ホームに戻る > スレッド一覧 > 記事閲覧
[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

戦国時代 ( No.220 )
日時: 2018/02/13 14:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:c14jX/pY

室町時代から先に江戸時代の考証の一部へ飛んでしまいましたが、それめでの戦国時代の意義は大きなものがあります。
飛鳥・平安時代の貴族中心の社会に変り、鎌倉時代に始まった庶民の力が広まってきている事を示しています。

とりあえずはウィキペディアによって概観することにします。

日本の戦国時代は、日本の歴史において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、様々な経歴の戦国大名が登場する。

(経済と社会)

戦国時代は小氷期の到来と一致しており、一部識者はこの寒冷化による農作物の減少が戦国時代の原因という説を発表している[10][11]。東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕府体制の崩壊の一因となった。そして自国の領民を救うには他国の富・食糧を奪う必要が生じてそれが戦乱を生んだという見方もある。

戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。戦国時代初期には勘合貿易および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や南蛮貿易によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された石見銀山に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。この頃、金銀の品位改善のための灰吹法や砂鉄による鑪生産などといった新技術も導入された。金山・銀山の保持が主目的の城砦も築かれ、金山・銀山といった権益が絡む戦国大名同士の争いが繰り広げられることもあった。

1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し楽市・楽座により自由な市場取引を推奨した。その後の豊臣政権においても直轄地および全国の大名領において楽市・楽座が推進された。 市場取引の活発化にも伴い、これまでの領国貨幣から、統一貨幣の発行も秀吉により行われた。

その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制・職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子・作徳分が成立するようになる。戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城・大和の茶や紀伊の蜜柑などが知られるようになった。また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。

商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った堺や博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。堺の繁栄は特に顕著で、会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体に濠を巡らし、牢人を傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。他の都市としては、京都や、地方では山口・小浜・品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。

戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器や甲冑の需要を増し、刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。茶屋四郎次郎のように、いわば“死の商人”として戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。

(文化)

戦国時代初期の文化は北山文化や東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする桃山文化の発露への布石となる。

特に、千利休による茶の湯の大成は、禅の思想に基づく“わび・さび”の美意識と、豊臣秀吉の発案との言い伝えを持ち、美醜について大きく意見の分かれる“金の茶室”という極限的な豪壮さを一つに内包したものと言え、今も日本文化全体に強く影響している。

戦国時代に活動した画家には雪舟等楊、雪村周継、土佐派の土佐光信、狩野派の狩野元信、長谷川等伯らがいる。また、室町時代から文芸や画を嗜む武将が現れると、現在においても作品の美術的価値が評価される武家の人物には、『鷹図』(土岐の鷹)の土岐頼芸や、『武田信虎像』・『大井夫人像』で両親の肖像を残した武田信廉らがいる。

文化の担い手としての天皇や公家は、この戦乱の時代には、文化の相伝に存在意義を見出すことを強いられ、自らも見出していた。東常縁や細川幽斎(藤孝)といった文化人の武家をも巻き込んで有職故実や古今伝授という文化の相伝を続けた。彼らは戦乱を避けて地方に疎開することもあった。土佐の南画などはそのようにして伝わった。

武家は名家のみならず、新興の勢力も文化振興に寄与している。これは、文化を取り込んで箔付けするという面が強いが、動乱の時代に文化によって心を休めるという、安らぎを求める思いのあらわれとしても捉えることができる。周防の大名・大内義隆が京の貴族を多数招いて山口を京化することに尽力したのはその例である。

(宗教)

宗教については、日蓮宗や浄土真宗といった厭世気分と免罪への求心から発しその後救世への渇望と強い結束を見せた宗派の布教が成功している。その一方、伝来したキリスト教も広がりを見せていく。

日本は飛鳥時代の仏教伝来より、神仏習合に基づいた神や仏への信仰が篤かったが、戦国時代には、さらに天道思想が戦国武将に広がり、「天運」を司るものと認識され、仏教・儒教と神道が結合した、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を形成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透されるようになった。

(引用終わり)

戦国時代と言われる群雄割拠の時代が到来したのは、ある意味、大衆が力を得て、その力を糾合する事によって中央に対する地方の権力を創る事ができたと言う事になります。

上の説明の中にも地方経済が発達し貨幣の流通も盛んになった様子が話されています。
鎌倉時代以降、徐々に民衆が力をつけてきたことの証明であり、その気概を大和魂の発露としたく思います。

メンテ
大和魂 ( No.221 )
日時: 2018/02/23 23:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kmUQmrcA

世界中で人間の社会と言うものは、古代の集落から始まり、やがて地域の有力者が領地を構成するようになる。
その有力者同士も、強いものに統合され国家と言う形が出来あがる。
国家と言う形になれば、統治する者と、統治されるもの、要するに民との関係がシステム化され、社会規範、ルールが確立されていく。
その形は王国と言え、古代エイジプト王国など歴史的な王国である。

王国が続くと貴族も増え、やがて貴族社会となっていく。
日本で言えば平安時代がそれにあたる。
また、王国から貴族社会が出来ると言うことは、国全体が安定し、統治者、民の関係が明白に意識されることにもなる。

統治者の方は、相変わらず自分たちの栄華の為に民から搾取する事だけを考えているが、徐々に力を付け、余裕が出来た民の方は、民自身の生活に夢、希望を募らせ、可能性を貪欲に追求し始める。

古代王国などでは見られなかった民の活力が出てくる。
それが文化、技術発達を促し、社会は民が中心でることに気が付く。

政治的には封建主義が続くが、統治者側も民の能力、活力を無視して統治する事も出来なくなった。
民主主義時代までは、まだまだであるが、社会の大勢は民の活動に移り、統治者は統治の意味での主役に過ぎなくなって行った。

文化芸術の面においても貴族文化から大衆文化が主流になってきた。
平安末期、武士の中から統治者にとって代わろうとする動きがあるが、此れも既成の統治者に変ろうとする民の力の現れである。
鎌倉時代の到来は、このような意味で、産業、文化、宗教の面で、新しい勢力が台頭した時代である。

王国時代の統治者にとって、民は服従させるべきものに過ぎなかったが、鎌倉時代にもなると、民の動向を正しく捉えなければ国家の統治も出来ないようになってきた。
現代の意味での国民の誕生である。

江戸時代に入って、強力な中央集権国家になるまでは、国家としての何の束縛も感じず自由奔放に活動していた時代である。
中央集権国家になると、産業、文化、芸術、宗教の面でも統治者側の束縛を受けるようになる。
また、中央集権を確立したと言う事は、民をコントロール出来る力を、統治者側も手にしたと言う事である。

さて、鎌倉時代に始まり室町・戦国時代を経て江戸時代までの400年間は日本の民が民としての束縛もなく、自由奔放に活動した時代であった。
この間に、天候不順の飢饉もあり、国取り争いの戦乱も絶えず、環境は厳しいものであったが、民はその中でたくましく活動を続けていた。
戦国大名も、そういう強い民の集団を率いてこそ覇権に臨めるのであった。

この間、建築、絵画、歌舞、工芸などあらゆる分野で現代日本につながるものを作っていった。
倭寇など感心する事ではないが、海外雄飛にも積極的であった。
商業も発達し戦国末期では堺などの商人の助けなくしては大名が覇権を取ることも難しいくらいであった。

私は、この時代の日本の姿を、仏教、儒教の影響を受けず、統治者の規制も受けず生きることが出来た日本人の日本人らしい面と定義付けたい。
政治的には混沌の時代であったが、民の台頭と言う意味では、この400年間に勝るものはないと思う。

標題の「大和魂」と言うのは、ここに存在すると思う。
アメリカの開拓者精神、イギリスのジョンブル魂なども、当時生活していた者にとっては、その様な気持ちなど意識してはいなかったであろう。

だが、あの時は、お互いに、こうしたことに懸命であったと言う認識が「何とか魂」ではなかろうか。
「大和魂」も、そうしたことで、戦乱の400年を生き抜いた我々の祖先の生き様のことと思えば良いでしょう。

ですが、実際に鎌倉時代から江戸時代までの人々の生き様を具体的に述べよと言われても、スラスラと言えるものではありません。
歴史的な事実も一々覚えているものではありません。

とりあえずは鎌倉時代から江戸時代への変遷は、結構複雑で多様なものであったと認識していただく事です。

日蓮の布教の様子とか
一向一揆が何故起きたとか
斉藤道三の国取り物語とか
出雲の阿国の話しとか
正宗の名刀
茶の湯の発想も、当時の権力とは相い入れぬものがあった。

多くの分野で新しいもの生み出す情熱物語が多くあります。
「大和魂」について、さらに検証してみようと思います。
メンテ
鎌倉〜戦国時代(農業) ( No.222 )
日時: 2018/02/24 23:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WrvB6U.6

ここで鎌倉時代から戦国末期までの社会の様相、特に民と言う面から見てみましょう。

<農業>

奈良時代初期は、律令に基づいて中央政府による土地・民衆支配が実施されていたが、新しい農地の開墾が行われ、その土地は開墾した土地の所有者、主に豪族、貴族の私有を認めた。

民(農民)の多くは、その荘園に組み込まれ、領主の私有市民のように扱われていた。
開墾(荘園)が進むにつれて、まばらに住んでいた農民も自衛の為もあり集まって生活する様になってきた。

