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[2820] 哲学のはなし(考えるとは)
日時: 2017/12/05 11:45
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:sdl19w96

人間の思考の仕方について、歴代の哲学者のやって来た道を辿るのも意味のある事と考えます。
そこで、少し退屈に思われる方もいるでしょうが、思考自身のあり方の為に書いてみます。
ギリシャ哲学から実存哲学のサルトルまで、少し長くなります。


哲学の系譜

主に西欧哲学について語ります。
エイジプト、メソポタミア文明は古くからありましたがまとまった文書は残されていません。
ギリシャ時代に入り、初めて思想、科学の文章が残されています。
そのギリシャ哲学ですが、著名なのはソクラテス、プラトンです。
ソクラテスについては、彼自身の著作ではなく「ソクラテスの弁明」などと言う語りつがれで残っています。

(ソクラテス)

ソクラテスの思想は、内容的にはミレトス学派(イオニア学派)の自然哲学者たちに見られるような、唯物論的な革新なものではなく、「神のみぞ知る」という彼の決まり文句からもわかるように、むしろ神々への崇敬と人間の知性の限界(不可知論)を前提とする、極めて伝統的・保守的な部類のものだと言える[要出典]。「はかない人間ごときが世界の根源・究極性を知ることなどなく、神々のみがそれを知る、人間はその身の丈に合わせて節度を持って生きるべき」という当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある[要出典]。
それにも拘らず、彼が特筆される理由は、むしろその保守性を過激に推し進めた結果としての[要出典]、「無知の知」を背景とした、「知っていることと知らないこと」「知り得ることと知り得ないこと」の境界を巡る、当時としては異常なまでの探究心・執着心 、節制した態度 にある[要出典]。「人間には限界があるが、限界があるなりに知の境界を徹底的に見極め、人間として分をわきまえつつ最大限善く生きようと努める」、そういった彼の姿勢が、その数多くの内容的な欠陥・不備・素朴さ[要出典]にもかかわらず、半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く[要出典]、卓越した人物であると看做される要因となり、哲学者の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。

要するに道徳律の様なものが彼の主題であった。
次に登場するのがプラトンです。

(プラトン)

プラトンのイデア論
一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。
最初期の対話篇を執筆していた30代のプラトンは、「無知の知」「アポリア(行き詰まり)」を経ながら、問答を駆使し、正義・徳・善の「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続けるソクラテスの姿を描き、「徳は知識である」といった主知主義的な姿勢を提示するに留まっていたが、40歳頃の第一回シケリア旅行において、ピュタゴラス派と交流を持ったことにより、初期末の『メノン』の頃から、「思いなし」(思惑、臆見、doxa ドクサ)と「知識」(episteme エピステーメー)の区別、数学・幾何学や「魂」との結びつきを明確に打ち出していくようになり、その延長線上で、感覚を超えた真実在としての「イデア」の概念が、中期対話篇から提示されていくようになった。
生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、数学・幾何学や問答を通して、その記憶を「想起」(anamnêsis、アナムネーシス)することによって近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。

いわゆる形而上学的な発想であり、人間としての普遍の真理を念頭に置きました。
プラトンが説く道徳律が現在でも有効とされるのは、これ故の事です。
そのごプラトンの思いは、個人的な思想から国家の有り様を意識し、国家論を書くことになります。
国家論では国民一人一人の道徳律を説き、君主は君主たるべき資格を問います。
これが成れば、それだけで理想国家になるのですが、現実は、そうは行きません。
我欲の塊である人間性を軽く見ていたのです。

その後には、キリスト教の教義が広まる事によって、プラトンのイデア論の陰が薄くなり、中世哲学へ移って行きますが、人間学としてのギリシャ哲学は中世以降復活することになります。
それでも、プラトンの後にはアリストテレスもでて、ストア、エピキュロス哲学も興りました。

プラトンの文章(国家論 洞窟の比喩)

