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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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神道の話 3 ( No.175 )
日時: 2017/06/15 14:12
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xuCVLJQs

氏神信仰の形で始まった日本の信仰が、どのように変わって行ったかの歴史です。

(神道の確立)

鎌倉時代になると、まずは仏教ありきの中でも、本地垂迹説を日本において、また、各仏教宗派の中で整理しようという気運が生まれてきます。天台宗系の山王神道、真言宗系の真言神道(両部神道)などが確立していきます。日蓮宗では、法華神道がおこり、日替わりの神様である法華三十番神が祀られるようになりました。また、それと同時に伊勢神宮の外宮では、古くからの儀礼を体系化した度会神道(外宮神道、伊勢神道という言い方をされる本も見受けられるが、江戸時代の同名のものとは異なっている)がおこります。

(吉田神道)

室町時代に入ると、ようやく仏教とは別次元で、日本における神の道なるものを確立しようする動きが表れます。それを成し遂げたのが、吉田兼倶(よしだかねとも)です。彼の起こした教義を、元本宗源神道といい、仏教ありきの両部神道や山王神道にではなく、反本地垂迹説を唱え、本地で唯一なるものが神であるとして森羅万象を体系づけた世界観をあらわすようになります。そして、『唯一神道名法要集』の中で、神道の考え方を整理し、仏教に依存する本迹縁起神道、両部習合神道、元本宗源神道の三種に分けられとし、最後の、元本宗源神道こそが、吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた正統的神道であると主張しました。また、仏教、儒教との関係を、仏教は「花実」、儒教は「枝葉」、神道は「根」と表現し、仏教や儒教が神道の上に成り立つ物であると示しました。吉田家は、兼倶の父の代まで卜部家であり、古来の神道を引き継いでいた家柄であることは間違い有りません。しかし、兼倶以降、皇室の白川家に変わって吉田家が神道の家元になり、権限を持つようになりました。

(本居宣長)

江戸時代に入り、本居宣長は、賀茂真淵の古道説を継承し、『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究をした結果、古事記が独自の価値を持った史書としての評価を獲得していくことになった。

(平田篤胤)

本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義から逸脱した神秘学的なものに変貌していった。篤胤の学説は水戸学同様幕末の尊皇攘夷の支柱となった。
平田篤胤の神道を復古神道と言うが、それはやがて明治維新の思想的側面を形成し、神仏分離、廃仏毀釈の運動となり、神道国教化を推進したとある。

それは大和朝廷からつながる天皇家の存在を国体の中心に据えると言うものであり。
天皇家の氏神、伊勢神宮を国家神道の頂点とするものであった。

(明治政府における神社の統合)

明治4年に、神社を「国家の祭祀」として社格制度を決めたのである。
それによると伊勢神宮を頂点とする神道系の宗教団体として、約8万社ある日本の神社のうち主要なものなど7万9千社以上を統合した。
後の9000社は、何かの理由で伊勢神宮の傘下には置けなかったものである。
この国家神道の考え方が、どのように展開していったかは、記憶に新しいものである。

ですが、神道を考えるとき、この国家神道の思想が人為的政治的に作り上げられてものであり、信仰の対象と言う意味では価値を置く必要のないものであることは明白です。

(参考に日本の神社の概要を紹介します)

神明神社・皇大神社(お伊勢さん) 伊勢神宮内宮 天照大御神
(この中に79000社があります)
八幡神社 宇佐神宮 八幡神(応神天皇)
天満宮・天神神社・北野神社・菅原神社 太宰府天満宮
北野天満宮 菅原道真
宗像神社 宗像大社 宗像三女神
厳島神社 厳島神社 宗像三女神
八坂神社・祇園社 八坂神社 素盞嗚尊
津島神社・天王社・須賀神社 津島神社 素盞嗚尊
氷川神社 氷川神社 素盞嗚尊
諏訪神社 諏訪大社 建御名方神
日吉神社・日枝神社(山王さん) 日吉大社東本宮 大山咋神
松尾神社 松尾大社 大山咋神
熊野神社 熊野三山 熊野神
白山神社 白山比盗_社 菊理媛神
熱田神社 熱田神宮 熱田大神(草薙剣)
浅間神社 富士山本宮浅間大社 木花咲耶姫命
鹿島神社 鹿島神宮 武甕槌命
香取神社 香取神宮 経津主命
春日神社 春日大社 武甕槌命・経津主命
愛宕神社 愛宕神社 迦具土神
秋葉神社 秋葉山本宮秋葉神社 迦具土神
金毘羅神社・琴平神社(こんぴらさん) 金刀比羅宮 金毘羅神(現在は大物主神)
住吉神社 住吉大社 住吉大神
多賀神社 (お多賀さん) 多賀大社 伊邪那岐命・伊邪那美命
貴船神社・貴布祢神社 貴船神社 闇淤加美神・高淤加美神
出雲神社 出雲大社 大国主命
塩竈神社 鹽竈神社 塩土老翁神
賀茂神社 賀茂別雷神社(上賀茂神社)
賀茂御祖神社(下鴨神社) 賀茂別雷神
大鳥(鷲・鳳)神社 大鳥大社(西日本) 日本武尊・大鳥連祖神
鷲宮神社・大鷲神社(東日本) 日本武尊
大神神社・三輪神社(三輪明神) 大神神社 大物主命
稲荷神社 伏見稲荷大社 宇迦之御魂神・保食神ほか穀物神
淡嶋神社 淡嶋神社 少彦名命(淡島神)
猿田彦神社・佐田神社・大田神社・白髭神社
賽神社・道祖神 椿大神社 猿田彦神
恵比寿(恵比須・戎)神社 西宮神社 蛭子命(ひるこ・えびす)
美保神社 事代主命
大山祗神社 大山祇神社 大山祇神
三島神社 大山祇神社 大山祇神
三嶋大社 大山祇神・事代主命
御嶽神社・御岳神社 御嶽神社 造化三神
阿蘇神社 阿蘇神社 健磐龍命(阿蘇十二神)
山神社 大山祇神(山神)
メンテ
神道の話 4 ( No.176 )
日時: 2017/06/16 10:35
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:tIVq0bOg

神道に拘っていますが、私は神道でも飛鳥時代以前の古神道(氏神信仰)の中に日本の日本らしい心の存在を見ているからです。
そこのところをもう少し検証してみます。

そもそも宗教とは何かという問いに対して

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。

この様に形式的で、堅苦しい説明がありますが、これでは宗教の外見上(教団の存在)の概念については理解できるが、宗教そのものについての説明には乏しい。

概略すぎて申し訳けないが、歴史的に宗教のことを追ってみよう。

(呪術の段階)

宗教は最初、アニミズムやシャーマニズムと言う形で、生産の為の自然崇拝から始った。やがてそれが一神教とか多神教の形で神という概念を創り出した。
この段階では、個人及び生計を共にする小集団がその不安に対応するために宗教活動を行うのが中心であり、そのうち指導者が長老とか呪術者という形で出てくる。

(古代宗教の段階)

その後社会が発達し、人間の生活単位が部族から民族へ、さらに国家と広がるに従い宗教のあり方(宗教によせる気持)も複雑化し大規模となり、部族神、国家神の形をとることになる。
古代エジプト王国などは、その究極の形である。
此処では王は宗教上の最高権威でもあり、宗教は個人及び生計を共にする小集団の宗教的願いを包括しながらも統治の為の要素も宗教活動の中に入ってくる。
この時代の国家は純粋な宗教国家と言える。

(世界宗教の段階)

古代国家の終わり、起源前、1000〜2000年のころになると、人間の生産力もあがり、国家としての集団生活も安定してくると、人々は「人間とは何か。「宇宙とは何か」と言う領域のことにも興味を持つようになり、国家の枠組みを突き抜けた思考をするようになる。
形而上学的な哲学が興り、宗教も国家を逸脱し万人を対象とする理念が現われた。
それが、現代まで続いているキリスト教であり、イスラム教、仏教の発祥となって、くしくも起源前1000〜起源年の間に一斉に現われた。

