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[814] 大和魂(日本の心のルーツを探る)
日時: 2018/05/23 11:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:XPKXw99A

「大和魂」と言う言葉を使うと嫌悪感に満ちてこれを否定する人たちが多い。
まるで街宣右翼と同類に扱われる。

しかしながら先の大戦において、国を守る為に散って行った200万近い兵士の事は、どのように思われるのか。

全てが全てでないとしても「大和魂」を信じて突進し倒れた兵士の事は考えられないのか。
その「大和魂」が軍部によって利用されていたとしても当事者の兵士の責任ではない。

ここで「大和魂」をミソクソに言う事は彼らの死を馬鹿にする事になる。
調子者が騙されて死んだと言えますか。

彼等の為にも「大和魂」は正当に評価することが大事と思います。
彼等は、まさしく彼等なりの「大和魂」を持って、国を守る為に死んで行ったのです。


(プロローグ)

人類が霊長類と分類されて他の動物よりも繁栄してきたのは、その頭脳的能力が発達、進化してきたからであります。
始原における人類は、その頭脳的能力で道具を使うことを覚え、そのうちに火を自在に使えるようになりました。

これは生きる(食べる)事において画期的な進化でありました。
一方で人々は集団で生活して行くことの重要性に目覚め次第に大きな集落を形成し分業をするようになってきた。
集団で生活し始めると、自分達の生活を脅かす自然の力に対する畏怖の心も結集することになり自然崇拝、呪術などが起きることになりました。
このころになると、集団には統治の機能が求められ次第に原始国家に近い概念が生まれてきました。

人間の頭脳的能力が生きるための対自然から、統治という人間自身の問題まで対象にし始めたと言うことです。
集団の英知(頭脳的能力の総体)を集めることに成功した人類は、農業、漁業、工業の分野を確立し安定した社会を構成することが出来ました。
このころになると、宗教と言うものが次第に鮮明な形を帯びてきて、人々の精神的ケアをするとともに、宗教を通じて集団の結束を図るようになってきました。
同時に統治者は独裁の傾向が強くなり王国を形成するようになります。
自然を相手に生産活動に殉じてきた人間でしたが、集団の力が強化されるとともに、他の集団を略奪することにより、成果がもたらされることに気がつき以来、血で血を洗う抗争が続いてきました。

さて、3000年も4000年も遡りますが、一応は自然を相手の格闘に一段落した人間は、その精神的な余裕の分だけ、その頭脳的能力を内面に向けるようになりました。
それが宗教であり、哲学の世界です。

文字として残る最古の哲学は、2000年くらい前のギリシャ哲学でありますが、その内容は主に統治の問題に絡んで話されています。
最初の哲学が、ようやく手に入れた人間社会の安定のために、人間は如何にあるべきかが最大テーマであったという事でしょう。
中国における儒教というものもこの範疇に入ると思います。

時を同じくして、キリスト教、イスラム教、仏教が興っています。現在まで続いているこれの宗教は、哲学とは別の方向から人間の内面性を説こうとしたものであり、それまでの宗教が民族単位に近かったものから人類共通の普遍性を主張しているのが特徴です。
西欧の歴史は、一時、キリスト教の精神で色濃く塗られていましたが、キリスト教的教義への反動として、500年くらい前にルネッサンス(文芸復興)と言う考え方が広まりました。
直接はキリスト教支配の前の人間精神への回帰ですが、実際は新たな人間性の認識へ移りました。
其処では、人間自身を自然とも切り離し、神とも切り離して如何に生きられるかについての思索がなされました。

それは300年後に資本主義、民主主義という鮮明な形で認識されるに至っています。
その途中、西欧哲学はスピノザに始まりホッブス、デカルト、カントへ至る人間自身の認識論(観念論)からヘーゲルの純粋論理的認識論(弁証法)へ進むなど、自然の理を超越しようとした試みが中心でありました。
それを人類の進化、発展と見れば、そのまま肯定もできるでしょう。
確かに、論理的に西欧哲学的思考で割り切ることにより、現代社会の繁栄があるのです。
さて、現代社会において我々が直面している困難は、深いところで人間性の問題につながっています。

資本主義、民主主義のシステムは、物資と情報、享楽と言う意味で人類に飛躍的な果実をもたらしました。
自然とともに生きなければならないと言う束縛から人類を解放したと言えます。
そうして、現代社会が直面している困難と言うのは、その昔、人類が経験していた自然の恐怖とは質が異なる困難であります。
ここに現代の困難は文明史的な次元の課題であると思います。
ここ4000年の間に営まれてきた宗教、哲学の概念の延長上で、どのように捉えられるか、更なる進化と言う観点から捉えるのか、人間性というものを自然との関わりで見直すことが正解であるのかが問われています。
これに対して、直線的に斯くあるべしと言うよりも、この観点から日本の歴史を振り返ってみたいと思います。

具体的には、弟3期西欧文明(資本主義・民主主義)が今日ある状況以外に人類は選択の余地がなかったのか、その過程において切り捨ててしまったものの中に人類が必要としていたものはなかったのかについて検証することから始めようと思います。
タイトルの「大和魂」とは、西欧文明以前の日本の精神文化を総称したものであります。
途方もなく長ったらしい話になりますが、ボチボチと御付き合い願いますよう御願いします。
説明のために掲げています長文は適当に読み飛ばしていただければ幸甚に思います。


(追申です 2017年6月24日)

このスレッドも、旧掲示板で書き始めてから言いますと10年近くたっています。
「大和魂」という標題のため、読んでくださる方は、常に「大和魂」の概念を探ろうとされているようです。
しかしながら、このタイトルは、このスレッド全体を通して感受されるべきものとして書いていますので、「大和魂」とは何かという設問には答えが見いだせなく戸惑いながら、結局は何が言いたいのか解らずしまいの様でしょう。
タイトルのつけ方が適正ではなかったかもしれません。
そこで、この時点(No188のレス)で私自身、ようやくたどり着いた「大和魂」の概念について次の様に説明して置きたいと思います。

<大和魂とは>

西欧民主主義が入ってくる前
江戸時代の朱子学に毒されるまえ
特に武士道などは、もってのほか。

それを取ったとき、
日本人はどのような生き方をしていたか。
それを探りたいのであり、言葉では、簡単には現せなく体感してほしいと思っております。

また「魂」という言葉を使っていますのは、物事に挑戦する意欲を表現しています。
これも具体的には言えませんが、山田長政の話やら、あまり良いことはしてないようですが倭寇など海外へ積極的に進出する、その気概。
日本人にも、そんな積極性があったことを頼もしく感じています。
そして、それは日本独自の文化、芸術を生み育てる力にもなっています。

その様なものを一括して「大和魂」と言っています。
そうして、そういうものを、この文章から感じ取っていただけることが出来たら幸いと思って書いています。
ですが、将来の日本人に「大和魂」だけを押し付けるつもりで言っているのではありません。
日本人には「大和魂」があることを忘れず、社会を生きてほしいと願うのです。

※ 体感してほしいと言っていますように、この文章の各所に伝説、神話、他の国の事情などを説明している箇所が随分とあります。退屈かもしれませんが、それを読まれることによって、それが書かれた時代、場所の様子を感じ取っていただきたいのです。
特に前半の部分は、日本民族と他国の民族性の違いを感じ取るために、長ったらしく資料を集めました。