鎌倉時代の民衆といえば、ほとんどが荘園の中に住む農民でした。
荘園の中で、地頭やその他の武士は、多くの農民を支配し
年貢を取立てたり、いろいろな雑用をやらせたりしました。

荘園の農民の内、自分の土地を持つ地主を名主と呼びました。
彼らは農民ではありますが、戦のときは武器をとってこれらの武士に従いました。

名主たちは、自分で持っている田の一部は、自分で耕しましたが
残りは小作地として他の農民たちに耕させ、
それから地代(土地を借りたために地主に払う代金)を取立てました。

農民たちは、採れた米の三割から四割を年貢として
荘園の支配者である武士に差し出しました。

多いときには五割または、それ以上の年貢を出しました。
年貢の他に武士の屋敷な作ったり、橋をかけたり、荷物を運んだり
ただ働きの仕事も、しなければなりませんでした。

税として、米の他にも、畑からは麦・粟・大豆などを
産物として、漆・カキ・炭・薪・織物などを納めました。

重い年貢や、数々の労働は、みな小作人たちにかかってきました。

このような農民の暮らしは、たいへん苦しく
その住まいは、多くが一間きりの土間であったようで
そこに、むしろでも敷いて暮らしていたものと思われます。

農業技術は、平安時代の終わり頃から、非常に進んできました。
田や畑を耕作するのに、牛や馬などの家畜な使ったり、
くわやすきを使ったりすることは、ずっと前から行われていましたが
鎌倉時代には、農具がたんだん鋭いものになってきました。

また、今まで貴族・大社寺や豪族が、ほとんど独り占めにしていた農具や牛馬が
次第に豊かな農民たちにまで行き渡るようになってきました。

二毛作が行われるようになったことは、日本の農業史の上で大きな出来事ですが
これは、鎌倉時代に始まったと言われています。

まだ、耕されていない土地もたくさんありましたが、
農業技術が進むに連れて、開墾も次第に行われてきました。

関東平野も、幕府の指図で、その多くが開墾され田畑が増えました。
延暦寺の僧で、山の上から近江(滋賀県) の琵琶湖を眺めて
この広い湖を開拓して田をつくり、米の増産を計ったらよい、
と述べたものがいたと伝えられています。

生産力の向上は、農民にも領主にも、新規の意欲を生むことになった。

また、新規の武士階級の有力者は、荘園と言った土地所有の制度には納まらず自らの土地を増やし(領地)従来の土地所有の状況が変っていった。
その上に有力武士は戦国大名として覇権をめざし、軍役などで民を使うにも組織化していった。
随分と長く続いた我が国の土地の所有形態(荘園制度)は崩れて行くことになる。

同時に農民(民)も新しい感覚で民として生きる事にもなる。
統治者(大名・武士階級)と民との住み分けが始まったと言うか、民が社会の中で市民権を持ったとも言える。

農民(民)のこのような意識の変遷は、農業に留まらず他の分野でも興り、民衆の力となって社会を動かすようになってきたのである。

続く室町時代は、農業がさらに発展すると共に、商業の面でも新しいシステムを考え、飛躍的に発展する事になる。

メンテ
鎌倉時代〜戦国時代(商業) ( No.223 )
日時: 2018/02/24 23:42
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WrvB6U.6

鎌倉時代になると産業の発達と共に貨幣経済が浸透していった。

年貢なども米ではなく貨幣で納めるものも出てきた。
貨幣経済の発達は、農産物を始豊富になった商品を流通させることに関連して発達したものであり。
海路、陸路も整備されて商業の範囲も全国を視野としたものとなり、力を持った商人が出現することになる。

遠隔地への金銭の輸送を手形で行う事も、商品を直接交換するのではなく中間に問屋の機能を持った商人も出てきた。

また大きな貨幣が動く事に伴い、高利貸しなども出てきた。
さらに交通(流通)の要所では定期市が立てられ、

平安時代から商業に関する座と言う組織があり、座を通して貴族との商売をし、座を取り仕切る商人には権力があったが、戦国時代の末期には織田信長が、楽市、楽座と言う名称で、一部の特権商人を排斥することによって商業がより自由に展開できるようにした。

我が国の近代化は、商業の面で鎌倉時代から始まったとも言える。
戦国大名は、この状況を良く把握しており、大名の権力を増すためにも、商業に関与し多くの富を求めるにいたる。

室町時代になると社会には武士階級(統治者)とは別に、権力を持った階級(民衆)が現れた事になる。
力を得た大商人は、国内のみならず積極的に海外貿易にも乗り出し、大名もそれに目を付け、大商人を連携して勢力拡大を計るようになる。
豊臣秀吉などは、その筆頭であるが、秀吉に関わらず薩摩、伊達、越後の戦国大名も海外との交易を重視していた。

戦国末期には次の様な大商人が登場し政治的覇権者を肩を並べる存在になっていた。

【淀屋常安】

 大坂の豪商。豊臣秀吉が舌を巻いたと言われるほどの知恵者である。天下統一後の流通機構の変動に乗じ、天下の台所と言われた大阪市場をいち早く制して成功を収めた。豊臣秀吉に仕えるが、大坂の陣に際しては徳川家康に付く。その功績により大坂での米市場の創設と独占を認められ、淀屋橋に米の取引所を開設して諸大名の蔵米を一手に扱った。水運の良さと、蔵屋敷が近いこともあり、それまで個々の商人と売買をしていた諸大名は、挙って米市場へ米を持ち込むようになり、やがて米相場が立つようになった。
 米相場では両替業も必要とされ、淀屋常安は両替商としても成功を収めた。また、大坂市場の海産物管理権も手に入れ、莫大な運上金を得ることとなった。その資産は「百万石の大名を凌ぐ」と言われ、「土蔵七三〇箇所、船舶二五〇艘、諸大名貸付金一億両、公家貸付金八○○○貫目、家屋敷五四二軒、その他、田畑、刀剣、茶器、宝飾など一億二一八六万余両」の財があったとされる。「どんなものでも、手繰り寄せれば商売になる」が口癖であり、伏見城の工事、淀川堤の土手工事など、数々の逸話が残っている。中之島の開発など、淀屋常安の事業は大坂発展の基礎となった。

【茶屋四郎次郎】

 代々、茶屋四郎次郎を名乗っているが、二代目清延は徳川家康に従って多くの戦闘に参加し、その信任も厚かった。本能寺の変を家康に伝えたのも、清延である。四代目清次は朱印船貿易に従事するとともに、糸割符制度の創設など、幕府の経済顧問としても活躍した。また、大坂の陣の際に和睦交渉を行ったのも、清次である。


【鴻池新六幸元】

 尼子家再興に尽力した戦国武将、山中鹿之助の子と言われる。清酒の醸造方を開発。それをきっかけに、運送業や廻船問屋に進出し、巨富を得た。「十人両替商」「大名貸し」で知られた鴻池の基礎を作った人物である。



鎌倉時代から戦国時代にかけて、政治の面では覇権争いに明け暮れていただけの様であるが、社会的には商業の発達を通して生活基盤、システムが著しく整備向上した時代であった。

商業の発達と共に、工芸品等への需要も喚起され、産業全体が伸びて行った良い時代であった。

正規の商業の発達以外に、倭寇などは海外で略奪を始めたのもこの時代の事である。


メンテ
鎌倉〜戦国時代 <外交・貿易> ( No.224 )
日時: 2018/02/27 10:53
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:WhScYkco

商業の事を書いたので次には交易についてみてみましょう。

以下は、 「なぜ」と「流れ」をつかむ日本史より転載します。
https://ameblo.jp/karinatatsuo/themeentrylist-10003263589.html
ここは、多方面の日本の歴史を流れから捉えて記述されていて、解りやすいです。

< 日元貿易 >
平安時代末期に平清盛が船日宋貿易をしたというお話はしました。それじゃあかお鎌倉時代にまったく中国との関係がなかったかはてなマークというとそうじゃなくて、私貿易なども続いていたし、決して関係がなかったわけじゃないんです。かお鎌倉時代といえば「元寇」のインパクトが強くて、「元は日本と仲がワルイ。だから交流なんかするはずない」と思ってるかもしれませんが、実はちょっとした交流船もあったんですね。

 文化史のお話になりますが、北条時頼が招いた蘭溪道隆(ランケイドウリュウ)がビル建長寺(ケンチョウジ)を建立(コンリュウ)します。でもお寺を建てるのってもちろんお金¥が必要ですよね。ですから建長寺を建てるための費用¥を調達するために、鎌倉幕府は1325年、元に建長寺船船を派遣します。

 時代が変わりますが、足利尊氏(タカウジ)は建武の新政に不満を持ち、後醍醐天皇(ゴダイゴ)を政権から引きずり落としましたよね。その後、後醍醐天皇は亡くなってショック!しまうわけですが、元々仕えていたこともあったんでしょう、尊氏は後醍醐天皇のご冥福をお祈りして、夢窓疎石(ムソウソセキ)のすすめで天竜寺(テンリュウジ)を建立しようとします。やはりお寺を建立するとなるとお金¥がかかるわけです。ですから、その天竜寺の造営費用¥を調達するために天竜寺船船を元に派遣するんです。