>洞窟の中に閉じ込められた囚人は、洞窟に映る影絵のようなものだけしかみたことがなく、それが実体だと思っています。
しかし、いったんその囚人を外に連れ出し、光の溢れる実際の世界を見せたらどうなるでしょう。
最初はおそらく光がまぶしすぎて苦痛を感じるでしょう。
しかし慣れてしまうと、もう暗い洞窟の中には戻りたくなくなり、洞窟の中にいるものを哀れに思うようになるでしょう。


(アリストテレス)

アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく問答法を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として三段論法などの形で体系化された。

アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。
また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、恐怖と平然に関しては勇敢、快楽と苦痛に関しては節制、財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、名誉に関しては矜持、怒りに関しては温和、交際に関しては親愛と真実と機知である。ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。


これはプラトンが説いた道徳律を、より論理的、理性的に位置づけることになります。
その代わりに、作り上げた至高善が人為的なものとなり、後にヘーゲルが陥ったと同じように、思念の結果が人々を束縛する事になった。
(参考までにヘーゲルの国家論を紹介します)
 「世界史は自由の意識の進歩である」と考えるヘーゲルは、有名な弁証法によって、歴史の進展を記述しました。つまりヘーゲルにとって歴史とは、テーゼ、アンチテーゼ、そしてジンテーゼの三段階を経て発展していくのです。

 ヘーゲルはこの弁証法を道徳にも適用させました。彼によれば道徳とは、個人の精神が達成すべきものなのではなく、むしろ国家によって達成されるべきであると言います。道徳が主観的であるのに対して、国家が設定する法は客観的です。ヘーゲルはこの両者の統合体を「人倫」と名付けました。この人倫もまた、テーゼ、アンチテーゼ、そしてジンテーゼの三段階で発展していきます。人倫におけるテーゼに該当するのは、「家族」で、アンチテーゼに該当するのが「市民社会」であり、そしてジンテーゼに該当するのが「国家」です。

 ここでいう家族とは、共同体の最小単位です。家族の各構成員は「愛情」によって結び付いています。しかし家族では、個人の独立性が阻害されてしまいます。それ故に自由も見当たりません。

 そこで家族のアンチテーゼとして市民社会が登場します。市民社会は、個々人が自由意志で結び付いている状態です。愛情は、端的に否定されます。代替的に、自由が得られます。

 しかしながら愛情を否定することには喪失感が伴います。それ故人間の幸福とは何なのかという疑念が生まれてしまいます。そこでこのテーゼとなる家族とアンチテーゼとなる市民社会を止揚したジンテーゼとして国家が導入されるのです。

 ヘーゲルにとって、国家は家族と市民社会の対立が止揚されることによって完成するものでした。彼は国家を市民社会や家族よりも高次元の絶対的な存在として解釈していたのです。こうして国家が完成すれば、人倫も達成されているので、もはや道徳を追求する必要もなくなります。

 ヘーゲルにとって、国家と市民社会の差異は自明でした。彼は市民社会を「欲望の体系」と呼んでいました。それは、自己自身の目的を達成するために他人を利用する社会を意味します。こうした個々人の欲望が衝突している市民社会に対して、国家は個々人の利益と全体の利益が一致すると言います。

 このように、ヘーゲルの家族・市民社会・国家論は、言わばあるべき理想の国家像を提起している点で特徴的です。

(引用終わり)

ヘーゲルは思考の結果としての理想国家から人間のあるべき姿を規定したのです。それがナチズムにつながります。
マルクスは、ヘーゲルとは違う手法で国家を考え(経済)、ヘーゲルの批判をしていましたが、結果的に同じ過ちを犯しました。

