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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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大和魂 10 ( No.10 )
日時: 2010/10/14 17:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

このように建国の英雄は人々の恐怖を取り除くことで統治圏を認知させることになっています。
建国にまつわること以外でも人々は「未知の恐怖」と対峙し多くの伝説を生んできたのです。そうして神話や伝説の中に、宗教や哲学以前の人々の生き様を垣間見ることが出来るのではないでしょうか。
近世に至るまで、天災や疫病や精神病といった「目に見えない恐怖」は、悪魔や怨霊の仕業と信じられていました。それが西洋(キリスト教圏)では悪魔、我が国では怨霊伝説として残っています。
これから日本の神話、伝説を見るとともに、中国、インド、イスラム、アングロサクソン圏のそれと比較して我が国の古代の生活がどのようなものであったか、どのような個性を持った民族であったかを見てみたいと思います。

まず、怨霊とは何か?それは、恨みを呑んで死んでいった人の霊魂です。怨霊は、一神教世界の悪魔と異なり、個別的で具体的な存在なのです。東洋世界では、怨霊は、恨みを晴らすために仇の命を付け狙い、あるいは天災や疫病を引き起こす邪悪な存在だと考えられていました。これを退治する方法は、供養を重ねて怒りを和らげることで、成仏してもらうしかありません。あるいは、仇討ちを成就させてあげるしかありません。

歴史的に見て誰もが認める怨霊としては、崇徳上皇、菅原道真、平将門、佐倉惣五郎、西郷隆盛などがある。また、最近では、これに加えて、一部の歴史家、小説家が検証した怨霊としては、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王、藤原三代などがある。

これら、怨霊となった人々の共通点は、いずれも不慮の死を遂げていることである。しかも、これらの人々は、理想を掲げて活動していたが、政敵により殺害された人達である。そして、崇徳上皇、菅原道真のように政敵に対して深い恨みを抱き、後世に災いを引き起こしたと見られている。
 
権力者(藤原氏)は、自身の後ろめたさから、民衆と一緒に道真を「天神様」として祀りあげるのである。これにより、権力者自身、道真と民衆から、許しを請うているのである。そうすることで、怨霊も民衆もそれ以上は、権力者を憎むことはなかった。

これこそが、日本の「怨霊思想」である。一見、非科学的な、祟りの話であるが、その中身は、政治、人事に対する民衆の怒り、それに対する、権力者の贖罪、そして、新たな平和の到来、といった政治問題の解決の手段なのである。

出雲大社の謂れにしても、それはヤマト王権成立の過程で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が葦原中国(あしはらなかつくに、日本の古称)を天孫に譲った功績に対して、アマテラスオオミカミ(天照大神)が造営してやった壮大な宮殿とされているが、実際は「オオクニヌシノカミは本心から納得して素直に国譲りをしたのではない、戦いに破れて激しい怨念を抱いたままこの世を去ったというのだ。その怨霊を鎮めるため、幽事(あの世のこと)の支配者としておだて上げ、その宮殿としてアマテラスオオミカミの子孫の住まいより大きい大神殿を建ててやった」と主張されている歴史家がいます。

続く
メンテ
大和魂 11 ( No.11 )
日時: 2010/10/14 17:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

それでは日本三大怨霊伝説を紹介します。
怨霊伝説考
参照 
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/mitizane.html
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/08/post_38e9.html
「道真公怨霊伝説」
  東風(こち)吹かば 思いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ
この梅の木は道真が亡くなると主を慕って九州まで飛んできて、道真の墓の側に移ったといい、これを「飛梅」といいます。その何世代か後の梅の木が今もその地太宰府天満宮に残っています。
道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。疫病がはやり、日照りが続き、20年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子も数年後に亡くなり、人々はすべて菅公の怨霊の祟りとして恐れた。きわめつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。

これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになった。もともと教との北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものといわれる。そこで怨霊の怒りを鎮めるため、天暦元年(947)にこの地に北野天満宮が創祀されたのである。その後、永延元年(987)に勅祭(天皇が命じた特使による祭祀)が行われ、このときに正式に「北野天満宮大神」と称号されるようになった。

後に普段天神様と呼ばれて、学問、受験合格の神さまとして親しまれている神である。受験シーズンにもなると天神様は大忙しになる。受験生はもちろん、その父兄やら関係者までが神社に押し寄せるからだ。受験戦争の社会を象徴する悲しい現象とはいえ、とにかく若い世代にまで深く浸透している神さまといったらこの神をおいて他にはいない。

政敵を恨んで死んで行った道真の怨霊も結局は庶民を守る神様として広く社会に敬われています。

「平将門の怨霊伝説」

平将門の首塚というものがある。

将門の乱のあと、京で梟首にされた将門の首は歯噛みして復讐を誓った、という伝説がある。首が関東まで飛んできた、という首塚伝説もある。非業の死をとげたものが怨霊となる、という古来からの考えがあり、鎮魂するため御霊社が多いようだ。

