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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.207 )
日時: 2017/07/28 22:50
名前: 中川隆 ID:1cMjBjZU

世の中には外国語ができると偉いと思ってるアホが多いからね

アフリカ人は英語力で頭の良さを評価してるしね

要するに植民地文化人という奴だな
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.208 )
日時: 2017/07/28 22:49
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qkc3vFZk

アッハッハ

私は客人として中川さんを少し持ち上げすぎたかな。

どうせコピペが主で自分の意見らしい意見と言えば他人を誹謗する事だけ。

でもね、人は誰でも良いところも持っているもの。

だから、私は誰でも尊重して受け入れられる。

実害をきたさない限り。

メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.209 )
日時: 2017/07/28 22:56
名前: 中川隆 ID:1cMjBjZU

そもそもコピペするというのは貼った後で読む為だからね

昔の人は本を買って読んでたけど、今はネットで同じ情報が得られる

それで勉強用にコピペしまくってるだけなんだ

ただ、ネット情報は玉石混合だからね

いかにして正しい情報を手に入れるかで進歩が決まる

だからネットでもデタラメやデマが書かれていると腹立って仕方ないんだ

メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.210 )
日時: 2017/07/28 23:00
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qkc3vFZk

中川さん

私はコピペが悪いとは思ってはいません。

この「大和魂」スレッドも、ずいぶんとネットの資料にお世話になり、引用も相当しています。
自分ながらもネット社会に感謝をしています。

ネットがなければ、とてもこのような文章を構築することは出来なかったでしょう。
少し長文になり、退屈な部分もありますが、是非、通しで読んでいただきたいもの。
そうして貴方の意見を伺いたいもの。

大抵の人は標題の「大和魂」だけで敬遠されてしまいます。
せっかく10年近くかけて書いたのに!
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.211 )
日時: 2017/07/28 23:08
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:qkc3vFZk

>だからネットでもデタラメやデマが書かれていると腹立って仕方ないんだ

中川さんの文章には各所にこういう内容の言葉が入ってくる。

政治をただし、掲示板の世界をただし、ネット社会までも糺されるおつもりか。

それはいくらなんでも大言壮語!

あまりやりすぎると誰もが相手にしませんよ。

それが実際の社会であり、人生なのでは。

また、そんな無責任な社会を相手に孤軍奮闘する必要もないでしょう。

メンテ
神道論 ( No.212 )
日時: 2017/09/01 12:44
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:jNKFxZ4o

No 185のレスから、このスレッドには珍しく御客様の来訪があり、話が中断しましたが、このスレッドに対する皆さんの意見は大変参考になりました。

さて、久しぶりなので、おさらいから始めましょう。
平安時代は飛鳥時代から続く天皇親政の時代でしたが、藤原氏をはじめとする貴族の力が強く貴族政治であったとも言えます。
また全国の統治体制も荘園制によっていて、その分、中央集権は弱いものであり中央の軍事力も殆どなかったと言っても良いでしょう。
中央の力が無い分、文化的にはかなり自由な雰囲気がありましたが、国家が国家としての務めを果たさず、困窮する民衆が沢山出ていた事も特徴です。

続いて鎌倉時代は、大和朝廷以来、初めて、政権が天皇家から政権を武家に渡った時代です。
始めは源氏一族が支配していましたが、そうそうに豪族筆頭の北条家が実験を握り中央集権を目指していました。
鎌倉時代にも天皇家が復権を目指した乱もありましたが不発に終わっています。

次の室町時代ですが、再び起こってきた後醍醐天皇の主権回復の運動と連動した足利尊氏が鎌倉幕府にたいしクーデターを起こして成立させた足利幕府の時代です。
ですが、尊氏はすぐに後醍醐天皇と対立し天皇を排斥しています。
ですが、この時尊氏は後醍醐を追放するために別の天皇を擁立し、ためにその後、南北朝の対立と言う抗争を残しました。
これが結局は応仁の乱を呼び、実質足利幕府の崩壊をまねきました。
要するに足利尊氏も、単なるクーデターの成功者にすぎず、本当の意味での配下が少なかったと言う事になります。
事実、足利幕府は平安時代の様な貴族趣味が強い政権でした。

平安時代が、そうであった様に、庶民の文化も鎌倉時代に生れは芸能、技術の発展がみられます。
しかしながら平安時代と同じように統治が出来てない国の有り様から、庶民の困窮は強まり、政治的には下克上と言われる様な事態を招き戦国時代へと移っていきます。