< 室町時代 >

 日本で室町幕府が成立したころ、中国や朝鮮でも権力パンチ!交代がおこっていました。

 まず中国では、漢民族の朱元璋(シュゲンショウ)という人が1368年に元を滅ぼ爆弾し、明DASH!を建国して、洪武帝(コウブテイ)として国を支配します。その当時明は、私的な海外渡航や貿易を禁止する本海禁政策(カイキンセイサク)を推進して、中国を中心とした国際秩序つまり、ひらめき電球中国を親分とした「親分子分の関係」を回復しようとしていました。

 一方朝鮮では、海賊を撃退して名声をあげた武将、李成桂(リセイケイ)が高麗(コウライ)を爆弾倒して、1392年に李氏朝鮮DASH!(リシチョウセン)を建国します。

 さて、このような中国・朝鮮国内での権力パンチ!交代が行われる時には、もちろん争いメラメラが起きますよね。つまりとても政治は乱れた状態メラメラだったんです。その政治の乱れを利用して出てきたのがプンプン倭寇(ワコウ)という、『パイカリ』にも出てくる海賊たちです。室町時代初期の倭寇のことをプンプン前期倭寇といいます。

 前期倭寇は、富士山対馬(ツシマ)・壱岐(イキ)・肥前松浦(ヒゼンマツラ)地方の住民を中心とした海賊プンプンで、この三つの場所をアジトにして、朝鮮半島や中国沿岸を襲っていました。彼ら海賊たちが乗っていた船を船「ばはん船」と呼びます。この当時、高麗や明は「倭寇をおさえなさいビックリマーク」と要求するんですが、日本では南北朝のメラメラ動乱中。とてもそんなことはできはしませんでした。

 その後、再度明は倭寇を退治するよう日本に求めてきます。「あの邪魔な倭寇を退治したら、日本と貿易してあげるビックリマーク」といってきもしたんですね。

 あんまり財政基盤がないショック!室町幕府は貿易の利益を求めて、3代将軍足利義満(ヨシミツ)の時に倭寇を取り締まります。そして、ひらめき電球僧侶の祖阿(ソア)を正使として、ひらめき電球博多の商人肥富(コイツミ)を副使として派遣し、1401年に明との国交を樹立します。

 そして1404年に、日明貿易を開始します。この貿易では将棋勘合(カンゴウ)といって、明は将棋「日字(ニチジ)勘合」を、日本は将棋「本字(ホンジ)勘合」を持参して貿易をしたので、勘合貿易ともいいます。なぜそんなものが必要だったかというと、今まで正式な貿易は倭寇などに邪魔されてきたし、日明貿易は私貿易との差が大きいですね。だから、やってきた船に勘合将棋を持たせることで、倭寇・私貿易と区別をするためだったんです。

<  日朝貿易  >

 さて、朝鮮に移りましょう。日本と朝鮮との貿易は、対馬の宗氏(ソウシ)が統制し、将棋通信符を用いた貿易でした。

 また倭館と呼ばれる貿易のための施設は、三浦船と首都ビルの漢城(カンジョウ):現在のソウルにありました。ちょうど、日本と明の貿易が始まったころに、朝鮮との貿易も始まったわけです。

貿易品

 輸出品・・・鉱産物(硫黄・銅宝石白)、工芸品、クローバー蘇木(ソボク)という染料、クローバー香木(コウボク)という香料 蘇木・香木は琉球貿易で手に入れた品物でした。

 輸入品・・・木綿・大蔵経本(オオクラキョウ、一切経ともいう)・朝鮮人参
木綿の国内生産は、室町時代から始まります。

<  応仁の乱後  >

 その後、以前お話したように、応仁の乱をきっかけに室町幕府の支配力が弱くなります。そうなると、ひらめき電球勘合貿易の実権も幕府から、有力な守護大名へと移っていくわけです。その中で、周防(スオウ)の国の大内氏と、三管領のひとつ細川氏が実権を握ります。大内氏ってなんでしたかはてなマーク そう、室町時代前期に応永の乱で勢力を削減された守護大名でしたが、その後明徳の乱で力パンチ!を回復し、このころには有力守護大名の一角にその名を連ねていました。また、細川氏は将軍の補佐をする管領としての力パンチ!を持っていました。応仁の乱も、山名氏と細川氏との争いがきっかけでしたね。

 大内氏は博多商人と、細川氏は堺商人と手を組んで、貿易を行っていきます。

 16世紀の1523年になると、メラメラ寧波の乱(ニンポーノラン)がおこります。これは、中国の寧波というところで、大内氏と細川氏が貿易の実権をめぐっておこした抗争メラメラでした。その結果大内氏が勝利グッド!し、大内氏が勘合貿易を独占することになりました。
 このように、16世紀半ばには、中国や朝鮮との正式な貿易は衰退ダウンしていくわけです。それに伴い、倭寇とよばれるプンプン海賊たちが再び活動を再開します。これをプンプン後期倭寇といいますが、ひらめき電球実際は中国人や朝鮮人の密貿易者が中心となっていました。

<堺商人>

中世、ことに室町時代から近世にかけて堺(大阪府堺市)を中心に活動した商人。摂津(せっつ)と和泉(いずみ)の国境に発達した堺周辺の漁業集落は、彼らの信仰する開口(あくち)神社が住吉(すみよし)社の別宮であったところから、古くより住吉社と深い関係を有し、魚貝類の販売に従事していた。これら魚商人には、南北朝内乱期に南朝方に通じている疑いがあるとして北朝方より売買を一時停止させられたこともあった。同じ南北朝期に堺北庄(きたしょう)住人のなかには荏胡麻(えごま)売買に従事していた者がおり、大山崎油座神人(じにん)の訴えにより商売を停止させられている。
 また、鎌倉初期より堺津を拠点として廻船(かいせん)で諸国に赴いて鉄製品その他の交易を行った蔵人所供御人(くろうどどころくごにん)の鋳物師(いもじ)がいた。港町としての堺の本格的な発展は、応仁(おうにん)の乱(1467〜77)後、兵庫港にかわって遣明船(けんみんせん)が発着するようになってからである。代表的な貿易商人に湯川宣阿(せんあ)、池永宗巴(そうは)、小島三郎左衛門(さぶろうざえもん)などがいた。またこの時期、東寺領備中(びっちゅう)新見庄(にいみのしょう)や越後(えちご)赤谷の年貢の為替(かわせ)を堺商人が扱っており、野遠屋(のとおや)、天王寺屋などの堺商人が低利の大徳寺祠堂銭(しどうせん)を借りて商業活動を行っている。
 戦国期になると会合衆(えごうしゅう)あるいは納屋衆(なやしゅう)(納屋貸(がし)衆)とよばれる門閥支配を行う有力商人たちによって都市自治が推し進められた。こうした富商は海岸に納屋(倉庫)をもって商品の保管などにあたったところから納屋衆とよばれた。これら納屋衆には鉄砲の売り込みや南方との交易により莫大(ばくだい)な利益を得る者がいた。今井宗久(そうきゅう)や呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)の異名をとった納屋助左衛門などが著名であり、小西隆佐(りゅうさ)・行長(ゆきなが)父子のように豊臣(とよとみ)秀吉によって大名にとりたてられたものもあった。そのほか、茶の湯の発達に貢献した武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休(せんのりきゅう)、津田宗及(そうきゅう)、音曲隆達節(りゅうたつぶし)で一世を風靡(ふうび)した高三(たかさぶ)隆達など安土(あづち)桃山期の文化面で活躍した人物もいた。[小林保夫]

<博多商人>

中世・近世において筑前(ちくぜん)博多(福岡市)の町を根拠に活躍した商人。室町時代、明(みん)との勘合貿易や日朝貿易の中継貿易港として博多は重要な地位を占めていた。足利義満(あしかがよしみつ)が明に国書を送ったとき派遣された「肥富(こいずみ)」をはじめ、博多商人は応永(おうえい)(1394〜1428)ころから盛んに明・朝鮮と取引し、将軍や九州大名の使者となって渡航した者もある。豪商「宗金(そうきん)」の一家や、同じく貿易商人でかつ石見(いわみ)銀山の開発・経営にも関係した神谷(かみや)(屋)氏などはその代表である。貿易都市としての繁栄を背景に博多商人は自治的団結を固め、室町末期には12人の行司(ぎょうじ)で市政を運営したこともあった。安土(あづち)桃山時代から江戸時代にかけて、封建制の確立にしたがって博多の自治もしだいに制限され、1587年(天正15)の豊臣(とよとみ)秀吉の博多復興や、その後の黒田氏の入部によって封建領主による城下町化が進み、博多商人も城下町商人の性格を強めたが、なお中世以来の伝統で朱印船貿易や長崎貿易に関係する者もあり、寛永(かんえい)年間(1624〜44)には糸割符(いとわっぷ)仲間に参加した。このころの豪商としては前記神谷氏のほか、大賀氏、島井氏らがあり、彼らも貿易に参加しつつ、領主黒田氏の御用商人として各種の特権を保持した。[村井益男]

(引用終わり)