(目  次)
No 0      プロローグ・目次
(前 章)
NO 1〜7    「大和」とは
(民話・伝説)
No 8〜16    日本の神話・伝説
NO 17〜20  中国の神話・伝説
NO 21〜37    世界のドラゴン伝説
No 38〜42    中国の民話
NO 43〜47    世界の七夕伝説
NO 48〜50    中国の民話・伝説
NO 51〜67    インドの民話・伝説
No 67〜93    イスラムの民話・伝説
No 94〜124   アングロサクソンの民話・伝説
(日本の歴史検証)
No 125〜137   「和」の検証 
No 138〜151   神代の時代から古墳時代
N0        飛鳥・奈良時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
No        平安時代(一時、サーバのトラブルがあり、この部分が消えています)
※ 後日復旧する予定。
No 152〜169   鎌倉時代
NO 170〜     室町時代
NO        江戸時代(未稿)
No        明治時代(未稿)
No        現代(未稿)
NO        「大和魂」とは(未稿)
No        エピローグ(未稿)

※ 世界の民話・伝説に紙面を割いているのは、日本人と他民族の気質の違いを探るためです。
メンテ

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大和魂 2 ( No.165 )
日時: 2016/05/25 13:54
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:TfgbMkNk

次へ進む前に、一般的に言われている「大和魂」論の一部を紹介します。

http://www11.plala.or.jp/yamamotokenta/column.files/shinto.files/62.html

「大和魂」というと、神風特攻隊の精神に結び付けられてしまいがちですが、 元々の大和魂は平安時代の「もののあわれ」を歌った四季を愛する女心で あったようです。

四季折々の大自然を受けとめ、明るく、清清しく自然と調和している生き方 を示し、寛容で大いなる和(調和)の精神が「大和魂」だったのです。

心穏やかな和の心で相手を上下関係で見ることなく、お互いに和するにはどう すればいいかを感じ合い、そして支え合って生きていくための学びあう精神で もあったようです。

そして、漢学に代表される外来の知識人的な才芸に対して、日本古来から伝わる 伝統、生活の中の活きた知恵、教養のすばらしさを強調したものでもありました。


平安以後、「大和魂」は死語となった言葉でしたが、本居宣長によって、自然で 清浄な精神性(生き様が美しいとされる心性)という思想から国粋主義に用いら れていったようです。

古来より日本人は桜を愛でており、満開になるやいなやさっと散る桜花は、 絶好の<潔さ>の象徴であり、日本人はこの<潔さ>を美徳としていました。

このいさぎよく散る桜を尊ぶ精神は、武士道にもあったのですが、その精神が 明治以降の皇国日本への愛国心、忠誠心を第一とすることに受け継がれ、その 心を「大和魂」として解釈されるようになっていったのではないかと思います。

吉田松陰の
「かくすれば かくなるものと知りながら 已むにやまれぬ 大和魂」
の心意気は、
「自分に危険が及ぶことは分かっていてもどうしてもそうせざるを得なかった」
という義勇心からくるものですが、それだけの志と覚悟があったからこそ、松陰 の大和魂は、心ある志士たちに受け継がれ、永遠のものとなったのでしょう。

このように命をかけて何かを成し遂げる気迫は、その誠意が天に通じるものです。

リスクマネージメントはもちろん重要ですが、危険を犯そうとも志を貫く気迫も 時には必要であって、周りから何と言われようが、やると決めたらやる!という ある意味、阿呆になってこそ、志が成就していくと思うのです。


http://yamato81.hatenablog.jp/entry/2015/03/15/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%AD%82%E3%81%A8%E3%81%AF

大和魂の語の初出は、源氏物語とされていおります。大和魂の語・概念は、漢才という語・概念と対のものとして生まれたとされ、和魂漢才と言うこともあったのです。それは漢才、すなわち中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて政治や生活の場面で発揮することなのです。源氏物語が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代でございますが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって、日本風に味付けしているのだ、という認識が存在していたと考えられます。そのうち、大和魂は、机上の知識を現実の様々な場面で応用する判断力・能力を表すようになり、主として「実務能力」の意味で用いられるとともに、「情緒を理解する心」という意味でも用いられました。

大和魂の語は、日本の独自性を主張するための政治的な用語として使われ、そうした中で、遣唐使廃止を建言した菅原道真が、大和魂の語の創始者に仮託されていったのです。 このような傾向は、儒学の深化と水戸学・国学などの発展やそれによる尊皇論の興隆に伴うものであり、近代化への原動力ともなったのです。明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一気に流入するようになると、岡倉天心らによって、それらを日本流に摂取すべきという主張が現れ、大和魂とともに和魂洋才という語が用いられるようになった。この語は、和魂漢才のもじりであり、大和魂の本来的な意味を含んでいたが、一方では西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていたのです。日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになりました。戦後はGHQの占領政策により、国粋主義的な思想や、軍国主義に使われた大和魂という語の使用が忌避されるようになり、広く使われることが避けられていったのです。しかし今後の本来の日本を取り戻すことを目指す場合、必ず国体と民族のアイデンティティとして復活させることが必要になると考えます。

http://www.tatsu.ne.jp/yamato/kokoro.html

日本の心、それは大和 

私たち日本人は戦後、自分たちの心を見失ってしまいました。
それが今日のさまざまな、本当にさまざまな、個人から社会レベルに至るまでの問題を生んできました。

それでは一体、私たち日本人の心とは何だったのでしょうか。
和洋折衷、和式、和風といわれるように、「和」は日本そのものを指していう言葉です。
しかし、それと同時に「和」は日本の心を表していたのです。
つまり和の精神です。
平和の和、調和の和。「和を以て貴しとなす」の和。

しかし、多くの人はここで一つの誤解をしています。
和とはまるで自分の個性を抑えて、控えめにすることで、全体を丸く収めて、互いに関わり合うことだと考えていることです。しかし、これは消極的な和であって、和の本義ではありません。

大きく和すること。
つまり「大和」(やまと)。
これこそが和の神髄なのです。

大きく和するとは、一人一人がまず自らの個性を最大限に発揮して、自立することです。
つまり一人一人が大きな存在となること、その上でそうした者達が互いに和すること、それが大和です。
決して自分の個性を抑えて、歯車のように自らの存在を小さく押し殺すものではありません。

しかし、自らを最大限に発揮するということは、同時に自己主張をして、我を張ることにも通じます。

そして世界の民族紛争、宗教戦争などは、この互いの我の張り合いによるものです。

それではどうすれば、大きく和することが出来るのかといえば、それが「愛」の力なのです。

しかし、それぞれに違った個性の者同士が和するためには、生半可な愛では到底叶いません。
強い愛、つまり強い精神力に裏打ちされた愛が必要です。

つまり、大和とは、強い精神力に裏打ちされた愛によって、大きく和するという、
極めて積極的で前向きな力強い精神のことなのです。
それが日本人の本来の心、「大和魂」の真意です。

そして大和とは大自然そのもの、宇宙そのもののことです。
なぜなら「あの栄光栄華を極めたソロモンでさえ、この野に咲く一輪の花ほどにも着飾っていなかった」という、イエス・キリストの言葉にもあるように、この自然界のすべての存在は、自らの個性を最大限にアピールしているにも関わらず、見事に調和しているからです。
そしてこのことが成されるために、この宇宙は目に見えない、強く大きな愛の力で貫かれているのです。

だから、私たちの先祖たちはこの自然や宇宙から、大和の精神を学ぼうとしてきたのです。
それが、神ながらの道、即ち、神道です。そして、これが日本の心そのものであり、大和魂なのです。

