながら、父親はとんでもないことだ、と相手にしなかった。織女は思い悩み、思いつめてついに病の床に就いた。牽牛郎は織女の侍女からこのことを聞いたが、何をすることも出来なかった。

そんなある日のこと。悲しむ織女にカササギが話し掛けてきて、伝令役を勤めようと言った。織女は喜び、「彼に、これから毎月七日に私の庭に逢いにきてと伝えて欲しいの」と言って、カササギの足に手紙を結びつけた。

ところが、カササギは手紙をなくしてしまい、仕方なく牽牛郎に口頭で伝えた。

「これから、毎年七月七日に逢いに来て下さいと仰せでした」

気まずく思ったのか、カササギは織女の元には帰らなかった。牽牛郎は七月七日に織女に逢えると思って楽しみにしたが、織女の方はカササギが戻らないので絶望し、病が重くなって死んだ。それを聞いた牽牛郎も嘆き悲しんで死んでしまった。

死んだ牽牛郎と織女は、天に昇って牛郎星と織女星になり、夫婦になった。そして毎年七月七日に逢うのである。

続く
メンテ
大和魂 42 ( No.44 )
日時: 2010/10/16 10:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

「韓国の七夕伝説1  韓国」

陰暦七月七日を、七月七夕という。この日には、牽牛と織女の切ない伝説が語り伝えられている。

天の国の牧童・牽牛と、玉皇上帝の孫娘の織女が結婚した。彼らは結婚しても遊んで食べて怠け暮していた。上帝は怒り、牽牛は銀河水(天の川)の東方に、織女は西方に別れて住まわせることにした。それで、夫婦は切ない気持ちのまま、渡れない河を間に置いて暮さねばならなかった。

その話を伝え聞いたカラスとカササギたちが、毎年七夕に天に昇り、二人のために銀河水に烏鵲橋をかけた。それで、牽牛と織女は七夕にこの橋を渡って一年の寂しさを語り合い、また別れるのである。

こんなわけで、七夕には地上にはカラスやカササギは一羽もいないといわれる。いるとしたら、病気で飛べない者である。また、自身を橋にして踏まれるため(あるいは、橋の材料を頭に載せて運ぶため)、この時期のカラスやカササギたちは みんな頭の羽根が抜けるらしい。

なお、七夕前後には雨が降ることが多いが、これは牽牛と織女が逢瀬の準備に車の埃を洗い流すからで、これを"洗車雨"と呼ぶ。また、七夕の夕方に雨が降れば二人が逢えた喜びの涙とし、翌日の夜明けに降れば別れの悲しみの涙とする。よって、これらを"灑涙雨"と呼ぶ。


「韓国の七夕伝説2  韓国」
 
ある星の国に美しい姫がおり、王は別の星の国の王子を婿に迎えた。しかし、この王子はたまによからぬ事をしていた。王は怒り、王子を天の川の北岸の彼方に追放した。しかし娘の気持ちを思い、一年に一度、七月七日にだけ天の川のほとりで逢う事を許した。

一年も離れ離れなので、夫婦は悲しみ、その涙は雨となって地上に降り注いで、ついには洪水になった。地上の王の命により、カササギが選ばれて天に昇った。そうして沢山のカササギが天の川の北の岸から南の岸まで頭と羽をそろえて並んだので、王子はこの橋を渡って姫に逢うことが出来、地上の雨もピタリとやんだ。

そんなわけで、七月七日の朝に雨が降ると「嘆きの雨」、昼に降ると「逢えた喜びの雨」、夜に降ると「別れの悲しみの雨」という。また、七月七日にカササギを見かけることがあると、橋をかけに行かない怠け者だとて、追い払ったりするそうだ。

メンテ
大和魂 43 ( No.45 )
日時: 2010/10/16 10:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

「ベトナムの七夕伝説1  ベトナム」
 
天のヤーデ王の娘、チュク・ヌは銀河の岸辺で機を織り、対岸ではヌグン・ランという牧童が羊の群れの番をしていた。二人はやがて相愛の仲になり、王に結婚を願い出た。王は二人の決心が固いことを知り、一つの条件を出して結婚を認めた。