その他に、山田長政、天正遣欧少年使節、慶長遣欧使節など、積極的に海外を目指す気風は、その後の江戸時代の鎖国政策とは別に日本人の心の中の積極性を見る事ができる。

山田 長政(天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。

天正遣欧少年使節は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。

慶長遣欧使節とは、慶長18年(1613年)に仙台藩主伊達政宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王・フェリペ3世、およびローマ教皇・パウロ5世のもとに派遣した使節である。
メンテ
鎌倉時代〜戦国時代(文化・芸術) ( No.225 )
日時: 2018/03/03 14:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pAlkcSzM

今までの記事と重複する所もありますが、鎌倉時代から戦国末期までの文化・芸術の推移を項目的に現しておきます。
現代日本につながる多くの文化・芸術は鎌倉時代に興り、室町文化として完成されていきます。


>鎌倉時代の文化・芸術

(文学)

新古今和歌集
私家集
金槐和歌集
山家集
随筆
徒然草
方丈記
日記・紀行文学
玉葉
海道記、東関紀行
十六夜日記
軍記物語
平家物語
保元物語
平治物語
源平盛衰記
説話集
宇治拾遺物語
十訓抄
古今著聞集
仏教説話集
沙石集
宝物集
発心集
歴史書
今鏡
水鏡
愚管抄
吾妻鏡
元亨釈書
百練抄

(仏教の革新運動)

12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教を変革する運動として鎌倉新仏教の宗派が興隆すると、南都仏教(旧仏教)の革新運動がすすんだ。大きな特徴は、平安時代までの鎮護国家から離れた大衆の救済への志向であり、国家から自立した活動が行われた。

これは保元の乱、平治の乱から治承・寿永の乱と続く戦乱の時代により厭世観(末法思想)が強まり、魂の救済が求められるようになったためである。また、仏教の一般大衆化も推進された。

平安時代を通じて鎮護国家を担う山門(比叡山延暦寺)勢力は教義の教えや体系的な学問に励む一方、加持祈祷や僧兵の武力を通じて、政治権力を持つようになった。その一方で、円仁が比叡山に伝えた念仏三昧法から源信の天台浄土教、良忍の融通念仏宗など浄土教の興隆があった。また、天台宗はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を取っていた。鎌倉新仏教の開祖たち(一遍を除く)は比叡山に学んでおり、比叡山は一切衆生の救済を説く鎌倉新仏教を生む母胎であった。

浄土信仰
浄土宗(法然)
浄土真宗(別名:一向宗)(親鸞)
時宗(一遍)
禅宗
臨済宗(栄西)
曹洞宗(道元)
法華経
日蓮宗(日蓮)
南都仏教復興運動
法相宗(貞慶)
華厳宗(明恵)
律宗(俊&#33471;、叡尊、忍性)
新仏教の台頭に対抗後、旧仏教の側は念仏批判をすると、戒律を重んじて、腐敗している旧仏教内部の革新を進めた。また、一切衆生の救済を強く志向すると、ハンセン病救済事業や、非人救済、橋の架橋を行うなど社会事業を熱心に進めた。

渡日した禅僧

蘭渓道隆
無学祖元
一山一寧
元の侵攻による南宋の圧迫と滅亡から、禅宗の知識人が日本に渡ってくることがあった。いずれも幕府の指導者に影響を与えた。

反本地垂迹説

元寇の勝利によって民族的自覚が強まり、日本は神国であるという「神国思想」が生まれた。神本仏従の習合思想が成立した。

伊勢神道
度会家行

(彫刻)

運慶
快慶
康弁

(建築)

大仏様 - 東大寺南大門
禅宗様 - 円覚寺舎利殿
和様 - 蓮華王院本堂(三十三間堂)
折衷様 - 観心寺金堂

(絵画)

縁起絵
融通念仏縁起絵巻
春日権現験記
北野天神縁起絵巻
石山寺縁起絵巻

(伝記絵)

法然上人絵伝
一遍上人絵伝
合戦絵/物語絵
平治物語絵巻
蒙古襲来絵詞
男衾三郎絵巻

(似絵)

神護寺三像(伝源頼朝像など)
後鳥羽上皇像
公家列影図
頂相
聖一国師像

(書道)

青蓮院流

(刀剣)

粟田口吉光
正宗
長船長光

(武具)

明珍一派

(陶器)

六古窯
瀬戸窯(古瀬戸様式)
常滑窯
信楽窯
越前窯
丹波窯
備前窯
渥美・湖西窯
山茶碗


>室町時代の文化・芸術

北山文化・東山文化

室町時代は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化・東山文化と呼ばれることがある。南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。応仁の乱での京都の荒廃を機に地方伝播し、惣村や都市の発達により成長していた庶民にも文化が浸透していった。

室町時代後期、戦国時代になると城郭建築が発展する。初期のものは戦争のための軍事施設としての用途が主目的であったが、領国が広がるにつれ豪壮華麗になっていく。鎌倉時代には寺社のみで使用されていた瓦が城郭に使われるようになり、やがて町屋にも広がることとなった。同時に茶の湯・能楽・書院造など今日、文化の原型と考えられているものがこの時代に確立された。

(建築・庭園)

建築では、義満が北山に建造した鹿苑寺金閣は寝殿造と禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。義政の建てた慈照寺銀閣は禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、楼閣建築もこの時代の特徴と言える。また慈照寺内の東求堂同仁斎は四畳半の座敷で、初期書院造といわれ、今日の和風建築の原型になっている。このほか、商工業の発展に伴い、洛中洛外図屏風などには庶民の邸宅にも2階建ての家屋が描かれるなど、富裕層の増加を見ることができる。

(連歌・茶の湯)

上句と下句を連ねていく和歌である連歌は鎌倉時代から発達し、室町時代に最盛を迎える。宗祇や二条良基、宗長や心敬らの連歌師が出現し、大名や公家僧侶が寺社に集まり連歌会が催された。連歌は貴族から一般民衆の間にまで広まった。茶の湯は、南北朝時代に行われていた闘茶や茶寄合が、東山時代に村田珠光により侘び茶が開始され、戦国時代に千利休が完成させる。この茶道の流行は同時に陶磁器の発展を促した。美濃焼や楽焼など、中世六古窯とは別の、新たな窯業を発生させた。

(絵画・彫刻)

絵画では足利将軍家の部下である同朋衆から能阿弥、真阿弥らによる山水画や、東山時代に画僧である明兆・如拙・周文らを経て雪舟が水墨画を完成させる。これには文化の担い手に宮廷や公家だけではなく、武家の台頭や武家との関係が強い禅宗寺院の存在が影響している。

狩野元信は水墨画と大和絵の技法を融合させ、のちに狩野派と呼ばれる。これらは仏絵などの宗教画と異なり、世俗的、あるいは芸術的な側面としての絵画の発生と言える。同時に、庶民階級の富裕化により、風俗屏風図や遊楽図など、風俗画というべき絵画も発生している。また、交易の発展による海外の絵画技術の影響が見られる。

彫刻ではそれまでの仏教彫刻に加えて、能面彫刻が作られるようになる。他方、鎌倉時代と比べると仏像彫刻が衰退した。旧仏教寺院と禅宗による新仏教寺院との思想の変化や、公家と異なり、武家政権では新たな寺社の建立数が減ったなど、複数の要因があると考えられているが、いずれにしてもこの時代の仏像は慶派のような流派ではなく、個人の仏師が手がけた作例のほうが著名であり、全体としては少ない。その一方、城郭や書院の発達に伴い、建築の装飾彫刻は発展期にあたり、後の桃山建築を特色付ける木彫装飾の原型が室町時代後期に発生した。

また漆工にも高蒔絵や肉合研出蒔絵、切金の技法を蒔絵に応用されるなど、伝統的な蒔絵技法のほかに新しい試みが行われた。蒔絵師の幸阿弥道長は土佐光信の下絵を使ったといわれており、絵画との融合も行われている。

また、武士階級の富裕化に伴い、刀剣の装飾などに使われる鍔の彫金など、金工業も独特の発展を遂げた。八代将軍足利義政に使えた後藤祐乗に始まる後藤家など、一般需要の町彫りとは別種の家彫りと呼ばれる流派の発生である。また、武具には七宝を用いた平田派などが知られるほか、冑の明珍派など、新たな一派が多く発生した。

(能楽・狂言)

足利義満の保護を受けた観阿弥・世阿弥元清の親子が鎌倉時代から行われていた猿楽・田楽を能楽として大成させる。世阿弥は「風姿花伝」で芸道論を著す。対話劇である狂言も成立した。

その前に、戦国末期には、出雲の阿国が出て歌舞き踊りをひろめたことも挙げて置かねばならないでしょう。

(民衆文化)

室町時代は惣村の成立や都市の発達により、農民とは別の都市部に住む庶民が文化の担い手になってくる時代でもあった。庶民の間では短編の読み物集である御伽草子が読まれ、狂言や小唄、幸若舞などの庶民芸能が流行する。食文化では、味噌、醤油、豆腐など日本料理の基本要素が出揃った。醤油を除き、中国から伝わっていた要素で、室町時代の商工業発達によって普及した(醤油の普及はやや遅れ、関西では江戸時代初期、江戸では中期)。

(学問と思想)