そして、数学のゼロを発見したのがインド人ではあっても、それがインド人のためだけの発見ではなかったように、またイエスの尊い教えがクリスチャンたちのためだけではなく、全人類にとっての尊い教えであるように、日本が生んだこの大和の精神は一つの民族や宗教のためだけのものではなく、これからの時代の指針として、世界に指し示すべき普遍性を持った思想なのです。

しかし、それを私たち日本人自身が失ったがために、その精神性は戦後五十年のうちに見る影もなく、転がり墜ちるように崩れていってしまったのです。

日本の心、それは大和。

もう一度そのことを思い出さなければいけない時期に、私たちは来ているのではないでしょうか。


(引用終わり)

如何でしょうか。「大和魂」とは、単純に蛮勇を示すことではないことは解ると思います。
その解釈も人によってそれぞれであることも解るでしょう。

私が言いたい「大和魂」とは、これらの方とも少し変わります。
私は「和」の精神は「大和こころ」。
これは民族の生まれながらの性質の様に考えています。
「大和魂」は、物事を実践する時の気概、性質と言うものに対して「性格」と思います。
「性格」とは、人間が生きていくに従い身に付けるものです。
「和」の心に従い、実社会を導く原動力を大和魂と考えたいと思っています。
しかしながら、そのような大層な概念を一般庶民に求めるのは理想的過ぎます。
ですので、庶民の中から出てくる先見者に「大和魂」を期待します。
庶民の中の先見者と言っても、それは英雄を指すのではありません。
あらゆる分野で、必要な進化、変化を感受し、その方向を示してくれる人たちの事を言います。
そのような人たちが多く出て、社会は変わっていくと思います。
鎌倉時代に、それを見ています。
「大和魂」とは、そのように思います。
日本人は鎌倉時代の生き様を理解することです。
もちろん、現代社会に置いても、分野によっては果敢に挑戦を続けている人がいます。
ですが我々の身近な問題について、我々は何かを忘れてはいないでしょうか。
なかなか具体的に示し難い概念ですが、とりあえずは大雑把な概念として見ていただけば幸いです。


それでは次に移ります。
メンテ
大和を詠んだ和歌解析 ( No.166 )
日時: 2016/07/26 15:59
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:y9DXcgvI

柿本人麻呂
■敷島の 大和の国は 言霊の 幸はふ国ぞ 真幸くありこそ
本居宣長
■敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花

吉田松陰
■かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
■身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめおかまし大和魂

明治天皇の御歌
■あさなあさ なみおやの神に いのるかな わが国民を まもりたまへと
■開くべき 道はひらきて かみつ代の 國の姿を 忘れざらなむ
■よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

作者不明
■末の世の 末の末まで 我が國は よろずの國に すぐれたる國
■なにごとの おわしますのは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる
■国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ
■わがくには 神のすゑなり 神まつる 昔のてぶり わするなよゆめ

大西瀧治郎中将
■くにのため いのち捧げし ますらおの いさを忘るな 時うつれども

緒方 襄命(桜花 特別攻撃隊)
■死するとも なほ死するとも 我が魂よ 永久にとどまり 御国まもらせ

弓野 弦命(海軍水兵長)
■身はたとへ 千尋の海に 散り果つも 九段の社に さくぞ嬉しき

神楽歌
■心だに 誠の道に 叶いなば 祈らずとても 神は護らん

上は「大和」ないし「大和魂」を想定して読まれた歌です。
最初の柿本人麻呂以降、その訴えるところが変わってきています。

ついでに紹介しておきますと、

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
     三笠の山に 出(い)でし月かも

これは留学生として唐へ渡ったが、望郷の思いも虚しく異国で没した阿倍仲麻呂の歌です。

「大和」とは、そう言う心の故郷であり、平穏な社会を示す概念である。

そのようなものを冒頭の和歌の様に、勝手に恣意的に使うものではない。
右翼、皇国思想の生みの親。本居宣長の歌を検証してみよう。

>敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花

直接の意味は、大和心を単に美しい自然と捉えたものであるが、
「大和魂」に繋がる「大和心」を、そのように捉えるのは欺瞞も良いところ。

美し自然を強調するだけで、社会は維持できないのである。
「大和魂」とは、鑑賞するだけの無味無臭の存在ではないのである。

それを、このように押し付けることにより、将来、皇国の為に無条件で魂を捧げる事が美しいことであると言う観念に結びつけているのである。

その結果が、後に続く、読むも汚らわし和歌となって現れている。
本居宣長以来「大和魂」はこのように解釈される様になってきた。

本居宣長は、日本民族を誤った方向に導いた、元凶である。
故に現代日本人が行くべき道を見失っているとも言える。

「大和魂」とは何であろう。

否!

何であるべきであろう。


メンテ
大和魂<形而上学的解説を試みる ( No.167 )
日時: 2016/08/02 15:15
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:lkRUz7H.

>「大和魂」とは何であろう。

最近、一つの概念を知らされることになった。
別スレッドの寄稿者「倭人の叫び」氏のハンドルネームである。

その方向で議論に及んだが、当人は私が期待した対応はされなかった。
しかしながら、彼が訴えておられることは、まさに、私が思うところの、こころの問題である。

観点が視点が違うだけで、なんに対して義憤を感じておられるかは、私と変わりはないのである。
まさに、その言葉、

「倭人の叫び」は私が求める「大和魂」に近いもの。
同じような言葉に
アメリカの「開拓者魂」
イギリスの「ジョンブル魂」
ドイツの「ゲルマン魂」があるが

それが熱狂的に作用した場合は、碌なことは起きてはいないのも事実である。
日本でも「大和魂」と言う言葉が国民の間に彷彿した時代、それは権力者側による、恣意的で歪な概念にすり替えられていたが、大きな不幸をもたらせた。

しかしながら、同時に民族が持っている底力は、そうした共通の思いもなければ発揮されることもない。
特に現代社会は、民主主義の影響で、猫も杓子も自分の権利の主張に走り、天国のような自由社会が実現できると勘違いしている。

人間の我欲は神様さえも制御できないものであり、キリスト教の想定は、もともと人間は天国に住んでいたのであるが、自分勝手な行動で天国から追い出されたとなっている。

逆に言えば、人間から見れば、天国こそ地獄であり、我欲を持った人間社会こそ理想の世界であるとも言える。
だから、人間の我欲は否定しないが、全てを放任していては弱肉強食の世界となり、理想社会を作ることも出来ない。
そのために統治機構があり政治がある。

行き過ぎた民主主義と資本主義のシステムは、まさにこれに関することであり、徐々に弱肉強食のルールなき世界へ逆戻りしようとしているのである。

限りなき自由、平等を求める心、限りなく富裕を求める心を自らコントロールする精神を身につけなけらばならない。
それは単純な倫理道徳では決してない。

人間の向上心も保たねけらばならない。
向上心をなくした人間は、それはそれで、別の意味で地獄の社会へ向かうことになり。
人間社会に必要な概念とは何か!


