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[3495] タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』
日時: 2022/05/15 06:33
名前: スメラ尊 ID:QhNEiVps

タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』

動画(英語字幕)
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%98%D0%B2%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%BE+%D0%B4%D0%B5%D1%82%D1%81%D1%82%D0%B2%D0%BE&sp=mAEB


監督 アンドレイ・タルコフスキー
原作 ウラジミール・ボゴモーロフ
脚本 ウラジミール・ボゴモーロフ ミハイル・パパーワ
音楽 ヴァチェスラフ・オフチンニコフ
撮影 ワジーム・ユーソフ
公開 1962年4月6日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%95%E3%81%AE%E6%9D%91%E3%81%AF%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F

キャスト

Ivan コーリヤ・ブルリヤーエフ
Kholin V・ズブコフ
Galystev E・ジャリコフ
Katasonov S・クルイロフ
Gryaznov N. Grinyko
Maska V. Maryavina
Ivan's Mother I. Tarkovskaya
The Oldman D. Milyucheko


映画のストーリー

イワン(コーリヤ・ブルリヤーエフ)がいまも夢にみた美しい故郷の村は戦火に踏みにじられ、母親は行方不明、国境警備隊員だった父親も戦死してしまった。

一人とり残された十二歳のイワンが、危険を冒して敵陣に潜入し少年斥候として友軍に協力しているのも、自分の肉親を奪ったナチ・ドイツ軍への憎悪からであった。

司令部のグリヤズノフ中佐、ホーリン大尉、古参兵のカタソーノフの三人が、イワンのいわば親代りだ。グリヤズノフ達はイワンをこれ以上危険な仕事に就かせておくことはできない……これが、少年を愛する大人たちの結論だった。しかし、イワンはそれを聞くと頑として幼年学校行きを拒否した。憎い敵を撃滅して戦いに勝たねば……やむなくイワンをガリツェフ(E・ジャリコフ)の隊におくことにした。

ドイツ軍に対する総攻撃は準備されていたがそのためには、対岸の情勢を探ることが絶対必要であった。出発の日、カタソーノフはざん壕から身をのり出し敵弾に倒れてしまった。執拗に彼の不在の理由をきくイワンにはその死は固く秘されホーリン、ガリツェフの三人は小舟で闇の中を対岸へ。

二人が少年と別れる時がきた。再会を約して少年は死の危険地帯の中に勇躍、進んで行く。その小さな後姿がイワンの最後だった。終戦。ソビエトは勝った。が、そのためには何と大きな犠牲を払われねばならなかったか……。

かつてのナチの司令部。見るかげもなく破壊された建物の中に、ソビエト軍捕虜の処刑記録が残っていた。その記録を一枚一枚調べるガリツェフ。あった。イワンの写真が貼りつけられた記録カードが。戦争さえなかったらイワンには平和な村の毎日だった筈なのに……。
https://movie.walkerplus.com/mv13198/

 
▲△▽▼

僕の村は戦場だった

噂には聞いていましたが、これほどまでの傑作とは思いませんでした。すばらしい映画でした。

タルコフスキーならではの詩的な映像と、独ソ戦争の悲劇を現実的にとらえた対照的な映像が見事にコラボレートして、一歩間違うとおとぎ話のような陶酔感の中で迎える衝撃的なラストにうなってしまいました。


一人の半裸の少年が森にたたずんでいます。

蝶が舞い、その蝶を視線が追いかけるとカメラが蝶の視線のごとくふわっと舞い上がります。

ショットは変わって少年の前に一人の母親らしき女性。

うれしそうに駆け寄る少年。

次の瞬間、ぼろ小屋で飛び起きる少年。

実はこの少年はソ連側からドイツに潜入して情報を探るゲリラ兵なのです。ショッキングなオープニングに一気に引き込まれます。


湿地の中を必死で駆け抜けてソ連領に舞い戻ったところから本編が始まります。


戦場の場面がリアルに生々しく語られる現実と、少年が夢見るときにみる平和な頃の詩情あふれる映像の対比が実に効果的で、本当に美しい。

湿地の中を進む場面で水面に映る照明弾の光の動きの中で船をこいでいくショット、

少年が夢の中でみる母親が井戸の外で倒れたところに降りかかる井戸水のショット、

あるいは少年が愛らしい少女とリンゴを積んだトラックに乗っていく中で、リンゴが道にこぼれだし、馬が拾い食いするショット

などタルコフスキーならではのファンタジックな映像もふんだんに盛り込まれています。


すでに両親の行方もわからない少年イワンの親代わりは戦場の3人の兵士たちだった。そして、冒頭のゲリラ斥候を終えたイワンにその兵士は幼年学校へ行くように勧める。

しかし、それに反対し、再度斥候にでる。無事ソ連領に送り届けた兵士たち、しかしまもなく戦争は終結。

ドイツの収容所を制圧した兵士たちがそこでみたのはドイツ軍が捕まえたソ連からの斥候たちの処刑のリストファイルだった、そしてそこにはイワンの名が・・・・


処刑される寸前に見たであろうイワンの幻想は愛くるしい少女と一緒に浜辺を駆け抜ける場面でした。

タルコフスキーならではの映像美の世界とサスペンス色あふれるストーリー展開、そして悲劇的なラストに見せる切ない現実への警告。完成度の高い見事な作品でした。
http://d.hatena.ne.jp/kurawan/20100510


▲△▽▼

19 :無名画座@リバイバル上映中:2006/02/25(土) 18:52:48 ID:nrY8uN4r

原作は「イワンの少年時代」というタイトルですよね。

でも何だか皮肉な題だなあ。少年時代を少年のまま過ごすことも叶わず、
戦争によって踏みにじられ、大人にならざるをえなかったイワン。

回想シーンがあどけない笑顔を浮かべてたのに、現実のシーンでは微笑を忘れた
一切感情を押し殺した表情をしてたのが余計に哀しい。


25 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 10:25:13 ID:za8+WElc
もし、記憶違いなら悪いけど少年のお母さんが腋毛生やしてたような・・・


26 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 14:54:33 ID:pWzQBXUM
おっ、いいところに目をつけましたね。なかなか目ざといですな。
あのお母さんはどうも色っぽすぎていかんです、ハイ。

28 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 21:33:09 ID:BSZv+BGP
いや、ほんとに。
少年の回想シーンとは思えないほど肉感的ですね。


『鏡』を観ててもそう思うんですが、

どうもタルコフスキーにとって母親というのは
そういう肉感的な存在としてイメージされるみたいです。


29 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/10(金) 21:02:41 ID:G7Eo1+60

母親役はイリーナ・タルコフスカヤ。


30 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/11(土) 13:38:57 ID:UEITlvEh

おそらくイリーナ・タルコフスカヤさんは監督の最初の奥さんではないかと。
(同姓同名でなければ、イリーナという奥さんがいたはず)


38 :無名画座@リバイバル上映中:2006/05/12(金) 17:13:15 ID:9534X0Wy
浜辺で母が手を振って立ち去ろうとするところ恐いぐらい。


48 :無名画座@リバイバル上映中:2006/09/03(日) 23:38:29 ID:VbWH5bGO
ラストの水はすごかった
http://mimizun.com/log/2ch/kinema/1139048950/


▲△▽▼


アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。

父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。


『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html
メンテ

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タルコフスキー 映画『アンドレイ・ルブリョフ 1966年』 ( No.1 )
日時: 2022/05/15 06:38
名前: スメラ尊 ID:QhNEiVps

タルコフスキー 映画『アンドレイ・ルブリョフ 1966年』


動画(英語字幕)
https://www.youtube.com/results?search_query=Andrey+Rublyov


監督 アンドレイ・タルコフスキー
脚本 アンドレイ・コンチャロフスキー、アンドレイ・タルコフスキー
音楽 ヴャチェスラフ・オフチニコフ
撮影 ワジーム・ユーソフ
製作会社 モスフィルム
公開 1971年12月24日

キャスト

Andrei Rublyov アナトリー・ソロニーツィン
Kirill イワン・ラピコフ
Danil ニコライ・グリニコ
Feofan ニコライ・セルゲニフ
Boriska ニコライ・ブルーリャーエフ
A half-witted girl イルマ・ラウシュ
The Grand Duke ユーリー・ナザーロフ
The Duke the younger ユーリー・ナザーロフ
A Strolling Player ローラン・ブイコフ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%95_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

▲△▽▼

映画のストーリー


〈第一部・動乱そして沈黙〉

一四〇〇年。降りしきる雨の中、三人の僧侶が田舎道を急いでいた。アンドレイ・ルブリョフ(A・ソロニーツィン)とキリール(I・ラピコフ)とダリール(N・グリニコ)は、モスクワのアンドロニコフ修道院の同じ僧房で神への奉仕と絵画の修業に十年近い歳月を過ごした研鑽の仲間たちである。

