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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2017/06/26 13:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:ZChukVGk

(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。



(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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大和魂 2 ( No.2 )
日時: 2010/10/14 11:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『少女』帖とされている。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれ、和魂漢才と言うこともあった。漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することが大和魂とされた。

『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられていた。

具体的に下記のような意味合いが示されています。

1 世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。

2 特に各種の専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立ててゆくための才能や手腕。

3 外国(中国)の文化や文明を享受するうえで、それと対になるべき(日本人の)常識的・日本的な対応能力。やまとごころ。

4 知的な論理や倫理ではなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力・感受性。もののあはれ。

5複数の女性を同時に愛してしかもすべてを幸福にしうる、艶福とそれを可能にしうる恋愛生活での調整能力。いろごのみ。

6 日本民族固有(のものと考えられていた)勇敢で、潔く、特に主君・天皇に対して忠義な気性・精神性・心ばえ。(近世国学以来の新解釈)

イメージからは随分と離れているようですが、これが原点のようです。
逆に考えれば上記のような風情が当時の日本にはあったと言うことになります。
紫式部が何を持って「大和魂」と言いたかったのか、もしかして 5番目の複数の女性を同時に愛する能力のことなのでしょうか。
それは後日「少女(おとめ)」の巻を手に入れてからの検証にしたいと思います。

いづれにしても、これは平安朝の貴族社会の様相です。
それまでに、我が国では聖徳太子が言われている「和を持って尊しとする」についても、怨霊伝説などにも言及しなければなりません。

それは、また次回にします。
メンテ
大和魂 3 ( No.3 )
日時: 2010/10/14 11:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

聖徳太子の「和」と言う言葉が出てきました。
日本民族を語るとき、いつでも出てくるのが「和」と言う言葉です。
はじめに、それを検証することにします。

以下は下記のサイトからの引用です、「日本の心」について詳しく検証されています。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm

「和」と言えば、誰でも知っているのは、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」。この理念は、日本人のものの考え方をよく表しています。しかし、「和」の精神は聖徳太子の独創ではなく、古くから日本の国に受け継がれてきたものです。

「和」とは、もともと「わ」という音の日本語です。その「わ」にシナの漢字の「和」があてられたわけです。
作家の井沢元彦さんによると、本来「わ」には「環」や「輪」の意味しかなく、環濠集落(堀をめぐらした集落)を表す言葉でした。それが、集団や仲間の意味を表す言葉となり、シナ人に、自国の意味で「わ」と言ったところ、「倭」(背が小さい、体が曲がっているなどを意味)という文字を当てられました。
その後、「わ」は、集団的な協調の精神やアイデンティティをも意味するようにもなり、日本側の要望により、国名の文字を「倭」から「和」に代えてもらったのだろう、と井沢さんは考えています。(1)

さて、かつて日本列島に住みついた人々は、「わ」すなわち環濠集落を作って、小集団が分立していました。その小さな集団が段々と国家を形成し、より大きな国家に統合されていきました。
その過程では、戦争もあったでしょうが、統合の多くは、話し合いで決まっただろうと考えられます。というのは、日本の神話には、諸外国に比べて、戦争の話が非常に少ないからです。それは、日本列島の温和な風土の影響によるところが大きいでしょう。

そして、人々には、対立・抗争よりも調和・融合をよしとする「和」の精神が育まれ、一つの民族として融合・形成されてきたと考えられます。そのことを、私たちは、日本の神話の中に見出すことができます。

続く
メンテ
大和魂 4 ( No.4 )
日時: 2010/10/14 11:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

西洋のユダヤ=キリスト教では、男性的な神が万物を創り、神は土の塊から人間の男を創ります。そして、神はアダムを慰めるために、男の肋骨から女を創ったとされます。

これに対し、日本神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生します。これらのニ神は、人間と同じ男女の営みをし、人間はその子孫として誕生したとされます。
このように、日本では、男女・陰陽の「和」によって、国土や人間が誕生したと考えてきたのです。

さてイザナギ、イザナミのニ神から生まれた子供が、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのをのみこと)です。
須佐之男命は高天原を暴れまくりますが、弟の暴虐に対して、天照大神は争ったり、罰を下すのではなく、天岩戸に身を隠すという振る舞いをします。それによって、地上は闇の世界となります。

