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[2224] 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。
日時: 2015/02/16 00:55
名前: 青トマト ID:S4YnK6sk メールを送信する

ryuさんが、ほかのスレッドで論じられていましたことを、少し引き継げたら…と思い、新たに立ち上げました。

私も関心があることなので。

明治国家の前の幕藩体制の確立を準備した時代の出来事ですから無視できないのです。

しかし、さっぱり判らない。

踏み込めば踏み込むほど判らない。

判らないように、されてしまっているのです。

そのように考えれば…判らない理由が判るのではないでしょうか。

つまり、

豊臣政権と徳川政権の二つが、多くの情報を隠してしまって、デタラメ情報ばかりが残されているだけなので、迷路に迷い混むのでしょう。

ここは、事実から大胆な推理を展開させるほうが打開できるのではないでしょうか。

で、結論めいたものは提出できませんが、

若干の参考になる事実や推論を提出しておきます。

まず、死体が無いのがおかしい。

しかし、どうやら首だけは運び出されて、それが埋葬されている静岡の寺院があるとのこと。

首なしの遺体も誰かが襲撃部隊の目を避けて運び出したのだろう。

そう考えれば、つじつまがあう。

信長が生きていれば、やがて出てきたであろうから、死んではいると考えられる。

その後の彼の活動がないことから、死亡を推定する。

本能寺襲撃部隊は、少数精鋭でも可能で、むしろこのほうが成功確立が高いので、これだったのではないかと考える。

明智光秀の大部隊は必要なかっただろう。

斎藤よしたつの岐阜城もごく少人数が裏の崖を登って襲撃して、難攻不落のこの城をおとしている。

大部隊を率いての合戦を必用としないはずなので、綿密に計画して短時間に事を運んだので、遺体も首も運び出す事ができた筈だ。

さて、運びだしは、信長方の仕業なのか、または襲撃部隊の仕業なのか、それも確定できない。

襲撃部隊の仕業であれば、明智の襲撃部隊であれば、隠す筈はない。

本能寺は完全に焼けたわけではないことが判っている。

遺体と首がないことは、この事件を探るに切り口として重要な見逃せない事実だ。
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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.1 )
日時: 2015/02/16 01:15
名前: 青トマト ID:S4YnK6sk メールを送信する

次に取り上げたい事実は、

信長が、天下統一達成の直前に起こされているということだ。

天皇から幕府を開いて制夷大将軍に任ぜられようとしていたが、なぜか断っている。

しかし、そのような条件にあったということだ。

信長になってもらいたくない人物は多かったであろう。

信長が断ったのも怪訝ではある。源氏ではない事の理由も大きかったであろうが、

とにかく、これで織田政権は誕生せずに、豊臣政権が生まれた。

ということは、秀吉を推した多くの勢力が居たということだ。

それに明智や家康は入らない。

先に襲撃部隊について触れたが、これは忍者集団の精鋭部隊だったのではないのか。

信長が少数の護衛だけで本能寺に滞在したのも怪訝であるが、一見したところ平穏な情勢に京都があったのではないか。

実は護衛の部隊がかなりいたが、その一部が反乱を起こして襲撃したことも考えられる。

これは、成功確立が高い。

そして、遺体と首を隠す事が、どちらの側においても容易だ。

そうであれば、情報はその後の時代で隠される。
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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.2 )
日時: 2015/02/16 01:39
名前: 青トマト ID:S4YnK6sk メールを送信する

直前の事件。

もうひとつ、直前であったことがある。

光秀が毛利攻めの促戦部隊として派遣されて、毛利攻めが本格化する直前であったということだ。

秀吉が毛利攻めを遅らせるので、信長は明智を派遣したとされている。

ということは、明智は信用されていて、秀吉は信用されていなかったいうことで、明智が到着すれば、毛利も秀吉も困ったということになったかもしれない。

で、派遣は未遂に終わり、毛利は救われた。

秀吉は得をした。

それで、この毛利の延命が、幕末の徳川政権倒しにまで響くことになるのだ。

仮に、秀吉と毛利が密約にあって、それを信長が疑い、明智の派遣を命じたが、倒されて未遂に終わり、秀吉の天下となったのであれば、

家康としては、信長にかわって秀吉を討つ正当な動機を考えた可能性が出てくる。

信長の意志を継ぐのは自分家康であると本心では考えていたかも知れない。

ひとつ、別件であるが、

桶狭間の戦いであるが、

あの時に、今川軍の中にいた徳川勢は、実は織田方に通じていて、織田と徳川の連携で今川軍を身動きのとれない狭い林の中に誘導して休息させて襲撃して倒した事件ではないかと考えている。

信長が今川の大軍に恐れおののいていたというのは嘘の話で、隣国の徳川(松平)と連携していて合同で今川を倒したのではないか、そうであれば実現は難しくない戰であったと考えられる。