三人は雨やどりで立ち寄った丸太小屋で陽気な旅芸人が、富裕階級の聖職者の道徳的廃退を面白おかしい物語にして歌い踊るのを見たが、途中で一度キリールが小屋から姿を消した理由をアンドレイもダリールもそのときは気づかなかった。いきなり三人の騎兵隊がきて旅芸人をムリヤリ連れ去ったのはその直後のことだった。支配階級への民衆のささやかな抗議はいつもこのようにして圧殺されていたのだ。

一四〇五年。ある旅の途中で、キリールはフェオファン・グレク(N・セルゲエフ)に出会った。乞食坊主のような風態ながら、この男こそ国にならぶ者なきイコン(聖像画)の名匠だ。自分の画才がアンドレイにはるかに及ばぬことを知っているキリールはフェオファンに取り入りモスクワの寺院にイコンを描く仕事をもらうとそのための大公からの招請状を自分にあて修道院へ届けてほしいこと、それもアンドレイの見ている前で自分に手渡してほしいことを約束させたが、意外にも大公から届いた招請状はアンドレイあてであった。賢明なフェオファンはいち早くキリールの魂胆を見抜いたのだ。落胆と憤懣からキリールは逆にアンドレイを出世欲のかたまりと決めつけ、宗教界の堕落を罵って、僧職を捨て俗界へ飛び出してしまった。

一四〇六年。モスクワでのアンドレイの新しい生活が始まった。弟子たちの協力を得て彼は連日寺院の白い壁に向かったが、絵筆は一向に進まなかった。ペストがはびこり、飢饉がうち続き、民衆が年貢の高さに苦しめられながらしかもなお、無為な生活に甘んじているという現在の暗黒世界は早く終わらねばならない、そして人間は自分たちの力で地上に幸福を作りださねばならない−−そう信じているアンドレイには、たとえ「最後の審判」を壁画にするにしても、今までのように古い伝統をそのままなぞってキリストや使徒たちの周囲に地獄の釜ゆでの残酷な光景や悪魔の恐しさをただ毒々しく彩って描くことが耐えられなかった。彼が描きたいのは“愛”であった。忍耐と寛容に充ちた神の愛なのであった。

〈第二部・試練そして復活〉
一四〇八年。タタール人の突然の襲来はその頃であった。大公と公弟の争いに端を発したこの襲撃はロシア国内を地獄図に変貌させ、塁々たる屍の山を築き上げ、寺院をも血の海にして火を放った。

殺戮の嵐が通りすぎたあと、生きて堂内に残ったのはアンドレイと彼が助けた知的障害者の少女(I・ラウシュ)とフェオファンだけだった。

アンドレイが絵筆を捨てる決意をしたのは、その日である。少女の生命を救うためにせよ人をひとり殺してしまったことが彼の心をさいなんだからだが、理由はそれだけではなかった。同じロシアの土地で同じ信仰のもとに生きる者同志がなぜこのような殺し合いをせねばならないのか? もはや彼は人を信ずることが出来ず、ただ労働に生きる決意をかため、アンドロニコフ修道院へ戻っていった。

一四一二年。大飢饉が三年も続き、長い冬はいつまでも終わろうとしない。そんなある日、キリールが修道院へ戻ってきた。彼はかつての醜い出世欲とも無縁の人間になっていたが、旧交が戻った彼の前でも相変わらずアンドレイは言葉を知らぬ者のように無言の行を守り続けていた。

一四二三年。ロシアはなお暗黒の中にあったが、その底に秘めた生命力を諸外国に示威するため、大公は教会の頂きに飾る巨大な鐘の鋳造を技術者たちに命じた。しかしその鋳造の名人と言われた男はすでに死んでいて、そのひとり息子ボリースカ(N・ブルリャーエフ)が生前に父から秘訣を教えられたと主張するのを半信半疑ながら、彼をリーダーに、ともかく作業が開始された。まず最良質の粘土さがしから始まり、それを固めて作り上げた鐘の鋳型に、これまた彼ら自身の力で築いた溶鉱炉から銅を流し込むまで、技術者たちの不眠不休の努力は、まさに生命をけずる凄まじさで、ことにボリースカの創造への情熱は狂気じみて凄絶だった。その少年の姿を沈黙のうちに見守るアンドレイの瞳にも感動の色はかくせなかった。

ようやく完成した大鐘が各国からの使節団の前で、ロシアの大空に高らかな音を鳴り響かせたあと、大地につっ伏して号泣する少年にアンドレイは初めて近寄った。「父が鋳造の秘訣を教えてくれたなどといったのはウソだった。ただ鐘を自分で作りたくて……」。無邪気な少年にかえって泣きじゃくるボリースカを抱き寄せて、アンドレイはやさしくいった。「泣くことはない。お前は立派にやりとげたではないか。私はもう一度絵筆をとってお前と一緒にやっていこう」。十五年ぶりに彼の口から出た言葉だった。

古代ロシア美術史の今も燦然と輝くイコン美術の巨匠アンドレイ・ルブリョフの偉大な画業への出発は、実にこの瞬間から始まったのであった。
https://movie.walkerplus.com/mv12430/


▲△▽▼


アンドレイ・ルブリョフ

アンドレイ・ルブリョフ(ロシア語:Андре́й Рублёвアンドリェーイ・ルブリョーフ;ラテン文字表記の例:Andrei Rublev、1360年頃 - 1430年)はロシアの修道士、15世紀ロシア、モスクワ派(ルブリョフ派)における最も重要な聖像画家(イコン画家)のひとりである。

正教会では聖人とされ、記憶日は二つある(ユリウス暦:7月4日・1月29日、グレゴリオ暦換算:7月17日・2月11日)。

師にフェオファン・グレクがいる。
1405年頃修道士となりアンドレイの名を用いるようになった彼の作品のうち、もっとも重要なものは、創世記17章に材を取った『至聖三者』(聖三位一体)のイコンである(114cm×112cm、板、テンペラ)。アブラハムの許を3人の天使が訪れたという旧約の記述は、古くから正教会では「旧約における至聖三者の顕現の一つ」として捉えられ、アブラハムとサラによってもてなされる3人の天使の情景はイコンにも描かれてきたのであるが、3人の天使の情景のみが取り出されて描かれているのがこのイコンの新しい特徴である。

この作品はもともと知人である修道士の瞑想のために書かれたものであったが、後に(1511年頃?)ロシア正教会は教会会議でルブリョフの図像を、三位一体の唯一正当な聖像として認めるようになった。正教会に属さないカトリックでもルブリョフの『至聖三者』を用いることがある。

『至聖三者』は1904年ごろ再発見、修復された。

彼の様式に倣った聖像画家の一派をルブリョフ派と呼ぶ。

彼を題材とした映画『アンドレイ・ルブリョフ』(1967年、監督:アンドレイ・タルコフスキー)は1969年カンヌ国際映画祭の国際批評家賞を受賞している。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%95

 

▲△▽▼

タルコフスキー アンドレイ・ルブリョフ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=x6kqlveBhVY


51:30 から 異教徒の女性 マルファ との対話


ルブリョフ
君は恐怖のなかで生きている、なぜなら君が知っているのは愛ではなくて獣欲なのだ。
魂のない肉欲、しかし愛は兄弟愛のようであるべきだ。


マルファ
すべての愛は同じではないの?
ただの愛なのよ。


▲△▽▼


アンドレイ・ルブリョフはキリスト教のあり方に疑問を持ちます。

先輩画家からは、愚かな人間たちなどどうでもいいじゃないか、画は神のために描くものだと諭されます。

先輩画家は、愚かな人間たちの上にはもうすぐ最後の審判が下るぞと言います。

しかし、アンドレイ・ルブリョフは先輩画家の言葉に納得ができないのです。

アンドレイ・ルブリョフはモスクワ大公から依頼された修道院の壁画「最後の審判」を描くことができません。


そんなある晩、アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りに迷い込みます。


すでにキリスト教化していたロシアでは、アニミズム信仰を持つ人びとが異教徒と呼ばれて、教化の対象になっていました。

森の奥から響くざわめきを聞きつけたアンドレイ・ルブリョフは好奇心に勝てずにひとりで奥へ奥へと進んでいきます。

裸の女たちが松明を持って川に飛び込んでいました。

アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りを垣間見ます。

小屋の中では、ひとりの女がはしごをのぼっては飛び降りてを繰り返しています。

女が飛ぶごとに着物がはだけて女の裸体がちらつきます。

アンドレイ・ルブリョフがそんな光景に見とれていると、男たちに「黒い悪魔がいたぞ」とつかまって小屋の中にひきずりこまれて縛られてしまいます。


アンドレイ・ルブリョフは、

「何をする、やめてくれ、お前たちは、最後の審判が恐ろしくないのか」

などと口にします。

小屋の中にはアンドレイ・ルブリョフと女が残りました。

翌朝、アンドレイ・ルブリョフはうしろめたそうな顔をして村をあとにしました。
全裸の女がうるんだ瞳でアンドレイ・ルブリョフのうしろ姿を見送ります。


異教の女マルファとの会話

マルファ
なぜあなたは頭を下にしたいの?
気分がもっと悪くなるのに。
なぜあなたは天の火でわたしたちを脅すの? (ルブリョフが「最後の審判」を口にしたことへの反感)


ルブリョフ
裸になって君たちがしようとしていることは罪なのだ。


マルファ
何の罪ですって?
今夜は愛しあうための夜なの。
愛しあうのは罪なの?