アリストテレスの解説以降、結論を急ぎすぎ不要な事を言ってしまいましたが、この件はそれぞれの書きこみの中で検証して行くことになるますので、読み飛ばしてください。


(登場する人物を挙げておきます)
                    (関連する思想家)
ソクラテス  ギリシャ哲学
プラトン   ギリシャ哲学(国家論)
アリストテレス ギリシャ哲学(倫理学)
ストア哲学   ストイックの概念     ゼノン
エピキュロス哲学 快楽主義
アウグスティヌス  キリスト教哲学
スコラ哲学  中世キリスト教哲学     トマス・アクナス
ダンテ   ルネッサンスの幕開け     コペルニクス
ルター   宗教改革
カルビン  宗教改革
マキャベリ 唯物論
ホッブス  唯物論
パスカル  ルネッサンス期の哲学     
デカルト  観念論
スピノザ  一元論
ヒューム  イギリス経験論       アダム・スミス、ジョン・デューイ(プラグマティズム)
ライプニッツ  単子論
ルソー    社会契約論
カント    観念論
ヘーゲル   唯物弁証法        フォイエルバッハ
ショーペンハウアー  愛の哲学
バートランド・ラッセル  心の哲学(自我論)
キルケゴール 実存主義
フッサール  現象論
フロイト   心理学
ユング    心理学         ヴント(ゲシュタルト心理学)
ニーチェ   孤高の精神
ベルグソン  生の哲学
マックスウエーバー  社会学
ハイエク   新自由主義(経済)
サルトル   実存主義       ハイデッガー
メルロポンティ  実証主義
マルクス   共産主義?      エンゲルス


(注記)

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Re: 哲学のはなし(考えるとは) ( No.1 )
日時: 2017/12/05 00:30
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:sdl19w96

ここでストア・エピキュロス哲学について

ストア哲学については

ストイックと言う言葉があるように
ストア派は世界の統一的な説明を形式論理学、非二元論的自然学、自然主義的倫理学によって構築した。中でも倫理学が人間の知の主な関心であると彼らは強調したが、後代の哲学者たちはストア派の論理学理論により関心を示した。
ストア派は破壊的な衝動に打ち勝つ手段として自制心や忍耐力を鍛えることを説いた。明朗で先入観のない思考によって普遍的理性(ロゴス)を理解することができると彼らは考えた。ストア派の最大の特徴は個人の道徳的・倫理的幸福を追求することにある: 「『徳』は自然と一致した『意志』にこそ存する この思想は対人関係のような分野にも適用される; 「憤怒、羨望、嫉妬から解放されることと奴隷をも「全ての人は等しく自然の産物なのだから他の人と対等だ[8]」と認めること。ストア主義は、非道な権力に抗する際や、災難の続く事態に対峙する際の慰めとなった。
平易に言えば禁欲主義と言えるでしょう。

それと対象に、快楽主義と言われる、エピキュロス哲学があります。

エピクロスは、哲学を概念と論証によって幸福を作り出すための活動と定義し、全生涯における幸福と快を密接に結びつけ、真の快とは、精神的なものであって徳と不可分であり、節制に基づく、心の平安であるとした。このことを「パンと水さえあればゼウスと幸福で勝つこともできる」と表現した。

このストア・エピキュロス哲学は、ともにキリスト教教義が広まる以前に、純粋に哲学的思考の結果としてギリシャ哲学の系譜を踏むものです。

そうして生まれた生の哲学も、その後のキリスト教教義を主題とした中世のスコラ哲学にとって代わられました。
キリスト教哲学の始まりは、アウグスティヌスとしても良いでしょう。

(アウグスティヌス)

アウグスティヌスの有名な言葉に、
>主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心はあなたのうちに憩うまで休まらない。

アウグスティヌスの自由意志論にパウロの影響を認めつつ、アウグスティヌスは罪を「無知」あるいは「無力」として捉え、人間には自由意志があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、救いの根拠は「人間の」自由意志ではなく、「神の」自由な選びと予定である。
アウグスティヌス自身はプラトン・新プラトン主義(プロティノスなど)・ストア思想(ことにキケロ)に影響を受けていた。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいたが、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要な業績である。またラテン教父の間にあったストア派ことにそれとともにマニ教のでもある禁欲主義への共感を促進したことも、キリスト教倫理思想への影響が大きい。


