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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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大和魂 1 ( No.1 )
日時: 2010/10/14 11:13
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

「大和魂」と言いますと戦前の思想が先入観としてあり、誤解を生むこともあるでしょう。
そうではなく「日本民族特有の心」と解してそれを探ってみたいと思います。
なお、それは今までの日本の心を探ると言うもので、これからそうあるべきと決め付けるものではありません。

この話題を続けるに際して、本当は史実、資料を積み重ねて検証するのが良いのですが私には其処までの能力はありません。

殆どが、私の思いを代弁する他の人の言葉を借りることになりますが、悪しからず。


まずは何故「大和」なのかであります。
早速、ウィキペディアの御世話になり、

「大和民族とは、日本列島に住んできた人類で構成される民族で、そこでは縄文時代から日本列島に住んできた人々(いわゆる縄文人)と、縄文末期からユーラシア大陸から渡来した人々(いわゆる弥生人)が中心となって形成したヤマト王権が、日本列島各地に散在していた様々な人的集団を勢力下に置き、同化したことにより大和民族が成立していったと考えられている(しかし大和民族の連合政権とされるヤマト王権の成立過程は、現段階でも明らかになっていない)。現在では日本民族(にほんみんぞく)と表されるほうが多い。戦前は天孫民族とも称された。」

ここに出てくるヤマト王権の成立過程については「古事記」「日本書紀」などの内容を繰り返すことなく省略させていただきます。
また地名としての「大和」については下記の記述によるものとします。

「大和(やまと)は、もともとは、現在の奈良県桜井市にある三輪山の西麓・南麓から西方に拡がる地域をさしたが、757年(天平宝字元)橘奈良麻呂の変の直後に「大倭国」から「大和国」と改められたと考えられている。後に使用範囲が拡がって、現在の奈良県や日本全体を指すようになった。それまでは、「倭」や「大倭」が用いられていた。」

さらに、我々が良く知る伝説の英雄にもヤマトが使われています。

「日本武尊(やまとたけるのみこと、『古事記』では倭建命と表記)こと小碓命(おうすのみこと)、またの名を日本童男(やまとおぐな)は、景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる人物。日本神話では英雄として登場する。記紀の記述によれば、2世紀頃に存在したとされる。実際には、4世紀から 6、7世紀頃の複数の大和の英雄を具現化した架空の人物(津田左右吉説)という見方もある。」

このように「大和」とは「日本」を指すことがあり、地域的にも日本全体を指すこともあるようです。
また「倭」と言う言葉も出てきました、いづれも今後度々出てくる共通の概念です。



「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」

奈良時代(700年ころ)唐へ留学生として派遣されていた安部仲麻呂が故郷をしのんで謳ったものです。
ついに帰朝できなかった彼が、思いを馳せたのが大和の風情でありました。

今日は、これまでとします。
メンテ
大和魂 2 ( No.2 )
日時: 2010/10/14 11:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

大和魂の語の初出は、『源氏物語』の『少女』帖とされている。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれ、和魂漢才と言うこともあった。漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することが大和魂とされた。

『源氏物語』が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代であるが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられている。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられていた。

具体的に下記のような意味合いが示されています。

1 世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。

2 特に各種の専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立ててゆくための才能や手腕。

3 外国(中国)の文化や文明を享受するうえで、それと対になるべき(日本人の)常識的・日本的な対応能力。やまとごころ。

4 知的な論理や倫理ではなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力・感受性。もののあはれ。

5複数の女性を同時に愛してしかもすべてを幸福にしうる、艶福とそれを可能にしうる恋愛生活での調整能力。いろごのみ。

6 日本民族固有(のものと考えられていた)勇敢で、潔く、特に主君・天皇に対して忠義な気性・精神性・心ばえ。(近世国学以来の新解釈)

イメージからは随分と離れているようですが、これが原点のようです。
逆に考えれば上記のような風情が当時の日本にはあったと言うことになります。
紫式部が何を持って「大和魂」と言いたかったのか、もしかして 5番目の複数の女性を同時に愛する能力のことなのでしょうか。
それは後日「少女(おとめ)」の巻を手に入れてからの検証にしたいと思います。

いづれにしても、これは平安朝の貴族社会の様相です。
それまでに、我が国では聖徳太子が言われている「和を持って尊しとする」についても、怨霊伝説などにも言及しなければなりません。

それは、また次回にします。
メンテ
大和魂 3 ( No.3 )
日時: 2010/10/14 11:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

聖徳太子の「和」と言う言葉が出てきました。
日本民族を語るとき、いつでも出てくるのが「和」と言う言葉です。
はじめに、それを検証することにします。

以下は下記のサイトからの引用です、「日本の心」について詳しく検証されています。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind01.htm

「和」と言えば、誰でも知っているのは、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」。この理念は、日本人のものの考え方をよく表しています。しかし、「和」の精神は聖徳太子の独創ではなく、古くから日本の国に受け継がれてきたものです。