ルブリョフ
こんなふうに人を縛り上げるのは愛なのか?


マルファ
あなたが他の修道士をよぶかもしれないからよ。
あなたの忠実さをわたしたちが受け入れることを強制しようとする人たちよ。
あなたは恐怖の中で生きることが容易なことだと思っているの?


ルブリョフ
君は恐怖のなかで生きている、なぜなら君が知っているのは愛ではなくて獣欲なのだ。
魂のない肉欲、しかし愛は兄弟愛のようであるべきだ。


マルファ
すべての愛は同じではないの?
ただの愛なのよ。


マルファはルブリョフに近づきキスをする。 
http://foonenbo.asablo.jp/blog/2010/03/21/4962351



▲△▽▼
アンドレイ・ルブリョフ 神谷武夫
http://www.kamit.jp/19_gerzen/rublyov.htm


ネルリ河畔の ポクロフ聖堂
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xnerl.htm


 過酷な運命に翻弄された建築家、アレクサンドル・ヴィトベルクのことを想うとき、私には もう一人のロシアの芸術家、アンドレイ・ルブリョフ (1360 頃-1430) の姿が それに重ねあわされる。というよりも、20世紀の映画作家、アンドレイ・タルコフスキー (1932-86) が 描いたところの画家『アンドレイ・ルブリョフ』の内面、と言ったほうが よいかもしれない。

 中世のロシア、15世紀はじめに ウラジーミルの ウスペンスキー大聖堂や モスクワの アンドロニコフ修道院聖堂などで 壁画やイコンを制作した この画家の生涯について、史実はあまり多くを語ってくれない。したがって 映画のルブリョフは、ひたすらタルコフスキーの想像力によって作られた エピソードの積み重ねによって描かれている。それらのエピソードとは「旅芸人 1400年」、「フェオファン 1405年」、「アンドレイの苦悩 1406年」、「沈黙 1412年」、「鐘 1423年」と題される8章から成り、それらの年号から、映画は ルブリョフの壮年期の 23年間を扱ったことになる。

 その背景として表現されているロシアは あまりにも暗い、まさに暗黒の時代である。モスクワ大公兄弟どうしの憎悪、タタール・モンゴルの侵攻、しいたげられる民衆、戦争と殺戮、そうした中で生きるルブリョフの姿もまた 苦悩に満ちている。

 映画が日本で公開されたのは、今から 29年前(1974年)の冬、銀座と新宿の "アート・シアター" において だった。タルコフスキーの名を 世に知らしめた『僕の村は戦場だった』は、それよりも さらに9年前だったから、当時の私は見ていず、『アンドレイ・ルブリョフ』が 最初に見たタルコフスキーの映画だった。 初めて聞く名前の監督であり、何の予備知識もなかったが、何かありそうだ という予感をもって見に行ったその映画は、モノクロ・フィルムである上に、暗いタッチの映画だった。しかし、その時に受けた深い感動は忘れられない。それは、私の心の中にも暗い気分が満ちていたから だったかもしれないが、さらに タルコフスキーに ゲルツェンの姿が重ねあわせられたからでもあった。



アンドレイ・ルブリョフ『三位一体』
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xtrinity.htm


 けれども、アンドレイ・ルブリョフの代表作とされるばかりでなく、ゾートフによれば「中世ロシア・ルネサンス美術の最高傑作である」とされるイコン画『三位一体(トローイツア)』 を見ると、そこには 輝くような平和な光と、透明感あふれる 慈愛の気分が満ちている。それは 彼よりも1世紀前のイタリアの画家・ジョットーが パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂や アッシジのサン・フランチェスコ聖堂に描いた、心を洗うような清澄な壁画を髣髴とさせよう。それなのに、映画の中のルブリョフは、なぜ こんなに暗いのだろうか。

 「フェオファン 1405年」で描かれるエピソードは、ノヴゴロドのスパース・プロブラジェーニエ聖堂の フレスコ画を描いた画家、フェオファン・グレーク (1350 頃-1410 頃) の助手を ルブリョフが勤めた、という史実にもとづいている。フェオファンとは 名前が示すように もともとギリシア人(グレーク)であり、本来はテオファネスという。ジョットーにとっての師・チマブエにも相当するフェオファンは、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)からロシアにやって来て、ビザンチン絵画の技法をロシアに伝えた。ルブリョフは 彼の壁画制作に協力しながら、写実的であるよりは象徴的な その方法を身につけ、さらに それをロシア化する。

 その天上の世界のような 清らかで純粋な感覚表現によって、ルブリョフは中世ロシア最高の画家と讃えられるようになるのであるが、映画の このエピソードは、まだルブリョフがフェオファンの助手となる前を描いている。

 ルブリョフの競争相手でもあった修道士 キリールが、フェオファンのアトリエを訪ねる場面がある。彼が モスクワの街を歩いていくと、その背後で「おれは無実だ!」と叫ぶ男が 無理やり断頭台に かけられようとしている。その騒ぎを家の中で聞いたフェオファンは、「やめなさい、一体いつまで その男を いじめるつもりだ。あんたたちも 彼に劣らず罪人なのに、裁くとは恥知らずだ」と、窓から叫ぶ。映画全体のストーリーとは関係のない、こうした場面を挿入するというのが、この映画全体の手法であって、この場面ひとつでも、当時のソ連支配層(スターリニストたち) の禁忌にふれただろうことは 容易に想像できる。

 さて、フェオファンは職業的な画家であったから 宗教に対して自由であったが、ルブリョフは修道士としての画家であったから、画家である以前に 宗教的な倫理に従わねばならない。タルコフスキーは そこに 屈折した魂の軌跡を想像して、そうした彼の苦悩を この映画の根幹にすえた。

 次のエピソード「アンドレイの苦悩 1406年」において、民衆とは いかなるものかについて、ルブリョフとフェオファンに議論をさせるのである。フェオファンは、「人間は忘れっぽい動物だ。過去の失敗を忘れて 悪行をくり返している。進歩なんてものは 全然ない。イエスが再臨しても、また磔(はりつけ)にするだろう」と言う。

 ルブリョフの脳裏をよぎるのは、十字架を背負い 押しつぶされそうになりながら ゴルゴタの丘を登っていく イエスのイメージである。ユダヤの民衆にも 弟子にも裏切られて、雪のロシアで磔刑につくイエスの映像は、ルブリョフの晴朗な『三位一体』のイコン画と比べて、いかにも沈鬱である。民衆は「みんな同じ愚かな仲間なんだ。悪は至る所にある。わずかな金で裏切る人間もいる。大衆は災難続きだ。それでも彼らは黙々と働いている。不平も言わず、十字架を背負って歩いているんだ。イエスは死を選んだ。それは人の世の残酷と不正を教えるためだ」とルブリョフは言う。

 そして映画は「襲来 1408年」のエピソードで、モスクワ大公兄弟の争いに乗じて攻め込んだタタール軍による、ウラジーミルの襲撃と殺戮を描く。後にゲルツェンの流刑地となる ウラジーミルの町である。 "タタール" とは、中国では韃靼人と呼ばれた モンゴル系の遊牧民で、彼らは 14、15世紀にたびたびロシアを攻撃し 支配した。このタタール族に蹂躙された時代を、ロシア史では "タタールのくびき" と呼ぶ。ウラジーミルの町は焼かれ、大公と市民が たてこもるウスペンスキー大聖堂も破壊されて、暴行と殺戮が行われる。

 その時、犯されそうになった白痴の娘を助けるために、ルブリョフは斧で一人の兵士を殺めてしまう。しかも その兵士はタタールではなく、タタールと結んだ大公の弟軍のロシア人同胞、キリスト教徒だった。



映画『アンドレイ・ルブリョフ』のチラシ


 戦のあと、廃墟のようになったウスペンスキー聖堂で、亡霊として現れたフェオファンに ルブリョフは言う。「私は決心した、私は絵を捨てる」と。なぜ、との問いに、人を、ロシア人を殺めたからだ と答える。フェオファンは「悪は 人間の形でこの世に現れる。だから 悪を倒すための人殺しもあるさ。神は許して下さるだろう。だが 己を許すな。罰しながら生きるのだ。すべきことは、聖書にあるとおりだ。"善をなすことを覚えよ、真実を探せ。悩むものを救え、孤児にやさしくせよ。そうすれば、お前の罪は軽くなるだろう。罪に汚れたその身も、雪のように潔白となろう" と書いてある」と言って、自分に厳しくなりすぎないよう 求める。しかしルブリョフは きかず、「許しを乞うために、無言の行に入る。これからは、一切 口をきかない」と答える。その無言の行の実践を描くのが、映画の次のエピソード「沈黙 1412年」である。

