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[294] 達磨さんに催促されて  天皇論
日時: 2009/10/25 13:36
名前: 天橋立の愚痴人間

天皇制の是非を問えば、10人中9人までが否定するでしょう。
その天皇制について考えてみたいと思います。

但し象徴天皇であることが条件です。

さて、その天皇論ですが、私は従来の天皇論の延長では考えてはいません。
民主主義を基にして考えれば否定するのみです。

その民主主義の行く末の事に思いを馳せた場合に天皇制のことを考えます。
ずっと将来、あらゆる分野のグローバル化がなり、民主主義(個人主義)が行き渡った状態で人間社会の平安が保たれるかと言うことです。

現代社会は、何でもかんでも個人の生き様を重要視してますが、人間の半分くらいは、もともと従属して(共生の概念の中に)生きることに安心感を抱いているものです。

多くの物資を手に入れ、享楽に浸っている、表面上を見ていれば、そのようには見えないでしょうが、元来持っている生への不安感は深いところでなくなってはいません。

将来、民族意識が希薄になり、国家意識が希薄になったときに、人間は何に共生の概念を持つ事になるのでしょう。

民主主義の考え方からすれば不合理なことですが、その不合理が必要でないとは、結論は出せません。
何となれば、民主主義も、ここ200年間の実験の最中なのです。

民族とか国家と関連して天皇制を考えるので戦争のことも想定するのです。
そのずっと将来、人間社会に天皇のような象徴が必要か否かの議論もしなくてはなりませんが、私は全ての(我が国に限れば1億、世界では100億)人間が個の集合の概念だけで平和な社会を維持できるとは思いません。

この世に宗教があるのも、人間の精神の限界があると思っています。
将来の社会で共生の象徴(統治では無い)を考える時に、折角の歴史を不用意に排除する必要はないと思っているのです。

営々と象徴でいなければならない、天皇家には迷惑な話と思いますが。


以上は前置きです。

なぜ象徴が必要であるかについては、少々長い説明になります。

(以下引用文)

「人間は社会的動物である」とは古代ギリシャの哲学者アリストテレス言葉であるが、この言葉は人間の本質をズバリ突いている。社会の中で生まれ育ち、社会を維持しながら生きていく(というか、それ以外のやり方では生きていくことができない)というのが人間の人間たる所以だからである。人間が生物・動物であるとともに、社会的存在であるという規定は、人間にかかわるいかなる問題を考察する際にも、外すことのできない重要なポイントである。しからば、社会とは何か、例えば動物の「群れ」とどう違うのか、というようなことが、当然、問題となってくる。

先に結論から述べておくなら、社会とは、労働の成果の共有・分配・交換を通じて結びついた集団のことである。多くの動物では、各個体は、餌などの自分にとって必要なものは自分で調達する。巣を作るに際しても、材料を探して来て組み上げるのは自分である。他の個体にお金を払ってやってもらうなどということはない。これに対して人間の場合、食べ物・衣服・住居・道具など必要なものをすべて自力で作り出して生活しているわけではない。これは最も原始的な生活をしている人々でさえそうである。社会の中の各個人が、それぞれの能力に応じて仕事を分担し、その成果を共有・分配・交換することで生活を成り立たせているのである。

人間以外の動物でも、群れを作って生活する動物の場合、ライオンやオオカミのように獲物をとるのに複数個体が協力してチームプレイを行なったり、とった獲物を集団で分け合ったりすることがあるし、また、サルの群れのように集団の中のリーダーの地位をめぐって権力闘争が起こるといったような、極めて“社会的”な現象が見られることもある。考えてみれば、人間も動物の一種として進化してきたわけですから、人間に見られる社会的な性格の一部が他の動物の中で見出されるとしても何らおかしなことではない。

しかし、動物の“社会的”行動は人間に比べれば極めて原初的・萌芽的なものでしかない。人間はそれを大きく越えて進化して来ており、人間社会では、進化史を通じて人間に至るまでに獲得されてきた諸特徴が大きく開花するとともに、経済・政治・文化・文明・学問・宗教・芸術のような、動物段階ではほとんど(或いは萌芽的にしか)存在しなかった活動が生活の主役となって躍り出てくる舞台となるのである。

共有認識と制度

社会は、人間どうしが物質的関係において結びついているのみならず、精神的にも結びついている集団である。そして、その精神的な結びつきは共有認識という形で実現される。社会の成員どうしが同じ認識を共有することで、互いを集団の仲間として認め合い、その中で多種多彩な秩序を創り出し、他の動物には見られなかったような種々の共同作業を実現することができるようになったのである。