「お前たちの結婚を認めよう。ただし、結婚しても自分の仕事を怠けるようなことがあってはならない。一年のうち七月だけは仕事を休んでもよいが、その他の月は仕事に精を出すのだ」

しかし、ヤーデ王が危惧した通り、新婚の二人は幸福に酔いしれ、仕事もせずに二人で天空を歩き回るばかりだった。ヤーデ王は激怒し、二人に銀河の両岸に分かれて住むように厳命した。

「お前たちはそれぞれ、自分の仕事をするがよい。ただし、七月にだけは逢うことを許そう」

こうして、チュク・ヌとヌグン・ランは銀河に隔てられて暮し、七月にだけ逢えることになった。この月になると、カラスたちは大地を離れ、見当たらなくなる。というのも、カラスたちは銀河に飛んで行って、二人のために橋をかけてやっているからだ。チュク・ヌはこの橋を渡って、愛しいヌグン・ランの元へ駆けて行く。

ほら、七月になると毎日雨ばかり降るだろう。それは、二人が一緒にいる時には喜びの涙を落とし、別れる時には悲しみの涙を落とすからなのだ。この涙雨は大地を潤し、私たちに豊かな実りをもたらしてくれるのだよ。

「ベトナムの七夕伝説2  ベトナム」

むかしむかし、ある寂しいところに池があった。その池へ行く道は誰も知らなかった。そこではいつも天女たちが水浴びをしていた。

ある日のこと、一人の樵[きこり]がそこに来て、天女が水浴びしているのを見つけた。天女たちは着物を池のほとりの木の根元に脱いでいた。水浴びが終わると着物を着て飛び去っていったが、樵は最後に一人の天女だけが残ったことに気付くと、彼女の着物に飛びついてそれをとってしまった。天女は泣きながら樵に付いてきて、着物を返して、それがないと天に帰れないのと訴えたが、樵は聞こえないふりをした。天女を自分の妻にしたかったからだ。彼女は樵に付いていかざるを得なかった。樵は家に着くと、天女の着物を米蔵の米の下に隠した。

天女は二、三年 樵と共に暮らして、もう三歳の男の子がいた。ある日のこと、天女は夫の留守の間に米の蓄えを全部売ってしまった。すると米の下に昔の着物があるのを見つけた。彼女はとても喜んでそれを着たが、自分の櫛だけは外して、子供の着物の襟にしっかりとくっつけた。そして子供に言った。

「お前はここにいなさい。お前の母は天女で、お前の父は人間なのです。これ以上一緒に暮らすことは出来ません」

そして暫く泣いていたが、やがて飛び去った。

樵が家に帰ってくると、息子が泣いているのが聞こえた。それで自分の母に、妻はどこにいるのかと尋ねた。母は、今日は一日中嫁を見なかったと答えた。樵は何が起こったのかを悟った。そして急いで米蔵に行ってみたが、蔵は空っぽで天女の着物はなくなっていた。息子の着物に櫛が付けられているのを見て、妻は自分たちを捨てていったのだとはっきり分かった。

それ以来、樵の心は晴れることがなかった。息子を連れてあの池に行ってみたりもしたが、天女はもう水浴びに降りて来ることはなかった。ただ、天女の侍女たちが水を汲みにやってくるだけだった。

樵は侍女に「喉が渇いたので水を飲ませてくれ」と頼み、自分たちの哀れな身の上を語った。その間に、小さな男の子の櫛が水がめの中に落ちた。

侍女たちが家に帰って水がめの水を空けると、かめの底に櫛があった。天女が「この櫛はどうしたの」と訊ねたが、侍女たちにはどうしてそんな物が入っているのか分からない。そこで「池の側で誰かに会ったのですか」と天女が訊ねると、侍女たちは答えた。