 この寓意は何だろうか? 私には、戦争中の林達夫 (1893-1984) の "沈黙" が思い出されるのである。国家が 太平洋戦争の総力戦へと突き進むにつれて、かつての社会主義者はおろか、自由主義者でさえも大政翼賛会に身をゆだねて、"神国日本" が "鬼畜米英" を倒すのだと 戦争を謳歌するとき、正気のある人間だったら、沈黙するほかはない。当時、林達夫がマイナーな雑誌の片隅にわずかに書き残した文章は、こう語っている。


 こうして私は、時代に対して 完全に真正面からの関心を喪失してしまった。 私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ 空語、空語、空語! としてしか感受出来ないのである。私は たいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。余りに見え透いているのだ。私は、そんなものこそ有害無益な "造言蜚語" だと、心の底では確信している。 救いは絶対に そんな美辞麗句からは来ないと断言してよい。(「歴史の暮方」)

 友人だとばかり思っていた学者や知識人が、軍国主義になだれ込んでいく。 数年後に戦争に負ければ、たちまち手のひらを返して "平和主義者" になる連中なのだが。


 私は あまりにペシミスティックなことばかり 語ったかもしれない。だが、正直のところ、哲学者ならば、プラトンのように ユートピアを書くか、ボエティウスのように『哲学の慰め』を書くかする外には手がないような時代のさ中にあって、威勢のよいお祭りに、山車の片棒かつぎなどに乗り出す気などは 一向に起こらぬ。絶壁の上の死の舞踊に参加する暇があったなら、私ならば エピクロスの小さな園を せっせと耕すことに努めるであろう。これは現実逃避ではなくして 生活権確保への 行動第一歩なのである。(「新スコラ時代」)

 戦争中、彼は庭造りに精をだしたが、言論人としては 全く沈黙した。それが本当の 知識人の良心というものだ。戦争中の日本の建築家たちが どのような発言をし、どのような図面を書いたかは、今度の藤森照信の『丹下健三』に詳しく書かれている。文化人たちが 良心を裏切って権力に迎合する そうした状況は、帝政ロシアの時代にもあった。そして、革命後のスターリン・ロシアの時代には一層、そうであった。タルコフスキーは、それを中世におけるイコン画家の行為によせて、シンボリックに描いたのである。この映画には、中世の時代に見せかけながら、ソ連の窒息しそうな社会体制に対する批判が 至るところに込められている。そう、これこそ ゲルツェンの仲間の歴史家・グラノフスキーの方法だったのである。

 ルブリョフはフェオファンに問う、「こんな時代が 一体いつまで続くんだ?」と。フェオファンは、「分からん、永遠にだろう」と答える。ロシアの暗黒の中世も、近世の帝政時代も、そして近代のソ連邦の時代も、さらにまた 我々が生きる現代も、歴史は永遠に繰り返し続ける。歴史家グラノフスキーは モスクワ大学公開講座で、暗い中世を論じながら、それを 19世紀の帝政ロシアと重ね合わせて、黙示的にツァーリズムを批判した。タルコフスキーは 『アンドレイ・ルブリョフ』において、中世ロシアと帝政ロシアと、さらに 20世紀のソヴィエト・ロシアとを重ね合わせて描いたのである。



映画『アンドレイ・ルブリョフ』の飛翔シーン
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xflying.htm

 この映画が ソ連で上映禁止になり、5年もの長きにわたって お蔵入りしたのは 当然のことであったと言える。言論を抑圧する側を 最も刺激したのは、おそらく冒頭の「プロローグ」であったろう。これもまた 本編の筋とは何の脈絡もなく挿入されている 幻想的なエピソードである。

 川に面した とある古い聖堂に、追手の追撃を逃れてきた男が着くと、すでに用意されていた熱気球に乗って、聖堂の屋上から 空中に飛翔するのである。驚愕した人々が見守る中で、何者とも知れぬ "飛ぶ男" は、「俺は飛んだ、俺は飛んでいるぞ」と歓喜の叫び声をあげる。しかしそれも束の間、まもなく気球は破れ、男は地面に墜落して崩れ去るのである。

 人は、抑圧の現実世界を脱して、自由の世界へ飛翔しようと 夢見る。しかし 現実の絆や権力による束縛は強く、自由は容易に得られない。たちまちのうちに 包囲網にからめとられ、沈黙させられてしまう。事実 タルコフスキーは、この映画をつくったことによって、その後の5年間を沈黙させられたのである。ソ連では 映画はすべて官製であったから、当局の許可がなければ映画を撮ることはできない。フルシチョフによるスターリン批判 (1956年)があっても、強固な体制は簡単には変わらない。"飛ぶ男" のシーンは、タルコフスキーによる "内面の叫び" のような 体制批判だったろう。

 私はまた、現代日本の流行歌手の中で、唯一 聴くことを好む 中島みゆき (1952- ) の歌に 思いをはせる。「この空を飛べたら」という 彼女の作詞・作曲になる "自由への希求" の歌は、『アンドレイ・ルブリョフ』の この場面に触発されて作られたのではなかろうか。


"空を飛ぼうなんて 悲しい話を   いつまで考えているのさ "
" 暗い土の上に 叩きつけられても  こりもせずに 空を見ている "
" ああ 人は 昔々 鳥だったのかもしれないね  こんなにも こんなにも 空が恋しい"

 この映画のずっと後、私はもう1本、"飛ぶ男" の映像を見ることになる。 それはフランスの太陽劇団を率いる アリアーヌ・ムヌーシュキン(1939- )が脚本・監督をした『モリエール』であって、そこでは "自由への希求" が いとも たやすく実現されていた。1983年 8月 6日、岩波ホールで それを見た日の日記には、こう書いてある。


 映画『モリエール』の初日。素晴らしい映画だった。4時間という長さに、終りの方は少々沈んでしまったが(それが宮廷を舞台とするようになったからか)、とりわけ 前半は感動的で、思わず 涙ぐんでしまうほどだった。それは ストーリーが感動的だったわけでもなければ、悲嘆の場面があったわけでもない。その演劇的で祝祭的な映像空間と、そこで繰り広げられる遠い時代の人間たちの夢と希望の燃焼が、あまりにも美しかったからである。

 汚い街角の大道芸人たちによる いかがわしい祝典の頭上を、いかつい人造の翼をつけた "飛ぶ人間" が出現した時には、あの『アンドレイ・ルブリョフ』の冒頭シーンを思い出した。そして、こちらは失敗もせず、軽やかに、自由に飛び続けるのである。

 中世と 帝政ロシアと ソヴィエト・ロシアを重ね合わせた、暗い社会の谷間に "飛ぶ男" は墜落し、神を恐れぬふとどきもの と捕えられるモノクロの映像に比べて、極彩色のモリエールは まさしくルネサンス人、青く澄み切った空を背景に "飛ぶ男" は、社会の絆、運命のいましめを断って、自由の未来をめざして飛び立っていくのである。  Oh, Liberté ! Oh, Liberté !



映画『モリエ-ル』の 飛翔シーン
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 王政を倒して 共和制を実現させた実績感に裏打ちされて、フランス人には 未来への自信と楽天性があるのだろうか。その反対にロシアは デカブリストの乱以来、絶えず改革運動がつぶされて 抑圧の重みに押しつぶされてきたから、ロシアの文学、芸術には 常に悲劇性がつきまとう。ロシア文学に登場する人物たちには、というより ロシアの芸術家たちには、しばしば 人類の苦悩を一身に背負っているような趣がある。トルストイもそうであったし、ドストエフスキーも、画家のイワーノフもそうであり、そしてタルコフスキーもまた その最後の作品となった『サクリファイス』において、そうであったように見える。

 ところで、『アンドレイ・ルブリョフ』の飛翔シーンの舞台となった聖堂は、落合東朗の『タルコフスキーとルブリョフ』(1994年、論創社刊)にも書いてないのだが、ウラジーミル郊外の ボゴリューボヴォにある、

「ネルリ河畔のポクロフ聖堂」 (1165年)
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xnerl.htm


である。 初期ロシア建築の傑作と うたわれている珠玉の聖堂だが、さらにまた不思議なことには、『ロシア建築案内』にも この聖堂は紹介されていない。

 このネルリ河は雨季に増水して、聖堂の敷地は小さな島のようになる。水面に姿を映す白亜の聖堂は、小規模ながら凛とした気品をたたえている。きっとタルコフスキーは、ロシアの古典建築の中でも、とりわけ この聖堂が好きだったのだろう。映画では "飛ぶ男" から見た、聖堂の高い位置の壁面彫刻も写されている。