またその過程で、多様な人間関係・役割関係を固定的な存在物として確立してきた。これらを制度という。制度は社会的存在物であるので、社会の諸成員が認識の共有を通じてその存在を承認し、それに従って行動することによって初めてその存在を維持することができる。例えば、政府・法律・権利・通貨などの社会的制度は、みんなが「ある」と思って行動するからこそ存在し得るものなのである。

(引用終わり)

この中で、すでに社会とか共有認識(共認)と言う言葉が出てきます。

社会意識とは(再び引用文)

定住革命以後、〈神〉の概念に革命をもたらしたのは、ユダヤ民族の離散である。その歴史的経験から〈一神教(モノセイズム)〉が生まれた。一神教の〈神〉は唯一の神であり、善と悪、愛と憎しみ、創造と破壊など擬人化された神が担っていた相反する概念をすべて引き受けるため大きな矛盾を抱えることになり、非人格化されていった。かくして〈一神教〉の世界は、偶像崇拝と偶像破壊、擬人化され親しみやすい〈神〉と非人格化され親しみにくい〈神〉の間で揺れ動くことになった。この葛藤を見事に調停したのが、キリスト教だと著者は語る。

「キリスト教が世界史において最も広がり、成功した宗教となりえた理由がここにあります。キリスト教は〈神とは何か〉という問いに最もシンプルで多くの人を納得させる方法で答えました。〈神とは完全な人間である〉と。それは心に響く答えであるだけでなく、元来、人類の脳に組み込まれている思考法なのです。私たちは無意識のうちに人間に引き寄せて神を考えるように仕向けられています。つまり、擬人化された神を唯一の〈神〉として心に思い描くように」  今、世界では宗教を持たない人々が増える一方、宗教紛争も絶えない。人類と宗教の関係は今後どうなっていくのだろうか。 「確かに人類は宗教に関心を寄せなくなっています。しかし、それは宗教を通して自分が何者であるかを確かめなくなっただけで、〈スピリチュアリティ〉と言われるものへの関心は高まっています。人類はやはり〈宗教的動物(ホモ・レリギオスス)〉なのです」

(引用終わり)

ここではユダヤ、キリストを例として、集団(社会意識)の発生、共認意識としての神(キリスト教)の登場の経緯を見てみました。

(説明)

スピリチュアリティは、個人の内面における奥深く、しばしば宗教的な感情および信念と関連があるという認識が広く持たれている。近年の欧米では、Spiritual but not religious(SBNR、宗教を信じないが、霊性は信じている)という人々も増加している。必ずしも特定の宗教に根ざすものではないが、宗教とスピリチュアリティが深い関係で結ばれていることは否定できない。


>最後に吉本隆明の共同幻想論を紹介します。

吉本は血縁・氏族的共同体(家族)が、地縁・部族的共同体(原始的な国家)に転化する結節点として、兄妹・姉弟の対幻想に着目している。兄妹・姉弟の対幻想は、夫婦の対幻想とは違って、肉体的な性交渉を伴わない対幻想なので、いくらでも無傷に空間的に拡大できる。兄妹・姉弟の対幻想が、他家との婚姻と言う形で空間的に拡大しているため、国民は心理的な一体感を共有し、幻想としての国家が成立するのである。逆に言えば、原始的な国家の成立は、兄妹・姉弟の近親相姦が自覚的に禁止されたときに求められる。中上健次の「国家は白昼に突発する幻想化された性なのだ」と言う言葉は、このことを指している。

また、吉本にとって、高度な経済力や科学力を持っていた近代国家である戦前の大日本帝国が、やすやすと天皇制と言う、宗教性の強い古代・中世的な政治体制やイデオロギーに支配されてしまったことは大きな難問だった。吉本は、宗教・法・国家はその本質の内部において、社会の生産様式の発展史とは関係がないと主張し、政治体制は経済体制に規定される(唯物史観)とするロシア・マルクス主義を批判する。その試みは、吉本にとってロシア・マルクス主義からの自立であって、少年期に骨の髄まで侵食された天皇制と言う共同幻想を意識化し、対象化し、相対化しようという試みでもあった。

(引用終わり)