室町時代の学問の担い手は主に禅僧や公家である。京都の五山を中心に禅僧の間で漢文学や朱子学の研究が行われ、五山文学と呼ばれる。五山は幕府の保護を受け、日明貿易を行う足利義満の外交的顧問役でもあった。無力化した公家は有職故実や和歌、古典の研究を行い、一条兼良や東常縁、三条西実隆などの公家より古典文化が守られた。応仁の乱で京都が荒廃すると、公家や禅僧は地方に移り、学問や文化の地方波及や庶民化が進む。関白一条兼良は越前国朝倉氏のもとへ身を寄せ、子は土佐国中村に土着して土佐一条氏となる。桂庵玄樹は肥後国及び薩摩国に招かれ、現地で朱子学の一派である薩南学派を開くが江戸時代には衰亡した。大内義隆に仕えていた南村梅軒は土佐に招かれて、同じく朱子学の一派の海南学派を開く。

また、この頃関東では、上杉憲実により足利学校が再興される。大内氏や堺、奈良の商人の間でも独自の出版が行われた。

(宗教・思想)

日本仏教では、禅宗は武家層にも広まり、武家の保護を受けた禅の五山が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。都市部では日蓮宗が広まり、京都では日親が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。1536年には日蓮宗は比叡山延暦寺と衝突して天文法華の乱と呼ばれる騒動となる。庶民の間では曹洞宗が広まる。

座禅は平安時代から行われていたが、臨済宗、曹洞宗が広まるにつれて庶民の間にも広がって行った。

浄土真宗には本願寺派や高田派、仏光寺派、三門徒派などの宗派があったが、その中でも、本願寺派の蓮如が再興した本願寺派(一向宗とも呼ばれた)は、講と呼ばれる信徒集団を形成し、浄土真宗の宗派の中で最も有力な宗派となった。

本願寺派の信徒は、自らの宗派を守るために、信仰を基にして一向一揆を結び、団結した。本願寺派は、応仁の乱以降の戦国の騒乱の中では、加賀一向一揆を通じて加賀国を支配し、戦国大名に匹敵する勢力になり、室町幕府や様々な戦国大名と合従連衡を繰り広げた。

織田信長が上洛した際、信長は足利義昭を支持していたが、後に対立した。その際に、本願寺派は義昭を支持して信長に対抗し、石山合戦を繰り広げた。大坂の石山本願寺が落とされて以降は沈静する。

神道では、吉田兼倶が吉田神道を創始する。

1549年にはヨーロッパからキリスト教がフランシスコ・ザビエルなどによってもたらされている。

メンテ
大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.226 )
日時: 2018/03/03 14:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pAlkcSzM

如何でしょうか、鎌倉時代から戦国末期にかけての日本人のバイタリティーはこの様なものであったのです。

一つは平安時代までと異なり全体に豊かになり、強力な統治者がいなかった為に庶民が勢い付いたと言う事です。
現代日本の創世記とも言える時代であったと言えます。

江戸時代に入ると幕藩体制が確立し中央の権力が隅々まで及び、その影響で自由闊達な精神が抑えられてしまったのでしょう。
一方で江戸文化は、それまでに培ってきた数々の文化・芸術の成熟期とも言えるでしょう。

日本の歴史、日本人の歴史を考えるとき、この時代の有り様を無視する事は出来ません。
現代日本で日本人を評価する時、江戸時代に培われて勤勉、従順を論点にしがちですか、それでは本当の日本人の姿を捉えた事にはならないでしょう。
江戸時代以降の日本人の有り様を否定する訳ではありませんが、日本人とは何かを考えるとき、江戸時代を出発点にするべきではないでしょう。

鎌倉時代から戦国末期までのバイタリティーに富んだ日本人の有り様を、日本の心のルーツ(大和魂)としていますが、それには、さらに前提条件があるのです。

世界の民族はそれぞれの地で文化を醸成してきました。
それぞれの地という中に、自然環境もあり、民族間の抗争もあります。
その環境条件の違いで民族性も異なってきます。

我が国は、このスレッドの初めの部分で大きな紙面を割いて、日本人の生きてきた環境と民族性の特徴を書いてきました。
要するに「和」の心が他民族以上に発達してきたのです。

「性格」と「性質」と言うものの違いを書いたことがあります。
「性質」とは、持って生まれた人間性の事であり、
「性格」とは、後天的に、経験から身につく人間性としたいと思います。

人間は「性質」変える事は殆ど出来ないと言っても良いくらい難しいことですが「性格」が悪いなどと言う様に「性格」を非難し糺させることはあります。

鎌倉時代から戦国末期までの日本人の有り様を「性格」とすれば、それ以前の「和」の心に富んだ日本人の有り様を「性質」として、大和魂とは「和」の心に富んだ日本人が作り上げた民族性としたく思います。

しかしながら、此れで「大和魂」の概念を示せたとは思いません。
日本人に大和魂の自覚を促す場合には、同時にそれに沿って行動を求めることも意味するからです。
「大和魂」の概念に含まれるリーダー性には、まだ触れてはいません。

この後は、この事を中心に、江戸時代以降の日本人の民族性と言うものを見てみたいと思います。

メンテ
文明史的検証 ( No.227 )
日時: 2018/05/19 10:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YXzqPS3A

ここで文化と文明と言う言葉に触れてみます。


文化という言葉を辞書で引くと、

それぞれの民族・地域・社会に根付いている人間の生活様式の全体。
主に人類がつちかってきた哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動のこと。

文化という言葉は精神的な部分に重きを置いているので、機械的な発達よりも、学問や学習、人々の交流に関する事柄に用いる場合が多いようです。

英語に当てはめるのであれば

“Culture”


文明という言葉を辞書で引くと、

人知が進み世の中が開けた状態。
精神的・物質的に生活が豊かになった状態。
文采のあること。文化の行われる世。

と出てきます。

しかし現在における「文明」という言葉の概念としては、精神的な発達よりも技術・機械の発達や、社会制度の整備などに対するニュアンスの違いが強く、経済的・物質的文化の表現に用いることが多いようですね。

英語に当てはめると、人間の発達した社会状態を指す

“Civilization”

文明的生活や、機械的・科学的な発達を意味する言葉ですね。

文明と文化の違いとは?

文明という言葉は特定の地域や年代に縛られず、普遍的に使用されています。

対して文化という言葉は特定の地域、年代、歴史を表す際に用いることが多いでしょう。

また、文明という言葉は、

技術

機械

社会制度


などの発達なども含めますが、

文化という言葉はどちらかといえば精神的で、

分野

学問

芸術

宗教

などの発達や交流に使われることが多いです。

https://xn--n8j9do164a.net/archives/2960.html

とあります。

しかし、此れでは本当の概念の違いが判りません。
文明とは、ネソポタミア文明、エジプト文明、黄河文明など、大きな対象を名指しているのに対して、文化は、室町文化、平安文化、又は貴族文化などと言う用法をもち、より局所的、短期間に置ける人間社会の有り様を指しています。

先に紹介した文化と文明を規定した要素は、強いて分けられるものではなく、それらの事柄の展開の有り様の区別ではないかと思います。

別の見方、ウィキペディによると、

文明とは、人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。

(文明の発生)

文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農作物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった寒冷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期はBC5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、BC3200年ごろには楔形文字が発明された。

なぜ人類社会が高度に組織化され文明が発生するようになったのかは明確にはわかっておらず、いくつかの説がある。この中で、乾燥化や地球寒冷化などによって人々がより条件の良い土地に移住して集中するようになり、その人口を支えるために大規模な農耕がおこなわれ、文明が成立したとする説がある。

(文明のゆるやかな成立)

新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。例えば、シュメール文明は最古の文明の一つだが、BC5300年頃のウバイド文明から、ウルク期のBC3200年の文字の発明まで2000年を要している。原始的農業を経て灌漑技術を生み出し、都市を構成し、冶金技術も生まれ、神官階級が文字を生み出し、歴史時代が始まる。
また、アンデス文明は、BC1000年頃文明が発生し、AD1500年頃滅んだが、この文明において文字は存在せず、インダス文明も同様であった。冶金術はメソアメリカ文明ではあまり発達しなかった。

歴史学者、アーノルド・トインビーは、その文明論の中で文明の発祥について次の様に語っている。
文明と言われるものの発祥の前に、その集団の中に先験者と言われる者がでて、周囲の人々が、その先験者をまねる(ミメシス)事によって集団として動き出す。

この時、その集団から文明が生まれる。
そうして、文明の展開について次の様に言っている。

成立した文明社会も、やがて停滞期を迎えたり、外敵要因、自然環境によって衰退する事もある。
マヤ文明が謎の消滅をしたり、メソポヤミア文明が、過去のものとなったりする事を現している。

その過程で、文明は常に文明を衰退させる要因(挑戦)に対して常に文明を維持、発展させる力(応戦)を発揮しているのであり、応戦できなくなった文明は衰退又は滅ぶとシテいる。

先に文化と文明の定義をしたが、文明とは文化を維持する社会の力の様なものとも規定できるのではないか。
当然、成果物としての文化は残っても、力を失った文明は衰退する。

勿論、衰退、興隆と言っても明確な識別ができる訳ではない。
一方、数千年も前に衰退した3大文明に変り、現代社会には文明と言う概念はないのかと言う疑問にぶつかる。


現代社会について文明と言う言葉で説明すれば、西欧文明が世界を席巻していると言う事になる。
他にも上げるならば、それはイスラム文明であるが、残念ながら多神教に基づく東洋文明と言う概念はない。
またついでに説明すると、
マヤ、インカ文明は西欧文明によって消滅させられ、現代は西欧文明とイスラム文明が激しく衝突していると言える。