最初に述べた「宗教とは何か」と言う問いにたいして、キリスト教については、教父と言われているアウグスティヌスの次の言葉で総括することにする。
「告白』という書物の冒頭で、「(主よ)、私たちの心は、あなたの内に安らうまで、安らぎを得ません」と述べ、キリストの教えを信じて初めて魂の安らぎを得たと告白している。
その前提に彼は「人間は貴方(神)に似せられて造られている」言っている。
言い替えれば、キリスト教の教義は、人々は、キリストの教えに学ぶ(キリストに近づく)ことで心の安寧を得るということに集約できる。

一方、同じ一神教であるイスラム教では、アラーの神に忠誠を求める。人々はそのアラーの戒律をひたすら守ることで心の平安を得ることとされている。
そのためにイスラム教の社会は、信仰という領域で中央集権的な様相が強く、ために宗教と国家が結ぶ付くことが多くなる。
イスラム教を信仰する国民の比率が多くなると、結びつかざる要素があるのである。

これに対して多神教社会で発達してきた仏教の世界では少し様相が異なってくる。
起源前5世紀に現われた仏陀の教えは「この世を苦しみ・迷いの世界と見、苦行にも悦楽にも偏らない正しい実践によってそこから脱け出ること、さらには迷いに沈む生きとし生けるものを救うことを目ざす」ことであった。
仏陀の教えの境地に達することを「解脱」と言い、それによって「涅槃」の世界へ導くことが教義とされている。
要するにキリスト教、イスラム教がひたすら神との関係を強調するのに対して仏教では各自の修練を求め、それによって各自は平安が得られるというものである。
また、仏教の世界観では「輪廻転生」を言う。これも先の2宗教とは根本的に異なり、生(人性)を宇宙の流れの中に位置づけている。
人々は個人であって個人でないのである。

このように我々が宗教と言う概念で捉えるのは世界宗教(アーノルド・トインビーは高等宗教と名づけている)のことであって、2000年の間、人類はこれに基づいて輝かしい発展の歴史を作ってきた。
ところが、この間の科学技術の発達と、それに伴って結実した経済の発達は人間社会自身の悩みを変質させることになった。

次に日本の様子を伺ってみることにしましょう。

メンテ
神道の話 5 ( No.177 )
日時: 2017/06/16 10:36
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:tIVq0bOg

以下の文章は、このスレッドの前の方に出てきて重複するかもしれません。



信仰心の文化人類学的考察

古代日本の世界 「怨霊伝説」

人類には既知の生活圏内においても、どうしても克服できない恐怖が付きまといます。たびたび襲い掛かる地震や噴火などの天災、疫病です。昔の人は、これらの原因を科学的に理解することができず、従って解決できなかったのです。この未知なるものへの「恐怖」が、神や悪魔、亡霊や怨霊といった存在を生み出したのです。

人類は、これらを敬い供養を重ねることで、「未知の恐怖」を克服できると信じるしかありませんでした。近世に至るまで、天災や疫病や精神病といった「目に見えない恐怖」は、悪魔や怨霊の仕業と信じられていました。それが西洋(キリスト教圏)では悪魔、我が国では怨霊伝説として残っています。

まず、怨霊とは何か?それは、恨みを呑んで死んでいった人の霊魂です。怨霊は、一神教世界の悪魔と異なり、個別的で具体的な存在なのです。東洋世界では、怨霊は、恨みを晴らすために仇の命を付け狙い、あるいは天災や疫病を引き起こす邪悪な存在だと考えられていました。これを退治する方法は、供養を重ねて怒りを和らげることで、成仏してもらうしかありません。あるいは、仇討ちを成就させてあげるしかありません。

歴史的に見て誰もが認める怨霊としては、崇徳上皇、菅原道真、平将門、佐倉惣五郎、西郷隆盛などがある。また、最近では、これに加えて、一部の歴史家、小説家が検証した怨霊としては、蘇我入鹿、聖徳太子、長屋王、藤原三代などがある。

これら、怨霊となった人々の共通点は、いずれも不慮の死を遂げていることである。しかも、これらの人々は、理想を掲げて活動していたが、政敵により殺害された人達である。そして、崇徳上皇、菅原道真のように政敵に対して深い恨みを抱き、後世に災いを引き起こしたと見られている。
 
権力者(藤原氏)は、自身の後ろめたさから、民衆と一緒に道真を「天神様」として祀りあげるのである。これにより、権力者自身、道真と民衆から、許しを請うているのである。そうすることで、怨霊も民衆もそれ以上は、権力者を憎むことはなかった。

これこそが、日本の「怨霊思想」である。一見、非科学的な、祟りの話であるが、その中身は、政治、人事に対する民衆の怒り、それに対する、権力者の贖罪、そして、新たな平和の到来、といった政治問題の解決の手段なのである。

出雲大社の謂れにしても、それはヤマト王権成立の過程で、オオクニヌシノカミ(大国主神)が葦原中国(あしはらなかつくに、日本の古称)を天孫に譲った功績に対して、アマテラスオオミカミ(天照大神)が造営してやった壮大な宮殿とされているが、実際は「オオクニヌシノカミは本心から納得して素直に国譲りをしたのではない、戦いに破れて激しい怨念を抱いたままこの世を去ったというのだ。その怨霊を鎮めるため、幽事(あの世のこと)の支配者としておだて上げ、その宮殿としてアマテラスオオミカミの子孫の住まいより大きい大神殿を建ててやった」と主張されている歴史家がいます。


「西欧の悪魔」

これに対して悪魔は、主にキリスト教やイスラム教といった一神教世界に登場する存在であり、唯一神と対立する概念です。神=善、悪魔=悪と考えるのが一番簡単なのですが(ゾロアスター教ではそうなっている)、キリスト教世界などでは、神と悪魔はしばしば混然としています。人間の態度いかんで、神が悪(=天罰)を為すこともあるからです。

欧州のキリスト教会では、悪魔は人間の心の弱さに付けこんで、心を腐らせる邪悪な存在であると教えていました。庶民は、教会に縋り正しい信仰を守ることを怠れば、弱い心が悪魔に食われてしまい、神の御許に辿り着けなくなるというのです。つまり悪魔は、個人の信仰を揺るがせる「恐怖」なのです。天災や疫病は、むしろ、人間が悪魔に負けて正しい信仰を失ったことに対する「神が下した天罰」と考えるのです

ゲーテの『ファウスト』は、悪魔を描いた傑作です。主人公の学者ファウストは、老齢になって「本当の人生の満足」を得ていないことに気づきます。悩み苦しんだ彼は、悪魔メフィストと、ある契約を結びます。悪魔が彼に「本当の人生の満足」を与えてくれるのなら、魂を悪魔に献上するというのです。様々な冒険を経て、ついに本当の幸せを知ったファウストは、心からの満足とともに地獄に落ちるのです。

ウイリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1974)は、悪魔祓いの物語です。主人公のカラス神父は、少女リーガンの体内に巣食う凶悪な悪魔を撃退するのですが、自らは命を落とします。ショッキングな悪魔描写が話題を呼び、1970年代のホラーブームを生んだ傑作です。

他にも沢山ありますが、悪魔が登場する物語は、人間の実存を巡る哲学的なテーマが多いようです。そして、ほとんどの物語がアンハッピーエンドです。悪魔は退治されず、主人公は堕落するか命を落とすのです。

このように一神教世界の悪魔は、神と表裏一体の概念となっていて、神の世界を守護するために使われます。

ヤマト民族が、お互いの生活の平穏のために怨霊を祀り「和」を望んだことと随分と異なるようです。
これは後に記述する、アングロサクソン、ゲルマン民族との性格の比較にも通じることになってきます。


次に「日本の龍神伝説」を2つ紹介します。

「大分県 震動の滝の竜神伝説」

昔々、震動滝の竜神が年老いてきて、神通力が年々衰えるのを苦にし
どうにかして若い人間を食いたいと願っていた。
ある日北方の釣り人に神通力を送った。それとは知らずいつもよりよく釣れるので釣り人はとうとう滝つぼまで引き寄せられて竜神につかまった。