 しかしながら、この映画で誰もが一番感動するのは、最後のエピソードであろう。そのタイトルは「鐘(コロコル)」という! あの日、映画を見ていて、このタイトルが出てきた時、私は思わず ゲルツェンの「鐘(コロコル)」誌 を連想したのである。

 モスクワ大公は 新しい聖堂のために、鐘造りの職人を さがさせた。ところが 疫病によって職人の親方たちは 皆死んでしまっていた。しかし 鋳物師の息子だった少年・ボリースカは、自分は父親から 鐘造りの秘密を教わっている、と嘘をついて、鐘造りの責任者の地位を獲得する。嘘がばれたら どうしよう という恐怖心と戦いながら、彼は必死で鋳型に使う 特上質の粘土を探し、大勢の職人たちに采配を振るって鋳型を造り、十分な量の銅と銀を用意させ、ついに火をいれて流し込む。
 奇妙なことに、このエピソードでは 少年・ボリースカが主人公であって、ルブリョフは脇に退いてしまう。無言の行を続けているルブリョフは、時々傍らから 気遣わしげに ボリースの悪戦苦闘を見守っているだけだ。

 ようやく 鐘は ひび割れもせずに できあがり、鋳型をはずすと、大公や外国の使節たちが訪れ、その衆目の前で鐘を吊り上げて、初めて鳴らしてみせる時が来る。この大鐘を吊り上げるには 巨大な足場を組み、四方八方にロープを張って、大群衆が力をあわせて引く。しかし外国の賓客は、「聖母マリアに誓って言うが、この鐘は鳴らんよ。これは鐘などと言えるものではない」とつぶやく。

 誰もが 不安の気持で注視する中、撞木を振って打ち当てると、鐘は 堂々たる音を立てて、みごとに鳴るのである。激しい緊張感が破れるとともに 感極まった少年は、野に倒れこんで泣きじゃくる。その時ルブリョフが現れて、父親のように少年を抱え起こし、初めて沈黙を破って、「泣くな」と言う。

 ボリースカは「父さんは 秘密を教えてくれなかった。ひどい親さ」と言いながら 泣き続ける。ルブリョフは、「立派にできたじゃないか。何を泣くんだ、祝うべき日だぞ。さあ、もういい、元気を出せ。もう泣くな、私と一緒に行こう。 私もまた絵を描く。お前は鐘を造れ」と 声をかけ続ける。画家、アンドレイ・ルブリョフの復活である。

 ここで不意に画面はカラーとなり、「エピローグ」として、ルブリョフが描いた イコン画のディテールを なめるように映し出していく。



アンドレイ・タルコフスキー (from website "Nostalghia com")


 こうして映画を見終わった時、私は、この監督は必ずや ソ連から亡命するだろう と直感した。これほど批判精神に満ち、自由への希求を持ち続ける芸術家が、いつまでもソ連にとどまっていられるわけもない、と思ったのである。タルコフスキーは、まさに映画上の ゲルツェンだと思われた。

 たとえば、この最後の 鐘のエピソードが いかに感動的であろうと、映画全体の筋から言って、いかにも唐突である。アンドレイ・ルブリョフの生涯を描く上で、不可欠のエピソードであったとは、とうてい思えない。タルコフスキーがこのエピソードを 強引に最終章にいれたのは、鐘を鳴らせたかったのではないか。ノヴゴロドの "自由の鐘" を。ゲルツェンが ノヴゴロドの鐘を鳴らせようと 「コロコル」 誌を発行したように、タルコフスキーは鐘を鳴らし、民衆(ナロード) をして、空を飛ばせたかったのではないだろうか。

 また、この映画を あらためて DVDで見て、私は思う。そもそも タルコフスキーは アンドレイ・ルブリョフという 一芸術家の生涯を描きたかったのだろうか? ゾートフが言う "ロシアの真の芸術的天才のシンボル" であるところの ルブリョフの生涯を? 彼は公式には そのように語っている。しかし、それにしては ルブリョフの芸術家としての主張や創作過程は ほとんど描かれていない。映画の最後にルブリョフの作品群が、突然カラーになって映し出されるのも、とってつけた感じがしないであろうか?

 タルコフスキーが描こうとしたのは、なによりも、人間の尊厳や 言論の自由を圧殺する ソ連の体制への批判だったのではないか。ゲルツェンが 生涯をかけて帝政ロシアを批判し、人間の自由と尊厳を回復しようとしたように。それだからこそ、この映画は当局によって 上映禁止にされたのである。

 タルコフスキーがソ連を出たのは、私の予想よりもずっと遅かった。それは、私がこの映画を見た 8年後の 1982年で、イタリアで『ノスタルジア』を撮るためだった。ゴスキノ(国家映画委員会)による攻撃のせいで、「20余年間 ソヴィエトの映画界にいて、およそ 17年のあいだ、絶望的な失業状態にあった」 というのは、まさに流刑中の建築家 ヴィトベルクのような思いであったろう。『ノスタルジア』を撮り終わったあとも 彼はロシアには帰らず、1984年に 事実上の亡命宣言をする。

 もしも タルコフスキーが その2年後、54歳の若さで死ぬ というようなことがなければ、1991年のソ連崩壊にも立会い、祖国に戻ることが あったかもしれない。しかし ゲルツェンと同じように、窒息状態のロシアを去ったあと、ロシアの大地への大いなる愛を抱きながらも、彼は2度と再び祖国の土を踏むことは なかったのである。

 しかし、ロシアに いたたまれなくなって ヨーロッパに亡命していながら、ヨーロッパにもまた絶望せざるをえなかった心情がまた、ゲルツェンとタルコフスキーに共通であろう。亡命宣言の後、二人とも2度とロシアの地を踏むことはなかったが、しかし ヨーロッパに安住の地を見出したわけではなかった。彼らの心は たえず祖国 ロシアに向けられていた と言っていい。

 中国の文学者・巴金 (1904-2005) は "文化大革命" 時に批判され、暗黒の時代を生きたが、その間 ただひたすら ゲルツェンの『過去と思索』を読み、訳しながら耐えたという。ソ連で、映画を作ることを妨げられて 長い不遇の時を過ごしていた タルコフスキーもまた、『過去と思索』を読み、国家によって作品の実現を妨げられた ヴィトベルクの生涯に、自己を重ね合わせていたのではないだろうか。それが『アンドレイ・ルブリョフ』の構想のもとになったのではあるまいか、と思われてならないのである。



映画『ノスタルジア』のチラシ


 タルコフスキーがロシアを出て 最初につくった映画は、イタリアを旅するロシアの詩人(これが どうしても "亡命ロシア人" のように見えてしまうのだが)の心象風景を 詩的に描いた『ノスタルジア』である。この映画のラスト近く、イタリアの ロマネスク − ゴチックの聖堂と ロシアの農村風景が重ねあわされる幻想シーンは 美しく、感動的だった。(これも 亡命ロシア人の "望郷の念" を描いているように映る。)

 その聖堂とは、イタリア中部のトスカナ地方に 廃墟として残る、サン・ガルガーノの シトー会修道院聖堂である。これはイタリアを代表する シトー会修道院建築として名高い カザマリの修道院の分院で、聖堂の建立は 13世紀であるから、母院と同じように ゴチック様式で建てられた。しかしシトー会の修道院は、修道士の観想を妨げるものとして すべての装飾的なものを拒否しようとしたから、尖頭アーチをはじめとする ゴチックの建築言語を用いていても 、後期ゴチックのように骨ばっていず、柱頭彫刻もなく、壁が多い瞑想的な建物となるがゆえに、その建築の性格は 著しくロマネスク的となる。

 また、映画に出てくる もうひとつの聖堂のクリプト(地下聖堂)は、ローマに近い ラツィオ地方の トゥスカーニャにある 聖ピエトロ聖堂のもので、これは純然たる 11世紀のロマネスクである。こうしたロマネスク建築や シトー会の修道院が、タルコフスキーの映画には しっくりと調和する。そこにはルネスンス以後の建築に見られない 深い精神の充足があり、魂の内面に降りていくような 深い静寂がある。それはバッハの音楽のもつ、いわば "抑制された歓喜" ともいうべき性格と同一のものだ。タルコフスキーが これらの聖堂やクリプトを映画の舞台に選んだのは、必然だったと言えよう。私にとってタルコフスキーの映画は、バッハの音楽と ロマネスクの建築と 切り離しがたく結びついている。

 再び 中島みゆきにふれると、かつての彼女の歌は、通常のポピュラー音楽とは異質の 深い内面性に彩られ、バッハの音楽にきわめて近いものであった。その言葉と音の流れは しばしば バッハのカンタータを聴いているような思いにさせるが、彼女の最高作というべき「異国」と「エレーン」は、あたかも "亡命日本人" の "望郷の歌" のように聞こえる。シュヴァイツァーは 長大なバッハの評伝において、バッハの音楽の本質を "晴れやかな死への憧れ" と書いたが、そのことは タルコフスキーの映画にも、中島みゆきの(ロックではない、バラードの)音楽にも言えるような気がするのである。