この時、八百万の神々は、天の安の河原(あめのやすのかわら)に集まって、話し合いを行います。思金神(おもいかねのかみ)の妙策によって、天照大神を岩戸から引き出すことに成功し、世界は再び光を取り戻します。
 須佐之男命はその振る舞いのために、高天原から追放されます。しかし、天照大神と須佐之男命は後で和解し、大罪を許された須佐之男命は、出雲の地に下り「やまたのおろち」を退治する大活躍をするのです。(2)

日本神話には、争いを避け、話し合いを重んじ、共存共栄を目指す「和」の精神が、さまざまな形で描かれています。そうした日本固有の精神を、「和をもって貴しとなす」と表現したのが、聖徳太子だといえましょう。
そして「和」は、その後の日本人と日本の精神を考える際のキーワードとなっているのです。

太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」です。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。

引用終わり。

大部分省略して掲載しましたが、大和民族が育んできた「和」と言う概念が地形的にも、民族学的にも特別の条件で自然発生的に形成されて行ったことが伺えます。
その「和」の概念を、も少し具体的に捉えると共に、他民族の特性とも比較したいと思います。

続く
メンテ
大和魂 5 ( No.5 )
日時: 2010/10/14 11:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

レスをいただく方があり、「和」の言葉自体を解説してくれました。このようなことは思いもしなかったのですが、言語学的な肉付けです。


「和(わ)」は音読みか、それとも訓読みか もし音読みなら、それは漢語だということになります。

日本語とアラビア語:

聖徳太子の時代以前からアラブ商人は今の中国の都市泉州や、揚州に来ていた。もちろんイスラーム革命以前です(聖徳太子が死んだ622年からイスラームは始まった)。揚州は隋の皇帝煬帝お気に入りの都市で、長く滞在していた。要するにアラブ人と隋の皇帝は接点を持っていた。それでアラブ人は東アジアの動向も知っていたに違いないのです。福建の漁港としての泉州の漁民からも、少なくとも日本の九州に関する情報を得ていたはず。

隋が破滅し、唐へと変る東アジアの情勢を受けて、ムハンマドによるイスラーム革命が起されたと想像することができる。唐はご承知のとおり遊牧民による王朝でした。

アラビア語で”ワタシ”を「アナー」、貴方を「アンタ」と呼びます。このうち「ア」は「ワ」と同類でです。日本語では我の”ワ”もあっちの”ア”も厳密に区別しません。だから「アナー」は「ワナー」と置き換えることもできる。大変な共通性があります。ちなみに「アンタ」の”ン”は”ヌ”の変化形です。

要するにソナタというときの”ナ”と「アンタ」というときの”ナ”は日本語とアラビア語で共通しています。”ナ”は遠いものを指し、同時に尊敬の意味がある。

アラビア語で”そして”又は”と”を意味するのに「ワ」という。日本語では”テ”に当たり、英語ではandです。この「ワ」こそ和語としての「わ」だとするならば、その使われる際の場面は日本とアラビアとで非常に似ている。

この「ワ」を使うことにより、「汝」も「我」も同じになるからです。

金印で有名な「倭之奈之国王・・・」の文字も、単に”私の貴方”という意味に過ぎなかった可能性だってある。つまり「ワ・ナ・タ」です。
詳しい書物によると、中国語にもずいぶんアラビア語起源の発音があるようです。

以上引用。

ここで出てきます「国王」の意味は当時の中国では、日本で言う大名クラスに対して使っていたようです。
だから簡単に倭国を国王と認定したのです。
実際のところ属国扱いだったと言うことです。

後漢の史書に『後漢書』孝安帝紀東夷伝に安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うてきた(「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)との記述があります。

帥升以前に日本史上の個人名は史書に見られない。そのため、帥升が日本史上に現れる最初(最古)の人物とされている。帥升の次に現れる人物は卑弥呼である。

この頃のことは、我が国では資料が乏しいのですが、中国との交易もあり、かなりまとまった社会を作り「和」の精神は十分に醸成されていたと思われます。

続く
メンテ
大和魂 6 ( No.6 )
日時: 2010/10/14 11:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

協力してくださっている方の投稿を元に、歴史の旅を続けましょう。
その中で古代の心を感じることが出来ると思います。


日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが精確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。

シュメールとは現在の南イラクのことです。そしてそこに北からヒッタイト族などがやって来た。そしてバビロニアなどの国家を建設してシュメールの文化をシリアに広めた。シリアとは、現在のシリア、レバノン、バレスチナ、ヨルダン、イスラエルを包括する地区です。シュメールはユダヤにとって先進文化地域だった。

