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[2820] 哲学のはなし(考えるとは)
日時: 2017/12/05 11:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:sdl19w96

人間の思考の仕方について、歴代の哲学者のやって来た道を辿るのも意味のある事と考えます。
そこで、少し退屈に思われる方もいるでしょうが、思考自身のあり方の為に書いてみます。
ギリシャ哲学から実存哲学のサルトルまで、少し長くなります。


哲学の系譜

主に西欧哲学について語ります。
エイジプト、メソポタミア文明は古くからありましたがまとまった文書は残されていません。
ギリシャ時代に入り、初めて思想、科学の文章が残されています。
そのギリシャ哲学ですが、著名なのはソクラテス、プラトンです。
ソクラテスについては、彼自身の著作ではなく「ソクラテスの弁明」などと言う語りつがれで残っています。

(ソクラテス)

ソクラテスの思想は、内容的にはミレトス学派(イオニア学派)の自然哲学者たちに見られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える[要出典]。「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」という当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある[要出典]。
それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての[要出典]、「無知の知」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度 にある[要出典]。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」、そういった彼の姿勢が、その数多くの内容的な欠陥・不備・素朴さ[要出典]にもかかわらず、半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く[要出典]、卓越した人物であると看做される要因となり、哲学者の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。

要するに道徳律の様なものが彼の主題であった。
次に登場するのがプラトンです。

(プラトン)

プラトンのイデア論
一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。
最初期の対話篇を執筆していた30代のプラトンは、「無知の知」「アポリア(行き詰まり)」を経ながら、問答を駆使し、正義・徳・善の「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続けるソクラテスの姿を描き、「徳は知識である」といった主知主義的な姿勢を提示するに留まっていたが、40歳頃の第一回シケリア旅行において、ピュタゴラス派と交流を持ったことにより、初期末の『メノン』の頃から、「思いなし」(思惑、臆見、doxa ドクサ)と「知識」(episteme エピステーメー)の区別、数学・幾何学や「魂」との結びつきを明確に打ち出していくようになり、その延長線上で、感覚を超えた真実在としての「イデア」の概念が、中期対話篇から提示されていくようになった。
生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、数学・幾何学や問答を通して、その記憶を「想起」(anamnêsis、アナムネーシス)することによって近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。

いわゆる形而上学的な発想であり、人間としての普遍の真理を念頭に置きました。
プラトンが説く道徳律が現在でも有効とされるのは、これ故の事です。
そのごプラトンの思いは、個人的な思想から国家の有り様を意識し、国家論を書くことになります。
国家論では国民一人一人の道徳律を説き、君主は君主たるべき資格を問います。
これが成れば、それだけで理想国家になるのですが、現実は、そうは行きません。
我欲の塊である人間性を軽く見ていたのです。

その後には、キリスト教の教義が広まる事によって、プラトンのイデア論の陰が薄くなり、中世哲学へ移って行きますが、人間学としてのギリシャ哲学は中世以降復活することになります。
それでも、プラトンの後にはアリストテレスもでて、ストア、エピキュロス哲学も興りました。

プラトンの文章(国家論 洞窟の比喩)

>洞窟の中に閉じ込められた囚人は、洞窟に映る影絵のようなものだけしかみたことがなく、それが実体だと思っています。
しかし、いったんその囚人を外に連れ出し、光の溢れる実際の世界を見せたらどうなるでしょう。
最初はおそらく光がまぶしすぎて苦痛を感じるでしょう。
しかし慣れてしまうと、もう暗い洞窟の中には戻りたくなくなり、洞窟の中にいるものを哀れに思うようになるでしょう。


(アリストテレス)

アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく問答法を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として三段論法などの形で体系化された。

アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。
また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、恐怖と平然に関しては勇敢、快楽と苦痛に関しては節制、財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、名誉に関しては矜持、怒りに関しては温和、交際に関しては親愛と真実と機知である。ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。