ところで、この時代に注目しておかねばならないことが起こっています。

奈良時代から続いていた仏教と神道に関する受け止めかたについて、

神道のあり方を本格的に検証しようとした「吉田神道」の登場です。

吉田神道は、反本地垂迹説の立場をとります。
仏教・道教・儒教の思想を取り入れた、総合的な神道説とされる。吉田神道は、仏教を「花実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」と位置づけた。
吉田神道は、顕隠二教を以って一体となすのが特徴で、顕露教の教説を語るものとしては『古事記』『日本書紀』『先代旧事記』(三部本書)、隠幽教の教説は『天元神変神妙経』『地元神通神妙経』『人元神力神妙経』(三部神経)に基づくとするが、兼倶独自のものとは言い難く、上述のとおり、仏教・道教・儒教のほか、陰陽道等の教理や儀礼を取り入れたものといえる。また、密教の加持祈祷も取り入れている。

※ 本地垂迹説にせよ、反本地垂迹説にせよ、神道と仏教、儒教の混合を考えた事に違いはなく、その目的は民衆の為と言うよりも国家護持の観点でありました。


「本地垂迹説」

 本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)というのは、神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為を、理論付けし、整合性を持たせた一種の合理論で、平安時代に成立しました。その基礎には仏教以前の山岳信仰と修験道などの山岳仏教の結びつきがあったといいます。

 仏教の伝来は538年、あるいは552年ですが、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られています。仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からでした。これも良く知られています。
 ところが、天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にありますね。それで、やっぱり100%仏教とは行かなかったようです。そのほかの人々も同様だったのでしょう。なにせ、貴族も豪族も、みな、うちのご先祖様は何とかという神様だと言っていたのですから。
 そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきました。歩み寄ったのは神様の方でした。その一番手が八幡神だったそうです。八幡神は応神天皇のことだといいます。八幡様が「私は、元々はインドの神でした」と告白したことで、ほかの神様も右へ習えとなったようです。つまり、神様の立場を「本当は仏教の仏です(本地)が、日本では神道の神としてやってます(垂迹)」ということにして、両者を共存させたわけです。
 もっともこれは、日本人が自分に都合の良いように理論をでっち上げたということでもなくて、法華経にその根拠を求めることができるといいます。それに、仏教自体がヒンズー教から沢山の神を入れていましたから、如来、菩薩などが名前を変えて日本の神様になるということは、あってもよいことと考えていたのではないでしょうか。一方、神道の側からすれば、元々、教義も無ければ教祖もいない、八百万の神様が坐す(います)だけ、ということでしたから、さほど気にはならなかったのかも知れません。

「反本地垂迹説」

日本の仏教が説いた本地垂迹説(神の本地本体は仏・菩薩であるとする説)に対し、それは逆で仏・菩薩の本地本体こそ神であるとする主張。鎌倉の頃から出てきた。


※ ここで神道の流れを纏めておきます。

歴史的に見ますと、最初に氏神(うじがみ)や産土神(うぶすながみ)を祀る原始的な神道や、北方系のシャーマニズムのような神道があったと思われます。それが大和政権が日本全体に支配権を確立させて行く中で、神々の同一視や婚姻などが行なわれて行き、ひとつの天皇神道にまとめられて行ったものと思われます。
ここに仏教の思想が入って来ますと、神仏習合の考えが生まれ、仏を中心に据えた両部神道・山王神道などが生まれて行きます。これに対して伝統的神道側も伊勢神道・唯一神道などによって理論武装して仏教に対抗し、巻き返しを図ります。しかし江戸時代に入る頃には今度は儒学の影響で儒教色の濃い神道が生まれます。

そんな中で現在色々な要素が入ってしまった神道の元の姿を取り戻そうという動き・復古神道の考え方も江戸時代も後半頃から出てきて、これが幕末・明治になると数々の教派神道を産み出します。一方では神道を政治的に利用しようとする勢力が国家神道を作り、それによる思想統制を図りますが太平洋戦争で挫折。そして戦後は宗教の自由化に伴い雨後の筍のように沢山の新宗教が生まれ、分離統合しながら新世紀への展望を模索しています。