言葉では、簡単な概念ではあるが、これが難しい。

(芥川竜之介の蜘蛛の糸、あらすじ)

釈迦はある日の朝、極楽[9]を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(&#29325;陀多)という男を見つけた。カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだ。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。

暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れるだろう。カンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。下りろ。」と喚いた。すると蜘蛛の糸がカンダタの所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちてしまった。

無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

(紹介終わり)


芥川龍之介が、私が言いたいような概念を想定していたかは、とても解らない。
だが、人間社会に必要な精神の片隅には、蜘蛛の糸の様な心情がなければならないのではなかろうか。

それが民族毎に言われる、「開拓者魂」であり「ジョンブル魂」「ゲルマン魂」そうして「大和魂」ではなかろうか。
それが正常に機能している状態こそ、その社会の発展であり、平和で安定した社会と言える。

芥川竜之介は、一個人について語っているが、それを人類と読み替えれば如何なものであろう。
そうして、蜘蛛の糸とは決して天国へ行くためのものではなく、人間社会を維持するための方策と考えれば良いのではないかと考える。

それほど人間社会の有り様は難しい。
私の言っていることも難しい。

だが、それが完全でなくとも、そうした方向も視野に入れておかねばならない。
日本人は本当の「大和魂」に少しは心を寄せるべきなのである。
そう言う概念を、持つべきなのである。

今回は、形而上学に走り、ちょっと理解していただけないかな。
メンテ
Re: 大和魂(日本の心のルーツを探る) ( No.168 )
日時: 2016/12/25 21:23
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:KNWgpDp2

UP
メンテ
鎌倉時代 ( No.169 )
日時: 2017/06/05 12:20
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:nC3pfdaU

ひさしぶりにUPします。
鎌倉時代の総括として、対外関係を見てみましょう。


遣隋使

遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(&#20416;國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)〜618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。

607年(推古15年)は、小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと『日本書紀』にある。
その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。

遣唐使

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では619年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。現在では中国側において派遣された遣唐使の墓が発見されたりしている。

この時代は、日本から中国王朝に朝貢(ちょうこう)する関係であったが、日本からも中国文化を学ぶために勇躍し中国へ渡った人がいた。

遣隋使、遣唐使の時代(600〜894年)に日本から中国へ渡った日本人。
小野妹子   役人
高向玄理   役人
旻      僧
南淵請安   学者
阿曇比羅夫  軍人
犬上御田鋤  役人
道昭     僧
道慈     僧
山上憶良   役人
安倍仲麻呂  歌人・役人
吉備真備   学者
玄ム     僧
最澄     僧
空海     僧
円仁    僧

などがいます。


御朱印船

朱印船(しゅいんせん)は、16世紀末から17世紀初頭にかけて日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て、海外交易を行った船を言う。朱印状を携帯する日本船は、当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。
遣唐使の時代から遅れること、600年であるが、このころになると国家間の交易ではなく民間人の活躍が中心となってきて、次のように活動範囲も東南アジアにまで拡大されている。

(朱印船の渡航先)
安南 当時のベトナムの正統な王朝・黎朝を擁立していたハノイの鄭氏政権である。東京(トンキン)ともいう。
交趾 当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権(広南国)のこと。その主な交易港はホイアン(會安)及びダナンであった。
占城 ベトナム人勢力によって、現在のベトナム南部の一隅に押し込められていたチャンパ王国である。
暹羅 タイのアユタヤ王朝である。アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍する。アユタヤからも交易船が長崎に来た。
柬埔寨 メコン河流域のウドンを首府とするカンボジア王国である。
太泥 マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国である。当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港であった。
呂宋 スペインの植民地ルソン島である。首府マニラが新大陸とのガレオン貿易の要港で、中国船の来航も多かった。
高砂 当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾である。台湾も中国商船との出会いの場であった。

山田 長政(やまだ ながまさ、天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。

遣唐使がなくなり御朱印船が登場するまでの600年の間に、実は倭寇が活躍した時代がある。
倭寇とは、
南北朝時代や戦国時代には九州・瀬戸内海方面の武士や海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわり、倭寇と恐れられた。
倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。

鎌倉時代、蒙古相手に戦った、元寇の役(1274〜1281年)があり、そのころから倭寇の進出も高まった。
今から見れば海賊であり他国への侵略であるが、日本人が海外へ雄飛したしい姿でもある。
この様に鎌倉時代と言うのは、宗教、文芸の面で庶民が飛躍した時代であったが、海外進出と言う発想も目覚めた時代であった。
日本人の日本人としての意識の高まりが生じた時代と言えよう。

この様に、飛鳥時代、平安時代を通して日本人は決しておとなしい、内向的な民族ではなかったのです。
この性格は戦国時代まで続きますが、江戸時代に儒教が広まり(幕府が推奨した)、礼節を尊ぶ一方で武士道によって忠義心が求められ、すっかり内向きなおとなしい民族に代わって行きました。
今後は、このようなことを中心に見てみたいと思います。

メンテ
室町時代 ( No.170 )
日時: 2017/06/12 16:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kxWIWdiE

さあ鎌倉時代を抜けて室町時代へ入りましょう。

室町時代と言うのは鎌倉時代の終わりに足利尊氏が建てた政権です。
その経緯は、蒙古による元寇の役いらい、御家人に対して鎌倉幕府の財政的支援がなかったことで御家人に不満が出ていたその時期に、幕府自体の権力争いで政治が乱れていて、武家政権から政権奪取を望んでいた後醍醐天皇などのクーデター計画もあり幕府の権力は不安定になっていた。
楠正成などの反幕府、親天皇制を企んだ動きなど、種々の反幕府行動があった。
足利尊氏はそれに乗じて決起したもの。
始めは後醍醐天皇を名目上で支持し、決起して倒幕に成功するも、その後は後醍醐天皇を排斥するなど武家の本性をあらわし、その後の歴史において自分の利益の為に天皇制をないがしろにした極悪人と非難される結果となっている。
また鎌倉時代の末期には、徳政令が出されているが、それは御家人などの救済の為であり大衆にとっては、それによって経済の根幹、通貨の信用を害し迷惑な話であり政権内部の不安定と共に民衆の生活も不安定になっていた。

こうして成立した武家政権も、京都に都を定めた結果、そのうちに風雅を好む貴族化してしまった。
足利義満などが花の御所の造営をし、金閣、銀閣などを作っていたころが最盛期で、やがて足利幕府の全国支配のタガが緩み、各地の守護大名などが自立を企むようになる。
足利幕府が成立したのは1336年であるが、1400年代の後半には幕府により全国統治は有名無実となり下克上の戦国時代となり関ヶ原の戦いの1600年まで続く事になる。

それでも室町時代の意義は十分にある。
第一に下克上にあるように、身分の違いが一掃され、誰でもが政権争いだけではなく、どの分野でも頂上が狙える時代となった。
その室町時代の特徴をウィキペディによって概略を見てみましょう。

農業

鎌倉時代から農業生産力が向上する。西日本から関東地方に波及した二毛作の技術や牛馬耕、水車などを利用した灌漑施設の整備や肥料の発達などは生産力を向上させ、さらに農業技術の進歩で集約的・多角的な農業を行い、自立農民の成長を促して郷村制の成立をもたらす。なお、稲に関しては室町時代に今日のベトナムから占城米(当時は中国からの流入であったため「大唐米」等と呼ばれていた)が伝来した点が特筆される。この品種はそれ以前のものより虫害や旱害に強く、結果的に収穫量が多くなった。

室町時代後期になると荘園領主や戦国大名が広域を支配することにより、中世を上回る政治権力と経済力による広範囲の灌漑工事や治水事業などが行われ、新開地の増大や低湿地帯の安定化などにより、生産力が飛躍的に向上したことも大きい。

また、この時期から手工業原料となる胡麻や桑、楮なども栽培される。それまでは輸入に頼るのみであった木綿の栽培も16世紀頃から三河地方において栽培されはじめる。この木綿の生産は帆布としての用途があり、海運事業の面でも多くの利益があった。このほか、枇杷・梨・柿・瓜などの果実類の流通が発展したため、産地名を冠して呼ばれるようになったのも室町時代からである。