これはプラトンが説いた道徳律を、より論理的、理性的に位置づけることになります。
その代わりに、作り上げた至高善が人為的なものとなり、後にヘーゲルが陥ったと同じように、思念の結果が人々を束縛する事になった。
(参考までにヘーゲルの国家論を紹介します)
 「世界史は自由の意識の進歩である」と考えるヘーゲルは、有名な弁証法によって、歴史の進展を記述しました。つまりヘーゲルにとって歴史とは、テーゼ、アンチテーゼ、そしてジンテーゼの三段階を経て発展していくのです。

 ヘーゲルはこの弁証法を道徳にも適用させました。彼によれば道徳とは、個人の精神が達成すべきものなのではなく、むしろ国家によって達成されるべきであると言います。道徳が主観的であるのに対して、国家が設定する法は客観的です。ヘーゲルはこの両者の統合体を「人倫」と名付けました。この人倫もまた、テーゼ、アンチテーゼ、そしてジンテーゼの三段階で発展していきます。人倫におけるテーゼに該当するのは、「家族」で、アンチテーゼに該当するのが「市民社会」であり、そしてジンテーゼに該当するのが「国家」です。

 ここでいう家族とは、共同体の最小単位です。家族の各構成員は「愛情」によって結び付いています。しかし家族では、個人の独立性が阻害されてしまいます。それ故に自由も見当たりません。

 そこで家族のアンチテーゼとして市民社会が登場します。市民社会は、個々人が自由意志で結び付いている状態です。愛情は、端的に否定されます。代替的に、自由が得られます。

 しかしながら愛情を否定することには喪失感が伴います。それ故人間の幸福とは何なのかという疑念が生まれてしまいます。そこでこのテーゼとなる家族とアンチテーゼとなる市民社会を止揚したジンテーゼとして国家が導入されるのです。

 ヘーゲルにとって、国家は家族と市民社会の対立が止揚されることによって完成するものでした。彼は国家を市民社会や家族よりも高次元の絶対的な存在として解釈していたのです。こうして国家が完成すれば、人倫も達成されているので、もはや道徳を追求する必要もなくなります。

 ヘーゲルにとって、国家と市民社会の差異は自明でした。彼は市民社会を「欲望の体系」と呼んでいました。それは、自己自身の目的を達成するために他人を利用する社会を意味します。こうした個々人の欲望が衝突している市民社会に対して、国家は個々人の利益と全体の利益が一致すると言います。

 このように、ヘーゲルの家族・市民社会・国家論は、言わばあるべき理想の国家像を提起している点で特徴的です。

(引用終わり)

ヘーゲルは思考の結果としての理想国家から人間のあるべき姿を規定したのです。それがナチズムにつながります。
マルクスは、ヘーゲルとは違う手法で国家を考え(経済)、ヘーゲルの批判をしていましたが、結果的に同じ過ちを犯しました。

アリストテレスの解説以降、結論を急ぎすぎ不要な事を言ってしまいましたが、この件はそれぞれの書きこみの中で検証して行くことになるますので、読み飛ばしてください。


(登場する人物を挙げておきます)
                    (関連する思想家)
ソクラテス  ギリシャ哲学
プラトン   ギリシャ哲学(国家論)
アリストテレス ギリシャ哲学(倫理学)
ストア哲学   ストイックの概念     ゼノン
エピキュロス哲学 快楽主義
アウグスティヌス  キリスト教哲学
スコラ哲学  中世キリスト教哲学     トマス・アクナス
ダンテ   ルネッサンスの幕開け     コペルニクス
ルター   宗教改革
カルビン  宗教改革
マキャベリ 唯物論
ホッブス  唯物論
パスカル  ルネッサンス期の哲学     
デカルト  観念論
スピノザ  一元論
ヒューム  イギリス経験論       アダム・スミス、ジョン・デューイ(プラグマティズム)
ライプニッツ  単子論
ルソー    社会契約論
カント    観念論
ヘーゲル   唯物弁証法        フォイエルバッハ
ショーペンハウアー  愛の哲学
バートランド・ラッセル  心の哲学(自我論)
キルケゴール 実存主義
フッサール  現象論
フロイト   心理学
ユング    心理学         ヴント(ゲシュタルト心理学)
ニーチェ   孤高の精神
ベルグソン  生の哲学
マックスウエーバー  社会学
ハイエク   新自由主義(経済)
サルトル   実存主義       ハイデッガー
メルロポンティ  実証主義
マルクス   共産主義?      エンゲルス