吉岡が天皇制を擁護している訳ではないが、社会(共同生活体)の中の共認意識の象徴として取り上げ、それを一種の幻想(共同)の形と定義した。

冒頭に言いました、日本民族、国家の象徴としての天皇制の存在の意味を御分かりいただけたでしょうか。


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秋篠宮殿下の行状 ( No.18 )
日時: 2018/12/29 10:43
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:RU/sHrFQ

新天皇の即位後、初めて迎える新嘗祭が大嘗祭である。来年の11月14日から翌日にかけ、皇居に大嘗宮を設営して執り行われる運びとなっている。

 あらためて振り返ると、11月22日に会見に臨まれた秋篠宮さまは、以下のように述べられていた。

殿下 :具体的にもし言うのであれば,例えば,即位の礼は,これは国事行為で行われるわけです,その一連のものは。ただ、大嘗祭については,これは皇室の行事として行われるものですし,ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて,それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成のときの大嘗祭のときにもそうするべきではないという立場だったわけですけれども,その頃はうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局,そのときを踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。

ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは,今でも持っています。整理の仕方としては,一つの代で一度きりのものであり、大切な儀式ということから、もちろん国もそれについての関心があり、公的性格が強い,ゆえに国の国費で賄うということだと。平成のときの整理はそうだったわけですね。ただ、今回もそうなわけですけれども、宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに、それは、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています。今でも。ただ、それをするためには相当な費用が掛かりますけれども。大嘗祭自体は私は絶対にすべきものだと思います。ただ、そのできる範囲で、言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば。少なくとも皇室の行事と言っていますし。そういう形で行うのが本来の姿ではないかなと思いますし、そのことは宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。ただ,残念ながらそこを考えること,言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています。

(記者会見終わり)

30日には大きく報じられ、山本信一郎長官は“そう受け止められたのであれば申し訳ない”とコメント。さる宮内庁関係者が明かす。

「予期せぬお言葉に、長官は困惑しきっていました。皇族方にお仕えする身とはいえ、あのような“仕打ち”には、我々の間でも顔をしかめる者がいたほどです」

※ あの様な仕打ちとは

>そのことは宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。ただ,残念ながらそこを考えること,言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています。

この下りです。
記者会見で、この様に言われれば宮内庁としても責任上、口を紡ぐことは出来ないだろう。

https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E7%A7%8B%E7%AF%A0%E5%AE%AE%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E7%99%BA%E8%A8%80&tid=fac871be999f412ea008bfff2d8ecbf9&ei=UTF-8&rkf=2&dd=1


 参考までに、前回は公費である宮廷費から総額約22億5千万円が支出され、うち大嘗宮の設営には14億円余りが充てられた。一方、現在の内廷費(両陛下と東宮ご一家共有の生活費)は年間3億2400万円。前年までの残余金と合わせても、これでは儀式の規模が大きく変容しかねない。

 さらに、矛先を向けられた政府でも、

「官邸はご発言の真意を測りかねています。大嘗祭の方針は4月に決まっているのに、何故このタイミングなのか。それを確認できるパイプもなく、秋篠宮さまが陛下や皇太子さまにもご相談された上で仰ったのではないか、と訝る声がもっぱらです」(政治部デスク)

※(私の注釈)陛下や皇太子が秋篠宮を使って代弁させるような姑息な人柄では決してないと思う。
しかも、具体的に神嘉殿を使えなどと言われるはずはない。
訝るとは、秋篠宮の発言が、それほど、信じられないものであったと言う事。

逸脱した行為

 折も折、10日には即位の礼と大嘗祭への公費支出が憲法違反にあたるとして、市民団体「違憲訴訟の会」のメンバーらが、宗教家など241人を原告として訴訟を提起した。同会の酒田芳人弁護士によれば、

「11月9日には訴訟へ向け、原告団の集会を開きました」

 秋篠宮さまの発言との関係については、

「原告団としてまとまった見解があるわけではなく、お答えしかねます」

 というのだが、こうした動きを勢いづかせるのは明白だ。麗澤大の八木秀次教授(憲法学)は、

「殿下ご自身が、政教分離について誤解なさっているのではないでしょうか」

 としながら、

「大嘗祭は、皇室の純然たる私的行事ではない。憲法が規定する皇位継承の移行に伴う由緒ある儀式と位置付けられ、政府は前回、公的性格を持つ儀式には宮廷費を使っても問題ないとしています。殿下は、皇室のプライベートな儀式と公的儀式との整理がついておられなかったのかもしれません。いずれにせよ、ご発言を巡って政府が対応せざるを得なくなったこと自体、皇族の行為としては逸脱していると思います」