そんな中で幾つかのエポック的な神道を以下見ていくことにしましょう。

物部神道

古代の神道の最後の生き残りで、その命脈は587年の蘇我一族による物部一族制圧によって絶たれた。内容的には謎の部分が多いが、思想は旧事本紀から伺い知られる。十種神宝(とくさのかんだから)や、「ふるべ、ゆらゆらとふるべ」の呪文などが知られる。基本的に魂を奮い起こすことにより精神的エネルギーを高め活力を生み出す神道ではなかったと推定される。

中臣神道

物部神道が滅び、仏教が国家祭祀の中心になった時代にやがて政治的に台頭した中臣家(藤原家)が巻き返して提示した神道で、その後の日本の神道の中心になるもの。その根本は大祓詞(おおはらえのことば)に見られるような「けがれとはらい」の思想である。

山王神道

天台宗の総本山・比叡山で平安時代に生まれた神道。初期の山王神道と天海以降の山王一実神道に分類できる。山王とは霊山を守護する神霊のことで、山王権現は比叡山の地主神で日吉神社祭神の大山咋神(おおやまくいのかみ)を言う。三諦即一思想があり、「山」の字の縦の3本は空仮中を表わし、横の一画は即一と解釈して一心三観・一念三千の象徴であるとする。「王」の字も同じ。ここに空とは「仏法は一切空」、仮とは「仏法は仮にある」、中とは「仏法は空でも仮でもなく不二である」である。天海は更に山王権現は大日如来であり、また天照大神であるとした。

両部神道

真言宗から生まれた神道。鎌倉時代頃に成立。伊勢神宮の内宮を胎蔵界大日如来−日天子、外宮を金剛界大日如来−月天子に配する(二宮一光)ほか、いざなぎ・いざなみ、諏訪神社の上社・下社、なども両部になぞらえた。又古事記の天神七代は過去七仏に等しく、北斗七星にも展開されるなどとし、多くの神々を仏教により解釈していったが明治の神仏分離により壊滅的な打撃を受ける。

伊勢神道

伊勢神宮の外宮の神官度会(わたらい)氏が創始。外宮の神である豊受大神は実は天御中主神(あめのみなかぬし)=国常立神であるとし、天御中主神は海之水中主であって、海に在る神であるとする。そして海は造化の霊体であり、半日間地上を照らした太陽や月も海に沈んで休息をとるのだとします。そして、人間は神から生まれたのであるから人間の本性は神であって、その神性を損なうようなことはしてはならないとして、正直・至誠・祈祷の実践を求める。教典として「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」「豊受皇太神御鎮座本紀」「造伊勢二所太神宮宝基本紀」「倭姫命世記」の神道五部書が製作された。鎌倉時代末期に起こった。

吉田神道
吉田兼倶(1435-1511)が唱える。正式には元本宗源神道。唯一神道・卜部神道ともいう。神本仏迹・神主仏従。神とは観念的なものではなく、天地に先立って天地を定め、陰陽を越えて陰陽をなす。始めも無ければ終わりもなく、天にあっては神、万物にあっては霊、人倫にあっては心である。神は天地の根源であり神はすなわち心であるとする。儒教・仏教・道教・陰陽道の要素が合流し、伊勢神道の思想も入っている。大元宮の八卦に基づく八角形の神殿は特徴的。

法華神道
室町時代に法華宗の信徒の間に起きたもの。神の中に法性神・有覚神・邪横神の3つがある。法華経守護三十番神といって各地の三十柱の神が一日交替で人々を守護するという考えを出した。(実際にどういう神が選定されたかについては別途up)

儒家神道

神儒一致論にもとづき儒家が江戸時代にとなえたもの。林羅山の神儒一致論(理当心地神道)、雨森芳州の理論(神主儒従。神道は仁・明・武で、これが三種の神器である)、貝原益軒の理論(儒主神従)など。

吉川神道

吉川惟足(1616-1694)が唱える。吉田神道と儒教と武士道の調和をはかった。神道を祭祀を中心とした行法神道と理論的な理学神道に分類し、理学神道こそが真の神道であるとした。保科正之などに共鳴を受けて一大勢力となり、一族は幕府寺社奉行の神道方に任命される。