竜神が「不老長寿の薬にお前の娘をどうしても食いたい。
差し出さねばお前を食うまでだ」と迫ったので釣り人は恐ろしさのあまり
娘を捧げる約束をして逃げ帰ったと。

しかしいつまで待っても娘が来ないので竜神はとうとう怒ってしまい
神通力で部落の底を抜いて水を抜き捨ててしまった。

田も畑も作物は枯れ、井戸水もなくなり部落は最大の危機に見舞われた。
そして竜神は最後の力を振り絞り、断崖をよじ登り部落に火を吹きつけ始めたと。

そこで娘の恋人の若者が一計を思いつき部落総出で白鳥神社に集まり
餅をつき不老長寿の祈願を受けて竜神に捧げた。
竜神も白鳥神社には一言もなく引き下がり、部落は難儀を救われた。
その後天災や大水の出るたびに部落では餅をつき、滝つぼに投げ入れて
竜神の機嫌をとるようになったと。

竜神が崖を這い上がった時の跡が今も残っていて、白崩れとか竜神崩れとかいって
白鳥神社の横に大きく口を開けていてのぞくと恐ろしいということじゃ。



津南町立芦ヶ崎小学校編  「竜ヶ窪に伝わるお話」より

ある年長い日照りが続き、村人はヒエやアワどころか水一滴なく苦しい生活をしていました。

ある時一人の青年が食べ物を探しに出かけると、昼寝をしている龍の側に卵があるのを見つけ、 盗み出しました。村に帰り、せめて年寄りや子供にだけでも食べさせようと卵を割ると、 中から龍の子が現れ母親に助けを求めたのです。怒りに狂った母親龍が村人を食い殺そうとすると、 村人は「子供だけは助けてほしい」と必死で頼みました。

龍はその心に打たれ、村人のために3日3晩雨を降らせ池を作ってやりました。 そして「この池はおまえたちの美しい心の象徴だ。しかし人の心の曇るとき、この池は涸れてしまうであろう」と言い残して消えました。 村人はこの池を『龍ヶ窪』と名付けて大切にし、龍神様をおまつりしたということです。

これに対してヨーロッパのそれは、

「悪の化身 西洋のドラゴン」

 序章で前述したように、龍は古代中国において四神・四霊などの一つに数え挙げられ、神獣や瑞獣とみなされてきた。また中国では、龍は天子を意味するものであり、天子に関する事柄に用いられ、さらには英雄や豪傑をたとえるものでもあり、特に優れていることを指している。

ところがヨーロッパにおいては、伝説上の怪獣・ドラゴンは中国の龍に近い形態を持つ動物であるにもかかわらず龍とは異なる立場に位置し、強い力・暗黒・暴力を象徴するものとされている。

ヨーロッパで描かれる典型的なドラゴンは、頭に角を持ち、胴は緑や黒っぽい色の鱗におおわれた蛇、あるいはトカゲのような爬虫類のもので、西洋における龍の名「ドラゴン」はギリシア語の「ドラコーン」を由来とし、「ドラコーン」とはすなわち蛇を意味している。獅子の前脚と鷲の後ろ足、サソリの尾などを持つものとして描かれており、また特徴として、コウモリのような翼を有している。

この翼を用いて天空を飛翔し、口から火と煙を吐くとされている。また太古の昔、人類登場以前に存在していた恐竜に似た姿をしてもいる。このようにドラゴンはいくつかの動物が組み合わされた形態を持っていた。

 強い力・悪を象徴する西洋の龍=ドラゴンは、神話や物語、伝説の中では神々と対立する存在として登場する。その多くが神々の敵として悪魔視されており、その姿を変えることなく人間を襲うドラゴンは、聖人・英雄に悉く退治されてしまうのである。ギリシア神話の中ではヘラクレス、ゼウス、アポロンをはじめとする多くの神々・英雄たちによるドラゴン退治の話が語られている。

特にキリスト教では、ドラゴンは秩序を乱す悪(=異教徒)として邪悪、醜悪なものと見なされていた。『新約聖書』ヨハネの黙示録には、巨大な龍または年を経た蛇が天上で天使ミカエル等と戦った末に敗れ、全人類を惑わす者、悪魔・サタンと呼ばれ、地上に投げ落とされ、地下深くに閉じこめられたと記されている。

この中に登場する龍は、火のように赤い大きな龍で、七つの頭、七つの冠に十本の角を持ち、一度に天の星の三分の一をなぎ払ってしまうような尾を有する強大な怪物であった。聖書においてのドラゴンは、何か実在の生き物を表わす言葉として使用されているのではなく、むしろ邪悪・悪魔といったイメージの象徴的な意味を表わすものとして描かれている。

その他、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧などヨーロッパ各地の至るところに神々・英雄によるドラゴン退治の物語が残っているのみならず、数多くの絵画や彫刻などにもモチーフとして用いられてきた。
メンテ
神道の話 6 ( No.178 )
日時: 2017/06/16 10:37
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:tIVq0bOg

如何でしょうか、日本の竜神伝説の優しい事が御分かりと思います。
怨霊伝説、悪魔伝説と同じように人間の恐怖心の裏返しで各種の伝説は言い伝えられています。

その恐怖とは何であったのでしょうか。

一番に考えら得ることは餓えへの恐怖、つまりは作物の不作だったと思います、狩猟や漁業の成果を祈願する面もあったと思いますが、これは古代のことである程度は安定していたでしょう。

その次には、生命の不安だったでしょう。
疫病、戦い、さらには権力者にとっては永遠の生命を求めていたかも知れません。

そう言うものの対象が水生動物としての龍(ドラゴン)へ向かったともいえます。また、荒れ狂う大河の流域の人々が大河を恐れたのかも知れません。

ヨーロッパではドラゴンは悪魔のように恐れられる存在だけであった事と、中国などでは権力の象徴としてより用いられたことなど、それぞれに民族性が感じられます。

一神教の影響が強いヨーロッパは、あくまでも善をなすものは神のみであり、全てをそれと対立して考える方向が強いようです。
ですからドラゴンはあくまでも人々に害をなす存在として恐れられ、祀られてきたと思います。

それと対極にあるのが日本で、龍をも篭絡し人々に善を成す存在に置き換えています。龍神を手厚く祀ること(自戒すること)によって豊作が得られると言うことです。

割愛しましたが、中国では、人々のそんな思い(豊作祈願)よりも、為政者の威光のために龍が用いられてきたようです。

ヨーロッパや中国などでは、これから述べることになりますが、国家や群落同士が血で血を洗う闘争が続いていました。豊作よりも戦いに勝って生き抜くことの方が重要であったとも思います。

また神と個人の対話を旨とする一神教が育っている社会では、集団としての祈願などは興味がなかったのかも知れません。


一神教の世界と多神教の世界を一部の事例で検証して見ました。
日本は良い国の形をしていると思いませんか。

この延長で出てきたのが日本の信仰、氏神信仰なのです。
繰り返しますが、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)という神の概念が解りやすくなったでしょう。

神道の神様の始原的な概念は、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)と言う2つの側面を持って捉えられています。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっています。


現在、普通に言われている神道は、鎌倉時代以降、国体を考えることと関連して根源の信仰心から離れた歪なものになっているのです。
しかしながら、日本の心のルーツを探ると言う面では大切な概念であり、また、この根源的な信仰心は現在でも民衆の中に伝わり生きているのです。

大和魂の概念とともに、我が国の精神文化の上で大切な要素となっています。
これで、神道の話は一旦終わります。

メンテ
神道の話 7 ( No.179 )
日時: 2017/06/22 22:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FdLlezlU

少し時代は飛びますが、神道に関して先走っておきます。


国家神道と言う言葉があります。
これは、このスレッドで追及している日本の心の源泉を神道(古神道)に求めながら何かのきっかけで神道を天皇の権威つけにする事に利用し、次第に信仰としての神道からはみだした結果の神道なのです。