将門の怨霊伝説はここから始まります。

京都・三条河原にさらされた首は、毎夜青白い光を放ち「わが身体はどこにある!ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう!」と叫び、いつまでたっても腐る事はなかったと言います。
ある晩、その首が空高く舞い上がり、胴体を求めて東の空に舞い上がり飛んでいきました。
そして、力尽きて落ちた場所が、東京の神田橋のたもと・・・人々は“神田明神”を建て丁重に葬ります。
やがて1307年に真教上人という僧が、将門の霊を供養し建てた石塔が、大手町のオフィス街の一角にある“将門の首塚”です。
この首塚は、この平成の世でも、動かせば祟りがあるとして恐れられています。
都では、はびこる藤原政権に民衆は不満ムンムン。
それなのに東国では、民衆のハートをバッチリ掴んだヒーローが力をつけて“新皇”を名乗りだす。

「彼を消せば何とかなるだろう」と思って、討伐してみたけれど、彼が死んでも、彼を愛する東国の人々の心はどうにもならない・・・。
死んでもなお、人気の衰えない東国のヒーローを、誰よりも怖かったのは、都にいた朝廷の人々であったに違いないと思うのです。
そして、そこに拍手を送るのは、民衆。
彼ら民衆が、死んでもなお、朝廷を怖がらせる東国の英雄に、密かに感謝していた事は間違いありません。

何故か、現代の検察による小沢叩きと重複するように思えるのは、私だけか。


「崇徳上皇の怨霊」は日本最強の怨霊と言われています。

♪瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
 われても末に 逢わんとぞ思ふ♪

「流れの速い川の水が、岩にはばまれ分かれてしまっても、やがては同じ流れに戻るように、今は離ればなれになる二人だけれど、いつか、また、会える時が来るよ」

崇徳上皇が天皇時代に読んだこのような「恋歌」を読んだ頃は良いとして、その後に起きた後白河天皇との身内による壮絶な権力争いの結果、讃岐(香川県)へ流罪となります。

「大魔王となって、この日本の国を転覆させてやる〜」と、誓文を書きつづって海に沈め、以来、髪も切らず、爪も切らず、その風貌は「生きながら天狗になった」と噂されるほどの変貌を見せます。
そして、とうとう長寛二年(1164年)8月26日、鬼のような姿のまま、崇徳さんは46歳で、この世を去ります。
生前は、「いつか都に戻りたい」と願っていた崇徳さんでしたが、死んでもなお許されず、その遺骨は、四国の白峰山に埋葬されました。
埋葬時には、一点にわかに掻き曇り、激しい風雨が襲い、突然の雷鳴も轟き、その棺からは真っ赤な血が流れ出し、その火葬の煙は都に向かってまっすぐにたなびいたと言います。
さぁ、ここから崇徳さんの怨霊伝説が始まります。
都には疫病が流行り、祟りと称される異変が次々と起こります。
平治元年(1159年)に起こった平治の乱(12月26日参照>>)でさえ、もともとは崇徳さんの怨念の仕業とまで囁かれます・・・って、そん時はまだ生きとるやんけ!
今から900年前の出来事でした。
生前に親しくしていた阿波内侍の持っていた崇徳さんの遺髪を納めた「崇徳天皇廟」や寺院を京都に建て、その鎮魂を願いましたが、養和元年(1181年)に、恐ろしいほどの熱を出して、苦しみ抜いて死んでいった平清盛の死(2月4日参照>>)も、崇徳さんの怨霊の祟りであると言われました。
鎌倉時代の動乱を描いた『太平記』には、当時の魔界ランキングで、崇徳さんを魔界の王と位置づけています。
つまり、あの南北朝の動乱(8月16日参照>>)さえも、彼の怨念の仕業というわけです。
崇徳さんの怨霊は、天皇が表舞台に立った時に現れ、国家の転覆を企てるそうで、その対象はあくまで、天皇家・・・それ以外の国家権力には向けられないというのですが、その怨霊が、史上最強と称されるのは、何と言っても、その恐怖が語り継がれた長さにあると言えます。

続く
メンテ
大和魂 12 ( No.12 )
日時: 2010/10/14 17:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

当時の日本では、
その人を不幸に追いやった人物が、少しでも「悪い事をしてしまった」と、自分の行いに反省したり、後悔したり、負い目を感じたりする気持ちが、その伝説を生み出しているのだと思います。
そう考えると、もし、他人を不幸に追いやっておいて、まったくその負い目を感じないと人がいたとしたら、それが、怨霊よりもはるかに怖い事なのかも知れません。