  
トゥスカーニャの聖ピエトロ聖堂
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xtusca.htm
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xtuscania.htm

 ところで 建築家のヴィトベルクは、「救世主聖堂」のコンペにおいて 新古典主義様式を採用した。それが私には 釈然としないところであった。ゲルツェンが描いたような神秘主義者であり、精神の深みを求めたヴィトベルクに、"アンピール(帝国)様式" とも呼ばれる ナポレオン帝政下の建築様式が ふさわしかったとは思えない。今回 インターネットで彼の図面を見出して意外な感に打たれたのである。

 ヴィトベルクは ロシアから外に出たことがないので、そして ロシアには ロマネスク建築がないので、ロマネスク様式に親しむことは なかったことだろう。しかし、もしも彼がヨーロッパを旅していれば、必ずやロマネスクの聖堂に、彼の性格と一致するものを 見出したはずである。

 彼は最初に手がけた大聖堂でつまずいて、そのまま朽ちていってしまったから、ゲルツェンやタルコフスキーのような 亡命体験を もたなかった。ヨーロッパに亡命すれば、それまでの "西欧派" も、近世ヨーロッパの欠陥を まのあたりにすることになり、それが さらに感覚と認識の深みをもたらしたはずなのだ。

 ゲルツェンがヨーロッパに絶望して、異国の地にありながら ロシアに目を向けなおしたとき、そこにロシアの農民を見出し、1861年 11月の『コロコル』誌に、初めて "ヴ・ナロード"(Going to the people, 人民の中へ)と書いたのである。

 ヴィトベルクは アレクサンドル帝の時代に、ロシアの偉大さを讃えるモニュメントとしての「救世主聖堂」を設計した。そこに付与された性格は、彼に影響を与えた 新古典主義の建築家、ルイ・エチエンヌ・ブレが最も好んだ語 "SUBLIME"(崇高さ)であったろう。しかしアレクサンドルのあとに帝位についた ニコライが支配するロシア帝政には、深く絶望したはずである。したがって、もしもゲルツェンやタルコフスキーのように ヨーロッパに亡命して、「救世主聖堂」を設計し直したとすれば、それはきっと、新古典主義ではなく、ロマネスク様式に近いものであったにちがいない と思う。


*  *  *  *

 私はこのサイトで、時代に虐げられ、迫害の中で 生涯身を屈することなく生きた、ロシアの芸術家たちを描こうとしてきたのであるが、タルコフスキーの映画を論じたついでに、もう1本の古い映画を紹介しておきたい。それはロシアではなく、ポーランド映画である。

 ポーランドの映画監督といえば、アンジェイ・ワイダが最も名高いが、私にとってワイダは『地下水道』でも『大理石の男』でも、"出来事" を描いた監督という印象が強い。ロシア文学のように 人間の内面をより深く描いたのは) イェジー・カワレロウィッチ (1992-2007) ではなかったろうか。私が見た記憶のある彼の作品は、『尼僧ヨアンナ』(1961)、『夜行列車』(1965)、それに『戦争の真の終り』(1957) の3作である。1922年生まれというから、タルコフスキーの 10歳上になる。その後 日本では あまり名前を聞かないが、実際には創作活動を続け、2001年には シェンキェヴィッチの『クオ・ヴァディス』(河野与一訳、1979年、岩波文庫)を映画化したらしい。

 私が見た 3作の内、『尼僧ヨアンナ』と『夜行列車』は 時々名画座などで上映され、ビデオも出ていたから 見た人も多いと思うが、『戦争の真の終り』は ほとんど 知られていないのではないだろうか。私にとって 彼の作品の中で この映画が一番印象深かったのは、映画の主人公が 建築家だったからである。それも、ヴィトベルクと同じように 悲運の建築家なのだった。

 回想シーンで描かれる主人公は 若く、将来を嘱望される建築家で、美しい妻をもらい、洋々たる前途に輝いていた。ところが、第2次世界大戦が勃発し、ドイツ軍とソ連軍がポーランドに侵入して領土を分割すると、運命が一変する。

 彼は出征して捕虜となったのか、あるいはユダヤ人としての受難であったのか、ナチスの強制収容所に入れられて、絶えず虐待を受け、精神に失調をきたすのである。夫を待ち続けた妻も、ついに 彼が死んだものとあきらめ、新しい人生を生きるべく 別の男と愛し合うようになっていた。そこへ突然、廃人のようになった夫が帰ってくると、妻は とまどう。 仕事もできず、時々 てんかん性の発作をおこす夫を、全面的に受けいれることはできない。その妻の態度がまた 彼の症状を さらに悪化させ、ほとんど口のきけない 唖者のようになってしまう。

 彼の回復に期待をかけた4年の後に、彼女はあきらめ、恋人と新しい家庭を持つために、夫の建築家を 廃疾者として田舎に住まわせることを決心する。 それを知った夫は、出かける妻に そっと紙切れを渡す。歩きながら妻がそれを見ると、「私を捨てないでおくれ」と書いてあるのだが、しかし彼女は気持を変えない。それを察した夫は、家人の留守中に 屋根裏部屋で首を吊って死んでしまうのである。 戦後4年、これが "戦争の真の終り" だった、という映画である。



映画『戦争の真の終り』建築家のアトリエのシーン

 この場合の建築家は、特に自由のために戦った というわけではないが、過酷な運命に翻弄されて 悲惨な結末に導かれていった。私がこの映画を見たのは まだ学生時代、封切りではなく、ポーランド映画特集か何か ではなかったかと思う。まだ建築家の卵にすぎなかったのに、なぜか 身につまされるものを 感じてしまったのである。(あとで わかったのだが、この映画は 1965年 8月に、新宿と銀座のアート・シアターで公開された。)

 映画の中の この建築家は、特に気分の良い日には、いかにもヨーロッパの建築家らしい、画家のようなアトリエで、住宅のスケッチ・プランなどを作っていることがある。そこへやってきた妻は、口をきけぬ夫の前で ひとりごとのように言う。

 「今でも町を歩いていて、昔 あなたが設計した住宅の前を通りかかると、思わず立ち止まって、ずっと眺めていることがあるわ」 と。

 自らの意思ではなく、外力によって、設計したくとも設計できない状態に 突き落とされてしまった 建築家や映画作家の姿、それが 最も うら哀しい姿で描かれていたのが、この映画だった。若い私は、なぜか そこに 自分の未来の姿を投影してしまったのである。後に、マフィアによる仕事の妨害は、それを現実のものとするのであるが。

ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/rublyov.htm


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アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー
『アンドレイ・ルブリョフ』に関して

私は、アンドレイ・ルブリョフ、15世紀の偉大なロシアの画家の映画を作りたいのです。

私は、創造者の人格と彼が生きた時代との関連に興味があります。生まれ持った感受性のおかげで、画家は自分の生きる時代のもっとも深い意味を理解し、この意味を全き形で提示することができます。この映画は歴史映画でも伝記映画でもありません。

私は画家の芸術的な成熟の過程と、彼の才能を分析する過程に、すっかり魅了されています。

アンドレイ・ルブリョフの作品は、ロシアのルネサンスの頂点を記録しています。
ルブリョフは私たちの文化史でもっとも傑出した人物のひとりです。
彼の人生と芸術はけたはずれに豊かな素材を含んでいます。

台本づくりに着手する前に、私たちは歴史資料とスケッチを研究しました。
もっぱら、映画で見せることができないのは何かを決定するためにです。
たとえば、私たちは時代様式に、つまり、衣装や風景や言語に、限られた興味しか持っていません。

映画での出来事が実際に15世紀に生じているなと思わせようとして、歴史的な細部にこだわると、観客の関心がそれてしまいます。

時代臭さのない室内装飾、時代臭さのない(しかし適切な!)衣装、風景、現代の言葉ーこうしたことすべてが、もっとも重要なことだけを表現する助けになるでしょう。

映画はいくつかのエピソードで成立しますが、直接論理的に関連づけされてはいません。

しかし、すべてのエピソードは共通の思考の流れで内的に関連することになります。

挿話が年代順に並べられるかどうかはまだ分かりません。

私たちは、エピソードのドラマツルギーが三位一体の壮大なイコンを創造する理念を生み出す頃のルブリョフの人格の進化を内的に暗示するものと首尾一貫させたいと願っています。

それと同時に、正典的な制限とその型どおりの論理と形式を伴った伝統的なドラマツルギーを避けたいと思っています。

それらは、典型的な障害で、生の十全さと複雑さを表現するのを不可能にするものです。(中略)