「私たちは子供を抱いた男に出会いました。その人は水を一杯飲ませてくれと頼んできました。妻を探しているのだけれども見つけられないのだと言っていましたよ」

天女はハンカチに魔法をかけて侍女たちに渡し、こう言いつけた。

「その池にもう一度行きなさい。そしてその男に会ったら、このハンカチを頭に巻いて私たちに付いていらっしゃい、と言うのですよ」

侍女たちは言われたとおりにして樵を連れてきた。

夫婦は再び一緒になれて嬉しくてならなかった。しばらく経って樵は「どうして自分たちを捨てていったのか」と訊ねた。天女はこう答えた。

「人間と天国の住人との結婚は長く続けることは出来ないのです。だから私はあなたを捨てて帰ってきました。けれどあなたがあまりにも悲しんでいることを知ったので、その苦しみを慰めるためにあなたをここに連れてこさせたのです。けれど今はもう、あなたは地上に帰らなければなりません」

樵は深くため息をついて、お前から離れたくないと言った。すると天女は言った。

「先に地上に降りていてください。しばらくしたら私は仏陀[ファト・バ]からお許しを得て、またあなたと一緒に暮らしましょう。今はまだそうできないのです。なにしろ私がここに戻ってからほんの少ししか経っていないのですから」

樵は重い心ではあったが帰ることに同意した。天女は召使たちに、夫と息子を太鼓に乗せて、縄で地上に降ろすようにと言いつけた。そして樵に子供のための米を渡しながらこう言った。

「地上に着いたら太鼓を二度叩いてください。そうすれば召使たちは縄を切りますから」

二人は泣きながら別れた。そして召使たちは縄をしっかりと太鼓に結びつけた。ところが半分くらい降りていったところで、ワタリガラスの群れが飛んで来たのだ。カラスは小さな男の子が米を食べているのを見つけて、太鼓の上に舞い降りると散らばった米粒をつつき始めた。太鼓はカラスのくちばしでドンドンと鳴り響き、縄は切られて、父子は海に墜落して溺れ死んだ。カラスたちはこれを見て大きな声で啼いて飛び去った。

女神 仏陀[ファト・バ]がこの悲痛な声を耳にし、天女たちを集めて「誰がその父子を死に導いたのか」と尋ねた。その天女を罰するため、女神は天女を明けの明星にし、父子を宵の明星にした。召使たちは毎年七月十五日に葬儀を行わなければならなくなった。同じ日に、ワタリガラスは家族が再会できるように橋を作る。ワタリガラスの頭が禿げているのはこのためである。

 

この日、あちこちの村でも罪滅ぼしの供物が捧げられると言う。明けの明星は明け方に現れ、宵の明星は夕方に現れる。この二つの星は、天で互いに求め合いながらついに一緒になることの出来なかった、あの夫婦なのである。


続く
メンテ
大和魂 44 ( No.46 )
日時: 2010/10/16 10:45
名前: 天橋立の愚痴人間

「日本の七夕伝説1 七夕女[たなばたつめ]  日本 『為相古今集註』」

昔、唐[もろこし]に乾陸魏という長者がいた。その下女が水辺で洗い物をしていると、大蛇が出て、口から結んだ手紙を出して、長者に渡せと言う。長者の三人の娘のうちどれか一人をよこせというのだ。さもなくば長者一家はおろかその一族眷属全てが破滅するだろう、と。もし娘をくれるならば、これより東の山中に七間四面の屋敷があるので、その中に姫を乗せた輿を置いて、他の者は帰せ、と。

下女は恐ろしく思いながら報せに行き、長者が見に行くと、長さ二丈七、八尺ばかりの大蛇だ。見るからに、本当に恐ろしい。蛇が先に下女に語ったように言うので、「分かった。三人の娘に話してみよう」と言って屋敷に帰ると、蛇も帰った。

さて、長者は家に帰ってから物も食べないで寝込み、嘆いた。娘たちは理由を知らないで、父の病気を何とかしようと部屋に見舞いに来た。長者が「一人も娘をやらないでいれば親子五人、親類縁者数万人が一度に滅んでしまう。それが嫌だから娘を一人やろうと思っても、どの子をやることもできない。みんな私の子供だ。そう思うと病気になり、物も食べられないのだ」と言うと、長女は「嫌だわ。相手がどんなでも人間ならお父様の言いつけに従いますが、そんな恐ろしいことには、たとえ一日でみんな死んでしまうことになっても、進んで従う気にはなりません」と言って帰った。その後 次女が来て病状を訊いてくるので、さっきのように答えた。この次女も、さっきの姉のように答えて帰った。もっともなことで恨むこともできず、思い煩った。