(注記)

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生の哲学 ベルグソン ( No.34 )
日時: 2020/07/24 19:21
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:nMbh/ObM

久しぶりにUPします。

哲学の大きな分類に

形而上学
観念論
唯物論
実存主義
実証主義

などがあります。
これは時系列ではなく、ギリシャ哲学の中にも唯物論、観念論、形而上学もあります。

この中で形而上学と言うのは、頭の中で人間の存在を位置づけようとするもの(ある意味論理的、科学的ともいえます)。
観念論は、

純粋思考により人間を把握しようとするもの。

唯物論は、

人間の性癖を分析し、形式的に人間を把握しようとするもの。

実存主義とは、

人間自身の分析(我欲を含む)から人間の存在意義を求めようとするもの、実際は、その意義が求められず自暴自棄に陥る場合が多い。

ここに上げませんでしたが「生に哲学」と言う言葉もあります。代表的な哲学者として

アルトゥル・ショーペンハウアー
フリードリヒ・ニーチェ
アンリ・ベルクソン
ゲオルク・ジンメル
ヴィルヘルム・ディルタイ
ヘルムート・プレスナー
ホセ・オルテガ・イ・ガセット
カール・ジョエル
ルートヴィヒ・クラーゲス
オスヴァルト・シュペングラー

などがいます。
時代背景は、カントなどが出て観念論が最盛期だったことから、実存主義に至るまでの間で、大きくは「生の哲学」は実存主義の走りとも言えます。

その「生の哲学」を主張した人物でベルグソンを取り上げます。
ベルグソンは晩年に彼の哲学の集大成として「道徳と宗教の二源泉」と言う著作を残しました。

この中でベルグソンは人間と人間社会のあり様について述べています。
結論から言いますと、ベルグソンの主張は3つの内容に集約されます。

(1)社会のあり方としての「開かれた社会」という概念であり、
(2)「贅沢から簡素への反転」の時期であり、
(3)「精神科学、特に死後の存続の科発展」であろう。

この中の「開かれた社会」と言う概念の為に、道徳と宗教について語っています。

●道徳と宗教には第一源泉があると言い、以下の様に述べています。

>蟻や蜂は本能に従って驚くべき王国を作り上げる。人間も家族から始まる社会なく
して生きていけない。人間は蟻や蜂と違って知性を得た。知性は本来自分の方を見て
いる。社会の中でなければ生きていけないにもかかわらず、人間はその束縛に素直に
従えない。蟻や蜂であれば、もし一瞬なりとも知性が働いて「なぜ自分はこのように
蜜を運ぶだけで一生過ごさねばならないのか」と自問してもすぐ本能が「せねばなら
ぬからするのだ」と仕事に戻らせるだろう。

人間の知性はこれに煩悶する。社会の束縛に反抗するかもしれない。知性に任せた
ならば、個人の反抗によって、社会は疲弊し崩壊するかもしれない。社会は必要であ
るから存在するのであり、それに立ち向かう社会側の努力が当然生まれる。道徳や習
慣、教育あるいは初期の宗教といったものは、社会の維持のために個人個人に責務を
負わせるものだ。人間道徳のうち、このような社会の必要からくる束縛の道徳を、道
徳の第一の源泉と言おう。いわば社会に自然に備わった原始の本能的な源泉なのだ。
道徳教育によって植えつけられる責務感に従わせることによって、社会は崩壊から免
れる。しかしこの第一の源泉からうまれる道徳責務は、まず家庭にはじまり、集落、
そして国家まではその統一的な力が及ぶ。そのような道徳的責務は、その領域を越え
れば適用されない性格のものだ。一旦戦争になれば、それまで説かれた道徳の善悪は
逆転さえする。大量殺人も是認され称揚される。それは本質的に閉じた社会に通用す
るものだった。