「和」とは、もともと「わ」という音の日本語です。その「わ」にシナの漢字の「和」があてられたわけです。
作家の井沢元彦さんによると、本来「わ」には「環」や「輪」の意味しかなく、環濠集落(堀をめぐらした集落)を表す言葉でした。それが、集団や仲間の意味を表す言葉となり、シナ人に、自国の意味で「わ」と言ったところ、「倭」(背が小さい、体が曲がっているなどを意味)という文字を当てられました。
その後、「わ」は、集団的な協調の精神やアイデンティティをも意味するようにもなり、日本側の要望により、国名の文字を「倭」から「和」に代えてもらったのだろう、と井沢さんは考えています。(1)

さて、かつて日本列島に住みついた人々は、「わ」すなわち環濠集落を作って、小集団が分立していました。その小さな集団が段々と国家を形成し、より大きな国家に統合されていきました。
その過程では、戦争もあったでしょうが、統合の多くは、話し合いで決まっただろうと考えられます。というのは、日本の神話には、諸外国に比べて、戦争の話が非常に少ないからです。それは、日本列島の温和な風土の影響によるところが大きいでしょう。

そして、人々には、対立・抗争よりも調和・融合をよしとする「和」の精神が育まれ、一つの民族として融合・形成されてきたと考えられます。そのことを、私たちは、日本の神話の中に見出すことができます。

続く
メンテ
大和魂 4 ( No.4 )
日時: 2010/10/14 11:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

西洋のユダヤ=キリスト教では、男性的な神が万物を創り、神は土の塊から人間の男を創ります。そして、神はアダムを慰めるために、男の肋骨から女を創ったとされます。

これに対し、日本神話では、イザナギ、イザナミという男女二神が協力して「国生み」をして、国土が誕生します。これらのニ神は、人間と同じ男女の営みをし、人間はその子孫として誕生したとされます。
このように、日本では、男女・陰陽の「和」によって、国土や人間が誕生したと考えてきたのです。

さてイザナギ、イザナミのニ神から生まれた子供が、天照大神(あまてらすおおみかみ)や須佐之男命(すさのをのみこと)です。
須佐之男命は高天原を暴れまくりますが、弟の暴虐に対して、天照大神は争ったり、罰を下すのではなく、天岩戸に身を隠すという振る舞いをします。それによって、地上は闇の世界となります。

この時、八百万の神々は、天の安の河原(あめのやすのかわら)に集まって、話し合いを行います。思金神(おもいかねのかみ)の妙策によって、天照大神を岩戸から引き出すことに成功し、世界は再び光を取り戻します。
 須佐之男命はその振る舞いのために、高天原から追放されます。しかし、天照大神と須佐之男命は後で和解し、大罪を許された須佐之男命は、出雲の地に下り「やまたのおろち」を退治する大活躍をするのです。(2)

日本神話には、争いを避け、話し合いを重んじ、共存共栄を目指す「和」の精神が、さまざまな形で描かれています。そうした日本固有の精神を、「和をもって貴しとなす」と表現したのが、聖徳太子だといえましょう。
そして「和」は、その後の日本人と日本の精神を考える際のキーワードとなっているのです。

太子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究しています。そのうえで、キーワードにしたのが、「和」です。儒教には「和」という徳目はありません。徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(=日本でいう忠)です。仏教にも「和」という徳目はありません。法家等でも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、日本人の行動原理を、見事に表したものと言えましょう。

引用終わり。

大部分省略して掲載しましたが、大和民族が育んできた「和」と言う概念が地形的にも、民族学的にも特別の条件で自然発生的に形成されて行ったことが伺えます。
その「和」の概念を、も少し具体的に捉えると共に、他民族の特性とも比較したいと思います。

続く
メンテ
大和魂 5 ( No.5 )
日時: 2010/10/14 11:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

レスをいただく方があり、「和」の言葉自体を解説してくれました。このようなことは思いもしなかったのですが、言語学的な肉付けです。


「和(わ)」は音読みか、それとも訓読みか もし音読みなら、それは漢語だということになります。

日本語とアラビア語:

聖徳太子の時代以前からアラブ商人は今の中国の都市泉州や、揚州に来ていた。もちろんイスラーム革命以前です(聖徳太子が死んだ622年からイスラームは始まった)。揚州は隋の皇帝煬帝お気に入りの都市で、長く滞在していた。要するにアラブ人と隋の皇帝は接点を持っていた。それでアラブ人は東アジアの動向も知っていたに違いないのです。福建の漁港としての泉州の漁民からも、少なくとも日本の九州に関する情報を得ていたはず。

隋が破滅し、唐へと変る東アジアの情勢を受けて、ムハンマドによるイスラーム革命が起されたと想像することができる。唐はご承知のとおり遊牧民による王朝でした。

アラビア語で”ワタシ”を「アナー」、貴方を「アンタ」と呼びます。このうち「ア」は「ワ」と同類でです。日本語では我の”ワ”もあっちの”ア”も厳密に区別しません。だから「アナー」は「ワナー」と置き換えることもできる。大変な共通性があります。ちなみに「アンタ」の”ン”は”ヌ”の変化形です。