末の娘はことに幼く、まだたったの十三歳である。どんなに怖がるだろうと思うと、父母もなかなか言い出せずにいたが、父が物も食べられないのを悲しんで、自分で父のところに理由を尋ねに来た。しょんぼりとかくかくしかじかと説明して、「お前の姉さん二人は嫌だと断ったが、もっともで恨めないことだ。ましてお前は幼いのだから、どんなに怖がるだろうと思うと、力も出なかった。わしらの子供がみんなが滅ぶ宿因になるのだ。約束の日も近い。それにしても、わしら一族、牛や馬にいたるまで失われることを思えば、心細くて悲しくてたまらない」と語った。

末娘はじっと話を聞いて、涙を流して言った。

「私がこうして楽しい日々を送ったのも、お父様とお母様のおかげです。だから、たとえ火や水に入り、鬼に食べられ神に取られようとも、お父様とお母様のために言いつけに従うことを嫌がったりしません。ましてや、私が行かなければみんな死ぬと言うのでしょう。私一人が蛇に食べられて、家族から使用人のみんなまで助けることができるなら、それはとてもいいことです。死んだ後はきっと極楽に行けます。……さぁ、安心して、早くご飯を食べてください」

これを聞いて、両親はもとより、使用人にいたるまでみんな袖をしぼって泣いた。

すぐに、明日は約束の日、という日になった。娘は人に形見を渡したり別れの挨拶をしたりし、行水して身を清めて、守り仏の金銅の観音像をしっかり肌身につけた。観音経を持って輿に乗り、家族や使用人がお葬式のように泣きどよむ中、「早く連れて行ってください。約束に遅れたら、蛇が来てみんなに災いをなすかもしれません」とキッパリした様子である。輿は急いで出発し、父母は、せめて自分たちの命の代わりに、と珍しい宝を添えて送った。

例の蛇が指定した山里に行ってみると、忌まわしい感じの御殿がある。その中に輿を置いて、送りの者たちは泣く泣く帰った。娘はたった一人残って観音経を唱えていると、長さ二丈ばかりの大蛇が這い出てきた。目は月日のごとく、口は獅子のそれのようである。輿の側まで這い寄って、舌をちろちろと出している。暫くそうしてから蛇が言うには、

「小刀を持っていますか。私の背を尾まで割ってください」

嫌だと思ったが、硯の小刀を取り出して、言われた通りに割った。すると、蛇の中から、十七、八ばかりの、色が白く、辺りが照り輝くように麗しい男が出てきた。綺麗な服に宝石の冠をつけて、全てこの世の人とも思えない。例の蛇の皮を身に巻き、娘と夫婦になって、めでたいと言うばかりである。男の眷属もどこからともなく現れて、使用人として働き始めた。

それから十七日経って、娘の家族は、もしや蛇の食い残した骨などあるかもしれない、拾って供養しようと思って、人を使いに出した。すると、死んだりしないで、立派に富み栄えているではないか。夫も蛇ではなく美男子だし、やってきた人々は思いがけなくて、嬉し涙を流した。

さて、このことを長者夫婦に伝えると、喜んで大声を張り上げて、急いで見に行った。すると、後園の倉は数え切れないほど、庭の砂まで金や宝石を敷いてある。まるで生きながら仏の国に来たようで、嬉しくてたまらなかった。婿を見れば蛇どころか辺りが光り輝くような美男子。両親は手を合わせて拝んだ。

これを見て、蛇のところに行くのを嫌がった二人の姉は口惜しくねたましく、私が行けばよかった、私が行けばよかったと、悔しがった。

ある日、夫は娘に言った。

「私は四王天の梵天王の子で、彦星という者です。あなたと前世の縁があったので、あなたと夫婦になるために下界にこの三年間住みました。今度、天の父の用で天に帰り昇ります。決してあの朱の唐櫃[からびつ]を開けないでください。来年三月には必ず戻ります。けれど、もし、この朱の唐櫃を開けたら、どんなに願おうとも帰る事はできないでしょう」