楔形文字は、古代オリエント地区で東アジアにおける漢字と同じ役割を果たしていました。メソポタミアの共通文字だった。

シュメールには葦原が広がっていたらしい。日本もかつては”豊葦原の国”と呼ばれました。葦は筆(ペン)を作るために利用されます。粘土と葦の組合せが文を生んだ。「書く」とは引っ掻くと言う意味です。Grammarのグラムは刻むという意味。紙が発明されるまで、文字は刻んだり引っ掻いたりするしか記する方法が無かった。

シュメールの人々が東に移住し、インダス文明を築くなどしながら、南海伝いに日本までやってきた可能性は十分にあると思います。

ここまで遡れば十分でしょう。次には大和の国から見た太古の様相です。

黒潮は日本列島南方海上で対馬方面と高知方面に分かれる。対馬方面へ流れる海流に乗ると、船は九州北西部とか、或いは朝鮮半島南東部に行き着く。出雲地方もその中に含まれます。

紀伊半島もそういう意味で同じ人々が流れ着く場所でもある。そのせいか、熊野権現は出雲系の神様が祭られています。その他に、伊勢、伊豆、安房、鹿島(茨城県)など、いずれも黒潮と無縁ではない。

大和川を行き着くところまで遡ると飛鳥地方に至る。他方その先の山の向こうには、吉野を経て熊野があります。古代にそこでヤマト民とミナト民が出会ったとしても決して不思議ではありません。

このように想像すると、日本古代史は黒潮をキィ・ワードとしてヤマト民やミナト民(海民)の動向を中心にして再構築する必要があると言えるでしょう。

ヤマトとミナトという言葉が出てきました。

昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。

陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。

むかし江戸は武蔵野国にあった。軍艦でも大和の姉妹艦として武蔵が建造されました。江戸がミナト(水戸)民の土地だったことは言うまでもありません。

むかしから、我が国は南方や朝鮮系の渡来人が多くいたことは、聖徳太子の時代にも秦氏、漢(あや)氏などが良く知られています。
上記に書いた流れの中に組み込まれるのでしょう

続く
メンテ
大和魂 7 ( No.7 )
日時: 2010/10/14 11:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

大和民族とは、日本列島に住んできた人類で構成される民族で、そこでは縄文時代から日本列島に住んできた人々(いわゆる縄文人)と、縄文末期からユーラシ大陸から渡来した人々(いわゆる弥生人)が中心となって形成した。この過程は前回の大きな流れのなかでも触れています。

ヤマト王権が、日本列島各地に散在していた様々な人的集団を勢力下に置き、同化したことにより大和民族が成立していったと考えられている(しかし大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない。

そして民族の特性として、大和民族は農耕民族、あるいは島国に居住することから海洋民族と分類される場合もある。 また江上波夫が騎馬民族征服王朝説を唱えたが学術的には否定されている。

このような中で、日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立したのが神道のはじめである。

『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範とする。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られる。

また時代的に中国の影響を受けて仏教や儒教の考え方は早くから入っていたとしても不思議ではない。祖先崇拝などでは儒教の影響も大きい。それらが複合した形態をもって、一つの一貫した民俗体系が構築されている。

神道、儒教に関しては後に検証するとして、このように民族的にも精神史的にも結構多様な要素を含んで「和」の心が育まれて行ったことが解ります。

その「和」の心の概念をもう少し強くするためにも、仏教や、儒教についても考えなければならないでしょう。
これからの問題ですが、仏教も儒教もインドや中国で展開したものとは少し違っているようです。
なぜ、そうなったかも「和」に関する要素が原因なのでしょう。


「和」の心の検証は、とりあえずここまでとして次に移ります。
メンテ
大和魂 8 ( No.8 )
日時: 2010/10/14 17:39
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

神話と伝説。
人類には既知の生活圏内においても、どうしても克服できない恐怖が付きまといます。たびたび襲い掛かる地震や噴火などの天災、疫病です。昔の人は、これらの原因を科学的に理解することができず、従って解決できなかったのです。この未知なるものへの「恐怖」が、神や悪魔、亡霊や怨霊といった存在を生み出したのです。
世界中の国に神話と伝説があります。
国の成り立ちに関しても、こういう人々の恐怖心に絡めて神話により説明されていることが多くあります。
まず我が国の建国の神話の代表的なものを紹介しましょう・
日本の国土を創生した神々