 混乱を招きつつ、秋篠宮さまは5月から皇嗣、すなわち皇位継承順位1位となられるわけである。

「週刊新潮」2018年12月13日号 掲載


(引用終わり)


政教分離の立場で一般の国民の中からは、大嘗祭への国費の支出に異議を申す人たちはいる。
でも、それは政治の問題であり政府が判断するもの。
天皇制とは、元々このようになっている。

それを秋篠宮は、何の立場か知らないが、皇位継承第一位になる皇族の立場で言うからには、いろいろな問題が派生する。
第一、それが良い悪いに関わらず政治の判断に口を出したこと。
それも、言うだけではなく自分の言うことが聞けない宮内庁の担当者の対応に不快感を示すなど、あってはならない態度をしめした。


実際には大嘗宮の設営の経費、15億円の節約を理由にである。
近代ではまれにみる天皇の生前譲位のことであり、国民も注目しているところ、大嘗祭は宗教的な儀式であるとして皇族だけの内輪で済ませることが国民にとって了とすることか。

天皇制を認める代わりに天皇制のなかの重要な儀式は国民に対してオープンであるべきではないのか。
さらに秋篠宮は譲位が行われれば、皇位継承第一位になる立場。
そんな立場の人間が実兄、皇太子の即位の儀式の有り様に口を挟み、さらに、その旨を記者会見で公にするなど、時代が時代であれば反逆罪に問われるところ。

大嘗宮の設営について言えば、伊勢神宮では20年に一度遷宮を行っている。
実に勿体ない話であるが、それを合理的に考えるだけが考えではない。
文化というものには、そういう不合理性も随分とあるもの。
宗教意識と言うだけではなく、文化という面からも捉えてみることである。

また、この問題が高じれば天皇制の存在そのものを云々させるように発展しかねない。

今回の秋篠宮の発言は、秋篠宮自身の軽薄さを現したのみ。
皇位継承第一位になるようだが、容易に政治に口を出す、こんな人物が皇位に就いたら大変だ。

そんな秋篠宮の発言をもてはやす傾向もある様だが、政教分離の理屈だけにとらわれず、もっと事態を多角的に見てほしいもの。


>こんな意見も有りますよ。

そもそもの支出の是非については、宗教学者の島薗進氏のように、戦後の皇室に戦前からの国家神道的な考え方が多く引き継がれていることを指摘し、そうしたことや、公費支出に疑問を投げかけるニュアンスの意見もあれば、皇室問題に詳しい所収氏のように、宗教行事というよりは伝統文化行事だから構わないという人もいる。

私は皇室の行う宗教的な色彩の強い行事への支出は憲法違反と決めつけることもなく、皇室が行う上での問題はないと考えている。
皇室の宗教儀式が国民に影響を与えたり、皇室が政治に口をはさむことがなければ容認できることである。
そもそも、日本国憲法は皇室制度をいちから創設したのでなく、現実にあるものを追認したのである。そうである以上は、矛盾があるのは仕方ないのであって、政教分離と皇室の伝統のどちらかを優先させるわけにもいかず、バランスを取って仕切るしか仕方ないのである。

そこで、内廷費というのを設けて日常的な神事は、そちらから支出しているのであるが、大嘗祭は費用も大きいので国費でということに平成の大嘗祭のときになったのである。

それを安直に動かすことは、あまり気が進まないのが正直なところだ。また、内廷費といえども国費由来には違いない。
そういった経費も考慮に入れて、内廷費を特別に増額するというのも、非透明性を増すだけだで、いっそのこと国費で行う方が良いのではないか。
また、内廷費で払える程度の規模にするという意見もあるし、それは皇室行事一般についてもある議論だが、あまり目だなく何事もするなら、皇室の存在感も存在価値も低くなるだろう。
(即位式自体、海外からの来賓を制限し質素に行なうことも考えられる)

そういう意味では、秋篠宮殿下の考え方は、少し一面的なのではないかと思う。


(追記)

そんなに税金の無駄使いが心配なら、国民の懐を心配するならば皇居までは言わないが、京都御所、赤坂御用地など5000億円を超える不動産の一部でも手放したらどうか。

ついでのついでに管理人さんのブログから、王室と皇室の違い

皇室を語るときに、ヨーロッパの王室と対比される。 開放的な王室と閉鎖的な皇室と言うように比較されるのだが、王室と皇室は全く別次元の家系で、それが日本人には理解できていないようだ。