その経緯について検証してみましょう。
国体を論じる風潮は、鎌倉時代から大きな動きになってきました。
外国の例では一つの王朝が滅びると、前の王朝の影響のあるものは、その後継者ともども徹底的に排除されるのが普通でした。
しかしながら日本においては、実質の天皇支配はすでに平安朝初期までであったのですが、その後は天皇は名目に代理人が統治をする様式が定着していきます。

平安時代は、それでも政治の中心は御所でやられたいたものが、武家政権である鎌倉時代以降は幕府を設けて幕府が統治するようになりました。
幕府は天皇から統治を委託されていると言う形を取っていました。
何故かこの形式は江戸時代が終わるまで700年も続きました。
そういえば、日本の歴史では時代の権力者(幕府を開いた者)で実質日本全土を武力によって制圧したものはなく、長く江戸幕府ですら、遠征の途中で和解をし、者に従っています。
その大義名分に天皇家の存在があったのでしょう。

その為にも天皇家側にも実際の統治者の側にも天皇家の存在を権威つける必要があったのではと思います。
その動きは鎌倉時代から活発になり、天皇家の権威つけに古事記の研究が始まったのではないかと思います。
我が国の正史とされている日本書紀とは違い、古事記には神代の時代からの伝説が書かれており、それが神武天皇から始まる天皇家の系図(皇紀2600年説)を造るようになったのでしょう。

それでも室町時代までは、単純に天皇家の権威つけで終わっていましたが、江戸時代にはいり様相が変わってきます。
江戸雄時代には賀茂真淵や本居宣長が出て、日本人のこころのルーツの様なものに関心を持ちました。
当時は仏教や儒教などいろいろな教えが広まっていて、彼らは日本的なものを検証しようとしたのでしょう。
両名とも、相当な博学で、四書五経など中国の古典、儒教、仏教、それにキリスト教の教えすら精通していたようです。
賀茂真淵は荷田春満を師とし、『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿であるとしていました。

一方、宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。
同時に、本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。
最初の国学と言われるものは、こうして始まったのですが、平田篤胤の登場によって様相が変わってきます。

平田篤胤は、本居宣長の死後に登場し、実際には本居宣長に師事した訳ではないのに宣長の弟子と称していました。
平田篤胤も宣長と同じように博学であり当時の最大の思想家であったのですが、篤胤と宣長の違うところは、宣長が日本的な心は飽くまでも氏神信仰(古神道)の域をでなものであったのに対して、篤胤のそれは、同じ様な日本の心を天皇家を権威つけするための神道に関連付けたことです。

後で詳しく説明しますが、具体的に簡単に言いますと、
日本的なこころ、素朴な信仰心は最終的には神様の体系の大元、大国主命(伊勢神宮)につながり、各地のことはその土地の国魂神、一宮の神や産土神・氏神が司るとした。

子の思想が、国家神道を生む基になった。
平田篤胤の怪しからん摩り替えであったが、その影響は幕末から明治時代の社会へ大きな影響を及ぼす事になった。

それでは平田篤胤の思想を、もう少し詳しく説明してみましょう。

篤胤は、他の学者のように他界を現世と切り離して考えたりはしなかった。黄泉の国の存在は認めたが、死者の国ではないとした。篤胤は、現実の習俗などから類推して、死者の魂は、死者の世界に行くが、その異界は現世のあらゆる場所に遍在しているとした。そして、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まるものだと考えた。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界にいて、現世のことをみており、祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした。
これは近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる。逆に言えば、民俗学は、国学の影響を強く受けているということでもある。

現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。

(大国主命の主宰神説)

篤胤によれば幽界は、大国主命が司る世界だという。大国主命は死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課すとしているが、死者が受けるその懲罰について、篤胤は詳細を述べていない。これは、篤胤の関心があくまで、この世における人生の不合理性の解決・救済にあり、為政者が望むような倫理的な規範の遵守を説くものではなかったことを示している。
この大国主命の幽冥界主宰神説は、篤胤以降復古神道の基本的な教義となり、近代以降の神道および政教関係を大きく方向付けることとなった1881年(明治14年)の祭神論争の出雲派の敗北で、公的には否定されるが、現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。

(引用終わり)

この前半の部分は良いとしても、それを大国主命の主宰神説に結びつけたのが大きな間違いであったのである。
宗教(信仰心)と政治は別物でなければならない。
神道をアラーに神を信じるような一神教にする事など、もっとも日本の精神に反している。
平田篤胤は、そこまで理解してなかったとしても、水戸学以降の存在が歪な思想を生んでしまった。

>アラーの神のためなら命まで捧げる
>天皇のために死んで来い

同じことでしょう。
日本の古神道(氏神信仰)は、決してそのようなものではなかったはず。

平田篤胤は悪い!
メンテ
神道の話 8(おまけ)  日本会議とも ( No.180 )
日時: 2017/06/22 23:24
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:FdLlezlU

現在日本には8万社の神社があると言いました。
そうして、明治政府は平田篤胤が唱えたように大国主命を祀る伊勢神宮を頂点とする神道系の宗教団体として、約8万社ある日本の神社のうち主要なものなど7万9千社以上を統合した。
それを管理する為の神社庁なる役所もどきの宗教法人を作り、全国の神社を管理している。
私の地区の神社も、その傘下で、京都府神社庁に届けを出しており、神社総代は地元の氏子が選んだ者を任命すると言う形を取っている。
そんな事を知らずに私は神社総代に選出され、大変ではあるが地元に為には力を尽くす積りであったが、就任早々神社庁に総代変更の届けを出せと言う。
これは何だ!と思いながらも総代を続けるうちに解ったことが、伊勢神宮系列に入っているために毎年、伊勢神宮の御札を購入するよう割り当ての数と共に請求された。
ヤクザ組織の上納金である。
ここまでは歴代総代もやってきた事としたがって来た。
しかしながら、神社庁の割り振りで、当地周囲の各神社が集まり支部を作っているそうで、その支部の総会に出なければならないらしい。
その支部の総会にでて、私は切れてしまった。
その総会の初めに、80人ほど集まった私と同じような総代に、伊勢神宮の方を向いて礼拝しろと言う。
これもイスラム教と同じ仕草。
もちろん、私はそんな事に応じるはずはない。
さらに、そのあとに、君が代を斉唱しろという。
完全に切れた私は、任期中のその後の5回の総会はすべてボイコットした。
何が悲しくて天皇の為に我が身を犠牲にして神社を守らねばならないか。

ですが実際の神社の管理は、そんなものとは違います。
初詣の世話に始まり、村祭り、厄年祈願祭、節分祭、村祈祷など、地域の人が喜んでくれる行事の世話なのです。
これが氏神信仰で当地の神社も1300年の昔から、これを続けているのです。
ここに本当の日本の心が宿っているのです。
国家神道など、クソ喰らえなのです。
そんな事を言っていたら、誰も協力はしてくれません。

ところで、ここに出てきた神社庁、その総本山えお神社本庁と言います。
どれくらいの金をせしめているかと言えば、79000×上納金(当地の様な小さな神社でも20万円)=160億円。
おそらく500〜800億円はあるでしょう。
話は飛びますが、次に「日本会議」の事に触れましょう。
日本会議は、1997年に設立された、日本の民間団体である。2016年現在、会員は約38000名、全国都道府県に本部があり、また241の市町村支部がある。会長は、田久保忠衛(2016年7月現在)。
日本会議国会議員懇談会と日本会議地方議員連盟は、日本会議の関連団体。

設立の経緯
1997年5月30日に日本を守る会と日本を守る国民会議を統合して設立された。
日本を守る会は1974年4月に、円覚寺貫主・朝比奈宗源が神道・仏教系の新宗教に呼びかけて結成、政治課題に対して様々な保守的な政治運動を行っていた。
日本を守る国民会議は1981年10月に設立。 最高裁判所長官を務めた石田和外らの呼びかけによって財界人・学者中心で、元号法制定を目的に1978年7月に結成された「元号法制化実現国民会議」をもとに、これを改組してつくられた。