太古の昔、混沌としていた天地がやっとおぼろげながら分かれたとき、高天原(たかまがはら) 《天上界》に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をはじめとする五柱(いゆはしら)の神が 生まれた。

これらの神々は国土創生の基礎固めをしたため、「別天津神」(ことあまつかみ)といわれ、 特別な神として敬われている。

神世七代までに、世界のおおよその姿はできあがった。
しかし、いまだ完全ではなかったので別天津神たち一同は、イザナギノミコト(伊邪那岐の命)とイザナミノミコト(伊邪那美の命)に世界を完成するよう命じた。

そこで、二人が国造りに励み、大八島国(おおやしろのくに)《日本列島》ができあがった。


このように、古代人は、この世の物はすべて神が作り成したものと考え、逆に、自然界のあらゆる 現象や物(山川草木など)に、神霊が宿っていると信じていたのである。



「天岩戸(あまのいわと)の神話」

イザナギノミコトが黄泉国(よみのくに)《死者の国》の穢れを祓うために禊をしたときに、 三貴子(みはしらのうずみのみこ)が誕生した。

すなわち、左の目を洗っているときに生まれた神が天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、 右の目を洗っているときに生まれたのが月読命(つきよみのみこと)で、 最後に鼻を洗っているときに生まれた神が須佐之男命(すさのおのみこと)である。

父のイザナギは、姉の天照大御神(あまてらすおおみかみ)には高天原を、次の兄の月読命には夜の国を、 そしてスサノオには海原を治めるように命じた。

二人は父の命に従ったが、須佐之男命(すさのおのみこと)は従わず、なきわめくばかりだった。
あげくのはてには、数々の狼藉を働きはじめ、しまいには天衣を織る神聖なはたやに皮を剥いだ馬を投げ込むという暴挙に出た。

これに激怒した天照大御神は、天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまう。世の中は真っ暗になり、悪神がはびこりだした。

そこで八百万(やおろず)の神が天照大御神を岩戸から引き出す作戦を練り、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が裸で、今で云うストリップをはじめると、 天照大御神はよく見ようと体を少し岩戸の外へ乗り出した。

その時、待ち受けていた天手力男命(あめのたじからおのみこと)が、 天照大御神の手を取って外へ連れ出し、すかさず布刀玉命(ふとだまのみこと)が、 岩戸の前に注連縄をはりめぐらして再び中に入れないようにした。

世の中に明るさが戻った。この時の天宇受売命の舞は神楽の起原とされ、今日のお多福面の神である。



この物語は、天照大御神が天地(日本国)の統治者であることを述べようとしたものである。

このため、須佐之男命をやんちゃ者として海の国を統治する地位から追放しただけでなく、乱暴をはたらいた者として高天原から追放した。

いかにも悪神であったかのように説いているが、須佐之男命は武勇にすぐれた英雄であり、八俣(やまた)の大蛇(おろち)退治がそれを立証している。

古代には国や豪族などの重大事にあたっては、最上位にある神が、各族(氏)の長を集めて会議を開き、事を決定していた。
出雲の国譲り以前には高天原の神にとっては出雲族は強敵でその恐怖心が天岩戸の伝説となった。

続く
メンテ
大和魂 9 ( No.9 )
日時: 2010/10/14 17:40
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

「大国主命(おおくにぬしのみこと)と因幡(いなば)の白兎の神話」

大国主命(おおくにぬしのみこと)と因幡(いなば)の白兎 大国主命は須佐之男命の六代目の孫で、八十神(やそがみ)《八十柱の神》といわれるほど多くの兄弟がおり、大国主命はそのいちばん末の弟だった。

あるとき、因幡国(鳥取県東部)に八上比売(やがみひめ)という美しい娘がいることを知った八十神は、そろって求婚の旅に出る。

兄弟の荷物を持たされて大きな袋を担いだ大国主命は、兄弟たちに遅れてついていった。 八十神が気多の岬にさしかかると、一匹の白兎が皮を剥がされ赤裸になって泣いていた。

兎が助けを請うと、八十神は、海水を浴び、小高い丘の上に横たわって風に当たっていれば自然に治ると、兎をからかって嘘を教えた。

兎は言われたとおりにした。 そのため、風に当たって皮膚がひび割れ、ますます痛みがひどくなって苦しんでいた。

ちょうどそこに大国主命が遅れてやって来て、兎が苦しんでいる訳を尋ねた。
兎は隠岐島に住んでいた私は、本土に渡ってみたいと思いましたが、渡る手段がありません。そこで、一計を案じて海のワニザメをだまし、「私の兎族と、君のワニザメ族と、 どちらが多いか一つ比べっこをしよう」と持ちかけました。