●道徳と宗教には第二源泉

道徳には第二の源泉がある。完全な道徳、国家社会の限界を一挙に超えた道徳、人
類愛がそれである。この愛の魂はさらに人類にとどまらない。全宇宙へと広がるもの
だ。
誤解しがちなことだが、第一の源泉から生まれる道徳宗教が、範囲を拡大して行っ
ても第二のそれには到達しない。社会を維持するための道徳が、家庭から、近隣社会
へ、そして人類へと広まっていきそうに錯覚するがそうではない。国連を持つまでに
至った現在の国際社会をみても、国家主義のさきには飛躍できない限界が見えている。
家族愛、祖国愛は、常に除外を生み、憎悪とともに燃えるものである。
第二の源泉による開かれた道徳、すなわち人類愛を呼びかける高次の道徳の起源を
探れば、そこには一個の人間がいる。その個人の偉大な創造の情動がある。魂が感動
で揺さぶられる情動があり、それに接した人たちは、その人のことを伝えなければな
らない情動に揺さぶられる。ここに生まれた波動の伝播で、我々はその人物のことを
伝え聞いている。釈迦、ソクラテス、イエスである。(わが国の身近な例では道元や親
鸞、尊徳も挙げられるだろう。)
彼らは、いのちの危険をかいくぐり、試練を受けながら

詳細は省きますが、この中で、自然宗教とか動的宗教とか言う言葉を使い、自然宗教や道徳と宗教が第一源泉であった時代は「閉じられた社会」と言い、人類は「開かれた社会」を目指すべきだとと説いて、その宗教、道徳を分析しています。
宗教も道徳も限られた人間を対象にするのではなく世界宗教、世界共通の道徳を考えるべきだと言っているのです。
この点、著名な歴史学者、アーノルド・ツインビーは、キリスト教、イスラム教、仏教を高等宗教として他の宗教と区別しています。

>第二の源泉による開かれた道徳、すなわち人類愛を呼びかける高次の道徳の起源を
探れば、そこには一個の人間がいる。その個人の偉大な創造の情動がある。魂が感動
で揺さぶられる情動があり、それに接した人たちは、その人のことを伝えなければな
らない情動に揺さぶられる。ここに生まれた波動の伝播で、我々はその人物のことを
伝え聞いている。釈迦、ソクラテス、イエスである。(わが国の身近な例では道元や親
鸞、尊徳も挙げられるだろう。)

>(2)「贅沢から簡素への反転」の時期であり、

(2)は飽食の時代を戒めているのですが、実際には真逆の方向へ進んでしまいました。

>(3)「精神科学、特に死後の存続の科発展」であろう。

(3)は、科学の発達で、神に頼らない新しい存在観が見出されるであろうと予言したものです。
 半分は当たっているかも知れませんね。

まあ、ある意味、理想論で片づけることもできるでしょうが、帝国主義が華やかであった19世紀後半で、このような主張をしていたことを評価しましょう。

ベルグソンを取り上げた意味は、彼の主張、そのものではなく、彼と言うよりも「生の哲学」が当時の小説家にも影響を与え、ロマンロランの「ジャンクリストフ」「ミケランジェロの生涯」など英雄小説を流行らせ、ドストエフスキーの「罪と罰」も当時の小説であった。

いずれも人間個人の生き様を描いている。

古き良き時代とも言えるでしょう。

実存小説は、楽しくはない!

哲学に親しんでいただくための

閑話休題のような投稿になりましたね。
メンテ

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