垂加(しでます)神道

山崎闇斎(1618-1682)が創設。垂加は闇斎が吉川惟足から贈られた号である。神道は天照大神の道と猿田彦神の教えで宇宙の根源は国常立神であるとして、天道即人道の理を説く。神の働きを造化・気化・身化・心化に分類、土金の伝(つつしみの徳)、竜雷の伝(怠惰のいましめ)、天人唯一の伝(天と人は一致)などを主張した。この門下から土御門神道の安倍泰福・橘家神道の玉木正英などが出て、復古神道・国学・水戸学などの源流となった。

復古神道

賀茂真淵(1697-1769)の万葉集による古語の研究、本居宣長(1730-1801)の古事記の研究、などに刺激を受けた平田篤胤(1776-1843)が提唱したもの。仏教や儒学などの要素を排除したいにしえの神の道を復興することを目的とする。このいにしえの道の理解には大和心を固めるべきで、神の功徳を認識し、日本が世界の中心であることを知らねばならないとした。結果、中国の医学は少彦名神が作ったものが輸出されたものであり、易の始祖伏義は大国主神であり、帝釈天も皇産霊神であるなどとして、日本は神国であるとした。

国家神道

明治維新後の政府によって推進された祭政一致的神道。復古神道や水戸学などの思想をベースに、神仏分離令によって神社から仏教色を排し、天皇家の先祖である天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の最高位に位置付け、一村一社制により既存の神社を強引に統廃合するとともに、祭神も天皇家に関わりのある神に書き変えた。神官は公務員とし、祭祀のみを執り行い布教活動をすることは禁止、一方神道は宗教ではなく民俗伝統の根幹であるとして、政府が直接管理するものとした。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.213 )
日時: 2017/09/23 21:03
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:PJXQ4hPg

最近は休み休みなので書き続けるのが厄介です。

室町時代についての総評として、文化的には鎌倉時代に興った大衆文化が、より成熟していく過程と思います。
大和魂と言う概念からも、大衆の中にそれが行き渡る過程であったでしょう。

しかしながら、同時代に神道の系統的解明が進み、思想と言う意味では本来の大和魂の色付けがなされたようにも思います。
私は大和魂は、民衆の中に自然に息づくものでなければならないと思っています。

まあ、それはそれとして政治の面、権力争いの面では非常に活発な自由心が生まれ、やがて戦国時代に突入します。
大和朝廷設立の過程でも、日本人同士の殺し合いがかなりありました。
当時の争いは天皇家を含む既成の豪速同士のものでありましたが、戦国時代の特徴は、それこそ、下克上。

応仁の乱から数えてみても、200年ほど権力争いの殺し合いが続きました。
大衆的には殺伐とした時代であり不幸な時代でもありましたが、日本人の闘争心が如実に示された時代です。
権力争いとは別に、倭寇の横行や商人が東南アジアへ向けて積極的に進出した時代でもありました。

この状況が良いと断定するものではありませんが、それと対照するに江戸時代の押しつぶされた社会の有り様、反動としての明治時代の侵略体質を考えるときに有効だと思います。

中世でも1000年もの間にキリスト教教義の中で押しつぶされてきた大衆の思いがユネッサンスとして開花しました。
中世のキリスト教による支配については、私は全く否定する立場です。
日本の場合の江戸時代300年の事は、否定はしませんが、それが何であったかの検証はしたく思います。
明治時代の反動は決して肯定できるものではありません。
が、それよりも現在日本の有り様においては、肯定できる何があるのでしょうか。

それが、このスレッドの課題なのです。

西欧思想史においてギリシャ時代は良いですね。
人間社会の有り様を正しく受け止めています。
近代社会を全くギリシャの思考法に包むことは出来ませんが、波打つ思いは妨げられません。

「大和魂」です。
メンテ
江戸時代へ ( No.214 )
日時: 2017/12/11 23:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:RufVXKqE

大和魂(日本人の心のルーツ)を探るにおいて、その様なものは無い、必要ないと言う意見も出ていました。
しかしながら、それでは個人の自由、権利を主張して家族の有り様も変わってきた現代の日本人の生き方を全面的に支持するものですか。
なにかと言えば、最近の若者は!と言う義憤の声も聞かれます。

現代の若者が、悪く昔の人間は良いと言う意味でもないでしょう。
だが、日本人が暮らしていえう社会の有り様は、考え方により少しは変っていることくらいは認められるでしょう。