 皇室は日本人の血のルーツであり、古代から血統を守ってきた家系であって、いわば純粋な日本人と言う意味で存在している。 この血統、血を守ると言う考え方は、江戸時代に確立されたものだが、現在も残っている家元制度などで見ることが出来る。

 血統を守ると言う原点が天皇家であり、その血統的系譜と言うのは日本人の思考の原点となっている。 江戸時代では殿様の息子は殿様になり、家老の息子が家老になるのは当然の事、として確立されていた。 そのようにしてそれぞれの家系を存続させてきた。


 現代でも人気のある水戸黄門は、何らかの実力があったのではなく、これを見ろ、と徳川家の紋章、三つ葉葵の印籠+を差し出すことで、皆がひれ伏した。 ドラマの中とは言え、その時代をよく反映していて面白い。 また、日本人はこのような無意味な実力者を尊敬する傾向がある。

 日本人の持つ尊血主義は外国には無く、理解されない。 市川団十郎は誰もがなれるのではなく、歌舞伎界の実力とは無縁のものである。 茶道の裏千家の宗匠になるには千家の息子として生まれるしかなく、他に適している人がいても、尊血社会では受け入れられない。

 そして、この尊血主義が最も簡単に家を存続させる方法なのだ。 家元が変わるたびに作法が変わるようでは、流派が分裂してしまい、長続きしないことは明白だ。

 徳川二百数十年の歴史ですっかり日本人に染み込んだ尊血主義は、現代でも役者の世界や歌手の世界にも定着している。 そして、政治の世界にも。 これだけは勘弁して欲しいのだが。

 王室は血統などは全く無縁の系列で、戦う事によって勝ち取った地位なのだ。 戦争で勝った王の息子や娘が王の死後その地位を継ぐことが有っても、長く続くことは無かった。 歴史を見れば分かるように、自分を守るため、血統などとはかけ離れた異国人との政略結婚の繰り返しで、ヨーロッパの王室は親戚状態だ。

 王室は王としての実権を取るため、または存続させるために、親子の間、兄弟間でも殺し、自らの力で勝ち取ったものなのだ。 そして、反抗する者は容赦なく殺す事が、唯一自分の地位を守る法でもあった。

 王室が開放的で奔放、自由なのは、国民から尊敬される必要がないので、当然と言える。 王室は、例えばイギリスのエリザベス女王は大農園などの大地主であり、ロンドン市内の一等地に広大な土地を所有し、貸している。 その収入は莫大なもので、しかも無税なのだ。

 一時期、税金を課すべき、と言う議論があったあので、今現在も無税かどうかは分からないが、いずれにしてもその収入は莫大なものである。 仮に、エリザベス女王が女王でなくなったとしても、その莫大な財産の所有者には違いない。

 日本のマスコミは程度が低いので、このような単純明快な歴史も無視して皇族と王室を同列に並べて論ずることが多いが、全く別質なものを、無理やり同列にして論ずるのだから、突き詰めるほど矛盾が出てくる。

 天皇家は、適しているから、ふさわしいからと言うような次元とは全く違う、日本人が好む血統が支配する世界なのだ。

おしまい



秋篠宮は確信犯!

>天皇の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出について、秋篠宮さまが宗教色が強いとして宮内庁に疑義を呈した際、代替案として、宮中の「神嘉殿(しんかでん)」を活用して費用を抑え、それを天皇家の私費で賄うという具体案を示していたことがわかった。

バッカじゃなかろうか!!!!!!

大嘗宮の設営に関わる経費の問題よりも、大嘗祭を内輪で行うと言う発想が問題になるのだ。

新天皇即位に関わる儀式だぞ!

時の政権が「財政困難のおり、大嘗祭は神嘉殿で行いたい」と言えば

「ハイ そうですか」と納得するのが皇族の立場であろう。


この様な事を見ていると

紀子妃と結婚前の付き合い中、2度も中絶させたと言う噂も信じたくなるではないか。
秋篠宮が大学2年の時、1年生として入学してきた紀子妃と出会い、結婚まで5年間交際を続けてきた。
また秋篠宮家では紀子妃が職員に厳しくあたり、その上東宮家と対抗意識があり宮内庁とは円満ではなかったようである。
この様な背景も今回の発言の裏側にはあるようだ。


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