続く
メンテ
大和魂 45 ( No.47 )
日時: 2010/10/16 10:49
名前: 天橋立の愚痴人間

そして、唐櫃の鍵を「身から放さないでください」と言って預けて、天へ昇った。

娘の両親と姉たちが、夫の留守の寂しさを慰めようと訪ねてきた。後園の倉を開けて、見たことも無いような宝が沢山あるのを見ては誉めて騒いだ。例の朱の唐櫃の中身を知りたがったが、「これは開けてはいけないものです」と、どうしても開けようとしなかった。そうなると、あんな素晴らしい宝物の入った倉は開けたのにこの唐櫃は開けないなんて、きっともっと素晴らしい物が入っているに違いないと、そわそわして気になって、「鍵はどこにあるの」と末娘をくすぐって言わせようとしたが、「開けません」としっかりしている。ところが、姉は力が強く、なんと箱の錠をねじ切って唐櫃を開けてしまった。けれど、中からは細い煙が一筋立ち昇るばかり。「なんてことないわ、つまらない」と、唐櫃を投げ出して、また別のものを物色し始めた。末娘はとても悲しくなって泣いてしまったが、今となっては無駄なことだった。

夫の約束した月が来たが、帰ってこなかった。悲しんでいると、実家にいた頃から可愛がって飼っていたつがいのカササギが、羽を並べてこの上に娘を乗せ、遥かに天を指して舞いあがった。四王天に至り、天人に「梵天王の御子、彦星はどちらにおいででしょうか」と尋ね、教えられて尋ね着いた。夫が言った。

「私が約束の日に降りようとしても、私が拠り所にした物を入れた唐櫃を、開けて人に見られてしまったので、中身は煙となって昇ってしまいました。こうなっては、何を拠り所にして降りたものか。そう思いながら三年を過ごしてきましたが、嬉しいことです。ただし、ここは人間の来ないところです。私の親にこのことを説明せねばなりません」

しかじかと説明すると、梵天王は「とんでもないことだ」と叱った。

「ただし、その女がわしに天の羽衣を織って渡すなら、お前と逢うことは許そう。彦星よ、お前はわしの千頭の牛を七日の間引き連れて世話をするのだ。そうすれば、その女と逢うことを許そう」

夫は娘にこのことを伝えた。

「織り方を習ったことはありませんが、仏に任せて一生懸命織ってみましょう」と言って、娘が羽衣を織ると、仏が哀れんで、簡単に織ることができた。よって、彼女を織女と書いて「たなばた」と言う。

夫の彦星は、七日の間千頭の牛を引いて世話をした。よって、彼を牽牛と言う。

梵天王は、こうなっては仕方が無い、と、二人が逢うことを許した。「ただし、月に一度逢え」と言って、瓜を持って投げ打った。瓜がつぶれて天の川となった。今、牽牛と織女が年に一度逢うのは、月に一度と言うのを年に一度と聞き違えたからだという。

七月七日に梵天王の許しを得て、彦星と織女が逢うとき、天の川が深くて渡ることができないならば、あのカササギのつがいが羽を並べ、紅葉を食べて橋となし、渡らせるというので、天の川に紅葉の橋、カササギの橋と言う事がある。

 

天河[あまのがわ] 紅葉[もみじ]を橋に渡せばや 七夕女[たなばたつめ]の秋をしも待つ


「日本の七夕伝説2  天人女房  日本 熊本県 天草」

昔のこと。天女さんが何人か連れ立って天から降りてきて、美しい着物を川のほとりに脱ぎ捨てて水浴びをしていなさった。そうすると、通りがかった若者がこれを見て、一番美しい着物を、そろっと隠してしまった。

そしてその辺に隠れて様子を見ていると、天女さんは次々上がってきて、めいめい自分の着物を着ては天に舞い上がっていった。ところが、一番美しい天女さん一人、自分の着物がないと言って、座り込んで泣いていなさった。若者が何も知らぬげに出て行って、親切そうに訊ねると、天女さんは、着物がなければ天に帰れないと言って大声で泣き出してしまった。