要するに宗教団体の影響が強い団体で、統一教会、成長の家などの影響もありますが、何と言っても神社本庁の影響か、国家神道としての神道の影響が強くあります。

全体的に保守系の思想が強い団体ですが、奴等に本当に日本を憂う哲学(思想)などないことは明白であり、だから手っ取り早い国家神道に拠ったのです。
「日本会議」などと仰々しい名前を付けていますが歴史も40年間余りと浅く、内容は街宣右翼と変わらない軽薄なものです。
ただね、宗教票が欲しいクソ議員と、利権絡みで集まりたい輩が中心に集まる集団です。
ところが御本尊、神社庁はもともと(明治以来)日本各地に支部を置く全国組織のお上、資金はふんだんにある。
その世話だと思うが「日本会議」全国に支部をもち、その支部毎に同じ様によからぬ事を企む輩があるまり数の上では大組織となっている。

「日本会議」をつぶすなら神社本庁をつぶせば良いのだが、この神社本庁と言う奴は、平気で日本中の神社から上納金を平気であつめるヤクザ。なかなかつぶれない。
私の地域の神社の例で言ったように、全国79000の神社は神社庁に何の恩恵も受けてない。
神社庁などなくても変わらず、なくした方は日本の文化の為にも良い。
繰り返すが「日本会議」とは、そんなごろつきが牛耳っている組織である。
そういう事を間違いなく、しっかりと認識されることである。
そういう認識が広まれば「日本会議」など屁、みたいなものである。
メンテ
神道と天皇家 1 ( No.181 )
日時: 2017/06/24 13:34
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:saPMkyLI

ところで神道国家などを目指す思想が何処から来たのか検証してみる事にしましょう。
これは、大和魂の前提となる和の心の発祥と定着の時期と関係あるので、少し後戻りしますが書いてみます。


日本書記
http://nihonsinwa.com/column/novel/22.html
以下は日本書記の目次です。古事記も同じような項目で編纂されているので比較されれば面白いでしょう。

日本書紀神代上
日本書紀神代下
神武天皇(日本書紀)
綏靖天皇〜開化天皇(日本書紀)
崇神天皇(日本書紀)
垂仁天皇(日本書紀)
景行天皇(日本書紀)
成務天皇(日本書紀)
仲哀天皇(日本書紀)
神功皇后(日本書紀)
応神天皇(日本書紀)
仁徳天皇(日本書紀)
履中天皇・反正天皇(日本書紀)
允恭天皇(日本書紀)
安康天皇(日本書紀)
雄略天皇(日本書紀)
清寧天皇(日本書紀)
顕宗天皇(日本書紀)
仁賢天皇(日本書紀)
武烈天皇(日本書紀)
継体天皇(日本書紀)
安閑天皇・宣化天皇(日本書紀)
欽明天皇(日本書紀)
敏達天皇(日本書紀)
用明天皇(日本書紀)
崇峻天皇(日本書紀)
推古天皇(日本書紀)
舒明天皇(日本書紀)
皇極天皇(日本書紀)
孝徳天皇(日本書紀)
斉明天皇(日本書紀)
天智天皇(日本書紀)
天武天皇(日本書紀28)
天武天皇(日本書紀29)
持統天皇(日本書紀30巻)

ここで日本書紀神代上の内容を少し紹介します。
我が国の創生神話です。
その名前は知っていても、余り日本書記、古事記を読まれることがないので興味があるかと思います。

「日本書紀神代上」
(第一段本文 世界のはじまり)
昔、まだ天と地が分かれておらず
陰と陽が分かれておらず
混沌としていて鶏の卵のようでした。

そこにほんのちょっと兆しがありました。
その澄んで明るいものは
薄く広がって天となりました。
重く濁ったものは地となりました。

天となるものは動きやすく
地となるものは固まりにくかったのです。
なので天が先に生まれ、
次に地が固まりました。
その後、その中に神が生まれました。

世界が生まれたとき
国は漂っていました。
それは魚が水に浮かんでいるようでした。

天地の中に一つのものが生まれました。
アシの芽に似ていました。
国常立尊(クニノトコタチノミコト)です。

(とても尊いものを「尊(ミコト)」と書きます。そのほかは「命(ミコト)」と書きます)

次に国狹槌尊(クニノサツチノミコト)、次に豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト=トヨクモノミコト)が生まれました。

これらの三柱は対となる配偶者の居ない男神でした。

(第一段一書(一)天地が分かれて、その虚空に)
天地が分かれて、その虚空に何かがありました。その形を表現することは難しいようなものでした。

その中に神が現れました。

国常立尊(クニノトコタチ)です。
別名を国底立尊(クニノソコタチ)と言います。

次に国狭槌尊(クニノサツチ)。
別名を国狭立尊(クニノサタチ)です。

次に豊国主尊(トヨクニヌシ)です。
別名を豊組野尊(トヨクムノ)です。
またの別名を豊香節野尊(トヨカフシノ)です。
またの別名を浮経野豊買尊(ウカフノノトヨカヒ)です。
またの別名を豊国野尊(トヨクニノ)です。
またの別名を葉木国野尊(ハコクニノ)です。
またの別名を見野尊(ミノ)です。

(第一段一書(二)葦の芽が生えるように)
昔、国も地も出来上がっていないときは、例えるならば水に浮かぶ油のように漂っていました。

その時、その国の中から、葦の芽が生えるように、一つの物が生まれました。そうして生まれた神を可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)と言いました。

次に生まれたのが国常立尊(クニノトコタチノミコト)。
次が国狹槌尊(クニノサツチノミコト)。
葉木国(ハコクニ)を「播舉矩爾(ハコクニ)」といい、
可美(ウマシ)を「于麻時(ウマジ)」という。

(第一段一書(三)初めに「神人」が居ました)
天地が混沌としていたとき、初めに「神人」が居ました。名前は可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)です。
次に国底立尊(クニノソコタチ)です。
彦舅(ヒコヂ)を比古尼(ヒコジ)と言います。

(第一段一書(四)高天原に生まれた神)
天地が初めに別れて、神が生まれた。
それが国常立尊(クニノトコタチノミコト)。
次に国狹槌尊(クニノサツチノミコト)。

また、高天原に生まれた神が天御中主尊(アメノミナカヌシ)です。次に高皇産靈尊(タカミムスビ)。次に神皇産靈尊(カミムスビ)です。
皇産靈(ミムスビ)は美武須毗(ミムスビ)といいます

(第一段一書(五)海の上で根づくところが無いでいる浮雲)
天と地がまだ区別がつかないときのこと。それは例えるならば、海の上で根づくところが無いでいる浮雲のようだった。

そこにひとつの物が生まれた。

葦の芽が初めて泥の中から生えて来たようだった。やがて人の形となった。

それが国常立尊(クニノトコタチノミコト)です。

(第一段一書(六)空中に葦の芽と脂)
天地が分かれて何か物がありました。

葦の芽が空中に生え、これが神となりました。
これが天常立尊(アメノトコタチノミコト)です。
次に可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂノミコト)が生まれました。

また物がありました。
脂が空中に生まれ、それが神となりました。
それが国常立尊(クニノトコタチノミコト)です


次に現れた神は泥土煮尊(ウヒジニ)です。
別名を埿土根尊(ウヒジネ)と言います。

次に現れた神は沙土煑尊(スヒジニ)です。
別名を沙土根尊(スヒジネ)と言います。

次に現れた神は大戸之道尊(オオトノジ)です。
一説によると大戸之邊(オオトノベ)とも言われます。

次に現れた神は大苫邊尊(オオトマベ)です。
この二柱の神は別名を大戸摩彦尊(オオトマヒコ)と大戸摩姫尊(オオトマヒメ)と言います。また別名を大富道尊(オオトミヂ)と大富邊尊(オオトミベ)と言います。