手工業

農民の自立が進むと、それまで宮廷に属していた工人も解放されて自立し、手工業が一般的に行われ市場が成立する。日用品や農具、織物や紙など。今日各地方の特産物と呼ばれるものは室町時代が起源であるものも多く、京都の西陣では明から輸入した生糸を利用して高級織物である西陣織がつくられた。

そのほか、日明貿易の関係上、堺、山口、博多などの港湾都市近辺で高級織物が生産されるようになったほか、社寺の建立が地方にも拡大したため、製紙業が大きく発展した事と、製陶業が応仁の乱前後から地方にも広まった点が室町時代の特徴である。

また室町時代前期には大寺社の改修や建立により、後期には戦国大名の城郭・軍船などの建設の関係上、鎌倉時代よりも林業が発達、流通も行われた。天文初年の本願寺修築に土佐国にもとめているほか、天文年間の京の材木座には美濃や飛騨の材木が取り扱われている。

商業

農業生産力の向上や手工業の独立は市場を成立させ、都市や交通の要地とされる場所では市場が発達した。鎌倉時代の三斎市から月に6回定期的に開かれる六斎市など定期市や、都市部での見世棚をもった常設の店舗に、特定商品のみの卸売市場、卸売業を営む問屋も発生する。行商人は連雀商人と呼ばれた。平安時代あたりから公家や寺社を本所として販売の独占権や関税の免除などの特権を得る座と呼ばれる閉鎖的な商業独占体制は、成長する戦国大名によって自営営業を許す楽市楽座によって廃止の方向へ向かう。

経済

永楽通宝
標準貨幣は永楽通宝であったが、室町幕府は貨幣を鋳造せずに日明貿易で明銭を輸入して流通させていた。東日本に貨幣経済が浸透しつつあり通貨需要が増大したことで流通貨幣が不足した。勝山記によると1514年・1515年・1516年・1519年・1525年・1529年に銭飢渇という状態に陥ったと記録されている。(要因として10代将軍足利義稙派と11代将軍足利義澄派による政情不安と大永3年(1523年)の寧波の乱による私貿易拒否や密貿易取締強化が考えられる。)代替通貨として私鋳銭など鐚銭が大量に流通したが、受取拒否により商取引決済に支障をきたすようになると有力守護大名や幕府は度々撰銭令で規定割合の悪銭の受取拒否を規制した。東日本では永楽銭が好んで流通されたが西日本では明銭は劣化して鐚銭となることから鐚銭同様に嫌われた。特に商人の間では数百年間の流通実績がある宋銭が最も信用され、宋銭を蓄えつつ支払いに明銭や鐚銭を利用して押し付けあうグレシャムの法則が見られた。

都市

市場の成立や交通の整備は都市の発展を促す。農業生産量の向上が余剰生産物が商品として市場に出回り、それに伴い農村にも商品経済と貨幣経済が浸透していくのが室町前期から中期の傾向である。また、この時代には伊勢詣や西国33ヵ所など寺社参りが流行し、人々の往来が活発になるにつれ宿(しゅく)を中心とした宿場町と言うべき都市が街道沿いに発生し始めた。これら交通の発展はそれに従事する交通業者の発達を促し、宿場町は徐々に大きくなっていく。さらに応仁の乱の戦火などは各種都市の発達をもたらした。

その後、守護大名は城下町を整備。同時に支城を地域支配の拠点とし、本拠地と支城を結ぶ街道を整備することにより、街道沿いの宿場も保護され拡大していくことになる。これらの宿場には通行税である関銭を徴収する一面もあったが、領国内の必要物資の中継・流通拠点ともなり、それに伴う人口の増加は分国経済の一部となったのである。同時に、鎌倉時代にはあいまいな部分もあった都市と農村が区分され、封建社会における身分制の発生の端緒となった。

堺(大阪府堺市)や博多(福岡県福岡市)などでは会合衆を中心に自治的な都市運営を行っており、応仁の乱以後は武装して防衛をしており自治的性格を持っていた。中世の代表的自治都市である堺は宣教師も「東洋のベニス」と評価する文書を残しており、織田信長に屈服するまで自治を行う。同じく自治的性格を持っていたのは、一向宗の寺院を中心に形成された寺内町である。代表的寺内町には摂津国石山(大阪府)や越前国吉崎(福井県)、富田林(大阪府富田林市)などがある。同じく信長による一向一揆平定で解体する。

鉱山事業

室町時代、特に戦国時代に入るにつれ、鉱山開発が日本中で積極的に行われた。特に金山・銀山の開発が戦国大名により積極的に行われたほか、史料上初見となる天文二年(1533年)に博多の商人神谷寿禎が石見銀山で行った灰吹法による生産量の向上が特筆される。この灰吹法は、銀山でも有効であったが、それまでは砂金から取るのが普通であった金鉱山の開発にも大きく貢献した。

交通

貨幣経済の浸透や庶民の成長による地方都市の発達、遠隔地の商品流通や年貢輸送のために街道が整備され、地方文化の交流も活発になる。陸上交通では馬借、車借などの陸上輸送業者、海上交通では廻船を用いて輸送や委託販売を行う中継業者の問丸が活躍する。これには鎌倉時代末期頃から行われていた貨幣経済が地方にも浸透して行ったことが大きい。港や街道の要所には幕府や寺社、地方領主らにより関所が設置され、関銭や津料を徴収していた。京都七関など。

対外関係[編集]

倭寇と西洋人来航[編集]

室町時代には倭寇(わこう)と呼ばれる無国籍海上勢力が活動し、14世紀の倭寇は前期倭寇、15世紀の倭寇は後期倭寇と呼ばれる。倭寇は朝鮮半島や中国沿岸部、東南アジアにわたる東アジア地域で活動し、海賊行為や密貿易などを行った。さらに世界史的には大航海時代を迎えており、ポルトガルやイスパニアなどのヨーロッパ人も東アジアで活動を広めていた。

日明関係

勘合貿易で倭寇と区別 博多、堺、坊津(鹿児島県南さつま市坊津町)から出航し、寧波で勘合符を照査させる。 足利義持が一時停止するが、足利義教が再開。細川氏と大内氏が実権を巡り衝突(寧波の乱)して、以後大内氏が貿易の実権を握った。

日朝関係

朝鮮王朝との国交と貿易。足利義満は倭寇を取り締まり朝鮮との交易。
朝鮮通信使 - 足利義満からの使者と国書に対する返礼で1375年に足利義満に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ごろまで続いた。
応永の外寇 - 1419年(応永26年)におきた朝鮮による対馬襲撃
三浦の乱 - 三浦(乃而浦(鎮海市)、富山浦(釜山市)、塩浦)に定住する日本人が反乱。

「日朝関係史」を参照

琉球

1429年に中山王尚氏が三山を統一して琉球王国を建国すると、明朝の冊封を受けた。国家の経済を貿易に頼る琉球王国は明のほか、朝鮮、マラッカ王国やパタニ王国、安南やアユタヤー王朝などの東南アジアにも及ぶ広範囲で独自の中継貿易を行っていた。1414年には将軍足利義持が琉球王の献上物に対する返礼の書状を贈っており、室町時代には琉球が「日本」として認識されていた。

北方世界

鎌倉時代末期には蝦夷の反乱が鎌倉幕府を揺るがし、幕府滅亡後には蝦夷管領・安東氏が十三湊を本拠地に栄えるが、やがて南部氏の興隆により北州(蝦夷地、北海道)に逃れる。北州においては和人(大和民族)の居住勢力が広まり、土着のアイヌ民族との衝突が起こる。1457年にアイヌの酋長であるコシャマイン率いる部族が蜂起して、蠣崎氏や武田信広らと戦う。