若者は気の毒になって、もういっそ出してやろうかとも思ったが、あんまり天女さんが美しいので知らんふりをしていた。天女さんは仕方なく、若者に付いてその家に行って、お嫁さんになりなさった。

若者の家には、犬が一匹飼われていた。二人は睦まじく暮らして、一年経ち二年経ち、三年経った。そこで若者は、もう着物を見せても天に昇ろうとはすまいと思って、あの着物を出してやった。ところが、天女さんは嬉しそうに着てみたかと思うと、そのまま天へ飛んで行ってしまいなさった。

若者は、どうかして天まで追って行きたいとと考えて、夜も眠れなかった。そのうちに顔も青ざめて、病人のようになってしまった。

そこへ訪ねて来た人が、若者の様子を見て驚いて訳を訊ねた。そこで若者は、始めから終わりまで話して聞かせた。するとその人は、

「一日百足の草履を作って、一本のへちまのぐるりに埋めれば、一晩のうちにそのへちまが伸びて天に届く。それを伝って天に昇れ」と教えて、姿を消してしまった。

若者はもう喜ぶの喜ばないの、すぐに草履を作り始めた。ところが、やっと九十九足まで作ったところで、もう日が暮れてしまった。そこで仕方なく九十九足の草履をへちまのぐるりに埋めておいたら、一晩のうちにそのへちまが、それはそれは高く伸びていた。若者は喜んで、すぐにそれを登り始めた。そうすると、飼っていた犬も後からするする付いて登ってきた。

ところが、天まであと一歩というところまで来たら、へちまがそこでおしまいになっていて、もう登れない。草履が一足 足りなかったからだ。けれども付いてきた犬がぴょいと天に跳び上がって、若者の方へ尻尾を下ろしてやった。それで若者はそれに掴まって、ようよう天に登ることが出来た。

その天女さんが七夕星で、若者が犬飼星になったんだそうな。


七夕伝説出典

http://suwa3.web.fc2.com/enkan/minwa/seisin/9_01.html

紹介しました七夕伝説もその国により内容(人情)の違いが出ています。
日本のそれは純愛を根底において物語が構成されていますが、他国のそれは戒律を基調に構成されています。

このようなところにも「和」を尊ぶ気質が現れていると思います。

メンテ
大和魂 46 ( No.48 )
日時: 2010/10/16 11:05
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

それでは最後に古代中国の歴史についてたどることにします。

夏(紀元前2070〜紀元前1600年)の時代は余り知られていませんが殷(紀元前1600〜紀元前1046年)の時代は文字があり遺跡も多く発見されていますので比較的様子がわかります。

その発見は時代が下って紀元1900年のころ「竜骨」と言うものが薬と(粉末にして飲むとマラリヤに効く)して売られていましたが、良く見ると文字が書いてある事が解りました。所謂、甲骨文字です。卜辞(占い)から司馬遷の史記に書いてある事が証明されました。

当時は狩猟の成果、作物の採れ具合などを天候を占うことによって予想したり、祈願していたようです。そのほか王室の世系についての記述が多く見られます。

戦いのこともそれにより解ります。
生活は農耕が中心となり、牧畜、狩猟により成り立っていたのですが、さらに戦争により他の集団からの略奪も国を豊かにする手段と考えられていました。作物、機具を手に入れる他、人間も奴隷として収奪しました。

王などが死んだときには、王の死後の世界でも使えさせるように、奴隷の首を切って王の墳墓に回りに配置したり、呪術の生贄に奴隷を殺したり、そのために奴隷狩のために他国を侵略したり、人間の命に関する認識は随分と過酷なものでした。

この傾向はさらに後代へも続き、周(紀元前1046〜紀元前256年)の時代でも国といえば城壁で囲われたものを指し、国は民をそっくり守らなければなりませんでした。戦争で負けると言う事は、王族は勿論のこと、民も命を含めて全てを失うことを意味します。

所謂、ジェノサイトが頻繁に行われ、秦代以降でも、項羽などは、戦争で降伏した敵国の兵士を十万人単位で殺してしまっています。
王族の継承の過程も悲惨なもので、継承の対象となり親族は実質の継承者により皆殺しにされるような場合がしばしば登場します。
王などに謀反の疑いを持たれると九族まで罪を問われ殺されるなどはかなり後代まで行われています。