芸術家を題材にした映画は時々こんなようになってしまいます。

つまり、主人公が何らかの出来事を目撃する、そして観客は彼が熟慮に沈むのを見守る、最後に彼は自分の思いを作品に表現する。

私たちの映画でルブリョフがイコンを描く場面はありません。

彼は人生を生きていくだけです。

エピソードのすべてに登場するわけでもありません。

映画の最後の部分、そこだけはカラーで撮影するつもりですが、そこはルブリョフのイコン画に捧げられます。

イコンしか映しません。

ドキュメンタリーのように、細かいところまで、きちんと見せるつもりです。

イコン画が映されるたびに、同じ音楽のテーマが流れます。
そのイコンの理念が現れる時代に対応するルブリョフの生の局面で鳴り響いたテーマです。

映画のこのような構造は、その目標から必然的に導き出されます。

つまり、人間性の弁証法を提示して、彼の精神の生を検証したいと思うのです。


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 このインタヴューは、『アンドレイ・ルブリョフ』製作の初期の段階でなされた。

 若々しく、新たな理念に燃える監督の姿が鮮やかに映されている。

たぶん、この時期に、自分のこのような試みが多くの反発と猛烈な批判を生み出すとは思っていなかっただろう。

撮影は困難を極め、同志コンチャロフスキーとの反目、そして決別が待っている。
追いつめられた彼は命を削るような撮影を決行して、農民に文字通り殺されそうになる。

映画は完成しても5年間上映禁止になる。

無断でフランスの映画会社が出品したカンヌで国際批評家大賞を受け、そのためにソ連国内で立場はますます追い詰められる。

 しかし、そこから出会いも生まれた。

『アンドレイ・ルブリョフ』を見たクラウディオ・アバドは感激して、後に自分の指揮するムソルグスキー『ボリス・ゴドノフ』の演出を依頼し、実りある友情が始まったのだった。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/rublov.html


Tarkovsky on Tarkovsky 『アンドレイ・ルブリョフ』


映画の最も重要な慣例のひとつは、映画のイメージは私たちが見聞きする実際の、自然の、生きた形態でのみ体現できるということだ。

私たちが提示するものは自然主義的でなければならない。

私が自然主義と言うとき、実在の不愉快な側面に執着するという否定的な意味ではなく、映画的なイメージの感覚知覚におけるその役割という意味だ。

スクリーンに描かれた夢は、生そのものの自然の形態と同じように明確に目に見える要素で構成されていなければならない。

映画はルブリョフに関するものです。

…しかし私たちにとって映画の真実の精神的なヒーローは、ボリスカです。

映画の狙いは、非常に困難な時代から出現する伝染性の、狂熱のエネルギーを示すことです。
つまり、そういうエネルギーがボリスカのなかで目覚めて、燃えさかり、鐘鋳造につながるのです。
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アンドレイ・タルコフスキー
『アンドレイ・ルブリョフ』を語る


美は、植物が種子から生長するように、悲嘆から育つ


私たちは『アンドレイの受難』と題された脚本をアンドレイ・コンチャロフスキーと書いています。

偉大なロシアの画家アンドレイ・ルブリョフの人生をあつかった映画です。

友人のなかには、戦争でめちゃめちゃにされた子ども時代の映画、どう見たって現代的な映画から、「時代物」、ロシアの中世にどうやって移ることができるのか分からないって言ってます。


別に変なところはないでしょう。

主題テーマが、利用される叙述の形式を支配するだけのことです。

素材は15世紀から引っ張ってきますが、現在の問題を語るつもりです。

私は、芸術家とその時代、当時の民衆との絆に興味があります。

私は芸術の力に関する自分の見解を述べてみたいと思います。


ルブリョフは彼の作品において人間性の偉大な理想を称えています。

友愛の理念、人間の連帯が映画で最も重要なものになるでしょう。
真に偉大な芸術は時とともにますます貴重になります。

どれほど多くの人の思い、感情、希望が何世紀にわたってルブリョフの絵に染みこんでいったことか、そうに違いありません! 

私はスクリーンにそういう希望を伝えたいと思います。


映画は15のノヴェッラ:小話で構成されます。

アクションはルブリョフ、ダニル・チェルニー、キリルの3人の人物をめぐって集中します。

詩的な構造は全編にわたって保持されますが、叙述の連鎖を数回断ち切ることになります。

長年、映画は劇場のドラマツルギーに依存してきましたが、今や映画芸術は詩に近づいてきています。私には、詩における探求と近代映画の探求に非常に密接な関係が見えます。

私は、アレゴリー、隠喩、直喩を用いるのを好みます。

私は、不可能に思えるものが向かい合う状況が好きです。

認識からすり抜けるように思える複数のテーマを対峙させることは、私の内部に、イメージにあふれた最も深い思念を揺り動かします。

ますます多くの映画が詩的イメージに基づいて作られようとしています。

新作で私は古典的ロシア詩の比喩体系を具体的に利用するつもりです。(1963年)

映画のアイデアは「僕の村は戦場だった:イワンの少年時代」をやっている頃にすでにあった。


自分のアイデアじゃないと認めますね。

あるときモスクワ郊外の森を散策していたんだ、私とコンチャロフスキーと映画俳優のヴァジル・リヴァーノフでね...

ちょうどそのときにリヴァーノフが3人でルブリョフの脚本を書こうと提案した。
彼はぜひ主役をやりたいと。

でも、いろいろあってリヴァーノフは脚本書きに参加できなかった。
一方私たちのほうはすっかり虜になったその企画をあきらめることはできなくなった。

私たちはずいぶんすんなりと仕事を進めた。

1年後(もう少し後か)台本の異稿が3つ出来上がっていた。

私たちはもう一度見直しをして、時代考証のさまざまなソースを恐ろしくたくさん研究しなければならなかった。

少なくとも、旧来の出来合いの考え方を捨てることができるためにね。


台本の最終ヴァージョンにかかっているときに私たちはまだどこかしっくりこない部分があると感じていた。

でも出来上がったとき私は台本が成功作であると感じることが出来た。

それから良い映画が作れると感じたから、成功なんだね。

脚本家として私は経験が浅かった。

『ルブリョフ』の前に私は2作しか仕事をしていなかった。

すべてに満足したわけではなかったが、一貫性、首尾の統一の印象はそれが良い作品だと示唆していた。

私がつくろうとしているまさにそのたぐいの映画にうってつけの脚本だから立派な仕事だというわけだ。

俳優、ロケ地、カメラマンの貢献をあてにしているけど、この脚本は私たちの仕事を最後まで導いてくれる主導テーマを含んでいる。

当然、シーンを追加しますよ、省くシーンもあるだろうし、ただ土台はしっかり出来上がりました。


「この映画で私が何を言いたいのか」という質問に答えるなら、おおまかなことしか言えません

芸術と民衆との絆について直接何か述べるつもりはありません。

これはまあ、明らかでしょう。

脚本に明確に出ていると私は思います。

私は、自然の美を探り、美というものは、種子から植物が生長するように、悲劇から、災厄から育つことを観客に気づいてもらいたいとは願っています。

私の映画は美しい、族長的な古いロシアをめぐる物語にはならないでしょう。

私の願いは、輝かしく驚異に満ちた芸術が隷属、無知、文盲の悪夢の「続き」として出現することがどのようにして可能であったのかを示すことです。

私はこうした相互依存の関係を見つけだし、この芸術の誕生を跡づけたいと思います。

こういう条件が満たされたときはじめて私はこの映画が成功作だと思えるでしょう。


ここでオマール・ハイヤームの絵に触れておきましょう。

ご存じですか、薔薇の木があって、その根元に虫が何匹も食らいついているという絵を? 

しかし、死からのみ、不死は生まれるのです。

不死を理解するときに、私たちは死を理解するでしょう。

絡み合った白と黒とでも言いましょうか

そういう周期性を、生を理解する客観的で弁証法的様式と、例示の様態と共に、この映画を形作る基礎にするつもりです。

私たちはカメラマンのヴァディム・ユーソフとロケ地を選びました。
彼とは『イワンの少年時代』で既に仕事をしています。

脚本の仕事が続いている頃、ユーソフは別の映画作りに参加しました。

映画の歴史的な側面から、たくさんの人が必要な大きなシーンが求められ、そのために少なからぬ困難が生じることを忘れてはいけないでしょう。

例えば、クリコヴォ平原の戦いは省くことが出来ません。

ロシアがはじめて外国からの侵略者に対する道徳的な優越を悟る象徴になっているのですから。

ロシアが形成されるこの時代はディミトリー・ドンスキーの勝利抜きでは考えられません。

実現するのは面倒でしょうが、とにかく絶対に欠かせないエピソードです。
それは、(ロシアの王子が片棒を担いだもので、裏切りと腐敗の個人的な象徴となった)タタール人のウラジミール襲撃や、新しい鐘の鋳造のエピソードが欠かせないのと同じです。

これらのシーンはどれも小規模な解決が許されません。
こみ入った準備が必要です。(1965年)


伝記映画? 