次に現れた神は面足尊(オモタル)・惶根尊(カシコネ)といいます。
別名を吾屋惶根尊(アヤカシコネ)、忌橿城尊(イミカシキ)、青橿城根尊(アオカシキネ)、吾屋橿城尊(アヤカシキネ)と言います。

(第二段本文・第三段本文 神代七代)
次に現れたのが伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)です。

これらの八柱の神は天の道と地の道が交わって生まれました。それで男女となっています。国常立尊(クニノトコタチノミコト)から伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)までを神代七代と呼びます。

きりがないので、人格神→おなじみの神代七代が登場した所で省略します。
この後、神武天皇編の冒頭に以下の文章があります。


(追申)

日本の創世神話がインドのそれと非常に似通っていることに驚かされます。

リグ・ヴェーダ    インド哲学の祖

そのとき、無もなく、有もなかった、
空界もなく、その上の天もなかった。
世界を庇護したのはだれか、それを包んだのはだれか。
あの底知れぬ深遠はどこにあったのか、あの海はどこに。

そのとき、死もなく、不死もなく、
夜と昼とがさだかでなかった。
かの唯一者は、息なく呼吸し、
そのほかには何ものも存在しなかった。

全世界は暗黒におおわれ、
光なく、夜の中に消える大洋であった。
そのとき、おおいの中に隠れていたもの、
かの(唯一者)が灼熱の力によって生まれた。

これから出て、はじめに現れたのが、
知の種子なる意欲であった。
有の根底を無のなかに見いだしたのは、
心の動きにしたがい、探し求めた聖賢たちであった。

彼らが測素を横にずっと張ったとき、
何がその下にあって、何がその上にあったのか。
種子をもつものが存在し、活動する力が存在した。
自存力が下に、あふれそうな力が上に。

だが、だれがうまく尋ね当てたのか。
創造がどこから生じたかを、だれか認めたものがいたのか。
神々も、この創造よりのちに生まれ出た。
では、創造がどこから生じたかを、だれが宣言するのか。

創造を生み出したもの、
彼はいと高き天の光でそれを総覧し、
彼はそれをつくりなし、あるいはつくりなさず。
彼はそれを知り、あるいはまたそれを知らないか。
メンテ
神道と天皇家 2 ( No.182 )
日時: 2017/06/23 20:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:q4dP6evM

神武天皇が生まれる→生年月日は不承。
15歳:太子と成る。
●以下の年齢は1月1日に1歳増えるとした場合。
45歳:東を目指すことを宣言し、出発。
45歳の10月:筑紫国の菟狹へ到着。
45歳の11月:筑紫国の岡水門に到着。
45歳の12月:安芸国の埃宮に滞在。
46歳の3月:吉備国の高嶋宮に入る。
49歳の2月:浪速国へ。
49歳の3月:河内国の草香邑の青雲の白肩之津へ。
49歳の4月:長髄彥との最初の戦い。
49歳の5月:茅淳の山城の水門に到着。五瀬命が死亡。
49歳の6月:稻飯命と三毛入野命が軍から離脱。軍が神の毒により病むが、高倉下の助けによって回復する。ヤタガラスによる道案内。
49歳の8月:兄猾と弟猾との争い。来目歌。
49歳の9月:八十梟帥(ヤソタケル)との戦いと誓約。
49歳の10月:八十梟帥(ヤソタケル)を撃破。宴会をして他の敵も殺害。
49歳の11月:兄磯城(エシキ)と弟磯城(オトシキ)との戦い。
49歳の12月:長髄彦との再戦。長髄彦を殺害。
50歳の2月:土蜘蛛を破り、土地を磐余と改名する。
50歳の3月:都を開く。
51歳の9月:媛蹈韛五十鈴媛命を皇后に迎える。
52歳の1月:帝位につき、神武天皇となる。
53歳の2月:東征の論功行賞を行う。
82歳の4月:国褒め。
93歳の1月:神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)を皇太子に。
127歳の3月:崩御。

この間に、天照大御神の天岩戸伝説、大国主命、国譲り伝説、やわたのおろち伝説など多くの伝説が継承されています。

さて天皇家の家系図の筆頭、神武天皇の実態に迫って見ましょう。
ものの本に依れば神武天皇は紀元前660年に即位したことになっていますが、これは皇紀2600年から逆算した明治政府が書いたものでしょう。
また資料で確認できる天皇は15代、応神天皇からで即位は270年となっています。

270年と言えば大和朝廷が成立した時代に当たります。
大和朝廷成立と言っても現在まで確たる実証はされていません。
が、1〜3世紀の日本の状況は中国の史書にも出てきます。その一つ卑弥呼の記述は信頼できるものと思います。
邪馬台国は240年〜249年頃に卑弥呼がなくなり、その後男性が王に即位したものの政治が乱れたため、壱与という女性が王になったところ、争いが鎮まったと言われています。しかし、その後の邪馬台国がどうなったかは定かではありません。そして3世紀頃になると、奈良には大和朝廷の象徴もされる大規模な古墳が出現します。592年には飛鳥時代がはじまる一方で、600年以降はこうした古墳は見られなくなります。
ウィキペディアによると、

(ヤマト「王権」の成立時期)

ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしても、ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる。
3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。

大化改新の時代までは天皇と言えども絶えず豪族の謀略により入れ替わっていたようです。
本当に中央主権を握ったのは天智天皇くらいからわずかの間ではなかったのではないかと思います。

天皇家の始めは、3世紀であったはずです。
それを日本書紀が書かれた時点で初代、神武天皇から14代仲哀天皇までを作り上げた。
日本書紀には、その架空に天皇の存在した年表はつけていなかったが、明治政府が強引につけてか、平田篤胤がそのような時代を想定していたかである。

ですが、いじれにしても我が国の弥生時代の状況を創世記の根底においていることになる。
日本書記でも古事記でも、そこに出てくる創世神話はあまりにも空想的であるが、それは他の国のそれとは大差のあることではない。
それよりも、創世神話が想定した時代検証としては弥生時代の我が国の実情に即しているように思われる。

弥生時代に入り稲作が発展し、ムラが出来、そのうちに国という形ができ、人々の生活も民話、伝説で語られているような暮らしぶりであったと思われる。
数々の創世神話にも、それが汲み取られるのではないかと思われる。

メンテ
創世神話の世界 ( No.183 )
日時: 2017/06/23 20:56
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:q4dP6evM

蛇足の様ではあるが、天照大御神と大和タケルの関係について検証しておきましょう。
天照大御神と大和朝廷を作ったとされる大和タケル=神武天皇は同一人物となっても不思議ではない記述がある。


天照大御神→天忍穂耳尊→瓊瓊杵尊→彦火火出見尊→盧茲草葺不合尊→神武天皇

(天照大御神)

神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。
『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。
神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。
神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。
神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。
神武天皇76年、127歳で崩御

※ 天照大御神は東征し我が国を統一したとされている。


歴史の検証はこれくらいにして創世神話を少し紹介しましょう。


天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)は、太陽神である地上の最高神・天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩屋に隠れて岩戸を閉じ、地上が暗闇の世界に成ってしまった事に始まる伝説である。

そもそもの天岩戸伝説に拠ると、陸地を支配する「天照大神」が岩戸に籠もった原因は、海を支配する弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)の度重なる悪行に拠る」とされている。

この事は、我が国・日本列島に於いて、農耕民族系・加羅族(天孫族・山の民))と海洋民族系(呉族・海の民))の覇権争いを伝えているのである。

平穏な世界に災いをもたらす弟神、「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)」は、何を暗示しているのか?