今川の上洛も誘い出された可能性もある。

信長と家康は、彼の人質の運命を通じて子供の頃から知った仲であり、徳川は今川の配下にあることを嫌っていた。

その後の織田と徳川は蜜月関係だ。
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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.3 )
日時: 2015/02/16 02:05
名前: 青トマト ID:S4YnK6sk メールを送信する

織田と徳川が桶狭間合戦以来の強い絆で結ばれていたとすれば、互いの裏切りは難しいのではないか。

綿密に桶狭間合戦を練って実行し、武田軍も最後的には撃退した。

また、明智を信長が疎んじたとは考えにくい。疎んずる人物を督戰部隊に任ずる事は明晰な頭脳の信長には考えにくい。

信長は将軍に任ぜられるのならば、源氏である徳川が相応しいと考えてはいただろう。徳川は源氏であることは確かな事なのだ。

将軍ということになると、信長は難しい立場にある。

ここで、またまた、別件に触れて申し訳ないのだが、

五稜郭で土方歳三の遺体は残らなかった。

これについて、私は榎本武揚と大鳥圭介が、土方戦死の話を造り上げて、彼を蝦夷地又はロシアに逃亡させた可能性を考えている。

新政府軍は降伏に伴って土方だけは復讐心で処刑したであろうから、榎本と大鳥は、馬鹿馬鹿しくて、そんなことは許したくなかった筈だ。

で、不自然な戦死をでっち上げて、逃亡させた。

そして、榎本配下の対外密偵として彼を密かに使い続けて蝦夷地対策や対ロシア友好関係に役立てたのではないか。

ご丁寧に土方の実家には形見の刀とか色々と土方の部下の少年に届けさせた。これは土方の行いだけではなくて、榎本と大鳥も絡んだうえでのことだったかもしれない、


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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.4 )
日時: 2015/02/16 02:23
名前: 青トマト ID:S4YnK6sk メールを送信する

他のブログでこの問題を討議しているのを見ましたが、その中に興味深いものがありました。

明智の軍勢が毛利討伐に旅立ってから、その後の京都に向かう道は当時はぬかるんでいて、(雨のあとだったのかも)、軍勢が本能寺に着けたとすれば、時間は事件が終わっていた後になる筈だ、というものでした。

まあ、近道もあったかも知れず、急いだ(その必要は無かったか)かも知れず、確実な状況の推理とはいえないかも知れませんが、

なにしろ、光秀には死人に口なしで、豊臣と徳川の二つの政権で、いくつもの嘘の話が造られて宣伝されて尾ひれも付いて、訳がわからなくなっている有り様です。

それだけ不都合な事件なのでしょう。

孝明天皇の運命についても謎は解かれない有り様ですから。
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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.5 )
日時: 2015/02/16 12:18
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:VIAYMVKE

ルイスフロイスが見た人物感

「織田信長」

 彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。

 彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。

彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。


 貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。


 酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。 


 彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。


 彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。


 形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。


 彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。 


 彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲ルタールをとらせることをはなはだ好んだ。


 なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。


 彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でも常にそうであった


 信長はほとんど全ての人を『貴様』と呼んだ。


 彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名な司令官カピタンとして、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない。

 桶狭間の合戦の際に途中で熱田神宮に立ち寄って必勝を祈願し、大勝したので、その御礼として奉納した塀が信長塀として今でも残っている。

 祈願自体が戦意高揚のための手段との説もあるが、戦勝の礼として塀を寄進しているのは信長自体が宗教を否定せず、少なからず神仏の信仰心がある証拠とも取れる。

 また荒廃していた石清水八幡宮の修復に巨費を投じたり、120年間途絶えていた伊勢神宮の式年遷宮を復活させるなど、神道復興への功績が大きい。

 また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教、道教、儒教を題材とした絵画を使用したり、浄土真宗本願寺教団や天台宗山門派の宗教活動自体は禁止しなかった。


「明智光秀」

 「彼は、裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった ・・・ また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた ・・・」(※2)

 ルイス フロイスが記した明智光秀像である。昨今の大河ドラマの「善良な明智光秀」とかなりのへだたりがある。この一文は、せっかく名誉を回復した明智光秀を、かつての「主人殺し」へと引き戻す。ところで、明智光秀は、どういう経緯で本能寺の変を思い立ったのだろう。

■本能寺の変 動機

 太田牛一の信長公記は、信長ものでは最も信憑性が高いとされる。ところが、本能寺の変はいかにもあっけない。明智光秀謀反の動機も、
「信長を倒して、自分が天下の主となろうと、はかりごとをくわだてた」
の一行ですまされている。これでは身も蓋もない。

 ところで、信長公記と並ぶルイス フロイスの「日本史」はどうだろう。ルイス フロイスは、世に流れた風聞をもとに、次のように書いている ・・・

 織田信長は、三河の国主 徳川家康と甲斐の主将たちのために盛大な饗宴をもよおすことにしたが、その接待役に明智光秀を任じた。この催しについて、信長と光秀は密室において語っていたが、明智光秀が信長になにか反論し、それに逆上した信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたという。