アウグスティヌスのよると、『神の国』には「二国史観」あるいは「二世界論」と呼ばれる思想が述べられている。「二国」あるいは「二世界」とは、「神の国」と「地の国」のことで、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことである。イエスが述べたように「神の国」はやがて「地の国」にとってかわるものであると説かれている。しかしイエスが言うように、「神の国」は純粋に精神的な世界で、目で見ることはできない。アウグスティヌスによれば、「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である教会でさえも、基本的には「地の国」のもので、したがって教会の中には本来のキリスト教とは異質なもの、世俗の要素が混入しているのである。だが「地の国」において信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は優位性を持っていることは間違いないという。

アウグスティヌスの思想は、精神的なキリスト教共同体と世俗国家を弁別し、キリスト教の世俗国家に対する優位、普遍性の有力な根拠となった。藤原保信と飯島昇藏によれば、アウグスティヌスにあっては、絶対的で永遠なる「神の国」が歴史的に超越しているのに対して、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的で、非本質的な限定的なものに過ぎない。したがって政治秩序は相対化されるのであるが、アウグスティヌスがいわゆるニヒリズムや政治的相対主義に陥らないのは、政治秩序の彼岸に絶対的な神の摂理が存在し、現実世界に共通善を実現するための視座がそこに存在するからである。だからこそ基本的に「神の国」とは異質な「地の国」の混入した「現実の」教会は、それでもなお魂の救済を司る霊的権威として、「地の国」において「神の国」を代表するのである。ここに倫理目標の実現の担い手が国家から教会へ、政治から宗教へと移行する過程を見ることができ、古典古代の政治思想との断絶が生じた。

J・B・モラルによれば、アウグスティヌスの考えでは異教国家に真の正義はなく、キリスト教に基づく政治社会だけが正義を十分に実現できる国家であり、非キリスト教的な政治社会には「国家」 (Respublica) の名称を与えてはいない。アウグスティヌスは、国家を卑しい存在とし、堕落した人間の支配欲に基づくもので、その存在理由はあくまで神の摂理への奉仕で、それはカトリック教会への従属によって得られる。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも影響を与えた。

要するにアウグスティヌスはキリスト教教義に基づいた国家を作る事であり、何よりも先にキリストがいた。

その後キリスト教を迫害してきたローマ帝国(紀元前753年から紀元1453年)は次第にキリスト教を容認し国教の位置にまで高めた。
アウグスティヌス以降のキリスト教教義はスコラ哲学のかたちで広がりローマ帝国の理論的要となって言った。

スコラ哲学については、次に紹介しますが、ここではギリシャに興った自然な人間学(哲学)がキリスト教と結びつく事によって、ルネッサンス期を迎えるまで、本来の哲学の意味を失っていた。
メンテ
西欧の中世 スコラ哲学 ( No.2 )
日時: 2017/12/05 00:33
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:sdl19w96

スコラ哲学
スコラ学はラテン語「scholasticus」(学校に属するもの)に由来する言葉で、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された学問のスタイルのこと。このスコラ学の方法論にのっとった学問、例えば哲学・神学を特にスコラ哲学・スコラ神学などのようにいう。