それに比べて中国、西欧の権力争いは、トコトン皆殺しが前提で怨霊などが徘徊する余地も残しません。

これに対して西欧の怨霊は、悪魔と呼ばれ常に邪悪で、庶民が帰依しなければならないキリストの敵として位置付けられています。
もうドラマなど入る余地がありません。

日本のそれ(心=怨霊さえも)は実に優しく人間的で、西欧の真似などすることはありません。


また世界中に「竜神伝説」と言うものがあります。我が国の竜神伝説の各地にあり大変多いのですが、その一部を紹介します。

「龍ヶ谷の龍神伝説」

その昔、龍穏寺のあたりは大きな沼でした。秩父に向かう旅人は、どうしてもこの深い沼の側を通っていかなければならなかったのですが、そこには悪龍が住んでいました。
村人達はこの沼に住む悪龍の機嫌を損ねないようにお供えをして、あちこちに龍神を祭り、荒々しい心を鎮めるように祈りました。その恐れおののく声は太田道灌さんまで伝わり、村人の切実な願いを聞いた道灌さんは、この悪龍を鎮めるために、日頃より師として尊敬している高僧の雲崗俊徳和尚(龍穏寺第五世住職)を遣わしました。

雲崗俊徳和尚は、沼を目前とする愛宕山に登って教典を読み上げ、幾日もの間、悪龍を押さえ込む闘いが続き、やがて雲崗和尚さんの霊験によって悪龍は過去の悪行を断ち切って、善龍となって奉仕することを誓いました。そして、雲を呼び竜巻にのって天に昇っていってしまったということです。その時、沼は竜巻が起きたため大嵐となり、水があふれ出て沼の底まで見え、数年経って平地となりました。あふれ出た水は現在の越辺川になったといいます。

雲崗和尚さんは、龍の心が静かになり善龍になった事を記念し、道灌さんに援助をお願いして大きなお寺を建てました。そのお寺の名前は、龍の心が穏やかになったという意味から、龍穏寺と名付けられたのです。そして龍が住んでいたということから龍ヶ谷(たつがや)という地名が生まれたということです。

「龍の棲む池」

龍神伝説なんて日本中どこにでもある。もちろん富山にだってある(城端町の縄ヶ池がそう)。もしかしたら龍神伝説のない池なんて、ダムでできた人口湖ぐらいではないだろうか?そして、その龍神伝説はここにもあった。

ひまわり畑を見た後、龍神伝説があるという池に行ってみた。
その伝説とは・・・。

ある年長い日照りが続き、村人はヒエやアワどころか水一滴なく苦しい生活をしていました。
 ある時一人の青年が食べ物を探しに出かけると、昼寝をしている龍の側に卵があるのを見つけ、 盗み出しました。村に帰り、せめて年寄りや子供にだけでも食べさせようと卵を割ると、 中から龍の子が現れ母親に助けを求めたのです。怒りに狂った母親龍が村人を食い殺そうとすると、 村人は「子供だけは助けてほしい」と必死で頼みました。龍はその心に打たれ、村人のために3日3晩雨を降らせ池を作ってやりました。 そして「この池はおまえたちの美しい心の象徴だ。しかし人の心の曇るとき、この池は涸れてしまうであろう」と言い残して消えました。 村人はこの池を『龍ヶ窪』と名付けて大切にし、龍神様をおまつりしたということです。



その他、伝説と言うものは各地に散在し数え切れないくらいあります。

「浅茅ヶ原の鬼婆伝説」

用明天皇の時代の頃。花川戸周辺に浅茅ヶ原と呼ばれる地があり、奥州や下総を結ぶ唯一の小道があったが、宿泊できるような場所がまったくない荒地で、旅人たちは唯一の人家であるあばら家に宿を借りていた。この家には老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し、亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆だった。娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。

老婆の殺した旅人が999人に達したある日、1人旅の稚児が宿を借りた。老婆は躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。娘は稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだった。

老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。実は稚児は、老婆の行いを哀れんだ浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。その後は、観音菩薩の力で竜と化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも[1]、観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている[2]。

「羽衣伝説」

これは日本各地に同じような伝説が伝えられている。
これらの説話の共通点として、基本的な登場人物が

•羽衣によって天から降りてきた天女(てんにょ)
•その天女に恋する男
の2人である事が挙げられる。

ストーリー

1.水源地(湖水)に白鳥が降りて水浴びし、人間の女性(以下天女)の姿を現す。
2.天女が水浴びをしている間に、天女の美しさに心を奪われたその様子を覗き見る存在(男、老人)が、天女を天に帰すまいとして、その衣服(羽衣)を隠してしまう。
3. 1人の天女が飛びあがれなくなる(天に帰れなくなる)

ここから近江型と丹後型でわかれる。

近江型(一般型)

1.天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残す(幸をもたらす)。
2.天女は羽衣を見つけて天上へ戻る
3.後日談(後述)

丹後型

1.天に帰れなくなった天女は老夫婦の子として引き取られる
2.天女は酒造りにたけ、老夫婦は裕福となる
3.老夫婦は自分の子ではないと言って追い出す
4.天女はさまよった末ある地に留まる(トヨウケビメ)