この事は世界中で起きている現象で、資本主義の発達により十分な物質に恵まれている幸せ、個人権利、自由を主張できる幸せのなか、社会の有り様が変わってきているのです。

ですが人間とは、個人個人が満足させられるだけで幸せな社会を構成することが出来るのでしょうか。
現在、起きている無差別殺人、格差社会の矛盾をほおっておいて、幸せな社会が出来るのでしょうか。

人間が共に生きるということを忘れて行けるのでしょうか。
宗教の神様を必用としなくなるのでしょうか。

人間は共に生きてこそ幸せになれるという事を忘れるべきではないでしょう。
認めるべきでしょう。
であるならば、将来、人間は何を持って共生意識とすることになるのでしょう。

それを求めるのに過去の歴史を見てみる事も意味あるものではないでしょうか。
そこに何があったのか。

世界史に歴史を求めると
数千年前の世界では、王国の中で人間は暮らしていました。
王国に属さない人々は、放牧の民として集団で狩りをし生き延びていました。
その時代の庶民は、ただ生き残る事が精一杯で、それが目的で助け合いながら生きてきました。
それが共認でした。

2000年くらい前には、全ての人々を対象とする宗教が興り、その宗教圏の人々は宗教の神様に救いを求め困難に打ち勝つよう努めてきました。
それが共認の一つの追加項目です。
その宗教の神が、逆に人々を抑圧するような時代が長く続き、人々は神の有り様に懐疑を抱くようにもなりました。

その頃になると、科学技術も発達し、生きるための労働から解放された人々は、個人個人の生活にゆとりができ、自分の生き様を自分で選択できるようになりました。
それは西欧ではルネッサンス(人文復興)と呼び、個人の権利、自由を求める事に目覚めた時代です。

同時に個人個人は競争に打ち勝つことによって、より自由で、権利も獲得できる事を学びました。
その競争は、彼らにとって善であり、競争することが人生の使命の様に納得していた。

だが物質的に十分な成果をあげた現代は、競争すること以上の目標をさがし戸惑っている。
一方で、競争にも参加できなく、生きている意義も曖昧になった多くの人たちも発生している。
この人たちは、何を持って自分の精神を満足させられるのか。

競争してきたと言っても、その競争には共通の目標、ルールも介在していた。
それが共認意識として働いていた。
人々は互いにそれを見やりながら自分を見て安心して競争していた。

その様なものが人間には必要であったのである。
この意識は、単に生存競争だけでなく人々の生活全体に存在していた。
それが集団の心(共認意識)であり、民族の心である。

その民族の心と言うものは、常に一定の姿をしている訳ではなく、民族の於かれた条件によって移り変っても可笑しくはない。
そうして、その民族の心(共認)と言うものは生き様だけではなく文化にも反映される。

そう言う意味で民族の心に変遷を探っていくのも、将来社会を考える大きな糧となるであろう。
大和魂と銘打って、探している民族の心は鎌倉・室町時代のそれであり。大和魂で捉えたい民族の心とは何であろう。

しかしながら、このような抽象的な概念は、一言で現せるようなものではなく、前後の時代の様子から際立たせられるものと思っている。
という事で、鎌倉・室間時代の検証は、一旦中止して次の江戸時代へ向かおう。

その前に、ルネッサンスと言う言葉を上げたので、室町時代以降、江戸時代までの政治的な下克上の時代を、身分などに関わらない生の人間性が発露した時代としておきます。

最後に、この文章を書きながら思ったのですが、

大和魂を鎌倉・室町時代に見ようとしていますが、ある意味、すべての時代の日本の心の事を大和魂と言い、その変遷を求めているとも言えると思います。

メンテ
朱子学の登場 ( No.215 )
日時: 2017/12/18 12:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

何と言っても江戸時代の特徴は、実質的な統一国家が出来たと言うことです。
国と言うものに対する認識が国民に行きわたりました。
飛鳥、平安時代も、統一国家には違いありませんが、これは貴族国家であり、庶民の事は年貢の対象としか見られておらず、国を治める治世の概念は貴族にはありませんでした。
続く鎌倉、室町時代も、権力闘争は主体で、武力さえあれば権力を維持することが出来、国を治められる、と思い込んでいました。
江戸時代に入り、諸侯の武力をコントロールすると共に、安定した治世とするために、国民の教育が必要と思いました(それが治世の重要な要素と気が付きました)。
徳川幕府が長続きしたのも、この両面の施策が実行できていたからです。