スコラ学は決して特定の哲学や思想をさすものでなく、学問の技法や思考の過程をさすものである。スコラ学の「スコラ」とは英語の「School(学校)」と同源語であり、この言葉が入っていることからわかるように、当時の「修道院」において用いられた学問の技法と対照的なものであった。すなわちスコラ学の特徴は問題から理性的に、理づめの答えが導き出されることにあった。これに対して修道院で伝統的にとられていた学問のスタイルは古典の権威をとおして学ぶだけであり、研究者の理論的思考というものは必要とされていなかった点に違いがある。
スコラ学の究極の目的は問題に対する解答を導き出し、矛盾を解決することにある。スコラ学の最大のテーマは信仰と理性であるなどと言われ、神学の研究のみが知られているきらいがあるが、真の意味でのスコラ学は神学にとどまらず哲学から諸学問におよぶ広いものであった。「真の宗教とは真の哲学であり、その逆もまた真である」ということがスコラ学の基本的命題だと言われることもある。
スコラ学は西方教会のキリスト教においては大きな位置を占めたが、他方正教会では17世紀頃に西方教会からスコラ学を含め影響を蒙ったものの、19世紀以降の正教会では東方の伝統に則った見地から批判的に捉えられており、20世紀以降21世紀に入った現在においても、論理と理性に基盤を置く西方の神学は、静寂に基盤を置く東方の神学とは方法が異なると捉えられている。

通常のスコラ哲学は論理、形而上学、意味論などを一つの分野に統合したものであり、人間の事物理解を過去の文献によりながら深化させたものである。
盛期スコラ学の時代(1250年-1350年)、スコラ学の方法は神学はもちろんのこと、自然哲学、自然学(物理学)、認識論(≒科学哲学)などに応用されていた。スペインにおいては経済理論の発展に大きく寄与し、後にオーストリア学派へ影響した。ただ、スコラ学はやはりキリスト教の教義に束縛されるものであり、信仰そのものをゆるがすような質問は異端へ向けられない限り許されないものであった。

それ故に、中世ヨーロッパでは、スコラ哲学に反するものは異端と定義され、魔女狩りが横行し、地動説を唱えたコペルニクスも処刑された。

(ダンテ)

ここでダンテについて紹介しよう。
ダンテ(1265〜1321)はイタリアの哲学者であり詩人であった。彼の主著は「神曲」であり、
『神曲』は全三部で構成され、『地獄篇』34歌、『煉獄篇』33歌、『天国篇』33歌よりなる。最初の『地獄篇』の第一歌は、地獄界に入る以前、ダンテが暗い森で道に迷っていると、ダンテがかねて私淑していた古代ローマの大詩人ウェルギリウスの霊と出会い、その導きで、地獄・煉獄・天国へと旅を開始する発端がうたわれている。従って、三つの世界それぞれについて、33歌づつの構成である。

『地獄篇』では、ダンテたちは、地下に降りる。地獄は、地下にある大きな空洞で、すり鉢の形をしており、すり鉢の表面に棚のように幾つもの段があり、そこはかなり広い。この段にある世界が地獄で、地上に近い部分から地下の最深部まで段=地獄の圏が続いている。ここでダンテは、段を一つづつ下に降りながら、罪を犯したが故、永遠に天国には行けないで苦しむ罪人たちの姿を見る。様々な罪に応じて、別の圏があり、下に降りるほど、重い罪となっている。九圏の地獄の最深奥、地球の中心に当たる、すり鉢の一番底には、氷があり、氷に逆立ちに半身を埋められた大悪魔ルチーフェロ(サタン)がいる。
『煉獄篇』では、ルチーフェロの傍らを通って、ダンテ達一行は、地球のなかに開いた地下道を伝って、地球の反対側、丁度、エルサレムの反対の場所にある「煉獄界」へと至る。煉獄界は、地獄に落とされるほどではないが、生前やはり罪を犯した人々が、魂を浄化されている。煉獄は、円盤型の世界を、大きな円盤の上により小さな円盤を積んだように、段階状になっている。これを「煉獄山」とも云い、下の段から順に、浄化された人は、一段上の段へと昇って行く。ダンテたちは、七冠の煉獄の段を上り、最上界・山頂の「地上の楽園」に至る。