違います、このフィルムは誰かの伝記を飾るエピソードが銀幕に再現されることはありませんから、伝記映画のジャンルに入りません。

ルブリョフの生涯を再構築することが私の意図だったのではなく、既に触れたように、私は主に人間に興味があるのです。

また過去の時代の雰囲気に興味があるのです。

しかし、だからといって時代劇になるわけじゃありません。

私の意見では、歴史的正確さは出来事を歴史的に再構築するという意味ではありません。

私たちが示したいことにとって重要なのは、それが真実味を帯びたあらゆる特性を保持すべきだということです。

俗に言う「時代もの」はしばしば、あまりに装飾過多で芝居がかっています。

異国趣味をすべて排除することも私の意識的な決定です。

エキゾチシズムは過去のものなら何でも凄いなと驚かせてそれでよしとする所まで来てしまいました。過去を含めて、すべてを通常の展望に収めて眺めるように努力しましょう![ノ]


ソロニーツィンに関して、私はただただ運が良かった。

最初、私はこの役を有名な俳優に任せることはできないと分かっていただけでした。

悪魔に憑かれたような一念が目に見えるような、強い表現力のある顔でなければならないと私は悟りました。

ソロニーツィンは、打ってつけの肉体的な外観であるだけでなく、複雑な心理過程の偉大な解釈ができる人物です。(1969年)


主役の俳優は映画に一度も出たことがない人物でなければならかった。

誰もが自分なりのルブリョフ像をもっているのだから、他の役を思い出させる人を使うことは出来ない。そういうわけで、それまで端役しかやったことのないスヴェルドロヴスクの劇場の俳優を選んだのです。

ソロニーツィンは、月刊「イスクーストヴォ・キノ」に載った脚本を読んで、モスフィルムまで自前ではるばるやって来て、自分以上にルブリョフをやれる者はいないと宣言したのです。

スクリーンテストをして、実際、はまり役だと私も納得しました。


『アンドレイ・ルブリョフ』をカットした者はいません。私以外にはね。

自分でいくつかカットをしました。

第1版で映画は3時間20分でした。第2版は3時間15分。

私は最終版を3時間6分まで短縮しました。

最後の版がベストで、もっとも成功していると私は確信しています。

長すぎるシーンをカットしただけです。
観客はそれらがないことにも気づきません。

カットは主題を変えてもないし、私たちにとってこの映画で重要であるものを変えてもいません。

言い換えると、意味のないひどく長いシーンを省いたのです。

観客に心理的なショックを引き起こすために野蛮なシーンをいくつか短縮しました。

ただの不愉快な印象を引き起こすためではありません。

それでは私たちの意図が台無しになります。

長いディスカッションの間カットするように忠告してくれた友人と同僚みんなの判断は、結局正しかったのです。

それを理解するのにしばらく時間が必要でしたがね。

最初私は、彼らが私の創造的個我を抑圧しようとしているのではないかと思いました。

後になって、私はこの最終版が私の要求以上の成果を挙げていることを理解しました。

だから映画が現在の長さに短縮されたのを全然後悔していません。[ノ]


画家のように色彩のハーモニーに敏感でない限り、日常生活で色彩に注目することはない。

例えば、私にとって映画のリアリティは白黒の階調に存在しています。

しかし『ルブリョフ』で私たちは生とリアリティを一方では芸術と関連づけ、もう一方でその絵と関連づけなければならなかった。

最後の色彩のシークェンスとモノクロフィルムの間の、このような関連は、私たちにとってルブリョフの芸術と彼の生の相互依存を表出する方策でした。

言い換えると、一方で、日常生活が合理的に現実的に提示され、他方でー彼の生を因習的な芸術で総括をして、次の段階で、その論理的な継続が来る。

アンドレイ・ルブリョフの壮麗なイコンをそんな短い時間で示すのは無理です。
だから私たちは選び抜いた細部を呈示し、観客を細部の断片の連続から、ルブリョフの至高の創造である、あの名高い「三位一体」のフルショットまで導いて、彼の仕事の全体像の印象を創造しようと努めました。

私たちは色彩のドラマツルギーのようなもので観客をこの作品まで導き、印象主義的な流れを創造し、観客が断片から総体へと移動するように願いました。

色彩のフィナーレは、およそ250メートルのフィルムを占めますが、観客に休息を与えるために必要だったのです。

モノクロームの最後のシーンが終わるとすぐに観客が映画館を出ていってほしくなかった。

観客は、ルブリョフの生から自らを引き離し、省察する時間を与えられるべきなのです。

私たちの狙いは、色彩を眺めながら私たちがつけた音楽に耳を傾けることで、観客が映画の全体から一般的な性質の結論をいくつか引きだして、心の中でその主要な道筋を選り分けることができるということです。

手短に言うと、観客に本をすぐに手放してほしくないんです。

もし『ルブリョフ』が「鐘」のエピソードでそのまま終わっていたら失敗作になっていただろうと思います。何としても観客を映画館にとどめる必要があったのです。

彼がどれほど偉大であったかを示すために、芸術家の生の継続のようなものを、付け加える必要がありました。

彼はそれらすべての経験を、最悪の経験を生き抜いたという事実をです。

そして、そうした体験からはじめて、彼の作品の色彩は得られたのだということをです。


こうした思いのすべてを観客に伝える必要がありました。

フィルムが雨にうたれる馬のイメージで終わることを指摘したいと思います。

私にとって馬は生命と同義であるので、象徴的なイメージなのです。馬を見ていると、私は生命そのものの本質にじかに触れているという感じがします。

もしかすると馬がとても美しい、人に優しい動物であるからなのでしょう。

それに馬はロシアの風景の特徴といってもいいでしょうから。

『ルブリョフ』には馬の出るシーンが数多くあります。

気球で空を飛ぼうとして人が死ぬ冒頭のシーンを思い出してください。

一頭の悲しげな馬は沈黙の目撃者なのです。

最後のシーンの馬の存在は、生命そのものがルブリョフの芸術のすべての源泉であったという意味なのです。(1969年10月)


原作者の特権を行使して私たちはアンドレイが沈黙の行に入るように決めました。

しかしそれは私たちが彼に同意するという意味ではありません。

それどころか、その後のエピソードで私たちは観客にアンドレイの沈黙が無意味であるということを納得させようとします。

その後の事件に直面すると、それは無駄なのです。

私たちの主人公は芸術家として何も出来ないのです。

彼は参加することが出来ないのです。

彼の沈黙は私たちにとって非常に幅広い、抽象的な、ほぼ象徴的な意味を持っていました。

アンドレイが沈黙しているエピソードで、映画の意味にとって根元的な重要性を帯びた出来事が生じます。

狂った村娘の登場人物がありますね、ブラゼナーヤです。

彼女は突然タタール人と一緒に行ってしまいます。

タタール人のひとりが好きになり、彼と一緒に行ってしまう。

狂った者だけが侵略者に輝かしく喜ばしいものを見いだすことができます。

彼女の狂気によって私たちは状況の馬鹿さかげんを強調したかった。

正気の人間ならあんなことはしないですよ。

しかしアンドレイは何か行動を起こすべきだったし、彼の責任ある立場に対するこの攻撃を許すべきではない。


なぜなら昔のロシアではブラゼナーヤは神聖な者と見なされました。

ブラゼナーヤ、ユロージヴィを侮辱することは当時大きな罪だと思われていましたから。

ところが彼は何も反応しない。

彼は誓いを守り、一言もことばを発さない。

アンドレイは他者のために立ち上がりもしなければ自分を守ることも出来ない。

ローラン・ブイコフの演じる旅芸人は、自分を警備隊に売ったのはアンドレイだと思う。

なぜなら彼が踊りながら貴族をからかった浮薄で批判的な歌を歌うのを眺める群衆の中にアンドレイがいるのを見たからです。

長い年月が経って、鞭打たれ多くの苦難を経験した流刑から帰ってきて、旅芸人は人々の面前でルブリョフを裏切りの罪で訴えます。

ルブリョフは身の潔白を証明できません。

彼は最後まで無言です。

彼は聖三位一体大寺院の壁画を描くように召喚されます。

彼はそれでも無言のままです。

彼は自分に引きこもり、自分の才能を埋もれさせて、狂人のように生きます。
何もかもが狂っている。

ルブリョフは正常な人間が行動するように行動しない。

祖国を愛する誇り高い市民が当然なすべき事をやらない。

自らの信念の力によって、鐘づくりに賭けた確信と情熱によって、ボリースカだけがアンドレイを沈黙から呼び覚まします。

強靭さ、人間の愛すべき創造力、忍耐力、そして自らの運命に対する信頼がルブリョフを罪深い誓いを破らせるように強制します。(1967年2月1日)
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