また国の為政に関しては、たまに出る名君と時々出てくる暴君と無能の君主の下に権力を貪る官僚の腐敗の連続のようでありました。
民は王の持ち物であり、王が民の幸せを望んだような記述は見当たりません。

「高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり」と仁徳天皇が謳ったような趣とは随分と異なります。

それでも民の間では、生産力が進んだことにより、夏の時代の後半からは財産の私有化が進み、貧富の差も出ていました。
技術的には優れた青銅器を作っています。
メンテ
大和魂 47 ( No.49 )
日時: 2010/10/16 11:06
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

もともと広大な地域で複数の民族が競争して繁栄を図っているので、例え民族単位であっても、その全てを統一して国家を考える事は大変困難でありました。現在の中国の範囲を考えても、最初に統一したのは秦の始皇帝であり、実際の王朝を続けたのは漢(紀元前250年)からです。

また、統一されたと言っても、広大な領土と多数の国民があり、極めの細かい為政が出来たとは考えられません。
中国人には公と私の認識が日本人のそれとはニアンスが少し違うように言う人がいます。

中国は長い間、公(国)は、其処ここにあり、その上、自分が属する公の、その上の公も認めざるを得ないと言うような環境にあったと思います。
それに対して日本の場合は、公といえば、領土的にも民族的にも1つであり、それを損なう外力は殆ど意識しなくてもよい環境でした。

中国人の公の概念は日本人のそれほど、強い観念となっていないのも当然と思います。

次には古代中国の思想について考えます。

時代が少し下って周(紀元前1046〜紀元前256年)、それも春秋戦国といわれるころ、中国では、その後の中国思想となるものが殆ど生まれた時代です。

諸子百家 :中国の周末から漢にかけて出現した,諸学者と諸学派の意。 前漢初期,前後して展開した諸子の学術を,陰陽・儒・墨・名・法・道の六家(りくか)に要約したのは,司馬遷の父,司馬談。さらに前漢後期,すでに国教となって儒家の尊奉した経書は六芸(りくげい:詩・書,礼・楽,易・春秋)として別格に扱われていたが,『漢書』芸文志の諸子部門は,六芸からはずされた儒家の書(53家)を筆頭に,道(37家)・陰陽(21家)・法(10家)・名(7家)・墨(6家)と従横(12家)・雑(20家)・農(9家)と小説(15家),の10家者流189家に分類された。うち六芸を補いうるものは,小説家をはぶいた9家,つまり九流(きゅうりゅう)とされた。また後に九流から独立して兵家も諸子に加えられた。
メンテ
大和魂 48 ( No.50 )
日時: 2010/10/16 11:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

諸子百家出現の背景

孔子の直後に戦国の諸子百家の時代が始まる。諸子百家とは何か。相次ぐ弱小国家の興亡の結果,亡国の大夫や士が失職し,大量のインテリ浪人が発生した。彼らは再就職の機会を求めて,諸侯の間にみずからの理想を遊説した。

いわば国家経営を専門とするコンサルタントの群れである。これが諸子百家にほかならない。儒家の道徳政治説,墨家の兼愛説,法家の法治説,兵家の兵法説,道家の無為自然説など,その説くところは多彩を極める。このように変化に富む思想が一時に現れたのは,以後の中国史にもその例がない。そこには戦国の無秩序による思想の自由があった。

孔子の思想(儒教)

孔子は天に全幅の信頼を寄せて,自らの天命の実現に全力を尽くした。聖王の道(尭,舜,周公の教え)を総合大成し,(周)を理想とする(徳治)主義を強調した。晩年,教育と著述に専念した。孔子の人柄や思想を伝える,もっとも確実な資料は『( 論語 )』。

仁:孔子の思想の核心。人と人の間に自然に発露する血縁関係を軸にした。『論語』にも数多く説かれているが,孔子は定義を限定せず,忠恕,孝悌,克己復礼など様々に論じている。