『天国篇』では、これまで導いてきたウェルギリウスが、自分が導けるのは煉獄の山頂までだと云い、代わって、永遠の処女ベアトリーチェが、ダンテを導いて、天上世界へと昇って行く(ウェルギリウスは、キリスト出現以前に生き、敬虔な魂を持っていた善なる詩人などが住む「リンボー」という世界にいたが、ベアトリーチェの依頼で、ダンテを導いてきた)。天上世界は、プトレマイオスの地球中心の宇宙観に従っており、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、そして恒星までの第一天から第八天まであり、更にその上に、第九原動天がある。そして第十至高天(エンピレオ)があり、諸天使、諸聖人が、天上の薔薇を構成している。ダンテは、三重の三重なる至高者を前に、瞬間の見神体験を持つ。

この中に書かれている世界は、キリスト教教義の中の人間の生き様であり、非常に陰鬱な世界である。
このような著作を通じて、ダンテは、その後に展開するルネサンス文化の先駆者と位置付けられている
ローマ帝国の末期はキリスト教と結びついた宗教国家であり陰鬱で停滞した時代であった。
特定の宗教が国家と結びつくことの弊害のすべてを実践していた時代である。

長い間の暗黒の中世の後、ルネッサンスと言う時期が訪れ、西欧の人々は1000年ぶりに人間性を取り戻した。
哲学においても文芸においても、生き生きとしたものが続出した時代である。
メンテ
宗教改革の話し ( No.3 )
日時: 2017/12/02 22:57
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pGaS8mow

ルネッサンス期の哲学に触れる前に宗教改革について書きましょう。
中世の終焉を待って、キリスト教内にもローマカソリックを批判する者が出てきました。
ルターとカルヴァンです、哲学の領域ではありませんが、この二人の影響は、その後の世界に大きな影響を及ぼしました。

(ルター)

マルティン・ルター(Martin Luther、1483年11月10日 - 1546年2月18日)は、ドイツの神学者、教授、作家、聖職者である。
1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。

そんなルターは宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化、思想にも大きな足跡を残した。たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら賛美歌をつくったことなどが挙げられる。カタリナ・フォン・ボラという元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師の結婚という伝統をつくったことでも知られる。キリスト教会の分裂(シスマ)はルターの本来の意図ではなかったが、彼の影響下で福音主義教会(ルター派教会)とアウクスブルク信仰告白が形成された。
ローマ・カトリック側はルターを「異端者」、「好色家」、「犯罪人」と呼んで批判した。ヨハネス・オッホレウス著『マルティン・ルターの行為と著作についての注解』がその代表作の一つである。ドミニコ会のハインリッヒ・デニフレの『原資料によるルターおよび発展初期のルター主義』は、ルターが肉欲的な動機でもって宗教改革を行ったとしている。イエズス会のハルトマン・グリザールの『ルター』は、ルターを「誇大妄想狂の精神異常者」と判断している。

要するにスコラ的観念に染まったローマカソリックを批判し、聖書の解釈を中心としたキリスト教を説こうとした。

それに続いて
(カルヴァン)
ジャン・カルヴァン(フランス語: Jean Calvin、1509年7月10日 - 1564年5月27日)は、フランス出身の神学者。マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並び評される、キリスト教宗教改革初期の指導者である。
「カルヴァン神学の中心教義は予定説(二重予定説)であると言われている。
予定説に従えば、その人が神の救済にあずかれるかどうかはあらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされる。例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がない。神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということである。これは、条件的救いに対し、無条件救いと呼ばれる。神は条件ではなく、無条件に人を選ばれる。神の一方的な恩寵である。
救済されるのは特定の選ばれた人に限定され、一度救済にあずかれた者は、罪を犯しても必ず神に立ち返るとされる。これは、聖徒の堅忍と信仰後退者の教理である。

(ピューリタン)
ピューリタン(英語: Puritan)は、イングランド国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタント(カルヴァン派)の大きなグループ。市民革命の担い手となった。日本語では清教徒と訳される。