紹介はこれくらいにしますが、下記(ウィキペディア)でも多く紹介されています。
総じて日本の伝説は人々に優しいもので結論だ出されており、其処に「和」の心の原点も存在しているのではないでしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%AA%AC

神話と伝説終わり。
メンテ
源氏物語乙女の章(原文) ( No.13 )
日時: 2010/10/15 08:19
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

次に進みます前に閑話休題。

先に源氏物語、少女(乙女)の帖で、初めて「大和魂」の言葉が文献に出てくるといいました。
その使われ方に興味がありましたので、これもインターネットの情報ですが、解りましたので掲載します。下記のサイトは源氏物語全文が読めます。現代語訳つきの懇切丁寧なサイトです。

http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/

源氏物語 乙女の帖

第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語

[第一段 子息夕霧の元服と教育論]

 大殿腹の若君の御元服のこと、思しいそぐを、二条の院にてと思せど、大宮のいとゆかしげに思したるもことわりに心苦しければ、なほやがてかの殿にてせさせたてまつりたまふ。

 右大将をはじめきこえて、御伯父の殿ばら、みな上達部のやむごとなき御おぼえことにてのみものしたまへば、主人方にも、我も我もと、さるべきことどもは、とりどりに仕うまつりたまふ。おほかた世ゆすりて、所狭き御いそぎの勢なり。

 四位になしてむと思し、世人も、さぞあらむと思へるを、
 「まだいときびはなるほどを、わが心にまかせたる世にて、しかゆくりなからむも、なかなか目馴れたることなり」
 と思しとどめつ。

 浅葱にて殿上に帰りたまふを、大宮は、飽かずあさましきことと思したるぞ、ことわりにいとほしかりける。
 御対面ありて、このこと聞こえたまふに、
 「ただ今、かうあながちにしも、まだきに老いつかすまじうはべれど、思ふやうはべりて、大学の道にしばしならはさむの本意はべるにより、今二、三年をいたづらの年に思ひなして、おのづから朝廷にも仕うまつりぬべきほどにならば、今、人となりはべりなむ。

 みづからは、九重のうちに生ひ出ではべりて、世の中のありさまも知りはべらず、夜昼、御前にさぶらひて、わづかになむはかなき書なども習ひはべりし。ただ、かしこき御手より伝へはべりしだに、何ごとも広き心を知らぬほどは、文の才をまねぶにも、琴笛の調べにも、音耐へず、及ばぬところの多くなむはべりける。

 はかなき親に、かしこき子のまさる例は、いとかたきことになむはべれば、まして、次々伝はりつつ、隔たりゆかむほどの行く先、いとうしろめたなきによりなむ、思ひたまへおきてはべる。

 高き家の子として、官位爵位心にかなひ、世の中盛りにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむおぼゆべかめる。戯れ遊びを好みて、心のままなる官爵に昇りぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、けしきとりつつ従ふほどは、おのづから人とおぼえて、やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世衰ふる末には、人に軽めあなづらるるに、取るところなきことになむはべる。


 なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。


さしあたりては、心もとなきやうにはべれども、つひの世の重鎮となるべき心おきてを習ひなば、はべらずなりなむ後も、うしろやすかるべきによりなむ。ただ今は、はかばかしからずながらも、かくて育みはべらば、せまりたる大学の衆とて、笑ひあなづる人もよもはべらじと思うたまふる」

 など、聞こえ知らせたまへば、うち嘆きたまひて、
 「げに、かくも思し寄るべかりけることを。この大将なども、あまり引き違へたる御ことなりと、かたぶけはべるめるを、この幼心地にも、いと口惜しく、大将、左衛門の督の子どもなどを、我よりは下臈と思ひおとしたりしだに、皆おのおの加階し昇りつつ、およすげあへるに、浅葱をいとからしと思はれたるに、心苦しくはべるなり」

 と聞こえたまへば、うち笑みひたまひて、
 「いとおよすげても恨みはべるななりな。いとはかなしや。この人のほどよ」
 とて、いとうつくしと思したり。
 「学問などして、すこしものの心得はべらば、その恨みはおのづから解けはべりなむ」
 と聞こえたまふ。



次に訳文を掲載します。

メンテ
源氏物語乙女の章(訳文) ( No.14 )
日時: 2010/10/15 08:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

[第一段 子息夕霧の元服と教育論]

 大殿腹の若君のご元服のこと、ご準備をなさるが、二条院でとお考えになるが、大宮がとても見たがっていっらしゃったのもごもっともに気の毒なので、やはりそのままあちらの殿で式を挙げさせ申し上げなさる。

 右大将をはじめとして、御伯父の殿方は、みな上達部で高貴なご信望厚い方々ばかりでいらっしゃるので、主人方でも、我も我もとしかるべき事柄は、競い合ってそれぞれがお仕え申し上げなさる。だいたい世間でも大騒ぎをして、大変な準備のしようである。