この須佐之男(スサノオ)の命(みこと)の「度重なる悪行」がこの物語のヒントで、異民族同士の支配地争いであれば大陸山間の稲作系民族と海洋民族の図式が成り立ち、実に判り易い。

つまり、大陸山間の稲作系民族の太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)と海洋民族・須佐之男(スサノオ)の命が、「日本列島の覇権を争そっていた」と解釈できるのである。

それにしても、部族同士の戦を何時までも続ける訳には行かない。

そこで考え出されたのが、誓約(うけい)に拠る部族の統合である。

異部族・異民族も、誓約(うけい)の性交の後生まれるのは両者混血の子供達で、この誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、シャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

天の岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、天宇受売命(あめのうずめのみこと)の胸も女陰も露わなストリップダンスの賑わいにつられて岩戸を少し開け、外を覗き見た所を天手力雄命(あめのたぢからおのみこと/手力王の尊)が岩戸を引き開けて天照大神を連れ出し、天照大神のまわりに「しりくめ縄を引き巡らした」と言う神話が伝えられている。

この「尻久米(しりくめ)縄」の略したものが「しめ縄」である。

尻久米(しりくめ)縄の久米(くめ)は「出す」を意味している事から、直訳すると「尻を出す縄」と言う事に成る。

神聖な伝承に於いて、天照大神が「しりくめ縄を引き巡らされる」・・・この意味するものはいったい何だろうか?

解釈に拠っては天手力雄命は天照大神を岩戸から引きずり出して尻を出す形で縛り上げ「須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に供した」と受け取れるのである。

こんな解釈をすれば嘘で固めた良識派の「尻久米(しりくめ)縄を巡らしたのは岩戸の入り口の方だ」と反発はあるだろうが、この「天の岩戸伝説」を解するに「異民族同士の誓約(うけい)儀式の顛末伝承」と考えれば「尻久米(しりくめ)縄」に神代誓約(じんだいうけい)儀式の「リアルな意味が込められている」とも解釈できる。

つまり「尻久米(しりくめ)縄」に掛けられた天照大神(あまてらすおおみかみ)が、須佐之男(スサノオ)の命(みこと)に供されて異民族同士の誓約(うけい)儀式が成立し、「異民族の和合が成立した」と言う生々しい話かも知れないのである。

この岩戸隠れの時、三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)の一つ八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)に於いて、岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すツール(道具)として使われたとされる。

我が国の「祭り(祀り/奉り)」の意味合いでは、政治を「マツリゴト」と表現し「お祭りをする」は性交の隠語でもある事の解釈であるが、これこそ天岩戸伝説を始めとする誓約(うけい)に拠る異民族統合を経験したこの国の成り立ち意味しているからである。

つまり最大の政(祭り)事(政治行動)が誓約(うけい)の性交に拠る異民族和平だったからこそ、祭事(祀り/奉り)=政治(マツリゴト)=性交(せいこう)と言う言葉への解釈に、同じ意味合いを持たせる共通認識が過去に存在したのではないだろうか?

そして神社境内は「氏神(氏上)の神域」に成り、その神域の結界を示すものが、「しめ縄(しりくめ縄)」である。





追伸です。

(紀元前660年とする根拠)

『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」(読み下し文:辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)と記述がある。海外の文献と突合せると、『宋史』日本国伝(『宋史』491卷 列傳第250 外國7日本國[14])では「彥瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、即位は周の僖王(紀元前681年 - 紀元前677年)の時代の甲寅が即位元年とする。一方、三善清行は革命勘文において神武天皇即位を辛酉の年とし、これは僖王3年に当たると述べている。[15]

記紀をはじめとする歴史的資料(乃至、現代の視点からは神話)中にある、年の記述は以上のような大陸伝来の十干十二支の組合せによる表現だけで、1000年といった長期(記紀の成立から神武天皇即位まではそのくらい遡る)についての具体的な表現はない[16]。しかし、数十年以内の間隔であると考えられる記述を次々と拾ってゆけば、神武天皇即位の年まで遡って同定できる。これを最初に行ったのは渋川春海による日本初の長暦『日本長暦』(1677年(延宝5年))で、同書は日本において暦が施行された以降の全ての暦のみならず、神武天皇即位紀元まで遡り暦法を推し量って暦を掲載した。これは渋川春海の思想にもとづいたものであった。思想的には、後に「やまとごころ」を唱え中国伝来の影響のある思想を「からごころ」として退けた本居宣長は『真暦考』(1782年(天明2年))で、古来の日本にそのような日時の意識は無かったはずと批判している。[17]

ともあれ『日本長暦』に大きな修正を加える理由も無く、以後「辛酉年」は紀元前660年に相当する年に同定することが定着し、王政復古後の政治・思想状況の中で前述のように規定されることとなった(近年の長暦である『日本暦日原典』の記事も参照のこと)。

以上のような、紀元前660年を神武天皇即位紀元とした記紀の記述の神話学的な分析として古いものとしては、1870年代初期に歴史学者の那珂通世が、『日本書紀』はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた[18]。これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)ということに因む。

※ 以上の根拠に基づき明治政府が、これに飛びつき正式に制定した。
メンテ
創世神話の世界 2 ( No.184 )
日時: 2017/06/23 21:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:q4dP6evM

(出雲の国 国譲り神話)

天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先だち、高天原(たかまがはら)から国土の支配権委譲を求める使者が派遣され、大国主命(おおくにぬしのみこと)がこれを承認し、出雲(いずも)の多芸志(たぎし)の小浜に祀(まつ)られる(出雲大社)話である。『古事記』によれば、第一の使者、天穂日神(あめのほひのかみ)は大国主命に媚(こ)びて命(めい)を伝えず、第二の使者、天若日子(あめのわかひこ)も命を伝えず、問責使(もんせきし)の雉(きじ)を射たために神意によって矢に当たって死ぬ。最後の使者、建御雷神(たけみかづちのかみ)に対し、大国主命の子、事代主神(ことしろぬしのかみ)は委譲すべきと答え、建御名方神(たけみなかたのかみ)は力くらべを挑むが敗れて諏訪(すわ)湖に逃げ降伏し、かくして国譲りが決定する。

 各異伝を参照してみると、第一の使者、天穂日神は出雲臣(おみ)の祖神であり、「出雲国造神賀詞(くにのみやつこのかむよごと)」では大国主命を鎮め祀る重要な記事があり、本来、出雲臣が出雲大社の祭祀(さいし)権を掌握した伝承の主人公であった。第二の天若日子もその伝承の内容の検討から、本来は聖器の弓矢を持って降臨し、地上で再生する神であったと考えられる。第三の使者も、『古事記』では物部(もののべ)氏の剣神、経津主神(ふつぬしのかみ)を全部抹消し、他の異伝では経津主神を主とし、またこの神だけを報告者とするので、物部氏の平定戦を反映した経津主神の伝承の利用から建御雷神への改変のあったことがわかる。この改変の裏には、建御雷神を守護神とした藤原氏の関与が考えられる。事代主神は出雲の言代(ことしろ)(託宣)を反映するとしても、著名な大和(やまと)の葛城(かつらぎ)の神であり、建御名方神は諏訪湖の新しい神である。この2柱の神が、大国主神の祭祀と武力の両面を代表して国譲りを語っていることは、国譲り神話が出雲の服属神話ではなく、国津神(くにつかみ)の天津神(あまつかみ)への随順を語った神話、葦原中国(あしはらのなかつくに)奉献の神話であるととらえるべきであろう。



(八俣(やまた)の大蛇(おろち)伝説)

 記紀では、スサノオが乱暴狼藉を働いたために高天原を追放され、出雲に天降るところから物語が始まります。出雲の斐伊川のほとりに天降ったスサノオは、川を箸が流れてきたのを見て、櫛名田比売(くしなだひめ・奇稲田姫)を知り、彼女を助けるために八俣の大蛇を退治します。稲田姫を櫛に変えて自分の髪にさし、八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。オロチの腹はいつも血がにじんで爛(ただ)れていたというのですが、殺されたときには大量の血が噴き出し、斐伊川は真っ赤な血となって流れたということです。そのときオロチの体から取り出されたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。