するとワニザメは私の言葉を真に受けて、隠岐島から対岸の気多の岬まで仲間を一列に並ばせました。
私はワニザメの背中の上を飛びながら、数えるふりをして渡ってきました。

そして渡り終わろうとしたときに『うまいこと、だましてやったぞ。私は対岸へ渡りたかったのだ!』 とつい思わず言ってしまいました。

その途端、いちばん最後に並んでいたワニザメが私に襲いかかって、このとおり皮を剥がれてしまったのです。
そこで、先に通りかかった八十神に助けを求めてその教えに従ったところ、ますますひどくなってしまいました。 」と答えた。これを聞いた大国主命は兎を憐れみ、すぐに真水で体をよく洗って、蒲の穂綿にくるまるようにと教えた。

兎は、教えられたとおりにしたところ、傷は見る間に治ってもとのような美しい姿になった。


喜んだ兎は大国主命に、「八十神は決して八上比売を射止めることはできません。
今は大きな袋を担いで下働きをなさっていますが、あなたこそが八上比売をめとるのに相応しい方でございます」と言った。

果たして兎の言葉どおり八上比売は八十神たちのプロポーズをことごとく断り、大国主命との結婚を誓う。

八十神たちはこれに激怒して、大国主命を殺そうとする。
しかし、最後には大国主命が勝利し、八上比売を娶って豊葦原中国の王、すなわち国津神の代表となったのである。

八十神とは、大国主命の腹違いの多くの兄弟を言い、大国主命に対抗する豪族である。

大国主命は、末子として生まれ、慈愛深い神であったので、八十神から常々ねたまれていたが、妻争いのことから彼らの恨みをかい、数々の迫害を受けた。

しかし、大国主命は白兎によって象徴される部族に救いの手をさしのべ、その部族は恩を感じて命の国土経営を手伝った と言うのがこの物語である。


「大 蛇 退 治の神話」

高天原(たかまがはら)を追放された須佐之男命(すさのおのみこと)は孤独な漂泊の旅に出た。
出雲国の肥河の川上で、三人の親子が嘆き悲しんでいるので、その訳を尋ねた。

老人は大山津見神(おおやまづみのかみ)の子供で足名椎(あしなづち)、老妻は手名椎(てなづち)、 娘の名は櫛名田比売(くしなだひめ)という。

この地では毎年、八俣(やまた)の大蛇(おろち)《頭が八つある大蛇》が来て若い娘を食らうと言う。
自分達には八人の娘がいたが、みな大蛇に食われてしまい最後に残ったこの娘も食われてしまう。
それで三人で泣いているのだという。

そこで、須佐之男命は八俣の大蛇を退治するから櫛名田比売を嫁にもらう約束をし、八つの樽に酒を満 たして待っていると、大蛇は酒の匂いを嗅ぐと先を争って八つの酒樽に一つずつ頭を突っ込んで酒をむさぼり飲んだ。

大蛇がしたたか酔ったところを十挙剣(とつかのつるぎ)で斬りつけ、見事に退治することができた。
そのとき、大蛇の尾から剣が出てきた。これが三種の神器の一つ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)だ。
大敵を退治した須佐之男命は約束どおり櫛名田比売と結婚して多くの神々を生んだ。
その六代目が大国主命(おおくにぬしのみこと)である。


昔は、深山にいる大きい蛇を山の精霊と考え、これをオロチ(山の霊)といっていた。
そして、この山の霊であるオロチの暴威によって、暴風や洪水も起こるものと考えていた。

この物語は、斐伊川が毎年のようにはんらんして、稲田を荒らし、採鉄作業を妨げるのを、この蛇の しわざと考えた。

須佐之男命がこの蛇を切ることによって、このような洪水がなくなり、稲田の農作や 製鉄も行われるようになり、櫛名田比売は水田の守り神、つるぎの出現は製鉄の正常化を示した。

続く
メンテ
大和魂 10 ( No.10 )
日時: 2010/10/14 17:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