 四位につけようとお思いになり、世間の人々もきっとそうであろうと思っていたが、
 「まだたいそう若いのに、自分の思いのままになる世だからといって、そのように急に位につけるのは、かえって月並なことだ」
 とお止めになった。

 浅葱の服で殿上の間にお戻りになるのを、大宮は、ご不満でとんでもないこととお思いになったのは、無理もなく、お気の毒なことであった。
 ご対面なさって、このことをお話し申し上げなさると、
 「今のうちは、このように無理をしてまで、まだ若年なので大人扱いする必要はございませんが、考えていることがございまして、大学の道に暫くの間勉強させようという希望がございますゆえ、もう二、三年間を無駄に過ごしたと思って、いずれ朝廷にもお仕え申せるようになりましたら、そのうちに、一人前になりましょう。

 自分は、宮中に成長致しまして、世の中の様子を存じませんで、昼夜、御帝の前に伺候致して、ほんのちょっと学問を習いました。ただ、畏れ多くも直接に教えていただきましたのさえ、どのようなことも広い知識を知らないうちは、詩文を勉強するにも、琴や笛の調べにしても、音色が十分でなく、及ばないところが多いものでございました。

 つまらない親に、賢い子が勝るという話は、とても難しいことでございますので、まして、次々と子孫に伝わっていき、離れてゆく先は、とても不安に思えますので、決めましたことでございます。

 高貴な家の子弟として、官位爵位が心にかない、世の中の栄華におごる癖がついてしまいますと、学問などで苦労するようなことは、とても縁遠いことのように思うようです。遊び事や音楽ばかりを好んで、思いのままの官爵に昇ってしまうと、時勢に従う世の人が、内心ではばかにしながら、追従し、機嫌をとりながら従っているうちは、自然とひとかどの人物らしく立派なようですが、時勢が移り、頼む人に先立たれて、運勢が衰えた末には、人に軽んじらればかにされて、取り柄とするところがないものでございます。



 やはり、学問を基礎にしてこそ、「政治家としての心の働き」が世間に認められるところもしっかりしたものでございましょう。


当分の間は、不安なようでございますが、将来の世の重鎮となるべき心構えを学んだならば、わたしが亡くなった後も、安心できようと存じてです。ただ今のところは、ぱっとしなくても、このように育てていきましたら、貧乏な大学生だといって、ばかにして笑う者もけっしてありますまいと存じます」

 などと、わけをお話し申し上げになると、ほっと吐息をおつきになって、
 「なるほど、そこまでお考えになって当然でしたことを。ここの大将なども、あまりに例に外れたご処置だと、不審がっておりましたようですが、この子供心にも、とても残念がって、大将や、左衛門督の子どもなどを、自分よりは身分が下だと見くびっていたのさえ、皆それぞれ位が上がり上がりし、一人前になったのに、浅葱をとてもつらいと思っていられるので、気の毒なのでございます」

 と申し上げなさると、ちょっとお笑いになって、
 「たいそう一人前になって不平を申しているようですね。ほんとうにたわいないことよ。あの年頃ではね」
 と言って、とてもかわいいとお思いであった。
 「学問などをして、もう少し物の道理がわかったならば、そんな恨みは自然となくなってしまうでしょう」
 とお申し上げになる。

(おわり)


正解は、大和魂とは「政治家としての心の働き」と言う意味で使われたようです。

複数の女性を愛する手練手管ではなくてほっとしました。
なお、前後の長文は、当時の教育方針として御照覧くだされば幸いに存知申し上げます。
メンテ
大和魂 13 ( No.15 )
日時: 2010/10/15 08:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

「和」の心の追求はひとまず休みとしまして、ここで他の民族の状況を見てからさらに「和」に戻りたいと思います。

今まで検証してきた中で、「漢委奴國王印」が作られ時期が我が国と中国の歴史の接点として出てきます。

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。

それより300年前に秦の始皇帝がなくなり、劉邦と項羽の争いの結果、実質的に中国で始めての長期の統一国家としての漢が出来ています。
四面楚歌とか背水の陣などと、今でも使われている言葉が出てきたのもこのころです。

その当時の様相として、秦の時代で、すでに韓非子などが出ており法治国家を作ろうとしています。群、県の行政単位も出来ていました。
思想的には、さらに遡ること300年、紀元前550年には「論語」を著した孔子が出ています。

同じころ中国の三大思想(仏教、儒教、道教)の祖と言われる老子が出ています。
ですから漢委奴國王印が作られた時代の日本は後に大和民族と言われる集団がまだ九州にいたころですが、中国では学問も盛んで国家の形態が整っていました。
また、紙の発明もそのしばらく後のことであり、世界的な先進国であったと思われます。