この説話のなかに、すでに箸と櫛という百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の三輪山伝説のモチーフが登場しているのが面白いですね。魏志倭人伝によると、当時の倭国ではまだ箸を使わず、人々は手で食べていたということです。箸は文化的で珍しい一種の文化的シンボルで、神話の物語のなかにも、それらが象徴的に使われているようです。
 また、稲田姫という名がしめすように、出雲では稲作が早くから行われていたことも暗示しています。
 オロチの体からすばらしい剣が発見された話は、斐伊川の上流一帯が古くから砂鉄の産地として知られ、この地域で鉄剣が造られていたことを示唆するといわれています。オロチの腹がいつも赤く爛れており、その血によって斐伊川が真っ赤に染まって流れたというのも、鉄分を多く含んだ赤い水が流れていたことを思わせるというのです。

 考古学的には、まだ出雲から弥生時代にさかのぼる鉄の鍛造所は発見されていませんが、早くから鉄の生産が行われていた可能性はあると思います。
 でも、興味深いのは、巨大なオロチをスサノオが斬り殺しているというストーリーそのものです。蛇は呪術のシンボルです。八俣の大蛇はその代表ともいえる呪術の権化です。それを殺したスサノオは、偉大な呪術王として新たにこの国に君臨することを認められた存在ということができるでしょう。
 出雲族の始祖スサノオは、まず葦原中つ国(日本)にやってきて、呪術をコントロールできる存在として自分をアピールしたわけです。

スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、稲田姫と幸福な結婚生活を送りますが、やがて根の国(冥界)にくだってしまう。その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシです。
 オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされていますが、最初はオオナムチ(大己貴神)という名をもっています。
 このオオナムチという名は、本来、「オホナムチ」であったといわれ、「オホ」は大、「ナ」は土地、「ムチ」は貴人、すなわち「大きな土地の貴人」だといわれています。表記の上では、「大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)」、「大穴持神(おおなもちのかみ)」と記されることもあります。

 オオナムチ(オオクニヌシ)には、ほかにもじつに多くの名前があって、ざっとあげてみると、「葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」などがあります。神話のなかで物語が展開するたびに、呼び名が変わっていくのです。
 また、『出雲国風土記』によると、オオナムチは広く国造りを行ったので、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」とも呼ばれています。また『日本書紀』によると、「大物主神(おおものぬしのかみ)とも、国作大己貴命(くにつくりおおあなむちのみこと)ともいう」とあります。

 さて、英雄オオクニヌシは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けています。赤い猪に似せた真っ赤に焼けた大きな岩が、山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられたり、切った大木の間に挟まれて打たれたりする。実際、そこで2度ともオオクニヌシは死んでしまうのですが、母神の力によって再生しています。また、根の国にスサノオを訪ねていくと、そこでも蛇やムカデのいる部屋に入れられるなど、さんざんな目に遇っています。野原で火に取り囲まれたりもします。
 しかし、スサノオのもとを脱出するとき、スサノウの宝である太刀、大弓、琴を盗みだし、「大国主神」という名前を授かります。この名は国土を開き、国造りをする許可を得たことを意味しています。そして、少名彦神(すくなひこなのかみ)とともに国造りを始めるわけです。

 オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。
 葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。
 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。
 出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。
 オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。
 また、『日本書紀』の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

(因幡のしろウサギ伝説)

大穴牟遲神(おおなむぢのかみ=大国主神のこと)には兄弟(八十神)がいた。八十神は大穴牟遲神を嫌っていた。八十神は、稲羽の八上比賣(やがみひめ)に求婚したいと思い、稲羽(いなば)に出掛けた時、大穴牟遲神に袋を持たせ、従者のように引き連れた。
「気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて、痛みに苦しんで泣いていると、最後に現れた大穴牟遲神が「なぜ泣いているの」と聞いた。

菟は「私は隠岐の島からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、ワニザメ(和邇)を欺いて、『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と誘いました。すると、欺かれてワニザメは列をなし、私はその上を踏んで数えるふりをしながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は『お前たちは欺されたのさ』と言いました。すると最後のワニザメは、たちまち私を捕えてすっかり毛を剥いでしまいました。それを泣き憂いていたところ、先に行った八十神たちが『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、この身はたちまち傷ついてしまったのです」といった。そこで、大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である。

その兎は「八十神は八上比賣を絶対に得ることはできません」と大穴牟遲神に言った。そのとおり、八上比賣は八十神に「あなたたちの言うことは聞かない」とはねつけ、大穴牟遲神に「袋を背負われるあなた様が、私を自分のものにしてください」と言ったため、今では兎神とされる。


後の大和朝廷の有力氏族(臣王家)に、和邇(わに)・葛城(かつらぎ)・大伴(おおとも)・物部(もののべ)・蘇我(そが)、安部(あべ)・秦(はた)・中臣(なかとみ・後の藤原)と言った名が連なっている。

大和朝廷成立の頃は、和邇(わに)氏が最有力の氏族で、もしかすると神武朝以前に最大の王国を築いていた可能性さえある。

この和邇氏を指す様な伝説がある。

ワニ(クロコダイル)は生息地ではない為に本来日本に馴染まず、ワニが伝説に成る事が不思議だが有名な伝承が存在する。

遺されている民話伝承の類には、後の世に伝えたい真実がそっと隠されている事が多い。

葦原中国時代の出雲伝説には、ワニ(和邇)を「ずる賢く」騙した白兎(しろうさぎ・宇佐岐)が、ワニに逆襲され、大怪我をした事から、「大国主の命が、白兎を助ける物語」を描くものがある。

和邇(わに)氏とのこの一致は、氏族間の争いを描いた「独特な歴史の表現」なのか、それとも何らかの「政治的狙い」が有ったのか?

この伝承、日本でワニでは不自然なのでサメに姿を変えて現在に伝わっている。

和邇臣王は「奴国王の後裔」と言われているが、本宗家の和邇(珥)臣王家は、五百七年継体大王(けいたいおおきみ・第二十六代天皇)・(継体新朝)の頃までに絶えている。

神武朝の成立は、この因幡(いなば)の白兎(宇佐岐)伝説と関わりが在りそうだ。

或いは継体新朝には組さない旧体制の臣(豪族)王だったのか?

この因幡(いなば)の白兎伝説のうさぎ・・「宇佐岐(うさぎ)」と言う名の「百済系弱小氏族」に行き当たる。

宇佐島の神の名も「宇佐岐(うさぎ)」であり、前述した宇佐神宮と出雲神社の礼拝様式の共通性は、ここら辺りに有るかも知れない。

宇佐神宮が、限りなく神社の最高位に近い神社である事の意味に、関わりが在りそうで有る。

この日本史上有名な人物である「大国主の命」は、実は単数の人名でなく「職名(地位名)だ」とする歴史家の意見も存在する。

大国主の命(おおくにぬしのみこと)は言うまでもなく有力豪族(御門・臣王・国主/くにぬし)達を束ねる大王(おおきみ・後の天皇)の事である。

つまり、日本列島の倭の国々の多くの国主(くにぬし・地方の王)を束ねる者の名称が大国主の命(おおくにぬしのみこと=大王/おおきみ)と言う事に成る。

乱立していた小国家の国主(くにぬし/王)の統一の象徴的な存在として大国主(おおくにぬし/大王・おおきみ)の尊称が生まれ、武力ではなく精神世界で結束する為に、天と地下の間「中津国(中つ国)」に、日本列島は成ったのである。

大国主(おおくにぬし)が、王の中の王を意味し、葦原中国(出雲の国)統一大王を呼ぶ名であれば、地上界を中国(なかくに)または中津国(なかつくに)とするのも頷ける。

大国主が、倭の国々の統一途中の大王(おおきみ)だったのではないだろうか?

そうなると、大国主は何人居ても不思議ではない。

宇佐岐(ウサギ)氏が、実は大国主に出世し、宇佐神宮を造営する事もあるだろうし、須佐族の王が大国主を名乗っても良い事になる。

(引用終わり)

読んでいても、こんがらがるばかりです。

大体は、大和朝廷成立の過程で激しい戦いがあり残虐行為もあったはずです。
その様なものを人情はなし、否、神情話と言うべきか、最終勝ち抜く者が美化している言い訳ですが。そういう言い訳をするところに我が国にの民族性が見られるのです。

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