清教徒。エリザベス1世の宗教改革を不徹底とし、聖書に従ってさらに徹底した改革を進めようとしたイギリス・プロテスタント。その思想的背景はカルビニズムで、その改革運動は16世紀から17世紀に及ぶ。国教会(イングランド教会)にとどまり内部からの改革を志向するもの、それからの分離こそ改革の第一歩とするもの、ピルグリム・ファーザーズのように国外に脱出して理想を実現しようとするものがいたが、カルバン主義的改革を目ざした長老派を中心に、独立派、バプティスト派、クェーカー派、水平派、ディガーズ、第五王国主義者などの諸派に分かれる。彼らの改革運動は、礼拝改革から教会政治改革に移り、さらに政治的改革へと向かった。国教会の弾圧のなかにも説教運動やクラシス運動などによって共鳴者を増やし、ジェームズ1世時代には、彼らの要求によって『欽定(きんてい)訳聖書』(1611)が現れる。ついにチャールズ1世のとき革命が起こり、ピューリタンはクロムウェルのもとに王政を倒し、共和政を樹立した。『失楽園』の詩人ジョン・ミルトンはその秘書であった。しかし共和政は11年で終結し、王政復古、国教会の復活となり、ピューリタンはやがて非国教会派となる。聖書主義、簡素な霊的礼拝の強調、神への強烈な責任意識、聖なる共同体の建設などがピューリタンの中心的主張であった。また政治的、経済的にも、近代社会の形成に果たした役割は大きいとされている。

ここで説明が必要と思う。
上ではさりげなく書かれているが、

>聖書主義、簡素な霊的礼拝の強調、神への強烈な責任意識、聖なる共同体の建設などがピューリタンの中心的主張であった。

この文章が問題なのです。
神への強烈な責任意識、それが現世に向けられたとき、それが政治・経済の分野への実質的関与となって現れる。
宗教改革の大命題、人間性の復活が、そこには介在する。
要するに聖書は重宝するが聖書に書かれてない分には人間性を限りなく発露することによって社会に奉仕できるとする思いが、責任感と裏合わせになっている。

ピューリタン革命以後、アメリカ大陸へ向かったピューリタン達の、その後の目覚ましい展開が、その原動力となっている。
自身の罪も神と直接対話する告解、懺悔などによって許されるとする傾向が強くなっている。
まさにアメリカ社会の姿であるのだ。

イギリスのピューリタン革命はドイツ地方のサクソン地方から移住した民族が主流となっていますが、実は、そこにユダヤ民族も入っていました。
アングロサクソン流として、非難しているやりかたは、この時から始まりました。

金融業に従事していたユダヤ人が、晴れて汚い職業からキリスト教に認知され陽の目を浴びる事になったのです。

要するに中世のローマカソリックによって人々は全人生を抑制させられていた。
それを宗教改革にとって聖書は重要であるが聖書以外の領域では人間らしく振る舞えば良いことになった。
人間性の解放である。

その後の人間社会の発展はすさまじいものであるが、同時に資本主義と民主主義は無制限の我欲も開放する事になった。

それを諸手を挙げて賛同できるか、否かが課題になるでしょう。



メンテ
ルネッサン期の世界 ( No.4 )
日時: 2017/12/02 22:37
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:pGaS8mow


美術史において レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラフ
ァエロ という3人の巨人が現れたのもこの時代です。

  そして、ルネサンスにはもう1つ、「神のことばっかり考えないで、
私たち人間自身に関心を向けよう ! 」 という人間中心主義という
面があります。

 人々がその関心を神から人間に移した様は、この頃に著された
『デカメロン』 という人間観察物語集からも窺い知ることができ、こ
の物語集はダンテの 『神曲』 に対して 『人曲』 と呼ばれています。

  中世においては、神と被造物の間には越えることのできない深
淵が横たわっていましたが、ルネサンスになると、神は自然の中
にも表れていると考えられるようになり、自然は肯定され、自然は
神々しいものとなりました。