メンテ
室町時代 2 ( No.171 )
日時: 2017/06/12 16:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:kxWIWdiE

文化・芸術

北山文化・東山文化

室町時代は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化・東山文化と呼ばれることがある。南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。応仁の乱での京都の荒廃を機に地方伝播し、惣村や都市の発達により成長していた庶民にも文化が浸透していった。

室町時代後期、戦国時代になると城郭建築が発展する。初期のものは戦争のための軍事施設としての用途が主目的であったが、領国が広がるにつれ豪壮華麗になっていく。鎌倉時代には寺社のみで使用されていた瓦が城郭に使われるようになり、やがて町屋にも広がることとなった。同時に茶の湯・能楽・書院造など今日、文化の原型と考えられているものがこの時代に確立された。

建築・庭園

建築では、義満が北山に建造した鹿苑寺金閣は寝殿造と禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。義政の建てた慈照寺銀閣は禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、楼閣建築もこの時代の特徴と言える。また慈照寺内の東求堂同仁斎は四畳半の座敷で、初期書院造といわれ、今日の和風建築の原型になっている。このほか、商工業の発展に伴い、洛中洛外図屏風などには庶民の邸宅にも2階建ての家屋が描かれるなど、富裕層の増加を見ることができる。

連歌・茶の湯

上句と下句を連ねていく和歌である連歌は鎌倉時代から発達し、室町時代に最盛を迎える。宗祇や二条良基、宗長や心敬らの連歌師が出現し、大名や公家僧侶が寺社に集まり連歌会が催された。連歌は貴族から一般民衆の間にまで広まった。茶の湯は、南北朝時代に行われていた闘茶や茶寄合が、東山時代に村田珠光により侘び茶が開始され、戦国時代に千利休が完成させる。この茶道の流行は同時に陶磁器の発展を促した。美濃焼や楽焼など、中世六古窯とは別の、新たな窯業を発生させた。

絵画・彫刻

絵画では足利将軍家の部下である同朋衆から能阿弥、真阿弥らによる山水画や、東山時代に画僧である明兆・如拙・周文らを経て雪舟が水墨画を完成させる。これには文化の担い手に宮廷や公家だけではなく、武家の台頭や武家との関係が強い禅宗寺院の存在が影響している。

狩野元信は水墨画と大和絵の技法を融合させ、のちに狩野派と呼ばれる。これらは仏絵などの宗教画と異なり、世俗的、あるいは芸術的な側面としての絵画の発生と言える。同時に、庶民階級の富裕化により、風俗屏風図や遊楽図など、風俗画というべき絵画も発生している。また、交易の発展による海外の絵画技術の影響が見られる。

彫刻ではそれまでの仏教彫刻に加えて、能面彫刻が作られるようになる。他方、鎌倉時代と比べると仏像彫刻が衰退した。旧仏教寺院と禅宗による新仏教寺院との思想の変化や、公家と異なり、武家政権では新たな寺社の建立数が減ったなど、複数の要因があると考えられているが、いずれにしてもこの時代の仏像は慶派のような流派ではなく、個人の仏師が手がけた作例のほうが著名であり、全体としては少ない。その一方、城郭や書院の発達に伴い、建築の装飾彫刻は発展期にあたり、後の桃山建築を特色付ける木彫装飾の原型が室町時代後期に発生した。

また漆工にも高蒔絵や肉合研出蒔絵、切金の技法を蒔絵に応用されるなど、伝統的な蒔絵技法のほかに新しい試みが行われた。蒔絵師の幸阿弥道長は土佐光信の下絵を使ったといわれており、絵画との融合も行われている。

また、武士階級の富裕化に伴い、刀剣の装飾などに使われる鍔の彫金など、金工業も独特の発展を遂げた。八代将軍足利義政に使えた後藤祐乗に始まる後藤家など、一般需要の町彫りとは別種の家彫りと呼ばれる流派の発生である。また、武具には七宝を用いた平田派などが知られるほか、冑の明珍派など、新たな一派が多く発生した。

能楽・狂言

足利義満の保護を受けた観阿弥・世阿弥元清の親子が鎌倉時代から行われていた猿楽・田楽を能楽として大成させる。世阿弥は「風姿花伝」で芸道論を著す。対話劇である狂言も成立した。

民衆文化

室町時代は惣村の成立や都市の発達により、農民とは別の都市部に住む庶民が文化の担い手になってくる時代でもあった。庶民の間では短編の読み物集である御伽草子が読まれ、狂言や小唄、幸若舞などの庶民芸能が流行する。食文化では、味噌、醤油、豆腐など日本料理の基本要素が出揃った。醤油を除き、中国から伝わっていた要素で、室町時代の商工業発達によって普及した(醤油の普及はやや遅れ、関西では江戸時代初期、江戸では中期)。

学問と思想

学問

室町時代の学問の担い手は主に禅僧や公家である。京都の五山を中心に禅僧の間で漢文学や朱子学の研究が行われ、五山文学と呼ばれる。五山は幕府の保護を受け、日明貿易を行う足利義満の外交的顧問役でもあった。無力化した公家は有職故実や和歌、古典の研究を行い、一条兼良や東常縁、三条西実隆などの公家より古典文化が守られた。応仁の乱で京都が荒廃すると、公家や禅僧は地方に移り、学問や文化の地方波及や庶民化が進む。関白一条兼良は越前国朝倉氏のもとへ身を寄せ、子は土佐国中村に土着して土佐一条氏となる。桂庵玄樹は肥後国及び薩摩国に招かれ、現地で朱子学の一派である薩南学派を開くが江戸時代には衰亡した。大内義隆に仕えていた南村梅軒は土佐に招かれて、同じく朱子学の一派の海南学派を開く。

また、この頃関東では、上杉憲実により足利学校が再興される。大内氏や堺、奈良の商人の間でも独自の出版が行われた。

「日本の中世文学史」を参照

宗教・思想

禅宗は武家層にも広く広まり、武家の保護を受けた禅の五山が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。都市部では日蓮宗が広まり、京都では日親が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。1536年には日蓮宗は比叡山延暦寺と衝突して天文法華の乱と呼ばれる騒動となる。庶民の間では曹洞宗が広まる。

浄土真宗の蓮如が再興した本願寺教団は、講と呼ばれる信徒集団を形成し、応仁の乱の後には守護大名に取って代わった戦国大名に匹敵する勢力になり、一向宗とも呼ばれるようになり、信仰の下に団結して守護大名の勢力と対抗する。加賀国一揆や山城国一揆等の一向一揆は守護大名を打倒し、織田信長などは徹底的に弾圧し、大坂の本願寺が落とされて以降は沈静する。信長は日蓮宗の僧と浄土宗の僧と論争をさせる(安土宗論)。