このように建国の英雄は人々の恐怖を取り除くことで統治圏を認知させることになっています。
建国にまつわること以外でも人々は「未知の恐怖」と対峙し多くの伝説を生んできたのです。そうして神話や伝説の中に、宗教や哲学以前の人々の生き様を垣間見ることが出来るのではないでしょうか。
近世に至るまで、天災や疫病や精神病といった「目に見えない恐怖」は、悪魔や怨霊の仕業と信じられていました。それが西洋(キリスト教圏)では悪魔、我が国では怨霊伝説として残っています。
これから日本の神話、伝説を見るとともに、中国、インド、イスラム、アングロサクソン圏のそれと比較して我が国の古代の生活がどのようなものであったか、どのような個性を持った民族であったかを見てみたいと思います。

まず、怨霊とは何か?それは、恨みを呑んで死んでいった人の霊魂です。怨霊は、一神教世界の悪魔と異なり、個別的で具体的な存在なのです。東洋世界では、怨霊は、恨みを晴らすために仇の命を付け狙い、あるいは天災や疫病を引き起こす邪悪な存在だと考えられていました。これを退治する方法は、供養を重ねて怒りを和らげることで、成仏してもらうしかありません。あるいは、仇討ちを成就させてあげるしかありません。

歴史的に見て誰もが認める怨霊としては、崇徳上皇、菅原道真、平将門、佐倉惣五郎、西郷隆盛などがある。また、最近では、これに加えて、一部の歴史家、小説家が検証した怨霊としては、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王、藤原三代などがある。

これら、怨霊となった人々の共通点は、いずれも不慮の死を遂げていることである。しかも、これらの人々は、理想を掲げて活動していたが、政敵により殺害された人達である。そして、崇徳上皇、菅原道真のように政敵に対して深い恨みを抱き、後世に災いを引き起こしたと見られている。
 
権力者(藤原氏)は、自身の後ろめたさから、民衆と一緒に道真を「天神様」として祀りあげるのである。これにより、権力者自身、道真と民衆から、許しを請うているのである。そうすることで、怨霊も民衆もそれ以上は、権力者を憎むことはなかった。

これこそが、日本の「怨霊思想」である。一見、非科学的な、祟りの話であるが、その中身は、政治、人事に対する民衆の怒り、それに対する、権力者の贖罪、そして、新たな平和の到来、といった政治問題の解決の手段なのである。

出雲大社の謂れにしても、それはヤマト王権成立の過程で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が葦原中国(あしはらなかつくに、日本の古称)を天孫に譲った功績に対して、アマテラスオオミカミ(天照大神)が造営してやった壮大な宮殿とされているが、実際は「オオクニヌシノカミは本心から納得して素直に国譲りをしたのではない、戦いに破れて激しい怨念を抱いたままこの世を去ったというのだ。その怨霊を鎮めるため、幽事(あの世のこと)の支配者としておだて上げ、その宮殿としてアマテラスオオミカミの子孫の住まいより大きい大神殿を建ててやった」と主張されている歴史家がいます。

続く
メンテ
大和魂 11 ( No.11 )
日時: 2010/10/14 17:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

それでは日本三大怨霊伝説を紹介します。
怨霊伝説考
参照 
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/mitizane.html
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/08/post_38e9.html
「道真公怨霊伝説」
  東風(こち)吹かば 思いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ
この梅の木は道真が亡くなると主を慕って九州まで飛んできて、道真の墓の側に移ったといい、これを「飛梅」といいます。その何世代か後の梅の木が今もその地太宰府天満宮に残っています。
道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。疫病がはやり、日照りが続き、20年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子も数年後に亡くなり、人々はすべて菅公の怨霊の祟りとして恐れた。きわめつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。

これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになった。もともと教との北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものといわれる。そこで怨霊の怒りを鎮めるため、天暦元年(947)にこの地に北野天満宮が創祀されたのである。その後、永延元年(987)に勅祭(天皇が命じた特使による祭祀)が行われ、このときに正式に「北野天満宮大神」と称号されるようになった。

後に普段天神様と呼ばれて、学問、受験合格の神さまとして親しまれている神である。受験シーズンにもなると天神様は大忙しになる。受験生はもちろん、その父兄やら関係者までが神社に押し寄せるからだ。受験戦争の社会を象徴する悲しい現象とはいえ、とにかく若い世代にまで深く浸透している神さまといったらこの神をおいて他にはいない。