その西欧文明とは、エジプト、メソポタミア文明につづく古代ギリシャに発するものであり、中世を経て科学技術の発達した現代社会へつながるものである。

さて、その西欧文明とは、

●ギリシャ=ローマ文明と西欧文明の連続性と非連続性

 現在は世界的に近代西洋文明が広がっているので、ヨーロッパが昔から世界の中心であったかのように錯覚しがちである。しかし、今から5百年ほど前には、文明の最も進んだ地域はユーラシア大陸の主要部であるインドやシナ、イスラム地域であった。西欧は長く、こうした諸文明に対し、ユーラシア大陸の西端という辺境に位置する後進的な地域だった。
 西欧文明はギリシャ=ローマ文明の継承者というイメージを持っている人が多い。確かに継承してはいるが、単純に連続しているものではない。両文明には明らかに断絶がある。ローマ帝国は395年に、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。西ローマ帝国は、476年に滅亡した。これによって、西欧におけるギリシャ=ローマ文明は滅んだ。西欧文明は、この文明を生み出した民族とは異なる民族が中心となって、生み出した別の文明なのである。
 ギリシャ=ローマ文明は、環地中海圏を舞台として興亡した。ヨーロッパの南東部を中心とした。これに対し、西欧文明はヨーロッパの内陸部に発生し、南部または地中海地域だけでなく、むしろ北西部や大西洋地域で、独自の発達をした。この二つの文明の間には、連続性と非連続性がある。

 西欧文明の主たる担い手は、ゲルマン民族である。ゲルマン民族は、ローマ帝国の衰退期に、帝国各地に流入した。今のフランスの辺りであるガリア地方では、フランク族のクローヴィスが、481年にフランク王国を建国した。そして、496年には、自らカソリックに改宗した。王が回収した事によって、ゲルマン民族は、徐々にキリスト教化していった。
 8世紀前半になると、宣教師ボニファチウスがドイツに布教した。キリスト教は、ゲルマン民族の固有の信仰を否定した。自然崇拝・祖先崇拝を排除したのである。このことが、西欧文明に自然支配や個人主義という特徴を与えた。
 800年に、シャルルマーニュは、ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の帝冠を受け、カール大帝として西ローマ帝国の理念を復興した。カール大帝は、カソリック世界を統一し、また教育・文化の発展に尽力して、「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化再生運動を起こした。ここにギリシャ=ローマ文明とユダヤ=キリスト教とゲルマン民族の文化という三つの要素が融合し、西欧文明の骨格が出来上がった。

●統合力としてのユダヤ=キリスト教

 西欧文明は、文明を統合するための原理・制度・機構をギリシャ=ローマ文明に学んだ。たとえば、西欧文明は、ローマ法による国家・社会を目指した。その点で、ギリシャ=ローマ文明と西欧文明は、「親文明」と「子文明」の関係にある。親子といっても、主たる担い手となる民族が替わっており、文字通りの世代交代ではない。また、西欧文明が発生したときは、西欧ではギリシャ=ローマ文明は消滅している。そのため、「子文明」である西欧文明は、「親文明」に学びつつも、親の模倣に終わることなく、独自の文化を発達させることができた。
 とはいえ、諸民族・諸部族が一個の文化的統一体として結合するには、統一をもたらすものが必要である。その統合力として働いたのが、キリスト教とラテン語である。「子文明」としての西欧文明は、「親文明」としてのギリシャ=ローマ文明が残した文化的統合の象徴によって、緩やかな統一性を得た。西欧文明は、外来の宗教・言語以外に、固有の統合力を持たなかった。キリスト教とラテン語による統合は、弱い統合であるにもかかわらず、西欧諸社会に文明としてのまとまりをもたらすには十分であった。それにより西欧文明は、約千年にわたり分解することなく持続した。
 西欧文明は、ギリシャ=ローマ文明に対し、その周辺文明として発生したが、ギリシャ=ローマ文明の遺産を継承しつつ、地中海圏の他の主要文明から文化要素を摂取して成長し、主要文明の一つになったといえる。

 私は、西欧文明の三要素のうち、キリスト教が西欧文明の精神的中核となったことが、この文明の根本的な性格を定めたと思う。キリスト教は、ユダヤ教の中から、それへの批判として出現した。そしてユダヤ教から分かれ、異なる宗教として発展した。しかし、キリスト教の元祖はユダヤ教である。どこまで差別化しても、母体がユダヤ教であることは変わらない。
 ゲルマン民族がキリスト教化していく過程は、ギリシャ=ローマ文明を摂取していく過程だったが、キリスト教化を通じて、ユダヤ教の思想文化を間接的に摂取することでもあった。すなわち、ヘブライズムがヨーロッパの内陸部・北西部に伝播する過程でもあったのである。キリスト教を通じて西欧文明に流入したユダヤ教の要素が重要な作用をするようになるのは、貨幣経済が発達し、またプロテスタンティズムが台頭した15〜16世紀以降である。
 私は、キリスト教とユダヤ教の違いを認めつつ、西欧の宗教の基底にはユダヤ教の要素があることを強調する時には、ユダヤ=キリスト教と書くことにしている。ユダヤ教そのものについては、ここでは触れない。別稿で改めて書く予定である。
メンテ
文明史的検証 2 ( No.228 )
日時: 2018/05/19 10:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YXzqPS3A

ここで文明に触れたのは、明治維新によって日本はいきなり西欧文明の影響を受ける事になり、日本らしいものが大きく変換し始めたのを確認するためであります。

当時の社会では概ね諸手を挙げて受け入れていたもの(西欧文明)も、実は次の様な矛盾を含んでおり現代社会では、それが噴き出しているものと思う。
いきなりの結論付けの様であるが、次に紹介する文章は、西欧文明の問題点を浮き彫りにしている。
トインビーが言ったように、文明とは常に挑戦を受け、応戦してこそ発展、展開して行くものであり、その挑戦をきちんと受け止めねばならない。


http://www.alter-magazine.jp/index.php?%E2%80%95%E5%A4%A7%E8%BB%A2%E6%8F%9B%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%87%E6%98%8E%E4%B8%96%E7%95%8C%E2%80%95

1.西欧普遍主義の終焉による転換期時代の開幕
==============================================
 
「今、世界でなにがおこっているのか?」という疑問に対して、大まかに言っ
て二つの答え方がある。一つは、3・11大震災、地球温暖化から9・11事件
後の反テロ戦争、リーマン・ショックに至る天災と人災に世界諸国の政府が対応
に忙しい。しかし、しばらくしたら1990年代のままの世界に戻るだろう。と
いうマス・メディアに出ている答え方。もうひとつは、今、世界歴史の一ページ
が捲られようとしている。そういう大転換期の時代だという答え方である。この
小論は、後者の立場に立つ、あくまでも一つの見かたである。

 岩波文庫にも翻訳の出ているイマヌエル・カントの「恒久平和のために」とい
う世界的名著がある。国連がその提案の主要部分を実行している。近代主権国家
が市民の安全を保障する大構想を示している本書について、その邦訳者を含めて、
カントのユーモアが分からず、本当に永遠の平和が、このカントが描いた国際平
和構想のもとで保証されていると信じている。

 しかし、カントはこの本の冒頭で、「恒久平和のために」というのは、自分が
墓地で見かけた墓碑銘であることを記している。ユーモアをもって、自分の提案
しているのは、当時の西欧を中心にして確立されていた主権国家の協力のもとで
どのように国際平和を実現できるかについての提案であって、「恒久平和のため
に」というような墓碑銘に記すのに良い理想的な「恒久平和」など実現できない
し、そのことについて自分は関心がないことをいっているのである。

 実は、今日起こっている大転換は、このカントが当時の西欧で完成期にはいっ
ていた啓蒙主義の時代に考え出した国際平和の仕組みが、その平和を作り出す力
を出し尽くし、その正統性も次第に風化して、すでに末期的症状を呈している。

そういう時代に適した新しい「恒久平和のため」だけれども、現在の世界の条件
を計算に入れた平和の構想である。カントが想定し、国連が実現した主権国家や
その構成する国際機関つまり国連が中心になって実現される平和は決して「恒久
平和」ではなかったことが、いろいろな兆候から読み取れる時代に入っているの
である。

 カントが念を押したように、近代国際社会の「平和」は恒久ではない。つまり、
今起こっているのは、国家と市民の間に交わされているはずの安全保障契約が効
力を失われかけている状態がはっきり姿を現したということに他ならないのであ
る。
この「契約」では、国家が軍事力と警察力という「正統な暴力」、つまり
「殺人をする権利」を独占する、市民はこの「暴力」の国家による独占を認めて、
国家以外の武力を持つ団体は解体するが、そのかわり国家がその市民の安全のみ
ならず、その人権や福祉も保障するという契約だった。カントはこの契約が恒久
平和のもとになるものではないことを十分承知の上で、これを基盤とする国際平
和の在り方を示したのである。