神道では、吉田兼倶が吉田神道を創始する。

1549年にはヨーロッパからキリスト教がフランシスコ・ザビエルなどによってもたらされている。

「日本の仏教#南北朝・室町時代」を参照

史書

「増鏡」は四鏡の最後の史書で、後鳥羽天皇の即位から1333年に配流となっていた後醍醐天皇が京都に帰還するまでの宮廷社会の動向を記している。「太平記」は後醍醐天皇の即位から細川頼之が管領に就任するまでの南北朝時代を扱っており、軍記物語の性格が強く室町時代から江戸時代にかけて太平記よみと呼ばれる物語僧によって庶民にも語られていた。「梅松論」は足利尊氏の正当性を強調して書かれた史書であるが、成立は太平記よりも早く、資料性は高い。「神皇正統記」は、南北朝時代に南朝の北畠親房が関東で勢力を集めるために南朝の正統性を神代から記した所で、のちの皇国史観に繋がるイデオロギー的性格の強い史書であった。「難太平記」は今川貞世が著した史書で、太平記の誤りを訂正しつつ、今川氏の事績を中心に書かれている。「明徳記」は1391年の明徳の乱の経過が書かれている、「応永記」には1399年の応永の乱や南北朝合体の記述が、「永享記」には永享の乱を中心とした関東の情勢が、「応仁記」には足利義政の治世から応仁の乱の様子が記されている。また、江戸幕府が幕末に編纂した史書として「後鑑」があり、1333年から1597年に至るまでの史実を編年体で記し、各項目に出典となった各種資料を直截採録する形式となっている。

(ウィキペディア終わり)

さあ、如何でしょう。
政治的には何の変哲もない室町幕府でしたが、庶民の生活の面では鎌倉時代に芽生えた庶民の力、開放がいよいよ息づき成果を見せ始めた時代です。
後世に伝わる庶民文化のほとんどが、この時代に産声を上げています。

私は鎌倉時代以降のこの精神を日本のこころ、大和魂の発露であると思います。

ところで、この日本のこころ、大和魂の源泉に、このスレッドの最初のころに描いた日本民族の根底に流れる「和」の心が存在していることを見逃さないでください。

メンテ
室町時代 ( No.172 )
日時: 2017/06/14 20:47
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4ZVowqEc

ここで日本の年代別人口の推移を見て置きましょう。
(我が国の人口の推移)
縄文時代(1万年)        2〜20万人
弥生時代(600年)        20〜60万人
古墳時代〜飛鳥時代(450年)   60〜450万人
奈良時代(100年)        450〜550万人
平安時代(400年)        550〜700万人
鎌倉時代〜安土桃山時代(400年) 700〜1800万人
江戸時代(250年)        1800〜3400万人
明治時代(50年)         3400〜5500万人
大正時代(15年)         5500〜6400万人
昭和時代(60年)         6400〜1億1700万人
平成時代(30年)         1億1700〜1億2800万人

室町時代の事はざっと概観しました。
鎌倉・室町時代は、基幹産業の農業は技術的な発展があり食料の生産が増えて最初の人口の爆発が起き、大国家としてのかたちが形成されていった時代です。
人口の増加は町づくりを促し、同時に市場の改革も起き全国で市場がたち、貨幣経済も発達しました。
このように大衆が大衆の求めに応じて社会を作り上げて行った時代と言えましょう。
それに対して中央政府は無力で室町幕府などは形だけの支配と化していたのでしょう。
その代わりに、守護大名などは領地経営に精をだし、力をつけてきて、後の戦国時代と言われる元を作っていきました。
大衆の力は経済だけではなく、手工業、建築、絵画、歌舞伎、茶の湯などの文化も発揚し、後世に伝わる日本文化のほとんどの源を作り上げていきました。
対外的にも御朱印船貿易など、海外に飛躍したのもこの時代です。
政治的には、この気風は下克上を生み、戦国時代を経て日本の実質的な再統一へ向かいました。
また権力に対する不満から庶民が一揆を起こすようにもなりました。
戦国時代と言われている頃からは一向一揆と言われているように宗教と結び付いて大きな一揆がおきています。
江戸時代の武士道は忠義一筋で主君の為なら何時でも命を投げ出す、と言ったものですが、この時代の武士道は、飽くまでも一族郎党を養うための武士の覚悟の事を言い、一族郎党を守る為なら何時でも敵方へ寝返る事を正当化するような激しいものでした。
江戸時代を経て儒教の影響で大人しくなった日本人からみれば、信じられない奔放さを持っていたのが日本人です。

私はこの時代(鎌倉・室町)を日本を作った日本人の時代と思います。
この後、神道などを中心に、もう少し詳しく見てみる事にします。
メンテ
神道の話 1 ( No.173 )
日時: 2017/06/14 21:38
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:4ZVowqEc

さて、ここで神道について触れておきましょう。

どの民族においても始原的な信仰心と言うものは、アニミズム、トーテミズムと言う形であったものと思います。
日本の場合の氏神信仰の発祥は、それが、もう少し進んで集落の五穀豊穣を願う儀式が形式化された弥生時代と言えましょう。
それ以前は、神話、伝説の世界であると言えます。
これについては、このスレッドの最初の方でかなりのスペースを割いて言及しています。

神社に祀ってある神様と言うのは次の様なものです。

1. 自然物や自然現象を神格化した神
2. 思考・災いといった抽象的なものを神格化した観念神
3. 古代の指導者・有力者などを神格化したと思われる神(エウヘメリズム)、氏の集団や村里の守り神とされるようになる神々
4. 万物の創造主としての神(ここにおいてはthe Godである)
5. 万物の創造主・主宰者としての全能の天皇

八百万の神(やおよろずのかみ)と言うのは、自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(厠神 かわやがみ)、台所の神様など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから八百万の神と言われるようになったと考えられる。八百万とは無限に近い神がいることを表しており、数ある多神教の中でも、数が多い考え方であると言える。 またこういった性格から、特定能力が著しく秀でた、もしくは特定分野で認められた人物への敬称として「神」が使われることがある。

大和朝廷成立後には神社に祀る神として
大圀主命(おおくにぬしのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)などの伝説の人物の名前であったり
隼総別命(はやぶさわけのみこと)
誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと=応神天皇)など天皇、皇族など有力者の名が出てきます。

最初の頃の神道の神様は、地域、地域に根付いた神様で日本中に無数にありました。
大和朝廷成立に至る過程で、地域を支配した豪族などを神とするようになり、それが氏神信仰の謂れともなりました。
その氏も次第に大権力者、大和朝廷につながるものを神として祀るようになってきたのです。
我が国固有の宗教としての神道の面白いところは、統治の有力者だけではなく、有力者に恨みを残して亡くなった人物を『神』として祀り、祟りを避けようとした例も数多くあります。中でも菅原道真を祀る天満宮は亡くなった人間を神として扱う顕著な例です。 また、一人ひとりはそれほど有力な人物でなくとも、数多くの人々が亡くなった場合にも神として祀られ、これは靖国神社等が例として挙げられます。

次第に国家権力と結びつく神道に対して、それ以前の民衆の信仰の対象であった神道を古神道と言います。

古神道は「原始宗教の一つである」ともされ、世界各地で人が社会を持った太古の昔から自然発生的に生まれたものと、その様相はおしなべて同様である。その要素は、自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム)、またはその延長線上にある先祖崇拝としての命・御魂・霊・神などの不可知な物質ではない生命の本質としてのマナの概念や、常世(とこよ・神や悪いものが住む)と現世(うつしよ・人の国や現実世界)からなる世界観と、禁足地や神域の存在と、それぞれを隔てる端境とその往来を妨げる結界や、祈祷・占い(シャーマニズム)による祈願祈念とその結果による政(まつりごと)の指針、国の創世と人の創世の神話の発生があげられる。

神道の神様の始原的な概念は、荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)と言う2つの側面を持って捉えられています。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっています。

荒魂・和魂の概念は、我が国の伝説の中にも現れています。
各地にある竜神伝説は、恐ろしい竜ではあるが、大切に崇めると雨を降らせてくれる人々の守り竜でもある。河童伝説もキツネ伝説も大概は、その動物の二面性を説いています。
菅原道真の様に恨みを残して死んでいった人を祀る気持ちも同じように禍を転じて福としたい気持ちの現れです。西欧にも竜神伝説はありますが、西欧のそれは、飽くまでも人間に禍する竜としてのみ描かれています。
日本の神道と言うよりも神社信仰のこの概念こそ日本的であり大切な想いであると思います。