 ルイス フロイスはこの様子は誰もみていない二人だけの事とした上で、このようなことが積もり積もって、明智光秀の天下への野心となったのでは、と推測している。とはいえ、こちらも歴史上の風説そのまま。意外性はない。

 一方、本能寺の変には、さまざまな仮説がある。中でも有力なのが、足利義昭主犯説。足利義昭が公家衆とつるんで明智光秀をそそのかし、信長を誅殺したというのだ。TVや書籍にも紹介されたが、それなりの説得力がある。また、秀吉犯人説まであり、アニメ化もされたが、こちらは奇想天外の部類だろう。この頃の秀吉は、この手のリスクは絶対に冒さないから。

 とはいえ、誰がそそのかしたにしろ、光秀自身に天下を狙う野心があったことは確かだ。本能寺の変の後、光秀の行動に迷いがあるから、首謀者は光秀以外にいるという説もあるが、これはおかしい。ルイス フロイスの日本史を読む限り、光秀らしい周到な計画が見てとれ、行動も首尾一貫しているからだ。

■本能寺の変 京の都

 ところで、本能寺の変とは、どんな事件だったのだろう。ドラマや映画では、信長の壮絶な最期ばかりが強調され、実態は見えてこない。そもそも、本能寺の変は、王を狙ったテロであり、国家転覆のクーデターである。日本全体が、天地動乱に陥ったはず。そこで、その時の様子を、ルイス フロイスの日本史で見てみよう。

 明智光秀は、中国を攻めている羽柴の後詰めを命じられ、7000〜8000の軍を率いて出陣した。ところが、途中で引き返し、京に入る。明智の兵士たちは、その行軍に疑問をもち、さては、信長の命令にもとづき、徳川家康を殺すつもりであろうと考えた。明智光秀は京を完全に包囲した後、3000の兵で信長のいる本能寺を囲んだ。

 ルイス フロイスの日本史にはこのように書かれている。本能寺の変とは関係ないが、織田信長と徳川家康の関係がかなり微妙だったことがうかがえる。歴史上、鉄壁に見えた織田家と徳川家の同盟も、砂上の楼閣だったのかもしれない。もし本能寺の変がなければ、徳川家康は織田信長に誅殺されていた?

 イエズス会の教会が本能寺の近くにあったため、本能寺の変はイエズス会士によって克明に記録されている。本能寺の変の当日、数名のキリシタンが教会にやって来て、早朝のミサの準備をしていた司祭に、御殿の前で騒ぎが起こっているので、しばらく待つようにと言ったという。そのような場所で、あえて争うからには、重大な事件かもしれないとも告げた。やがて本能寺に火の手があがるのが見え、次の使者が来て、
「明智が謀反を起こして信長を包囲した」
と言ったという。

 世俗にうといはずのキリシタンが、その日のうちに、本能寺の変の事実をつかんでいる。おそらく、日本中の誰よりもはやく。キリスト教は、地球上のいたる場所に教会や修道院を設置し、情報を入手してきた。彼らの情報収集力は、おそらく、国家機関や商社に匹敵する。

 こうして、本能寺の変は始まったが、戦いの経緯は信長公記と日本史でほぼ一致する。明智軍の侵入を受け、信長はみずから弓や槍を持ち戦ったが、ヒジに傷を負い、自室に入り、切腹。また、火をかけて焼け死んだという説もある。いずれにせよ、信長が落命したことは確かだ。だが、問題はその後である。

 ルイス フロイスの日本史によると、その後、明智勢の所業は残虐を極め、京の町は大混乱になったという。明智の兵士たちは、信長の家臣、武士、高貴な殿の首をはねて、手柄にしょうと、街路や家々を捜しまくった。明智の前には、それらの首が山積みされ、死骸は街路に放置され、その異臭は町中に漂ったという。まさにこの世の地獄。

 一方、信長公記にも同じような記述がある ・・・

 6月2日、午前8時、明智は、信長と信忠を討ったあと、落人があるであろうから、家々を捜索せよと命じた。そこで明智勢は、洛中の町屋へ踏み込んで、落人を捜すそのさまは目も当てられない。都の騒動はひととおりではなかった。

 このように、信頼すべき二つの書で本能寺の変の内容は一致している。本能寺の変は、予想通り天地動乱だったのだ。

■本能寺の変 安土
 一方、信長の居城があった安土も大混乱に陥った。安土の町には、日本人聖職者を養成するセミナリオがあったので、この時の様子は、イエズス会士によって目撃されている。ルイス フロイスの日本史によると ・・・

 本能寺の変の後、明智の軍勢は、信長の居城 安土城をめざし、進軍してきた。安土の町は、この日、最後の審判の日のようであった。婦女の声、子供らの泣き声、男達の叫びなど民衆の混乱と狂気で、大混乱に陥った。