 今、とくに開発途上諸国では、近代国家の成立とともに自分の軍事力を放棄し
たはずの「非国家」主体が、自分たちがその領域内に住んでいる主権国家が、自
分たちの人権も安全も保障してくれないことに対抗して、宗教単位、エスニック
集団単位などで、それぞれ独自の軍事力をもつようになっている。先進工業諸国
でも、反テロという名目、そして市民の安全を守る名目で、自衛組織が編成され
て、市民と認めていない移住労働者などを監視したり攻撃するなどして、マイノ
リティの不安全状況が拡大している。

 いうまでもなく今日でも、国家や国際機関の役割がなくなったわけではない。
しかし、ウェストファリア体制が16世紀に確立された西欧においても、今日で
は地域統合が進んで、主権国家のかなり多くの権限が、欧州人権裁判所など、欧
州規模の諸機関に移管されている。したがって、純粋なウェストファリア型の主
権国家は、事実上開発途上諸地域にも先進工業諸地域にも存在していない。かな
り乱暴なことをいえば、ウェストファリア型の大国は、日本くらいかもしれない。

 カントの現実主義的な国際秩序モデルが理想像を描き出しているウェストファ
リア体制のほころびは、国連の強化などの対症療法的な手当てでは到底現状回復
ができないところにまで広がっている。その意味で我々はポスト・ウェストファ
リア体制の入り口に立っているということができる。この新しい体制がどんなも
のになるのか、誰れにもわからない。しかし、少なくとも我々世界の市民がどの
ような構想を選び、どのような行動を取るかで、この新秩序の輪郭が描かれるこ
とはたしかで、そのことをわれわれは認識しておく必要がある。

 ウェストファリア体制の終焉は、しかし、上記の国家機能の減衰だけによって
生じているものではない。主権国家の国際政治・軍事秩序における機能変容とと
もに、その背景になっているグローバル市場の国際経済・国際金融的な機能の変
化についても理解する必要がある。いま、世界諸国のなかでも、平等な主権を持
っているはずの中小諸国は、グローバル政治経済の中で、自分たちより大きな経
済力を持つ巨大多国籍企業との経済競争に負け続けている。

 ウェストファリア条約のときに成立して、啓蒙思想が人権の支え手として選ん
だ主権国家は、事実上、巨大多国籍企業の利害関係にうまく取り入ることで、そ
の国際経済競争力を維持する必要が出ている。そこで、近代主権国家が、その領
域内の人々を市民としてその安全と権利、福祉を保障するとされてきたけれども、
西欧近代の主権国家も、その市民の福祉などを配慮するよりも、巨大多国籍企業
との競争・協力に力を入れる必要が出てきているのである。

 グローバル金融競争に歯止めをかけることを市場の自由競争への障害として、
国家による規制の全面撤廃をもとめる新自由主義、いわゆるネオリベのグローバ
ル支配の結果、「福祉国家」という、カント以来、かつては近代国家が目標とす
る理想的な国家など、もはや夢にも描けないようになっている。この傾向は、資
本主義経済が、生産力中心の余剰集中から、投機的な金融商品市場における独占
率拡大競争を競うというような、スーザン・ストレンジが的確に命名している
「賭博場資本主義」に変容してしまったことの結果であるといえよう。

 グローバル経済格差を埋めることが困難な世界経済の不均等成長は、すでに生
産を中心とする1970年代までのケインズ流の国際資本主義のもとで始まって
いたけれども、1980年代以来の新自由主義のもとで、回復が不可能なまでに
定着してしまっているのである。本稿は国際金融危機について論ずることを目的
としておらず、筆者も金融論の研究者ではないため、詳述は避けるが、18世紀
以来科学技術への研究投資による急速な工業化を推進してきた資本主義が今日、
息切れ状態に陥っていて、資本主義生産経済が末期的な症状を呈しはじめている
ことは疑いを入れない現実である。

 1990年代のラテン・アメリカとアジアの開発途上地域の金融危機に始まり。
2000年代には、米国に端を発するリーマン・ショック、最近のギリシャ・シ
ョックでさらに広がっている先進工業地域の金融危機、さらには現在の西欧中心
の財政危機のもとで、雇用の縮小を前提にした経済成長さえもできない。労働市
場の緊縮を前提にした先進工業諸国家の財政投資で金融危機の出現を先に引き延
ばす延命資本主義経済が世界を風靡する時代に入っている。

 国家財政が破産するデフォルトを回避するためには、新自由主義の大原則も完
全に破られている。そして、先進工業大国中心の金融統制と金融機関を中心とす
る大企業へのカンフル注射的な財政支援が金融企業中心の大企業に財政援助を集
中させている。その反作用として、援助を受けた国では、負けだしたら国のデフ
ォルトを引き起こす「勝ち組」大企業の繁栄をよそに、注入されたカネの返済の
ための緊縮財政が「負け組」市民に強制されて、「勝ち組」と「負け組」の格差
が拡大の一途をたどっている。

こうして国家の破産を先に延ばす延命策の結果、開発途上諸国だけでなく、先
進工業諸国でも貧富格差の拡大に対して、米欧諸国でも抗議デモや座り込みが多
発している。要するに、グローバル投機金融のみが拡大して、労働市場が縮小し
ているのである。

 もっとも、新自由主義グローバル経済を回復させるために、先端技術の開発に
活路を求める動きは、地球温暖化を遅らせるグリーン・エコノミーという形を取
って現れてはいる。
しかし、大量消費を前提にする大量生産が今後も続けられる
としても、遺伝子組み換えによる世界の農業をアグリ・ビジネスによって置き換
えようとする米国を中心とする巨大多国籍企業の活発化、原子力発電を維持・強
化しようとする日本財界と政府の動きなど、末期的症状のグローバル資本主義は、
環境を破壊するばかりでなく、世界の大部分のローカル共同体も破壊し、慢性的
な貧困のもとで不安全な生活を送る人々の数を増やすばかりである。

 このように、政治・軍事の面でのウェストファリア体制の崩壊現象と並行して
いる経済・金融の面での資本主義経済世界システムの崩壊現象が進行している。
このような現象は、この論考の最初で記したように、一過性の現象ではない。

 しばらくすれば、世界は1970年代までの右肩上がりの成長経済に支えられ
た国際的な安定と平和を回復するという楽観的な見通しもないわけではないが、
本稿では、そうではないという立場で今全世界で起こっていることの意味を読み
とることにしたい。なぜなら、近代国家の危機と現代グローバル金融の危機は、
16世紀以来、右肩上がりな「進歩」「近代化」に成功していた西欧中心の近代
世界が持続不能になっているしるしでしかない。

続く
メンテ
文明史的検証 3 ( No.229 )
日時: 2018/05/19 10:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:YXzqPS3A

 そんなわけで、上に記した国際政治・軍事、世界経済・金融の末期的な症状が、
もっと広くまた奥の深い、西欧近代文明の終焉を意味すると考えるべきである。
このことについては、イマヌエル・ウォーラースティンの2011年2月にダカ
ールで開かれた世界社会フォーラムで行った発言によく現れている。「今日、わ
れわれは一つの時代の終焉を迎えている。過ぎ去ろうとしているこの時代は、い
ろいろな名前で呼ぶことができるけれども、そのひとつとして、西欧中心の普遍
主義の時代と呼ぶことができる」と述べている。

 そこで一つの問題が出てくる。なぜ「西欧中心の普遍主義」の時代の終焉が、
近代国家と世界市場の末期的症状という形をとっているのか、という問題である。
このことを説明するために、我々は「西欧近代」の普遍主義が近代国家と世界市
場との結びつきを前提にしていることについて考える必要がある。まず確認しな
ければならないことは、今日の日本に暮らす我々にとって、我々の生活が、西欧
近代科学技術と西欧近代法によって支えられているということである。

 我々の衣食住には、日本古来のものが沢山ある。しかし、日本古来の衣服にも
化繊製のものもあるし、西欧の技術によって大量生産もされている。日本古来の
食糧の多くは、トラックや、汽車、飛行機によって運ばれ、食卓にのる前に、冷
蔵庫に保存されたり、電気レンジで調理されるものが多い。住環境にしても、団
地のコンクリ家屋だけでなく、日本風に建てられている住宅にも、電気の照明、
ガス・上下水道も、西欧から移転された技術を利用している。

我々の生活のもとになっている生産システム・消費システム・廃棄システム・交
通システム・労働システム。教育システム・医療システム・社会保障システムな
どは、すべて西欧の普遍主義を取り入れた近代国家の基準や統制、官僚指導、法
制度に基づいている。

 その意味で「西欧発信の普遍主義」は、我々の便利な市民生活を支えている。
我々は近代法治国家のもとでの公教育を受け、民主主義的な政策決定と市民とし
ての安全を保障され、世界市場の経済原理と金融原則に基づいている生産と消費
の配分を受けたり、さまざまなサーヴィスの受給関係のなかで生活している。 
 

 日本をはじめ非西欧諸国・諸地域で「近代化」と呼ばれてきたものは、このよ
うに具体的な形で我々が西欧から伝授された科学技術と法律・政治・経済・金融
制度などの受容過程のことである。「近代化」は今、当然のように我々の生活を
支配しており、われわれはそれを有難いと考えないくらい当然の成り行きとなっ
ている。しかし、この「近代化」過程で、西欧発信の普遍的な文明を受け入れた
ことについて、ただ有難いといって感謝することのできない現象も起こっている。