村祭り、初詣、七五三、宮参りなど現代まで受け継がれている神社行事は、この古神道の心が現代まで永遠と受け継がれてきたことを表します。

メンテ
神道の話 2 ( No.174 )
日時: 2017/06/15 10:22
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:xuCVLJQs

氏神信仰について
当地の氏神神社である須津彦神社に対する想いは、皆様それぞれであると思います。少し長文になりますが、私たち神社を預かる者として、神社の側からの気持ちを述べさせていただきます。
前半は、趣旨説明のための長文ですので興味のない方は、読み飛ばしていただけば良いかと思います。

始めに土地の神様の話しをします。

「神道」と言えば右翼がこのむ言葉の様に思われがちですが、「大和魂」と同じ様に随分と歪な解釈がなされるようになりましたが、本来は以下のようなものなのです。


(氏神)

本来の氏神は、古代にその氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かった。例として、中臣氏は天児屋根命、忌部氏は天太玉命を祀った。
中世以降、氏神の周辺に住み、その祭礼に参加する者全体を「氏子」と称するようになり、氏神は鎮守や産土神と区別されなくなった。同じ氏神を祭る人々を「氏子中」、「氏子同」といい、その代表者である氏子総代を中心に神事や祭事が担われている。氏神を祀る神社の周辺には住んでいないが、その神を信仰する者を「崇敬者(すうけいしゃ)」といい、氏子と併せて「氏子崇敬者」と総称する。
中世以降の例としては、源氏の八幡神(八幡宮)、平氏の厳島明神(厳島神社)などが挙げられる。別格として皇室の祖神を祭った伊勢神宮は、近世までは皇室のみの氏神であったが、今日では日本人全員の総氏神とされている。

(鎮守)

鎮守(ちんじゅ)は、その土地に鎮まりその土地やその土地の者を守る神のことである。平安時代以降になると荘園制が形成され貴族や武士、寺院などの私的領地が確立され、氏族社会が崩壊し氏神信仰も衰退するが、荘園領主達は荘園を鎮護する目的でその土地の守護神を祀るようになる。これが鎮守であり、室町時代の頃に荘園制が崩壊すると信仰は衰退し、氏神に合祀され今日に至っていることが多い。

(産土神)

産土神(うぶすながみ)はその者が産まれた土地の神であり、その者を一生守護すると考えられている。生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、ほとんどの場合産土神と鎮守は同じ神であった。ただし、現在は転居する者が多いため産土神と鎮守神が異なる場合も多い。
この氏神信仰は七五三などで見ることが出来るが、生まれて間もない子供のお宮参りは本来氏神神社にお参りして、その土地の一員になることを認めてもらうための儀式の一つだった。

氏神は「古代にその氏人たちだけが祀った神であり」と言われています様に、元を糾せば、あらゆる事物や現象に霊魂,精霊が宿ると信じる観念、いわゆるアニミズムと、以下に説明する、トーテミズムが融合した形で原始宗教と思われるものの延長にあると思われる。

(トーテミズム)

日本の神道を含めた自然崇拝の信仰形態において、部族や血縁に対し、生きる縁を与えるものとして、「自分と似たようなもの」が祝福あるいは生命力を与えると考えられた。彼らは、部族ごとに石、光線、動物、植物とさまざまな形で表され、異なる世界から来るマナ(神秘的な力の源とされる概念)を、共有していると考えられた。
そうして、その概念は、狩猟生活が中心であった長い縄文時代を経て、稲作が始まった弥生時代になって定着したといえます。


極、小単位ではじまった氏神信仰が、変質し始めたのは、生活集団が、より大きなものへと変わって行ったことと関連します。

稲作の伝来、定着と共に社会的大きな変化は環濠集落誕生と社会構成である。
最初は小さな集団から始まったのであろうが、これが段々と大規模なものとなり直径が数百メートルもある大規模なものとなり、村の概念から国の概念へと発達して行く。
また収穫物と言う財産を保持することになり、狩猟生活における獲物の取り合いとは別の、集団同士(村)の熾烈で大規模な争奪戦を生む原因ともなった。

「 クニ」の形成

弥生時代、当時の最先進地域であった北部九 州では、当初、それぞれ個別の集落として存在していた「ムラ」が、農耕が基本に持つ高い人口再生産力を発揮してムラの拡大・分化を生み、近辺の生産適地を埋め尽くすように未開地を耕作地へ変えていった。
その結果増加した「ムラムラ」が、弥生前期後半ごろから小共同体(おそらく血族集団、本家と分家などから構成されたような共同体)に成長し、更にその小共同体が、指導力を持った中心的な小共同体と、そういう小共同体との共存を図ろうとする従属的な小共同体とに階層化し、それらが一つのグループとなって「クニ」を形成し始めた。
クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことにあったと思われる。
それほどにムラの数や人口が急増し、北部九州の中小河川の水量では、その効率的な利用が強く求められたからであろう。
当然、クニの内外で調整や裁定というような社会的作業や、それがうまく図れなかった場合には、争いが−すなわちこの列島において初めての戦争が−起こったであろう。

大和朝廷による国家の統一とともに、氏神信仰も随分と様相が変わってきました。

神道の元になったもの、すなわち、大和政権の中で信奉された神を祀っていたのは、物部氏であり、中臣氏でした。これらの氏族は、神を祀ることを生業としていた氏族です。一方の蘇我氏は朝鮮半島からの文化の受入に積極的であったと言われています。日本書紀の欽明天皇の条には、天皇が譲り受けた仏をとうしたものかと問うた時、蘇我稲目は受容することを進言し、物部尾輿と中臣鎌子は180いる日本の神(国神)怒りを買うと言って反対します。所謂、崇仏廃仏論争です。一時期、物部・中臣が勢力を持ち、仏像の廃棄や寺の焼却を黙認します。次の世代である蘇我馬子、物部守屋になると、次の敏達天皇は廃物希釈を実施しますが、次の用明天皇から大きく流れが変わります。そして、武力で、蘇我馬子が物部守屋を倒すに至り、完全なる仏教の時代がやってきます。

天武天皇の時、天皇中心の国家体制が整備されます。この時、天皇家の氏神である天照大神が日本民族の代表の神として位置づけられます。この後、作られた記紀の中でも天照大神を祀ることの重要さが記載されています。この時、仏教の中においても神様の格上げが行われます。そして、菩薩になった神があらわれます。代表的なのが、応神天皇こと八幡神は、八幡大菩薩となりました。現在の宇佐神宮も、延喜式に記載されている名前は、八幡大菩薩宇佐宮です。

(仏教の伝来)

仏教が日本に伝わったのは、現在、552年と538年の説があります。
当時の仏教は、仏教自身が鎮護国家の思想をもち、神道による国家体系とは別のものであった。

(鎮護国家)

仏教の教義に基づき、仏・菩薩や諸王が国家を鎮め護るという思想と、それによってもたらされる効果。7世紀、日本の律令体制構築に際し、朝廷は中国の王朝に倣って護国の思想を受容し、国家の中心に位置する国王(天皇)の擁護や、国情・社会の安定、他国からの防衛といった効果を祈念すると同時に、仏教の教義を通じて諸地域住民の感情・思想面での統制を図ろうとした。

そのために、鎌倉時代になると「本地垂迹説}などが現れることになる。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

(続く)
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