 また、イエズス会士たちの生死をかけた体験も記されている。混乱の中、イエズス会士とキリシタンたちは、琵琶湖にある島に逃れるため、船着き場に行った。それを見つけた海賊が船着き場に船をつけて、
「外国人がこのような目に合うはしのびないので助けよう」
といって、島に運んでくれた。ところが、イエズス会士たちが危惧(きぐ)したとおり、島に着くやいなや、身ぐるみはがれてしまった。

 イエズス会士にとって幸いなことに、キリシタンの中に明智光秀とコネをもつ者がいた。この人物のとりはからいで、イエズス会士とキリシタンは安土に戻ることができた。ところが、帰ってみると、修道院とセミナリオは明智軍によって略奪された後であった。この記録は、後に、インドのゴアにあったイエズス会の極東本部に送られている。そのおかげで、本能寺の変をこれほど詳細に知ることができるのである。

 また、安土の混乱は信長公記にも記されている ・・・

 午前10時、安土には明智が信長父子を討ちとったとのうわさが伝わってきた。はじめは、言葉にだすのもはばかられて、みなおし黙っていた。しかし京の都から、下男衆が逃げ帰り、謀反が本当であることが分かると大混乱が始まった。皆、自分のことで手一杯で、信長父子の自害を嘆き悲しむ者もいないようなありさまだった。そして、財産をうち捨て、妻子だけをひきつれて本国に逃れていった。

 ルイス フロイスの日本史同様、まさに最後の審判の日である。

 その後、山崎の合戦で、明智光秀は羽柴秀吉によって討たれた。ところが、その後も大混乱が続く。ルイス フロイスの日本史には、羽柴秀吉が明智光秀に勝利した後にも、大殺戮があったことが記されている。坂本城にたてこもった明智の残党が殺され、略奪目的で多数殺されたという。イエズス会士の司祭は、淀川に500人もの死体が流れていくのを目撃している。さらに、明智に加担した者は一人残らず殺され、1万人以上が殺されたという。本能寺の変と違わぬ凄まじい殺戮である。

■本能寺の変 メッセージ
 本能寺の変は、テロ、クーデターである。一方、本能寺の変は別のメッセージも伝えている。秩序がもつ危うさだ。信長は、秩序に極めて厳格な君主で、信長の領地は現代に匹敵する秩序と安全が保たれていた。ところが、ひとたび支配者が倒れると、一夜にして、地獄と化したのである。

 
(引用終り)

信長、秀吉、家康については講談話なのであまりにも粉飾されているので実像は分かりにくいですね。
その様な中でフロイスの著述は、客観的であると思いたい。

光秀の人格分析から、起こり得ることであったのでしょう。
疑問に思うのは秀吉の行動で、晴天の霹靂の様な事態に絵に書いた様な反応ができるでしょうか。
主体は光秀のクーデターとしても、それに関わる人物たちの関連は、色々と想像をできる様です。

青トマト さんも、はまっておられるようですね。
メンテ
Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.6 )
日時: 2015/02/16 18:56
名前: ryu ID:zWtHuqz6

こんばんは、青トマトさん。本能寺の変、、いわゆる下克上の流れ(当時の)から来るクーデターなのですが!???
そこで私も一言!!本能寺の変の首謀者は「明智光秀」だということになってはいますが、誰か!?共犯者がいたのではないかと。
明智の影に隠れていたのはもしかして「羽柴秀吉」!!こやつが共謀したのではないかと。本能寺の変を訊いた秀吉が、中国の覇者、毛利と悟られないように急いで和睦し、引き返して「山崎の合戦」で明智を叩く。これは教科書ではそうだが、もしかして山崎の合戦は明智と秀吉の話し合いづくになっていて実際は、紀州から船で渡り、徳川のいる駿府に逃げ回ったのでは。そこで家康に一時的にかくまわれ、その後は、日光の東照宮に行ったと考えられると、、、あの日光東照宮の葵の家紋はもともとは明智一族の家紋かと、、、
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この問題に関心を深めることになった切っ掛けがありました。光秀が千利休だったとの説に接したからです。 ( No.7 )
日時: 2015/02/18 00:40
名前: 青トマト ID:pqe9YQnM メールを送信する

もう二十年前、いやもっと前だったかもしれないのですが、

千利休は明智光秀であったとの説が書かれた小冊子を読んだことがあるのです。

それは骨相学とかに基づいていて、二人の描かれた顔を比較すると、骨相学では似ていて、同一人物と判定していたのです。

書かれた人は画家でした。画家であるから骨相学に通じているのだと書いておられました。

この小冊子では、秀吉が本能寺の変の首謀者で、これにより天下を取るにいたり、信長殺しを光秀に擦り付けたと書いていて、光秀は有能だったので、実は助けられて、千利休となり、秀吉のブレーンとして扱われたが、朝鮮出兵に反対したために切腹を命じられた、とたしか書かれていたと思います。