 そして、そのような現象の中に、近代国家が必ずしも我々市民の安全を保障し
ているばかりでなく、脅かしている面もあるとか、世界市場の競争のために得を
するかわりに、貧困生活を強いられるワーキング・プアなどの問題が、特に最近
世界各地で噴出している。そして地球温暖化などの生態系の破壊や、原発事故に
よる被曝の危険性の問題も出てきている。

 これらの諸問題は、「近代化」を否定せず、西欧の普遍主義を承認し、近代国
家の法制度の枠や、世界市場の科学技術に基づく生産を強化することでの解決を
求めることができる。今日のメディアなどは、その方向での、環境問題、国際金
融問題、労働問題などへの対応策を議論している。筆者も、人権関係、生態系関
係の市民活動に参加しているので「西欧中心の普遍主義」にドップリ浸かってい
る日本市民の一人ではある。したがって、西欧中心の普遍主義の時代が過ぎ去ろ
うとしていることに諸手を挙げて歓迎するものではない。

 特に、西欧覇権諸国が、この「普遍主義」を非西欧世界に伝達したことは、人
類史上で西欧文明の貢献であったに違いない。科学技術の移転は人類全体の生活
水準を上げることに役だった。また、「人権」という概念を非西欧世界に伝えた
ことも、非西欧諸文明の中で差別されていた人々にとって、疑いもなく良いこと
であった。しかし、近代西欧文明が、いわゆる「啓蒙主義」の時代に形成した
「普遍主義」は、同じ時代に形成された近代国家を単位とする国際社会や世界市
場中心の資本主義経済と切っても切れない深い関係性を持っていたことを見過ご
しにしてはならない。

 それは、以下の三つの問題がその背後にあるからである。第一には16世紀の
近代化が、それ以前の基軸宗教(3000年前から2000年前にかけて、古代
帝国の専制と古代貨幣経済の出現に対して起こった創唱宗教)によって非道徳と
して信徒に禁止していた「権力慾」と「貪欲」という悪徳を近代文明の中心に据
えたことがあげられる。

 16世紀に起こった近代国家の確立は、政治人 homo politicus というもっぱ
ら権力を追求する「権力慾」の塊という人間類型を前提にしており、近代国家の
勃興と同時に成立した世界市場経済は、「貪欲」を一切の行動の動機とする経済
人 homo economicus という人間類型なしには成立しなかった。

 この二つの人間類型は、それ以前の支配的な人間類型であった、ものを「作る
人」 homo faber と「あそぶ人」 homo ludens を、権力闘争・経済競争の道具
にかえてしまったのが、今日の悲劇の始まりであった。「作る人」は職人として
の誇りを否定されて、労働者として搾取され、「遊ぶ人」は性と暴力を中心とす
るサーヴィス産業の金の卵にされてしまった。

 2011年夏、タイ国のチェンマイで、新自由主義グローバル経済にたいする
仏教とキリスト教との協力について対話がおこなわれた。そこで確認されたこと
は、仏教もキリスト教(正確にはその前身のユダヤ教も、政治的には古代帝国が
成立して、経済的には貨幣が出現した時代に、民衆特に貧しい人々の味方として
生まれている。したがって、過去2000年から4000年前に機軸宗教が生ま
れた時代と同様に、巨大な帝国と無敵の金融とが並存している。

したがって、仏教とキリスト教とは、その信仰上の相違をこえて、権力慾に支え
られたグローバル覇権体制と貪欲な新自由主義に対してともに立ち上がるべきだ
ということが決議された。

 第二に、自然の破壊と収奪が西欧覇権諸国の植民地主義に支えられて進んでき
た。西欧における資本主義の誕生は、英国のエンクロージャ−によって説明する
西欧発信の古典的な歴史解釈によって無視されてきたが、スペインによるラテン・
アメリカからの金や銅などの金属や、香料を始めとする植物の収奪に始まり、イ
ギリスなどによる綿花などのモノカルチャーによって、非西欧諸国民の植民地主
義支配と奴隷制とともに進行した。

 資源面では貧しい西欧が資本主義を発展させてきたのには、このような非西欧
世界の豊かな鉱物圏・生命圏の収奪があった。(同時に非西欧地域の民衆が安価
な労働力、貴重な消費人口となったことも忘れられない。)そのことは、201
0年、名古屋で開かれた生物多様性条約締約国会議でも南の国々によって主張さ
れた。

 第三に、ウォーラースティンが指摘した西欧の「普遍主義」には、人権など非
西欧世界が学ぶべきものが確かにあった。しかし、それと同時に、西欧による非
西欧世界の植民地化が16世紀から今日まで続いている背後には、西欧の歴史的
使命として「普遍主義」の全世界的な普及という思い上がった主張が控えている
ことも今日の問題の根になっている。そして、なによりも大切なことは、外発的
に外から押し付けられた考え方は、たとえ正しく役立つものでも人々に受け入れ
られない。内発性こそが一切の普遍性の大前提だということである。

 キプリングが言っていたとされるように、いわゆる「白人の負い目」として、
植民地主義の正統化となった西欧「普遍主義」の普及は、日本のように、自分が
植民地化されないために周辺諸国を植民地侵略する「対抗植民地主義」の例も合
わせて、近代化の名における侵略は平和に生存する諸国民の安全を脅かす支配で
あった。その大前提は、「進歩」=「開発」の概念とこれを支えた段階説、西欧
を人類歴史の頂点におく発展段階説である。

 これは、オーギュスト・コントの「三状態の法則」アニミズム(正確にはフェ
ティシズム)の未開社会、宗教の支配する中世社会、科学が支配する近代社会に
始まり、マルクスの生産手段の所有を手がかりとする原始共産制社会・奴隷社会・
封建制社会・資本主義社会・社会主義社会・共産主義社会。ロストーの反共産主
義的な停滞的な前近代社会・離陸・近代社会までいろいろな形をとってはいるが、
いずれの場合にも西欧啓蒙主義をもとにする普遍主義的な認識論と価値とをもと
にして非西欧諸社会が、やがては、いちおう普遍主義文明に編入されることを前
提にしている。

 問題は、この西欧社会を頂点とする歴史の進歩。つまり「開発」の神話の過信
性が、今や現実によって否定され始めているということである。問題は非西欧諸
国が反植民地主義の立場の延長線上で、西欧の「普遍主義」の押し付けに反対し
始め、西欧でも、この非西欧世界の問いかけに答えて、西欧と非西欧を包み込む
グローバルな問題提起の嵐が吹き荒れていることであろう。この「普遍主義」の
傲慢さに対する否定の嵐が、一方ではナチズム、ネオナチズム、反米・反西欧テ
ロリズムなどの南の右翼ニヒリズムの形で、他方では北の内部における左翼ポス
ト・モダニズムを中心にして、世界各地域で吹き荒れている。

 そのきっかけは、反テロ戦争。中東の反植民地主義独裁の限界。リーマン・シ
ョック以後の貧富の格差拡大。3・11大震災時の福島第一原発爆発事件などで
あったり、多様ではあるが、結局は「西欧」に端を発した普遍主義を非西欧に押
し付ける植民地主義の最後の形であるグローバル植民地主義、つまり新保守主義・
新自由主義のもとでのグローバル化の「成れの果て」であるという共通項でくく
ることができる。

 ところで、「西欧普遍主義」の限界は、このような社会運動においてだけでは
なく、人権という啓蒙時代以来の西欧普遍主義の最も進んだ法理念・法制度にお
いても現れ始めている。

 人権における西欧普遍主義を超える試みとして、現在国連の人権理事会で進行
中の「平和への権利」の制定過程がとくに注目に値する。この新しい人権は、ア
メリカと西欧そして日本の反対にかかわらず、とくに反植民地主義的なラテン・
アメリカ、アフリカそしてアジアの国々の支持のもとで進んでいる。そこに「西
欧普遍主義」を乗り越える新しいしい突破口になるのではないか、ということで、
かなり立ち入った形で、この「平和への権利」について考えることにする。

(引用終わり)


アーノルド・トインビーに拠れば、日本には日本文明と呼べるものがあったが、明治維新によって、それが中断された(消滅した訳でもない)と言っている。

明治維新で入ってきた西欧文明(文明開化)とは、民主主義と資本主義であった。
個人の自由、権利を保証すると共に人々の欲望追求が解放された。

人々は狂喜してこれに飛びつき社会は急速に発展していった。
その西欧文明が至上のものであれば問題は無かったのであるが、先に挙げたように、西欧文明と言えども人類史の中の一端に過ぎない。
西欧文明が内包していた矛盾が近年になって顕著になり人々は困惑してきているのが現状と思う。

私たち現代人が、社会を憂い、政治を憂いている源流もここにあります。
私が大和魂に拘っているのは、西欧文明における挑戦を乗り切る為の応戦の力として東洋的なものを考えてみたいと思っているからです。

メンテ

Page: 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成

題名 スレッドをトップへソート
名前  「名前#任意の文字列」でトリップ生成
E-Mail 入力すると メールを送信する からメールを受け取れます(アドレス非表示)
URL
パスワード ご自分の投稿文の編集、削除の際必要です。面倒でしょうが入力をお勧めします。
投稿キー (投稿時 投稿キー を入力してください)
コメント

   クッキー保存