鎖国政策の問題もありますが、国家として安定し、経済、文化面の発展がありました。
当時は、民主主義などと言う思想は無かったので、専制君主国家として、理想に近いものとも言えましょう。
それも幕末になって西欧民主主義の思想が入ってきて、当然ながら基本的な治世の原則が壊れ明治維新を迎えることになります。

治世の為の儒学(日本では朱子学)は、中国の歴史を通してさんざん言われてきましたが、江戸時代の朱子学の様に国民に行きわたり治世の根源となったものはありません。

そこが江戸時代の特徴でしょう。
ですが儒教による治世の考えは、近代民主主義のそれとは相いれる要素ばかりとは限りません。
何故ならば、儒教が教えてきたものは、飽くまでも専制国家を想定しているものだからです。
日本の国民は江戸時代の儒教精神に影響されすぎ、それが尾を引いて、上に従順な国民性となっているのでしょう。
儒教精神も大切ではありますが、現代は民主主義体制、それによって選ばれた統治者(為政者)が何時も善であるとは限りません。
儒教精神だけでは、これに異を唱える術がありません。
また為政者が、財界(資本)の傀儡となってしまう場合もあります。
この場合も、政治的に対処する術を考えつきません。考えようとしません。

これが現在の日本国民の民族性としての課題でしょう。
殆どの政治家(為政者)が善であり、資本の傀儡となるような政治をしなければ、江戸時代の朱子学だけでも良いのですが。

一気に結論じみた事を書きましたが、これを念頭に入れて、まずは江戸時代の朱子学が、どのようなものであったか見てみましょう。


儒教の登場
中国の古代史は、夏、殷と言う伝説の時代の後に周と言う国名で一応は統一のかたちを取ってきたが、紀元前700年ころから、各地の豪族が跋扈して国中が乱れていた。
これを春秋時代、後半を特に春秋戦国時代といいます。

孔子が出てきた時代は(紀元前552〜紀元前479年)、それぞれが国家の構成をめざし統一へ向かう時代で、春秋から戦国への過渡期ともいえる時期で、激動の時代でした。

政治・経済・社会のすべてが大きく変動しつつあった時代で、
それまでの伝統的な価値観も大きく揺らいでいたことが、
孔子を動かした大きな要因ともいえるでしょう。
詳しく説明すると、恐ろしく長い文章になりますので、
孔子とかかわりがある部分だけピックアップします。

春秋末期になると、いわゆる下剋上という現象がつよくなり、
孔子の住んでいた魯という国(諸侯の国)でも、
魯の君主はほとんど権力を持つことができず、
国の実権を三桓氏と呼ばれた3つの貴族が握っていました。
ちなみに、三桓氏は魯の桓公の子孫に当たり、
魯の君主にとっては親戚にあたります。
周の封建制は血のつながりによるもので、
周王が親族を諸侯に任命し、
諸侯は自分の親族を卿や大夫などにして政治を行っていました。
諸侯国では、卿や大夫などの階層が力をつけ、
君主を凌駕するようになったというわけです。
しかし、下克上の恐ろしいところはこれだけでとどまらず、
三桓氏のリーダー格の季孫氏では、重臣の陽虎という人物が
この家の実権を握っており、
魯の国を実質動かすのは、魯の君主の家臣の家臣(陪臣という)
にあたる陽虎だったのです。


孔子の教えの概略は
『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語) 孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。

孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。
メンテ
儒教(論語の世界) ( No.216 )
日時: 2017/12/18 18:14
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:6LrZIwTE

孔子の論語紹介
孔子の言葉で一番記憶にあるのが、

子曰、

>「吾十有五而志于学。
三十而立。
四十而不惑。
五十而知天命。
六十而耳順。
七十而従心所欲、不踰矩」。


「吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)ふ。
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」。


[要旨]
孔子が一生を回顧して、その人間形成の過程を述べたもの。


[口語訳]
子曰く、、
「私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、
人の道を踏みはずすことがなくなった」と。
論語の名言集
子曰、學而時習之、不亦説乎、
有朋自遠方来、不亦樂乎、
人不知而不慍、不亦君子乎、
(出典:学而第一1)

書き下し文
子曰く、学びて時に之(これ)を習ふ。
亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや

通訳
孔子は言った。
物事を学んで、後になって復習する。
なんて悦ばしい事だろう。
遠くから友達が自分に合いに訪ねてくる。
なんて嬉しい事だろう。
他人が自分をわかってくれないからって
恨みに思う事なんてまるでない。
それでこそ君子というものだ。