そして、本能寺を襲ったのは光秀の軍勢ではないと書かれていたと記憶していますが、たしかな記憶ではありません。

それを私が無視できなかったのは、この事件を巡って、理由とか動機とかで書かれている事や伝えられている事が、不自然で子供だましのようなものが多いだけでなく、それが殆どの全てなので、それに代わる説明を求めていたからでした。

その後も、納得できる説明には接する事が出来ず、自分自身も進化したわけではありません。

しかし、この事件はあまりにも説明がつきにくい不自然の塊です。

先に触れましたところの桶狭間の戦いについては、この奇跡的な勝利は、実は奇跡でも何でもなく、実は練りに練られた織田徳川の密謀による戦術の勝利と推理すれば、簡単に説明がつきます。

しかし、本能寺の変は、そうは行かない。

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不自然な説明や出来事をいくつか拾い上げると…。 ( No.8 )
日時: 2015/02/18 01:07
名前: 青トマト ID:pqe9YQnM メールを送信する

まず、家康へのもてなしを巡って、信長が光秀を蹴ったとか、それは作り話でしょう。

だいたいが、鯛が腐っていた等と、馬鹿げている。

そんな愚かな調理はしないし、客に出す前に調理人が気が付く。

小馬鹿にした話です。人民大衆を小馬鹿にして拡げた馬鹿話であり、アベ政権くらいがやりそうなことだ。

軍事においても超有能な戦略家であった光秀が、急に謀反を実行しようとはしないだろう。

仮に信長を討っても、回りは敵ばかりであり、京都を押さえても、多勢に無勢で負けてしまうわけで、それが前もって判らぬ光秀ではない。

実行するなら、全国の数ヶ所で信長の部下が連携して謀反を起こすように工作した上で、光秀は謀反を起こした筈だ。

計画性が無い謀反は光秀程のクラスではあり得ない。

では、そうではない計画性が有って、それは裏に隠れているということになる。

光秀が襲ったとしても一人の決断ではなかった筈で、本能寺ごときを襲うには大兵力は不要で、むしろ動きがとりにくくなる。

少人数で急襲するとすれば、光秀軍の行いとは断定しきれない。

光秀は毛利討伐に向かっていたところ、突然に本能寺で変が起こされた。

訳が判らず迷って佇んでいたら、自分の軍勢の仕業と噂宣伝されていた。

混乱する京都や安土に向かって事態を収める事を試みているうちに、秀吉が何故か(実は毛利と結んで)素早く引き返してきて、光秀討伐を始めた…。

これは、一つの推測ですが、かように、光秀の無計画で戦略的準備の無い行動は、信長の知恵袋のような彼では考えられないだろう。
メンテ
Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.9 )
日時: 2015/02/18 01:25
名前: 青トマト ID:pqe9YQnM メールを送信する

フロイスとか文献を参考に出していただき、大いにかんしゃいたします。

が、しかし、様々な文献が記載に不自然があり説明しきれないものもあり、間違った解釈もあり得る訳でして、

一例として、光秀は謀略家との記述は、光秀はそれにより信長に使われていたわけで、優れた能力の持ち主であるだけで、裏切りものであることが常であったということではないと思います。

謀略をもって、誠実に主君に仕えていたと言えるわけで、光秀はこれ以前に信長を裏切った過去があったとは伝えられていないのではないでしょうか?

誠実にで忠勤なものであるから、毛利とのあいだを秀吉の行いから疑った信長が援軍として送ったのではないでしょうか。

光秀と信長の信頼関係の間柄が深いと考えられれば、光秀の謀反しかも、戦略的準備なしでは、あり得ない、考えられない事ではないでしょうか。

光秀が本気で実行するならば、三日天下はあり得ない。三日天下を起こすような馬鹿を信長が重用する筈がないでしょう。

そう考えると、まことに不自然。

嘘に嘘を油絵の具のように重ね塗りしているのではないか?
メンテ
Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.10 )
日時: 2015/02/18 01:58
名前: 青トマト ID:pqe9YQnM メールを送信する

あちこち飛んで申し訳ないのですが、

信長の遺体が無かった事についてです.