( 忠恕 ):忠(まごころ)と恕(おもいやり)。
「(曾子の曰く,)夫子の道は忠恕のみ」
「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」
孝悌:孝(子の親に対する敬愛)悌(弟の兄に対する従順)
「(有子曰く)…孝悌なる者はそれ仁の本たるか」
克己復礼:己のわがままにうちかって,社会的規範たる礼に従うことが仁である。

( 礼 ):仁が外面的に現れた社会的規範
徳治主義:為政者が法や権力ではなく,道徳により治めるのが政治の根本だとする思想。
「政を為すに徳を以てせば,譬(たと)えば北辰のその所に居て,衆星のこれに共(むか)うが如し」

( 修己治人 ):わが身に道徳的修養をつみ,それによって人を治める。
修身⇒斉家⇒治国⇒平天下
( 君子 ):学識,人格ともにすぐれた,道徳的にりっぱな人物。〈野人(やじん)〉あるいは〈小人(しようじん)〉の対。《論語》には,〈仁〉字と匹敵する100余例の〈君子〉の語が見え,そこでは礼楽文化に身をおき,孝悌秩序をわきまえ,仁・義といった思いやりのある,人として実践すべき積極的な教養を身につけた,士人の〈君子〉の出現をねがっている。儒家思想理想の人間像。


老子の思想(道教)

( 道 )tao:老子の思想の根本概念。一切万物を生成消滅させながらそれ自身は生滅を超えた超感覚的な実在ないしは宇宙天地の理法。無・一・大・玄ともいう。

( 無為自然 ):一切の人為をなくし自然のままに生きる。 「道は為すなくして,而も為さざる無し」(〈無為〉とは人為の否定を意味するが,けっして何もしないということではない。それはいっさいの人間的営為を〈偽〉として否定したうえで,天地自然の理法にそのまましたがった真の〈為〉を実現することであり,正確には〈無為の為〉なのである。)

⇒「大道廃れて(仁義)あり,智慧出て(大偽)あり」 儒学批判 。
( 柔弱謙下 ):柔和で弱々しくへりくだった態度で他と争わない。理想の生き方。 「天下の柔弱は水に過ぐるものなし」「上善は水の如し。水は万物を利して,而も争わず」

( 小国寡民 ):老子の説く理想社会。無知無欲な少数の人民が互いに争わず自給自足する小国家。

続く
メンテ
大和魂 49 ( No.51 )
日時: 2010/10/16 11:09
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:X6H6o81I

ここで少し目を遠くにやり、古代ギリシャではどのようなことが言われていたか覗いて見ましょう。紀元前350年頃、プラトンは彼の国家論で次の様なことを言っていました。

プラトンの対話編『国家』の主題は「正義とは何か」である。対話編の主人公で、プラトンの立場を代弁するソクラテスは、「それぞれの人に、借りているものを返すのが、正しいことだ」というシモニデスの説に対して、友人から武器を借りた場合、たとえその友人が発狂しても、その武器を返すことが正しいのかと問題提起をする 。

また、友には良いことをし、敵には悪いことをするのが正義という当時のギリシャの社会通念に対しても、ソクラテスは、敵に悪いことをするためなら、盗むことすら正義なのかと反論する。エゴイズムを個人から集団へ拡張しても、普遍性を持たないことにはかわりがないので、正義に反する。

(中略)

このような、ややこしい問答を繰り返し

結論として、プラトンは個人には、欲望的な部分、気概の部分、理知的部分の三つがあり、それに対応して、国家にも、一般大衆、戦士、統治者の三つの階級がある。それぞれが、節制、勇気、知恵という徳を守り、全体として調和がとれているとき、すなわち、「金儲けを仕事とする種族、補助者の種族、守護者の種族が国家においてそれぞれ自己本来の仕事を守って行う場合」 に、正義が実現するとしている。

プラトンの理想とした国家像は原始共産制的階級社会というべきものであった。原始的とはいえ、共産主義と階級社会とは相容れないもののように考えられがちであるが、プラトンはこれらを融合させて、究極の超国家主義的な社会のありかたを理想のものとして夢見たのであった。

続く
 
メンテ

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