  その表れとして、中世までは存在しなかった風景画というものが、
ルネサンス以降、描かれるようになっていきます。


  歴史の流れを図式的イメージで言うと、近代以降というのは、1
本の川が海に近づいて扇形に広がっていくように、社会の幅が一
気に広がっていくような感じがあります。

  社会の幅は広がっていくのですが、同時に、この世界が(複雑
にではなく)単純になったのが近代という時代です。

 いま、テーブルの上にコップがあるとします。

  近代的な感覚で言うと 「ここにコップがある」 という、ただそれ
だけのコトです。

  しかし、中世的世界観で考えると、このコップは 「どのように使
われるのか」 という目的と、製作者の意図、さらに形相を抜きにし
ては考えられません。

  また、ガリレオがピサの斜塔から鉄球を落とすとします。

  近代的な感覚では、「重力によって鉄の球が落下する」 という
コトになります。

  それに対して中世的な感覚で言うと、この鉄球の運動は、より
良い秩序を目指すためのものであるとされます (火は上方に、鉄
は下方に存するのが世界の秩序である)。

  さらに、この鉄球の運動は、始動因、目的因、質料因、形相因
という4つの原因をもっており、始動因は鉄球を落とした人ガリレ
オ、またはガリレオの意思だとされます。

  加えて、この鉄球の運動には神の意思や奇跡の介在する余地
もありました。

  落語で、イヌの眼を義眼にしたら電柱に小便をひっかけたくなっ
たという話がありますが、この場合、イヌの眼は死んだ物体ではな
く、生きたイヌ全体とつながっているワケです。

  ここで言う中世的世界観とはつまりアリストテレスの世界観です
が、以上のように近代以前においては、この世界はさまざまな意味
にあふれていたと言えます。

  ルネサンス期まで1000年にわたって常識となっていたアリスト
テレスの世界観を 「物活論的世界観」 といい、以下で説明するデ
カルトの世界観を 「機械論的世界観」 といいます。

  ちなみに、デカルトとガリレオ・ガリレイ (1564 〜1642) は同時
代の人で、科学史において ガリレオ−ケプラー−ニュートン によ
る物理学的進歩を 「科学革命」 と言います。

ガリレオは、木星の衛星や土星の輪を発見したことや、振り子
の原理、落体の法則などで有名ですが、それ以上に重要なのが、
「仮説を立てて、実験でそれを証明する」 という、科学の手法その
ものを確立した点にあります。

これは 「問題は頭の中でひたすら考えれば解ける」 というアリ
ストテレス的な理性への過信から、転じて 観察や経験、実験とい
う手法に目が向けられたということでもあります。

  ところで、これは哲学史の範囲を超えることですが、14世紀から
16世紀にかけて、ルネサンス、宗教改革、科学革命、大航海時代、
魔女狩り が同時並行的に起こっており、このことからも大変革の
時代だったというのがわかります。
 
  ルネサンスは人文主義(ヒューマニズム)と言われますが、同時
にこのルネサンス期には、魔女狩りや、残酷なアメリカ大陸征服と
いった反人文主義(アンチヒューマニズム)的なものも全盛であった
という面もあったということです。


  大局的にみると、これ以降世界の歴史は欧米の1人勝ち状態
へと進んでいきますが、それはひとえにヨーロッパが科学というバ
ケモノを発明したことによっています。

  ガリレオに始まる 「科学革命」(その結果である産業革命も含め
て)は、人間の歴史の中で、紀元前8000年頃に起こった 「農業革
命」、前3000年頃の 「都市革命」、前800年頃の 「商業革命」 につ
づく4つ目の革命だといえますが、私たちの時代もその余波の範囲
内にあるといえるでしょう。

  それまで世界の極西に位置する寒い辺境の地にすぎなかった
欧州が、ただ1つ 「科学」 という武器を手に入れたことによって、
遅ればせながら “近代デビュー” を果たしました。

  青春用語に “高校デビュー”“大学デビュー” という言い方があ
りますが、デビューが遅い者の方が限度なく突き抜けてしまったり
します。

  「科学−産業革命」 以降のヨーロッパのハチャメチャさを考える
と、それと通じるところがあるような気がします (※)。


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