ついでに紀元前5世紀のころと、紀元1世紀の世界の出来事を閲覧しておきましょう。

・紀元前5世紀頃が弥生時代の始まりと考えられていたが、紀元前10世紀まで遡る可能性が高まってきた。それにつれて、縄文土器時代の終わりも遡ることになる。

・紀元前500年頃 - ペルシアとギリシアの間でペルシア戦争(〜紀元前448年)
・紀元前490年 - マラトンの戦いで、ミルティアデス率いるギリシア軍がペルシア軍を破る。
・紀元前461年 - 第一次ペロポネソス戦争勃発
・紀元前434年 - エピダムノスとケルキュラの紛争
・紀元前431年 - 第二次ペロポネソス戦争が起こる( - 紀元前404年)。
・紀元前413年 - アテネ、シチリアで敗北。
・紀元前403年 - 趙、韓、魏が周王より諸侯として認定される。これより中国は戦国時代に入る。

司馬光の『資治通鑑』はこの年より記述が始まる。

続いて1世紀の出来事です。

・紀元前後 - 倭は百余国に分かれており、その一部は前漢の楽浪郡に朝献をする。(『漢書』地理志)
・4年 - ナザレのイエス出生。
・9年 - トイトブルクの戦いでローマがゲルマン諸民族に敗ける。
・25年 - 劉秀(光武帝)が皇帝に即位する。後漢王朝の成立(- 220年)。
・30年ごろ - イエス、パレスティナで処刑される。このころ、キリスト教が成立する。
・36年 - 後漢の光武帝、中国を統一する。
・57年 - 倭の奴国王が後漢に朝献して、倭奴国王印(金印紫綬)を授けられる。(後漢・建武中元2、丁巳;後漢書光武帝紀、同東夷伝)
・79年 - ベスビオ火山の噴火によりポンペイが埋没。
・80年 - ローマにコロッセウムが完成。
・1世紀末 - 弥生文化が東北地方に波及する。


その中国の歴史をさらに遡ることにしましょう。

続く

メンテ
大和魂 14 ( No.16 )
日時: 2010/10/15 08:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

中国の歴史は次ぎのように始まっている。

黄河、長江文明期
三皇五帝時代
夏(紀元前2070〜紀元前1600年)
殷(紀元前1600〜紀元前1046年)
周(紀元前1046〜紀元前256年)
周時代の後期は春秋戦国時代とも言い小豪族が入り乱れて覇権を競っていました。
秦・漢時代(紀元前256〜紀元220年)
漢の後半は三国志の時代に入ります。

(三皇五帝時代)

天皇・地皇・泰皇(人皇) - 前漢・司馬遷『史記』秦始皇本紀において皇帝という称号を定める文脈でこの三皇が挙げられており、泰皇の泰を除き、「帝」号をつけて皇帝としたとある。ただし、ここでは「三皇」という語でまとめられていない。注釈である唐の司馬貞『史記索隠』では泰皇=人皇としたり、天皇・地皇・人皇を三皇としてその前に泰皇がいたとしたりする。司馬貞が補った『史記』の三皇本紀(補三皇本紀または補史記という)では三皇を伏羲、女媧、神農とするが、天皇・地皇・人皇という説も並記している。

三皇五帝とは次の様な人物のながあげられています。

伏羲・神農・太昊・炎帝・黄帝・少昊・顓頊・嚳・尭・舜・禹・湯
実際は三皇として 黄帝・堯・舜 がほぼ特定されているようです。

夏王朝の始祖となる禹は、五帝のひとり顓頊の孫である。彼は舜帝に命じられて、黄河の治水などの功績をなし、大いに認められた。また、禹の人柄を愛する人も多かったので、舜は禹を自分の後継者にしようとした。禹は舜の死後、3年の喪に服した後に、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めず彼の下に行かなかったため、禹が帝位に就いた。陽城に都したと言われている。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、まもなく彼が死んだので、かわって益に政治の補佐をさせた。

なお遺跡としては殷の時代のものはかなり発掘されているようですが、夏時代のものはまだまだ少ないようです。

これに対して我が国では紀元前660年即位の神武天皇から日本の国が始まっていることになっている。最もそれまでにさらに伝説の人物(神)が存在しますが。

天照大御神→天忍穂耳尊→瓊瓊杵尊→彦火火出見尊→鵜葦草葦不合命→1神武天皇→2綏靖天皇→3安寧天皇→4懿徳天皇→5孝昭天皇→6孝安天皇→7孝霊天皇→8孝元天皇→9開化天皇→10崇神天皇→11垂仁天皇→12景行天皇→13成務天皇→14仲哀天皇→15応神天皇→16仁徳天皇・・・仁徳陵墓もある実在の天皇が出てきましたのでこれくらいにしておきます。

日本尊がでてきて実質的に大和を統一したのは13代成務天皇のころです。
中国では、秦というよりも周の時代があっているようです。
 
続く
メンテ
大和魂 15 ( No.17 )
日時: 2010/10/15 08:26
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