要するにソナタというときの”ナ”と「アンタ」というときの”ナ”は日本語とアラビア語で共通しています。”ナ”は遠いものを指し、同時に尊敬の意味がある。

アラビア語で”そして”又は”と”を意味するのに「ワ」という。日本語では”テ”に当たり、英語ではandです。この「ワ」こそ和語としての「わ」だとするならば、その使われる際の場面は日本とアラビアとで非常に似ている。

この「ワ」を使うことにより、「汝」も「我」も同じになるからです。

金印で有名な「倭之奈之国王・・・」の文字も、単に”私の貴方”という意味に過ぎなかった可能性だってある。つまり「ワ・ナ・タ」です。
詳しい書物によると、中国語にもずいぶんアラビア語起源の発音があるようです。

以上引用。

ここで出てきます「国王」の意味は当時の中国では、日本で言う大名クラスに対して使っていたようです。
だから簡単に倭国を国王と認定したのです。
実際のところ属国扱いだったと言うことです。

後漢の史書に『後漢書』孝安帝紀東夷伝に安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うてきた(「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)との記述があります。

帥升以前に日本史上の個人名は史書に見られない。そのため、帥升が日本史上に現れる最初(最古)の人物とされている。帥升の次に現れる人物は卑弥呼である。

この頃のことは、我が国では資料が乏しいのですが、中国との交易もあり、かなりまとまった社会を作り「和」の精神は十分に醸成されていたと思われます。

続く
メンテ
大和魂 6 ( No.6 )
日時: 2010/10/14 11:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:0R4yl.bo

協力してくださっている方の投稿を元に、歴史の旅を続けましょう。
その中で古代の心を感じることが出来ると思います。


日ユ同祖という考え方があります。「シュメールと日本、同祖」というのが精確だと思います。

楔形文字は表意文字と表音文字との組合せで、これは日本語と同じやり方です。そして文法も、”既知名詞+変化名詞+変化態様”というように、日本語と語順が同じです。

シュメールとは現在の南イラクのことです。そしてそこに北からヒッタイト族などがやって来た。そしてバビロニアなどの国家を建設してシュメールの文化をシリアに広めた。シリアとは、現在のシリア、レバノン、バレスチナ、ヨルダン、イスラエルを包括する地区です。シュメールはユダヤにとって先進文化地域だった。

楔形文字は、古代オリエント地区で東アジアにおける漢字と同じ役割を果たしていました。メソポタミアの共通文字だった。

シュメールには葦原が広がっていたらしい。日本もかつては”豊葦原の国”と呼ばれました。葦は筆(ペン)を作るために利用されます。粘土と葦の組合せが文を生んだ。「書く」とは引っ掻くと言う意味です。Grammarのグラムは刻むという意味。紙が発明されるまで、文字は刻んだり引っ掻いたりするしか記する方法が無かった。

シュメールの人々が東に移住し、インダス文明を築くなどしながら、南海伝いに日本までやってきた可能性は十分にあると思います。

ここまで遡れば十分でしょう。次には大和の国から見た太古の様相です。

黒潮は日本列島南方海上で対馬方面と高知方面に分かれる。対馬方面へ流れる海流に乗ると、船は九州北西部とか、或いは朝鮮半島南東部に行き着く。出雲地方もその中に含まれます。

紀伊半島もそういう意味で同じ人々が流れ着く場所でもある。そのせいか、熊野権現は出雲系の神様が祭られています。その他に、伊勢、伊豆、安房、鹿島(茨城県)など、いずれも黒潮と無縁ではない。

大和川を行き着くところまで遡ると飛鳥地方に至る。他方その先の山の向こうには、吉野を経て熊野があります。古代にそこでヤマト民とミナト民が出会ったとしても決して不思議ではありません。

このように想像すると、日本古代史は黒潮をキィ・ワードとしてヤマト民やミナト民(海民)の動向を中心にして再構築する必要があると言えるでしょう。

ヤマトとミナトという言葉が出てきました。

昔から日本にはヤマト(山門)民と、ミナト(水門)民がいました。それはそれぞれ陸民と海民だった。

陸民は大黒(大穀)様を信仰し、海民は恵比寿様を信仰していた。要するに陸民は生産の民で、海民は通商の民だった。それらが和合することにより生産と流通を円滑化させることに成功した。

むかし江戸は武蔵野国にあった。軍艦でも大和の姉妹艦として武蔵が建造されました。江戸がミナト(水戸)民の土地だったことは言うまでもありません。

むかしから、我が国は南方や朝鮮系の渡来人が多くいたことは、聖徳太子の時代にも秦氏、漢(あや)氏などが良く知られています。
上記に書いた流れの中に組み込まれるのでしょう

続く
メンテ

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