政敵を恨んで死んで行った道真の怨霊も結局は庶民を守る神様として広く社会に敬われています。

「平将門の怨霊伝説」

平将門の首塚というものがある。

将門の乱のあと、京で梟首にされた将門の首は歯噛みして復讐を誓った、という伝説がある。首が関東まで飛んできた、という首塚伝説もある。非業の死をとげたものが怨霊となる、という古来からの考えがあり、鎮魂するため御霊社が多いようだ。

将門の怨霊伝説はここから始まります。

京都・三条河原にさらされた首は、毎夜青白い光を放ち「わが身体はどこにある!ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう!」と叫び、いつまでたっても腐る事はなかったと言います。
ある晩、その首が空高く舞い上がり、胴体を求めて東の空に舞い上がり飛んでいきました。
そして、力尽きて落ちた場所が、東京の神田橋のたもと・・・人々は“神田明神”を建て丁重に葬ります。
やがて1307年に真教上人という僧が、将門の霊を供養し建てた石塔が、大手町のオフィス街の一角にある“将門の首塚”です。
この首塚は、この平成の世でも、動かせば祟りがあるとして恐れられています。
都では、はびこる藤原政権に民衆は不満ムンムン。
それなのに東国では、民衆のハートをバッチリ掴んだヒーローが力をつけて“新皇”を名乗りだす。

「彼を消せば何とかなるだろう」と思って、討伐してみたけれど、彼が死んでも、彼を愛する東国の人々の心はどうにもならない・・・。
死んでもなお、人気の衰えない東国のヒーローを、誰よりも怖かったのは、都にいた朝廷の人々であったに違いないと思うのです。
そして、そこに拍手を送るのは、民衆。
彼ら民衆が、死んでもなお、朝廷を怖がらせる東国の英雄に、密かに感謝していた事は間違いありません。

何故か、現代の検察による小沢叩きと重複するように思えるのは、私だけか。


「崇徳上皇の怨霊」は日本最強の怨霊と言われています。

♪瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
 われても末に 逢わんとぞ思ふ♪

「流れの速い川の水が、岩にはばまれ分かれてしまっても、やがては同じ流れに戻るように、今は離ればなれになる二人だけれど、いつか、また、会える時が来るよ」

崇徳上皇が天皇時代に読んだこのような「恋歌」を読んだ頃は良いとして、その後に起きた後白河天皇との身内による壮絶な権力争いの結果、讃岐(香川県)へ流罪となります。

「大魔王となって、この日本の国を転覆させてやる〜」と、誓文を書きつづって海に沈め、以来、髪も切らず、爪も切らず、その風貌は「生きながら天狗になった」と噂されるほどの変貌を見せます。
そして、とうとう長寛二年(1164年)8月26日、鬼のような姿のまま、崇徳さんは46歳で、この世を去ります。
生前は、「いつか都に戻りたい」と願っていた崇徳さんでしたが、死んでもなお許されず、その遺骨は、四国の白峰山に埋葬されました。
埋葬時には、一点にわかに掻き曇り、激しい風雨が襲い、突然の雷鳴も轟き、その棺からは真っ赤な血が流れ出し、その火葬の煙は都に向かってまっすぐにたなびいたと言います。
さぁ、ここから崇徳さんの怨霊伝説が始まります。
都には疫病が流行り、祟りと称される異変が次々と起こります。
平治元年(1159年)に起こった平治の乱(12月26日参照>>)でさえ、もともとは崇徳さんの怨念の仕業とまで囁かれます・・・って、そん時はまだ生きとるやんけ!
今から900年前の出来事でした。
生前に親しくしていた阿波内侍の持っていた崇徳さんの遺髪を納めた「崇徳天皇廟」や寺院を京都に建て、その鎮魂を願いましたが、養和元年(1181年)に、恐ろしいほどの熱を出して、苦しみ抜いて死んでいった平清盛の死(2月4日参照>>)も、崇徳さんの怨霊の祟りであると言われました。
鎌倉時代の動乱を描いた『太平記』には、当時の魔界ランキングで、崇徳さんを魔界の王と位置づけています。
つまり、あの南北朝の動乱(8月16日参照>>)さえも、彼の怨念の仕業というわけです。
崇徳さんの怨霊は、天皇が表舞台に立った時に現れ、国家の転覆を企てるそうで、その対象はあくまで、天皇家・・・それ以外の国家権力には向けられないというのですが、その怨霊が、史上最強と称されるのは、何と言っても、その恐怖が語り継がれた長さにあると言えます。

続く
メンテ

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