「中国古代の人々の生活」

中国古代の人々は、人間の霊魂は永遠不滅であり、墳墓がこの霊魂の住まいであると考えていました。また、死後の世界は、現実世界の延長で、そこでの暮らしぶりは、現世となんら変わるところがないとも考えました。そのため、墓の主が満ち足りた生活が送れるように、現実世界のさまざまなものを明器(めいき)や俑(よう)に作って墓に副葬したのです。明器とは死者が生前の生活で必要としたものを死後の世界でも使えるように模造したもので、建物や儀式に使う器、飲食器、人間、動物など、実に多様な器物や生き物が陶製や木製、青銅製などで造られます。

戦国時代後期、紀元前3世紀の終わり頃に著された、「藍より出でし青は藍より青く、・・」の書き出しで有名な『荀子(じゅんし)』の「礼論篇(れいろんへん)」に、墓に供える明器について書かれた部分があり、そこには、酒を容れる甕や「ほと」(無+つくりに瓦)は空のままとし、楽器の笙や「う」(竹かんむり+于)はならべても吹奏せず、琴や「しつ」(王王の下に必)も弦は張っても調律しない、などと記されています。実際、前漢初め頃の湖南省の馬王堆(まおうたい)1号墓で発見された楽器の「う」(竹かんむり+于)は吹き口と管の部分がつながっておらず、音はでません。このように外観は似せているが実体を伴わないもの、それが明器の本来の姿なのです。

俑は明器の一種で、生き物を象ったものです。特に人物俑は、死者に対して冥府へ供奉するという役目から見て、俑の中心的な存在と思われます。そして、生前にかわいがった犬などの愛玩動物や家畜なども死後の生活を完結するための重要な副葬品としてお供に加えられます。

このように、生活空間を構成するさまざまな建物や生活道具、そこで生活する人間や動物、そして来世への憧れを表現した器物など、その内容は非常に豊富で多種多様です。こうして、地下の世界に「生きる喜び」にあふれた理想郷が創出されたのです。

これらの明器や俑は、各時代の人々の生活を生き生きと眼前に甦らせます。中国古代の人々が来世に伴いたいと願った生活情景の数々、働き、舞い踊って生活を楽しむ人々や、彼らとともに暮らす動物たちなどによって、その生活の息吹と夢をたどります。

(以上下記引用)
http://www.hum.pref.yamaguchi.jp/tokuten/H18/kenchiku/kenchiku.htm

続く
メンテ
大和魂 16 ( No.18 )
日時: 2010/10/15 08:27
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

中国の風土は「南船北馬」、「南稲北粟」、「北儒南道」といわれるように、黄河と長江の流域では、その文化は大きく異なっていた。北中国には畑作農民と遊牧民が混在し、南中国には稲作農民と海洋民が交じり合って生活していた。最初に河姆渡遺跡の発掘をもとにした長江中下流域の越文化を見てみよう。

中国の黄河流域の「馬の文化」と長江流域の「舟の文化」を統合した秦・漢帝国は、漢民族本位ではあったが内陸に閉じこもっていのではなく、漢武帝時代には河西回廊に西域都護府を置き、周辺諸民族に王候の爵位を与えて中国の藩国に加えて東世界を成立させた。

その東アジア世界で見落とせないのは、漢帝国の国家管理を超えた海の民の活動が、非常に早い時期から国境を越えた広がりをみせていることである。事実、中国文明の基盤になった長江流域の「舟の文化」は、今から約一万年前の縄文時代に黒潮に乗って日本に流入し、日本を含む環シナ海圏が初歩的に形成されるにいたっている。

 長江流域の「舟の文化」が、どのように環シナ海圏に伝播していったかを見てみよう。中国古代の歴史を記録した書物では、長江流域からベトナムにいたる広大な地域に居住した人々は「百越の民」として一括されている。 そこには古くには於越、南越、駱越、区呉、目深などと呼ばれたさまざまな種族が生活し、河川や海域で稲作や漁労を行い、すでに見てきたように、青銅器・鉄器・陶磁器・絹織物・漆工芸などの各種産業を発達させ、舟を操って水上交易に従事していた。

 江南地域ばかりでなく、四川や雲南、さらに江西から広東やベトナムにいたる地域に散在する、苗族・壮族・景頗族などの多くの少数民族はその末裔にあたる。稲作と操船に巧みだつた越系の人々の活動を調べてみると、この「百越の民」は非常に古くから朝鮮半島南岸や西日本の原住民といわれる倭人と海を隔てて往来し、その生活習俗を同じくしていたことが、環シナ海圏の波間に浮かびあがってくる。