戦国時代末期に存在した大きな寺院は、実は砦の機能を備えていて、立て籠って戦うことが出来るようにされていたものが多くあります。

城下町に行くと、寺ではあるが、実は偽装された砦・出城といったものとしてたてられたものを見ることができるのです。

当時の本能寺も恐らくこの機能を備えていたでしょう。

信長は、謀反とか急襲に備えて宿泊していた筈であり、攻撃を防ぎきれない最後を悟って自害はしたでしょうが、秘密の外部への逃亡ルートを使って、側近が遺体を外部の遠くへ運び出した可能性が高いのです。

これは、遺体を敵に確保されると、敵の目的が達成されやすくなるからで、それを妨害するために遺体を渡さない必要があるからであり、遺族に渡す目的もあります。

もうひとつの遺体を巡っても展開は、

襲撃側が遺体を確保した上で、あえて其を表に出さずに処分して隠してしまった可能性が考えられるのです。

秀吉がその後に、信長公はご存命と宣伝したようですが、このような事が可能となります。

遺体がなくて光秀は焦ったと伝えられていますが、

光秀勢が襲撃部隊で遺体を見つけていれば、公にするでしょう。

見つけられなかったのであれば、信長の側近が 運び去ったということになります。

しかし、襲撃部隊が光秀勢でなかった場合には、彼らが遺体を見つけても闇に葬る可能性があります。

むしろ謎にしておいた方がいいのです。

遺体があると、信長の側の者達が抵抗するシンボルとして遺体を見たり、敵討ちの熱情を熱くさせる効果が生まれます。

遺体の存在が信長側の抵抗を勢いつかせるのです。

もし仮に、光秀に謀反の擦り付ける目的で襲撃が行われたのであれば、遺体を見つけても隠してしまった方が都合がよいでしょう。

遺体があれば、却って邪魔であり、扱いに窮するのです。

何もない方が、話を作りやすいし、謀略もむしろスムースに行くのです。

本物は無い方がいい。何も無ければ、なんでもでっちあげられる。

といったわけで、二つのケースが考えられるのです。これは
メンテ
日光東照宮にはなぜ、明智光秀の家紋が有るのですか? ( No.11 )
日時: 2015/02/18 06:31
名前: ryu ID:rX8034k2

日光東照宮にはなぜ、明智光秀の家紋が有るのですか?
日光東照宮の初代住職?の名前が明智光秀の戒名なのはなぜですか?
と言うか、本当ですか?
メンテ
Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.12 )
日時: 2015/02/18 12:35
名前: 贅六 ID:cUJMFnC.

eyuはん、あんさん恐らく知ってて釜掛けはったんやと思いますが、

何で陽明門の随臣の袴に「木瓜に桔梗」の紋が付いてるんか?ホンマの事は判ってぇしまへんのとちゃいますか?

一応俗説では「光秀は小栗栖で死んでェへんかった!」ちゅう話がおますわな。

光秀は生きてて、父祖の地「美濃の土岐」あたりに潜伏し、後、名を「南光坊天海」と変えて、家康に仕えた。

家康亡き後、東照権現として日光に祀る時、天海が東照宮の造営にたずさわり、自分の紋どころを随所に配した。

ちゅう説がおますそうでっせ。

その他、秀忠の「秀」は、光秀の「秀」やとか、家光の「光」は、光秀の「光」やとか、実しやかな与太話もあるそうでっせ。

ま、其れも此れもみ〜んな歴史の彼方の“ミステリー”でんな。
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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.13 )
日時: 2015/02/18 14:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:3189TkGg

陰謀説について、以前にこの掲示板に投稿していた人がいます。
HNを「ねこ」氏といいます。
スレッドの名前は「日本の陰謀」です
http://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=1774&l=1-

その原本は下記のサイトの様です。

http://park.geocities.jp/j_con4/0204/p048.html#page311

ご参考までに、

本能寺の変についてもあるのでしょうが、見つける事ができませんでした。
別途、本能寺の変について、多くの説があるようです。

義経が、ジンギスハーンとなった話もあるようです。
正史では解らない事を尋ねるのは、ロマンですね。

同じ様なものと言っては、氏に叱られると思いますが、

小説家の井沢元彦の「逆説の日本史」も面白いですね。
発刊のころからかなり読んでいたのですが、本能寺の変の時代までは読んでいません。

彼の解析なども、面白いでしょう。
メンテ
天海と言う名は、空海にならったのでしょうかね? ( No.14 )
日時: 2015/02/18 17:55
名前: 青トマト ID:0PcfTCro メールを送信する

天海?なんかふざけてるような気もするんですがねえ。名の付け方が。

意味としてはおかしくないですよ。

天地の意味なんだから。空海だってそうなんだから。

桔梗紋は、一般的な源氏の紋との説もあるので、それであれば、明智を指しているとは言い切れないのではありますが…。

家康が光秀は忠義の人物と語った言葉があり、これは信長に対しての忠義と私は解しているのですが、光秀を擁護した考えは持っていたのではないかな?

面白半分ですが、

もしかして、

天海は信長だったとか?

ふざけすぎかな?