解説
論語の中でも特に有名な一節。
中学校の授業で習った記憶がある方も
少なくないと思います。

勉強は強制されると嫌なものですが、
本来は、自分の成長を実感できる
楽しいもののはずです。
この姿勢は、大人になってからも
大事にしていきたいものですね。


>子曰、巧言令色、鲜矣仁、


書き下し文
子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁。

通訳
孔子は言った。口先が上手で
顔つきをころころ変える人間が、
仁者であることはめったにない。


解説
仁者とは、思いやりのある人の事。
口が巧くて世渡り上手の人間に限って
案外中身が薄っぺらいものだという教訓です。

この一節は、学而と陽貨に
全く同じものが登場しています。
孔子自身の経験として、
「巧言令色」な人間をたくさん
見てきた上での教えなのでしょうね。


>不患人之不己知、患己不知也

書き下し文
子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)えず、
人を知らざるを患うるなり。

通訳
孔子は言った。
他人が自分を分かってくれない事よりも、
自分が他者の価値を
認めようとしない事の方を心配しなさい。

解説
他人が自分を理解してくれないという悩みは
人なら誰しも一度は持つものですが、
孔子はそれよりもまず、
自分から他者の良いところを知る
努力をすべきだと説いています。


>君子周而不比、小人比而不周

書き下し文
子曰く、君子は周して比せず。小人は比して周せず。

通訳
孔子は言った。
君子は誰とでも分け隔てなくつき合うが、
つまらない人物は限られた狭い関りしか
もつことができないものだ。

解説
君子とは、徳がある
立派な人物の事を指します。

徳のある人の周りには
自然と人が集まってくるものですね。


>攻乎異端、斯害也己矣

書き下し文
子曰く、異端を攻(おさ)むるは斯(こ)れ害あるのみ。

通訳
孔子は言った。
自分と異なる考えを持つ人を
攻撃しても、害があるばかりだ

解説
自分と違う意見を持つ人こそ
自分を成長させてくれる存在です。


>人之過也、
各於其黨。觀過斯知仁矣。

書き下し文
子曰く、人の過ちや、
各々其(そ)の党に於(お)いてす。
過ちを観みて斯(ここ)に仁を知る。

通訳
孔子は言った。
人の過ちにはそれぞれ癖がある。
過ちを見れば、その人が
どういうタイプかが分かる

解説
この言葉には思わず頷いてしまいました。
古代中国でも現代日本でも、
人の本質が出るポイントは
変わらないのですね。

ちなみに私はせっかちで、
よく人の言葉を早とちりして
失敗します(笑)


>朝聞道、夕死可矣

書き下し文
子曰く、朝(あした)に道を聞かば、
夕(ゆうべ)に死すとも可なり

通訳
孔子は言った。
もし朝に真実の道を知ることができたならば、
その日の夜に死んでしまってもかまわない。

解説
養老武氏のバカの壁にも引用された言葉。
孔子の真理に対するひたむきさが表れています。

真理の探究者という面では、
孔子はソクラテスにも似ていますね。


>君子喩於義、小人喩於利、

書き下し文
子曰く、君子は義に喩(さと)り、
小人は利に喩る。

通訳
孔子は言った。
よくできた人物は何をなすべきかを考え、
つまらない人物は何をすれば得かを考える

解説
自分の身を正してくれる言葉その@。
日常の忙しさにかまけていると
ついつい目先の利益を追ってしまいがちです。


>知之者不如好之者、
好之者不如樂之者

書き下し文
子曰く、これを知る者は
これを好む者に如(し)かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

通訳
孔子は言った。
ある事に知識のある人であっても、
その事を好む人には及ばない。
また、その事を好む人であっても
その事を楽しむ人には及ばない。

解説
「好きこそものの上手なれ」ですね。
スポーツであれゲームであれ、
心から楽しんでやってる人には誰も敵いません。


以上、きりがありませんが、どれをとっても現代社会にも通じるものですね。

儒教と言うのは、孔子の教えを出発点に、色々な時代に、いろいろな人たちによって継承されてきた思想全体を言います。
とりあえずは孔子以降、紀元までの数百年の流れを下に説明します。

春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は魯国に生まれた。当時は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった。周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて孔子教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[11]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
これらを合わせて儒教と呼んでいた。



メンテ

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