中国古典の「荘子」・「韓非子」・「淮南子」などに散見される、越人の生活風俗は、河川や海原に棲息するサメやワニからの危害を避けるために「断髪文身」、つまり頭髪を短く切り、体に刺青をしていた。また、海にもぐるだけではなく、田植や草取りのためにも裸足の生活を送り、日常生活に舟は生活に欠かせない道具だった。 

 さらに『「後漢書倭伝』を見ると、朝鮮の韓族にも体に刺青をする「文身」の風があったようで、中国の古文書に登場した倭人は、日本列島西北部ばかりでなく、朝鮮南岸から渤海湾・黄海の沿海地区、さらには東シナ海にいたる広大な海域に居住する人々だった。その限り、中国の沿海に居住した「百越の民」と倭人の習俗と生業がほぼ同一であったとみてよい。

(以上下記引用)
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/kuroshio.htm

続く
 
メンテ
大和魂 17 ( No.19 )
日時: 2010/10/15 08:28
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:AOs0erLs

 環シナ海に広がる「百越の民」と倭人たちは、秦・漢以前からゴンドラ型の竜骨舟にのって往来していたのだろう。東シナ海の荒波にもまれてしばしば遭難したこともあったろうが、呉越の造船技術や操船技術の発達はかなりのもので、すでに春秋戦国期に外洋航海の記録がある。 船首と船尾の反り上がったゴンドラ型の船は、季節風と黒潮に乗って朝鮮や日本に到来したことは、朝鮮海峡や日本海岸に残されたこの竜骨舟の絵図からも知られている。

 この往来を通じて環シナ海の自然崇拝の観念が共有されるようになっても不自然ではない。長江中下流域の「良渚文化」から上流域の「三星堆文化」にいたるまで、越系の人々が河姆渡以来の太陽信仰・精霊信仰・鳥信仰・目玉信仰などの観念を共有していたことは、『ギャラリ−』の「長江文明のイメ−ジ」を参考にしてもらえれば、それが稲作と操船の民のどんな自然崇拝であったかを見ることができるが、朝鮮半島や日本に居住した倭人もまた太陽(女神)信仰・鳥信仰・蛇信仰などの観念を共有していたのである。 

中国の「百越の民」の信仰は、明らかに日本にも伝播して縄文時代の基層文化の一端を形成していたといってよい。そればかりではなく、この太陽神と結びつた鳥信仰も、環シナ海圏一帯に広がり、日本の稲作にもその痕跡を残している。
事実、戦国時代の楚のお墓から多数の霊鳥の作り物が出土し、田畑の耕作を鳥の助けを借りて行う鳥田伝説も残っているばかりか、広西の壮族などの越系の人々の間には田に鳥杆を立てる風習がいまでも続いている。

太陽神や鳥信仰だけではない。「百越の民」の居住する温暖湿潤な中国の沿海地方やベトナム・台湾・琉球といった地方では、稲作とともに蛇信仰も共通していた。蛇信仰に関しては、門がまえに蛇をあらわす虫の字が入っている閩越という地名があるように、この地域の山河や海原にはたくさんの蛇が棲息し、それが蛇信仰のもとになっている。 

太陽(女神)信仰や霊鳥信仰そして龍蛇信仰は自然崇拝に違いないが、それは稲作と操船の民の生活から生み出された信仰であり、南海から東海にかけて海を渡って往来した越人と倭人が共有する信仰だったのである。

この海の民の自然崇拝を基盤にして成立したのが、「舟の文化」を特色付ける道教であった。それは黒潮に乗って日本にも伝播している。日本の「古事記」の創世神話にある「天っ神」・「国っ神」・「海(わだつみ)の神」は、道教の世界観をもとにして構成されているといわれているが、天照大神が女神であったばかりでなく、神武天皇の生みの母は「海神(わたつかみ)の女(むすめ)」だったように、道教は非常に早くに、日本の稲作と深く溶け合って浸透していたに違いない。

 日本の稲作は弥生時代に朝鮮半島を経由して九州北部に定着したといわれてきたが、事実はもつと古く、中国沿岸から接に伝播したことも十分に推測される。中国の舟山群島は上海の鼻先にあり、航海の安全を祈る道教寺院が建てられているが、最近にそこからも河姆渡から呉越時代にいたる稲作遺跡が発見されているのである。

 事実、上海を間近にした日本の唐津市の采煙遺跡の最下層からも、縄文晩期の水田跡が見出されて、東シナ海から直接に海を渡ってきたル−トが大きく浮かび上がってきている。それに加えて、紀元前2000年頃のベトナムのドンソン文化に先行する遺跡からも、青銅器とともにジャポニカの籾が出土しているので、環シナ海の黒潮にのった稲作の伝来の可能性はさらに大きい。稲作の道は、渤海湾から朝鮮経由の道と、東シナ海から直接に伝わった道の二つのル−トが、古来からあったのだろう。

(以上下記引用)
http://www2.ocn.ne.jp/~bunmei54/kuroshio.htm

続く
 
メンテ

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