精神的に徳川幕府の基礎を支えたとか…。

元々、織田家は北陸の神社関係の家系で、主君の柴氏に従って尾張に来ていた訳でして、東照宮には光秀だけではなく、信長の影響もあり?
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ウーン、なかなかねえ難しいですね。でもねえ、世間で光秀の三日天下と言われるが、豊臣も二代天下で終わったんだよな。 ( No.15 )
日時: 2015/02/19 02:54
名前: 青トマト ID:EgMsOUP2 メールを送信する

これですね、織田信長の偉業達成を起点として考えると、案外、突破口が拓ける予感がした。

織田政権と言うものが、戦国の完全平定は未完ではあったが存在していたとの事なので、その成果の上に、この事件が起きて、豊臣二代政権、そして徳川幕府と行くわけだ。

織田政権も幕府の名ではない。ただし、室町幕府を引き継いでいたが、信長の思惑はそれを離れていた。

その上で、幕府を名乗らない豊臣政権が生まれた。

しかし、家康は再び幕府を名乗ったのだ。

このラインはなんとか読めそうだな 。

ただし、若干の知識は必要だ。

朝廷と神道と仏教と官位ほかの知識が突破口を開き、それへの理解をもたらすだろう。

今まで、いくつかのスレッドに幾つかを投稿してきていますが、

英文では、間違った文法や言い回しをしているかも知れず、ワンセンテンスでは間違ってないかも?、まあ、冗談半分の新規な言い回しと笑ってください。

その他、乱暴な書き方もしていますが、本音の吐露として紳士的で無い奴4と笑ってくれて結構です。
メンテ
青トマトさん、すいません。誤解です・・・ ( No.16 )
日時: 2015/02/21 14:10
名前: ryu ID:z2N7d.W6

こんにちは、青トマトさん!!ryuです。少しばかり言い訳すると、釜を掛けるつもりで投稿したわけではありません。私の方もかなり前から「本能寺の変」に興味・関心があり、あのスレッドをだした後で解ったことなのです。つまり、うけうりでありどうしても貴方に紹介したいと思い、あのような形でいそいで書いた次第です。誤解させてしまいすいませんでした。

 で、、、あの説が正しいとなると次に続く「清洲会議」・「賤ヶ岳の戦い」・「朝鮮出兵」・「関ヶ原の戦」・「大阪夏の陣」・・・これら、全部、羽柴秀吉のいやらしい部分(人間のエゴ)がでていませんか!?私、人間的には羽柴秀吉より柴田勝家のほうが好きですね、人間的に!!どうやらこれら、ミステリーというより そもそも教科書に書いてあることが少しばかり事実に反し、デタラメを教えられたのかもしれませんね。まぁー、今までの説がただしくないのであれば、、、フィクションともノンフィクションともとれるので、、、 では、また・・・・・See You!!
メンテ
私ではありません。他の方ですよ。ご心配要りません。 ( No.17 )
日時: 2015/02/23 05:30
名前: 青トマト ID:GkCIOefY メールを送信する

私ではなく、贅六さんだったのです。

昨夜に少し長い評論めいたものを書きましたが、時間切れで投稿不可となりました。

また、改めて投稿します。

今回は、私でない事を誤解を解くために短く投稿しました。

どうも秀吉は信長の戦国収束の偉業達成の座を盗みとったのではないでしょうか?

と、疑いますね。

これは、彼単独の行いではなく、多数の共犯者達の協力により彼がトップの座についたのではないか。

関白の座がそれを表していて、本来は信長がその座にすわる筈(相応しいということ)ではなかったか?

これには室町幕府誕生以前の歴史つまりは南北朝動乱の潜伏した問題も絡んでいて、徹底した改革断行の力を持った信長を排除する力が働き、はるかに弱体な政治力の秀吉を頭に据えたのではないか。

それは、信長に圧迫を受けて、滅びる寸前にまで追い詰められた者達ではなかったか?

秀吉は政権基盤が弱かったので…それで…二代で潰れたのは当然だったのだ。

かくして、徳川幕府が信長の意思を不完全にではあったが継承して、家康が関白ではなく、将軍の座につき、室町幕府にかわる幕府統治をはじめるに至った。

かくして、戦国時代は収束した。

尤も、平安朝的政治体制は選択されはしなかった。

その事が、幕末の間違った律令国家体制を真似る形での天皇御親政を結果として産み出すに至ったところの、倒幕運動を薩摩・長州をはじめとしての有力諸藩を動力として起こさせるに至った。

徳川幕府の貢献は信長の偉業を不完全に継いで大きいが、後醍醐天皇の遺志を継いでの、平安秩序の問題点を改革した上での復活を目指すべきであったのかもしれない。

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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.18 )
日時: 2015/02/23 11:13
名前: 贅六 ID:.98h8pLk

“太閤贔屓”の贅六即ち“大坂者”としては、ここは一つ“物申す”べき所なれど、いや、いや、今日ビはそないな事どっちゃでも宜し、どっちみち「太閤」はんかて、元はと言えば、尾張のど百姓の小倅だしたよって、大坂城に居てはったちゅうたかて、死ぬほど身贔屓せな成らん、ちゅう訳でもおまへん。

日吉丸→木下藤吉郎、から、羽柴秀吉→豊臣秀吉に次々名前を変えて、関白・太閤と上り詰めたんは宜しいけど、根が百姓の出と言う卑しき身の性の為せる業か、この御仁は強いエゴ、と、執着心、しか無かったんやねぇ。

お館様、である「信長」を真似し過ぎて、秀吉は自分も「エエ番頭」を用いなんだ。 官兵衛に盛り立てられて、エエ線まで来たんですが、奸臣の三成に迷うて官兵衛には最後に離反されるし、文化・教養指南の利休も死なせてしまうし、ドン百姓の限界を抜けられへんかった事が、豊臣を二代で終わらした根本原因や無いかいな? て思いますが、チャイますか?

ま、歴史に「・・たら話」してもしゃぁ無いし、ワテらが習ォた歴史もフィクションがいっぱい散りばめられてるし、何がホンマか解らんちゅう事でっしゃろ ! 其処に、後世の物書きの想像を掻き立てる面白さが有るのやおませんか。

早い話が、つい此の間有った「明治維新」のプロセスや成り立ちも、其れを推進した“薩長”の作り話で、今に成って色々異説が出て来てますわなァ。

ワテら国民・庶民は何時の時代も、為政者のプロパガンダで踊らされてますのや。勿論、今もでっせ !
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すんまへん! 大阪のお人は太閤ヒイキは当然でっしゃろ。おかみさんに嫌われる男は失格者やね。勤務が ( No.19 )
日時: 2015/02/24 01:07
名前: 青トマト ID:iRJ9q6R6 メールを送信する

ねね殿はよう知ってましたわね。

ねね殿は信長公に夫の浮気癖を訴えて、なんとかしてチョーと頼み込んだんですわな。

殿に亭主の恥を晒してまでも訴えたオネネの悔しさはいかばかりでしたでしょうか?

信長殿は、ねねを叱りつけるどころか、

「あの禿げ鼠を注意してやる」と手紙で応えたんですな。

かみさんと上司を大いに困らせた禿げ鼠はどんな奴だったか推測出来ますわな。

ねね殿は信長公なきあとは、家康公にも頼ったのですわな。

亭主の不徳を何とか補って欲しいと考えたのでしょうな。

家康公は辛かったでしょうな。

沢山の人達を困らせていた人物ではなかったのかな?

確かに、信長公には重用された。

しかし、信長公が重用したのは、多くの人々だったのだ。

秀吉を最も重用したわけではない。

日本人の喜ぶ出世物語の英雄として持て囃されたのは、

関白になったからだった。

その関白の座が、汚ならしい行いによって射止められたものならば、

英雄は地に落ちる事になるのではないだろうか?

木下藤吉郎は、忍者の類いの人物であって単なる百姓ではなかったとも言われておりますな。

蜂須賀小六と親しかったのもそのせいと言われてますな。

大阪の方々にえろうすんまへん。堪忍なあ。
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Re: 本能寺の変。これは本当に難しくて、真相がわかりませんね。参考意見を少しだけ。 ( No.20 )
日時: 2015/02/26 08:42
名前: 贅六 ID:02SOgyrw

>大阪の方々にえろうすんまへん・・・て、すんまへんも何も、先にも書きました様に、ワテに限って言いましたら別に何とも思てしまへんでぇ。あの人は尾張の人だしたさかいねぇ。

ただねぇ、大坂御陣 によって 大坂 は天領と成り、大坂城代 が居てた物の、大坂は浪花の町=商人の町に成ったちゅう事は、徳川のお蔭みたいに見えるんですが、それ以前に秀吉が江州(近江の国)から江州商人を仰山連れて来てた所為で、大坂商人の血脈には近江商人のDNAが色濃く流れてますねん。

其れと織田政権の末期に、キリシタンの居心地が段々悪るゥ成って、秀吉は遂に「キリシタン禁教令」を出しよりましたわなァ。パードレ達にとっては青天の霹靂で、各地のキリシタン大名も安穏としてられん様になり、高山右近なんかも棄教を迫られたけど、「教えを捨てるくらいなら国を捨てる」ちゅうてマニラへ流されて、彼の地で程なく死んでしまいよりましたやおまへんか。

秀吉の後を襲った家康も、キリシタンを容認する事は無かった。秀吉、家康、がキリスト教がヨーロッパの侵略の先兵や! ちゅう認識が有ったんか無かったんか、はワテには解りまへんが、結果としては後世の植民地化を防いだ、ちゅう功績に成ってると言えまへんか? 

よう言われる言葉に「織田が搗き 羽柴が捏ねし 天下餅 座して喰らうは 一人徳川」ちゅう落首がおますが、此れなんかも家康がじっくり考えた上の必然か? 成り行きの結果偶然の産物か? ワテには判断が付きまへん。

こんな事考えてたら興味は尽きまへんので、いっつも仕舞いに風呂入って一杯飲んで寝てしまいまんねん。 ほな、また。
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